ジェーン・ハーリー著『滅びゆく思考力~子どもたちの脳が変わる~』<スマホ脳×コロナ脳×バカの壁>に侵される時代だからこそ再評価したい古典的名著

Pocket

ジェーン・ハーリー著『滅びゆく思考力』

デジタル社会がますます激しく進展してゆく流れの中で

不安な思いに駆られる日々をお過ごしの方が大半だと推察します。

『スマホ脳』が話題書となったり、コロナ禍を機にさらに信憑性の乏しい情報が

世界を駆け巡るなど人類の知的環境も大きく様変わりしてきています。

そんな時代には古典を読んで今後の道を探ってみたいものです。

今回はこの本を紹介します。

『滅びゆく思考力~子どもたちの脳が変わる~』(ジェーン・ハーリー著、 西村辨作・新美明夫編訳、大修館書店、1997年14版発行)

ジェーン・ハーリー氏(以下、著者)は米国の公立学校や州立大学に奉職された後、

コロラド州で学習障害の相談に携わるなど教育活動をされてきた方です。

教育心理学をご専攻。

本書末尾に掲載された著者プロフィール欄では

『成長する子どもの心』という著作も公刊されているといいます。

なお、邦訳書としては他に『よみがえれ思考力』

『コンピュータが子どもの心を変える』もあります。

このようなご経歴を拝察すると

今世紀から一般普及し始めたコンピューターを筆頭とする

各種インフォメーション・テクノロジー(情報通信技術。以下、IT)機器を主導に

推進されてきたデジタル社会文化が現代教育の現場において青少年の心身に与える

諸影響などを観察されてきた知見体験をもとに教育業界を中心に

広く一般社会に向けた問題提起をされてきた教育論者だといえましょう。

さて、現在世界ではコロナ禍を契機にさらなるデジタル社会化が積極推奨されるようになり

生身の身体感覚体験の機会を伴った人的交流の過程で育まれてきた

旧来(以下、アナログ)型の教育手法が軽減されていく流れになってきていることに

深い懸念を感受される方が増殖し続けているさなかにあるようです。

児童のいる親御様や若い青少年の方と身近に接する機会が多い方におかれましては

ご自身が若き頃に受けてきた教育環境や教育伝達手法とも大きく様変わりしていることを

漏れ聞く中でどのように教育コミュニケーションを図っていけばよいのかで

悩まれていることでしょう。

現在でも文部科学省指導監督下の一般的学校教育現場では

ただでさえ教科外事務なども増殖し過重な負担が課せられていく流れにある中で

十二分なオンライン機器を活用した教育指導実践に習熟できずに不慣れな環境で

試行錯誤されている教職員様の悲鳴も頻繁にお聴きするようになりました。

また経済的な教育環境格差のために我が子の将来にとっての成長機会が

ますますはく奪されていくのではないかと悲観的に追い詰められている

親御様も多々おられるものと推察いたします。

教育環境も親子世代間で大きく様変わりしてきた流れの中で

できるだけ経済的負担なくいかに我が子の学習教育面での健やかなる成長に

関与し得るものかという問題意識で教授技法などを日々情報収集されている方も

おられることでしょう。

このようなお悩み相談という社会需要に対応した教育系ユーチューバーさんも

増殖中であります。

まぁ、私たちのようなアナログ教育学習世代にとりましては

なんとも便利な世の中になりましたわい・・・と歓迎したいところではありますが、

この便利さが実は大きな『落とし穴』だということも

この機会にぜひとも考え併せて頂きたく願いまして

今回は本書を取り上げさせて頂くことになりました。

時代環境が大きく激変していく中で親自身も長寿社会における

生涯雇用確保をいかに果たしていくかで自己再教育をいかに図っていくべきかと

切迫した想いで焦燥感にとらわれている方もおられましょう。

昨今の企業雇用制度改革の一連の流れを観察しただけでも

いわゆる『ジョブ型(高度専門職志向)』雇用制度が積極採用されていく流れにあり、

『終身雇用型』の一般職(総合職、ジェネラリスト志向)での安定志向を

企業内福祉に求めることもきわめて難しい状況になってきております。

比較相対的に業績の良い大企業でさえ、

今や45歳あたりをターニングポイントとして早期退職を募る動きも出てきております。

現代の高度情報産業資本主義経済に最適応できるような

ごくごくまれな一部人財を除き、管理人も含めて大多数の一般国民にとっては

なかなか厳しい試練を強いられる苦難の時代が先に待ち受けています。

社会で要求される多種多様な需要に応えることが叶うように

生き抜いていくための『技』磨きに励んでいる(きた)方でさえも

仕事上で必要不可欠な才能といわゆる『稼ぐ力』(ほんと嫌な言葉ですが)とが

一致されている方のほうが圧倒的に少ないものと推察されます。

そのような時代変化の流れにありますので、

さながら昭和の高度成長期やバブル経済あたりまでの成功事例を体験されてきた

(退職間際もしくはすでに退職引退された年配世代)の経験談を聞かされても

正直に申しましても若い現役世代の心に響くこともありません。

『若い時の苦労は買ってでもせよ』という先人の知恵も痛いほどよくわかり、

管理人自身の体験談からも身に染みる思いですが、

そのような知恵も当人の置かれた物理的環境と精神的状況によって

それぞれの身体感覚を通じて多種多様に七変化していきますから

安易な一般論で他者が押し迫ってもかえって反発を強めて

教育的効果もなくなってしまうことが多々あるからなのです。

時代がいかに変化しようとも

いつの時代でも各人各様が己自身の限界すれすれまで苦闘しているのですから。

たとえば、鬱状態にある時などに

さらに当人に『頑張れ』などと励ますことが

どのような恐ろしい結末を招じ入れることになるかご想像頂きたいのです。

そのような時には健常者から見ると『全然あいつ頑張ってないやないか』と感受されても

限界状況者の身体反応では待機モードにある中でも

明日への生き残りをかけた目に見えない生体反応モードも起動しているものなのです。

ですから、応援は一般にはありがたいこともありますが、

その方法に知恵がなければ支援される立場にある側も

圧殺されてしまいかねません。

その意味では応援も有難迷惑になることもあるのですね。

このような工夫と知恵が必要になることは

対人支援をされる際には是非に知っておいて頂きたいのです。

確かにいつの時代も『努力が常に報われるとは限らないのが人生の厳しい現実』だとはいえ、

その厳しい現実のなかで四苦八苦している身においては

明日を夢見て人生設計しようにも過酷さも度が過ぎますと

いかに過ぎ越していけばよいのかさえ見通せなくなってくると

再起を図ろうにも図ることさえ勇気をもって一歩を踏み出すことさえ

叶わなくなってくるからです。

つまり、そのような場面では応援がかえって逆効果になることが多々あるということです。

大人の引きこもりが相当に長期化しているというのも

そのような対人関係における接し方に大部分の原因がありそうです。

ですから、上記の諸先輩方のように

『今日よりも明日、明日よりもあさって・・・』というような

時代状況に転換し得る余地が少しでもあれば

先に厳しい試練がいかに待ち受けていようとも

努力がすぐには報われなかろうとも

まだ努力のし甲斐もありましょう。

実際に人にもよりますが私たちのような若い現役世代の親世代の時代状況であれば

『終身雇用+年功序列』で将来年収も子供の成長とともに徐々に上昇していく見込みもあったればこそ

親自身だけではなく後進世代にも教育や就業面での積極投資も出来ていたと思われるのです。

その親の背中をまともに見て育ったまじめすぎる後進世代ほど

就職氷河期で激しく苦悶する体験をされた方が多いように推察されます。

特に今を時めくIT業界や介護/看護系福祉業界、教育業界など

社会的需要が本来であれば高くて安定収入が得られるだろうはずの業種に足を踏み入れた方ほど

過酷すぎて憂鬱な現実を前にして心を病んでしまわれた体験をお持ちだとお聴きしております。

管理人の周りの友人知人にも数多くいます。

つまり、現代経済は経済学の教科書が模範的に描くような

需要と供給の一致が見事なまでに成り立っていないというわけです。

ですから、身近なミクロの職業現場でいかに足をあがいても

薄給のままであれば、同時にいかに明日を見越した能力向上磨きに

専念すべき時間を持とうとしても経済困窮者にとっては非現実的なのです。

政府はこの間の経済『構造転換』改革で一般国民労働者の働き方やその意識改革を

迫ってきましたが、それに伴う職業・職種転換に関しては

あまりにも無理解・無頓着過ぎたのです。

昔ならば国民同士には曲がりなりにも同朋団結意識がありましたので

『争議』という名の交渉の場を生み出すことをもって互譲関係を引き出すといった

政治意思を対抗優越的地位にある権力者側へ示したうえで

劣位者側の手に取り戻す機会も生まれ出る余地があったのです

(よく誤解されますが、この視点は何も政治的左派リベラル勢力だけに

限りません。『争議』などといったどぎつい象徴的表現を使用すれば、

すぐに『あいつはアカ(左翼)』だとか『お前はいつの間に左傾したのか』とか

レッテルを張られて無意味な攻撃対象にされてしまう現象がなぜか多々あるので

あえて強調して語らせて頂きました。

要は、個々人の人間としての想いをいかに他者に伝達してそれぞれが置かれている

『場(状況)』そのものを風通しのよいものへと転じさせることが叶うのかどうかと

いう志向性こそが『人間であればお互いに大切にしたいよね。』ということなのです。)が、

戦後の核家族政策や超個人主義志向政策の成れの果てが

国民各位各層間での分断と対立への誘導であり、

各個撃破されていく状況を作り上げてしまったということです。

だからこそ、現在の『緊縮』経済政策志向を『道義心』とやらで正当化して

失政責任を曖昧にして国民への責任転嫁を図ろうとする政治姿勢が

許されてはならないということなのです。

このことが今の現役世代にとりましていかに徒労感とやる気を喪失させていく

最大要因となってきたのかについて社会全体に目配せした

マクロ経済政策を立案すべき立場にある要路の方々には

なかなかご理解いただけないのです。

過去の超『緊縮』といわゆる『選択と集中式事業仕分け』志向型

財政貨幣観のために資本主義発展の原動力となるべき

投『資(『機』ではない)』意欲も低くなっており、

技術革新(イノベーション)の機会や背景基盤すら無残なまでに

破壊されてきたのです。

これではまともな技術承継も後継者育成もできるはずがありません。

しかもこのような状況下で『脱』成長だとか絶叫する論者が

後を絶ちません。

成長か『脱』成長かといった二者択一論ではないのです。

いかにも現代思潮に馴染んだデジタル思考そのものの融通の利かない

『バカの壁』(養老孟司氏)であります。

また最近の論壇では(『超』)加速主義とか極端な思想が蔓延しつつあるのも

混乱に拍車をかけるものであり異常な思潮でありましょう。

なぜならば、ここにはごくごく普通に生活している穏やかな庶民的生活感覚を

慮る『心』が見事なまでに欠落しているものと感受されるからです。

すなわち、このような論議のあり方自体に

『誠意(思いやりや義侠心)』といったものがはなはだしく欠落しているということです。

常識で考えれば通常人の『心』にはとても響くものとは思われないはずの

このような思潮になぜ注目が集まり、

このような『傾向』書がベストセラーにまでなっているのか

もはやわかりかねます。

何かこの地球人類の深層心理において底知れぬ滅亡の予兆を

歓迎する向きがあるように感受されてしまう点にこそ戦慄させられるのですね。

あまりにも浮世離れした空虚な知的お遊戯など

もはやしている暇などないのですから。

貴殿らはいかなるご身分で物申しておられるつもりなのでござるか?

このような中で良質な資源分配のあり方や社会心理面でのマイナス効果も十二分に勘案せずに

安直な『垂直統合』型企業モデル志向で無思慮・無慈悲な

さらなる現代版『グローバル=帝国主義型開国化』路線を突き進むと

いかなる悲劇的惨劇を世界にもたらすか?

中長期的な経済的費用効果も好ましくないものになり果てることでありましょう。

そのことはすでに19~20世紀にかけて生じた世界史的帰結が

教訓として示唆してくれているのですから。

管理人などはこの先、巨大な反動が押し寄せてくるように予言しておきます。

あくまでもこのままの愚かな進路選択を採用し続ける限りでは・・・。

逆に言えば、今までと正反対の適切な『双対』政経施策を採用すれば

風通しの良き『道』も生まれるというものです。

そんなことを日々に徒然と幕末維新の志士や水戸『烈公』様などと

問答対話しております。

我々同時代を生きる世代にとっても

いつか『快なり』の明るい時代を迎える見通しを得られるよう

『祈り働こう』ではありませんか?

殺伐とした暴力沙汰が世にはびこる『るろうに剣心』のような時代が

ふたたび『日の本』と『宇内(世界)』に訪れることなど

断じてごめん被るでござるよ・・・。

『失政のツケは国民と国家をまさしく見殺し』することになり、

世界中を不協和に陥れることになるのが古今東西の歴史的現実なのです。

このような我が国にとっても世界史的転換期の渦中において

未来に向けて生き抜いていかざるを得ない世代にとって

今もっとも必要とされる心構えとは・・・。

決して『やせ我慢(臥薪嘗胆)』でも『日和見・八方美人』でもありません。

明日伸びてゆくためのある種の『行動的禁欲』なのでありましょう。

単なる『やせ我慢』の自己満足だけでは

この先ただ『やせ』細って栄養失調状態に陥るだけだからです。

しかもこのような姿勢だけに徹してしまいますと、

時としては『黙る』美徳であることも

『黙らせる』悪徳をはびこらせる凶兆をもたらすことになるのですから。

『厳しく冷え込む時期は地中深くに根を張り巡らせて

容易なことでは転倒しない太い幹を生やしていく土台を作って

ふたたび経めぐってくる春に備える』のです。

つまり、今は『潜龍』(『易経』)の時期なのです。

『一身にして二生を経る』

今をさかのぼることわずか160年ほど前に活躍された福沢諭吉翁が遺された

有名な格言ですが私たちもまさにそのような激動の渦中に身を置かざるを

得ない立ち位置にいます。

同じく激動期にあった明治維新期の我が国において青年層を惹きつけて

ベストセラーとなった福沢諭吉翁による『学問のススメ』

現代の文脈に照らし合わせて読み替えながら

その本質点をつかまなくては活かすことも叶いません。

渋沢栄一翁『論語とソロバン』サミュエル・スマイルズ氏の『自助論』

幸田露伴翁『努力論』などなどすべての古典の読み方の注意点であります。

ちなみにソロバンが出たついでに管理人も幼少期に学校の算数授業以外の

課外習練としてソロバン教室に通った思い出もありますが、

ソロバンをはじく体験があれば『繰り上がり/繰り下がり』のイメージ体感訓練も

出来て現在の電卓やエクセルほかのデジタル計算機器主流の時代でも

その効果たるや抜群のものがあります。

あのソロバン体験からは『数』感覚だけではなく、

心地よき弾く音になじむことで『絶対音』や『リズム』感覚すら

養うことができるようです。

昭和もバブル全盛期や平成ひと桁時に幼少期を過ごした今の30代以後の方ならば

そのような学習体験をされていた方も意外に多いのではないでしょうか?

あの頃は中学受験する同世代でもソロバン教室体験された方も多かったようですので

難解だとされる○○算(鶴亀算や仕事算ほか)の文章題でも

その題意をつかみやすく、ただ単に解法記憶するだけの

馬鹿の一つ覚えのような学習法をする人間はまだ少なかったのかもしれません。

ちなみに管理人は中学受験体験はなく、地元の公立中学から

小学校同窓生が先に進学していた私立へ高校からの外部入学組でしたので

小学校時代に『えろぅ(えらい)難しい問題を解かなあかんねんなぁ』と感心しきりでしたよ。

中学数学では方程式で一発で明快に解けても

小学算数では線分図と面積図や比の発想で正解を導かなくてはならないのですから

あの頃にこんな難題もすらすらと解けていたら高校数学でも楽に進めたのかも・・・と

いまさらながら算数の勉強不足を悔やんでおります。

将来の職業選択の幅を減らしてしまったわけですから。

今は姪っ子とともに小学算数から数理学の立て直しを図っております。

今になって数理学の面白さと奥深さに浸っています。

どちらかといえば、『勉強もまた趣味のひとつ』派に生まれ合わせて

幸運でした。

これから先に待っている老後の『認知症予防』と『家計節約』対策にもなるからです。

もちろん、社会全体でこんな『節約』ばかりが奨励されていれば、

やがて万人がじり貧に陥ってしまいますが。

住民税支払いの季節。

事前の納税予定推計額より少しほど軽減されていたことがせめてもの慰め。

懐具合のさみしさを噛みしめつつも、明日へ向かってまた歩き出せる有り難さよ。

『納税制度によって社会に通貨は循環していく・・・』とはいうものの

管理人もその『神話』だけを信じて生きているわけではありません。

『そもそも、納税の意義とは何ぞや?』

『単なる「財源」? 社会参加費? お上への献上金?・・・。』

などと問い詰めていくと謎がますます深まっていきそうです。

『気持ちよく納税できることが政府や社会への信認?』

だとすれば、『名目納税額の法定範囲内での実質的節税が時に合法的に許容される反面で

違法な脱税行為、合法と非合法の境界グレーゾーンにおける脱法行為が

世にはびこるのはなぜなのでしょうか?』

『自らが実直に働いて得た所得内で納税期段階では

今年度分はこれくらいだけしか納めることができません。ごめんやけど。』と

正直に自主申告すれば本来は済んだはずだったのではないか?

されど、サラリーマンは『源泉徴収(給与所得からの天引き)』制度とやらで

サラリーマン以外の諸階層における自主申告制度とのあいだで

どうも所得の捕捉面で不公平があるようだ・・・。

このあたりの心理的な抵抗感こそがこの『神話』をもうひとつ

納得できない理由になっていそうです。

残念ながら、人間は『事実(現代貨幣の創造流通実態)』と『理論(それを裏付ける理屈付け)』が

一見いかにスキのなく理解できるものであったとしても、

各人各様の心理感情の壁がそれを妨げてしまうのです。

つまり、『事実と理論によっては人の意見は変えられないし、

折伏(説得)もできない』ということです。

その点を看過したり、軽視して、『納税時に逸脱行為があれば

有無を言わさず厳罰に処せられるから通貨は社会を経巡るのだ』と

強弁したとしてもその『神話(物語)』に納得できない人間にとっては

馬耳東風のようなものでしょう。

管理人などはこのあたりをさらに説得できる材料を

『現代貨幣理論(通称:MMT)』がいかに正しい『事実』であり、

『理屈』であったとしても一般公衆にはなかなか普及(宗教ではないですから、あえて布教という

誤解ある表現は使用しませんが。)できないように感受されるのです。

ちょうどNHK大河ドラマ『青天を衝け』の主人公である渋沢栄一青年が

いかに勘定方役人として百姓相手に語りかけても

なかなか納得してもらえなかったように・・・。

このあたり、まだまだひと工夫もふた工夫も要するようです。

管理人も独自の補強説得材料を考案すべく研究しているのですが、

最終的にはお上自身の政治姿勢を通じた説得に

一般公衆が得心できるかどうかにかかっています。

かえって『緊縮』財政を続けていく限り、税収はますます減っていくでしょう。

さすれば、この理論的帰結からすれば、

社会内における貨幣流通量がますます減少して、

その流通速度もますます緩やかになって、

誰も投資意欲も生産性向上を通じた所得向上努力(←どんなに頑張って働いても

所詮は低所得に甘んじざるを得ないんだったら、誰があくせく働くかい!!)も

しようとするはずがなく、中長期的には供給能力も棄損していき、

安全保障上からも原材料調達ルートが著しく閉ざされていけば(←

このまま無為無策で安眠をむさぼり、我が国の現状を続けていけば

確実にここにたどり着いてしまう。)、

それはまさしく大東亜戦争開戦直前の経済環境をふたたび現出させてしまうと

いうことになってしまうのです。

皮肉なことに『平和ボケ』がもっとも嫌悪される悪夢の『戦争』や『革命』、

『内乱』を誘発させていくのです。

古代ローマ帝国の衰亡過程やカルタゴのような『武』を軽んじていった

『町人』国家の末路の事例などのように

最後はその『町人』国家すらも破壊してしまうのです。

残念ながら『町人』国家の存続は『武人』による陰からの支えがあればこそ・・・

というのが現実なのです。

ここで税収問題に戻りますが、

実際の歴史的統計結果からもそのような現象が起きたことがあったのです。

その現象を封印するためにますます『増税』する志向性を持てば

それこそ『苛斂誅求』、『苛政は虎よりも猛し』ということになって

民衆暴動を誘発させていくことになります。

それをも強権的に抑圧するとの施政方針であれば、

『某国をけん制するために自由民主体制諸国は連携する?』

『バカ言っちゃいけない、何を矛盾したことをぬかしやがる!!』となって

困窮化する一方のわが国民に当の某国からの余裕資金でもばらまかれれば

『背に腹は替えられぬ』となって吸引されていく事態も続発してくるのです。

それもまた我が国史における明治維新体制(幕藩体制→近代国民国家)へと

駆り立てるいち要因になったのでした。

(これが何が何でも『植民地』にはならないという選択と意志の力です。

『植民地=専制従属国』の民はよほど寛大な君主政権でない限りは

『奴隷』扱いを受けてしまうのです。)

