フランシス・フクヤマ著『人間の終わり~バイオテクノロジーはなぜ危険か~』謎のウイルス禍に遭遇して集団発狂に陥った人類を救出する手立てとは?

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フランシス・フクヤマ著『人間の終わり』

前世紀末、世界に波紋を投げかけた『歴史の終わり』で

話題になった論客による名著が歳月を経て甦ります。

本書は人類の飽くなき進歩的願望欲求がもたらす帰結について

予言型考察を通じて提起した衝撃的論文。

人類は古来から未知のウイルスと共生してきた中、

生物と非生物との連続性や差異に関する驚異的知見を積み重ねてきました。

今回はこの本をご紹介します。

『人間の終わり~バイオテクノロジーはなぜ危険か~』(フランシス・フクヤマ著、鈴木淑美訳、ダイヤモンド社、2002年第1刷)

フランシス・フクヤマ氏(以下、著者)は米国ジョンズ・ホプキンズ大学教授などを

務められた日系アメリカ人の論客です。

20世紀末の冷戦終焉直後期あたりに社会・共産主義型集産体制に亀裂が生じて

相次ぐ崩壊現象を経験したことにより、

来世紀以後は資本主義経済型分散体制とリベラル民主主義体制の結合体が勝利を収めて

多かれ少なかれ世界を席巻していくだろう・・・との骨子論文『歴史の終わり』

世に問うて世界の著名人となられました。

その後、この論説に対する賛否両論が様々に巻き起こりましたが、

現在から振り返ってみますと、言わば『ポストヒューマン(超現生人類)』時代の幕開けを

予言するとともにその時代に見合った『新』人間哲学思想の創成期を担った

人物のひとりであったようです。

著者の思想遍歴やそれぞれの言説に関する批評も各方面から寄せられたそうですが、

本書要約の観点からは煩瑣となり無用な分断対立を煽り立てるだけに終始してしまい

管理人も好みませんので、今回ご紹介させていただく本書との関連で

どうしても触れておかざるを得ない批評分析を除いては控えさせていただくことにいたします。

今後の書評活動における原則的方針もこのような姿勢で進めさせていただきますので

ご了承願います。

ですから、言うまでもなく管理人個人の価値意識はどうしてもにじみ出てしまいますが、

右派とか左派とか、その他いかなる学閥、流派などを問わず

『この方の問題提起や発想法は魅力があり、鋭くおもろいわい』とか

『文体や語り口から判断しておそらく人間的にも信頼できる方だろう』と

評価させていただけたならば積極採用していく方針であります。

そのように価値観を問わずに今後の人類と世界が進みゆく歩みのあり方について

様々な観点から多大に触発して下さるような問題提起書を通じて

未来を明るく切り開いていく『広場』として

今後とも幅広い読者層の方と人類の知的財産を共有していきたく願っています。

さて、全人類は今現在も未知のウイルス病原体との付き合い方で右往左往、

感染状況模様の報道姿勢とそこから作られていった『世論』なるものによって

対症療法的に繰り返し発出される政策対応に一喜一憂させられ、

世界的に閉塞感が蔓延していく中、

暴力的心理がひそかにこの未知のウイルスとともに感染させられてしまうという

別の脅威にも同時対応しなくてはならない誠に厄介な時期が続くことが予想されます。

このような『閉塞』をもたらす要因は人間的身体と心理的接触の機会が

極度に狭まれる物理的環境要因である『制度』的な障壁問題でもあるのです。

現実生活のうえで旧来の人間的接触が阻まれていくなかで

悲観的な意見も飛び交っていますが、

管理人は本書を通じて著者とともにこのように今まで人類が享受してきた

旧来の生活様式がいかに今後変わりゆこうとも楽天的発想をもって

その新しい生活様式との混合併存形態とも馴染んでいこうと試行錯誤の日々が続きます。

ですが、この『楽天』志向に馴染ませていくためには

大前提としてデジタルテクノロジーとの付き合い方に関する議論を

丁寧に積み重ねていくことで全人類同士のあいだである程度までの

『共有(合意形成可能)』知とでもいうべき知恵を出し合っていかなくてはなりませんね。

とはいえ、そこには世界中の多種多様な文化・文明間における

価値観『闘争』を呼び覚ますような

とりわけ『死生観』を巡る宗教的争論にも発展しかねない危うい契機が

潜んでいる点があることにも配慮しながら

きちんと誠実に向き合う姿勢が要請されます。

長引くコロナ禍下における医療政策の限界点や各種医療関係者と

患者および関係当事者間での治療や葬儀措置に対するコミュニケーション不足や

人間的配慮の軽薄さとも感受される事例があまりにも数多く頻発していることから

論壇でも『死生観』を問う記事が散見されるようになりました。

管理人もこうした記事に触れる機会が多くなりましたが、

医療業界への局所的批判色が強く、針小棒大に誇張されたように感受され

(確かに取り上げられたような残酷な事例もあるのでしょうが。)、

どうも『木を見て森を見ず』のように多大な誤解を与えてしまう危険性が

あるように見受けられるのですね。

現在進行中の医療病床のひっ迫現象をそもそも引き起こした根本原因は

医療業界の一部識者による偏った政策判断によるものだ

(もちろん、それに対する批判にも十二分に首肯できる点がありますが、

ここではあくまでも抜本塞源論の姿勢からする政策批判への

優先順位論としてあえて強調させていただきました。

そのような想いからする若干の各批評者への個人的違和感から

問題提起させていただいております。)とする

一般人に過大な誤解評価をさせてしまう点にある

(その政策意図が正しく読み取られたか否かにかかわらずに

裏目に出てしまっていることは確かなる事実です。

政策意図をさらに丁寧に説明しつつも多角的な事後検証を

現在進行形ですから多大な難問であることは十二分に

国民の一人としても認識を共有理解していますが、

積み重ねていくとともにその経過報告だけでも

適宜提出されていれば、緊急事態宣言状況に少なくとも

『慣れてしまったわい!!』なる珍妙な光景も多発せずに

もう少し感染状況も落ち着きながら進行していったのかもしれないとの

疑念も感ずるのです。もっともこんな批判は『仮定』論なので

管理人とて慎重な問題提起にとどめるべきだと

恐る恐る語らせてはいただいております。

最大問題点は緊急事態宣言『中』と『解除後』の間隔と

季節ごとの流行頻度との兼ね合いについて

それぞれに重なり合ってしまい科学的相互検証が著しく

困難になってしまっているのではという懸念なのです。

なかなかに検証方法とそれに合わせた政策手法の組み合わせは

至難な技だとは承知しておりますが、当局の方々には

この2年間の結果を厳しく反省検証されながら

今後の改善点につながるよう是非に謹んでお願い申し上げます。)

だけではなく、医療福祉面においても

必要十分な財政支援政策が著しく欠如していたことに由来するものの方が

圧倒的だったのではないかと推察されるからなのです。

無思慮な医療機関の民営化統廃合政策や

医療介護費負担の不公平な引き上げ政策など

多種多様な問題点が積み重なって招き寄せられてきたのですから。

そもそも金銭的価値に馴染むはずがない

人間の生命について経済的に『選別/排除』せざるを得なくなるなどという

事態が生起してくる方がよほど狂気の沙汰ではないでしょうか?

その根本的重要論点を比較劣位にあるミクロな医療現場における

個々の医者による診(治)療方針や受容方針の差異について問い詰めたところで

そもそも真に収容量過多状態にあるのであればそれ以上責任追及したところで

何ら社会的に意義ある批評になるとは感受されないからです。

もっとも医事法に抵触するような違法行為など

社会的にまったく許容されない悪質事例であれば話は別になってきますが。

抜本的問題点について鋭く吟味批評しない限り、

建設的な改善策が出されてくることもありませんし、

些末な事例に批判の矛先が集中させられることで

真の『巨悪』が見逃されてしまうからですね。

このような誤謬誘導工作事例は社会には山ほどあります。

そして『巨悪』が陰でひそかにせせら笑うという

悔しき事態に陥るのがいつものパターンというわけです。

抜本塞源(問題の根本解決)論や本質論に

われわれ日本人は悲しいかな弱すぎるのだと

とある数学者でありエッセイストでもいらっしゃる方が

某新聞で言及されていたことも思い起こされます。

その一方で、『死生観』には個人的な価値意識が色濃く出てくるものですから、

国家が医療福祉政策を実施する際には統一した『死生観』を押し付けることも

現在では<政治的に好ましくないもの>と評価されるために

かえって特定の画一的な『死生観』が強要されたように感受されてしまう

背景事情もあることは否めません。

ある人にとっては、この無味乾燥で味気なさすぎる

現代国家特有の医療福祉観に不満足や不信感を覚えられるのでしょう。

なぜにそのような感性が続々と湧き出てきてしまうのかと推察するに

国家と個人の『あいだ』を媒介するはずの多種多様な社会『層』が

やせ細ってきているからのように感受されるのです。

『上に政策あれば下に対策(社会的知恵)ありでもって柔軟に対処していく。』

このような社会的柔軟性が年々歳々に喪失していっているからではないでしょうか?

このことこそが『人間性のはく奪』であり『家畜化』現象なのです。

ますますデジタル無機質社会化が進展していく最中で暮らしていかざるを得ない

われわれ現代人はこの点にこそもっと自覚的でありたいものです。

こうした感覚を『生権力』政治と呼称して批評分析された哲学者もいました。

(ミシェル・フーコー氏など)

この『違和感』に対する問題を

現代人の『死生観』をもういちど『人間』の原点に立ち返って

再考してみるきっかけにしようと問いかけること自体は

有意義な話題提起にはなりましょう。

その点は管理人も問題意識を共有するひとりであります。

とはいえ、その場合でもあくまでも『死生観』は極私的身体感覚に絡む繊細な問題を

呼び覚ますために議論喚起の際には十二分な注意を払いながら

安易な一般化として矮小化されてしまわないような表現上の工夫や配慮を

しなくてはなりません。

その一方では、

究極的には生死を受容する当事者の極私的問題ではあるものの

今日は家族関係の多様化や家族観の変化はあろうとも

対社会的な当事者を取り巻く共同体全体が一般的に受容する

人間としての死生観に対する共有感覚が極度に喪失させられてしまうことが

当事者本人だけに限らずに第三者に対する無関心さをも

より一段と助長させてしまう恐れが

コロナ禍下さらには近現代特有の現象としてあるものと

強く感受されることも多々ありましょう。

そうであればなおさらのこと、

この観点からの『死生観』に関する共同議論を促す機会を

提供することで『社会共同体結合意識』を回復させ得る

突破口を開削する機会にはなりましょう。

いずれにしましても、価値意識が絡む議論を進める際には

極度な一般化を無理に図って押しつけがましい態度に出『過ぎない』ように

気をつけなくてはなりません。

という意味で『死生観』論議は管理人自身をも厳粛にさせていただける

貴重な機会になったという次第ですね。

このように『自省』『自制』『自戒』心を呼び覚ませてくださる

言論ならば大歓迎で有意義な時間を過ごすことになりますので、

みなさんも誤解を恐れずにこの機会に大いに語り合ってみましょう。

管理人も未熟者ですが、この種の硬派な語り合いこそが

言葉の持つ重みや愛着感情、そして人間同士の『信頼感(絆)』を

より一段と深めるきっかけになるのですから。

言葉が希薄化し、人間の対社会的責任感覚が忘却されていく一方の時代だからこそ、

法の規制だけに頼らずに、真摯な語り合いを深めながら

誤解の払しょくに努めていくたゆみなき『情熱』が必要なのではないでしょうか?

そのような誠実な語り合いを地道に繰り返すことでしか

いわゆる『誹謗中傷』抑止対策としても効果的に機能する道は

ないのではないかと思案しております。

管理人も様々な『誹謗中傷』を受けてきましたが、

言葉を真に受けずに『結界』を設ける知恵でもって

何とか病まないように対処してきました。

また、自らは『誹謗中傷』に加担していないものと

言葉をひとつひとつ慎重に選びながら表現には努めているつもりでも

『受け取り側』による反応は多種多様であるために

知らず知らずのうちに不快感を与えてしまっていることも

あるでしょう。

各種○○ハラスメントと同じように・・・。

言葉の『受発信』は双方向によるキャッチボールであるために

本来であれば直接対面して双方の表情などから

『感情』を読み取って誤解が最小限になるように

『すり合わせて』いかなくては有意義な対話など成り立たないからです。

ですから、『匿名』か『実名』か、

また、どのような『場(掲示板)』で受発信するかにかかわらず

双方の真意を推し量りながら丁寧な言論『交流』を図っていく姿勢を

常に持するよう努力すべきことは論を待ちません。

されど、もともと言葉には『言霊』が宿り、

人間各位の『全身全霊』を賭けての

『心身(霊)感情』が乗り移るものであります。

ゆえに価値観がからむ繊細な問題を『直言』してしまえば、

言論創作活動にかかわる方ならば誰しもが回避できない

このつらい体験に遭遇することと存じます。

このような時にこそ、そのような批判にもめげずに

淡々と黙々と語り続けておられる方がいて下さるからこそ

愛と勇気もふたたび湧き出てくるのですよ。

言論・出版・表現・結社の自由が

なぜこれほどまでに尊いのかを実際に創作活動に関与していると

強く実感させられます。

ここ数年は更新頻度も遅くなってきており、

熱烈な読者ファンの方には

かたじけなくもご心配のお声掛けまでいただいたこと

誠に心に染み入り感謝申し上げます。

創作する『糧』となります。

なかなか多忙な生活事情なども重なり、

また時間がかかっても丁寧にお届けしようとするために

一回の書評記事にまつわる準備作業も滞ってしまいます。

コメントいただいた方にももはや個別にご返信申し上げることも

厳しいスケジュールですが必ず書評記事内で

きちんと御礼コメント差し上げますので

今後とも末永くご愛顧のほどよろしくお願い申し上げます。

コロナ禍下、状況を見計らいながらの『半』自粛生活も

続いていますが、リアル世界でも読書『道』を磨くべく

方々で武者修行してまいりますので、

そこここで得た『宝』と『福』を皆さまにも還元してまいります。

『みんな、肚(はら)を割って語り合おうぜ。Rock for youデス。』

『理性(言葉)』と『情念(心霊)』の一体化論を考えることは

人間が修羅『道』、餓鬼『道』、畜生『道』に陥らないためにも

時として己を『見つめなおす』時空間に身を浸して

『六根清浄』する機会を意識的に設けることで

新たなる『道』も『ご縁』も生み出されるものと

深く確信しております。

そんなことを再確認させてくれた

登山旅も先週に久方ぶりに味わって

『つかんで(修験=実修実験)』きましたので

その喜びが覚めぬうちに

みなさんにもおすそ分けさせていただきます。

後ほどの『エッセー談論』に乞うご期待下さいませ。

閑話休題。

著者も前著『歴史の終わり』に対する批判的言説反応のひとつに

このような繊細な論点にいかに向き合うべきかが問われ、

その後の言論活動における新たな学習研究課題として急浮上していったといいます。

そのあたりの問題意識が本書では積極的に取り入れられて論じられていくことになります。

本書の<はじめに>(本書ⅰ~ⅳ)でも触れられているように本書が公刊された頃は

ちょうど米国での同時多発テロ事件とともに

当時もうひとりの世界で話題を集めたサミュエル・ハンチントン氏によって

提起された『文明の衝突』論にも相次ぐ批評的対抗言論が喚起されていった時期でしたが、

著者の立場や見方はこれとは異なるいずれにしてもある種の『普遍的』価値意識でもって

ふたたび世界が統合されていくだろう。

強力なテクノロジーを背景力にもったリベラル民主主義政治勢力がやがては

『幅広い現代化の波』(本書ⅱ)として全世界を席巻しつくしていくだろう・・・と。

奇しくも本年はこの同時多発テロ事件(いわゆる9・11事件)から20周年でもあり、

これに対応した米国の中近東安全保障政策の対応姿勢による副作用が1回転して

またぞろアフガニスタンでの政情模様が証左しているように

冷戦終焉後から過去30年間ほどに蔓延していった

この種の安直な特殊西洋的普遍価値意識の独断と偏見が

ふたたび復讐憎悪感情を呼び覚ます潜勢駆動力となったものと推察

(当時からこの憂慮すべき点に関する興味深い問題提起をされていた論客に

チャルマーズ・ジョンソン氏などがいました。

失われた30年間は人類の彷徨い旅の序章だったのかもしれません。

ただいつまでもこんな道で彷徨したくないものです。

そこでこの『節目』に近未来社会を人類はいかに歩むか想像し、

各人各様に『余生』のロードマップと

何を次世代にお伝えしていくべきかを描いていただく

ひとつの考える題材として

このたびは本書を取り上げさせていただきました。

『ブローバック<自分がしたことがブーメランのように後から自らに

跳ね返ってきて多大な報復を受けるということ。自業自得理論とも

たとえられましょうか?>現象』)されますので、

これから本書論評の際にもこのような著者による当時の残存意識が

色濃く反映されているものと評価された点につきましては、

適宜の注意喚起も入れさせていただきながら

注意深く慎重に分析批評要約を加えていくことにしますね。

アフガニスタンにおける現地住民の反応にも見受けられるように

固有文化を受け入れる層と普遍と誇張して自称されてきた

特殊西洋普遍文化価値を受けてすでに馴染んでいる層との間で

今後とも予想される分断対立の混乱の種は

戦後たまたま『戦勝国』になった特殊西洋である米国的価値観を

いちおうのところ受容してきたとはいえども、

『大陸・半島』アジア的価値意識とも我が国古来からの

固有文化価値ともその間での激しい相克意識が

国民の潜在心理意識下にたゆたっていますので、

われわれ日本国民にとりましても決してアフガニスタン問題を

『対岸の火事』として見過ごしていいような軽い政治問題ではないからなのです。

国際貿易・決済体制のアジア的激変もTPPやRCEPなどの

地域経済圏を巡る特殊権益問題とも絡んで

我が国内経済、政治体制の変化に深刻な暗雲も垂れ籠めてきつつある模様。

コロナ禍に伴うもののうえにこれまでの失われた30年間における

積もり積もった経済損失補てんが若者現役世代から突き上げられている状況下での

本年の与党自民党総裁選と衆議院議員総選挙の結果を受けて

開催される新国会での正式な新総理誕生とその施政方針動向次第によっては

我が国史上、最大の試練をさらに呼び寄せることにもなりかねません。

すでに水面下では我が国政治への内政干渉工作もなされてきています。

また『所信表明演説』を傾聴してからの所感と

某財務官僚による勇み足発言が

新内閣がかかげる政策方針や選挙『公約』にも響き渡り、

騒擾案件とも評価され出してきているだけに

今後ともその『航路』を慎重に見極めていかなくてはなりません。

『日本を取り戻す』と『公約』されて総理になられた方もおられましたが、

誰が見ても明らかなようにどこでいかなる影響を受けて

『変節』されたのかモリカケ問題追及よりもはるかに重要な疑惑が

残されているのです。

このような『既視感(デジャヴ)』や『悪夢(ナイトメア)』が

ふたたび『正夢』にならないことを祈るばかりです。

新総理、議員と官吏のみなさん、

我が『日の本』を愛する有権者のみなさんには

是非ともこのような『変節』が2度となされなくても済むような

盤石な我が国民生活体制が確立されますようにともに祈り、

ともに励み、ともに支え合おうではありませんか。

新政権に対する支持/不支持の判断『基準』も

単なる人物の好き嫌いかで決めてよい問題ではありません。

日本と世界の安心・安定の『道』を定めていくのが

今回だけではなく『民主制』国家における選挙に

期待されている真義なのですから・・・。

第100代の新総理には是非とも我が国の『夜明け』にふさわしい

根が明るく実直な方であり続けることを願っています。

『清く明るく美しく(清明心)』は古来より我が国人が

理想として掲げてきた人間観でもありました。

権謀術数渦巻く政界ではこのような『闘戦経』(我が国古来伝来の

武士として人間としての『道』を説く兵法書)が描くような

『誠』と『真鋭』に基づく正面突破を図ることができない場面も

あり、搦め手からの攻防戦にも備えた深謀遠慮もめぐらしつつ、

日本と世界の現在・将来を生きる人々にとって

安心して暮らせる生活環境基盤を整えていただけることを

ただただ願うばかりです。

『大枠においてスジを通す道理観・道義心に基づいた

<まつりごと>こそ覇道に対する王道政治』だということです。

前途多難で無理難題を方々から働きかけられることで

総理・各担当大臣ほかのみなさまには気苦労も絶えないかと

推察いたしますが、良識と良心ある者は叱咤激励の想いで

そのかじ取りと行く末を厳しく見据えていることを

片時もお忘れなきよう願います。

『サイレント・マジョリティ(物言わない大多数)』を

絶対に軽侮してはなりません。

また、『風見鶏』のように変化すると否定的・軽蔑的に

イメージ理解されることの多い『浮動層』有権者に対しても

なおさらのこと誠実な対応が要求されます。

まもなく選挙の季節。

『国民』による例年にない厳しい政権選択選挙となる

予感がします。

『失われた○○年間』にとどまらず、

戦後(いつまで『戦後』なんや、苦笑。)政治の

真の『総決算』とも目されている

選挙に当たり、与野党の各陣営候補には

ほんまに気を引き締めて頂かなくてはなりません。

それによって我が『祖国』の未来も決められていくわけですから。

特に『冷笑』感覚に長年浸ってきた有権者層には

最大限の用心が必要でありましょう。

しかしながら、そのおおもとの原因を現出させてしまっているのは

そもそもが政治への『不信感』にあるのですから・・・。

『「信」無くば立たず』は不思議なご縁ですが、

著者による同名タイトル本でもあります。

新経済政策の目玉省庁とも評価されている

『経済安全保障庁』は現『デジタル庁』の脆弱面をも

補わなくてはならぬほどの注目官庁のひとつでもあります。

そして何よりも『財務省』の政権への対応・動向こそ

我々一般国民がもっとも心配し、注視している状況だということも

片時もお忘れなきよう祈念しております。

このような例年にない異常環境の下で声出しの政策訴求も

なかなかにできない場面に多々遭遇するでしょうが、

それぞれの陣営(与野党党派を問わず)が

知恵と工夫を練りに練って『効果的』かつ『生産的』な

『明確な』政策論争に臨まれることを切に期待します。

『浪花より愛を込めて』

ジェームズ・ボンド氏もこのたび再び帰ってきます。

そのような力強い『芯(心の御柱)』を持っている方こそ

長らく我が国民は待望してきたのです。

国際情勢の変動次第によって常に不安で判断が揺れ動くような

柔弱な方では我々国民も心理的狂騒状態にすぐにも駆られますし、

より一層の分断と対立状況を招じ入れてしまうことになります。

この『間隙(スキ)』を突いてくる国内外の魔の手も残念ながら

一定勢力存在しているのです。

『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して・・・』(日本国憲法前文)で

強い宣言と決意をしていても、

『では実際に具体的侵害行為があった時にどう対処すべきか?』は

行間にある日本国憲法が真に理念とする諸国民の協(共)和態勢が崩れ去る、

もしくは、崩れ去りつつある際における安全保障上の『原状(平和状態)回復』措置もまた

実はあらかじめ組み込まれているものと読むべきなのです。

そのうえで現実の国際法秩序と現行憲法制定時の理念とのズレをいかに埋め合わすべきか、

またその整合性をいかに調整していくべきかが現実政治家の『腕の見せ所』でしょう。

危機時における『立憲』政治(憲政の常道)とは本来こうあるべきものなのでしょう。

法律家は出来上がった既製品を解釈する力には秀でていますが、

そもそもの新たな『枠組み』を生み出す力には劣る点がどうしても出てくる

ものなのです。

新規立法創造(だけではなく、改廃措置に踏み込むのも)行為ができるのは

『立法者』たる議会人としての政治家だけに任されている領域なのです。

法律『案』は内閣(行政府)も提出できます

(日本国憲法第72条ご参照のこと。)が、

それが真の意味で国民の生活現場感覚に『適合』するものなのかどうかを

常時確認できるのは政治家(立法府所属議員)さんの役目なんですから。

国民生活の『現場』から直の声を聴くことができる機会に

日々接することが多いのも議員さんでしょ。

その『憲政』の意義こそ、遵法意識が希薄になっていると

酷評されている現状だからこそ、

選挙前のこの機会に是非にも再確認いただきたいわけです。

『選ぶ』有権者も投票判断に困るわけですから・・・。

各種業界団体をはじめとする圧力利害関係をいかに公平厳格に裁定しながら

『調整』していくかが個々の政治家の力量でもあるのです。

この『公平』感覚は司法法律家に要求される水準とは

また異なる次元にある難題なのです。

なぜならば、『優先順位』をつけざるを得ないからです。

『圧力』に屈しないためには司法法律家に要求される以上の

想像を絶する文字通りの『死闘(修羅)』場も出てくるとともに

真の『民意』を汲みとる大所高所からの公平な検討能力と

決断と実行能力も問われるのです。

ことに責任をもって『国民』政党を看板に掲げ、

次の政権任務を担当されると期待されている

新総理には敬愛されていると聞きます郷里の大先輩で

あられた池田勇人氏の政治理念『寛容と忍耐』を

新時代にふさわしくバージョンアップされた形で

この標語を『良い』意味で実践されることを期待しております。

『貧乏人は麦を食え(『麦』も必ずしもまずくて低価格では

ありませんが。またこの本意や趣旨も歪曲されて拡散されてしまっている

そうですが。沢木耕太郎著『危機の宰相』文春文庫などが

わかりやすく伝えてくれていますので未読の方にはお薦めですよ。

沢木文学は『深夜特急』や『テロルの決算』ほかたくさん読んだなぁ。

管理人好みの作家さんなんですよねぇ。)』的な感覚では多大な誤解を招き寄せ、

『分配』に力点を置いた新経済政策の『本旨』も歪曲されていきますから

政策説明に当たってはくれぐれも慎重な発言を願います。

少なくとも新内閣が経済政策の目玉に掲げられている

『新自由主義からの転換』と『成長と分配』による失われた○○年からの

脱却による次世代への『希望』ある経済社会構造への架け橋を渡す

『道』をいかなる障碍があろうとも万難を排して貫き通すとの

強い『政治的』意思をお持ちであるならば、

総裁選挙でも国民に対して強く示唆されたように

『プライマリーバランス(歳出・歳入の均衡。俗論的に誤解されている

<税収範囲内での財政支出に止めよ>的な発想。いわゆる

<貨幣のプール理論=現時点で市中に出回っている貨幣蓄積量の

範囲内だけで歳出・歳入の帳尻を合わせよ>との通貨発行特権によって

外部から貨幣資本を注入できる『国家』マクロ経済次元と

できない『民間』ミクロ経済次元との最大相違点に対する無知か

意図的な無視・軽視)』の破棄凍結と

『消費=需要拡大=経済成長』に対する『罰金』である

消費増税を『永久』凍結(将来的にインフレ傾向が出てきたときに

歯止めとしてかける税制に関しましては、『一般』消費税方式よりも

『奢侈(金融所得課税などのバブル現象誘発<抑制>課税)』税や

『環境負担』税など他の政策誘導目的税の方が好ましいでしょう。

することの2点は絶対に外さずに譲ってはならない

最重要争点(分岐点)なんですよ・・・ということです。

新しい『公益』資本主義志向の大前提(必要十分条件)として

財政『観』の転換がなければ『もはや万事休す、どないもなりまへん。』

なのです。

この志向性を言葉尻だけとらえて

『国家社会』主義とか、『国家独占資本』主義とか、

はたまた○○かと揶揄したり、みだりな恐怖感情で

煽情的に訴え立てても『まったく意味はありません。』

言葉はその内部に宿る『真意(本質的内容、趣意)』こそに

意味があるのですから・・・。

皆さまには釈迦に説法ですが、

こんな単細胞な『二分(二項対立)思考』は

ほんまに社会も人間も荒廃させますから、

もう金輪際、現実社会では『打ち止め』にしませんか?

