國分功一郎さんの「暇と退屈の倫理学」を読み、充実した人生を取り戻す術を考えよう!!

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國分功一郎さんの「暇と退屈の倫理学」

「豊かな社会」になればなるほど、

人生の充実感が得られなくなっていくのは、なぜ?

人類は、約1万年前に「不定住」な狩猟採集生活から

「定住」な農耕牧畜生活に移行していきました。

しかし、今からわずか200年ほど前より急激な技術革新が

進んでいった結果、今では当然視されている

「定住生活思考」こそが人類を苦しめているのではないか?

との意見も耳にするようになりました。

今回は、「定住型行動様式」がもたらしたとされる「暇と退屈」を

いかに過ごしていくべきかを考えるこの本をご紹介します。

「暇と退屈の倫理学」                   (國分功一郎著、朝日出版社、2011年初版第3刷)

國分功一郎さん(以下、著者)は、スピノザドゥルーズを中心とした

フランスの現代哲学をご専門とされる若手学者です。

21世紀現在、いずれの先進諸国も行き詰まっているようです。

豊かな社会になればなるほど、人間は「暇と退屈」を持て余すように

なるようです。

もちろん、「暇と退屈なんかないわい!!」とおっしゃる方も

おられるでしょう。

今からわずか200年前の急激な技術革新の進歩から、

「労働の質」も激変していきました。

当初、考えられていた「世界像」は

「万人がゆとりのある生活を享受出来る社会」でした。

しかし、現状は多くの人間にとって、

ますます「ゆとりを無くしていく社会」になっています。

なぜ、人間の思考はイメージからどんどんずれていくのか?

それは、当初の「あるべき社会」に対して抱いていたイメージが

人類史や人類の性質や特徴を十二分に考慮しないままに

進歩してきたからに他なりません。

19世紀のイギリスに、ウィリアム・モリスという思想家がいました。

「来るべき革命後に、人間はどうやって生きていったらよいのか?」

「革命成就後には、厳しい労働環境が改善され余暇が出来るはず・・・」

「その余暇には、必ず人間は暇と退屈を持て余すことだろう・・・」

「そうした時代に対応できるための生活哲学を考えておこう!!」と。

言うまでもなく、「戦争と革命の世紀」である20世紀は、

人類史上最悪の結末を迎えて終了しました。

20世紀末には、「新たな終末観」とともに予想だにしなかった

「新たな大混乱」の種が蒔かれてしまいました。

21世紀に入って、15年経った現在も人類は

未だに「光明」を見出せていません。

こうした時期に「暇と退屈の倫理学」を考える余裕がないことは、

管理人も十二分に理解しているつもりです。

しかし、現代に至るまでの「たった200年」の総括がされないまま

このまま「絶望的な時代」が続いていくのも、皆さんにとっても

正直苦しくしんどいことだと思われます。

私たちは、「ゆとりある社会」を創造する手段と目的を混同させたまま

今日の社会で「自足」しようとしているようです。

そもそも、時代状況はどうなっているのか?

そのことを分析せずして、「ゆとりある社会」を迎えることも出来ないでしょう。

そうしたことを、きちんと考えていくのが、「哲学の役目」であります。

「よりよく生きること」

そのためには、いかなる考え方やイメージを持って人生に取り組むべきか?

その「べき論」を考えていくのが、「倫理学の役目」です。

これらのことを、この年末に考えてみようと、

今回はこの本を取り上げさせて頂きました。

現代社会は、必然的に「ゆとりのない社会」になっている!?

著者は、パスカルの「気晴らし論」から論じ始めています。

「人間の不幸などというものは、どれも人間が部屋にじっとして

いられないがために起こる。(中略)そのためにわざわざ自分で

不幸を招いている。」

ここから、無理矢理にでも「退屈さ」をしのごうと「気晴らし」を

求め始めると・・・

その先に、待ち受けているのは「さらなる退屈さ」というように

悪循環にはまり込んでいってしまう人間像が提示されています。

なぜ、こんなことになってしまうのか?

ここで、著者は古今東西の哲学者の考察とともに、

人類の「定住革命」にその淵源を求めていきます。

前にも当ブログで考察しましたように、今から約1万年前に人類は

「狩猟採集生活(不定住型生活)から農耕牧畜生活(定住型生活)」に

移行していったことが確認されています。

ここに、人類の「定住文化」が始まると・・・

さて、著者もこの本で考察されているように、現在では当然視されている

「定住生活」も実は訓練なくして営めないようになっているようです。

「人類は、定住革命により次第に自然から切り離されていった!!」

つまり、「野性味が失われていった!!」ということです。

しかし、人間の自然な本能は「野性味を絶えず探し求めている!!」

これが、「じっとしていられない症候群」を必然的にもたらしているようです。

このギャップを埋める方法が「気晴らしの発明」です。

ですから、本来は人類は「定住生活に向いていない」側面もあるようなのです。

もちろん、人によってその強弱はありますが・・・

その定住化に合わせて「労働観」も組み立てられてきました。

「じっとしていられない=仕事人間を擁護する思想」へと

発展していったという仮説を提示しておられます。

「働かざる者食うべからず」(マルクス)という思想は、

むしろ革命の阻害要因にもなっていったようです。

つまり、「資本主義をもっとも擁護する思想」らしい・・・

冒頭でも語りましたウィリアム・モリスの言葉のように、

「革命後は、ゆとりある社会が実現するはず!!」でした。

ここにおいて、「資本主義の短所は克服されるはず・・・」だと。

マルクスについての、「労働観や疎外論」については、

この本に興味深い論考がありますので、ここでは省略させて頂きます。

ただ、疎外状況から逃れるためにどのような「労働」を想定していたのか?