だからこそ、その惨劇を回避するために

『亡国流民』抑制政策としての財政・納税政策、貨幣制度改革の

重要性が説かれてきたわけなのです。

『奴隷』になって『使役者』の支配欲求を満たせば、

ますます『使役者』を傲慢にさせて、

自由な暮らしを享受してこられたほかの世界民衆にも

多大な損害と迷惑をかけてしまうのです。

そのような文脈の流れで今の我が国政府の信頼度数が

他国からも注目され、政策連携者として大丈夫かと試されているのです。

『世界の中で孤立して井の中の蛙になってはなりません。』

『亡国を知らざれば、これすなわち亡国(の兆し)なり。』とは

明治の偉大な先人政治家であった田中正造翁の遺訓でありました。

『「次元」を上げて世の中の来し方行く末を考えて先手を打つ』とは

こうした発想を指していうものでしょう。

それはそれとして、さて算数から『生活』数学と政治経済論を経て

ふたたび数理学の効用話に戻りましょう。

このような姿勢で数理学をきちんとやっていけば気象状況などの変化の兆しも読めて、

これまた趣味のアウトドア(登山など)にも役立てて、

万が一の遭難時における『命拾い』にもつながり、

世間様に多大なご迷惑をおかけする可能性を減らす

『活学』になってくれることもあるというわけですね。

そうそう、今期のNHK『朝ドラ』でも数理学の重要性が

さらりと隠し味となっていて妙に納得させられたものでした。

さらに数理哲学を幅広く眺めていけば、

おのずと数理学者自身の世界を眺める視点、つまり、世界『観』にも

多種多様なものがあることも垣間見えて(複数の公理体系がある。たとえば、

義務教育で学習する範囲のユークリッド体系に対する非ユークリッド体系など。)、

なかなかに魅力的で興味が尽きない話題がそこここに散らばっていることを

知るなどとにかく奥深い学問なんですね。

そんなわけで、身体知をも鍛えてくれる数理学には期待も持てて、

旧式算術法を活用する体験を経ることで

まだその時代には『アナログ』の長所も学べて

極端なマニュアル思考(志向)の罠へと落ち込む回路も

少しは回避できる習慣が持てたような感がするのです。

ゲーム文化も『デジタル』型のファミコンがちょうど発売された頃で

『アナログ』型の人生ゲームやトランプ、花札!!やオセロゲームの類から

野球やサッカーをはじめとする野外スポーツゲームなど

多彩に楽しめましたし、多少の危険行為をしても

周囲の大人が見守って下さっていた良き時代だったのです。

昭和のバブル時代に幼年期を過ごした世代にとっては。

だからこそ、なおさらのこと、大人になってから、

『まさかこんな時代になるとは思ってもみなかった』という感覚も強くなるのですね、

就職氷河期世代の場合には。

また算数は世の中の『からくり(システム)』を分析する最初の導入学問でもあります。

ネズミ算』しかり。

これなどまさしくマルチ商法に騙されないための生活数学としても

必須の社会的知恵を授けてくれるのですよ。

そのようにいかに工夫して学んでいくかという心構えと

学ぶ(学べる機会がある)喜びを知ることこそ

本来の『国民義務』教育の本旨だと信じたいものです。

閑話休題。

さて、このような難題が次々と押し寄せてくる時代には

先の見通しも立たずに漠然とした不安感(芥川龍之介)で

焦燥感にとらわれてしまいがちですが悲観的にならずに

この一見したところ『逆境』に感受される転換期を『逆手』にとって

親子二代で(お子様のおられる方)、世代間連携して(お子様や身近に若い方がおられなくとも)

みなでともに良き知恵を出し合って無事乗り切っていきたいものです。

そのための考える手がかりを授けてくれるのが

『古典』と『歴史』であります。

共通するその<心>とは?

まさに『アナログ』。

『アナクロニズム(時代錯誤、時代遅れ)』な発想ではありません。

この方面からも積極『接種』していく姿勢を持つことこそ

不安定化が予測される『デジタル』社会への文化的免疫力向上にも資するだろうと・・・。

よく対処していくにはより優れた想像力と思考力に

磨き上げていく努力をし続けていくほかありません。

コロナ禍の昨年2020年からは

小学校ではプログラミング教育(各教科学習の中でとのこと)と英語教育も必修化

されたとのこと。

うちの姪っ子などはまさに初年度生なので

管理人などもサポートできるようにどんなことを教授されているのか研究中です。

さらに2022年度からは高校での情報科目も随時必修化されていくことになり、

2025年には大学入学共通テストでも情報科目が出題される予定だといいます。

さて、初等プログラミングの思い出といえば

管理人などはまだインターネットも一般普及していなくて

ウィンドウズ95も出ていない1993~4年度の中学生思春期の技術家庭科の時間に

はじめてコンピューター言語というものに触れたことがあります。

『IF-THEN』や『AND-OR』などを活用して

小学校算数の『場合の数』で習う樹形図や

初等関数の知識などを駆使しながらほんのさわりだけを教えて頂くだけでも

簡単な起動操作ができるらしいことに感動させられました。

今ならPythonとかScratchあたりを活用されているのでしょうか?

隔世の感を覚えます。

いずれにしましても、黎明期のコンピュータ言語教育は

懐かしく愛おしく感じるものです。

そうそう、よく理解できなかった『2進法』原理についても

むしろ技術家庭の実技指導においてこそイメージづくりが

やっとできるようにもなりましたね。

純粋に賢い人ならば算数での『理論』計算思考でも

直感的にすぐに理解されるのかもしれませんが

管理人などはいまいち意味がつかめず「わからなかった」のです。

いずれにしましてもこの体験以来、

算数・数学でも問題処理の過程で必ず図表を書いてイメージ喚起しやすい

手順を踏むことによって抜群に成績向上も図れるようになるという

『余得』も授かることが叶いました。

それでも高校数学におけるベクトル処理あたりからは

あまりにも抽象過ぎてわけがわからなくなってしまいましたが。

ですから初等・中等数学と高校数学のあいだには超絶な壁があるものとして

取り組む姿勢が要求されるということです。

高校数学は確かに有名・難関大に入学できるほどの実力がある人でも

難しく最後まで苦手意識が払しょくできずにかろうじて受験を乗り切ったという

体験をお持ちの方が大半だと思われます。

ためにあまり面白く感じることなく脱落していく者が後を絶たないという

数学教育にとっては『魔』の季節でもあるのです。

ために現在ではさらに毎年のようにカリキュラムを簡素化しているようです。

受験の場合には負担も軽くなり一見すると楽になる場面もあるのかもしれませんが

将来の職業選択幅が狭くなるということを考えますと

あとでボディーブローのように効いてくるという恐ろしい現実も

待ち受けているわけですから

ぜひ文科省の高校数学カリキュラム策定担当者や教育業界の皆様方には

高校数学での落ちこぼれ者数を減少させるための

カリキュラム削減志向ではないほかのよりベストな解決案を

提示して頂きたく願います。

我が国の『産業技術立国』も半導体メーカーの著しき凋落事例にも

見受けられるようにもはや国民生活防衛の観点からも

『死活』問題にまで立ち至っているからです。

管理人のご提言としてはすでに実施されている現場もあるでしょうが

先ほども申し上げましたように中学数学と高校数学との『架け橋』、

さらには小学算数と中学数学との『架け橋』となるような

副教材と授業上の工夫(たとえば教科書にコラム記事を入れる。

中学/高校数学を小学算数/中学数学で考えて=イメージしてみよう・・・など。)を

ぜひ積極採用導入して頂きたいのです。

これだけでも正規の学校教育で理解できないからこそ

さらに課外に予備校通いせなならぬといった心理的・経済的負担も

軽減されるでしょうから。

教育学習環境の格差は個々人の人生も破壊してしまいますし、

『国力』そのものも落としてしまい戦争誘発の遠因にもなり得るからです。

『国民』教育の下からの底上げこそが諸列強の圧迫干渉を防ぐ手立てともなり、

ひいては安心して暮らせる生活基盤を堅固に築き上げていくのですから。

そして『国力』を度外視した無謀な戦争へとひたすら邁進してしまう

圧政背景状況をも阻止する多大な安定材料を提供するのですから。

『民活』の知恵に学ぶことは管理人も否定はしませんが

まずは経済的負担ができるだけ少なくて済む『公』教育の充実をこそ

財政面で図るべきでありましょう。

コロナ禍を機に国家崩壊の引き金となり国民が離散流浪の民にならぬためにも

正しい算数・数学学習を通じた計数観に基づいた貨幣観の転換も急務であります。

そのためにも算数・数学に簿記の基礎知識を教える時間があってもいいのかもしれません。

少なくとも貨幣『観』に関しては『ストック(家計貯蓄のような静態=内部不変固着イメージ)』だけに

偏り過ぎた貨幣観(貨幣の『プール(積立貯蓄)』論=「商品」貨幣観)だけにとどまらない

『フロー(経常収支は絶えず流動的に変化させ得る=外部からの所得/資本注入が可能

とのイメージ構築。債権-債務の膨大な信用体系としてイメージされた

「信用」貨幣観)』も含めた複合的な見方もできるからです。

このことを通じてマクロ(大きな視点から見る)とミクロ(小さな身近な視点から見る)の相違点が

学ぶこともできるからです。

数理学問的には『次元論』や『位相幾何学論(ある種の時空間階層構造論)』の

超入門編にもあたりましょう。

人間は成長していくにつれて複雑難解怪奇な諸問題にたびたび遭遇していくたびに

人と協力して解決していくこともできますが、

場面によっては独力で解決しなくてはならぬことが多々あるわけですから

物事を高度な観点からとらえて処理する思考操作法の習得が欠かせません。

(抽象⇔具体の相互転換法など)

そのようなことを学べば経済政策の評価も正しくできるようになりましょう。

現在の『プライマリーバランス(収入支出の帳尻合わせ)』といった発想に過度に傾斜させた

政策が『不況期』に掲げられていることが

いかに矛盾に満ちた狂気の沙汰だということかも次第に見えてくるようになります。

ということを数理学的に表現すれば、『厳密な条件設定』でもって

その処方箋が『成り立つ範囲』はいかにという問題に集約されそうです。

このような意味でも『歴史(経済恐慌史)』と『数学』を同時に学ぼうとの趣旨で

発展コラム記事を教科書に掲載してもよいでしょう。

まとめますと、複雑怪奇な世の中の諸問題をひとつひとつ解決していくためには

粘り強さ(今風の表現ではいわゆる『やり抜く力』)や不確実性に強靭に耐えうる

社会適応力を養成させる『レジリエンス力』などをはじめとした

『アナログ』型知的操作能力(特に<メタ>認知能力のように形式的な試験では

容易に計測できない高次元の知的判断能力など)を強化学習訓練を通じて

身につけていかなくてはならないということです。

それでは、具体的にどのような問題意識と注意点に気をつけて

学習訓練を積み重ねていけばよいのでしょうか?

そのヒントをこれから本書解読ご紹介を通じて

読者のみなさまとともに考えていくことにいたしましょう。

デジタルネイティブ』世代の総合学力は本当に落ちてきているのだろうか?~むしろ必要十二分な必須学習の質量を削減してきた政治勢力や社会風潮こそ批判されるべき論序説~

それでは本書の要約ご紹介へと進んでまいりましょう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

・<はじめに>

本書はまず最初に原書の一部だけが邦訳されたものであること。

『紙幅の都合もあり、原著者の了解をえて翻訳では10章にまとめた。

(管理人注:原書では15章もある大冊らしい。)

割愛したのは、神経生理学の基礎をのべた原書第2章、学習障害の専門的記載が多い

原書第7、8、9章の四つの章である。また、原書5、6章は一部省略し、

第4章「言語、思考、左半球」として統合した。

およそ1/3を割愛したことになる・・・(以下、省略)』

<訳者あとがき>(本書374頁)にて注意書きされていることを補足説明しておきます。

そのうえで本書は1990年という20世紀末当時における脳科学の水準を大前提に据えた

知識を踏まえて考察分析された論考文だということになります。

すでに30年以上も経つ論考であるためにこの間における

著しい脳科学や教育(心理)学などの発展により

現在では再考が促される箇所もあるのかもしれません。

本書でも批判検討材料の1つとして取り上げられている

当時の米国で(日本の教育テレビでも)流行して人気番組となっていた

セサミストリート』などもきょうびの若者世代には

あまり馴染みもなくイメージしにくいかと感受されます。

とはいえ、現在でもこのような意図や趣旨で制作された

教育『娯楽』番組は低俗クイズ番組など量産されていますから

細かい点では差異はあろうとも大雑把なイメージとしては

ご理解頂けるものと信じて以下で独自の要約考察を進めさせていただくことにいたします。

この<はじめに>ではこの手の問題は大いなる誤解と嘲笑も受ける可能性が

高い分野なので数多くの方から出版に反対されたり、

忠告を受けるなど前途多難な嵐の中での出発だったといいます。

このような中でも出版の励ましの声を頼りとして

その意義を認めて下さった方々もいらっしゃったとのことです。

著者のみならず世に問題を問う際には必ずや批判を受けることを覚悟しなくてはなりません。

そのような覚悟をもとに勇気をもって問題提示された著者に敬愛の念を表しまして

管理人もまた学ばせていただく機会を得ましたことを心より御礼申し上げます。

議論を深め、社会でより良い方向で洞察知見を活かしていくことこそが

相互教育学習の意義だからでもあります。

自由で開かれた公平な民主政治の発展のためにも

いかなる点に比重を置いて教育内容やその手法を改善させていけばよいのだろうか?

本書はこのような問題意識も含めて(世代間を超えた文化継承という視点)

論じられていくことになります。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

①『第1章 今の子どもは頭の構造が違っている』

※本章では現在の若者に対する一般的な学力判断試験などを通じて獲得されてきた

データ知見をもとに総じて頭の構造=働かせ方に大きな変化が生じているのでは

ないかという仮説推論を問題意識に据えて論考展開されていくことになります。

高校生から大学進学適性検査、さらには大学院進学者を対象にした様々な

学力点検調査試験の結果から今どきの若者にいかなる知的変化が起きてきたのかを

まずは分析考察していくことになります。

指導者(親や教師といった大人世代)から見ると

いつの時代も若者を取り巻く社会文化変容は理解しがたく感受されてしまうために

その行動形態や知的能力のあり方を総じてどうしても低く否定的にとらえてしまう

傾向があります。

その結果として『今の若者は総合学力が落ちてきている!!』のだと。

著者も以下の章で検討考察されていくように

『本当に学力低下している(きた)と言えるのだろうか?』という大きな問いを

立てながらもあらゆる観点から慎重な分析判断を加えていくことになります。

『では、いったいいかなる現象をもって学力が低下しているものと

判断し得るのだろうか?』

『そもそも学力とか知性の定義とは何なのだろうか?』

『学力や知性一般を計測する手法そのものにも問題はないのだろうか?』・・・と

いったような問題提起も踏まえつつ以下でその具体的分析結果から推論される

独自見解を提示されます。

特に『言語読解能力に大いなる支障傾向がみられる』とのこと。

『最近の学力の危機における証拠のひとつは、読みの能力の水準である。

読みの能力の低下は教師や雇用者の悲鳴をすでに引き起こしているが、

一般の人々の大部分は、テスト手法の操作がその本当の問題をどのように

隠しているか気づいていない。』(本書17頁)

その具体的事例が<証拠ー読みの危機>(本書17~31頁)で提示されます。

こうした問題提示をされますと管理人自身の体験談と日々の学力向上訓練の

難しさを思うと痛ましく、悩ましい問題になってきますが

確かに著者の主張される問題意識そのものは共有しております。

本年度から開始された我が国の大学入学共通試験も

そもそもが従来の○×式センター試験方式への疑義から改善案が出されてきた結果の

新制度導入でありましたが、当初は記述方式を積極導入せよをはじめ、

問題作成者側の選定問題だとか、特に英語学力判定に活用される

複数の業者試験において果たして『公平性』が担保されるのだろうか、

はたまた、採点者側でも記述結果の評価をいかに判定して、

『客観(公平)性』を担保していけばよいのだろうか・・・など

多種多様な批判的意見を受けて、その試験制度の『大枠』は

それほど大きく変化することもなく(細かな問題形式の変化はもちろんありましたが)、

最終的には適切妥当な学習履歴を積み重ねてきた受験者にとっては

それほど大混乱は生じなかったとの評価もあったようです。

新制度はコロナ禍の中での初めての試みであり、

とりわけ、現役受験者におかれましては正規の学校授業の格差状況や

大幅なカリキュラム履修再編や短縮、圧縮など異常事態を経たうえでの

実施でしたからそのご苦労にはあらためまして恐れ入ります。

来年度以降も受験生の皆さまは新傾向に振り回される事態に

直面することも多々ありましょうが、外野の声に振り回されず、

現代社会が求めている学力水準とは何なのかも常に念頭に置いて

個々の学習作業にあたって頂くよう願います。

この『外野』の動向を十二分に把握することも

大きな『文脈をつかみ、行間を読み解く』力だということです。

このような先を見越して行動していくための『推測力』も

社会の荒波を乗り越えていくためには必須となるからです。

その際のご参考に本書もそのひとつの候補となるかと思います。

最近の話題書であった『スマホ脳』などとともに図書館で

この手の最近の知力低下問題などについて触れられた書籍を

手に取って自分なりにも考察して頂くのもひとつの試験勉強課題として

有益な作業になるのではないでしょうか?

入試問題というもの(特に現代国語のうち評論文テーマや小論文題材)は

その時々の『旬』なテーマが出題されることが多いですので、

新書などが手ごろですからぜひ高校生諸君ほどの年代であれば

読書課題本として習慣化して頂くのが理想的でしょう。

ちなみに、『現代文の正解肢のヒントは必ず本文中にありますからね』

(前回ご紹介した出口先生など)ということは

必ず『正解』がある受験問題では暗黙の了解事項であります。

管理人も現代文の演習は基本書に出口先生の参考書だけをほぼ頼りに

浮いた時間を古文と漢文学習に当て、通学時間などに新書や小説といった読書で

息抜きしていました。

それで国語のマーク方式も記述方式も高得点を獲得できました。

国語はあらゆる科目の土台ですからしっかりと本を読みこむ練習を

積み重ねて下さい。

野球に例えれば、千本ノックのようなものです。

『ボールが友達』と名言を残されたプロサッカー選手が

かつておられましたが、ぜひ『本』も友達に加えてやって下さいまし。

閑話休題。

いずれにしましても、著者は本書全般を通じて強調されていますように

『本書のねらいは親や教師を非難することではない』(本書42頁)であり、

個々の人間や若者の能力不足の側面を否定的に見て非難を加えることは

無意味だということです。

現代社会においてそもそも要求される学力観も異なり、

その水準も人間関係や社会の時空間文脈によって

それぞれ異なったものが要求されますから言語操作能力、その読解力を通じた

会話伝達能力やその技法、表現形式(書き言葉か話し言葉か)、

表現媒体手段(ビジネスなどの公式の場での書簡やIT通信作法からSNSに至るまで。

特にSNSで匿名であっても公私意識のけじめはご自身を守るうえでも

きわめて大切な作法となってきます。とりわけ、短文では説明不十分による誤解も

発生しやすいので十二分にご注意下さいませ。)など、

その『受発信』技法能力向上磨きは生涯学習課題として

常に心掛けておきたいものです。

それでは本章の骨子を引用で簡潔にまとめておきましょう。

『本書の第一の主題は、われわれは明らかに違った脳を持った世代を

育てているのであり、どの階層の子どもにも見られる学力の低下は、

学習の身体的基盤の微妙な、しかし重要な変容を反映したものであると

いうことである。この重要な変化はこれまでの学力の基準や

指導法との間に軋轢を生じさせている。特に問題が生じているのは、

読み書き、分析的判断、口語表現と言った言語学習の領域や、

注意を保持する、問題に取り組むといった能力においてである。』

(本書43~44頁)

まとめますと、本章のタイトル表現だけでは

今どきの若者は単純に昔よりも総合学力が低下していっているとも読み取れてしまう

多大な語弊がありますが、そこに著者の意図が込められているわけではないことは

何度も繰り返し強調しておきます。

確かに時代が現在に接近してくるにつれて、

若者(現代人)の頭脳は変容していることは間違いありません。

とはいえ、その点を指してただ単に頭脳が『悪化』しているとまで

断定判断を下してしまうことにはなお慎重でなくてはならないということです。

つまり、先人の時代に比較すれば、現代社会は端的に言って膨大に

学習(社会に適応するために)しなくてはならない情報量に圧倒される

知的時空間に生活しているという点も考慮に入れなくてはならないのです。

それに連動して進化発展を遂げてきた情報伝達拡散媒体との付き合い方によっても

脳の学習機能に様々な障害を生じさせるおそれがあり、

ひいてはそのような知的環境要素こそが脳に過大な負担を強いて、

ある種の『消化不良(キャパシティーオーバー=容量超過、能力超過)』を

生じさせていることにおいて、

表層的には『学力低下』しているかのように見えてしまうのかもしれない点にまで

目配せさせた慎重な議論深化が求められるということでもあります。

総じて『環境』が頭脳をいかに変容させている(いった)のだろうかという点が

本書全編における主題であり、このような事態に対して

教育はいかに応えていくべきかを問うているわけであります。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

