金森修著『病魔という悪の物語~チフスのメアリー~』<集団免疫獲得>と<抗体ワクチン完成>とのはざまで誰もが発症可能性ある無症状病原体保有者という名の恐怖差別感情に対する冷静な付き合い方を学びましょう!!
金森修著『病魔という悪の物語~チフスのメアリー~』
新型コロナウイルス感染騒動が続く中、
社会活動が再起動へ。
人々の移動交流も再び活発化していく中で
ウイルスと共生進化してきた人類という知見による
ウィズ・コロナという標語とともに
一連の感染症と賢く付き合いながら正しく恐れる必要性も
少しずつ認識され始めてきているようですが・・・。
群集心理恐慌の壁にご注意を!!
今回はこの本をご紹介します。
『病魔という悪の物語~チフスのメアリー~』(金森修著、ちくまプリマー新書、2020年初版第4刷)
金森修氏(以下、著者)は科学思想史や科学史の研究成果を基礎土台に据えて
自然科学哲学分野にまつわる諸テーマを論考されてきた研究者だといいます。
今回はこのようなご経歴を有する著者によってご紹介された
『チフスのメアリー』と俗称公認され、
悲劇的生涯へと追い込まれてしまった
とある女性を主人公とする『実話』をもとにした事例分析を通じて
皆さんとともに<集団感染症パニック>現象から誘発される
排他的差別行動へと駆り立てられていかないための教訓や処世術を
学んでいきましょう。
本書を解読していく際のひとつの大きなキーワードがあります。
それが『健康保菌者(無症状病原体保有者)』という概念です。
今回の新型コロナウィルス感染者例でも
PCR検査診断を受ける毎に『陰性/陽性』反応がたびたび切り替わったり、
検査結果時点では『陰性』反応だったにもかかわらず
後日症状が悪化してしまう事例が見られるなど
『陰性』反応や
『無症状(未検査の陽性患者である潜在的可能性がある)』だったからといって
決して油断してはならないということも教訓知見として
教えられることになりました。
症状があっても無症状であっても
自らが感染者であるというプライバシー情報が厳格秘匿保護されるかも
安心できぬとの不安心理のために
あえて検査受診を拒絶される方も潜在的に数多くいらっしゃるように
推察されています。
このような事例が多発してしまう社会背景にある病理問題を探究するうえで
今回取り上げさせて頂く本書のテーマが参考になります。
そして本書を読み進めていくうちに
『無知』によってもたらされる恐怖感情によって
排他的差別観も増強されていってしまう恐ろしさについても
再認識させられることになります。
本書をご一読して頂くことを通じて
この歴史的事例から<正しく恐れる>を追体験して頂くとともに
現実場面でもし読者様やお身内、友人知人など身近な方々に
不幸にも感染症例が現れ出てきたり、
感染者と接触する機会に遭遇したとしても
<正しく付き合う>術を実践出来るようになるための助力になれば
幸いであります。
本書は主たる読者層を10~20代の若者とする
『ちくまプリマー新書』シリーズの1冊のため
難しい分野でも簡潔にわかりやすく伝達するところに定評があります。
わずか140頁ほどの小冊子ではありますが
内容密度はとても濃い良書です。
このような特色を有する1冊ですので
お時間のない方でも気軽に手に取って頂けるだろうと信じまして
とりわけ抗体ワクチンが完成するまでの
<集団免疫>獲得路線へと好むと好まざるとにかかわらず
移行していかざるを得ない現実的な社会状況の中で
個人的な『無知』による心理的不安感が重なり合うことによって
誘発される群衆心理(集団的心理パニック)の
巨大な渦の中に巻き込まれていく社会現象が
少しでも軽減回避されればと願います。
その一定の成果でもって各人各様の社会生活事情も知らずに
勝手な歪んだ<正義感>によって発露されてしまう
いわゆる<自粛警察>衝動を抑制するひとつの歯止め役をも
本書が果たして下さることを期待しています。
メアリーさんの事例は誰にでも起こり得ること~自由(活動)と隔離(自粛)のあいだで悩まされる社会的距離間隔(ソーシャルディスタンス)批評のススメ~
それでは本書の要約ご紹介へと進ませて頂きましょう。
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・<はじめに>
本書ではひとりの女性の身の上に起きた悲劇的出来事を
我が身のこととして追体験することを通じて
単純な善悪二元論の観点に偏った批判的人物評価を
安直に下す愚を戒めることや
社会の中で生きていかざるを得ない人間同士による
個人と集団とのあいだで揺れ動く利害関係調整の難しさを
実感させられることになります。
本書を読み進めながらあらためて学びたいこと。
それは誰もが個別具体的な<実名>を有する
<生身>の人間だということです。
<生身>の人間にはそれぞれ多種多様な生涯があります。
このような各人千差万別の<生身>の人生に寄り添った想いを
互いに馳せることが叶うならば『対話』の機会も生み出され、
人間への興味関心もより深く強まることになります。
現在の新型コロナ禍下において繰り出される一連の政府の公衆衛生政策や
国民生活への諸手当政策、そして各種メディアによって増幅される
<生身>の人間の実生活を希薄化/画一化していく思いやりのない報道姿勢などを
見ていますと、今後の人類社会における共生可能性の見通しすら
危ぶまれてきます。
このような問題意識も共有しながら
本書をご一読して頂けると各種メディアや政治権力などが
最近になって安易に掲げ出した
『非』接触型社会だとか『新しい』生活様式なる<魔語>が
人類の近未来社会に与え続けていくことになるだろう猛毒面につきましても
注意の目を傾けて冷静に考察して頂けるきっかけになりましょう。
冷静な判断と姿勢をもって社会の中で身を処していくためには
恐怖の源泉となる<魔物>と真正面から向き合うほかありません。
<魔物>の正体こそ見破ることが叶えば、
個別の心理的パニックから集団へと恐怖/憎悪感情が連鎖的に伝染していき
その過程で誘発される集団的暴力行為へと駆り立てられていく要素も
減少していくことになります。
今もっとも取り戻さなければならない『社会的』生活姿勢とは
決して『ステイホーム(慢性的引きこもり=巣ごもり生活志向)』とやらに
ひたすら<恭順>を繰り返すのではなく、
また過剰な『ソーシャルディスタンス(社会的距離感覚を保ちましょう!!)』でも
ありません。
適切な知識に基づいた『正しく恐れる』知恵をもって
人間同士の愛着感情を取り戻すことなのです。
ある人は『無知』のままで安易な『絆を取り戻そう』と呼びかけますが、
『正しく恐れる』善知識がなくては
かえってその『絆(社会的連帯意識)』とやらも喪失させてしまうことになります。
ですから人間集団が恐怖に駆られた時にこそ
『(善)知識は力なり』の威力を実感出来る絶好の機会だということです。
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①『第1章 物語の発端』
※本章ではそれまで普通の人生を歩んでいたひとりの<生身>の女性が
いかにして『チフスのメアリー(毒婦)』とまで蔑まれ、
社会から抹殺されていったのかを当時の社会風潮や
<生身>のメアリー氏の生活経歴を丹念に追跡していくことを通じて
このような悲劇的出来事がある特定の条件が重なり合えば
いついかなる時でも誰にでも身の上に突如降りかかってくることが
十二分にあり得るのだと説得力をもって語られていくことになります。
<生身>のメアリー氏における生涯経歴などは
今なお保護すべきプライバシー面での配慮なども考慮して
本書評記事内では必要最低限の範囲での語りだけに控えさせて頂きます。
その詳細につきましては本書による解説に委ねさせて頂くことを
まずはご留意のうえご寛恕願います。
ひとつだけ申し添えておきますと、
移民家系であったり、女性や共同体内における少数派であったり、
無職者や社会的低層域に追いやられている者ほど
被差別対象者(スケープゴート=社会的生け贄)にされやすいということです。
しかもそれは決して『自己責任』などといった本人の自助努力が
足りなかったからというわけでもありません。
各人の社会的立ち位置など
そもそも『社会』そのものが流動的であればあるほど不安定なものに
なりやすいですし、階層固定的な社会であればなおのこと
個人の自助努力だけでそのような低層位置から抜け出すことも
ますます困難な仕儀となるからですね。
このあたりの『社会』という漠然としたイメージ像の背景にある
固定観念も同時に解きほぐす柔軟な視点を持ち合わせておりませんと
著者が本書で提示して下さった問題意識とも共有することが
叶わなくなってしまいます。
本章ではこのような<生身>のメアリー氏に起きてきた諸現象を
分析解読しながら批評的考察を加えるとともに
特に彼女に背負わされた<負のレッテル(毒婦やら無垢の殺人者など
といったありとあらゆる侮蔑的差別名称)>貼りをすることで
社会にさらなる憎悪感情を掻き立てる推進力となった
いわゆる『イエロージャーナリズム』の罪責についても
自ずと気付かされることになります。
メディア報道を視聴する際にも
特段の<扇情的>『イエロージャーナリズム』でなくても
<客観>報道を装った『偏向脚色』ジャーナリズムなど
いくらでも社会には散在していることにも注意しなくてはなりません。
その意味で本書はメアリー氏の身に起きた疫学的病理問題だけではなく
現代メディア報道の真偽度や信憑性を鋭く読み解き、
見抜くために必要不可欠な姿勢を養おうと呼びかける
メディア<リテラシー(批評分析力、姿勢>論ともなり得ています。
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②『第2章 公衆衛生との関わりのなかで』
本章ではメアリー氏がこの一連の騒動事件に巻き込まれていくまでの
社会背景事情について
当時の『公衆衛生学』における思想変化とその知見に基づく
『公衆衛生政策』の転換期で生起してきた現象だったことも
明かされることになります。
そして本章の導入部では主人公のメアリー氏を侵襲した
腸チフスの性質の解説とともに戦争史との関連でも
疫病が社会にもたらす重大かつ深刻な影響力があったことが
示唆されています。
(<腸チフス>本書48~50頁、、<チフスと戦争>本書50~51頁)
それでは当時猛威をふるった腸チフスの感染経緯や経路は
実際にいかなるルートを辿るものだったのでしょうか?
