L・ランダル・レイ著『MMT 現代貨幣理論入門』日本経済の長期デフレ停滞状況脱却を目指すうえでの王道的処方箋となり得るか?
令和初の国政選挙であった参議院改選投票期間中に
米国からある女性経済学者が訪日。
選挙報道と重なったためにあまり知られる機会なく過ぎ去りました。
しかしここに注目される事態がにわかに湧き出てきました。
日本経済の長期デフレ停滞状況脱却を目指すアベノミクスも
今月からの消費増税や進行中の世界経済先行き不透明性で
その成果が厳しく問われる正念場となってきています。
今回はこの本を紹介します。
『MMT~現代貨幣理論入門~』(L・ランダル・レイ著、島倉原監訳、鈴木正徳訳、中野剛志・松尾匡解説、東洋経済新報社、2019年)
L・ランダル・レイ氏(以下、著者)は米国の経済学者。
ニューヨークのバード大学教授兼レヴィ経済研究所上級研究員を
務められています。
現代経済恐慌の発生原因の1つとして極度の『金融不安定性』があるとの視点から
金融経済論を研究されてきたハイマン・ミンスキー氏を師匠とする
ポスト・ケインジアンの流れを汲む経済学派に立つ論者だといいます。
ご専門は貨幣理論と金融・雇用政策を中心としたマクロ経済学であります。
一般向け邦訳書は本書が初めてのようですね。
ところで、今回の書評記事冒頭文におきまして
過ぎ去りし令和初の参議院選挙期間中に来日された女性経済学者とは
ステファニー・ケルトン教授ですが、
本書を上梓された著者とはこれからご紹介させて頂くことになる
『現代貨幣理論(Modern Monetary Theory 以下MMTと表記。)』に立脚した
経済学理論構築および政策提言をされてきたご経歴からは
同志ということになるそうです。
冒頭で『注目される事態がにわかに湧き出てきました。』と
まず始めに書かせて頂きましたが、
これから本書をしかと丁寧に読み進めて頂ければ
特段の経済学的素養がなくとも
初等中等義務教育段階できちんと現代経済及び貨幣の仕組みと
お約束事を注意深く習得・理解されてこられた方なら
どなた様でも「そりゃそうだわなぁ~」とおそらく当たり前すぎて
拍子抜けされるかもしれません。
とはいえ、初等中等義務教育段階における『公民』教科書を
軽く読み進めているだけの<浅学>ではなかなか一般的には気づきにくいですし、
学校教師も一番重要な箇所を説明する能力に欠けている方が多く
教えられることも少ないいわば秘密部分になるわけですが・・・。
その「超」重要論点こそが、
今回の<MMT>を支える根源的な『事実』である
『主権国家における自国通貨発行特権』だということになります。
そして歴史的にもこの『自国通貨発行特権』を巡る支配者同士の
攻防が現実の世界史を形成してきたこともあまり知られていません。
これは決していわゆる<陰謀論>などではなく
純然たる歴史的『事実』であります。
実際に世界史における「覇権国」の移動変遷史を
注意深く追っていけば誰もが理解出来る話なのですから・・・。
「ですから皆さん、歴史を学ばれる際には
経済的動向の観点から探究していきましょうね。」
そのように人類史における
これまでのあらゆる暴力誘発の源泉は実は
政治イデオロギーや宗教教義によるものよりも
経済的な支配権を巡っての争いが真相だったことが
思慮深い人間にとっては「常識」となりつつあります。
だからこそ、最近は「経済」と「暴力」を関連づけた
各種良書に話題が集中しているというわけですね。
もっともこのように第一義的には「経済」暴力の問題でありますが、
それを理論上支える付随(副次)的根拠付けに
政治思想論や宗教教義(神学)論が利用されてきた側面があったと
いうことになります。
ことに近現代政治思想理論は17世紀末あたりから
西欧植民地支配理論の根拠付けやそれへの対応策(賛否問わず)として
各種経済思想が創出・発展していったことも
注意深く学んでこられた読者様にはもはや「常識」の部類に属するかと
推察します。
英国東インド会社発展史などなど・・・。
その事例には枚挙に遑(いとま)がありません。
このように<MMT>にはこの核心部分に触れる「何か」を感受させるからこそ
相当な「異論」や「反論」、はたまた「歪曲的言辞」がなされていることも
考えられそうです。
その意味で<MMT>とは現代政治経済における「鬼門」とも
評価されるのではないでしょうか?
この『事実』によりますと、
今回ご紹介させて頂く本書の本質的骨子部分に当たりますが、
『自国通貨発行特権』による「おかね」の創出が
まず真っ先に大前提としてあること。
そのうえで、「実体(需)」経済に合わせた
「おかね(市場における貨幣流通量・速度など)」の動き方を微調整する手段として
国債発行や租税制度の存在意義があるということになるわけです。
ですから、今まで当たり前のように流布されてきた
『財源』として国債や税収に依存するという発想ではなく、
むしろ『自国通貨(法定強制通貨=法定強制の部分を<MMT>では
租税制度によって担保すると解釈するわけですね。)』こそが
『財源』そのものであるという見方へと転換されていくことになるわけです。
そうしますと、従来の「主流派」経済学が想定していたような
国債発行を「財政」政策として見るよりも
「金融」政策の一部または一環として位置づけることになるわけです。
詳細は後ほど各章であらためて語らせて頂きます。
租税制度についても現代「金融」政策の主要責務である
金利の微調整(景気の過熱<強インフレ>化と過冷<強デフレ>化を
抑止する手法)と物価の安定を志向させるものとして位置づけられることになります。
こうなってきますと、現在のような過去の国債発行分を将来の増税収分でもって
「損失補填(債務返済)」するなどといった政策手法を採用し続けていても
まったくプラスマイナスゼロ(局面によっては超過マイナス!!)ということになって
一向に景気回復(デフレ脱却)へと接続されていかない理由も見えてきます。
要するに急アクセルと急ブレーキを同時に踏み込んでいるような
異常運転のような状態だということですね。
こうした思考回路を取り続ける限り、
市場での貨幣供給量はある意味で過去と未来で
「一定量」に保たざるを得なくなり市場の変化も乏しくなるとともに
経済が「成長」していくということもなくなります。
言い換えますと、「おかね」をプール(蓄積)しているというイメージです。
要するに、固定資産としての「ストック」面でしか見ていないわけです。
とはいえ、実際は流動資産として「フロー」面もあるわけです。
こんなのは会社などで経理を担当されている方にとっては
あまりにも<自明の理>ではないでしょうか?
だからこそ生活上も私たちは「おかね」の有無(貯蓄可能性)よりも
就労場所の確保(継続的収益力の可能性)の方を
より重視するのではないでしょうか?
つまり、私たち一般庶民からすれば、
働かなくても困らない「不労所得」に依存する生活こそ
非現実的な仮定でありますから、
より一層のこと、
この「フロー(継続的所得獲得可能性)」に着目して
生活設計を考えていくのではないでしょうか?
この「ストック/フロー」論も
本書ではきちんと丁寧かつ詳細に説明されています(第1章)。
この第1章の解説趣旨がまったく理解出来ませんと
「そもそも論」として<MMT>を精確に理解したことにはならず、
肯定派・否定派を問わずに
論争においても「誤解」に基づいた<空中戦=机上の空論戦>が
延々と続けられていくことになり、
社会的にもそれこそ「有害無益」だと評価されることになります。
「資本主義」経済において「成長」しなくなるという意味とはどういうことか?
例えば、「利子率」が極度に低下し続けていけば
もはや「資本主義」発展の推進力すら剥奪されてしまう状態に立ち至るという
事例が挙げられます。
つまり、「資本主義」経済においては、
「利子(利潤)」の役割そのものが悪いというのではなく、
「適切」な経済政策によって「補正」されなければ
国民経済にとっては有効に働かずに、
歪められた形で機能することによって厄災がもたらされることこそが
深刻な問題だったということになります。
この「利子」問題についても後ほど本書とともに考察していきましょう。
というわけで、<MMT>はこれまでの発想を逆にすることで
従来のこのようなマイナススパイラルを回避する手段として
にわかに脚光を浴びだしたということになるわけですね。
「ではなぜ通貨発行が一定に抑制されたかのような政策を
従来型の国債発行や金利調整手法によって図られ、
それらばかりに気を取られて、国民経済にとって
とりわけ重要となる通貨発行特権の持つ意義が
隠されてきたのでしょうか?」
この問いに着眼していくと、経済政策を通じて私たち国民が
政治操作されてきた様子も同時に判明してくるようです。
こうした問題を考えていく視点が<財政民主主義>論にはあります。
「なぜ<財政>なのでしょうか?」
それは「財政」予算を承認する過程で
国民によってチェック機能が入るからです。
(日本国憲法第7章<財政>項目ご参照のこと。)
一方で、「なぜ<金融>にはこのような監視システムが働かないのでしょうか?」
日本国憲法にも<財政>規定ほど明確なルールは定められていないようですね。
それどころか日本国憲法「改正」論議においても
「緊縮=<財政>規律条項」を設けよという意見は見ても
「(国民のための)通貨発行特権保障条項」を設けよとの意見が出たことを
あまり聞くこともないのはなぜなのでしょうか?
「改憲」論議が今後強まり深まっていく志向性を政権が持たせたいのであれば、
この論点こそ国民に問題提起して「信認」を得ていくべきではないでしょうか?
