ジョナサン・ハイト著『社会はなぜ左と右にわかれるのか』コロナ禍長期化によって推奨される非接触型社会が誘発させる分断対立感情を乗り越えるための道徳心理学入門書

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ジョナサン・ハイト著『社会はなぜ左と右にわかれるのか』

本年はコロナ禍とともに世界各国で様々な分断対立現象が

際立った世界史的転換期でした。

日本ではいわゆる大阪都構想を巡る住民投票での拮抗現象。

米国大統領選挙を巡る大混乱劇。

香港を始めとする世界各地での専制独裁支配からの脱却を巡る

民主化闘争劇など。

今回はこうした対立を乗り越えていくための知恵を

道徳心理学の知見に学ぶことにいたします。

『社会はなぜ左と右にわかれるのか~対立を超えるための道徳心理学~』(ジョナサン・ハイト著、高橋洋訳、紀伊國屋書店、2019年第10刷)

ジョナサン・ハイト氏(以下、著者)は米国のヴァージニア大学

心理学部教授を経て、ニューヨーク大学スターンビジネススクール教授として

倫理的リーダーシップ論などをテーマに教鞭を執っておられるといいます。

ご専門は社会心理学やポジティブ心理学の知見を活かした

道徳心理学について特に比重を置いた研究をされています。

2001年にはポジティブ心理学テンプルトン賞を受賞されるなど

その精力的な研究活動が高く評価されているようです。

今回ご紹介させて頂く本書では

従来のいわゆる一元的な視点が強すぎたために敬遠されてきた

道徳「規範」観を多元的な角度から捉え直すその斬新な試みによって

硬直する一方から死滅する道を辿ろうとしている守旧型道徳的価値観をも

柔軟に再評価しながら救済せんとする論評姿勢を通じて

さらに混迷窮まりゆく現代社会を再生させていく道を開拓するに当たり

これらの歴史的重みに耐えてきた『道徳』規範意識を回復して

今日的課題に活かそうとの問題提起がなされています。

このような道徳『観』の変遷史が積み重ねられていく流れの中で

『超絶』個人(体)意識観が拡大強化されてきたために

社会『共同体』が崩壊危機に瀕する事態が招き寄せられ

コロナ禍のような有事にはその脆弱性が如実に現れ出てきたことが

現在の人類を苦しめている1つの最大要因となっているわけです。

本書をこの『コロナ禍元年』の年末年始期にご紹介させて頂いた趣旨

本書評タイトル副題にも提示させて頂きましたように

今年の流行語!?とも言ってよいほどにすでに浸透してしまっている

アフターコロナ(コロナ禍後)の近未来社会像を見据えた

<新しい生活様式>だとか<非接触型社会>という

人類文化形態様式変化に関する一連の流れが

真に人類にとって幸福(人類『協和』)への道すじへとつながり得る

ものなのかどうか皆さんにも

是非今いちど語り合いながら有意義な新年をお迎え頂きたいと

願いを込めてのことです。

新型コロナを始めとする多種多様なウィルス蔓延流行期の

この厳しい冬季にご家族や友人知人らとの『会合』や『会食』を

ともに過ごすという生活の営みは正直なかなか難しいところが

あるかと感受されますが、各種リモート方式でも構いませんので

このような硬派な話題にも触れられながら

より精神的に親『密』な来年以後の充実した人生の時々を

お過ごし頂ければと願います。

ユーチューバー(各種対談動画媒体を含む)や

読書会(各種サロン)主宰者の皆様方にも

このような有意義な話題を<肴>にしながら

この1年の締めくくりをされると

来年以後はきっと『禍を転じて福となす』ことが出来ると思いますよ。

そのような何かと『禍』でも起きない限り

これまでの普段の生活時空間の中では

考える機会さえなかったであろう転機を

万人が迎えてしまった今だからこそ

これまでの現代『道徳(共同体意識)』思潮に対する

挑戦的な知的誠実さと勇気が見受けられて

とても魅力ある1冊となり得ているように評価させて頂きました。

なお、これまで公刊された邦訳書には

『しあわせ仮説~古代の知恵と現代科学の知恵~』(藤澤隆史/玲子共訳、

新曜社、2019年初版第5刷)があり、その増刷ぶりからも窺えますように

本邦でも好評をもって迎え入れられているようです。

前著であるこちらの著書では宗教と科学の「調和」的観点から

いわゆる怪しげなスピリチュアル/精神世界的な世界観とは

一線を画した純然たる学問として双方の洞察から汲み取れる叡智に学びながら

現代社会において活用可能な新たな幸福論としての「しあわせ<仮説>」が

提起されています。

この前著が理論(基礎土台=基礎心理学入門)編だとすれば、

今回ご紹介させて頂く本書はその応用実践編に当たります。

多種多様な価値観が乱立する現代社会、とりわけ政治経済面において

従来の左右(翼)間での分断対立を招きやすい要因だった

それぞれに特有に見受けられる道徳的規範に対する捉え方の相違点に

着眼させた鋭い分析考察批評を通じて双方を隔てている心理的壁を

引き下げていこうと欲する志向性でもってその打開点を見出す視点を

提供して下さっているのが本書の持つ特色だと評価されましょう。

人が人としてこの世に生み出されてきたからには

価値観の違いを乗り越えて相互協力しながらおのおのの幸せな

人生街道を歩みたいと願うのは誰しもが抱く切実な想いでありましょう。

本書を通じて安易な一元化や二項対立型視点に束縛されずに

ともすればその「規範(~すべき論)」的側面が強い道徳観を

あらたな角度から組み替え直す姿勢を取り入れることで

一見すれば分断対立しているかのように感受された相違点にも

双方からの歩み寄りが期待される共有可能領域も存在していたことが

次第に判明してくるようです。

このように価値観が多様化する一方の現代社会においてこそ

異なる価値観を抱く者同士が共存共栄していく道を

絶えず模索していく姿勢が強く要請されてきます。

政治的価値観の違いもさることながら経済的価値観の違いによって

必然的に誘発される格差がさらに拡大進展していくことになれば

「相互扶助」原理に依拠する『共同体』意識も崩れていくことになり

現下のコロナ禍のような有事期にはまったくその機能が果たせなくなります。

挙げ句の果てには「自分で自分の首を絞める」に至ることになります。

平時においては忘却されがちな人類が共有すべき視点や姿勢に気付かされるのも

誠に皮肉なことですが有事という時空間ならではのことです。

このような深刻な有事状況が長期的に持続していけば

人々の間で先行き不透明感が高まっていくことで

心理的余裕もますます剥奪されていくことになります。

そのような状況に至りますと

不安心理を沈静化させるために発信された

いかに正しき言説に触れる機会が豊富に与えられたとしても

疑心暗鬼に駆られた心理状態が続くようでは

落ち着いて対処する心構えも喪失していくことになります。

このような環境条件の下では人間の生体防御反応が著しく高まるために

平時においては潜在意識化に沈殿していたもやもやとしたどす黒い

攻撃的感情が覚醒させられることによって他者や社会に対する

暴力的衝動へと駆り立てられる心理条件が誘発整備されていくことに

なるわけです。

その強弱温度差はもちろん人によって異なりますが、

平素から<正義心>の強い性格(気質)であればあるほど

<堪忍袋の緒が切れる>心理状態へと傾きやすくなります。

管理人自身もどちらかというとそうした気質を抱く者ですので

自戒も込めて大事に至る前にせめて「自覚」することでもって

負の感情を抑制させることに日夜苦労させられています。

現代のストレス社会を安心して乗り切るために

昨今様々な「アンガーマネジメント(怒り感情の抑制管理手法)」が

提供されるようになり一般にも浸透してきていますが、

こうしたある種の精神統御療法も理屈(論理=理性)ではわかっていても

心理情動意識がなかなか納得してくれずに

ついつい「決壊」してしまうことがみなさんにも多々あることでしょう。

つまり、精神の危機時においては『理性が無情に思える』瞬間が

誰しも訪れるということです。

ですから、このような心理状況に陥った時に

無理に『理性』でもって感情抑制しようとしても

なかなかうまくいきません。

そこで著者の出番です。

本書では『情動』の働き方に比重を置いた着眼点があり

昨今の脳科学や深層心理学の先行研究から獲得されてきた知見を

活用しながら『禍を転じて福となそう』とする知的志向性があります。

そこで『理性(本書では<乗り手>にたとえています。)』は

『情動(本書では<象>にたとえています。)』に仕えていると

いう問題意識を命題に据えた<道徳心理学>に関する分析論考が

展開されていくことになります。

道徳の起源は個体と集団(共同体)との存続を巡る厳しい進化闘争過程で育まれてきた本能的情動感覚意識に由来する難題だからこそ安易な解決法に頼らない知恵が求められています~道徳心理学入門~

それでは本書の要約ご紹介へと進んでまいりましょう。

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・<はじめに>

<正義心>とは何か/本書の概要

『読者には、本書を読み終わるまでに、人間の営為のなかでももっとも重要で、

論争の対象になりやすい2つのトピック、すなわち政治と宗教を考える

新しい方法を知ってもらえればとても嬉しい。エチケット指南本では、

これらのトピックは礼儀が求められる場では持ち出すべきではないと

されているが、私は大いに話し合うべきだと言いたい。

政治と宗教は道徳心理の表現形態であり、

また、その理解は人々を互いに結びつける際に役立つからだ。

本書の目的は、これらのトピックから負の感情や分裂を引き起こす要素を

取り除き、畏敬の念、驚き、好奇心で置き換えることにある。』

(本書14頁)

本書では上記引用箇所で示された問題意識を念頭に

『道徳』心(理感情)を人間社会を形成させていくうえで重要な役割を果たしてきた

政治的側面に焦点を当てて理解を深めていくことになります。

その一見すると独善的な偏見感情というイメージの強い<正義>心を発露させる

情動意識につながりやすい特質として捉えながらも

人間社会を『集団』形成の場(共同体)として見た場合には

結合原理機能を担う意義があったのだと肯定的評価も交えて

あえて『道徳』心を<正義>心として捉える語感を持たせた

タイトルに決定されたと言います。

本書は邦訳書ですから、

その原書言語である英語にまつわる語感原義に関する解説は

この<はじめに>の『<正義心>とは何か』(本書14~16頁)で

なされていますので解読上の注意点としてまず最初に記憶に留めておく必要ありと

いうことで丁寧にご一読下さいませ。

また<はじめに>において『本書の概要』が提示されていますので

各部・各論を読み進めていて消化不良に陥りそうになられた際には

折に触れて立ちかえられるとよいでしょう。

さらになおのことご親切なことに

各部の各章の最後では『まとめ』要約記事も掲げられていますので

お時間のない読者様にはこの『まとめ』をざっと読み流しながら、

各自でご興味ご関心ある論考箇所を深読みされるという手法を

採用されることもいいでしょう。

いずれにしましても、本書は読んでただ単に知識として蓄えておけば

それで終わりといったものではなく社会実践の場で身体感覚にまで

落とし込んだうえで積極活用されていくことを祈念させた

『知恵』の書だということです。

様々な怪しげな<フェイク(紛い物)>ニュースや

<スキャンダル(醜聞風評)>ニュースが飛び交っていく中で

人間としてのまともな知的情動感覚を保持し続けていくためにも

本書を繰り返し読み込む価値はありましょう。

『人類相互における信頼感覚を取り戻し、運命共同体としての

人間社会のこれ以上の崩壊の流れを押しとどめるためにも・・・』

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・<第1部 まず直観、それから戦略的な思考~心は<乗り手>と<象>に

分かれる。<乗り手>の仕事は<象>に仕えることだ~>

①『第1章 道徳の起源』

本章では道徳の起源説を巡る比較分析考察が加えられたうえで

著者自身による暫定的な「仮説」が提示されていきます。

その過程で著者自身による旧来の道徳心理学に関する問答履歴とともに

その批評意識について次第に判明していくことになります。

道徳起源説(論)について本書では大きく3つの学説が紹介されており、

それぞれの説に対する検討が加えられていくことになります。

①先天説(出生に先だつ遺伝子レベルで道徳的知識/感覚が

すでに備わったものと見る説。)

聖書記述による裏書きやダーウィン型進化論による見立てなど)

②後天説(出生時には白紙状態だったものに後の教育学習履歴の蓄積によって

次第に備わっていくものと見る説。ジョン・ロックなど)

③人間成長の発達過程を「合理主義」的に解釈する学説

(本書ではピアジェコールバーグなど)

①、②はよく知られた学説発想ですが、

本書では特に③説に対する詳細な批判的検討が加えられていくことになります。

なぜならば、この③説のもととなった特にコールバーグによる科学的調査こそ

政治的意図を有したものではなかったものの調査時の時代思潮と

親和適合していったうえに現在まで広範囲な影響力を及ぼしている

学説だったからです。

その具体的内容はリベラルのコンセンサス>(本書32~33頁)において

提示されています。

『権威や階層性、伝統を軽視し、道徳を正義として定義する枠組みを

用いることで、世俗的、懐疑的、平等主義的な世界観を支持する傾向があった。』

(本書33頁)のだと・・・。

この「合理主義的リベラル」による道徳観には

上記コールバーグによる見立てとともにテュリエルによって提示された

道徳心理発達段階理論による見立てが代表的事例として紹介されています。

双方において学説上の相違点こそ多々あれども、

<政治的>文脈における意味合いでは数多くの類似点が見出されるものとして

著者は評価されています。

すなわち、

『両者とも、道徳は個人を大切に扱うことに関するものだと、

つまり、危害や公正に関するものであって、忠誠、尊敬、義務、信心、

愛国心、伝統などとは関係がないと考えている。・・・』(本書36頁)

まとめますと、一般的に保守的な道徳観と評価されている要素を

排除する見立てが著者が研究生活を始めた頃の道徳心理学界での

風潮だったということです。

本書では後ほど要約論評を通じて語らせて頂くことになりますが、

第8章のタイトルを見ただけではいわゆる保守主義者に軍配を上げているかに

見受けられてしまうために著者自身の政治思想的立場は保守派に属しているかのように

感受されますが、著者自身の立場はリベラルだと表明されています。

そのリベラルな立場である著者から見て、

当時の道徳心理学界を支配していた思潮について、

後に人類学者による論考文からの触発を受けての独自探究

(著者の場合には特にリチャード・シュウィーダーからの影響)や

アルゼンチン(ブエノスアイレス)でのラテンアメリカの心理学者との交流会議に

おける討論、非西欧社会に関する比較道徳文化調査研究を積み重ねていくうえで

このような道徳心理学観も欧米の特殊リベラル時空間でしか適用できない

きわめて狭い見方だということに次第に気付かされていくことによって

著者自身が抱いてきた認知的枠組みも揺さぶられていったそうです。

そこでより一般的に幅広く通用し得るような道徳心理学観を確立されようとの

長い学究の旅が続けられていくことになります。

その過程で従来のリベラルが支持してきた

<危害/公正>に偏重させた道徳観だけではなく

その他にも<自由/忠誠/権威/神聖>などの要素も加味させた

あらたな視点が重要性を持つことに気付かされていったのだといいます。

その詳細解説は第2部の第7章へと橋渡しされることになります。

本章の結論において、

著者はこれまで主流だったリベラル型「合理主義」的道徳観も

一定程度は尊重するもののこのような「合理主義」を旨とする

<理性>偏重志向をあらためるきっかけとなった

デイヴィッド・ヒュームなどによって示唆されてきた

『情動』知覚が果たす重要性に関する問題へと

次第に着眼点が移動させられていったといいます。

その『情動』知覚が道徳心理感情へと影響力を及ぼしているとする

具体的解析論考が第1部の残章テーマとなります。

まとめますと、③説の限界を乗り越えるための見立てである

『生得的な性質と社会的な学習の複合』(本書60頁)

からなる起源説についてさらに深く探究していくことになります。

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②『第2章 理性の尻尾を振る直感的な犬』

本章からは『理性(本書では<乗り手>にたとえています。)』は

『情動(本書では<象>にたとえています。)』に仕えているという

著者自身の問題意識に導かれての論証作業が始まります。

著者は道徳心理学の観点から『<理性(乗り手)>と<情動(象)>の

相互関係性(主従性)』について分析考察を進められていきますが、

この批判的検討作業を続けていくと現在まで人類に多大なる影響

(それも『悪』影響。なぜならば、『理性』という名で<正義>が濫用された

結果、実はその背後に潜む『情動』感情を軽視するという人類の未来にとっても

見逃し得ない<真実>が隠されていたのだということを意識的・無意識的に

敬遠しようとする知的態度に傾斜していくことで、

大厄災が身の上に降りかかってくることを甘くみる性癖が生み出されるからです。

だからこそ、著者も本書全編を通じて

『道徳は人々を結びつけると同時に盲目にする』(本書63頁)と

繰り返し強調されていくわけです。)を及ぼしてきた西洋哲学全体像の

<暗黙の了解事項>とも評してもよい『理性』への過度の傾斜(とは

背後に過度の情熱もあるわけですが、『理性、理性・・・』と刷り込まれれば

刷り込まれるほど、表面的には<情熱>がもたらす役割や意義を軽視していく

という逆説にたどりつくということです。)<崇拝>を覆す

全面的知的見直し作業にも誘われていくことになります。

著者はこのような西洋哲学に潜在して流れてきた

『理性崇拝を「合理主義者の妄想」と呼ぶ。』(本書63頁)と知的警戒心を

一方に持つことで傾いたバランスを回復させよう・・・との

真の学者に要請される科学的姿勢のあり方についてまで

目覚めさせようとしています。

語弊もありましょうが、理性「教」信者ともある意味で評価されても

いたしかたなきプラトンからイマヌエル・カント、コールバーグに至るまでの

哲学系譜に対する再検討を通じて、

これまで軽視される傾向にあった『情動』に関する重要性についても

目を向けるよう注意喚起されていくことになります。

そこでプラトン(『理性』哲学の代表者)に対する反証するうえで

重要な役者が続々と引き合いに出されていくことになります。

ヒュームやジェファーソンなど。

但し、ここまでは哲学者(ヒューム)やジェファーソン(政治家)といった

社会/人文科学者、実務家が主役でしたが、

本章では自然科学の観点から見た道徳心理学をさらに深く掘り下げて

検討していくうえで重要な役者を登場させています。

それが前にもご紹介させて頂いたエドワード・O・ウィルソン

アントニオ・ダマシオらによって提出された知的洞察の紹介となります。

<ウィルソンの予言>本書66~69頁、<情動の90年代>本書70~72頁

さらに最近の認知科学研究が導出してきた『錯覚』実験例などの検討も

補強論証事例として引き合いに出しながら論旨展開を進めていくことに

なります。

<「見ること」と「理由を考えること」>本書82~87頁

かくして本章では著者自身のこれまでの知的傾向歴からの教訓をもとに

「反」合理主義的立場である<直観>主義的観点からの

読者の『象(情熱=直観)』に語りかける手法で

ヒューム型見方の説得力の強さ(本書では「正しい」という言葉遣い。

本書<まとめ>96頁での表現をされていますが学問をするうえでは

誤解や思い込みからの自由な見方を妨げるおそれがあることを懸念して

あえてここでは『説得力の強さ(もしくは妥当性)』と管理人は表記

させて頂きました。)を<導きの糸>として以下さらなる探究考察へと

向かいます。

とはいえ、ここで違和感を抱かれる読者も数多くおられるだろうを見越して

著者も手を変え品を代え、今度は別の角度から補強論証をしていく道を

示していくことになります。

次の第3・4章では『理性(乗り手)』に説得していく手法で

語りかけていくことになります。

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③『第3章 <象>の支配』

本章では<第1部 まず直観、それから戦略的な思考~心は<乗り手>と<象>に

分かれる。<乗り手>の仕事は<象>に仕えることだ~>というタイトルのうち

前半部の『まず直観』というところに焦点を当てて過去に検証されてきた

各種実験心理学によって提出された知見例をもとにその強力さについて

分析考察が進められていきます。

「人間はなぜ、えてして独善と偏見にとりつかれ自己に都合のよいような正当化理由を

<でっちあげ>てしまう傾向にあるのだろうか?」

この問いをもって著者のエピソード例なども交えて

背後に強固な自己正当化事由を隠し持った『直観(情動的働き)』的判断を

自省しながら検討事例として引き合いに出しつつ、

なぜそのような<知的>判断に傾きがちなのかについて検討を加えていくことになります。

本章をまとめますと、人間が社会での厳しい生存競争を経て

ここまで進化現存していく過程で「合理主義」者が信じてきたような

『理性』的判断を重視する<真実(真理発見)>志向よりも

むしろ素速く身を護るための『直観(情動)』的判断を伴う

<評判(名声)>志向に従った身体反応作用を構築してきたのではないかという

昨今の脳科学や認知・実験心理学などからも獲得されてきた知見を手がかりに

「仮説」が提示されています。

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④『第4章 私に清き一票を』

本章でも引き続きタイトルが示唆しているように

これまで「合理主義」者によって示されてきた道徳観について

異議申し立てをする数々の事例を引き合いに出しながら

さらに論証を進めていくことになります。

プラトンやソクラテスが理想とした『理性』による哲人政治・・・といった

自己統御アプローチはどうして往々にして失敗に陥ることが

多いのだろうか?

このような未熟な人間が抱え持つ<理性>の脆弱さを

否定的に見下すような独善と傲慢に満ちた知的姿勢ではなく、

むしろより謙虚かつ冷静に自己姿勢に対する

正しく適切な自律的統御を見出し実践する道はないのだろうか・・・と

より可能な人間らしい方法論的アプローチに依拠した

道徳(心理学)観が提示されていきます。

そこで『理性(乗り手)』を信頼しすぎる従来の道徳心理学アプローチを

転換させるあらたな見方を示唆することを通じて

その有効性に関する検証がなされていくことになります。

つまり、従来の『理性(乗り手)』主導型論法によれば

こうした『直観/情動(象))』の心理作用(機能)に主軸をおいて

着眼させた見方は表層的には確かに<主観的>独断論とみなされてきたところ

むしろその揺れ動きの激しさ(強さ)はどこに由来するのかといった

その<機能>的側面をより詳細に分析観察していくことを通じて

逆説的により客観的かつ可能な「合理」的調教(利己的心理制御)法を

見出そうとする志向性が著者の問題意識には流れているのだと

評価することもできるということです。

この点は著者のご専門である道徳心理学による知見成果に

最新の行動経済学の背景をなす心理学的洞察を踏まえた

社会的行動パターンの典型事例である経済社会の中での

人間の身動きや思考癖に関する研究報告例などを加味させて

補強論証とされています。

<私たちはうまくうそをつき、正当化するので、自分が

正直だと信じ込む>本書144~146頁ほか

<結論的教訓>

『真実の追求を是とする人は、理性崇拝をやめるべきだ。

証拠を冷静に見つめて、思考とは何たるかをよく考える必要がある。』

(本書155頁)

本書から得られるこの教訓は

<フェイク(虚偽装飾)ニュース>や

<スキャンダル(醜聞)ニュース>に対して懐疑的で

自分は理性的だと信じ、意識高い人ほど

意外にも引っ掛かりやすい事実がままある・・・という点だけ

注意喚起しておきましょう。

そのことに<自覚>的であるだけでも誰しもが多かれ少なかれ有している

『自己確証バイアス(偏見)』からは完全には自由になれずとも

もう少し丁寧な『事実』選択とその冷静な解釈評価も出来るように

少しはなれるかもしれないとの期待と願望を込めて

最後に本書に触発されて感受した「心」とともに

本章から学びたい点をまとめておくことにいたします。

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・<第2部 道徳は危害と公正だけではない

~<正義心>は、6種類の味覚センサーをもつ舌だ~>

⑤『第5章 奇妙<WEIRD>な道徳を超えて』

本章では著者自身が享受してきた教育環境文化履歴とともに

やがて一般市井人に対する道徳(心理)観調査をする過程を通じて

次第に自身が属していた<認識共同体>の異端(奇妙)さに

気付かされるようになった様子が描写されています。

本章タイトルに掲げた<WEIRD>とは・・・。

『欧米の(Western)、啓蒙化された(educated)、

産業化され(industrialized)、裕福で(rich)、

民主主義的な(democratic)文化・・・(中略)・・・

〔weirdには「奇妙な」等の意味がある〕』(本書164頁)

要するに世界の圧倒的大多数を占める一般庶民から見れば

いわゆる「お高くとまったハイソ(ハイソサイエティ=上流階級、

最近流行中?の俗語でいうと上級国民)ないい気なもんだ連中」

(下品な物言いのたとえで失礼しますが)によって

一般の世俗文化社会にも拡散浸透させられていった

「余計なお世話」な地に足の着いていない嫌みな高尚文化だ・・・とも

評価し得る<認識共同体>を指しています。

著者が提示されているこの<WEIRD>集団の特徴とは何か?