そのあたりの詳細な描写解説とともに
やがてメアリー氏の身の上に起きていく悲劇的事件に至るまでの
潜在的状況について検証することを通じて考察が深められていきます。
本章で明示される『公衆衛生学』思想とそれを大前提に転換されていった
『公衆衛生政策』に関する結論を簡約すれば、
そもそもの感染『源』を突き止めることでその源泉を絶つための
外部周辺環境に手入れをすべきだとする発想から
感染者本人そのものへと危険負担させる発想へと
次第に移行していったということです。
もっとも厳密には周辺環境と個人の双方に目配せした両面作戦で
感染経路を特定したうえで感染拡大を抑止しようとする善意なる意図が
当時の『公衆衛生政策』にも反映されてはいたということになるのですが、
結果として後者の感染者本人にこそ
より危険な感染源因子だということで
その後の現在に至るまでの『公衆衛生政策』の主流派路線を
決定づけていったことは間違い有りません。
詳細解説は本書に委ねさせて頂きますが、
ここから本書で紹介された主人公の症状事例をもとに
いわゆる<健康保菌者>という概念が歴史の全面に押し出されていく
様子が描写されることになります。
(<健康保菌者の危険性>/<健康保菌者という概念>/
<這いまわるキャリアたち>本書62~68頁)
管理人が本書を読みながら現在の新型コロナウィルス感染拡大抑止・
予防政策についての評価を見立てていくうえにおいても参考になると
感受された最大の着眼点こそが本章で示唆されていたことにありました。
『公衆衛生政策』を立案するに当たって採用される
その当の思想内容を主導的に創造していく責任者である立場の『専門家』自身が
たとえ的確な認識でもって善良な取り組みだと確信しながら進めていったとしても
それが実社会側でいかに評価判断されていき
いかなる帰結をもたらしていくのかというかは
また別次元にある問題だという一点に尽きるという点が
現在まさに厳しく問われている問題だということです。
疫学・医学・生理学や公衆衛生学などの各種専門家とその意見に基づいて
実際の政策体系を立案実施採用していくことになる
担当責任者である政治的判断力の是非が
今まさに日本国内の東西で試されている核心部にある問題なわけです。
そこで東西の『公衆衛生政策』をざっと比較検討してみるに
『出来るだけ早期の自粛解除や緩和路線(関西方式=主に大阪モデル)』と
『長期慎重型都市封鎖路線(関東方式=主に東京モデル)』で
感染拡大を抑制していく流れが出来上がりつつあるように見受けられます。
(この東西モデルに対する評価については差別対立感情を煽り立てる見方で
あっては決してならないことは論を待ちません。
絶対に日本国民を『分断対立』状況に追い込むような社会風潮を
生み出してはならないからです。)
同じ『大都市圏』といっても
『首都』とその他の『主要』都市では都市機能のあり方から
人口密集度などまったく異なる要素も多々ありますから
このような単純な二分発想型モデルで捉えるのも控えなくてはなりません。
厳密には経済状況と感染状況の双方を厳しく見据えつつ
柔軟な姿勢でもって東西問わずに今後ともに政策変容も促されていくことが
予測されるだけにコロナ渦中の現段階で
どちらの方式が成功/失敗だとする断定的評価は
厳に慎まなくてはなりません。
なぜならば、最終的な結果を見てからの事後評価しかなし得ないからです。
ですから、各論者によっても東西(東京・大阪以外の各都道府県も含めて)
いずれの方式がより望ましいのかを巡る論争がある中で
『建設的前向きな』批判的意見はあっても構いませんが、
現段階の『人間』の視点では見えない盲点領域を
未来から見ての高次元意識に立つ『神(あえて対照的なイメージ喚起用の
比喩表現として使用させて頂きます)』の視点で見れば
ミクロ的側面の不満足点を拡大勝手解釈して
マクロ的な感染拡大抑止政策の全体的整合性まで否定してしまって
愚かな方向へといわゆる『俗(世)論』でもって
正しき感染終息経路を断ち切ってよいわけがありませんということです。
『神』とは一般人から見ての
現実的には『専門家』の見地によるものですが、
もちろん『神』ならぬ『人間』による現時点での考え得る限りにおいての
最善策だということになりますが、
特に『第2波、第3波・・・』がまた押し寄せてこようと
認識判断されている時期においてはくれぐれも慎重な意見具申が望まれる
ということになります。
個別具体的な献策も時宜に適ったものでなければ
誰も望まざる『大厄災』を招き寄せることもあり得るからです。
経済を含めた社会活動の全面展開までは当面差し控えざるを得ず
感染状況の上下変動に伴ってその模様を見計らいながら
『原則厳格』方針(感染拡大抑止基準)の縮小・拡大も
引き続きなされていくだろうことまでしか推測しようがないからです。
その意味で日本国内を二分する東西の
ある種の<自然実験>類似状況における公衆衛生措置や政治決断の是非に
全国民が注目しているわけです。
いずれにしましても、本章からもうかがえる要点とは
いつの時代も感染状況に応じて公衆衛生当局も動揺反応を繰り返していく過程で
社会各層においてもその政策判断の一挙手一投足によって
右往左往していく有り様は変わらないということです。
そうした社会的心理不安風潮が続く中でも
外出行動をしていかざるを得ない場面があるのであれば
各人各様で自ずから正しいと信ずる道を
責任をもって歩んでいかざるを得ないのがコロナ禍に限らず
そもそもの<不確実性>に充ち満ちた社会で
『<生身>の人間』が生きるということなのです。
ですから本書の趣旨とともに
後ほどもエッセーコーナーであらためて強調させて頂きますが
他人様に『意図して』感染させてやろうとの悪意ある確信犯でない限りは
たとえ心ならず感染者になってしまったからといって
差別的排除でもって社会から抹殺してしまう権利は誰にもないのです。
このことを是非とも本書を通じて腑に落とし込んで頂きたく願うわけです。
今、不安に駆られて過剰な『正義感』でもって
いわゆる『自粛警察』行動に出た、出ている、出ようとしている
そこのあなた様にこそ是非にご一読頂きたい1冊だという意味を
次にお示しいたしましょう。
それはもしあなた様ご自身が感染された場合に
次に世間から真っ先に袋だたきにされてしまうのがあなた様ご自身だからです。
『明日は我が身』
『天に唾する行為とはこのこと』
『ブーメラン効果』
そのような場面を少しでもご想像頂ければ
あなた様ご自身も悔しいでしょう。
そのように感染被害者を<他人事>として捉えるのではなくして
<我が事>としてこの問題を考えて頂ければ
どなた様にでもご了解頂けるはず・・・だと信じて
本書を取り上げさせて頂いております。
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③『第3章 裁判と解放』
※前章において確認されたメアリー氏個人に襲いかかってくる
背景原因となった客観的外部事情を考慮に入れたうえで
本章では『では、個人としての<生身>のメアリーには
いかなる防御法がなし得たというのでしょうか?』という点に絞って
語られていくことになります。
メアリーはある島に『長期完全隔離』されていくことになるわけですが、
こうした当局による措置が適切妥当なものだったのかどうかが
裁判によって<争点>とされていくことになります。
『社会防衛論(集団)』の立場と『人権救済論(個人)』の立場との
あいだで挟まれた<生身>の人間が対処し得る
最大の攻撃防御(弁明)方法とはいかに・・・、
果たしてメアリー氏が晴れて<自由の身>になることが出来るのでしょうか?
このあたりの模様が本章のテーマとなっています。
ここでメアリー氏の弁護を引き受けられたのが
ある若い弁護士のジョージ・オニール氏でした。
当時のオニール氏はまだまだ医療訴訟には不慣れな若手弁護士であり、
やがてメアリー氏とは異なる病(結核)を得てお亡くなりになるわけですが、
いわゆる<健康保菌者>とされるメアリー氏について
前例(『ジェイコブソン対マサチューセッツ州』判決
1905年米国連邦最高裁)事例のみを引用して
メアリー氏という<生身>の個別事情を軽視した
杓子定規な判決を下してよいものかと問いかけることになります。
言うまでもなく、
判決とは個別具体的な当事者問題を解決するためにこそあるわけですから
教科書的な前例としての裁判例のみを引用して
一律的な解釈適用評価をしてよいものではありません。
個別具体的な事例に適応した適切な判例『射程距離』というものが
あるからですね。
法学と数学ではここが決定的に異なるわけです。
法学的『判例/先例』と数学的『定理/公理』の違い。
このあたりはこの学問に関わる方であれば
初歩的論理学操作の違いとしても十二分に押さえておかなくてはなりません。
数学は<生身>の人間が関与せずとも成り立つ学問ですが、
法学はまさしく<生身>の人間に関わる致命的な学問なのです。
数学では非人間的な一義解釈も定義に従って導き出していけば
証明帰結することも可能ですが、
法学ではまさに人間的価値判断も交えた評釈操作が要請されているだけに
結論をいついかなる時にでも一義的に導き出すわけにはまいりません。
いかに過去の類似例と整合性を持たせなくては
いわゆる<法的安定性>が保てないだろうとの命題があったとしても・・・です。
ですから、未来永劫において裁判例(判決)をAI(人工知能)なる代物によって
機械的操作が可能となるという根拠なき楽観的見解は
『論外!!』でありましょう。
そのようなことを軽く提言される方は
『人間』を知らないと批判されても致し方ありません。
医学的診断方法についても果たして『定型的』正解を
常にAIによって出させることが可能なのか
管理人は少なくとも否定的な見方をしています。
『生体』というものは常に変化変容するものですから、
そうした状況にある『人間』の病例診断を静態的に捉えて
AIによって判断させるなど特に生死を彷徨うような極限状態においては
『正気の沙汰ではない!!』ことくらい良識と良心を持ち合わせる者で
あれば誰でも容易に推測出来ましょう。
本来的に『人間』である『専門家』に期待されているのも
こうした動態的事例を解決するためにこそ存在意義があるわけで、
長期間にかけて様々な難題解決訓練を課せられているのです。
この『試練』に耐えられない者でただ単なる次の『転職(進)』用のステップアップに
利用するものや金儲けの手段程度にしか感受出来ぬ者は
専門家倫理の見地からも『即辞職』願いたいものです。
管理人はほとんどの『専門家』を敬愛の眼差しでもって眺めていますが、
昨今の歪んだエリート意識をたびたび観察させられるたびに
首をかしげざるを得ない場面に出くわします。
おそらく『有識者(専門家)』会議のあり方(特に『人選』面での
配慮に欠けていたのではないか)を巡る一連の議論模様をご覧になられて
読者の皆さんも同じような感じを抱かれたのではないでしょうか?