『宇宙の根本原理』は相補性によって成り立っているのですから・・・。

あくまでもわかりやすい『二分(二項対立)思考』は

説明の『便宜上』仮のものとして取り扱うべきだということですね。

『論理』を駆使する際の最大注意点でもあります。

さもなくば、いつでも『パラドックス(自己矛盾、永久循環論法、

トートロジー、無間地獄)』に陥ってしまいますよ・・・と

いうことです。

というわけで、賢明な野党と与党の

良識と良心ある議員のみなさま方には

是非ともここを厳しく、ほんまに厳しくですよ(ここが本丸=

核心部分=将来への成長か衰退・没落への道の分岐点なんですから。)、

激しく突き上げてやって下さいまし。

もし選挙の過程で『バラマキ合戦』とか『国民を甘やかすな』のような

失言をした候補者やその他の社会的影響力の強い者がいれば

どうぞご遠慮なく厳しく指摘してやって下さいませ。

そのための『正しく強い知的武器』は

すでに心ある方々が提供して下さっていますので、

どしどしフル活用して下さいませ。

もはや我が祖国と次世代には残された時間は少ないのですから・・・。

『大東亜戦争』に至ったそれこそ『いつか来た道』を

絶対にその過ちだけは繰り返さない(させない)ためにも・・・。

政治的価値観の左右を問わずに

良心と良識ある『人間』であり『日本国民』であれば

どなた様でもこの『道理』がご理解いただけるものと確信しております。

その意味で『あの某財務官僚の件もよろしく頼みまっせ』ですよ、ほんまに。

『このままでは国家財政は破綻する』

2021年10月8付の文春オンライン記事ご参照のこと。)

すでに某財務次官の発言と新首相(内閣を代表)による所信表明演説との

整合性のズレ、さらに新財務大臣による某財務次官発言に対する

疑義ある説明(『閣内』不一致になりかねない恐れが濃厚にある)などの

報道に接していると、与党を支持するしないにせよ、

『おいおい、あなたたち、選挙前の大事な時なのに大丈夫かいな』と

管理人ならずとも首をかしげるのではないでしょうか?

現時点における政権与党の選挙『参謀(総目付)』役の方は

この点に関してあまりにも鈍感すぎるようです。

かの『軍師』黒田官兵衛なら

ここが『乾坤一擲の勝負所』だと進言すべき『時』ですよ、ほんまに。

政府『内部』でもこのように意思疎通が図れない事態が

生じてきているとともに

某財務次官と財務大臣のご発言は

今の時期における国民大多数の支持を得るものとも感受されない。

むしろ、新首相が新総裁に選任される過程では

直接的に『民意』を反映することはできなかったにせよ(この点は

まもなく敢行される衆議院議員総選挙での審判にて厳しく問われる)、

間接的には『民意』が従来の経済政策への『転換』を期待しているものと

強く感受されてきたからこそ、未曾有の『決戦』投票判断にまで

もつれ込んだのではなかったのか?

『獅子身中の虫』とはこのことですよ。

新総理は強いリーダーシップをもって『決断』と『実行』する

と『明言』なされた。

しからば、『すべきことはただひとつ』であります。

このような政府の統一的政策方針との整合性に反する事態に

いかに対処すべきかを考えてきたからこそ、

内閣『人事局』まで設置したのではなかったのでしょうか?

もっとも各官庁に所属する個別の公務員すべてに対する

人事権を掌握差配するものとは慣行的にされていないようですが、

政治的影響力のある地位にあり、

政府が掲げる基本方針に反する姿勢をとる者には

当然ながら厳しい何らかの『処断』が下されるのが

一般的『組織原理』でもありましょう。

政府による人事介入には慎重にならなければならない場面も

もちろんありますが、下剋上的風潮まで出てくるような

国家未曾有の危機時には強い『早期』介入権をご発動されなければ、

大国難を招き寄せてしまう(すでに長期間現在進行形で招いていますが・・・。)

のが世の常でありましょう。

かの財務官僚(『公務員』一般)ご自身が

政治発言をしてはならないのではありません。

厳密にいえば、それは憲法が保障した言論・表現の自由における次元の話ですから。

とはいえ、公務員は『全体の奉仕者』であり、

議院内閣制の下で決定された事項は

それこそ『粛々』と業務遂行(=執行)する義務があるのです。

そうした公務員固有の特殊事情があるからこそ、

国家公務員法や人事院規則などで選挙権行使以外の

一定の『政治的活動』が制約されているわけです。

問題なのは『政府(内閣)』の基本方針に抵触すること。

ここなんですね。

重要点なので繰り返しを厭わず『最』強調させていただきますが、

官吏には『政府』が決定した法律などを誠実に遵守しなければ

ならぬとの憲法上の要請と倫理規則があるからです。

そうでなければ、至る所で『下剋上』的風潮が巻き起こり、

国民生活に多大な悪影響と損害を与えることがあるからです。

政府の方針に従うのが嫌で政治的主張を

どこまでも原理主義的に貫きたいのであれば、

現職公務員をただちに辞職されて

公務員の政治的活動制約から逃れ出ることの叶う

ご自身の主張と一致するか重なり合う政策綱領や公約を

掲げているどこぞの政党からご出馬されたらいかがでしょうか?

議員さん(立法府)の『盲点』などを指摘して

より良きものとなるよう基本政策方針との

『整合性』を図る作業に関与されることまでは

当然に期待されているわけですから問題ありません。

時に個別に『諫言』すべき時もあるでしょう。

さはさりながら、その『時』と『所』と『位』を間違えてなせば

聡明な方であれば『あとはおわかりでしょう』とだけ

穏やかにご『忠言』申し上げます。

このことはいわゆる『忖度』などをおススメしているのではありません。

『忖度』とはあくまでも私情の次元であって、

管理人がここで強くご『忠言』させていただいている『誠意』は

国家と国民の未来がかかっているという『公共』的観点からなのです。

不適切な時期(選挙前)に不適切な場所(民間雑誌)で

不適切な『騒擾(炎上)』発言をされて

政府との不協和音を奏で、具体的な言葉ではない

抽象的な言葉で不安にさせてしまっている責任こそが

厳しく問われているのですよ。

もし、財務次官殿がどうしても『これだけは言うておかねば

死ぬに死にきれぬ』とまで強い『憂国の情』をお持ちでしたら

あのような民間向けの刺激性が強く

一般国民には誤解される『場』ではなく、

政府内部の与党政府と各省庁間の意見調整を図ることが叶う

制度上認められた『公式』ルートを通じてご意見申し上げるべきだったのです。

いずれにしましても、このままでは新総理が率いる新内閣、

某財務次官殿ともに進退きわまりない事態に陥ることは

必至でありましょう。

どちらかが厳しい立場に追い込まれることは

もはや必定でありましょう。

新総理率いる内閣を構成する各大臣は

基本的に国会議員(政治家)であり、直接的に

国民の厳しい『審判』を受ける身です。

(日本国憲法第68条ご参照のこと。)

そして各大臣が所轄する官庁人事についても

法律の定めるところと『条理』に従って

許容される範囲での何らかの『処置』がなされないままでいると

政治的混乱をますます深めるだけでしょう。

時が経つにつれて支持率も低下していき、

それだけ選挙に不利になるのですよ。

なんで管理人ごときがここで選挙『指南』せにゃならんのやろ(苦笑)

どなたかが『我が党には人材が豊富にいますから・・・』なんて

どこかの場でおっしゃっていましたが、

このような現状を観察していると『どないなっとるのや』と

通常人ならば思いますよ。

後援会の方々で厳しくも率直なご意見・ご提言を

して下さりそうな方にいちどお聴きしてみたらよいのです。

ポスティング(候補者チラシの配布)のボランティアなど

日ごろからして下さるほどの熱意ある方であれば、

どれほど一般有権者から厳しい声を浴びせかけられているか・・・と。

管理人も学生時代に選挙ボランティアさせていただいた体験が

ありますから、皮膚感覚でわかりますが、

学生ボランティアだからといって

世間からは容赦などされないんですからねぇ・・・。

この体験があってから政治家を応援するボランティアに

参加することが正直怖くなったものです。

本当は『民主制政治』なんですから、

こんな恐怖感にさいなまれることなく気軽に参加して

気持ちよく応援したいものなんですが・・・。

特に候補者やその所属政党、その政党が政権党の

一翼を成している時に不祥事など起きれば、

誰でも逃げ出したくなるものです。

ここまで某財務次官や財務大臣のご発言と応答について

特に厳しく語り過ぎてしまいましたが、

管理人は人身攻撃や脅迫(強要)的言動など

人間の○○が行う唾棄すべき行為だと信じていますので、

何もこのような悪趣味な感覚でもって批評しているわけではないのです。

最近の政治家、官吏、その他いわゆる『民間』議員と称する方々に

顕著にお見受けする『越権』言動行為があまりにも酷すぎ、

頻出し過ぎていることに深い憂慮の念を覚えるからなのです。

いち日本国民としての『憂国の情』から

『言挙げ』させていただいているのです。

かの方もその『大和魂』とやらを引き合いに出されたそうですが、

『う~ん、どうなんでしょ。』というのが

管理人だけではなく数多くの心ある国民のみなさんが

内心に秘められている偽らざる想いなんだと感受するのですね。

仁徳天皇様の『民のかまど』話の本旨や

聖徳太子様の『十七条憲法』の精神、山田方谷先生などの『理財論』を

いちど紐解きながら冷静にご自身の言動を見つめなおしてみられると

財務経済政策として何が最も『肝要』なのか

ご理解いただけるものと信じております。

『短期』と『中長期』もしくは

『デフレ期』と『インフレ期』では財政政策の取り扱いが

おのずと異なることくらいは

前世紀までの経済史的教訓でご理解いただけましょうから。

スタグフレーションや最近流行り出した経済新用語である

スクリューフレーション(中間層の衰退・没落と

インフレが同時進行する現象のこと。)に対して

いかに対処すべきかは

どのように景気循環構造の現状『実態』を分析評価するかによって

多種多様な見解が出てきて複雑になりますから、

ここでは論じません。

また今年のノーベル経済学受賞者の研究知見なども参考になるかも

しれませんが、実際の政策導入する場面では

いまいちど厳しくその『条件』吟味評価をしていかなくては

ならないことも論を待ちません。

とにかく、新内閣の経済政策方針が

『成長と分配』の均衡的発展に決まったわけで、

国民各位各層も長らくの貧窮生活からの脱却を

心底から待望しているのですから、

その『希望』に叶う政策的処方箋の『実践的』研究・検討をこそ

最優秀の官僚のみなさま方にはお願い申し上げる次第であります。

一般国民がますます貧窮化していく一方で、

『高級』官僚は身分保障と

実際には巷間で言われているほど『高給取り』ではなくても

安定した給与所得保障が約束されている高い地位にある方が

現状国民の深層心理を軽視したご発言をされればどうなるか?

『歴史に観る日本の行く末~予言されていた現実!~』

(小室直樹著、青春出版社)で活写されている各種挿話が

教えて下さることでしょう。

もっとも現時点でこの本を読み進めて再評価する際には

金(以外の貴金属などを含めた実物)本位制と

『緊縮』財政が要請された時代背景、そしてこの頃の

経済学の一般的水準と庶民の経世済民観との違いを理解しながら

『現代(信用)貨幣理論(以下、MMT)』が適用されている現代経済の

実態的比較評価をふまえなければ

適切に『活用』することはできないでしょう。

小室経済学も『未完成』のままご逝去されてしまわれたからです。

とはいえ、一般的にはMMTとバブル現象との連動・連結は

必ずしも合致するとはいえない場面があるとは指摘されているものの

『実体』経済域を超越した『金融仮想』経済域だけが

増殖・膨張し続ければバブル現象の引き金ともなり得るでしょうし、

無駄に資源を使い果たすことになるだけで

『地球(自然生態系一般、人間も含む)にやさしくない』

経済環境を創出することだけは間違いないので

その点に関する処方箋は別に描かなくてはならないことは

上記MMTに依拠する論者も強調されているところです。

MMTの『T(理論)』だけを強調してしまうと

その理論仮説が大前提とする誰しもが認めざるを得ない

現代経済の『実相(事実的側面)』まで見落としてしまうことになります。

つまり、MMTを正しく誤解なく適切に理解していくうえで

注意すべき点は、

その『規範(政策)的』評価に対する見解の相違にあるということですね。

『事実』は共通了解したうえで、

この見解の相違(論争原因の源泉)に着眼した読みを進めていくと、

MMTの神髄もどなたにもご理解いただけましょう。

『貨幣はどないにでも創出できるが、実物量(モノやサービスの供給能力)が

おのずとその限界点になるのです。』ということです。

『モノ』は有限でわかりやすいですが、

『モノ』余りの現代経済で『持続可能な発展論』の観点からいっても

これ以上は貨幣でもってデフレ解決は個別の『モノ』は除きますが、

全体としての『モノ』経済域では困難でありましょう。

そこで注目されているのが『サービス(コト=体験型消費)』

なんですね。

こと無形の『サービス』分野では

『人間』という有限的存在が絡まない領域での

増殖が可能になれば、インフレを伴わない形での

全体的なデフレ脱却も果たすことが叶うかもしれません。

物価水準は時々の需給関係で決定され、

それに見合う形でやがて賃金所得水準も調整されていくだろう・・・

などと教科書は語りますが、それが比較的『短期』なのか

『中長期』なのかは

それこそ『神のみぞ知る』段階にあるのが

まだまだ現代経済『学』が描く世界観であります。

ですから、『新しい』資本主義を志向するのであれば

『市場』と『国家』の役割をそれぞれが

相互補完できるような危機的状況に強く素早く適応可能な

『介入型』モデルも創出していかなくてはなりません。

もちろん、過去の『社会(共産)主義』国家の失敗事例には

学ばなくてはなりません。

ですが、すでに新省庁であるデジタル庁における

働き方や人材登用事例などを見ると、

管理人がすでに推察していたような『半官半民』型組織志向

進化しているようですね。

ドラッカーシュンペーターなどが描くような

『革新』的組織企業体がそうしたモデルの参考になるかもしれませんね。

もっとも、ここに特定の民間企業に有利となるような

『利益相反』癒着現象が頻出してはなりませんが、

(何せ役所の存在意義が『公益目的』なのですから。)

社会実験的に一般経済社会でも柔軟な活用が

目指されてもいいのかもしれません。

そこに産官学連携と再教育研修などについては

『公費無償補助』制度などを採用してみるのです。

具体的にどのような制度設計が

より実効的かつ好ましいのかは試験しながら

常なる検証を積み重ねていくほかありません。

そこに『特別定額給付金』をベーシックインカム(常設型)形式か

国民ボーナス(臨時型)形式かは議論の余地はあれども

重ね合わせてみる方法も考えられます。

新政権が『新しい』資本主義を掲げて

再出発を果たしていくというのですから、

この機会にみなさんもどんなアイディアがよいか

ご一緒に提案してみませんか?

さて、インフレ/デフレ現象解決問題と

モノ/サービス需給関係の話題に戻しましょう。

この『サービス』供給量に関しては

こと『人間』が主体的に提供する業種では

人手不足が深刻化し、必然的に「インフレ」傾向になるはずなのですが、

医療介護、教育、娯楽業界などに広く見受けられるように

個別には賃上げ成果も出てこない・・・。

この原因は『なぜ?』と問うていくと

『モノ』と『サービス(コト)』業界の個別(ミクロ)的側面だけに

視野を狭く絞った解決を図るだけでは足りずに

経済時空間全体(マクロ)に目配せした

『調整』政策が要請されてくる意味もやがてご理解いただけましょう。

『経世済民』観の違いを知るだけでも

われわれ生身の人間にとっても

地球(宇宙)全体の自然生態系の存続発展のためにも

とても重要な『分岐点』をなす見方を提供してくれますから

迂回路が続きますが長々と語らせていただきました。

ということで、視野の狭い教養なき偏差値出世志向秀才が

我が祖国と世界を『地獄』にふたたび突き落とす契機を

創出していくのを回避するために・・・。

心理学でも最近は『認知的バイアス』問題が

しきりに話題になってきているのもこのような理由があったからですね。

そんなわけで、『議会(正規ルート)』政治家を有権者が支援する際には

そんな特定少数の『圧力』(裏口入学の疑惑『民間』議員らなど)に

力負けしないように力強い声援なり、

できる限りのボランティア支援も時には差し上げなくてはならないのです。

『みなで民主制をともに維持発展させていく』ことは

このような地道な作業の連続なのです。

いわゆる『世襲制(すべてが悪いとは断定できませんが、それもその人自身の

才覚と能力次第です。)』や『地盤・看板・カバン』に圧倒されないためには

本当に地べたを這いずり回るような『どぶ板選挙』になるのです。

そうした中で当確されていった政治家であっても

百戦錬磨の魑魅魍魎が住まうのが『政界』という魔界なのです。

ですから、期待が裏切られたと嘆く暇があれば

支持する政治家を『叱咤激励』するほかありません。

そこで、厳しい場面で圧力に屈して信念を曲げられる恐れに

さいなまれるあまりに『変節』しそうな陰りが出てきましたらば、

当初の『初志貫徹の信念』へと戻られるように強く促していかなくてはなりません。

国民の『代表者』とはこのような重責を担った存在なわけですから

『推挙』した有権者自身も最後までともに責任を持たなくてはならないのです。

『国会』議員の場合には『地方』議員と異なり解職制(いわゆるリコール制)は

ありませんからなおさらのこと厳重チェックが要求されるのです。

その政治家の言動次第で、ことは国家存亡の危機にまで至るわけですから。

またこのような政治家の特質から

リコール制を『発動』させる有権者側の政治的倫理も厳しく問われるのです。

『リコール署名活動は決してお遊びではないのです。』

現在も某県では司直による捜査と司法における審判が続いておりますが、

この運動を当時煽り立てたり、陰ながら支援してしまっていた人間にも

罪責には軽重がありますが何らかの自省行為が要請されるところです。

なぜならば、本当に『信念』と『責任』をもってボランティア活動に

従事されていた方や署名協力された『ホンモノ』有権者の

『真心』をも踏みにじった所業だったからです。

責任をもって参加された方ならば許されても、

無責任な煽り行為をもって有権者の心を惑わせた者は

断じて許されません。

管理人もこの手の無責任言動がなされた事例があった際には

名前を記録保存する習慣を心掛けるようになりました。

なぜならば、言動に信頼がおけないならば、

その者が著した書籍類を購入する資金も無駄金となってしまうからですね。

政治場面における『有権者』意識と経済場面における『投資家』意識とは

必ずしも重なり合いませんが、このような発想と行動姿勢も

『悪貨が良貨を駆逐する』言論出版業界における長年の悪弊を断つ

一助となるのです。

『真に書物と言葉を愛する人間であれば、こうした浄化活動にも

多大な興味関心を持たなくてはあきまへん。』

『貴重な文化と希少な資源を無駄なく買い支えることも

倫理的読書家の聖使命だと信ずるからですね。』

迂回してしまいましたが、というわけで

これが民主制の本質というものであって、

決してただの『ファン(信者)』であってはならないのです。

『政治の場は本来厳粛な場であって人気投票で決めてはならぬのです。』

『地味で目立たない無名な議員さんでもしっかりした見識と信念を

もって活動されている方もいるわけですから。』

このような方にこそ管理人も強い『信認』を与野党、党派を問わずに

与えたいものです。

ですから、おのずと『見極め』も厳しくなるわけです。

絶大な『権力』が国民から仮託されているわけですから、

われわれ国民にとりましても慎重な審判をせざるを得ません。

『何はともあれ、もう優勝劣敗(ゼロサム=パイの奪い合い)無理ゲームは

これにて打ち止めにしましょう。』

それでは、コロナウイルスとともに年々歳々進化していく一方の

『バイオ(生物)』テクノロジーの脅威にふたたび人類の不安が高まる中で

いかにこの種の現代文明の象徴たる技術革新成果とお付き合いすべきか、

さらには『技術革新成果が政治的現象(群衆心理の顕在化)にいかに

影響を与えるのだろうか?』を主要論点に掲げる本書を

要約論評していきましょう。

『素晴らしき新世界』(オルダス・ハックスリー)では、一見して苦痛を感じない多幸感に満たされた時空間だというものの・・・。そんな映画『マトリックス』のような世界観が生身の人間にとってどうして幸福だと確実に保証されるというのだろうか?~人間的本質を価値意識の源泉から再検討する~

それでは本書の要約論評を始めてまいりましょう。

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・<はじめに>

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・『Ⅰ-これから起こること』

①『第1章 二つの未来図』

※これから本書で問題提起される概要について

簡約されているのが本章であります。

著者が自らの社会哲学や近未来に向けた人間学を探求していくうえで

多大な影響と示唆を受けたというジョージ・オーウェル著『1984年』と

オルダス・ハックスリー著『素晴らしき新世界』を手掛かりに

これからの未来を暗示する諸問題について考察していくことになります。

なお、それぞれの章における冒頭見出し引用文をご覧になれば

ご理解いただけるように著者はハイデガーニーチェの思想的影響も

受けておられるようです。

さらに先行書である『歴史の終わり』では

フランスの哲学者でヘーゲル研究者でもあられる

アレクサンドル・コジェーヴ氏による研究成果の影響も

見受けられるようです。

ハイデガーとニーチェについては

いずれも現代テクノロジー文明のもとで『人間らしさ』を

いかに残存していくべきか、一連の高度な純粋機械化時代が

ますます激しく進展していくにつれて、いかに『人間』が

『社会的変容』を被っていき、いかにその事態に対処することで

『人間らしく』生き抜くことが叶うのだろうかを厳しく問い、

見つめられた20世紀を代表する著名哲学者でありました。

この2人に共通する『人間』としての『本質』(本書第Ⅱ部が著者自身の

主要応答論であります。)を語り表す際のキーワード

管理人が一言で簡約すれば『人間存在の時空間における有限性』という

制約性をいかに突き詰めて考え抜き、実人生でいかに『有意義』に

過ごしていくべきかを各々に厳しく激しく問い詰めていく

『実存』哲学者だということになりましょうか?

ハイデガーとニーチェに関しては人間『本来』の生き方(つまりは、

やがてみな死ぬ<べき>存在とする古典的人間観)を見据えた哲学者でも

ありましたが、現代文明の技術革新の行く末を見据えた

未来に想像し得る新たな人間観をあえて<思考実験>的なSF文学形式で

提示させてみせることを通じて『超』人時代について

世に問いかけたのがオーウェルとハックスリーでありました。

『ポストヒューマン(あえて『現生』人類の終焉もしくは脱却?と

訳しておきましょう。)』とは一体全体いかなるものぞや?

この問題を想像分析、考察提起していくことを通じて

読者に問いかけていくのが本書の役割だということになります。

次章以下で事例問題として取り上げていく題材は

現時点で(現生人類が一般的に共有するだろうと信じられている

道徳倫理や法律的な縛りさえ外してしまえば)実用化も可能なものばかり

だということです。

しかしながら、まさにこれらの技術革新成果を

『現生』人類に実装し、処方することは『禁断の果実』に

ついに手を出してしまったことと同義の『変容』を来すことになるものばかり・・・。

ゆえに、何らかの『歯止め』を新たに考案し、

共通制約事項として立てておかなければ由々しき事態や難題、

厄災が新たに人類を侵襲するだろう・・・という問題意識が

第Ⅲ部の主要論考として提示されていくことになります。

その問題を提示する前にまずは現時点で想定されている(きた)

様々な人間存在の『本質』観などをひととおり検討したうえで

ハックスリー的人間観に対する著者からの応答がなされることになります。

『ハックスリー的』人間観とは何か?

