ダンビサ・モヨ著『いまこそ経済成長を取り戻せ』<脱(反)>成長論が普及浸透していき、成長論も百家争鳴な混迷状況にある中でさらに厄介で過激な改革提案がかえって成長阻害要因になる可能性についても警戒していきましょう!!
ダンビサ・モヨ著『いまこそ経済成長を取り戻せ』
世界的に長引く経済不安定化の流れにコロナ禍と覇権を巡る
紛争多発による安全保障体制の脆弱化が進む中、
全人類に心理的恐慌からの拡大自殺現象が誘発されていくリスクが
高まってきていることを深く憂慮します。
有限な地球資源を人類相互で公平に分かち合い、他の生態系とも
両立し得る持続可能な経済成長発展をいかに導くか?
今回はこの本を紹介します。
『いまこそ経済成長を取り戻せ~崩壊の瀬戸際で経済学に何ができるか~』(ダンビサ・モヨ著、若林茂樹訳、白水社、2019年)
※ちなみに本書訳者であられる若林茂樹氏による
邦訳書『ダーウィン・エコノミー』(ロバート・H・フランク著、日本経済新聞社、2018年)に
関する書評記事はすでにこちらでご紹介させて頂いております。
なお、今回ご紹介させていただく書評に関しましては
管理人が日頃からの『定期』購読者としてお世話になっている
『表現者クライテリオン』様誌上でも<書評>として取り上げられていた
(2020年1月号、田中孝太郎様による執筆文)ことに触発されて、
『成長』論がいま熱い話題となってきている時期に鑑みまして、
さらにそれに付随補足する形で独自書評させていただくものです。
ちなみに、上記雑誌と当書評ブログは特段連携しておりませんので
すべての文責は管理人自身にあるものとご理解下さいませ。
独自書評の特色としましては、『憲法』論の観点にまで視野を拡張させての
著者独自の政治(選挙)制度改革案の批評的分析を試みようとする点であります。
著者の願いや真意を決して歪曲する意図からする書評ではありませんが、
こと著者ご自身が思い描かれている楽観的未来予想像やそのご意思に反する
結果も出現してくる可能性も懸念されましたので、
『権威主義型全体主義国家』と『自由民主制国家』との一進一退の激しい
攻防戦が各地域で続発しているこの際だからこそ検討題材に最適だと評価して
今回はこの本を取り上げさせていただきました。
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ダンビサ・モヨ氏(以下、著者)はアフリカのザンビア出身。
ザンビア大学進学後に政治クーデターが起きたために
国外脱出されて米国にて経営学(МBA)の学位取得を経て
世界銀行やゴールドマン・サックス社といった公的国際機関、民間企業での
勤務体験を積み重ねられてきたといいます。
近年はTEDといったプレゼンテーション会議などの場で
積極的な提案をされるなどの活躍に世界からの注目が集まっています。
2009年にはタイム誌において『世界で最も影響力のある100人』に選ばれるなど
各界からその言動も注視されているようですね。
邦訳書では本書のほかに
『援助じゃアフリカは発展しない』(小浜裕久訳、東洋経済新報社、2010年)や
『すべての富を中国が独り占めする』(朝倉慶監修、奥山真司訳、ビジネス社、2013年)が
公刊されています。
前者は日本の政府開発援助(ОDA)のあり方についても様々な角度から
考えさせられる論考集であり、
後者はグローバル化によって各国家内秩序がますます不安定化していく流れにおいて
その衝撃波から内政を保護するために権力基盤が強化されるとともに
絶対的権威主義体制へとさらに進展していかざるを得ない内幕事情から
今後の世界に対していかなる影響が生じてくるのだろうかといった
問題考察がなされていくことになります。
ジム・ロジャーズ氏といった世界的に著名な投資家にも
今後の世界経済の行方を占う参考視点として注目されているそうです。
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遅くなりましたが、本年もご愛顧のほどよろしくお願い申し上げます。
さて、本年が明けてもう四か月も経つ中、穏やかな春を迎えようと
人びとにも明るい解放感も戻ってこようかという矢先に
世界ではまた不幸な出来事が生起してきました。
『春はあけぼの』
『春眠あかつきを覚えず』などといいたいところですが・・・。
そうは問屋がおろしませんねぇ。
この出来事は現在進行中の
繊細にして慎重に扱わなければならない国際的重要問題でありますから
軽々しく論評することも差し控えなければなりません。
当書評の場においてもさらに多々語り続けたい論点もございますが、
このような情勢ですので間違った情報を基にした推論考察に至らぬためにも
より精確な情報に接する機会が訪れるまでは語り抑えさせていただくこと
ご寛恕願います。
とはいえ、本書において問題提起された論点と重なり合う点については
追々語らせていただく所存ですので、
今しばらくはその語りから行間に潜む『心情』を察していただければ
幸いでございます。
今回ご紹介させていただく本書における
もうひとつの隠れた重要論点が『権威主義』体制志向の国々における
経済成長のあり方やあり様に対して、
『今なぜ「自由民主制」志向国家群にとっても
注目の的になってきているのか?』という話題でもあるからです。
なお、管理人もグーグル様と広告スポンサー様のご支援を受けている
以上はポリシー規約方針に従いながら、
現下の情勢を受けてのこの問題に対する批評を差し控えざるを得ませんが、
決して『筆を枉げる』わけにはまいりませんので、
許容されるものと信ずる範囲で語らせて頂いていること
あらかじめご寛恕願います。
また、この点に関して『言論、表現の自由』が過度に萎縮させられるような
方向性へと向かいませんように上記関連媒体事業者様には
さらなる改善努力もされますことは
いち利用者としても『請願』申し上げる次第です。
『権威主義』志向体制の諸国家群に
御社におかれましても『意に反する』方向へと誘導活用されていくことは
望まれていないものと信ずるからです。
最近話題になった
他の『言論通信』媒体事業者に対する一連の買収事例を観察していても、
今や『言論の自由を確保すること』が
いかに重要かつ難題になってきているかも感受させられたからです。
もっとも、かの媒体事業者様の方でも
グーグル様同様にその趣旨を実践課題として取り組むうえで、
御社のポリシー規約方針を参照されることも想定されるだけに
この繊細にして敏感な問題に関しては
ぜひとも一般利用者にとって不安の種や不信感の源と
なりませんようお願い申し上げる次第です。
世界各国がその点に注目している超重要問題なのですから・・・。
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それでは本書ご紹介へと移らせていただくことにいたします。
後ほど書評記事内で著者自身の問題意識姿勢やそこから帰結されてくる
改善提案についても管理人独自の視点から批評していくことになりますが、
始めに宣言しておきますが、著者の改善案が
かなり刺激性が強く賛否両論が噴出してくるであろう
大変きわどいある種の『惨事便乗型ショックドクトリン』(ナオミ・クライン氏)を
強く感受させてしまう『急進的』なご提言となってしまっているということに
ついてです。
個々の点につきましては追々語ってまいりますが、
やはり彼女の場合には祖国の現状があまりにも『腐敗』し過ぎてしまい、
極端な『権威主義』体制となり、自国民を圧殺しかねない領域へと
高まっていたことから、彼女の思考のいわば『沸点』も
必然的に上がってしまったのではないかと推察いたします。
著者も感性豊かな女性ならではの視点をお持ちであり、
優秀な方ですから、そのような祖国で見聞きされたエリート統治者の
現実のあり様に『幻滅』を覚えられただろうことまでは
深く同情もし、強く共感も覚えてしまうところです。
ですが、結果として、その『腐敗を許さぬ』とする
正義感と熱血度が皮肉なことに
もちろん運用のされ方次第ではでありますが、
著者が提案された改善案自体が『強権的支配』や
『民意』を遠ざけてしまう素朴な専門家信頼からくる
『無謬性信仰』へと変容してしまわないかと懸念された点などを
主軸に本書内容を吟味検討していこうと
まず初めに書評の方向性を簡単に素描しておきましょう。
ということで、経済『成長』論にも多種多様な価値観や
見解の相違があることを踏まえて
それぞれが主張される根拠となる基本的大前提にある価値観や
背景思想にも注意深く目配せしていただくとともに
読者のみなさまにも個別により良き解決策へと導く
輿論喚起をしていただければと願いまして
ひとつの議論素材として本書もご活用いただければ
紹介者としても幸いであります。
それでは、『盤石な国民国家安全保障体制確立のためにも
まずは経済<成長>させて持続可能な平和共存の道に一歩踏み出そう』と
『権威主義的独裁体制による無理な経済発展による腐敗堕落を招き寄せ、
内外諸国民相互間の不安定格差断絶状態を招かないため』にも
本書で提示された改革処方箋を批判的に吟味検討しながら
いかにして『公平』な経済<成長>体制構築を図っていけば望ましいのかを
本書を題材にみなさんとともに考えてまいりましょう。
そこで今回はこの本を取り上げさせていただくことにいたしました。
合言葉は『衣食足りて礼節を知る』でございます。
たとえ経済『成長』の重要性を理解し願っていても、その改革志向性(処方箋)が適切妥当なものでなければ、かえって成長『阻害』の劇薬になる可能性もある!?~景況判断に適合させた政策こそ『成功の基』論~
それでは本書の要約論評を始めさせていただきましょう。
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・謝辞
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・序
※まず本書『巻頭言』としての<序>では著者がこれから本書全編を通じて
論じられていくことになる『なぜ経済成長が是が非でも必要なのか?』に
ついての問題意識が提示されることになります。
現在、世界的に見受けられる政治的混迷から来る
潜在的、顕在的各種紛争の要因も政治イデオロギーの食い違いによる
分断対立にあると見立てるよりも経済『成長』を否定したり、阻害する、
もしくは阻害しかねない不適切な諸々の経済政策の失敗にあり、
その根本的背景にある『近視眼的』な政治志向にこそ諸悪の根源がある・・・
との見解を提出します。
著者もまた経済『成長』によって拡大創造されていくことになる
『パイ』を増殖させていくことを通じて政治経済的安定に寄与する
『好循環』をいかにもたらしていくべきか・・・について
ひとつの独自見解と試案を公開していくことになります。
さらに著者の母国での体験談から
そのような『成長』の果実も一握りの統治支配権力層だけに
偏った分配がなされぬよう国民各位層に可能な限り公平な『分配』が
なされていくための経済『構造』をいかに構築していくかにかけた
政治制度改革とも連動させた提案が本書の『結論』ということになります。
これから本書各章要約部分で管理人の独自視点と問題意識からも
適宜批評的考察を加えていくことになりますが、
著者が本書において提示されている改革試案やその論拠について
賛同するか否かはともかくも、
著者の何よりの願いと想いは
『本書の目的は完璧な処方箋を示すのではない。
議論を展開していくことであり、そのためのポイントを
挙げている。』(<謝辞>本書8頁)
ますます悪化していく一方に傾斜していく現状に対して
『何もしないことを選択するわけにはいかないのだ。』(本書20頁)
と最強調されているところにあります。
『人々の欲求を満たし、生活をよくするのは経済成長である。
経済学的には、成長は貧困を減らし、生活水準を向上させる。
政治的には、成長は自由市場、自由な人民、法の支配に欠くことのできない
ものだ。各個人にとっては、成長は能力を最大限に発揮するため
絶対に必要である。』(本書16頁)
『本書で言いたいことは、西欧諸国は自由民主主義を本格的に改革しない限り、
経済成長できないということである。
政治家が、世界経済の直面する数多の困難に立ち向かうためには、
民主主義を根本から変革する必要があるのだ。
実際、民主主義が政治やビジネスに短期間で成果を出すことを迫った結果、
資本や労働といった稀少な資源が誤った形で分配され、そして視野の狭い
投資決定がなされてきた。
結局、民主主義の政治プロセスこそが、無数の経済問題を作り出した
元凶なのである。』(本書18頁)
つまり、安定的な経済『成長』を促進させていくために必要不可欠となる
『中長期』志向型展望を欠いた極端に視野が狭くなっている
『短期的』かつ『単眼的』政治姿勢こそが
その『成長』の起爆剤となる力を削減させてきたことに
焦点を合わせて改善策を考えていこう・・・ということに尽きます。
ということで、本書でこれから語られていく総論的展望が
開けてきたところで各論問題へと移っていくことにいたしましょう。
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①『第1章 差し迫った課題は経済成長である』
※本章では本書主題である『なぜ、経済成長が必要なのか?』について
著者自身による回答がまず提出されることになります。
『この章では、なぜ多くの途上国、先進国の経済見通しが暗いのかを
明らかにする。経済成長が生活水準と人類の発展にとってどれほど
重要か、低成長が長く続くことが、なぜ生活水準をいつまでも低いままに
する脅威であるのかを解き明かす。
それを理解するためには、経済成長がどのように計算されるのかを
知らなければならない。そこで、この章ではGDPについて、
その短所と、経済学者、政治家、政策立案者がなぜ国の成長を測り、
新たな公共政策を策定し、比較や改善の度合を計測する
絶対的な指標に用いるのかを説明する。』(本書23頁)
ここですでに注意深い読者様であれば気づかれましょうが、
著者自身も経済成長『率/度合』を図る物差しとしてのGDP指標を
何も唯一絶対のものとして拘束されるような硬直思考をされている
わけではないことです。
さらに上記引用文中でも『絶対的な』指標・・・とあえて表現されていますが、
現在においてはこの指標だけであらゆる経済状況を
統一的に解読されるものとは政策担当者ですら考えていない点には
ご注意願います。
あくまでもGDPが『絶対的』指標として活用されることが多く、
この指標を中心に経済観測がなされてきたのは
単純に『見える化(数値による可視化)』がしやすいからにほかなりません。
とはいえ、そもそも数値化するにあたって必要となる
それぞれの経済情報の取捨選別やその意味/位置づけ、
計算方式の策定方法やその妥当性の吟味、
そこから導き出されてきた数値的結論をいかに解釈するかなどなどは
常に疑義が残される余地があることは本章でも指摘されているように
すでに各論者から批判的論争がなされてきたことです。
だからこそ、現代経済においては
GDPのような『絶対的指標化(数値至上主義)』だけで
現実に生起している経済環境動向やそれを補正していくための
政策的対応を見誤らないためにも
この尺度を補完する他の経済指標をいかに創出していくかが
探求されてきたわけですね。
つい最近では環境調和との関係性にも配慮させた
『持続可能化』指数として注目されている
いわゆるSDG’sといった発想法もその代表例だということは
みなさんもご承知でしょう。
さらに最近の政府に見受けられる『公的』機関が公表してきた統計計算にも
しばしば改ざんされる事例が多発するなど
その『公的』指標の信頼性も低下し続けていることも
GDPに対する信頼度数が落ちる要因となっています。
一方で、このような『公的』指標を厳しく監視すべき
『民間』の経済統計調査組織が独自に発出してきた指標も
それにもまして信頼できるかと言えば
残念ながらこちらもそう安心できそうにもありません。
特に『営利』が絡んだり、『官との癒着(いわゆるレントシーカー絡み)』が
疑われるような高度な政治案件が『民間委託』されている場合などには
その評価にも十二分な警戒が必要となるからです。
経済指標に限らず、冒頭でも触れましたが、
およそこの世に出回っているあらゆる情報評価をする際には
必ずその『源(情報提供者)』と『出資者(資金的流れ)』などについても
注視していかなくてはならないのです。
なかなか一般人には難しい作業ではありますが、
理想的にはそのような姿勢でもって常に複数の情報を比較評価して
確認していくことを習慣にしたいものです。
ということで、本章で確認しておきたいことは、
まず何よりも経済『成長』が必要不可欠となる根拠と
その重要性についてでありました。
また、経済『成長』を構成し、分析していくうえで必要な要素として
資本・労働・全要素生産性の3つについてそれぞれの定義も
示されました。
経済成長論や成長会計と呼ばれる経済分析手法について論じられる場面では
よく出てくる重要テーマですので引用しておきますね。
『経済学を様々な構成要素から成る多面体として観察すると、
経済成長は主に次の三要素から構成される。
それは、資本(経済に投入された資金の総額から赤字と負債を差し引いた金額)、
労働(質量ともに計測可能なもの)、全要素生産性(労働・資本に加えて技術革新・
政治制度・法規制などあらゆる生産要素を示すもの)である。』(本書28頁)
これらの要素が経済成長に対していかなる影響を与えているのか
(著者の表現では『制約(29頁ご参照のこと。)』要因とされている。)に
ついては各章でさらに詳細な分析と検討がなされていきます。
そして、著者のもうひとつの問題意識として
経済成長といわゆる『債務』に関する関係性について語られてもいるのですが・・・。
時としてこの『債務』のありようが
むしろ経済『成長』を弱体化させる要因となり得るとのご指摘も
著者同様に十二分に共有し、注視もしていかなければなりませんが、
その発想にある『マクロ』と『ミクロ』経済を観る時の着眼点や
次元(とりわけ時空間範囲)的認識、
それぞれの政策処方箋的相違点(たとえばインフレ/デフレ時では
その捉え方を対称的に考えていく必要あり)については、
すでに管理人もご紹介させていただきました
『現代貨幣(「理論」とはあえて表現しない方が
あまりにも世間に多大な誤解と議論する際の混乱が見受けられますので
以後、管理人はこの「理論」とは表記しないでおくことにいたします。
ただ、すでに一般にも浸透してしまっていますので、
あえて「理論(TheoryのT)」も含んでしまっている略語である
いわゆるMMTという表記を使用させていただくこともありますので
今後ともご注意のほどその「心」を読み取って下されば幸いであります。)』観や
金融制度の実態的考察も加味して評価すると
頭脳明晰な著者ですら時々『おやっ』と違和感を抱いてしまった
箇所も多々見受けられたからです。
もっとも、第3章要約時にご指摘させていただくように著者自身は
MMTという経済分析レンズを活用した
債務と経済成長率(GDP指標によって主に示唆される)の相関関係分析から
導出される結論については懐疑的な見方をされるかと推察されます。
ところで、
MMTについて語る際には常に注意しておかなくてはならない点として
何度も強調してまいりましたようにその「事実的」側面と
「規範的(ここにある種の価値観が混ざった理論的仮説思考も
入り込む余地があるわけですが・・・)」側面はひとまず分離して
整理整頓しながら理解していく必要があるということです。
前者の「事実」的側面は実際の経済社会における貨幣の扱われ方を
観察していれば疑いが入り込む余地などありませんが、
後者の「規範≠仮説的理論」については
まさに論者による多種多様な価値観が争点となりますから、
その論争を回避することはできません。
ですから、この後者こそが本来の政策論争の本舞台ということに
なるのですが、ここでも大前提としての動かし難い「事実」的側面の
共有理解がまだまだ十二分になされておらず、
結果として何を言い争っているのかが
おそらく一般の方々(初学者、浅学非才の管理人も)におかれましても
どうもわかり難くなるように推察されるところなのです。
「債務」といっても国家(政府)というマクロ経済主体が絡み
「独立主権」通貨を発行できる場面では「借金」という表現では
一般社会における金銭消費貸借契約関係が想定イメージさせる
次元と混同誤認して誤解してしまうことになります。
ここでの「債務」は社会に出回るもともとの「始源」的通貨創造者、
つまり、われわれが日常的に使用する貨幣を発行する
『責任』主体として『最終的な負い目』を追っている・・・というようなイメージで
捉えられて便宜上の講学用語として通用させているように
感受されるからです。
詳細は上記リンク先書評要約内の『貨幣のピラミッド』論を
ご参照下さいませ。
また簿記/会計用語としての意味合いも込めて使用されているので
なかなかこの一般的または法律上の用語としての
「債権/債務」とも著しく異なったものとして
この言葉を使用する際には常に注意しておかなくては理解できないからです。
ということで、MMTのことをすでにご存じの方もそうでない方も
ご安心下さいませ。
MMTうんぬん以前の問題として現代資本主義経済における
金融(貨幣)流通の『制度』的実態はすでに『信用』貨幣観によって
形成されてきているわけです。
古典的に誤解されてきたモノのような『商品』観で捉えていては
現代マクロ経済の「債務(ミクロ次元においては「借金」と捉えても
別段問題ありません。)」観も
著者のように『マクロ経済学もこれ(管理人注:ミクロ経済における
家計や企業主体による「借金」のことがこのすぐ直前で語られたあとに
)と同じ』(本書29頁)と安直、軽率に言いきられてしまっている点に
本書全般に通底する「借金=赤字」を安易に求める一般民衆・・・といったような
いわゆる大衆迎合政治という侮蔑的意味合いを含んだように感受される
「ポピュリズム(そもそも大衆迎合ならばポピュラリズムと
英語表記の場面でもした方が最近流行の『語源』論の観点からも
誤解される余地が軽減されることでしょうから。そもそも従来の支配層が
良かれと信じ、思いこんで繰り出す政策的処方箋こそが
一般民衆を苦しめてきたからこそ、怒れる民衆を世界中に
生み出してきた元凶なのですから。その点には著者も一定程度の
ご理解をしていただいているようですが・・・。長くなりますから
ひとまずここらあたりで打ちとめておきましょう。)」政治への
異議申し立てをされたうえでのそれに対して提示されている改革処方箋も
本当に99.9%の一般民衆の『福利向上』へとつながり得るものと
なるのだろうか?と大いに懸念されてくる点にこそ本書批評を通じて
管理人が問題提起しておきたい最大論点の一つだということであります。
このあたりの疑念や違和感については
また後ほど具体的改革案が著者から提出される章の要約に入った際に
追って批評的考察と独自視点で語らせていただくことにいたしましょう。
とはいえ、著者も語られていますように
『一般的な人々にとって、経済成長は重要だ。
それも圧倒的に。経済が停滞すれば生活も苦しくなる。
経済の低迷は社会問題、健康問題、環境問題、政治的問題を
悪化させる。経済成長がなければ、文化、地域社会、個々の人が
描く生活は暗く、粗末になり、矮小化していく。』(本書23頁)
という非常に力強いお言葉をいただいたことは強力な助っ人になりますから
『脱(低)』成長論を提唱されている方々よりも誠実ではあります。
管理人のような一般民衆と著者のようなエリート有識者とでは
現実社会に対する感じ方や見方、改善提案の志向性などに
大きな対立点はどうしても出てきますが、
厳しい批判ばかりでは著者にも失礼ですから、
あくまでも著者のようなエリート層から観ても
現下の世界各国で採用されている(きた)政策的処方箋が
『あまりにも近視眼的、短期志向(思考)なもんだから・・・』との見立てから
ある種の誤謬が生起してきたとする診断自体は
もちろん共感、共有するものです。
そのとおりなんですね。
論を待ちませんが、地球環境やわれわれ人間も含んだ自然生態系を
破壊し、持続不可能で極端にエントロピーを増殖させ続けるような
経済『成長』まで良しとする論者は
『地球がもし駄目になれば宇宙があるさ・・・』などといった
倒錯した楽観的『狂=強気』思考に立てる一部の
いわゆる加速未来主義志向者でもない限り、
望ましいことでないことは
通常の良識ある経済『成長』必要論者も認めているところであります。
だからこそのわれわれ人類が
これからも『母なる』地球で住まわせていただくためには
『持続可能な』成長・・・といった問題意識を
今後とも共有していく必要があるというわけです。
問題は上記のような『加速未来主義』的願望や
『「脱(低)」成長でも良いわさ・・・、すでに恵まれているしね、
アハハ(笑)』と普通の生活者の未来に待ち受けている『苦難』に
想像が至らないと感受されてしまう一部の論者の思考にこそ
最大限の警戒が必要だということです。
少なくとも著者のお立場はそのような『極端』志向ではないことは
本書をご一読いただければご理解いただけましょう。
ただし、後章で提示されている改革提案が
著者も望んでおられる『成長』へと『安定』的につながっていくことが
叶う処方箋で本当にあり得るのだろうか・・・という最大論点については
ひとりの一般庶民の視点として
管理人からもみなさんにともに考えていただきたい批評を
加えさせていただきます。
まずは、大前提としての『経済成長がとにもかくにも必要かつ重要だ!!』という
著者の問題意識をここで共有しておきましょう。
そのうえで、経済『成長』することの長所は
『豊かで安心と安全な生活を送ることが叶う』社会を『実現』できること。
そして、経済指標としてのGDP成長率そのものよりも
生活水準が実際に確実な勢いをもって向上してきていると
『実感』できることこそが最重要だということにつきます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
②『第2章 経済成長の歴史』
※本章では、経済成長が政治的、社会的にも重要であるとの
前章での問題提起を大前提にこれまでの経済成長史から獲得されてきた
知見を題材に据えた分析考察を踏まえて、
『成長』を下支えするに不可欠な諸要因と
『成長』を計測する物差しとしての経済指標について解説されています。
ここでは特に現代経済についてその成長『率』を示す指標として
活用されてきた『GDP(国内総生産=付加価値の総計)』から
読み取れる諸論点を中心に語られていきます。
前章でも『GDP』と実際の経済成長度合いに関する相関関係論が
世界各国の事例分析を通じて語られていましたが、
本章ではそこからさらに踏み込んだ各種問題点を提示するとともに
その現実的効用と限界点にまで配慮させた考察がなされていくことになります。
そして、経済『成長』策を立案、実行していくうえでは、
経済『成長』の要因となる点を
経済的要素、観点のみから狭く考えていくだけでは不十分だということが
語られています。
社会文化的側面や政治的側面などなど多角的要素も加味させて
考案していかなくては『成功』に寄与できないからです。
そこで著者は各国の経済政策が時代ごとにどのような影響力を
もたらしてきたのかを歴史的検証も踏まえた論考を展開されていくことになります。
ここではいかなる『制度』基盤が経済『成長』を誘発、促進させる条件として
より良きものとなっていたのかが事例として挙げられています。
特に『オランダ病』に関して論じられている箇所は
『英国病』などとともに考えあわせておきたい貴重な歴史的教訓事例ですね。
本章での結論部分を引用して次章に目を転じていきましょう。
『歴史、地理、文化などの要素がすべて経済の先行きに影響を及ぼす以上、
政策立案者は特定の考えに偏ることなく、多方面に目を配り、
慎重かつ柔軟な姿勢で経済成長政策を設計しなければならない。
過去二百五十年の歴史から学ぶことのできることの一つは、
長期的な経済の繁栄には、個人の自由、自由市場と並んで、政治的、
社会的安定が決定的に重要だということである。
ただし、長期的な経済の繁栄に自由が必要だとしても、近時の
低迷している状態(特に自由主義諸国の国々に顕著である)、
中国のような非自由主義陣営だが政治的に安定し、驚異的な成長を
遂げている国を見ると、個人の自由と自由市場だけでは、
経済成長の実現に十分ではないと考えられる。
歴史は、指導者が長期的展望に立ち、リスクを取って投資をする
国が、経済成長という競争で勝者となることを示している。
一方、敗者の政策は、短期志向に走りがちで、現在の状態が
永続することを所与としている。
こうした姿勢は過去に失敗しており、世界経済が直面する逆風の強さと
規模の大きさを考えれば、将来、経済がリスクに晒されることになるのは
明らかだ。』(本書49~50頁)
ということだそうです。
なるほど『一般論』としては一見するともっともだ・・・とは感受されるものの
一般人が通常求めているのは経済成長によって豊かな生活を
享受できる社会ではあっても、政治的・社会的にいくら安定しているように
表層的には見えても現実的には『監視』された『抑圧』権力によって
いわゆる『奴隷の平和』状態にさせられてしまっている体制下において
真に幸福で安心できる生活を営めるものなのかどうかも
考慮しておくべき要素ではありますまいか?