もっともメディア報道による伝達のあり方も
客観的公平な姿勢を保持し得ていたのかも同時に検証しなくては
なりませんし、その報道を通じて獲得された私たちの印象評価も
適切妥当だったのかも常に懐疑的姿勢でもって
自己検証してみなくてはなりませんが・・・。
その正しき自己検証のためにもメディアには多角的な公平論評姿勢と
より精確な事実報道を心がけて頂きたく願うものです。
『人間』と『(人間)社会』を無機的か有機的に理解イメージするかで
かくも大きな差が開くということでもあります。
そうした側面からも関西と関東では『専門家』や『専門的知見』に対する
具体的イメージが随分と異なるのだなぁ~と個人的には感受させられました。
一般的抽象(=無機的)論で方針を出すと
かえって状況に適合せずに問題解決を遅らせることになるだろうことを
感受させられたのです。
管理人は先にも触れさせて頂きましたように
関西と関東で感染拡大抑止の方針が異なること自体を
とやかく評価し得る立場にはおらず、
また決して差別的に評価論評をする者ではありませんが、
『人間』や『(人間)社会』に対する愛情の持ち方や働きかけ方を
遠目に見ていても何かが本質的に違うのではとの
直感的違和感を持ったことが印象的でした。
オニール氏の弁護論へと話題を戻しましょう。
このような観点に鑑みても
『社会的正義の実現(集団利益=公益)と基本的人権の尊重(個人利益=私益)』とは
かくまでも絶望的にいつも微妙な危うい均衡状態のうえに成り立っているものだと
理解したうえでなお一層の慎重な判断を求めたというわけですね。
『学問とは決して<お遊び=児戯=ままごと>の類ではない
真剣な営みなのです』
特に『実学』に携わるすべての学生/専門家が片時も忘れ去ってはいけない
格言であります。
いずれにしましても、オニール弁護士の必死の弁護もあって
彼女も一時は晴れて<自由の身>とはなったのでしたが・・・。
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④『第4章 再発見と、その後』
※本章ではいったん「解放」されたその後のメアリー氏が
再び「逮捕」され、「隔離」生活されるに至った経緯や
「隔離」生活のあり方も微妙に変化を伴ったものであったことが
描写解説されていくことになります。
詳細は本章の<風向きが変わる>(本書94~96頁)以後の
各テーマ記事をご一読頂くことにいたしまして、
なぜメアリー氏だけがほぼ生涯にもわたる
かくも厳しい「隔離」生活へと追い込まれていったのかという
最大のテーマを考えていくことが
次章の『象徴化』された存在としての大文字の<チフスのメアリー>さんの
<生身>の姿を想像しながら
私たち1人びとりにも共通して襲いかかるともしれない悪夢を
切実な『自分事』として理解していくきっかけとなります。
ただ本章を読み進めていて現在のコロナ禍下における
経済的補償政策のあり方とも絡めて感受されたことは
『職業選択の幅を狭める分だけ、きちんと公的な補償をしろという
考え方だ。』(本書108頁)
という箇所でありましたが、
どうやらそうした『補償』でもっての代償措置だけでも
満足し得ないのが<生身>の人間だということですね。
(<歴史の吹きだまりのなかで>本書107~110頁)
なぜならば、職業とは単なる金儲け(生活費獲得)のための手段のみならず
大方の人間にとっては人生の大半を職場で貴重な時間を過ごすわけですから
杓子定規な一律的全面自粛要請(とは実情の日本でも採用されているわけでは
ありませんが、そのように誤解される余地を残したことや
そのような生活観を重荷と感受されている方々も多く見受けられるのは
否めません。)を呼びかけるとともに『補償』や『給付金』の類も
出されたことはまだしもその支給時期が大幅に遅れていることや
支給されるまでの制度導入に至るまでの議論状況や実施における
初動の遅れを見る限りでは誰しもが不安に駆られてしまうのは
『理の当然』でありましょう。
感染拡大抑止のためには『補償』ももちろん必要不可欠な措置ですが、
『<補償>はいらんから職業(社会)活動の場を与えてくれ!!』という
切実な想いを持って日々を忸怩たる苦痛で過ごされている方々もいるわけです。
特にミュージシャンを始めとする芸能活動従事者や
いわゆる『ビジネス(超多忙)』生活に疲れ切った社会人生活に潤いと
明日もまた『頑張ろう』という<活力>を与えて下さる
各種サービス産業従事者などのご存在です。
このような方々の『心情』にも配慮した<思いやり>もまた
ただ単なる『補償金』支援以上に最大限必要とされているわけですから・・・。
管理人は今は平日『昼間』は普通のサラリーマン(給与生活者)であり、
『夜間』から『週末休日』あたりは書評活動という名の
事実上のほとんど安定収益にもならない(苦笑。大多数のブロガー様なら
この心中お察し頂けましょう。)いわゆる「プロボノ」活動としての
『仕事』や調査研究を兼ねた『自己学習』、
趣味と将来に向けた実益を兼ねた『仏像彫刻』修業に励む日々を送りつつ、
日々の疲れた身体を癒すためにこそ、
<生身>の数多くの多種多様な『人間』と出逢いを積み重ねることで
『対話』する機会を持って、
自己言論を相(総)対的に再評価し直すために
必要不可欠な<自己検証>作業を兼ねた遊興娯楽を通じた
『接触』社交場も享受させて頂くという有り難い身に感謝しております。
なぜなら、管理人も『派遣(有期契約からいちおう無期転換されたとはいえ
不安定な身に変わらない)』社員の立場(もっとも管理人の場合は
不本意というよりも短い人生の中でより有意義な時空間を持ちたいと
念願した結果の『確信』的決断によって選択した結果ですが・・・。
自身の職業(種)形態選択責任を自覚したうえでのことです。
あくまでも他の同業形態従事者の大半が『心ならず』の
<ロスジェネ>的働き方を余儀なくされている方々でしょうから、
その方々一般に通底する
『心情』も広く社会全般に知って頂こうと代弁させて頂いている次第です。
『言論(言葉を持つことで責任発信)』人としての務めでも
ありますから。)でもあり
そのような不安定身分だからこそ
より強くこのコロナ禍で失業状態へと追いやられた
同じような境遇の身にある方々のことを常に忘れ去りたくなく、
そうした境遇の最中にある方々の<声にならぬ声>を念頭に
このように書評活動を通じて今もっとも大切な視点や問題提起とは何かを
絶えず探究考察しながら縷々こうして語らせて頂いております。
それもまた<ロスジェネ>視点を通じて獲得されてきた
身体知見をもって<次世代>の方々への教訓と応援メッセージを
発信する意義だと確信しているからです。
これ以上『我が祖国(故郷、地球、宇宙、多次元多層型世界)』が
『力の強い者ども』によって崩壊させられませんようにとの強い願いからです。
それが真の『悪党』(『太平記』が描写するような中世人的生き方か?)の
伝統的系譜だとも信じて単なる『無頼漢(派)』でも『堕落派』でも
『軟派』でもなく、今は廃れた『硬(質実剛健)派』でありたいと願う
<俗論党>に対峙する現代の正しき志向性を宿した<正義党>として
我が生き/死にざまを世に示したいからです。
それが誰しも<生身>の『人間』が宿す矜持というものでしょう。
すべての『人間』に宿る誰にも侵すことの出来ない
『神聖にして侵すべからざる領域』があるからです。
あとでご紹介させて頂くことになる同じ大阪芸術大学出身の
ミュージシャン:世良公則さんと前にもご紹介させて頂いた
俳優:筧利夫さんが発信されてきた『魂』とも共有する
『人間的情愛』感覚から派生していく死生観からです。
地元に近い名門の大阪芸術大学ですが
さすが優れた人『財』を輩出されているものです。
このような青少年にこそ世界に『活力』を与えて下さる『活躍』に
期待しております。
ですから、以下語りますように
社会的に職業形態でもって身分差別を助長させるような
日本国政府や大手マスメディア、自称エリート『上級?』国民層や
高学歴者の方々に『人間』として完全忘却されている<勘違い>について
『異議あり!!』を連発させて頂いているわけです。
『人間』として、また1人の『日本男児』としての意地と誇りを賭けた
『言挙げ』でございます。
管理人は常に99、9%の一般『庶民』とともに寄り添って
この国難を乗り越えたいと願う『志士』であり続けたいと願い続けてきたからです。
我が故郷である『河内』人としての誇りを死ぬまで喪失させまいとの誓いは
幼少期からの強固なものでもあります。
『弱い者イジメは絶対許さんぞ!!』
『強きを挫き弱きを助ける』
『巨悪を眠らせず』
特に警察官だった祖父と父に強く教えられて育った
強固な『信念』であります。
管理人がミュージシャンの長渕剛さんにも強く惹かれるのも
その生い立ちなどに深く共感するからです。
誤解に基づいて反発する時期もあったですけどね。
また今も見解の相違で『頑固』おやじと
論争対立することもありますけどね。
そんな『頑固』な父親でも情愛を注いで育て上げ、
いつも信じて下さっていることを思えば有り難く感謝しております。
やはり『人間』社会には『家族』の存在こそが最重要です。
『家族』解体志向を持つ政治思想に
管理人が強く違和感と反発を持つのもこのあたりに由来します。
『何が<選択的>家族観を、だ!!』
この方々は『人間』における情愛感覚の源泉にとって
一番身近にある『家族』問題をあまりにも軽視されています。
確かに世間には最低最悪な『擬似』家族もありますが、
そのようなご不幸に遭われている方々には
別途また社会が法制度でもって保護育成し得る環境が
現代では整備されております。
『里親』や『(普通/特別)養子縁組』制度などなど。
管理人が違和感をもって『異議申し立て』しているのは
子供の将来性にとって十二分な配慮を欠如させた
『選択的』夫婦別姓だとか、ありとあらゆる家族『解体』志向のことです。
『多様な価値観を大事にしましょうね・・・』と主張したところで
社会を不安定化させる促進剤になってしまっては
『元も子もない』からです。
『共生』志向とは耳障りのよい言葉ですが、
現実には前途多難な道のりだったことくらい
少し歴史を紐解くくらいの知性があればどなた様にもご理解頂けるはずです。
難しい中でみなが『知恵』を振り絞って殺し合わないように
<棲み分け>しながら『人間』社会を存続させてきたわけです。
これは『生物学』的知恵でしょうか?
『共生』とかいった誰もが一見反対出来ないような言葉に
反対する価値観を持って抗議活動をするからといって
すぐに『<ポリコレ棒(ポリティカル・コレクトネス=
政治的に正しい??言説で叩き付ける現象)』>で人を叩くなや!!』と。
もっとも管理人にとっては<ポリコレ棒>も
禅寺での<警策棒>みたいなもんやけどね・・・。
『緊張感』を保持するものではなく『眠りこける』ための・・・。
なぜなら、それで『びびったら』<思考停止>に陥って
ほんまに大切な時に『眠りこけてしまう』からですね。
その『共生』を信じながらも裏切られ続けたことや
『家族』解体(=社会での安定した『居場所』喪失)といった
<逆説>によってまさに生涯苦しめられるようになった方のお一人こそが
本書のメアリーさんでもあったわけですから、
いかに身近な存在である『家族(ここでは広義の意味)』的近親者による
物理的/精神的支えが必要かつ重要かということも
ともに学んで頂くことも叶います。
さて、職業『差別』問題に話題を戻しましょう。
特に今回のコロナ禍下で見聞きした違和感を抱かせられた
<エッセンシャルワーカー(社会的中核職業従事者)>なる『魔語』も
ありましたが、こんな職業差別的標語が罷り通るほど
現在の日本社会は<生身>の個別具体的な人間への選別排除差別風潮が
蔓延してしまっていることにおぞましさと冷酷さを感受させられました。
あるいは<テレワーク>なる『魔語』ですね。
そもそも<テレワーク>だけで完結するような仕事は
本当に世の中に数多く存在するものなのでしょうか?