世界全体の中でもとりわけ欧米社会の内部を見ただけでも

ただでさえ米国人の特異性が際立つなか、さらに高等教育を

享受可能な中流上層階級ということになると

そこには自ずと世間一般とは隔たる特殊な認識文化が

育つことになります。

著者によるこの文化の特異性に関する要約を引用しておきましょう。

『「WEIRDであればあるほど、世界を関係の網の目ではなく、

個々の物の集まりとして見るようになる」という単純な一般化によって

うまく説明できる。』(本書164頁)

『知覚の差異は、思考様式の違いにも関係する。世界のたいていの

人々は、ものごとを全体的な視点から考える(文脈全体を見渡しながら

部分間の関係を考える)が、WEIRD文化に属する人々は、

より分析的に考える(焦点になる対象を文脈から切り離して1つの

カテゴリーに分類し、そのカテゴリーについて真である属性は、その

対象に関しても真であると想定する)』(本書165頁)

という傾向にある。

つまり、WEIRD文化人

『個人中心主義的、ルール志向的、普遍主義的な道徳システム』

(本書165~166頁)を好むのに対して

非WEIRD文化人

『ものごとのなかに関係、文脈、集団、制度を見出す傾向が強い

(中略)

より向社会性の高い道徳観を持つ』(本書166頁)特徴が

一般的(あくまでも。例外はいくらでもあることにご注意。)だということです。

このようにWEIRD文化と非WEIRD文化を比較文化の視点から眺めながら

道徳(心理)観の相違点を提示していくことによって

現在の道徳文化観を巡る分断対立のそもそもの源流と由来の摘出作業と

その厳しい状況をいくほどかでも乗り越えていくためのヒントを

道徳文化調査研究から獲得されてきた知見成果の発表とともに

考えていこう。そしてそのヒントをもとに何とかやっていこう、

この狭い地球世界で・・・という問題共有を呼びかけられているのが

本書全般を通じての著者からのメッセージであります。

言い換えますと、一見すると<オープンマインド>志向に見える

開かれた世界(人間)観を持つように長らく信じられてきたWEIRD文化が

実は閉ざされた狭い道徳心理を伴う身体感覚を共有する知的認識共同体であったのに

対して、閉ざされた狭量な心を持つと否定的に評価されることが多かった

非WEIRD文化の中で共有されてきた道徳心理的身体感覚に根ざした

世界(人間)観の方が人類の多様性を容認し、それぞれの文化的根拠地を

相互侵犯することなく協和的な共存共栄をはかるに

射程距離が広いという逆説的見立てが提出されていくことになります。

そこでこのきわめて個人主義的自立(自己責任)型志向性を持つ

WEIRD文化によって導き出されてきた道徳心理学観には

『危害/公正』に極端に偏ったものがあるのに対して、

非WEIRD文化によって導き出されてきた道徳心理学観には

それまで主に高級知的認識共同体時空環境に属する者からすれば

保守的で非寛容だと否定的に評価されてきた道徳基盤には

人間社会を維持再生していくうえで有益な要素を含むものが多いとの

豊富な事例が次章以下で具体的に論証提示されていくことになります。

本章で提示された知見を学んで目指す最終的な狙いと読みどころは

<マトリックスからの脱却>(本書179~184頁)で示唆されています。

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⑥『第6章 <正義心>の味覚受容器』

本章では、『危害/公正』以外の道徳基盤の具体例と

道徳科学の誕生過程、最新の『情動』知覚心理学の元祖ともされる

ヒューム哲学の再評価とともに<正義心>の捉え方について

相互理解を深めていくうえで重要な着眼点について

論じられていくことになります。

そして「道徳とはいかなるものか?」を考えていく際の

たとえとして料理(とりわけその味覚)を分析材料に活用されています。

『道徳は文化的な産物であって、環境や歴史という偶然に左右されるが、

何でもありと言えるほど柔軟なものではない。

あなたも樹皮の料理など口にしないし、苦味をベースとする料理など

食べないだろう。文化によって料理は変わるとはいえ、同じ5つの

味覚受容器を備えた舌を満足させる必要がある。それと同様、

文化によって道徳マトリックスは変化すれども、同じ6つの

社会的な受容器を備えた、人々の<正義心>を満足させなければならない。』

(本書190頁)

ここでの主要論点<道徳科学の誕生>(本書190~192頁)過程の

批評的分析視点とそこで再評価されたヒューム哲学によって

導き出された道徳心理学観をもとに

従来の『義務論(ここではカントに象徴させています。)』や

功利主義(特にベンサムなどに特徴的に見受けられる<定量>型志向)』、

さらに『システム主義』志向型道徳心理学観の狭量性がもたらす

各種問題点(本書193~198頁)が提示されたあとの

<道徳基盤理論>(本書203~208頁)で例示列挙された論考箇所

あります。

なお、著者がここで分類されている<道徳基盤理論>にまつわる仮説設定作業は

あくまでも杓子定規な硬直化したイデオロギー便法として提示されているわけではなく

さらに次章以下で丁寧に論証されていくように

左派リベラルと右派保守のあいだでいずれの道徳心理観が正しいか間違っているかと

声高に述べ立てる意図に基づくものでないことは

本書を読み進めていくうえでも繰り返しご注意下さいませ。

本書に左派リベラルに対する右派保守の優越的地位が論証されたものと

期待してお手に取られた方には残念ながら『期待はずれ』に終わること

間違いなしですと申し上げるほかありません。

本章で著者が読者に対して理解を求めている重要点とは

左派リベラルと右派保守とのあいだにある

根深い対立軸がそもそもどこから湧き出てくるものなのかとの

問題意識にあります。

とりわけ、同じ<道徳基盤>にあるものとして分類されている

(著者が見立てた)道徳概念用語(本章206頁に掲げられた図表で

提示されている5つの<道徳基盤>【初期バージョン】のそれぞれ)が

使用されていても

異なる固有の価値意識を持つ者同士のあいだで

会話が取り交わされる際には

どうしてもその言葉に込められた語感(ニュアンス)や

文脈における主張意図が食い違ってくるところから

徐々に大きな亀裂が生じ始めてしまうという問題を

抱え込むことになります。

この点をいかに調整/調節していけば相互誤解を

最小限に抑えることが出来るのだろうかという問題意識であります。

『誰もが、ここでしばらく生きていかなければならないのだから、

やってみようではないか』(ロドニー・キングの名言。本書486頁)と・・・。

あらためまして『危害/公正』以外の5種類の道徳基盤につきましては

本書206頁の図表に掲載されています。

すなわち、

①『ケア/危害』

②『公正/欺瞞』

③『忠誠/背信』

④『権威/転覆』

⑤『神聖/堕落』

の5種類のカテゴリー区分であります。

ここに示されたそれぞれのカテゴリー区分における

左派リベラルと右派保守とのあいだにある差異観の

具体的分析考察論評が以下の第7章と第8章で展開されていくことに

なります。

そこでこのカテゴリー区分が硬直したものとして誤解されないために

常時文脈(言語使用環境背景)によっていくらでも変容し得るのだという点に

読者の注意点を引き寄せるために紹介解説されている概念に

認知人類学者によって導入された<モジュール性>があります。

『モジュール性という概念は、生得的な道徳受容器について、

そしていかにそれが、文化ごとに異なる様態で発達した初期知覚を

生むかを考える際に役立つ。』(本章<まとめ>本書209頁)ための

論証道具として活用されているということです。

『道徳的な判断は知覚の一種であり、よって道徳科学は、

道徳の受容器の注意深い研究から開始する必要がある。

その際、5つの味覚の受容器は、純粋な思考によっても、

聖典を参照することでも理解できないと心得ておく必要がある。

なぜなら、それらは経験を超越するものではないからだ。

そうではなく、私たちは舌を調査しなければならない。』(本書192頁)

いずれにしましても、著者の問題意識は道徳観(道徳心理感情/気質)を

『理性』に由来するものでなく、

<知覚>という『感覚』の一種とみなす視点を採り、

ヒューム哲学が提起した問題意識も共有して

人類学と進化心理学との連結性を明確にしていく知的探究を経て

<道徳基盤理論>を現実感覚のもとにより確実な使えるものとしていくための

<仮説>設定作業を進めていくことになります。

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⑦『第7章 政治の道徳的基盤』

本章では前章までで示された<道徳基盤理論>が

政治的場面において具体的にどのようにして機能(作用)しているのだろうかという

問題意識をもとに探究していくことになります。

前章で提示された5つのカテゴリー区分である

①『ケア/危害』

②『公正/欺瞞』

③『忠誠/背信』

④『権威/転覆』

⑤『神聖/堕落』

についてそれぞれ左派/右派のあいだでいかなる道徳認識に関する相違点が

あるのかについて検証を加えていく作業が本章での中心論点であります。

この検証作業を通じて著者が暫定的<仮説>として得た結論が

こと道徳観や道徳心理感情において

より多くの人々を身体感覚のうえで得心させるに至るかを

<判定>すると・・・。

左派リベラル的な道徳観が主に<ケア>と<公正>基盤に

極度に偏重させた感覚受容器を活性させているだけ

(何度も注意喚起させて頂きますが、ここでの見立ては

あくまでも典型的な特徴事例であって例外はもちろんいくらでも

見受けられます。要するに説得材料が狭すぎるらしい・・・

ということですね。)なのに対し、

右派保守のそれは一般的に5つの基盤すべてにわたる幅広い

説得材料を持ち合わせているらしい・・・。

ゆえに政治的な場面(それも極限的状況場面に至れば至るほど

いわば<建前>的理性に訴えかけるだけでは『心』に響くこと少なく

<本音(平時においては潜在下に隠されている本能的不安心理感覚

=情動本能)>に響きやすくなるからこそ)では

『保守主義の政治家は、有権者に訴える、より多くの手段を

持っていることになるのだろうか?』(本章<まとめ>本書247頁)

いう問いかけのもと次章でさらなる探究作業を進めていくことになります。

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⑧『第8章 保守主義者の優位』

本章では左派と右派の道徳心理的政治観を形成させていくうえで

その背景にある社会観の相違点をより深く理解するための

『理論』的道具立てとしてジョン・スチュアート・ミル(<他者危害の原則>で

有名な思想家。左派リベラルが主に依拠してきた<ケア><公正>原理に

親和的だと評価=あくまでも著者の解釈評価では)と

<社会保守志向=共同体秩序維持志向>をより強く持つと評価されている

エミール・デュルケーム(最近のコロナ禍でも再評価されだしたフランスの

有名な思想家。とりわけ『自殺論(アノミー論)』で有名になった論者です。)という

2人の社会観における差異を比較分析材料に活用しながら

先の第6章と第7章で著者が立てた5つの<道徳基盤理論>を

修正していかざるを得なくなった理由について語り終えたあとに

『保守主義者の優位』になりやすい道徳心理的背景事情について

暫定的な<判定>評価が下されています。

修正された<道徳基盤理論>とはいかに?

とりわけ<公正>に対する

左派リベラルが見出す『観』と右派保守がそこに見出す『観』に

大きなズレがあるのはなぜだろうか?

を探っていくと・・・。

どうも<公正>と『平等』とは必ずしも同じ土俵次元に立つものでは

ないらしい・・・ということが双方への調査過程から判明してきたことをもとに

『6番目の道徳基盤として<自由/抑圧>を暫定的に加えることにした。

また、<公正>基盤に関して、比例配分をより重視するよう考えを改めた。』

(本書270頁<私が見落としていたこと>)

この『理論』修正は著者が右派保守の優位性を強調することを

ただ単なる目的にしているわけではなく(それなら<イデオロギー>となり

政治活動家型思考になってしまう。学者が『学問』として批評分析する目的は

あくまでもより一般【<普遍>という表現が語弊を招くならば、

より幅広い層の人々に支持が得られるような説得力ある『理論』材料を

提供することを通じてよりよい社会再生/再建を果たせるように貢献すること。】的な

通用『力』を持たせることが可能になるような道具立てを提供する点にある。)、

一見対立しているかに見える道徳観の相違点の底流にも

互いに相響く<心>の交流点もあるかもしれない共通項を

再発見していこう・・・とする問題意識を持って始めて強力な威力を

発揮する点にあることです。

この<公正>観(比例配分としての公正)をも反映させた

経済的平等への是正志向を問いかける政治姿勢が

象徴的に現れ出た事例問題の1つに

最近話題のベーシックインカム(以下BIと表記)制度導入の

賛否を巡る論争があります。

後ほどあらためましてエッセー記事内において

別途語らせて頂きましょう。

ここはまだ要約論評記事ですので錯綜回避のために

ひとまず先に進めさせて頂くことにいたします。

さらに本章では

人類学者のクリストファー・べームによって提示された

『階層性』に関する鋭い分析材料も参照にしながら

世界各国で見出されてきた昨今の

地方や最下層(没落する中流階級も含む)の労働者階級が示す

投票行動の変化/変容の背景にある道徳心理的理由が探究されています。

まとめますと、左派/右派を問わず『表面的』な価値観の相違にとらわれずに

生活実感や同じ生活共同体の中で暮らす者同士としての結束感や連帯感を

回復させるに足る正しい思想を処方箋として政策に盛り込み、

実現させるに至れば、自ずと極度な貧困社会化状況の中で

分断と対立を招いてきた最悪な政治情勢からの転換も図れるということです。

昨今の我が国でも頻繁に見出されるようになって久しい

政党支持層を巡る左派/右派の<ねじれ>現象の底流にある背景要因や

コロナ禍が長引く中でますます崩壊していく状況にある

社会をいかに再建させていくべきか・・・。

その<ヒント>を見事に示唆して下さっている点に

管理人が今回本書をご紹介させて頂くに至った動機があります。

本章で分析考察されている論考文は

国民から政治責任を負託されている

すべての政党関係者、政策立案/実施担当者にこそ

是非にご一読して頂きたい記事であります。

『悪政を<悔い改めさせる>ための政治闘争はまだ終わっていない』

『我々一般国民のためにこそ志ある政治家には

最後まで諦めずに立ち上がり続けていて頂きたいのです』

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・<第3部 道徳は人々を結びつけると同時に盲目にする

~私たちの90%はチンパンジーで、10%はミツバチだ~>

⑨『第9章 私たちはなぜ集団を志向するのか?』

本章では、昨今の生物進化論における最新知見を参照しながら

発展してきた進化心理学の研究成果とともに

著者独自の『道徳』心理学への導入がなされています。

進化論を巡る論争にはこれまた錯綜した見解対立が根強くあることが

知られており、現在のいちおうバランスの取れた見方としては

『<個体>レベルと<集団>レベルの双方における選択的共進化』が

なされてきた・・・というところでしょうか?

本章の<まとめ>部分では

『自然選択は、集団を含め複数のレベルで同時に作用する。』

(本書339頁)

ものとして扱われています。

とはいえ、実際の『俗流(必ずしも主流派ではないのでしょうが)』進化論が

語られる文脈ではしばしば現代の世相(思潮/風潮)を反映させたような

<利己的>進化論を説く勢力が圧倒的な支配力を持っているように

感受されるところです。

著者はまずこの<利己的(『個体』レベルでの選択進化を優位と解釈する学説)>

進化論が次第に優勢と成り行く中でもう一つの重要な見方である

『集団』レベルでの選択進化論(マルチレベル選択進化論など含む)が

なぜ軽視されていったのかその経緯について分析考察しながら

現在では劣位に位置づけられることの多い

この『集団』レベル選択進化論に対する『復権』をも図ることを通じて

生物にとっての<共同体(社会有機体)>の意義やその重要な役割について

再考を促す論旨を展開されていくことになります。

ちなみに、著者自身の見解も『集団』レベル選択<仮説>の位置づけを

あくまでも進化論をさらに合理的に考えていく際の1つのヒントとして

十分に参考するに値すると評価されているのであって、

この見解が『全面的に正しい』とまで断言されているわけではありません。

『確証』するまでには至らずとも人間(生物)が

社会共同体を維持発展させるにおいて

『道徳』心理(特に『協調(忠誠)』志向)がいかに形成され、

それがいかに重要な意義を持つものだったかについて

理解を深めていくための視点が提供されるからこそ

有益な議論だと示唆されているわけですね。

まずはチャールズ・ダーウィンからジョージ・ウィリアムズ

リチャード・ドーキンスのそれぞれの見解を検討しながら

これらの論者も『集団』選択の<理論>的可能性については

いちおう示唆するものの、<実証>レベルにおいては

<理論>を裏付ける証拠事例は少なく、弱い・・・との主張があったことが

提示されていくことになります。

『動物界からさまざまな例を引きながら、それらのいずれも、

(くだんのシロアリの専門家のような)無邪気すぎる生物学者には

利他的な自己犠牲に見えるものが、実際には利己的か、血縁選択(シロアリの

例が示すように、血縁関係を通して自己に近い他の個体の遺伝子が恩恵を

受けるので、その意味で自己犠牲的な行動を理解できる)のどちらかである

ことが判明している《ジョージ・ウィリアムズ》』

『集団選択の可能性を認めながらも、集団レベルの適応に見えるケースの

実体を暴露している』《リチャード・ドーキンス》

つまり、『<集団>レベルでの選択進化はあくまでも<見せかけ(擬態)>に

しかすぎない』と説くわけです。

本書の著者は『道徳』心理学を分析考察するうえで

現在の『進化』心理学の底流にもある

このような<利己的(個体レベル選択)>進化論を優位に立てる見方が

生物にとって重要な『共同体』や人間にとっては

なおさらのこと重要な『社会』に対する実際のあり方(理想像)や

イメージ像(『観』)としても考えてみた際には

果たして真に適切妥当なものなのかどうかを繰り返し

対立する生物進化(論)学者(例えば、すでにご紹介させて頂いた

エドワード・O・ウィルソンなど。本書316~318頁など参照)の

研究知見なども比較対照させながら反証事例を提出していくことで

問題点を提出していくことになります。

『共同体(有機体としての社会)』を維持発展させるうえで

重要な役割を担う『道徳』観形成において

単に<利己的(個体レベル重視)>に極端に偏重させた学説の氾濫による

社会的悪影響をこそ著者も懸念されているからこそ

たとえ『集団』レベルでの選択進化論がなお<仮説>レベルにしかすぎない・・・と

評価されていたとしても決して軽く扱って見過ごすわけにはまいらぬ・・・といった

力強い意志(学者としての『良心(識)』)もあったからこそ

『集団』レベルでの選択進化が人間『社会』と『道徳』に果たした意義を

再度真摯に検討していこうではありませんか・・・という点に

著者の主張意図も込められていると感受するのです。

まとめますと、『道徳』心理学を分析考察していく際の大前提にある議論素材として

これまでの生物『進化論』が提供してきた一方(『個体』レベル選択)に

偏った見方をいったん公平な視点から捉え直しながら

人間の『集団』志向性とは真実のところ一体全体いかなる状態にあるものなのかを

再検討するうえで役立てていこうと提唱されるのが

著者の立場だということです。

『個体』レベル選択をより重視する見解に立つ生物進化論では

集団『内』の個体レベルでの競争と適応の結果として

副次的に『集団』が維持形成されてきたとする方が

いわゆる<フリーライダー問題>の観点からすれば

はるかに合理的な見立てではないかというわけです。

しかしながら、一方では集団『間(同士)』での生き残りを図る

戦略論としての進化形成過程理論<仮説>を考慮に入れながら

さらなる合理的解釈を練り出すのも意味がある知的作業だということに

尽きます。

前にもご紹介させて頂いた今西錦司氏によって提出された

進化論<仮説>などとも重ね合わせながら再検討していきたいものです。

このように『集団』志向もまた重要だという問題意識が

著者による本章における話題でした。

その『マルチレベル選択(集団選択を含む)』を深く理解していくための

補強証拠資料として著者は本章において

以下の4つを列挙されています。

A  <「主要な移行」による超個体の誕生>(本書312~318頁)

B <意図の共有による道徳マトリックスの形成>(本書318~322頁)

C <遺伝子と文化の共進化>(本書323~331頁)

D <迅速な進化>(本書331~338頁)

なお、最後のD  <迅速な進化>に反対する見解を提示された

本書でもご紹介されている古生物学者に

スティーヴン・ジェイ・グールド氏がおられますが、

本書評記事でも以前この方の著書をご紹介させて頂きましたので

ご興味ご関心がおありの読者様にはこちらの記事

ご一読頂ければ有り難く思います。

いずれにしましても、本章から別に学ぶべき点は

『(理)論』とか『仮説』とかいうものは

実際の検証とともに時代の風雪に耐え得るものと

その解釈も実際例に照らして合理的に説得力あるものでなければ

やがて淘汰されゆく運命にあるということです。

その意味で異なる対立見解にも配慮した

<比較分析考察>する知的姿勢が『学問』をしていく際には

欠かせないということですね。

それでは、その『集団』志向型原理とはいかに発生してきて、

機能しているものなのだろうか・・・?

その具体的な分析考察が次章で展開されていくことになります。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

⑩『第10章 ミツバチスイッチ』

本章では人間の<社会適応性>を考えるに当たって

進化の過程で次第に備わってきたとされる人間『本性』の二面性に

焦点が絞られていくことになります。

すでに前章までの要約論評で触れさせて頂きましたように

人類はその『個体』を集団『内』闘争と集団『間』闘争という

二重闘争の場面に応じて多面的生き残りを図れるように

適応進化を成し遂げることが出来るように成長脱皮させてきた模様を

見てきました。

『個体』だけが強すぎると他の『個体』との衝突が絶えず繰り返されることに

必然的になりゆくために<共倒れリスク>を抱え込むことになってしまいます。

そこで協力して相互防衛に当たりながらお互いの自滅を回避させていくための

『社会的』知恵が生み出されてきたというわけです。

『人間の本性(私たち)の90パーセントはチンパンジーで、

10パーセントはミツバチだ』

(本書342頁<まとめ>末尾、本書345頁)

この問題設定を主軸に見据えながら

本章では<ミツバチ(集団=社会適応性)>に焦点を当てた

さらなる検討考察が加えられていくことになります。

この<ミツバチ>モードへと切り換えることの出来る適応能力を

最近の進化心理学などの文脈でよく使われ浸透するようになった

<ミツバチスイッチ(仮説)>という用語を

著者も借用しながらその実像に迫っていきます。

さて、本章では著者の道徳「心理学」をさらに深めていくうえで

参考にされているバーバラ・エーレンライク氏による

『街路での踊り-集団的歓喜の歴史』で示唆された洞察知見をもとに

従来の西洋心理学が導出提起してきた見立てが

いかに狭く<汎用性>に堪えないものだったのかが

まずは摘出されています。

狭い「個人」心理学だけでは人類のこれまでの<社会>形成史の

深い『謎』に迫ることは出来ないからです。

この<社会>がどうして人類にとって重要な存在場として出現していくことに

なったのだろうか?