ですから、そのような『非』自由主義国家では
原則的に外部世界に自由に出入りできることを通じての
自国の内情を相対的に比較して批判的に捉え返すことが抑制されている
ことが多いものです。
人流抑制によって外部社会の現状が『体感』できる機会が
減少していく状況が長期化していくと、
たとえメディアなどの情報に接する機会が自由に保証されていたとしても
現下で日々生起している事態とその成り行きが果たして健全であって、
明るい未来へとつながっている道であるのかすら判断しがたくなるのです。
そのことはすでにみなさんも現在進行形のコロナ禍下の社会状況で
日々体感されていることでしょう。
そのことが人々の経済的『心理』やいわゆる『心の会計』すら
消極的な姿勢へと転じさせることになり、
なかなか経済の好循環へと軌道回復させることが難しくなるわけですね。
だからこそ、自由民主制を採用する国家においては
『政治的自由』が最大限確保されていることも
『経済的自由』にも増して重要視されてきたのです。
著者も指摘されるように
『短期』志向や『単眼』思考であってはならないことは論を待たない
重要な歴史的教訓だとしても
後者の『単眼』思考には否定的に捉える必要性はあっても
前者の『短期』志向に関してはもう少しその内実を具体的に検討、
検証したうえで、特に不況期や低成長期にある場面では
早急に『短期』的政策介入も時に積極的になしていかなければ
かえって『中長期』に至る安定的経済復活も成し遂げることが
難しくなってしまうことが多々あるからです。
この『短期』問題については一般人にとってはとりわけ
時に生命にも直結するまさに『死活』問題となりますから
さらに著者自身の論考と関連するところで
深く探求していくことにいたします。
それほど人間にとっては『短期』も超重要な『死活』問題なのですよ・・・
ということですね。
かの有名なケインズ氏もこのような問題意識をもって
具体的に『生きた』経済政策構築へと向けられた研究を
なされていたわけです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
③『第3章 ハリケーン級の逆風』
※本章では主に米国で生起してきている事例分析を手掛かりに
世界各国事情も比較しながら、
世界経済において長らく続いてきた経済成長の足かせとなっている
七つの重要キーワードを通じて現下の『逆風』状況について
考えていくことになります。
まずはその七つの重要キーワードを列挙しておきます。
・債務の膨張
・非効率的な資源配分
・人口動態のシフト
・急速な技術革新
・所得格差の拡大
・生産性の低下
・資源の枯渇とそれに伴う環境破壊など
(本書82頁ご参照)
そして著者は世界各国経済で生起している諸現象を観察したうえで
それぞれの諸国において本来採用されるべき経済政策の志向性(あり方)について
全般的に『政策立案者が行っている政策は真逆の方向に進んでいる。
加速度的に近視眼的になっているのだ。』(本書82頁)と主張を
繰り返されています。
そして、このような評価をされてしまう大前提にある世界観には
『グローバリゼーション』を積極擁護する政治的姿勢があるようです。
そのことが次章でさらに厳しい批判的検討をされることになる
いわゆる『保護貿易』によって帰結される診断評価の底流に潜む
思想でもあるようです。
さて、このような見立てが世界史的教訓としても
本当に適切妥当なものだったのかどうかは
また後ほど詳しく検証してみることにいたしましょう。
本章の主題は上記七つのキーワードを通じて診断する
『生産性の全体的な低下現象』を招いている真因にあります。
ここでも経済『成長』の分水嶺となる判断材料として
『資本・労働・全要素生産性(Total Factor Productivity=それぞれの頭文字を
とって以下TFPと称す。)』が活用されていくことになります。
これまでの主流な見立てでは上記三要素が進歩改善されていくことによって
経済『成長』が促されていく傾向にあったものだと評価されてきたところ、
近年において現れ出てきている諸現象からは
むしろ『逆説的』な状況が見て取れる・・・。
この原因にはいかなるものが潜んでいるのだろうかと探求していくのが
本章の骨子でもあります。
著者は上記三要素のうち特に半数以上の鍵を握っている存在として
TFP(全要素生産性)に着目された検討に力点をおいて論じていきます。
『この章では、ハリケーン級の強さで世界経済をなぎ倒そうとする
七つの逆風に焦点を当てる。
資本に対する逆風には、巨額の公的債務、天然資源の枯渇、不適切な
資本分配が含まれる。
労働については、人口動態の変動と所得格差の拡大が、労働力を
量的、質的に低下させたことが負の圧力となっている。
さらに、経済成長の要素である資本と労働の効率が低下した。
全要素生産性(労働、資本以外の生産要素も考慮した生産性指標〔全体の
算出の「変化率」から、労働と資本の投入量の変化率を引いた差として
計測される。生産量の伸び率のうち、資本及び労働の投入量の増加による
伸び率以外の要素による伸び率〕)でも、技術革新が直観に反する結果を
もたらしている。
これまで経済成長を支えてきたのは、これらの要素であることを考えれば
逆説的だ。』(本書52頁)
・・・と。
著者によって提示された『逆風』問題はこれまでも数多くの有識者が
批判的、消極(悲観)的に問題提起されてきたことから
あまりにも所与の大前提として暗黙の了解事項のような捉え方が
されてきたために『まぁ、現状はそんなところかなぁ・・・』といった風な
ある種の諦観のような雰囲気がもはや世界を席巻しつくしたような感じに
なってしまっていますが・・・。
地球資源は言うまでもなく『有限』であるために
『持続可能性』の存続維持を図っていこうとする志向性そのものは
管理人も特段に『全面』否定する者ではありませんが、
最終的にこのような状況にいたらしめた現在の各種制度を構築してきた
専門家集団を含む現在のエリート統治者層とそれを下支えしてきた
一般民衆のいわば『民度』意識の低さ・・・とでもいった問題を
批判の『的』に据えてする急進的な抜本改革案を提示される前に
そのような批判の方向性自体が真に『的』を得たものと評価し得るのかも
ここできちんと検証しておかなくてはならないのではなかろうか・・・と
いうことをご指摘させていただきたいのです。
ここで最重要要素とされているのが、
①資本(債務問題が主要テーマ)
②労働(技術革新による生産性向上の恩恵も
人間自身の労力による生産性向上とかみ合わずに
むしろ全体的な生産性を低下させてしまっているという
逆説的現象問題が主要テーマ)
③上記の資本と労働以外の生産性に関与する全要素
についてでありますので、
ここではこの三点に絞ってそれぞれ問題箇所だと感受された点を
語ってみることにしますね。
①については、本書53~56頁でもって
著者の独自見解が語られています。
もう少しあとで②の『労働』問題と併せて
検討考察することにいたしましょう。
②については資源の有限性に由来する枯渇問題はひとまずおくとして
人口動態の変動が経済全体における需給制約の要因に
いつでもなり得るものなのかどうか、その一般的な悲観的見立てこそが
むしろ結果的に技術革新などを伴った生産性向上へと至る道を
遅らせてしまっているのではないか・・・。
つまりは、原因と結果が逆になってしまったが故の
現在の悲劇的事態なのではないかとの疑念であります。
とりわけ人口減少(主に先進国)、人口増加(主に途上国)ともに
生産性向上に寄与すべき『労働力』につき、
その量的側面よりも『質的』側面における劣化が著しく
進展してきているとの厳しい指摘には
一般民衆としては素直に『はい、そうですか。』と
同意などできるはずもありません。
いずれの人口動態傾向にあったとしても、
それぞれに合わせた適切な政策的処方箋を打ち出すことが叶えば
予想に反した『好』結果が導き出される事例も現にあるからです。
つまり、前もっての『一般論』的予見が常に正しいわけではなく、
実際の政策適用がいかなる進化をもたらしていくかを常に注視して
改良発展していくべき『実践(プラグマティックな)』的見方こそに
説得力があるということです。
その際においてもし『短期』にでも一般民衆の生活を
激甚に破壊してしまう『おそれ』どころか、
現実に現れ出てきているのであれば
早期介入でもって『手当て』を施さなくてはならないのです。
そもそもが現代の『高度情報産業資本主義』経済時代において
すべての分野で人間の手という『人海』戦術に頼り切ろうとする
志向性と雇用労働観だけで乗り切ろうとの発想こそが
知的怠慢(貧困)だとも感受されて仕方ないのです。
『自由民主』制には確かに著者が提起されるような短所もありますが、
それでも先手を打つことができるという長所が上回るものです。
その『短期』に選挙を通じての一般有権者からの意見を
『公聴』することは著者が考えられている以上に
きわめて大切なことなのです。
『短期』的な政情不安よりも
『中長期』的に政治参与できなくなる、
もしくは、その機会が著しく狭められていく状況こそが
もし政府が間違った政策を貫き通している事態に直面してまでも
的確な批判を差し止められた(ている)状況を想像すれば
水面下でマグマのように不満ガスが充満していき
次なる政情不安を生み出していくのですから・・・。
第1に、①で『国家』の過剰債務問題に対しては
否定的評価を下されている割には
教育投資(こちらも民間だけでは限界がありますので
国家主導による長期投資計画が必要不可欠だからです。
この国家による投資も『債務』の積み増しにあたるのですが・・・)が
長年にわたって怠られてきた結果、
『現在の経済活動に貢献する能力を備えていない労働者が大量に
生み出された。』(本書64頁)という指摘との組み合わせで
批判していく志向性では、
現状政策のあり様に対する批判としても
そもそも混同矛盾を来してはいませんかという素朴明快な疑念であります。
その大本にはやはり貨幣『観』に関する
決定的にして根本的な理解不足があるように感受されてならないのです。
それは下記の点にも表出されているようです。
特に著者がその論拠として本書でも引き合いに出されている
すでに相当な疑義が各方面から厳しく指摘提出もされており、
その後のG20サンクトペテルブルク宣言(2013年開催)や
IМFにおいてすら『明確な相関関係は見られないとの見解を
示したが、債務負担の水準が高いほどGDP成長のボラティリティ
(管理人注:ボラティリティとは変動性のことです。)も高くなることは
指摘している。実際、債務負担の見通し、つまり増加傾向か、
減少傾向かは経済成長に少なからず影響する。(中略)
基軸通貨国のアメリカですら、まともな人は維持し得ないほど
巨額の債務は経済成長を妨げると認めているのである。』(本書56頁)と
言及されている(とはいえ、直近のIМF報告では現下の紛争などを
受けてまたぞろ方針転換しそうな点も気掛かりですが、
いわゆる『世界債務』状況といっても各国それぞれに事情が
まったく異なるわけですから、『木を見て森を見ず』の
それこそ近視眼的志向性でもって、それまで回復基調に入りつつあった
世界経済動向を急激に転換させてしまいかねない点にも
十二分にご配慮願いたいものです。)わけですが、
そもそも『資本』主義経済自体が投資や消費の循環構造を必要としており、
その『増減』自体こそが景況を決定し、
『債務(=裏面での債権)』と『需要と供給』の関係性も相互補完に
あるわけですし、そもそもが社会など『資本』主義経済体制であろうとなかろうと
先行きなど絶えず『不確実』なわけですから、
前もって予測判断などできません。
つまり、債権=債務『額』の絶対性に問題があるのではなく、
経済の『供給能力の上限制約』こそが最重要着眼点だということです。
その点で地球全体の資源的制約性についてこそ
常に最大限の注視を怠ってはならないということなのです。
ですから、
今後はMMTの知見(彼ら彼女らもその点は最大限考慮されています。)に加えて
『成長』志向型の『持続可能な経済発展』(これこそがSDG’sの理想でも
ありましょうから・・・と少なくとも管理人などは信じ、理解しております。)を
『財政債務的支援を織り込んだ投資―消費関数的経済効果』の観点からも
随時の検証改善作業をしていかなくてはならないということでしょう。
それが現在、『天井(上限)』に達しているのかどうかなども
現実の経済『実感』と重ねて判断していかなくてはならないのですから、
むしろ、現在はまだ債務(投資=消費)が『不充足』段階にあるのかもしれず、
それこそが経済『成長』が停滞している最大要因である可能性も
十二分にあり得るのです。
来日されたステファニー・ケルトン教授も確かそのような見方を
紹介されていたように記憶しております。
もし、十二分に債務が『過剰』だというならば、
すでにさらなる『成長』もしている(いた)はずだし、
『成長』によってこそ『過剰』債務問題も縮小していくだろうとの見立ては
著者自身も下記の引用箇所でしかとご理解されているようですから、
この点に関する論考考察ももう少し丁寧な補足説明をしていただいておれば
管理人のような素朴な疑問点も解消されていたにちがいません。
過剰『債務』問題をご指摘されるのであれば
むしろ『民間』による過剰債務がいかなる過程で創出されていったものなのか
(例えば、著者も例示された国家政策による過剰な住宅政策のあり方や
サブプライム・ローン問題の遠因など)や
現代『資本』主義経済の根本的成り立ちとそのあり方にこそ焦点を当てた
改善案の提示をされるならばまだしも理解はできるのです。
されども、著者も現行『資本主義』経済のあり方に多少の批判的眼差しは
向けられているものの、あくまでもこの体制を大前提に議論を
展開されているのであれば、マクロ(『国家』)とミクロ(『民間』)での
その『債務』問題のあり様の相違点についても緻密な検討を経た
事態改善策として示唆していただけなければ
当の世界銀行やIMFですら『観』が揺らいできている以上は
説得力に影も差すだろうと案じる次第なのです。
『詰まるところ、債務が維持できない危険な水準にある事態に
対処するための処方箋は幾つかある。
よく言われるのは、デフォルト、財政緊縮、救済であるが、
いずれも経済を一段と縮小させ、景気見通しを悪化させる。
重い債務負担から解放し、長期的な繁栄をもたらす(少なくとも有害でない)
方法は、債務を管理できる範囲に抑え、経済成長することである。
成長だけが、重い債務負担から脱し、長期的な繁栄(少なくとも害を
もたらさない)に導く方策なのである。
現在、持続可能な水準に債務を抑えている国の存在しないこと自体が、
世界の債務問題リスクなのだ。』(本書56頁)
先ほども
『基軸通貨国のアメリカですら、まともな人は維持し得ないほど
巨額の債務は経済成長を妨げると認めているのである。』(本書56頁)と
引用させていただきましたが、
著者がどなたを『まともな』人とし、どなたを『まともではない』人と
しておられるのかは本書からはその具体的論者名が挙げられていないために
わかりませんが、推察するには
昨今世間に浸透しつつある『現代貨幣理論(MMT)』という説明手法をもって
この『債務』問題にいかに対処すべきかを論じている
一連のいわゆるMMTer(=erは論者という意味です。)と呼称されている
集団のことでしょうか?
著者も旧来の主流派経済学を学習されたとお見受けしますが、
主流派であろうと、非主流派であろうが、
現代『資本』主義経済における現代『金融/財政』制度では
『事実』として国家による通貨(『国債』も現代では<貨幣化>していますので
通貨の一種として含みます。)発行によって
われわれ一般民衆が「お金(資産)」として手にして
日々「通用」させていることくらいは
当然ながらどなたでもおわかりいただけましょう。
ちなみに、ここでは一般的には「通用」していない
(「実体」経済市場には出回らない純粋な各種金融機関間においてのみ
閉鎖的に流通しているにすぎない包括的決済手段としての
制度的「貨幣」である中央銀行が設定する当座預金
<日本では日銀当座預金のこと。>)「特殊」な貨幣については
ひとまず留保しておきましょう。
ここからどなたでもご理解いただけることはただ一つ。
『誰かの負債(赤字)は誰かの資産(黒字)』という当たり前の
『事実』だということに尽きます。
その最初の第一歩こそが『国家』による『民間』への通貨創造放出―循環回収の
経路を生み出していくことなのですから。
ですから、今日の過剰『債務』問題を論ずる際の最大にして最強の
着眼点は、
①『民間』のどこかでこの通貨が『滞留』している可能性という
不均衡問題
とそもそも論としての
②現代経済の『規模性』に見合わない過剰なまでの
金融・財政政策面での『緊縮型自粛』志向との強力な連携こそが
一般『経済』を歪めてしまっているということです。
もし、『国家』による『通貨』債務負担『率』が
経済成長『率』以上に過剰だと判断するならば(しかも
正常な経済成長を促すための投資―消費効果もたいして現れ出ていないとの
前提条件であれば。またそのことは『民間』債務の悪い方向での
過大膨張=『バブル』現象やそれこそ『悪性』インフレ現象を
誘発させてしまいます。実際にそうなのかどうかこそが
『すべての基準』なのであってその評価診断を見誤ると
文字どおりの『死活』問題を引き起こすことにこそ
最大限の警戒注意が必要なのです。
そのことに鑑みると、『輝ける』80年代末期から90年代初頭は
本当に憂慮されるほどの深刻な『バブル』だったのか?ということも
最近では再検討する余地も出てきているように見受けます。
そのような日本のバブル経済『検証本』も幾冊か出ているようです。)、
その過剰分を吸収破壊する措置だって現状できるのですから。
というよりも、我が国の事例を見ていただくと
そうなっていますよ・・・という単純な話なのです。
問題はこの『通貨』債務を発生させる経路において
アクセル以上にブレーキを踏みこんだり、
アクセルとブレーキを両方踏み込んで身動き取れないといった
奇妙奇天烈な『危険』運転をしているとの疑惑にこそ
きちんとした検証を経た国民経済を真に改善していくための
政策議論に徹すべきだろうというに尽きましょう。
過剰『債務』問題の解決策だって?
『国家』ならば上記方法がありますし、
少なくとも『成熟』した『資本主義』経済体制では
『民間』においても下記のような再出発できる
法整備がすでになされているのです。
このように現在ではより洗練された解決法が
法制度のみならず、会計制度でも用意されていますから、
賢く活用できれば叶うはずなのです。
ただし、『国家』債務問題の最終解決方法を実施する際には
『民間』債務以上に慎重に事を進めなくてはなりません。
急激な引き締め政策は『皮肉な』永仁の徳政令のような
悪影響を社会の広範囲に及ぼすからです。
『徳政令』や『ジュビリー2000年問題』などの
債務(借金)『棒引き』研究も面白いのですが、
実際の活用時にはやはり副作用が大きすぎますから、
『悪用・濫用くれぐれも厳禁』だという点も見えてきます。
不良債権の処理過程を見ていてもご理解いただけるかと思いますが、
債権放棄とともに新たな『公的』資金の注入措置による
総入れ替えでもって安定化を図らなくてはならないのです。
その『公的』資金の原資が国民の『血税』から(実際には
すべてがそうではないでしょうが。)との多大な誤解を与えたことと
『正しい』意味での経営責任追及を回避して、
社員の再雇用確保努力も中途半端なままで、
政治的支援とともに官民ともの十二分な説明責任を果たせぬままに
とある銀行は『外資系』の傘下に下るなど
その引継ぎ契約履行上の疑惑も多々あったからこそ
これだけの後遺症がいまだに残されているからなのです。
いわゆる『瑕疵担保特約』問題のことです。
そのためには、社会制度の『仕組み』を表面的にではなく
思想哲学的かつ歴史的な総合理解によって知り尽そうとの
『意志』を持っていなくては叶いません。
そのような『決然たる意志』がなければ
『債務』問題をただただ『怖い、怖いよぉ~』と
指をくわえて泣き叫ぶほかありません。
世の中には熱くて冷静な『心』をもった有識者も
『野』にたくさん潜んでおられますから見出す努力も必要なのです。
変なコンサルタントに当たれば目も当てられませんから。
若干の『専門家』活用法にも触れてしまいましたが、
このような積極志向の見方もありますよ・・・とだけは
みなさんにもぜひともお伝えしておきたかったのですね。
閑話休題。
本街道に戻りましょう。
現在において考えられる『債務』問題に対する
『合法的』解決法の話題でしたね。
というわけで、
この『債権(黒字)-債務(赤字)」の壮大な『束』は
常に『流動』的な『信用』関係だということですから、
誰かがいつまでも債務者とか債権者とかの立場に
『完全固定』されているわけではありません。
債務者でも現代資本主義経済社会の枠組みルールでは
完全に行き詰れば『破産』ないしは『事業再生』スキームなどで
何度でもやり直せる制度的仕組みになっていますから
いわゆる前近代にあったような封建的奴隷制度など
建前上はあり得ないことからしてもおわかりいただけましょう。
もっとも、個人的な社会的信用を一時的に喪失してしまうことは
ありますが、それとても本人の今後の「誠意」次第で
何とでもやり直せるのが
現代経済の強みであり、寛容さでもあるのです。
さて、ここでわれわれ民間人と国家の大きな違いとは何でしょうか?
それは一般社会で『強制通用させることが叶う強大な力』を持った
貨幣(お金)を創造できるか否かであります。
もちろんできませんよね。
民間人ならば通貨「偽造/変造」罪、同行使罪によって
国家から処罰されてしまいます。
いわゆる「仮想通貨(暗号資産)」なども
金融関連法令や規則、行政通達ほかで
金融庁などによって厳しく管理されていますよね。
それも一般「通貨」とも異なる高度な「匿名性」が
マネーロンダリングほかの犯罪に悪用されるなど
様々な問題が付着しているからです。
言い換えますと、「通貨」として認められるためには
それだけ高度な『信用性』が担保(保証)されていなければ
安心して活用できないからなのです。
よって、この貨幣の『信用度数』によって階層性も
出てくるというわけですね。
まとめますと、通常国家であれば
自国「通貨」を発行できる高度に強力な「特権」が
あらかじめ備わっているということです。
そうでなければ、「独立主権」国家ではないからです。
さて、ここからさらに進めましょう。
一般的な「通貨」としての貨幣も「債務(負債)」として
この世に出てくるわけですが、
これはあくまでもわれわれによる
様々な社会的経済活動を通じて
『付加価値(膨大な供給能力を作り出していく
いわば個々の始源的経済諸力とでも言ったらいいのでしょうか?)』を
増殖させていくための金融的「触媒(媒介的存在)」に
しかすぎないということなのです。
ここからは次のことがご理解いただけましょう。
『貨幣とはあくまでも供給能力(膨大な個々の付加価値の総計。
これをして数値的にはGDP指標などで象徴表示させていきます。)を
創造していくための介助的存在』だということ。
言い換えますと、『供給能力が主役で、貨幣は脇役』ということに
なりますよね。
ここを完全にご理解いただければ
いわゆる『債務』の総体額が最重要ではなかったことも
実はどなたにでもいとも簡単に「見えてくる」はずなんですよ・・・と
いうことにすぎません。
それが『累積債務(プライマリーバランス=歳入・歳出の均衡対称性)』よりも
現実経済のうえではGDP(経済成長)と債務の『比率』関係こそが
何よりも判断基準として適切妥当だろうということの真の意味なのです。
この点に関して今月もIMF報告が『警告』を出されていましたが、
管理人などはメディアが発する表面的・断片的情報だけをうのみにして
不安にさせられないように、次世代のためにも安心できるような
問題意識をもった世に隠れた賢者をこれからも探し出していくことで
みなさんとともに『責任ある』真の意味で『ツケを回さない』
経済政策のあり方を随時探求していく予定です。
脇役の貨幣「通貨」に関してでした。
特にここでは「国家」債務問題が
主題になっていますので、ここに焦点を絞りますが、
さきほども説明いたしましたように
「自前」で「通貨」を準備調達できるか否かが次なる問題だったのでした。
ここでは話題の「国債」について
その誤解されて世間に流布してしまっている
いわゆる『国の借金』問題について誤解を解いておきましょう。
『国債』も何の裏付けもなく発行されるわけではありません。
まずは、「実体」経済内のモノやサービスにおける
「需要―供給」関係と見合った交換比率でなければ
適切な調整媒介役を果たしてくれません。
ここでも「実体」経済のモノやサービスの方が
主役であります。
そしてインフレ/デフレかも
この「実体」経済のモノやサービスの方において
判断基準とされるということです。
ですから、こちらの需給状況次第で
経済変動は見ていかなくてはならず、
貨幣の「数量」そのものはあくまでも付随的な
従属関係にしかすぎないというわけです。
その証拠にモノやサービスが極端に不足している状況
(たとえば、戦争や災害)では
いくら貨幣を積み立ててもトイレットペーパーほどにも
何の役にも立たないことくらい想像できましょう。
そうです。
これこそが恐るべきハイパーインフレ現象の実像なのです。
さてさて、せっかく過剰な供給能力があって
需要「不足」状態にあるデフレであっても
その恩恵はあくまでもみなさんの所得の方が
下落していく物価水準よりも上方にあるごくごく初期だけのこと。
その状態を手放しで喜んだまま、何もせず、
もしくは不適切な処置をほどこしたまま「長期化」していけば
いかなる事態が待ち受けているか?
そうです。
需要「不足」の次に来るのが
それに連動させた供給能力『毀損』であります。
たいていは前者の方が先ですから
マクロ経済学では「短期」的問題とされ、
後者が「中長期」的問題だということになります。
経済学を少しでもかじったことがある方ならばご存じのように
ケインズ経済学では前者の問題を最重要視し(もちろん後者にも配慮しますが、
とにもかくにも『不況をはやく終わらせて安心させよ」が
彼の至上命題でしたから、どうしてもここに比重が置かれているのです。)、
(新)古典派経済学が後者のインフレ問題を最重要視するわけですね。
つまり、こういうことです。
(新)古典派はあくまでも「平時」型。
ケインズ派はあくまでも「有事即応」型だということです。
ですから、現在のような「有事(デフレ期)」にインフレ退治対策を
やらかしていては当然ながら
いつまでたっても『総(←ここが肝。つまり、社会全体の総体=
マクロ問題としてということです。)』需要「不足」は改善しません
(「総」ですから、個々のわれわれ一般民間人がどれほど
死にもの狂いで働いても限界がありますし、社会全体としては
ますます貧窮化がむしろ促進されてしまうのです。)し、
それどころか先人によっていざという時(まさに有事です。)のために
蓄積しておいた『総』資産(虎の子の『供給能力』)すら
食いつぶしていく(毀損)ことになるのです。
だからこそ、(新)古典派は過剰な「供給能力」を何とか「圧縮」
(つまりは、「不足」した需要に合わせていくというわけですね。)する
『供給側』重視の経済政策だと評価されるゆえんなのですね。
要するに、我が国ではその「長期化」戦略の成れの果てが
ついに到来してしまったということです。
つまり、社会科の教科書で通常描かれるような
『需要-供給曲線』が最終的には均衡ライン(交点)に
『自然』収斂していくというような流れだと
みなさんも初等義務教育段階で教わったかと思いますが、
現実社会では『自然』に・・・という点がきわめてあやしく
景況にかんがみて、『人工的』な経済政策による『調整』も
加えていくのが通常なのですから、
本来であれば無理のない時間的間隔でもって
実態に見合った正常調整がなされていくべき(いった)はずのものも
悪い方向での人為的介入でもって歪曲されている可能性だってあるわけです。
しかも、『自然』市場仮説もきわめて怪しいものです。
人間の『経済』において『自然』な市場作用に任せていると
どうなるかも前世紀に学習したはずなのです。
『人間は自然な荒野(サバンナ)などに住んでいられない!!』のですから。
『優勝劣敗』とか『自然淘汰』とかを回避させて
共生できる環境を整えていくことこそが
『知恵』ある人間の役割というものでしょう。
現在はこの手の『「自然」に委ねろ』式の野蛮な発想が
左右問わずに社会に満ち溢れているからこそ安心できないのです。
その意味では『脱』成長論も成長『至上』主義(状況を加味せずに
あくまでも無理な成長『本位』の硬直したイデオロギー志向。
『成長』肯定派でもこの点を織り込んだうえでの無理のない
経済『時務』計策や計略を立案・実施していこうと呼びかける論者ならば
問題ありません。ですから、今回のテーマでは『成長』論者の
見極め評価基準とその重要性についても同時に強調して語らせていただいて
おります。)も同罪なのです。
というよりも、実態現象の観察と論理的帰結からも
そのようになるからですね。
要するに、ここで最重要問題として強調させていただきたかったことは、
日々の『需要』問題はそのつどの『短期的』解決で済みますが、
『供給能力』の蓄積創造については『中長期的』な積み上げが
必要不可欠となってきますから、いちど人工的に『毀損(破棄。
もちろん場合によっては余剰分については破棄せざるを得ない、
した方がかえってよい事例もあり得ますが)』してしまうと
その『復旧』に倍以上の期間がかかることもあり得るからこそ
『供給能力』を強制的に減らしていくような経済政策は
こと『不況(デフレ)=有事期』においては
『死に至る病』だということなのですね。
我が国の『失われた○○年』はこのような道すじを
なぜか辿ってきたのです。
それは著者が強調して警告されているような一般の『有権者』が
政治家などに求める政策『嗜好』が短期的『志向』の
バイアス(偏向圧力)をかけ続けてきたからなのでしょうか?