政治と経済は車の両輪としてつながっているわけですから。
このように『理論』や『規範(そうすべきだとする理念的目標)』としてではなく
まさしく現代経済の実態に即した『事実』だと評価したうえで
論旨展開されていくことになるからです。
「ではなぜ今現在においてネット上やリアル言論空間上を問わずに
数多くの論戦がなされ、異論が巻き起こってきているのでしょうか?」
「しかも賛否両論が相半ばするような状況なのでしょうか?」
このあたりの心理学的考察も踏まえて本書の解読を進めてまいりたいと思います。
とはいえ、管理人がこれから本書をご紹介させて頂くにおいての立場を
まず最初に提示させて頂くのが公平な感覚だと信じていますので
宣言しておきますね。
管理人は常々この世に『絶対的真理』という言葉を安易に持ち出すべきではなく、
人間誰しも『自己確証バイアス(偏見・先入観)』といった認知的性格を
必ず伴うことからどこかに<盲点>が生じる恐れは多分にあるだろうという理由から
『事実』に依拠した『理論』展開だとしても
当該見解に対してはひとまず慎重な評価姿勢を保持しながら
静観・検討していきたく願っている立場であります。
それが生活実践上におけるリスク回避の『知恵』でもありましょうし、
純粋『学問』上の良識ある知的誠実さだとも信ずるからです。
とりわけ経済学も一応社会『科学』(自然科学と社会科学とでは『科学』を巡る定義も
厳密には異なった学説見解が錯綜している状況にはあるようですが・・・)を名乗る以上は
やはり『反証可能性』(カール・ポパー氏)を兼ね備えていなくては
擬似科学類似のある種の『真理教』と成り果ててしまい
社会に多大な害悪を与えかねないことになると危惧するからです。
そのような問題意識から本書をこれから読み進めていくうえでも
要約につきましては本書で提示される見解を客観描写解説していくとともに
評釈に関しましては現在のところ管理人自身が学び理解し得た知見範囲と
率直に感受評価した観点から解読を進めてまいりたく思いますので
その限界点を内包したものとして読者様にもご了解頂きますことを
まず始めにお断りさせて頂くことにいたします。
なお、本書に関しましては9月末にも管理人独自で
本書を題材に据えた私的読書勉強会に参加させて頂いた際に
参加者との対談によってあらためて気付かされ浮かび上がってきた論点提示も
後ほど本文内にて検討させて頂きます。
また今後は私的な継続的勉強を兼ねた本書や本書により提示された各種争点を巡る
各種シンポジウムや研究講演会などにも
適宜都合の許す限り参加予定で研鑽を積み重ねていく所存でありますので
追って一般読者様にもそこで学び得た知見などをご紹介出来ればと
考えております。
そんなわけで管理人自身の現在の立ち位置は
まだ本書で紹介された<MMT>が<正しい>というよりも
現実社会に適用していくうえで<より最適>な『理論』なのか否かを
適切に評価し得る力量を持ち合わせておりませんので
慎重に論考評価を進めていくことにいたします。
本題に入っていく前に再度ここで問題意識を皆さんと共有確認しておきましょう。
先程の『なぜ今この<MMT>に多大なる関心が寄せられているのだろうか?』問題ですが、
それは現在日本政府によって進められている(きた)
いわゆるアベノミクス『理論』に依拠した
日本銀行によるいわゆる<未曾有の量的金融緩和(通称・黒田バズーカ砲!?)>政策が
実体経済に与える影響を巡る評価が
なぜこれほどまでに意見が分かれているのかということと
庶民感覚での生活「向上(所得購買力増強に基づく生活安定・安心)」感情が
得られていないのだろうかという生活実践知的認識があるからではないかということですね。
特に20代前半に社会人生活をスタートさせて
今現在30~40代になった社会中枢を担い始めている
いわゆる「失われた○○年」の厳しい環境を過ごしてこられた
<ロスジェネ>年齢層の方々におかれましては
まさしく「死活」問題の日々であり続けてきたでしょう。
もちろんこの世代以外の方々もそれぞれが同じような必死な思いで
「この厳しい経済生活環境を少しでも早く何とか改善して頂きたい!!」と
強く願われてこられたと感受いたします。
そんなわけでこの<MMT>論壇での関心層も
とりわけ<ロスジェネ>層を中心とした若い世代に集中しているようです。
実際に管理人も本書「初版」が出た頃に
大阪市内のジュンク堂書店を経巡っても
ほとんどが「品切れ続出中!!」とのことで、
こんな分厚くしかも値段的にも専門書並みに高い設定にもかかわらず
「売れ行き好調!!」の様子だったことから
なかなか入手するまで時間がかかったことから感受しても
相当な知的関心の「眼」が本書には注がれているように
見受けられたのでした。
とこのように若い年齢層の方が知的柔軟さがあるのかどうか理由はわかりませんが、
このような今までの「通念」を覆すかもしれない
「斬新な発想」を描いた本書に注目が集まっている理由も
ここらあたりにあるのかもしれません。
とはいえ、たとえこの<MMT>が仮に適切な処方箋だったとしても
年齢層が高齢化していくにつれて
かなりの異論・反論も出現してくるように感受されました。
この『理論』ないしは『事実』に関する詳細解説は追って
要約記事内で語っていくことにいたしますが、
ひとつの固定観念を覆す<パラダイムシフト>的要素が
この<MMT>には内在しているものと評価されることから
今まで信じ込まされてきた「常識」という名による
安定的世界観を崩されることへの
根強い心理的反動に由来する違和感や反発感も引き起こされていくようなのです。
その根本的最大理由の底流には大きく異なる貨幣「観」の違いがあるようですね。
貨幣「観」が異なれば当然経済生活「観」も異なってきますし、
そこから派生して様々な場面でこれまでの人類が思い描いてきた世界「観」、
それを下支えする政治「観」、はたまた個々の人生における時空「観」すら
大きく変化・変容を来してくることにもなるからです。
そのことによって個々人の生き方すら見直さざるを得なくなるからです。
人間は生活面においては「安定性」といった<保守性>を
案外維持したく望むもので、極端な変化を招き入れかねない
外部的「刺激」には脆弱性を抱えた存在でありましょう。
しかもこの貨幣「観」を巡る対立においては
政治的な右派と左派の錯綜混在が至るところで生じており、
政治的場面とは異なりにわかには明確なイデオロギー的「色分け区分」では
判じがたい要素が多々含まれていることからして、
一般にもより一層理解し難いものとされ、
様々な「誤解(読)」的見解も流布されてしまう要因となっているようなのです。
そこには政治的なイデオロギー的対立ではなく、
右派・左派問わずに生活「実感」やそれぞれの個人的生活「気質」に由来する
評価分かれの問題も横たわっているからなのでしょう。
すなわち、経済的観点から見た生活「保守」の立場からすると、
「実物」に裏付けされた後であらためて詳しく解説させて頂くことにもなります
<商品>貨幣観を採用するタイプの人間(こちらは<債務>恐怖症を強く持つ
性格と言えましょうか)とそもそも「お金」とは「債権-債務」に基づく
壮大な相互<信用>体系からなる経済循環促進のための触媒項の「束」と見る
<信用>貨幣観を採用するタイプの人間(こちらは<債務>そのものに
あまり恐怖感を抱かない資本主義経済が大前提とする
ある種の冒険精神を持てる楽観的将来像が描ける性格とでも言えましょうか)の
大きくはこの2タイプに分かれることと
必ずしも政治的な文脈でのいわゆる「保守(右派)」と
「リベラル(左派)」とは重なり合わない事態が多々見受けられる点があるからこそ
多くの評者も戸惑いを隠せないのでしょう。
そこに<MMT>の評価を巡っての厄介さがあるようなのです。
その貨幣「観(イメージ)」がどうも人間の<身体感覚>からすれば
「しっくりこないねぇ~」といったことや
貨幣そのものを「資産」ではなくあえて「負債」として捉えるところに
初期設定を置くことからどうもこの<MMT>には
ただでさえ現代「資本」主義経済が<借金奴隷>を
次々と創造拡大再生産していくといったイメージ像に加え、
さらなる<奴隷>化を招き寄せるだけの危険思想ではないかとの
嫌悪感や危惧意識を引き起こしかねない性格的要素が
その『理論』的説明部分にあるからではないか・・・など
様々な心理的理由があるからのようですね。
こうした不安心理は何もいわゆる「陰謀理論(学説)」に依拠せずとも
通常の「心」ある人間なら誰しも共有・共感し得るものでしょう。
その意味でこの誤解を招き入れかねない<MMT>を支える思想「観」も
注意深く監視しておく必要があると言えましょう。
そのあたりはもちろん<MMT>に依拠する貨幣「観」や経済「観」を
共有する論者であっても「良識」派であれば
絶えず意識しておかなくてはならない
ある意味で最重要「着眼」点でありましょう。
その「着眼」点の重要性につきましては、
また後ほど<財政民主主義>論に触れるあたりで重ね合わせることに
いたしますね。
管理人もすでに本書を読み終えて、
本書評記事創作にとりかかろうとするに当たって
各種コメントを観察してきましたが、
そのコメントにも精確に理解したうえでの建設的批判提起と
誤読としか感受され得ないような低レベルな粗雑にして
ただ単なる非難中傷的意見が入り交じるなど
まさに本書を巡る評価も<玉石混淆>状態にあるようです。
管理人は出来るだけ多くの方々に読んで頂いたうえで
各自の頭と身体感覚で幅広い観点から
「生産的」な議論を喚起して頂きたいと願う書評人としての方針から