彼の提起した人間観を検討することで

現時点でも『一般的』に『普遍化』し得る人間存在に

対する『定義』を打ち立てることは実はそんなに簡単なことでは

なかったのだと一見すると非常識に感受される命題について

考察を進めていくことになります。

詳細な議論は第Ⅱ部での要約論評へと委ねさせていただくことにいたします。

~『ハックスリー的』人間観と定義について~

『ハックスリーが定義するような意味で「人間である」うえで

重要なことは、何か? 結局のところ、今日ある人類は、

何百年か前に始まり、この先も運がよければずっと続いていくと

思われる進化のプロセスの産物である。

人間の特徴として固定しているものといえば、自分がなりたいものを

選び、その欲求に合わせて自らを修正していく全般的な能力だけだ。

だから、人間であること、尊厳を持つことが一連の情緒反応と

直結しているとはいえないはずだ。情緒反応は進化の歴史の副産物に

すぎないのだから。生物学的家族というようなものはないし、

人間性あるいは「正常な」人間というものもない。

もしあったとしても、それが正しいこと、正義であることを決める

指針となる必要はないだろう。

ハックスリーが語っているのは、こんなことだ―前から人間が

ずっと悲しみを感じたり、絶望や孤独にうちひしがれたり、

病気に苦しんだりするのは、

種としてこれまでしてきたからにすぎない、と。

(本書8頁)

このようなハックスリー的な人間観に対する著者の応答とは・・・。

『ハックスリーの『素晴らしき新世界』のどこがおかしいかは、

人間の本質が価値観の源としてきわめて重要である、という見解に

当てはまるか否かによる。』(本書9頁)

それでは本書における主題を著者の語りを引用して

最初にまとめておきましょう。

『本書の目的は、ハックスリーが正しいと論じること、

現代テクノロジーが重要な脅威となるのは、それが人間の性質を変え、

我々が歴史上「人間後」の段階に入るかもしれないからだ、と

論じることである。これが重要なのは、人間本来の性質なるものが

存在し、しかも意味ある概念として存在し、そのおかげで種としての

我々の経験が安定的に続いてきたからである。

これが宗教と組み合わさって、最も基本的な価値観を決める。

政治体制の種類を形作り、制限するのは人間の性質である。

だから、我々の現在を変えるほど強力なテクノロジーは、

リベラル民主主義と政治の性質そのものに、おそらくよからぬ

影響を与えるに違いない。』(本書9頁)

さらにそのうえで著者の問題意識の底流にあるのは

『技術進歩への敗北主義を捨てよ』(本書14~15頁)と

これまでの人類進化の過程における適応可能性に対する

歴史的信頼性に賭けるとともに

たとえその柔軟な『可塑性(修正適応能力)』を信じるにしても、

極端な楽観的期待によって無理な『理性(人工計画)』的対応によって

『世界と人間改造』を果たそうとする試み、

つまりは、『無限の可塑性』という発想に盲目的に憑りつかれていった

数多くの現代思想家によって推進されていった無残な惨劇例にも

読者の注意を惹きつけながら、無理のない修正可能性を真摯に

考えながら、来るべき『ポストヒューマン』時代に

備えていこうではないかと呼びかけていくことになります。

(<失敗した社会主義の実験>本書17~19頁ご参照のこと。)

そこで第Ⅰ部では、現代テクノロジーと人間行動の『変容性』が

いかなる帰結をもたらすのだろうかと想像する代表事例について

第2章から第5章まででざっと横断的に確認していくことになります。

・脳についての知識と人間行動の生物学的しくみについての知識が高まる。

・神経薬理学が発展し、感情と行動の操作が可能になる。

・平均寿命が延びる。

・遺伝子工学が発展する。

(本書20頁)

いずれにしましても、これからの『ポストヒューマン』時代を

人類が迎え入れるにあたって極度な悲観論も楽観論も排して、

冷静に起こり得る事態を想定した『規範的(法的/政治的)』対応と

人間の『行動認識/精神意識的』対応でもって

技術革新が超高度化されていった成れの果てに現れる

人間『魂』のはく奪によって『人間廃業』という事態にならぬような

道を探求していく機会を本書が提供することになります。

『現生人類よ、人間廃業に至るまでにまだまだやるべきこと、

果たすべき役割はいくらでもあるんだよ。

だから、みんなあきらめずに叡智を出し合っていこうではないか!』

そのような力強い励ましの声が行間から聴こえてくるようです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

②『第2章 脳の科学』

※本章では、脳科学研究発展とともに『遺伝子』問題が

とりわけ社会的な論争となり、政治的に重要かつ敏感な

反応を人びとのあいだに呼び覚ます問題となってきたことを

手掛かりにこれまでの諸論点について分析考察されています。

人間の『知能』にまつわる定義論争も含めて

研究者のあいだでも多種多様な見解の相違がありましたが、

著者によると『認知機能』に限定させた定義によって

厳密な科学的検証性に耐え得るような議論喚起がなされていくことが

期待され、脳科学研究ではよく論争点になるように

『人間の能力は遺伝子か環境のどちらかによって成り立つのだ』と

する単純な二分法にひっかからぬように慎重な判断がなされるべく

各種研究知見成果や統計調査データを解析利用していくうえでの

注意点について関連諸分野の研究動向からも理解を深めていく必要が

あるとの見方を提示していきます。

遺伝子と環境因子に基づく各人各様の『知能』発達過程の差異についても

行動遺伝学や異文化人類学に基づく『相関関係』について

解析評価が加えられていくわけですが、

統計的推論にはたびたびの『誤差』が見受けられることから

『遺伝子』要因に偏重させた見方にはなお警戒が必要だとも

示唆されています。

そこでこの論点について右派・左派ともに伝統的に

大きな政治的論争を巻き起こしてきた問題について検討しながら

脳科学研究が『優生学』的な志向性でもって

人間を選別・排除させていくような傾向が強まらないような

政策的配慮が要請されることも本章末尾であらためて

問題提起がなされることになります。

(『私的な優生学の時代が来る?』本書46~47頁)

本章の読みどころ

・『犯罪の遺伝理論』

・『犯罪衝動はどこからくるのか』

・『人種差別的似非科学という批判』

・『ジェンダーの視点』

・『同性愛は遺伝なのか』

・『「ゲイ遺伝子」』

(本書38~46頁)

あたりに我が国ではとりわけ保守派にとって敬遠されやすい

繊細かつ敏感な問題についてもさらに多角的観点から

理解を深めていく素材が提供されています。

著者自身が米国政治思想界では右派に親和的な論客だと

評価されることも多いようですが、

ジェンダー学(社会的に堅固に構築された性差問題について

問う学問。もっとも極端な政治志向で心根が歪んだ研究者には

辟易とさせられ嫌悪感を抱きますが、自然本来に由来する

生物的性差も尊重しつつ社会的不当差別に決然と対処せんとする

真に公平な男女平等観をもって誠実な姿勢で研究を進められている

方々には敬意を表します。)についても誠実に向き合いながら

極端に『優生学』志向(ここでは生物学的差異のある部分のみを

最強調して男女の性別役割分担を極端に狭く捉えすぎていく姿勢)

偏らない姿勢でもってこの問題を再考する機会を提供されています。

もっとも著者も

なお根強く残るだろう男女間の生物学によって

今後とも積み重なっていく知見にも意義があることを認めたうえで

政治的課題にも付き合っていかざるを得ないだろうことを

示唆しています。

(特に『ジェンダーの視点』本書42~43頁と

『私的な優生学の時代が来る?』本書46頁部分ご参照のこと。)

またとりわけ、親による出生前診断や

出生後から成人到達期に至るまでの

子どもの成長期間における性差に関する感性や

社会的にどう向き合っていくかの判断/選択姿勢が

未成熟な段階における『私的』介入につき懸念される点が

あることに注意喚起がなされています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

③『第3章 行動を支配する薬』

※本章ではこれまでの精神病理の原因のうち

生理学的要因と心理学的要因だとされていたもののうち、

後者の『心理学』的要因だとみなされてきたものが

認知神経学や神経薬理学といった主に生化学的基質に関する

大いなる研究業績の発展によって生理学的に解明される志向へと

変化していった模様が提示されます。

そして第5章で詳細に語られる遺伝子工学による

生理学的『操作』を伴った治療改善よりも先に

薬理学によってもすでに相当程度まで

それまで『障がい』とされていた事例が解決されていく軌跡が

解説されています。

何をもって『障がい』と定義づけられるかも

こうした精神医学や製薬業界、当事者自身の対社会的『障がい』認識の

違いによって大きく様変わりしていったのです。

この社会的『需要』に介入したり、『需要』そのものを

あらたに創造していく契機が出てきたことが

ますます混乱に拍車をかけていく駆動力ともなっていったのでした。

このことがたびたび政治的騒動を巻き起こす原因にもなった点が

指摘されていくことになります。

各種向精神薬にまつわる話題についてはそれぞれの本章該当論説に

委ねさせて頂きましょう。

ことに『自尊心(感情)』や『承認欲求満足』にまつわる

薬理学的治療介入が旧来の人間観に依拠してきた

政治的/道徳的影響にまで拡大してきた模様と

将来的にさらに予想される点が提示されます。

ここから本章の読みどころ

・『三つの政治的流行』(本書62~63頁)が

示唆している部分にあるものと評価されましょう。

そして薬物のいわゆる『合法化/非合法化』を巡る議論が

混乱していく核心的理由などについても触れられています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

④『第4章 寿命の延長』

※本章もまた世代間を巡る政治的混乱にも発展しかねない

様々な問題点を提起することを通じて、

いわゆる『長寿化』社会における社会的価値観を巡る

深刻な分断と利害対立が引き起こされていく懸念について

示唆されることになります。

最近の話題でも『大炎上』事例となったことが象徴しているように

これまでの年功序列/終身雇用型ですら想定していた『定年制』

少子高齢化によって人手不足を補うためだけの大義名分で

単純に廃止縮小して生涯現役化社会実現志向で

乗り切っていけばよいのかも

社会保障政策の失敗事例とも相まって

今や泥沼、袋小路に入ってしまった感があります。

従来もこれからの雇用労働の在り方でも

価値観やそれぞれの社会的『需要』面に適応させた

『定年制』の廃止・延長があっても構いませんが、

もはや身体的/精神的にも働く気が失せる兆候が

自他ともに明らかにもかかわらず、

働かせておかないと社会的/政治的にも支障をきたすとの

固定観念をこそ覆すべき視点を提供する論点でもありましょう。

このあたりの問題点は直近の選挙においても

国民共有の争点認識として大いに論争を盛り上げて

衰退途上にある国内外(とりわけ、我が国の次世代のため!!)に

ふたたび『活性化』の植樹が果たせる機会になるべく

あらためてエッセーコーナーにて語らせていただくことに

しましょう。

ということで、本章が示唆する諸論点でも

政治的影響力の観点からする

・『投票者集団としての高齢者』問題

・『長寿化が引き起こす社会的衝突』問題

・『先延ばしにされる世代交替』

・『政治・社会・思想の停滞』(本書73~79頁参照)

に関する問題はいわゆる社会的な『動脈硬化』や

『新陳代謝機能の衰え』がもたらす

人間的な有機的『活力』が湧き出てくる源泉をも

枯渇させかねません。

バイオテクノロジーの助力を得て長寿化社会を獲得したとしても

いつまでも『延命』できるとなれば

人間生活における『質』がどうしても低下していくことは否めません。

いや、テクノロジーのおかげで認知症対策や高齢化に伴う

あらゆる老衰化現象を予防できるから

そのような懸念こそ『杞憂(心配するには及ばない!!)』だとする

ご意見も出てくるでしょうが、

このような現象が多発化してくると、

生物としての人間のあり方も根本的に変わってくるでしょうし

(もはや子孫を生み育てる『生殖』を伴う恋愛/結婚などの

諸活動。もっとも子どもを『持たない』自由もありますから

そのような価値観を強要する意図で語っているわけではなく、

従来の一般的な人間が将来のいちおうのライフサイクルとして

想定されてきた典型的発想として例示させていただいたまでです。

まるで同世代の売れっ子作家であられる村田沙耶香氏が

思考実験小説で描かれるような世界観ですが・・・。

彼女の作品からも毎度触発されることが多いですよね。

真に賢くあるためには『Be Crazy』な『ぼっちな』時空間感覚を

研ぎ澄ますことも大事なんだよなぁ、と妙な説得力をもって

納得させられてしまいそうになるからほんま不思議な魅力あふれる

文体なんですなぁ。かなりグロテスクな描写もあって

思わず仰け反りそうになることもしばしばですが・・・。)、

現代テクノロジーの恩恵をたまたま享受し得るだけの

恩恵や強運(経済的/社会的優者)を兼ね備えることが出来た者だけが

いくらでもお望み通りに生き延びることが叶うとすれば

もはや歴史的感覚性や先人に対する敬愛感情も

社会的責任感(多種多様な人間との共生観や生態系共有意識など)も

希薄化していく恐れがあるとも仮想されます。

その仮想が暗示する点は

かえって生き残った種族繁栄の観点からも好ましくない事例が

多発するかもしれないという

今からでも考えあわせておかなくてはならない

先決的に重要な政治課題でもあるだろうということですね。

そのあたりの課題論点が

本章の以下の論考文でも提示されています。

・『生活の質が低下し、身体だけが生き続ける』

(本書81~82頁)

・『テクノロジーが提供する生命にしがみつくか』

(本書84~85頁)

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⑤『第5章 遺伝子工学』

※本章では、いわゆるヒトゲノム解読研究の成果を受けて

将来予想される遺伝子工学による人間『改造』志向によって

懸念される諸問題点について考究提起されています。

著者によると遺伝子工学そのものよりも

その前段階にあるいわゆる優生志向を強く持った

命の選別問題の方にこそ深刻な問題が生起し得る点に

着眼されているようです。

着床前の遺伝的診断とそれによるスクリーニング(選別排除)が

その代表例であります。

後の第Ⅲ部でより詳細な検討考察がなされていきますが、

ここでは国家による規制を認めたうえでも

なお『私的』な民間企業研究レベルでは

いくらでも抜け道が出てくる事例がある点に注目されています。

もっとも国家レベルでも警戒しておくべき点があることについても

触れられています。

本章における重要着目論点について、

以下引用してご紹介しておきますね。

『ヒト遺伝子工学より早く完成をみそうなテクノロジーには、

クローン人間がある。(中略。管理人注:この部分で民間企業による

国家資金を受けない形態での実験研究には依然として合法的であったり、

グレーゾーン領域が遺されている点があることが示唆されています。

事例は米国クリントン政権時代のことであるために

現在では当時よりもさらに深く高度な議論が積み重ねられており、

公的規制も整備されていましょう。ただその場合でも

私企業独自の倫理方針は千差万別であろうし、各種業界団体による

政治工作=ロビイング活動によって規制緩和される事例も

多々あるだろうということです。)

クローン人間に関する技術的障害は、着床前診断あるいは

遺伝子工学に比べると非常に小さいため、

人間で実験することの安全性と倫理性が問題になる。』(本書90頁)

※この点に関してはさらに次の小見出し項目である

<「人間の性質」は変わるのか>と<科学技術のスピードは予測不可能>

(本書93~95頁)にて解説されています。

次に深刻な事例として次の点が語られています。

『今日の生命倫理学者が共通して口にするのは、この種の遺伝子工学を

利用できるのが金持ちだけに限られる、という懸念である。

しかし未来のバイオテクノロジーが、たとえば知能の高い子どもたちを

遺伝的に作り出す安全かつ効果的な方法を生み出したとしたら、

問題はかなり軽減される。このシナリオで、進歩的な民主主義福祉国家が

優生学のゲームに再び突入するかもしれない。

今回は、IQの低い子が生まれないようにするのでなく、

遺伝性障害を持つ人たちが、自分と子孫のIQを上げるために

遺伝子工学を用いるのだ。

こうした状況では、国家が、テクノロジーを安価に、誰でも利用可能に

保証することになるから、人口レベルの影響が生じるだろう。』

(本書97頁)

さらに遺伝子工学による影響がどのように生起してくるかが

不透明であるという最重要注意点も指摘されています。

(『ありがたくない副作用』本書92頁)

この論点はまさに現在進行中の新型コロナウイルス対策ワクチン接種が

もたらす将来的影響の問題点なども喚起され、

情報が錯そうしているために、ここでは慎重を期して

独自見解などは控えますが、なお特に今回注目されて

有名になった『メッセンジャーRNA』についても

若干触れられていましたので語らせていただきました。

ここでは本章でも引用されている

エドワード・О・ウィルソン博士の貴重なお言葉を

ご紹介しておきましょう。

『環境でもそうだが、遺伝においても、何かの行為をすれば、

その一回だけというわけにはいかない。遺伝子が突然変異を

起こしたり他の遺伝子によって取り替えられたりすると、

予期せぬ、ありがたくない副作用が起こりうる。』(本書92頁)

新型コロナウイルスとワクチン接種情報については

なお慎重な姿勢でもって接していく必要がありますが、

公的情報がいくら信頼できると強調されていても

こと『生命の複雑なありよう』について未知の領域があり、

場合によっては深刻な後遺障害や死に至るおそれもあることから

簡単に鵜呑みにしてよい話ではないことは当然でありましょう。

将来を担う青少年層にとりわけ深刻な不安感情や

不信感があることも一概に否定し去ってよいものではないのです。

この点につき、接種者/未接種者の間で不当差別につながらないような

政策が期待されているのです。

このあたりの論点についてもあらためてエッセーコーナーにて

許容されると感受される範囲で語らせていただきましょう。

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⑥『第6章 なぜ不安なのか』

※本章では、本質問題が語られることになります。

『結局、なぜバイオテクノロジーが人々にかくまでも

脅威感を掻き立て、不安にさせるのだろうか?』ということです。

そこには、人間『観』を巡る深刻な哲学的、生理心理学的対立が

出てくるからにほかなりません。

そして、バイオテクノロジーを用いた人間『改造』志向も

過去の優生思想がもたらした忌まわしい記憶から

国家や社会的淘汰圧のような公的関与によるものは

すでに現在では一部を除き敬遠されてきた(いる)ことから

一般的にイメージされてきた古典的優生論に対する反論だけでは

通用しない世界へと静かに進展してきたことこそが

実は『目に見えない』脅威感を増幅させるという意味で

さらなる不安感を掻き立てていく推進力となっているのでは

ないかとも推察されます。

それが『私(個人単位)的』な自由選択に基づく優生志向だといいます。

この自由な私的選択にはなかなか反駁しにくい思潮や風潮が

現在では堅固に構築されてきたからでもあります。

(『従来の反論はもう通用しない』本書101~103頁ご参照のこと。)

論争事例にまつわる解説をしていると煩瑣になり前に進みませんので、

ここでは重要論点事項の引用のみにとどめて、

その延長線上の課題につきましては第Ⅱ部、第Ⅲ部の

それぞれの関連項目につなげた要約論評へと

委ねていくことにいたしましょう。

『優生学を個人が自由に進めていくならば、話は別だ。』

(本書102頁)

『今後、人に優しい穏健な優生学が、両親個々で選択する問題になれば、

国家が国民に強制する類のものではなくなる。』(本書103頁)

『したがって、ヒト遺伝子工学に対する反論はいろいろあるものの、

国家による支援によるのは危険だ、とか政府が強制するからだめだ、

とかいった理由に縛られるべきではない。(中略)

新しい人間の繁殖に対して反対しようとするならば、個々の親が

自分の子どもの遺伝子構成を自由に決定していけない理由を、

まず説明しなければならない。』(本書104頁)

というわけで、著者はその反対論として

次の3説のうち①と②を本章では

主として概観批評していくことになります。

①宗教的理由

②功利主義的理由

③(②を除く広い意味での)哲学的観点からする理由

①と②に関する概説を簡約してみましょう。

まず①について。

今日では一般的に宗教的理由よりも啓蒙的理知主義を根拠とした

理屈付けの方が好まれ、説得力があるように

少なくとも近現代以後の『知識人』認識共同体内での

暗黙の了解事項となっているかのように評価されますが、

著者によると必ずしも宗教的立場からの反論を

安易に否定されることはなく、客観的公平な観点から

このような見方も受容されています。

一方で、一見して『理知(性)的』に評価される見方による

反論にも暗黙の仮定としての世界『観』は含まれているのであり、

これが必ずしも信仰と科学とのあいだに断絶した論理性を

保持しているわけではないことも明証されています。

この見方は第Ⅱ部における各種思想による

『人間性』を根拠立てている理屈と背景心理などを検討批評されていく

著者の姿勢を知り、理解していく点でも重要となってきます。

『宗教が提供するのは、ある種のテクノロジーに対する

最も単純明快な反論で、それに尽きる。』(本書106頁)

『宗教は、ある種のバイオテクノロジーに反対する最も明解な

根拠となるけれども、宗教のそもそもの出発点と前提を受け入れない

多くの人たちを納得させることはできない。』(本書107~108頁)

②については、

功利主義的見方は『目に見える』範囲での価値を評価する点では

意義があるとしても、『目に見えない』価値については

あまりにも脆弱な結論しか見い出せないばかりか

時として『有害』ですらあり得る・・・と。

その点を経済(市場)理論でもしばしば引き合いにされる反証事例である

『マイナスの外部効果』論を類推イメージ手法として活用しながら

問題提起されています。

『バイオテクノロジーの利用に関する個人の選択が、

マイナスの外部効果をもたらし、社会全体に損害を与えるようなことが

あるだろうか。-これが問題なのである。』(本書109頁)

また、<親の嗜好を次世代(子ども)に埋め込む行為>(本書110~

113頁)いかなる根拠で正当化されるのかという観点からも

倫理的に問い詰めていかなければならない重大問題も

残されているのだと提起されています。

第3章までの遺伝子工学による『直接的操作』に至る以前の

それぞれの検討事例も個々様々に問題はありましたが、

途中で『断薬』するなどの道を選択することで

損害を抑制させる可能性もあったものの

遺伝子に直接介入する道に入ればもはや引き返せないほどの

致命的損傷を与えかねない危険性もあることが懸念されます。

さらに遺伝子工学の場合には世代間をまたぐことになるために

選択者個人だけの責任では済まなくなるわけです。

しかも、自分だけが優位に立てるものと信じて施した

優生学的遺伝子操作が実は当人にとっても中長期的に見ていけば、

それほど有利に働くとも限らないだろうことも示唆されています。

『マイナスの外部効果は、人の活動と特質の多くがゼロサムゲームで

あることにも関係がある。(中略)

相対的に有利というだけで、決して絶対的ではないからだ。』

(本書114頁)

そのうえで、進化論的観点からも

このような功利主義的理屈付けに反駁していくあたりも

なかなかに刺激ある読みどころになっています。

(<環境適応の無情な論理>本書115~116頁ご参照のこと。)

『重要なことは次のことだ。国家が強制するのでなく、親が

優生学的選択を行うかぎり、悪い結果が起こると心配しなくていい、

という自由主義者の議論に対しては、懐疑的でなければならない。

自由市場はたいていうまく働くが、しかしそうならないこともあり、

政府が介入して正すべき場合もある。マイナスの外部効果は

放っておいても解決しない。外部効果の程度は今の時点で

わからないが、市場にも個人の選択にも関係がないと

片づけるべきではない。』(本書117頁)

いずれにしましても、『目に見える』領域範囲だけでしか

損得評価する物差しがない、超絶個人主義的な見方からの

正当化は『社会的』生物として共生していかざるを得ない性質を

有する『人間』にとっては反論根拠としても乏しく

幅広い『合意』を取り付けていくうえでは

いまひとつ決定打に欠ける視点だということですね。

もっとも『功利(主義ではない!!)』的見方もまったく役立たず、

すべてがすべて超絶個人主義志向に立つものばかりかといえば

そうでもない点にはご留意願います。

ジョン・スチュアート・ミル氏のような

『他者危害の原則(自分の振る舞いで他者を傷つけてはいけない。

自分がされたくないことは当然ながら他人もされたくないだろう。)』を

大前提とする論者もあるからです。

『功利』という表現に誤解要素があるようなので、

いわゆる受容可能な良質な『功利』思想の内実には

公平な天秤棒感覚というのか、ある種の『等価性原則』が

中核思想に据えられていることが多いことも語り添えておきましょう。

まとめますと、『人間性』の根拠となる哲学/道徳的見方をなす

近現代的発想には限界があり、自然に対抗して『人間』進化が

なされていったとする『理性』に極端に偏重させた

『反』進化論的、もしくは、

『目的合理』的啓蒙

(上から目線姿勢!!と仮に名づけておきましょう。)志向によらない

最近の行動心理学や進化倫理学などの知見も含めた

より『人間』の行動姿勢に接近させていく研究成果も踏まえつつ

前近代には通用していた素朴自然観に基づく見方も否定せずに

『人間性』の道徳的意義やその道徳意識面における根拠づけを

さらに深く探求考察しながら、

これから起こり得る近未来時代に人『類』はどう対処していくべきかを

問い続けていくことになります。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

・『Ⅱ―人間の根源へ』

⑦『第7章 人間の権利』

※本章では前章末尾での問題提起(『バイオテクノロジーと「人間性」』

本書119~120頁)を受けて「人間性」の根拠を形成してきた

政治哲学的観点や権利『観』に関する現代までに積み重ねられてきた

議論について横断的に俯瞰しながら考察批評していくことになります。

本章要約論評に進む前に重要な論点提示となりますので

少し長くなりますが上記問題提起箇所を引用しておきますね。

『人間の権利と人間性のつながりは、しかし明快なものではなく、

現代の哲学者たちによってさかんに否定されてきた。

人間性は存在しない、仮に存在するとしても、正邪のルールには関係ない、

という議論である。独立宣言以来、自然権という言葉は使われなくなり、

もっと包括的で自然の理論に由来しない「人間の権利」という言葉が

好まれるようになった。

人間性に基づく権利の概念を重視しなくなるのは、哲学としても、

日常的な道徳問題としても正しいことではあるまい。

人間性によってこそ、我々は道徳意識を持ち、社会の中で生きる

ための技能を身につけていける。

人間性が根拠となるからこそ、権利、正義、道徳性について哲学的に

議論することができる。

究極的にバイオテクノロジーの進歩によって問われるのは、

将来の医学技術による功利主義的計算だけではない。

歴史以来常に存在してきた、人間の道徳意識の根拠そのものである。

ニーチェが予言したように、我々はこの道徳意識を忘れるように

運命付けられているのかもしれない。

しかしそうなったら、本来の人間性による正邪の基準を捨てた

結果を受け入れ、望まない社会になるだろうことを

認めなければならない。

しかし、この未知の世界がどんなものかを考えるには、

現代の権利理論を整理し、政治において人間性の果たす役割を

理解しておく必要がある。』(本書119~120頁)