そのようなことは、こと『一般』有権者においては
ない(少なくとも影響力は小さい)のではないでしょうか?
あるとするならば、政治献金などを通じた各種業界団体などによる
特殊な『政治圧力団体』だけに顕著に見受けられる現象では
ないでしょうか?
『陳情』に関しましても、われわれ一般有権者と
それらの団体とではまったく政策的影響度数も違います。
しかも、国内政治における運動圧よりも
さらに決定的に国内政治と経済に多大なる影響を与えていると
思しき事態があります。
著者はそのような国際機関にお勤めになられた体験をお持ちですから、
認めたくはないと推察されますが、
『国際協調』という『名目』にしては
『実』のところではさらに強大な権力圧も
各国の内情に配慮したとはとても感受されない形で
政策反映されてきたという『不都合な真実』もあるのです。
そして、そのことこそが各国民の怒れる真因だということです。
各国の政治指導者にも玉石混交な人物がもちろんいますが、
絶えず有権者と接する機会がある以上は
国際機関での『官吏』に比較すると
それでも『まだまし』でありましょう。
むしろ、各国の政治家や官吏も
このような目に見えないところで企画立案されてくる
国際的『標準』モデルをうたった政策パッケージを
押し付けられてくることにも不満を持っていると見る方が
これまでの世界で生起してきた各種紛争の真の対立実像を眺めていても
そのように強く感受されるからです。
要するに、『われわれ各国の政治指導者と一般国民だけに
政治責任を押し付けてくるような態度こそ解せん!!』ということですから。
実際の紛争に至る前段階でこそ、
その要因となりかねない政策『勧告(場合によっては強制)』姿勢をこそ
あらためていかなくてはならぬのでは・・・ということです。
『人間はそんなに偉くないのですから・・・。』ということですね。
ですから、著者が本書でも憂慮されているような
『短期』志向によって政策的安定性が歪められていくことによる
弊害とその是正論につきましても
もう少し緻密かつ実情に応じた適切な改革案のご提示でなければ
最終的に著者の改革志向性について評価付けしていくうえでも
著者が想定されているよう理想論からも
むしろ遠ざかっていってしまう可能性も検討する必要があるのでは・・・と
いうことです。
話が先走ってしまったようです。
話題を戻しますね。
ということで、現在はデフレというよりも
「ディス(非)」インフレであって『総』需要不足状態は変わらず、
まだ多少は供給能力に余力がありそうですが、
国内で調達できない不足分を国外から輸入することすら
著しく困難な事態へと立ち至ってきています。
しかもエネルギーや食糧自給率は世界でも最低水準にあります。
この現象をして「悪性」インフレといいますが、
コストプッシュ型インフレは通常の正常経済化にある
(つまり、需要『牽引型』=ディマンドプル)インフレでは
ありませんので、これをして「スタグフレーション」という論者も
いるようですが、
我が国ではデフレ伴奏型コストプッシュインフレのような
特殊な「ディス」インフレ経済状態に入りつつあるように
診断される論者も見受けられます。
こんな『伴奏』なんて誰しも聴きたくはないでしょうが・・・。
でも、どうもこのような珍現象が
現下の我が国経済の実態のようなのですね。
諸外国では全般的なインフレ現象の中で
金融緩和手仕舞いの一環として金利引き上げ路線が
採用されていっている中で、
我が国でもそれに追随していわゆる『出口』戦略を
採用していいのかどうかは慎重に検討判断しなくてはならないところに
『難関な壁』がありそうです。
そのようなわけで政府も日本銀行も『おいそれ』とは
簡単に手仕舞いできない模様なのです。
とはいえ、ここまでの経済状況で判明してきたことは
金融政策のみに過度に比重を置いた路線では限界があるということは
すでに優れた有識者も厳しく指摘されてきたところです。
やはり国民への直接的給付金の支給といった
『財政』政策による手厚い生活支援を要する場面に来ていると
診断して即決実行に移っていくべき時期に差し掛かっているのでしょう。
今年は参議院選挙もあり、
著者のような見方からは辛辣な『バラマキ』批判がまたぞろ出てくること
必定ですが、背に腹は替えられないのです。
なぜならば、現下の状況では『民間』主導型の賃上げは
相当な無理が強いられているからです。
それはコロナ禍以前のいわゆる『アベノミクス』政策が始まる段階からも
すでにわかっていたことでしょう。
だからこその『官』主導の賃上げだったのです。
そして、ここが極めて最重要点なのですが、
『官』主導だからこその『財政』政策による
マクロ経済支援が要請されるはずだったのですが・・・。
『官』主導という割には『超』緊縮型志向の『バカの壁』と
『有象無象』の悲観論者のプロエコノミスト(各種シンクタンクなどに
属する)や経済評論家、学者、メディアコメンテイターといった
一連の『畜群』諸氏によって本来なすべき政策の『王道』が
邪魔され、歪曲されていき、
そして国民の大半が塗炭の苦しみを味わう状況に
追い込まれていったわけなのです。
『自力更生』っていう言葉を連想すると
どこかの国ですでに大失敗した『悪夢』が甦りそうです。
管理人も何も『自助努力』や『民間活力』による
いわゆるアニマルスピリッツを一律に全否定しているわけではないのです。
ただ、そのあまりにも人間的な努力を発揮し、
その成果が如実に出てくるためには
経済の『基礎体力』と『新陳代謝』と『免疫力』が好循環しているといった
社会心理学的な前提条件がなくてはならないのです。
だからこそ、それを下支えするための『アベノミクス』の心理的効果が
期待されていたのでしょう。
いわゆる『リフレ(インフレターゲティング戦略)』派のみなさんも
その点まではご理解されていたと感受しますが、
あまりにも金融政策に激しいまでの傾斜偏向されていたことが
厳しく批判されるようになったわけですね。
良識ある方は現実の動向を踏まえてすでに『転向』された方もいますが、
いまだに頑ななまでにイデオロギー闘争の渦中で
現実をまったく見失ってしまっている方もおられるようです。
『政策論争も学説論争もただ単なる暇人の知的遊戯ではないのです。』
『日々の真剣なる営みなのですから。』
『いたずらに生を弄んではならぬのです。』
『優れた知的財産はみなを生かすための公共的使命を
帯びているのですから・・・。』
されども、先の大戦の失敗と同様に必要な『戦略(生活)』物資の
支援も微々たるものだったのでした。
『トリクルダウン効果も今となっては<神風>を期待するようなもの』
だったからです。
この期に及んでもなお『自己保身』に固守するとすれば
それはあまりにも一般の無辜の民にとって残酷というものでしょう。
つまり、現状すでに『兵站(補給路)』が完全に伸びきっているのです。
しかも、エリート上層部は誰もこの結果責任を取らないという
おぞましい事態に陥っているわけです。
このままでは『グレイトリセット』という名の赤色革命が誘発されて、
安全保障上の地政学リスクをもろに引き受けざるを得ない
厳しい現実が待ち受けています。
現在の『赤色』革命とは背に腹は代えられぬといって
腹をすかせた民衆が藁をもすがる思いで『権威主義型全体主義』体制を
待望支持してしまう政治状況を誘発させてしまうことです。
著者も本書で示唆されているように
『決められない』政治は『合(衆)議制』を大前提とする
『自由民主制』の脆弱点でもありますが、
それでもなお、間違った決断を強いられて、それに対する
一般有権者からの政治的審判の機会が与えられないままに
唯々諾々と支配従属させられていく政治体制よりは
十二分に『救い』があるのですから・・・。
このような『急進的』政治体制から一般国民を救済するためにこそ、
著者がご提示して下さった改革案を参照しつつも、
その案とも異なったエリート階層『本位』ではない
より『民意』に即しての『早期回復』が可能となる
中長期的安定をも企図した政治改革志向こそが要請されているのです。
令和の『民本』主義とでもいうべき政治『新』体制です。
『新』体制と言えば、政治史をご存じの方であれば
誰しもが警戒をもって接すべき事柄でしょうが、
現代社会において許容される水準での危機に即応できる
政治体制を構築準備していくことは責任ある者の務めであります。
一般有権者もそれらの『有識』指導層を叱咤激励しながら
『輔弼』していくべき政治責任を負っているのです。
その責任を放棄してしまうと、
著者のような提言も受け入れざるを得ない状況を招いてしまうのですよ・・・と
いうことですね。
このような『急進的』政治状況を招き入れないためにこそ、
ケインズ卿もマルクス的問題意識にまで危機意識を持って、
戦後英国の『福祉国家』構想の絵図を描いていったのではないでしょうか?
これがそもそもの第二次大戦後の『修正』資本主義の本質的意味なのですね。
この重要性が次第に薄れていくなかで
『危機の二十年間』のあの忌まわしい記憶も忘れ去っていたことが
まさに現下の悪夢を呼び覚ましたのでしょう。
みなさん、本気で『自由民主制』を護持することの
真剣さをもって対峙しなければなりません。
『対岸の火事』だとか『他人事』で済ませてはならんのです。
さて、現下の我が国経済の見立ての話題でした。
確かに現下の状況を厳密に精査して眺めてみると
『さもありなん。』と感受されてしまう部分もあるということでした。
若干専門的な話題になり難しく感受されましょうが、
景況分析方法やみなさんの生活において先の見通しを
立てていくうえでは重要視点となりますから語っておきますね。
経世済民思想とこの『観』を正しく措定することが
いかに生身の人間にとって、
そして社会と国家、世界平和の維持存続にとって大事なお話しなのかを
どうしてもご理解いただきたいのです。
そこで、現下の物価上昇現象を適切に見極めていくための
補助知識をご提供しておきましょう。
消費者物価指数によって景況判断(主に物価変動について)していくことに
なるわけですが、そこで『コア指数(CPI)』というのがあります。
この『コア指数(CPI)』の定義において
通常の教科書や一般的な経済学入門啓蒙書では
『生鮮食品(酒類などの嗜好品食料品などは除く)を除く』物価指数で
説明されていることが多いのですね。
なぜ、除くかというと、言うまでもなく『生鮮』なので
季節や気象状況、内外の環境事情によって多大な影響を受けやすいために
不安定になりやすく一定しないためです。
これにもうひとつの多大な影響力を受けやすい品目があります。
そうですね。
『エネルギー調達費用』です。
特に日本のような極度にそれら(上記食料品類+エネルギー)の
『自給率』が低い国においてはこの両者を含めた計量分析によって
実際の経済物価指数評価をしていくことこそが、
むしろ『実情』に即した
より丁寧な診断結果を出せるというからなのです。
そこで、このエネルギー分を加えた
『(生鮮)食品とエネルギーを除いた』指数(CPI)のことを
『コア+コア』で『コアコア』CPIなどと呼称しているのですね。
この『コアコア』CPIで現下の日本経済を診断すると
『実質的』にはより物価『下落度』が高まるということです。
具体的には物価水準を計る物差しである『GDPデフレータ』による
わけですが、この物差しを使って過去の統計数字と
比較分析していくことによって
現在の物価変動率(需要と供給のずれ幅=需給ギャップ)を
勘案していくことになります。
しかも、この『需給ギャップ』に関する統計の出し方が
内閣府と日本銀行とで違いもあるようですから、
一般人としてはいかに評価するのが適切妥当なのかも
なかなかに見通せないところも難点なのです。
政府の統計改ざん問題もあったりして、
その『信頼度数』が落ちていっていること。
さらにこの統計結果を出すための計算方法や基準となる定義すら
過去のどこかでどなたかのご意向で抜本的に変化していることも
加味して見ていかなくてはなりませんから、
この種の経済統計調査分析の方法論や見方を教わり、
訓練したことがなければ判別することもままならないのですから・・・。
そのような『総合』分析をして初めて見えてくるのが
諸外国との比較もより注視して判断評価を加えていかなくてはなりませんが、
一般的な『相対』状況としては
我が国の場合には『いまだデフレ』状況が続いているということになるようですね。
ここが一般人の生活感覚として人によってまちまちで
にわかには判別しがたいのですが、
教科書的なインフレの定義も加味して考慮しなくてはならないのです。
そのインフレを見る視点としては
すでに2種類のものがあると解説させていただきましたね。
深刻な『デフレ』脱却こそ、
将来の『インフレ』退治よりも
より重視して考えている論者は
通常の『好ましい』インフレのことを『需要牽引型』インフレといい、
『好ましくない』インフレのことを
『(調達)コスト(諸費用)プッシュ(押し上げる)型』インフレと
評価されています。
ここに外国為替との関連も踏まえて
円高/円安におけるそれぞれの『好ましい/好ましくない』なども
複雑に相関していくことになりますから、
専門家ですら、その評価には慎重な姿勢にどうしてもなり、
特に『実務家』においては、
その『出口(問題解決)』戦術(略)を決定的に間違えると
政治的責任となって自らの業績評価にも響いてまいりますから、
なおさら、いわゆる『偉い』人になればなるほど
現在実施中の政策を容易には転換できなくなるといった
専門家『心理』とでもいうべきもので動けなくなることにも
なるわけです。
『経済は感情で動く』という名著もありますが、
所詮は経済『政策』も人間感情によって
突き動かされてきたのです。
いずれにしましても、経済『成長』しているか、
物価変動を含んだ景気動向についても
われわれの生活『実感』で評価していくほかないようなのです。
今回の書評ではもはや詳しく掘り下げて語りませんが、
いわゆる経済における『バブル現象』が
いかなる要因や心理的/物理的構造によって生じてくるのかも
実は『前もって』判断できないのです。
特に景気が良い時には。
常に『事後』判断でしか見極めることが難しいからです。
しかも『バブル現象』にも『好ましい/好ましくない』問題が
ありますから、よけいに判断は難しくなるわけですね・・・と
いうことです。
なんだか腑に落ちない話ではありますね。
さてそのうえで、このたびのような事態は
おそらく我が国が初めて体験する事態であり、
従来の経済学の教科書にすら載っていない
『教科書が教えない』経済学だということです。
では、『万事休す。もはや座して死を待つしかない・・・。』の
でしょうか?
管理人などはそんな「弱気で卑怯・卑屈」な態度は
断じてとりません。
心ある方々とともに問題解決の糸口を探求し、
『必ずや、この難局を打開してみよう』との
激しき『意気』でますます燃え上がります。
それこそが、『学問の醍醐味』でしょうが・・・。
そのように真に『生きた』学問をせずに
ここまでやり過ごしてきた似非学者こそが
(新)古典派をかたくなに遵守する
彼ら彼女らが日ごろ信奉してきた標語『市場からすみやかに退場せよ』で
ありますよ、ほんとに・・・。
われわれ各人の「生死」がかかっているのですから・・・。
というわけで、従来の『パラダイム(価値観体系)』から
『シフト(脱却)』を試みていかなくてはなりません。
みなさんが各自の生活『実感』に根差したエコノミストになるほかありません。
(故小室直樹博士のご遺言でもあります。)
ただし、個人的感覚と社会全体での感覚では相反してくることも
多々ありますから、ことに『マクロ』経済学を取り扱う際には
ご用心願います。
いわゆる『合成の誤謬』パラドックス論については
前に語っておりますので、ここまでとしておきます。
何はともあれ『善は急げ』であります。
さて、最重要論点でありますので長々と迂回しすぎてしまい
申し訳ありません。
『国債』発行の担保は貨幣発行と同様に
第一義的には『供給能力の有無』にあるというお話でした。
ところで、『国債』発行にはもう一つの重要論点があるのでした。
それが、ただいま現在の『生きた教材』でもあった
ロシアの『国債破たんリスク』の問題なのでした。
つまり、『自国通貨建て』であるか『外貨建て』であるかも
またきわめて重要になってくるということですね。
自国通貨で決済する分には
ただ単に自国通貨と自国債を交換するだけの話ですから
何ら支障はありませんね。
問題は外国との取引が絡んでくる場面であります。
『外貨建て』であればその返済に『外貨』でもって
支払わなければなりませんから、
常日頃から十二分にいざという時に決済不能状態になって
債務不履行=自国の信用低下につながらないためにも
『外貨』を準備しておかなくてはならないからです。
いわゆる『外貨準備』の意義です。
ですから、今回のような国際決済網から外されてしまいますと、
『外貨準備』があろうがなかろうが、
とたんに決済困難に陥るというわけですね。
ここでも『信用』問題が前面に押し出てくるわけです。
つまり、国家間の『信用(信頼関係)』を喪失もしくははく奪されてしまいますと、
まさしく今ある『外貨準備』だけで
つつましくやりくりするほかなくなるわけですね。
とはいえ、そこは『事実は小説(筋書き)よりも奇なるところ』も
あるわけですね。
このような激しい国際世論からの反発がある中での
誠に厳しい政治的現実の前でどこまでかの国が行動原則として
視野に入れているかは計りかねますが、
それでも自国資源を含む諸々の『供給能力の制約』が
どれほどの政治行動の自由を許容するかで
すべてが決まっていくからなのです。
だからこそ、この根本のところで『依存』させられてしまっている
周辺諸国はなお態度を決めかねるという矛盾限界点もあるわけなのです。
ということで、『資源調達の多角化』、
つまりは、『経済安全保障上のリスク分散』という問題意識が
にわかに世界的脚光を浴びてきているというわけなのですね。
言い換えますと、
これが『信用』貨幣観からの『商品』貨幣観への後退が
意味するところでもあるわけですね。
つまり、当該国家体制のあり方に対しましても
『信用』のありやなしやで
貨幣経済『観』もこのように大幅に変容を来してくるという
問題なのでした。
これが、いわゆる貨幣の「プール(過去に積み立てていた総蓄財分)」から
しか取り崩せないといういとも哀れな「貨幣プール論」であります。
『自国』通貨でのやりくりができる上限は
国家内の『総』供給能力と世界からの政治的『信用度数』次第。
しかも、その総量が常に変動して不安定・不確実さにさらされるからこそ
各国間での『バーター取引』も可能になるように
思慮ある国家であれば『国際協調』政策路線も採用するわけですが、
あくまでもこの路線も各国の『国益』によって
その内実『変数』が決定されていくという話なのです。
そのような次第ですから、
要するに、貨幣「数量」だけに拘束されてしまって
自由な経済発展を成し遂げることが叶わなくなっていくということに
対して常に政治的配慮もしておかなくてはならないのです。
つまりは、全体的な経済の「豊かさ」も
次第に「収縮」していくということです。
このことが、各国の通貨発行の担保として必要不可欠となる
何らかの『実物資産(金銀など)』獲得合戦へと
激しく邁進していくことになって
最終的には世界大戦の引き金ともなっていったとの説もあります。
かつてのような『金本位制』や『金銀複本位制』などの
何らかの他の『実物資産』とのリンクが要求されていた時代の
国家通貨制度体制では特にそのような金融面での供給能力制約も
強くあったのでした。
要するに、すでにある間に合わせのものだけで
「椅子取り(ゼロサム)ゲーム」をする羽目に陥ってしまうということです。
これが世界全体そして自国にとっても
経済の「パイ」を奪い合う熾烈な争乱へと発展していく
原動力となってしまうのです。
『さすがに、このような常軌を逸した状況はまずいよね。』と
いうことの反省から戦後の現在までに至る国際経済秩序が
試行錯誤のうえ次第に積み重ねられていったということです。
だからこその以上のような歴史的経緯も踏まえて
このような『債務と経済成長の関係性問題』に関する
従来の一般的解釈に対して
死にもの狂いの研究や政策『知見』も積み重ねられてきたからこそ
この点に関する修正変更要素も加味されて運用されようと動き出してきたかに
見受けられる昨今であるにもかかわらず・・・。
本書を公刊された2019年に至ってもまだ従来の『古典的』解釈知見による
貨幣財政認識にとらわれているように感受されてしまうのが
世界にも多大な影響力を及ぼしかねない有名な著者だからこそ、
世界の一般民衆も不安に駆られてしまうのです。
そのような高『邁』か高『慢』な知見かは存じませんが
そのことが一般労働者の『質の低下』と簡単に断言してしまえる点に
深い悲しみを覚えてしまうのです。
とはいえ、著者を厳しく咎め立てようと『糾弾』することが
管理人の意図ではないことはご了承願いたいのです。
それは、著者も指摘して下さっているように
技術革新の『勢い』そのものが強力過ぎて、
現行の教育『水準』が現在経済で要請される『水準』に
質量ともにただ単に『追いついていないだけにすぎない』と
評価されるからです。
雇用の『流動化』も各労働者にとって各自に適した
いわゆる『適材適所』化が図られており、
十二分な能力に達していないと多少感受されたとしても
生活面における所得獲得水準において
あまりにも不公平感を抱く状態になっておらず、
能力『底上げ』のための教育的投資やその機会が
適切に提供されていて、極端な格差拡大につながらないような
『マクロ』政治経済政策がなされていれば
それこそ、『分厚い中間層』も『底辺(どん底状態)からの底上げ』も
あり得て、各自で生活スタイルに見合った経済生活計画も
立案、実行できる道が出てくるわけですから。
それこそが、著者も本章で最重要課題として提起されていた
『社会的流動性』をいかにして活性化させていくのかと問題だろうと
思うのですね。
『社会的流動性を高めなければ、所得格差を解消することは
不可能なのだ。』(本書76頁)
ということです。
最後に『生産性』低下問題についてまとめておきましょう。
著者の見立てでは、製造業などのいわゆるモノ産業界では
技術革新の恩恵も受けた生産性の向上が図られてきた一方、
サービス産業界の方ではにわかに技術革新も進展せずに
あいかわらず相対的には生産性が低下したままだと言います。
つまり、前者が『資本』集約型だとすれば、
後者は『労働』集約型だということになるようです。
そしてさらなる厄介ごととして、前者の生産性向上が
皮肉なことに人間労働者の人件費を相対的に高めてしまうことから
失業リスクも同時に高まってしまう逆説的危機にと陥ってしまうということです。
しかも、転職業界が求める労働者個々の能力も
年々歳々と「壁」が高くなっていくために
再就職も困難な状況へと転じてしまうのです。
製造業からサービス産業などの他業種に移行するのも
教育訓練にどうしても時間がかかってしまいます。
また転職先のサービス産業界特有の性格もあるとともに、
経済界全体に占める割合も大きいために
なかなか経済全体としての生産性も上昇することが難しいとのこと。
これに加えて、人口動態の変動もそれをさらに後押しする
悪化要因となっている模様が説明されていきます。
このような現状をいかなる政策でもって改善させていくかが
問われているといいます。
このような過程における雇用労働調整問題と
生活者の安定性確保と格差是正をいかに図っていくべきかを
語られている場面で『ベーシックインカムか
減税による投資や雇用機会創出促進』による左派/右派間における
雇用労働観を巡る深刻な対立軸もあって
なかなか前途が見いだせない状況になっていることも
提示されています。(本書72~76頁ご参照)
そして、このような状況を招き寄せてきた原因は
国内対策よりもグローバル化対応に適応させた政策構築・運営に
失敗したからだとする
著者独自のいわば『グローバリゼーション』志向も絡んで
ますますその『成長』論に関する評価も適切妥当なものなのか否かが
見通せなくなっていくのです。
その憂慮点については次章要約で検討いたしましょう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
④『第4章 保護主義による虚偽の公約』
※本章では『グローバリゼーション』肯定を所与の大前提条件とした
いわゆる『保護』主義「的」政策について
批判的な見解が次々と語り立てられていくのですが・・・。
まず最初に著者自身の『グローバリズム』観や
『自由/保護貿易』観が明るみに出ていると感受された箇所を
引用しておきますね。
その前にそもそも著者がそのイメージ像を形成されるに寄与したと
感受される『グローバリゼーション』についての定義について
示唆される箇所がありますので、ここに引用提示しておきましょう。
『グローバリゼーションは経済学者のジョン・ウィリアムソンが
1990年に定式化し〔1989年発表〕、ワシントン・コンセンサス
によって世界の共通認識とされた。
ウィリアムソンは、財やサービスの自由貿易、国際間の資本移動、
人の移動、民間部門の成長が、経済発展を牽引するエンジンになると
考えた。それはその後、25年以上にもわたり途上国に勧告する
経済政策パッケージとされたのである。』(本書85~86頁)
ちなみに、上記引用箇所ではいわゆる『途上国』だけに
適用されたかのような印象を受けてしまいますが、
『先進国』でも同様な政策アプローチが採用されることによって
その後の一般国民が多大な被害を受けたことを通じて
それらの政策体系を推奨した彼ら彼女らからすると『反動』、
われわれからすると『正当な抗議』と感受される揺り戻しが
世界各国で生起している事態について総括されています。
著者はそのような一連の諸現象については『なるほど、やむを得ない』
側面もあるとしつつも、一般的に型にはまった言葉としての
『ポピュリズム』という紋切り語で評価して、
その後の『反』民主制的だと感受される急進的改革案の提示へと
至る伏線が敷かれていくことになります。
『ワシントン・コンセンサスに対しては、長年の間、批判が燻っていた。
政策立案者は、グローバリゼーションの本旨に反し、短期的な対症療法を
繰り返してきたツケを払わされているのである。
政治家は、何十年も、自由貿易に門戸を開放していると言いながら、
実際には保護主義的な貿易政策と移民政策が行われてきた。
中途半端なグローバル化は、公平な成長を妨げ、経済を停滞させ、
生活が悪化し、劣悪な政策に業を煮やした有権者に政治家は
突き上げられている。
この難局にあって主要先進国のトップたちはグローバリゼーションを
推進するよりも、孤立主義に傾斜していった。
かつての先進国トップはグローバリゼーションを擁護したが、
現在のトップたちは、今度は孤立主義に軸足を置き、高い関税障壁に
よって自国産業と労働市場の保護を優先し、移民規制を強化して
国内の雇用促進を図ろうとしている。
しかし、短期的な対策を次々と打ち出しても、長期的な経済成長を
一層損なうだけである。
先進国で保護貿易主義が台頭するなど孤立主義的な政策に向かうと、
他の多くの国も強制的に追随することになると歴史は証明している。
そこにグローバリゼーションが瓦解するリスクが存在する。』(本書86頁)
このように現状分析評価したあと、本章で以下論じられていくことになる
『狙い』が次の引用箇所のよな論調で提示されています。
『この章では近視眼的な政策立案者が保護主義的な政策を強化することで、
貿易、資本移動、移民の問題がどのような結末を辿るのか、
脱グローバル世界の先にある危機について見ていくことにする。』(本書87頁)
さてはて、みなさん(苦笑)。
このような著者の見立てについていかがな印象と思いを抱かれますでしょうか?