賛否どちらにもあらかじめ偏らずに
ひとまずは「不偏不党」の立場から問題提起していくことにいたします。
本書に対する管理人自身による論評考察や問題提起は
あくまでも皆さんにも有意義な議論を展開して頂くための
参考意見としてその素材(考えるためのヒント・手がかり)を
ご提供させて頂くものであり、
ご活用して頂ければ幸いであります。
そうした感覚が果たして「適切」なものなのかどうかは
もちろん個々人の「皮膚感覚(質感)」や「生活信念」などの違いによって
評価の仕方は千差万別でしょうが、
ここからはそうした個別的感情をひとまず脇に置きながら
冷静に本書の解読を進めていくことにいたしましょう。
最終的にこの<MMT>とやらが
現代経済を観察していくうえでの「適切」な見立て(診断材料)となるのか、
また現在の長期停滞経済状況を打開していくうえでの
「適切」な処方箋(問題解決策)となり得る代物なのかどうかに関する評価は
とりあえず本書を読み終えてからでも遅くありませんので
まずは淡々と黙々と冷静に見ていくことにしましょうね。
(強制通用)貨幣は国家によってまず最初に創出された後に 租税制度を担保に<循環>されていく!?~「地動説」的貨幣観へのご招待と現代資本主義はそもそも<信用(貨幣)>経済論に立脚している~
それではここからは本書要約ご紹介へと移らせて頂くことにしますね。
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・『<巻頭解説> 「現実」対「虚構」~MMTの歴史的意義~』(中野剛志)
・第2版序文
・定義
※読者様への最初のご注意点につきまして、
管理人からの若干のアドバイスです。
本書を読む前には出来るだけ「公平」「中立」な<心>と姿勢でもって
読み進めて頂いた方が変な先入観なく精読していくことが叶いますので
とりあえずは<巻頭解説>及び<巻末解説>は後回しということで
お願いいたします。
もちろん解説されているそれぞれの先生方には敬意と感謝を持っていますし、
他意などありませんが、こうした邦訳書なり著者自身の主張の「本意」を
誤解なく消化理解をはかるためには原則的に
「解説」といった<評釈>読みは後回しにするのが正解であります。
とはいえ、もし読者様におかれまして
本書はなにぶん「入門書」とは言いましても
ほぼ「専門書」類似の体裁感ある相当なボリューム書でありますので
どうしても理解しづらいと感受された際には
最後の「虎の巻」として「開封」されるのも悪くはないでしょう。
また本書評記事末尾にもご参考文献を掲げておきますので
適宜ご参照願えれば読者様の理解促進に役立つものと思います。
もちろん管理人がご紹介させて頂いた参考文献以外で
各自お持ちあるいは入手しやすくご自身にとって
理解しやすいと感受された参考書を手引き書とされるのが
ベストでありますのでそちらの方法こそご推奨はいたしますが・・・。
というわけで、本書の各章へと読み進めていかれる
「事前準備体操」としては
上記の<第2版序文>と<定義>をこそ
必ずお読み頂くことを第一義的にお薦めいたします。
まず最初にご注意頂きたい論点は、
著者も<第2版序文>で強調されているように
「国家(マクロ経済領域)」と「民間=家計・企業(ミクロ経済領域)」とで
貨幣が持つ意味づけが大きく異なるという
当然の事理のことであります。
本書で展開される<MMT>の最大的『理論』根拠と本質部分もまた
次の点にあります。
『通常の独立主権国家においては自国通貨創造が可能であるとともに
独自裁量の下で、自国経済事情にあった適切かつ柔軟な
(マクロ)経済政策運営が可能であること!!』
ですから、この「国家法定」貨幣(国家によって「強制通用可能」とされた
<信認>通貨)を使用できる領域範囲(ここでは便宜的に<閉鎖系>として
おきましょう。)においては
「借金(債務)」の定義付けも「国家」と「民間」とでは
当然ながら自ずと異なってくるということになります。
ちなみに今ここに<閉鎖系>と表記しましたので、
この点で現在の<開放系>グローバル経済との関連で
必ず「為替制度」との接点問題と
その観点からの「国内」経済政策における限界点ならびに
整合性について質疑応答が出てきましょうから、
その論点につきましては、
著者も本書<第2版序文>から推測する限り
最新の研究成果とともに付加されたようです。
具体的にどこからどこまでが付加(加筆修正)された部分なのかは
<第1版>原書を手元に有さないために
日本人一般読者には不明ではありますが・・・。
このように『理論』とは反対派の「反論」や「反証事例」の提示に
誠実に応えていこうとする姿勢を持つことで
より精緻なもの(現実適合的なもの)へと修正接近していくことになるわけです。
詳細は『第6章 現代貨幣理論と為替相場制度の選択
~失敗するように設計されたシステム「ユーロ」~』において
論旨展開なされています。
さて、現代マクロ経済学は「主流派(リフレ派も含む)」であろうが
各種「反主流(異端)派」であろうが、
はたまた本書「MMT派」であろうが、
基本的にはミクロ経済学をマクロ経済学の「枠内」に導入する志向性をもって
あらたな『理論』構築が精緻に積み重ねられてきているといいます。
ですから、「経済学」に関して専門家やある程度の一般的基礎教養のある
読者様を除く<初学者>の皆様の場合であれば
このあたりをよく混同されてしまうという<よくある間違い>を
されてしまうかと思います。
現代マクロ経済学の『理論』体系が専門的表現としては
いわゆる「ミクロ的基礎付け」といいますが、
こうした傾向にある以上は
専門学者ですら無意識のうちに
「マクロ」と「ミクロ」を混同したような錯覚に陥られるような方々も
多々見受けられるようです。
少なくとも一般向けにマスコミなどでコメントされるような場面では。
短い時間でのコメントではなかなか精確な表現を心がけようとも
こうした詳細な解説はどうしても煩瑣となってしまうがために
この点において思慮深い専門家ですら
「誤解」を招きかねない解説をついついしてしまう危険性が
あるからです。
プロの専門家であれば
こうした「マクロ」と「ミクロ」の違いが
一番わかりやすい代表事例として
これまでもたびたびご紹介させて頂きました
いわゆる<合成の誤謬>という知見を誰しもが理解しているはずなのですが、
様々な理由もあるのでしょうが、
現代「主流」派経済学に立つ論者においては
ついつい忘却してしまう傾向が多々見られるようですね。
この<合成の誤謬>の概念(考え)こそ、
一般にもあまり知られていなく、
もっとも思慮深く日々の生活を過ごされている方であれば
ある種の生活実践的「知恵」としてご存じでしょうが、
ほとんどその意義が理解されることもなく、
見事なまでに軽視・無視されていますから
何度強調しても強調し過ぎることがない
誰しもが学んでおいて絶対に損はしない知見ですので
あらためて提示しておきました。
ですから、もちろん「借金(債務)」の取り扱いについては、
「民間」ならなおさらのこと「国家」においても
十二分に注意を払わなくてはならないことは論を待たないところ
(実はその点は「主流派(リフレ派も含む)」であろうと
本書論者のような「MMT派」であろうと共通して意識しているのですが)、
特に<通貨発行特権>を持つ「国家(マクロ経済領域)」における
「借金(債務)」に対するイメージ像や考え方が異なることから
論点がしばしば噛み合わなくなる場面があるということに尽きます。
そのため最近でこそ少しずつ一般にも理解が浸透してきたようですが、
よくあるフレーズに『国の借金が~』と
まるでウルフルズの『借金大王』のような合掌宣伝をされている方々が
マスコミ界などを含めて多々見受けられますが、
こうした『借金(債務)』にまつわる様々な誤解から
長期停滞デフレ不況からの脱却が遅々として進まず、
著しく長期の生活苦難を強いられてきた
ひとつの根本原因となってきたということがあります。
と同時にそもそもの現代「資本主義」経済の成長促進力の
大前提に「借金」を必要とせざるを得ないということも
また「資本」主義者に立つ論者ですら
見事なまでに忘却する点がまま見受けられるところも
大いに問題ありでしょう。
もっとも「資本膨張」による「借金膨張=資本蓄積」に由来する
厳密には「特定階層への資産(負債)的歪み」こそ
現代経済の「格差助長促進」といわゆる「バブル現象誘発」の最大要因に
なっていることもまた『事実』でありますから、
その点に関する解決法は常に構築していく必要はあります。
そのあたりは、「民間」債務と「国家」債務における
いわゆる<信用創造過程>の問題と
今後の残された重要課題だと問題提起しておくことにしますね。
あとは本書における「邦訳」上の細かい問題点に絡む論点ですが、
貨幣に関する本書での<定義>が提示されています。
貨幣とは、『一般的、代表的な計算単位』(本書18頁)のことで
その<計算単位>たる「貨幣」を「記録」したものが
いわゆる「負債」としての「債務証書」だという見解・定義を
採用するのが本書の立場だということになります。
「では、なぜ現代貨幣が<負債(債務)>として刻印されたモノないしは
情報=コト媒体物として始まるところから、
現代「資本」主義経済物語が展開されていくことになるのでしょうか?」
本書の以下の章でその「理由」や「理屈」が展開されていくことになります。
その詳細は『第3章 国内の貨幣制度(本書161頁~)』で
要約・検討していくことになります。
こうした問題意識を踏まえて、
著者は<MMT>は決して「異端」でも「ならずもの」でもなく