②『第2章 環境が知能を形づくる』

※そこで本章からは『環境』が『知能』に与える影響面について

論じていくことになります。

本書執筆当時の脳科学の知見なども参考にしながら、

とりわけ、環境面からの脳への負荷がいかに深刻な問題をもたらすかについて

本章では総論的に問題提示されていくことになります。

キーワードは『可塑性』

『可塑性』とは辞書的な定義では、

『(粘土・プラスチックなどのように)強い力が加わった時に、形が変わってしまい、

そのまま元に戻らない性質。』(新明解国語辞典第四版、219頁から引用)

脳科学専門用語も本章の解説部分では出てきますが、詳細は内容も煩瑣になりますので

控えさせていただくことご寛恕願いますが、

専門用語では特に『髄鞘化』と呼ばれる問題点が

『環境からの負荷による脳への影響』と『個々人における脳の発達度合いに応じた

適時適切な教育学習機会の付与と工夫』を考える際の大きなキーワードとなっています。

著者も数学に苦手意識を感じる時期が来たと興味深い体験談を語られていますが、

数学に典型的にみられるような抽象度が高くなってくるにつれて、

脳がその意味する内容を具体的にイメージ転換できる状況になっていなくては

『ハーマン・エブスティンが「神経ネットワークの抵抗回路」と呼ぶもの』(本書49頁)

を形成してしまうだろうと。

そこで教育学習面でも個々人の理解度や習『熟』度に応じた最適な指導が

必要かつ重要になってくるのだと指摘されています。

つまり、

『神経の可塑性に関する示唆に富む研究のいくつかは、ある種のタイプの

精神の発達には「臨界の」、あるいは「感応性の高い」、あるいは「最適の」時期が

あることを証明している。だからこそ、その時期に適切な刺激が与えられないことは

最悪の結果を招くことになる。』(本書57頁)

この論点はきわめて重要な着眼点でありますが、

詳細は本章<2 学習の臨界期>(本書57~64頁)に委ねさせて頂きます。

本章のまとめを引用簡約しておきましょう。

『子どもの知能がどのように発揮されるかを決めるのは、その脳の使い方である。

子どもが選んだ関わりの体験が、様々な事柄をどう学習するかと同じ程度に

脳のシナプスの構造をも決定する。もし子どもが脳の使い方を変えると、

それにしたがってシナプスも再編成される。ある定まった反応パターンで

使われれば使われるほどその柔軟性は乏しくなってしまう。

自然は神経成熟の順序を定めている。

精神が成長するそれぞれの段階において、ニューロンの結びつきの相互の

競合から思考の複雑な形が少しづ(管理人注:誤植? 正しくは『ず』)つ生じてくる。

もし子どもが1日に何時間も同じ活動に没頭すると、その特定の活動の連合が

つくられ、ほかの形は消失する。しかも、脳の発達段階からみてある技能が

生じる時期であるのにその技能が使われないままであると、その能力の

神経基盤が衰えることになる。

極度の隔離は、幼い順応性のある精神に劇的な影響を及ぼすことになる。

・・・・(以下、略)。』(本書69~70頁)

つまり、個々人の脳の発達度に適合させた適時適切な学習内容と学習姿勢が持てるよう

学習環境を整えていくことに特に指導者側は十二分に思慮深く対応していく

問題意識が要求されるということです。

ですから、幼少期から脳の神経回路が一定レベル(千差万別であるため一律設定不可能ですが)

成熟していく段階にある『未』成熟な年齢層への過度な詰め込み教育や早期能力開発指導、

また、各人各様の興味関心度を完全軽視したようないわゆる間違った画一的『ゆとり』教育も

一般的には無謀な試みであり、厳禁事項だとはいえましょう。

個々人の習熟度をよくよく見極めたうえでの適正教育を目標に据えた

教育指導姿勢がもとより最重要課題になるということです。

この点は幼児や児童といった子どもだけにかかわらず、

われわれ大人にとっても難題ではありますが、

教育学習現場では『習熟度別昇進階段』制度であったり、

企業人事面における適正配置問題や査定評価制度を構築していく際にも

参考になる論点のように思われます。

とはいえ、そもそも人間の『才能』をいかに公平に計測すべきかの

標準モデルを構築することすら矛盾に満ちた営みだと

管理人自身は評価しますが、

人間誰しも『欠点』というと行き過ぎた語弊ある表現ですが、

『未完成』、『日々精進ある身』であることは

『お互いさま』なのでその点を見越した『場』を

教育現場や職場をはじめ、家庭や地域などあらゆる時空間に表現創造できるよう

意識づけしながらお互い心地よく共同生活していきたいものです。

ということで、本章は主に教育サポート面における脳の可塑性に着眼させた

注意点について論じられています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

③『第3章 誰が子どもに話すことを教えるか』

※本章では言語表現と思考形成の関係性について

主に『話すこと』の意義について教育的観点から論じていくことになります。

ただ『話すこと』といってもここでは高度に発達した抽象的言語を駆使して

話者が本意を誤解なく他者に正確に伝えるために必要となる言語習得訓練の

あり方に対する教育上の現状批判と改善策に向けた要点事項についてが

本章での主題だということです。

人間が正しく『話せる』ようになるためには正しく『聴く/聴かせる』ような

知恵と工夫が必要になります。

単に目に見える(見えただけの)視覚的な現象面を『雑駁』と『雑談』的に

話せばよいというわけにはいかないということですね。

人間が見ている物理的景色や風景、状況だけではなく、

特に心に浮かんできた心象風景をいかに他者に誤解なく伝えるかを考えていくと

語彙・語法の選択から修辞技法(レトリック)、時制や統語、関係詞ほかの

文法規則を正確に理解したうえで、脳内に構築されていった言語記憶庫から

的確に取り出せるような忍耐強く長期にわたる言語操作訓練が

必要不可欠となってきます。

そこで大人が子どもにいかに言語教育を実践していけばよいのかなどが

事例とともに検討紹介されていくことになります。

<2  家族、学校、成長する脳―理想は現実に戸惑う>(本書78~91頁)

とりわけ、幼少期のいわゆる『語りかけ』へのアドバイスとしては

<絵のないことばかけの重要性>(本書82~85頁)の小論考は参考になりましょう。

『もっと重要なことは、語を「意味の主たる源」として理解することである。

ことばは絵とともに出てこないので、子どもは「言語の象徴の力」によって

意味を把握しなければならない。生の現実のつながりからは独立した

表象の力によって把握しなければならない。(中略)

子どもは目に見えているものを言い表すこと以上のことを学ぶ必要があるからである。』

(本書83頁)

さらに、より正確に『話す』力を形成していくうえで重要になってくる視点として

言語表現(読解)能力発達を阻害しかねない現在の社会文化環境(特にメディア映像や

音声文化)のうちでも、とりわけ、『聴き取る』ための力の源泉となる

『音韻感応力』に着目されています。

他者へ物事を明解かつ丁寧に語り伝えるためには体系立ててひとつずつ順序立てて

区切りながら説明していく言語表現能力が要求されます。

そのことは同時に相互にできるだけ誤解なく意思疎通していくための

忍耐強さも要求されるということも意味します。

丁寧に『聴き取る』ことは相手が発信する話題内容を正しく『読み解く』力が

必要だということです。

話し言葉と書き言葉ではコミュニケーション技法が質量ともに

もちろん異なるわけですが、良き受発信がなされるためには、

言葉の意味がいかようにもとらえられる多義的、曖昧模糊とした詩的表現

(繰り返し韻を踏むような音楽の歌詞やテレビドラマのセリフ回しに

見られる表現に象徴されるある種の『散発的粗雑な』物言い)では相互誤解と

暴力的摩擦対立を招き入れやすく好ましくないために

散文的な書き言葉表現で発話技法を常時磨き上げていく言語習慣を

持たなくてはならないのです。

この問題意識を持つことの重要性は次の第4章でも論じられています。

そこでこのような現在の子どもの言語脳形成に当たり、

いかなる環境作用を受けて変容されてきたのだろうかとの問題意識のもと、

まずは次の第4章で現代までに獲得されてきた脳科学の基礎知見が解説紹介された後、

第5・6章では具体的な言語脳への影響とその形成過程における諸問題点について

分析考察がさらに進められていくことになります。

それでは本章の要点をまとめておきましょう。

『最近の子どもの脳は、公的教育の意義と目標に相反する言語のパターンで

形成されつつある。それはどの社会経済階層においても認められる。

(中略)

しかし官僚や教育委員会はこの重大な問題には無頓着で、前世代の

カリキュラムと指導法にこだわり続けている。いまだに「チョークとトーク」

(黒板に白墨で板書し、教師が話をする授業形態)に重きを置くやり方が、

注意が乏しく、読解力が低下し表層的な判断力しか持たない子どもへの

主要な指導法である。しかしこの古い方法はもはや効果がない。若い頭脳は、

分析的な思考の重要な道具である言語によってその脳を形づくっては

いないからである。

もし、われわれが優れた学力を伝統的な指導で成長途上の脳に築きたいと

望むなら、われわれは子どもの会話や文の読み取りに悪い影響を及ぼしている

文化のあり方を問題にしなくてはならない。

言語学者が「未熟」と嘆いたレベルの言語にさらされている子どもを、

彼が成熟した言語技能を獲得できないといって責めるべきではない。』(本書73~74頁)

 

『受け身的な聞き方では、ことばも聞く技能もうまく育たない。

今日の子どもは多くの時間をテレビを見たり、教師の話を聞いたりして過ごしている。

しかし彼らが本当に必要としているのは、ただ多く聞くのではなく

上手に聞くことである。

上手に聞くことは理解力と記憶力を育てる能動的な精神的活動である。

教師だけがほとんど話まくり、子どもが受け身的に聞く教室というのは

危険な時代錯誤である。(中略)

もし子どもの言語体験の質をおろそかにするならば、社会に知的停滞を

招きかねない。どの学齢層にも見られる言語の不活発さは、単に個々の子どもの

発達のみならず思想の文化的側面における限界のあらわれでもある。』

(本書89~91頁)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

④『第4章 言語、思考、左半球』

※本章では、脳科学的見地からいかに言語脳が開発されていくのか、

とりわけ思考過程を表現展開させていくメカニズム解明について

推定されてきた仮説をもとに論じていくことになります。

現在ではもはや常識になりつつありますが、

いわゆる『右脳』型だとか『左脳』型だとかいった言説が

いかに雑な見方であったかはすでに良識ある読者様であればご存じのことと思います。

個々人によって脳の使い方や創造発想パターンには特徴や独特な傾向性があることは

言うまでもありませんが、一時期に大流行した上記見方はあくまでも

このような個々人に特有な脳が生み出す性格パターンイメージを『象徴化』させて

商業的に利用されていたにすぎなかったのでした。

実際には『右脳』と『左脳』は脳梁でもって連結統合されており、

脳内神経伝達細胞間の結合組み合わせによって脳機能が変容していくということです。

ですから、双方の半球脳は相補的な関係にあるというわけで、

その点はいわゆる傷害によって欠損された脳保持者の追跡調査研究でも

明らかにされてきたところです。

こうした脳科学が提示してきた知見をもとに、

本章ではさらに『言語と思考』の相互関連性について言語教育学習上の

問題点について分析考察されていきます。

『言語を使う形式が思考の展開と堅く結びついていることを誰も否定しない。

しかし、言語が思考そのものを形づくり、思考は言語そのものであるというのは

もはや古い考え方でしかない。』(本書104頁)

言語教育学習面における重要論点として

本章では特に<書くこと―最後の望みの綱>(本書113~116頁)

<数学の文法>(本書116~119頁)がご参考になりましょう。

数学『記号』操作も言語による正確な意味理解を通してでしか

感得されないものと思われるからです。

数学的知能ではまさに『言語と非言語的な視覚的判断』(本書108頁)を

併用していくことが理解促進につながるからですね。

国や地域によっての言語文化の違いも数に関する認識作用に

多大な影響力を及ぼしているらしい・・・との論点は

桁数表記法や計算手法に関する話題で示唆されていることも

興味深い点であります。

『数認識パターン(観)』と『言語』の関連性、

また『数理学文化発展史』についてもたとえば『零(0)』の発見に

代表されるような興味関心が尽きない分野もありますが、

本書主題からは外れていくことになりますので、

いずれまた関連書ご紹介させていただく機会があるまで

ひとまずお預けとしておきます。

そのほかの教育方法論における配慮事項としては

<3  学習のスタイルとストラテジー>(本書128~130頁)読みどころでしょう。

脳科学上の知見はまだまだ証明も不十分で検証余地が多々あることは

本書全編でも著者は繰り返し注意喚起されています。

そのうえで現時点(本書執筆時)において暫定的な推論仮説として

意義があろうと信じられている点について問題提起されていることは

常にご留意しながらお読み下さいませ。

ですから、本書執筆時からかなり時間が経った2021年現在時点では

さらに脳科学知見情報には更新された事項も多々あるだろうことは

本書評価のうえにおいてもご留保願います。

本章では現代教育が視覚型直感に刺激を与えられやすい社会文化事情に

相当な影響を受けていることから、いわゆる『右脳』型に偏重させられてきており、

言語や分析的思考を促す『左脳』発達に多かれ少なかれ機能障害を

及ぼしてきているのではないかと推察されているわけです。

あくまでも著者の脳科学分析に関する批評志向性は両脳のバランスある発達を

いかに促して適切な学習能力を構築していくべきかに比重を置いて

論考展開が進められています。

『分析的思考と全体的感覚は相容れないものであるが、われわれは

情報に対するこの二つの異なるアプローチについて、より相互交流的な

経験を十分子どもに与えているかを問題にしなければならない。』

(本書130頁)

本章のまとめを引用しておきますね。

『脳の機能、すなわち言語の使用と理解の機能、それに思考の様々な

パターンは、初期の言語の環境によってかなり変わりつつある。

最近の子どもに生じていることを正確に把えた時点では、もうすでに彼らは

成長し、次世代の教師や親になっているだろう。彼らはことばと意味の刺激を

豊富に受けた脳を持っているのだろうか。そうであることを願いたい。』

(本書140頁)

最後のまとめを読むと、悲観的になってきそうですが、

ひたすら押し寄せてくる情報の洪水とメディアの多様化、

伝達手法の多角化、内容真偽を見極める力・・・などなど

わたしたち自身を取り巻く言語文化が日々変容していく流れを見ていくだけでも

なかなかに厳しく険しい道のりのように感受します。

言語学習上の『理想』にはなかなか届かなくても、

われわれ自身の常日頃からの言語文化との付き合い方次第で

言語駆使能力が適時変化していくことだけは間違いありません。

映像形態であれ活字形態であれ、

それらがもたらす言語表現の奥深くに潜む『意図』を読み解く訓練が

欠かせないということですね。

このあたりは、人間とAI(人工知能)における差異を大きく強調されて

話題ともなった新井紀子氏(関連書評記事)などの問題提起とも

重なり合う点があるようですね。

まとめますと、正確な読解力には他者の発信内容の『意味』を

正確に理解したうえで議論がかみ合うような学習訓練が要請されるということです。

メディア映像文化全盛の時代、管理人などもよくYouTube動画コメントなどを

ざっと眺めて感じることが多いのですが、内容を誤解なく把握されている

視聴者コメントには時に、はっとさせられる知的発見もあって楽しく

大変勉強にもなります。

反対に不十分な理解で的を外した意見や単なる誹謗中傷コメントを見てしまうと

唖然とさせられるうえ、

よくもまぁ、世の中には憂さ晴らしをする暇な輩が多いものかと

暗い気持ちにさせられてしまいます。

世の中の様々な意見に対し、独自の問題意識をもって

否定的批判をすること自体は問題はないのです。

さはさりながら、常に『何のために・・・』という厳しい自己認識と

省察姿勢がなくては、ただ敬遠されるだけであり、

理解されることもなく(『理解』とは必ずしも『共感・共鳴・同意』を

伴うものではありません。)、

さらなる良き解決案の提示へと向けられた他者意見とのあいだでの

『発展的打開論へと向けられた上昇過程(専門用語では

『弁証法(的)対話法』といいます。)』の通路開拓もあり得ないのですから。

つまり、単なる『自己告白(モノローグ)』や『自己満足』や

『顕示欲発露』としか世間ではみなされなくなるということですね。

ですから、お互いに良質な対話をしようと思えば

その機会を常に『開いておく』姿勢が必要とされるわけです。

そのような貴重な対話機会に自らを『閉ざしてしまう』とは・・・。

それこそ時空間(他者とご自身の希少価値ある人生)の無駄遣いでありましょうよ、

ということです。

ですから、誠実な説明責任も果たせなさそうなコメントを見ると

毎度残念な思いにとらわれるのですね。

よほど酷いものであれば訴訟リスクもあるというのに・・・。

管理人も反面教師として学びながら、批評にも根拠と問題事項に対する

建設的改善点の提起やより説得力増強のための論証訓練の素材として

それら一連コメント調査研究もしております。

いかなる人間もすべての情報と人間に接して直接確認が取れない以上は

その真偽を判定するいわゆる『ファクトチェック(事実認定)』作業は

多大な困難さを伴うこともまた確かなことではあります。

だからこそ、直接『見えない者』同士がやり取りする

現代ソーシャルメディアを活用した相互コミュニケーションの場合には

なおのこと強い

『ネチケット(インターネット上のエチケット)』と節度をもった

お付き合いがより一段と大事になるということですね。

そして、知らず知らずのうちに自らも多々「フェイクニュース」拡散に手を貸してしまうという

悪事を働くおそれは常にありますので、可能な限りでの情報源の確認や

相互批評しあえる『場(コメント欄)』も設定しておかなくてはなりません。

そのあたりの現代メディアを活用した教育技法の注意検討事項については

また最後の第9章と第10章で要約論評させて頂く際に考察してみることにいたしますね。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

⑤『第5章 テレビ、テレビゲーム、成長する脳』

※本章では、主にテレビやビデオ、ゲーム(執筆当時は家庭用ゲームでしたが、

現在ではオンラインゲームも含めた広範な『デジタル』型ゲーム)といった

『映像』文化が脳(とりわけ発達過渡期にある幼少期~学童期~思春期を経ての

成人までの学習教育訓練期間)に与える教育上の問題点と配慮事項について

論じられていくことになります。

本章では、<3  読む脳とテレビを見る脳>(本書162~172頁)

<4   脳の実行中枢への不安定な足場>(本書172~174頁)

<5  結論―テレビは脳と学習にとって危険である>(本書175~176頁)とに

主要論点が集約されています。

ちなみに、<3  読む脳とテレビを見る脳>内の小論考である

『変容する脳―読み書きの神経刻印づけ』(本書167~168頁)で示唆された

テーマなどは過去にご紹介させていただいた

メアリアン・ウルフ著『プルーストとイカ~読書は脳をどのように変えるのか?~』とも

通底する話題であり、いわゆる『読字障害(ディスレクシア)』についても

言及されていますのでお悩みの方へのご参考までに触れておきますね。

いずれにしましても、他者の受発信内容について正確に理解して

対応する良質なコミュニケーション能力にまで磨き上げていくためには

『注意力』を終始そらされるような環境状況に長期間も身を置くことは

人間力形成を図っていく重要な教育訓練期には重大な欠落箇所を

生じさせるおそれが十二分にあるということです。

『注意散漫』にならず『集中』して物事に取り組み、

他者と接触するには長期間の自己抑制力(セルフコントール)や

計画性(スケジュール調整力)を持つことができるような

『習慣化』を図る必要性が人間の『社会化』のためにも不可欠だからです。

それでは、本章の重要箇所を引用してまとめておきましょう。

『この本を書き始めるに当たって、まず初めに感じた疑問はビデオ機器の使用が

どれだけ子どもの学習環境に影響をおよぼしているかという問題である。

(中略)

以前にも増してより多くの子どもたちが今まで以上にビデオ・メディアに

入り浸っている。ここ数十年間あからさまにならなかった影響が、

たったいま学校で顕著になってきているのかも知れない。』(本書142~143頁)

『多くの家庭において、幼児もふくめて子どもが直面していることは、

テレビが言語や聞く力、声をあげて読む力を育てる家族の会話にとってかわり、

しかも課題への取り組み方、将来の計画についての話し合い、また自分自身の

感情のコントロールの方法について大人が子どもに示すゲームやその他の

活動を排除している。』(本書144頁)

 

『われわれは、メディア、特にその教育プログラムが読み書きの能力、

学校での学習、知識獲得のためにどのように役立つかを知らなさすぎるのでは

ないだろうか。』(本書146頁)

 