このあとでも著者特有の『グローバリゼーション』観や
『自由/保護貿易』に対する一般的な定義とその定義から帰結されてくる
思考枠組みをもって現状は『中途半端』で各国にとって『都合よき』
グローバリゼーションの『つまみ食い』的な『短期的』処方箋でもって
国内の一般労働者を『煙に巻く』かのような
グローバリゼーション対応政策が打ち出されてきたにすぎない・・・と
このような論旨展開が続いていくことになるのですが・・・。
確かにこれまでの近現代史におけるグローバリゼーションの流れにおいて
生起してきた諸現象に対する個々の見立てについて全面的に
著者の見解を否定するわけではありませんが、
著者も強調されるように『完全』なグローバリゼーション思想を伴う
『完全』な『自由』貿易などあったためしはないのでしょう。
あったのは常にその時々の各国家が思い描く個別戦略でもって
後押しされる『保護』された管理制御貿易(たとえば『重商主義』型や
『帝国主義型拡張貿易』志向など。)だったのでしょう。
このように厳密な分析からすると、
もともとが『保護/管理』志向であったのであり、
いまさら反動的にさらなる『保護』主義志向化が進んでいると見立てるのも
何か腑に落ちない点があるのですよね・・・ということです。
第二次世界大戦の戦前・戦後を通じて
主にその経済的根本原因を探求検証した結果、
生み出されてきたのが『うまくコントロールされた』
新たな『グローバリゼーション』だったということになるようですが、
そもそも『グローバリゼーション』に対する個々の評者が抱く
世界観も異なることですから手放しに
この『グローバリゼーション』という標語をもてあそぶことには
最大限の警戒をもって接する必要がありそうです。
もっとも重要な問題意識はその具体的内実について
どのように捉え、具体的な適用場面において、
いかなる諸現象が現れ出てきて、それに対する時々の柔軟な修正対応こそが
唯一の『行き過ぎた』グローバリゼーションがもたらす
各国民の一般的不安感情を『沈静化』させながら、
世界的に無理のない公正な協力体制へと導いていくことに
寄与するか否かでありましょうから。
この『グローバリゼーション』論が様々なところで混乱を引き起こしています。
そこでこの種の議論をする際に注意しておきたい論点として
注目すべき洞察的論考文に目を触れる機会がございましたので
みなさんにもご紹介しておきますね。
この論考もご参考にしていただくと、
昨今大流行中の政治的ウィルスであるグローバリズム<<独立主権国家の
多層・多元性を最大限尊重させた『国際化(インターナショナリズム)』とは異なる
別種の思想哲学としてイメージした方が現状の世界情勢で生起してきている
諸現象を理解しやすくなるでしょう。
グローバリズムは主権『制限』論を正当化させる帝国主義型『超=脱』国家志向に
あまりにも酷似して親和的だからです。
対する『国際化(開放型国家志向)』は
あくまでも『相互主権不可侵尊重』を原則としてイメージされています。
<年頭にあたり>産経新聞『正論』令和4年1月11日火曜日付け
『「グローバル化」「国際化」区別を』施光恒九州大学教授による
論考提起文もこのような問題を考えるにあたり
有益な示唆を提供して下さっていますのでご紹介しておきますね。>>によって
拡張される『流動態』状況を
過度に楽観的に賛美するような思潮には警戒していかなくては、
ごくごく一般の諸国民衆においては地獄のような惨状に常態的に
身がさらされることにもなりかねません。
実際にもそのような問題意識と解決志向でもって大戦後の国際経済秩序が
再創造されていったことも意外に忘れられがちだからです。
そのあたりは『GATT(ガット)からWTOへ』の歴史的流れから
その教訓も読み取っていただくことができましょう。
このような公正無私な問題意識でもって虚心坦懐に見つめなおした
みなさんにも是非ご一読されることをお薦めさせていただきたい
好著がありますので本記事末尾の『参考文献』欄に
掲示しておくことにしますね。
ここではもう少し著者のグローバリゼーション『観』について
審査していくことにいたしましょう。
この『観』の違いこそが著者に限らず
論争の源泉となっていくのですから・・・。
それでは著者のグローバリゼーション『観』とは。
著者もここで何も手放しでグローバリゼーションを
見立てているわけではないようです。
少し前にも触れさせていただきましたような
これまでの歴史的教訓なども踏まえつつ、
『適切に管理調整された』公正な世界共通ルールを
構築することが叶えば
現在のような不公平に歪曲されたような状況には至らなかっただろうと
示唆されてもいます。
少なくとも著者の見立てと問題意識を『善解』させていただくと
そのような帰結に至りそうです。
いわゆる不公正な『勝者総取り』を許容させない姿勢だからですね。
『すべての人が恩恵を受けられる形でグローバリゼーションが
進展しなかった』(本書88頁)結果を厳しく批判されているわけですから。
逆に言うと、『すべての人にとって公平な恩恵を受けられるような』
グローバリゼーションの『再編』こそが
著者が企図するグローバリゼーションに期待されている
『本旨』だとのことです。
それでもなおどうしても、
以上のような管理人の『善解』も不安になるような
一般労働者の『政治感情』をさらに逆撫でし、
『火に油を注ぐ』よう言説の『罠』に
著者も陥っているように見受けられるのですね。
著者も本書内で多少このグローバリゼーション問題と
国際経済(政策)論を取り扱う際には思慮深い言説姿勢が
必要不可欠だと常々強調されてきた
管理人もすでにご紹介させていただきました
ダニ・ロドリック氏が提起した問題意識もご紹介されていますが、
著者の私見とこのダニ・ロドリック氏との見解を
対比的に読み解いていただければ
さらに管理人が本書評を通じて最強調させていただきたかった
その「心」もご理解いただけるものと信じて
以下の語りを続けさせていただきます。
やはり前にもお示しさせていただきましたように
ダニ・ロドリック氏が提起されてこられたような
グローバリゼーションがもたらす
『パラドックス(逆説的教訓)』に対しては
真摯に心(『頭』ではない!!)の耳を傾けてみなければ
肚の底からの『納得』はできない、
もしくは、著しく困難を伴うのかもしれないという懸念の
ことであります。
このお二方のグローバリゼーションへのアプローチの相違を観察していると、
実に様々な視点からの問題意識が『触発』されてくるのです。
『脱グローバリゼーションの合唱が大きくなっているのは、
政策立案者が過去数十年もの間、グローバリゼーションを中途半端な
形で適用してきた結果であり、本来、理想とされるグローバリゼーション
とは無関係だ。
国内政治の不穏な状況を考えれば、政治家や政策立案者が、
グローバリゼーションに対する有権者のフラストレーションを
なだめようと躍起になる事情は理解できる。しかし、残念なことに、
先進国、途上国を問わず世界中で、政治家は短期的な効果はあるが、
長期的には経済成長を害することが明らかな政治的及び経済的モデルに
向かっている。それは貧困を増加し、政治的及び社会的不安定さを
増幅する。そうした選択はグローバリゼーションの欠点に対処するもの
ではなく、中途半端で劣悪なグローバリゼーションのモデルを定着させ、
経済を高い貿易障壁と低い成長を前提とした水準に貶めていくだけである。』
(本書93頁)
以上のように『中長期』の見通しについて
著者は『長期的には経済成長を害することが明らかな政治的及び経済的モデルに
向かっている。・・・』(同上)などと『断定』されているわけですが・・・。
そもそも誰しも人間である限りは、
先の見通しなど『確定/確約』できないわけですから
このような言い回しにどうしても不安感が付きまとってしまうのですね。
『真に頭の良い人間はすべてを知性的理屈でもって確答してしまっては
なりません。』
われわれはただでさえ『短期』でもわからぬことを
さらにわからぬ『中長期』に至る見通しについて
手さぐりしながら試行錯誤していくほかないのですから。
確かに不安に感じられたり、明らかに『危険』だという意味で
過った選択、早まった決断をされる為政者、有識者もおられますが、
一般民衆との直接的な対話や選挙によって厳しい審判を受け、
場合によっては政治的抹殺(テロリズムなど)を文字どおり
直撃的に食らう機会があることから、
単なる専門有識者(机上での政策立案者)や評論家とは
その『重責/重圧』感が圧倒的に異なる状況で
精一杯の『譲歩』をしておられるのが実態なのです。
そのような気苦労も想像しつつ、一般国民にとって
『そのような政策志向は危険だ!!』と感受されるならば
われわれもしかと適切な政策批判ができるように
政治経済に日々興味関心を向けて
独自研鑽をただただ積み重ねていったらよいのです。
そのような真摯な政治姿勢でもってより良き世の中づくりに
参加貢献しようと欲する『意』欲さえあれば、
後ほど著者が提示されるような
あまりにも『民主制』政治を軽んじ、
一般有権者を信頼せずに
人間的にも冷たく感受されるような急進的な改革案の提案には
至らないはずだからです。
急激なグローバリゼーションによって
『相互依存』関係が強まれば強まるほど
むしろ『摩擦圧』は凶暴化していくのが
現実の『政治』というものです。
著者自身の『移民政策論』(本書99~101頁あたりご参照)を眺めていても、
『移民者』側の視点に立った主張が強く、
移民『受容国』側の一般労働者のグローバリゼーションに伴った
激しい『底辺への競争圧』に対する敏感反応についても
甘く見られているように感受されるのです。
管理人自身の『移民政策論』に関する評価考察基準は
常々からこの双方の問題意識を公平に踏まえたうえで
できるだけ分断対立からの政治的激突が招来してこないような
政策的工夫を設定するようにと、
また、人間的『知恵(真の寛容性)』をもって接していこうと
呼びかけ語らせていただいてきました。
今後とも世界の『同朋』同士が仲良く共生していけるような
みなでともに『知恵』を出し合って語り合えるような
題材本を随時ご提供していく予定です。
特に現在の我が国における『移民』政策姿勢
(政府は一般国民との摩擦を避けるためか
なぜか『移民』ではないとかたくなまでにこの呼び方を否定されますが)では
『受入国』側の論理だけで
さきほどの著者の視点とは真逆の立場であるかのような
政策対応に偏り過ぎているように感受されるのです。
『移民』論を語る際には常に双方の視点を公平に交差させて考えていかなければ、
よく練られた制度も創出することが叶わず、
それこそ『○○特権』などといって極端に排外姿勢に立つ
政治集団の格好の的にされてしまうのです。
それは国内治安を悪化させていく点でも好ましくないはずなのです。
前にも語りましたが、
我が国人自身が『移民』、
場合によっては誠に不幸なことに(現下の世界情勢では十二分に
あり得る未来予想図です。『平和ボケした 奴だらけさ(^^♪』では
困るのです。)『難民』になってしまう可能性だってあるのですから。
ちなみに、『移民』と『難民』では国際法上の取り扱いも違い、
さらに慎重な議論を展開して区別していかなくてはなりませんので、
今回はここまでで抑えておくことにいたします。
そのようにウクライナのある方も
日本人に親身になって教え諭して下さっています。
すでに先年放映が終了したNHK大河ドラマ『青天を衝け』の
最終章あたりでも重い気持ちにさせられた
『移民』としての日本人が『排斥』されていくといった
いわゆる『排日移民法』についても取り上げられていました。
アメリカやカナダだけではなく、
ブラジルなどの中南米や太平洋に浮かぶ群諸島、南方移住者、
果ては満州『移民』からの『棄民』など悲劇的惨劇が
つい数十年前まで現実にあったわけですから。
中国残留孤児問題から樺太『棄民』問題(我が国の植民地政策で苦難の道を
ともに歩ませることになってしまった韓国人を含むアジア同朋移住者のことも
忘れてはなりません。)など未解決難題も抱えているのですから・・・。
『人間は誠に忘れやすい生物なのです。』
『ちっとも賢くなどなっていやしません。』ということで
みなさんにも想像力という名の『翼』を広げていただきたいのです。
もう少し気になる著者のお考えを眺めておきましょう。
著者の『移民』政策論に耳を傾けてみますね。
『各国がそれぞれに制度を運用している状況では、労働の移動は
制限され、労働者の特性を十分に活かすこともできず効率的でない。
世界中の労働者を対象とするグローバル政策が存在すれば、
移民労働者を国際間で最適に分配することも可能になる。』(本書100頁)
このようなグローバル政策を策定していく大前提としては
著者は以下のような主張をされています。
『結局、国際秩序の枠組みが形成されているにもかかわらず、
国益が最優先とされているのだ。
グローバリゼーションと言いながら、グローバルな利益など
誰も考えてなどいない。グローバリゼーションを真に実効性あるものとする
ためには、各国の政府が国際機関に権限を委譲する必要がある。
そのような国際機関は存在する。たとえば、世界貿易機関(WTO)は
貿易に関する国際ルールを定めている。IМFは国境を越える
資本移動を監視している。それでも、政策課題について各国政府の
判断は国際機関に優先する。だからこそ、すべての人に利益となる
真にグローバルな政策を実施することが難しいのである。』(本書96頁)
これなどは、いわゆる『グローバル・ガバナンス』論のことを
主張されているのでしょうが、
そもそもこの『グローバル・ガバナンス』論に対しても各国の実情や
その時々の世界経済における景況判断指数によって
一律的な公平分配など著しく難しい壁であることくらいは
国際機関で具体的実務に携わっている方々でさえ理解されていると
感受されるのですが。
国際機関が定める『統一』ルールに基づくといっても
実際に国家間で紛争が生じてきた場合には、
その『統一』ルールをいちおうの解決基準/指針として参照しつつも、
終局的には当事国同士で『裁量的』決定をしていかざるを得ないのです。
もし、それをしも軽視されるのであれば、
各国の民主主義(とはいえ、民主主義といってもかなり幅の広い多様な概念です。
現代では『建前』上はどこもかしこも『民主』制論理を採用しているものの
その内実は統治者側の都合論理がきわめて強力な『権威主義』体制の
国家もありますから。)を尊重する『私的自治』ルールが
形骸化されることによる『排』外感情がますます燃え盛っていく
政治リスクが出てまいりましょう。
だからこそ、上記国際機関でも『統一』ルールでさえ、
ある程度の『大綱(大枠規範)』として試行錯誤しながら
紛争解決制度などを構築してきたのが世界史の現実だったのです。
要するに、各国事情を無視もしくは軽視した
無理な国際的『統一基準』でもって強制適用させようとの志向性で
政策勧奨を進めていくと大変な悲劇的惨事を引き起こす恐れが
出てくるということです。
国際間における深刻な紛争対立を和らげるためにも
このような繊細かつ思慮ある配慮が必要不可欠なのです。
そのあたりも上記ご参考文献などに丁寧な解説がされておりますので、
『グローバル・ガバナンス』論にご興味ご関心ある方には
ご一読されることをお薦めいたします。
この問題についてはダニ・ロドリック氏も
各国の『民主制』的規範が形骸化していく恐れを懸念して
より実情にあった『グローバル・ガバナンス』創造を
ご提唱されています。
ダニ・ロドリック氏著
『貿易戦争の政治経済学~資本主義を再構築する~』掲載論考文
の特に『第10章 グローバル経済の新たなルール』が
このような問題を考えていくためのヒントを提供して下さっています。
ロドリック氏は下記のようにも強調されています。
『国際機関への民主的な権限の委譲にもわかりやすい例えが
あるかもしれない。関税率に上限を設けたり、有害物資の排出を
抑制するためのグローバルな協定は、実際に価値のあるものだ。
ただ、経済学者はその協定の締結に至った政治的駆け引きを
十分に精査することなく、国際機関が課した制約を崇拝する
傾向にある。(短期主義を回避させる、もしくは透明性を要求する
ことなどによって)民主的熟議の質を高めるような外部からの制約を
擁護するということと、特定の利益団体に他人を上回る特権を
与えることで、民主主義を堕落させるということとは全く異なる。』
(上記ロドリック著『第5章 経済学者と経済モデル』149頁
から引用)
ちなみに、国際機関は『公的』機関だから、
常に公平中立な政策判断決定を下して『理想』的な
解決案(『勧告』決定など)を各国に推奨してきたかというと
そんなことはありませんよね。
しかも、現代の『公的』機関は国内外を問わず
様々な民間(それも資本規模が強大な多国籍企業など)団体の
利害関係が複雑に反映されてしまっているのが実情です。
『独立主権』国家(特に大国)間の政治的思惑も
たとえば国連安保理決議の実情を眺めていてもご理解いただけますが、
国家のような『公的』団体だけに一方的な責任を負担させていく
論理もまた実情を反映していないのです。
EUの各機関にも同様な事例があるようです。
加盟国の内情に配慮する「心」の欠けた硬直プログラムが
しばしば強制されていった帰結が、
分断対立の原因となっていった可能性もあながち否定できないからです。
イギリスの離脱問題やギリシアの財政再建問題から派生していった
各国内の政治勢力図の変動などを深く分析調査していくと
そのあたりの事情も「見えて」きます。
各国政府と国際機関(世界政府)との権限分配/委譲問題は
『自由民主』制原理(私的自治の原則も含む)や
『主権(いわば複雑怪奇な対外情勢からの内国保護膜のような
国民=国家の中核的死活領域を保障する最後の砦のようなもの)』の
本質的根幹部分をも揺るがしかねない危険性を伴う
政治的重要事項でありますから、
もう少しこの論点を丁寧に考えておきましょう。
ちなみに、厳密な法律学的観点からの言葉の取り扱い方について
補足説明しておきますね。
通常は上記で使用されている『委』譲とは
本来は上位者が下位者に事務権限などを『委任/委託』することを指し、
『移』譲とは上位者と下位者との間でそれぞれが対等な地位に基づいて
地位(権限や予算なども含む)などの移転分配を取り決めていくことを指します。
たとえば、かつての地方自治法によって中央政府(国家)から各地方自治体に
事務『委託』されたものとして扱われていた
『機関委任事務』という制度がありました。
現在は地方自治をできるだけ推進して
中央政府によって強度に監督管理されるような
中央集権的発想のいわゆる『お上依存』を排して
独立した自治意識を持たせる意識を芽生えさせたうえで
独自の政策でもって地域活性化を図ったり、
政治的責任感覚をより強く持たせるような意図も込めて
この制度は『廃止』されているのですが、
この一連の改革史の流れを見ても
原則的な『上位者から下位者への権限委譲』といった
イメージが一般の方にもつかみやすいかということで
ここに具体例を挙げてみました。
何を言いたかったかというと『委譲』の意味でありますが、
これはあくまでもまだ『一部』かつ『上位から下位へ』という
ところに注意していただきたかったということです。
もっとも、『包括(白紙)』委任のような形態もありますが、
あまりにも広範囲の権限を受任者側に与えてしまうと
その濫用の危険性が著しく高まる危険性がありますから、
原則的には個別に許容された委任事項の範囲内でのみ
その権限を行使し得るものと想定されています。
その意味では、原則的には『一部』委任として解釈した方が
実態に即したイメージになろうかと思われます。
それに対して、『移』譲は権限の『全部』を完全に
『移』転させてしまうというイメージですね。
つまり、こちらの場合は、原則的には『全部』移転であり、
『一部』移転はむしろ例外的な扱いであるようなイメージで
捉えた方がより実態的感覚に近似しているのではと思われます。
このイメージ概念の比較はあくまでも
管理人自身の私見解釈でしかありませんので
その点はお含みいただきますようご留意願います。
このように上記の言葉の定義上の違いは論者によっても
多少の差異は出てくることもあるので
解釈論争が頻出してくるわけです。
特に具体的紛争が絡んできますと、
その緊張感もいやが上にも高まってくるからですね。
そのような次第ですから、
法解釈とは決して『知的お遊戯』ではないのです。
『委』には『○○については、まかせたよ』という感じで
まだそのような関係性をもった者同士に『従属』性が
残されているものとイメージされましょうから。
その意味では、受任者側にも許容された範囲での独立性も
あるのですが、かなり高度な注意義務を負う(法学上、この注意程度のことを
『善良なる管理者の注意義務(善管注意義務)』などと呼称されています。
一方で『自己のためにするのと同一の注意義務』というのが、
「善管注意義務」に対比されるわけですが、
こちらの注意義務はその言葉が示唆するように
軽減されているのですね。)ことになります。
その意味では委任契約全体の性格としては『独立性』あるものとしても、
その内実はかなり『裁量権の幅』が狭いとも捉えられるわけですね。
ことに、ここでの主題である『主権』論についてはなおさらです。
後者のように受任者(相手方)側で
自由自在な裁量権の行使などされてしまえば、
委任国(自己方)側に多大な損害が生じてくる可能性が強まります。
たとえば、EU(欧州連合)加盟国間での
深刻な分断対立現象の発生原因などを子細に観察してみると
そのイメージもより一層つかめやすくなるのではないでしょうか?
一方の『移』には『あとはたのんだよ。』という意味合いが強く
権限とともに責任も含めて当事者『主体性』そのものを
移転させてしまうというイメージでしょう。
ですから、通常の『移転』といえば
『全部』移転を指し、
もしその一部のみの移転であるならば、
あえて『一部』移転と明記するのが法律上の慣行でもあるわけです。
所有権移転登記などを申請されたことのある方ならば
そのイメージもご理解いただけましょう。
ちなみに、『一部』移転だとどないなりますでしょうか?