現代「資本主義」経済における貨幣「観」やそこから派生して
出現してきた数多くの経済現象的『事実』を『理論』的根拠に据えつつ、
議論を「一般化」したものとして論旨展開されていくことになります。
まとめますと、著者によると
『本書は、「大きな政府」支持者も「小さな政府」支持者も利用可能である。
私自身が進歩主義寄りなのはつとに有名だが、MMT自体は中立的である。』
(本書15頁)
とこのように著者は政治的な立場ではどちらかと言えば
『進歩主義寄り(左派リベラル傾向??)』にあるそうですが、
少なくとも
一般的な現代「資本主義」経済の大本をなす貨幣「観」において、
<信用=債権-債務関係の膨大な束を刻印させた標識記号>貨幣観という
「物語」を「保守派」の方でも共有可能であるかぎりにおいては
本書の「使い道」はあるということになります。
もっともこの<信用>貨幣観に反対する
古い時代の<遺物>たる「商品=実物」貨幣観に立脚する
代表例として米国「右派」リバタリアン党や
一部のオーストリア学派的「保守」経済観の
「物語」を是が非でも「死守」しようとされる方にとっては
本書の主張とはどこまでも平行線のまま終始することでしょうが・・・。
この「物語」を共有保持される方々におかれましては
究極的には「中央銀行廃止論」にまで行き着くようですから・・・。
いわば『大草原の小さな家』のような逞しい生活「保守」観を
強固に理想として掲げるような方々に支持されるようなイメージです。
管理人もこうした理想像をある程度までは共有しますが、
かなりの狭い共同体意識や人間不信感が誘発されそうな世界観ですし、
現在のような豊かな経済生活観をいずれ捨てざるを得なくなります。
そうした生活世界観や人間観に十二分に耐え得るような方々であれば
こうした「物語」も共有されるのでしょう。
ということで、
「今なぜ<MMT>が一方では強固に支持されるとともに
猛烈な反発を喰らうことになってしまっているのだろうか?」と
考えていきますと、
やはり行き着くところ
この地球上における人類が抱えている2大世界観を巡る
壮大な衝突要素が内装されており、
ある種の政治対立を招きかねない<起爆装置>になり得るものと
評価されてしまっているからでしょう。
すなわち、この<MMT>は決して経済学的視点だけでは
容易に受容され得ない政治的要素も含まれているからですね。
これまでの人類史的教訓から
果たしてどこまで「国家」もしくは「民間(特に大規模資本多国籍型企業)」への
<信認>をなし得るというのだろうか・・・、
はたまた「<財政民主主義>とは言っても、どこまで
圧倒的な<資本>権力への民衆による制御が可能になるのだろうか?」、
「むしろその規模範囲が拡張されていけばいくほど、
その<金融/財政>権力に対する<民主的統制>なんて
なおのこと一層厳しく難しくなっていくんとちゃうやろか?」、
「そもそも地球資源が有限である限り、この<MMT>論者も
その限界点は意識されているみたいやが、その制御がうまく行かなくなれば
いわゆる<社会的共通資本>としての地球資源が枯渇し尽くされてしまう
負の推進力と成り果ててしまうのではなかろうか?」などといった
いくつもの疑問符も当然ながら出てきそうだからですね。
こうした疑問点は当然のことですから、
<MMT>についても過大な楽観視は禁物で
必ずそれをも制御し得るような安全な包括的『理論』体系も
これとは別に準備構築していかなくてはなりません。
そうした問題意識からも
冒頭の方で必ずしも政治的「右派/左派」と経済的「右派/左派」は
重なり合わず、合致する場面も多々あると語らせて頂いてきましたが、
現代世界において長年人類を苦難なぬかるみへと導いてきた
「支配/被支配」関係の源流を形成させた
「借金(債務)奴隷制度」問題の深刻さに
ようやく多くの人類が気付き始めてきたことと
エリート統治支配権力層への「不信」が強く高まってきたからこそ
各地でエリート層が「ポピュリズム(大衆迎合主義??)」と揶揄する
一般庶民階層からは当然の正当的抵抗運動も続発しているわけです。
こうした中に「借金(債務)」論を強く正当化させるようなニュアンスや
イメージを内包させた<MMT>が出て来ると、
その意義を正しく理解し、
我ら「人民」もしくは「国民」による経済「主権」を取り戻すための
位置づけとしての<MMT>理解を共有できない人々にとっては
目下の世界史的情勢の動きの中では
まさしく「火に油を注ぐ」狂気的処方箋(主張)のように
一部の人類からすると
どうしても感受されてしまうことは否めません。
それもまた正当な心理的反応だと管理人は感受するわけですが、
そうした方々をいかに説得、理解して頂くのかといったことを
考えていくのも今後の<MMT>論者に課せられた責務だと
管理人などは強く思われるわけですね。
というわけで、管理人は本書に対しては
現時点では「中立」的立場から公平かつ冷静に
要約とともに論評していくことになります。
ですから管理人自身の立場は
やはり<MMT>論者と反<MMT>論者の意見に
一長一短ありといういわば<引き裂かれた自己>という
複雑な想いを抱えた存在だということになりそうです。
そうした管理人自身の現時点において感受・考察できた限界点を
内包させたものとあらかじめご了承して頂きましたうえで、
本書そのものの「要約部分」に関しては
主張を歪めることなく可能なかぎり(理解し得た範囲で)
最大限の公平かつ客観記述に努めてまいりますので
そこはご安心頂きたく願います。
それでは本書開幕にあたる<前置き>はこの程度にとどめて
それでは各章を渡り歩いていくことにいたします。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・『序論 現代貨幣理論の基礎』
※序論ではこれから本書全編を通じて論旨展開されていく
『現代貨幣理論(Modern Monetary Theory =略してMMT)』に関する
概要が提示されています。
まず大前提として現代「資本主義」経済における
「貨幣」の意味付けについて通説的イメージ像を刷新する(といっても、
この<MMT>によって再認識を迫られる見立てこそが、
21世紀現在の貨幣「観」なのですが、
いわゆる現代貨幣が20世紀前半までの金銀などの<実物>資産の裏付けを伴った
「商品(実物的)」貨幣観がなぜうまく機能せずに
世界大恐慌や挙げ句の果てには戦争・革命・闇犯罪など
あらゆる悪性現象がこの時期に集中してしまい
世界史上、最大の愚行へと辿り着く要因となったのかを再考させるきっかけとして、
現代貨幣理論に「信用(債権-債務の循環連鎖的)」貨幣観が
次第に受容されていくという歴史的発展へと辿り着いたわけですが・・・)ための
歴史教訓的根拠などを示唆するあたりから開幕されていきます。
『200年前なら、国庫が通貨を発行するという形で支出し、支払手段として
その通貨を受け取るという形で徴税しているのは明白だったが、
今や中央銀行が国庫に代わって通貨の支払いと受取りを行っているので、
わかりにくくなってしまった。』(本書38~39頁)といった
誠に誠に単純明快な「通貨創造システム」と「経済循環システム」の
成立事情について触れるところから
この<MMT>が示唆する『事実』的意味に関する説明が始まります。
200年前とはちょうど近代「(国民)主権」国家が成立していく
黎明期から後の期間ということになるわけですが、
この貨幣「創造」の成立事情(支配権力のいわば<源泉>ともなる秘密力)に
関する考察はすでに「経済」人類学などの知見からも
解読提示されてきたところでした。
つまり、『貨幣とは<負債>そのものである!!』と・・・。
ですから、この点を摘出した時点で
<MMT>はあくまでも目新しい新奇な『理論』という代物ではなく、
むしろ<古典>的『事実』を再確認しただけだということに
なるわけです。
ただ、この<負債>としての「貨幣」を
「徴税権力(納税制度)」といった暴力的装置によって
稼働循環させていく・・・といった論理的根拠付けに
多くの人間が多大な嫌悪感や違和感を見出すだろうということが
一番よくある<MMT>への「本質的」批判だと思われます。
とともに、これまでの人類史における「<負債>貨幣」を通じての
<債務=信用力膨張>が地球資源に対する暴虐的駆逐力として
機能してきたという点もまた<MMT>への「根源的」批判だとも
感受されるところですね。
<MMT>への各種批判的見解・検討については
追々見ていくことにいたしますが、
まずはこうした有意義な建設的批判に対する応答的代替案検討は
留保させて頂いたうえで語りを続けていくことにいたします。
まとめますと、<MMT>がおそらく大多数の人類に
嫌悪感を催させるこうした赤裸々な『事実』を公開暴露してしまったところに
批判が続出してしまう最大理由があるようですね。
ただ、こうした「徴税権力(納税制度)」によって
「貨幣」は<通貨>として「一般流通」していくのだという
思考回路にはまた別の「物語」があるのかもしれません。
いずれにしましても、
現代「通貨」がどのような理由で一般に流通していくのだろうかという点に
関しましては、従来のいわゆる「主流派」経済学の「物語」的説明では
ただ単に「他の人間も使っているから私も使っているにすぎない」とする
<心理>的根拠を持ち出すことが多かったようです。
しかしながら、こうした「貨幣」そのものに対する
「選好欲」とでもいう心理的理由だけで
「貨幣」が<通貨>として受容・浸透されていく・・・ということにも
不安定さを感受させられるというわけですね。