『優れた学習と優れた問題解決には能動的なかかわりと持続性が要求される。

これに失敗することが学習障害の多くのタイプと関連している。

幼児期にテレビを多く見ることが、すぐにあきらめてしまうような受身的な

子どもを造ってしまうことを、人々は直感的に感じ取っている。

いま、その指摘が現実として現れ始めている。』(本書150頁)

 

『もし、読むとか聞くというような理解学習がテレビの影響によって

受身的にさせられているなら、考えをまとめ書き表すという、

より能動的な表出技能も非常に危うくなっているだろう。

テレビの頑固な擁護者たちもテレビはもともとどのような種類の

表現技能の訓練にもならない受容的なメディアであることを認めている。』

(本書152頁)

 

『テレビの効果について推測する場合の大きな問題の一つに、子どもたちが

明らかにそれらから学習していると見えるようなことが、

全くそうではないかも知れないということがある。

(中略)

しかしながら、残念なことに脳というものは、たいていの場合ある特殊な

分野において学習されたことを他の領域へ応用することは苦手である。

(中略)

学校や家やその他の場所で、種々の問題をとおして判断することにより、

組織立ったステップを考えるといったより基本的な精神の習慣の

トレーニングは、般化しやすいものである。今日の世界においては、

どのように読むかどのようにビデオを見るかを子どもに示すことは

転移のためのよい教育となる。』(本書157頁<転移の問題>)

 

『ほとんどの研究者たちは、マーセル・キスボーンがいう全てを

右脳と左脳の対比で捉える考え方、すなわち「二分法マニア」には

懐疑的である。子どもたちは両方の半球を使い両者の連合を学習

しなければならない。視覚的な入力に高次の判断と言語の意味を付加する

ことが特に重要なのである。そのような観点に立てば、読みに熟達する

ことはテレビを見ることよりもよりよい訓練であるといえるであろう。』

(本書169頁)

 

『子どもたちは画面だけでなくことばにも注意を向ける

必要があるといえる。』(本書171頁)

 

『前頭葉の発達は高次の学習を可能にする。逆にいえば、深く考え、

精神的にチャレンジしながら読み、反省し、計画し、問題を解くことが

前頭葉の神経回路を養うものと考えられる。それらの高次の

コントロールセンターの助けがなくても単語を読むことはもちろん可能

である。しかし、理解や応用には動機づけや忍耐力とともに、この

コントロールセンターをうまく使用することが必要である。

そういった危険にさらされている技能が、学習にみられる国家的危機に

最も関連していることであるように思われる。テレビを子どもたちの

発達の「足場」にするという一般的期待には大きな危険性があるのである。』

(本書174頁)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

⑥『第6章 『セサミストリート』と読みの崩壊』

※本章ではいわゆる『教育系娯楽』番組に寄せられる過大な期待感に

冷静さを取り戻させるような視点がいくつか示されています。

本章では1990年代に日米で人気番組となり、教育業界でも話題となった

セサミストリート』を分析批評対象事例に取り上げながら

考察を深めていくことになります。

現代教育の特徴点は常に進化し続けている社会の影響を多大に受けて、

世代ごとに次々と教育カリキュラムが変更させられており、

そのために世代によっては深刻な悪影響と損害を被ってしまっていることが

あげられます。

読者様の中にも勝手な大人側の事情によって負担させられた教育的被害のために

今の若者世代がいわゆる『「ゆとりちゃん」だとか「さとり世代」だとか

「甘やかされた世代」だからねぇ・・・』なんていう有り難くない

汚名を着せられて意味不明感と自信喪失状態へと追い込まれてしまったという

理不尽なご経験のある方も多いことと推察いたします。

それに対する若者側の反応として

『そりゃ、大人の論理や教える側も問題だからだよ・・・』といった

反駁したくなる心情論理をもって対抗するのが関の山でしょう。

客観的公平に評価すれば、すでに責任をもって判断を下せるものと

いちおう認められる年代に差し掛かれば(思春期を超えた高校生あたりから。

そのようにいちおう推定されているからこそ、18歳以上かつ学生であっても

選挙権が与えられたわけです。)『どっちもどっちで責任の擦り付け合いだけに

終始しており幼稚な発想だよね。』ということになりましょう。

とはいえ、本書が問題としているのはそこではなく、

そもそもの大前提として『可塑性(良くも悪くも両方に働く未熟な可変的状態にある)』

に満ちた『成長途上にある不安定な』脳を通じた心身に与える深刻な影響が

『成人(大人、社会人、親や教師、上司といったような指導的立場)』になった時にこそ

その障害事例が後発的に発症してくる点にも重点を置いた

幼少期の教育的配慮の適切妥当性を問おうとする姿勢にあります。

そこで問題となるのは現代社会と教育学習素材があまりにも『わかりやすさ』を

効果的に狙った視聴覚認知機能重視の方向性へと偏ってしまっていることに

あるということです。

著者がとりわけ問題とされているのは幼少期からのあまりに早期の

視聴覚教材を多用した情報洪水に溺れさす環境を与えることで

学習機能の一部に深刻な『欠損』部位が生じてくるからだ・・・という点にあります。

視聴覚教材を活用すること自体が悪いわけではなく、

あくまでも『あまりにも偏重』させている教育学習姿勢にこそ

大いなる懸念ありということですね。

言い換えますと、視聴覚教材に依存しすぎてしまいますと、

自らのイメージ形成・操作能力の低下やいわゆる『行間(空気)』を読み解く力も

衰えてしまう作用が働きやすくなるという警告であります。

今、『行間(空気)』と書きましたが、悪い意味での周りの『同調圧力』に合わせる

力ではないことは賢明な読者様であれば釈迦に説法ではありましょう。

つまり、『同調圧力』に安易に屈しないためにも正しく『行間(空気=意図)』を

読み解く力をつけていくにはいかなる教育環境と学習姿勢が求められるの

だろうかが著者が問題提起されるひとつの大きな原動力でもあったと

いうことですね。

一番困るのはただでさえ『未成熟』なわれわれ人間が『成熟たらん(になろう)』と

努めなければさらなる世代間の教育格差も拡大してしまう。

『さらなる未成熟を伴う劣化版』として・・・。

ここに最大の問題意識があるということです。

このことが意味するところは、教育格差のゆがみがもたらす社会文化の亀裂とともに

世代間だけではなく同世代間ですら深刻な経済格差がもたらされる

要因となってしまうということです。

さらに価値観の『多様性』尊重を謳うわりには、

いわゆる『アイデンティティ』志向型政治が主導させる

『ポリティカル・コレクトネス=俗称:ポリコレ。政治的に正しい言説!?』とやらの

棒で叩きまわし、人間を思考停止させる風潮へと追いやる傾向も出てくるのです。

『左脳―右脳』の連結統合思考による働きが要請されるのと同じく、

管理人などはもちろん個々人による身体的気質や皮膚感覚の違いはあり、

価値観における厳密な『みんな一緒』派を求めるような幼稚かつ拙速な言動には

組しませんが、少なくとも、政治/経済場面における

左右対立状況が招かれるような状況場面においても個々の差異は尊重したうえで

全体(社会共同体)としての『相補的』姿勢でもって『おのおの得るところある』

社会実現へと尽力したいものと願っております。

だからこそ、学びの『効用(単に即座に役立つか役立たないかという狭義の視点ではなく)』を

常々書評活動を通してみなさんへ語りかけさせて頂いているわけです。

『それはひとえにみなさんにそれぞれの幸せの道を歩んで頂きたく願っている』からこそ

なのです。

そのあたりと通底する問題意識でもって解説紹介されているのが

『NHK 100分de名著 ブルデュー「ディスタンクシオン」』(岸政彦氏)でも

ありました。

そうです、みなさんの幼少期からの『文化資本』の差異が

最初はほんのわずかな隔たりにすぎないものだったとしても

中長期的には大きな格差傾向へと進んでいってしまうということです。

個々人の『文化資本』形成力の家庭や地域的環境格差による不公平さに由来する

世代間と同世代間の分断・対立を少しでも軽減させていくためにも

『民間』活力だけに過度な期待を寄せてはならず、

ここにこそ『国家(公教育)』の出番もあることも帰結されます。

視聴覚教材に過度に依存せずに「目に見えにくい」具体像を

文字や数式といった象徴化の力をも使ってイメージ形成を図ること、

これこそが『抽象化(般化作用、共約可能性、意思通用能力を持つことが可能に

なる)』の力でもあるわけです。

ですから、俗にいう『抽象すぎるねん』と指摘されてしまうことは

具体的説明力にも欠けているということでもあるわけですね。

具体的説明力を補助する教育手段として『見える化(数字でもってグラフ化するなど)』や

言葉の明確な『定義づけ』作業も必要不可欠だということです。

この『具体と抽象』の相互転換がうまく図れるようになるためにも

イメージとしての(著者も管理人も「二分法マニア」ではありません。

あくまでも一般に誤用、流通してしまっている言葉に固着してしまったイメージ力を

万やむを得ずお借りしてというにすぎません。そのことによってさらなる語弊と

誤解も生じる懸念がありますが、今は説明の便宜としてご寛恕願います。)

『右脳』と『左脳』の脳梁を通じた連合統覚作用の働きを強化させる視点と

最終的な『言動判断能力』を『決定/決断』させていく前頭葉の働きの

重要性にもっと教育指導者は着目すべきだという視点に

最重要教育課題があるとの論旨に尽きるということです。

『セサミストリート』についての読解力形成に与える問題点は

<2  『セサミストリート』が読むことに悪い影響を与える10の理由>

(本書184~204頁)にて詳細に分析評価されています。

それでは、『まったく「セサミストリート」のような視聴覚認知作用に

働きかける教育系娯楽番組教材には長所がないのだろうか?』

それへの著者からの回答例が本章でのまとめとなります。

<3  『セサミストリート』にいいところはないのか>(本書205~206頁)

それでは本章の重要箇所を引用しておきますね。

『理解しない状態が続くことが脳の機能に与える影響については

まだ誰も明らかにしていない。しかし、5章で引用した研究(管理人注:

<ゾンビ効果>(本書152~155頁)に詳細な解説あり。)は、理解しないことが続くと

それはアルファ波(管理人注:アルファ=α波とは睡眠を誘発させるようなゆるやかな

心地よく癒されるような、要するに思考力が次第に衰退していくような脳波のことだと

されている。脳波研究も疑似科学的な要素も多々あるようですのでご注意を。

ここでも俗にイメージされているものとして便宜的に補足説明しております。)へと

脳波を後退させる原因となるかもしれないことを示唆している。

それはわれわれが心配している「習性」の一つである。』(本書200頁)

本章の結論表題もまさに<教育と感覚的商業主義>(本書207~208頁)として

警戒感を持たせた表現となっています。

視聴覚教材『偏重』傾向の弊害面については

あらためて認識しておく必要があります。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

⑦『第7章 不思議な環境にある脳』

※本章では環境条件によって脳の機能に多大な差異が生じてくる模様を

様々な研究調査とともに分析考察されています。

とりわけ、人間生活において重くのしかかる物心両面におけるストレスが

脳機能発達においていかなる損障をきたす要因となり、

いちど損傷を受けた脳はもはや回復される余地はないのかなどについて

家庭環境や社会階層、所属文化など比較分析した調査研究をふまえて

考察が試みられていくことになります。

本章では必ずしも経済的に恵まれていない社会階層に所属していることをもって

ただちに『不遇な』環境にあり、脳機能発達において『著しく』不利益を被るといった

画一的な即断評価がなされることはありません。

比較相対的に裕福な社会階層に所属していても

親や支援者の愛情ある介助が不十分な環境条件に長期間にわたり放置されていれば、

脳機能障害を引き起こす要因となり得ることも示唆されています。

『長期にわたって貧困であり、しかもそれが極端な家庭では養育的な家庭の

雰囲気が保証されることは非常にまれである。しかし、中にはそのような状況にも

かかわらず成功している家庭もある。経済的な背景だけに基づいて家庭の質を

推測することは馬鹿げている。ブリスリンは階層差をレッテルづけることは

新しい差別を生み出すと警告している。それらの差はわれわれがより建設的な

教育を保証するためだけに役立たせるべきであると彼は指摘している。』

(本書229頁)

先にご紹介させていただいた

フランスの社会哲学者ブルデューが提示した

古典的名著『ディスタンクシオン』から教訓を読み取る際にも

常に念頭に置いておかなくてはならない視点です。

さらに過度に期待をかけた早期教育も子どもそれぞれの興味関心度合が無視され、

能力許容量を超えたものであれば能力発達面からみて効果的ではなく、

かえって弊害も高まるおそれがあるものと推察されています。

早期バイリンガル(母語以外の他国言語も駆使できるように志向された)教育が

そのいち事例として紹介されています。

『バイリンガルの環境の影響について述べている研究は十分にはない。

しかし、家族として不自然な状況あるいは劣悪な環境は、全般的なことばの発達を

抑制し、学習の問題を生じさせる。保証される言語刺激の質はどの階層においても

話す人の教育的背景によって変わるものである。複数の言語に熟達することは

明らかに有利なことであるが、特に本来言語能力に余り恵まれていない

子どもたちには、もうひとつの言語の習得の基盤を引き上げるためにも

少なくともひとつの言語で交流することが必要なのである。』(本書220~221頁)

いずれにしましても、親をはじめとする子どもを支援する立場に求められる姿勢は

その後の人生に多大な損失を与える『無力感』や『慢性的自信喪失心理』を

植えつけないような生活支援配慮が要請されるということです。

とともに近年、重要問題として話題となってきたいわゆる『愛着』障害を

軽減させていく精神的介助に加えて、

社会全体として物理的な(経済格差による『子どもの貧困』など)障害壁を

引き下げていく支援制度もより一段と強化していく必要もあります。

そして、本書でもこのようないわゆる『不都合な真実』データを

教育制度・政策改善のために活用するにあたっての注意点が語られています。

<3   社会階層と精神発達―誰も話したがらない問題>(本書224~230頁)

さらに、日本でも昨今、多動性症状や注意力散漫などで辛抱できにくい児童が

増殖してきたとする小学一年生問題が一時期話題となりましたが、

家庭教育と学校教育、さらに社会人(生涯)教育はそれぞれに要求される

特有な適応力に関する相違点があるとはいえ、

個別が分離して存在しているわけではなく、

『社会適応化』教育の観点からは連続性があることも知っておかなくてはなりません。

その際のひとつの家庭における幼少期教育姿勢に関するアドバイス

<学校の教育に対して脳を準備させる>(本書230~238頁)で提示されています。

なお、言うまでもないことですが、

この問題意識は特に『発達障害』を抱えている特別支援教育を必要とされている

お子様を偏見的差別でもって扱い人権侵害を助長促進させるものであってはなりません。

むしろ、『発達』に関する研究知見が積み重なるにつれて、

その定義は論者によって異なるも、健常と障害のあいだは常に揺れ動いており、

その幅も『連続的(虹における光学的イメージでたとえたスペクトラム)』なものとして

理解されるようになってきているからです。

この『連続的』問題意識は本書では脳機能の『可塑性』とつながる重要論点を

示唆しているように感受されるところです。

それでは本章の要点をまとめておきますね。

『ある子どもたちは、適切な身体的、社会的、情緒的、また知的な栄養を

受け取ることが出来ないほどの「不遇な環境」に置かれている。そのいずれかの

側面において長期にわたり必要なものが与えられない子どもたちは危険に

さらされる。そして、要因どうしが重なり複合されたとき、学習面、生活面、

社会面でのその集積に比例して危険度が増大する。

(中略)

脳発達の初期に起こる身体的、情緒的、認知的な出来事は一生にわたり影響を

及ぼす。それは脳それ自体だけではなく、必然的に良くも悪くも社会に対しても

その影響を及ぼし続ける。経済的に不遇な家庭の子どもたちは、多くの場合

学校に適応できない貧弱な頭脳しか備えずに学校に入ってくる。

同じことが、彼らとは反対の「特権的な」子どもたちのある部分においても

次第に現実のものとなっている。』(本書214~215頁)

『物質的に恵まれている幼児であっても、もし彼らが情緒的な拒絶や質の悪い

世話や不適切な代理養育など親の身勝手さの犠牲となるようなことがあれば、

情緒的にも知的にも危険にさらされる。』(本書218頁)

『おそらく、異なる社会経済階層グループの脳と学習の研究において

さらに重要な問題は、行動を調整したり、計画をたてたりする前頭葉の機能で

あろう。(中略)

前頭葉の発達にともなった自己統制と注意の能力は小学一年以降の言語の

熟達にともなって変化するため、追跡調査をするべき価値のある問題である。

しかし、この問題を明らかにしようとする努力はほとんどなされていない。』

(本書244~245頁)

『ウェバーは、今は注意とコントロールに関連している前頭葉の発達の研究を

行っている。左半球の差を調べるだけではその問題をあまりにも単純に

扱っていることになると感じたからである。今は半球の差であるとされている

変数のいくつかを説明するかもしれないと彼女は予測している。』(本書246頁)

 

『全般に専門家たちは遺伝と環境をそれぞれ半分ずつ(管理人注:原文では『ず』→

『づ』に表記されている。)知的能力の最終的な結果の原因としている。

スカ―は生物学的な多様性は生物にとって動かし難い現実であり、個人差は人間の

経験の豊かさに多くのものを付加することを指摘している。政治政策は人々全てを

才能ある人にすることはできていないが、しかし文化全体の平均的な水準は、

早期の環境、学校、栄養、健康への配慮などの質を向上させる社会政策によって

改善させうるものである。いくつかのあまりよく知られていない研究が、

そのような政策が現在の世代をさらに向上させる知的な影響をもたらすヒントを

与えてくれるのである。』(本書250頁)

 

『強制的な活動が徐々に早期教育プログラムには多くなってきている。しかし、

そのようなプログラムは継続的な改善を示すことがない。基礎的な判断の技能や

おもしろい経験そして学習に対する肯定的な態度とともに言語理解や表現の発達を

強調したプログラムは長期にわたる成果を示している。』(本書254頁)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

⑧『第8章 未来の脳のための新しい学校』

※本章では、現代社会が大きく変化していく流れの中で

それぞれの家庭環境もその直撃を受けてきたために、

いかにその打撃から子どもたちの壊れやすい(可塑性にある)脳を守っていくかに

関する教育『手法』論について様々な観点から論じていくことになります。

子どもたちそれぞれの脳機能における発達環境も

家庭学習環境や習慣も異なることを大前提に

過去の時代においては当然のものとされていた画一的な教育手法のあり方も

個別状況に応じて適宜柔軟に組み替えながらも、

現代社会が要請してくる新しいニーズにも対応し得る『協同学習』の形態を

より多彩かつ積極的に取り入れたこれからの時代に見合ったあたらしい『集団』教育と

『個別』指導の混合体制をいかに創造させていくかとの問題意識でもって

各論点を分析考察していくことになります。

著者の問題意識については本章冒頭箇所で示されています。

『われわれは自分たちの子どもの賢さをとても気にかけている。しかしわれわれの

文化は、知性が紡ぎ出される、ゆっくりとした時間のかかる手作業に対する

忍耐に欠けている。幼児期の静かな空間はメディアの襲撃と即自的な

感覚的満足によって崩壊してしまった。子どもたちは熱に浮かされた大人たちの

スケジュールに縛られており、社会的な不安に脅かされている。

多くの子どもたちが、遊ぶ時間や知的な挑戦を追求する機会を奪われている。

大人たちからはつまらないものとみなされるかもしれないが、それこそが、

子どもたちの知性を構築する本物の素材なのだ。学校は、子どもたちの発達的ニードを

理解し、将来子どもたちに力をつけることになる重要な技能や思考に彼らが

深く関われるような方向にその進む道をとらねばならない。』(本書260~261頁)

結局は、この現代社会に特有な急激な変化に誰しもが追いついていないという点にこそ

根本的な教育上の問題点や難しさも集約されていくということに尽きるようです。

子ども自身もさることながら、親を含めた我々大人自身にも『助け』となる

教育環境の再構築も同時に要請されているということですね。

このような時代になれば、そもそも狭義の学校教育機関だけに過剰な期待感や

過大な要求をするという姿勢こそが間違っているのだということも

再認識しておかなくてはなりません。

ただし、学校教育に携わる教育指導者が親自身による育児教育面を側面指導する

際には特に下記に引用する点に注意しなくてはならないとも指摘されています。

『親を教育する者たちは、親たち、それもとくに教育程度の高い「出世の早い」人に、

彼ら親たちの重要な仕事は家庭で「教師をする」ことだと強調することには

慎重でなければならない。情報化時代においても、家庭は個人的な保護、愛情、

そして安全を提供する必要がある。悩んでいる親たちには、子どもたちにしゃべらせ、

家族とかかわらせ、遊ばせることが、たぶん、彼らの一番の真に「教育的な」役割で

あることを再度確認させる必要がある。』(本書275頁)