そこに<社会>(形成誘発)心理学の意義も出て来るわけです。

このエーレンライク氏がそのような従来の西洋「個人」心理学の

限界点突破を図るうえで<導き手>となった社会学者に

エミール・デュルケームがいました。

このデュルケームによって提起された『理論』仮説の詳細については

本章<集合的な情動>(本書347~351頁)をお読み頂くとして

要するにデュルケームの第1の<着眼点>とは

『個人の事実には還元できない「社会的な事実」が存在すると主張』

(本書349頁)するとともに

だからこそ人『間』という言葉がまさに<名が体を表す>ように

『間』主体的存在であることが条件付けられた生物であることを

明示させたうえで

『研究対象を個人(や二者間の関係)に絞る心理学者には説明しがたい

社会的事実』(本書351頁)を前面に押し出すことで

社会形成と人間存在のあり方を巡る<隠された真相>を解明することに

あります。

以下の論考ではいかにして人間が<ミツバチスイッチ>をオンにして

集団社会性に寄与していくのかに関する様々な事例について

触れられていくことになります。

とりわけ生物学的観点(<ミツバチスイッチの生物学>本書361~

366頁)からはオキシトシン<仮説>やミラーニューロン<仮説>などの

検討が、経営組織学的観点(<ミツバチスイッチの働き>本書366~

372頁)からは交換型リーダーシップ論と変革型リーダーシップ論の

比較対照考察が、そして最後に政治学的観点(<ミツバチの政治>本書

372~377頁)では『階層性を解体して、人々を共同体へと統合する』

(本書374頁)<社会原理機能>が

必ずしも全体主義体制(ファシズムなど)に全面奉仕するわけではない

とする<よくある誤解例>にも明快な回答が提出されている論考点などが

本章での読みどころとなります。

本章<まとめ>部にも提示されていますように

『私たちの心は、集団内ばかりでなく、集団間の競争に勝つために、

自グループの他のメンバーと団結できるように設計されているのだ』

(本書378頁)との着眼点だけを拡大強調していけば

そりゃ確かに左派リベラル的な共同体批判論によく見受けられるような

『<他グループ>に対する差別的/排他的志向性が内包されている

から危険で野蛮だ』との一方的見解にも偏っていくわけですが、

そうした志向性にはもちろん警戒感を抱くことも

<共倒れリスク>を回避させるためには必要不可欠ですが、

もともと人間(生物)にはよくわからん『異物』排除という

生理的排除機能(つまりは<行動免疫システム>本書239、247頁あたり

ご参照のこと)が進化の過程で本能的に備わっている以上は

これを完全排除/無視して、『世界に1つの花』的な

<バラ色の幻想>を振りまくのも非現実的だということは

気質的に共感するしないに関わらず、

どうしても軽視することが出来ない<不都合な真実>として

理解しておかなくてはならないということです。

結局、「個体」としてのヒト(単数形の人)は単独では孤立して

生き残りを図る存在としてはあまりにもか弱すぎる生物だということです。

だからこそこのような<神経過敏症>機能が働くのはやむを得ないのです。

単独で孤立しては生き残りを図る手段が極度に制限されているからこそ

人と人の<あいだ>で相互に有利となるような『取引』を持ちかけることで

協力態勢が少しずつ立ち上がり、やがて小さな<集団社会>が

形成されてゆくようになったというわけですね。

要するに、『まずは信頼関係のおけるよくわかる身内感覚を

共有し合える者同士』による<小>結合(家族/親族単位レベル)から

やがては<中>結合(会社組織レベルの<利益共同体>や地域社会や

国家レベルの<運命共同体>など)から<大>結合(世界連邦

共同体から最果ては宇宙共同体に至るまでの

<三千大千世界=『大霊界』のことか!?>)への

共進化へと次第に拡張されていくのが理想的なわけですが、

「個体」としての生存危機への恐怖感情を克服する術が

個々の生物体としてのヒトに開発されていかない限りは

無理な進歩志向こそ逆に進化発展の道から遠ざかるといった

逆説構造を抱え込んだ矛盾ある存在こそが

私たち人間でもあるという一点だけは

どうしても忘れ去ってはいけない視点だというのが

本書での主張点でもあるわけです。

ヒトとヒトとの<あいだ>を理想的に<取り結び合わせ>ながら

いかに<ウチ(垂直軸=右派志向)からソト(水平軸=左派志向)へ>

(実際のウチとソトはこのような政治的二分法で区分出来るものでは

ないことにご注意願います。現実には双方にウチとソト気質が内在しており

それぞれの環境条件などによって遷移するにすぎません。

ただ安定<閉鎖的静態秩序観=ウチ(内向性)>志向と

不安定<開放的動態無秩序観=ソト(外向性)>志向の

いずれをより好むかという「個体」気質の差異こそ

より大きくその性格形成を決定付けることになるわけですが、

どちらが正しく/間違っているかという話とも違う点だけは

誤解なきようその意をお汲みとり頂ければ幸いです。)といった

直線型進歩観でも捉えきることの出来ない

<ウチとソトをそれぞれに多元/多層構造的に重ね合わされた

複雑系生物>として人類は螺旋型進化を成し遂げてきたのかと

壮大な想いを馳せるのも

これまでの<教科書>的解説事例として大いに誤解される余地があった

『直線(一方通行)型』生物進化観(進歩史観)への見直しを図る

第一歩にも本書がなり得ているように評価させて頂きました。

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⑪『第11章 宗教はチームスポーツだ』

本章では著者が実際に体験された大学間対抗スポーツ大会における

熱狂感覚をこれから展開される宗教論に関する話題『素』となる

エピソードとして語り出しながら

独自の道徳心理学を構築するに当たってのアイディア形成に至った動機など

とともに触れられていくことになります。

前章までの論考では主に『道徳』に関する起源論について

最新の進化論争も踏まえながら議論を深めてこられたわけですが、

さらにその道徳規範意識を形成させるに至るおおもとを支える

情動意識の中でも強くある『宗教』意識と絡めた話題が

進められていくことになります。

『宗教』と聞くだけで大方の現代人は眉をひそめてアレルギー反応を

示すのがなかば常となってしまっている世相ですが、

私たちの社会共同体を存続発展循環させていく原動力(エネルギー源)としては

やはり強大な道徳規範意識や宗教感覚意識を外して考えていくことなど

難事だということです。

近現代『世俗』法規範の底流にある<信念>的要素もまた

実は長い歴史的叡智の蓄積があるわけで

その多層構造には近現代以前からあり続けてきた根強く

人類の<心>を捉えて離さない<情動刺激>的要素である

宗教や道徳/倫理『観』も

その支えとなっている(きた)ことも忘れてはなりません。

現代の法学教育の現場では軽視されるか、意図的な敬遠が

半ば公然となされてきた(いる)ようですが・・・。

この点について、管理人も母校(左派リベラル色がきわめて強い。

もっとも実務にも関与されておられる法学者の場合は別ですが、

それでも実務家肌の法学者の場合にはビジネスライク

<=価値観を挟まない公平中立な客観的事務処理志向をする>な発想を

される傾向が強く、こうした法の『理念(ある意味でまさに<信念>)』を

支える根底的<信仰>要素といった超重要な<情動信念>体系についてまでは

踏み込んで触れられることがほぼなかった)での学生時代を過ごした頃に

違和感を覚えた経験記憶が甦ってくるのです。

このような管理人固有の個人体験からも

私たち現代人の『世俗』感覚意識の底流をなす

<信念>や<信仰>観といった要素を決して軽侮してはならぬ点も

注意喚起させて頂きたいのです。

なぜならば、その旧来型の『保守』的道徳(宗教)規範意識なき

法とその理念への<信頼>感が醸成されていませんと、

刑罰(法による社会的制裁)にも何ら意義ある効果も得られないからです。

その意味で社会『共同体』所属意識が希薄化されていく一方である現代の風潮が

さらなる暴力を誘発させていく(とは『防犯効果』が脆弱化するということ)と

いう点でもきわめて危険な状況に置かれているということです。

近現代以前の<私的制裁(仇討ち)>を禁じたのが

近現代司法制度文化の背景をなす重大な<掟>なわけですから、

このように『共同体』秩序が崩されていく風潮は

近現代社会秩序を暗黙の了解事項として支えてきた基礎土台を掘り崩し

その<私的制裁>の禁止という大前提条件すら剥奪されていく可能性といった

矛盾逆理へとたやすく突き進んでしまうからですね。

今こそ法を単なる『道具』として軽々しく取り扱う『ゲーム』感覚ではない

昔ながらの真の『法と秩序』観も回復させていかなくてはなりません。

それこそが『社会正義の実現と基本的人権の尊重』という

危うい天秤棒を『衡平』に保つ道だと信ずるからです。

そのような司法を取り巻く社会環境条件の変化の流れの中で

さらに実際の紛争時における法『解釈』学によって磨かれた

鋭い攻撃防御方法のすさまじさやその『適用』の実際のあり方についてまで

考慮が及ばずに不利な状況(あくまでも双方ともに<当事者対等な立場に

あることを大前提にしたうえで、なおのこと不利な立場に置かれたものと

認識感受させられてしまう場面をご想像頂くと

この話の趣旨が理解しやすくなりましょう。)へと追い込まれてしまう矛盾が

出て来ることに『納得』できない場面を経験されるのが

一般人における通常の法廷体験感覚だとも申せましょう。

ですから、法廷現場や法解釈(適用)の実際判断のなされかた(習慣など)を

知り尽くした人間でないと『納得』できずに泣きを見る羽目に陥ることが

多々出て来るわけです。

このような事情を飲み込めない依頼者を『説得』することは

人情味溢れ、実務能力にも長けた優れた弁護士さんでも難題事でしょう。

ドラマではこのような場面が「ネタ」として面白くなりますが、

『事実は小説よりも奇なり』ということで

現実社会では出来れば回避したい厳しい<修羅場>となるのです。

しかも現在の司法判断は総じて極端に『甘すぎる』か『厳しすぎる』かの

二者択一的傾向にあると感受評価されることも

<信頼感>を喪失させているのですね。

つまり、総じて『バランス感覚が見事なまでに欠如している』か

『歪んだ<正義感(観)>に基づく歪んだエリート意識』で

一般国民にとっても予見可能性が見通せなくなり

恐怖感情支配にとらわれてしまうことになるのです。

これがもし『冤罪』などに巻き込まれたとすると・・・。

目も当てられない『悲劇』が待ち受けていることになります。

そのような風潮がさらに一般公衆の司法組織や司法裁判への<信頼感>を

喪失させていく最大要因となってきてもいるわけです。

左派リベラルにせよ右派保守(とりわけ英米の特定学派固有の<すべてでは

ありません。別の問題意識をもった学派もあるからです。この点で

学問される方には学派の底流をなす思想哲学や問題意識には

十二分な注意と思慮を働かせて≪学びの道≫を進んで下さるよう願います。>

【法と経済学】派の影響下にある実務専門家。ことに新自由主義志向型の

歪んだ功利主義観を持つ勢力層)にせよ

現代の司法官僚にはこのような意味での『人間を知らない』ロボット感覚を

有した杓子定規な判断解決法しか持ち合わせていない人種が

あまりにも多すぎます。

ために人工知能論の文脈でも司法業界への改革(悪)圧が

ますます強まっていく結果、『人間』そのものへの

恐ろしい<淘汰圧力>もますます激しくなっていくという悪しき風潮を

生み出してきているわけです。

その意味でも基礎教養としての法哲学や法思想史、

法社会学、さらにはこんな分野があるのかはわかりませんが

法『民俗』学を十二分に身体感覚としても馴染ませたうえで

これからの『人間』としての実務専門家志望の若い読者様には

願わくば目指して頂きたいのです。

このような現代の『世俗』司法文化の場面ですら

宗教や道徳に対するアレルギー反応を強く持つ読者様におかれましても

決して軽視出来る問題ではないと感受しますので

注意喚起させて頂きました。

さて、本章要約でこれから検討していきますように

現代の『無』宗教(神)論者の方々はたいてい

『理性』という<啓蒙>意識を天まで高く持ち上げることに必死で

その『理性』意識に対する極度な<信念>もまた

<信仰(宗教的感覚情念の変形物)>のいち形態であることを

自己忘却されているようです。

著者もまた『理性』が果たす役割・意義について決して軽視されている

論者ではありませんが、現実的感覚や最新の脳科学や認知心理学などの

一連の研究知見の積み重なりの結果を総合評価したうえで

やはり人間にとって『情動』には『理性』を打ち負かしてしまう(と言えば

誤解を招くおそれがありますが少なくとも)、つまり、

<制御/掣肘>を加えることの出来る強大な『力』があることは

認めざるを得ないとの論旨を強調示唆してこられたのです。

その論点につきましてはすでに<第1部>で主に重点的に触れられています。

この問題意識を大前提に

本章では道徳心理形成の基礎土台のひとつをなす『宗教』論について

展開されていくことになります。

この<第3部>におけるタイトルは

『道徳は人々を結びつけると同時に盲目にする』でありますが

『宗教』にも共通する性質があります。

本章では前半部(人々を結びつける)の<正(プラス)の側面>である

社会共同体<結合原理機能>に関する論点を『主軸』に

分析考察が深められていくことになります。

ここで<正>と<負>の『宗教』論に対する見立てが

<新無神論者の宗教心理モデル 図11.1>(本書386頁)と

<デュルケーム流の宗教心理モデル 図11.2>(本書388頁)を

比較対照考察の参考像としながら著者自身による

『道徳の定義』提起への道標となる検討がなされていくことになります。

著者の道徳論をなす根底には<規範的(~すべき論)>見立てよりも

<記述的(~である論)>見立てが他の近現代啓蒙主義型哲学者に

数多く見受けられるように色濃く残されていますが、

他の『個人志向色』の強い『功利主義者』とは異なり、

デュルケームらが示した『社会志向型』要素を取り入れた

拡張改善版である点に特色があります。

それでは著者自身による道徳システム(著者は機能主義的解釈を

されている)の定義について引用しておきますね。

『道徳システムとは、一連の価値観、美徳、規範、実践、

アイデンティティ、制度、テクノロジー、そして進化のプロセスを

通して獲得された心理的なメカニズムが連動し、利己主義を抑制、

もしくは統制して、協力的な社会の構築を可能にするものである。』

(本書416~417頁)

いずれにしましても、著者の問題意識からは

これまでの『個人志向型』功利主義/進化論/無神論へと傾いた

道徳論だけでは、より強い『社会』的生物としてある人間の

道徳心理の実像を十二分に理解していくうえでは

もう一つ説得力に弱点があるだろう・・・というに尽きます。

まとめますと、これまでの『個人主体』志向の各種理論仮説だけでは

「なぜこれほどまでに人間が他の生物と異なって、ここまでの

高度な文化文明社会を構築出来るようになったのだろうか?」の

謎に迫るにはあまりにも力強さに欠けるということです。

やはり人間もまた『(人間)理性』以上(もちろん、

とりわけ『神』概念も『理性』の産物といえば言えますが、

『理性』的要素だけではなく『情』意識に根ざした<知性>感覚も

宿した点を加味させた)の人間意識次元を超え出た

『超越』理性とでも呼び得るような

『超』個体的象徴物の創造介在なくして

人類の高度進化は成し遂げられなかっただろうことが

示唆されているわけです。

これもまたあくまでも1つの<仮説>としての見立てですが、

どちらの<仮説>により説得力があるかどうかが

とりわけ『社会科学』を論じていくうえでは重要な視点ということに

なります。

これによって『利己的』進化論ではなかなか乗り越えがたかった

共進化による社会形成過程における『集団選択(マルチレベル選択)』論による

その<フリーライダー(ただ乗り)>抑制論への弱点に対して

うまく相互補完論理として導入させることを通じて

より人類の社会形成における道徳心理規範意識の活用のあり様について

補強論証がなされることになりました。

次章ではいよいよ『政治』的争点を巡る道徳心理観による

相違点と共通点に関する論点整理に関する話題に移行したあと

<総まとめ>として締めくくらせて頂くことにいたしましょう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

⑫『第12章 もっと建設的な議論ができないものか?』

本章ではこれまで見てきたように左派リベラルと右派保守とのあいだに

おける根深い対立がなぜ深く進行していくのかを巡る論点について

分析考察がなされていきます。

ここでは著者によって提示された6つの<道徳基盤理論>に基づいた議論と

独自調査結果(本書ではYourMorals.org)を分析道具として

もっともその対立点が大きくなる政治的争点を題材に

その背景にある分岐点解析から判明してきた道徳心理学的理由を

吟味することを通じてさらなる理解を深めていくことになります。

<道徳基盤理論>に基づいた論点提示と整理につきましての

詳細な議論はすでに第6章と第7章を中心に語り終えさせて頂きましたので

ここではさらに深く掘り下げることは控えめにさせて頂きます。

ここまでの議論の要点は、第8章で特に問題提起されていましたように

左派リベラルと右派保守のいずれが正しくて間違っているかという点を

ことさら強調してさらなる政治的対立を煽ったり、

特定の党派への勧誘を意図するものではなかったことを

再度強調して注意喚起させて頂きます。

第8章での結論部分こそが最重要問題提起であったわけです。

つまり、<道徳基盤理論>で掲げられたそれぞれの道徳基盤について

『3対6』(※全部で6つのカテゴリーがある)で

左派リベラルに対して右派保守からの人々の道徳心理に訴えかける要素が

より包括的なために文脈に応じてより柔軟な対応と説明が可能となるために

どうしても『説得力』の点で優位性が出てしまうのだと・・・。

特に世の中の状況が厳しくある時には人間の『本音(本能的反応)』が

より強く出て来るために左派リベラルによる温情(理性)的解決法のような

甘く感受されやすい見解には欺瞞性や不満足感を与えてしまうことが

多々あるからなのでしょう。

要するに、人間が危機的状況に晒された時には

どうしても本能的な『守り(まさに保守的姿勢)』に入りやすくなるといった

身体生理的反応(=情動反応=本書では<象>とのたとえ)があることを

左派リベラルの場合には忘却もしくは軽視する傾向に陥りやすいということです。

再度第8章の小見出し『3対6』で示された要点を引用しておきましょう。

『リベラルは<ケア/危害><自由/抑圧><公正/欺瞞>の3つ、

保守主義者は6つすべての基盤に依存すると書き直すべきだろう。

ただしリベラルには、思いやりや、抑圧への抵抗と矛盾する場合、

(比例配分としての)<公正>基盤を進んで放棄する傾向が見られる。

また、リベラルと比べて保守主義者には、たとえ誰かが傷ついても、

<ケア>基盤を犠牲にして、それ以外の種々の道徳目標を達成しようと

する傾向がある。』(本書291頁)

そのうえで、比較相対的に評価して左派リベラルは『個人(体)』志向に

あることが多いのに対して右派保守には『集団(社会)』志向にあることが

多く見受けられるという点も人『間(あいだ)』の『社会的』生物としての

性格存在上、生存法則上の観点からも他者からの評価点が多くあればあるほど

端的に生き延びる確率が高まりやすいという利点もあるからです。

それでは生まれながらにして左派リベラル志向になるか右派保守志向になるかの

分岐点はいかなる点にあるのでしょうか?

それには先天的要素(遺伝子に由来する性格・気質)もあるものの

概して当人の置かれた外部環境から受ける影響力にいかに対応する/していったかと

いった経験値的要素も大きく関与してくるために

なかなか明確な断言をすることまでは出来ません。

そのあたりの詳細な分析考察は、

・遺伝子から道徳マトリックスへ(本書426~428頁)

・ステップ1-遺伝子が脳を形作る(本書429~430頁)

・ステップ2-さまざまな特徴が子どもを異なる経路へと導く

(本書430~433頁)

・ステップ3-人は自分の人生の物語をつむぎ出す

(本書433~435頁)

においてなされています。

いずれにしましても、前にもどこかで少し語らせて頂いたように

人間とは左派/右派というステレオタイプ(典型的イデオロギー定義が

描くような型にはまったイメージ像)で区分しきれる

明快な単純性格を有する存在ではないということです。

その人間がいかなる問題にいかなる態度で接するか、

状況認識判断力の違いや同時問題に遭遇した際に

居合わせた人間(組織)同士の相互関係性(つまりは、<ご縁>)などなど

多種多様な変数要素が複雑に絡み合ったうえで

反応をするのが通常人(イデオロギー即応型政治的人間=原理主義者では

ない限り)なのですから、

普段左派寄りと評価される人間でも右派的反応をすることもあれば

右派寄りと評価される人間でも左派的反応をすることも

普通にあり得るわけですから。

とはいえ、いかなる人間にもいずれの政治的志向性(右派か左派か)が

より強いか弱いかという性格気質上の問題はやはり出てきます。

当該問題に直面した際にいかに考え行動するかは

俗に言う『是々非々』判断があるとしても

そこには普段からの問題意識の強弱や情報収集分析能力の多寡など

『情』況に左右されることが通常ですから

問題対応として左派的解答を出すか右派的解答を出すかも『未知数』で

あることも実際のあり方であります。

本書での左派/右派の定義は

もちろん一般的に評価されている『政治的位置関係』によるものを

採用されていますが、主題は<道徳基盤理論>をもとにした

道徳『心理』学的観点からのそれぞれの見立て(身体感覚性や質感、

イメージ像など)にあります。

これらの複数の要素を抱えているのが生身の人間だということを大前提に

『それでは一見価値観が異なるように見える者同士が

いかにして接していけば<もっと建設的な議論ができるようになる>の

だろうか?』という問いをさらに見ていくことにいたします。

著者による結論としては左派/右派のそれぞれの長所を

『相互補完的(本章では<陰と陽>のたとえを活用)』に捉えていくことを

推奨されています。

この論点を考察していくに当たっての問題提示が

あらためて著者のプロフィール開示とともに

本書で検討されてきた研究知見とともにまとめられていくことになります。

繰り返しになりますが、著者自身による政治的感受性は

『リベラル志向』とのことでしたが、

様々な人生体験を積み重ねていくうちに

右派保守志向にある人間が抱える問題意識にも

少しずつ共感共鳴する点も多々見出すことが出来るようになった経緯と

旧来の左派リベラルの持つ脆弱性や盲点についても反省を迫られるようになった

模様が語られています。

著者によると最大のリベラルの<盲点>とは

『道徳資本が持つ重要性に対する理解の不十分さ』という点にあるようです。

詳細は<リベラルの盲点-道徳資本>(本書442~451頁)

ご一読されることに委ねさせて頂きます。

著者による『道徳資本』の定義とは・・・。

『道徳資本とは、進化のプロセスを通して獲得された諸々の

心理的なメカニズムとうまく調和し、利己主義を抑制もしくは統制して

協力関係の構築を可能にする、一連の価値観、美徳、規範、実践、

アイデンティティ、制度、テクノロジーの組み合わせを、

1つの共同体が保持する程度のことである。』(本書448~449頁)

この『道徳資本(広い意味でのいわゆる<社会関係資本>の一部をなす)』概念を

中心に左派/右派の長所を析出しながら、

『「公共政策は両陣営から洞察を引き出してこそ真の改善が図れる」ということを

指摘』(本書452頁)することを通じて

『よりよい政治』へとつながる道を探究していくことになります。

このような問題意識のもとで

本章では<1つの陰と2つの陽>(本書451~474頁)で

それぞれの特徴分析がなされていくわけですが、

ここでの『陰』を<左派リベラル>に

『陽』を<右派保守>としてさらに2区分されて論じられていくことになります。

後者の『陽』にはより<個人的自由志向性>が強いと評価される

近年浸透してきた<リベラル(英語のリベラリズム=liberalismには

すでに左派色がついてしまっている)>への対応造語としてある

<リバティ(英語のリバティ=libertyには『・・・からの解放(liberate)』と

いった意味合いが強くあるためにより自由度が高まるといった色合いから)>に

由来する『(自由を神聖視する)リバタリアン』(本書480頁)と

旧来の右派保守が示してきた世界観により親近感を持つ

(特定の制度や伝統を神聖視する)『社会』保守主義者(同頁)を対比させています。

この3者3様をそれぞれ比較分析しながら

それぞれの偏りすぎた価値観による一方的暴走が許されていけば

社会が『崩壊』してしまうだけの点を憂慮して

それぞれの長所でもって『相互牽制』させていく視点を取り入れることで

価値観の異なる者同士が落ち着いて安心した生活を営めるようになる

環境条件を整える<よりよい政治のために>なすべき視点と

行動姿勢について最後に総検討されています。

『道徳は、人々を結びつけると同時に盲目にする。

「それは反対陣営に属する人々のことだ」と思う人もいるだろうが、

そうではない。私たちは皆、部族的な道徳共同体に取り込まれてしまうのだ。

1つの神聖な価値観のまわりに肩を組んで集い、なぜ自分たちはかくも

正しく、彼らはいかに間違っているかを説明し、合理化する議論を繰り返す。

私たちは、異なる見解を持つ人々が真理、理性、科学、常識に対し盲目だと

考えたがるが、実のところ、自分たちが神聖と見なす何かに話が及ぶと、

誰であれ目がくらんでしまうのだ。

あなたがよその集団を理解したいのなら、彼らが神聖視しているものを

追うとよい。まずは6つの道徳基盤を考慮し、議論のなかでどの基盤が

大きなウエイトを占めているかを考えてみよう。

より多くを学びたいのなら、まず自らの心を開かなければならない。

他集団のメンバーと、少なくとも何か1つのものごとに関して

交流を持てば、彼らの意見にもっと耳を傾けられるようになり、

もしかすると集団間の争点を新たな光のもとで見られるようになるかもしれない。

当然、同意できない場合もあろう。だがそれによって、たとえ見解の

不一致は残ったとしても、マニ教的な二極化を脱して、より互いを尊重し合える

建設的な陰と陽の関係を築けるのではないだろうか。』(本書477~478頁)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

⑬『結論』

※本章ではあらためて本書の<総括>がなされることになります。

結局のところ人々が価値観が異なるのは

著者の提示した『6つの道徳基盤(著者は6つに分類されていますが、

各人各様でさらなる追加基盤<+オプション>を添加しても一向に

構いません。)』の<組み合わせ>方とどの基盤に比重を置くか次第だ

ということです。

またその比重が置かれた基盤についてもさらにその内部での

解釈見解やイメージ像の違いによって無数の価値観が創出されていく

ことになるわけですが・・・。

『無限』の価値というものも

『単独(唯一)』の価値<道徳一元論者>というのも

『どれでも価値は同じ』<価値相対主義者>というのも採用せずに

アイザイア・バーリンによる哲学的洞察知見を引き合いに

<価値多元主義>的見方から人間理解の可能性を抽出されています。

『多元』とはその名のとおり<次元(観点)>が複数かつ重層化して

成り立っているとの見立てです。

順位(序列性)や優劣関係はひとまず留保して

価値そのもののあり方を虚心坦懐に眺めた時に見えてくる眺望のような

イメージでしょうか?

いずれにしましても、異なる価値観を有する者同士における

勝敗を決する(敵/味方に分断対立させる)ような志向性を持つことには

否定(拒絶)的(といっては誤解もありますが)というよりも

警戒的な見方をされています。

最後に本書からの<教訓>を引用して閉幕させて頂くことにいたします。

『異なる道徳マトリックスを持つ人と出会ったなら、次のことを

心がけるようにしよう。即断してはならない。いくつかの共通点を

見つけるか、あるいはそれ以外の方法でわずかでも信頼関係を築けるまでは、

道徳の話を持ち出さないようにしよう。また、持ち出すときには、

相手に対する称賛の気持ちや誠実な関心の表明を忘れないようにしよう。』

(本書485~486頁)

この<教訓>は社会的エチケットとしての政治や宗教ネタなどの

人々の良好な関係性を引き裂きかねない時事批評を

居酒屋論議などの場で持ち出す際にも注意をもって思慮深く、

慎ましやかでありたいものだと示唆して下さっているようです。

著者も<はじめに>(本書14頁)で

このエチケット指南本のエピソードに少し触れられていますが、

あくまでも『絶対にするな!!』とは主張されていません。

この点に関する話題でこれからの<デジタル>社会促進のかげで

見失われていくことも危惧される『人間関係論』とともに

触れさせて頂きたいのですが、

すでに要約記事も長くなってきておりますので

後ほどあらためてエッセーコーナーにて語らせて頂くことに

いたしましょう。

<予告編>として簡単に本書における問題意識とも絡む

要点についてだけ触れておきますと・・・。

<デジタル>社会化が促進されればされるほど

人間関係がわかりやすい社会指標で「○(0)」か「×(1)」かに

評価選別されやすくなることから恐怖感情が呼び覚まされる環境が

常態化していく傾向になるために

社会が不安定化したり、社会評価として落伍者と見なされると

再挑戦が著しく難しくなることが予想されるなど

これまでの<アナログ>社会では『寛容』に評価されてきた長所が

剥奪されていくことになりはしまいか・・・という論点であります。

つまりは、やり直しがきく『相対』評価から

やり直しがきかない(しにくい)『絶対』評価の社会へと

変容していくだろうということです。

さらに本書で提示されたような道徳心理学的観点からの定義で

人間が柔軟に多元的視点から捉え直されて相互協調できる道を

求めていく姿勢(互譲可能性と『忍耐と寛容』ある社会)ではなく、

特に政治的観点からの<敵対関係>で評価されやすい

最単純定義モデルに基づく「右/左」のレッテル区分でもって

ひとたび時の政治権力から『認定(監視対象に)』されてしまうと

<好ましからざる者>として社会抹殺される危険性が

著しく高まっていくのではないかという一抹の不安についてであります。

<デジタル>処理に馴染みやすくなるからです。

つまりは、『自由民主主義』体制の衰退、その最果てには

崩壊へと至りかねないひたすら奈落の底へと転落していく道を

辿るおそれも十二分にあり得るのだと警戒しておかなくてはなりません。

それは、1人1人の貴重な人生における『時空間』への侵略。

内なる『魂』への介入を伴った超絶『管理』社会へと突き進むかもしれません。

もっともその流れを堰き止める道は

<デジタル>化そのものを阻止するのではなく(『長所』は活かして、

人間による『労働』時間短縮によるゆとりある本来の豊かな人生時間を

創出させていく志向性を持たせた<生産性>向上であれば大歓迎なのです。)、

その『短所(弊害的側面)』にも徹底配慮した制度『構築』と

実際の『運用』のあり方をいかに定めていくかで

私たちの近未来が<希望>になるか

<絶望>になるのかが決定されていくということです。

このように今後の<デジタル>社会化が進展していく過程での

政治的確認抑制手段をいかに強化していくかが問われていくということです。

その際の最大障壁技術革新の速度に

私たちの現状認識判断能力(向上)および点検実施の速度が

追い付かなくなっていくという問題点であります。

ここでも『(考え立ち止まる)時間』が確保されるような

生活社会構造であるかどうかが厳しく問われるわけですね。

このような社会構造と『文化的』認識が

まだ残されているのかどうかを図る<試金石>が

今年の時事には数多くあったように評価しています。

『現状はきわめて<ゆとり>のない厳しい危険水域にある』

その徴候は世界の特定諸国のあいだで激しく闘わされてきた

『自由民主』体制を護持する闘争のみならず

すでに我が国の『日本学術会議』問題でも見受けられます。

安全保障上の論点や任命過程における不透明さの是正(つまり、

会員間もしくは会員と『非』会員とのあいだにおける

研究費獲得優遇措置などに絡む不公平是正など)は

もちろん今後とも徹底して監視と改善させていかなくては

ならぬことは論を待ちません。

(少なくとも現状の公金で運営される団体形式ならばなおのこと、

仮に<民営化>されたとて我が国教育がいかに民主主義を

成熟させていくうえで重大任務を帯びているかに鑑みれば

私立<民営>であっても文部行政<国家(公的)>による

厳しい目が入ることはやむを得ません。特に教育に名を借りた

『洗脳』工作員潜入の隠れ蓑などにされれば青少年<に限らず

『学問』に励む善意の学生>に多大な被害と場合によっては

膨大な犠牲者が生み出されかねないからです。

本来の落ち着いた教育学習環境の下で各自の『信念』と

『責任(使命)感』に基づいて批判意識を高めながら、

『社会』と『個人』との接点で適切妥当な『道』を求めることこそ

『学問』の本道であり最高自由学府であることの何よりの証明と

なるのですから。

このような問題意識と行動実践を伴ってこそ

『大学(学校教育研究機関)の自治』も護持されるものと確信しております。

戦後<に限らず特に近代以後の>我が国における

教育行政が歩んできた光と影の双方の歴史から

誠実に学ばなくてはならぬ教訓なのです。)

ですから、任命拒否の部分だけに過大な焦点を当てた

問題解決策を探ったとしても存続派と廃止派双方にとって

何ら良き『出口(解決地点)』を見出すこともないでしょう。

『学問』と『自由』を愛する管理人にとりましても

この問題をただ単なる高等教育/研究機関内での

学者間の<権力闘争(学閥縄張り争い)>の一環にすぎないのだとして

世間一般にも狭く軽く取り扱われていく風潮をこそ憂慮しているのです。

近現代以前の我が国の教育『理念』を巡る歴史からも

今こそ学びたいものですね。

<受験の神様>でもいらっしゃる菅原道真公にあやかって・・・。

正しく優れた『学問教育』の成果が

いかに優れた政『道』へと導いていくか・・・。

このような問題意識を徹底して考え抜かれた

名政治家でもありました。

果たして現在の日本にこのような高次意識でもって

この問題を眺望できる人間がいかほど残されているでしょうか?