こうした個々の貨幣に対する「心理的選好欲」からではなく、
「そもそも論」としての貨幣への<信認>が生まれていく根拠を探究してきたのが
実は<負債>として貨幣を見立てる「信用」貨幣観の提示する
利点だったということですね。
この貨幣への<信認>をもたらす膨大な「信用」体系からなる
関係性の束を『貨幣経済』の文脈に限定特化して
分析考察していくのが<MMT>の最大特徴だということになります。
その意味で本書はあくまでも次の言葉で宣言されているところに
主たる狙いがあるということに尽きます。
すなわち、『本書はほぼ一貫して、経済における貨幣の側面に
焦点を当てている。そこにフォーカスするのは、基本的にそれが
資本主義のすべてだからであり、我々は主として資本主義経済で
「現代貨幣」がどのように機能するかに関心があるからだ。
本書はやはり「現代貨幣」の入門書』(本書87頁<第1章>)だと
いうことです。
ですから、本書は<負債>としての「信用」貨幣観(理論)を大前提として
以下の各章からは
そこから誘発されていく現代「資本主義」経済体制の問題点を
あくまでも『現代貨幣理論の側面から』解決する処方箋などが
提示されていくという見取り図となります。
ですから、よくある「誤解」ですが、
この<MMT>だけで現代経済「一般」を抜本的に解決するための
道具立てとするにはあまりにも過大に楽観的期待をし過ぎだということで
この点は実は本書をご「精読」頂ければ
丁寧にそこまでもフォローされていることが
ご理解頂けるはずです。
とはいえ、差し当たりの現代経済「不況」克服手段として
本書で提言される<MMT>の活用を推奨されているにすぎないことは
注意しておかなくてはなりません。
というわけで、本書を「精読」した限りでは、
現時点で世間で見受けられる<MMT>に対する過度な楽観視も悲観視も
どちらも的確な擁護、批判(反論)とはなり得ていないのではと
ひとまず総括出来そうです。
現代の経済事情の下で有効な処方箋として
積極的に活用していけるところはしていくにとどめるのが
およそ妥当かつ適切なあり方ではなかろうかということです。
というわけで、現代経済「一般」の諸問題を解決するには
この<MMT>だけに依存することなく(というか、そもそもそんなことを
著者も期待していないことでしょう。)、
別途その「補完論理」を考案していけば済むだけの話で
些細な点で目くじらを立てるというのも
建設的かつ根本的な批判ならともかくも
現時点における<MMT>批判論者によるコメントを観察していますと、
「極端な<インフレ恐怖症>に陥っていはるなぁ~」としか感受されません。
「まずは何よりも<デフレ脱却>が優先されるのでは!!」
さはさりながら、当たり前ですが、
今後において<デフレ脱却>を果たせた後に来るだろう
<インフレ対策>につきましては
本書でも各種提案がなされていますので
その時にはそうした手法の採用を検討すればいいだけの話でありましょう。
「<インフレ制御>が難しい!!」と宣う御仁の方、
「ならば、<デフレ制御(退治)>は易しいのですか?」と
厳しく問い質したいところですね。
<デフレ制御>も難しく、そのメカニズムを把握するのにも
「主流派」経済学者の方々が手間取っていたからこそ、
その間にも多くの失業者や
極限においては死者まで出てきてしまったわけです。
あるいは<ロスジェネ>を含む前途有望な若者の未来を
剥奪したのではないですか!!と強く責任を問い質したいところです。
さて、「なぜ今頃になって今更のように
こうした<信用>貨幣論なり<信用>経済論を明示した
<MMT>にこれだけ多くの注目がなされるようになってきたのでしょうか?」
それは、現代「資本主義」経済が必然的にもたらす景気「循環」構造とともに
その「循環」がうまく機能しなくなる「恐慌(不況)」の
原因をどこに見出すかを探究することこそが
現代「経済学」の最大的存在意義であるにもかかわらずに
従来の特に「主流派」経済学に立脚するエコノミストが
ことごとく景況判断予想を過ち、
世界人類に大厄災をもたらした責任を追求する論理が
内包されていたからでしょう。
彼ら・彼女らは、ことごとく(ほとんどの者が)「市場(民間経済主体)」を
<楽観視(あえて誤解を招かないために<絶対視>とまでは言いませんが・・・)>
する視点を持つことで、
「民間債務」の膨張圧力が
実は「国家債務」よりも恐ろしい事態を招きかねない『事実』について
軽く扱ってしまっていることに
<MMT>論者からの批判理由があったというわけですね。
現在では、もちろん「民間」仮想通貨(暗号資産)などにも注目が集まり、
「民間」においても通貨「創造」がなされる傾向が増加してきているわけですが、
古典型の「民間」貨幣の創造主体は
まずもって「銀行(民間金融機関)」に集中していたわけでした。
そこに「信用」情報を集約させることで、
金融関連を統括する監督官庁による監視制御を通じて
「民間」金融機関の野放図な「信用創造」機能の拡大による
市場の「失敗」を防御せんがために「公的」政府機関が
目付してきたわけですね。
なぜならば、「民間」には直接「信用創造」の歯止めを掛ける
抑止力めいたものが「国家」以上には備わっていないからです。
あくまでも「信用創造」責任は各金融機関の個別行員による
審査能力以外に頼るものがなかったわけです。
あくまでも「民間」各主体の個々の融資対応場面では
その場その時での近視眼的監督しか及ばずに
市場経済「全体」へと波及する
いわゆる「マクロ」経済効果についてまで
判断する余裕がないからです。
しかも「民間」経済主体の場合には「儲け」ることが
何にも増して優先的に要請されるがために
「信用創造」に関する<負の側面>にまで想像力を
働かせようとする動機付けがどうしても弱まってしまうという
性質があるからです。
そこで経済「全体」にまで大所高所の見地から目配せする
「政府(国家)」の役割が出て来るわけですね。
最近の経済「恐慌(不況=不景気)」は
ほとんどの場合が「民間」債務の信用創造力の拡大の方が大きく出てきており、
それが市場に及ぼす被害総額も大きくなってきているといいます。
(本書47頁ご参照のこと。)
『実際のところ、過去20~30年の過剰債務の大部分は
営利目的の民間金融部門で生み出された。民間の「貨幣創造」が暴走する
金融市場に拍車をかけた一方で、公共目的の政府の「貨幣創造」は
あまりに小さすぎた。』(本書49頁)
例えば、大規模「民間」資本を有する企業が抱え込んでしまった
最終的な「ツケ」がさらに市場に拡散していくのを防ぐための
「損失補填資金」を支払った(救済させた)のが
「政府(公的機関)」だったことが挙げられます。
『大きすぎてつぶせない』とね。
こうした「民間」経済主体の<無責任さ>を棚に上げて
「政府(最終的には個々の国民に納税負担という形で)」に
負わせようとしてきたのが実際の行動パターンでもあったわけです。
しかも役割が異なるはずの「政府(公的機関)」のお役人までが
天下り先確保の手段のためなのか何なのか理由は定かではありませんが、
「民間」に媚びるという醜態をさらし続けてきたのが
昨今の風潮でもあります。
その「スキ」を狙い続けてきた(いる)のが
いわゆる「民間」議員などといった
「国民」の監視(選挙を通じて)が行き届かないところに棲息するのが
<レントシーカー(利潤窃盗泥棒)>なる
これまた奇怪なる面妖な種族でありました。
このような種族がただ今現在、
「政府(国家機関)」債務の膨張責任について批判しているのですから
まったくもってその「緊縮」的論理とともに説得力などあろうはずがありません。
『まったくどうかしてるぜ!!』(吉本某芸人のセリフ)であります。
こうした現在至る所に蔓延る異常事態を
これ以上「放置」しておいてよいはずがありません。
そうした現在の「民間」による市場<失敗>事例を
再度検証するきっかけづくりとともに
景気後退を回避、軽減する1つの手段として
この<MMT>に期待が寄せられている側面も
一方にはあるというわけですね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・『第1章 マクロ会計の基礎~1つの部門の赤字は、別の部門の黒字に等しい~』
※本章では、<MMT>に依拠した経済政策を適切に図っていくうえで
いかなる適切な会計認識が必要不可欠かを示唆する
「マクロ」経済学における会計面での基礎知識が提供されています。
詳細内容は本章解説に委ねさせて頂くことにしまして、
ここで特に<MMT>が依拠する貨幣「観」との絡みで
押さえておきたい重要論点を強調しておきますね。
<MMT>とは、「信用(債権-債務の膨大な信用体系の束のようなものと
ひとまずご想像下さるとわかりやすくなりましょう。)」貨幣論に基づく。
この法律学上の表現である「債権-債務」を
会計学上の表現で言い換えたのが「資産-負債」ということになります。
バランスシート(BS/貸借対照表)上は、
左勘定項目に「資産の部」を立て、右勘定項目に「負債/純資産(資産の部から
負債の部を差し引いた分)の部」を立てているのがそれであります。
今回の<MMT>はあくまでも「マクロ(国家)」経済における
会計上のあり方が主題ですので、「ミクロ(民間=家計・企業)」経済での
会計上のあり方とは厳格に区別しなくてはなりません。
ことに次章以下で<MMT>議論を展開していくうえで
第一義的に大前提となる「自国通貨発行特権行使に基づく
自国通貨建てでの自国債発行」の意味を十二分に理解していくうえでも