いずれにしましても、「権利」という言葉にまつわるイメージ像や

その根源となる由来などに関する説明/解釈が論者によって

多種多様に著しく異なるためにこの種の議論において

大混乱を招き寄せることになり、現実政治の場におきましても

しばしば議論がかみ合わない点が多々生起してきているということでも

あるわけです。

特に特定の「人権」にまつわる深刻な問題が絡む問題においては

その法律(案)作成過程におけるその『対象範囲』を巡る

激しい政治闘争が頻発してきた(いる)こともそうした点に

いち原因が含まれていたということですね。

『<権利>とはそもそもどこまで人間によって<拡張可能で

創造することが許されている>のでしょうか?』

実はそれほど『自明』の原理ではないのです。

よく学校の政治経済や公民の教科書などでは

我が国の福沢諭吉翁によって提示された

『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』(『学問のススメ』)

などを引き合いに『天賦人権論(人は生まれながらに=生来的に権利が

与えられている)』としてあたかも古来から『普遍的』真理であったかのように

浅く解釈され、講義されてきたようです。

しかし、「権利」を巡っては人間の本質や世界観を巡る

深刻な分断と対立が繰り返されながら、

現在に至るまでなおも『生成途上』にある点こそが

実は政治的意識をもってこの世界に参与していく際には

重要な見方として必要になるわけですね。

そして、この権利「拡張」意識は一見して「進歩」的で

正しく良きことのように感受されるわけですが、

ここに実は大きな「罠(落とし穴・争いの泥沼化)」となる

悪因も潜んでいることも忘却し去ってはならないのです。

人間が多種多様な政治意識(思想/信条)を持つことは

現在では当然とされているように思われますが、

世界各国を眺めれば「自由民主」体制にあると

いちおう評価される国々においてすら

社会維持存続発展のためには一定程度「公共の福祉」のために

人間相互間の「権利」を制約し、そのことによって

自覚的にではなくても微調整がなされることを通じて

我々は日常生活を何とか安心して暮らすことが出来ていることも

真実相だということですね。

『譲り合いの心』

『お互いさま』

『おかげさま』・・・

などといったことも

放っておけばなんでも好き勝手なことを言動し合って

自由気ままな生活が野放しにされていくとなれば

永遠の分断対立闘争の修羅場という『無間地獄』になってしまうからです。

そこで、先人は人々の『間』に社会や国家を形成するために

納得し得るいちおうの理屈として(疑似合意、暗黙の了解事項)

ここに『(合同)契約』をもって創始根拠としようではないかとの

発想を提示していったのです。

そうした発想(政治哲学思想)を『社会契約論』

呼びならわしてきたことは皆さんもご存じでしょう。

この程度のことは曲がりなりにも『義務』教育を

いちおう修了している者であれば、

難しい屁理屈など深く知らずとも社会で生きていくための『常識』とも

言える知識だとされている(きた)わけですが・・・。

さはさりながら、いくら優れた先人が

このような理論的仮説提示を立てたとて

現実社会や国家の真実相がこのようになっているのでしょうか、

権力状態のあり様などは・・・と興味関心を持たれた方は

優れた直感洞察力をお持ちだということに自信を持って下さい。

このような分野に興味関心を持ちますと、

たいていは法学や政治学に進む傾向が出てくるわけですが、

実際の大学教育現場ではこんな『きな臭い』ことは

さらっと流して一般教養レベルのものとして

すぐにも神棚に祭り上げられてそれ以上深い探求考察に

進むような講義はまぁ通常は期待されません。

そんな『政治的に正しい』現代高等教育に不満足感を

抱かれている方には漫画『北斗の拳』や『鬼滅の刃』をはじめとする

<政治的には正しくない?>バイオレンスアクションものを

じっくりと心ゆく(腹の底から得心できる=『わかる』)まで

深読みされることをおすすめします。

こうした漫画本を決してバカにしてはいけないのです。

真に『学問』を深く進めていくためには。

漫画にはこうした考える素材、日常生活に潜む『謎解き』を

促してくれる魅力あふれるテーマが盛りだくさんですから。

迂回道に入ってきました。

ここでは「人権」がテーマでしたが、

手塚治虫漫画もそんな優れた一冊であります。

閑話休題。

ということで、手塚治虫の話題がでたところで、

人類がバイオテクノロジーと共生せざるを得ない近未来を

迎えるにあたり、新しいタイプの権利『観』も

絶えず創造批評していかなければならなくなった時において・・・。

あらためてこれまでの権利『観(理論)』をざっとおさらいしたうえで

次の段階に進んでいく際の考える『手引き』を準備しておこう・・・。

その問題意識が本章での主題だということです。

詳細な分析批評考察の軌跡につきましては煩瑣になりますので

本章の各論考文に委ねましょう。

著者も第1章での語りにおいて、

『第Ⅱ部は、人間性を操作する可能性によって生じる哲学的問題を

取り上げる。(中略)

政治学の理論に関する議論を好まない人は、この章を飛ばして

いただいてもかまわない。』(本書20~21頁)

とわざわざご丁寧にも一般読者向けアドバイスをして下さっている

のですからねぇ・・・。

とはいえ、それだけでは読者様に不親切となりますので、

著者が本章で強調される特徴的論点提示については

引用しておきますね。

ここでは『権利はどこからくるのか』(本書129~130頁)に

ついての3つの説(①神授の権利=宗教=神学的理屈付け、

②自然の権利、③現代の実証主義者的権利ともいうべき、法と

社会的慣習に位置けられるもの)を取り上げながら

①は現代では一般化される命題としては

すでに受容されることが少なくなっているために

特に②と③に焦点を絞って比較対象考察しながら

自説を提示していくことになります。

ところで、著者がこれからする政治哲学批評の意識には

そもそも「自然状態」における人間の本来『性』とでもいうべき

『である』とそのようなむき出しの『性』だけでは

社会形成のうえで支障が生じてくるからこそ

何らかの「規範(ルールや権利)」を設定『すべき』という議論が

出てくるわけですがその『間』には相当な距離感がある。

この『~である』からは『~すべし』との直接的命題は

導き出せないとの説がよく倫理学などで引き合いに出される

議論となるのですが、

まさに現代の多くの学者に好まれてきた

この種の『思い込み(偏見)』仮説にこそ

果敢に切り込まれていく点にこそ著者の真骨頂があります。

つまり、

『人権=自然に基づくとする立場への批判(管理人注:つまり、

上記『~である(自然)』からは『~すべし(人権規範)』は

導き出せないという命題論理を指す。)は、(中略)

その論点は、自然や本性では正義、道徳性、倫理を哲学的に

語るまともな基盤にならないということだ。』(本書130頁)

この見方に対して著者は厳しい問題提起をされていくことになります。

『私はこう考える。人権=自然主義は誤謬とする立場は、

それ自身誤解である。哲学が、権利と道徳性の基盤を自然に

置いていたカント以前の伝統にぜひとも戻る必要がある。

しかし、この議論を詳しく述べて、自然権の排斥がなぜ誤りかを

説明する前に、第三の権利の源を見ておくべきだろう。

これは実証哲学的といわれるようなものである。

第三のアプローチの弱点こそが、自然権という概念を

取り戻す必要を思わせる。』(本書130頁)

この「実証哲学的といわれるようなもの」とは、

先にも触れました『③現代の実証主義者的権利ともいうべき、法と

社会的慣習に位置けられるもの』に該当するものです。

言わば、『人間自身』によって導き出されるもの。

つまりは、『理性』というものを強く前面に押し出していく

見方ともいえましょう。

②自然に由来する『人間』存在に先立つ

人間経験や文化習慣に必ずしもよらない『理法』とでもいえる

自然法。

これによって、『普遍的かつ決定的』な権利意識を設定できる。

これが『天賦』人権的発想にもつながり、

現在でも信じられているかのように公式教科書などでは

教わったようにも感受されるのですが、

どうも現代の人権擁護者や「権利」にまつわる哲学的根拠を

導き出してきた知識人たちは必ずしもそのようには

考えていないような点に議論の混乱やわれわれ一般人の

これまでの人権『観』と大いに食い違うようなところが

多々でてきて理解の妨げとなってくるようですね。

本章から示唆されていく著者の立場(「権利」を根拠づけていくに際して

より納得できるものと信ずる発想)は②の

『人権は自然あるいは自然法に基づきうるし、

また基づくべきだという概念』(本書130~131頁)に

信頼性と積極的価値を見出す姿勢であります。

この立場からの具体的『定義づけ』主張につきましては

まだ本章では語られずに次章以下に回されることになりますが、

その主張の前段階として、

本章では③アプローチ(とりわけ、その代表例として

『功利主義的倫理学』に基づく損得勘定による

計量可能性に比重を置く見方や人間『理性』を

感情や欲求といった人間本来の性格=人間『本性』に現れる

特徴的な自然性よりも優位に立たせた見方を採用してきた

特にカント以後の『啓蒙(教育重視説=教育や習慣づけを

通じて人間は<どこまでも完全になり得る>=極端な可塑性を

信ずるような見方)』的発想)を

現実政治の中で生起してきた権利「侵害」事例(ここでは某国などに

象徴される普遍的人権論に対するある種の文化相対主義的発想に

基づく「内政干渉するな」的に正当化されるととたんに脆弱性が

現れてしまうなど。)などを引き合いに

『実証主義的アプローチ』について批評的論証を加えていきます。

言い換えますと、これら現代に至るまでの『実証主義的アプローチ』を

好んで人権論を主張してきた論者による『方法論』では

そもそも『人間本性』論からの根拠づけを回避しようとの意図から

組み立てられてきたにもかかわらず、どこかに『人間性』についての

仮定が忍び込んでしまう、しかも、その自己撞着(矛盾)性を

客観的公正な装いをもってうまくはぐらかす(というと語弊も出てきますが)、

どうしてもそのような違和感が生じてくるのではないかといった点に

現代「権利」論に潜む弱点なり問題点があるのではとの

問題提起を著者はされていくわけですね。

そのあたりの問題点が特に<人間性についての仮定>(本書139~

142頁)にて強調示唆されています。

いずれにしましても、現実社会における生身の人間による

「権利」や「道徳観」、さらには「価値意識一般」についても

実際には誰しも『優先順位』をつけてきたわけですが・・・。

ここで、『社会的』生物としての人間性とその根源にある

人間『本性』の真実層からもういちど

現代の「権利」論一般に広く見受けられる「毒素」を摘出して

人『類』(「個人主義」に狭く偏ってきた、偏ってこざるを得なかった

これまでの「権利」根拠づけアプローチからの「個体」重視型発想を

脱却していく道)全般を貫く公正妥当な『普遍』的権利『観』を取り戻す

試みを考えていくことになります。

できるだけ「無理のない」ような素朴自然観に基づく

人間『本性』を真正面から見据えた権利論を打ち立てていくことが

かえって回り道になるようでも人『類』普遍性にも見合った

包括的権利観念、意識の『共有化』を図っていく道ではないかと

考えられているようにも感受されるのです。

ここで、「権利」観(論)を根拠づける政治的左右のそれぞれからの

アプローチや発想・見方を全面的に否定しているわけでは

ないことを念のために強調しておきます。

ただ、従来の権利論争を見ていて

よく右派は個人主義的かつ主観的感覚(情)を、

左派は集団主義的かつ客観(純粋)理性重視を重視してきたように

感受される場面も多々ある(我が国ではこの点に相当なねじれ現象が

しばしば生起してきますから余計にややこしくなる!!

例えば、日本国憲法における『公共の福祉』論や

私人間「権利」を調整するレトリック<便宜的言い回し・方便論>

としての「社会公共」論に基づく公平中立的立場にある

第三者機関による規制の意義/役割に関する論争に

見受けられる混乱事例など。コロナ禍が

今まさに実証してくれていますね。)わけですが、

現実的には相互に了解可能な点も多かれ少なかれあるはずなのですと

いう点をぜひとも強調しておきたかったのです。

このような政治的党派性や個人的嗜好性に極端に歪まない姿勢で

さらなる共通打開点を探る試みこそが、

分断対立を回避していく建設的な道だと深く確信するからです。

まとめますと、現代「権利」論がさらなる不毛な対立を深めていくという

自己矛盾にますます陥ってしまう難点をいかに克服していくべきかが

問われているわけですね。

すべてを『個人の選択と自律性』(本書144~145頁)に

任せていたら価値観対立の『調整(和)』など図れずに

袋小路の深みにどんどん嵌まり込んでいくよね・・・ということです。

『すべての感情は、そもそも主観的に経験される。

ではそれが互いに対立する場合、より客観的な価値を

どうやって決めればよいのか。ここで、人間性についての

伝統的哲学の説明が場面に登場する。』(本書136頁)

『義務論が終始擁護するのは、

本来の意味深い人生計画よりも、「選ぶ権利」、

これだけである。』(本書144頁)

『自分の人生設計を決める自由が良いことであるのは

間違いないが、今日理解されているような道徳的自由が、

唯一最重要の人間の善であるかどうか、多くの人にとって

そんなに良いことなのか、問うべきだろう。』(同上)

『進化によって、人間はコミュニティ内の人間関係に身を

置きたいと自然に思う、社会的生き物につくられてきた。

価値観は単なる恣意的構築物ではなく、集団行動をするために

役立つ。人間はまた、価値観と規範を他人と共有しているという

事実に、大きな満足を覚える。唯我論的な価値観を持つと、

結局自らの目的までがつぶされ、人々が共通の目的を持って

ともに働くことができない機能不全な社会を招いてしまう。』

(本書145頁)

さらにその問題点を深く考えるためのヒントが

以下の諸論考文であります。

ここまでの管理人が著者の主張を読み取りつつ、

強調して語っておきたかった内容の核心部も

ここにあるものと強く感受されたからです。

<暴力の構造>(本書146~147頁)から

『「人権=自然」主義を誤りとする、もう一方の議論についても

見ておこう。権利が自然から引き出せるとしても、自然は

暴力的で攻撃的、残虐で互いに無関心である、という議論である。

少なくとも、人間性は競争と協力、個人主義と社会性、といった

矛盾した方向性を指しているのだから、何か一つの「自然な」行動が

自然権の基盤となりうるだろうか?

私ならこう答える。人間性を人権にそのまま翻訳することは

できないにしても、人間の目的についての合理的議論、

つまり哲学が両者の間を媒介している。数学的に証明できるような

真実にはつながらない。そういうわけで、議論しても実りのある

コンセンサスすら結ばないこともある。

しかしこの議論によって、権利のヒエラルキーが確立できる

ようになった。また権利の問題への回答の中で、これまで政治的に

力を持ってきた類の回答を受け入れないですむ。』

<矛盾する性向>(本書147~148頁)から

『暴力は人間に自然なものかもしれないが、暴力を抑圧し、

他に向ける性向もまた自然なのだ。こうした矛盾する傾向は、

対等でもなければ、あらかじめ優先順位があるわけでもない。

一つ一つの状況にあたって合理的に考え、そこから人間はルールや

制度をつくり、暴力を制御する必要があることが理解できる。』

をそれぞれ抜き出し引用しておくことにします。

また最後に著者は政治思想だけでは人間性に関する概念を

理解するには足りない点にも注意を促されています。

ここでは『種』としての人間にまつわる話題を通じて

『進化生物学』的視点から近年注目を集めるようになってきた

いわゆる<血縁選択理論>についても指摘されています。

なお、この<血縁選択理論>とは何か

以下に引用して補足説明しておきますね。

『血縁選択理論は、個人が自己の利益を追い、見知らぬ人よりも

家族や親しい友人を大切にする権利を重んじる政治システムを

示す。』(本書149頁)

前々回の書評テーマにも共通する論点であり、

左派の『水平志向』や右派の『垂直志向』とが必ずしも

まったく相反するわけではなく、

ただ『強い』連帯性を生み出しながら

進展著しいグローバリズムにいかに効果的に対応すべきか、

ことに崩れゆく『社会共同体』を無理なく再生構築強化を

図っていくにあたり実行可能性ある道を探っていく手がかりを

与えてくれそうな理論仮説でもあります。

悲しくもあり難しい人間特有のある種の傾向心理でも

ありましょうが、相互信頼確認を常に繰り返すことでしか

人間も生物としての共生関係を築くことが出来なかったのです。

生命侵害に対する恐怖感情は『個体』としても

『種』としても自己保存原理としても

自己の死生循環法則原理による存続発展の道を図るにあたっても

進化上やむをえない過程だったと推察されるからです。

とはいえ、あくまでもこの見方も数ある進化『論』仮説の

うちのいち見解にしかすぎませんが、

そもそもの進化の造化作用やその過程構造が

『なぜ』、『いかに』そうなっているのかは

現時点においても未知の領域が多く

その全貌把握がとてもなされているとは言いがたい状況も

確認しておく必要があります。

『人間という種はどんなものか、をじっくり考えることなしに、

人権について、ひいてはもっと全般的に正義、政治、道徳について

語ることはできない。といっても、ヘーゲル―マルクス的意味での

歴史が存在することを否定するつもりはない。

人間は、自己を変えることができる文化的動物であり、

ふるまい方も自由に決められる。

歴史は人間の認識と行動に大きな変化をもたらした。

狩猟採集社会のメンバーと、現代情報化社会の住人では、

全く種が異なるかのように見える。

人間の制度と文化的契約が進化したおかげで、人間の

道徳的態度も多様化した。

しかし、従来可能だったような自己改良も、

自然や人間性によって制限が加えられている。』

(本書149頁)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

⑧『第8章 人間の本質』

※本章からは前章まででまだ積極的かつ明示的にされていなかった

著者による『人間性とはそもそも何ぞや?』について

人『類』総体についての『普遍的』展望を切り開きながら

近未来における主に『バイオ(生物遺伝子操作)テクノロジー(工学)』との

お付き合いをいかに図っていくべきかを巡る具体的提案の

入口として『種』としての人間性を主題に据えての

『本質(性)論』についていよいよ迫っていくことになります。

現代の知識人、特に『自然(生命)科学』者においては

『人間』の他の生物に対する差異(特殊性や優位性。ことに後者は

まずもって嫌われています。本章ではピーター・シンガー氏による

立論提起の検討とともに考えていくことになります。)を

強調した見方や言説は一般的に忌避される傾向にあるようです。

『人間性の重要性を主張する陣営は旗色が悪く、逆に

反人間性の立場をとるものは元気がいい。』(本書152頁)

では、なぜそのような狭小な人間『観』が幅広く

科学者のあいだで浸透するようになってしまったのだろうか?

それは『種』に『典型的』にみられる『特徴』などと

語ってしまえば『遺伝的因子』優位説が想起されてしまい、

古典的な優生論的脅威感を呼び覚ましてしまう恐れが

出てくるからでしょう。

確かに、現在でも一部の極端な論者は

この点を強調して『不都合な真実(言ってはいけない)』として

煽情的な誤解を拡散してしまっている者もいます。

しかし、この『遺伝的因子』が個体の差異を形成するに当たって

『唯一』でも『主力』をなすとも判断評価し難い点もまた

多々『反証』事例としても提起されてきていますし、

基本的には『統計的誤差』の範囲内の問題として

扱われている(きた)のもこれまでの学説論争史の流れでも

あったわけです。

それは同時に前章までの要約箇所で語らせていただきましたように

『普遍性』という概念すら掘り崩す基盤を提供してしまったわけです。

『人間』という『種』属には

個体に現れてくる『部分的』側面と種全体的に現れてくる

側面が複雑多岐に絡まり合って成り立ってきたとみるのが

良識ある生命科学者の見解でもあり、

このような『遺伝子要因』と『環境因子』のいずれかに

極端な比重を置いて論じる視点こそ

この問題解決にあたって大混乱をもたらしてきた『元凶』でも

あったわけですね。

現代の科学者でこのような特に『遺伝子要因』説に

優位な立場を置く者は『無機』的生物観を有するようです。

これが遺伝子『工学』の世界観と親和的だからです。

一方で、従来からの良心と良識ある科学者は

『生』物という名のとおり、

生身の生きた『有機的』存在として探求作業を続けられています。

このあたりの分野は

まさに昨今の『ウイルス学』や『細菌学』の目覚ましい発展によって

その『生物』と『無生物』の<あいだ>論争として大変魅力あふれる

研究知見が続々と提出されてきていることは

皆さんもご承知のことでしょう。

このような昨今の研究動向も見据えながら、

『特殊性』と『普遍性』論争も注視していく必要があるということです。

そこで、本章では昨今の科学者業界に静かに流れる

このような狭小的姿勢からの批判的見方である

『普遍的』人間観批判に対する検証をしていくことになります。

詳細解説は本書該当論考文に委ねますが、

まずここでは、『統計調査』が示唆する内容をいかに読み取り、

解釈していくかを巡る注意点について紙面を費やして

語られているということです。

本章における中心論考は、

<では、人間本来の性質とは?>(本書162~163頁)からです。

伝統的な自然『観』を形成させてきたアリストテレスによって

示唆された見方を手掛かりに

現代ダーウィン派生物学体系が示唆する見方との接点を検討しつつ、

『人間性』のうち主として『種』に絡む『本質的特徴点』を

探る論証作業が続くわけですが、

ここからはその具体的事例問題として

『認識力(知性、理性の実際的あり方。)』について

ジョン・ロックが提示してきたような見方を

批判的に検証していくことを通じて

人間の『生来(潜在)的』道徳意識(認識能力)の

『実在性』について再評価を促す視点が提供されていくことに

なります。

このジョン・ロックはカントやルソーのように

近現代『啓蒙(ここでは仮に何でもかんでも後天的な教育学習によって

偏見が改善される!!との発想としておきましょう。しかしながら、

管理人も教育学習効果を全面否定するような素朴野蛮な見方は

好まず、採用もしませんが、最先端の認知行動心理学などの

研究洞察成果からかえって教育学習をその内容をよく吟味せずに

接種し続けていけば『偏見』バイアスが拡大強化されるとの

警鐘も鳴らされるようになってきたこともご存じでしょう。)』思想家として

絶大な社会的影響力を及ぼしてきましたが、

政治経済学でも最近ではかなり批判的に厳しく再評価を

促す動向姿勢が出てきています。

共同体(国家/社会)観の成り立ちや貨幣観の見立てなどについて

次々とロック氏によって提起されてきた発想が覆される

現象や事象が出てきているからでもあります。

このような我々が幼少期から教科書『公式』史観的に

『刷り込まれてきた』見方は日常生活するうえでも

『大苦境』をもたらしている(きた)のです。

なぜならば、人々を結合させる『信頼感情』を

性悪に捉え『すぎて』(逆に、ルソー的な極度な楽観論や

抽象的人間観も大いに問題ありですが・・・。)おり、

ともに社会形成を図っていくうえで

分断と対立も招き寄せ、不信感を増幅させてきた(しまった)嫌いが

あるからです。

しかも、ロックの社会契約論の底流にあるのは

本書でも示唆されていた(第7章ご参照のこと。)ように

フィルマーなどのいわゆる『王権神授』説批判が

その骨子だったからです。

『王権神授』説的見方は我が国にも見受けられる発想でも

ありますが、宗教と政治との関係性を巡る歴史観や

その『闘争』性についてあまりにも大きな隔たりがあるために

その見方(解釈のあり方)や一般受容の是非については

注意しなくてはなりません。

いずれにしましても、抽象的『仮説(物語)』の

実在的受容可能性については

よほどの思慮深さと慎重さが要請されるということですね。

これが前世期(今世紀もデジタルマネー=極端な

キャッシュレス万能社会観や

現代環境政策などの背景にある思想性にみられるように

現在進行中です。)までの歴史的教訓でもあります。

さて、少しロック批判を長々と語ってしまいましたが、

結局は人間『観』、

言い換えますと、著者が問い続けている人間『本性』論を

いかに根拠づけて、実在的に無理なく着地させていくかという

論証提示が本章での主題だったということでした。

それでは、著者の主張を引用しておきましょう。

『重要なのは、人間に典型的な行動や特徴に環境が影響するか

どうかではなく、どの程度影響するかである。』(本書160頁)

『人間は文化的な動物で、学習できるから、人間本来の性質と

いうものは存在しない、という議論は基本的な方向を誤っている。』

(本書161頁)

『包括的な定義よりも重要なのは、種に固有の特徴を探ることだ。

人間の尊厳という究極の問題を少しでも理解するには、これが

不可欠だ。』(本書163頁)