ですから、『私には関係ない』

『だから大丈夫』なんて思っていますと・・・。

任命拒否された会員について共感するかしないかにかかわらず

この問題を軽く見ていますと

『やがてあなた様も痛い目に遭うかもしれませんよ』ということです。

そのあたりもさらに掘り下げて

エッセーコーナーにて考えてみることにいたします。

ということでひとまず要約記事コーナーを閉幕させて頂きます。

まずは久方ぶりの長文要約記事を

ここまでお読み頂きまして誠に御礼申し上げます。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

・<謝辞>

・<訳者あとがき>

・<参考文献>

・<原注>

・<索引>

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

人間が不確実な世の中で安心して生きていくためには<デジタル志向>だけでは不十分だ。不測の事態に備えるための<アナログ志向>にも立脚した制度設計思想を積極採用する意志を持とう。~<ファジー=レジリエンス(融通無碍)理論>の心も忘れるべからず~

それではここからは年末雑談コーナーということで

くつろぎながら以下の話題を<肴>に皆さんにもお考え頂く時間と

いたしましょう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

まずは本書第8章要約記事内において語り残しておいた

BI(ベーシックインカム=基本生活所得保障制度)論から始めます。

さて、日本においては左派/右派を問わずに根強くある

BI実現へと至る道のりをきわめて厳しいものとしている

上記章内で取り上げさせて頂きました

<公正>『観』を巡る見解対立が制度導入実現への道に至る

最大障壁となっているように感受される点ですね。

この道徳心理学観と勤労観がその最大要因となっている

だろうということです。

言い換えますと、一見すると『共助・公序』志向の左派リベラルの方が

『自助・自立(律)』志向の右派保守よりも

賛成論へと傾くかと思いきや

意外にも左派リベラルの中にも反対論へ傾く論者が

かなりの割合でいらっしゃるらしいことも

この制度論議に詳しい有識者のあいだでは

話題になってきているように見受けられるからです。

ここでも左派/右派の<ねじれ>現象が起きてきているというわけですね。

ところで、こうした問題とは別の話題として

最近激しくバッシングを受けている元大臣氏によるBI論への

批判意見(に対しましては管理人も基本的には

共感同意しておりますが・・・)も数多く提出されている中で

にわかにこのBI制度への関心が高まっているようです。

この元大臣氏が提出した見解の背景にある発想(新自由主義思想による

過度なまでの自己責任論に依拠させた企業内福祉コスト削減による

増収増益誘導へと至らせる方便として国家にその財政負担だけを

肩代わりさせて経営層や株主資本家だけに都合がよいように

従業員の福利厚生を圧縮させていこうとする志向性。

さらに経営判断の失敗を国家責任へと転嫁させる論法なのか?

これこそ意図せざる(もしくは意図した)社会主義経営への転換なのか?

このような志向性を持たせれば

従業員=労働者層との<連帯感>を削ぎ落としながら

社会共同体の一部としての役割を放棄して単なる収益マシーンとしての

純粋営利団体へと社会的地位が格下げされるだけなのに。

そのような発想の企業団体が増殖していけば

中長期的には従業員の働く意欲を殺ぐことになり、

生産性も著しく下落してかえって自社の収益逓減を招き寄せることに

なるだろうに・・・。いずれにせよ、従来の資本主義制度が『理想』として

描いていた経済像<観>とは大きく様変わりする端緒をつくるだろう。)とは

また別の観点からも制度導入に当たっては

是非とも慎重に考えておきたい点があるわけです。

いずれにしましても一般国民(庶民)にとっての

21世紀現在の我が国の現状を鑑みた上での

『健康で文化的な最低限度の生活』(日本国憲法第25条)水準とは

いかなる地点にあるものなのか(良質な雇用労働/経済環境とは

いかなる水準にあるべきなのかも含めて)という点につき

<アフターコロナ(コロナ禍収束後)>における近未来社会の変わり様も

見据えた実りある議論と政策実現導入を願いたいものです。

ここで皆さんにも当該制度への理解促進と

その制度導入後における理想的運用のあり方を

ご一緒に考えて頂くために

1つの私見を提示しておきますね。

このBI『観』が完璧なものだとは思わないで下さいね。

あくまでも試論(議論を深めていくための叩き台としての参考意見)にしか

すぎないことをお断りしておきます。

管理人が理想と考えるBI制度導入後の社会像とは

国民の働く意欲を剥奪させない水準なぜならば『供給能力』の担保こそが

国民生活を保持し続けるための大前提であり、

BIによって提供される貨幣量水準と

この『供給能力』と『需要能力』との真のギャップ<差額>を

常に注視したマクロ経済政策運営こそが恐るべきインフレ抑制にも

役立つからです。←この将来の『供給能力』不足の点こそ恐れるべき

真のインフレ対策であって、現在の深刻な慢性デフレ状態下における

過度なインフレ抑制対策は

むしろ『幽霊の正体見たり枯れ尾花』的幻影にしか過ぎず、

それを信じ込みすぎた結果、

さらなる長期デフレ化を招き寄せてきたことに加えて

『供給能力(供給過剰状態【余剰分を指してここが問題だから

圧縮させよと説く悲観論者が持て囃されてきたようですが

余剰分そのものが悪いわけではなく、適切な在庫調整管理と

『民間』需要不足のためにそのまま市場価格に委ねていれば

一方的な値崩れ現象を引き起こし、結果として労働者賃金<所得>の

下落を招き寄せ社会貧窮化への道をまっしぐらに邁進させていくだけだ・・・

というこの『構造』こそが問題なのです。

このようなデフレ化においては政府<公需>でもって買い支えておき、

震災などの有事対策として備蓄しておくという発想もあるわけです。

これこそ故宇沢弘文氏など真に志高き経済学者が提唱されていた

<社会的共通資本>という発想でもあるからです。このような

余剰分もいざという時の<溜め>になるのだという視点を忘れた

『新古典派(自由主義型)』経済政策論があまりにも世論を

迷わせ、市場構造(←生身の人間によって支えられている生活時空間の

一部をなす)そのものをも歪めている】)』を

下方修正させて無理矢理にも『需要』水準に適合させていくことで

さらなる将来(中長期に向けられた)の『供給能力』を

毀損させていったのが現在の経済状況だということです。

それがまさに今起きてきている医療インフラ『崩壊』現象の

実態像であり、『真相』だということです。

そして民間(<地方>自治体)だけでは

もはや何とも手の施しようがないから

最終的に国家(<中央>政府)に泣きつくという

まるで『漫画』のようなことが実際に起きているのです。

決して『財源(お金)』が足りないわけではないのです。

また唯一の『財源』を税金に求めていくという発想も

非現実的で実際には有り得ないという点も

少しずつ一般国民のあいだにもその構造と理解が浸透してきています。

『供給能力>お金(なぜならば、財源問題は国家に通貨発行特権がある以上

供給能力が過剰に保持されている限り(←ここがインフレにならない要点。

デフレ現象はよくないことですが、唯一の利点はモノやサービス、

人員が余っているという点です。この余剰分をいかに生産的に機能させる

ことが叶うかで皆さんも生活困窮者に追いつめられることなく幸せな安心生活を

過ごせるようになるのです。それでも(人員不足による生産余力が)

不足してくるようなら将来への<純粋機械化>による自動生産設備整備へと

向けられた設備投資意欲が湧き出てくるはず・・・と描くのが

<好況時(平常時)>の経済学なのですが、

戦後<平和ボケ>日本の経済学では今回のようなコロナ禍<有事>を

想定外のものとしてきたがために惨憺たる有り様を招き寄せたという

教訓も引き出せるわけです。今後はこの『禍』教訓をいかに活かして

『福』へと転じさせていくかが課題ということなのですが・・・)という

優先劣後関係になっていることをご理解頂けるかどうかが

我が国(だけではないですが世界の)経済を再生起動にのせていくための

必要な『力』となるのです。

やはり経済学理解の肝心要な点は

<短期>と<中長期>といった時空間把握にこそあります。

とりわけ不況期においては絶対的に<短期>重視の正しきテコ入れ政策が

必要なのです。

ですから、現在のように

ちびりちびりと『財政支出(兵力)』の逐次投入方式でやっていると

やがて『兵站(兵糧補給/物流システム)』そのものが機能喪失を起こして

我が国経済は壊滅状態へと追い込まれてしまうことになるのです。

それこそが先の大東亜(アジア・太平洋)戦争期に学び取ったはずの

歴史的教訓なのです。

その前提条件が十二分に整って人々が安心して

経済生活を過ごせるようになった状況が実現できた先に

近未来社会(中長期)を見据えた正しき『構造』変革も考えていくべきだ・・・

ということで絶対にその優先順位を間違えてはいけないのです。

それを徹底して間違えてきたのがこの『失われた○○年』だったのであり、

そこにさらに最悪の疫病が追い討ちをかける中、

さらに間違った方向性を辿ろうとしているのが現政権や

メディアに露出している(きた)主流派のエコノミスト連中による

経済『観』だったというわけです。この『観(緊縮志向とひたすら不安定さを

増させる間違った構造改革志向)』の転換こそが

一般国民が真に求めていることなのです。

すべての大本にあるこの誤れる経済『観』の転換なくして

国民国家における安全保障の盤石な備えも確立し得ないということです。

保持されていることを大前提条件に展開されている

『持続可能な経済循環構造』にあることが重要課題だということです。

ローマ帝国衰亡史(バンとサーカスによる結果としての国民生活共同体の

破壊からくる窮乏化過程)や歴史上かつて存在していた形態での

劣化型社会(共産)主義の『実相』から得る教訓の重さを

忘却し去ったBI論こそ管理人も憂慮すべき点だと考えています。

なお、『反共』一点張りだけの『自称』右派保守の盲点は

そもそもなぜこのような過激思想が出現してこざるを得なかったのかを

厳しく見据えていない点だと感受いたします。

『持てる』エリート指導層の高見(上から目線)で

『持たざる』一般庶民が生活困窮に立ち至った

真因分析があまりにも甘く欠如しているものと感受するのです。

決して暴力『革命(我が国『維新』も決して<無血>革命ではありません。

いかほどの流血事態を招き貴重な日本民族の血脈を絶やしていったかと

思うと涙が出て来ます。)』を肯定する者ではありませんが、

これまでの歴史的転換期における『義挙・動乱』などを

つぶさに観察しているとそのように思わざるを得ないのです。

しかも体制側から『反』体制派(『反乱軍/謀叛者』)と

評価された側にも国の内外を問わずに<邪な>カネも流されて

双方がつぶし合って<漁夫の利>を得ようとする

真の『巨悪』も存在していたことを決して忘れ去ってはいけないのです。

それが『政商』の本質なのです。

来年のNHK大河ドラマは渋沢栄一ですし、

NHK朝ドラや映画『天外者』の主人公として有名になった

日本近代産業発展の立役者でもある五代友厚らの

華麗な大活躍の裏側では暗躍する怪しげな人物もつぶさに観察してみると

例えば上野戦争(『彰義隊』で有名な)で双方に武器弾薬を売りつけて

濡れ手に粟式の『死の商人』型商売でその後成り上がった勢力なども

数多くいるのです。

だからこそ、私たちは安易な『開戦』論に乗せられてはいけないわけですし、

無防備でかえって犠牲者を増やしかねない

無責任な左派リベラル(右派保守も含む)式『反戦』論にも

乗せられてはいけないのです。

『平和を望むならば戦に備えよ』

人類史とは本当に悲しいですが、このことを片時も忘れ去ってはならぬのです。

『仏教がなぜ本場インドで滅び去り、中国でも法難に遭って追い出され、

この<日ノ本>において見事に開花したのだろうか?』

元の仏教哲理とは似ても似つかぬ『日本』仏教など<眉唾物>だと

『原理主義』的に揶揄するような近代合理主義的解釈で

批判される学者もおられますが、

古今東西の聖俗の<はざま>でしきりに生起してきた

醜い闘争劇を見据えて、

ここから何らかの教訓を得たうえで、

日本を『大和(みなが助け合って貴賤上下を問わずに支え合う)』の

国として束ねられた優れた為政者がかつてこの国にはおられたからなのです。

そして、その理想を我が国外にも普及させて『万邦協和』の

未来を創造させようではないかと・・・。

そうです、その御方こそが来年1400年の御遠忌をお迎えになる

聖徳太子様であられます。

この御方の教えを拠り所に『政(まつりごと)』を刷新されようと

立ち上がられた方はなぜか我が国では皆ことごとく悲劇的な末路を

迎えてしまうわけです。

かの楠木正成公や聖徳太子様ともご縁深い滋賀県坂本に

一族の菩提寺と定められた明智光秀公もまたしかりだと

管理人は年を経る毎(ごと)に確信的になってきております。

また仏教理念を基盤に『独立』国の雛形を示さんとした

奥州藤原氏などです。

かの源義経公は兄頼朝に評価されていたような

『政(まつりごと)』を知らぬ(政<まつ>れぬ虎)だと

単なる<猪武者(猛者=もさ・むさくるしいだけ)>

だった存在にすぎなかったのでしょうか?

かの武蔵坊弁慶と鞍馬の御仏のご加護を信じ

立ち上がったからには

そのような『無知蒙昧』な武将だったとは

とても管理人には思えないのです。

『判官贔屓』の心を管理人も大切にしたいものです。

さはさりながら、実際の史実では仏教を<隠れ蓑>に

戦闘集団が形成され、それを『悪用』する諸勢力も

また存在していたのでした。

『僧兵』出身者でもある弁慶さんは別格だと信じたいものですが・・・。

仏教勢力だけではありません。

かの南蛮渡来の宗教勢力も含めてです。

『日本には激しい<宗教戦争>などなかった?』

『何を申すか!!』

『戦国乱世史を始めとして我が国史には

様々な残虐事例が見受けられるではないか!!』

『一体全体我が国のアカデミズムはどこを見ておられるのでしょうか?』

『疑問とせざるを得ません・・・。残念!!(古)』であります。

NHK大河ドラマ『麒麟がくる』を丁寧にご覧になっておられる方ならば

『なぜかの<万葉集>を好む珍しき鳥』とたとえられたのか

(もちろんドラマの演出上における創作もありましょうが・・・)

少し考えてみる余地もあるのではないでしょうか?

おそらく当時の天子様(帝、主上、みかど、おかみ)も

側近中の某一族連中に相当な不信感を抱かれていたからではなかったかとも

感受されてくるわけです。

しかと『意識』をもって厳しく『信賞必罰』をもって人『財』登用していく道・・・。

これこそが、聖徳太子様が定められた『十七條憲法』と『冠位十二階』の

ご精神だったはずなのです。

その精神は管理人の評価するところ、

外国法規範や現行日本国憲法の<上位規範>をなす

『不文律』として尊重すべきものだと思われるのです。

経済『観』にしても現在のものとは大いに異なる点(そもそも時代背景の違いと

まだ蓄積された経済政策効果・分析評価事例が少なかったから

致し方ない)もあるものの

基本的精神には『民百姓に可能なかぎり負担がかからぬよう・・・』という

理念が流れていたのです。

『歴史を真に学び現在と将来に活かす』とは

このような視点と問題意識を持つことなのです。

それが何よりも先に亡くなられた方々への

『最大の供養』でもあるのです。

先人賢者への想いが強く溢れ出てしまいました。

話題をBI論争最前線に戻しましょう。

その意味でいわゆる右派保守層が提出してくれている

本書でも紹介されている<公正(平等)>観に関する

各種調査結果については最大限に尊重すべき視点だと

管理人も評価しているところです。

ですから、BI制度について『ただ単にカネだけを配ればよい!!』とする

イメージ像は間違っている(あまりにもナイーブすぎる古いイメージ像)こと

言うまでもありませんので、その点をお含み置き頂いたうえで

皆さんにもご一緒に検討材料をご提供頂ければと願います。

『仕事を与える(自発的にする)ことで人間としての<誇り>を保つ』という

問題意識の共有こそが大切なのです。

もっともその仕事内容を厳しく吟味して

絶えず『改善』させていこうとする志向性が必要不可欠なわけですが・・・。

さもなくば最近話題のお亡くなりになった著者のように

『クソみたいな仕事』とか揶揄される羽目に陥るわけです。

こうした批判意識をいかに『人間』を生かすための仕事として

生かしていくべきかは政治的立場を問わずに

引き続き各人各様に問うていかなくてはなりません。

そのうえで現行の『資本』主義経済体制下における

市場の『奇跡』とやらに過度な期待感を寄せ、

一般庶民の生活(生命)を委ねていく発想では

必然的に<弱肉強食>の渦潮の中に巻き込まれていくことになり

<市場適応>能力『格差』の犠牲になる人間がどうしても数多く出現してくる

といった悲しき現象にいかに効果的に対応していくべきかが

このコロナ禍下においてBI論争とともに待望されているという

次第なのです。

『早急に対処しなければ本当に死んでいく人や犯罪に走る人が

続出して世の中が二進も三進もいかない殺伐たるバトルロワイヤルが

展開されていくことになるのですぞ!!』ということです。

『<共同体>が崩壊するとはこうした事態を指す』のです。

政治的にはリベラル志向にあるという著者からも

このような道徳心理学観点からの発想にも学ぶべきことが多々あると

言及されている論点だからこそ

今後のBI論議においてもイデオロギー的に偏ることのない

より説得力のある議論が待たれているのが現状だということです。

さて、そのうえでさらに制度導入後の具体的給付紐付け制度論の

あり方についても<デジタル化>促進議論とともに

皆さんに今一度お考え頂きたいわけです。

このたびのコロナ禍下における生活資金救済の一環として

実施された『特別定額給付金制度』の延長上に

BI制度を位置づけていこうとする提案になりますが

継続的な給付実施を安定的になしていくためにも

個人情報取り扱いなどに関する<デジタル>ネットワーク基盤(インフラ)の

『安全性』が是非とも確立されていることが大前提条件となるわけです。

そこで話題をタイトルにもありますような

<デジタル>様式と<アナログ>様式の相互転換が

柔軟になされるような二重方式がより望ましいものとなるだろうという

提言について結びつけていくことにいたします。

現在<デジタル化>促進へ向けた政府内議論でも

この『特別定額給付金』を配布する際に生じた

各自治体における障害事例とその克服方法に関する模索が

継続されていると思われますが、

この時点では<デジタル>網の未整備/不完全性が顕著になったことを受けて

今後はその『全面化』を図っていくことに『長所』を見出す視点の

論調ばかりが世情を賑わせているように感受されますが、

『短所』もないのかどうか慎重に配慮して検討する場も設けませんと

想定外に対処仕切れない問題も再出現するに違いないだろう・・・という

問題提起を引き続きさせて頂きました。

この文脈から『脱』ハンコ(文化)論についても『長所』だけではなく

『短所』についても考慮した議論を深めて頂きたく願います。

『ハンコ(文化)も残すべき余地があると再検討を促す政治勢力を

ただ単なる<既得権益>だとして蔑むような態度を

決してとってはならない』のです。

契約取引時における本人確認の厳格化と簡略化の<あいだ>に

おそらく利便性問題も付随してくるのだと考えるわけですが、

この厳格化は<デジタル>と<アナログ>でそんなに違わないものと

感受しております。

本人確認について『対面』と『署名押印(義務)』でもって担保させる

<アナログ>方式も

『非対面』と『電子署名(場合によってはあらかじめ信頼できる

<(準=委託された民間)公的>認証機関に登録させておいた実印などを活用。

改ざん防止機能あるPDF方式をより高度に発展させたものをイメージして

おりますが、技術的なことはわかりませんので提起するだけに止めておきます。)

認証』でもって担保させる<デジタル>方式も

それぞれに一長一短あるわけですので、

今後の取引時における本人確認のあり方について

すべてを<デジタル>方式に一本化していくというのも限界があるのです。

特に<アナログ>方式でも本人なりすましによる被害発生可能性がありますが、

<デジタル>方式になれば、よほどその本人確認方法に

確かな技術的担保と本人『意思』確認の機会が設定されていませんと

<アナログ>方式以上に多大な経済的損害が発生することも

十二分にあり得ることが予想されるからです。

『だからこそ<保険>があるじゃないか?』とおっしゃる方も

おられるかもしれませんが、

この<保険>に過度に依存していく志向性もまた

一般庶民の『家計』余力を剥奪し、何よりも<モラルハザード>問題

誘発させかねない点にも注意を向けなくてはならないのです。

この<保険>をすべて国家が公費でもって

無償提供するというのであれば別ですが、

現在の政権で共有されている経済『観』や思想哲学では

『そんな<いいとこ取り>制度設計など金輪際するもんか!!』で

ありましょう。

本来であれば一般『家計』に経済的負担をあらたに増し加えるような

過酷政策を実施するのであればここまで丁寧な議論を着実に

積み重ねておかなくてはならぬはずなのですが・・・。

さらにいわゆる『デジタル<デバイド(格差)>(デジタル機器を使用できる

経済/教育学習的環境にない個人格差問題のこと)』も十二分に想定した

柔軟な対応を制度促進される政府や有識者の方々には

切望いたします。

是非、今回の『特別定額給付金』配布時の混乱事例などを教訓に

実りある議論成果と制度実施への道を見出されるようご提言申し上げます。

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次に本書要約の<結論>部で語り残しておいた

『人間関係(類型)論』と<デジタル/アナログ>比較考察批評論

ついて話題を転換させていきましょう。

さて、『価値観の異なる<赤の他人>だった者同士が

<同居>生活関係に入り、長期安定化を図っていくためには

いかなる問題意識の共有が要請されてくるのだろうか?』という

問題提示から語り始めさせて頂きましょう。

言い換えますと、『価値観共有へと向けた摺り合わせ作業』が

是非とも必要とされるということです。

この点で巷間では肯定/好意的に論評されることの多い

『価値観の<多様性>こそ大切なのだ』式の

表層レベルで思考停止してさらに具体的問題点が

起きてくることまで想定しない生半可通な議論だけでは

それこそ人間関係の円満な整理整頓『術』としても

まったく役立たないからです。

むしろ、『紛争』を多発させるだけでしょう。

現状がそのことを示唆してくれています。

つまり、摩擦対立場面が現れ出てくるたびに

『相互確認(保守点検)作業』を絶えずして

見直していかなくてはならないということです。

『綻びは小さいうちに繕っておかなくてはならない』ということですね。

交際・交流が深まりゆけばゆくほど、

当然ながら人間関係をより確かなものとし、相互の価値観を知ることで

信頼関係をさらに強化していかざるを得ない場面が

少なくとも『まともな』人間であれば出て来るはずだからです。

価値観の類似点と相違点を相互にしっかりと確認しておくことは

取引の安全性(ビジネスの場面)を担保するうえでも

とりわけ真剣交際や

まして生涯を通じて固く結ばれるものと信じて『結ばれる』ことを

誓約することを大前提になされる結婚の場面では

絶対的に必要不可欠な条件となってくるのですから。

このような発想も

もはや現在では極度に『保守的』な価値観なのでしょう。

しかも現在の一般的に推奨される<政治的公正(ポリコレ=ポリティカル・コレクトネス)

な価値観(=一般的にはリベラルな価値観=主流派なのか!?)>からすれば

拒絶されて差別/排除されてしまう見方なのでしょう。

とはいえ、このような一般的主流派によって今や肩身の狭い思いに

とらわれてしまっている少数異端者の<声なき声>も代弁して

現在の世相や風潮にあえて<棹を差す>意義もあろうかと信じて

ここに1つの感想意見として『保守』的志向の強くある

管理人の見立ても提示させて頂くことにいたします。

それは最近の恋愛観や結婚観があまりにも軽すぎて

不幸になる方々がますます増え続けているように感受されるからです。

そのかげで2当事者間のみならず関係する親族や友人知人、

子どもまでが犠牲の道連れにされてしまうからです。

恋愛・結婚を決して『両性(『性』に関する解釈は時代毎に変わり、

時代の主流派からは少数異端派として差別排除されてしまうことで

苦しまれる方がおられるのは事実ですから救済される余地があることは

認めています。)の合意』だけで済むと安易に考えてよいものなのだろうか?