そうですね。
言うまでもなく、『共有』状態になります。
つまり、契約上で別途の『特約』規定を設定しなければ、
権限も責任も地位なども原則としては『同等』の関係性を
文字どおり『共有』することになるわけですね。
このあたりの『法律的』感覚にご興味関心の湧き出てきた方には
民法の『委任/寄託』や『移転(物権/債権変動の<譲渡>論などを
深く読み込んで検討してみて下さいね。深い『発見』が得られて、
もしかすると感動してしまうかもしれません。法律学って実に楽しくて
魅力的な世界観に触れることが叶う学問なんですね。)』について
詳細に解説された箇所を是非学んでみて下さいませ。
ちょっと法律談義が度を過ぎてしまいましたが、
『主権(権限)』の委(移)譲問題が
著者が指摘されるほど簡単で生易しい問題ではないことを
ご理解いただきたかったので縷々語らせていただきました。
それでは、これらの予備知識的解説を踏まえて
以下の権限『委』譲問題について緻密に考えていきましょう。
その意味する「心」とは・・・。
『相互に権限内容について干渉(関与)できるか否か』ということが
『自由民主制(私的自治)』原理が
しかと担保(保証)されているか否かを評価するうえでも
決定的な『分水嶺』になっていくということですね。
さて、翻訳者が著者が『原書』で用いていた単語を
邦訳される際にこの微妙にして大きく意味合いが異なる言葉について
意識されていたかどうかまではわかりません(翻訳者の方を責めているわけでは
ありませんよ、念のため。その努力には誠に敬意を表します。)が、
著者自身のこれまでの論旨展開から推察してみると、
先ほども引用させていただきましたように
どうも『各国の政府(下位者)から国際機関(上位者)に権限を委譲する・・・』と
いう意味合いで通常解釈するのが常識的な理解だと感受されますので、
上記でもその言葉の定義『感覚』と『観(イメージ/ニュアンス)』について
語りましたような本来的な『語義』からしても
政治的文脈では『独立主権(民主制=私的自治原理)』が
上位規範に移転することで、はく奪というどぎつい表現こそ控えますが、
その重要な政治的決定権限まで『現場からほど遠い雲の上の存在へと
あたかも回収されていくかのような』イメージを抱かされてしまうのです。
下位機関から上位機関への権限委譲によって
下位(現場)では見えにくくなっていた問題を大所高所の見地から
バランスよく見つめなおして、
各国内の実情にも即して『民意』が十二分に尊重されたうえでの
より良き政策案の提示であれば不安も抱かないのですが、
先にも触れたようなこれまでの世界史的教訓からいっても
『上位者が必ずしも下位者による判断決定よりも優秀で
あるとは限らなかった』という『不都合な』現実的結果も
たびたびあったわけですから、
やはり権限委譲問題については慎重にならざるを得ないのが
各国の統治エリート層だけではなく
それを選択(体制によってはとても選択したなどといえない国や
地域もありましょうが、著者も指摘されるような一般的な西欧型
『自由民主』制原理を採用してきたと思しきところでは)した
一般有権者においてこそ現場感覚からあまりにもかけ離れた
政策推進をされてしまうことで生活が破壊されてしまう(実際に
破壊された歴史的事例もある。)ことに憂慮を覚えるからなのです。
『上からは下々の様子は見えやすいかもしれませんが、
下からは雲の上でいかなる動きがあるかをはかりかねないことが
ままある』からなのです。
いわゆる『高度な』政治判断ともなればなおさらですよね。
後に一般民衆にとっては『禍』となることも多々あるからです。
そのあたりの『土着』的皮膚感覚を『政治的』に
ご理解いただけているのかどうかも心配になるのですね・・・と
いうことです。
次章要約時にまた詳しく語りますが、
経済的な『効率性』感覚で
公的領域を差配する各国政府がなすべき仕事についてまで
同じ意味合いでの『効率性』のイメージで
延長して考えられていたとしたらやはり疑念に駆られるのです。
『市場(民間)』と『国家(政府)』には確固とした役割分担、
それぞれが持つ意義の違いがありますから。
そのあたりは著者も考慮されているようですが、
『なぜ、現在の世界的政治思潮の流れで従来の西欧型<自由民主>体制原理に
陰りが見え始めてきている現象が多発しているのだろうか?』が
次章での最重要テーマでもありますから、
この論点につきましてはあらためて
そこで語りなおさせていただきましょう。
さらに本章の『まとめ』として著者のお考えを眺めていきますね。
『この章では、政策立案者がどのように貿易と資本の新しい障壁の
増加を作るかを見てきた。労働に関しては、統合やそれに向けた
調整が遅れており、ブレグジットでもトランプの政策でも、
後退している観すらある。経済成長率が低い時代への不安から、
成長が見込める仕事を探すのに国境を越えて協力しようという、
その程度のことにすら手を貸す余裕がなくなっている。
経済成長の3大要素である資本、労働、生産性のうち資本と
イノベーション(生産性創出)はグローバリゼーションという文脈で
人々に受容された。
対照的に、人(労働を形成する)の移動については社会的、文化的、
経済的な抵抗が強かったのである。』(101頁)
いやはや・・・。
『その程度のことにすら・・・』って不満と怒りのご意見を提示されても
まさしく、その前段でお示しになられているように
世界全体の経済成長率自体が激しく停滞する、
もしくは、成長国と非成長国とに観察されるような
不公平な景況循環構造こそが従来にも増して地殻変動を
起こしてきている(きた)のが現在なのです。
このような状況で各国の内情を無視とまではいかなくとも
少なくとも軽視したかのような診断内容で
『国境を越えて協力しよう』と呼びかけられても
『協力したいのは心ある者であれば山々』ではありますが、
『みな生活に追われてカツカツ』状態にある中で
『では、ただちにどうすればいいの?』というところが
世界各国に散在されている一般民衆の『生きた偽らざる本音』で
ありましょう。
『すべての人々や国家、地域が公平』に成長して・・・とはいっても
経済的『効率性』だけに偏重させたような
無理難題な『成長』戦略論(景況次第では、
かえってさらに状況が悪化しかねない
いわゆる『構造改革』論など。)でもって強行突破されようと
各種改革提案を提示されても
とても『万人の福利』に寄与するとは感受されないからです。
実際に著者のような改革提案について
そのすべてやその趣旨に沿った導入/運用ではなかったにせよ、
模範的優等生として受容した結果、
見事なまでに苦難を強いられている『モデル』国家が
すべてを『反証』しているようです。
それが我が祖国『日本国』の惨状ですから。
年々歳々いわゆる『安く』なる一方だと懸念される
日本のような国ですら
すでにある種の(=ある種のとはまさに『高度グローバル人材』の
みなさまでありましょうから。皮肉でもなんでもなく。)外国人労働者の方々には
魅力的には映っていないとのご見解を示唆されている識者もおられます。
一般の外国人労働者の方々は本当に3K仕事などを中心に
頑張って貢献して下さっていることに感謝申し上げます。
彼ら彼女らの待遇改善(人権侵害すれすれ状況とも漏れ聞きます。)にも
われわれ日本人と外国人の間で『法の下の平等』に反したと強く感受される
『きわめて人間的な心理感情』からくる格差意識などによる
不要な摩擦対立が生起してこないためにも
厳格な法整備のより一層の充実を図っていただかなくてはなりません。
これこそが、著者も強調されてきた『中途半端な公共政策』が
もたらす悲喜劇でもありましょうから。
公平な政治的視点で『国民』心理感情を激しく揺さぶる
この繊細な問題は見ていかなくてはなりません。
(産経新聞『日曜講座 少子高齢時代』令和4年3月20日付
『外国人労働者~8年後、63万人不足の見通し~』河合雅司客員論説委員
による論考も参考にさせていただきました。)
著者が『理想的』だと頭の中で思い描かれている労働移動問題も
『成長』国(地域)と『非』成長国(地域)間格差の是正や
『途上(後発追い上げ)』国と『先進』国との間で起きてきている
中長期的傾向と統計解釈などから示唆されてきた
いわゆる『エレファントカーブ』問題などを解決していくことこそ
何よりも『先決的』問題なのです。
ここが最重要論点かつ課題なわけなのですよ。
過渡期といってもその移行期間(世界全体が均衡的に『成長』発展して
公平にその果実を享受できるまでの期間)がどれほどの時間と
『政治的リスク』がかかってくるのかまで予測した
安全保障上の配慮まで含ませた改善提案でなければ
むしろ世界『全体』でも『合成の誤謬』問題が起きてくる可能性大だと
推察されるからなのです。
しかも、この論はあくまでも著者も期待されているように
『すべての』地域で『成長』していけば・・・という
暗黙の大前提が仮定されているように推察しますが、
著者もたびたびご指摘されてきたように
地球資源自体がそもそも『有限』だということが
少なくとも現在の科学技術的観点を踏まえても
著しき難題だということは頭脳明晰な著者にも
ただちにご想像いただけるはずだからです。
むしろ、現在の『持続可能性』を重視した『成長』論を
大前提にする限りでは、『全体』としての
『成長』による果実『分配』に関しても
『有限』でその『配分率』がどの程度の水準になるかすら
なかなか予測困難な問題でもあるからです。
『成長なくして分配なし』の命題は管理人自身も十二分に共有しておりますが、
また近年この点に関する多大な誤解、理解不足もあって
なかなかの波乱も予想されています。
現政権が掲げるいわゆる『公益(新しい)』資本主義の流れも
『不況期』においては『政府』自身がまずもって
積極投資ないし消費していかざるを得ません。
その投資の中には国民に対する『直接的』財政支援なども
含まれていますが・・・。
『公約』の趣旨に反して、現実的には給付額/受給対象者を
巡る『線引き合戦』だけがあいかわらず続いているだけです。
国民『負担率』の引き上げの方に偏る『財源』論争にも
なってしまっているのが誠に遺憾な状況なのですから。
そのような過てる流れを生み出してしまう
根本原因こそが
『現代』貨幣(経世済民)『観』と
国家(共同体=相互扶助=社会福祉)『観』の誤解、理解不足が
あるからなのです。
すでに当記事内でも語り終えましたから、
ここではこれ以上言及いたしませんが、
まずは誰かが『積極』投資ないしは消費を始めないことには
経済循環と『成長』も促進されていかないことくらい
想像力豊かな子どもにもわかる論理でありましょう。
みなさんも子どもの頃に遊ばれたご体験もあるだろう
『人生ゲーム』などのよく練られたルール設定や仕組みを
しかと観察されるとさらによく具体的なイメージが抱けましょう。
その誰かの『積極』投資ないしは投資も
『不況期』では『失敗リスク』が最大限に高まることも
ご理解いただけましょう。
そのことを会計面からきわめてわかりやすく表現したたとえが、
先にお示しさせていただいた
『誰かの負債(赤字)=誰かの資産(黒字)』であったわけですね。
つまり、ここからもご理解いただけるように
『世界全体』でも誰かが『出欠受注サービス(特に不況期において)』する
主体がなければ、『黒字』余剰分、
つまりは、『成長』要素も創出されないということです。
『全員』という視点で捉えることがこの命題解読の要点ということでして、
『すべての者がすべて初めから終わりまで黒字』などということは
およそこの世にはあり得ないからですね。
ここまでご理解していただければ、
『すべての人々と国家(地域)において公平な成長』を
果たしていくために必要不可欠な課題も見えてこようというものです。
そして、世界全体の『均衡的』発展を通じた『成長』を
果たしていくためにこそ、何らかの『制御管理』システム(制度)も
同時に必要不可欠だという真の意味合いもご理解いただけましょう。
ですから、著者が主張されるような
『政策立案者にとって、外部によって経済運営の権限を奪われ、
「第二のギリシア」化することは恐怖であり、勢い、
保護主義政策で短期決着を図ろうとするが、それは長期的に
経済成長を阻害し、混乱を引き起こすだろう。
貿易保護政策、資本管理、移民規制といった政策はすべて、
経済成長の源となる投資を抑制するのである。』(本書102頁)
といった『成長』志向の経済政策であっても、
基本的に『外需』を取り込んで成長を果たそうとする
『後発』資本主義国家発展モデルでは限界もあるということです。
まさに2019年末(日本ではすでにそれ以前から続いてきましたが・・・)を
ひとつの『分水嶺』としてそのことが如実に示されました。
『内需拡大』志向による経済発展モデル構築を
各国相互間で支え合っていく『政治』姿勢こそが、
内外人間における不公平格差から来る
不毛な摩擦対立をも軽減させていく道だということです。
何度も最強調させていただきますが、
『不況期(有事)』においてはなおさらのことでありましょう。
賢明な読者様には釈迦に説法であって
くどくどしい語りで誠に恐縮しごくではありますが、
現下の世界で生起している『生の教材』で
その論が適切妥当なものなのかどうかを
どうかみなさんにもご検証のうえ
各自でより良きご提案を出していただきたいわけであります。
著者も本書冒頭で
『本書の目的は完璧な処方箋を示すのではない。
議論を展開していくことであり、そのためのポイントを
挙げている。』(<謝辞>本書8頁)と謙虚な『学問』的、
『実務』的姿勢を示されているのですから・・・。
いずれにしましても、どうも著者は各国『内』の
『政治』的側面(特に、民主制原理への尊重)に対する
理解に寛容ではない様子が見受けられてしまうのですね。
ここにどうしても不安を感じ取ってしまうわけなのです。
そこで以下の第5章から第7章では
この『民主制原理(国民主権=国民民主政治)』を
最重要キーワードに据えて、
さらに著者の見解を検証していくことにいたします。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
⑤『第5章 民主主義覇権への挑戦』
※本章では『民主主義』覇権への挑戦と表題されていますが、
ここでの民主主義とは主に西欧型モデルを指しています。
『西欧の自由主義思想、自由民主主義、市場資本主義(と比較すると)』
(本書107~108頁)
とあります。
この西欧型モデルは一般的に『民間』主導型経済によって
政治的には各人の私的自治に基づいた自主・自律性でもって
行動表現していくことが保障されているとされています。
具体的な内実は多種多様な差異がありますが、
あくまでもここでは比較対象上として『一般的』にと言う点を
ご了承願います。
さて、著者は本章において
このような西欧型の『自由民主』制を脅かしかねない状況が
ただ今の現在にはますます進展してきているとの懸念をもって
それをして『覇権への挑戦』だと挑発的な問題提示をされています。
著者の母国であるアフリカなどの後進途上国や
中国、ロシアといったような国々に象徴された体制志向を
『国家』主導型の上からの『権威主義』的志向を強く持たせた
『資本』主義経済として
それらを『国家資本』主義と表象されています。
とはいえ、この『権威主義』志向型体制という言葉にも
注意が必要であります。
著者を含めわれわれ日本人のような「西欧型」に
比較的慣れ親しんできたと一般的には感受される人間からすれば、
どうしてもそこにそのような『色眼鏡』で見てしまう
ある種の思考癖のようなものが付着してしまって、
相手側の内情を虚心坦懐に眺めることが難しくなってしまうからです。
実はかなりプラグマティックな動きでしかなく、
いついつまでもこのように感受される体制が続くとも限りませんし、
実際には『外部』から見た印象とも異なる可能性もあるからです。
現地調査以外にこの種の評価感覚が適切妥当なのかどうかを
確かめる術はありませんし、
人間によっても随分と評価が異なりますゆえ・・・。
いずれにしても、冷静に見ていきましょう。
その国家『資本』主義ですが、
あくまでも民間の力を借りてする
『民間活力』を利用する志向も含めた『営利』に
力点が置かれているところが
従来の国家『社会(営利を下位基準に抑制させる志向性重視)』主義とも
異なります。
結論として、著者が強調批判されている点は
このような国家資本主義型の権威主義モデルによる体制は
『長期的には世界を危険な方向へ向かわせることになる。』
(本書107頁)だとか『(西欧の自由主義思想、自由民主主義、
市場資本主義と比較すると)、決定的に劣悪なのである。』
(本書108頁)とまで強い口調で断定されているところです。
確かに、現在の世界的政治情勢を眺めていると
そのように強く感受される点は管理人とて、
『自由民主制原理』を重んじる人間として
問題意識自体は共有します。
ただ、これら指弾される特定国家や地域の指導体制のあり方とは
別次元で著者の主張にも難点がないのかどうかを
本章での主張を吟味しながら考えていきたいのです。
まず初めに国家『資本/社会主義』体制そのものが悪なのかどうかが
問題となります。
体制自体はあくまでも『手段』にしかすぎないからです。
最重要なことは、その体制を通じて一般国民が
それぞれの『福利向上』と『幸福実現』に資する道が
広く門戸開放されているか否かでありましょう。
そのうえで、互いの『私権』が公益社会上の観点からも調和していて
互譲精神によって、
『私権』調整原理が適切に機能していく状況が確保されることを
通じて『公正』な政治経済社会となっているかが要点だということです。
著者も体制原理によって『民主制』が損なわれないことにも配慮されていますが、
あくまでもその民主制原理そのものよりも
中長期的な社会経済発展の道が確保されるのかどうかの方に
着眼点を据えています。
そこでの重要キーワードが
これまた『効率性』であって、ここに比重が置かれていることこそが
管理人自身の見立てでは一般民衆にとりましては
すこぶる懸念材料として気掛かりな点が
どうしても残ってしまうのですね・・・ということなのです。
この点で、上記で問題点を示唆させていただきましたように
著者にはどうも『目的と手段の取り違え』をされているよう点が
多々ありそうなうえに
著者が期待されているような『成長』軌道をうまく描いていくために
要請されていく改革案が最終的に帰結していく未来予想図にしても
一般民衆にとっての『公平』な成長と分配が
確実に保障されていくのだろうか・・・と疑念を拭い去れないのです。
著者も第2章においてGDP指標を発明開発したサイモン・クズネッツが
経済成長モデルとして区分わけした4つのタイプ、
つまり、『先進国、開発途上国、日本、アルゼンチン』(本書37頁)や
特に中国と日本の発展史モデルを詳細に比較分析評価された際にも
必ずしも国家『資本主義』モデルが常に失敗したとはされていませんが、
①その評価自体が『短期』面ではとの限定留保をされたうえで
『中長期』面では行き詰っていくだろうという点、
②国際的な政策課題としてグローバルな共通利益に
関わる事項については
『国家』よりも公正な判断を下せると(信じられている)
『超』国家機関に権限委(移)譲したうえで
各国の内政面においても『民主制』を多少抑制させて
中長期的に見て社会経済の『効率的』発展に資するような
改革案をご提案されていくということになります。
管理人が本書で著者が主張されていく志向性について
一抹の不安を抱くのが、
あまりにも『グローバリゼーション』礼賛とまではいかなくても、
かなりの程度までその浸透度合の強さこそが
各国をも『強靭化』させていく・・・というようなニュアンスでの語りを
されていて、素朴な疑問点として
『なぜ、そこまで<民主制原理>に不信感を強く抱かれるように
なられたのですか?』という点にあります。
推察するに著者の母国があまりにも政治的腐敗度が高くて、
政情不安の中、落ち着いた生活環境を確保しがたくなって
なかば政治亡命するしかないかのような追い詰められた心境で
もっと自由で自分の能力を開花させられるような異国へ
脱出するほかないとまで思いつめられるような悲惨な感覚に
日々苛まれることにおよそ耐え難かったからではないかということです。
その苦痛なご心中は察するに余りあります。
著者固有の心理的内情がおそらくそのような評価となって
現れているのでしょう。
この問題について究極的には著者も最終的な改革展望においても
示唆されるように、教育制度の改善や政治参加資格について
それにふさわしい者に有権者を限定させていく(ここは著者も
若干ためらいのご様子ですが。)志向性でもって
腐敗権力がはびこらない政体を創造していくほかあるまい・・・との
お考えのようです。
その点は慧眼に値するところです。
その点を示唆する論考箇所を下記に引用しておきましょう。
『中間層に位置づけられる政府では、政権を担った時点では
民主主義ではなかったと考えられる。貧しい国に対して、
まだ時期尚早と思われる段階で民主主義を押しつけることは、
非自由主義的民主主義を作り出すリスクが伴う。それは従前の
権威主義体制より一層質が悪いものだ。
これは、世界のおよそ五十パーセントの国が民主主義であるにも
かかわらず、その大半が非自由主義であることの一つの説明になる。』
(本書114頁)
このあたりの観察眼などは、最近も『増刷』されてロングセラー書として
話題となった『ルワンダ中央銀行総裁日記~増補版~』
(服部正也著、中公新書、2021年増補版12版)において
示唆された問題意識とも通底するところがあるようです。
いずれにしても、該当国家のエリート支配層と一般民衆の
政治『意識』の問題が複雑多岐に絡んでくるために
一朝一夕には解決できない難問だとはいえます。
そのような国家群に対して支援する側も、
また支援を要請する該当国家群の政府関係者にせよ、
その国の内情を十二分に理解しないままで、
中途半端な『西欧型<自由民主制>モデル』を適用しようとすれば
いかなる事態を招き寄せるかも考えておきたい論点であります。
そのことは『構造改革』案を無思慮に採用受容して
大混乱を招き入れてしまった我が国にとっても他人事ではないからなのです。
そのような意味でも、
権威主義的な国家『資本/社会主義』体制を忌避するとしても
著者が提示されたような志向性を持たせた改革案が実施されていったとしても
その帰結として期待されたほどの効果が上がってくるのか否かは
また別次元問題ではなかろうかということも考え合わせておきたいのです。
そのような支障が生じてきた際には
適時適切に制度『修正』して微調整していけばよいとの
プラグマティックな発想に立たれるものとは推察いたしますが、
後の章で見ていきますように
いちど任期そのものを『長期化』してしまうと、
たとえ、その上限を設定した(第7章 本書163頁ご参照)と
仮定したとしても、すでにこれと似たような規定を設定している
著者も懸念されている『権威主義』志向型(と思しき)国家指導者のあり様を
冷静な目で眺めていると決して楽観的には期待できないようにも
強く感受されてくるのですね・・・ということです。
それでは、もうひとつの懸念される論点に目を転じてまいりましょう。
『そもそも論』として、
『ではなぜ、これらの国家指導者に率いられる政府が
強権的とも感受される体制選択へと歩を進めていったのでしょうか?』という
最大の謎であります。
著者も強調されていますように、
従来の西欧型の『自由民主制』モデルが信じられていたほどには
機能しなくなってきたことによる失望感が高まってきたからだと
いうことでしょう。
また、著者は以下のようにも主張されています。
『世界中で政府が肥大化している傾向は、特に公的債務が
維持できない水準にまで膨張している状況を見ると、
大きな問題である。
何より、経済成長、雇用創出、賃金上昇は政府でなく、
民間主導であるべきなのだ。』(本書117頁)
と・・・。
確かにその命題は『インフレ好況期』には成立するでしょう。
だがしかし、その命題は『いついかなる時』、
『いかなる業界分野』においても
『常に』成り立つ『一般的』命題として『正しい』のでしょうか?
という問題意識の次元において
どうしても違和感が出てくるわけですね。
著者と管理人の見解の大きな分岐的相違点だと考えるのは、
それは極端な『民営化(効率性)』重視路線が採用されていったことで
生じてきた様々な弊害に対する『反動』として現れ出てきた側面も
あったのではという可能性も含めて考えあわせておく必要があろうと
いうことです。
つまり、『民営化』政策を採用するにしても
その路線で成功するための条件がしかと整っていなくては
むしろ逆効果となり、より過激化する恐れもあるとの問題認識が
あまりにも弱かったのではないかということです。
しかも、その『民営化(営利的効率性)』志向こそが
著者も警戒されている『短期』志向をもたらし、
『公益(中長期)』志向を見事なまでに破壊していったからにほかなりません。
そして、ここが肝心な点なのですが、
無思慮な『民営化』全面化志向が、
本来あるべきはずの健全な市場と政府の役割分担のあり方を歪めていき
いわゆる『市場の失敗』を解決するために
政府の介入をより一層拡大強化させていくことによって、
むしろ『官僚統制』度合を高めて『権威主義化』していくとの
逆説的問題も誘発されていったのではとの疑義が濃厚だということです。
その点も著者はいちおう配慮はされているようですが・・・。
丁寧にご意見を拝読させていただいていても
所々で矛盾しているかの論考に感受させられて
問題解決の方向性としても本当に適切妥当なものなのか否かが
不明瞭になってしまうのですね。
さらに著者の主張で気掛かりだと感受される箇所を引用しながら、
みなさんにも評価判断していただく資料としておきますね。
今後は引用箇所の提示とともに気掛かりだと感受された点を
中心にさらなる検討を深めていくことにいたします。
管理人がここであえて『気掛かりだ』と評価する理由は
すでに現在進行形のコロナ禍や国際紛争継続中といった『有事』において、
『緊密』かつ『強力』な官民連携体制が常時確保されていなければ、
国民の生命・自由・財産の保障すら保護することが著しく困難であることが
明証されてきているからです。
著者の発想は基本的にリスクが低く抑制されている『平時』や
景気変動の側面においては『インフレ(比較的好況期)』時においては
妥当な政策的提案だと評価されるのです。
とはいえ、『平時』か『有事』かという認識も
各人各様の問題意識や着眼点によって常に動揺する
比較相対的なものであります。
そして、現代社会であれ、いつの時代であれ、
少なくともわれわれ人類は常に『不確実性リスク』と向き合わざるを
得ないわけですから、その時々によって柔軟に政策修正ができる
十二分な『余地』を残しておくことも最重要課題であります。
ですから、官民協力の『強弱』程度もその時々の様子次第ということになり、
いかに提案される改革内容が理想的だと自負されたとしても
そもそもが固定された制度などあり得ないことで
常なる検証機会が十二分に確保されていなくてはならないのです。
その政策的対応においてある程度の『中長期的安定性』が望まれるとの
著者の視座については、管理人も共有するものですが
現行の『自由民主』制代議政治がもたらす現状のあり様を
ただ民衆への人気取り政治(『ポピュリズム』)だと浅薄皮相に
著者が感受されてしまうのも誤解にすぎないということを
強調しておきたいのです。
このような『ポピュリズム』現象にまったく問題がないなどとは
管理人も考えておりません。
ただ一般民衆にとっては著者のような専門家の感覚とは異なった
『生きた』生活体験知からそのような現象を起こしている(きた)というに
すぎないということなのです。
その意味で『現場』の死活的問題意識を軽侮していただいては
困るのだということをはっきりとご認識いただきたいのです。
この点の問題意識が希薄では、
むしろ著者も恐れるだろう事態を早晩に招き寄せることにもなりかねません。
その可能性が強まることこそあれ、
決して弱まることはないでしょう。
ということで、『権威主義』だとか『国家資本(社会)主義』、
『自由民主制』だとかいった政治用語にとらわれていては
見えるものも見えなくなり、一般民衆の期待に応えることの叶う
より良き政策課題を見出していくことすら絶望的に困難になるだろう・・・。
このことで指導層とのあいだにさらに不協和音が生み出されることになり、
さらなる政情不安の源泉ともなっていくわけですから、
改革提案においてもさらに慎重な掘り下げた問題意識を持っていただきたいものです。
さらに続けて検討を続けます。
『西欧経済の屋台骨である私有資本主義では、通常、公共と民間ははっきりと
線引きされる。政府は教育、インフラ、安全保障を提供し、規制による監視、
健全な経済政策を実施する。民間は、市場で財を販売し、利益を最大化する。
対照的に、中国のような国家資本主義では、政府が国営企業のネットワークを
通じて経済を統制するため、国家と民間の関係はより緊密になる。