この「マクロ」と「ミクロ」における会計上での
大きな差異を理解して頂かなくては
おそらく本書で展開されていく骨子も掴めないどころか
まったくの「誤解」に基づく不毛な批判論争に巻き込まれかねないからです。
本章ではあくまでも「マクロ」会計の基礎知識しか語られていませんが、
ここで若干程度補足説明しておきますね。
「ミクロ(家計・企業)」の場合には、
自己自身が外部から自由に「お金」を注入し得る
いわゆる「打ち出の小槌」を振ることが出来ません。
ですから、当たり前ですが、
自ずから「支出」は「収入」の範囲内で暮らさざるを得ません。
『入るを計りて出ずるを制する!!』ですね。
つまり、「支出>収入」では「債務超過」ということになります。
余剰資産(貯蓄分)などの余裕資産が他にない限り、
いずれ生活経済上の「破綻」を来すことになります。
その条件として将来あらたな「収入」が入ってくる余地がない場合を
想定しています。
例えば、失業中や病気休養中の場合でも
まったく補償金すらもらえていない状態や
完全ひきこもりニート期間中で
親や友人・知人、はたまた何らかの資金的援助(誤解を招き下品なたとえで
大変恐縮ですが、いわゆる<ヒモ>生活すら出来ない状態)が
得られない状態のことをご想像下さい。
これが、今ある資産だけで暮らさなければならない
「ストック(プール貯金)」論であります。
その場合は当たり前ですが、
「使えば使うほど目減りし、やがて一文無しになる」という
最悪な結末が待ち受けています。
つまり、「地獄の釜の門が開いている」という状態ですね。
これが、「債務」返済を今ある資産の枠内だけで
なしていけばどうなるかというイメージづくりに役立ちます。
ですから、将来的にあらたな「収入」が入ってくるための
資金的「源泉」をどこかに持っていなくてはなりません。
その「源泉」こそが、「職場(労働機会)」であったり、
「資金運用(超過利潤=不労所得発生の場)」であったりします。
その「源泉」を言い換えれば、
「泉からあらたに水(おかね)が常に湧き出ている」イメージをとって
<(キャッシュ)フロー>というわけですね。
つまり、これが「フロー(流動性)」会計ということになります。
まとめますと、「フロー」さえ確保出来ていれば、
常なる「ストック(現在ある資金状況)」を心配することなく
またそれに必要以上に心理的・物理的に拘束されずに済むわけですね。
とはいえ、言わずもがなですが、
若干の「ストック(貯蓄・剰余金・留保金)」がなければ
まったくの<自転車操業>となってしまいますから、
そのあたりは「常識」として織り込み済みのうえで、
「フロー(流動性資金)」会計にも
もっと着目していきましょうというのが
現代「会計学」の基本原則でもあるというわけですね。
このイメージが本章の主題である「マクロ」会計を理解していくうえでも
役立つというわけです。
さて、ここで「ミクロ(家計・企業)」と「マクロ(自国通貨発行可能国家
あるいは今後のことも想定して<信認>される独自通貨発行可能な準公的=
半官半民型公共事業体)」との大きな違いに再度着目してみましょう。
さすれば、「民間(ミクロ)」会計では
絶えず「外部」から資金を移動してこなくてはならないことが
ご理解頂けましょう。
つまり、「外部」からの資金供給(フロー)が途絶えれば
一定の固定された資金しか存在しない「ストック」状態では
やがて「じり貧」に陥ることになるということです。
くどい説明にはなりますが、「マクロ」会計を理解するうえで
最大限に重要な着眼点ですので繰り返します。
では、『国家(政府)』の「マクロ」会計の場合にはどうか?
ここでは「<自国通貨発行特権>が確実に保証されている」ことを
大前提とします。
つまりは、「外部」経済に依存しなくても「自己完結」した
「自律(立)」型経済圏を創造構築し得る限りでの領域設定における
会計原則の話であります。
この場合には、絶えず「自己」通貨を使用できますから
「外部」からおかねを「借りてくる」必要がないことに
気付かれるはずです。
この「借りなくてもよい」というのが
この<MMT>が依拠する「マクロ」会計の基礎原理ということに
なるわけですね。
ですから、<よくある間違い>に
「国債(国の借金)」は「国民総所得(貯蓄)」から借りてきている・・・といった
ひと頃昔によく語られていたイメージ像がありますが、
こうしたイメージ発想こそ実は間違っていたのだということも見えてきます。
この視点を正しく共有することが叶えば
本章でのややこしい会計上の基礎知識が
すんなりとご理解頂けなくとも
次第にわかるようになってきます。
まとめますと、本章では、「マクロ(『国家(政府)』財政)」の場面では
まずもって「支出(通貨創造発行)」が真っ先にあるということです。
これが俗に言う『スペンディング・ファースト!!』が持つ意味ですね。
そうした「マクロ経済主体(国家)」が「支出」したおかねでもって
私たち「ミクロ(民間経済主体)」の生活が回されていくということになるわけです。
ですから、大切な要点は、
『国家<支出>が民間<所得>をもたらす!!』ということです。
そこで、このことをさらに細かく理解していくために
必要不可欠となる数式が表現する意味に関する説明がなされることになります。
『国内民間収支+国内政府収支+海外収支=0』
これが意味するのは、
『1つの部門が赤字なら少なくとも他の1つの部門は
黒字でなければならない』(本書66頁)ということです。
そのことと『政府赤字(借金)が国民黒字(所得/貯蓄)をもたらす』ということを
合算すると、
今大流行中の「緊縮(プライマリーバランス)」経済財政論が
いかに国民を貧困にさせていっているかが見えてくることになります。
この「プライマリーバランス(=政府黒字)」を理想として掲げる
現在の「緊縮」型経済財政論を上記の数式に当てはめて
言い換えますと、「政府黒字」とは
「海外収支黒字/国民収支赤字」もしくは
「海外収支赤字/国民収支黒字」、
「海外収支赤字/国民収支赤字」を意味することになります。
「政府収支黒字」かつ「国民収支黒字」をもたらそうと思えば
残りは「海外収支赤字(輸出-輸入)=貿易赤字」ということになるわけですね。
これが為替面で言えば「輸入超過(入超)」ということで
通貨価値の下落を招き寄せることになって「円安(日本の事例)」を
呼び込む遠因ともなり得ます。
とはいえそれでは困るわけです。
「入超」が促進されていきますと、まさしくインフレ要因となっていきますし、
やがてその分だけ国内「需要」を減らしていくことにもなるからです。
言い換えれば、やがてどこかの時点で「供給(能力)不足」を招き、
それとともに「需要」が拡大していても
すべてを満たしきることが出来なくなったり、
その「供給(能力)不足」に適合させるように
国内「需要」を減らさざるを得なくなるからです。
「すると、どうなるか?」
自動的に経済は「縮小」局面へと転換していくとともに
(供給不足=減少分と同額だけの需要減少であれば
それまでの国内経済の過剰な景気過熱が抑制されることになり
均衡状態へと向かっていきますが、需要拡大方向にある場合には
海外からの輸入依存体制になっていきますが、
それも海外の輸出可能性次第で国内供給網は制約されてしまうことに
なります。これは政治的には危うい選択肢となります。)
それはまさしく「近隣窮乏化」の正反対である
「自国窮乏化」を招き入れることになります。
つまり、「みんなで一緒に貧しくなろうね」政策ですね。
もう一度、上記「恒等式」によって
<プライマリーバランス論>の危うさを実感するために
話題をそこに戻しましょう。
このあたり数式絡みできわめて抽象的な解説が続いていきますので、
退屈なところですがご辛抱願います。
なぜならば、本章で提示された<MMT>数式モデルを
精密に分析解読できませんと、
本書で語られているすべての論題の趣旨を掴めませんから。
わかりにくければ、上記「恒等式」に具体的な数式を代入して頂ければ
その問題点がよりよくイメージ頂けるでしょう。
あくまでも今語っていることは、
「政府黒字(プライマリーバランス)」にこだわり続ける限り、
必然的に引き起こされてくる現象であります。
現実にはこの「恒等式」に入る<変数>自体は
「生きた(動態系)」経済においてはいくらでも変化しますが、
「政府収支黒字」かつ「国民収支黒字」であれば、
残りは「海外収支赤字」は「0(完全鎖国以外あり得ませんが、
これが完全自給自足体制の意味です。また、赤字である以上は
マイナスであるために<0>ということは定義上あり得ません。
あくまで仮定として<海外収支>部門を捨象した
2部門モデルの場合です。何度も繰り返しますが、
これは非現実的な仮定ですよ。上記のように日本では
自滅への片道切符であります。)」もしくは
「入超(つまりは、海外からまったく余剰資金が入ってこない状態、
国内資金が海外流出していく状態=マイナス)」となります。
さて、ここで注意深い読者様はすでにお気づきでしょうが、
これはあくまでも収支が「一定」の<静態系閉鎖>モデルであります。
ですが、これはどなたが考えても非現実的な仮定ですよね。
それでは、「政府収支黒字」かつ「海外収支黒字」で見てみましょう。
その場合には必然的に「国民収支赤字」になります。
この場合には、国民収支の「赤字」分をどう損失補填するかと言えば、
もちろん「政府」収支もしくは「海外」収支の「黒字」分を
取り崩す以外に選択肢はあり得ないですよね。
そこです、注目すべき着眼点とは・・・。
これが、政府の「黒字」が「赤字」に転じる場面です。