つまり、2当事者間だけで『成立』するものと

軽々しく考えてはならないのではありますまいか・・・ということです。

『契約』説では<合意は第三者を益しも害しもせず>で

第三者関与を軽視/無視する傾向になりますが、

『制度(神聖なる小共同体)』説では

対社会からも<公認(祝福)>されるという意味での

第三者関与も重視する傾向にあります。

価値観はもちろん十人十色ですが、

第三者関与なくして2当事者間だけの問題として

狭く捉えていると<思わぬ落とし穴>に嵌り込むこともあり得ますよ・・・と

いうことです。

例えば、<ドメスティックバイオレンス(家庭内暴力)>などで

公的救済を求めざるを得なくなった場面です。

というわけで、やはり一時的な「(情熱的)気分」だけでは

『成立』するものと早計してはならないのではありますまいか。

つまり、第三者にも悪影響を及ぼす『不幸』の連鎖反応が

生じてくるという重大事であります。

ゲーテ『親和力』もこうした情況を活写させた名作でしょう。

一方では・・・。

現代社会に特有な問題点も含まれているとも言えます。

特に経済的競争原理が過酷なまでに家庭に介入してくるという

問題のことです。

象徴的事例が特に現代『税制』思想哲学の中に伏在しているようです。

詳細解説は省略させて頂きますが、

『なぜ現代家庭における<家計>が苦しくなっていくのだろうか?』

『両配偶者間でなぜますます<家計>を巡る悲喜劇論争が

多発しているのだろうか?』

皆さんにも今一度お考え頂きたいのです。

有配偶者の方だけではなく、将来のご結婚をお考えになっている

独身者の方にもお願いしたいのです。

『かえって結婚を躊躇させてしまうような問題点があるからではないのか?』

このような問いも制度創案に関与される為政者には

是非ともご再考願いたいわけです。

さらに・・・。

『ではなぜこのような恋愛・結婚<観>が現代社会では強力な風潮や

思潮となってきているのでしょうか?』

この心理(物理)的背景には極端なまでの

<功利主義的>ビジネスパートナーシップ志向へと突き進んだ

『(短期)契約』型発想の浸透があるのかもしれません。

そもそも恋愛にせよ結婚にせよ

そこでの『間柄』には社会からの『隠れ蓑(避難所)』という意義こそ

あるはずなのです。

だからこそ『家庭に(対社会的利害関係としての)仕事や

政治を<みだりに>持ち込まない』との発想を掲げる

『保守的』な家庭『観』にも一定の意義があったのです。

現代の経済は家庭の中にも多大な『不安要素』を持ち込むことになるために

より一層のこと

このような『安心要素』を確保しておかなくては

それこそ人間が<死に至る病魔>に冒されてしまうことになるからです。

現在の『進歩的』高等教育を受けた一部のきわめて特殊(異)な

イデオロギーを受容した構成作家によって創作されていくドラマなどの

影響なのか、もう長きにわたって、

『健全』なごくごく普通の庶民生活を描くものよりも

都会の洗練された意識高い系??による『異常』なまでの

破綻系『不倫』ものが相当な勢いで<主流派>となってきました。

このようなドラマで描かれた恋愛観や結婚観が

世間へ及ぼす『悪』影響は想像を絶するほどに大きいことを

甘く見ていると人生に取り返しがつかないほどの『汚点(不幸)』を

招き寄せてしまうのです。

だからこそドラマなどを通じてメディアが提供する

『思想』や『イメージ像』を軽視してはならないわけです。

もちろんこのような多大な『悪』影響があることを

一般庶民は薄々感づいてきたからこそ

それに随伴して『純愛』ものや『素朴』ものも

一方では人気を博してきた理由もあるのではないでしょうか?

現在もますます人気上昇中の『鬼滅の刃』や

京都アニメーションなどが手がけてきた数多くの優れた作品の中にも

『純』や『素』を主題に掲げたものがあることからも

決して一般庶民が『異常性』や『不倫性』に

好感を抱いているわけではないことが窺えましょう。

ごくごく普通の一般人はそうした昔懐かしい穏やかな日常生活を

それほど熱望しているのだともこのような現象からは推察されるのです。

ですから中長期的な物心両面の安定基盤をなす家庭を始めとする

『同居』生活を志向するのであれば『誠実さ』や

『互譲性(<おかげさま>と<おたがいさま>)』を

突き崩しかねない人間関係が最初から予想されるのであれば

むしろお互いに生涯『独身』を貫き通して

第三者をむやみに巻き込まない関係性に徹する方が倫理的だということです。

人『間』であり『社会性』を抱え込む限り、

たとえ2当事者だけの『閉じた』関係性を保持しようと欲しても

その性質上、純『私(内面)』的『独身(立性)』は可能であるかもしれませんが、

『公(対外)』的『独身(立性)』に徹することは不可能なことも

強調しておかなくてはなりません。

その『不可能性』を『可能』だと<錯覚>するからこそ

『孤独(立)』死の<悲喜劇>が後を絶たないことも

決して忘れ去ってはいけないからです。

結局は人生の『最期』に第三者<他者>へ多大なご迷惑を

おかけすることになるのですから・・・。

このような事態を念頭において『余生』を過ごす覚悟が

厳しく問われるのが人間の一生における『真実』の姿なのですから

常日頃から人間関係の中で十二分に語り合って、

『残して』おかなくてはなりません。

人生における『厳粛さ』とはそのようなものだと信ずるわけです。

以上は人生を通じてみた中長期的な『人間』的対策であります。

とはいえ、人生の節々には事情によって

どうしても『固定』的人間関係性から降りざるを得ない場面も

心ならずも正直なところ出て来ることもありましょう。

そのような局面に至れば、

双方で十二分に語り合ったうえで『離婚(別離)』する道を探るにも

これまた倫理的な態度であることが

<例外的>にはあり得ますことは誤解なきよう申し添えておきます。

今あえて<例外的>と申し上げたのは

『長期安定』生活をそもそも<赤の他人(多かれ少なかれ価値観が

異なる性格的要素を伴う)>同士で『共有』していく以上は

『原則』の相互確認が基礎土台にあることが

『幸福創造維持発展』のために欠かせない必要十分条件であるからです。

このようなわけで少なくとも

ご自身で背負いきれないほどの『業罪』縁を感受される場合には

お互いの今後の人生における幸福に至る再出発のためにも

いったんは『合法(法律)的』に切断することも時にはやむを得ません。

そのうえで、期間をおいて『復縁』される方もおられましょうし、

そのまま『絶縁』に至る方もおられるでしょう。

その意味で<契約>ではなく『対社会制度』としての側面が強い

<結婚>の重大さと『神聖(本書でのテーマの1つでもありました。)』さ

についてもこの機会に知っておいて頂きたいのです。

コロナ<非接触>社会の中で

安易にして無思慮な人間関係の『整理整頓(断・捨・離)』を

提案される識者が後を絶ちません。

『人間関係とはかくまでも軽いものなのでしょうか?』

このような情勢ですから各人各様で人との接触も難しさがあることは

管理人も当然ながら共有しております。

そうであっても、なおさらのこと、

容易には逢えなくなるからこそ

距離感が遠くなったように感じられる<他者>への

配慮(思いやり)をより強く持たなくては

人間関係の安定的維持などコロナ収束後もおぼつかなくなるからです。

ですから、平時に出来た身体的接触は難しくても

オンライン・リモート媒体など(顔見せやオンライン機器に苦手意識が

ある方でもせめてメールなどで近況報告くらいは頻繁に取り交わすことくらいは

可能でしょう。)を通じてもいいので交流を大切にしたいものです。

というわけで皆さんにも『千差万別』の人間『観』がありましょうから、

管理人もここまで語らせて頂きましたように

極端に『保守的』な価値観で束縛させるような資格もありませんし、

第一に管理人自身も今後いかなる事情で人生模様が

変化していくかもわかりませんから

そもそも『不自然』なまでに硬直・固定した人間関係保持を

推奨するものではないこともお断りしておきます。

ここまではあくまでも世俗法律的な観点からの話でした。

とはいえ、<霊的>次元からの『ご縁』ともなればこれはもう

人間世界の論理では手に負えない話であることもまた一面の真実ですので

年末年始それぞれに年越しするに当たって

<初詣>されるに当たって想いを馳せる機会に触れる読者様も

多いとお見受けしますので

もう一段と次元を超えた人間関係についても考えて頂く

話題をさせて頂きましょう。

なぜあえてこのような個人的価値観を通じて問題提起させて頂いたかと言うと

<世俗>生活では表層レベルで見れば通用するかのように思われる

『選択の自由』という発想に過度に寄りかかって

恋愛(結婚・一般的交際)相手を『選別』していこうとする志向性を持つと

かえって『責任』意識が希薄になり

お互いを不幸のどん底へと突き落としてしまう方々を

管理人も(自身も含めて)数多く見てきたからです。

そんな管理人がこれまでの人生経験で感受し汲み取ることが出来た教訓とは・・・。

価値観が異なる者同士でも末永く円滑な交際へと進展させていくには

やはり『ご縁』という発想を持った方が『納得』もいくという

<人生訓>でありました。

『41歳の春だから♪♪ 元祖天才バカボンの♪♪・・・』という歌がありましたが

管理人もこの年末についに40歳の『節目』を飛び越えてしまいました。

まさに人生の<折り返し地点>(日本人の平均寿命からすると)に至ったのです。

『40にして迷わず』(孔子)などということは

<夢のまた夢>にしかすぎない凡夫の身ではありますが、

ここまで有り難いことに生かして頂いたことを思えば、

いろいろと感慨深いものも出て来るのです。

そうそう、『ご縁』の話でした。

それがたとえ『逆(腐れ!?)』縁だったとしても

<縁>とは簡単に切断できないという点に触れておきたかったのです。

『順』縁だともちろん幸せですが、

人生には残念ながらこのような『順境』縁ばかりが

続くわけにはいかないからですね。

この『逆(腐れ)』縁からもなにがしかの『学び』を得ようと

前向きな発想に転換した方が『好運』も巡ってくる確率が高まるようだからです。

もちろんこのような『質感』は『人によりけり』でしょうが・・・。

『人間とはつくづくわからない生き物ですなぁ~。』ということですね。

今年はコロナ禍で世の中がまったく激変してしまった時代を

迎えてしまいましたが、発想を転換すれば、

『禍』があればこそ、『福(当たり前が実は当たり前ではなかった

奇跡的事態)』の本当の意味、本質的問題について気付くきっかけを

授かることが叶ったと見立て直せば、

『禍を転じて福となす』ことも叶います。

ですから、人生において価値観の似通った者同士での

<認識共同体>の中で過ごしていくのが摩擦対立を可能なかぎり回避できて

無難かつ安心かつ安全な生涯を全うする道ではあるものの

『幸福』とはまた別のところ(価値観の異なる者からやってくるという意味。

まさに日頃の盲点<マトリックス>から抜け出て思わぬ好運の巡り合わせに

出逢うかもしれぬ=『触発』されてあらたな意味を見出す機会を獲得すると

いう意味でもある。)に転がっているのかもしれません。

その意味で著者も繰り返し示唆して下さったように

管理人もこの世は『相補性』原理によって成り立っているように

年を取れば取るほど強く感受されてきたわけです。

その意味で昨今の世の中を乱す諸言動の中でも

根拠のない噂話や根拠があっても誹謗中傷(罵詈雑言)となり得るような

危うい道に入り込まないように管理人自身も十二分に注意を働かせながら

人生街道を歩みたいものです。

特に管理人が目に余る言動だと感受させられた事例に

ある有名な政治経済評論家による

自裁死された有名言論人の生きざまに対して

『あいつは左翼くずれだ、右翼くずれだ、俺はどちらも散々見てきたから

あのようにはならない、ならなかった。若い時には左翼活動をして、

その夢崩れた後は保守言論界にうまく転向して

世人を煙に巻いて世渡り上手だっただけだ・・・。

自分は日本の当時置かれていた状況と世界情勢動向の真の暗部と恥部を

独自研究の中で数多く発見してきたのだ・・・。(大意)』などとする

傲慢な評価判断を下されていた評伝をかつて

たまたまインターネット上で目に触れたことがありました。

管理人も10代末期~20代の浪人時代の厳しい時期に

この論者による世界『真相』暴露ものや様々な政治思想哲学や

日本司法論について優れた点も学習させて頂いてきましたから

感謝の気持ちも強くありますが、当人の名誉を慮って

これ以上の厳しい『諫(忠)言』はいたしませんが、

社会に曲がりなりにも本格的に出ることが叶うようになった

20代末期~30代前期頃に世の中や人間模様を

多種多様な形で体験観察させて頂くようになってから、

このような単純な人間類型解釈(精神分析)に嫌悪感と

不信を感受するようになって以降は

この評論家の著作類とは『訣別』するようになった経緯があったからです。

そもそも世の言論人にも多種多様な性格・気質・思想傾向・立場などを

背景に持った方々がおられますが、

『騙された!!』と感受されたとしても

それまで影響を受けてきた当該言論人を公の場で『罵倒』まで

する必要はないでしょう。

それは端的に『私の人を見る眼がなかった』として

人間としての批評眼としてひとつ学び賢くなったと

『敬して遠ざける』だけで『おさらば(訣別)』するのが

人間交際としての<礼儀作法>だと感受するからです。

もっとも管理人も書評する過程で

自分なりに感じる関連する人物評価も

畏れ多くもさせて頂いておりますが、

それとて『敬愛』の念を込めつつも

やはり特に有名(強い権力を持ってご自身を守ることが叶うような

『公』の立場におられる。検察ですら足を踏み込めない

強度な権力的背景基盤を兼ね備えたような)人の場合には

世の中に影響を与える度数が大きいからこそ

『貴殿のその志向性と言動はおかしい!!』と批評させて頂いている

までなのです。

もっとも『有名』人であろうが『無名』人であろうが

証拠もなく単なる根拠のない噂や状況証拠段階で

批判するには慎重でなくてはなりません。

それでも仮に確証が得られなくとも

その立場におられる方々が日々繰り出される言動から

『これはやはりおかしいのではないか!!』と感受した場合には

やむを得ずに<言挙げ>せざるを得ない状況もあるわけです。

日頃の言動からの『推知』批判は

そう受け取られてもやむを得ない所業だからです。

批判を受けるのが嫌ならば

俚諺にあるように『李下に冠を正さず』ということです。

すべては良き方へと転じて下さりみながともにこの世を

幸せに過ごすことが叶う社会創造へとつながるよう

貢献して下さればそれ以上の『過ち』を責めることはないのです。

よほどの粘着質あるしつこい輩でない限り。

その意味で管理人などは<水の教え>である

過去の罪科は『水に流す』という厳しい生存競争が要求されてきた

『雑種』文化の下で生活を営んできた日本人が

ついに育て上げた人間的処世訓(叡智)からも学び取りたいものです。

『揚げ足取り(権謀術数)』や『相互つぶし合い』は

この『大和国』に持ち込んではならないのです。

そのような厳しい内外環境の下で育まれてきたのが

『日本』兵法(武道)でもあったわけです。

なぜならば、管理人も含めて人間とは可謬性を色濃く帯びる生物だからです。

この『人間とは<可謬性>を強く帯びる』から

『決して自己理性を過信してはならない』という批判姿勢を保持し続けるのが

本来の意味での『保守的リベラル(日本型オールドリベラル??)志向』だとも

感受しております。

つまり、『謙抑性の持続』を重んじるということです。

このような姿勢は口達者な頭の回転が頗る速すぎる方からすれば

『韜晦(晦渋)』的姿勢として敬遠されるのかもしれませんが、

何事もその論者の心にいかに寄り添いながら理解に努めようとするかで

人間同士のコミュニケーションとは『伝わる(つながる)』ものだという点は

常に忘れてはならないのです。

『口べた』で本心や意図する心をうまく伝えられずに

『誤解』されてしまう方が日本人には特に多いのです。

日本語という言語の特質も関係してきますので、

ひとくちに『論理』と言っても様々な形態(パターン)があることに

配慮した傾聴姿勢でないと『伝わるものも伝わらない』ので

さらなる険悪な関係だけが続き当事者間にしこりがいつまでも残るのです。

ですから、文化(成育環境)と切り離した論理的コミュニケーションと

いうのも実は成り立たないという点もご理解頂きたいわけですね。

厳しい『論理』的言語表現と優しい『情緒』的言語表現の

バランス調合配分こそが良質な人間的コミュニケーションを担保するのです。

表現の巧拙や感情吐露の強弱(優しいか厳しいか/上品か下品か・・・など)に

極端なまでにこだわりすぎて

簡単に人間『関係』をシャットアウト(閉め出す、閉じる)してしまうのも

考え物だということです。

なぜならば、世の中には本当に多種多様な環境で育った方々が

いらっしゃるからです。

『アナログ』文化から『デジタル』文化へと

今後ますます移行すればするほど確実にこのような現象は増殖していくでしょう。

なぜならば、わかりやすい人間を好む傾向が強まり、

わかりにくい人間は選別排除されていく傾向が強まるでしょうから。

『他人事ではなく、本当に話者の管理人だけではなく、

読者の皆様方お一人お一人の問題なのですよ。』

それがいかに恐ろしい事態を皆様の『生活』にもたらすかを

今のうちにご想像しておいて頂きたいのです。

このように何度も繰り返しますが、

表現形態/様式/媒体の差異よりも『伝わるか伝わらないか』が

人間理解の『肝心要な点』だということです。

一番難しい点ではありますが・・・。

ですので、管理人もかつて法学徒であった教育体験より学んできた

独自の対社会的倫理観から名誉毀損的行為(非難中傷など)に当たらぬように

かなり気を遣って語らせて頂いております。

これが『つぶやき(短文)』と『語り(長文)』との表現形態の違いだとも

<信念>をもって毎度語らせて頂いております。

可能なかぎり『誤解』される余地を軽減させようと意図すれば

『散文(弁明・言い訳※この言葉も通常の語法解釈評価としては

多大なる誤解を招いている表現でもありますが・・・)』形式で

どうしても長くなってしまうのはやむを得ないのです。

そうして異なる価値観を有する人間同士の『距離』を縮めるわけです。

『<間合い>を測る』会話(対話)とはそのような性格を帯びたものでしょう。

よい機会ですので、

いわゆる『近現代』における『<言動>と<人格>の切断』現象問題についても

ここに語らせて頂きました。

やはり『<言動>と<人格>は切っても切り離せない関係』にあるという点を

近現代知識人(近現代教育を授かるいわゆる<知識人>以外の

私たち一般庶民にとりましても)に特有な『頭でっかち尻すぼみ(笑)』の

傲慢癖傾向が出やすいことを自戒も込めて強調確認しておきましょう。

『(頭が病魔に冒されている)自覚』を持つことこそが

<知的謙虚さ>への道でもあるのですから・・・。

どうしても『理屈』が過ぎて『思いやり』が薄れてしまう悪いクセが

出てきてしまいやすくなるという、

この精神病理についての話題でした。

続けます。

このようにそもそも人間類型を単純な右/左モデルで

分類することも出来ませんし、

そうした政治姿勢傾向を『自称』されている方々は

きょうび様々な政治論壇(活動の文脈では)の場では

無数におられるようですが、右(保守)/左(リベラル)という定義も

『多義的』であるとともに『曖昧模糊(流動的)』なものを抱え込んでいるので

最単純化モデルで捉えることなど少なくとも

実際の日常生活における人間関係の文脈の中ではおよそ不可能なはずなのです。

ある程度のおおざっぱな『傾向性』ならば言えますが・・・。

さらにこのような人間分類(レッテル貼り)は

あまりにも政治『原理主義』的な人間『観』でもあり

一般的(管理人もですが)には好まれないのが通常でありましょう。

但し、<気質的>なことならばある程度の右寄りか左寄りかという

性格分類は出来ましょうが、

たびたび管理人自身も言及させて頂いてきましたように

これまた天候のように『晴れたり曇ったり』なのです。

たとえとして語弊があることを承知で語らせて頂くことをご寛恕頂きますと、

精神病理学で言うところの<双極性>のような気質といって

いいのでしょうか?

誰しも多かれ少なかれこのような気質変動的要素を

抱え込んでいるのです。

社会生活を営めないほどに激しく変動する場合は

まさに診断を必要とする精神病理だということになりますが。

いずれにしましても、管理人などは

このような政治『傾向』に過度に依拠させた

人間『観』はあまりにも皮相浅薄な見立てだと感受しております。

しかも、そのような最単純化モデルでは

人間類型を政治的に区分して『信用』付けが

左右されてしまうといった危険性も高まるわけです。

近未来のAIによる人間の『社会』指標選別に基づく

『評価』経済社会化の流れにおいても・・・。

時の社会風潮に嫌われてしまえば、

政治的立場によっては『ご飯が食べられなくなる』といった

生存危機にまで追いやられてしまう懸念があるのです。

このような流れに棹を差す役割を果たす思想哲学こそが

近現代の厳しい弱肉強食思想に抗う過程で洗練されてきた

良質な<リベラリズム>による出番の場でありましょう。

それに加えて他人の人生遍歴の<紆余曲折>を表面的に見て(評論家自身が

その他人自身の人生を歩んだわけではないのに)ことさらにあげつらう

姿勢は『<人間>的態度としておかしいんとちゃうやろか?』と思うのが

率直な感受性というものだと確信するからです。

人間に対する<喜怒哀楽>感情、

ことに、かの自裁死された言論人が生前語られてこられたように

『哀』感に寄り添う交情感覚がありませんと

結局は自分自身への世間での評価も落としてしまうのですから・・・。

信『頼』感というのは信『用』感以上に

人間に対する接し方として重要な感覚だと思うのです。

『天に唾する行為』にならぬためにも

言論批評する際には己自身の『掟』を持しておく

覚悟も問われるのです。

そのようなわけで

この手の評論家には根拠のない楽観論であったり、

もっと悪賢いのは悲観論が今の世相では受けるだろうからとて

これまた根拠のない悲観的『自意識過剰』言動で活動されている

『商売(ビジネス)』作家としての

いわゆるポジショニング・トーキングをされている方が

数多く散見されますので、

読者の皆様にもメディアから繰り出される言論受容における注意点として

是非覚えておいて頂けるとお役に立つことでしょう。

特に利欲を煽った詐欺被害に遭わないためにも・・・。

ですから、このような言説に接触する際には

大いに警戒感覚も持つ必要があるのです。

それも広い意味でのメディア(言論)リテラシーですし、

『読解力』なわけですから・・・。

言論する際に常に思慮を働かせておかなくてはならぬ点は

世の中とは常に『諸行無常』なのですから将来予測など

誰にも不可能なきわめて不確実性の高い時空間だということを

片時も忘れ去らないという知的姿勢であります。

その言説がいかに『時代を超えて厳しい風雪(評価判断)に

耐え得ることが出来るか?』

それこそが言論活動に対するすべての評価基準となるからですね。

ですから、常に世の動きに対する自身の言動には責任と謙虚さが

厳しく要求されるはずなのです。

『空気(偏った言動の蓄積状態)』が淀んでくると

殺伐とした『雰囲気』が創出されることになり、

最悪の結末を迎えることは数多くの人類史における教訓が

示唆してくれています。

今がまさにその時代の悪い方向へ転ぶ『禍機』なのかもしれないことは

絶えず注意深く見守っておかなくてはなりません。

『民主』制政治の良き側面ばかりが注目されますが、

悪き側面にも十二分な監視の目を注いでおきませんと

それこそ『目も当てられぬ』地獄を見ることになるのです。

ところで、<法と経済学>という学問分野における専門用語に

『思想の自由市場』(米国のホームズ判事)というのがありますが、

『市場』とやらに任せていれば

『自然に悪い思想は放逐淘汰されるだろう・・・』という仮説命題も

これまた根拠なきことが証明されてきたのが

この<失われた○○年>における出版マスメディア業界の実態でもありました。

『悪貨が良貨を駆逐する』(グレシャムの法則)