国家資本主義では、政府の社会的、政治的な目的が、民間の営利目的に優先する。
だからこそ、政府は鉱業会社に、輸送力を利用して遠隔地に医薬品を届けることを
指示することが可能なのである。
中国、アメリカのシステムにはそれぞれの費用対効果がある。
民間中心の資本主義は富を創出する比類ない機能を持つ一方、
極端な格差を生じさせる。
また、長期的な成長を犠牲にして、近視眼的な四半期決算に血道を上げる。
他方、国家資本主義の理論では、企業は短期的な成果に拘らず、
将来に向けた投資を行う裁量が大きいとされる。
たとえば、中国は長期的、戦略的な目的の達成に注力し、その過程で
パートナー国の景気が悪化しようと、貿易と投資を継続する。』
(本書111~112頁)
『中国だけが、民主主義は経済成長に不可欠な要素ではないと
断じているのではない。実際、民主主義に不可欠なのは経済成長であることを
多くの事実が証明している。その逆ではないのだ。
貧しい国であるほど、民主主義を維持することは難しくなる。
経済学者によれば、民主主義が長く維持されるか否かを決定するのは
所得であることがわかっている。』(本書113~114頁)
『中間層に位置づけられる政府では、政権を担った時点では民主主義では
なかったと考えられる。貧しい国に対して、まだ時期尚早と思われる段階で
民主主義を押しつけることは、非自由主義的民主主義を作り出すリスクが
伴う。それは従前の権威主義体制より一層質が悪いものだ。
これは、世界のおよそ五十パーセントの国が民主主義であるにもかかわらず、
その大半が非自由主義であることの一つの説明になる。』
(本書114頁)
いわゆる『開発独裁』についての指摘であります。
『経済の発展という観点からは、市場主義は国をそれほど豊かにしていないという
認識が広まりつつある。多くの国では、政策立案者は、過去三十年にわたり
市場中心の経済運営をしてきたが、景気は明らかに悪化したと嘆いている。』
(本書116頁)
『途上国が国家主導の資本主義への傾斜を強めている一方、先進国も、
経済対策を打ち出す中で経済に対する国家の関与は劇的に拡大した。』
(本書117頁)
この診断自体はそのとおりでしょう。
ただ、後者において『劇的に拡大』したとしても、
その効果が果たしていかばかりのほどなのかという認識も
また重要論点だということを指摘おきましょう。
著者の見立てではすでに十分な大きさだと評価されても
経済『成長』の原動力が生み出されて、
不況からの脱出を図る段階に達しているのか否かこそが
一般民衆が求めている基本水準だからなのです。
そこまでには達していないとすれば、
むしろ政府はまだまだ仕事『量』が小さく、
さらに『大きく』していかなくてはならない余地もあろうはずだからです。
この過程において、政府の『効率性』という言葉を慎重に取り扱わないと、
せっかく芽生え始めつつあった(ある)マクロ経済『成長』の芽も
むしろふたたび摘んでしまうおそれも出てくるだろう認識をこそ
強く共有していただけているのかなぁという疑念があったわけなのです。
実際にマクロ経済政策の規模が『かなり抑制的』だと評価されているのは
成長『率』が低水位で進展してきているからです。
ことに我が国の場合には。
このような次第で、著者の論旨自体は『一般』論としては
賛同できる点も多々ありますが、それぞれ特殊事情を抱え込んでいる
各国においても、その『一般』改革命題をそのまま適用させていって
よいものなのか否かは慎重に検討しなくてはなりません。
『良かれと思って採用導入してみたはいいものの
思ったほどの効果は出てこないし、むしろ改革前よりも悪化しているぞ』などと
いうことは、いくらでもあり得るからです。
いわゆる『合成の誤謬』問題のひとつです。
とはいえ、著者の感覚と大いに異なる問題意識は
国家の関与そのものが悪いのではなく、その強弱が
どの程度のものであって、国民生活においてもバランスのとれたものと
なっているか否かが最重要なのであって、
官民の役割分担もそれに付随する問題だということは
著者もこのあとで引用させていただく箇所で十二分に理解されている
模様ではありますが、
『気掛かり』だと感受された点は
『なぜか民間を国家よりもより良きもの、ないしは、
決定的な対立組織体とイメージされている』ように感受されてしまうところに
あるのです。
管理人自身は、あくまでも官民は相互補完関係にあるものであり、
その主導権優位性がどちらにあるかはその時々の社会情勢次第だと捉えています。
つまり、国家(政府)が介入せざるを得ない時局と
『民活』が最大限にまで発揮できており、
国家(政府)による介入が好ましくない時局においては
当然ながら『謙抑的』であるべきだと考えております。
言い換えますと、官民をことさらに敵対関係のようなイメージで
捉えるのではなく、著者もご指摘されているように
それぞれが持つ存在意義や本質的役目に着目しつつ、
それぞれの長所をフル活用して、もって国民経済の活性化と
政治的安定性に資することこそが最重要な視点だということに尽きます。
一般民衆にとって良い意味での『相乗効果(シナジー効果)』が
働いていればよいのですから。
悪い意味とはもちろん『癒着・腐敗化』現象が生み出されて
一般民衆に塗炭の苦しみを味わわせるような事態が起きてきた場合です。
このような次第で、
現代経済は『成長』するにつれて社会的安定基盤をも確保しなくてはならない
(『成長』は良いことばかりではなく、適切なマクロ経済政策介入がなく、
民間だけの『自由放任(レッセフェール)』だけに任せていれば
社会に多大なひずみが出てくるからです。)ために
必然的にその政府規模も大きくなってしまうという『自然的』傾向も加味して、
よく練られた社会政策を考案実施いくほかないからですね。
著者もこのあとで
『政府の最適規模は古くから議論されてきた問題だが、重要なことは
政府が効率的であるかであり、大きな政府対小さな政府という見方は
的外れに思われる。』(本書118頁)
とご認識されているからです。
つまり、政府規模の量的側面よりも
その『効率性』といった『質』的側面の問題こそがより重要だと
強調されているわけですが・・・。
この問題についても著者もある程度までは適切な理解をされているのですが、
その『効率性』の意味=定義が
国家(政府)と民間とではやはり大きく異なるのだという認識度合について
若干程度の不安要素があるように感受されましたので
この点を重視して検証していくことにいたします。
『経済成長に重要なことは、政治的自由でも民主主義でもなく、
政府が効率的であるかなのだ。
政府の効率性を決定するのは、
本来の役割を超えることを抑制・規律できるかである。
政府の基本的役割は次の三つとされる。
公共財の提供(教育、国防、医療保険、インフラなど)、法規制の実施、
そして市場が失敗した場合の財政支出(二〇〇八年の金融危機の際の
政府支援など)である。政府がこの範囲を超えることは、
長期的な経済成長を妨げる。』(本書118頁)
なるほど、著者による政府の役割についてを拝読させていただくと、
『市場の失敗』時における政府介入を許容されていることから、
二十世紀の『修正』資本主義体制が必要とされるに至った
歴史的事情を尊重されています。
医療保険についても『公共財』の一種だと例示されているからです。
官民のそれぞれにおける『効率性』が持つ意味合いの相違点は
『官=非営利(的事業)性、民=営利(的事業)性』という本質性に
『適合』しているかどうかでありましょう。
とはいえ、『社会』保険制度と『私的』保険制度との関係性を見ても
わかるように、お金が絡む問題であっても
社会全体の『公益(個人にふりかかる不可抗力リスクの最小化)』と
民間私人の『私益(私的自治による自己管理原則)』との両輪の備えがあってこそ
盤石というものです。
ことに後者の『私的』保険に関しては、
所得格差によって自己リスク管理のうえで限界があるからです。
その意味で、そもそもの原則論として当該の社会体制が
『資本主義』経済であればこそ、経済的平等性が後退するわけですから、
なおさらのこと、国家(政府)が私的自由を保障する見返りとして
政治的不安定さも助長促進されてくるおそれがあればこそ、
『最低限』(←この水準は現行の『修正(社会福祉国家)』資本主義経済体制を
採用する限りは『成長』を大前提とするわけですから
景気変動によって変わり得ます。そして、この『成長』を大前提とした
現行社会福祉保障制度に限界があることが次第に判明してきたからこそ、
それへの抵抗意思としての『進化版』を志向するベーシックインカム
(以下BI)=『基礎的』所得保障という福祉『国家』思想も出てきたわけです。
そして、福祉『国家』思想とは言いますものの、近未来における
『民間』経済のあり方そのものも従来の労働中心思想から脱皮していくとの
予想も踏まえて、『民活』重視の『自由主義』者ですらすべてではありませんが、
この制度導入に積極的意義を見出している論者もいるというわけなのです。
ですから、多大な誤解があるようですが、『国家』が関与するからといって
BIがことさらに『社会主義』思想を推奨しているわけではないことも
是非ご理解いただきたいのです。このあたりのBIを巡る『政治哲学(思想)』面
からの諸論考察についてはまたいずれの機会にか別途書評によって
ご紹介していく予定でいます。)の社会的安全網(セイフティネット)の構築が
必要不可欠になるわけですね。
官民の役割分担の話題に戻りますね。
これまでの論を踏まえたうえで、
著者は政府の本来の役割を超えた政策事例として
『たとえば、アメリカの、「すべての国民に持ち家を推奨」する住宅政策』
(本書119頁)などが挙げられています。
この点は日本においてもバブル誘発原因のひとつだとして
厳しく批判された政策失敗例だとされます。
問題の比重は「住宅政策(持ち家を欲する国民への低利住宅ローンの
公的あっせん制度など)」にあるのではなく、
『すべての』という点を強調されているように読み取れますが、
自由民主制国家においては、社会・共産主義体制国家とは異なり
あくまでも『任意』選択制であることが大前提ですから、
この住宅政策への政府の関与のあり方そのものよりも
『民間』も介在させた無理な融資あっせん過程で生起していた
諸問題こそが責任追及されるべき点だということです。
その点は著者もサブプライムローン問題とともに
審査等が適切に機能していれば本来ならば発生しなかったであろう
『公的債務』の膨張も抑制できたであろうとのことです。
しかしながら、著者も問題を混在させているように感受されますが、
これは『公的』債務問題とされていますが、
実態は『民間』も介在している以上、
政府だけの責任ではなく、民間もこの問題に関しては『共犯者』だということ。
半ばは『民間』債務の問題でもあるということです。
また、潜在か顕在かを問わず『民間』債務の方が
『公的』債務を実際には凌駕していたのではということも指摘されているからです。
たとえば、政府からの『民間』に対する住宅貸付資金の調達コストや
『民間』からさらに一般市場へ融資供給されていく過程での
査定面でのいわゆる『モラルハザード』問題や
真に必要とされる『居住用』物件以外の
投資用不動産やその他の金融商品(株式/債券など)などにまで
積極投資を促すような追い貸し融資問題など、
そちらの方こそが政府の『一般的』住宅政策以上に
より深刻な問題だということです。
さらに、ここも最重要着眼点だと自負しますが、
『市場の失敗』時において
政府の『早期』介入が出遅れたからこそ
さらなる『市場(民間)』被害もひどくなったということも
ぜひとも指摘しておきたい点であります。
特に『インフレ』時には抑制すべきであることは論を待ちませんが、
対比して『デフレ』時においては・・・との逆双対関係の
政策的視点も忘れてはならない問題でありましょう。
このように『政府』が関与してくる問題であればこそ、
問題を丁寧に整理整頓していかなくては
根本的な解決にはつながらないと感受するのです。
つまり、政策批判するにせよ、
そこにはケースバイケースによる優先順位もあるということです。
官民のそれぞれの『信用創造』のあり方の差異問題なども絡んできますから、
この問題に関してはさらに慎重な分析調査もしたうえで
今後の政策的改善点を探求開発していくほかありません。
そして、『持ち家』ではなくても、
『すべての』国民には幸福実現と社会福利を享受して
安心できる生活を営む権利があり、
またこのような『生存』保障が確保されることこそが、
現代の『修正』資本主義の意義であるのですから、
あくまでも政府の住宅政策において
住宅をも確保し得ないほどの低所得者と
その他所得階層との「線引き(所得制限など)」問題において
非営利/営利との選別をいかに仕分けるかといったところに
真の政策失敗の原因が潜んでいたということです。
現代経済は規模が大きくなりすぎて、
複雑怪奇に官民ともに相互依存しながら拡張されてきました。
そのうえで、著者が志向される『グローバリゼーション』推進を
さらに積極擁護されていくのであれば、
当然ながら、さらにそれによるリスク要素が強まりこそすれ、
弱まることはないと想定されるからこその
生活安全保障の脆弱化に対する『強靭化(レジリエンス)』志向も
要請されてきますから、
なおさらのこと、『政府』の役割も規模も拡大強化していく道を
辿るほかないと考えていく方がむしろ自然なようにも
感受するからなのです。
そのような流れの中で各国家政府と国際機関との間で
いかに適切な権限配分を行うべきかの
落ち着くべき地点を探っていくのが望ましいということなのでしょう。
この逆説的問題点についてこそ、
著者はいかにお考えになるかについて次作論考で
さらなる深みあるご教示を願いたいところです。
一般的イメージ像では、
『グローバル化が進展すればするほど国家(国境)の役割・意義が
縮小していく』と想定されているようですが、
むしろ不安定要素がより複雑に深化・強化されていくものと想定して
国家の役割・意義を『積極』的な方向で再考・再評価していくべきでは
ないかと思案しております。
いずれにしましても、本章では
『世界ではなぜ今、西欧型自由民主体制モデルに対して不信感が
高まってきているのか?』が主題でありました。
本章の<まとめ>を引用しておきましょう。
『経済成長が低調であることを背景に、途上国の政治指導者は
イデオロギーよりも、現実に対応した実際的な政策を選好している。
その文脈で考えれば西欧の経済モデルを途上国に広めるには、
一律に押しつけるのではなく、実効性があることを示す必要がある。
自由主義に基づくシステムが差し迫った経済的問題を早期に解決すると、
政治指導者や市民が実感することが重要なのだ。
言い換えれば、人々に強制するのでなく、それが公平な形で
経済成長をもたらし、貧困を撲滅すると証明することが、
自由民主主義と資本主義を受け入れることに繋がるのである。
経済モデルを普及するには、持続可能な経済成長を実現する、
人々を貧困と絶望から救うことができると思わせることが
最も効果的ではないのだろうか?』(本書123頁)
本章末尾では、前回書評で登場していただいた
フランシス・フクヤマ氏が『歴史の終わり』で提示された
『民主主義と資本主義は、比類のない優れた
統治の形態だ』(本書124頁)とした当時の見立てについて
著者も現時点に至るまでの歴史的経緯などを踏まえて
批判的評価を加えられています。
著者の『本書での主題』はあくまでも
経済成長を大前提とするもその道を阻害している(きたかに評価される)
各種の現行『政治制度』に対する批判的吟味であり、
その改革案の提示であるということです。
つまり、最重要かつ最優先して意識しなければならない問題点とは
経済成長をうまく起動させて
中長期的な社会経済的発展を成し遂げていくためにも
何にも増して現在の先進国で採択されてきた
『<自由民主制>政治のあり方』そのものを再検討していく必要があるとの
着眼意識だということに尽きます。
そこでの比重力点は『自由主義よりも民主主義にある』ということです。
そしてその扇のかなめにあたる部分こそが、
現行の『選挙制度』のあり方だと著者は問い詰めていくことになります。
最近の我が国の政治現場でも緊急事態発生時における
『議員任期の延長』問題に対する認識が深まりつつある現在、
そして、その具体化には憲法改正問題も絡んでいくために
現在の『自由民主制』の本質的長所を損ねないような配慮をしたうえで
大所高所から安定した政治運営を図れるような
より良き改善案の検討審議を願いたいものです。
狂気に満ちた民主『集中』制でもなく、極端な直接民主制志向でもなく、
『悪い』意味での大衆迎合(ポピュラリズム)政治でもなく、
これまでの『代議制(間接的)』自由民主志向型政治によって
積み重ねられてきた歴史経験的叡智を十二分に汲んだ
適切妥当な『任期』設定を考案していただきたいものです。
一方で、任期『延長(長期化)』志向が
ひろく国民一般の同意と理解を得られるようにするためには
『国会』議員としての見識と資格に欠けると感受される者に対する
『解職』制度も同時設定していく志向性もぜひとも不可欠となりましょう。
もっとも、この『解職』制度が濫用されないような
十二分に練られた設計でなくてはならぬこと論を待たないところです。
いずれにしても、議員本意ではなく、
『国民』本意の政治制度改革でなくてはなりません。
現実的にはかなりのズレこそあれ、
『治者と被治者の同一性』が担保されていることこそが、
近現代『民主制』政治の理念でありますから、
この理念が活かされるような志向性でなくては
著者によって提案されるような改革案も
いともたやすく『形骸(権威主義的腐敗)化』されてしまうからですね。
ということで、以下の章からは
この現代『民主制』の内情を探りながら、
その問題点を提示していく論旨展開となっていきます。
次章での検討課題は、
『より本質的なのは、とりわけ民主主義による政治が、
短期的でなく、長期的な社会経済の発展を担うことができるのかという
問題』(本書125頁)
について分析考察を加えていくことになります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
⑥『第6章 近視眼的政治の危機』
※本章では、政治的観点から評価する『短期志向の弊害について』が
主題となります。
そして、このような現代政治の『近視眼的』貧弱化は
経済界における『短期志向』とも連動しているとの重要な視座を
提供することを通じて、
『経済成長は行き詰まり、瀬戸際に立たされている』(本書149頁)との
現状診断でもって次なる打開策提案への道をつけていくことになります。
まずは著者が本章で強調して語られている重要論点について
引用提示しておきましょう。
『民主主義では、短期志向が強まりやすい。西欧では政治家の任期が短い。
任期は通常五年未満であることから、
長期的な政策課題に取り組もうとしていても、選挙に中断されてしまう。
当然、政治家は、月次インフレ率、失業率、GDPの改善など、
すぐに成果が表れるものや、成果が分かりやすい政策で有権者に
アピールするようになる。だが、このアプローチでは経済の構造問題の
悪化に目が向かず、問題解決のための政策を打ち出すことができない。
持続可能な経済成長のためには、政治指導者、ビジネスのリーダーが、
短期的な点数稼ぎよりも長期的繁栄を重視した、より質の高い意思決定を
行う必要がある。
この章では、そうした取り組みを実現するために、
どのような変革が必要になるか、現行の制度をさまざまな角度から
検証する。』(本書128頁)
『直接選挙で当選した政治家と、その政治家の経済政策には
強い相関が見られる。有権者は、自分たちの要望(たとえば、年金支給額の
増額や減税)に応えてくれる候補者に投票する。
景気が悪化し、経済が長期停滞する時、多くの場合、それは政治家が
有権者の要望に応じなかったからではなく、要望に応えた政策を
行ったからに他ならない。
自由民主主義の下では、有権者の投票を決定するのは経済である。
社会問題を重視して投票したとしても、健康医療、移民といった
社会政策が選挙の争点であるとしても、最終的に重要なのは、
それがどのような経済効果をもたらすかなのだ。
政治の核心は、経済政策として何を選択するかなのである。』(本書128頁)
『むしろ逆ではありませんかなぁ・・・』と感受するところです。
選挙における主要争点になるのが、国民生活にただちに直結していく
経済政策になってしまうことはそもそもやむを得ないことであって、
その短期的問題を安定的に実現させていくには、
今や広い意味での『中長期的』経済安全保障の観点も
重視されなくてはならなくなってきていることくらいは
一般国民でも理解しています。
問題は政治家やそれを政策面で支援すべき官僚、専門家といった
『公的』有識者の説明責任の不十分さや訴求力の弱さにあるものと
感受します。
そもそもが高度に複雑な難題を
一般国民のみなさまに具体的イメージ像を描いて十二分な
理解を得ていただこうと欲するならば、
このいわゆる<情報の非対称性格差>問題があることを
常に念頭においた意識が要求されるからです。
さらにそのうえで問題なのは、
今や政府の審議会などに
『公的』選挙審判をも受けていないような
いわゆる『民間』議員が多数もぐりこんでいることこそが
真に憂うべき深刻な問題なのです。
それに加えて、そもそも現代経済構造が高度複雑化していくにつれて、
政治とさらに密接に結合せざるを得ない傾向になりゆく以上は
必然的に『官民癒着体質』となりやすい制度構造となることも
考えあわせておかなくてはなりません。
経済と政治の距離が接近しすぎているのも
『短期志向』の弊害をもたらす契機だと著者は指摘されており、
管理人も同意いたしますが、
接近そのものが悪いのではなくして、
それを媒介していく『中間』組織において
一般国民とのあいだに『不透明な障壁』が多数築かれていることも
重要問題であろうとは著者自身も問題意識を共有して下さるだろうとは
信じるものの・・・。
著者の言説(翻訳のされ方の問題もあるかもしれませんが)だけを追っていると、
一般民衆の生の切実な政治意識感覚についてご理解いただけていないように
強く感受してしまうわけですね。
この著者との心理的距離感はいったいどこから来るものなのだろうか・・・と
考えさせられるのも本書を読み解く際の要点なのかもしれません。
『要するに、政治家は、長期的な経済成長を犠牲にすることで、
有権者の短期的要望に応え、点数稼ぎをしているのである。
民主政治に短期志向になりやすい性質がある以上、
世界経済に立ちはだかる構造問題を解決するには、
民主主義を抜本的に見なおすしか方法はない。』(本書129~130頁)
このような問題認識に対する違和感についても
すでに先に語らせて頂きましたので次の言説確認に移りましょう。
『民主主義を改革する目的は、世界経済の逆風に、政府がより適切に、
効果的に対処できるようにすることである。
この章では、短期志向が、民主主義の政治システムと資本市場システムに
どのように害を及ぼすのか、意思決定を妨げ、持続的で力強い経済成長を
阻むのかについて詳しく見てきた。
民主主義の政策立案者が、近視眼的な思考枠組みを修正する方法は、
選挙の短期サイクルと経済的課題の長期サイクルの期間を
一致させることである。
資本市場システムよりも政治システムを改革することが先決だ。
国家と、政治指導者が近視眼的な思考から離れ、長期的な視点で
政策を実施できるようにするには、まず政治システムを改革することが
重要なのである。
政治が短期志向に陥ることをなくすことは必要だが、
それは第一歩に過ぎない。
経済が苦境から脱し、現在直面している逆風に立ち向かうためには、
より抜本的な改革を実施することが必要になる。
資本主義に内在する限界を乗り越える唯一の方法は、
自由民主主義を見直し、強化することなのである。』
(本書146~147頁)
とにかく、エリート専門家諸氏が『構造問題』とか『(政治)改革』や
『抜本的に』といった表現を多用される際には
特に要注意事項として警戒をせざるを得ないのです。
それこそ『グレイトリセット』とか
『アジェンダ(行動予定計画の議題)』設定とか
その内実がよくわからぬ抽象的すぎるカタカナ語には
最大限の警戒が必要であります。
なぜならば、そのような推奨策が現実社会で適用された結果が
『ショックドクトリン』であり、
『もはや立ち直れない瀬戸際まで追い詰められてしまっている』からなのです。
何度も強調して繰り返しますが、
日本や韓国、東南アジアや中南米のような国々で
すでに処方されてその悲劇的結果でもって
著者の改革志向の行き着く果てが『反証』されているものと
確信しているからです。
上記引用文内で
『民主主義の政策立案者が、近視眼的な思考枠組みを修正する方法は、
選挙の短期サイクルと経済的課題の長期サイクルの期間を
一致させることである。
資本市場システムよりも政治システムを改革することが先決だ。
国家と、政治指導者が近視眼的な思考から離れ、長期的な視点で
政策を実施できるようにするには、まず政治システムを改革することが
重要』とは語られているものの、
確かにそれが結果として著者の願い信じるような
一般民衆においてもより良き果実として味わうことが叶えば
手厳しい批評も『杞憂(取り越し苦労)』にすぎず、
ただただ著者には誤解しすぎかもしれぬとの点で
お詫び申し上げるほかありませんが、
『やはりどこかに妙にひっかかるものがあるのですね・・・。』としか
本書の読後感からは感受されないのです。
その『言外(行間)』に潜んでいる『霊気』とでもいうべきものが
どうしても怪しげな雰囲気を漂わせているのですね。
『グレート・リセット』論が感受させる
あの冷酷さのような何ものかがなのです。
上記引用内でのご提案では、もともとが『短期』の選挙サイクルだったものを
『中長期』の経済的課題の長期サイクル(『構造改革』を好む新自由主義者や
新古典派志向の経済学者はまさに『中長期志向』を表向きは公言して
きましたから。)に合わせていくということは、
逆に『短期的』な一般民衆のチェックも入らず、
政治期間の『中長期化』をもって
景気変動/循環構造そのものも意図的な『中長期』的不況へと
導く誘因も働きかねないものと懸念するからなのです。
そもそも景気循環における好況/不況の時間的サイクルも
自然にあらかじめ決定されている事項として予測することも
不可能ですし、その一点においても
どのようにして選挙期間の調整を図ることが叶うのかという点ですら
不透明になってしまうのではないでしょうか?
そのような意味で経済的観点からのアプローチといった逆方向からの
一般有権(生活)者への政治参加機会に対する制御を図ろうと試みれば
かえって民衆不安を強めるだけになりはしまいかと懸念されるわけなのですね。
そもそもいかなる経済政策がその時々において『最適解』なのかを
あらかじめ決定しておくなどといった『社会実験』など出来ないのです。
このようなアプローチを無理に採用していけば、
統治者側としては一般民衆を『中長期』にわたって支配しようとの
誘惑も生み出されていきましょう。
そもそもエリート指導者が常に『有徳』かつ『賢者』だとどうして
断定できるのか・・・、
このような認識を暗黙の大前提に据えてしまう
人間『観』においてどうしても相容れない点が出てくるのですね・・・
ということです。
このことは、いわゆる『陰謀論』的志向ではなく、
人間が有する特質的観点からどうしてもその問題点を
あらかじめ考えあわせておかなければならないと信ずるからです。
もちろん、一般民衆もしばしば判断を過ちますが、
エリート指導者、専門家も『人の子』ですから、
当然ながら様々な『あまりにも人間的な誘惑・欲望に駆られる』ものなのです。
その意味で特に『優秀』だと自他ともに評価されやすい人間に対して
楽観すぎるように感受させられてしまうのが
管理人自身の違和感が湧き出てきてしまう最大要因なのかもしれません。
人間『理性』はそんなに強靭ではないものです。
そのことはすでに過去の『権威主義型全体主義』統制国家が
左右の政治的価値観を問わずに、そのような理想論を過度に信じて実行した結果、
大惨禍をこの地上にもたらしてしまったことへの歴史的重みを
軽視しているように感受されてならないのです。
著者とはまた違った体験的皮膚感覚からの
人間一般に対する『不信』感情なのですね。
管理人はどちらかというと先に触れましたケインズ卿の
人間観に近いだけなのかもしれません。
『不確実』性をいかに制御すべきかという視点こそが
きわめて重要だと認識しているからです。
だからこそ未来永劫に生きることも叶わず、
人間の『自然な』物理的・精神的『社会的活動』寿命を
深く考慮したとは言えないような
昨今の『加速未来主義』志向人間が
繰り出してくるあらゆる政策提案に嫌悪感を催すわけなのです。
『引退(隠居)』すること素敵じゃないですか。
なぜ、現代人はこのような生活様式を忌避し、
不自然な生活観や人生設計論に固執するのでしょうか?