また家庭環境もますます過当競争にさらされ、人間味が削られていく超過酷な

経済環境のもとでは、大人自身にも物心ともに『ゆとり』もなくなっていくがために、

子どもの教育学習責任、育児責任のすべてを各自の家庭でもって『間に合わせる』ことすら

不可能な状況になってきているのが現状であります。

まずはこの現状をふまえたうえで現場感覚を喪失した極端に無理難題を

学校から家庭に至るまでのすべての社会教育現場に過大な責任を押し付けるような

理想論をもてあそぶような一部教育批評家のような無責任言説姿勢を

放棄していかなくてはなりません。

この人間的感覚を社会全体で共有したうえで、

教育に関する議論を展開していかなくてはいかなる前向きな解決案も

見出されることなど金輪際あり得ないということですね。

特にたかが『運が良かった』にすぎず、

しかも社会の数多くの人々に支えられてきたからこそ

社会的『成功』を獲得できたにもかかわらず、

すべてを『自助努力』だけで成し遂げたのだと

勘違いする社会的成功者の群れが続出してくる現代思潮、風潮こそが

教育現場にまで浸透してきていることが問題なのです。

『成功者自身が幼少時代にすべてを理想的に完璧な形で教育目標を達成できたことなど

ありえないにもかかわらず、後進世代には過大なまでの要求事項を出すという

学校教育に贅沢を求める感覚志向性』

これこそが、現代教育の諸悪の根源であり、

社会不適応者や落伍者を続出させるきっかけを生み出しているからです。

この後進世代への情愛感覚の希薄さこそが、

現代の社会分断と国民相互間の不信感を増大させていく毒素となっているのです。

そのような思潮、風潮こそが個別の人間的事情も無視した

無意味な『自己責任論』でもって相互『糾弾』し合うような惨状を

社会にもたらしているのです。

現代社会は進歩しているどころか、単に『野蛮化』してきているとしか

評価し得ないほど人間同士の信頼感も欠乏してきています。

そのような殺伐とした社会環境になってきますと、

本来でおれば過酷な社会からの『避難所』であり、

『安全地帯』でもあるべき家庭内にも学校内にも暴力的ウィルスが

持ち込まれるようになってきます。

このような『悪』循環をどこで断ち切るかが教育的配慮の面でも

問われているのです。

本章でも現代社会の現状とニーズをふまえた

いわゆる『新しい教育観』をもとに現場を長年にわたって見てきた

著者独自の問題提起がなされています。

個々の詳細論点は本書論考に委ねますが、

本章の読みどころ<3  言語と聞き取り・読み書きの能力>(本書277~292頁)

<4  脳全体のための全体的言語>(本書293~305頁)が言語教育学習上の

重要点として参考になりましょうし、

<5  会話と社会環境の差>(本書305~310頁)では

論点①『言語的な差異への処方箋』が移民統合国民国家である米国の教訓が

十分にふまえられた問題点が語られています。(本論考においてはハワイ州の

カメハメハ早期教育プログラムが事例教材となっています。)

また、先ほどの教育現場への暴力誘発問題との絡みでは、

論点②『非行に対抗する会話』において事例提示された

紛争解決のための調停(和解)プログラムの実践が参考になりましょう。

我が国でもますます激しく強まりゆく『国際化』現象を受け止めざるを得ない流れの中で

『グローバル』経済競争原理が一般国民の不安感情に十二分な配慮がなされず、

有無を言わさずに持ち込まれてくる政治志向に絶えずさらされ続けることを黙認していれば、

さらなる暴力誘発環境が整えられていくことになります。

現状の『国際化』の流れに歯止めがかからない限りは、

すでに受け入れている我が国内の外国人との共存共栄をいかに図っていくかという

現実的姿勢も学んでいかざるを得ません。

米国ハワイ州での国民『統合』教育がいかに困難を伴う課題かということも

自然に『国民』形成が図れてきたのだと麗しい誤解をされている

一般の人々にはなかなかイメージしていただけないことも難点であります。

『国民』として受け入れていく方針であれば、

少なくとも文化(生活風習)と言語(国語)には最低限馴染んでいただく

教育学習機会の付与が要請されるのです。

『郷に入っては郷に従う』は多民族国家であればなおさらのこと厳しい道なのです。

いわゆる『同化』政策は失敗しやすく、頻繁に分離独立運動が起きてきますし、

その動きを『国民国家』として封じるには暴力的な鎮圧か

平和的に解決しようとすればするほど中長期的にわたる国民相互間の

文化的亀裂を甘受していかざるを得ないからです。

最近もカナダのブリティッシュ・コロンビア州での強引な『同化』政策による

悲劇的事例がテレ東BIZのYouTube動画報道にて知らされたのですが、

いかにして各民族の多様性を尊重しながらも、『国民』国家としての統合を

成し遂げていくのかという政治課題は

カナダに限らず『移民』や『帰化者』をいかに迎え入れていくかを巡って

激しく意見が揺れ動いてきた国家では多難な事業だったことを忘れてはなりません。

我が国の国民『統合』も決して簡単な道のりで成し遂げられてきたわけではないのです。

古代史をしかと研究していけばなぜこれほどまでに方言や風習、人情が異なるのだろうかと

思い起こされ、特に旅をしていると、そんな気分にたびたびさせられてしまうのです。

世界に目を転じれば多種多様な民族を抱えている『国民』統合国家では

いわゆる『自治区』制度が採用されている事例を見聞きしますが、

その実態もまちまちであり、統合(自治)度において中央政府の統治姿勢から見て

硬派から軟派まで様々な差異ある対応がなされているのが実情であります。

この問題に関する各国の制度比較なども社会科の授業で題材に取り上げて

調査討論学習をしてみるのも『国際化』を考えていくうえで

優れた『公民』教育にもなるのではないでしょうか?

このように多角的観点から実際に起きてきた(いる)世界史の惨状をよく研究していただければ

おいそれと少子高齢化が今後とも続くからと

ただ即物的な感覚(例えば、経済奉仕要員のように評価する軽薄さ)で

移民を受け入れようなどとする安易な発想はまさしく愚劣極まりない暴論でありましょう。

このように既存国民と新規転入国民との間における

価値観の相違に由来する暴力沙汰が頻出してくることを恐れ、

あらかじめ予防法学的に抑止しておく必要があるからこそ、

いずこの国でも『国籍条件』の壁を厳しくしてきたわけです。

このように後の世に禍根を残さないためにこそ、

冷静な移民抑制政策のあり方を模索していこうと問題提起しただけでも

『排他(外)主義者』とか『外国人恐怖症』に侵されている哀れで滑稽な者だと

レッテルはりして議論封殺しようとする風潮が後を絶ちません。

これこそ、『多様性』や『寛容性』を無視した野蛮な言動姿勢でしょう。

このようにして人類はいつの時代もいづれの地域でも『自由』を

自らの手で喪失させていったのです。

ところで、近現代以降の『国民国家』原理は

啓蒙主義的『理性』信仰が人々には備わっているものだと『みなして』

次第にゆるゆると緩和していったわけですが、

皮肉なことに人間はみながみな賢く『理性』だけで感情を抑制できるほど

立派な存在ではなかったことが現実によって立証されてしまったのでした。

これが現代史の『不都合な真実』でもあったのです。

教科書で描かれるようなバラ色の近未来幻想は

『小説(フィクション)』の世界ではあり得ても

現実の世界ではなかなかスムーズには進行していくものではないのです。

もし、平和共存できないのであれば、

近現代以前のように各国、各地域で『棲み分け』しながら

『必要な分だけ』交易している方がまだしも安全が保障されたでありましょう。

そこに技術革新が起き、領土『拡張欲』(規模の経済が働くことも含む)とも

重なり合ってきたときに『惨劇』が至る所で続発するようになってきたのでした。

そして、人類の精神状況もまた近現代以前とそれほど大きく変わっていないからこそ、

古典的な『勢力均衡』論が現在でも有効であり、

たとえ人類『統合』の理念からはほど遠く見えようとも

次善の知恵として許容せざるを得ないのです。

そのことは『民主政(制)』原理においても同様だということです。

そして近現代においては『国民国家制』と『民主制』はほぼ同義であり、

ただその『内実』が各国各様に異なるだけだと解釈されているわけですが・・・。

この『内実』が人類普遍(『普遍』もまたあやふやですが、誤解を恐れずにあえて

再定義すると、人類共存共栄のための

『共通原理(ルール)=人として守らなくてはならない道』のこと。)と

相反する事態が出てきたときに『専制(全体主義型強度統制)国家』は

『内政干渉』の原則を盾として正当化を図ることが多々あるということです。

『相互不干渉』原則も国際人道に反しない限りは・・・という厳しい制約条件が

付くのが現代国際法のいわば『肝』にもあたるということです。

そして国際紛争を『武力』によって解決しないためにこそ、

国際司法裁判所や各国際的仲裁機関が存在するわけですが、

このような機関も『財政』と『人事』と『アメ(賄賂工作などによる汚職行為)』で

武力ならぬ平和『制圧』を通じて『完全篭絡(調略)』されてしまえば

もはやいかんとも

なし難い機能不全状態へと陥ってしまうのです。

そのようなわけで人類全般の霊性向上(支配―被支配欲の放棄など)なき限りは

世界賢者連合による高度な知恵を働かせた『アメとムチ(和戦両様の構え)』戦略も

不可欠となるのです。

その戦略がもっとも合理的なものとなるように

ゲーム理論も転用されてきたわけですが、

『囚人のジレンマ(相互の疑心暗鬼な心理状態から逃れ出ようと誘発されてしまう

裏切り行為)』現象が続発してしまえばこの戦略もまた失敗してしまうのです。

現代の最優秀な国際人道プログラム策定者もこの難題を解決するために

心理学と数理学を結合させたいわば心理数理学を構築しようと日々努力されています。

ここまで厳しく煮詰められた議論と解決法実施に移る決断と覚悟と

問題発生時に責任を取り、あらたな代替案を柔軟に模索しようとする

粘り強い誠実な姿勢を持つことができ、できる者こそが

唯一、『多文化共生』や『平和共存』を語る資格があるのです。

この論点はアフターコロナを経て激動していくことが予想される

国際情勢への対処法も切望される時宜にかなった問題でしょうから、

あらためてエッセー記事内で語らせていただくことにいたしましょう。

ですから、上記プログラムなどはその際のひとつの参照事例とはなりつつも、

我が国の現状を適切にふまえたうえでの受け入れ対策を講じなくては

将来に『禍根』を持ち越すだけの結果に終わってしまうことが懸念されます。

『多文化共生』や『国際競争原理の国内導入』などを常々提唱、

推進されている勢力を支持している方々には

このきわめて繊細な問題についてどれほどの覚悟をもって

対処されているのでしょうか?

この問題は『口で言えるほど生易しい問題では決してない』からなのです。

できれば、紛争が起きる前に紛争予防政策を当局には

いち国民として切実に求めたいわけですが、

現実に積極的にそれぞれの文化背景が異なる外国人を移民として受け入れてきた

米国における教育現場からの『声』にも真剣に耳を傾けて

内外人ともに『納得』できる妥協点を探っていかざるを得ません。

少なくとも我が国文化や人情といった『固有』の要素を著しく軽視、

無視した不誠実な姿勢に終始するだけでは誰しもが不安感情に駆られる

風潮をもたらすだろうことは容易に推測されるからです。

『国策』として教育面でのいわゆる『グローバル人財』の養成を言うからには

この点についても事前の充実した議論と実施後における適宜検証と

改善策の模索は常に図っていかざるを得ません。

その点も踏まえてここでの『バイリンガル』教育を実地に行う場合の注意点について

語られている著者の問題提起も真摯に考えあわせるべき貴重な論考だと

評価しております。

いずれにしましても、文化背景や価値観がさらに多様化・細分化していく流れに

あることが避けられないのであれば、『可塑性』に富むとされる

不安定な子ども時代にさらなる重圧がかかる環境創造構築には

慎重でなくてはならないということです。

『ストレスによる高次脳機能障害』問題に関する研究は

まだほんの序の口だともいいますから、

なおのことこれまで積み重ねてこられた知見を十二分に活かした

議論が期待されるところです。

それでは本章の重要論点をまとめておきますね。

言語脳が発達途上にある子どもたちに対する『言語能力発達改善法』の

いち教育手法として次のような指導法もあり得ると著者は提示されています。

『書くことで、口語表現は作られる。書くことの実践は表現的言語機能を

作り上げる黄金の機会を与えるし、逆もまた真である。生徒たちは一度に

しゃぺることはできないけれども、一度に書くことはできる。一人の生徒に

答えを教えるためにあてるかわりに、教師が質問する時には、それについて

書くように全員に求めて、いくつかのサンプルを共有することができる。

この単純な方法は、教室中のすべての脳をその教材に参加させるし、価値ある

実践を与える。また生徒理解のための良い指標を提供してもくれる。

多人数クラスにおいてさえ、生徒たちに、学習していることについて

書くことを規則的に求めると、その理解と記憶が改善されることに、

教師たちは驚いてきたのだ。』(本書289頁)

『学ぶ者を個別的にこのような質問の過程にまきこむという考え方は、

「全体的言語」と名づけられた静かな革命の一つの特徴である。

(中略)

この方法の魔法の力は何だろうか。「全体的言語」の要点は三つである。

第一点は、認知心理学の最近の研究にしたがっている。

学習者は単に受動的な情報の受け手ではなく、積極的な「知識の構築者」で

あることである。第二に、読むこと、書くこと、話すこと、聞くことを

バラバラではなく、統合された技能として教えることである。

三つ目に、読むために用いられる教材、それは書く活動の基礎としても

用いられるが、それらは、すばらしい児童文学や物語や説明風の良質の

言語を含んでいるものである。』(本書293~294頁)

『学習の研究によれば、生徒たちがもっともよく理解し、もっとも効果的に

アイデアを覚え、そしてもっとも鋭く思考するのは、教師が学習すべきことを

ショベルで放り込んでくれるのを待っている代わりに、今学習していることから

意味を見出すことに生徒たち自身が個人的に責任があるのだと感じている時で

あることが証明されている。』(本書294頁)

『「全体的言語」を中心に据えたカリキュラムでは、書くことが土台であり、

書くことを教える中で、子ども自身の興味や能動的な思考の能力が高められる。

幼い子どものために採用された特殊なテクニックを通じて、子どもたちは

幼稚園でも書くことを始めるように仕向けられる。もう少し後の学年では、

生徒たちを、書く技術や、内容や文体を学習することに引き込むために、

コンピュータによる文章作成を含むさまざまな方法が現在使われている。』(本書299頁)

このように著者も積極推奨されている革新的『言語脳発達』向上に資すると評価される

「全体的言語」の考え方にも問題点がないのだろうか?

いかなる優れた教育手法であっても活用法に問題があれば

良くない弊害も生じます。

最後にこの点を少し長くなりますが、

特に重要だと感受されましたので指摘引用しておきますね。

我が国のいわゆる「ゆとり」教育カリキュラムでも当初目論まれていた

『理念』を再評価したうえで、いかなる教育姿勢で現場活用されていれば

教育効果を果たせていたのだろうかと下記論旨とともに再考すれば、

これからの社会でますます必要かつ重要な能力として要求されている

『総合』学力を適切な形で計測する学力認定・検定試験制度の

さらなる改善のためにも役立つ視点が得られましょう。

いわゆる「ゆとり」教育であっても成功した教育現場と

失敗した教育現場になぜ分かれるという現象が生じてきたのでしょうか?

そこには教師側の徹底した『基礎』学力重視姿勢と

生徒側における十二分な『定着』理解があったかどうかに

決定的な分岐点があったものと推察されるようです。

つまり、『基礎』学習領域は徹底して厳しく詰め込んだうえで

十二分に咀嚼し、その土台の上にある『応用』学習領域においては

多少の『ゆとり』の幅を持たせた創意工夫教育によって底上げ『定着』を

目指すという志向性が無理のない授業計画になりそうです。

あとは各生徒のその都度能力との相談で『家庭』学習(自学自習)で

補っていくほかありません。

但し、この自学自習習慣も幼少期から思春期前までには

おおよそ形成できていなくては厳しいとの指摘もされています。

言語理解の点においては、第4章<4  大脳半球と言語と可塑性―特異な例>における

小項目<十一歳では遅すぎる>(本書136~137頁)がその問題について触れられています。

何をもって『遅すぎる』とするかは各人各様の能力発達段階によって異なりますから、

いちがいに絶対にもう駄目かといえばそうは断定できないところですが、

人間は成長するにつれて変に『社会ずれ』していくことになりますから、

まだ瑞々しい感性と大胆かつ柔軟な失敗を通じて学ぶことが許される

『ゆとり』あるひと桁時代の『可塑性』を考慮した学習習慣づくりが

言語学習以外の領域においても適した時期だと著者は推察されているようです。

          「全体的言語」の誤用問題について

『「全体的言語」の目標は価値あるものであるが、同時にこの考え方には

内在的な危険性がある。多くの責任が教師の手にゆだねられており、彼らは

その仕事を正しく行うためにすすんで努力をするかもしれないが、

そうでない場合もある。重要な基礎的技能についての教師と生徒の苦手さは、

これに関連する事柄である。子どもたちの中には少なくともことばによる

反論の技能に関してもっと直接的に教えない限り、

うまく習得できない者たちがいる。子どもたちは最初は「視覚」によって

読むことを学ぶであろうが、長くて身近でない単語の正確な綴りや読み方は

苦手である。「失読症」のような遺伝的に読みや綴りに問題をもつ子どもたちに

とっては、綴りの規則を組織的に教えない指導は効果がない。

このため、「全体的言語」の潜在的な力と、音と綴りのパターンの組織的な

よい指導とを併用したアプローチを多くの専門家が勧めている。

聞く技能に全体的な弱さのある世代にとっては、この方法は疑いもなく

賢いやり方である。

たぶん「全体的言語」の、そして知識獲得の結果とともにその過程をも重視する

すべての教育の最大のポイントは、よく計画された体制の中で、大人たちが

子どもの基本的な学ぶ欲求を信頼できるかということにかかっている。

成長する脳を研究している神経解剖学者は、この点を支持する二つの事実を

明らかにしている。一つは、脳はその成長段階に適した学習の型を求める

基本的な本能をもっていることである。

第二は、積極的な好奇心と個人的な関わりが、思考装置の大きさや能力の

両方を増加させる触媒であることである。

他の動物が精神的な挑戦を追求しているのを見ているだけの動物は、

より小さい脳のままで終わるのである。』(本書304~305頁)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

⑨『第9章 新しい世代に考えることを教えるーヒューマン・コンピュータ・モデル』

※本章では現代の高度デジタル志向型情報化社会において

人間の知能開発においていかなる点に気をつけておくべきか(特にAI=人工知能や

ロボットの『完全デジタル電子脳』との相違点をふまえた強化学習法について)

デジタル教材活用による人間特有のアナログ脳活性化教育支援術などに焦点を据えた

論考が展開されていきます。

本章の主題は『考えること』についてであります。

(ちなみに、『話すこと』については主に第3章『書くこと』については

主に第4章において、『読むこと』については主に第6章が、

『聞くこと』については主に第8章が担当しておりますので、

本書要点整理のご参考までにここであらためてまとめておきますね。)

その分析考察をするにあたり知っておくべき予備知識として

脳の『コンピュータ・モデル』に関する解説も添えられています。

(<4   脳のコンピュータ・モデル>本書329~344頁

AIやロボットに搭載された『電子脳』と人間知能という『有機的生物脳』に

おける処理パターンの相違点を知ることがこの種の議論を理解するためには

まず第一関門になりますので、特に上記小論考内の<連続処理と並列処理>は

必読箇所となります。コンピュータのような二文節型処理では『矛盾するような判断を

下すと必ずシステム・エラーが起きてしまう』ので『矛盾が生じない』ような

完全形式論理学にのっとった一対一対応方式によるプログラム設計をしなくては

うまく作動してくれないということです。←連続的処理に秀でている。

それに対比して人間知性では『矛盾が生じてもとりあえずの回避策を考えて

臨機応変に対応したり、ひとまず判断留保しておくこともできる』といった

不連続分散型の同時並行処理に秀でているという特徴がまずは言えそうです。

そうしたそれぞれに特有な処理性質を知ったうえで、デジタル機器を補助教材として

人間知性を育成させる手段としていかに活用させていくことが可能かという

問題提示がこの小論考内でのもう1つのテーマとなっています。

主に言語学習の場面ではコンピュータの前者の性質から

より『正確・厳密』な文法形式に馴染む訓練などの効果が期待されています。)

本書は1990年代までの時点で開発されてきたコンピュータ技術と

その能力の限界に関する知見をふまえた論考という点で

2020年代現在までに進化してきた能力向上分までを加味させた

考察領域については弱点も含まれていることは否めません。

とはいえ、現在時点においてもAI=人工知能やロボットが保持する

『デジタル脳』には人間特有の感情や社会状況の変化に柔軟に

対応可能な『心』までは持ち合わせていないことには変わりありません。

この『デジタル脳』進化史とともに人間知能についても

これまでの間でいかに変容してきたのか、それに伴い、

学習環境や教育技能開発法も十二分に対応できなくなってきたことから

様々な教育指導現場での混乱や学習支障が生じてきた事例と

現時点での問題解決に向けられた課題提示については

すでに前章までの論考にて問題整理が終わりました。

そこで本章と次の最終章では現在の『デジタル脳』進化とともに

近未来の人間知能に与えるさらなる変容事態までを推測しながら、

人間の『心』についての考えや見方も旧来までのものとは

大幅に変えていかざるを得ないことが最後に論じられていきます。

結局のところ、人間にとっての『考えること』の大前提には

文脈に沿った『意味づけ』、すなわち、『つながり』を通じた

連想ゲームができるか否かによって状況変化に絶えず微調整処理ができる脳が

備わっていなくてはならないということです。

つまり、それはその場その時によって『臨機応変』に対処できる

有機的生体反応としての『アナログ』脳であることが重要点だということです。

ですから、『デジタル脳』の二分法型処理(○×型二者択一問題のようにとらえる)を

好むように執着するいわゆる『石頭(石部金吉のようなイメージ)』では

問題が生じてくるのです。

(ちなみに言わずもがなのことですが、ここでのイメージ喚起は

いわゆる『発達障害』問題を連想させる差別意識を助長させようとの

意図などまったくありません。

管理人の見解では常々語らせていただいてきましたように

障がい者か健常者かという評価判断における『区別』は

あくまでも当事者の対社会面における問題意識とその支援者による診断内容に

よって絶えず変化するものであり、すでに別の要約解説内でも提示いたしましたように

今日では『連続的(スペクトラム)』なものとして理解が進んできています。

ですから、障がい者か健常者かとの医学的診断上の『区分』を

社会的『選別/差別』の指標として悪用することなどあってはならぬことで、

『発達』障害研究から抽出されてきた知見はその『区分』にかかわらず

すべてのひとびとが幸せに生きていくためにどう役立たせていくかという

視点をもって共有活用がなされるよう願ってやみません。

ですから、今後の関連書評で『発達』問題をご紹介させていただく際においても

管理人としてはこうした問題意識のもとでみなさんと善用の道を求め、勧めてまいります。

ここでは、あくまでも『機械型デジタル脳』と『人間型アナログ脳』の対比をわかりやすく

連想していただくまでの類推=アナロジーとして語らせていただいたまでのこと、

どうかご理解いただきますよう心から願います。)

まとめますと、本章では『考えること』を主題に語られていくことになりますが、

人間のおよその能力発達が適切な方向で歩んでいくためには

感情(情動)抑制(=前頭葉などの機能発達問題でした。)や

『心』がうまく働く状態になっていることもきわめて重要な問題として

考えられてきたということです。

言い換えれば、『心が病んでいればまともに考えることなどできぬ。』

『健全な精神は健全な身体に宿る。』ということでもあります。

それでは、具体的に人間がよりよく『考えること』ができるようになるためには

いかなる教育指導法が望ましいのでしょうか?