いわゆる陰謀論やら投資指南本やら「こうしたら確実に儲かる」式の

情報商材などばかりが溢れかえり

真摯かつ誠実な書籍群ほど発行部数が少なくなるために高額化して

なかなか入手しづらくなるわけです。

公共図書館でもなかなか『緊縮』財政の影響のためなのか

これまた目に触れにくくなる傾向が促進されているわけです。

人気本が何冊もあるだとか、狂気の沙汰でしょう。

まともな『読書人』にとっては・・・。

このような腐敗爛熟した文化頽廃を押しとどめるためにも

管理人を始めとする志ある書評家同志の皆さんには

とりわけ精力的な任務に励んで頂きたく願います。

『ともに文化の灯火を守っていきましょう!!』

このように『健全な批評精神とはいかにあるべきか?』は

批評家であろうとする方ならば誰しもが抱く厳しい問いでありますが

その「道」を拙者も求めていきたいものです。

著者の『しあわせ仮説』もそんな視点を数多く発見出来る

刺激的な1冊です。

このように『密』について多角的に考えさせられた1年だったからこそ

年末年始を迎えるに当たり相応しい話題だと感受しましたので、

以上長々と語らせて頂きました。

それでは、年末年始かつ前回からの更新に『間』が空いてしまいましたので

<フルコース>メニューとして『紀行文』エッセーも・・・と

計画を練っていたわけですが、

やっとこさ『御用納め』も終わったかと思いきや、

『大掃除』などなど日頃やり残していた残務整理などもあり、

今年の休暇もほぼないくらい短いことに鑑みて、

<年始のご挨拶>とともに次回書評更新時までの

なるたけ早い時期にこの書評の<追加>記事扱いで

あらためまして語らせて頂こうと予定しております。

『楽しみにお待ち頂いていた読者の皆様、本当に申し訳ございません。』

『でも、ひとまずここにて力尽きてしまいました。』

『捲土重来ということで近いうちにお逢いしましょう。』

今年1年いろいろと皆様方にも環境変化などで不安な日々を

お過ごしされたことと思います。

そのような厳しい年にあっても応援して下さり誠に御礼申し上げます。

コロナ禍はまだしばらくは続くものと推察されますが、

いつかはこの『霧』も晴れてくる時節も必ずや到来するものと信じて

皆さんにもご体調管理とともに来年もまた健やかなる日々となりますこと

お祈りして閉幕させて頂くことにいたします。

来年もご愛顧のほど何卒宜しくお願い申し上げます。

毎度『超』長文記事にお付き合い頂きまして

誠に恐れ入ります。

秋山の紅葉愛でつつ、疫病退散・祖国安泰・万邦協和祈願巡礼 行脚放浪記~石清水八幡参詣・山崎天王山縦走編~

<令和3(2021)年1月17日追記>

令和3(2021)年あけましておめでとうございます。

本年も何卒ご愛顧のほど宜しくお願い申し上げます。

さて、令和元(2019)年末あたりからコロナ禍が始まり

右往左往しながらも新たな生活形態を模索して過ごす1年も

つかの間の出来事でありました。

『改元』年に新たな門出を祝す中で心機一転生活を望んでおられた方も

数多くいらっしゃったことでしょう。

そんな折りに『まさかの魔(ま)』が差し込んできたことに

誰しもが悲嘆にくれざるを得ない時代の転機を迎えることとなりました。

『備えあれば憂いなし』

『吉凶禍福はあざなえる縄のごとし』

『人間万事塞翁が馬』などなど・・・

人間はこのような格言を言葉として頭(理性)では理解していても

いざ想定外の出来事に遭遇してみれば

なかなか身体感覚(情動意識)として馴染ませることは難しいものです。

管理人は『修験』の道を日々活かした生活を実践体得したいものと念じて

過ごしていますが、なかなかその道も厳しい修羅(けもの・いばら)道だと

感受する今日この頃であります。

このコロナ禍で外出自粛に追い込まれ、国内外情勢も日々緊迫感をもって

対峙せざるを得なくなった内憂外患ばかり、その中で失業状態などに

追いやられていくと誰しもがイライラとしたマイナス感情が

湧き出てきて『病魔』に侵されてしまうものです。

そんなイライラ感情を適切に処理して、清らかな心へと浄化、昇華させつつ、

自他共に健やかなる日々を過ごそうと願えばこそ

しばし『人知』を超え出た自然風景を愛でながら、

宇宙から響く声に耳を傾けてみたくなります。

『野に咲く花のように♪♪・・・』

敬愛する山下清画伯のように<諸国漫遊>の旅に

出かけてみたくなるのも人情というものでしょう。

感染拡大防止に協力自粛せざるを得ないのは致し方なきこととしても

人間の『自然』な身体感情が欲する声を無理に抑制したり、

個人の自粛が社会全体に悪く影響作用していく事態も想定した生活配慮も

また重要な姿勢なのです。

だからこその『(<反>ではなく)』自粛なわけですね。

自粛要請による時短営業を強いられた飲食業界ほかを救済する

『財源』措置も出し惜しみしたり、姑息な手法でもって

国民に<自粛警察化>を促し、ことさらに相互監視状態へと

誘導させていく最悪かつ中途半端な政策が採用されていく以上は、

『上に<政策>あれば下に<対策>あり』の知恵も

みなで出し合って行かざるを得ません。

行動経済学による知見(ナッジ理論=社会全体にとって<より良き>

政策効果を狙った示唆・誘導技法を意味します。)を活かした感覚で

政府はいるのかもしれませんが、現実には<より悪き>方向へと

転落していっているとしか言えません。

1990年代(人によっては1970年代、もっと遡って厳しく査定評価

されている論者もおられますが)頃から2021年現在までの間に

持続的になされてきた『緊縮』経済政策効果が社会に多大な悪影響を

及ぼしてきた政治責任は棚に上げて国民(民間。それも圧倒的な資本力を

もった勢力は除く。)による『底力』を根こそぎつみ取ってきた結果が

現在の一部業界(医療/介護ほか)で

すでに始まっている『供給能力』の破壊・破綻というわけです。

規制緩和などを含めた中長期的な産業/金融経済『構造改革』を

推進させていく過程で国民の『底力(つまり、<民間活力>)』を

誘発させる環境を整えて経済『成長』につなげていき

長引く『デフレ経済』からの脱却を図っていこうとするも

景気変動に合わせた適切な調整機能でもって

国民経済への打撃を軽減させていこう(つまり、セーフティネット=

生活安全網を幅広く張ること。)という趣旨ならば理解出来るとして

私たち国民はその『いつの日にかまた日は昇る』(ビル・エモット氏)風に

長い耐乏生活にも耐えよう・・・とこれまで頑張ってきたわけですが、

もはやその我慢も限界に来ていたところに

今回のコロナさんが襲来してきた・・・というのですから

防ぎようもありません。

せめてもの国民経済への打撃がこれ以上大きくならないように

早期の『拡充』財源放出措置による痛みの緩和をのみ

祈るほかない状況となってしまいました。

この期に及んでまだ『オリンピック』や『万博』開催にこだわられるのであれば、

なおさらのこと早期是正措置を政策的に打たなくてはならないはずなのです。

しかしながら、『万事休す』の慢性状態が続くと

私たち国民がいかに普通の日本人らしく

『耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぼう』と欲しても

ついに<堪忍袋の緒が切れる>事態も続発していくのです。

その前に心優しき人は静かに世を去ることになり、

その<声なき声>も世の大勢に向かって送り届けられることもありません。

管理人はこのような悲しむべき事態を

黙って見届けて済ますわけにはまいらぬのです。

誰かがこのような心優しき人々の<代弁者>になって

差し上げなくてはなりません。

『儂にも意地がある!!』松永久秀公の<麒麟がくる>での名セリフ)

(ちなみに余談ですが、ユーチューブ動画『戦国BANASHI』

『戦国・小和田チャンネル』での解説を聞きながら

『麒麟がくる』を視聴されるとより楽しむことが出来ますよ。

やはり時代劇はその歴史背景や人物相関関係図がわかりませんと

落ち着いて純粋にドラマを楽しめなくなります。

またフィクションと史実(現時点での歴史学が解明した信頼出来る資料解析から

抽出し得た解釈仮説になりますが)を混同してしまうと

歴史的文脈もわけがわからなくなりますし、

ドラマを通じて苦手意識ある歴史を勉強されている方にとっては

特に受験生であれば記述問題などにも正確に答えることが

出来なくなってしまうでしょうからねぇ~。)

先日のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』でも話題となった

松永弾正久秀公の壮絶な最期の裂帛の気迫を

熱演された吉田鋼太郎さんにも

まさに『鋼鉄』の意志が漲っておられたようで

心の琴線に触れる良き役者ぶりでありました。

なかなか『生』で芝居観劇することも叶わなくなってきている

厳しい状況の中でも久方ぶりに血潮沸き立ち奮い立つような

名演技をして下さり『誠にありがとうございます。』

同じく松村邦洋さん解説のユーチューブ動画を『サムライ・ロック』飲みながら

『サムライ・ロック(同名の映画ではなく、<サムライ>感あるロックのこと

ね。)』に『くのいちロック』を聴きつつ見ては

文章の展開アイディアを練っている管理人でした。

やはりゆとりの出て来る週末深夜にこそアイディアはよく閃いてくるようです。

厳しく難しい話題に触れている時はどうしても憂鬱になってくるので、

爆笑モノを見ながら精神のバランスを取るのも

管理人の健康維持(免疫力向上)の<秘訣>ですね。

『松っちゃん、大阪からも応援してるでぇ~。』

『みんなで助け合って差別偏見に負けず、

ともにこの難局を乗り切っていきましょう。』

こんなにコロナ禍が長引いたら誰が感染してもおかしくないのですから・・・。

そんな時にはどうか前にもご紹介させて頂いた本など

お読み頂いてご理解頂けますよう臥してお願い申し上げます。

今はそうとしか言えませんから・・・。

それはそれとしましても

コロナ感染される芸能人の方々も続発されるという中で、

大手マスコミに巣くうビジネス評論家は

その努力の跡を好意的に論評することもなく、

ただただ不安感を煽るような

思慮浅薄扇情コメント=ワイドショー報道が相次ぐ中でも

このように真剣な撮影に立ち向かわれていらっしゃる数多くの

芸能活動従事者がいらっしゃるということを

私たち一般の視聴者は片時も忘れ去ってはなりません。

その危険と隣り合わせの中で

私たちに文化享受の楽しさを送り届けて下さっているのですから・・・。

これこそが文化の提供する『活力』というものなのです。

さらにそれに対峙する長谷川博己さん演じる明智十兵衛光秀公も

『私もあなたとは戦いとうない!!』と本来ならば

<不要不急>であるはずの戦準備を控えるよう説得しようにも

ついに袂を分かつことになるという悲しき最期に成り果ててしまいました。

それで<漁夫の利>を得てさらに強大な狂気権力を一身に集めていく

存在(織田弾正忠『魔王』信長公に象徴結集されていく。

実像は異なりますが、数多くの演劇では今もこのような信長像が大半を

占めています。『悩める』信長公の姿も描写されているところに

せめてもの救いもありましょうが、乱世における人間とは誤解される

要素が常に平時以上に付きまとうからこそ人物『評価』とは

誠に難しいものなのです。)もついに身を滅ぼすことになった故知とも

現下の政治動向を重ね合わせてみると

『人間はいつの時代も変わろうとしない悲しき<業罪>を

背負わされた生物』なのだとしみじみと実感させられてしまいます。

<他人事>ではなく歴史教訓を我が事として感受する力量を

日頃から意識的に育て上げていこうとする習慣を持ちませんと

同じ悲喜劇を何度でも繰り返すことになるのです。

これこそ真に『学習』しなくてはならない人間的『学力』であり、

狭義のあらゆる知力や技能にも勝る第一義的な『力』なのです。

こうした個々人の微力が積み重なっていくことで

堅固に構築されていく『国力』こそが理想的なわけですが、

もはや私たちは引き返すことが出来ないほど悲観的、絶望的になるほか

残された道はないのでしょうか?

『それは断じて、否!!』であり、

『まだ諦めるのは早すぎる!!』のではないでしょうか?

ここに私たちの未来への<希望>もあります。

『私たちはこのような厳しい状況下でも

決して<絶望>しきってはならぬ!!』のです。

みなでともに力を合わせ、声掛け合って、

声を『天朝』様にお届けしようではありませんか?

このドラマを観ているとそんな気分にもさせられます。

『政府』が頼りにならなければ・・・。

このままではみなが『じり貧どん底』沼に沈められてしまいかねません。

松永様や光秀公の暴力を背景とした<義挙>までは

時代背景も異なり軽挙妄動は厳に慎まなくてはなりませんが、

歴史の重みを無視して『圧政』が世界各地で繰り広げられていき、

暴力(直接行動)を伴わない

まともな声すら届ける道が

それも大手民間巨大資本企業に『圧殺』されてしまえば

国家権力をもって保障されてきた『憲法秩序』すら崩壊してしまいかねません。

米国や香港、台湾など自由民主主義体制を擁護保障してきた地域で

現に起きている事態は我が国にとっても決して対岸の火事ではないのです。

現に起きている(しまった)暴挙はもちろん許されることではありませんが、

このような暴挙にまで立ち至った背景事情にある

あえて立ち上がった人々の『想い』を汲む批評姿勢でなければ

さらに『過激』な事態を招き寄せてしまうことになるのです。

もっと先を見据えて想像力を働かせてみて下さい。

『危険な芽は小さなうちにつみ取っておくに限る』

それは権力者側の『眼』にはそう映るでしょうが、

私たち一般の無力な人間の『眼』にはそうは映らないものも

また確かに存在するわけです。

生活が追いつめられてもはやいかなる打開策も見出されずに

政府からの支援もなく見離されたと感受する人々が増殖し続ければ

自ずと自らや仲間同士を助け合うために

あえて危険な『賭け』に出てしまわざるを得なくなる人々も

一定数出てこざるを得なくなるのはやむをえません。

危険行為を煽動しているのではなくて、

本当に行政支援を得られずに

社会共同体からも切断され『見捨てられた感』が

極度なまでに強まればそうならざるを得ない場面もあるということです。

『自力救済(自己防衛)権』や『抵抗権』とは

有事においてもはや法制度機能が適切に働かなくなった慢性状態時に

普段(平時)は<見えざる力>としてあったものが、

例外状況時(有事)には<見える化>してくるにすぎません。

そんなことくらい20世紀の過酷な歴史で

私たち人類は学び取ったはずなのですが・・・。

『嗚呼』

社会とはそうした多種多様な複雑な『眼(意識)』によって

構成されているというわけですが、

『最大多数の最大幸福』の名の下に少数異端者の<声なき声>、

つまり、正当に弁明する機会の余地が剥奪されていく傾向が

強くなればなるほど危険な徴候もさらに強大化されていきます。

物理学の『作用-反作用』の法則は

人間界の情動作用にも当てはまるのです。

俗に言う<鏡(返報)の法則>というものです。

ところで、管理人などは現下の日本国憲法秩序崩壊過程と

第一次世界大戦後のドイツにおいて起きたワイマール共和国憲法秩序の

崩壊過程が重なり合って見えてきております。

その行く末の恐ろしさを憂慮しております。

これを『楽天』論者が評するように単なる『移行期的混乱!?』とやらの

標語で等閑視して甘く見ていてよいものではないでしょう。

『<例外状況>における決断主義』で有名な思想家である

カール・シュミット

この転換期に叢生してきた保守『革命』派

エルンスト・ユンガーなど)の諸勢力研究も重ねて

想像考察を深めていますと深刻な事態だということも

次第に『見えて』くることになります。

ですから、独占禁止法や公正取引委員会、消費者庁ほかの

<経済法>を所管する国家組織も

ただ単なる経済領域だけの『番人』ではないはずです。

この課題は今なお20世紀初頭から持ち越されてきた

『宿題』として残されているのです。

そのことを軽視したがゆえに

第二次世界大戦にまで発展していったというわけです。

単なる『国策』としての失敗(日本国憲法<前文>だけを無思慮に読んで

その背景にある当時の世界情勢の『真相』や『実相』を見事なまでに

忘却してお経のように唱えてきた戦後教育を<信奉>していますと・・・)

一語で済ませてしまえるほど軽い問題ではないのです。

このような深い背景を理解する真の広い意味での

『行間』を読み解くことができる力こそ

大学受験でも問われてもいいのですが、

まともな『知的体感判断』を交えた解答を提出すると

すぐにも<ポリコレ棒>で入学不許可が下されてしまうのです。

こうなってくれば、入試で思考力/想像力/判断力/洞察力・・・を

試すといった『理念』をいかに高々と掲げてみても

<茶番劇>となってしまい優秀な人間ほど

『高等』教育を軽蔑していくことになり、

その事情を知らない一般国民は『教育/学習』の重要性を軽視/無視して

ふたたび世界は『野蛮(マイルドヤンキー!?)化』していかざるを得ません。

このような風潮や思潮こそもっとも軽蔑すべき事態であります。

話題を現代国家<政府>がなすべき役割/意義について戻します。

つまりは、言論・表現の自由保障を始めとする

政治領域にも多大な影響力を及ぼしてきているのが

現代企業国家現象だということを見据えた適切妥当な政策立案こそが

望まれているということです。

ですから、

『余所の担当部署のことなんか、わいら預かりしらんわ!!』では

私たち生活防衛すらままならない一般庶民にとりましては

それこそ『ひとたまりもない!!』わけです。

そのためにこその<縦割り行政の弊害除去>であり、

<デジタル化促進>ではなかったのですか・・・ということです。

私たち一般国民のために奉仕すべきを誓わされ、誓う

(日本国憲法第15条第2項)『公務』人財=

『ベスト&ブライテスト(最賢僚)』として

その期待を一身に背負わされている統治支配エリート層であるならば

もっと責任(使命)感を抱いて頂きたいのです。

そうであってこそ一般国民も政府を『補弼』することに

納得出来るのです。

日本型『民主』制の本質とは

<治者=被治者>の相互互譲補完関係であって

双方が『優秀』であってこそ成り立つはずなのですが、

もうひとつ理解が浸透していないようです。

『民主』制を質量ともに成熟させていく触媒として

『学制(教育制度)』もあるはずなのですが、

その趣旨すら弁えていない人物(それも社会的地位が高くて

富裕な上級階層)があまりにも多すぎます。

こうした慢性状態も続けば・・・、

さらなる暴力が多発、続発していくことになります。

『少しはまともに頭を働かせて歴史を勉強し直して下さい。』としか

言いようがありません。

社会的富裕上級階層ですら、社会の『底辺』土台基盤が不安定で

常に揺らぎ続ければどうなるかくらい見通して頂きたいものです。

『中長期的にまで力づくで押さえ込むことなど

歴史上あった例はない。』のです。

我が国幕末動乱期の思想家や政治活動家の『実践』意識も

そのような恵まれた階層の腐敗堕落ぶりや特に『油断』による

危機誘致が放置されてきたからこそ

ついに『野』賢が立ち上がっていったわけでした。

いわゆる『草莾(そうもう)』エリートの出現ですね。

『干戈の手初めは、諸侯方は決し難し。

即ち開基は浪士の任なり。』(吉村寅太郎

『諸侯頼むに足り申さず』(中岡慎太郎などと

先人も示唆されたような国内政治状況がきわめて危険な状況へと

転じていく種もますます蒔かれていくことになるわけです。

これこそが真に憂慮すべき政府によって誘発されてしまった

人為的病原菌の自家発酵増殖なのです。

だからこそコロナ感染抑制政策を打つにせよ

国民生活に与える心理的影響力も十二分に加味させた

社会福祉/経済生活保障政策措置も同時に打たなくてはならないのです。

『経済(生活苦からの自殺者予防や犯罪誘発除去対策)』と

『政治(感染拡大防止対策や無用な群衆心理混乱除去対策)』は

車の両輪なのです。

このような歴史的教訓も踏まえて

失われた○○年間で『治安』当局の人員も質量ともに『削減』されていった

事態推移が帰結する現状認識を軽く見積もってはならないのです。

『公務』サービスも『民間』サービスに劣らないほど

重大な任務や意義があるわけです。

現下日本はこのような深い意味もわからぬ無知蒙昧な輩による

『公務』人財バッシングを繰り返してきた

<ツケ>が回ってきているのです。

このような不穏な情勢下においても日夜私たちに代わって

見守って下さっている『治安』当局の方々の努力も『無』にさせられ、

『士気(志操堅固さ、やる気)』も殺がれていくと

いかなる事態を招き寄せることになるのか?

すでに一部の先覚者は予期されていました。

有事における『民間防衛』構想まで考えていたという

三島由紀夫氏もそうでした。

国内外の安全保障環境が激変していく流れの中では

ここまでの予想を立てて対策を練っておかなくては

とても『全体主義統制』勢力には及びません。

<孫子の兵法>にもあるように

『古来圧倒的な勢力に取り囲まれれば勝ち目はござりません。』

『彼我のあいだに圧倒的な<差>がつけば

もういかんともしがたいのです。』ということです。

それほど過去数十年間になされた『緊縮』財政による

政府の罪責は重いのです。

『供給能力』の確保を甘く見た結果が現状のあり様なのですから・・・。

大東亜戦争敗北の真因を深く追求調査して

未来の『恒久』平和へ努力しなかったツケでもあります。

左派リベラル史観からの批判的検討としてではなく、

歴史地政学的観点から日本の置かれた状態に鑑みた場合の

客観的中立立場による批判的検討の結果として抽出される

理論面だけに限らず

実践的に積み重ねていく努力が等閑にされた結果であります。

いかに個々の自衛隊員や警察職員、消防隊員や海保職員、

救急隊員の方々などが日夜私たちのために

猛烈な訓練をして見守って下さっていても

それを最終的に指揮すべき内閣総理大臣以下の政府閣僚や

政府方針が首尾一貫したものではなく脆弱さを抱えたものであれば

『国宝』も死んでしまうのです。

そして『我らの命運ももはや尽きてしまう』のです。

『<座して死を待つ>を断じてさせない』ためにも

スイス政府発行の『民間防衛』にあるような自己教育習慣も

身につけておかなくてはなりません。

米国を始め自由民主体制にある国家における

現下の厳しい警備/警戒状態を分析観察していて

『独立平和』を確保するとは『こういうことなのか』と

最近しきりに感じさせられております。

というわけで、自由民主体制を保持し続けていくためにも

『教育強化学習』とは<勉強>のように

嫌々ながら勉(つと)めて強(し)いられるようにするものではなく、

自ら内発的に取り組めるような姿勢を幼少期から養っておかないと

後から手遅れとなって痛い目に遭うことにもなりかねません。

自由民主主義体制国家における教育で

なぜ『考える力』や『想像(先を見越す)力』や

『判断(決断/洞察)力』の養成などが重視されるのかも

このような点に淵源があるわけです。

ましてや『自助(自己責任)』とか政府に言われて

無責任に冷たく突き放されてしまうような現状においては

なおさらのことでありましょう。

もちろんこのような現状は改めさせなくてはなりませんし、

国民同士のあいだでの分断対立状況を回避するためにも

何が今本当に起きているのか、

その『本質』を解読批評する力も要求されていることも

忘れてはなりません。

このことは『受験』だとか『仕事』で対応出来る技能とは

また別種の人間がともに生きるための<本当の総合学力>のことです。

そのような意識さえあればたとえ『受験』や『仕事』で失敗しても

まだ挽回出来る余地はいくらでも残されています。

『教え合う、助け合う』とはそのような<本当の総合学力>が

基礎土台にあってこそ成り立つものだからですね。

だからこそ、自由民主制国家における『国(公)民』教育が

重要視されてきたわけですが・・・。

経済格差による影響で・・・。

『もはやまともな会話や対話すら成り立たなくなりつつある・・・』わけです。

人間が『心』の余裕をなくし追いつめられていく・・・とは

かくまでも非道かつ残酷な社会を指していうわけです。

ですから、もしこれらの改革『理念』も

私たち一般国民の生活安寧秩序を確保するための

より良き方向へと転じていくのであれば誰も不安にならず

批判も続発してこないはずなのです。

その逆の方向へと転じそうな勢いにあるがゆえに

みな不安感を抱き、先行きに危機を察知して批判しているのでしょう。

この一般私人による政治/経済/社会文化権力者批判に関して・・・。

民間個人情報が巨大『資本力』をもった特定『民間』勢力に

独占・寡占的に吸収集約されていくことで権利侵害されていく事態を

国家権力が国民のためにこそ厳しく監視/管理/監督していく姿勢も

持つべきではないかという教訓も

この危機の最中にあってその事態の深刻さがより明確にされたようです。

このような時に国家権力(政府)機能が麻痺してしまえば・・・。

米国を始め今の世界各国で生起してきている事態を観察していると

様々なことを考えさせてくれます。

報道されている内容が客観的公平な見地から

多面的・多角的に批判検証されたうえで提供された記事配信なのかも

不透明な中でいかに正しく『真実』を掴み取っていけばよいのかも

わからない事態となってきております。

管理人も幅広く情報収集に努めていく中で

引き続き『真実』に迫りながら鋭く深く問題分析を深めながら、

あらたな関連書評課題本を探していきますので乞うご期待願います。

その意味では

『そもそも<国家権力(政府)>はなぜ存在しなくてはならないのだろうか?』

『国民の生命・自由・財産を保護救済するがために』という点が

より明確になったことも<不幸中の幸い>だったのかもしれません。

問題はこの厳しい事態を的確に認識して

近未来社会の先の先を見据えた高い識見で

国民のために仕事して下さる為政者階層を産み育てるかにかかっています。

つまるところ、自由民主制国家における為政者の成熟度レベルは

厳しいですが国民各位の『民度』次第だということに尽きます。

ということで、近年あらたな課題として持ち上がってきた

権利侵害に対する救済方法を確立させていくに当たり

立憲的統制対象として従来の国家権力だけではなく

新参の巨大民間大資本企業組織体までをも含めた

拡張議論を展開させていかなくてはならないのです。

国家より上位規範にある国際法による統制も

世界諸勢力間における『思惑次第』で左右されてしまうために

(すでに第一次・二次世界大戦で体験済)、

国際(外国)法よりも

内国法をより強化保護重視させた議論が

喚起されてくることも望みたいものですが・・・。

<ポリコレ棒>の前では自国民救済すら覚束なくなるという

誠に恐ろしく奇妙な社会現象もすでに出てきている点が

懸念されるところです。

当書評末尾でもご紹介させて頂きました『自由の命運』でも

注意喚起させられていた諸問題とも重ねて議論を深めて頂きたいものです。

とりわけ『立法府』のみなさんには・・・。

さてさて・・・。

外出自粛要請がますます強くなり、世間の『眼』も過剰に気になるとはいえ、

人間はずっと家に引きこもっているとおかしくなり発狂してしまうものです。

そんな発狂がますます人々を狂わせていくと同時に

数多くの目を背けたくなる暴力が誘発されていく契機となることもまた

片時も忘れ去ってはいけないと認識させられたことでしょう。

感染拡大防止に協力することはもちろんではありますが、

基本エチケットをきちんと守ったうえでの外出、人間交流は

決して咎め立てされるものではありません。

基本エチケットすら守らずに(例えば、道路に使い捨てマスクを捨てる輩や

会合・会食する際にはさらに慎重にならざるを得ないところ油断して

大声を出してどんちゃん騒ぎまでしでかす輩だとか・・・。

ましてや国民に自粛要請する側の政治家自身が・・・となると)

他者配慮に欠けた行動をすれば咎め立てされても致し方ありません。

その微妙にして繊細な身心距離感覚につき心配りをする中で

過度に萎縮する(させられる)ことなく、

それぞれが<思いやり>をもって接することが叶うのであれば

むしろ平時以上の深い人間的情愛感覚を養う機会ともなり得るわけですから

この有事だからこそ学べる『智慧』というものもあるということを

日々意識しつつ過ごしていきたいものです。

イライラ解消手段としての各種芸能・芸術やスポーツ観戦など

『生』の形で観覧できる機会も少なくなっていく中で、

免疫力向上(感染拡大防止に寄与するための個人努力)をしようと欲すれば

単独(少数)散歩やハイキング、登山するのも悪くはありません。

コロナ禍とそれに伴う政情不安や経済悪化、文化衰弱で

様々な憶測(デマ、フェイク)情報や噂話が飛び交っていて

疑心暗鬼にさせられる日々を過ごされていくことと思いますが、

このような時期には意識的に眼や耳に触れる情報を思い切って

『断・捨・離』してしまうのが一番であります。

およそ『人間』が繰り出す情報などというものは誤謬が付きまとうものですから、

生真面目にすべてを真に受けていると身心を病むことになります。

『生真面目な戯れ』の<均衡>感覚こそが大切だと

最近も某新聞に掲載されたオピニオン記事で論じられていましたが、

管理人も共感すること強くあります。

というわけで、みなさんもコロナ禍とともに様々に派生して

押し寄せてくる諸難から身心を打ちのめされることなく

日々健やかに穏やかに過ごす道をともに見つけていく努力をしようではありませんか?