このような制度設計に対する問題意識もあるわけですし、
それなりにむしろ『合理的』に感受されるのですから・・・。
制度をいかに設計するかは
米国の『建国の父たち』や我が国をはじめとした
いずこのいずれの時代のエリート指導者も
まずは自然に即した人間『観』を参照基準にしてきたはずなのです。
制度そのものは仮に一点の瑕疵がなくても
実際に運用する者に「心」がなければ
いともたやすく悪用/濫用されてしまうことは
歴史が示唆してきたところですから・・・。
さて本章でのもうひとつの重要論点である
民間経済人も『短期志向』型発想に陥ってきたこと。
(本書132~146頁あたりが『民間』問題についての
力点論考文となります。)
この点は問題意識を共有し、共感もするところです。
そのうえで、著者が提出された論点に絡む問題点について
さらに独自補強しておくことにいたします。
それは、著者が現在の投資傾向として『脱』株式化にあることや
『自社株買いの急上昇』と収益を直接対外投資へ回さずに企業の財務安定化の
ために『内部留保』化する傾向、さらには一般論としての
安定志向の『債券』投資が好まれる傾向に対するリスク回避志向性が
『技術革新と経済成長を害することに繋がる』(本書135頁)などとする
評価姿勢にある点についてです。
なるほど、これらのご指摘にも『一般論』としては首肯できる点も
ありますが、著者も指摘されているように
このような極度な『リスク回避』志向になってしまうのも
経済がかつて以上に不安定化しており、
不確実要素がグローバリゼーション(著者によれば
グローバリゼーション傾向も肯定的に受け止められているようですが)によって
ますます強大化してきたことが底流にあるからこそ、
みな一様に『保守化』したり、『短期志向』に走っているように
評価されているわけですが、
この点も中長期的なマクロ経済の観点から再評価していくと
むしろ現状の打開策としてはやむをえず好ましい点もあろうということです。
いわゆる『株主資本主義』に比重を置きすぎた経営姿勢自体が
再検討されてきていますし、
『債券』投資についても著者や一般的に評価されているほど
株式投資よりも好ましくないなどとは言えなくなってきているからです。
近年のSDG’s投資の一形態として、
いわゆる『社会貢献』債というものも注目されているようです。
資金調達方法も今や多様化している点も
株式と債券との間で『転換』が可能となるような
法技術面での整備もなされてきたことに見受けられましょう。
このような問題を評価する際には
常に長所と短所を両面から眺めていかなくてはならないということです。
いわゆる『債務の株式化(デット・エクイティ・スワップ=通称DES)』も
不良債権の処理などといった『後ろ向き』な活用法だけが
なされているわけではないことも現在の実務最前線でありましょう。
とはいえ、現行会社法やその他の運用規定では濫用されないためにも
なお厳しい歯止めがあるようですが、
この点についても新しい財務/貨幣(資金調達手段)『観』の転換によって
さらなる柔軟な見直しも検討していただきたいものです。
『法も経済実態によって進化するものなのですから。』
このような前向きな研究も法学者や法曹実務家には要求されているのです。
このあたりの最新動向も押さえておくと
一見すれば後ろ向きに見える現象も『前向き』に捉えることも出来るのです。
もっとも、著者がここで指摘したい最重要論点は
『短期志向の弊害』をいかに是正していくべきかでありますから、
ここであまり必要以上に厳しく批評はいたしませんが、
投資や消費に対する姿勢そのもののあり方は景況次第で
人間心理はいともたやすく変化していくものですから、
まずは経済政策面でいかなる前向き誘因を提供していくかにこそ
もっと焦点を当てていただきたかったのです。
民間投資家や企業経営者が好む現代の投資感覚性向や
いわゆる
『流動性選好(投資においていかなる資産を好むか)』問題も
複雑に絡みますから、あまり簡潔に否定的評価をされることなく、
多角的検証を通じての『中長期』安定化策をご提案していただければ
より説得力も強まったのではないでしょうかというにすぎません。
ですから、ここで最重要となる論点はミクロ面における
個人的な経営改善達成へ向けた努力を通じての
高配当利潤獲得誘因を対外『公益』投資にも振り向けようといった
中長期に向けられた『好循環構造』を導くにも
国家のマクロ経済政策による後押しも必要不可欠だということなのです。
なぜならば、個人的努力だけに任せると、
せっかく経営改善させようとの志向性を持たせたにもかかわらず、
その主目的を忘れて『中長期』的な安定経営を大前提としていたにもかかわらず、
将来的に果たせばよい利潤向上を『短期的』に達成させようとする
無茶な志向性が経営者側と株主側の双方に誘発されて
ふたたび企業経営の悪化(短期的な株価向上対策の一環として
不合理な設備投資計画と返済困難な銀行融資による短期的拡大経営などの
誘発)や当事者のモラルハザードをもたらすおそれも出てくることが
予想されるからです。
そこで、このような個人的努力を『無』に帰せしめないためにも
中長期的に安心して経営専念と株主としての支援を可能にするためにこそ
マクロ経済政策による手厚い支援も重要な政策課題だということです。
現代『資本』主義経済はミクロの個人的努力だけに頼るだけでは
経済全体の『パイ』自体を増やすことに時間がかかりすぎ、
豊かな社会を維持発展させることも難しくなるほど
経済規模(経済的相互連関の環)も大きくなりすぎているのです。
この構造を大前提に現代経済は動いているのです。
つまり、現代経済は古典的な『家内制手工業』の時代とは
まったく様変わりしているわけです。
この構造的視点を忘れて、あるいは軽視して
『脱(反)』成長とか、『成熟』しているどころか
『停滞』もしくは『衰退』する一方の現状日本を
『すでに成熟している』などと牽強付会な歪曲分析でもって
強弁される論者のように大東亜戦争末期の軍部が
『撤退』を『(名誉ある)転進』に言い換えたのと同じような
短絡思考回路を持つ方々、
あまつさえ現代人の『低欲望』化傾向を
適切妥当なマクロ経済政策への思慮もなく
短慮な提言でもって、
かえって阻害するような道に迷わせるような思想性でもって
心理的に経済的『意欲』を上向かせて『復活』させよなどと
無茶ぶりする某経営コンサルタントのような怪しげな迷惑説も
乱立してしまうゆえんも
現代マクロ経済政策が真に必要とされる歴史的背景事情も
その意義すら十二分にご理解されていないからだと感受されるのです。
世でにぎわっているほとんどの経済論者や経営コンサルタントの類は
みな一様に「なぜ、前世紀に『修正』資本主義というものが出現してきたのか、
その歴史思想的に見た必然性について想像力が乏し過ぎるのだろうか?」という
疑問を学生時代から管理人も強烈に感じてきたわけですが、
結局はこのような迷言をのたまえるのは
先人のたどった苦難の歴史的歩みへの想像力もなく、
あたかも『所与の大前提』であるかのように
先人が苦労して蓄積して下さった『資産』を次世代へ
さらに発展継承維持させる志向性ではなく、
『食いつぶす』ような貧しい発想でしか人生を
過ごしてこなかったからではないかと。
やはり現在の世の大人の大半が『バブル』とその後遺障害で
心身を病み、将来再建へ向けた『中長期』的志向性が湧き出てこないほどに
末期的症状が『慢性化』してしまっているからではないかと推察するのです。
『「明日」と書いて「明るい(黄金の)日」と読む』という
体感的経済社会感覚も『観(イメージ像)』も
枯渇してしまったようです。
このような時代だからこそ、『何のために働くのか?』を
余暇にじっくりと感じ、考え、己自身の来し方行く末を見つめなおし、
余生を後顧の憂いなく生き過ごしていきたいものだ・・・と
強く願うのです。
『嗚呼』
やはりマクロ経済政策(現代資本市場主義経済への国家的関与。
もっともその関与のあり方自体は著者も指摘されるように適切妥当な
ものでなくてはなりませんが・・・。)が志向すべきはずの
現代『修正』資本主義を支えなければならない『論理』について
いまひとつご理解・ご納得していただけるだけの
『知的ゆとり』も残されていない方々が
世の大半を占めているということになれば、
『待望の「経済活発化に向けた心理上昇効果」も
そりゃぁ一向に出てくるわけがないですわなぁ・・・。』
といったところです。
ということで、世にはびこる有識者を
今後も書評を通じて『プロファイリング捜査』していきましょう。
浪花の『モルダー捜査官』が書評審査するというテーマも
斬新な視点かと自負しております。
そのためにもより研ぎ澄まされた『確かな』目と心を
磨き上げ続けていかなければ・・・と思う今日この頃であります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
⑦『第7章 新たな民主主義の構想』
※本章では、政治的な短期志向によって
中長期的な社会経済の安定性を阻害しかねない
現行の諸制度(特に『政治』制度が主題になります。)を
批判的に検討したあとに著者自身の改革案が提示されることに
なります。
『中長期』にわたる社会経済の安定性を保障し得る
『政治』制度へと再構築していくことを通じて、
経済『成長』を図り、もって均衡ある経済『発展』に導いていく
道をつけていく。
そのことによって、より健全な『自由民主制資本主義』経済の
再生強化を目指していこう・・・というのが
本章における著者のおおよその論旨のあらましであります。
そこで、本書ではおおまかに二つの側面から
『政治』改革案について語っていくことになります。
『改革案は二つに分類される。一つは、政治家と政治制度に関する案、
もう一つは、有権者に関する案』
について。
そして、その中身は
『改革案では、過去に制定された法案を簡単に撤回できなくすること、
選挙の頻度を少なくすること、任期を設定すること、
公職者が非政治的活動を経験すること、投票を義務づけること、
有権者資格の最低要件を制度化することが含まれる。』
そのような改革案実施の想定対象国は
『アメリカ、欧州諸国、カナダ、日本、オーストラリアといった
成熟した民主主義国家』(以上引用三ヶ所について本書152頁)
とされています。
その具体的改革案は下記に引用させていただく10点であります。
・<改革案①>
『政策を政府及びその継承者により強くコミット(管理人注:『関与』という
意味です。)させること。』(本書153頁)
・<改革案②>
『政治資金の改革である。』(本書158頁)
・<改革案③>
『立法の質をよくするために、公職の報酬を、ボーナスを含め
民間水準に引き上げることだ。』(本書160頁)
・<改革案④>
『政治家の任期を長期化するように選挙の周期を
変えることである。』(本書162頁)
・<改革案⑤>
『政治家の任期を長期化することは、任期に上限を設定することと
セットで考える必要がある。』(本書163頁)
・<改革案⑥>
『政治家に立候補する者の要件をより厳格にすることが重要』
(本書165頁)
・<改革案⑦>
『指定席、または、競争のない選挙を減少させることである。』
(本書167頁)
・<改革案⑧>
『低迷する投票率を改善するために投票を義務化することである。』
(本書170頁)
・<改革案⑨>
『政策選択を左右する有権者の教育である。』(本書173頁)
・<改革案⑩>
『政治への関心や知識の高さに応じて票を加重平均し、
質の高い有権者には、より高いステイタスを付与することである。』
(本書174頁)
本章の結論として、
『西欧は数百年の間、民主主義を牽引し、世界に普及させてきた。
成熟した西欧の民主主義国には、民主主義を変革する責任がある。
新興民主主義国も民主的プロセスに欠点があることに
留意しなければならない。
短期志向が制度や国家を弱体化させることに対して警戒しなければ、
大きな脅威となり、改革は遅れる。』(本書181頁)
本章で著者が提案されているような内容については
選挙制度改革論が取りざたされる際には
すでに多くの先人が類似した主張をされてきていますので、
特段この話題に関する限り目立った特徴も見当たらないように
少なくとも管理人には感受されたところです。
そして、この提案に関する限りは
おおむね管理人にも共感すべき点はあるものの
やはりそう簡単には同調するわけにもまいりません。
なぜならば、一般人に『一人一票』の政治参加権が付与されることにつき、
現在のような形態にまで進化してくるまでには
先人の相当なまでの歴史的苦難の道のりがあったからなのです。
しかも、その過程では階層間での深刻な暴力的攻防戦も
現実にあったからなのです。
その膨大な犠牲者への哀悼の意も薄く感じられるほど
その以前の状態へとふたたび回帰していく可能性も
濃厚に感受されたからこそ、
現状の『自由民主制』下の選挙制度改革において
確かに著者が提示されている案にも傾聴すべき点はあるものの
なお慎重に配慮しなくてはならない論点も多々あるだろう・・・というのが
管理人の批評趣旨であるにすぎません。
いくら一般有権者の中に政治参加そのものに興味関心がない層がいたり、
また、政治イデオロギーに対する評価吟味『免疫力』が弱いと
感受される層がいたとしてもそれだからといって、
選挙権を制限ないしは、はく奪するまでに至ることについては
断固として反対しなくてはならない正当理由があるからなのです。
選挙制度改革を論ずる際に注意すべき点は
著者か提案されるような「経済政策」評価の機会というように
狭い分野だけに特化して考えておればよいという易問ではないからです。
ことに税金制度に対して
納税義務者としての立場からだけではなく『権利者』としての立場からも
『代表なくして課税なし』の実質的意義を検証表明できる機会が
奪われてはなりませんし、
そもそもが『身分差別撤廃』の歴史的重みが
選挙制度には深く切り刻まれているからです。
そもそも一般有権者とプロの政治家とのあいだには
政治経験(この経験にも様々な階梯がありますが)という意味での
圧倒的格差がありますし、生活に追われている身であれば
高度な見地からの政策的評価分析を行うゆとりさえないのです。
つまり、ここにも情報の非対称性格差が潜んでいるわけです。
さらに、著者が示唆されている以上に
一般国民間における教育の『機会均等』が経済的に保障されているには
ほど遠い実態にあるのが現状なのです。
そもそも論として、まずは『公教育』のより一層の充実と
公費支援によって自立した一般有権者としての資格にふさわしき
『質』を高めていくことが何よりも肝要であって、
その有権者資格『枠拡大』を図っていこうとする志向性こそが
先決問題でありましょう。
著者の見立て志向でいきますと、
どうしても『落ちこぼれ』には参政権など与えなくてもよい・・・
かのような無情な響きを強く感受してしまうのですね。
しかも、著者が提案するように単に資格試験に合格すればよいとか、
一定の社会経験や『民間(営利組織)』で職歴を積んだ者に
『選挙で当選できるように推奨すべき』(本書166頁)だと
あたかも『公職(非営利組織。ここでは正式な公務員採用経験者だけに
限定せずに広く『公益』志向の社会的政治活動従事経験者も含んで)』経験者を
民間よりも『劣位』に置くかのように誤解される提案となりかねない
響きすら感受させられるところに強い違和感があります。
一般有権者には多種多様な経歴属性があって当然でありますし、
『選挙』機会という政治的批評訓練の場があってこそはじめて
政治的能力も鍛えられていくのです。
いわば『民間』企業でも一般的なオン・ザ・ジョブトレーニングと
同様の意義があるわけですから。
『自由民主制』政治とは何も専門的訓練を常日頃から積み重ねている
『職業』政治家だけの専売特許という代物ではないのです。
あくまでも『代議』職務を『委任』させていただいているのであって
選定・罷免については国民固有の権利であるという
『国民主権の原理』そのものに由来したある種の『特権』でも
あるのです。
『参政権』獲得に至る歴史的蓄積の重みを再確認した
近現代憲法の通常のあり方はそれほどまでに重要な規定なのです。
このあたりの歴史感覚的差異が著者との距離を感受させているようで
ご提案にはどうしても素直に首肯することができないのですね。
『学びなおして、より良き場に転職・転業したい・・・』と
激しく願っても果たせないのが
自称『先進(成熟)』国たる我が国の惨憺たるありさまなのです。
特にいわゆる『ゆとり』教育を受けさせられた若き同志世代に対する
先代からのいわれなき激しいバッシングには許し難く、
度し難い『傲慢さ』を感じるものです。
今月も大阪府内の某市において『就職氷河期世代』を対象とした
奨学金返済への補助金(上限五万円)なる記事に触れたのですが、
『いまさらなぁ』とも強く感じさせられたのでした。
奨学金返済計画にあたっては様々な制度的相違も
ありましょうから、この場でその返済方法に関する具体的解決法を
軽々しくご提案するわけにはまいりませんが、
返済が滞ることによって学位もはく奪されて、
社会的にも諸々の不利益損害を被る恐れも多々でてまいりますから、
『リスケ(リスケジュ―リング。返済計画の立て直し)』にあたっては
各種金融機関だけではなく
出身母校の担当責任者との打ち合わせ作業も必要となりましょう。
遅きに失したとはいえ、政府も『就職氷河期』世代を含む
次世代を担う若者支援の重要性にも本腰を入れつつある
(そうであって欲しいですが・・・。)ので
各種公的機関窓口でご相談してみる価値はあるものです。
その時の相談姿勢の要点は
『諦めずにしっかりとした論理的根拠を示す資料類を事前準備して
熱意をもって最後まで貫きとおすこと』であります。
『ダメ元』と思っていても結構な高い確率で
ご自身の欲求通りの意思が適切妥当で純粋なものであればあるほど
『通りやすくなる』ものです。
是非お試し下さいませ。
『無理強いは禁物』ですが(笑)。
『合法的な道義が許す範囲でですよ。』
『さすれば、狭き門も意外と簡単に開くものですから・・・。』
すでに奨学金返済を終えたご友人や知人などに付き添っていただいたり、
経験者にその道のルート(もちろん『合法』ですよ。高利貸し闇金には
絶対に手を出しちゃダメダメですぜ。)紹介していただくのも
ひとつの生活の知恵でしょう。
今の若者世代は『親ガチャ』といったこれまた嫌な言葉もありますが、
本当に親の所得によって将来の進みたい道が選別・排除されているのです。
これがどれほどの前途有望観(夢や志をもって前に我武者羅に突き進もうとする
積極的意欲)や自尊感情を激しく損ねるものであるかを
どうかご理解いただきたいのです。
世代間格差がますます拡大して、いわゆる『高度グローバル』人『材(『財』として
拍手喝采で送り出したいとはどうしても言いにくくなるような国民同朋同士の
『紐帯=絆』感覚すらも薄れていきますから。)』だけが優遇されていくと
ただでさえ人『財』不足の我が国はさらに厳しい状況へと
追い込まれていくことになるからです。
ですから、このような過酷な返済生活事態に陥られていることは
必死な想いで『自助努力(自己責任)』を果たし続けてこられている
あなた様方々だけの責任だけに矮小化される問題ではないということです。
何としてでも社会的地位が高い『特権』に恵まれている要路におられる方々には
このような生活事情を抱え込んでしまっている一般国民の切実な声に
真摯に耳を傾けるだけではなく(←ここが一番のミソです。『聞く力』だけ
持ち合わせていても実行できなければただの優等生的八方美人で
職責を果たしたとは評価されないでしょう。)政策的支援の『決断と実行』で
もって示して下さるよう願うばかりです。
このような一般国民の切実な要求すら『欲求(甘やかし)』政治だとして
無下に反故するような政治姿勢を続けられていますと
恐ろしい結末(戦争や暴力革命!!)が招来されかねないことを
どうか世界史的教訓からも汲みとっていただきたいのです。
それが少なくとも『自由民主』だとか『国民民主』だとか
『立憲民主』とか耳障りの良い党名を掲げておられる政党責任では
ないでしょうか?
与野党問わずに、只今現在こそが歴史的分岐点(悪い意味で)だとの
厳しい時局認識をもって職責を果たしていただきたいものです。
この「失われた」数十年を一般国民目線で総括すれば、
早期のデフレ不況からの脱却をほぼ意図的にとでも表現したくなるような
国家マクロ経済政策の『失政』も絡んでいたのですから、
それが的確で正直な分析評価でありましょう。
『大きすぎてつぶせずに税金で救済された』金融機関をはじめとする
大企業はあれど、まじめな『中小零細』企業や
低所得層は『ゾンビ人間』などと揶揄する大○○者も
この世にはいらっしゃるわけですからねぇ。
この世はほんと不公平で不思議としか思われないのです。
そのような次第ですから、
さりとて、専門的訓練を幾重にも積み重ねてきた
プロの『職業』政治家といえども
地に足のついた形での身近な生活現場における
一般庶民の体感から見た政策効果反応についてまで
深い眼差しをもって共感対応できているかと言えば
そうではないことくらい火を見るよりも明らかでありましょう。
このようなわけで庶民生活に『直結』してくる重要事項について、
『審判』の機会すら与えないということは
どうひいき目に見ても『不当差別』でしかありません。
また直接民主制から間接民主制へと発展してきたことにも
まずもって政治的時空間の拡大があり、
そのことによって隅々にまで思慮深く配慮する
時間的な意味での政策決定に対するゆとりが後退させられていくことに
なったわけですね。
ここに規模性から見た参政権の限界点をもふまえた
近現代に特有な『代議制』民主政体とその意思決定過程に対する
種々の政治的『抗体』制度も発達してきたということですね。
まずはこの重要論点をしかと理解しておかなくてはならず、
この点を踏まえずに改革案を安易軽率に提出してはならんでしょう・・・と
強調させていただきたかった趣旨なのです。
つまり逆にいえば、
一般民衆による『直接的』な政策決定への参入余地が狭められていったからこそ、
『事後的』な形ででも『判定評価』できる機会としての
選挙権と被選挙権が『広範囲に』権利として付与されるべき必要性が
ますます高まっていったということです。
言い換えますと、『直接』制と『間接』制のあいだには
相反関係が潜在しているということですね。
ここに三権分立思想の底流にある発想と似た
選挙者と非選挙者との分離対立関係から派生する諸問題について
双方からの政治力学の『綱引き』によって
実際的政治権力に対する均衡/抑制を図らなくてはならない契機が
あるということです。
ましてや、『事前』段階で選挙権を制限、はく奪する志向性を持たせた
改革であれば、なおさらのこと、『事後』的にでも関与できる余地を
拡大しておかなくてはなりませんが、
技術的にこの矛盾点をどう回避しておかなくてはならないのか
なかなかに難問であります。
一般有権者の『質量』ともの拡大こそが
本来の『自由民主制』選挙機能が健全に働くための大前提でありますし、
すでに我が国でもまだまだ理想とは程遠いと評価されがちですが、
そこはあたたかく見守りながら、『主権者』教育の発展育成を
図っていくほかありません。
著者によって改善提案が出されるまでもなく、
すでに主張されるような内容も考慮しつつ、
試行錯誤してはいましょうが、
一般有権者『公民』教育過程でも漸進的に取り組まれてきておりますから、
その努力が実るかどうかは
『専門家(被選挙権者である代議士を含む)』ではなく
まずもって我々一般有権者の政治への興味関心度を高めていく
努力次第だということになります。
その大前提として優先的に急がれるべきは
『経済』生活面でのゆとりをいかにして確保/回復させていくかに
すべてはかかっているということですね。
もう1つの重要問題として憲法上の論点についても触れておきましょう。
現在、国会審議事項として急浮上してきている
『緊急事態』時のみに限定されたという留保はつくようですが
国会議員の『任期延長』問題が話題となってきているからです。
とはいえ、現時点ではこのような限定措置としてにとどまっているように
一見感受されたとしましても
将来的には『緊急事態時』の限定も取り払われて
平時においても適用される『恒久立法化』への歩みにでも
進展していけば、
国民の『参政権』を行使する機会が
ますます『縮小』されていくかもしれない重大な懸念材料が
はらまれているものと想像するからです。
憲法とは下位規範の一般立法(政令・規則など含む)とは大きく異なり
いちど「改正」すれば簡単にまたあとで修正変更できるなどといった
『軟性』法律ではないからです。
なぜならば、国家体制(国体)と政治体制(政体)の根幹部分を定立させて、
もって、国民生活のあり方に関して規範的基準として
『拘束』されていくことになるからです。
それは『自由民主制』を採用している場合にも当てはまるのです。
この重大問題に関して下位規範の国会法や公職選挙法などの
法改正によって対応でき、『憲法「改正」を必ずしも要しない』だとか、
『憲法裁判所のような機関に判断させて、
恣意的な運用は避けるべきだ』(大意)といった
憲法政治を重要視しようとする志向性を持つ
その名に『立憲』を掲げる某野党所属の議員さんのご提言もあるやに
聴き及んでいますが、管理人などは
ことの重大性から『実に解せんなぁ』としか感受されないのですね。
そもそも『憲法裁判所のような・・・』というからには
現行日本国憲法にはそのような趣旨の規定が
諸外国と異なり存在していないわけですから、
なおさらのこと『改憲』手続きを必要とするのではないでしょうか?
最高裁判所も違憲法令審査権などの
唯一の『有権的解釈権』を持つという(日本国憲法第81条からの
文理・文言解釈)にとどまりとされており(判例・通説)、
司法権以外の国家組織権能『領域』問題や
あらたに立法措置を必要とするといった『裁量権』問題などについては
立ち入ることを控えなければならず、
それぞれの『高度な政治判断』に任せるべきだとの謙抑的立場を
採らざるを得ない存在だとされているからです。
選挙制度に関してはいわゆる『事情判決の法理』だとか
様々に工夫されてきましたし、
『一票の格差』問題については
管理人も『違憲のおそれが濃厚にあり』と感受する者ですが、
それでも『選挙区割り』に関しては
これまでも試行錯誤されてなるたけ改善しようとの
志向性は働いてきているようだと
ひとまずは『善解』しておきましょう(苦笑)。
それでも国家権力機関の相互『勢力均衡』範囲の確定は
なかなかに難しいところもあるようです。
各行政省庁機関には『縦割り行政』弊害論もあって
現代では省庁横断型の政策課題連携解決も望まれていることに
見受けられるような類似問題も
三権間にあってもあるものと解釈されるからですね。
それでもなお、
なぜに相互抑制姿勢が必要だとされてきたのでしょうか?
それは『三権分立(三権がそれぞれの権能範囲を超えて肥大化する
危険性を相互抑制させるためです。)』原則があるからなのです。
政府権力が拡大すればするほど謙抑機能を働かせる意義が
ますますもって強まらなければならないわけですね。
そうでなければ、それこそ『民業圧迫』問題や
『権威主義型全体的独裁制』国家へと『化けて』いって
我々国民にとって居心地悪き『素晴らしくない新世界』へと
誘われてしまうからです。
『自由民主制』とはそれらの悪傾向を拒絶する政治体制思想なわけです。
ある種の『歯止め効果』がこの体制論には期待されてきた(いる)わけです。
もちろん『有事』においては脆弱性も抱え込んでしまいますが、
『重要案件になればなるほど国民全体で決めていく』とするのが
建前とはいえもっとも重要な根幹部分なのですね。
聖徳太子様の憲法十七条、北条泰時らによる関東御成敗式目以来の
『合議制』重視志向が近現代憲法にも連綿と引き継がれているのです。
もちろん、この『合議制』の内実は時代ごとによって異なりますが。
とはいえ、この歴史的変遷を見ていただくと、
これまた一目瞭然のことですが、
時代ごとに『参政権』の範囲が拡張されてきていることにも
気づかれることと存じます。
いわゆる『歴史(体制)の断絶(続)』論に激しく傾斜する
『革命肯定』論者にはついぞわからぬ
『不都合な真実』ではありましょうが・・・。
日本『法制史』を眺める視点としても連続的理解が
いかに重要ごとであるかも同時にご理解いただきたいところです。
先人(哲)の『血と泪の結晶的努力』を想う時、
自然な敬愛感情が溢れ出てきます。
このような基本事項は別に司法試験などの実務国家資格取得を経て
現実に法曹関連実務職に就いていなくても
我が国の初等義務教育学習過程をきちんと修了された方であれば
どなたにでもわかる『道理』でありましょう。
このような不勉強な『勇み足』とも
『ためにする批判のための屁理屈』からの論点ずらしな
ピンボケ答弁内容などを見させられると
著者同様に『そりゃ不安になりますわなぁ』ということで
一定の議員資格試験の導入もやむを得ないのかなぁと感受されます。
そのような特定野党の『不都合な真実』を身近に観察されて
離党されたあと資格試験勉強まで熱心にされている
某議員さんもおられますが、管理人などは
このような『熱意溢れる』議員さんにこそ与野党問わずに
『清き一票』を捧げたいものです。
書評でもご紹介させていただいたことある方ですが、
実に清々しくて良き姿勢を感じさせますねぇ。
もっともこの議員さんが常々主張されている政策論個々については
是々非々論で拝聴し、批評意見も持っておりますが、
誠実に『国政』に向き合っておられる姿には感銘を受けるものです。
さて、『拘束』の意味についてでした。
『拘束』と表現すると一見「不自由」を感じさせて
『自由民主制』と矛盾しているように感受されるかもしれませんが、
ドイツのようないわゆる『闘う民主制』を採用していない
我が国においては、政策に対する価値観闘争を
『自由な言論市場』に委ねている以上、
むしろ過激化して国民同士の分断対立構造が拡大強化されて
治安(国民生活安全保障)面において収拾がつかなくなるほど
その危険性が高まっていくことになりかねないからです。
だからこそ、『法秩序(法的安定性)』の絶対的確保という視点が
必要不可欠となってくるのです。
ここでは『最高法規』とされる憲法に限定して語りますが、
その趣旨は何が何でも修正変更してはいけないという
かたくなな『硬直』姿勢を要請するものではなく、
修正する/しないにせよ
国民生活の将来に与える影響度合いが強すぎるからこそ
むしろその根拠を巡っては自由闊達な論争機会を
相互に確保尊重し得る『場』を『随時』設定しておかなくては
ならないということなのです。
その意味で国民『参政権』行使の場としての最初の入り口である
投票選挙の間口は極力押し広げておかなくてはなりませんし、
その後においても最終的な政策創造に至るまでにも
大所高所からの自由検証を可能ならしめるためにも
与野党連携の国会審議の場、そして各党の政策論争を経て
最終『決裁』に至るまでの手続きのあり方についても
公平かつ自由闊達であってほしく願われるわけなのです。
この点において『違憲』のおそれもあるとの学説もあるほど
重大な『党議拘束』に関しては
重要案件になればなるほど外しておく(少なくとも最終的な政策決定に
至るまでは)必要があるように感受されるのです。
各党内の自由討議と各所属議員による第一次的投票決定を経たあとの
国会での正式採択決定に至った後の段階では
最終的な安定性を保持するためにも(急な党内外での造反・離反が出てきては
国会運営においても支障をきたしますから。特に『有事』において。)
みなが納得したとの一応の『みなし』合意にまで至ったのであれば
その段階においては『党議拘束』をかけても理解を得られましょう。
実体(実質)的にも手続(形式)的にも自由闊達な意思決定過程の『場』が
十二分に確保されているならばよいのです。
その意味でも特に政権与党内部での『政策調整』の任に当たる方には
責任の重大さをしかと受け止めて頂きたく願います。
有権者としてその言動をしかと見極めて
『叱咤激励』していきます。
国政は『代議制』ではあっても
あくまでも有権者の政治的意思が『主権者』として
反映されたものとしてはじめて納得(国民的合意。たとえ
フィクション的要素だとしてもです。)に至るわけなのですから。
この政治的意思決定『調節/調整』の過程こそが
『自由民主制』を担保するのです。
ここが『民主集中制』を採用する政党や国家と異なるのです。
著者も懸念されるように現在の世界では
広範囲な『権威主義』体制への願望が高まってきている情勢傾向に
あるとも見受けられるわけですから、
この相違点についても確かな政治的『眼識力』を
身につけていただきたく願いまして、
まもなく来たる参議院選挙も控えている時期に当たりますから、
少しだけ政治リテラシーの話題も含めて強調させていただきました。
このような一般有権者の生活的現状と歴史的重みを深く考慮していくと
著者自身にも一般有権者に多大な誤解や違和感を感受させてしまうだろうと
配慮、懸念されている様子も伺えるようですが、
それでもなお慎重に議論を積み重ねていくべき論点が
多々あるのではないかと強く実感させられたのでした。
とはいえ、著者自身の立場を公平に見ておきますと、
あくまでもこの改革案はより質の高い政治運営を実現させていくために
いちどはきちんとした議論を経ておきたい論点だということ、
そして実りある議論とそこからの成果を実際に活かすためにも
この独自試案は『たたき台』にしていただきたいとのことですので
一般有権者目線からは厳しめの査定を加えながら
あらためて歴史的観点も踏まえた慎重な再考をしていただくような
問題提起もあえて差し上げた方がよかろうとの強い想いでもって
語らせて頂いたまでですのでご寛恕下さいませ。
他意はございません。
(本書冒頭『謝辞』における本書を公刊する狙いについて7~9頁ご参照)
2つ目の論点として、
憲法改正で財政規律の重要性を謳う志向性を持たせるにしても、
景気変動への柔軟対応が可能になる視点が必要不可欠だということも
指摘しておきましょう。
その趣旨は財政『規律』という概念だけに拘束され過ぎて、
本来の目的である国民生活の安定性が損なわれないような
自動制御安全装置のような視点を取り入れてこそ
はじめて意義が出てくるだろうということです。
なぜならば、まさに『経済活動は生き物』だからですね。
財政基盤につき、景況に関係なく野放図に拡大させていくことは
確かに放漫財政となり、供給能力が毀損している(きた)インフレ時に
おいてこそは問題であることは論を待ちません。
だからこそ、経済成長『率』に見合ったインフレ『率』を
常に注視して『機能的』財政政策を展開していく視点が不可欠だと
学派による見解の相違論はともかく、
原則的志向性としては主張しているわけなのです。
いわゆる『積極』財政論者もいついかなる時にでも
野放図な放漫財政であってもよいなどとは
思慮ある者であればどなたも主張されていないのです。
ただ、財政投資計画を立てて実践していく時には
著者も問題意識として重要視されているように
『中長期的安定性』と『必要十分さ(単なる営利志向の効率性論=
営利民間企業における『選択と集中』志向とは異なった
『非営利公益目的』を達成するに足るに十分なという意味です。)』が
要求されるということなのです。
『私益(営利)』企業と『公益(非営利)』組織団体である国家(政府)とでは
おのずと財政『規律』に関しても異なる問題意識を持たざるを得ないと
いうことなのです。
その前提を踏まえたうえで、著者も指摘されるような
景況判断と財政政策についての『拡縮可能範囲』条件との相関関係に関する
基本的な現代マクロ経済学の素養を共有することなくして
『民意』欲求のみに依存して、いついかなる場面においても
政治家が票集めだけの観点で無思慮に応えていくことは問題だという認識
自体は管理人も原則的には共有します。
しかしながら、この啓蒙活動は専門学者の説明(理解)不足にも
責任があることも忘れてはならず、
ただやみくもに政治家と一般有権者の無思慮加減(短期志向)を
ことさらに攻め立てていけば解決できるというものではないのです。
なぜならば、専門学者も『人間』であって
常に『誤謬可能性』問題を抱え込んでいるのは
一般人とそうたいして変わりがないからですね。
説得姿勢において傲慢になってはいけません。
むしろ、上から目線のように察知されて
『素直に専門家の貴重な意見に耳を傾けることもできたことが
できなくなる』という社会的心理が働くからですね。
人間が持つ『生理的』危険察知センサーを侮ってはいけないのです。
『説明する際の表現技法には十二分にご注意を』ということです。
ここに敏感にならないからこそ、『炎上』が生じたり、
その場合でも適切な追加フォローをして
丁寧な『対話』アプローチを図ろうとする努力を怠ってしまうからこそ
窮地に追い込まれるのですね。
言論活動を管理人もしていますから、
この難しさはよく体感理解できます。
ですから、このような群集心理的配慮なくしては
『火に油をさらに注ぎ込む』取り返しのつかない事態へと
さらに発展していくことも想定しておかなくてはならないのです。
管理人にはそのような知的情動感覚もあって、
一般有権者の『民意』が浮動で信用できないから
『法律』でもって景気条項も設定せずに『一律に』縛るという発想は
あまりにも硬直過ぎる危険性があると感受されたわけです。
法律、とりわけ憲法というものは
あくまでも理念目的を達成するための手段であって
『大綱的』なものに条文内容をとどめておかなくては
現実的に機能せず、
特に世論が大きく割れるような事態が生じてきた時には
すぐにもイデオロギー論争に発展してしまい、
『手段と目的の混同化』が始まって収拾がつかなくなり
法の機能そのものも果たせなくなるからです。
ここで最重要な視点は、
財政規律志向が景気変動に関係なく
一律的な『緊縮』かつ『短期』的政策志向の発想にならぬよう
上記のように何らかの抑止規定も同時設定しておくことによって
経済成長と債務『比率』の相関関係によく配慮したうえで
法の趣旨を現実的経済社会に活かしていかなくてはならないという
ことであります。
その大前提として世間で一般的にイメージされているような
財政『規律』観である現在の『プライマリーバランス(主財源を税金とする
硬直した狭い財政観による単なる歳入/歳出の抑制と均衡)』志向とは異なる
『新しい』財政/貨幣観に基づく『中長期』政策安定を企図する
発想へと転換していくことも要請されてくるということです。
ここにも『正しい』法と経済学の知見を加味しながら、
改正論議を深めていかなくてはなりませんねということです。
まとめますと、本章での政治制度改革論の特徴は
『経済成長』と連動させた独自視点を加味して
提示されている点にあります。
一般的な『政治学』で論じられる選挙制度改革論では
『経済政策』と関連付けられた議論があまり見当たらないようですから、
その意味でも著者の問題提起は貴重な部類にあたるものとは申せましょう。
是非みなさんにも経済成長論の観点からの
『公平』な政治(選挙)制度改革案に関する自由闊達な議論喚起が
なされていくことを願ってやみません。
最後にもう一箇所だけ著者のお考えを引用しておきましょう。
『グローバル経済が活力を失っていることが自由主義陣営の
政治体制見直しの動きを促している中、最近のグローバリゼーションに
対する反発は、民主主義を待ったなしで修正することを迫る。
景気の後退と、伝統的な公共政策の手法が機能不全に陥っていることで、
政治制度の脆弱さが露呈され、制度改革の必要性は益々高まっている。
だが、世界経済が停滞している問題の根底にあるのは、
民主主義に蔓延する短期志向である。
この短期志向によって、資源配分の不均衡と、長期的な世代間の
問題への対処が難しくなっている。
脱グローバリゼーションの流れが沈静化、あるいは逆方向へ
向かったとしても、民主主義の改革を避けることはできない。』
(本書180頁)
『なるほどねぇ・・・。』
では、借問させていただきますが、
『グローバリゼーション』がさらに拡大浸透して
著者がイメージされるような形態での世界が一体化されたとして
この『多様性満ち溢れた』世界各地に点在している諸民衆の
個別事情に配慮させた『公正』な資源の適正配分や
『長期的』な世代間『格差』を是正し得ると確証されているのでしょうか?