本章での重要点を引用してまとめておきましょう。

『現在もっとも広く受け入れられている考え方は、問題解決における

持続性と柔軟性は教育の全体的目標に統合されるべきであり、

すべての科目においてその手本が示され、指導されるべきだというものである。』

(本書312頁)

現在のプログラミング教育に期待される役割、意義も

このような発想の延長上に位置付けられています。

その学習目的を達成させるにあたり、デジタル機器を活用した教育手法が

現在では過大に評価され、期待も寄せられているわけですが、

同時に考慮に入れておかなくてはならない問題に

教師の指導力量よりも社会全体が特に『考えること』を駆動させる最大の力である

アナログ型「批判的思考」が養成されることに対する拒絶反応を持つ文化も

根強くあるという点が教育指導上の限界面としてあることも示唆されています。

ですから、ただ教育カリキュラムをいじくりまわすだけでも、

技術革新だけに過度な期待感を寄せるだけでもかなわない

社会文化的観点からの教育上の壁問題をいかに突破していくかも

重要課題として残されていることも忘れてはならない論点なのです。

というわけで、

『生徒たちに精神的な自律性を教え、伝統的なやり方をひっくり返すという

アイディアには、多くの教育者が困惑している。真の批判的思考は、

運転教習所の訓練のように、単純にカリキュラムにつけ加えるだけでは

育てることはできないのである。』(本書313頁)

 

『「子どもたちにより多く考えさせるだけで、彼らの考える力が向上していると

思ってはいけない」とパーキンスは指摘している。解釈したり計画を立てたり、

あるいは経験を伝える言語的技能を生徒たちが使えることを可能にする

「メタ認知」モデルに、生徒たちは特に馴れておく必要がある。

この技能がよい「マインドウェア」(管理人注:『自分自身の思考パターンを組織化

したり再統合する能力』本書313~314頁のこと。)の基盤である。

ほかの指導的な教育者たちは、生徒たちが明日の世界で効果的に考えたり

推論する能力を養うために、より発展した見解を提示している。

グラント・ウィギンスは、「内容」に限定された目標に重点を置くことをやめ、

「知的な習慣」の立場から教育を考えることを始めなければならないという

考えに賛同している。ウィギンスは述べている。

「われわれは子どもたちに知的な方略を教えていません。子どもたちが方略を

すでに持っていると見なしています。しかし、もっとも優秀な学校の子どもたちで

さえ、それを持ってはいないのです」。』(本書314~315頁)

 

『二分が限界の心(管理人注:読書習慣を持たず、著者の主張内容や創作内容にまったく

興味関心が持てず、自ら意欲的にそれ以上読み進める『体力』がない状態のこと。←

この知的停滞状態を指して『二分が限界の心』と著者は象徴的に表現されています。)

をもつ子どもたちに方略的な思考を発達させるためには、アイデア同士の結びつきを

見出す助けが必要である。彼らの教育の過程では分散よりも統一性が強調される

べきである。それぞれの科目内だけでなく、科目間においてもそうである。

家庭では親たちはこれと同じ原則を守るべきである。』

<二分が限界の心のためのつながりと意味>(本書316頁)

※<二分が限界の心>については(本書第1章22~23頁)もご参照のこと。

 

さらに上記引用論考箇所内では、「知的な方略」のひとつとして

積極的な身体動作を活用させた知的作業を取り入れることも有効だと語ります。

いずれにしましても、

『大人たちにとっても、何か新しいことを学ぶ時にはそれ(管理人注:授業や学習内容)を

単に聞くだけよりも、やってみることの方が重要だということを、

教育者たちは忘れている。』(本書317頁)

そして、大人が子どもたちを指導する際の最大注意点としては、

『子どもたちそれぞれの特徴と学習到達度をしっかり見極めたうえでの

彼ら彼女ら自らの必要度に応じて最小限の介助にとどめるべき』だということ。

なぜならば、子どもたち自身の『自発的意欲姿勢』を引き出すためだからです。

この『自発的意欲姿勢』こそが知的な方略を自ら見出させ、

『自学自習習慣』を形づくっていく大切な教育土台となるからなのです。

その他の重要点は<メタ認知―自分自身の心を知る技術>(本書318~319頁)

簡潔に言えば、『自分はどこまでわかっていて、どこでつまずいて、どこからが

わからない状態になってしまっているのか』を問題全体の流れの中で

その要所を見極めて、自力で、時には介助を受けて、問題解決を図っていくことが

できる力ということになります。

創造性や想像力については、本章<2  創造性と想像力>(本書321~325頁)において

論じられており、その『源泉』でもあるひらめきの瞬間は

ただ単に怪しげな「右脳訓練」をすれば誘発されてくるというものでもないと

強調されています。

むしろ、常日頃からの探求心や知的好奇心、それに触発されての実験観察といった

検証姿勢の積み重ねと興味関心度に由来する諸現象への執着力などから

引き寄せられてくるある種のシンクロ体験であったりから生み出されるようです。

つまり、脳内では左半球と右半球が常に『潜在』意識下で

何らかの発酵現象が継起しており、何かを契機にあたかも突発的な感じで

『顕在化』してくる・・・、そんな感覚のような気がするのです。

『集中力+記憶力+連想力=発想力、ひらめき力』の源泉であるというような・・・。

この一連の流れを指して『創発力』などとも表現されることもあるようですね。

主にデジタル志向の『複雑系ネットワーク』を

アナログ思考の脳科学における『神経ネットワーク』の有機的結合体として

見立てて研究されている科学者の方には『創発性』という表現を好まれるようです。

ちなみに、この『複雑系』科学はデジタル型「無機」とアナログ型「有機」を

接合させる魅力的な科学研究分野ですのでご紹介しておきますね。

なお、自己宣伝になり恐縮ですが、

過去の書評記事でも好んで題材に取り上げさせて頂いた課題本も

充実しているかと自負しておりますので、

ご興味ご関心があるという読者様には当サイト右欄外にあります

検索ボックスに『複雑系』と入力されると何冊かヒットしてきますので

ご活用下さいませ。

ご意見・ご感想も随時受付中で大歓迎いたします。

社会常識上、公開するに問題なしと評価させていただける内容であれば

当方の判断にて『承認』させていただくことになりますので

あらかじめご了承下さいませ。

最後にプログラミング教育を進行するうえでご参考になる論点について

ご紹介しておきますね。

本章<4  脳のコンピュータ・モデル>の小見出し論点である

『機械に正確に話しかけることを学ぶ』(本書334~336頁)であります。

また、デジタル機器を活用してのレポート・論文作成技法に関する

ご参考には『筆記者としてのコンピュータ』と

『電子の発達心理学』(本書337~340頁)の各論考が解説してくれています。

本章における結論部『幼い子どもには、人工知能がよいか本物の知能がよいか』

(本書340~344頁)では、上記のどちらにも偏ることなくデジタル化社会に対応しつつ、

従来のアナログ能力開発も十二分にしておくに限るということが

最重要課題だというに尽きます。

特に、デジタル化社会志向に対するアナログ脳からの「批判的思考力」による

受発信情報の真偽を見抜き、見極める力が

より一段と重視されていくだろうことは間違いありません。

『多くのさまざまな学習の根底にある重要な基盤を脳に発達させるためには、

乳幼児期は大切な時間である。子ども用に売られている多くのタイプの

コンピュータ・プログラムが、特定の種類の学習を学齢時の脳に注入するのに

役立つとしても、就学前の子どもたちに対する有用性を支持する研究は

まだない。』(本書342頁)

『現代の子どもがもっとも必要としないことは、さらに多くの細かいことを、

それを定着させる基礎的な経験の枠組みなしに、学習することである。

簡単に情報に接することのできる明日の世界では、恐竜の名前と特徴を

記憶するような活動は、『創世記』を信じることと同じくらい時代錯誤になろう。

さらに、正しい質問を尋ねるために独自に推論を構築するよりも、むしろ、

正しい答を得ることに集中してきた子どもたち、あるいは、遊ぶ時間を余りに

多くコンピュータの時間に置き換えることによって、自分で始めた経験から

「大きな構図を描く」枠組みを発達させることに失敗した子どもたちは、

彼ら自身が絶滅する恐竜になってしまうかもしれない。』(本書344頁)

デジタル機器を活用した学習方法は現在でもオンラインゲームなどの

機械的処理操作『文化(時空間)』に馴染んだ人びとに対しては

ある側面では効果的なこともあるようです。

特にこれまでの『マーク方式(択一)型』試験においては。

私大受験生やあまり深く記述式での厳密な理解が問われない形式で

出題される傾向の多いある種の民間/国家試験受験生において

いわゆる難関校出身者ですら、真に深い理解をしたうえで解答されたものか

どうかも確かめようがなく、ゲーム感覚と同様の認識で関門を通過した人間も

多く見受けられたからです。

しかしながら、この種の試験形式になれたある種の要領のよさや器用さを

持ち合わせただけでは、入学後の授業内容の深い理解や学問的な討論対話、

さらに社会での『実践知(智)』が要求される修羅場では

まったく間に合わず、使い物になりません。

そこから脱落する者も多いように見受けられます。

いちど脱落してしまったとしても、そこから再復帰できる力があるかどうかも

幼少期からの学習訓練の仕方次第でありますので、

しっかりと身に着けておきたいものです。

但し言うまでもなく、『すべて』のゲーム愛好者に当てはまるわけではなく、

優れたイメージ操作・喚起能力や主にシミュレーションゲームで意識的な知的訓練も

ふまえた真の「遊び心」を鍛えようとの姿勢を持ったり、

青春期に並行してライトノベルや漫画であっても『活字』文化にも深くなじむ

経験を持ち合わせた者にとってはより高い学習効果が得られることもあるのです。

たとえゲームであってもどう取り組んできたか、

中途半端に終わらせずにどれほどやりこんだかも意外な力となりますので、

一概にその効用を否定することもできないからです。

管理人も思春期までに徹底してやりこむ時期を持つことが出来たからこそ、

ゲームに飽きてしまい、その後まったくする機会もなく、

人生の大切な貴重な時間を空費せずにほかの課題に振り向ける時間を

確保できています。

受験生で高い志がある方であれば、この思春期前後の

ゲームやテレビとの『適度な』付き合い方を学ぶことができるかどうかが

ひとつの人生の分岐点になるかもしれません。

決して完全に封印して禁欲生活を守れなどとまでは言いません。

誘惑に弱い管理人自身の体験談からも。

もちろん、受験直前期などの人生を賭けた『勝負時』には

完全封印すべき時期もありますが、その見極めもご自身でなさることが

厳しい人生の荒波に処していくうえでは大切な姿勢だということです。

『自己管理能力』の習慣づけ。

この能力を完全装備できるまでは他者の介助を受けることも

この時期を乗り切るひとつの方法ですが、

いずれは介助者なしでも厳しい社会を乗り切っていかざるを得ないことは

思春期を過ぎた高校生あたりにでもなれば

すでに覚悟を決めておかなくてはなりません。

ということで、著者も思春期前後の11歳頃までの習慣づけが大切だと

言及されているわけですね。

そうそう、これも本書で重要視されていたことのひとつでしたね。

それは現在のYouTube動画文化全盛の時代でも当てはまりましょう。

優れた教育系ユーチューバーさんや

高学歴芸人さん(ロザンさんなど)の動画などを拝見させていただくと、

どなたでもご理解いただけるように

『動画(視聴覚教材)』と『活字(文字式読解教材)』にはそれぞれ一長一短あり、

その長所を生かしながら、

最終的には自分自身の現状学力を厳しく認識管理できる知的条件を

備えたうえで各教材を使い分けできる選択判断力がなければ厳しいだろう・・・と

強調されているようです。

その意味で昔ながらの「読み書きソロバン(計算)」力をデジタル機器でもって

補強することが叶う場面もありますが、原則としてはアナログ教材を通じた

アナログ脳も増強鍛錬しておくことが欠かせないのです。

『デジタル機器が突如故障して使用不可になった時、

あなたご自身、生き残っていけますか?』ということも

社会では当然ながら頻出してくる機会もあるからです。

ナイーブなデジタル『超』人志向者はそのあたりが詰め切れていないようです。

このような過酷な試練にも十二分に耐えうるように

予行演習も兼ねたアナログ脳を鍛えておかなくてはならないのです。

そのあたりのデジタル教材を活用される際の限界点について

次の最終章でも論じられているところです。

(『第10章 拡大する心』<3  新しい知性とは何か>本書354~360頁)

ですから、真の意味での要領のよさだとか器用さという性格が

社会的に評価され、他者にも人間的に信頼されようと志向すれば、

確かな裏付け(説得力)ある『総合』学力を常時鍛え続けておくほかないでしょうと

いうことですね。

それこそが、具体的な広い視野拡張(現実=リアルなアナログ世界)と

抽象的な高度次元操作展開(非/超現実=バーチャルなデジタル世界)を

相互転換できる力が備わるという真の意味だと思われるのですね。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

⑩『第10章 拡大する心』

※最終章では前章までで分析考察してきた問題提起をふまえて

このような高度な技術革新を伴った『文明』増進の流れの中で

われわれ人類の『心』はいかに拡大発達を遂げていったのだろうかという点を

整理して、近未来社会における展望がなされます。

本章ではまず『心(認知機能)』の変容を進化論の上でいかに意味づけ、

脳機能発達の進化が世代間を通じた文化そのものへ与える影響について

進化論者のいくつかの見解紹介を通じて考えるヒントが示唆されます。

(<2  進化する脳>本書350~353頁)

ここではスティーブン・グールド氏とジェローム・ブルーナー氏の各見解が

提示されています。

ちなみに、グールド氏による著作書評の過去記事はこちらから

お読みいただけます。

各論者の細かい進化論に関する差異は本章だけの解説だけでは

全貌解読に難がありますが、

現在のところ、進化論や遺伝学の研究者界隈で推論されている点は

生物面から見た遺伝子の変化よりも

社会文化面かろ見た進化のあり様はいかに?といったところに

研究の比重が置かれるようになってきているようです。

つまり、遺伝子の『環境的』変化をどう見るか?という問題です。

ダーウィン氏独自の見立てでも、必ずしも生物的に『強い』者が

常に進化面で生き残るという見解が支持されたとは解釈されておらず、

少なくとも『環境への適応度数』との関係で

いかにあるのかという点にこそ本来の着眼点はあっただろうということです。

『環境への適応化の差異(ここでは自然界での強弱生物すみわけ問題も含む)と

適応化の速度』などが主な論点となっています。

また、グールド氏とブルーナー氏の議論を介して

『文化的な観点からの急激な進化と世代間(内)格差を通じた社会分断こそが

来るべき時代における深刻な懸念材料』であることも提起されています。

残された課題は『言語』的思考と『非言語』的思考の相互関連性についてと

デジタル脳とアナログ脳における相互転換力の可能性、

つまり、第5章でも論じられた『転移の問題』(本書156~158頁)にが

特に話題とされています。

それでは、本章の重要箇所を引用しておきましょう。

『コンピュータの時代は、伝統的に価値が高くより報われてきた能力よりも、

それとは異なったタイプの学習能力を育てて行くことだろう。

記憶や綴りや上手な手書き文字の技能はもう重要視されないように思われる。

これらの技能の基礎的な訓練は他のタイプの思考のための子どもの脳を

育てるから今後も重視されるべきだと考えている人がいる。

しかし、心理学者はこの種の知的訓練の般化についてはむしろ懐疑的である。

心理学者たちは、どのようなタイプの新しい技能も習得できるような

一般的な判断能力を学ぶほうが好ましいだろうと考えている。

それは、子どもたちが従事するであろうほとんどの職業は

まだできていないためである。

子どもたちは明らかに精神的な自己統制の習慣を教えられることが必要である。

しかし、誰もそうする最良の方法を確立していないのである。』(本書358頁)

『印刷のリテラシーと映像のリテラシーはお互いに補完しあえるし、

またそうすべきである。映像のイメージは新しい理解の様式にドアを開け、

印刷物は思慮深い分析に依然として必要なものである。

コンピュータの時代が新しい映像技術を要請し、しかも同時に分析的な正確さをも

強いる時、この議論はおそらくより大きな緊急性を持つことだろう。

視覚的推論と言語的推論の拮抗は、事実、情報化時代の持つパラドックスの

大きな課題である。子どもたちはその両者を必要とするのではなかろうか。』

(本書370~371頁)

『大人たちは、何世紀もの文化の進化をとおして洗練されてきた知的な訓練の

習慣や特殊な技能をすべての子どもに伝える責任がある。

古い時代に価値のあったことを教えないまま新しいことに取り組ませ、

未完成の精神をつくりあげることは愚かなことである。

賢明な社会は、若者たちを育てる計画をたてる時、自分自身の「進歩」に

対する盲信を抑える。

先行きのはっきりしないテクノロジーや生活様式の変化は生き生きとした

見方を生むかも知れないが、それらは若い可塑性のある脳の発達に

有害である場合もある。

大脳皮質は大量の善意の誤りにも耐えることのできるすばらしい緩衝装置を

備えている。

しかし、適切な身体的、知的、情緒的養育に欠ける子どもたちには、

推論能力の基本的な基盤がおびやかされる時期というものが存在する。

幼児童期、脳には従わざるをえない法則がある。

発達においては時期を逃すと取り返すことのできないものがある。

成長期の脳は、対人的な拒絶とともに社会的な拒絶に傷つきやすい。

養育の誤りや誤った集団指導の即自的な影響が、すでに身体的な危険に

さらされた脳に刻み込まれている。

テレビと大人のご都合主義の遺産が、すべての階層の子どもたちの学業や

その他の発達を阻害している。

彼らのニードは、われわれの未来に対するビジョンに重くのしかかっている。』

(本書371~372頁)

『人間の脳は知識を獲得する能力があるだけでなく、見識を備える能力も

持っている。見識とは会話、思考、創造性、感情移入、内省の基盤である。

これらの基本的能力に欠ける若者、あるいは学習したことをよく吟味できない

若者は、どの領域の人間の企ての推進者になるにも能力が貧弱なのである。』

(本書373頁)