つまり、<MMT>が示唆する
『民間の純金融資産は政府債務に等しい』(本書54~55頁)の
意味であります。(今は話をわかりやすくするために
「海外収支部門」の項はひとまず捨象しましょう。
数学的には3点<変数>以上になると急激にややこしく混乱する話と
なっていきますので、本書の主題もあくまで「純国内マクロ」経済の
話題ということですのでそこに焦点を絞ることにします。)
なお、3項の「海外収支部門」を捨象したことで、
2部門に話をすべて還元することになりましたが、
『2部門のモデルでは、政府部門と民間部門の両方が同時に
黒字になることは不可能』(本書55頁)ということです。
ここに先程話をわかりやすくするために捨象させた「海外収支部門」を
復活させると、
『海外の債務は国内の金融資産である』(本書55~56頁)で
展開されている内容と接続します。
<論より証拠>、まずはこのように具体的数値を
上記「恒等式」に代入して本書での文章が意味するところを
感じ取って下さいませ。
ところで、「主流派」計量(数理)経済学者からは
よく「<MMT>には数式がないからダメだ!!」なる批判も
出ているそうですが、ここにあるではないですか。
その場合にどうしてこのような批判が出て来るのかを推察するに
「主流派」はどうも<恒等式>と<方程式>の違いについて
混乱しているのではないか問題や
もともと経済現象を数式で表そうとしても
実際の社会現象が「複雑系」であるために
予測不可能であることを忘れているという問題もありましょう。
「予測」不可能(不確実)性と「予見」可能性は
まったく意味が異なります。
それを証明した代表例が「サブプライムローン」問題や
「リーマンショック」時に一躍話題となった
<ブラックショールズモデル>「方程式」の存在でありましょう。
いずれにしましても、数式を扱う際に細心の注意を払わなくてはならない点は
<前提条件>とともにその数式からどのような意味を読み取ったり、
どのような意味を与えるかという視点だということです。
そのあたりの注意点については、
経済学も社会「科学」であるとともに<複雑系>を分析する道具であることから
派生する論点について本書でもきちんと触れられています。
(<1.2 MMT、部門収支、行動>本書61~66頁ご参照のこと。)
ちなみに<方程式>と<恒等式>の違いを下記の参考文献から
引用して補足説明としておきますね。
<方程式>のうちでも
『特に、その中に含まれている文字がどんな数値をとろうとも、
つねに等しいような等式を恒等式というのです。』
(『方程式に強くなる~文字・記号の使い方から解法まで~』
田村三郎著、講談社ブルーバックス、1990年第5刷、34頁より)
要するに、<恒等式>の方が<方程式>よりも
一般的には「汎用性」が高い道具立てだということになります。
なぜならば、<方程式>の場合には特定の<変数>にのみ
ぴったりと合致する場面でしか使えませんが、
現実に動態的に動いている社会経済現象の場面では
いかに「奇跡」に近いことかということです。
ですから実際の場面では<恒等式>がぴったりと成り立つのも
「難題中の難題」ではあるわけですが、
まずはアバウトでもいいので「当たらずとも遠からず」であれば
<複雑系>の場面での数式の取り扱い方においては
「ひとまずよし!!」ということで問題ないのではないでしょうか?
その「誤差」の範囲内に収めることが出来るか否かこそが
もちろん現実面ではきわめて重要となってくるわけですが・・・。
そして、その「誤差」も現実社会に与える影響において
多大な「損害(マイナスエネルギー)」とならないことという
厳しい条件も付加させなくてはなりません。
とともに数式を立てる場合の<前提条件(お約束事)>に
どのような「仮定」が内在設定されているのかという問題意識にも
数式から導き出される<解>を解析する際には
目を光らせていなくはなりません。
数式を取り扱う際には必ず何らかの条件操作=暗黙の了解事項としての
<与件>が混在していますから、導き出された<解>を評価する際には
くれぐれも都合のいい恣意的な乱用は戒めなくてはなりません。
すなわち、当該数式によって取り扱える適用領域問題としても
理解する必要があるわけですね。
特に「価値観」が混在してくる<社会科学>の分野において
数理科学を取り扱う際には常に注意しなくてはならない重要点となります。
もちろん、<自然科学>も含めた「生きた現実」社会を数理解読を通じて「解釈」し、
世界の「再編(創造)」していく手だてとするならば、
なおさらのこと、
<複雑系(動態)モデル>こそがむしろ通常パターンだということを
十二分に踏まえておかなくてはならないからです。
ですから、「一定」だとか「静止(安定)系」といった言葉が
<複雑系>の世界で突如出てきた場面においては
十二分な警戒心が必要だということに尽きます。
(『世界を変えた17の方程式』イアン・スチュアート著、
水谷淳訳、ソフトバンククリエイティブ、2013年第3刷
<17 ミダスの数式~ブラック=ショールズ方程式>
371~396頁ご参照のこと)
現に<方程式>であっても、現在では「確率・偏微分」型に変形された
形式で使用されているわけですね。
<1.3 ストック、フロー、バランスシート-バスタブのアナロジー>
(本書71~74頁)が数式に苦手意識ある「文系」の読者様に
おかれましては比較的に以上語らせて頂いた数式上のイメージが
より具体像としてつかみやすいかと感受します。
そして、<MMT>もまた「主流派」同様に
何でもかんでも「貨幣計量化」できるものとして
非現実的な仮定を置いているのではないかという批判につきましては、
数値評価(換算化)しやすい<金融資産>以外にも
<非金融資産(実物資産)>についても注意がきちんと払われています。
(<1.5 「実物 対 金融(名目)」の会計>本書84~88頁
ご参照のこと。)
この論点提示により本書における『貨幣論』の主題からは
直接的な考察対象範囲外となる「環境負荷」問題などにも絡む
目配せも若干程度なされていることにお気づき頂けることでしょう。
そこで本書のみからは物足りない上記論点を考えるためのヒント本として
下記のご参考文献もついでにここでご紹介しておきますね。
『数学的思考の技術~不確実な世界を見通すヒント~』
(小島寛之著、ベスト新書、2011年初版第3刷、
<第5章 お金より大切なものはあるか>144~155頁)
この章末で『貨幣が引き起こす悲劇には非貨幣的なシステムを
使って対抗せよ』(上掲書155頁)と示唆されております。
この問題意識は前にもご紹介させて頂きました
今村仁司著『貨幣とは何だろうか』(ちくま新書)での所収論考である
『媒介形式の非「貨幣」的存在を構想する』(75頁<第2章 関係の結晶化>)でも
提示されていた発想とも共通します。
いずれにしましても、本書は現代『貨幣』理論を主題に絞られた
入門書??ですから、
『貨幣論』以外の「一般」経済論につきましては、
別途「相互補完」理論が必要不可欠であることは論を待ちません。
「バランスシート」論に絡む<コラム>(本書89~93頁)は
やや専門的すぎる解説となりますので
ご興味ご関心ある読者様のみお読み頂き、
初心者段階の一般読者様におかれましては
適宜読み飛ばされてもかまわない箇所でございます。
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・『第2章 自国通貨の発行者による支出~租税が貨幣を動かす~』
※本章は、国家が<支出>する貨幣がいかなる制度的裏付けでもって
一般に流通していくのかを分析考察した論考箇所であります。
『貨幣は「徴税制度」によって最終的には<通貨>としての
循環機能を果たしていく!!』
(<2.3 租税が貨幣を動かす>本書119~124頁)
とはいえ、<MMT>論者によって一般的に提示された公式も
にわかには信じがたく受容されにくいところです。
そこでこうした当然ながら出されるであろう疑義に応答する論考が
<2.4 人々が自国通貨の受取りを拒んだらどうなるのか?>
(本書124~130頁)として提出されることになります。
この『租税が貨幣を動かす』ということの本質的要点とは
『通貨発行者の側から見た貨幣制度の目的は政府部門に資源を
動かすことであり、その達成のために利用される通貨に対する
需要を創造することが租税の目的である。政府が租税を必要とするのは、
歳入を生み出すためではない。通貨の利用者たる国民が、
通貨を手に入れようと、労働力、資源、生産物を政府に売却するように
仕向けるためなのだ。』(本書128頁)
この発想こそが<租税は国家財政における「財源」である>とする通説や
俗説と大きくかけ離れた異色点となるわけです。
<MMT>論者が提示するこの租税「観」をよく覚えておいて下さい。
これが後ほど第8章でも提唱されることになる
政府は『最後の雇い主』という発想にもつながっていきます。
つまり、『失業者の<労働力>や民間市場で捌ききれなかった<余剰資源物>を
政府が買い入れることで<有効需要>を創造し、対価としての通貨を
あらたに市場へと供給しながら景気回復を促す』流通経路をも導き出すと
いうわけですね。
それとともに<非金融資産(=実物資産)>に対する取り扱い注意点も
前章末尾で提起させて頂いた論点とも絡めてきちんと提出されています。
こうした問題意識から著者も<負債>としての「信用」貨幣膨張による
「エントロピー増加(環境負荷)」問題についても考察が及んでいることも
ご理解頂けるのではないでしょうか?