『今日、タブラ・ラサ(管理人注:ロックが示唆する『ヒトは何も

持たずに白紙状態のままで生まれてくる。出生後の後天的教育学習を

通じて人間生活に必要な諸情報が書き加えられていく!!とする仮説)

理論は、すっかり時代遅れになってしまった。認識神経科学と

心理学の研究のおかげで、脳は空白のままではなく、高度な

認識構造のモジュール器官であり、これはほとんどが人間に

独特のものである、とみなされるようになった。

生来の知識、あるいはもっと正確にいえば、種に典型的な

生来の認識形態と、認識に対する種に典型的な感情反応という

ものは現に存在する。』(本書164~165頁)

さらに根本的に鋭く重要な批評点が、

『ロックの議論が現実に合わないのは、定義の仕方にも原因がある。

ロックは、一〇〇人のうち九九人が共有していても、ただ一人が

持っていなければ、「生来」、あるいは「普遍的」とは言えない、

という立場をとる。本章冒頭(管理人注:本書151~160頁あたりまで

ご参照のこと。)の統計学用語を用いれば、「本質的な」、「生来の特徴」

とは、ばらつきが一切ない状態、つまり標準偏差がゼロでなければならない、

と言っているわけである。けれども、既に見てきたように、これは

実際にはありえない。』(本書165頁)

最後に、人間『固有』の特徴から見いだせる『本性』について

他の動物との関係性、ことにその連続/非連続性(境界線)を巡る

ここ近年までに展開されてきた議論ととともに

著者自身の見解が提示されていくことになります。

『我々の道徳的ステイタスを理解するうえで、人間とそれ以外の

動物の間にある差異が非常に重要である。』

ピーター・シンガーら動物保護論者が「人間中心主義」として

非難するものは、必ずしも人間の側の、自分勝手で無知な偏見とは

いえない。むしろ、人間の特殊性という経験に基づく、人間の尊厳に

対する信念そのものである。』(以上、本書171頁)

そして、次章からはバイオテクノロジーに対する最後の

人間側からの抵抗の『砦』でもある現代の生命科学者が嫌う

<尊厳>という言葉が示唆する意味合いを検討しながら、

第Ⅲ部の具体的政策提案について論旨をつなげていくことになります。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

⑨『第9章 人間の尊厳』

※本章ではバイオテクノロジーを筆頭にした

生命操作や人格改造といったこれまでは禁忌(タブー)と

されてきた諸技術革新の成果(ことに遺伝子操作に関しては

必ずしも過去に想定、実施されたような悪辣な意図をもった

優生学的差別排他観によらない、より良き志向性を持たせた

『底上げ』型が主流となっていくことも予想されている。

この論点については後ほど引用を交えながら語ります。)によって

古典的な『人間』存在そのもののあり方までが激変させられる

恐れが以前にも増してくる可能性が出てくることから

前2章までの議論を踏まえながら、

第Ⅲ部での議論に進む大前提として

なぜ『尊厳』という感覚が重要になってくるかという

根拠を問うていくことになります。

著者は米国人であり、

伝統的に西洋キリスト教社会を背景に生まれてきた諸思想を

原理基盤に据えながら発展を遂げてきたリベラルデモクラシー体制

において信じられてきた相互承認(『尊重されたいという欲望』本書

173~174頁)を共通了解事項に捉える視点から

『普遍的』な人間『本性』のありかを探求されてきました。

この『普遍的』価値意識としての『種』や『類』としての

共通感覚こそが人間性とその支えとなる『尊厳』を考えていくうえで

重要な問題意識となってきます。

各人各様の外面的『属性』にとらわれずに

そのような表面的『仮装』をはぎ取った後にもなお

人間誰しもに共通して残る『本性(本質的性格)』にこそ

社会的公平性を保たせる源泉があるものとみなして

政治的保障もなされてきたと少なくとも信じられて

発展してきたのが現代リベラルデモクラシーの特徴でもあります。

とはいえ、このような特殊な政治体制を背景とし、風土とする中で

生まれ育ってこられた著者は何も西洋特有の優越的立場から

人間の『普遍性』を導き出しているわけではありません。

あくまでもいかなる地域であれ、

『人が人として相互に尊重される』根源的理由を探ることを通じて

全人類に共通する(バイオ)テクノロジー社会との共存態勢を

いかに確保していくべきかと問題提起されるのが

著者の狙いだったからですね。

そこでこの『普遍的』人間性を考えていく素材として

本章では<X因子>と人間という種族の内外部を区切る<境界線>問題と

いったようなきわめて繊細にして敏感な論点を主軸に語りながら

人間の『尊厳』をどうして考え抜いておかなくてはならないのか、

またその根拠を探求していくことになります。

まず最初に<X因子>について以下に引用して

補足説明としておきますね。

『等しく認められたいという欲求から、こういうことが考えられる。

ある人の本質的でない、偶然による特徴をすべてはがしたら、

あとには人間本来の資質が残る。これはある最低限の尊敬に値する。

これをX因子と呼ぼう。

肌の色、器量、社会的階級や財力、ジェンダー、文化的背景、

生まれながらの才能さえも、みな生まれたときの偶然にすぎず、

非・本質的特徴である。

誰と友だちになるか、誰と結婚するか、取引するか、

社会的な場で誰を避けるかは、こうした二次的特徴によって決まる。

ところが政治の世界では、すべての人がX因子を持っているのだから、

平等に尊敬することが求められる。』(本書174頁)

しかしながら、この『X因子を持つ人間』という定義(対象範囲)こそが

歴史的にも、現在でも政治/社会的に大きな争点となってきた(いる)ことから

なお慎重に取り扱わなければならない

言わば『触らぬ神に祟りなし』問題だったのです。

『今日、人間は自由主義的に平等であると信じる人たちは、人類全体の

まわりを太く真っ赤な線で囲み、その内側にいる人はみなX因子を

持つのだから、すべての人たちに平等の尊敬を払うべきだ、と考える。

しかし彼らにとって、境界の外側にいるものたちは、尊厳のレヴェルが

低い。X因子は人間の本質であり、人間であることの最も基本的な意味である。

もし実際に、すべての人間が同じような尊厳を持つとしたら、

Xは人間が普遍的に持つ特徴ということになる。

では、X因子とは何か? これはどこからくるのか?』(本書175頁)

そこで、この『人間』としての本質的特徴をなすX因子について

他の動物や人工知能などとの大きな相違点を比較分析考察していくための

論点整理や各論者による見解について吟味していくことになります。

特に功利主義的に何でもかんでも要素還元的に捉えていく発想や

『政治的に正しい』とされるために批評しづらい平等主義者の

正直でない姿勢がもたらす逆説的問題点などを鋭く突くことを通じて

別形態での差別や階層社会への退行現象がもたらされるかもしれない

可能性を論じる点などは読みどころです。

(『ジーンリッチとジーンプア』、『人間について境界線が引けるのか』

本書178~182頁)

また、

①『「遺伝くじ」は果たして不公平か』

②『より平等な社会への可能性』

③『遺伝子による格差、遺伝子による平等』と

題する諸論考文(本書183~187頁)などは

先にも触れましたように最近の話題として

『大炎上』案件となったいわゆる『親ガチャ』論争について

特にそれを肯定評価した者への猛省を促すものとなっています。

つまり、『自分が親の立場であれば・・・という他者への

切換視点が著しく欠如した貧しい見方をしていると

やがて自分が人の親や指導者的立場になった時に

そのまま因果応報的に巡り巡って跳ね返ってきて

なぎ倒される運命に陥ることになる。

誰もあなたご自身を愛してくれる者などいなくなってしまうよ。』ということです。

①論点をご一読されれば、

むしろまだ『親ガチャ』に失敗した??なる者にも

成功した??なる者にもともにそれが単なる『偶然』にしかすぎず、

つまり、必然ではないわけですから、その『逆運』(とそのような評価を

された方は早とちりしているのでしょう。)とやらを

自力で挽回する余地も残されているのですから・・・。

それよりも恐ろしい現実が生起してくる可能性があるのが

すでに出生前の先天的時点で近未来に向けた

遺伝的次元における『改造』選択をされてしまった後には

もはや取り返しのつかない状況が待ち受けているという

問題であります。

さらに本章では、

著者も予想されていた『底上げ』型

(『かつての優生学は、障害を持ち知能の低い人たちを

差別して、子どもをもうけることを禁じたが、将来はより知能が

高く健康で、より「正常な」子どもを持つことを可能にする』

本書185~186頁といったかつての引き算方式とは異なる

『足し算』方式志向によるもの。そこで底辺という表現は

語弊を招き、差別を助長するので好ましくないですが、

底辺からの『底上げ』といったニュアンスで説明されています。)

による『改良』志向が

本当に期待するような(ほどの)効果をもたらしてくれるのかは

未知数のようだと強調されている点も重要です。

『遺伝子による格差と、遺伝子による平等。この二つのシナリオのうち、

どちらの可能性が高いかは、わからない。

しかし高度の生物医学テクノロジーが実現すれば、遺伝的不平等の

拡大が二一世紀政治の主要論点にならない、と考えるほうが

無理があるだろう。』(本書187頁)

と懸念を示されています。

そして本章の最重要論点こそ、

『では、何をもって人間の本質的要素だと評価すべきか?』

その点が残りの主題論考となってきます。

人間も『生物』であり、

とりわけ他の動物も保持する『社会性』以上の

人間『特有』の政治的『意識』の重要性が

『感情』問題(その起源由来の謎が最大着眼点)とともに

語られていくことになります。

ここでの主たるキーワードは

有機的生命体に特徴的な性格・性質を分析評価していく道具として

注目されてきた『複雑系』科学が示唆してきた

『全体は単なる部分の総和以上のものだ!!』という洞察教訓であります。

いずれにしましても、本章でも人間を含めた『生物』の

複雑な進化過程を従来の進化論者が提示してきた見方とともに

批判的検討がされていくことになります。

従来の進化生物学や進化論、進化史を論じてきた研究者の

おおよその主流的見解には

『進化の目的を問わずに、その<偶然性>を最大強調』するだけに

終始する姿勢があったことに

どこか『消極(冷笑)的』態度が見られるようで、

近未来の人間『種族』(現生人類)を

バイオテクノロジーに対する楽観的見方、

もしくは、楽観的ではなく時に規制すべきだと主張する論者であっても

中途半端性が見受けられて、

この新技術による人間に対する『改変』に対する

一抹の不安感を抱かせてしまう何かがあるとする点にこそ

著者は最大懸念をもって眺められています。

この論点につきましては、

①『人間らしさに欠かせないもの』

②『進化の過程の重大な飛躍』

③『何を守るべきなのか』

※この③に『X因子』についての著者の見解が

総括的結論として語られています。

(本書197~201頁)

そして、著者は人間性を基礎づける『本性』をやはり曖昧模糊の

状態にしておくのではなく、たとえ不明確で他の生物とのあいだでの

線引きが難しい場面が多々あるにせよ、

確かに自然権を根拠とした立場(自然の摂理からその本性を探し出し、

導く志向性)にはそのままの直接導入では

ある種の性格をもって生まれてこざるを得なかった人々を

選別排除する方向性へと導く恐れがあり、

現実の歴史でも多々あったことから、

その問題点(なぜ、大方の論者が自然権的アプローチに

拒絶反応を示してきたのかにも一定の理解を示されています。)をも

示しつつ、

やはり、『反』自然権的アプローチに極度に偏って

何でもかんでも功利(実証)主義的に解決を図ろうとする志向性に

『人権』(ことに政治的権利が付与される対象範囲を巡る

論争場面では厳しい対立状態が頻出してくる。)保護の観点からも

むしろ限界点が生じてくるのではなかろうか・・・という

素朴自然な感覚から人間の『尊厳』に関する根拠づけ問題についても

さらに深く再考を促す判断材料を提供されています。

その具体的不安点を想像考察していくうえで

事例検討を加えているのが、

①『子ども、病者、犯罪者の権利』

②『我々はいつ人間となるのか?』

(本書202~207頁)

の2論考文であります。

『教会はここ二世紀、現代自然科学から多くの知識を受け入れ、

教理をすり合わせてきた。多くの科学者たちは、教会から

何か学ぶことがあるとはこれっぽっちも思っていないが、

教皇のほうでは現在の進化論の弱点を指摘している。

科学者たちはこのことについて真剣に考えるべきだろう。

「人間とは何か」について現代自然科学が解き明かしてきたことは、

科学者が思っているほど多くはないのだ。』(本書188~189頁)

『意識という題目を立てると実にいろいろなものが含まれ、

現代の自然科学で解明できない人間の特殊性と尊厳を定義するのに

役立つ。(中略。※管理人注:ここで著者はジャレド・ダイアモンド氏が

名著『第三のチンパンジー』で提示された見解に補足意見を

提出されています。)

進化の途中で神が人間に直接魂を挿入した、という教皇の言葉に

同意しなくても、ある時点で重大な質的飛躍が―存在論的飛躍でないに

せよ―起こったことは受け入れるだろう。

部分から全体へのこの飛躍こそが、究極的に、人間の尊厳の基盤となる。

宗教的前提から始めなくても、この概念は認められるはずだ。』

(本書198~199頁)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

・『Ⅲ―今なにをすべきか』

⑩『第10章 テクノロジーの政治学』

※第Ⅰ部では人間にとってリスクある各種テクノロジーの現状把握と

その発展によって将来引き起こされてくるだろう予想図について、

第Ⅱ部ではこれから見ていく『規制』問題を考えていくにあたって

いかにその法理学面における合理的正当化を図っていくべきかを

『権利』論と人間の本質的性格をどのように理解していけばよいのかという

人間『本性』論を主軸に議論が展開されてきました。

これら一連の議論を受けて第Ⅲ部では

『では、いかに対処していけばよいのか?』を問うていくことになります。

本章では、まず『政治学』的観点からの

テクノロジーとの付き合い方を探っていくことになります。

本章での最大要点はテクノロジーに対する推進派と懸念派が

これまで一般的に展開してきた議論の進め方とその背景に潜む

志向性がしばしば両極端に対立することで

現実的な付き合い方に関する建設的な『合意点』を見出すことが

著しく困難になっていった問題が指摘されます。

そして、規制のあり方次第では確かに濫用されたり、

融通性が利かずに経済的観点からは非効率な面が多々出てくるといった

規制最小限派の意見に一定の理解を示しつつも、

ある種の社会保守主義の立場からその必要性の根拠を

冷静かつ合理的に正当化できる場合とその条件について

考えていくことになります。

『政府介入が合理的に正当化される場面とは?』について

考えるヒントを与えてくれる論点であります。

社会保守主義的観点(経済市場原理主義を信じずに

その適用対象範囲を区切り、いわゆる市場の失敗事例から

人びとの生活基盤を確実に保護して社会秩序を守る派)からと

新自由主義的観点(何から何まで『民営化』すれば、

すべての問題は簡単に解決できる派)からとでは

『国家(政府)』と『法律(規制手段)』の意義・役割に関する

思想まで大きく違ってくる点も

この論点提示から考えあわせておきたいところです。

『新しい(公益)』資本主義を掲げる新政権を組閣される

みなさま方にはぜひとも著者の慧眼から学んでいただきたいものです。

すでに21世紀初頭のいわゆるITバブルとそれに牽引された

ニューエコノミーブームで世間が浮かれ騒いでいた頃に

すでにこのような問題提起をされていたのですから。

また、ここでは著者自身によるレーガン・サッチャー改革時代に

対する一定の肯定的評価も交えたうえでも、

なお『国家(政府)』や『公的規制』の必要性と重要性が説かれている点に

昨今の『原理主義』的改革志向者との違いも垣間見られて

興味深いところです。

(『推進派も懸念派も方向違い』、『なぜ政府の規制が必要か』

本書212~214頁)

そして、現在のコロナウイルス感染拡大抑制対策を巡る

科学者専門家集団と実際の政策立案と決定を下す政治家集団との

攻防でも証左されているような

誰に最終的な『責任』と『権限』を負わせるべきかが

ここでも問われることになります。

その論点が、

①『決めるのは誰?』

②『政治的コミュニティが決めるしかない』

(本書214~216頁)

で提示されています。

本章でのバイオテクノロジー規制の具体的事例考察としては

ヒト・クローン禁止問題が主題に取り上げられています。

遺伝子組み換えなどの農業分野における話題は

次章でさらに詳しく語られていきます。

いずれにしましても、テクノロジー規制について

終局的には技術革新の加速度的変化に負けてしまうのだから

『妥協点』を探るといった安易な路線へと逃げ込むのではなく、

『必ず人類は賢い付き合い方ができるはずだから、

積極姿勢で膨張加速するテクノロジーに立ち向かおうではないか』と

著者は力強く語りかけられています。

とはいえ、規制に対する考えや人間や自然環境に対する倫理観、

世界観が各国、各地域ごとに大きく異なるために

簡単には『合意』に至らないことも予想されます。

そのうえで、この問題分析にあたる著者の視線も

どうしても米国人としての特殊西洋的偏見も

アジア人である我々には強く感受されてしまい

『ちょっと待ちなはれ!!』と反論もしたくなるところです。

西洋では規制に強く臨む傾向があって、

東洋では緩く臨む傾向にあるようだ・・・と。

『逆に制限が弱いのは、アジアの多くの国である。

歴史・文化的理由からバイオテクノロジーの倫理的側面には

関心が薄かった。(中略)

彼らの伝統では人間と非人間の本質を連続したものとして

見るため、人間以外の動物に深い同情を寄せる。

しかしこれは裏を返せば、人間の生命の聖性に

十分な敬意が払われないことでもある。』

<倫理性に関する世界の温度差>本書223~224頁

なるほどねぇ、先の章で確認しましたように

著者のようなある種の西洋人による自然観、人間/動物観では

ピーター・シンガー氏のような見方に多大な違和感を

抱いてしまうのもこうした感覚にあるのかなぁ。

いずれにしましても、ピーター・シンガー氏は

西洋では『異端派』扱いになっているようで、

比較文明論の観点からもなお検討すべき余地があるようです。

管理人はここで著者を批判したり、揶揄する意図で語っているわけではなく、

本章で著者が指摘されていましたような

国際的な規制合意への道はバイオテクノロジー問題に限らずに

なお険しいものがある・・・という

その共通理解の難しさについてあらためて考えさせられたという点にこそ

あります。

『バイオテクノロジーの規制に対する合意に不参加を

選ぶ国があるとしたら、それはアジアである。

アジア諸国の多くは、民主国家でないか、あるいは道徳的根拠から

ある種のバイオテクノロジーに強硬に反対する人々が少ない。

シンガポールや韓国などは、生命科学の優れた基幹的研究施設を

持ち、経済的動機からバイオテクノロジーでマーケットシェアを

確保しようとする。

将来、バイオテクノロジーは世界政治を二分する境界線と

なるかもしれない。』<合意を生み出す魔法はない>本書225~226頁

う~ん、本書を公刊されたのは管理人が大学卒業した年で

その2002年9月からまもなく20年になりますが、

バイオテクノロジーそのものとは少し系統が異なりますが、

ほぼ隣接分野の新型コロナワクチン開発競争と

その戦略外交的攻防戦(ここには莫大な経済権益が絡む)が

欧米社会という西洋を主軸に展開されていることを見ると

何だか上記見解にも『腑に落ちませんなぁ~』と言ったところが

アジア人ならではの本音でもありましょう。

何はともあれ、本書の所どころには

こうしたアジア人読者にとっては大いなる違和感がわいてくる

箇所もありますが、

とりあえずの著者の情熱も世界各国で

多種多様な価値観が複雑に絡み合って、

世界的な(バイオ)テクノロジー規制に関する『合意』については

まだまだ前途多難な要素が多々あるにせよ、

人『類』総体の安全と安心を今後いかに確保していくべきか

諦めずに積極協力していこうではないか・・・と語りかける

点には素直な共感を覚えるところです。

問題の本質は西洋人か東洋人かにあらず、

今や現生人類VS超人(ポストヒューマン)なる奇怪な未知の存在かも

しれません。

突如として『未知との遭遇』が今後どこかの場面で現れ出てきたとしても

世界的パニックに陥らないためにも

『現生』人類であり続けることに存在意義を見出し、

深い喜びを持ち続ける志向性を持つ者同士は

国境を越えて連帯していこうではありませんか?

次世代のためにも・・・。

『超人』に追い掛け回される(使役される)

『現生』人類なんて通常人の感覚ならば誰も望ましくないでしょうから・・・。

恐竜時代のことを最近想像したりもしますが、

われわれ『現生』人類の未来はどこに向かって進んでいるんでしょうねぇ・・・。

誰もまだその『全貌』を見た者はいません。

このような超長期的視点から『進化論』仮説が

唱える各種見方を解読していくと、

またあらたな盲点の『発見』もあって感慨深いものがあります。

『グローバル社会では、規制は国際的範囲で運用できなければ

意味がない、という議論がある。確かに正しいが、

だから国家レベルの規制を作るのが無駄だというなら、

主客転倒である。はじめから規制が国際的レヴェルで敷かれることは

めったにない。国家がまずそれぞれの状況に合う規制を練り上げ、

そのあとで、国際的なシステムについて考え始めるものだ。』

(本書221頁)

 

『新たな生物医学テクノロジーの規制について、国際社会や主要国の

側で何もしないのに突然降ってわいたように国際的合意が成立する

ものではない。ゼロから合意を生み出す魔法などありえない。

(中略)

ヒト・バイオテクノロジーを国際的に管理するといっても、

新たな国際機関を設立してわけのわからない官僚をあてることが

必要だとは限らない。

最も単純なレヴェルでは、国家間で規制政策を摺り合わせていく

なかで、実現できる。』(本書225頁)