それは労働者全体に占める実数調査を見ても
そんなに多くはないと評価出来ましょうし、
『人間』と直接接触することなく1日の大半を自宅(だけとは
限りませんが、仕事斡旋者とは非対面の遠隔操作だけのやりとりだけでは
ストレスも溜まるし、細かい微調整などの気軽な相談を通じた
円滑な職務遂行も不可能となることくらい子供でもわかろうというもの)で
過ごすということにもなればある種の人には安心も出来るかもしれませんが、
相手の反応態様を十二分に『体感』できなければ
互いに疑心暗鬼にも陥ることも想像されるところです。
しかも昨今の雇用労働環境状況の悪化に伴う
人件費削減の名目の下で将来的な解雇調整の<正当化事由>とも
されかねない労働者イジメが横行することでしょう。
さらに<テレワーク>は現状の市場価値としては
非情に『単価(所得)』を低く抑えられてしまう従属的立場にある
傾向にあります。
<テレワーク>が出来そうな仕事と言えば純粋知的労働が
想定されるところですが、
日本(諸外国でも最近はどこもかしこもそのようですが)のような
もともと知的労働にあまり敬意を表しない(肉体労働よりも優位にあると
世間一般にある勝手なイメージ像はありますが、それはテレビドラマのような
世界の中だけの話です。むしろまだ肉体労働の方が良いとか悪いではなく
きちんと評価されているのが実相だと感受します。
なぜならばもともときつい仕事なために職場定着率も悪化する傾向に
すぐにも陥りやすいがために単価『所得』も引きあげて頂ける
可能性が多いからです。例外はもちろんありますが。)経済風土では
大した効果も得られません。
だからこそ、今まで散々な<サービス残業(労働)>やら
<過労死>や<慢性抑鬱状況>すれすれの職場環境が横行していたのでしょう。
多分こうした職場環境改善は単に<テレワーク>のような
物理的環境を『スリム(スマート)化』すれば済むという
甘い見通しにはならないことでしょう。
現に年輩者の中にはバブル崩壊後のリストラ雇用調整の名目で
俗に言う『左遷部屋』に缶詰にされたりして
仕事そのものを減らされたり、与えられずに苦痛を味わわされた方も
数多くいらっしゃることと存じます。
ですから、若い世代には<新しい生活様式>だとか
<非接触型社会>だとか<テレワーク>だとかいう言葉に酔いしれて
無思慮にその後の行き着く先を考えずに大歓迎する向きも
一部にはいるようですが
それはまだ社会の実態を知らないでいる未体験ゾーンだからこそ
脳天気でいられるわけです。
『賢者は歴史に学ぶ。愚者は自身の狭い体験談からしか学べない。』
とはこのことを教訓として指すためにこそある名言です。
後ほどのエッセーコーナーで芸能活動(音楽業界)従事者が呼びかけられている
私自身が見聞きさせて頂いたごくごく一部の事例にしか過ぎませんが
代弁者としてその『声にならぬ声なき声』をご紹介させて頂く予定です。
その音楽業界関係者を本書における大文字の<チフスのメアリー>的象徴事例として
恐縮ながら重ね合わさせて頂きながら、
こうした職業差別を始めとした社会からの放逐現象が
いついかなる時にでも私自身やあなた様ご自身の身の上にも訪れかねないのだと
いう視点を持って頂くきっかけとなればと取り上げさせて頂きます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
⑤『第5章 象徴化する「チフスのメアリー」』
※さて、これまでの章立てでは<生身=実名>の『人間』メアリー氏について
丁寧に語られてきましたが、最終章ではこの騒動事件をきっかけに
一人歩きし始めることになった<象徴的=匿名>の悪印象でもって
色づけされてしまった大文字の『チフスのメアリー』さんについて
あの手この手で興味本位な見方で取り上げられていく模様が触れられて
閉幕していくことになります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・<おわりに>
※最後のまとめにも当たる<おわりに>では
結局このような大文字の『チフスのメアリー』さんのような
社会的スケープゴート事例は
歴史の中で繰り返し再現されるのだと警告が出されることになります。
(<繰り返されうる構図>本書136~137頁)
そのような幻影という名の都市伝説や陰謀論などなどに巻き込まれないために
各人が常に忘れてはいけない姿勢とは・・・。
現実に生起した社会『現象(騒動事件)』をまずは当事者間の
個別具体的な事例として精密に観察すること。
また当該事件を報道するマスメディア情報をそのままの
<裸の事実>のものとして鵜呑みにしないこと。
必ず出来るだけ『第一次情報(=当事者近似的視点)』に触れることを
努力して、当初の個別具体的事件が様々な形態や媒体を通じて
<増幅・拡散>されて『集団的』現象として
拡張現実を見せられているような身体感覚を味わったならば
複数メディアをクロスチェックしたり、
自身の身の上に起きた場合ならば、
『自分ならばいかに行動対処する/し得るか』を
しかと深くじっくりと想像考察してみること。
なかなか困難を伴う知的な作業ですが、
こうした努力を通じて集団暴力へと加担する
人間的欲望を抑制する道も少しずつ開けてくるということです。
まとめになりますが、今回の本書で再確認して頂きたいことは
やはり<生身>の『人間』理解はかなり難しさを伴う営みだということに
尽きます。
『よくわからないものは無理に断定的評価を下すことなく、
そっとしばらく時間をおいて様子を眺めてみる』ことも
こうした『人間』や『社会現象』を理解していくうえでは
必要不可欠な視点となるということですね。
そんな意味で最近の某国での人種差別的暴動事件もありましたが、
もちろんそんな差別的事例が好ましくないことは間違いありませんが、
そもそもの事件の起こった経緯や当事者や近親者の<生身>の声を
しかと見聞きすることなく周辺で暴動に加担している者の
各自が持ち出す『正義』なる声や報道機関や各種政治宣伝機関の
声を安易に鵜呑みにして信じる志向性を
『条件反射』的に持つのではなく、
まずは素直に当事者の『肉声』をこそ見聞きしたうえで
この種の『社会的集団現象』を評価したいものです。
それには繰り返しになりますが、
やはり党派的観念による思い込み判断に依存することなく、
先程も語らせて頂きましたような『自分事』として想像考察するに
留め置くことが冷静かつ真摯かつ誠実な『人間的』感覚姿勢だと
信じたいものです。
騒動事件に関与した当事者ではない第三者は
ひとまず『静観』しながらも
それがその当事者を超えた第三者にも及ぶ危険事態にまで
進展してきた場合にこそ連帯して抗議の声を上げるべき時機到来と
いうことです。
最近は隣国でも『自由剥奪』の動きの中で大量の老若男女に
災難が降りかかっている最中にありますが、
このような時機にまで至って始めて抗議の声を上げるべきだと
いうことです。
特に政治絡みの騒動事件では背後にいかなる意図を持った勢力が
潜んでいるとも限りません。
我が国教育では政治思想や宗教カルト(精神世界)教義や
マルチ商法(各種犯罪類型含む)に絡んだ消費者教育など
大きな意味での対社会的『免疫』教育を受ける機会も少なく
被害が後を絶たない状況にあります。
ですので、何事もよくわからない時は
よく調査探究を自分なりの努力でもしてみるべきが
『大人』の役割だということです。
そんな意味で『付和雷同せず』を合い言葉に
本書要約批評の閉幕の辞と代えさせて頂くことにいたします。
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・主要参考文献
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『第2波・・・』襲来にも<正しく恐れながら>ウィズ・コロナ生活を楽しむ知恵を探る~コロナ禍下のライブハウス事情と防災公共事業のあり方を巡る雑感~
それでは場面を転換いたしましょう。
まず始めに個人的に心中ずっと穏やかならざる想いで待ちわびていた
緊急事態宣言(自粛要請期間)解除を受けて
営業再開されたというライブハウス事情を探るとともに
日頃贔屓にさせて頂いている某アーティスト様を元気づけようとの
『やむにやまれぬ』想いもあって某ライブハウス様に
過日ご訪問させて頂いた体験記から語り出しましょう。
また先週末も某アーティスト様によるライブハウスからの
『有』観客による純粋『生』ライブの模様を
ツイキャス配信で視聴させて頂いたわけですが、
画面越しを通じてのコメント欄でのやりとりや
実際の生中継映像からの情報発信で確認させて頂く限りでは
どちら様も熟慮検討を積み重ねながら営業再開へと向けた
水面下での準備作業にあたられていたことが伝わってきました。
人数制限措置の採用や
徹底した換気対策や人間同士の接触機会をなるたけ回避すべく
様々な努力をしてこの日に備えてこられたのです。
というわけで、管理人も過日ご訪問させて頂いた際の
実地見聞取材調査で感触を得た客観的状況と主観的想いを
今回『新たな門出』を祝して語らせて頂こうと
下書き原稿案をかなりの長文で用意させて頂いていたのですが、
先週末からの大都市圏での新型コロナ感染率上昇が始まりだしたとする
一連の『第2波』襲来報道や九州地方を襲いかかった集中豪雨による
水害問題、さらに『水(大井川水源破壊懸念)』問題とも関連する
静岡県知事によるリニア新幹線事業への異議申し立てを受けての
JR東海による事実上の開業延期が表明されたことなどなど・・・、
先週末には目まぐるしくまたもや国内情勢に深刻な地殻変動が
生起してきていることから大幅に改変させて頂く必要性を痛感したために
公開投稿にまで時間がかかってしまったという次第です。
特に『第2波』感染拡大を巡る報道では
いわゆる<夜の街>で誠に厳しく深刻な事態が発生してきているということから
折しも必死の想いで営業再開にようやくこぎ着けることが叶った
とりわけ我が愛するライブハウスでの<クラスター>感染が
ふたたび生起してしまうことにでもなれば
それこそ目も当てられない大惨状となることを懸念しまして
以下で語らせて頂く現状報告もどの程度までお伝えすればよいのかと
悩みながら今綴らせております。
その心中をお察し頂いたうえで
なにがしかのライブハウスや音楽(芸能)業界への応援メッセージと
『第2波』からの再びの感染拡大源である<クラスター>発生撃退祈願合唱を
皆さんにもご唱和頂きながらご一読頂ければ有り難く存じます。
まずは何よりもこのたびの集中豪雨被災に遭われた九州地方を始めとする
全国各地に点在するすべての方々に一刻も早い『安息日』が訪れますことと
罹災者の方へのお見舞いとお亡くなりになられた方へのご冥福を
お祈り申し上げます。
今後の『国土造成強靱化』事業をより一層伸展させていくに当たっても
このたびの新型コロナウィルス感染拡大防止対策とともに
考慮されるべき課題に関する問題提起が
今回のエッセーコーナーにおける趣旨となります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
①現下の『ライブハウス』はいかなる事情にあるのか?