搾取(労働疎外)されない本来の労働社会とは?

元々、最先進「資本主義国」でこそ革命は起きるだろうと想定されていたところ、

現実の歴史では、「最貧国」から革命は輸出されていきました。

本来、産業革命以来のイギリス事情から「機械化と人間の労働」の関係を考察しても

よいはずなのに、その考察が著しく欠けていた・・・

この問題は、21世紀現在にまで持ち越された課題でもあります。

もちろん、「暴力革命」はもう20世紀でこりごりですが・・・

特に、革命や共産主義思想を擁護せずとも「この難問」は、

是非とも解かねばなりません。

人類の明るい未来のためにも・・・

現代の労働社会での最大の問題点が、「消費=気晴らし」として

すでに「労働の中に趣味娯楽生活が組み込まれている」ことにある

著者は語ります。

要するに、「労働から抜け出せない社会構造」になっているのです。

それが、「ゆとりのない社会」の元凶だと・・・

「暇と退屈の倫理学」は、各自で体験しながら学び取るもの!!

この「ゆとりのない社会」から、人類が抜け出せる日は果たしてあるのだろうか?

この本の考察を読み進めていっても、残念ながら具体的な「方法論」は見つかりません。

だからといって、この本が「駄本」かと言えば「決して、さにあらず!!」です。

相次ぐ技術革新によって、表面的にはますます「豊かな社会」になっていく一方で、

「空いた隙間時間」に「新たな労働」を組み込む快感から脱却する術を、

各自で見つけ出さないことには、「永遠の悪循環」です。

今でも、空いた時間で「生産性を高める仕事のアイディアを考案せよ!!」という

圧力が絶えずかかっていますが、資産の余裕がない多くの一般労働者にとっては、

それこそ「夢のまた夢」です。

ところが、「社会にはお金が溢れかえっている!!」そうです。

本当のところは、分かりませんが・・・

もし、これが本当なら「社会福祉制度が脆弱であるはずがない」ですよね。

先進国では、とっくの昔に「貧困格差問題」は解決しているはずです。

「日本には格差なんてない!!」と言い切った著名言論人もおられるようですが、

それは、すでに「功なり名を遂げた」方だからでしょう。

また、この本でも深く考察されていますが、「苦労しなければならない!!」という

無意識の偏見もあるようです。

管理人はいつも思うのですが、これらの方々には

芥川龍之介氏の「蜘蛛の糸」をお読み頂きたいと思います。

「自分もカンダタだ」

「先に上り詰めた人間が、後から登ってくる人間のはしごをはずす権利など

どこにもない!!」

「正義論」を語られる方や「ゆとりある方々」にも、

それだけの「倫理的責任」があると思います。

それが、「高貴なる者の義務」ではないでしょうか?

著者も、ドイツの生物学者だったユクスキュルの考察などから「動物らしさ」も

人間にとって大切な要素だと語っています。

「人間と動物」を全く同じように扱うことは出来ないにせよ、少なくとも

「人間の特権的な位置には、謙虚である自覚」を取り戻す必要もあります。

著者は、ユクスキュルの考察からハイデガーの「決断主義」やレオ・シュトラウス

考察から「不幸になる事件」を求める「倒錯的な現代人の自画像」にメスを入れています。

この辺りの論考には、なかなか鋭いものがあります。

著者は、結論的に「暇と退屈の倫理学」として、

①日々実践体験や考察を積み重ねることの大切さ。

②贅沢(豊かさ)に感謝しつつ、十二分に咀嚼しながら享受する

姿勢を取り戻すこと。

③「動物らしさ(野性味)」を取り戻す生活。

の3点を挙げておられます。

こうした考えやイメージの中でこそ、人類は落ち着きを取り戻し、

楽しさを味わう感覚を「日常生活」に見出していく訓練がなされる

のだとも語っておられます。

まとめますと、「人類はまだ狩猟採集生活から定住革命を完全に果たしていない!!」

ところに、今後の人類の課題があるようですね。

うまく「定住化」が出来ると、労働観も変化してゆとりが得られるのでしょう。

いずれにせよ、現代の「定住生活(農耕牧畜時代の名残)と

労働観(狩猟採集時代の名残)のミスマッチ」を見直さないことには、

同じところをぐるぐる回るだけであることは間違いありません。

皆さんも、この本はとても良く出来た面白い内容に満ちていますので

是非ご一読しながら「日常生活」を楽しむ工夫を見つけてみてはいかがでしょうか?

そのための、ヒントがあります。

もっとも、著者も語っていますように「即効性はない!!」ですが・・・

最後までお読み頂きありがとうございました。

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6 Responses to “國分功一郎さんの「暇と退屈の倫理学」を読み、充実した人生を取り戻す術を考えよう!!”

ラース・スヴェンセン氏の『働くことの哲学』<弱くても勝てます!!>労働生活はどこまで実現可能でしょうか? | 双龍天翔 へ返信する

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