それではこれにて書評要約部を閉幕いたしますが、

半年ぶりの更新!!となってしまい、この間もまた日々の生業仕事ほかで

多事多難な生活を営んできましたが、次回書評課題本としていかなる題材を

取り上げようかとも真剣に吟味して四苦八苦してもいたのでした。

そんな折にも友人が初めて公刊された新書本を題材に読書会を開いたり、

姪っ子たちの新規入学や進級と授業進行の模様などを想像したり、

コロナ禍で夢や志が絶たれようとしてきた多くの若者たちのことを案じているうちに

コロナ禍を契機に積極導入されるに至った『オンライン』教育学習の問題点や

一般社会人の『テレワーク』礼賛一色の施政方針やマスコミ報道などを

見聴きするにつれ、激しき怒りの情念が沸き立ち、

そうした情念をただ怒り猛るに任せるだけでは大人としても恥ずかしく

知恵が足りませんので、『見識』ある冷静さを取り戻す手法として

書評活動復帰第1弾に『デジタル教育の実際と課題』について

『書くこと』にいたしました。

やはり、じっくりと煮詰めていかなければ『書けない』知的作業は

著者も指摘されているように激しく生命燃焼を要するものですが、

『書くこと』で精神安定を図ることは古来より賢者が推奨されてきた

文化でもあったわけです。

管理人も今後ともこの『活字』を通じた『アナログ』文化のともしびを

絶やさずに次世代を担われる若者諸君に捧げてまいります。

比叡山延暦寺の根本中堂にある『不滅の法灯』のように

読者の皆さまとともに『一灯照隅 万燈照国』の道を歩んでまいりましょう。

最近の話題を見聴きしつつ、

今回の書評テーマとも絡む語り残したことどもにつきましては、

あらためてエッセーコーナーへと場面を転じさせていただくことにいたします。

『それでは、皆さましばし、おくつろぎ下さいませ。』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

・<訳者あとがき>

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『我、諸国民のために泣く』~自由と愛をはく奪せんと欲す超加速主義と新優生思想の狂気にあらがって~

さて、ここからはエッセーコーナーです。

硬軟織り交ぜた『講談/講釈』形式でいつものように気合を入れて

語り飛ばしていきますので、

どうかお気軽に(時に気鬱になるかもで、毎度申し訳なく存じます。)

できるだけごゆるりとお聴きいただければ幸いに存じます。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『時に令和3年の初夏のみぎり』

(講釈師役:管理人。以下、特別なゲストさんなしのセリフ箇所は同様。)

『世間は相変わらずコロナ禍で右往左往、東奔西走なんのその♬しておる

ご時世であります。』(ベンベン←講談/講釈師による張り扇を活かした効果音。

空耳アワーの時間でございます。ちなみに小学校の時にみんなで張り扇作って遊んだ

思い出があるなぁ。)

『そんなご時世、世間では相も変わらず疑心暗鬼にさせられたり、

怒り心頭に欲する話題でみなさん、お疲れでありましょう。』

『心頭滅却火もまた涼し!?』

『いやいや、毎日蒸し暑くてそんなはずないやろっ!!ってな感じでしょうか。』

『そんな時はみなさん、冷や水を浴びましょう。(助さん)』

『いや、ろくでもない噂話を垂れ流し庶民を惑わせる輩、

ご都合主義で政局ありきに行動し、そこからいろいろ賄賂もろてそうな輩に

冷や水浴びせてやりましょうか?(格さん)』

『おっと、くわばら(怖い)、くわばら(怖い)、でござんすよ。(助さん)』

『我々のような生活がかかっている者にはとてもとても。』

『それでは、そんなわれわれ庶民の声なき声を代弁して下さる

最強の御方に登場してもらいましょう。

この紋所が目に入らぬかぁっっっ!!(助さん、格さん)』

『いや、ご老公が登場される前にあなたたちが先にその決め台詞言ってどうするよ(笑)』

『それもそうだ(一同爆笑)』

『助さん、格さん、こらしめてやんなさい。(ご隠居様こと水戸光圀公。ご老公の登場。)』

・・・・・・・・・・・。

(時代劇では活劇になり、時に死傷者も出てきますが、

現在はあくまで言論でもって戦うことが許される太平楽?な世の中。

ですので、現代の『正義』と『誠』をもった種々の論客による

あくどい振る舞いに及ぶ悪徳権力者への説得劇があったとご想像下さいませ。)

『助さん、格さん、もういいでしょう。(ご隠居様)』

『ものども、この紋所が目に入らぬかぁ!!

この御方をどなたと心得おる。先の副将軍、水戸光圀公であらせられるぞぉ。

頭が高い。ひかえぇ、ひかえぇ、ひかえよろぉ~。

こんどは決まったな。(助さん、格さん)』

・・・・・・・・・・・。(内心では面従腹背の権力者群)

『その方たちはコロナ禍に乗じて、己の利欲に駆られて庶民生活の

現場感情を軽視した粗暴かつ粗悪な政策の押しつけばかり。

目に余るばかりなり。

よって、その方どもよ、改心せざる限り、追って厳しい処断(選挙!!)を

下されるであろうぞ。(ご老公様)』

・・・・・・・・・・・。(うっせい、うっせい、うっせいわ🎶 この爺)

『うん、今何か言ったかな。爺も近頃、耳は遠くなってきておるが、

不義不忠な輩の心の声は聞こえる地獄耳を持っておるは存じおらぬようだな。(ご老公様)』

『わしは寛大でありたく思うが、おぬしらの無茶振りがあまりにも目につくようなら、

烈公(子孫の水戸斉昭公のこと。)と地獄の閻魔大王、その眷属たちも

連れてきて、こんどこそ成敗するぞよ。政道に心して励め。

しからば、『徳』川の『徳』に免じて許してやろう。(ご老公様)』

・・・・・・・・・・・。(面倒くせぇ爺だなぁ。権力者群)

『その方らの改心ぶりは天からしかと見ておるぞよ。(ご老公様)』

『みなのもの、このように言い含めておいたゆえ、

爺だけに甘えることなく、

みなのものも今後とも不信の念あらば、

甘やかすことなく責任をもって政道を正して下されよ。よいな。(ご老公様)』

『御意。』(我ら一同平身低頭)

『こんばんは、徳川家康です。』(北大路欣也さん?)

『東照大権現様、あなた様の出番はもう終わりましたですよ。』(我ら一同)

『さようかい、ほな、みなのもの、ごきげんよう』(謎の人。家康様の幻覚?)・・・・と

雲の上へとご老公様ともども手を振って帰っていかれるのでした。

『講釈師、見てきたような嘘をつく。』

『このあたりで下手な芝居打つのやめておきまひょ。(冷や汗)』

『みなさま、下手な芝居講釈にお付き合いいただき誠にありがとうございます。』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

さてと、現実の世界へと戻りましょう。

『最近、わいも疲れすぎて空想話でも作って遊ばにゃならんくらい、

久しく続く週末ぼっち生活とこの蒸し暑さで頭がおかしゅうなってきているのかも・・・。』

『はよ、みなに普通に接触して遊び、リアルに語り合いたいもんだわね・・・。』

そんな感じでコロナ禍中に積りに積もったストレスを飼いならしております。

『創作話』のネタ作りはそんな時に良き気晴らしになるようです。

そこでこのたび初めて講釈モノ(戯曲モノ)に挑戦させていただきました。

『難しい話題をいかにわかりやすくお伝えすればよいか?』

日々、様々な試みを実験しながら走り続けております。

『伝え方』とは本当に難しいものだと実感させられる毎日です。

ところで、『なぜ今回、講釈モノに初挑戦させていただいたのか?』でありますが、

たまたま春先に今を時めく有名な某講談師様のお話しを聴かせていただき

安堵したひとときを過ごすことも叶いましたので、

下手な芝居話で恐縮でしたが、

『一席』打たせていただこうとの『いきさつ(経緯)』があったからなのです。

その優秀な講談師様こそ玉田玉秀斎様です。

地元大阪出身で若き日には司法浪人生活も送られるなど

異色のご経歴をお持ちの気鋭の若手講釈/講談師の御方であります。

『東に神田一家あれば、西には玉田一家もあり。』

今どきの若者のみなさんには堅苦しく、一見とっつきにくく感受されるだろう

『古典芸能』の世界ですが、こんな『伝え方』にも魅力が満載

見習っていただければ、授業や会社でのプレゼンテーションにも

何かとお役に立つだろうと

管理人もこれからの『講談/講釈ブーム』を仕掛けさせていただきました。

玉田玉秀斎さんは現在YouTube動画(『講談玉田家』)では

『高橋是清』の生涯物語などを通じて

我が国における世界(昭和)恐慌脱却への道について解説された

大変わかりやすく情熱が伝わってくる創作品もございましたので

みなさんにも講談/講釈の世界に興味関心をもっていただくきっかけづくりにと

ご紹介させていただきました。

音楽にも多大な興味関心をお持ちのようであり、

『ジャズ講談』などもされています。

玉田さんのお姿を拝見していると『伝統と革新の融合』を目指す

芸能という『語り芸』の奥深さに感銘しきりで

管理人も日々勉強させてもろてます。

『話芸(表現技法一般)とはほんに難しいものですねぇ。』

ちなみに、管理人は尺八奏者の三橋貴『風』さんも『推し』ております。

経済評論家のあの有名な貴『明』さんの方ではありませんよ、お間違いなく。

たぶん『和楽器バンド』さんなどをお好きな方なら親しんでいただけましょう。

最近の『古典』芸能の世界でも数多くの若手芸能者が活躍されており、

時代に合ったアレンジをよく研究され熱演されていますので、

『古典(伝統)』という言葉で敬遠して食わず嫌いになることなく

是非お試しあれであります。

そこここに魅力的な世界が広がっていますよってに。

さて、『伝統と革新の融合』の芸術と言えば

もうひとつ独特な世界観を有する存在を忘れてはなりません。

そうです、それが『へヴィメタル』という音楽ジャンルです。

世間では『キワモノ、ゲテモノ』扱いされて日陰者にされてしまっている

悲しい音楽芸術ですが、誤解も誤解。

『様式美』という名の『型』に乗せたメッセージ性と

これまたインパクト性ある『総合』芸術なんでありますよ。

『魅(観)せ方』と優れた『物語性/思想性(メッセージ性)』があると

観客側に感受させられるかどうかが、

ここでも末永く残る名作として愛されるかどうかの分かれ目であります。

『演』奏という表現があるように、ただ単に『音』を聴かせて、

『技法』を誇示するという音楽家だけでは

観客の『魂』をふるわすことは叶いません。

『音』を奏でるとともに『演じる』のがむしろ重視されるのです。

ここがまさにプロとアマの決定的な分岐点かと。

管理人も大手商業資本がバックに付いたメジャー市場だけではなく、

自らの感性に合った『知られざる』良き音楽家を『発見』すべく

インディーズレーベル(独立系)市場に属するアーティスト様やバンド様を

応援させていただいておりますが、

こちらの世界でもプロとアマの意識の差がはっきりと出る

真に厳しい世界なんであります。

『メジャーが富士山だとすれば、インディーズは青木ヶ原の樹海?』

文字どおりの死屍累々の厳しい世界だからこそ、

『本気度』が違います。

『青木ヶ原の樹海』。

つまり、『裾野』が広いからこそより激しい競争原理も働き、

良きアーティスト様やバンド様に出逢えることもあるわけですね。

そこに魅力があるからこそ、

場末のライブハウス通いもやめられないわけです。

今はコロナ禍のため、直接的な現地『通い』は多少控えざるを得ませんが、

各ライブハウス様も生き残りをかけてオンライン『配信』事業も

されていますので、なにとぞ応援のほどよろしくお願いいたします。

また、あまりインディーズ系アーティスト様やバンド様のことを知ることなくても

今はYouTube動画やツイキャス配信動画などの様々な媒体形式を通じて

知る機会も増えていますので、興味関心をもって『ご縁』を得る機会がありましたらば、

是非これらの方々もご支援、応援していただければ幸いに存じます。

『音楽だけでなく、芸術/芸能文化の灯を絶やさないためにも・・・・』

未来を切り開く若手活動家のみなさんを

是が非でもみなの力で『買い』支えていこうではありませんか?

『買い』と表現すれば語弊があるようですが、

彼ら彼女らも一般のわれわれ同様に生身の人間。

まずは生活していくために食べていかなければなりません。

だから、『きれいごと』だけでは文化発展も継承も難しいのです。

国家からの補助給付金も大切な『おひねり』ですが、

民間社会からの寄付や積極投資もなければ、より良き作品も

世の中に出てこないのです。

『社会主義』芸術など歴史的にも惨憺たるあり様であったことは

みなさんもご承知でしょう。

先ほども芸術作品にも『思想性』や『メッセージ性』が欠かせないと

語りましたが、あまりにも偏向した特定イデオロギーを象徴させたものであれば

そうした思想の『信奉者』ではない限り白けるばかりであります。

ましてや『国家』そのもの、自らが反対する『政府』から

補助金(公金)だけはちゃっかりとせしめるという魂胆では

一般市民も支持するわけがありません。

ただそうした『印象論』はあくまでも一般的感想であって

そのような『きわどさ』を持つ作品であっても発表する機会まで

『はく奪』してよいか否かはまた別次元にある問題であります。

表現発表の『場』を公私ともに規制せざるを得ない場面に遭遇してしまったにせよ、

その規制が将来的にどのような事態をもたらすことになるかどうかについては

ご想像いただきたいのです。

前回書評記事末尾の<参考図書>欄でもご紹介した

『ニーメラーの警句』についてもここであらためて知っていただきたいのです。

最近は表現の『不自由』をテーマにした作品展示が話題をさらったところですが、

問題提起は良いのですが、どこかに『甘え』が潜んでいなかったかが

最大問題点だったのです。

この表現の『場』を巡る経済的支援という観点からの問題に対し、

政治的見解や論評の発表の『場』をいかに確保すべきか、

そして一般公開するにあたっての注意点などに関する私見については

もう少しあとで語りなおさせていただきますね。

このように管理人もいわゆる『アングラ(政治的)』舞台劇などの効用までは

必ずしも否定する者ではありませんが、

一般のインディーズ市場で文字どおりの血みどろの苦闘を続けている方々にすれば

『おまえら、おかしいわい!!』となるのがまっとうな世間感覚というものでしょう。

みなさんにも昨今世間を賑わせてきたこの問題を通じて、

もういちど『芸術』の『定義』についても

きちんと考え直していただく機会になるだろう『良問』だと感受いたしましたので、

あえて取り上げさせていただきました。

このように芸術『創作』の世界とは

かくも厳しい世界なんでありますよということをどうかご自覚願いたいのです。

さてさて、いかなる芸術作品でもそこから何か触発されて

普段まったく考えてもみなかったことや身体感覚を呼び覚まし、

『魂』を揺さぶるものでなければすぐに忘れ去られていくのも

この世界の厳しい現実。

良き作品に巡り合えれば、あなた様の世界観も揺さぶられ、

『あなた様の知らない世界』に招待されていきます。

今回はそんな感覚にさせてくれる名曲を語りの『入口』として進めてまいります。

タイトルにも掲げました『我、諸国民(民衆)のために泣く(き叫ぶ)』。

お察しのよいメタラーな読者様ならご存じのように

マイケル・シェンカー・グループによる名曲『Cry for the nations』です。

『the nations』をどう訳すかは諸説ありましょうが、

『国家(祖国)』でも『国民』とでも訳するのは文脈からしっくりこず、

やはり『民衆一般』でしょうか?

でも、『people』ではないのですよね。

だから、どこかの『世界(心の中の心象風景)』で葛藤する模様を

あえて王族(光)と愚者(影)の闘争(バトル)と象徴的にたとえて

その修羅場の世界のことを『国家』ととらえて訳すべきか、

またはその『国家』に所属する住人としての『国民(民衆)』ととらえて

訳すべきかは迷ってしまいそうですね。

いずれにしましても、いわゆる政治的ニュアンスを伴った

政治的意識を持たせた『国家』だという感じではないことだけは確かでしょう。

このように歌詞を翻訳することも『想像力』と『思考力』を鍛えさせてくれます。

管理人などは高校時代、英語が得意で、心のゆとりもあったので

正規の『受験』英語とは別に英字新聞(と言っても日本の某新聞社が編集されたものですが。)や

雑誌、ペーパーバックなども図書館で借りて読んだり、

映画のシナリオ邦訳本(当時は戸田奈津子さんの全盛期だったですね。)や

洋楽の訳詞カードと照らし合わせながら、自身の訳とのあいだの微妙なニュアンスの

違いなどを肌で感じ取るような学習方法を採っていたのでした。

こんな時によく認識させられたのが『受験』英語(入試問題)の『和訳』では

アマチュア的な訳し方でもおおよその大意さえつかめておれば(もちろん、

問題の趣旨やレベルによってより精確な訳も要求されますが。)、

まだ何とかなるのに対して、社会の第一線で翻訳家や通訳として活躍されている

プロの方は『やはり違うよねぇ。』としきりに感心させられたことです。

一般教養としての『受験』科目と専門としての『実技』科目として学んでいくべき

英語では学び方にもその取り組む姿勢にも断然な違いがあるということですね。

ちなみに、管理人の母校(高校)では当時のバンドブームの中では

下火にあったジャパニーズメタル(俗称:ジャパメタ)や洋楽メタルを好む同級生も

多くいて、軽音楽部や課外でバンド活動されていた友人たちは

英語には特に力を入れて取り組んでいたようです。

近隣の某高校からは『ジャパメタ』黎明期から世界レベルにまで引き上げていった

猛者まで輩出されていますので、

大阪上町の『下町文教高級(これぞまさしく『ハイハイタウン』)』文化には

たくましいものがあります。

やはり『風土』というものが『人間』を形づくっていくものですので、

どこもかしこも『金太郎飴』な画一的街づくり(『都市計画』)を

立ててはいけないということですね。

このように『受験』英語を『実用』英語に転用させていく力があれば、

その後の人生でミュージシャン(『芸能界』は誠に厳しい世界ですからね。)になる

『夢破れたり』といえどもほかの世界でも生き抜いていける効用も得られるのですね。

母校の先輩にも某有名バンドのギタリスト兼リーダーをされていた金髪の方(笑)をはじめ、

松竹芸能や落語家、それに今話題の高卒弁護士ユーチューバーの方まで出てきております。

『受験』エリートでただ『高学歴』だけでは今も昔も何の役にも立ちません。

むしろ、偉すぎてしまうと『思い込み(自己確証バイアスの罠)』にはまり込み、

自己が教育学習によって刷り込まれてきた『世界観』から容易に抜け出すこともできなくなり、

己の『面子(めんつ)』だけにこだわる狭量な人間に出来上がってしまうのです。

こうなれば、社会的立場が高くなればなるほど、

ますます潔く負けを認めて『撤退/転進(身)』することも叶わなくなってしまうのです。

誠に哀れな末路をたどり、『晩節』すら汚してしまうのです。

俗にいう『(ある)偏差値秀才(『すべて』ではありません。)』が

組織のトップに立ち、社会的指導者になり、同じような集団で

『認識』共同体が堅固に構築されていけば、有機的な社会と庶民生活は

破壊されていくのです。

これこそが『ほんまもんの学歴(ブランド志向)バカ』であります。

だからこその勉強の『方法論』と『姿勢(取り組み方)』、

『何のために人間は学ぶのか?』を真剣に青春期に考え抜き、

『習慣化』していく耐寒(体感)訓練を十二分にしておかなくてはならないのです。

単なる『偏差値秀才』は『ロボット(AI)』にすら劣ることでしょうから・・・。

そのあたりはあらためてのちに語りましょう。

閑話休題。

話題は『へヴィメタル』な世界でしたね。

そう、そのような知的体験をさせてくれる『良問』素材を時に提供してくれるのも

『へヴィメタル』な世界の魅力であるのですね。

さて、マイケル・シェンカーと言えば、インペリテリにも一時参与されたことのある

グラハム・ボネット氏

彼の『声』もたまらなく魅了させるものがあります。

インペリテリも社会派。

ただ『速弾き』のギタリストを擁するバンドではないのです。

コンピューター2000年問題を題材にした『ターン・オブ・ザ・センチュリー』

西暦2023年頃(まもなくだ!!)の荒廃した地球とテクノロジー問題を扱った

『ウェイステッド・アース』など哲学的楽曲が数多く提供されていて

われわれに考えさせてくれる『時間』を与えて下さるのです。

『ありがとうよ、インペリテリさんよ。』

そして、今若手女性メタルバンドとしてひそかに注目されている

マイケル・シェンカーやインペリテリをはじめとした

メタル入門者にとっても外せない名曲の数々を

カバーされてきた『よしださくら』さんたちが率いる

『HAGANE』さんというバンドも管理人の『推し』でもあります。

カバー曲の演奏模様はYouTube動画でご覧になれます。

いずれにしましても、ご紹介させていただきました

このバンド様だけを贔屓しているわけではなく、

これからの文化を支えていかれる若手後進芸能活動者の『道』を

決して閉ざしてはならないということです。

『若き勇者に乾杯を』

そう、今回はこの『泣き』のギターを作業用BGMに流しながら

語らせていただいております。

音楽には文章創作への効果があるといいます。

次々と話題のネタが『ひらめいて』きます。

『音楽(階)と数』の世界などほかにも

音楽(芸術)にまつわる面白いテーマがありますが、

またいずれの機会にか語らせていただくことにいたしましょう。

それでは、芸能話はここまでとさせていただきましょう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ここからは、①書評要約記事内で予告させていただいた重要論点と