それではふたたび再開いたしましょう。
過日訪問させて頂いたライブハウスでの『生(有観客)』ライブ体験と
先週末の2箇所でのライブハウスからの『生(有観客)』ライブ映像を
ツイキャス配信によって視聴させて頂いた限りでの感想です。
まずは別々のライブハウスからの2件ライブ映像を
視聴させて頂いた限りで気付いた点は
あらかじめ観客がどのくらい入っているのかまではわからないような
仕掛けがしてあるのだろうかということでした。
観客数が現状わずかであれば、そのライブ内容が良ければよい程に
次回からの集客数が一気に増加してしまう可能性が想像されるわけですが、
スタッフなどの人手も最小限に切り詰めながら
『超』少人数で切り盛りされている店舗が多い中、
大多数のお客様による予約連絡が集中殺到してしまうと
その業務だけでも繁忙となり、
他業務や事前準備作業にまで影響を及ぼしてしまうことが懸念されるため
映像配信に関しても細心の注意が払われているように感受されました。
そうした事態を見越して
入場者数問題に関しては事前に『○○人限定』などしておいて
電話予約などを通じた『優先順位』制を採用されているところが
多いようです。
このような現状を知って頂くことで、
ライブハウスからの<クラスター>再発生を回避することにご協力頂くことで
ライブハウスへの営業継続支援ともなります。
管理人も今月に入ってからの『第2波』感染拡大情報を受けまして
ライブハウスでの『有観客』生ライブ演奏を早期に観覧出来ることを願いながら、
その模様をじっくりと静観してその機会を窺っていたのですが・・・。
胸中では『今この時期に行くべきか/行くまいか』と
何度も問いかけを繰り返しながら煩悶に喘いでいます。
人生において『また訪れる機会なんていくらでもあるわけだし、
たかが娯楽遊興でしょ・・・』なんておっしゃる方々のご意見もわかります。
されど、『人生は一回しかなくこの先どうなるかなんて
誰にも予測出来ず、二度とご縁頂いた方々と出逢える機会も
なくなるかもしれない・・・』という刹那刹那を丁寧に生きる
人生観を幼少期から強く持って生きてきた人間からすれば
そうした一般的ご意見にそう容易く唯々諾々と従うわけにはまいらぬ・・・という
想いの間で揺れ動くわけです。
こうした『揺れる想い』(ZARD)は
そうした真剣な眼差しでこの世のすべてを見つめて生きてきた
人間にしかわからぬ『境地』だと思われます。
<理屈>抜きの<真情=真心(情愛感覚)>から発生する『想い』なわけです。
戦後日本人、また、現代人はただただ『生』の側面しか見えず
『死』をただただ忌み遠ざける姿勢しか養ってこなかったのが
大多数の人間の『実相』でしょうから
なかなかこのような特異な『質感』を宿した『想い』を
ご理解頂けることは前途多難だということも
十二分に承知したうえでのことです。
『長命福徳』
なるほど誰しもが『かくありたい』ものです。
されどもその願いなどこの宇宙の摂理の中ではもろくも崩れ去りやすい
本当にか弱い『真実』なのでもあります。
今回のコロナ禍下の生活で
このような想いを深く味わい直す機会を与えられた方々も多いことでしょう。
世間一般人の発想では
『たかがライブハウスぐらいでそこまで深刻になる方がおかしい』などとする
常識的風潮があることくらい管理人も当たり前すぎるほど知っています。
されども、そうした一般的ご意見を尊重したうえで
自身の行動を特に他人に強要するわけでもないのに
そうした切実な『想い』でライブハウスへ通い詰め、
結果として『心ならずも』感染者が出てきたからといって
その感染者や集う場所を名指し批判したり
誹謗中傷する姿勢こそ、そのような言動行為をされる方々にも
それぞれの『正義』とやらがあるのかもしれませんが、
その勇み足による『正義』行為によって傷つく人間もいることを
是が非でも知って頂きたいことです。
その『想い』を伝え、他者や世界への『思いやり(情愛感覚)』の
大切さを身体感覚でもって理解して頂きたいとの強い願いもあって
今回は本書を取り上げようとする強い動機にもなったわけです。
こうした『生き/死に様』こそが
常に社会常識(世間一般の空気)を問い直し続けながら
抵抗しようと試みるいわゆる『ロック』的死生観だと信じていますし、
また先人から引き継がれた言葉『一期一会』に込められた
背景にある本質的死生観だと確信しているからです。
人間はどの『次元』ないし『位相』時空間に向けた志向をするかで
『生き様』も『死に様』も<七生変化>するといいます。
こうした身体感覚を深く身につけ『魂』に宿らす想いをもって
生きるのと生きないのとでは
まったくその人間の『相貌』も変わってくるわけですね。
そのような生き方を心がけていると
自ずと『言葉』に込められた想いとともに
その表現技法についてもより慎重かつ誠実な『言い回し』を
しようと心がけるようにもなります。
あらゆる身体表現のうちでも言語表現(有言/無言問わず。
あえて語らない、反論しないというのも優れた言語感覚です。
だからこそ優れた古人は『是非に及ばず』だとか『順逆二門』だとか
『もはやこれまで』ではなく『今はこれまで』と表現して
後世に我が想いを託す<自決>と<辞世の句>を大切にしたのでしょう。
少なくとも管理人はそのような歴史的に連続した死生観のうえに
同じ想いを共有する/してきた人間と生死をともにしたいものです。
実はこれこそが『家族』の原点であり、そこから連続的に派生していったのが
『同朋(同胞)』感覚というものだからです。)こそが
一番誤解を招きやすい難しい表現形態だと常日頃感受しております。
ですから、なるたけ誤解を招き入れる要素を取り除こうと欲すれば
どうしても『長文(散文形式)』でしかお伝えする術がなくなってしまうのです。
『皆さん、毎度<長文>へのお付き合い恐悦至極に存じ上げ奉りまする。』
この超多忙なオタク細分化された社会における
主流派通信手段<SNS>形式に逆らう
すでにアナログ配信形態化されようとする<ブログ>文化に
お付き合い頂きまして本当に恐れ入ります。
『そうなんですよ、ライブハウス文化とともに
ブログ(語り芸)文化の灯火も絶やしたくないものですね・・・。』
『言語表現と人間や社会に対するあり方』について脱線してしまいましたが、
先日あるライブ視聴である女性ボーカリストの方が
昨今の<誹謗中傷>問題について、いち見解を語られていましたので
その『想い』に応えるべく管理人も語らせて頂きました。
まさに『和歌』の応答みたいだ・・・。
敬愛する『伊勢物語』の在原業平のような『白馬』の貴公子には
なれないけどね・・・。
要するに、管理人が常日頃思いながら問い続けている
健全な『批評(判)』精神と
単なる『誹謗中傷(ルサンチマンやストレス発散)』行為とは
まったく異なる表現形態だということをご理解頂きたいわけです。
だからこそ『批評』するにはその人なりの全身全霊をかけた
死生観とともに責任ある<基準(クライテリオン)>や
内なる<戒律=掟>(カント)を持つことが大切なのです。
そのような『確信』をもって言動したうえで
批判を受けたならば甘んじて受けることも叶いますが、
相手の批判根拠において明確な基準がないのであれば
受けて流すこともまた叶います。
それがすべての『誹謗中傷』行為で日々悩まされ続けている
現代人に送る管理人からの応援メッセージです。
『いじめに負けるな』とは決して簡単に言える言葉ではありませんが、
『勝てないまでも負けない』戦はどなた様でも
日頃からの心がけ次第で必ず出来るようになります。
その判定基準こそが『その人がどれだけ真剣に生きているか』であります。
究極のところやはり『人間』同士の交際では
『わかる人にしかわからない』と見切ってしまうのも
大切な社交上の『知恵』でありましょう。
そうでなければ、無駄に<生命エネルギー>を枯渇させられる羽目に陥ります。
時には『敬して遠ざける』もまた良き『知恵』でありましょう。
それが『至誠』だと管理人もまた確信しております。
『至誠』と今書きましたが、
『誠』も通ずる人間と通じない人間がいるという区別は
意外にも私たち日本人の弱点だからです。
ために交渉で疲れ切って、時に多大な犠牲を払うことにもなるわけです。
こうした点も考え合わせていきたいものです。
今後の管理人自身の人生課題でもあります。
『至誠通天』も難しいですが、
その天下にある『至誠通人』もまた厳しい道のりですね。
管理人などは『愛しき日々』(堀内孝雄氏)や
『防人の詩』(さだまさし氏)などを口ずさみながら
いつも涙を流します。
このように『言動』行為とは分離出来るものにあらず、
『2つで1つ』の生命表現行為だということです。
少なくとも『知行合一』とはこのような<境地>であります。
かの剣豪:宮本武蔵も柳生十兵衛も求めた『道』。
『知行合一=言行一致』ではありません!!