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⑪『第11章 バイオテクノロジー規制』

※本章では、主題であるヒトに対するバイオテクノロジー利用

規制問題に関する現状解説につなげる導入部として

過去の遺伝子工学による『組み換えDNA(rDNA)』実験を

めぐる論争と遺伝子組み換え生物(GMO)(本書227~228頁)の

実地実験がどのような経緯をたどって

農業バイオテクノロジー規制への道が切り拓かれるように

なっていったのかが参考材料としてまず示されています。

そして、次に列挙する3論考文

①『農業バイオテクノロジーの規制』

②『食品安全におけるコーデックス規格』

③『アメリカとEUの対立』

(本書228~232頁)において

具体的な規制政策を巡る対立状況やその根本にある

『リスク』観についての解説がなされています。

ここでは環境リスクマネジメント問題で

すでに一般的にも馴染みになってきた規制する際における

根拠基準/思想である『予防原則』についての話題が

主題になります。

ちなみに、『予防原則』とは

『環境や公衆衛生を脅かす恐れがないと証明されるまで、

有害とみなされる』(本書230頁)という考え方です。

この『予防原則』に対するアメリカとEUの考え方についての

相違点がバイオテクノロジー規制政策を巡る対立を

しばしば招いてきたことにも触れられています。

こうした紛争が起きてくる背景には

経済的利益を環境保護(人体やわれわれを保護する自然生態系に

与える悪影響を可能な限り最小限に抑制させる志向性)よりも

優先させる論理を強いる業界団体の欲求圧力が強く働いているからです。

経済生活も人間や自然生態系が長らく持続可能で安心できる環境が

確保される条件が満たされなければ存続することすら危うくなることは

心ある人間であれば誰しもが共有し得る発想でしょう。

ですから、健康で文化的な安心生活よりも

経済論理(特に過度な利潤追求と環境負荷=いくらでも科学という名の

人工力で抑え込むことができるという営利至上原理主義志向に

傾いた歪みきった経済観)に内在させた功利的発想だけで

突き進むのではやがて限界点に達してきます。

とはいえ、本章ではそれ以上の捕捉説明がされていませんが、

『ゼロリスク(人間がそもそも危険な自然と隣り合わせに生きていくうえでは

全く危険性がない完全無菌状態で暮らせるとの素朴な楽観的希望論)』も

これまた非現実的な願望でしかありません。

これと『可能な限りまで危険性を最小限に抑えていこうとする』

予防原則が掲げる志向性とは必ずしも完全合致するわけではないことも

あわせて確認しておかなくてはなりません。

その『基準(分水嶺)』をどこに設定すべきかは

技術革新による環境負荷最小性をどこまで実現していける(いる)かに

かかっているわけです。

ですから、実際の規制判断『基準』については

当然ながら、それら技術革新の進み具合次第だということになります。

まとめますと、『ゼロリスク』信仰に過度に寄りかかることは

かえって危険であるとともに、

『予防原則』のそもそもの『理念』を軽視して

未知のリスクに対して決然と向き合う姿勢を緩めすぎて

都合のよい解釈が何でもかんでも許されてよいわけではないことは

コロナ禍下においても実体験されてきたことでしょうから。

完全防備(『ゼロリスク』)などはあり得ないこととともに

リスク状況について不確実性が多く、

いくらでも『変異』しかねないウイルス感染模様の実態を

甘く見『過ぎる』ことも回避しなくてはなりません。

そうした『不確実性』に満ちた自然環境の中で

いかに人間は勇気をもって対応し、

それぞれが残された短き人生を有意義に過ごしていくべきかを

この問題を通じていま一度ご確認いただければ評者としても

幸いであります。

『予防原則』論と『ゼロリスク』論とのあいだにある

相違点や類似点などについて活発な議論喚起が

それぞれになされていくと科学リテラシー力も

向上していくことが期待されましょう。

本章最大の読みどころは、

①『ヒト・バイオテクノロジーの規制』

②『国際レヴェルでの人体実験制約』

(本書232~235頁)であります。

ここで注目される点は、人命に直接かかわってくる重大問題で

あるにもかかわらず、規制対策が後手に回ってきたことです。

人体実験(広義ではウイルス免疫ワクチンなどの臨床・治験研究も含む)や

薬物承認に関する基準設定の問題が以下で引用するように

規制の進む速度やそのあり方について国内的にも国際的にも

わりあいにうまく機能しているとは言及されているものの

スキャンダルと悲劇的事件がようやく規制に乗り出すための

機会になるというように動きが遅々としている点に

一抹の不安を感じさせられます。

人体にとって致命的損傷が起きてきてからでは

もはや取り返しがつかないのです。

①論点では

『インフォームド・コンセント(医師による説明と患者による同意)』規則の

強化事例が紹介されていますが、

単に規則が存在するだけでは不十分で

医療現場での『運用』面こそが実際には何にも増して重要なのです。

医師による説明と言っても専門的な知識がないと素人では

処置をどう受けるべきか判断に苦しみますし、

実際のところ、苦痛に耐えかねて

「とりあえずの応急処置をお願いします・・・。』となるのが

精一杯のところでしょう。

また、この点に関して複数の医師に相談した方がよいとする

いわゆる『セカンドオピニオン』の重要性もしばしば説かれてきましたが、

あまり時間も残されておらず、経済的余裕がない患者であれば

そんな話をどれほど聴かされても効果がないのです。

今回のワクチン接種の件でもそうでしょう。

多種多様な専門家の話を聞いたところで、

最後には自己判断に任されて、

処置を受けた後に様々な問題が起きてきても

『自己責任』だとされるわけですし・・・。

専門家任せにせず様々に自己検討した結果、

接種は見合わせることにしたとしても(それが事後検証から

実は最適な選択だったと証明されたとしても)、

世間では接種者と未接種者とのあいだで

あれほど『差別的』取り扱いをするなと警告批判されてきたにも

かかわらず、すでにそのような傾向が出てきている・・・となれば

誰しもが生活の不自由さに耐えかねて危険な選択(接種することに

仮に効果があって比較相対的に未接種者よりも有利なデータ知見が

出てきたとしても、それでも本来ならば出てこなくて済むはずだった

後遺障害などに悩まされる者も一定程度出てくるわけですから。

体調次第では特に目立った持病がなくても死亡してしまう悲劇的事例も

あるわけです。)をせざるを得ない場面へと急き立てられていくのです。

このような場面にまで至れば、接種者・未接種者を問わずに

ワクチンに過度な期待を持つことに一定の否定的見方が

広がっていくのもやむを得ないでしょう。

ましてや未来ある青少年にとってはなおさらのこと

不安を抱えながら過ごす日々が長く続くわけです。

このような一般庶民の心理感情も深く考えずに

とりあえずワクチン接種の普及率を上げようとしたところで、

接種者・未接種者の双方ともに医療専門家や政治家、

厚生官僚、ましてや莫大な経済利権を握る製薬業界に対して

ますます不信感が高まり、各層に憎悪感情が募っていくだけに

なっていくのです。

だからこそ、著者もこの分野に関する規制措置を

早急にとるよう強調されてきたのでした。

薬害(禍)問題を甘く見てはならないのです。

『ゼロリスク』はワクチン接種・未接種を問わずにないにせよ、

いずれにせよ、後遺障害が拡大深化していかないためにも

『予防原則』に従った判断で今後の政策展望を考えて

行動に移していかなくてはなりません。

ですから、接種者(管理人も2回接種済み者ですが)も

さらなる追加接種も取りざたされている中で

しっかりとした科学的検証の行方を確認しながら、

ご自身の『自由』意思によって今後の接種/未接種の

判断材料にされていくことを願います。

濃厚接触ならぬ濃厚『接種』すれば『絶対安心』では

ないからですね。

すでに接種済みの管理人などは

自らの死生観に従い『これもまた運命』だと諦めていますが、

とりわけ若い読者のみなさんにはどうか慎重な見極めを

されんことをお勧めします。

あくまでも現時点におけるワクチン接種効果に期待されているのは

『もしもコロナウイルス感染したとしても重症化を防ぐ』という点が

強調されているにすぎないのですから。

これとて、さらなる追加検証が強く要請されているわけです。

何にしても今回のワクチンは従来と異なる

『人工合成』されたメッセンジャーRNAだとされています。

この改良法にはヨーロッパを中心に

すでに十分な倫理的議論も積み重ねられてきた結果として

当局側の理解と承認を得られたとも一部識者は語られていますから

一定程度の信頼性は担保されているものと信じたいものです。

(『産経新聞』令和3年8月26日

『新型コロナで注目「mRNA」~遺伝物質を治療や予防に~

東京医科歯科大の位高啓史教授への取材に基づく記事による。)

著者の見解では最後のまとめ引用でも語られていますように

この分野における規制が示唆する今後の方向性や

現状把握において楽観的なようですが、

いずれにしましても、本書全編を通じて強く訴求されてきたことは

規制問題を『専門家任せ』にして油断しきってしまう姿勢に

終始することなく、『民主政治』における議論を通じた

有権者による意思決定による監視評価こそが

常にとどまることを知らない技術進歩と安全にお付き合いしていくには

最重要課題だということですね。

まずは科学技術とわれわれの生活に与える影響について

幅広く興味関心を持つところから一歩一歩ともに始めていきましょう。

そのための考える議論素材は今後とも管理人も

書評活動を通じて随時みなさんへお届けしてまいります。

『ヒト・バイオテクノロジーの規制は、農業テクノロジーに比べて

はるかに遅れている。人間の遺伝子組み換えじたいが、まだ実現して

いないからでもある。既存の規制のなかでも、新しいテクノロジーに

適用できる部分もあるだろうし、新たにはめこまれる部分もある。

しかし、規制システムの根幹にあたる部分は、

これから作り出さなければならない。

既存の規制で、ヒト・バイオテクノロジーの将来の発達に重要と

なるのは、二つの分野、つまり人体実験と薬物の承認に関する

規則である。

人体実験に関する規則の進化に注目するのは、将来の

クローン人間実験や生殖系工学の実験にも当てはまるという

だけではなく、科学研究に対する重大な倫理的拘束が、

国内的にも国際的にもうまく機能している例であるからだ。

これは、規制にまつわる世間的な通念に逆行する。

つまり、科学とテクノロジーの自由な進歩は決して不可避でない

ことを示しているばかりか、政府による規制を最も嫌いそうな国、

合衆国ではっきりと認められる。』(本書232~233頁)

 

『国によって差こそあれ、これらの例からわかるのは、国際社会が

科学研究のあり方に対してうまく制限を課し、実験の必要性と、

被験者の尊厳に対する敬意のバランスをとることは実際に可能で

ある、ということだ。

この問題は、これからも何度となく振り返って考える必要が

あるだろう。』(本書235頁)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

⑫『第12章 未来への指針』

※本章はこのまま何の規制措置も積極採択せずに

明確な生命(殖)倫理に関する意思表示を示さないでおくと

近未来の『超』人社会をやがて迎え入れる『現生』人類にとって

救いがたい悲劇と過ちが待ち受けているだろう予想図に警鐘を鳴らすべく

『今すぐにでも始めておかなければならない行動原則』について

まとめて本書閉幕の辞とされています。

『もはや無駄に議論を積み重ねる段階は過ぎ、

具体的かつ効果的な規制対策を打ち出すよう行動をもって

未来に向けたより良き先例となるべく指し示していこうではないか』

そんな著者の力強い励ましの言葉で締めくくられていくことになります。

本章ではあらためて我々の生命にとって著しく影響を受け、

軽く見過ごすわけにはいかない『人間生物医学』が提起する

諸問題について検討されています。

とりわけ、人間の『胚』やクローン人間研究を中心に

これから予想される生命倫理にひっかかる各種技術問題を

批評考察することを通じて、生命(殖)『操作(改造)』規制の

必要性とそのあるべき指針について提示されます。

そのような各論の検討を経たあとに

具体的規制の進め方やあり方について総論を提出されます。

①規制の線引き問題については、

・『どこで線を引くか?』

・『治療と「向上」、病気と健康の境界』

・『アメリカにおけるリタリンの使われ方』

(本書240~244頁)の各論で。

ここでは境界線(いわゆる『正常(普通、健康)』と

『異常(病気)』の区別分岐点)問題について

確かに現在では『文化環境要因』によって

人間の各種『性格』が決定づけられることが多いことも

様々な学際研究を通じて示唆されるようになったことは

これまでの各章要約内でも語ってきましたように

著者自身もある一定の理解と共感を示しつつも

あまりにも『自然』性からかい離した解釈だと

感受される点についてはなお慎重な姿勢をもって

論じていかなければならないのではと懐疑的な見方を

されていた場面もありました。

(特に本書第2章や第8章などで語られる諸論点ご参照のこと。)

そして、この線引き問題に対する懐疑的意見と

対比されているのがフランスの哲学者ミシェル・フーコー氏に

象徴されるようないわゆる『ポストモダン系』哲学者による

批評姿勢や議論の進め方であります。

このように著者自身は自然の『本性』よりも

『社会』の方に比重を傾けすぎる見方にあまり好意的ではないようです。

人間の『性格付け』を何でもかんでも

単なる『社会的構築物』のなせるわざ風に解釈し過ぎては

本質論から目を背けて、かえって見えなくなってしまうよ・・・と

そのように問いかけられています。

②規制責任主体としていかなる機関方式にすべきか

・『まずルールと制度を』

・『既存の組織か新たな機関か』

(本書244~248頁)

特に前者の論考では、

最終的な判断決定につき責任を負う主体として

行政/司法府よりも立法府に期待をかけられていることが

注目されます。

その長所として着眼されているのが

『正しく機能する民主的政治システムでは、この決定に

かかわる人たちは、互いに主張しあい反論しあいながら

妥協点を見つけていけるからだ。』(本書244頁)

されている点であります。

③財源(資金の流れにも着目せよ)論からは

これまでの規制回避(法の抜け穴)の実態暴露と

防ぎとめる道を探ります。

・『資金ルートに光を当てよ』

・『クローン実験の失敗を待たねばならないのか』

(本書248~251頁)

現代国家政策は『民間営利』組織体の強い影響力を

受けながら、『公益目的』での公正/公平な政策採用が

著しく困難になっていることでわれわれの日常生活に

様々な支障をもたらしてきた(ている)ことは

すでに数多くの実例が証明しています。

直近では水道民営化によって『効率化』が図られていく・・・と

期待されながら新規参入してきた『民間』事業者が

いざ老朽管処理作業する段階に至れば『採算が合わない』から

『辞退する』などというまさしく無責任極まりない

本末転倒な事例が頻発中ですよね。

こうした事態が起こり得ることも

歴史的教訓が読み取れ、想像力豊かな良識と良心ある

有識者もすでに大昔から問題提起されてきたわけですが。

どなたが拡散されたか存じませんが、

今や流行語大賞になってもおかしくない

『今だけ・金だけ・自分だけ』の欲望に負ける方々が

後を絶ちません。

このような生活インフラ(社会整備資本、ライフライン=

生活上の『生命維持装置』)ですらこの惨憺たるあり様であれば、

なおさらのこと、『生命(殖)』医療にかかわる

致命的科学研究の行く末については厳しい目を光らせていく

必要がありましょう。

ここでは農業バイオテクノロジー規制が近年緩められていく

主導権を握ったとも評されている某社のあり様についても

著者は適切に批評されています。

著者はバイオテクノロジーを

『核兵器と情報技術(IT)』のあいだにある問題だとされている

(第10章冒頭 本書210~212頁)ようですが、

核兵器などの軍事技術には当初から脅威になることが

明白で規制すべき方向性は『すぐさまコンセンサスが

得られるものがある』(本書210頁)とも

情報技術(IT)に関しても

『今までのところ、マイナス面として見つかったのは、

いわゆるデジタル・ディバイド(IT利用における不平等)や、

ブライヴァシーへの脅威といった問題で、どちらにしても

正義・道徳性のような世界を揺るがす問題ではない。』

(本書211頁)だとして『超』楽観的見方をされている点も

あることから安全保障政策立案にも深く関与されたご経験が

あるという著者ですら心配になる点を感受させられました。

この点は我が国総裁選を巡ってサイバーテロ対策にも

積極対応できる環境整備を・・・と強く訴えかけられた

女性候補者の方もおられましたが、

この分野に精通した分析者の方などのご指摘によると

『それでも世界基準では甘すぎる・・・』とも評価されています。

本書が公刊された今世紀初頭は情報技術については期待ばかりが先行しており、

セキュリティー面での議論は陰に隠れてしまいがちだったようですが、

本書公刊の直前期には今年で20年になる

あの忌まわしく悲しみを誘ったテロ事件も起きていたわけですから、

著者のように『公益』安全保障問題に関与された(ている)方々ですら

油断されている心理場面があると思えばこそ、

われわれ一般庶民もいよいよもって専門家任せにせず

自分たちの知恵と工夫で『同志』連携教育を

広く深く進めていかなくてはならない時代だとの

認識をあらためて強く持つ必要があります。

なお、この安全保障研究のあり方を巡って

先に日本学術会議問題を通じて呼び覚まされたテーマの

ひとつでもあったいわゆる『軍事研究』の可否について

若干程度だけ管理人の感受させられた点も提起しておきましょう。

それとともに『営利追求目的』や『(すぐに)役立つ研究成果』だけに

目を奪われて、『公益』目的が希薄化されやすくなる傾向にある

産官学提携研究の実際のあり方にも限界点のあることは

常に意識しておかなくてはなりません。

その提携意義を否定する者ではありませんが、

そもそも『何のために』という本質的問題意識が

『営利』や『功利』的意識の前に敗れ去っては

世間一般の支持も得られず、

長期的なスポンサー企業の信用評判度も

研究資金繰り面でもたちまち苦境に陥ってしまうでしょう

ということですね。

確かに著者が指摘されたような『核兵器』や『生物化学兵器』といった

現在では(過去も『人道』的解釈ではですが)国内的にも

国際的にも法的/道徳倫理的にもすでに許容されないもので

あることは『良心』ある者であればすぐにも共感できましょう。

そのうえで、このような人類や自然生態系を深く損傷させる

兵器をいかに減少させていくか、また、

このようなことがあっては欲しくないことですが、

『万が一』攻撃される可能性が起きたり、実際に起きた場合に

いかに効果的に対応すべきかは

いかなる『軍事』研究アレルギーを持つ研究者であれ

本来ならば『平和維持』ないし『平和状態(原状)回復』の

道を望むのであれば常に深い次元から多角的に

ただ単に論じ合うだけに終始することなく、

『実践行動』研究としても積み重ねておかなくてはならないだろうことは

同意されるのではないでしょうか?

そうとすれば、このような残虐兵器を『持たせない/持たない』ことを

第一理想に掲げなければなりませんが、

この第一理念が万が一達成できない場合に備えて

絶対に『使わせない/持ち込ませない』をいかに確保すべきかは

不確実な環境下で過ごさざるを得ない以上、

『人間』であれば誰しもが考えあわせておくべきであることまでは

ご理解いただけましょう。

たとえば、現在はサイバー管理されていることが多いとされる

兵器をそもそも発射直前段階で起動させないようにするなど。

もっとも、それにあらかじめ備えた

従来からある手動アナログ方式による裏をかく

かく乱陽動作戦もあるでしょう。

そのように多角的な作戦場面を

常日頃から思い描いておかなくてはなりません。

何でもかんでもデジタル・サイバー戦だけに

偏って準備しておけばよいというものではないのです。

このような『予防(抑止)』原則に基づく

安全保障面からの学術研究ですら

『軍事』研究と指弾して激しく拒絶するのでしょうか?

いわゆる『敵基地(先制)攻撃/防衛抑止論』は

その名前の響きから連想するだけでは

誰しもが恐怖感情を呼び覚ましますが、

具体的な攻撃防御方法については

それこそ幾通りもの手段と段階が検討できるはずでしょう。

『最悪』事態発生の前に根本から『先制』攻撃させない点は

敵/味方にかかわらず

いずことも人間存続のためにも最優先課題でありましょう。

だからこそ、現在では

特に『サイバー』セキュリティー研究にこそ

重点を置いているわけです。

兵器を『使用させない』でおくためには・・・。

ここに『ブラック』ではない『ホワイト』ハッカー育成に

いずこの国々もしのぎを削っているわけですね。

実際にはそこに明確な線引きなどないのですが・・・。

そうとすれば、よほどの狂った指導者と群集心理に駆られた民衆で

構成された国や地域でない限りは、

誰しも相互に攻撃されたくないのですから、

むしろ個別国家内研究にとどまらず、

国際的連携研究を通じて

地球全体の包括的安全保障体制を構築していかなくてはならないこと

『論理必然』でありましょう。

このような志向性であれば、

『軍事』か『平和』かの言葉の綾に深くとらわれ過ぎずに

みなが安心できる『安全保障』研究も

価値観を問わずに相互対話を深め、

知恵を出し合っていけるのではないでしょうか?

管理人は政治的立場で『人間』を差別して排除したくないのです。

ただ、それぞれの長所/短所(といってもその評価基準は

人それぞれで状況次第で常に揺れ動く不安定さを抱え込みますが)を

見据えながら、『万人』にとってそれぞれが

『生き甲斐』をもって過ごすことが叶う世界を

実現していきたいだけなのです。

そのような祈念を込めて

毎度この書評記事をいつ『遺書』になってもよいようにと・・・

力及ばずとも書き残させていただいております。

『人間ひとりひとりは微力や時に無力ですらあります。

されど、そのようなひとりひとりの力がより合わさることで

誰かが誰かを信じ、支え合うことが叶うのですから・・・。』

少なくともまだ、この世界と『生きる』をあきらめない限りは。

少し回り道になりました。

そこで今回の新型感染症の話題に触れさせていただきます。

この感染症の『起源』解明問題などは現在調査中とのこと。

ですから、誤解あることはここでは語りませんが、

著者も指摘されるように

その『管理』責任がどこの国のどこの機関なり、

人間にあるか否かを問わずに

そのような研究がすでに行われていたのであれば、

このような大惨劇(研究所からの流出説を仮に採ればの

話ですが)が起こり得る『予兆』にも当然ながら気づくことができ、

事前対応措置も何らかの形で国内的/国際的にも

『連携協力』できたはずだと信じたいものです。

その問題は著者も本書第11章冒頭で紹介されている

某研究所における事例で語られているところです。

このような高度に危険性のある研究には

著者もかなり厳しい規制をかけていく必要性を示唆されています。

一方でいかに規制がかけられていても、

抜け道を公然か非公然かを問わずに駆け抜けてしまう

人間や団体組織も一定程度は出てきてしまうものです。

悲しいかな、これも人類史の教訓なのです。

ですから、原則的な規制方針は『性悪』説に立って

臨まなければならないのです。

最後になりますが、著者による熱き核心的メッセージ

引用して本書評要約部を閉幕させていただくことにいたします。

『人間が生来平等であるから、等しく自由なのである。

もっとはっきりいうと、生まれながらにして平等であるならば、

政治的権利も平等でなければならないはずだ。

(中略)

自然権のような概念は哲学の学者たちには好まれないとはいえ、

我々の政治世界は、その大部分が確かな人間の「本質」の存在を

根拠にしている。この「本質」は、自然によって、あるいは

むしろ、こうした本質が存在すると信じることそのものによって、

我々に賦与されているのである。』

『我々に与えられた人間の「本質」』本書251~252頁

 

『無制限な生殖の権利であれ、科学研究の自由であれ、

見当違いの自由を振りかざした、こんな未来世界を受け入れる

必要はない。テクノロジーの進歩が人間の目的に役立たなくなってもまだ、

進歩は止められない、自分たちはその奴隷だ、などとあきらめる理由が

どこにあるのか。

真の自由とは、社会で最も大切にされている価値観を政治の力で

守る自由を意味する。

バイオテクノロジー革命が進もうとしている今日、

我々が守り用いるべきは、この自由にほかならないのである。』

『我々は技術の奴隷ではない』本書253頁

それではこれにて書評要約コーナーを閉幕いたします。

みなさん長時間お疲れ様でした。

休憩をはさみまして、

エッセーコーナーを引き続きお楽しみくださいませ。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

・訳者あとがき

・注記

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『果てしなき道を彷徨い続けるわけにはまいらぬ』ためにこそ『忍法』を 天狗様に学ぶも『修羅道』で四苦八苦するなり~秋の大峰修験登山編~

それでは、ここからは心機一転してエッセー談論を始めさせていただきましょう。

『人生とは誠に不可思議なことが続く道』だとは

幼少期より人一倍強く感受して歩んできた者のひとりですが、

その『谷底』をこそ楽しめる自分がこの歳になってやっと強みであり、

いよいよもってその可笑しさに愛おしさすら覚えるようになってきた

今日この頃。

大変ありがたいことに通常人ではなかなか体験できない道を

歩ませていただいてきました。

人生とはただ単に『安定』していれば素晴らしく『至福』の時を

味わい続けることが出来るようにはどうもなっていないようだと

不惑の歳(アラフォー=40代あたり)を超えると

次第に気付かされることになるようですね。

仕事があってもなくても、金や名誉や地位があってもなくても

人として『なすべき道』は何かと迷い続けながらも、

過ちを繰り返しつつも、ただひたすらに己自身に厳しく問い続ける者には

どこからか『救いの手(一条の光)』が差し伸べられることが

不思議なことに多くあるものです。

まさに『無情のスキャット』(人間椅子さんの名曲)なんですな(^^♪

大切なことは自分が苦しい時にこそ

積極的に他者に眼差しをあたたかく向ける姿勢を持とうと努めていると

いつの間にか自己中心的に捉えて見えていなかった『苦境(心の闇=無明)』から

抜け出していることがどうも多いようだということです。

もちろん、不純物の結晶体である日々修行の身である

『人間』にはいついかなる時でも成し得る易問ではありませんが・・・。

感情の起伏を抑えていく訓練というのが

この修行の要点なのです。

感情の起伏を引き起こす社会的『ノイズ(変数)』に『幻惑』影響されず、

己自身の『精神』の安定を保持し続けることがいかに難題かと

途方に暮れる日々がどこまで続くのやらと・・・。

『はてさて、この心理的プロセスとは一体全体に

物理的な時空構造としてもどないなっているんやろか?』

このような知的好奇心を幼少期より持ち続けてきました。

そして、そのような人ひとりの『想念』が

総体的な人びと全体の『想念』として積み重ねられていった時に

この世ではいかなる『(社会)現象』が生起してくるのだろうか?