管理人自身の新年を迎えるに当たってのあらためて強く感受する<抱負>とともに

皆さんにも<エール>を送らせて頂きます。

それでは『元気』に歩み始めることといたしましょう。

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昨年晩秋(10月末~11月初頭にかけて)、

地元大阪では様々な喧噪乱痴気騒動で政財マスコミ界が荒れ狂っていた最中、

その事態推移が『闇』へと向かわないよう必死に祈りながら

『脱出』する旅に出ようと決意したという次第であります。

『大阪市廃止・特別区設置法案』(実態は誤謬にまみれ混乱させられることの

多かったいわゆる俗に言う大阪『都構想』のことです。)の是非を問う

住民投票が大阪『市民(府民全員ではなく)』のみを対象に

コロナ禍下に強行されたからでした。

過去すでに『二度目はない・・・』などと

強弁されていたにもかかわらず強行突破を図ろうとするとは・・・。

どう贔屓目に見ても正気の沙汰とは思えないわけです。

そもそも大阪『市』民には圧倒的に不利で、

大阪『府』民には有利になるだとか何だとか・・・

事前報道では様々に強調されていたように感受させられたわけですが、

管理人のように大阪『市』外で在住する『府』民にとっても

有利ではなくむしろ不利になる側面も多々あるのではないかと・・・

冷静に考えさせてくれる判断材料となる推計情報も

適切に提供されることもなく大いに不安感を覚えさせられた

暗雲たれ込めた『魔』の月間でもありました。

もっと根本的に言えばそれぞれの市民・府民間を

分断対立させかねない<有利/不利>という発想自体好ましいものとは言えません。

仮にもしこの制度改変がより良き方向へと進展させるものだと信じることが

出来たとしてもコロナ禍下での拙速な判断を仰ぐことは

良識ある有権者の『眼』からすると大いに怪訝な??マークを

付けざるを得ない暴挙と感じさせられたことでしょう。

制度/組織再編(最近はこの言葉が公的機関のみならず中小零細企業にまで

波及してある種の流行語になってきていますが)を軽々しく考えてはいけないのです。

なぜならば、その渦中にいるのは生身の人間だからです。

みなそれぞれに固有の生活事情もありますから、

組織再編によっておいそれと人事異動を命ずるのも負担となるからです。

古来より人事異動を甘く見てまるで将棋の駒のように動かせると

錯覚した為政者の末路やいかに?

上記いわゆる大阪『都構想』に絡む組織再編問題のみに限らず

コロナ禍下で要請される『テレワーク』もある種の

分断独立志向の隠れた人事異動とも評価され得るわけですから

収束後も見据えた対策をみなが知恵を出し合って考え抜きながら

あるべき働き方を提出していかなくてはならないでしょう。

それこそが『麒麟がくる』も示唆する隠れたテーマなのです。

人間の『意地(誇り)』というものを軽く取り扱ってはいけないのです。

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そのような『不誠実さ』に耐えきれなかった管理人は

いにしえの賢人と真に『知・仁・勇』を兼ね備えた武人の<魂>に

邂逅したく願って<諸国一見の僧(ワキ)>に身をやつして?

秘かに現下の庶民動向を探るべく任務を帯びた隠密1人旅に

出かけてまいりました。

コロナ禍以前よりいつか訪れてみたいと願っていた夢も

ついに叶うことになりました。

それが『天王山』の戦いとして知られる山崎古戦場跡地周辺の

『西国街道』を歩きながら天王山を抜けて京都西山(長岡京市)にある

知る人ぞ知る古刹『楊谷寺(通称:柳谷観音さん)』へと駆け抜けていく

行程であります。

その旅に出かけるための前祈願として例の住民投票開票日前日には

敬愛する画家であるアルフォンス・ミュシャ作品が展示されている

『堺アルフォンス・ミュシャ館』観覧後に目と鼻の先にある

『方違神社』様に立ち寄ってお参りさせて頂くことになりました。

ちなみに、『方違さん』はよく引っ越し祈願などでも知られており、

古典の授業でも昔の人の生活風習として教わった方もおられるでしょうから

『方違え』の意味もよくご存じだと思います。

そこから転じて『道中(旅行)安全祈願』にもよく効き目があると

いいます。

ところで、現在の大阪『府』は昔の和泉国・河内国・摂津国の

『三国』を合併させた行政区域であり、

この『方違さん』が鎮座まします場所はその<境目>に当たる箇所であります。

そんなわけでこのあたりを『三国ヶ丘(みくにがおか)』とも

『堺(さかい)』とも呼び慣わされてきたというわけですね。

この三国(現大阪『府』)が地域ごとに

分断対立させられて『解体』されていかないためにも

必死な想いで祈らせて頂きました。

『歴史の重み』を軽々しく扱う首長など

<天運>も見離されるであろうと・・・。

とはいえ、まだまだ油断もならず<悪運>だけは強そうですから

『くわばら、くわばら(怖い・怖い)・・・』なのです。

単なる行政『区分』を組織再編させていくだけだから

『何をそんな大げさなことを・・・』と思われる方も

数多くいらっしゃるでしょうが、

『歴史の重み』から無理に背を向けて事を進めていくと・・・。

やがて大きな<天罰>が当たるものです。

せめて行政のトップやそれを補佐する上級役人の方々には

地元への愛着心を育む源泉である歴史を丁寧に深く学び取ってから

その地位に就いて頂きたいものです。

このあたりで『諫(忠)言』はとどめておきましょう。

それでは怒りを増発させることは好ましくありませんので

心を穏やかにする旅に出立するといたしましょう。

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『方違さん』参拝を遡ること数日前の<10月吉日>。

京の都に『上洛』せねばならぬ必要にして至急来られたしとの

重大任務を帯びた管理人はその用事を済ます前の午前中に

今こそふたたび訪れなくてはならぬと<思い立ったが吉日>として

かの吉田兼好法師も早とちりしたと言い伝えられし

『男山』こと『石清水八幡宮』参詣を果たすことになりました。

地元河内『源氏』ともご縁深い石清水八幡宮も

後に語らせて頂くことになります淀川対岸の大山崎と同じく

古来より戦乱に数多く見舞われることになりました。

近辺の『伏見』も国境に接する要衝の地ゆえに

数々の陣地争奪戦が誘発されてきたというわけですね。

そのような武人の悲哀闘争をひそかに見つめながら

鎮座ましましてこられたのが『八幡大菩薩』様であります。

このあたりはまた行基菩薩様ともご縁深い場所でありまして、

数多くの行商人や旅人でも賑わった平時には誠に穏やかな

『市場』と『宿場』が散在していた地域でもあったのでした。

そんなわけで前々から気になっていた新撰組・幕府軍と薩長軍との

激戦地ともなった淀と橋本古戦場あたりにいらっしゃる鎮魂も兼ねて

まずは京阪『橋本』駅で降りて、昼食を済ませた後、

往時の『宿場町』名残にしばし物思いに耽りつつ、

悲しき運命を背負わされた方々の鎮魂も兼ねて

淀川と対岸の天王山が見える道路側に歩みを進めていくことにいたします。

その道路を少し歩きつつ、安全な旧『京街道』筋を

石清水八幡宮駅を目指して歩み進んでいくことになります。

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(以下すべて管理人撮影)

少しずつ歩いていくとやがて石清水参詣道の名残である

石灯籠が見えてきます。

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そしてさらに進むと我が国のライト兄弟こと二宮忠八ゆかりの

『二宮忠八飛行機工作所跡』の看板が見えてきます。

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この道をさらにもう少し進んでいきますと

やがて京阪『石清水八幡宮』駅前にたどり着くことになります。

前回この駅に降り立ったのはもうかれこれ14~15年ほど前の

人生の『岐路』に立たされ、切羽詰まった状況だった頃なので

振り返れば誠に感慨深いものがあります。

『人生とは先行き何があるかわからないからこそ面白い』とも

言えます。

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またここは旧『東高野街道』沿いでもあります。

河内国と山城国(京都)を結合する重要な交通路でもあります。

このように道路標識案内板をしばし眺めていれば

今後の人生『行路』にもより一段と深い感慨が湧き起こってくるのでした。

『まっこと拙者も<数奇な運命>を辿っておるのぉ~』ってなわけで

石清水参詣道から少し外れて時間はまだたっぷりとありましたので

石清水『神宮寺』の方も散策してみることにしましたよ。

『神應寺』です。

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またかの『元寇』とも関わりがあるらしい五輪塔も見えてきました。

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この奥の方へとさらに渓流沿いに歩みを進めていきますと

写真に映り込んでいる『幟』にもあるように

お不動様にもお会いすることが叶います。

静かで落ち着いた爽やかな境内でしたよ。

それではここから引き返して

いよいよ石清水八幡宮境内へとお参りさせて頂くとしましょう。

境内を入るとすぐにかの兼好法師も石清水社本殿と勘違いしたと

『徒然草』にもある『高良神社』があります。

古典の教科書にもある

『すこしのことにも、先達はあらまほしきことなり。』

(徒然草第52段)のエピソードで有名な神社ですね。

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八幡様を拝ませて頂いたあとは頂上の展望台からの眺めを

堪能することになります。

淀川~桂川・木津川・宇治川の3川の合流地点とともに

現在でも交通や物流拠点として栄えている様子を垣間見ることができます。

『まさに<天晴れ>ですなぁ~』

さて、月をまたいでワープしましょう。

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<11月3日(文化の日)>

この日は早朝に目が覚めて気象予報の確認と事前準備を再点検させた後、

かねて事前計画を立案していたとおり『鹿島立ち』することに。

身近な地元関西の低山とはいえ決して侮ってはなりません。

念入りな地図の脳内刷り込みとシミュレーションを組み立てながら

しばし車中で寝入ります。

午前8時前に出て1時間半程度でまずはこの日最初の目的地である

阪急『水無瀬』駅に到着。

この『水無瀬』駅も前回降り立ったのはすでに22年ほど前の

大学1回生時分のこと。

その時とはまったく駅周辺の景観も様変わりしておりました。

阪急『水無瀬』駅からまずは始めて訪れることになる

河内人としては念願の『青葉茂れる櫻井の♪♪』で有名な

楠公夫子の<櫻井の別れ>の舞台となった名所を目指して

JR『島本』駅へ向けて<楠公通り>を北へ進んでいきます。

すでに午前10時前でしたので子どもたちも遊んでいた公園は

賑やかな感じでした。

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このような感じで名所解説板が公園内に点在しており、

子どもたちがコロナ禍下でも賑やかに遊んでいる姿に

ひと安心しつつ、早速この公園前から走る旧『西国街道』筋を

歩きながら『水無瀬神宮』参拝を経てJR『山崎』駅へと

向かうコースを辿ることにします。

『水無瀬神宮』も住宅と田畑のあいだにひっそりと佇むような

場所に鎮座していますので始めての方ならば

少し迷われるかもしれませんね。

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『承久の乱』で有名な後鳥羽上皇様ほかをご祭神とする由緒ある神社です。

しばし参拝を済ませますと、

もと来た西国街道筋に戻ります。

少し歩みを進めて参りますとやがて川と線路の交差地点へと辿り着きました。

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上記写真の右側が先に訪れた『石清水八幡社』のある『男山』方面を写したものです。

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ちょうど新幹線『のぞみ』号が走行してきましたので

子どものように写真撮影を試みてみました。

高速鉄道をうまく写すコツは自身の進行方向とは逆の位置

(電車が走り寄せてくる先行車両と対面する側ではなく)から撮影してみることです。

『撮り鉄』の方には常識かもしれませんが、

初心者の方には伝授しておきましょう。

そして当たり前のことで読者の皆様には<釈迦に説法>ですが、

絶対にフェンスをよじ登ったり、

駅のプラットフォームから線路内に降りたりする危険行為に出たり、

営業時間外もしくは時間内でも不法侵入するなど犯罪行為に出たりしないこと。

マナーやエチケットは確実に励行しましょうということです。

さてそんな新幹線の英姿を横に眺めながら本日の目的地へと

徐々に近づいていくことにします。

すると有名どころの物流倉庫や工場などが数多く散見されるようになります。

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『大阪染工株式会社』様正門前の道路を突っ切ると

JR東海道本線が上方に見える狭い路地道へと入っていくことになります。

その先をさらに進みますとやがて『関大明神』様が見えてきて

『離宮八幡宮』様へと辿り着くことになります。

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『離宮八幡宮』は<製油発祥地>だとか・・・。

かの若き頃の斎藤道三公ももとは『油売り商人』だったとか・・・

もっとも諸説あるらしく、

司馬遼太郎氏の歴史小説『国盗り物語』における創作エピソードという説も

あるようですね。

ただ山崎には油『座』があったことだけは確かだといいます。

幼少期の歴史漫画本で読んだ記憶がありますが、

最近の研究はこの道三公も一代で成り上がった!?わけではないらしく

その出自もよくわからないようですね。

でも不思議と魅力溢れる人物ですから

戦国の三大『梟雄』のひとりとして数えられる先の松永様と同じく

なぜか好きな武将なのです。

『下克上』と言っても、様々な『出世』形態があるわけでして、

一概に『成り上がり者』として軽侮評価することなど慎まなくてはなりません。

先の松永様もそのような意味で再評価され始めている人物です。

大和国支配を巡って対立を深めていた筒井順慶公も

そんな誤解されている人物ですが・・・。

それにしても鶴瓶師匠の息子(駿河太郎氏)さんも

かっこよい演技をされていますが、

さてはて最終回あたりの場面では

どのような演出紹介がなされていくのでしょうか?

少なくとも『洞ヶ峠』を決め込むばかりではなかったことだけは

史実のようですね。

いわゆる日和見主義者の代名詞でもある『順慶流』という

望ましくない汚名はそがれつつあるようですが・・・。

一度でも『定着』してしまった言葉とはそら恐ろしいものですね。

ちょうど正午前のお昼時だったので

神社参拝後に見かけた近くの風情ある料亭風?の

懐石定食なぞ食べてみようかと一瞬贅沢欲の誘惑に駆られましたが

お金と時間の節約のために頭からその光景を振り払うと

JR『山崎』駅前コンビニに入り、昼食を買い求めることにしました。

名物『ランチパック』が大好物なのでもちろん買い込みましたよ。

これぞ<ほんまもん>の『デイリーヤマザキ!?』かと思いきや

(ヤマザキ製パンさん系列のコンビニエンスストアで

本社はもちろん別のところにあるそうです。)

『麒麟がくる』のご当地トートバックが一瞬目に焼き付いてしまいましたが、

そんな物欲にも負けじといよいよ線路を渡って

『天王山』登山口へと上り詰めていくことにいたしましょう。

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登山口から少し登ると『宝積寺』へと到達します。

この境内にある弁天堂脇あたりから続く細い道が

登山道の起点となります。

通称<秀吉の道>を頂上目指して登っていきますと

やがて『旗立松展望台』あたりに達します。

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さらに登っていきますと幕末史で1つの転換期となった舞台が見えてきます。

久留米『水天宮』神官でもあった

真木和泉守様らが眠る『十七烈士の墓』であります。

我が郷里の天忠組もさることながら

この真木氏を初めとした当時の志士たちが権謀術数渦巻く

いわゆる雄藩を頼りながらも、その巨大な渦潮に巻き込まれていったことを思うと

いつも涙が溢れてきます。

いつの時代も勇ましいことばかり言って、

若者たちを自派に都合のよいように引き寄せようとする

指導者のいる大きな自治体や企業組織体権力にも

警戒すべきだと感受させられた一幕でありました。

今も『革命』や『改革』、『維新』や『既得権益(岩盤規制)打破』だとかいう

勇ましいかけ声やスローガンは耳に心地よくてなびきやすい

<魔語>ではありますが、その裏にある真の<意図>も読み解けなければ

いつの時代も酷い目に遭いますよということですね。

結局、『急進』的な<世直し>論は失敗することが多く、

しかも多くの惨害と流血を残すものですから・・・。

ですから、制度が時代の激変に対応できず、見直し(保守点検)作業が

必要になったからとはいえ、そもそも時間がかかるのも当然のこと

(なぜならば、制度変更にも大前提として多大な影響を被る

生身の人間生活がそこにはあり、人心の安堵確保を図らねばならないから

ですね。)でその点を<織り込み済み>のうえで、

平時のうちに『早め早め』の手を打っておかなくてはならないのです。

有事になってからでは遅いのです。

とはいえ、平時における制度改変に当たる手続き迅速性を図ろうとするにせよ、

全体主義的統制国家でもない限りは、着実な実施には時間がかかるわけですから、

単に理性的に制度改変に当たろうとしても、

人々の意識や身体感覚がついていかなければどうにもならないのです。

自由民主制を採用する限り、強制的にある特定イデオロギーに基づく

制度を受け入れることなど不可能事だと知ったうえで対応していかざるを

得ないのです。

制度設計に当たる人間(特に法経学部出身者!!)こそ

よく人間を理解する努力を積み重ねなくてはならないのです。

それは理系にも当てはまることですが、

いわゆる社会工学』の知見を現実社会に適用する際には

まずもって『人間とは何か?』という問いを常に深めていく研鑽が

厳しく要請されるという点だけは片時も忘れ去ってはなりません。

つい先だっての乱痴気騒ぎといった嵐も過ぎ去ったところでしたから余計に

そのように強く感受させられたわけです。

河内人は堅実かつ現実派なので

よもやそのような策謀には乗せられないだろうとは信じたいのですが、

あの一連の動きを丁寧に分析観察していると

歴史を知らない者が引き寄せられていく姿を見ていると

一抹の不安を覚えてしまうのです。

知らない方は是非とも天忠組河内勢の研究書を紐解いて

じっくりと考えを深めて頂くよう願います。

『なぜ途中で大将を見限って別行動を取らざるを得ない立場へと

陥ってしまったのだろうか?』という問いであります。

仮に『志』を同じくする集団結社だとしても

指導者への信頼感が喪失させられるような状況に至れば

組織の壊滅とはいとも簡単に達せられるのですから・・・。

そこを敵対する相手が衝いてくるわけです。

<各個撃破>(孫子の兵法)

<分断して統治せよ>(大英帝国植民地管理法)などなど

歴史にあまた見受けられる『術』であります。

これに対する

『団結は力なり』

『1人は万人のため、万人は1人のため』という標語も

ファシズム(全体主義)を連想させるようで

今日では敬遠されていますが、

極端な『独立個人主義』が自他ともにもたらす(した)弊害も

考え合わせておかなくてはなりません。

すべてはバランス配合の問題だということで

二者択一(0か1)ではないのです。

中里介山の有名な長編小説『大菩薩峠』の主人公である机竜之介も

さぞやびっくり仰天することでありましょう。

『現実の歴史とは理想を常に裏切る場面が多々ある』ということです。

それでも理想の国家像を求めて『御一新』を目指して駆け抜けた

時代の先駆者を敬愛しておりますが、

歴史の転換期にご自身が立ち至った際に

いかに身を処するかは常に考え抜いておきたいものです。

『歴史の重みを体感する』とはこのような身体的学びをも含めての

己自身の<死生観>を厳しく問うものなのです。

さて、しばし黙祷を捧げた後、少し軽食を済ませると、

さらに頂上目指して駆け上っていくことにいたしましょう。

その前に軽々しく由々しき歴史認識を示す標識看板がありましたので

心苦しいことですが<歴史の生き証人>として語り残しておきましょう。

『何とも無惨な明智光秀公評釈であることぞよ・・・。』

『語るに落ちたとはこのことじゃ・・・。』

『勝ち馬に乗ったつもりが、哀れな末路を辿る』

歴史の流れを表層的に眺めるだけで、

そこで心ならずも理想ならずに敗残されていった方々への

人物評価があまりにも軽薄なだけに

決して拙者も見過ごすわけにはまいらぬのです。

前にもどこかでその人物の名誉を慮って

名をぼかしてはいたのですが、もう『天』がお許しにならぬようで

我が身を通じて後世へと語り継いでおかなくてはならないようです。

それがこの標識でありました。

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明智光秀公を『古い常識人の敗北』だとは・・・。

この小渕恵三内閣でも閣僚を務めておられた人物には

高校生時代にはこの方による『豊臣秀長』公に関する時代小説や

当時産経新聞に連載されていた『風と炎』を拝読させて頂いたりと

期待も寄せていたわけ(当時はまだまだ経済学に関する知識もなく、

社会の実像や経済学が社会に与える影響力などについても

知らない若造<青二才>でしたから、何となく明るい未来像を

語る氏に魅力を感じていたのでしょう。)ですが、

晩年に産経新聞『正論』欄でこの失われた○○年を総括されていた

評釈論文を拝読させて頂いた時の衝撃とのズレを思えば、

この苦しく厳しい時期を過ごさざるを得ない状況に追い込まれた

後続現役中堅若手世代としては何度も悔し涙が溢れ出てくるのです。

『今時の若者は<内向き>で何もしてこなかった・・・(大意)』だと。

そのような意味の評釈文に対する反応として

『俺はなんと<世間知らず>だったのか・・・』と。

『別に自分自身も同じ若者世代もみながみな<内向き>ではないし、

<内向き>志向がすべて悪いわけでもなかろうし、

いかなる人間も時代環境の制約から簡単に逃れることなど難しいのだから、

そんなこと言われてもねぇ~。』といったところが

正直な気持ちだったのです。

政権与党で日本の輝かしき未来を築くべき立場にある方の

発言とはとても思えず信じられなかったのです。

そのような冷酷な評価が下せる源は

どうやらこの歴史『観(認識)』や人物評価基準にありそうです。

この方の生前のお仕事ぶりにはそれなりに敬意も表しておりますし、

期待も寄せていただけにその『落差』ぶりに

当方も『落胆』させられるばかりなのです。

当たり前ですが故人の名誉を毀損するがために言及しているわけではないのです。

少なくとも『為政者』側にいた高官の位置におられたわけですから

歴史に対する責任は私たち一般庶民に比べて遙かに重いというに過ぎません。

それ以外の『他意』などございません。

『ただ歴史とともにその非情な流れに身を任せつつ、

その時点時点で最善を尽くそうとしながらも苦悶に喘ぐ

人生を送らざるを得なかった人間的悲哀感』をこそ

共有していなければ優れた歴史作家としても

『いかがなものでしょうか?』と評価せざるを得ないのです。

古人は言いました。

『歴史とは人間を映す<鏡>』だと・・・。

<かがみもの>と言えば歴史物のことを指します。

受験用豆知識でもあります。

さて、そんな悔し涙を振り切った後には

ほろ酔い気分には浸れませんが

『酒解神社』のご祭神様に一礼させて頂いたあと、

さらに歩を進めてまいりますと、

やがて『天王山』山頂と山崎城跡地にしばし休息を求めることに

いたします。

ふたたび軽食を済ませると、先に進みます。

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『天王山ハイキングコース』からの分岐点に当たる

<柳谷別れ三叉路>に行き着きますと

さらに奥深い<浄土谷・柳谷>方面へと

反対側に降りていくことになります。

すでに昼も過ぎ、始めての登山道ですので

時間的見込みも厳しく見積もっての安全対策を練り直します。

道自体は整備されていますが、

雨上がりだったためか下山口あたりの急な斜面道は

少しばかりぬかるんでいて足下に十二分な警戒注意が必要な

箇所もありました。

そんな少しばかりの<けもの道>も抜けてみますと

以下のような道路へと辿り着くことになります。

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この道路を下っていくとやがて以下のような箇所に

出逢うことになります。

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『弥勒谷十三仏』ですね。

この分岐点を山側に向かって向かって左側に進路を取ると

やがて本日の最終目的地である『<柳谷観音>楊谷寺』に到着いたします。

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有り難いことにこの御寺にも

<平和の象徴>である『陽光桜』も植樹されているようでした。

今度もしまた機会があれば春先に来ようかしらん・・・。

コロナ禍下にもかかわらず、

こんなひっそりとした山里にある御寺にも

しばし『極楽』を観じ、感受しようと数多くの参拝客で

賑わっていたようです。

『密』ではありませんでしたが・・・。

さてさて、山門に一礼してくぐり抜けますと境内に入ります。

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このような美しく心を和ませてくれる『花』手水鉢が

疲れた私たちを温かく迎え入れて下さります。

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さて、ここからは『特別』有料拝観となりますが、

写真撮影は出来るとのことで

みなさんの疲れた身心を癒す素材となりますよう願いまして

美しい『極楽浄土庭園』をご覧に入れましょう。

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途中に挿入させて頂きましたのは

先日お亡くなりになられた歴史作家様も監修関与されたという

映画『<2015年版>日本のいちばん長い日』

の撮影舞台地ともなった場所だそうですよ。

この事件にまつわる史実解釈なども様々な方面から

批評がなされているそうですが、

独自評釈はここでは差し控えつつ先へと進ませて頂くことにいたしましょう。

なかなかに厄介な事件ですが、

一歩間違えれば『共産』革命のきっかけとも成り得たとも

一部では評価されている我が国体史上では

その後の歴史を大きく激変させたかもしれない

きわめて危うい『1日』だったことだけは間違いないようです。

この映画から読み解ける歴史的教訓とは

『戦争とは始めるのは簡単でも

多大な犠牲者がすでに出ているために

終えるのは誠に難しい』ということに尽きます。

『文化紊乱による一般公衆道徳混乱(表裏文化棲み分け秩序の破壊工作)→

世界的感染拡大(先の大戦前ではペスト)→世界(的サプライチェーン=

供給網破壊と需要縮小による自国窮乏化を伴う)大恐慌→国民生活防衛策に

失敗した自国政府への下からの突き上げ→失政責任棚上げによる

外国政府への責任転嫁→戦争内乱→革命→特定エリート階層による

一般国民支配完成・・・』という流れを描いているのが

『ブルジョア共産(マルクスはルンペンプロレタリアート排除志向=

一般中産/下層階級を軽蔑していた)』主義者

(全体主義統制管理愛好者)の筋書きですから、

真の意味での『反戦/非戦』の立場で『恒久』平和の道を探るためにも

常日頃から紛争状態を招き寄せかねない不安定さを

回避させていくための<国防安全保障体制>の確立も

同時に願わざるを得ないのです。

自由主義者や保守主義者、穏健社会民主主義者を取り込むためには

『目的のためには手段を選ばず』(マキャベリ)で

それらしいレトリック(例えば、民族主義や国民主義<ナショナリズム>)を

フル活用して<改宗>を迫ってくるのです。

人間には悲しいかな、1人では生き抜くことが叶わず

社会集団を形成して生きていかざるを得ないため

<同調圧力>や<社会信用評価指数>による恐怖支配などを活用して

『他者支配欲(マウンティング嗜好癖)』や

『象徴偶像崇拝嗜好癖(寄らば大樹の陰志向)』などで誘惑してくるわけです。

たいていの人間はこれをやられたらひとたまりもありません。

だからこそ、『読解力』や『解析批評力』を磨くためには

その背景にある真の<意図>を絶えず掴み取る努力をしなくてはならないのです。

今年から開幕された新しい大学入学共通試験(旧センター試験の改善版)では

この手の新傾向問題(なんと世界史Bでは『1984年』などを素材にした

比較検討批評思考を通じた<意図>を見抜く問題)も出題されたようで

これから社会へ巣立っていかれる若者のみなさんには

大いに期待しております。

ひとまず大学入学共通試験お疲れ様でした。

まだまだ寒さとコロナ危機も続きますが

陰ながら健やかに受験できますよう『ご武運』を

お祈りしております。

新傾向問題がみなにとっても始めての体験であることは

同一条件なので、このような時は

問題そのものを楽しみながら取り組んでみて下さいね。

そしてまず最初に問題文全体をざ~っとでもいいので

俯瞰的に眺めてみましょう。

そしてご自身にとって、取り組みやすいと感じたところから

手を付けること。

途中で泥沼に入りそうになれば(途中までの思考過程を

簡単なメモ書きしておいて)、『迷わず』次に取り組みやすい問題へと

『速やかに』移動しましょう。

そうすれば少しずつ緊張感(持続はもちろん大事ですが)もほぐれてきて

『フローゾーン(気分が乗った状態。チクセントミハイ氏)』に

入れますので、そうなれば大丈夫。

後は日頃から十二分に予行演習してきたことを信じて

最後まで諦めずにペンを走らせてきて下さいね。

『サクラ咲く』

私たちも次世代を担う若者とともに

この厳しくしんどい世の中を少しでも生きやすくするために

頑張ります。

勝手な思いだけが先行して後続受験生に負担をかけさせた

せめてもの償いでもあります。

いずれにしましても、ここが時代の転換期。

くれぐれも『油断』せずに隠忍自重して

ともに乗り越えていきましょう。

ですから、主義主張がいかに麗しく響いてきても

その表層部分だけ見て軽はずみな判断してしまうと

取り返しがつかない事態を招き寄せることにもなりかねない

という問題意識は常に忘れないでおきたいものなのです。

このように<戦争と平和>を考える際には

常に多種多様な観点から重層的に批判検討していかなくてはなりません。

それが『失敗の研究』を現在的課題として活かすということです。

『今置かれている現実を無視して

一気に理想実現へと向かおうと前のめりになった時、

人は痛い目に遭う』のです。

いかなる理想的制度に思えたとしても

さらに先を見越した『万全策』を検討する十二分な

<経過措置>でもって様子を眺めてみませんと

想定外のことが起きてくることも視野に入れておかなくてはならないのです。

新たな理想的制度を導入するにしても

『早すぎず遅すぎず』のこの<政治的勘>も大切なのです。

現下の経済事情ではすでに『早すぎる』ことなく

<機は熟した>と評価し得ますが、

いかなる制度設計とするかに当たっては

『為政者(特定層)』に都合の良いものとなることなく

国民に無用な動揺を与えぬような

現行社会保障制度との整合性を丁寧に考え抜き

議論を積み重ねつつ、

導入してみて様子を眺めながら

さらなる『改善』に当たっていくほか

未曾有の有事における対策はないかと提案させて頂きます。

いずれにしましても、ベーシックインカム(国民所得配当)制度にせよ、

<最後の雇用主>としての一時的政府雇用形態(就業保障プログラム制度)を

採用するにせよ、二者択一ではなく、

一方だけが『完全無欠』な制度だということも

絶対保証できないわけですから、

とりあえず試験的にでも実施していきながら

国民生活の安定基盤の道を開拓・確保していくべき時期であることだけは

間違いありません。

各種給付金の急な打ち切りによって

国民各位が路頭に迷うことなきよう

最善を目指した万全な政策対応をされることをあらためて強く願います。

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さて、日も暮れつつある<逢魔が時>の危うい時間帯になってきましたので