このような矛盾発想に立脚してきたのが
いわゆる近現代教育の脆弱さなのです。
しかも、近現代教育は『理性(知性/人間中心/私益優先)』偏向型の
特徴が著しく強すぎるために人間の『自己満足感』を高めるだけに
終始貢献するだけで『自信(自意識)過剰』人間を
どうしても量産する方向に傾きがちです。
つまり、『人の<道>』を教わる機会を著しく滅却させてしまうのです。
だから何事にも『優柔不断』になるし、
平気で『不倫』行為に走るような輩が後を絶たないわけです。
その反対の『不器用者』や『要領の悪い者』は
面倒で通常人が嫌う<茨の道>を行くわけですから
当然ながら『面倒くさい者』だと蔑まれ敬遠されるわけです。
それとともに近現代教育は『優勝劣敗』観を強く<培養>させてしまうがために
いわゆる『落ちこぼれ者(脱落者)』に非情なほどまでに手厳しい
社会を創造してしまう基礎土壌を提供することに貢献してしまうのです。
これが<失業者>や<障害者>、<疾病者>や<被災者>など
いわゆる『社会的』弱者に手厳しい『無慈悲』社会を増幅創造させていくわけです。
これが『自己責任論』の恐ろしさなのです。
今現状『運』が良くても、明日は『不運』に見舞われてしまうという
自然観や宇宙原理を見事なまでに人々の身体感覚から取り去り、
『危機意識』観も剥奪されてしまうことに寄与する一方だからです。
『人間』もまた<生物>であるという自然原理観が
近現代教育『観』には見事なまでに欠落しています。
つまり、近現代教育はもはや『人間』教育の体をなしておらず、
単なる『純粋機械(ロボット)』工場と化してしまっているわけです。
そのような環境では『人間』のみならず生物に不可欠な『慈悲』観や
『情愛』感覚も育ち得ようはずがありません。
でも管理人が確信するにそのような近現代教育『観』を<ものともせず>
ただ単なる<屁理屈をこねくり回す>だけの近現代人的知性の歪みに偏らない
本来の『人間』的な会話を楽しむ<ゆとり(情緒)>ある
『面倒くさき』人間こそが
真に『ともに語りともに愛し合う』に値する者なのです。
それはある意味でこの世の『秘密』を共有することであり、
その『秘密』によって人間的<結束=結合>がより強まるということです。
このような哲学内容あるメッセージを送り届けることの出来る
アーティストさんやバンドさんこそが
技巧の上手い下手やビジュアル面などとは関係なく
真に愛すべき芸術家なのです。
短い人生の中でこのような芸術家やそれを支持する『同志』に
出逢いたいからこそライブハウス通いもやめられないのですね。
ライブハウス問題から考える人間の死生論もその一つだったわけです。
このようにライブハウスもまた
人間の『生活時空間(居場所)』の一つであり
社会の『縮図』だと評価いたしましたので
次の問題にも転用させて頂きます。
今、全国各地どの業種・業態におきましても
『経済活動維持継続と感染拡大防止』の2つが
<トレードオフ(あちらを立てればこちらが立たず)>関係に立たされています。
とりわけ昨今の<夜の街>問題の中核にある業種である
飲食・接待業やライブハウスなどの娯楽遊興業も
言うまでもなくその関係に含まれています。
そこで今回はライブハウスという一つのミクロ的視点からも
この問題を具体的にイメージして頂ける参考資料となれば幸いだと感受し
取り上げさせて頂いております。
そこで読者の皆さんにもコロナ禍下におけるライブハウス直接訪問の是非で
お悩みの方が数多くいらっしゃることと推察されますので、
一つのサンプル事例にしかすぎませんが、
あらかじめ現状確認しておく必要もあろうかと考えたうえで
緊急事態宣言も解除されて自粛ムードも徐々に緩和されていく中、
状況を見計らいながらも営業再開を決断された某ライブハウス様に
訪問させて頂きました。
なお、この実地見聞調査取材に当たっては
管理人も公益上の感染可能性に関するリスク配慮も十二分になしたうえで
勇気を振り絞って決断を下して、
責任を持って某アーティスト様による生ライブを
久方ぶりに観覧させて頂くことになりました。
ちなみに某ライブハウス様と某アーティスト様とぼかさせて頂いた理由は
自粛期間中における事実上の営業停止状態の中でも
持続化給付金やその他の大阪府が支援する各種補助金制度のみに
依存せずに民間からのクラウドファンディングにも依頼することを通じて
辛うじて存続を図ってきた涙ぐましい努力を
風評被害やまたぞろの『自粛警察』とやらに踏み荒らされることなく
無に帰することがないようにする意図からです。
ですから平常時のような応援メッセージを
ここから送り届けさせて頂くことは叶いませんが、
いかなる想いでこの自粛期間中の経営のやりくりをされてこられたのかを
想像しただけでもこちらも自然と涙がこぼれてくるのです。
その某ライブハウスも他の同種店舗と同じく
大阪府のガイドラインを厳格かつ忠実に守りながら
注意深く感染防止対策をなされていました。
好意的なマスメディアなどはこの自粛期間中や解除間もなく
ようやく営業再開を果たし始めているライブハウス事情を
丁寧に報道して下さっているところもある反面、
まだまだ世間一般の反応には冷たいものを感受させられましたので
管理人自身もメディア報道に頼らず実地見聞でもって
己の目でしかと確かめなければ気が済まない責任感と
使命感に強い性分ですので一度確認させて頂こうとの
『やむにやまれぬ大和魂』な感覚で訪問させて頂きました。
するとまさにシンクロ応答して下さったアーティスト様が
力強く鼓舞してくれる演奏を送り届けて下さったのでした。
その方々を含めて出演されていた対バン(2組だけですが)による
久方ぶりの演奏と皆さん(顔見知りの方も含めて)に
再会出来たこと自体で胸が熱くなってきたのでした。
そのライブハウスではフェイスシールドの着用も義務化されていたのですが、
あまりもの感動で涙が止めどもなく満ち溢れてきて
シールド内も曇ってしまう一幕もありました。
たまたまあるバンド様は『レコ発』ライブでもあったわけですが、
この自粛時間中のライブ活動が中止や延期に追い込まれていたために
なかなか物販の告知こそ出していたものの
『実演販売』をする機会に巡りあうことすら困難だったといいます。
他のアーティスト様やバンド様などで
オンライン通販形式を早くから展開導入されていたところでは
発売されていたのかもしれませんが(実際に管理人も昨年9月に
名古屋を訪れた際にたまたま『栄噴水広場』の前で路上ライブをされていた
とあるバンド様。今は彼ら彼女にも風評被害のとばっちりが及ばないために
具体名こそ明かせませんがいずれご報告させて頂きます。
素晴らしくブルージーなポップ系ミディアムテンポロックな感じの
楽曲を演奏されていました。ギタリストの方に確認させて頂いたところ
ハードロック/ヘヴィメタル系楽曲を練習素材に据えながら
自分なりの感性の赴くままに楽曲創作に励んでこられたそうです。
その方から自粛中にも新曲ミニアルバム作品を出されるという情報を
ツイッターから教えて頂いて『投げ銭』上乗せ分(任意)とともに
自由コメント欄へのメッセージ記載とともに物販代金を振り込ませて頂きました。
するとまた温かい手書きのお手紙とともに商品を送って頂き感動させられました。
市井のインディーズシーンにはこのような優れて魅力的なアーティスト/バンド様も
山ほど隠れているのです。)、なかなか生ライブ演奏を通じた
『実演販売』となると厳しい選別措置で難儀されていたところが
ほとんどの大多数だったものと推察いたします。
ほとんどのアーティスト/バンド様は
ユーチューブや今流行のツイキャス映像配信などを通じた活動しか
出来ない状態だったといいます。
あるいはライブハウスからのいわゆる『無観客』配信など。
しかもインディーズシーンでは一定の質の高さも要求されるために
きちんとした安定収益を獲得しようとすれば
相当な情熱と習熟練習がなくては難しい世界であることは
音楽業界やライブハウス愛好者の方であればご存じでしょう。
各種メディアも最近でこそ
特にこのコロナ禍を奇貨としてライブハウス事情とともに
少しずつインディーズシーン模様も取り上げて下さることを契機に
ようやくこの音楽市場も認知されていくのだろうかなどとも
期待しているところです。
実は音楽業界ではすでにメジャー/インディーズ図式は
激しく崩壊していっている最中にあるのですが(最大要因は
広報メディアの多様化などが考えられましょうか?)、
現在でも高齢層ではあまり知られていない状況にあります。
音楽業界における情報発信方法の変化に限らず
ニュースメディアなどにおいても
今や世代間でいわゆる『オールド/ニュー』メディアの使い分けが
なされてきており、『世論』や『流行』といった社会動向も
激しく揺れ動いている過渡期にあります。
この『好機』を逃さずに
『禍を転じて福となす』という前向きな発想と行動をこそ
特にこれからの若者の皆さんには期待しております。
このような状況をうまく活用して
数多くの逞しいアーティスト様やバンド様が
このインディーズシーンから『飛翔』して頂ければと願います。
とはいえ、今はメジャー(大手レコード会社所属やメディアなどでの認知度の高い
いわゆる『有名』アーティスト。大規模資本が背後のスポンサーに持てるような
『大御所』アーティストなど。)シーンにいる音楽家も
もともとの誕生活動拠点は市井の隠れたライブハウスや
路上から表舞台へと飛躍されていった方々だったわけですから
この自粛期間中におけるクラウドファンディング支援でも
志ある名高いアーティスト様やバンド様などは
集金促進のための広報活動にも勤しんで下さっていたとお聞きしております。
そのような内部事情もなかなか主要メディアは取り上げて下さる機会が
少ないためにライブハウスとはそもそもいかなる場所なのかすら
ご存じでない方々が通常だと感受いたします。
そのような中で後進若手育成『登龍門』としてのライブハウスの意義や
生活/芸能活動費獲得面といった現実的な処世問題を巡る
大物ミュージシャンから発信される
メッセージ内容の是非を問う異議申し立ても出されていくなど
音楽業界の水面下では深刻な論争も静かに起きてきていたのでした。
その中でもとりわけX JAPANのYOSHIKIさんや
ツイストの世良公則さんなどといった
錚々たる大物ミュージシャンによる発信内容に対する
深い関心が向けられていたようです。
それでも今は昔と異なり各種メディアも発達したために
資本がなくとも『創意工夫』と『実力』次第で
営業活動を展開出来る機会が増えていることは確かであり
望ましい状況改善でありましょう。
しかしながら、最近インディーズシーンでは
『末端潰しの風潮に反対』なる意見もあることにうかがえるように
<声にならぬ声>を大御所権力によって押し潰そうとする
社会風潮が音楽業界に限らず至る所で蔓延っているからこそ
若手からの憂慮や警戒意識が強まってきているのではないでしょうか?