言わば、そのような人びとの『想念』の結晶体としての

『(社会)制度』に物心がつき始めた頃から

次第に興味関心が湧いていったようです。

それが、管理人自身が『政治(まつりごと)』に興味関心を

抱くようになったきっかけだったのです。

それも『奥義(秘儀)』の領域にです。

現代政治は政治と宗教を『分離』して考えてしまう傾向で

『満足』しているようですが、特定の宗教と政治との結びつきには

もちろん警戒しなくてはなりませんが、

『宗教的』要素を喪失させた『政治』というのも

人間の本性をまた十二分に理解しているとは到底感受されないのですね。

つまり、『欺瞞』なのです。

ここから、政治に対する『信』が急速に失われていくのです。

むしろ、その『宗教的』理解を

俗物たる未完成体である『人間』の『分限(際)』を超え出た

『天理(天籟・天来)』のものとして敬意を表して

畏まって受け止める姿勢ではなく、

まるで徒党を組んだ連中自身を『神』のごときものとして

われわれ無力な市井の民百姓に『無理難題』を押し付ける

所業こそが問責されるべきだということですね。

『自然』法をなめてはいけません。

すでに『和国』の創始者であられた聖徳太子様は

その『理』をよくご存じで『通暁』されていました。

また、『憲法十七條』は『冠位十二階』と一体だったのです。

その『心』は政治に対する『信』を保持するには

官吏の職務に関する『能力(実力)』のみならず

人間性の『高徳度』まで厳しく査定されていたからです。

現在の官吏養成システムではこの点がまったく欠如しています。

何せ、大学法学部でも義務教育でも

遵法精神涵養の大前提として

当然あるべき道徳や倫理(公徳心養成)を軽視しているのですから・・・。

道徳や倫理がまともに機能しており、

人類が長年の風月に耐えて生き残ってきた「ほんまもん」で

あればあるほど、

人間が創造した法律など『当用』のものであって

『道理』に反しているものなど覆されるはずなのですから・・・。

違憲審査『以前』の問題なんですな。

何でもかんでも『人定(為)』法でもってすべて解決できると

信じ込んでいることこそが『道』を踏み外す第一歩なんですな・・・。

それは、『Don’t tell lies』『Allergy』

『D.D.D.』『BLACK』といった

いずれもSIAM SHADEさんの名曲が激しく問いかけるとおりです。

せめて、人間の社会的・自然的生活の大前提として

こんな初歩的なことこそ

『教えてやって下さいまし、先生』ですよ、ほんまに。

それほど、『感情の起伏を抑制すること』は大事なんですからね。

『怒り猛る』場面があっても

それはあくまでも物の『道理』として許されるときだけですよ。

まもなく『選挙前』なので取り上げさせていただきました。

その『心』は曲を傾聴して差し上げて下さいまし。

その他『Crime』など日本のロックバンドには希少価値の高い

『本格的社会派』なんですよ。

この曲などは優れた『防犯啓発ソング』だと思いますよ。

また、自国の『失政』責任を棚に上げて、

他国政府への安易なご政道批判をして

国民の不平不満の『眼』を転じさせたところで

自国と他国ともにさらなる分断対立の『根』を深くするだけでしょう。

それでは、批判対象国から

『内政干渉だ。じゃぁ、お前さんの国ではどないやねん』って

突っ込まれ、『強行突破』されてしまうだけですからね。

その意味では、隣国内におけるチベット・ウイグル人難民問題と

我が国におけるスリランカ人難民に対する

裁判を受ける権利を拒絶して

ただちに『強制送還』させようとした問題は

双方ともに『道理』からすれば同根問題だということですね。

この点を取り上げていた某野党政党を支持するしないにかかわらず

客観的公平な観点から評価しても適切な批判でありましょう。

『選挙前』なので特に注意喚起しておきますが、

各政党やその『公約』について評価判断する際における重要点は

あくまでも本質的にその批判が適切妥当であるか否かという点に

絞って論争し合うべきだということですね。

どうでもええ枝葉末節な点に関する揚げ足とりや

無意味な人身攻撃などは絶対にしてはいけません。

それだけで、批判者の信用と品位が疑われてしまいますから。

管理人もあくまでも各政党候補者の『純粋な政策論争』をこそ視聴したいわけですよ。

そのうえでの『比較相対』評価なんですよ、結局は。

完全に理想的な人間も完全に無欠な政策も

この世には残念ながらないわけですから。

なぜならば、この1点が投票ポイントになるからですね。

もっとも厳しい人物査定もさせていただきますが・・・。

この点、『移』民『難』民を同列に取り扱ってよい問題ではないものと

管理人自身は少なくとも感じています。

また、青年海外協力隊員制度

もはや悪名高いとも酷評されてしまっている外国人技能実習制度

建前として主張している『理念』が大いに異なる点も懐疑的になりますね。

なんで『理念(精神)』の問題を数理的な『普遍性』でもって

制度構築ないしは改善していく姿勢を持つことが叶わないのだろうかねぇ・・・と。

双方の制度において『なんでこんなに評価が大きく分かれるのだろうか?』と

問えば、やはり後者にはあまりにも『ビジネス論理』

強く深く刻み込まれてしまう『余地』があるからだと感受されるのですね。

このように常に日本国家『理性』としての『道義性』が

世界からも厳しく注目されているわけです。

この1点で『同盟提携』国としての今後の評価も決定されていくわけですから。

当方の『弁明意見』を世界に向かって共通理解事項として

受容認定していただこうと考えれば

この『知』と『行』の一致姿勢を積み重ねていくほか

世界からの『信用』を獲得し得る『道』はあり得ません。

さて、重要論点なのでまたまた長々と語り込んでしまいましたが、

我が国固有の『特殊』事情もしっかりと共有理解していただこうと

欲すればこそ、世界的『普遍』性との接合意識も持たざるを得ないと

いうことですね。

この『特殊』と『普遍』の接合問題は著しき難問ですが、

問題解決の糸口は

常に『今現在における世界共通理解可能性の着地点はどこにある』かを

探求する誠実な姿勢が要請されるということです。

そのような文脈からして

この導入部を無意味に取り上げているのではありません。

後の主題である登山話にきちんとつながるのですから・・・。

一筋縄ではいかない『差別と結界』問題をいかに考えていくと

すんなりと納得と信頼を得ることが叶うのだろうかか・・・と触発されたことも

この『信仰』登山が毎度気づかせて下さる

誠に有り難い『教義問答』でもあると確信が深まっていきます。

『硬派』な話題が続きますが、

もうしばらくお待ちくださいませ。

そんなこんなで共通のお題は『ご縁(因縁生起の不可思議性)』

ありました。

ということで、今回取り上げさせていただいた本書でも

『人の一生における運命はいかに決定されていくのだろうか』との

問題意識が遺伝子決定論と環境決定論の双方に著しく極端に偏らない姿勢で

『そもそも人間の本性(質)とは何ぞや?』を探求されていた点から

その接合を試みてみました。

本書では科学的見地からの探求考察でしたが、

宗教的見地、とりわけ、仏教的哲理からの表現を借りれば、

そのような人間の本性を成す性格部分にあたるものは

『業(カルマ)』と呼びならわされているようです。

この『業(カルマ)』について、管理人は何もここで仏教や特定宗教への

信仰を強要するような意図で語らせていただいているわけではなく、

ましてや『オカルト(精神世界)』の怪しげな世界へと

皆さまをご招待するために語っているわけでもありません。

そのような世界を『真夜中』の『夢の中』で想像探求すること自体は

正直に告白すると魅惑されて好んできたところもありますが・・・。

『すべてを理性でわりきることもできないだろう』

そんなこんなで『理性(論理)』の世界(真昼間の世界)を重視しつつも、

『情念(深層心理、心の闇、感情に汚染された表層的心理としての「こころ」

ではなく、さらなる核心部にある感情・感覚的汚染部分を超え出た

純粋魂魄にあたる領域)』に着眼する『真夜中の世界』にも

真摯な知的探求心をもって挑まれた(いる)人を

幼少期から好んできたのですね。

そのようなご縁から『文学』や『音楽』、『絵画』・・・といった

人間心理を象徴的に描写していく『芸術』全般に

興味関心が拡張されていったのでした。

深層心理が『世俗』世界に表出されてきた形で出来上がったのが

社会における諸『制度』ということになります。

その一方で、人々が持つ個別心理は

そうした人々の総体的心理の結晶体として表出されてきた

社会『制度』を激しく嫌悪し、拒絶する態度にしばしば出ます。

そこに個人としての一般的『世俗』論理とは異なる

『掟(戒律)』や己自身だけが信じるに足る『道』を求めていくことになります。

この双方の相対立する世界『観』がぶつかったときに

最終的に人はいずれを採るか?

これこそが、生死を賭けた究極の『人間的』選択になります。

それを現代法律学ははなはだしく軽視し、軽蔑してきたようですが、

このような傾向心情(理)を指して、『良心』とか『信条(念)』と

表現しています。

現在のコロナ禍はまさにこの誰しもが『人間』であれば

必ず『絶対にここだけは譲れない一線』という

平常時であれば隠されていた心理を問うように促しているのです。

この『厳しい自然からの問いかけにあなたは耐えきれるか?』と。

ここまで迫られてきたときに

ようやく人は目覚めの『契機』にひとり立つことになります。

『あなたご自身はコロナ感染予防対策にどう立ち向かうべきか?』と。

重要点ですが、この解答は『政治(他者)』から

本来与えられるものではなく、与えても簡単に受容してしまってはいけない

代物だということです。

これこそが、『政治と文学(芸術)』の主題でもあります。

管理人自身はこのような問題意識を

少年期より三島由紀夫氏や沢木耕太郎氏、ニーチェ氏やドストエフスキー氏などを

はじめとする言わば『社会派』作家や

北方謙三氏のような『ハードボイルド』作家から刺激をもらい、

常々考えさせられてきました。

何度も繰り返しますが、

『人間が生きるに値する何ものかをつかむためには

いかなる姿勢でもって歩を進めていくべきか?』という難題です。

さて、ここからが『独り立ち(鹿島立ち)』のそれぞれの時間が始まります。

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今月吉日。

そもそものご縁は遡りますが、小学校時代の『林間』学校だったような・・・。

それから関西の『野郎(男)ども』は必ずいつかは

その難関を通過しなくてはならないと古くから言い伝えられてきた

関西の『奥座敷』のひとつである大峰山系にある

『稲村ケ岳~山上ヶ岳』日帰り入浴参詣登山コースを経巡ってまいりました。

ちなみに、山上ヶ岳は今も残る『女人禁制』の信仰の聖地ですが、

女性信者向けに開かれた御山が隣接する稲村ケ岳でありんす。

稲村ケ岳はあとで詳しく撮影写真でご案内させていただきますが、

山上ケ岳ほど厳しい岩場は少ないといえども、

崖地や鎖場が点在していますので、

健脚向けのコースということに一般的にはなっております。

初心者・単独行でも日帰りでの稲村ケ岳もしくは山上ケ岳の

規定のコースに従った往路登山は可能ですが、

登山に不慣れな方であればまずは低山ほかで

十二分に歩きなれていただく訓練をお積みになることを

お勧めいたします。

宿泊登山であれば、山上ケ岳にはそれぞれの寺院が経営する『宿坊』が、

稲村ケ岳であれば『山小屋』もあります。

まれにテント泊される方もおられるようですが、

季節や天候状況によっては不安定なので

あまりお勧めできません。

『宿坊』、『山小屋』いずれとも営業期間があるようですので

宿泊される際には事前に直接連絡確認されるよう願います。

ちなみに、管理人自身は日帰りコースばかりで

いまだ宿泊した経験はありませんので、

ここで詳しいことはご案内できません。

そんなこんなで関西在住の読者様で

一般に日帰りコースを採用されたい方向けに

ご案内できる範囲での情報提供を以下でさせていただくこと

あらかじめご了承願います。

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まずは、今回『思い立ったが吉日』に導かれたと感受される

直近のご縁と目的から語り起こすことにいたしましょう。

7月末日頃に京都で友人知人と久方ぶりの

ベーシックインカム研究に絡む私的読書会に

その日の午後から参加させていただく前の午前中に予定を

『鞍馬山~貴船神社参詣登山コース』に設定したことからだったような気がします。

なかなか緊急事態宣言発動中とかなんとかで

積極的に動きたくても動けぬ日々が続く中での

『半(『反』ではない)』自粛で心身ともに疲れ果てていたのでした。

この間は『職場と自宅』の往復だけの日々が大半で

都心部に出かけることすら、なかなかままなりませんでした。

電車の乗り方すら忘れかけてしまいそうな・・・と言えば

さすがにおおげさですが、

何か『失業期間中』か『長期引きこもり』生活から

ようやく勇気を出して、重い腰を上げて、

ふたたび『世間』に『船出』していった時のような

何ともたとえようのない不思議な身体感覚に襲われたのだけは

正直なところでした。

そんなパワースポットとして有名な『鞍馬山』と『貴船神社』で

『氣』の力をおすそわけしていただいた直後から

少しばかり元『氣』の源が甦ってきたのでした。

そんでも8月中はワクチン接種予定期間だったので、

好きなお酒も断ち、文字通りの『精進』期間だったのです。

ワクチン接種後の『精進落とし(飲酒解禁)』が

いかに『清々しい』感覚だったか・・・。

それはともかく、日々の『お勤め』仕事もあり、

急激な体調変化のために職場に家族に、そのほか関係各位の皆さま方にも

ご迷惑をおかけするわけにはまいりませぬから、

課外の『習い事』などの県境越えも

一定期間の『自粛休業』させていただいたあと、

経過様子を慎重に見極めながら、

とうとう今月3週目を迎えることになりました。

ちなみに、ワクチン接種に関する

管理人自身の体験事例をご参考までに語っておきますね。

なお、接種するかしないかはご自身の体調や生活状況、

そして持病の有無などを総合考量してご判断されるのが

ベストなご選択だと思いますよ。

ワクチンパスポートの有無で社会生活上において

圧倒的に不利にされたり、不当な扱いがなされぬよう

接種者自身の管理人からしても

政治に今後とも強くモノ申させていただくつもりです。

そもそも各人各様に諸事情があるはずで、

接種/未接種の判断基準も慎重に熟考されたあとの

ご決断だったと推察いたしますので・・・。

以前からも当書評記事でも強く語らせていただいてきましたように

ワクチンを接種しようがしまいが、

どんなに思慮深く、注意深く生活をしていても

様々な条件が重なれば、心ならずも感染してしまうものなのですから・・・。

基本エチケットを守りながら、

感染状況を見据えつつ、それぞれが慎重な姿勢でもって

人生の大切な時々を過ごされているのであれば

誰にも文句を言われる筋合いはないはずだからです。

さすがに路上で集団で飲酒して、どんちゃん騒ぎした挙句に

ゴミすら持ち帰らない輩などは『言語道断』ですが・・・。

それとてマスコミが極端に誇張した一部の事例でしょうから、

そんな『非常識』きわまりない珍現象を除いては、

意図的ではなくとも、どこで感染してしまうかは

わかったものではないからなのです。

『完全武装引きこもり』生活が許容される

恵まれた超特権階級を除いては、

われわれ一般庶民には感染する『率』は下げることが出来ても

『ゼロ』などにはできないのです。

従いまして、『ゼロリスク』など意味不明かつ無意味かつ無責任な

言動をされている候補者や

ましてや『公約』に掲げている政党などが仮にあるとすれば

投票は差し控えるのが『良識』というものです。

『ゼロ』リスクは『無菌』志向で

それこそ極端な清潔志向を強要して

『異物』を選別排除しようと欲する『全体主義』への道をたどること

歴史的教訓からみても確率論的に高いのですから。

また、そもそもどの時点で、どのような条件が満たされれば

『通常』生活に戻ることが叶うかも

当面はまだまだ予想もできずに

それぞれが個別に試行錯誤しながら知恵と工夫を出し合っていくほかありません。

マスクをはよ外して心置きなく語り合うことの叶う日を

取り戻したく願っているのはみな同じですが、

まだまだ『油断』もできない状況です。

おそらく、徐々に自然な形でマスクなし生活に

戻っていくものと推察されますが、

いちど身についてしまった『習慣』から脱却するのも

なかなかに難しいものです。

みなさん、コロナ感染せずに発熱などの症状がなくても

長期間のマスク生活でのどの調子が何だか変に感受されることはありませんか?

あるいは、ワクチン接種・未接種に限らずに

最近何だか皮膚が弱くなった感がして『かゆみ』などの

症状に悩まされている方などもいませんでしょうか?

管理人などは、気のせいかもしれませんが、

コロナ前よりも若干『息苦しさ』を覚えたりすることがあります。

それでも『新鮮』な空気が吸える場所では落ち着けますが、

何かが気持ち悪く感じることもまま出てきているようです。

何とかワクチンなどの『薬物』に依存せずに乗り切りたいものと

『自然免疫力』向上に

より一層と力を入れることで願ってきましたが、

このような政治状況ともなってくれば

将来への不便生活への不安も高まってきて、

ついに『断念』して接種するに至りました。

あくまでも接種した決断責任は自身にあるので

誰も恨みなどいたしませんが、

今後なにかあった時に同様な症状で苦しまれる方が

ひとりでも少なくなるよう願って

ご参考意見に公開『記録保存』しておくように決断しました。

今後とも折に触れて何らかの『経過報告』をさせていただきますね。

『なんともやりきれずにとんでもない同時代を過ごされている

みなさま方の不安を少しでも和らげることが叶いましたら幸いです。』

『3度目接種とか、どないなるんやろね。

変な情報をうのみにせずに、可能な限りでの信頼できる情報に

接していても、正直な話、みなさまも不安だと推察いたします。』

管理人も未接種の友人知人などに

『今後どうすればいいか?』などと相談されることも多くなったのですが、

正直どうお答えすれば誠実な答えになるかわからず、

時に自分事のように悩んでしまいます。

現役大学生の知人からはその方のご友人が

オンライン教育疲れと孤立感の強さからなのか

『この頃、希死念慮が強まっているようで

どう語ってあげればいいかわからへん・・・。』と

悩まれている様子にもすでに身近に遭遇して体感したことも

つい先日あったところでした。

本当に次世代の若者のみなさんは追い詰められているのです。

こんな心理的状況に国民を追い詰め続けた挙句に

経済物理的環境において

それでもなお『緊縮』財政的発想をまだ継続し足りぬとお考えになり、

(すでに総裁選での『公約』が周りのノイズかご自身の勉強不足、

勇気の足りなさかは不明ですが、歪められて弱まってきている点が

選挙での投票行為で悩ましく感受されるのです。

昨日頃に各報道機関を通じて公表された

『新資本主義会議』の構成メンバーにも気がかり点が

多々感受させられています。

当書評ですでにご紹介させていただいたことのある方も

2名(松尾豊氏、柳川範之氏)ほど加入されていますが、

このお2人には『ご縁』がてら期待もし、

陰ながら応援もさせていただきますが、

あまりにも極端な『デジタル』志向や『新自由主義的メリトクラシ―』志向へと

偏り過ぎた政策提言をされませんよう切に祈るところです。

今後とも注視していきましょう。

そして、みなでこの会議体の構成メンバー各位の

『言動』を厳しく監視してまいりましょう。

大切な問題意識はごくごく一部のエリートや富裕層だけに

『自己実現』できる『道』を整備するのではなく、

われわれ99パーセントの一般国民に『開かれた』

幅広い『門』から再チャレンジできる『道』を

しっかりと舗装していくことがみなの願いなのですから・・・。

硬派『メタル』政調会長殿、何とか強く叱咤激励して

国民本位の目線に立った制度設置の趣旨に叶いますよう

よろしく『善処』のほどお願い申し上げます。

ちなみに、以前ご紹介させていただいた

『納税者として』というご著書を世に問われたのが

若き日の政調会長殿でありました。

管理人の大学生時代より着目しておりましたよ。

『メタラー』かつ『バイカ―』であられることも

当時あたりから公式サイトブログなどを拝見させていただき

親しみを感じていました。

話題は転じますが、大学生当時の管理人は

当時から彼女が若き頃に修業されていたという

政経塾長(松下幸之助翁)の遺された

ご著書をたくさん読み込んでいたので管理人まで感染してしまい、

流行り病だった『民営化』や『道州制』の長所にばかり

目がいってしまい、大学への提出レポートでも

よく練られていない『いかにも青二才な書生っぽい』論旨を

書いてしまい、今もし当時の指導教授様から突き返されたら

『赤面の至り』で逃げ出してしまうでしょう。

『若気の至り』とはいえ、もはや大人の仲間入り(成人)間際だった頃

ですが、『ほんといやになっちゃうねぇ~』。

今ちょうど『1999』(SIAM SHADE)が流れてきたところです。

ほんまこの『歌詞』にあるままの心理状態が

現在まで引き続いているのが『あまりにもせつない』よねぇ・・・。

どなたか『せつなさよりも遠くへ』連れてってやって下さいまし(苦笑)

そんな心境『デス』ので、

不肖わたくしめも最後のご奉公と覚悟を決めて

この場から『助太刀』させていただきます。

『もう本当に今が我が祖国の最終局面なんですよ。』

『太平の眠りからいいかげん目を覚ましていただけませんか?』

『このままでは次世代の者があまりにも可哀想すぎます。』

『苦しむのはわたしたちロスジェネ(超長期就職氷河期世代)だけで

もう十分ですよ、ほんまに・・・。』

野党には某政党を除いては比例代表でも入れたくないし、

選挙区では引退者譲りの新人議員さんで

その人物像、識見度合も見極めきれませんしねぇ。

唯一の『救い』が同い年あたりの方だそうですから、

どのような経世済民観と国家(共同体)観をお持ちしているのか

いちどお聴きしたいものですが

コロナでそれもままならぬしねぇ。

もし、『公開』討論演説会とかあったら

メンドクサイ質疑とか出せたかもしれないだけに

悔やまれます。

やはり直接対面で直に接触して

単に挨拶としての『握手』に応じていただくだけではなく、

プロの政治家としての『政見』をじっくりと聴き込みたいものです。

絶対に『共産』政体は嫌ですし、我が祖国を売り渡すようで、

変な『民間』利権が入り込み、公平感覚すら疑われるような

大阪では大人気らしい?政党も嫌ですし。

正直、小選挙区では積極的に投票できる政党などないのですよ。

現時点では(ずっと以前からですが)3政党しか候補者がいないのですね。

『中選挙区』の方が面白く

もっと政策面や人物(身体)検査ができて

今よりも多少は金がかかるかもしれないですけど、

社会の『多様性』を維持存続発展させていくためには

いいのかもしれませんね。

この制度に関する『復活』論議も積極的に巻き起こしたいものです。

純粋な『親日(というのも、もはや植民地奴隷住人のような表現で

嫌になりますが、心底そう強く感受するのです。)国民保守救済』政党が

あればいいのですが、残念ながら『投票権』をいただいて以来

このかたずっとそのような理想的な政党などないのですよねぇ。)、

もし現総理がその(=上記『緊縮』財政的発想=国民をさらに

貧窮化させる経世済民『観』、間違った貨幣『観』など)打開を図るための

ひとすじの光明の『道』すらお示しになる(このたびの総選挙の結果を

受けてしても国民世論による政策軌道修正期待圧を理解する)ことが叶わなければ、

政調会長殿が我が国史上の『道(伝家の宝刀)』を御自らがお示しになられんことを。

もういちど『総裁選』時における国民生活の現場感覚(≒民意世論)に

より近いとされる党員・党友票によって示唆された

両者に対する『期待』票への意味を深くご再考いただきたいのです。

この点は選挙『後』の争点になりましょうが。

選挙『期間中』であっても、このたびはコロナ禍下における

異常に『短い』異例かつ『令和』初の衆議院議員総選挙でもあります。

そのために有権者も投開票時刻ぎりぎりまで各政党候補者の人物像、

政策論争を厳しく見定めることが予想されます。

ですから、選挙『期間中』であろうとすでに提出された『公約』が

基本的判断材料だとしても、有権者に対する質疑応答次第では

各党ともにさらに支持され得る内容へとバージョンアップ

せざるを得なくなるでしょう。

そのあたりの論争『過程』における姿勢も

インターネット時代における選挙戦では厳しく問われているのだという点を

片時もお忘れなきようご『忠言』差し上げます。

管理人もぎりぎりまで見定めていくつもりですが、

現在の『小選挙区比例代表並立制』の根本的趣旨をいかに活かせば

効果的な『清き一票』を投じることが叶うのかを研究・検討している

最中であります。

なお、衆議院議員総選挙に伴う

『最高裁判所裁判官の国民審査』につきましても

現在では各裁判官がいかなる事件でいかなる評決を

下されたのかも昔日よりも明示化されるようになりましたので

各種媒体にてご確認とご検討のうえ、

みなさまが最適だと思われるご判断をお願い申し上げます。

さらに衆議院議員『比例代表』の投票用紙への記入方法は

参議院選挙における場合と違っている点もございますので

投票前にいまいちどご確認下さいませ。

(『総務省』公式サイトをご確認下さいませ。)

このように現行選挙『制度』の観点からも

みなさまがたお一人お一人にとってより適した『意思』が

託されますよう願います。

しっかりと『熟考』していこうではありませんか?

このような『浮動』票の行方こそ

最後には『思わぬ結果』をもたらすのですから・・・。

それは同時に各政党候補者にとっても

かなりの『圧力(焦り)』となって影響を与えていくのですから・・・。

こちらも心理戦をしかけてやろうではありませんか?

そこでみなさん、ぜひとも覚えていただきたい重要点

提起しておきますね。

それは『各種メディアが報じる<出口調査>とやらを

絶対に信じないこと』です。

そもそも、この調査の『やり口』自体が『誘導』的手法になりかねないほどの

きわめて悪質な手法なのですから・・・。

なぜか、誰も厳しく指摘されない不思議に

みなさまはいかがお感じでしょうか?