著者の政治制度改革提案論を拝読させていただく限りでの
行きつく果てをたくましく想像してみますと、
一般有権者の資格枠が制限されていくことになりますから、
普通に考えていきますと、
教育事情などの改善政策も踏まえていきません(著者も
考えてはおられましょうが)と、むしろ世界(世代)間格差が
拡大強化されていくように懸念されるのです。
『賢い人間ならば確実に正しく適切な政策判断を下して、
政策創造策定をなし得ることが叶うのでしょうか?』
これまでの世界史を見る限りは、
人間『理性』に頼り過ぎた改革願望実態が
どれほどおぞましく、恐ろしい結末を迎えたのかを想像すればこそ、
著者のような『賢い』方々からすれば、
たとえどれほど一般有権者民衆の姿が『短期志向(単細胞)』的な
『狂態(痴態)』に感受されようとも
それでも一部の『特権』階層に支配従属されない
『あそび(ゆらぎ)』のある政治的時空間が残されていて欲しいものと願い、
その方がたとえ間違いがあってもまだ引き返せて、
出直しできるものと信ずるからです。
少人数の精鋭だけに任せた政策決定運営を図って、
『地球』政治(グローバル・ガバナンス)を無理に推し進めていっても
その過程では膨大な犠牲者が出てくる可能性もあるものと
厳しめに見積もっていた方がよろしかろうと思案するのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
⑧『第8章 二十一世紀型成長モデルへの変革』
※本章は、本書全編を総括した<まとめ>部分に当たります。
現代『自由民主制』を掲げる先進国が総じて経済低迷状態にあり、
政治的にも行き詰まっている模様が本書では語られてきたわけですが、
その根源にある最大要因こそが
一般有権者と政治指導者の双方における『短期(単眼)』志向に
あるものとして著者は厳しく査定評価されてきたのでした。
そして、このような『自由民主制』国家を反面教師として
横目に見ながら、現在急激な勢いをもって伸長してきたのが
いわゆる『権威主義型』志向の諸国家群だというわけです。
そして逆説的なことに『権威主義型』国家が
あたかも経済成長面でも政治的安定性面においても
細部はひとまず留保するにせよ、
大きく見れば『成功』しているかのように感受されることから
世界的潮流としてこのような体制を採用する国家モデルを
待望するような風潮が強く出てきているというのです。
そこで従来の『自由民主制』国家と『権威主義志向』国家とで
何が大きく異なった点なのかを比較考察していく過程で
政治体制を形成していく『選挙』制度を主軸に
各種政治『制度』に力点を置いた分析とそこから獲得されてきた
知見も参考にしながら、
現在の『自由民主制』国家における政治改革案について
提出されいくという論旨展開の流れになっていきます。
そこから見えてきた最大の着眼点は
皮肉にも『権威主義型』国家の選挙制度(この『選挙』といっても
我々のような『自由民主制』国家に所属している人間が
常日頃から慣れ親しんでいるものとは著しく異なります。
その実態は名目的であったり、実質的には腐敗形骸化しているような
状況にある国々もある。『選挙』そのものがないといっても
過言ではない国もありましょう。
本書からは『選挙』制の個別的相違点についてまでは
さらなる具体的検証まではなされておらず、本文内ではさらっと
流されている感もありますが、巻末参考資料に
『主要民主主義国 比較表』が付属添付されています。
著者が提案されている改革案がすでに実施されているものと
いまだに実施されていない部分とが一目でわかるようになって
おりますので、参考にしながら著者の論旨を追っていただければ
より解読に深みが増すように思われます。
特に現在進行中の紛争絡みで世界的に注目されている
ロシア・インド・フランス・ドイツについては
類書ではあまり見る機会も少ない貴重な資料となっているものと
評価しています。ただ管理人が評価する限りでは政治学や法律学を
学んできた者の端くれとして評価させていただくと、
初歩的な点で精密さに多少欠けるような点も残されているように
強く感受させられましたから、政治経済の教科書など信頼できる
別途資料集でもって補強理解に努められた方が良さそうだとだけは
注意喚起させていただきましょう。例えば我が国の議員『任期』に
ついては憲法に明確な定めがあるにもかかわらず、
なんと『無(規則として・・・)』と記載されている点など。)が
総じて『任期制』において長期志向であることが伺えます。
中長期志向でもって俯瞰的により良き政策創造と実施に
つなげていくことで、著者は現在の『短期的』悪傾向に
ある程度までの歯止めを設けることが叶い、
もって改善に向けた道ができていく・・・とは主張されているのですが、
期待されるほどの楽観的見込みがあるのかどうかと問いながら
改革案が実施されたとしての『未来予想図』を描いてみますと
一般有権者の立場からはすでに本文内で長々と詳しく語り終えましたので
もはや再説いたしませんが、みなさんにおかれましても
『やはり一抹の不安を覚えませんでしょうか?』という
具体的提言となっているように少なくとも感受させられたのですね。
選挙制度改善にあたって同時に教育投資の充実だとか
インフラ(社会整備資本)の中長期的投資の必要性とか
いちいちごもっともと感受される提案もある反面、
財政政策の大前提をなす『財源(貨幣)』観などを子細に読み進めていますと
現在ではすでに見直しを迫られていたり、
実際に従来方針を積極転換して(きて)いる諸外国も出現している事例なども
鑑みてみますと、結果としての総合評価としては
どこか矛盾しているように感受させられた点も多々あったからなのです。
また特に気になる著者の主張では、
世界的な『脱』グローバリゼーション化傾向の流れや
『保護』(貿易)主義がすべての諸悪の根源のように評価されていますが、
この世に完全無欠な『自由/保護』(貿易)主義など存在しないわけで
いずこの国々もその時々にふさわしいと少なくとも『信じて』
試行錯誤しながら諸外国とのあいだででき得る限りまで
摩擦対立関係に陥ることを回避しようとしてきたのが
現実的な世界史の公平な見方なのでは?と強く実感させられたことです。
教科書的な便宜的モデルにしかすぎない『自由/保護』主義かといった
わかりやすい二項対立など現実的にはあり得ませんし、
この両者間は常に流動的な循環サイクルで揺れ動いているのです。
『卵が先か鶏が先か』論のようで
根本的な問題を解決するにあたってはあまり有益な解釈を
提供してくれないように感受するわけです。
現実的には『自由/保護』主義いずれにせよ、
制御管理された『管理』貿易政策を採用してきたのが『実相』であり、
世界貿易機関(WTO)なども大枠のルール設定や紛争解決制度は
整備しているものの多国間協議や二国間協議などなどで
個別具体的な問題処理をしてきているのが『事実』なのですから。
そのような側面まで丁寧に検討確認しながら、
独自考察評価も加えていくと所々で疑問符が付いてしまうのですね。
『短期』志向と『中長期』志向といっても
本書では政治(選挙)制度を『経済(景気)』循環サイクルに
できるだけ適合一致させていくといった処方箋を
著者は提供して下さってはいるのですが、
そもそも前者は狭く『経済政策』面だけに焦点を合わせた設計や
想定などをしていないわけですから、
本書の性格上(経済成長と政治≒選挙制度との関連性が主題である以上)、
そこまで厳しく指摘要求するのも公平な観点から申し訳なくは思うもの
やはりそれこそ全体的な制度分析解釈の『眼』からすると
どこかに『盲点』があり、現実適用していくうえにおいては
『致命的弱点』が潜んでいるようにも感受してしまうのです。
おそらく、管理人自身の『思いこみ』もあろうとは
深く自省と自制もしてはいますが、
この論点を多角的な面から扱った優れた関連書類なども
読み合わせてきた体験的評価としては
やはりどこかに脆弱性があるようで
物足りなく感受させられてしまったのが偽らざる読後感心境なのですね。
優れていると感受される関連書類については
本記事末尾の『ご参考文献欄』に
後ほどまとめてご紹介させていただきますね。
我が国日本の現状分析についても
一見適切に感受されても歴代政権が実施してきた政策的背景にある
様々な『思惑(意図)』や国際機関や世界的会議(ダボス会議など)の
政策的『勧告(奨)』意見の採用なども相まって
実際の我が国政府は『内国』政策として実施してきておりますから、
そもそものところ我が国政府だけの
『完全独自』政策として創造されてきたものでもありませんし、
ましてや、一般有権者の『知識欠如』や『無思慮さ加減(著者の表現では
『短期(単眼)』志向ということになるのでしょうが・・・。)』にのみ
帰責させるのはそれこそ不公平で酷というものでしょう・・・と
一般読者層からは強く抗議されるようにも感受されたわけですね。
本書(邦訳書)公刊はコロナ禍発生直前の2019年あたりになりますから、
その前後でこれほどまでに世界が大きく様変わりするとは
想定されていなかったでしょうから
このような厳しめ批評が酷であることも十二分に理解はしております。
とはいえ、翻訳者の表現技法の問題もあるかもしれませんが、
その大まかな著者の改革提案の根拠理由やその底流にある
何か冷たさを感受させられる一般民衆への視線やイメージ観などまで
解読分析していくと、
この『原案』だけではかなりの恐怖感と威圧感を
どうしても感じざるを得ないのです。
管理人などは少なくとも
『もっと人類一般を信頼して下さいませんか』などと申し上げたくなる
激しく熱い想いに駆られてしまうのですね。
著者も指摘されてこられましたように
確かに現下の、またこれまでの人類史には
かなりなまでの過酷な状況があって
人間に関する相互不信感や『性悪』観で捉えたくなる気持ちも
わからぬではありませんが、
『それでもなお』
『だからこそ』
生身の具体的人間一人ひとりを信じて語り合っていき、
お互いにわだかまる『悪感情』であっても
『なぜそのような感情が湧き出てきたのですか?』と
真摯に『本音』で語り合うことこそが
厳しく感受される神経質な保守的態度にも
ある種の方々には感受されましょうが、
逆説的にそのような姿勢こそがかえって
暴力紛争を未然に抑止する人間的『知恵』になるものと
堅く信じたいものです。
それでは、本章の『まとめ』を兼ねまして、
著者の主張内容をあらためて点検していただく素材として
下記に引用しながら筆をおかせていただくことにいたします。
『本書では、経済が停滞している現状に対して、資本主義や
経済モデルを修正するのではなく、民主政治のあり方を見直すことに
よって解決することを提案する。』(本書183頁)
『本書は、民主政治を改革するための方策を熟慮し、提案するものである。
民主政治と、長期的な経済成長政策にとって有害な、短期志向という
病原を除去するための処方箋である。
ここで述べる改革案が実施されたならば、日和見的な政策、その場限りの
公約、党利党略を優先する論争、短期周期の選挙はなくなり、
長期的展望に立った、効率的な政治が行われるようになるだろう。
民主主義による選挙が、近視眼的な二項対立や政治化を脱することが
できれば、政策立案者は経済の長期的課題に集中して取り組むことが
可能になる。長期的な経済成長をもたらす最善策を実施することが、
政治の責務だとされるようになるのである。
そうなれば、経済の長期的課題が優先して取り組まれるようになる。
有権者のうち、政策の便益を享受する世代と、そのコストを負担し、
生活が苦しくなる将来世代との間の不均衡についても熟慮されるだろう。
近視眼に考えることと、選挙で票を獲得することに始終悩まされる
状態から解放すれば、政治家は長期定期視点に立って、
インフラ(道路、港湾、鉄道など)や質の高い教育といった
経済的繁栄の骨格を作る政策に注力することが可能になる。
こうした分野に継続して投資することが、国としての生産性向上と、
高い経済見通しの実現に繋がるのである。』(本書188~189頁)
この引用箇所直後に著者は自らの提案されるような改革案が採用実施されなければ、
『反面教師(反証事例)』としてこのような状態を帰結・招来させるのですよ・・・と
我が国日本に対する現状の評価コメントが提出されているのですが・・・。
それがおおよそ下記のような内容の主張であります。
『現在の状態が続くとどのようになるか、日本が好例である。
日本政府は、過去十五年間、昔からある、使い古された手法(主として
金利を歴史的低水準に抑える金融政策)で、何度も経済に介入したが、
成果は乏しかった。ここから、経済大国(途上国も含めて)では、
これまで有効だと実証されてきた政策が効果を失い、より大胆で
積極的な経済政策を実施しなければ成長しないという教訓を
学ぶことができる。(中略 管理人注:インフラ「公共投資」に対する
批評分析評価がされています。経済波及効果の乏しさなど。)
公共政策を通じて日本の技術力の高さを証明し、雇用も維持されたが、
経済成長の伸びは観測されなかった。
むしろ悪いことに、現在でも巨額の公的債務に苦しめられている。』
(本書189~190頁)
のだと。
『世界経済の停滞を食い止め、安定した成長軌道に戻すためには、
私たちの生活を一変させるような、破壊的かつ革命的な民主政治改革を
行うより他にない。』(本書190頁)
『民主政治が改革されない限り、世界は厳しい局面を迎えるだろう。
知識を持たない有権者と、資質に欠ける政治指導者が政治を差配する
時代が長く続くほど、貧困と紛争が増殖し、格差の拡大と社会の分断が
深刻になる。こうした事態に容易に対処できる方法はない。
最早、辛く苦しい道しか残されていないのである。
また、この道を進めば嘲笑され、中傷を受けるだろう。
民主政治を新しく生まれ変わらせることは究極の選択であり難しい。
だが、変革することで、西欧民主主義国は、経済大国として、
民主主義のフロントランナーとなり先導し続けることを可能にする
のである。』(本書196~197頁)
そして最後に本書は『警告書』である・・・と締めくくられています。
このように本書をここまで読み進めてきたわけですが、
確かに現状認識が苦しいことは地球上で暮らす我々一般民衆にとっては
誰しも多かれ少なかれ同意することも多く含まれている論考だとは
推察いたします。
一見表面的な次元で眺めていますと、
著者のような問題意識によるご提言にも
思わずうなずいてしまいそうな感覚にも襲われてしまうことでしょう。
しかしながら、ここまで子細な部分での検討考察も加えて
著者の政治経済を眺める『眼』やそこから得られた洞察的知見に基づく
『見識』によって導き出されてきた改革案を
あらためて冷静に眺めていると相当な人間不信というのか、
人類一般に対する冷たさをやはり感受してしまうのですね。
まとめになりますが、著者を含めて様々な論者の見解を解読していくうえで
もっとも大切にしなくてはならない批評姿勢、読書に対する向き合い方として
考えておきたいことは、どの論説も一見して表層的次元で眺めれば
『いちいちごもっともだ』と感受される点があったとしても
その底流に流れる背景思想や政治的『意図』、
世界や人間に対する『観(イメージ像)』にまで
深く目配せして読み進めていかないと思わぬ『落とし穴』が
待ち受けているかもしれぬ可能性についてであります。
これは決して著者の人格そのものに対する誹謗中傷などではなく、
どんなに優れた方の思想でも、また批評者自身(もちろん管理人も含めて)の
解読に向けた志向性にせよ、
人間『知性』にはどこまでも限界が付きまとう以上は
過ちを犯す危険性について常に自覚的であろうと努める『心』こそが
必要不可欠だということに尽きます。
謙虚に他者の『生身の声』に耳を傾けるということは
『聞く力』などといった生易しい世界の話ではないということを
強調しておきたいのです。
読書リテラシー向上においても、
『インテリジェンス』的姿勢も要請されるということですね。
この世界(読書姿勢や読書『観』)も誠に険しい道であります。
『読書とは他者(そもそもが<わかりあえない未知との遭遇体験>)との
出逢いの接点の場』だということですね。
ですから、今、『インテリジェンス』的観点の重要性について
語っておりますが、ただ単なる『邪推』感覚意識では
なかなか著者の心の潜在意識下に潜む『意図』を解読することも
困難を極めるということなのです。
だからこそ、
『読書道とは<独行道>であり、常に己自身の良心とも厳しく
向き合わざるを得ない孤独な知的作業だ』ということです。
虚心坦懐に『邪推』なく他者の心を正しく読み解くことは
人間である以上誰しも難しく、
時に相互に誤解を招き寄せ、厳しい局面に陥らざるを得ないことも
ありましょうが、人間不信がますます強まりゆく時局(世界史的転換点)
だからこそ、注意深く、思慮深く厳しい『眼』と
より確かな『見識』と温かい『心』をより研ぎ澄ませていく
努力を積み重ねていきたいものです。
その意味で今回は最悪な時局となりゆく世界情勢上、
言論界や媒体事業者様も繊細な問題については慎重に厳しく対処すべきだ
との動きも出てきているように感受しながら、
管理人もその点については十二分に考慮させていただきながら
語らせていただいているつもりではありますが、
管理人のみならず、世界のすべての方々におかれましても
『委縮』効果が強く働きすぎませんように
特に媒体事業者様に対しましてはご忠言申し上げます。
なぜならば、『明白かつ差し迫った』危険性ある言説については
確かに『警戒』しなければならない場面もありますが、
ある程度までの双方の言い分についてまで
『危険だからただちにそのような言動はやめろ』だとか
『最初からお前の言い分など聞く耳持たぬ』のような姿勢を
強く『鮮明』に打ち出してしまいますと、
『ミイラ取りがミイラに』、
『ザリガニはカニの甲羅に似せて掘る』(いずれも権威主義型全体主義志向者同士の
『蝸牛角上の争い』を象徴批評する際に見受けられるたとえ)・・・というような
事態にもなってしまうことが大いにあり得るのですから。
そこのところをいま一度深くご再考願いたく感受されるのです。
相互に言動批判したとしても、
相手を『折伏説得』できるなどと
それぞれの狭い正義感でもって考えない方が
紛争被害をさらに押し広げないためにも大切な心構えとなります。
問題行動を引き起こしている相手に過剰な期待や幻想を抱いてはなりませんが、
相手がどこまで『譲歩』してくるかは厳密に情報を多角的に分析評価したうえで
慎重に『落着点』を見出していかなくてはなりません。
先の大戦で大国間に翻弄されて、
真の政治的『意図』も読み解けずに
あろうことか権威主義的独裁制国家に『和平仲介』を委ねるといった
危険性を冒したうえ、現在にまでその『密約』後遺障害に
悩まされ続けているのが我が国日本であります。
『無念なり』
冒頭でも注意喚起させていただきましたような
ウクライナ事情のこともありますから、
これ以上の「深掘り批評」は差し控えますが、
『それでもなお』という気概だけは
言葉を持つ人間にとってはどうしても『やむにやまれぬ』のですね。
後の「心」は読者様の方でお察し下されば有り難き幸せにございます。
①『諜報の天才 杉原千畝』
(白石仁章著、新潮選書、2011年)
②『消えたヤルタ密約緊急電~情報士官・小野寺信の孤独な戦い~』
(岡部伸著、新潮選書、2012年)
などの優れた洞察啓蒙書などを読み進めていると
『今も昔もあんまり変わっていないなぁ。』、
『いやむしろ、さらに劣化しているぞ、国民的知性が・・・。』などと
やはり暗澹たる憂いにどうしても駆られてしまうのです。
それほどの『閉ざされた言語時空間』の悪影響が
骨髄に達した感があるからこそ
深刻な『病』にかかってしまっていることを
国民共通の精神病理として自覚認識していかなくてはならないのです。
そのような次第で管理人もLOUDNESSさんの最新話題曲でもある
『大和魂』や『仮想現実』に『Crazy World』、
『輝ける80’s』・・・(もはやすべての曲ですが)などに
触発されること、飽くことなくしきりに
語らせていただいております。
『経済的豊かさの充実度からの国民幸福指数の上昇』と
『人間精神における独立的意識の常なる向上心』とが相まってこその
経済『成長』という物心両面思考こそが欠かせないということです。
そのようなことも古代カルタゴや『パンとサーカス』に酔い痴れて
滅び去ったローマ帝国の哀しき末路などを想像していて思うものです。
ただ温泉に浸かっていればよいのではありません。
『日々の人生における闘いの疲れを癒し、
明日への活力を取り戻すために「英気」と「鋭気」を養う』ことこそが
重要な心構えなのでしょう。
やはりメタルは社会を厳しく再評価する機会を与えてくれますから
良きものです。
そのようなわけで、世界がふたたび『グレイト・リセット』だとか
『バスに乗り遅れるな』などと強迫観念に憑りつかれそうに
なっているただ今現在だからこそ、
管理人もささやかな書評活動という『媒体』を通じてではありますが、
是非みなさんにも
これからの読書(アナログ的身体感覚をフル稼働させて)道に
役立てていただけるよう精進してまいります。
最後はやはり人間同士が直接対面して『対話(語り合う)』文化を
維持発展させていくほか世界の明るい未来を思い描き、
実現させていくことは不可能なのですよ・・・ということですね。
先の大戦に関する講和条約締結から70周年にあたる本年の
連休中には例年にも増して『独立回復』の意義について
深く考えてみたいものです。
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※予定していました『紀行文エッセー』は情報量過多のため
追記添付できません(苦笑)ので、前々回の書評記事末尾に移動添付
させていただいております。
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・<訳者あとがき>
・<主要民主主義国比較表>
※『民主主義』国と評価してよいかどうか疑義ある国も
掲載されていますが、この点はみなさんのご判断にお任せしつつ、
各国『体制』の違いを知るうえでは大変便利な図表となっていますので
ご活用下さいませ。
なお、より詳細な部分につきましては、管理人もすでに本文内で
ご指摘させていただいたような問題箇所も含まれているようですので、
読者様におかれましても各自でお調べいただくことをお勧めいたします。
・文献
・註
・索引
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<参考文献>
①『ガットからWTОへ~貿易摩擦の現代史~』
(池田美智子著、ちくま新書、1996年)
②『対日経済封鎖~日本を追いつめた12年~』
(池田美智子著、日本経済新聞社、1992年)
③『アメリカの排日運動と日米関係~
「排日移民法」はなぜ成立したか~』
(簑原俊洋著、朝日選書、2016年)
④『ルワンダ中央銀行総裁日記~増補版~』
(服部正也著、中公新書、2021年増補版12版)
⑤『図解雑学 経済指標』
(植月貢・野本哲嗣共著、ナツメ社、2006年第3刷)
※なお、本書『第10章 国際収支と為替レート』で
解説されている情報などは2014年以後の『新基準改定』も
ありましたので古くなっている点もございますが、
全体的には『古くても今なお色あせない』好著だと
評価しております。
なかなか『経済指標』に関するわかりやすい入門解説書も
少なく、一般には無味乾燥な話題だと感受いたしますので
その意味でも比較的親しみやすい部類書だと評価させていただきました。
ぜひぜひご活用下さいませ。
⑥『図解雑学 資本主義のしくみ』
(八木紀一郎・宇仁宏幸共著、ナツメ社、2003年初版)
⑦『「経済成長」とは何か~日本人の給料が25年上がらない理由~』
(田村秀男著、ワニブックスPLUS新書、2022年初版)
⑧『ММT(現代貨幣理論)とは何か~日本を救う反緊縮理論~』
(島倉原著、角川新書、2019年初版)
⑨『国家はなぜ衰退するのか(上)(下)~権力・繁栄・貧困の起源~』
(ダロン・アセモグル&ジェイムズ・ロビンソン共著、
鬼澤忍訳、稲葉振一郎解説、早川書房、2013年)
⑩『自由の命運(上)(下)~国家、社会、そして狭い回廊~』
(ダロン・アセモグル&ジェイムズ・ロビンソン共著、
櫻井祐子訳、稲葉振一郎解説、早川書房、2020年)
⑪『不戦条約:戦後日本の原点』
(牧野雅彦著、東京大学出版会、2020年)
⑫『恐怖の地政学~地図と地形でわかる戦争・紛争の構図~』
(T・マーシャル著、甲斐理恵子訳、さくら舎、2016年第1刷)
⑬『「公益」資本主義~英米型資本主義の終焉~』
(原丈人著、文春新書、2017年第1刷)
⑭『平成経済20年史』
(紺谷典子著、幻冬舎新書、2008年)
最後までお読みいただきありがとうございました。
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