<次世代>を保護育成しようとする感覚に乏しすぎる
幼稚な似非大人が多すぎるようです。
その証拠に『教育』を舐めすぎている人間が多すぎます。
『すべての教育は<洗脳>だ』なるまことしやかな表現で
『教育』の本質を矮小化している虚業作家?もおられるようですが、
読むにも値しない『駄本』が昨今大量出版されており
本当に価値ある『良書』は部数が少なくなるために
高額作品となるため入手困難になり
まさに『商業』出版業界でも<悪貨が良貨を駆逐する>状況が
定着してしまいました。
公共図書館の意義役割も『緊縮』財政のためか
単なる『貸本産業』のような代物になってしまっているのが現況です。
管理人は日頃お世話になっている地元を始めとする
図書館司書さんの並々ならぬ『実力』を信頼しておりますので
単純に『貸本産業』と揶揄表現することを躊躇いますが
司書さんも日々悩みながら『選書』作業に携わっておられるであろうことは
管理人も書評という名の『選書』作業に従事していますから
痛いほどその胸中が伝わってくるのです。
司書さんの努力にも涙腺が緩みます。
まさに『悲しき図書館員』(人間椅子)の<想い>をこそ共有します。
このような『教育』や良質な『情(まさに『情』ですよ!!)』報や
『善知識』こそが若者も待ち望んでいるのですが、
このような『商業』経済の悪化事情なども伴って
<次世代>を担う若者軽視(人によっては若者『殺し』と表現)の
社会文化となってしまっています。
この状況をどこかで転換せねばならぬという
『やみがたき』想いと志から
若者応援も兼ねた<いちど立ち止まって考え直して頂く>きっかけとなる
素材本の『選書』に日々悩みながら取り組んでおります。
これこそが『ロスジェネ』による
せめてもの『次世代』に対する<明日への栄光>をもたらすための
現状出来得る『償い』だと信じているからです。
世の中が深刻な状況であればあるほど、そこから逃げ回ってばかりいては
決してこの先『ろくな』事にならないと確信しているからこそ
私たちの世代の自戒も込めてお伝えさせて頂いております。
そのような世相を反映させた後進者による<声にならぬ声>にも
十二分な『正当化事由』があるわけです。
なぜ最近の先輩者は<次世代>が這い上がるための
『梯子を外す』傾向にあるのでしょうか?
もしかしたら本当に今、社会に対して行っている(きた)
ご自身に疚しいところがあると薄々感づいているから・・・。
このような社会思(風)潮の下で影響を受けてきた
音楽業界でも特に上記2者の発言内容を巡って
これだけ多くのミュージシャンの間でも論争が渦巻いたのは
芸能活動への『公的支援関与』のあり方を巡っての
思想的価値観の違いもおそらく背景にあったからだと感受いたします。
もちろん上記にご紹介させて頂いたアーティスト様は
両者ともに立派な敬愛するに値する先達であります。
とはいえ、特にX JAPANのYOSHIKIさんの発言に対する
<声にならぬ声>といった異議申し立ても
水面下では少なからずあるように見聞きしたのは
いったいなぜだったのでしょうか?
このようなこともおそれず怯まずに
それぞれでご意見を提示して頂き、
真剣に今後の音楽業界に限らずに
『商業』経済産業社会全般にわたる行き着く果てを
想像しながら考えて頂きたいわけです。
そのようなわけでツイストの世良公則さんからの
『教育』的提言も込められた問題提起にも耳をそばだててお聞き頂きたいのです。
検索されるとユーチューブでご視聴して頂けます。
『芸能活動と社会との関わり方は今後いかにあるべきものなのか?』
世良さんには『教育者』としての独特な<風格>があって
管理人のような後進世代からも深く敬愛の念を感受します。
母が好きなロックミュージシャンだったというのも頷けます。
やはりミュージシャンも『歌う<語り部>』だということを
ご自覚頂きたいのです。
そもそも『吟遊詩人』とはこのような歴史的意義を有した
存在だったのです。
このような人柄を持つミュージシャンによる
楽曲をこそみな真剣に待ち望んでいるわけですから・・・。
このような社会風潮が背景にある音楽業界もまた
当然ながら『経済』社会自体の変化の影響をもろに受けているために
『敷居(入口)』こそ低くなったものの
だからこそかえってキャリアを積み重ねながら
新規顧客を開拓していく道のりも厳しくなったとの声も聞きます。
もはや『芸能は社会の<外部>にある<晴れ=ハレ舞台>』とだけ
自称しておればよい時代ではありません。
『歌は世につれ世は歌につれ』という俚諺も
またこのことを表現した名言であります。
このような厳しい状況にあるのが
特にインディーズシーンなわけですが、
単なる演者さんの努力を『自己責任』という見方だけで
突き放していいものだろうか?
『経済的な問題も独力で乗り越えて
ファン増加の努力をし続けた結果として獲得されるもの!!」と
一見誰しもが抗えない命題でありますが、
このコロナ禍下でファン自身の各アーティスト/バンド様を
支援するための源泉所得も不安定になっていく中で
マクロ的な支援なくして『文化』を維持向上発展させていけるのだろうか?
このあたり大阪府の『文楽』支援騒動の中でも
問題として提起されたところです。
『<文化>を買い支える』
昔の『お大尽(金持ち)』様や『タニマチ』様など
現在の<ケチケチにわか成金>に望むべくもありません。
江戸時代の豪商・豪農の発想などもっている
法人事業者や個人資産家など今やほとんど枯渇しています。
『寄付』するといっても自分の身を護るための
卑小な存在になってしまっているのが『実態』なのです。
もちろんそのような卑小にして尊大な方々ばかりではありませんが・・・。
これは<金持ち>へのひがみ根性から言うのではなくして
『お金の使い方を見たら人間の<品性>がわかる』という
次元の話です。
もっとも江戸時代でも飢饉時に百姓や庶民からの
<打ち壊し>や<一揆>に備えるために
資産を放財して退散させたという『実利』上の配慮もあったそうですが・・・。
とはいえ、そのような『実利』上の対策面とは別に
昔の事業家にはそれなりの
『社会』や『文化』を買い支えているという<誇り>もあったはずなのです。
ですから、コロナ禍のような有事にこそ
人々を『元気』付けするための<活力>を促す
経済支援政策も必要だという視点が為政者にも要請されているわけです。
コロナ『第2波』の影響で人の移動制限もふたたび取り沙汰される中で
『Go T0 Travel』キャンペーンを推進させられるエネルギーがあるのでしたら
ふたたび活動/営業自粛要請を迫られかねない
ライブハウスなどの娯楽遊興事業者にも
それなりの『補償金』を出せるはずですし、
それが促進キャンペーンを展開している
政府による責務でもあると考えるのが『道理』というものでしょう。
このような経済『超』収縮状況下になると
ファンの経済力だけでは限界もすぐに見えてきます。
というよりも現状にしてすでに余裕がありません。
ファンだからこそ
もちろん演者さんの『実力』向上を願うものの
それとはまた別に人間的な悩みも共感共苦しながら
『愛情』をもって温かく見守る感性がより強いからこそ
末永く応援差し上げようと思うのではないでしょうか?
だからこそ上手い下手に関係なく結束力の強いファンならば
アーティスト/バンド様の『実力』向上や
『再活動』をいついつまでも待つことが出来るわけです。
これはメジャー/インディーズシーンに関係なく共通する
みなの『想い』だからですね。
このような『想い』とともに私たち一般の素人観客側自身の
人間的な音楽的情愛感性も自然と鍛えられていくことになるのでしょう。
こうした見方や姿勢とともに
メジャーシーンの単なる『商業』的成功志向を乗り越えた次元にある
インディーズシーンの魅力というものがあるわけです。
このような『質感』は
皆さんにも是非一度『体感』して頂く以外に
理解して頂く道はありません。
音楽への嗜好性自体が多様化していく中で
<蛸壺(オタク=専門的細分)化>していっているのが現状です。
その分だけ素人としては気に入ったアーティスト様やバンド様を
熱意をもって身近に応援出来る環境も整ってきていることは
歓迎されるもののプロとして安定収益を得て本格活動をしていける
音楽家の方々はほんの一握りです。
とはいえ、応援をして差し上げることを通じてでしか
アーティスト様やバンド様の『続けていくための助力』となり得ないことを
想像する(これはどんな職種でも一緒ですが)と
ファンによる『口コミ』営業を通じた輪の拡がりに期待するほかないのが
こうした厳しいインディーズシーンの実情なのです。
そのようなわけで今回はこのコロナ禍下のもとで
ライブハウスへの世間の風当たりも一段と強くなってきている反面、
この機会を『好機』と捉えていわゆるインディーズ市場の魅力も
皆さんに認知して頂くとともに
ライブハウスに通い詰める楽しみもあるのだということを
お伝えしたくあらためてご紹介させて頂くことになりました。
今はまだこのコロナ禍下にあり、
また一部地域では『第2波・・・』との警戒情報も出され始めている最中でも
ありますから積極的な広報活動こそ差し控えねばなりませんが、
もし読者様の中で奇特な方がいらっしゃれば
実際にライブハウスまで足を運んで頂いたうえで
その魅力や楽しみに触れて頂ければ幸いであります。
もっとも絶対にご無理はなさらぬようにお願い申し上げます。
特に体調が悪い時などは訪問を自粛下さいますよう
臥してお願い申し上げます。
今度こそ本当に『ライブハウス文化』のわずかな灯火すら
消えてしまってはなりませんので・・・。
もしこのコロナ禍下においても十二分な健康管理と感染予防配慮のうえで
訪問される機会がございましたらば
いずこのライブハウスも入場制限などがあったりして
通常時と異なる営業スタイルとなっていますので
実際に観覧してみたいと思われた方には
一度各ライブハウスに電話確認されたうえで
お出かけになるのをオススメいたします。
通常時とは異なり『当日』入場は厳しいと思われますし、
入場制限にひっかかるおそれもありますから。
昨日のツイキャスを通じての京都の某ライブハウスからの
某アーティスト様からの映像配信でも
その方がより確からしいかも・・・とのお知らせ情報を頂きましたので
通常時ならばアーティスト様やバンド様を通じた前売り予約(チケット代金は
たいてい当日窓口でお支払いする形式が多いです。
キャンセル料も特に別段の規定なき限り発生はしないところが多いようですが、
もし当日参加不能になった際には各アーティスト様やバンド様に
その旨のご報告連絡メールを入れて頂くなどエチケットはお守り頂きたく
願います。といいますのも当日の『見込み客』確認でもって諸経費精算の
算段をされている方が『プロ』なわけですからそのあたりの事情は
是非あわせてこの機会にご理解頂けたら有り難く存じます。
インディーズライブに行きたくとも不明な点があれば
インターネット上でも『初心者』向けガイドが散在しておりますし、
それだけで不安な方であれば直接ライブハウスにまでご連絡して頂くと
よほど偏屈な接待態度をする怪しい場末の店舗でない限りは
誠実かつ丁寧に対応して下さるのでご安心下さいませ。)をするのが
通常のチケット購入ルートですが、
この例外状況下では先にライブハウスにも席数や予約状況を
ご確認頂いた方が無難だとのことです。
そのあたりの個別具体的な告知情報は各種アーティスト/バンド様の
『公式』情報サイトでご確認下さいませ。
繰り返しの強調点となりますが、