そのようなわけで、選挙『後』の動向をも左右するのが

この『浮動』票が示唆する『意思』でもあるわけですね。

というわけで、今回の選挙結果次第では

まさしく『女神』が『男神』に引導を渡したうえで

国民が強く納得できる盤石な『具体的』政策へと修正実行するよう

迫られるかもしれませんね。

それほどの『荒療治』も要求されるほど

すでに失われた30年間による国民各位からの『怨念』には

凄まじい『勢い』があるのだという点も

十二分にご理解いただきたいのです。

『絶対に国民の期待を裏切ってはならない!!』のですよ。

それぐらいの生物学的『性格』からの発想の転換も伴わなければ、

『男女協(共)治』体制でかろうじて存続してきた

わが祖国もいよいよもって本当に

『断末魔』の雄たけびを叫ぶことになりましょう。

『そうは決してさせじ・・・』と。

『よく聴く』は徳川家康公の政治姿勢のように

日本的『合議』制度のうえでは長所もある反面、

『結局は何も決断できなかったの~、僕ちゃん』にもなりやすいのです。

聴く『べき』、聴き『置くべき』、『捨て置く』こと・・・

このように国家国民の真の弥栄を実現、実行していくためには

それこそ『優先順位』を適切につける独特の政治的『嗅覚(勘)』が

厳しく要請されるのですから・・・。

とこのように、

心ある日本国民は『力強く明るい自信と活力に満ち溢れた』国であること、

あり続けることをそれこそみな『忍耐強く』待ち望んでいるのです。

『臥薪嘗胆いつまですればええんや。』というのが

今の現役真っ只中世代の偽らざる心中ですよ。

『堪え難きを耐え、忍び難きを忍び』も本当に限界なんですよ。

次世代のことを本気でお考えであるならば、

『定年制』についても完全復活する志向性を持たせた政策体系に

転換させることです。

『働く気満々』の方であれば

その『場』を奪ってはなりませんが、

将来の年金生活がただ苦しく、

退職引退後に趣味も縁者もないために

ただ無目的に過ごす日々が想像されて不安だから・・・だけの

理由で『やめるにやめられない』という方は

かなり多くおられるものと推察いたします。

もはや、『延長』でお茶を濁している場合ではありません。

その意味で何かと『物議(大炎上)』をこれまた『かもし』ましたが、

某企業の社長さんがついに言及されたような

『45歳定年』制の本意はともかく、

この事件を好機として『ベーシックインカム(『最低』ではなく

『基礎的』所得保障制度)』と

『人間の幸福と健康』に資する『持続可能な多種多様な雇用労働形態』の

確保が叶う制度設計の議論へと各党ともに本格論戦を

はじめていただきたいのです。

とにかく、いつまでも頭の古い『固定観念』では

この先『行き詰って』しまうからです。

『定年』限度なしは原則として、

『人間』としての『生物的寿命』に限界がない場合に限られます。

『頭が高すぎる現代人は少しは<老いの美学>を学んだ方がいいよ。』

(←観阿弥・世阿弥様)

『老いは決して醜態ではないのですぞ。』

『老兵はただ去りゆくのみ』(←マッカーサー元帥)

かの名言を残された将軍さんは

日本人である管理人には『含む』ところ大でもありますが、

その『言や良ろし』でございます。

『アイ・シャル・リターン(フォレバー)』は

『超』人のみ発せられる言葉なのです。

『人間』では『迷』言になってしまいます。

単純に『現在』の社会福祉制度設計の背景思想と

経世済民(財政・貨幣)『観』に根本的な誤りがあるからですよ。

『そもそも、年金制度は何のためにあるのでしょうか?』

すでにその制度理念と実態がずれまくっていることこそ、

誰しもにやがては訪れる(現生人類であり続ける限りは)

『老後』に不安を抱かせる最大要因なのです。

持続『不可能』であればどうしてそんな制度設計のまま

無理な修復作業だけに終始して長らく『放置同然』に

止め置いてきたのですか・・・ということです。

制度安定化のために『税と社会保障の一体化』という方針を

どこまでも貫くというのでしたらば、

当然に『成長』志向を採用しなくてはならぬこと

論理必然であるにもかかわらず、

その意味が『まるでわかっていない』のですからね。

そもそも、この『財源』のところで

貨幣のプール論になっていて持続可能性を保たせるためにも

『つじつま』が合っていないのですからねぇ。

貨幣『観』の転換はこれほど重要な着眼点なのですよ。

その趣旨を真にご理解されているのでしたら、

先にも強調させていただきましたように

『プライマリーバランス目標』と『消費税』制度そのものの

『即時』廃止この一択以外ほかにあり得ないはずです。

『税率軽減』とか『もとの税率に戻す』とか

本気で考えているとすれば甘すぎるのですよ。

税制は何も『消費』税にこだわる必要もありませんし、

『財源』も税金に限定する必要はありません。

その発想自体がすでに前時代的で『時代錯誤』なのですよ。

『財源』をどうしても税金に依存したいというのでしたら、

『経済成長して(当然ながら消費税廃止)自然増収を見込む』

上げ潮路線を採用するほかないはずだからです。

『消費増税やプライマリーバランス数値目標を

国際公約にしてしもたから、いまさら引き返すわけにはまいらぬ。』

『バカ言っちゃいけませんよ。』

『なぜ、我々日本国民が国際公約に束縛されて餓死せざるを

得なくなる道へと追いやるのですか?』

『日本国中のご神仏、心あるご先祖様は日本国開闢以来の

未曾有の危機、馬鹿さ加減に怒っておられますよ。』

『そのことは各種の自然災害などがお示しになられていますよ。』

いよいよもって、『荒魂』が強まってきていますが、

ここからは『疫病退散』の神様であられる祇園八坂の神様のご類縁者に

『和らぎ水』でもって『和魂』へと回復していただけることと

全国の商売関係者や芸能関係者の業績回復とご多幸の祈願を

取り計らっていただけるよう『鎮魂』儀式へと

静かに移らせていただきましょう。

『素戔嗚尊(薬師如来)様から市杵嶋姫尊(弁財天)様へ』世代継承の

『伝国の儀』の静粛な時空間へまいりましょう。

『では、管理人とやら、十分な言挙げ(『Shout Out』)は気が済んだかな?』

『次の段階へとそちを誘おうぞ。』

『あっ、最後に肝心なことを言い忘れておりましたが、

投票率が下がれば(特に若者現役世代やロスジェネ層)、

それだけ希望ある未来が遠ざかるよってに

投票所には是非とも足を運びましょうね。』

『できれば期日前投票をお願い申し上げます。』

この週末から週明けあたりに

各党の選挙戦『公約』をしかとご検討しながら、

『不信』な点や『不満足』な点がありましたらば、

是非とも様々な通信手段を駆使して世間に向けて

ご自身の率直な思いをお伝えくださいね。

『ただし、誹謗中傷や対立陣営への人身(格)攻撃は

絶対にやっちゃいかんぞ。』

『もうこのへんで・・・。おぬしという奴はまったく・・・。』

(←神様、仏様からのお声)

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『魔(俗)界から聖界へ転生(天翔)するのじゃぞ。』

『では、ともに参ろうぞ。』

『チリン、チリン、チリン・・・・』

遠くから、管理人を呼ぶ鈴の心地よき音が聞こえてきます。

その音に呼び覚まされるように朝の目覚めを迎えることになりました。

早朝3時半。

その前日は『精進潔斎』のため禁酒法厳守。

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先月は決算期作業も積み重なり、今月に入ってからも

様々な『庶務』が空白時間を埋め、

当書評計画を立案していたのですが、

なかなか時間が許容してくれません。

算数の勉強についつい我が身がどうしても惹かれてしまうのですね。

『こんなに算数の世界がおもろいとは・・・。』

次々に『○○算』の世界に深く嵌まり込んでしまいます。

中学数学で習う『方程式』で最終確認すると

よほどの特殊問題ではない限り、

今の頭脳ではかなり楽には解ける快感を味わうことが叶うのですが、

算数では『ご法度』なのですよ。

また将来、姪っ子たちにこの魅力的世界観をお伝えするために

『指導法』の研究にまで手を出してしまえば、

学生時代の塾講師業での体感がむくむくと甦ってきて

ますますの『深泥池』にはまり込んでいくオチが待っています。

この特殊問題でも『式の立て方』さえうまく見出すことが叶えば、

解決の糸口はつかめてきます。

『方程式ではつくづくその式の<意味>を理解していることが肝要』だと

いうことも『わかってきます』。

小学算数の文章題は題意条件が複雑になり、

あまりこなれていない長文化されればされるほど

『読解力』が絶対的な問題解決の鍵を握ることも見えてきます。

そこで、線分図や面積図、比の発想、

中学校から学ぶことになる因数分解的発想にも馴染まされていくのです。

特に『場合の数』や『規則性』問題は中学数学までは

そないにトップ水準校でも難しくありませんが、

高校数学からは『場合の数』での組み合わせ、順列に

PとかCとか出てきて『わけわからん』状態になりやすいのです。

でも、今から考えれば、この小学算数で基礎的発想(考え方の方向性)さえ

精確につかんでいれば、よほどの難問・奇問ではない限り、

実はそんなに悩まされる必要もなかったことに気づかされます。

『規則性』でも数列問題など、等『差(比)』はともかく、

さらに高度に複雑な問題でも

その発想に馴染むことさえできれば実はそれほどまでに

苦しまされる場面も減っていたのではなかったかと

いまさらながら、自身の『未熟さ』が将来をつんでしまっていたことに

悔やまされることもしばしばあります。

『詰め替え』問題なども実際の仕事現場でも

商品ケースの大きさや重量感覚については身体感覚で

その『慣れ』をつかんでおくと作業も『楽』になり、

他者にご迷惑をおかけする機会も減っていき、

評価も上がっていくことになりますから、

『たかが算数、されど算数』で決してその威力を軽侮してはならないのです。

しかも、小学算数自体が『社会生活』に直結した

身近な題材が多いのですから、なおさらなんですよね・・・。

とこのような日々で過ぎ越していましたところ、

話題の『ネタ集め』も落ち着き、

選挙期間も押し迫ってきたことから何とか『間に合わせ』なければなりません。

要約記事本体はすでに出来上がっていましたので、

少し休養を兼ねて心身ともにリフレッシュさせようと

地元から車で2時間以内ていどの『奥座敷』へと

向かうことに急きょ決定したのが今月初旬だつたのです。

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起床してからシャワーで身を清め、

いよいよ『出立』の時間です。

午前5時前後。

万が一のための食糧を多めに近所のコンビニで買い込み

『再出発』します。

そのまま国道309号線を奥大和へと南下させていけばよいだけで

早朝の交通量も比較的少ないので楽と言えば楽です。

安全運転には十分に気をつけて『いざ、ゆかん。』であります。

当日の車中曲は天川方面に向かうのですから、

相川七瀬さんの『今事記』ほかのバラード系ロックが主流になります。

『いいですねぇ~。』

相川さんのご著作はほぼすべて読ませていただいております。

実業之日本社さんから刊行されている

『セドナ』から

当記事末尾でもあらためてご紹介させていただく『神道系三部作』、

そしてエッセー小説『ダリア』ですね。

気持ちが荒くなってきた時に

『荒魂』を『和魂』に転じて下さる良書です。

『愛』の伝え方の難しさで悩んだ時に

前にもご紹介させていただいた水樹奈々さんの『深愛』とともに

この『ダリア』を読み返しています。

良質なエッセー集や小説集は決して軽くなどありません。

様々な角度から触発されて考えさせてくれる

題材の『宝庫』なのですから。

この小説『ダリア』とともに曲も聴くと

より一層とその深い精神世界を味わえますよ。

陰陽座さんの壮大なコンセプトアルバム作品『鬼子母神』

その『戯曲』本とともに読み合わせると

その世界観を臨場感をもって聴き味わうことが出来ますよ。

そのように音楽も様々な『味わい方』があるものです。

最近は有名アーティストさんによる様々なカバー楽曲ライブを

聴く機会も多くなり、『アレンジ』の変拍子の不可思議な

世界にも魅了されています。

そんなわけで、『鬼』さんにもついに登場していただきましたが、

そうなんデス。

鬼さんが住む隠れ里に向かっている最中なのでしたね。

午前6時半前後。

天川方面に向かう途次にはしばしば立ち寄らせていただいている

崇敬する『水の神』様のいらっしゃる

『丹生川上神社下社』に日ごろの感謝をお伝えして

当日の『道中無事』祈願を早朝の新鮮な空気が

静かに流れる時空間につとめさせていただきました。

この頃には『ご来光』を迎えます。

なお、この神社に向かう通路が以前から親しく参詣されている方には

ご存じかと推察いたしますが、

神社の裏山を貫く『不敬』なバイパストンネルができてしまいましたので、

神社に向かう案内標識をついつい見落としてしまうことも

初めての参拝者の方にはあるかもしれませんね。

そんなご案内アドバイスも捕捉しておきますね。

というわけで、神社のある旧道からトンネル抜けの通路に向けては

迂回路でもほんのわずかな距離ですのでご安心下さいませ。

そのまま『天川川合』の分岐点を目指していくわけですが、

途中の『道の駅吉野路黒滝』で小休憩したあと

再出発いたします。

さて、『天川川合』まで無事にたどり着いたまではいいものの

このあたりから山肌も見えないほどの

早朝の濃厚な霧に遭遇してしまいました。

『本日の登山を決行すべきか否か?』

ここで心が揺れ始めます。

さはさりとて、このままひきかえすことも『残念至極』。

そのまま『洞川集落』へと車を走らせて、

『龍泉寺』で参拝とともにその安全か否かの『気配』を確かめます。

まだまだ霧は残っていましたが、だんだんと日は高く昇りはじめているようで

とりあえず、本日の目的地点である

役行者さんが『女人禁制』のために

母親と別れたという伝説が残る『母公堂』前の駐車場に停車します。

このお堂脇の管理人の方が料金集配人でもあられます。

日帰り登山者向け駐車料金は、800円也。

午前7時半手前着。

この時間帯はまだ駐車客も少なく場所を確保することが叶いました。

登山靴に履き替えて、軽く準備体操をし、行者様のお母さまでいらっしゃる

白専女(しらとうめ)様方々に本日の無事帰還のご挨拶と祈願を済ませますと

すみやかにすぐそばからの登山口より『山男』に変身します。

そうそう、絶対に『登山届け出』はお忘れなきよう。

『念』を込めて、駐車場わきの登山届ポストに投函いたします。

今回は実は二度目の稲村ケ岳入りです。

前回の下山ルートは初心者にもかかわらず難関の『レンゲ辻』からの

『レンゲ坂谷』に彷徨いこむ道をたどりました。

道は途中でわかりにくくなりますが、

ふもとの『清浄大橋』までの標高差は思っていたほどなく、

足元に注意深く下へ下へと一歩一歩と進めていくならば

『遭難』の危険性まではないものと思われます。

それでも『万が一』のことがございますので、

登山計画は常に『安全第一』でお願い申し上げます。

さて、このたびは母公堂わきにある稲村ケ岳登山口からの登山でした。

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まず最初の標識に遭遇します。

そのまま観音峰との分岐点である『法力峠』向けて

歩数を積み重ねていきます。

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ここからは以下の撮影写真のような蛇腹道が『法力峠』まで続きます。

なお、この稲村ケ岳の『山小屋』までは

『お助け水』(近年は枯れ果てたりしてあまり『お助け』もして下さいません。

ほんのチョロチョロと流れ落ちる苔むした岩清水だけは点在しておりますが、

現代の悪環境では煮沸して飲まないと腹を下す恐れもありますから、

十二分な補給水をご準備くださいませ。)もほぼ皆無に近い模様。

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まもなく『法力峠』にたどり着きます。

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ここから先の『稲村ケ岳山荘』までの道のりは

基本的になだらかで『男性性』の強く荒々しい山上ケ岳に比べると

穏やかな登りが続きますが、以下の写真にもありますように

所々で崖地となっている傾斜地や通行に若干注意を要する

鉄鎖が装着された険しい細道もありますから、

通行時には足元に着目させながら、

どうか急がずにごゆっくりと登山風景をお楽しみ下さいませ。

そのまま白倉山を巻く高橋横手を経過していくと

やがて『稲村ケ岳山荘』のある『山上ヶ辻』にたどり着くことになります。

途中で山に在住されている動物様のフンや

真黒な『巳様』に遭遇してびっくりさせられました。

とはいえ、頭頚部も三角形ではなく、斑紋もありませんでしたから、

マムシなどの毒蛇様ではなかったことだけが唯一の救いでした。

このような時はその動きを注視して、

しばらく通過されるのを待ちます。

くれぐれも当方から威嚇などしてはなりません。

ちなみに、管理人も敬愛し、自然と登山を愛されていた

我が国『霊長類学』研究の『道』を開拓された今西錦司博士らの

『理念』が結晶して創始されていったという

『京都大霊長類研究所』が研究費不正取得問題の対社会的重大責任を負って

来年3月に解体されることが伝わってきました。

この不正受給事件に関与された方々には

当然ながら個人的倫理責任と法的責任が厳しく問われることになりますが、

その点は今後の司法判断にゆだねられるとしても

1点だけ管理人自身の強く感受するところを申し上げておきますと、

この根本問題も基礎研究費をさんざんケチってきた政府と財務省が

主導してきた『緊縮』財政路線に諸悪の根源があったのだろうと

強く疑われる点であります。

管理人は別に京大関係者ではなく、

この『責任』問題を軽く評価する者でもありませんが、

このような事件はこの『貧困』思想が続く限り、

同様な事件が今後とも引き続き生起してくるものと確信しております。

その意味でも何度でも強調して繰り返させていただくこと恐縮ですが、

『これだけは何度でも是非とも言うておきたい』重大問題なのです。

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まもなく右手に『大日山』の山容が見えてまいります。

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上記右側掲載の写真でおわかりのように

架け橋もこのようなあり様ですから十二分に注意して歩行願います。

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さて、鎖場が現れ出てきましたよ。

ここもしかと鉄鎖を握って足元にご注意下さいませ。

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同好登山者のどなたかのブログでもご説明されていましたが、

『出川哲郎』さん似?のお地蔵さまにご挨拶しながら

歩行を続けてまいります。

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このあたりは鎖場が連続しています。

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美しい大峰山系の雄姿であります。

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まもなくすると、『山上ヶ辻』に到達いたします。

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午前9時半頃着。

ここで少し『小用』(笑)のお時間でございます。

清掃協力金として100円也をお納めいたします。

あぁ、すっきりしたと感じたのもつかの間、

コーヒーを少しだけ含みます。

山頂にはほぼ『御手洗い』もないようですので

ここであまり飲みすぎないでね・・・。

さて、『出立』といたしましょうか。

まずは『念仏山』を横に巻いている道を通じて

『女人結界門』のある『レンゲ辻』分岐点を目指します。

この『山上ヶ辻』を少し登っていきますと、

けもの道のような分岐確認にやや手こずる地点もございますが、

その注意標識として『ロープ』が張られていますので

その内側の細い道なりを進んでいきます。

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途中にこのような大変すべりやすい水場もございますので、

足元に十二分に注意して歩を進めて下さいませ。

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上記右側の写真が先ほどご紹介した『ロープ』ですね。

この内側から道が続いていますよ。

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このような若干ていど傾斜角のある登山道となっておりますが、基本的に左手を

注視しながら巻いていくと安全歩行できます。

とはいえ、道はかなりの細さとなっておりますから

対向者と遭遇すれば、

足がかりとなる『場』を確保して

『対向者優先』で『完全に(細道で無理にわれ先と突き進むと

大変危険ですので。ほんまにこんな方もたまにおられるのですよ。

ああ、無情なり。)』すれ違うまでしばしのお待ちを。

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この見晴らしのいい木々の合間を通り抜けていくと

『あら不思議』

ついに『関門』が見えてまいります。

ここが『レンゲ辻』に当たります。

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上記右手の写真にある標識では『大峰大橋』とありますが、

『清浄大橋』へと続く谷筋となっております。

先に触れましたように下山地点との標高差はあまりないように感じますが、

急傾斜角となっており、道筋も注意していないと

簡単に外れてしまいそうな危険箇所も途中にはございます。

ここでも『要注意路』分岐点につきましては

『警告ロープ』もありますがわかりづらいので

ほんと要注意路なんデス。

『デス』なんてふざけていると恐縮ですが、

ほんまに足元に十二分に警戒しておかないと

転倒、転落して『デス(死)』には至らずとも

重軽傷を負ってしまいかねません。

『念には念を入れて』下山にご注意下さいませ。

ちなみに、この道をまだ管理人自身は登『攀(『よじのぼる』と表現した

方がその険しさがイメージされやすいでしょう。)』したことが

ありませんので、その感覚をつかめていませんが、

急傾斜なため下山するよりも難儀することは間違いありません。

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ここからは『女人禁制』結界領域でございます。

『今日は女の子がいないから、おもいっきり暴れてもいいぜ。』

(『SIAM SHADE V6~男樹ライブDVD』)というわけにはまいりませぬ。

ちなみにこの前日の大阪心斎橋に兄弟で乗り込んだことと

DAITA様の投げ放たれたギターピックを見事キャッチさせていただいたことは

一生の想い出となり、日々を生き抜く『糧』となっています。

引っ越し時にどこかに紛れ込んでしまいましたが・・・。

そんなわけで、ここはあくまでも『ご聖域』ですから

慎重に厳粛な想『念』をもって最後の一歩一歩を踏みしめていかなくてはなりません。

『俺は男だぁ』と叫ばれていた某県知事も務められた俳優さんもかつておられましたが、

それはともかく、爽快な風がこの『辻』を駆け抜けていったのでした。

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『女人禁制』論には様々なご意見があるかと思いますが、

『<男子禁制>地もどこかに設定すれば公平になるんじゃないの』なんて

幼少期から感じていて、

『なんで、管理人は伝統保守派を支持します。』

音楽ライブでも日替わりメニュー方式で

本日は『男子限定』とか『女子限定』とか

最近では『男女兼用』日とか試みてみるのも

『いいんじゃない。』であります。

世俗的話題と同列に語っては不謹慎極まりなくなりますが、

『俗界』と『聖界』はあくまでも別次元にあるものとして

取り扱う『聖域』があっても『いいんじゃない。』であります。

そんな男『氣』を管理人は愛しています。

女性の怪しげな色『氣』も良かと・・・ですが。

『いかん、いかん、ここは<女人禁制>の結界聖地だったことを

すっかり忘れていましたよ。』

『神様、仏様、代々この地を守護し奉られてこられたご先祖様

懺悔申し上げます。』

『精進せ~よ。』

『懺悔 懺悔 六根清浄』とどこからか聴こえてきます。

『ギャーティ ギャーティ ハラソウギャーティ ボーディー ソワカ』

般若心経を唱えるお声も

風にゆらりゆらりと揺られてどこからか響き渡ってきます。

『青年よ、荒野を目指せ。』

管理人は『超』人(ポストヒューマン)ではなく

『人間椅子』師匠にならって

『新』青年(御仏の道、随神の道)に『進化』していくことを

ここに誓います。

この登山『道』と同じく

人生とは山あり、谷ありの誠に厳しく険しい『道』が続きますが、

人生行路を日々楽しみながら『天寿』を全うする『道』を

選択することをここに誓います。

『暗夜行路』も『月のアペニン山』もしびれるんだなぁ~、

これがまた『コク』があるんだよなぁ~。

さて、休憩話もこのくらいにとどめて

最後の登『攀』に気を引き締めてまいりましょう。

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やっとこそさ、山上が岳(正確には行者様が『蔵王権現』様を感得された

『湧出ケ岳』であります。)山頂の通称『お花畑』にたどり着きました。

午前11時頃着。

とはいえ、『お花』なんてどこに咲いているのかなぁ~と

一面を見渡すばかりの管理人なのでした。

『きっと、心の中にこそお花が咲いているのですよ。』

『大切なものは目に見えない。心で観るものなのよ。』

『星の王子さま』ことサン・テグジュペリさんも

はるかかなたの異国の地から応援にかけつけて下さったようです。

『すべての森羅万象、生きとし生けるもの、

死せるもの、未生のものがいついつまでも健やかで弥栄でありますように・・・』

もはや『戸閉式』も終わった後の『大峰山寺』の模様でしたが

『なにごとの おわしますかは しらねども

かたじけなさに なみだこぼるる』(西行法師)様とご一緒に

『般若心経』一巻唱えさせていただきました。

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ここからは今上陛下も皇太子殿下時代にたどられたという

天川『弥山』方面の大峰『奥駈道』が続いています。

はるかかなたの『東天』に祈りをささげつつ、

お花畑に戻って軽食と家族への『安全報告』電話を

済ませますと、もと来た道に沿って下山いたします。

なお、所々で電波が通じ合わない箇所もございますので

深い山間部ではくれぐれも通信電波状態に最大限のご注意を。

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ふもとまで降りてきた時にはすでに薄暗い模様に

なりかかっていましたが、午後14時には

無事に下山終了。

往路でおよそ6時間半、

この日の総歩数は31,238でした。

この後は『洞川温泉』に入浴しながら

疲れた心身を癒し、

この日の最後の目的地である『天河弁財天社』に参詣して

帰宅することになります。

この日の天川は宿泊街、温泉、神社ともに

すでに人出も多く見受けられるようで

まもなく色づき始める『みたらい渓谷』の美を

眺めようと遠方からの車両ナンバーもチラホラしておりましたです。

コロナ禍の感染模様などもだいぶ落ち着いてきたとはいうものの

『何事も油断は禁物』です。

もし、この秋の行楽シーズンにお越しになられるならば、

感染対策にも気を引き締められながら、

この関西の『奥座敷』を存分に堪能して差し上げて下さいまし。

午後18時前、無事帰宅。

『今日もありがとうございました。』

『ほんまにみなさまのおかげでご縁が成り立っています。』

それでは最後までお読み下さりありがとうございました。

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<参考文献、推薦文献など>

①『フューチャー・オブ・マインド~心の未来を科学する~』

(ミチオ・カク著、斉藤隆央訳、NHK出版、2015年第4刷)

②『若い読者のための第三のチンパンジー

~人間という動物の進化と未来~』

(レベッカ・ステフォフ著、秋山勝訳、草思社文庫、2017年第1刷)

③『認知バイアス事典』

(情報文化研究所著、高橋昌一郎監修、フォレスト出版、2021年第7刷)

④『よくわかる憲法』

(工藤達朗編、ミネルヴァ書房、2007年初版第4刷)

⑤『よくわかる法哲学・法思想』

(深田三徳・濱真一郎編著、ミネルヴァ書房、2007年初版第2刷)

⑥『法解釈の正解~正しい法解釈が明らかにする

個性尊重主義の秘密~』(田村智明著、勁草書房、2010年第1版第1刷)

⑦『資本主義の予言者たち~ニュー・ノーマルの時代へ~』

(中野剛志著、角川新書、2015年初版)

⑧『高橋是清の日本改造論~デフレ大恐慌のいま、死中に活路を見出す~』

(高橋是清遺述、山崎源太郎編、矢島裕紀彦新編、青春出版社、1998年第1刷)

⑨『現代経済学の直観的方法』(長沼伸一郎著、講談社、2020年第4刷)

⑩『デジタル・ファシズム~日本の資産と主権が消える~』

(堤未果著、NHK出版新書、2021年第2刷)

⑪『ソーシャルメディアと経済戦争』

(深田萌絵著、扶桑社新書、2021年初版第1刷)

⑫『ドストエフスキー 黒い言葉』

(亀井郁夫著、集英社新書、2021年第1刷)

⑬『イドコロをつくる~乱世で正気を失わないための暮らし方~』

(伊藤洋志著、東京書籍、2021年第1刷)

⑭『大学で何を学ぶか~自分を発見するキャンパス・ライフ~』

(加藤諦三著、光文社カッパ・ブックス、1997年第37刷)

⑮『能から紐解く日本史』

(大倉源次郎著、扶桑社、2021年初版第1刷)

⑯『修験道の真実と未来~神と仏と日本の心~』

(奈良県宗教者フォーラム編、京阪奈情報教育出版、2014年初版第1刷)

⑰『日本の聖地をめぐる旅 神結び』

(相川七瀬著、実業之日本社、2014年初版第1刷)

⑱『神様が結ぶ赤い糸 縁結び』

(相川七瀬著、実業之日本社、2014年初版第1刷)

⑲『太陽と月の結び』

(相川七瀬著、実業之日本社、2015年初版第1刷)

⑳『延命十句観音経~死の淵をさまよう友へ~』

(竹井博友著、地産出版、昭和49年)

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最後までお読みいただきましてありがとうございました。

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