②この長引くコロナ禍の中で日々感受させられてきた若干の雑感を語って

本記事を閉幕させていただくことにいたします。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『さてはて、みなさん』

『最終章』に向かってともに駆け抜けてまいりましょう。

すでにエッセー記事も長くなってきていますので、

語り残しておいたことどもは

追って次回以後の書評記事へと引き回していただくことといたしまして、

語り進めていきましょう。

論点①につきましては『アフターコロナとグローバリズムのダブルパンチで

我が「日本丸」はどこへ漂流、漂着していくことになるのでしょうか?』

バイリンガル言語教育の問題点を通じての問題提起は

すでに先に詳細にしておきましたので先に進みましょう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

論点②での雑感として、最後に今の日本国内に『閉塞感』をもたらせている(きた)

『空気』について昨日の『朝まで生テレビ』を視聴して感受させられた

ことどもについて触れておくことにしますね。

最初に前回も触れさせていただきましたが、

『最近の若者が(に限って)決して「内向き」志向(思考)になっているわけではない!!』ことに

ついてです。

昨日の諸先輩方のご意見をお聴きしていて、

やはりこの点をこそ、より強く実感させられることになったからです。

番組内でご発言されていた個々の論客に関する論評はここではいたしません。

その点は読者様方をはじめとする世のほかの論客が

的確に批評して下さることでしょうから。

なお、何度も強調して繰り返しますが『批(論)評』と

単なる悪意ある批判である『誹謗中傷』とは明確に違いますから

みなさんも世の方々のコメントを評価判断される際の基準点として

ご判断下さいませ。

実は管理人、昨日の『朝まで生テレビ』

実に学生時代から数えて20数年ぶりのことになります。

結論を述べておきましょう。

あの番組内の司会者の方には相変わらずに過度の期待感は持たない方が

よさそうだとだけ『ぬか喜び』しかねない心境にある方々には

ご忠言申し上げておきましょう。

管理人も日ごろ敬愛感をもって支持させていただいている

かの司会者との対談者の方も論客として出演されていましたが、

ご自身がかの司会者から『けん制されかかっていた』ような場面も

感受してしまったことから、

ここでの大きな争点は

『世代間での経済格差に関する多大な認識差と油断』だと

特に感受されたのですね。

おそらくあの番組をご視聴されていた若者世代の方なら

そう強く感受させられたものだと推察いたします。

番組内でも50歳代半ばをひとつの分岐点に世代意識の差を

はっきりと見せつけられたように感じられたことでしょう。

それといわゆる『識者』と言っても

われわれのような末端の庶民生活に近い現場体感と

政財官と大手マスメディアの『鳥の目(卓上)』感覚とでは

制度を巡ってもイメージ感覚にあまりにも大きな隔たりがあるようですね。

昨日の論客では現場感覚により近い『NPOキッズドア』理事長であられる

渡辺由美子さんと『日本飲食未来の会』代表兼『HAL YAMASHITA』オーナーシェフで

あられる山下春幸さんに管理人は『軍配』を上げておきます。

法律実務体験者でも皮膚感覚で容易にわかるように

いわゆる申請主義の『壁』は思った以上にハードルが高すぎるのです。

番組内でも給付金の出し方を巡るたとえ表現として

『プッシュ』型と『プル』型の違いについて語られていましたが、

われわれ下々の方からお上に申請してから

お金を『もらう(引き出す)』というのが『プル』型で

時間がかかり、しかも手続き自体が煩雑なのです。

もちろん、申請主義にも不正受給防止という大義名分があり、

長所もあるのですが、

今は国民『全員』が多かれ少なかれ『同時』損失を被っている

『有事』なわけですから、平時のように慎重な『選別排除』をしている

暇などないのです。

もっとも、平時でも『選別排除』型システムが常に良いか否かの

議論はありますが、ここでは紙幅の都合上これ以上は語りません。

一方で、『プッシュ』型では

先だっての特別定額給付金のことがイメージされていたように

『何はともあれ政府から国民に一律平等に給付(お金を「押し出す」と

いうイメージ)』するという即時迅速性の長所があるわけですね。

まぁ、『厳密』に言えばあの特別定額給付金ですら

こちらからの『申請』により、『漏れ』もあったでしょうから

純粋な『プッシュ』型ではないわけですが、

何はともあれ一度はこの体験を共有したのでした。

とはいえ、マイナンバー制度を通じた庶民口座との『紐づけ』に

まだ国民側に抵抗感が残る以上は完全『プッシュ』型までの

道のりは遠いことでしょう。

『能力に応じて働き、必要に応じて受け取る』可能性があるといえば

かの『共産主義』思想を連想させて何かと『波紋』を広げる

世界観となってしまうようですが、

この世界観もその制度設計の仕方や『国家(政府)』をいかに見立てていくか、

それへの信頼度数と『民衆』参与の余地がどれほど残されたものに

するかで大いにイメージも支持『率』も変わってくることが予想されるのです。

前回書評テーマとも重なりますが、

狭義の『右か左か』の世界観だけで問題をとらえていれば

永遠に生活困窮問題も暴力誘発原因の『源泉』もふさぎとめることには

ならないということを強調提起しておきたかったのです。

個々の価値観の相違はそりゃ当然にありましょうし、

否定する必要もありません。

あくまでも管理人が提起したかった意図は

社会『全体』にとってその個別の差異だけに狭くとらわれていれば

『みなさん、さてどうなりますでしょうか?』ということだったのです。

『万人の万人に対する闘争(自然!?状態。単なる野蛮化ではないのか!!)』

(ホッブス)という名言もありますが、

これが彼の『理想』として言わんとした骨子ではなかったのです。

この野蛮な自然状態から抜け出して

ひとまずみなの『合意』を経たうえで

相互安全保障を図るために『政府(権力)』が

逆説的かつ必然的に要請されるだろう・・・という点にこそ

彼の着眼点があったからです。

とはいえ、この『合意』自体がそもそもの『仮説命題(擬制、フィクション)』で

あることもまた確か。

さらにこれら民衆の『政府』への過剰欲求こそが

『権力(政府暴力)』を肥大化させてもいくのでした。

こうして現れ出てきた『凶暴国家』現象こそが

かの有名な神話上の怪物『レ(リ)ヴァイアサン』だったというのです。

これまたインペリテリの楽曲にもなっておりますが・・・・。

それはともかく最重要点は『民主制』国家においての

力の源泉は暗黙の了解事項(つまり、『合意』擬制)を伴った

『共同統治』体制にこそあるということでした。

だからこそ、肥大化志向で国民を抑圧するも

極小化志向でそれを回避していくも

それぞれ我々ひとりびとり次第の姿勢にかかっているということですね。

『国家理性』の問題は我らが個々の『心』による意思にもかかっているのです。

そしてさらに重要な着眼点は肥大化(『大きな』政府志向)も

極小化(『小さな』政府志向)もいずれも

現実世界では極限イメージであって、

真実態様はこの中間域のどこかに設定されているということです。

その『位置』は時代環境によって多少異なるとしか申し上げることができないのです。

この『極端化』を回避させる唯一の道こそ価値観の多様性を許容することなのです。

その対立が『分断』にまで発展していかない段階にとどまるのであれば

『権力配分』を巡る綱引き合戦効果によって

『しかるべきところに落ち着くだろう・・・』という次第です。

ですから、究極的には相互信頼感の醸成をもってしか

『国家(国民)』統合の視点は開けないということに尽きてくるわけですね。

さて、ここで先に予告しておきました表現の『不自由』展を巡っての

もうひとつの重要論点について語っておきましょう。

結論として管理人の私見では、

表現の『自由』も『不自由』もその時代思潮によって

変化していくわけですから、『異論』と『反論』を

弁明させる機会およびその機会を通じて一般公衆が見聞きして

どう判断評価するかの機会までははく奪してはならないということです。

管理人はもとより、すでに本文内や既出記事内で語ってきましたように

かの展示内容物品じたいにはあまり良き印象評価を抱いていません

(観覧者や批評者の独自印象がたとえ嫌悪感を催すものだったとしても

ある『傾向(政治思想/志向性の強い)』性をもった作品展示を通じた

表現発表の『機会』までを封殺してしまうこととはまったく次元が異なる問題。

ここでも『私権は公共の福祉に反しない限り最大限保障される』

<日本国憲法第11~13条・第19条・21条>という問題が前面に出てきます。)が、

大阪でも開催される予定だったそうで

いちど視察検証させていただける貴重な機会だと感じていただけに

会場施設側からの『使用許可取消』に至ってしまったことは誠に残念なことでした。

過去の有名判例である『泉佐野市民会館事件』が示した判断基準もありますから、

やむを得ない側面もありますが、開催予定日数も短く、さらに弁護士も常駐させるなど

万全態勢で臨むとの姿勢も新聞報道で確認していただけに

管理人自身もその模様をみなさまへお知らせ(独自偏見も混入してしまいますから

完全な公平性までは保ちえませんが、できるだけ客観的評価論評になるよう

努力)してみたかっただけに、『う~ん』となったのでした。

その意味でやはり一抹の残念な想いにもとらわれたのでした。

『コロナ禍とも重なるだけに何もこの時期に開催せずとも・・・』との

想いはおそらく世間一般の方も同様でしょうし、

その想いを共有いたしますが、

人々から『考えて責任をもって行動する』機会までははく奪してはならないように

感受するのですね。

そのように人々に考えさせず、『大きな声』という力を持った勢力だけに

言論時空間が抑圧されていけばいかなる事態に遭遇させられるか?

そこまで『アフターコロナ』の時代状況をご想像いただきたいのです。

そして、今週はもうひとつ我が国の今後の進路にとって厳しい状況になるかもしれない

『試金石』がいち民間企業の株主総会『騒動』で起こったようです。

東芝問題です。

その『真相』に関しては管理人も全貌が把握できていませんので

現時点で軽々しく批評評価はできませんが、

新旧経営陣側と株主側、さらには各株主相互間でも見解の相違がある、

そして昨年の総会では経済産業省も関与するという『国策』上の

株主対策までせざるを得ないという政治的状況もあったといいます。

そうです。半導体事業や原発・国防産業といった経済安全保障といった

厳しい問題も絡んでいたからです。

東芝の経営陣側にも経産省キャリアの不正受給問題も絡む中で

その『スキ』をモノ言う株主に突かれたようです。

経営者側や国側にももちろん問題はあったわけですが、

この『モノ言う株主』の主張がいかに一見正しそうに感受されても

その真の狙いはいずこにあったのか?

この問題こそマスコミには丁寧に調査のうえ真相解明していただきたいのです。

管理人の印象では現時点での報道姿勢が

「モノ言う株主」側の主張に一方的に偏っているように感受されたからです。

いち民間企業の些細な問題としてこの重要問題をとらえてはならないのです。

法律上の適正手続きの問題もただミクロ的に粛々と推し進め、

合法的に処理すれば済むという次元の問題ではもはやなくなってきているようです。

マクロ的な政治介入もいち民間企業であれ、

国家、国民生活の存続にも関わってくる高度案件であれば、

何らかのもういち段階上の法的処理方法の『知恵』も編み出さなくてはならないでしょう。

『会社法と憲法とどちらが上位規範にあるか?』も含めて厳正審査をするとともに

不祥事に関しては別途今後とも『スキ』を突かれないためにも

また一般株主や国民の賛同も得られるよう

しかるべき『信賞必罰』も要請されることは論を待ちません。

いずれにせよ、東芝さんの『内輪』の論理が優先されたものとしてだけ

偏った『評価』報道をされることなく、外部株主の真の論理についてまで

深く鋭く『追撃』調査して後顧の憂いがないように

マスコミの皆さんには願いたいものです。

管理人は今はやりの安直かつ愚劣きわまりない資本主義の『終焉論(限界論には

是々非々で賛同する場面もありますが)』には与する立場でありません。

ですが、時代はもはや『純粋』民間資本だけで国民生活を安楽ならしめ、

やり過ごしていける楽天な状況ではないことだけは確かであります。

前々からも提起させていただいてきましたように

これからは全世界的な『半官半民』資本企業連合体の時代へと

『進化』していくことでしょう。

その際には社会主義的組織の腐敗化現象と健全な資本主義体制の擁護のためにも

『独占/寡占化』現象を食い止める『両刀戦略』を組み立てていかなければなりません。

ここに最大の焦点を当てた緊急対策こそが

やがてはアフターコロナを迎える国民生活/生命保全のための

唯一の道となりましょう。

その機会を失していけば、最悪、我が国の資源調達の道も閉ざされていき

戦争になるか、戦争回避できたとしてもいずこかの完全従属国か

奴隷状態のどん底へと突き落とすことになりかねません。

要路者の方々にはなにとぞ『善処』してくださいますよう

伏してお願い申し上げます。

管理人からの『令和の建白案』を提出しておきます。

昨日の『朝まで生テレビ』の司会者がいうように

『ビッグパンデミックを千載一遇の好機とみなして抜本的に構造改革を

図らなくちゃならない(大意)』とは言及されていたものの

『いったい何を!?』という点で、はたと椅子から転げ落ちてしまったのです。

『諸外国に比較すれば日本はまだ相対的にマシ(豊か)じゃないか・・・』とね。

いやいや、現時点における短期で見るとそうも評価できる余地がまだ残されているのかも

しれないが、中長期的(つまり、読者の若い後進者世代の方々にとって!!)には

早急に手を打っておかなくては『清水の舞台』から飛び降りる始末に

なるとも限らないのです。

それを『取り越し苦労』のような甘くて軽い感覚で言及されてはねぇ・・・。

といったところが若者世代には恐怖に感じるのですよ。

そのあたりの『心理』が今後の社会に及ぼす影響力について

ご想像が足りなさそうな点に唖然とさせられたのですね。

『断末魔にあえぐ我が祖国を我らが手で介錯しようではござらぬか』

(往年の年末時代劇『白虎隊』の中のセリフみたいですが・・・。)では困るのです。

過去の歴史的失敗から何も学ぼうとされない

その姿勢が今の『高学歴○○』の成れの果ての姿でござるよ・・・と

草葉の陰のるろうに剣心殿も泣いてござるよ・・・といったところでしょう。

いやはや・・・。

もはや社会的に影響力、知名度があるというその一点だけで

戦後を駆け抜けてきた世代を手放しで礼賛し、信頼し切ってはならないようです。

時局はここまで悪化、劣化してきているのですから・・・。

『本当に未来の若者後進者のみなさんを救い出さなくてはなりません。』

そのためにこそ、われわれ心あるロスジェネ有志は

太平楽を決め込む世代との決着において『盾』ともなりましょう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

幕末の志士に多大な影響力を与えたという

水戸烈公も愛された藤田東湖先生の『回転史詩』

(『公益社団法人 関西吟詩文化協会』様のホームページご参照のこと。)や

『七生報国 尽忠報国』精神を管理人も共有しながら

ご先祖様に恥をかかせぬよう力の限りを尽くし、

後進世代を何としてでも守り抜く所存。

そのためにも『直情径行』に走ることなく

あくまでも『ペンは剣よりも強し』を信じて

より『技法』を磨き上げていくべく精進していきます。

そのためにも価値観の『左右』を問わずに国民的対話を通じて

みなさんとともに『作戦』を練っていかなくてはなりませんね。

みなさんも良き知恵、知見をお貸しくだされば幸いに存じます。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

それでは、今回は『これにて一件落着』とさせていただくことにいたします。

語り残した問題としてタイトルにも掲げた『超加速主義』と『新優生思想』に

関するテーマ批評につきましては、次回の書評課題本と

それとは異なる課題本ですが、来月末頃には

友人知人らとの読書会討論を経たあと考えていくことにいたしましょうね。

それでは、みなさん、『コロナ禍』と『同調圧力』と『蒸し暑さ』で

干からびていきませんように十二分な水分と心への栄養補給をお願いして

本稿を閉じさせていただきます。

みなさん、いつも最後までお読みいただきありがとうございます。

そしてご意見や続ける『活力』を与えて下さっている

読者のみなさんにはほんに心から篤く御礼申し上げます。

合言葉は『Cry for the nations』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

<参考図書やご推薦図書など>

①『民衆暴動-一揆・暴動・虐殺の日本近代―』

(藤野裕子著、中公新書、2020年)

②『News  Diet-情報があふれる世界でよりよく生きる方法-』

(ロルフ・ドベリ著、安原実津訳、サンマーク出版、2021年)

③『榎本武揚から世界史が見える』

(臼井隆一郎著、PHP新書、2005年)

④『1970年代のプログレ―5大バンドの素晴らしき世界-』

(馬庭教二著、ワニブックスPLUS新書、2021年2版)

⑤『雑誌  表現者クライテリオン2021年7月号』

※ 『特集Ⅰ 孫子(まごこ)のための「財政論」』

『特集Ⅱ コロナがもたらす教育破壊』となっております。

そのほかにも養老(孟司)節がさく裂。

語り合える『左右』言論人の討論対話が読めるのも

もはやこの手の雑誌のみかもしれません。

お堅い『学術系』と柔らかい『輿論喚起系』の

ミクスチャー・『ROCK』テイストが良い味に出ております。

こちらも乞うご期待下さいませ。

⑥『月刊大和路 ならら―奈良の魅力を探る― 2021年7月号』

※今月号の特集は『川路聖謨&渋沢栄一』

渋沢さんは関西経済にも多大な寄与をされています。

京阪電鉄とも関係があるそうな・・・。

『大阪』発展も五代友厚(才助)さんだけじゃないんですよ。

ディーン・フジオカさん、男も惚れる『ええ漢(おとこ)』ですなぁ。

⑦『スマホ脳』

(アンデシュ・ハンセン著、久山葉子訳、新潮新書、2020年4刷)

⑧『資本主義から脱却せよ―貨幣を人びとの手に取り戻す―』

(松尾匡×井上智洋×高橋真矢共著、光文社新書、2021初版1刷)

※本書が本文内でもご紹介させていただいた友人知人による共著です。

いわゆる『対談』形式ではなく、

各章の各論考はそれぞれが三者三様のお立場にて語られた

友人も『謝辞』で言及されているように

『不思議な熱を放っている』世にも珍しき本であるようです。

また本書タイトルは誤解を招きやすく、表紙だけから即断すると

勘違いしてしまいそうだといいます。

ただし、初デビューを飾られた友人以外の

お二方は著名な経済学者でもあり、

井上智洋先生は『近代(主流/異端/中道派?)』経済学の視点で、

松尾匡先生は『マルクス+ケインズ派生型のポストケインジアン系?』経済学といった

独自色も踏まえた大変ユニークな方々であります。

読者様にとっては専門分野に精通しておらず、

お二方の既刊本を読まれたことのない方にとっては多少わかりにくい

箇所もあるかと存じます。

すでにお馴染みの方であれば、既刊本のダイジェスト版復習にもなりましょうし、

松尾匡先生による第十章は特に貴重な哲学的エッセー論考となっています。

この『不思議な本』をお読みいただければ、

三者三様の世代間認識の違いなどもうかがい知れて面白いでしょう。

三者三様に本書を通じて提起された問題は

現在社会の主流的見解とは相違する点が多々ありますが、

各々方の主張そのものに賛同するか否かは

ひとまず読者様各自の評価にお任せするにせよ、

このコロナ禍を契機にさらに現代(資本主義)経済と

それを大前提として成立してきた諸々の社会常識への違和感が

湧き出てくる根本理由を考える機会にはなりましょう。

特に友人の立場は管理人同様のいわゆるロスジェネ意見の

ひとつを代表されて問題提起されていますので、

その『粋(いき)』をかってやって下さいまし。

他人本なので管理人ごときがこれ以上しゃしゃり出てしまうと

あまりにも不遜、僭越となってしまいますので

後はみなさんのお楽しみということで筆をおかせていただきます。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

あらためまして最後までお読みいただきありがとうございました。

One Response to “ジェーン・ハーリー著『滅びゆく思考力~子どもたちの脳が変わる~』<スマホ脳×コロナ脳×バカの壁>に侵される時代だからこそ再評価したい古典的名著”

  1. YOSEYUKI より:

    長らく更新がないので心配しておりました。一度、本多信一さんの著書が取り上げられていたので、感想を送ったものです。その際は、丁寧な返信もいただきました。よい読者とは言えない私がいうのはおこがましいのですが、管理人さんのこのブログへの情熱、そして読者への姿勢は素晴らしいと思います。さて今回のテーマはタイムリーで興味があるものです。少しずつ読ませていただこうと思っております。毎月一冊の本をテーマに勉強する読書会のようなことを友人とずっと続けてきた作家の話を読み羨ましいなあと思っていました。古典や原書をしっかり読んで一般人(特に若い人に)にお知らせすることは意義のあることで、ずっと続けるのはたいへんな事だと思います。これからも更新のペースはゆっくりでよいのどの本をどのように評価するか楽しみにしております。

コメントを残す

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)

サブコンテンツ

このページの先頭へ