通常時ならば当日仕事帰りにでも『ぶらっと』入場することも出来ましょうが、
この有事の入場制限下ですのでおそらくいずこともに『前売り』予約が
優先される可能性大ですので。
その点をご了承頂いたうえで特に『初心者』の方向けには
『<あなたの知らない世界>にようこそ・・・』でございます。
ツイキャス配信と同じくライブハウスも『初見さん大歓迎』とのことですよ。
東京だけではなく大都市圏の繁華街、
特にいわゆる<夜の街>は危険極まりないとの報道もなされていますが、
すべてがすべてそのような『3密』空間ばかりとは限りませんので
是非何事も報道情報のみを自己判断の頼りにされることなく
ご自分の目と足でご確認されたうえでご判断下さるようお願い申し上げます。
また演奏される音楽のジャンルや演出形態によっても
『箱(ライブハウス)』の内部セットの様子は当然ながら異なってきますので、
くれぐれもマスコミの『画一的』な印象操作<ニュースショー>によって
発信される不安扇情報道だけに惑わされずに是非ご自分の全身全霊を賭けた
責任ある判断行動によって訪問の是非に関する『決断』をなされることを
重ね重ねお願い申し上げます。
そうした責任ある人生を賭けた自覚行動こそが
本書から学んだことを実地に活かすという姿勢となりますゆえ・・・。
本書はそのような責任ある認識判断過程を少しずつ踏み進めた先に
勇気ある決断行動をされた方にさえ押し寄せてくるだろう
世間からの厳しい『波風』にいかに対処すべきかの『知恵』を
授けて下さる<人生鼓舞の書>だからです。
いずれにしましても、今回のコロナ禍による公演形態も
一時しのぎの<つなぎ>であることを願いたいものです。
やはり、『ライブ』はその名にふさわしく『生』に限るのが
一番最『幸福』ですからね・・・。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
②最後に<防災とこれからの公共事業のあり方>に関して手短に。
要点を2点ほど挙げておきましょう。
詳細はまた追って別書評時にでもエッセーコーナーなどを通じて
順次語らせて頂くことにいたします。
Ⅰまずは九州地方の集中豪雨による水害とともに
静岡県知事によるリニア新幹線工事着工延期決断を促したとされる
(水面下では様々な政治的思惑による『真相』検証余地もあるそうですが、
今回はそこまで触れることが主題ではありませんので省略させて頂きます。)
トンネル工事に伴う『水源』破壊懸念問題に共通する
公共事業政策のあり方について。
結局は、マクロ経済における『緊縮』型財政政策の継続的影響で
十二分な建設着工計画も立案することが出来なくなっていたことが
それこそ『常態化』していたからではないかと評価され得ること。
最近は事業計画を立案するに当たり環境への負荷を考慮する
『環境アセスメント』の中でも比較的早期段階で
中長期(工事着工後と営業開始後も含めた)にわたる
『総合的』な<戦略的>環境アセスメント方式が重視されつつあると
されていますが、このような事前調査も十二分な『財政』的手当てが
なくては全うすることなど出来ようはずもありません。
しかも今回のリニア新幹線の開通区間に当たる
各自治体の協力体制も政治的に流動的状況にあるところほど
不安定であるという現実が『顕在化』されてきたこと。
本来ならばこのリニア新幹線工事着工と事業化問題は
国家全体のマクロ的『公共』交通インフラ事業という
各地方自治体の上位で決定される『大綱』計画であるにもかかわらず
事前の各地方自治体同士の連携協力や根回しはどの程度実施されていたのかなどが
明らかになりました。
一方で、九州地方での水害事例では
老朽化した道路などを含めた交通網や社会インフラ補修作業の
長年にわたる不安定化に起因します。
被害地域は熊本県球磨川水域を中心に報道されていますが、
当然ながらこれまた熊本1県だけに関わらない『広域的』連携協力の
不十分さにもあったものと推察されます。
また今回はコロナ禍下における天災事件ということで
被災者の収容施設管理問題でも
産経新聞社(7月6日付け)による各自治体へのアンケート調査実施例では
約6割ほどで残りの3~4割の自治体では
誠に貧弱な防災計画体制状態にあるとのこと。
天災とともに感染も同時発生している場合には
特に『危機意識』を最大強化しなくてはならぬというのが
歴史的教訓でもあるところ
なかなかその知見も活かされていない寒い状況にあるといいます。
水害の場合にはこれからの夏場にかけてコロナ禍とは別に
蚊なども大量発生しやすい状況にあるために
各種伝染病原菌が蔓延させられる事態も想定されるところです。
さらにすでに『共同体』意識も崩壊している最中、
過『疎』地では復旧作業にあたる人手も不足しており、
地方では高齢化が進展する過程で力仕事に従事し得る
現役フル稼働出来る若手人財も乏しく、
長年の建設業不振のために技術継承面でも
かなりの危険水域に突入してきているといいます。
しかも自衛隊なども国家安全保障対策が脆弱になる中で
復興作業にあたる人員も割くに限りがある状況ともお聞きしております。
コロナ禍下では『3密』厳禁であることから
大都市の過密化問題ばかりがメディアでは終始取り上げられていますが、
過『疎』地における問題点も
ただ単に『3密』回避の側面だけを重点的に報道するのではなく
むしろ少人数の過『疎』自治体では収容施設不足問題もありますが、
むしろ『密』回避対策外にも本質的に重大な問題点が潜んでいることも
検証報道して頂きたいと願います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
Ⅱこうした防災対策や交通(社会)インフラを計画立案形成していくに当たり
地方<分権化>路線にも限界があることも『顕在化』してきたということ。
そして<民営化>志向にも。
まとめますと、今のコロナ禍において数々の教訓として導き出されてきた
課題とは『公益』資本に力点を置いた『公共』型マクロ/ミクロ経済政策の
再創造の1点に尽きるということです。
『親亀(国家)転ければ子亀(各自治体)も転ける』
その逆もあり得ます。
要するに、『国家(中央政府)』と『地方(各自治体)』は
相互補完関係にあるということを片時も忘れ去ってはならないということです。
『公益(国営化)』と『私益(民営化)』もこれと同じ関係にあります。
特に根幹領域は『公益(国営化)』で補強しておく必要があるということです。
ただ純粋な『国営化』路線では社会主義国家のような事態をもたらすことから
資本主義経済国家では<競争>入札制度を通じて
『民間活力』の利点を抽出する知恵でもって対処しているわけです。
<競争>入札といっても『一般』ではなく『指名(俗に言う談合と表現されても
実態は各社の得意分野を活かした<相互棲み分け=相互協力>方式)』型でもって
先人たちは長年にわたる創意工夫を積み重ねてきた結果として
『知恵』として『公益』知的財産化させてきたわけです。
現在のような『資金力』導入面だけを重視する発想とは
まったくかつては異なっていたわけです。
このあたりの思想哲学の転換も図るべき時期が
ついに到来してきているということですが、
このような重要な『知恵』に関する啓蒙教育が
偏向メディアなどによって<圧殺>されて
国民全員で共有出来る情報伝達体制が喪失させられてきたことも
『顕在化』してきています。
いずれにしましても20世紀末からの『私益・緊縮型』偏向思想の呪縛から
逃れ出て行かざるを得ないのが『今でしょ』ということです。
あくまでも『偏向』志向が問題なのであって、
『私益』と『公益』どちらにも過度に傾斜しないバランス配分が大事だということです。
また、そのバランス配分もその時々によって変化し得る
(『平時』と『有事』では当然ながら異なる)ものですが、
その大前提に置くべき背景思想には『国民全体の公平な福利向上に資するか否か』という
視点が何よりも最重要だということです。
その発想転換の機会を見過ごせば、
残念ながら『私たち全員がいずれ総討ち死にへの道連れ』にされてしまいます。
そしてこのような残酷な結末をもたらした政治責任を
腐朽したエリート層はついぞ取ることもなく逃亡することでしょう。
『そう(逃げ得)させないためにも』
私たち1人1人が基礎知力と体力と精神力を高めて
民主政治の<形骸化>を防止していく努めをゆめゆめ怠ってはなりません。
そのような対権力意識『免疫力』も同時進行で高めていかなくてはなりません。
『民主政治』を大前提とする限り、
エリートの発想水準もその時々の『民度』と相関関係されるのですから・・・。
だからこそ私たち国民1人1人が責任をもって
『公益』意識を持つという意味で自らも『選良(エリート)』としての
自覚を持たざるを得ないわけですね。
それが現代型『国民(独立民主制)』国家の本質的理想像として
望まれているからです。
皮肉にも危機(有事)において『全体主義』国家が
優位に立ってきていることも憂慮すべき事態ですが、
この問題もまたいずれ・・・ということで
今回はこのあたりで切り上げさせて頂きますね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
<参考文献>
①雑誌『表現者クライテリオン7月号』
今回の特集号も読み応え十分。
巻頭特別対談はあの世良公則さんです。
題して『ロックでコロナをふっ飛ばせ!』
<特集>は『「コロナ」が導く大転換~感染症の文明論』ほかで
豪華論客メンバーによる対談、執筆論考記事で満載です。
あの『よしりん(小林よしのり氏)』も
『養老孟司』先生のいわゆる<養老節>も健在なり・・・。
さらに近月中に本誌に掲載仕切れなかった論考文が
『コロナ特集号』として新規に刊行されるとの情報も
本誌末尾欄記事で紹介されていましたのでお知らせしておきますね。
②『笑う免疫学~自分と他者を区別するふしぎなしくみ~』
(藤田紘一郎著、ちくまプリマー新書、2016年)
③『新しいウィルス入門~単なる病原体でなく生物進化の立役者?~』
(武村政春著、講談社ブルーバックス、2013年)
※③は①雑誌でも執筆されておられる先生です。
主に『ウィルスの生物進化に果たした役割論』などの観点から
研究を積み重ねてこられた方だといいます。
ここでご紹介させて頂いた『ブルーバックス』版は専門的過ぎて
難しい要素が多々あると感受されましたので
この本での主張骨子は主に第4章とエピローグですが、
さらに簡潔に一般読者向けに再編集要約された論考文が
①雑誌で読むことが叶いますので、
③は本格的な学習者向けということでついでにご紹介しておきます。
④『地形と水脈で読み解く! 新しい日本史』
(竹村公太郎著、宝島社新書、2019年第1刷)
⑤『100分de名著 アルベール・カミュ ペスト』
(中条省平著、NHK出版、2018年6月)
⑥『「空気」の研究』
(山本七平著、文春文庫、2018年)
⑦『バカをつくる学校~義務教育には秘密がある~』
(ジョン・テイラー・ガット著、高尾菜つこ訳、成甲書房、2006年)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
最後までお読み頂きありがとうございました。
年に1回の<『ななの日』(七夕祭り)>に
コロナ禍退散と皆様の弥栄を合唱祈願して・・・。
あわせて水樹奈々様ご結婚おめでとうございます。
ライブには行けなくなったけど(笑)
またいつの日か『捲土重来』を期待しております。
今は何よりも皆が全員無事息災であることが何よりですから。