バスに乗車して『阪急長岡天神』もしくは『JR長岡京』方面に向かおうとしても

バスの便数も少ないようで

自身の『健脚』と『運』だけを頼りに不安でしたが

もと来た山道を駆け上って山崎駅方面へと抜け出る道を

『決断選択』することになりました。

すると先導して下さる地元のマラソンランナーとして

練習されている方なのか存じ上げませんが、

たまたまタイミング良く現れ出てきて不安に感じることもなく

一気に天王山山頂にまで駆け戻ることが叶いました。

途中の夕陽が落ちかける光景に見惚れている時間すらないほど

ひたすら『健脚』だけを信じて駆け抜けていくことになりました。

山頂にまでたどり着くとひとまずは安心ですが、

そこで少し休憩すると最後の安全確認に力を入れながら

ゆっくりと下山していくことに『決し』ます。

すると美しい夕焼け姿に映えた五重塔の懐かしい光景が

まもなく見えてきました。

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そして無事にJR『山崎』駅へとたどり着くことが叶いました。

(ちなみに今回の山崎天王山登山口から柳谷観音様までの往路は

午前11時50分発~午後14時10分頃着。

復路は午後15時30分発~午後16時15分頃着。

最初の登り口こそきつく、始めての道中かつ<物見遊山>気分でしたので

時間は多少かかりましたが、復路はかつて来た道をもとに戻るのみで

脇目もふらずに一心不乱・不退転の決意と覚悟で駆け抜けましたので

意外と早く山崎駅ふもとに辿り着くことが叶いました。

まだまだ免疫力向上とともに我が『健脚』も鍛えなければ・・・と

感受させられた有意義な人生のひとときを過ごすことが出来て

感謝の言葉しか出てきません。)

今回は『山崎聖天』様も<大人の社会見学>として人気のある

『サントリー山崎蒸留所』などでの試飲体験や工場見学なども

コロナ禍下での一時休業かつ時間の都合上もあって叶いませんでしたが、

またいずれ機会がありましたらばご紹介させて頂こうと

仮計画を練っているところです。

それではまたいずれどこかでお逢いいたしましょう。

再度の緊急事態宣言下の生活もいつまで続くかわかりませんが、

感染拡大予防対策を念入りにした基本エチケットは特に厳しめに守りつつ、

人生の残された貴重な時間をご自身の責任ある判断でもって

他者と社会に対する思いやりとともに

適度な外出息抜きも図りながら楽しく過ごされることを

お祈りして筆を擱かせて頂くことにいたします。

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~2021年聖徳太子様御遠忌1400年を前に

中之島香雪美術館にて『聖徳太子絵伝』

<太平記>にある郷土の英雄楠木正成公がご閲覧されたとの言い伝えある

『未来(未然)記』が語りかける心を慎んで拝受して~

『日輪の 菊水に照る 天翔ける

姿うるわし 大和心よ』(管理人)

(我が国と世界と宇宙の調和愛を求めんと

さきがけられて人類の罪科を一身に背負われた先人に慎んで捧げます。)

『紅葉』(妖怪ヘヴィメタルバンド『陰陽座』様)の

楽曲を師走の暮れに聴きながら新年が<弥栄>に言祝がれていくことを

望まんと欲す・・・♪♪~

さらにこのコロナ禍下でライブ活動が厳しくなって

生活も苦しい状況におかれていらっしゃる

特に芸能関係者のみなさま方には

まだまだ苦しい時期も続くかと推測されますが、

よき作品が続々と創造熟成されていく良き機会だと捉え直して

新たな『配信』形態やファンとの多彩な『交流』形態を

発案模索されている最中だとお見受けしております。

誰しも人生には厳しい局面がやってまいりますが、

『諦めた時点が本当に今までなしてきたことが

<水泡>として消え去る時』だと芸能活動従事者ならずとも

すべての人々に当てはまることだと感受確信しておりますので、

『みなさんとともに支え合っていきましょう。』を

<合い言葉>に『声掛け合って』

河島英五<元気だしてゆこう>より)いきましょう。

そのためにも余裕ある恵まれた経済環境にある方の場合には

お金をゆとりなき経済環境にある方へと注ぎ込んでいかなくてはなりません。

管理人なども厳しい経済環境にある者ですが、

『これは応援して差し上げなければならない』と感受された方々には

生活費に支障なき限りは身の丈にあった形で

惜しみなく『投資(消費)=義捐金』として

賢く散在させて頂く勇気が湧き出るようになってきました。

それは以下のように現代経済システムの真相を学び

知るようになり、それまでの『違和感』が克服されて、

さらなる積極投資(消費)せざるを得ない理由に

『確信』的根拠を抱くようになったからでもあります。

『誰かの出費(赤字)は誰かの収入(黒字)』

このように経済は『循環』構造をなしていることを明示立証させたのが

最近話題の<現代『信用』貨幣理論(通称:MMT)>でもあります。

経済は『ストック(現在貯蓄総額)』だけで捉えてはなりません。

『フロー(将来入ってくるだろう循環想定所得)』も含めて

捉えなくてはならないのです。

心ならずも只今失業中などの身で

すぐには収入が廻ってくる余地がない方の場合には

『ストック(過去の貯蓄分の取り崩し)』で

生活をしのがざるを得ませんが・・・。

とはいえ、生活困窮者には

このような状況を想定せずに経済『失政』に追い込んでしまった

政府に声を出して救済して頂く『権利』があるのです。

1人では心理的に不安で状況説明に<難>を感受して

行政相談へと立ち向かう勇気が湧き出てこないよ状態に

追いやられていらっしゃる方の場合は

お近くの同じような状況に置かれている方とともに

ご訪問されるのをお勧めいたします。

プライバシー保護の点などで気が引ける場合もあるかと

思いますが、細かい点は『開示』せずとも

類似状況であるならば同時相談訪問もしやすくなるかと思います。

それでも難しい場合には

ボランティアで設営されている各種相談所(弁護士や

公務員OB/OG関係者など公的資格をもったプロの信頼できる

相談者が常駐されていればなおさら良いです。)も探せば

きっとどこかにあるかと思いますのでご活用下さいませ。

とはいえ、単独では給付金『詐欺』や

無駄な手数料を取ろうとする悪徳業者による

被害に遭う危険性も高まりますので、

出来れば民間ボランティア団体ではなく、

『公的』相談所をご活用されることを

まずもって強くお勧めさせて頂きます。

相談に行かれる前の<下調べ準備>として

図書館をご活用されるのもお勧めいたします。

そこでわからなければ司書さんなどが

どなたか信頼できる相談者を紹介して下さるかもしれませんよ。

『とにかく切羽詰まって自殺を考えることだけはやめましょう。』

『経済苦のためだけに貴重なご自身の<いのち>を絶つのは

悔しいですから<死んでも死にきれない>もの』だからです。

『あなたの<いのち>は

わたしの<いのち>も支えて下さっている。』のですから

『絶対に死を選択してはなりません。』のです。

なお、このMMTに関する『入門』解説書(と言っても

かなりの分厚さですが)についての要約書評

すでに公開投稿配信済みになっております。

まだその話を一度もお聞きになったことがない、

もしくは再度復習しておきたいと思われた読者様には

ご一(再)読して頂くことで

その『概要』だけでもMMTをイメージして頂くのに

お役に立つかと信じておりますので

ここにあわせてご紹介しておきますね。

難しい『理論(屁理屈)』は知らなくても構いません。

その本質にある『心』のみお汲みとり下さると

誰にでも単純明快にご理解頂けるものと思います。

但し、間違ったり、歪んだ形で解説されている

ユーチューブ動画もありますので

『定(好)評価』あるものをご自分の目利き力で

お選び頂いたうえでご視聴され、

各自の生活実践の場でご活用下さいませ。

管理人も今後とも今が旬の難しい分野を

可能なかぎり『わかりやすく』お伝えできるよう

さらなる研鑽に努めてまいります。

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最後にこの厳しいコロナ禍下で受験せざるを得なくなった

青少年の若き同志諸君に捧げます。

<コーヒーブレイク~特に受験生の皆様方へ宛てた鼓舞の文の巻~>

『教科書(俗説・通説)を一度は疑う姿勢を持て!!』

そろそろ受験生の皆様におかれましては

苛酷なコロナ禍下での入試の季節がやってまいりますが、

大学入学以後は『勉強』から『学問』への発想の転換(頭の切り換え)が

必要不可欠な受講姿勢となりますので忘れないで下さいね。

『小論文』が課される受験生の皆様におかれましては、

まさに問われるのがこの『学問』を受けるに値する知的姿勢が

あるかどうかでありますのでその点にもご注意した

十二分な対策を練って頂ければとアドバイスさせて頂きますね。

特に大学受験生の皆様方におかれましては

まったく試験内容や様式も大幅に変わる節目の年に当たりますから

『思考力』『発想力』といった知力がいかなるものなのか

各自で想像しながら先達のアドバイスなどを受けながら

受験を無事乗り切って下さいね。

その『思考力』『発想力』の大前提には

もちろん正確な『知識(暗記)力』も欠かせませんので

決して軽視されませんようにご注意願います。

試験で問われる知力のあり方が変わるからといって

従来から重視されてきた知識力の多寡や確かさまで

不要になるわけではありませんので・・・。

いわゆる『新傾向』方式や問題は

管理人も学生時代から数多く経験してきましたが、

要はしっかりとした<基礎学力>の『定着』を図っていく

学習方法が何よりも先決的対策法になるということです。

『学問に王道(楽な道)なし』

『急がば回れ』

『基本なくして応用なし』・・・。

それによってこそ受験を前にしての『自信』も身に付いていくと

いうことです。

入試直前期は最後の総仕上げに追い込みをかける時期ですが

焦らずに弱点補強に努められることに徹して下さいね。

つまり、『新しいことはもうやるな!!』

『この時期にはリスクがある!!』ということです。

特に現役生の場合には授業時間数の短縮から

カリキュラム未消化縮小分だけ『易化』するとの情報も

飛び交っているようです。

一方で浪人生には有利だとか何だとか・・・。

でも耳寄りな情報を

名古屋の某塾講師先生によるユーチューブ動画で

仕入れさせて頂きましたので少しばかりご紹介しておきますね。

コロナ禍下での授業期間縮小の影響で『現役』生には

難関校挑戦するに不利だとの情報も飛び交っていて、

これら上位難関校を目指されている受験生の皆様方には

本当に不安になるかと感受されますが、

だからこそむしろチャンスかもしれませんよ・・・との

お話でした。

リスク回避のために本来ならば上位難関校挑戦者が

安全志向で下位移動してくれるのですから・・・。

しかも『浪人』したからといって絶対に上位難関校に合格できるとの

保証は実はどこにもありません。

このような失敗体験談をされている方を

管理人も数多く見てきましたから間違いありません。

むしろ、せっかく『現役』時に上位難関校(といちおう世間では

評価されている)学校に合格していたにもかかわらず、

『浪人』されてしまわれた受験生には厳しい冬になるかもしれません。

しかも年によって難易度も問題『傾向』も異なるわけですから。

経済的にも厳しい時代が続きます。

しかも時代の先行き状況も掴めずに

今後の社会においていかなる『学力』が要請されているのかも

不透明です。

しかしながら、1つだけ確かなことが言えます。

それは将来いかなる専門分野に進み、

いかなる職業に就かれるにせよ、

しっかりとした『基礎学力』のうえに応用力が効く

いわゆる<地頭力>がいかなる社会でも求められている点は

ほぼ間違いないということですね。

さらに狭義の『知的』学力だけではない

総合的『人間力』を兼ね備えた人『財』であります。

しかも今は『学(校)歴』よりも生涯学習時代を反映して

『学(習)歴』こそがモノを言う時代ですから、

受験に失敗したからといって挽回出来ないなどと

いうことはありません。

『人を見る眼がある人は挫折者こそを選ぶ』のです。

『むしろ挫折者であるあなたを採用しない人事担当者のいる

会社はもはや人の<伸びしろ(今後の成長可能性)>を見込む余裕も

ないほど<落ち目(ゆくゆくは倒産)>にある事業組織で

あるかもしれない』のです。

『捨てる神あれば拾う神あり』

これはこのコロナ禍下で心ならずも失業された方にも

当てはまる力強い言葉です。

管理人もこの力強い<言霊>に幾度励まされたことか・・・。

という時代状況ですから・・・。

『現役』生の方も『浪人』生の方も結果としては第1志望校に

入学出来なくとも、第2志望校以下でも十分に『満足』出来るような

併願校を受験されるとともにその『満足(第1志望校不合格でも

その結果を納得して受け入れられるように)』を得るためには

やはり多少ご自身の『実力』を超え出た最上位クラスを目指した

受験対策を組むのが理想的でしょう。

また世間では様々なランキング評価がありますが、

そのような話題評価も決して真に受けずに

もう時期的には遅いかもしれませんが、

オープンキャンパスなどの機会に

ご自身の目でしかと『体験』してきて下さい。

すると間違いなく様々な受験/入学『基準』も

見えてくるでしょうから・・・。

さらに管理人の母校(関関同立の某R大学ですが)を

受験予定されている方へ<ここだけの秘密>話を差し上げましょう。

大学自身が広報を兼ねてなされている

『入学試験対策講座』は必ず受けた方が良いですよ。

管理人の高校生時代には

確か某予備校講師による『委託』講義みたいなものでしたが・・・。

管理人の母校以外でもこのような対策講座は

生徒募集のために特に『私立』の場合にはあるかと思われますので

この時期にはもう終了済みかもしれませんが、

受講された方はそこで配布された教材なども

再点検復習しておかれることをお勧めいたします。

残念ながら参加出来ない事情があった方でも

同じ大学を受験する心優しいご友人様がおられましたらば

資料情報を教えて頂けるかもしれません。

入学試験とは残念ながら『選抜』試験でもありますが、

人間とは狭い『度量』を投げ捨てる勇気と愛も

持ち合わせていませんと、

たとえ受験には勝てても、

この先の人生のどこかで運に見離される確率が高まっていくことでしょう。

『<天>はそのような度量や器量もたかが受験にしかすぎませんが、

持ち合わせているのかどうかをすべて試されている』のです。

『運も縁も実力のうち』とだけ申し上げておきましょう。

その意味でも『傾向』対策というのは決して侮ることが出来ません。

しかも結果としていずれの学校に入学されたとしても

最後にモノを言うのはご自身の『実力』だという点も

お忘れになることなければ

ますますご成長・ご出世を成し遂げられることでしょう。

遠方受験についてのアドバイスです。

必ずご親族の方々との相談打ち合わせは

十二分にしておいて下さいねということです。

それぞれ固有の家庭事情(特に経済事情)もありますから。

管理人も経済事情から絶対浪人は許されずに、

東京の上位難関校(母校よりも上位クラス=

いわゆるMARCHトップ法学部)にいちおう合格した

(そこは司法試験や上級公務員合格者数がトップ順位常連校でもありますが)

経験を持つ者ですが、結果として地元関西の学校に進学。

しかも今から考えると恐ろしいことに

地元関西の大学受験校は母校法学部(国際関係学部も併願)と

ただ1本勝負だけで臨んだのでした。

単に他の関関同立大学(部)にはまったく興味関心がなかったことと

親族関係者や敬愛する塾の先生など

複数名が出身者であり内部事情もよく知っていたという

特異事情もあったのでしょう。

同級生(上位難関校に何人も合格者を出すような進学校でしたから、

嫌な奴もぎょうさんおるわけですなぁ~。そんな奴はおもろないから

メタル好きの友人にいろいろメディアには出ていない優れたバンドを

ぎょうさん教えてもろたり、性格的に合う友人とだけつるんでいましたね。

ですから進学校でもまったくの勉強一色の灰色生活ではなかったこと

だけがせめてもの青春時代の『救い』でしたね。)や

塾の講師やチューター(進路相談役)などにも怪訝な顔を

当時されましたが、理解ある師匠(塾講師時代の上司でもある。

この方に始めての社会人生活の厳しさもすでにアルバイト時代に

しっかりと仕込んで頂いたことが今に役立っています。)には

『お前なかなかおもろい奴やな。そんな奴の方が社会出て

いろんな価値観持った人間と交際する時には重宝されるぞ。』との

お褒めと励ましのお言葉を頂いたことが一生の財産であります。

やはり『持つべきものは心分かち合える友と先達』ですね。

兼好法師の気持ちが『よ~、わかりました』

しかも下宿先がその敬愛する兼好法師の別荘跡地近辺なのですから

何か前世でもご縁があったのかもしれませんなぁ~。

ですから、そのように上京生活を送ることもなく、

いわゆる『東京砂漠』(笑)での孤立(孤独には慣れっこですが)して

おもろない青春期を無駄に過ごすことなく

楽しい学生生活を謳歌することが出来ました。

今は遠く離れて暮らす友人知人、先生方や下宿先の管理人さん・・・には

ほんまに感謝しております。

以上は人によっては多少『自慢話』めいて聞こえるかと

恐縮いたしますが、受験される方におかれましては

少しばかりはお役に立つかと信じて思い切って

極私的体験記を語らせて頂いたことも

皆さんにとって大切な今後の人生における

分岐点になるかもしれない受験という

その趣旨に鑑みてご寛恕下さいませ。

『挫折』から何を学ぶか?

これが人生では一番大切なことですし、

それこそ本書でも教示されているように

『みなとうまくやっていく生き抜く力』こそ必要不可欠なのですから。

そこに焦点を当てた広い意味での『学力』を養成される姿勢であれば

どなた様でも必ず『道が拓け』てきます。

『引きこもり』や『ニート』、『失業生活』その他

ありとあらゆる苦境や逆境からも『心構え』ひとつ変われば

そこから何でも学び取ることが出来ます。

大切な姿勢は決して『自暴自棄』になってはいけないことです。

そこで『やけ』を起こして犯罪者にでもなれば

それこそ一巻の終わりですから・・・。

犯罪者になる前に誰かに相談しましょう。

犯罪者というのは大げさですが、

少なくとも『人の道』を踏み外しかねない物理/心理的状況に

至る前の早い段階で恥ずかしがらずに誰かに相談しましょう。

必ず親身になって相談に乗って下さる奇特な方はいますから・・・。

身近にいない方はとにかく優れた本なり動画などを

活用してみて下さいね。

『読書会』などに参加されてみるのもお勧めですね。

そこを通じて実際に人に会ってみると

思わぬ良き展開が得られるかもしれませんから・・・。

とにかく今は生涯学習の時代であり、

『学歴(日本ではなぜか学<習>歴ではなく学校<名>歴で

判断されてしまう嫌な社会風潮があります)』フィルター問題も

今後の社会では大きく変化していきます。

ですから、人生における選択を後悔しないためにも

本当にご自身にとってご興味・ご関心がある学部選択をされるとともに

希望学部に進学することが叶っても

目まぐるしく変転を繰り返す現在の経済社会状況では

いつか転業も余儀なくされることも考慮して

いわゆる『つぶし』がきくような

ご自身の性格や趣味嗜好性に合った学部選択をされると

その学問で培った能力を他分野にも転用できる

才能が養成されていくでしょう。

なかなかにどの世代にとっても厳しい時代が続きますが、

いつの日か『黄金の日々』がすべての世代に訪れることを願って

ともに奮起していこうではありませんか。

『自助』だけに依存せずに『公序』『共助』もまた

あなたご自身を救う力になるのです。

他者を助けることが叶う能力を磨き続けることで

あなたご自身の苦境をも救う力となるのですから・・・。

『才能とはみなで共有し合うもの』なのです。

それが単なる<秀才>止まりで嫌らしい『独占欲』が強いだけの

<小人>止まりに人生を終えるのではない

『天才』の生きざまなのですから。

『天(分の)才(能)』とは誰にでも備わっているものなのです。

『頑張れ!受験生』

『日々是挑戦』だ。

『努力・勇気・挑戦』だ。

『常在戦場是平常心』だ。

追伸:元代ゼミの有名国語講師でいらっしゃる出口汪先生は

素晴らしいメソッドと人間力をお持ちの方です。

管理人も今なおユーチューブ動画などで学ばせて頂いております。

ついでに国語に苦手意識ある読者様にご紹介しておきましょう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

<コロナ知識や感染対策>に関するご参考書を

数冊ほどご紹介しておきましょう。

①『ニュートン 2021年1月号~新型コロナ2大特集~』

(株式会社ニュートンプレス)

②『公衆免疫強靱化論』

(藤井聡/宮沢孝幸編著、啓文社書房、2020年初版)

③『感染列島強靱化論』

(藤井聡/高野裕久共著、晶文社、2020年初版)

④『免疫力~正しく知って、正しく整える~』

(藤田紘一郎著、ワニブックスPLUS新書、2020年2版)

『国家と社会の力学関係』を考えるヒントとして

⑤『自由の命運(上)(下)~国家、社会、そして狭い回廊~』

(ダロン・アセモグル&ジェイムズ・ロビンソン共著、

櫻井祐子訳、稲葉振一郎解説、早川書房、2020年)

今回の話題とも絡めて要約記事最終章の<結論>部で

ご紹介仕切れなかった重要論点が語られている好著です。

上掲書内で論じられている

重要論考文である『権利の実際-ニーメラーの原則』

(上掲書384~390頁)は必読でありますよ。

『価値観が合わないだけで敵対意識でもって接し続けていけば

やがてあなた自身にも破滅の機会が与えられますよ・・・』という

歴史的教訓の提示とともに締めくくられています。

『聖徳太子』関連書として

⑥『聖徳太子憲法は生きている』

三波春夫著、小学館文庫、1998年)

⑦『図録 聖徳太子~時空をつなぐ ものがたり

<聖徳太子像・聖徳太子絵伝修理完成記念特別展>~』

(中之島香雪美術館、2020年)

⑧『<聖徳太子1400年遠忌>ゆかりの地を歩く

たずねる・わかる 聖徳太子』

(淡交社、2020年)

⑨『月刊大和路 ならら~見えてきた聖徳太子の時代~』

(2015年11月号)

⑩『月刊大和路 ならら~今、なぜ聖徳太子なのか?~』

(2019年9月号)

⑪『月刊大和路 ならら~聖徳太子1400年御遠忌

平和と平等への願いを込めて~』

(2021年1月号)

『松永久秀』関連書として

⑫『月刊大和路 ならら~特集 松永久秀~』

(2020年9月号)

※奈良<限定>の地域雑誌『月刊大和路 ならら』

奈良好きの方であればマニアック情報満載のため

きっとお気に入り登録されると思いますよ。

ご興味ご関心がおありで『是非とも読んでみたい』と

思われた方には『定期購読』されるのが安心ですので

おすすめいたします。

<番外編ご推薦書>として

⑫『日本製』

三浦春馬著、ワニブックス、2020年第7版)

※管理人の地元大阪にある『今宮戎神社』参拝記にある

『遺言(国際交流を目指して)』に涙が溢れてきます。

<水のように激しく>生き抜いた郷里河内と浪花が生み育てた

稀代の名女優でいらっしゃった浪花千栄子さんのように

世界を天翔ける姿をもうまもなく見られたかもしれないと

いうのに突然の訃報があった誠に悲しい年でもありました。

その繊細な情愛溢れる『御霊』に慎んで哀悼申し上げます。

をあわせてご紹介しておきますね。

最後までお読み頂きましてありがとうございました。

それでは『良いお年』をです。

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