(特に本書141頁前半部あたりで著者も確認されています。)
残りの重要点は『赤字支出の持続可能性』問題ですが、
<2.7 持続可能性の条件>(本書141~153頁)とともに
<コラム 専門的な補遺-債務対GDP比率の力学>(本書153~
159頁)にて論じられています。
なお、ここで提示された論点を読み進められていると、
学習の進んだ思慮深い読者様であればお気づきかもしれませんが、
ヨーゼフ・シュンペーターの名著『租税国家の危機』とも
通底する問題意識を嗅ぎとった方もおられるかもしれません。
シュンペーターの問題意識から現時点における
租税制度を担保にして通貨を循環させていく論法を採用する
<MMT>論者が乗り越えるべき未来像へ向けたバージョンアップ論に
関しましては、最終章の要約にとりかかった後に
独自考察を交えながら語り直すことにいたしましょう。
このシュンペーター理論から帰結されていく最大の魅力点は
現状の『資本主義』や国家『形態』のあり方まで変容を迫られるだろうと
いうところにまで想像力が及んでいるところですね。
こうした極北地点をともに想像考察して頂くことで
『資本主義』や『国家』、『租税制度』を背景とした強制通用貨幣といった
イメージの背景に隠された<暴力的匂い>への違和感を中和させるような
発想もいずれ発見されるかもしれない希望が垣間見えるかもしれませんね。
さらに、より望ましく具体的な「租税制度(政策)」の
ありかた論につきましては、
あらためて第5章において詳細に語られることになります。
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・『第3章 国内の貨幣制度~銀行と中央銀行~』
※本章では<負債>としての貨幣とは
一体全体具体的にはいかなる意味を有するものなのかを
「民間」銀行と「公的」中央銀行とのバランスシート上の
対比分析を交えながら詳細解説が加えられていきます。
経済「市場」において、
<負債>が実際にはいかなる過程を通じて
「決済」処理なされていくのだろうか?
そのことを示すのが3層構造でイメージ化された
いわゆる<負債(=通貨)のピラミッド構造>分析であります。
この論考解説箇所を丁寧に読み進めて頂ければ、
「民間」経済における<市場の失敗>事例を
(被害がそれ以上「拡散(拡張)」していかないためにも)解決するには
終局的にはやはり何らかの形で「国家」が介入せざるを得なくなる
論理も見えてくることになるでしょう。
もっとも「モラルハザード」防止対策としての
「損失」企業には救済の見返りに厳しい懲罰(信賞必罰)でもって
臨む必要はあるわけですが、
とりあえずここでの主題は<会計上の処理問題>ですので
この論点に的を絞った解説となっています。
本章ではそれぞれ「民間」主体と「公的」中央銀行のバランスシート上での
処理のされ方が詳細に解説されていくわけですが、
一般読者様にとってイメージとともに理解されづらいと感受される
帳簿項目が<準備預金>だと思います。
この<準備預金>の動向把握を理解することが
このあとの章論を十二分に理解するためにも大切な要点と
なってきます。
特に現在の中央銀行による「量的緩和」と「金利操作」の意味や
「国債」の取り扱われ方を理解することが
<MMT>論者の主張を理解し、
従来の「主流派」経済学に依拠した
現在の一般的な「マクロ」経済政策に対する意味づけや
解釈、イメージ像の相違点を見極めるうえでも重要な視点と
なってくるからです。
また本章でも<信用創造>について語られていくわけですが、
ここでは主に「民間」経済主体が危機に陥った際における中央銀行の役割や
本書はあくまでも米国人によるものですから
米国の連邦準備銀行(FRB)と財務省に関する事例でもって紹介されてはいますが、
日米ともに現在では中央銀行と政府(国庫)が相互強調しながら
市場「操作(オペレーション)」を図っていこうとする
いわゆる<統合政府論>の意味についても理解出来るようになります。
本章<3.5 外生的な金利と量的緩和>(本書192~195頁)と
<3.7 国債のオペレーション>(本書207~212頁)は
きわめて「専門色」の濃い論考文ではありますが、
<MMT>論者と「主流派(特にリフレ派)」経済学者との
認識の差異を十二分に理解していくうえでも
大切な分岐点となりますので
「熟読玩味」して頂くことをお願いいたします。
本章および次章が本書中の論考文では
一番抽象的で理解しづらく
おそらく皆さんも眠たくなる箇所かと感受いたしますが、
ここが最大の「関所(ヤマ場=峠)」ですから
もう少しのご辛抱ということで
ともに頑張って読み進めてまいりましょう。
本章の「要約」はつまるところ
<3.8 中央銀行と国債の役割についての結論>(本書212~214頁)で
まとめられていますので、なかなか遅々として読み進めづらい読者様には
ここに至る箇所をとりあえず読み飛ばしたうえで、
先にこの「結論」を読んで頂いたうえで、
適宜各項目論考文へと戻り読みされることをお薦めいたします。
なお、本章のバランスシートの読みとり方を
より「楽」にするためのコツですが、
『①常に「準備預金」の動きや働きに注目すること、
②「政府支出の基本パターン」を予め(機械的に)覚えてしまうこと』
(『表現者クライテリオン2019年9月号』62~66頁における
本書訳者のお一人でいらっしゃる鈴木正徳氏による解説分も
あわせてご参考にされることをお薦めいたします。)が
効果的だそうですよ。
さらに加えて、
先程『きわめて「専門色」の濃い論考文ではありますが・・・』とは書きましたが、
「外生的/内生的」という言葉遣いの違いに着目することが
<MMT>論者と「主流派(特にリフレ派)」経済学者との
市場「操作」の差異を十二分に理解していくうえでも
大切な論点となりますので、
本書の補足解説論考文としてご参考までに
この論点もまた上掲雑誌所収論考文ではありますが、
<内生的貨幣供給論とは何か-現代の貨幣経済を読み解く>
(上掲雑誌78~84頁)で「簡約」されていますので
あわせてご紹介しておきますね。
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・『第4章 自国通貨を発行する国における財政オペレーション
~政府赤字が非政府部門の貯蓄を創造する~』
※本章では前章までの<マクロ会計の一般的基礎知識>と
現在の中央銀行と政府の協調的<統合政府論>に依拠した
<マクロ経済政策の一般的実行方法>に関する解説を踏まえて
いよいよ具体的な「財政」政策の内容分析へと入っていくことになります。
ここでは「財政/金融」政策における<国債>の意義(位置)づけを
正しく理解することが肝要となります。
そこでその前段階の大前提として
<MMT>が適切に取り扱われるための制約条件となる
『主権通貨の発行者に当てはまる原則』を
<4.1 基本的な原則>(本書216~220頁)で再確認します。
この「原則」はあくまでも現在の「事実」面から見た
『理論』上での『支出能力』論について客観的に述べられたもので
『政府は無制限に支出すべき』(本書219頁)だとか
『自国通貨建てで売られているものなら何でも購入すべき』(同頁)といった
<規範>論を示すものではないことに注意しなくてはなりません。
そこを「誤解」したり、
もしくは、意図的かつ確信犯的に無視して
一般世論に向けた誤誘導操作するような言説でもって
<MMT>論者を攻撃批判してもまったく説得力がなく、
精確に「正解」されている者からは笑止千万だと評価されるだけです。
この<MMT>に関する世間一般における正しい理解と認知度が増し、
浸透受容されていくにつれて、それでもなお、
「本質」に関わらない領域での<藁人形論法=<MMT>論者が
言ってもいないことを平気でウソをついて評判を落とそうとする
煽動型論説手法のことです。>に基づいた否定的評価を下す論者には
むしろその評判がただただ下がりゆく一方となるだけです。
「知性」や「人間性」を疑われたくなければ
ただちにこのような無意味な誹謗中傷合戦はやめるのが
「大人」の見識だというものです。
これは<MMT>のみならず、
あらゆる価値評価論を伴う政策論争をするうえでも
そもそもの議論の大前提をなす<事実>に関する「共通認識」像を確立させることが
いかに生産的な成果をもたらすかにつき
重要な知的作業となっているのかという再確認ともなります。
「対話論」から抜けて本章の主題へと話題を戻しましょう。
<4.2 政府の財政赤字が貯蓄、準備預金、金利に与える影響>
(本書220~226頁)と
<4.3 政府の財政赤字と「2段階の」貯蓄プロセス>
(本書227~236頁)におけるそれぞれの論考文を読み進めて頂けると、
最終的には『結論』でも示されていますように
『政府赤字がそれと同額の非政府部門の貯蓄を創造するのだから、
政府が貯蓄の供給不足に直面することはあり得ない。』(本書236頁末文)
理由がしかとおわかり頂けるでしょう。
言い換えますと、国民が市場や社会において
必要とする価格付けされた物品(モノ・サービス・コト=情報など)といった
「実需」を満たすうえで貨幣不足が起きるということは
適切な経済政策運営がなされている限りにおいては「あり得ない」ということに
尽きます。
「あり得る」のは、政策(理論上の仮定に依拠)と
現実(需給ギャップや価格反映ギャップなど)に生起している現象分析において
誤認識による齟齬が生じているからでしょう。
あらためて引用します
『政府赤字がそれと同額の非政府部門の貯蓄を創造するのだから、
政府が貯蓄の供給不足に直面することはあり得ない。』(本書236頁末文)の
後半部分はそのような「マクロ(全体的)」な意味であります。
乖離現象は個々の認識ギャップからくる
貨幣不足(デフレ=物価下落=貨幣価値上昇)/
貨幣過剰(インフレ=物価上昇=貨幣価値下落)という問題であります。
今は『政府が供給し得る貨幣(赤字支出=黒字所得・貯蓄)』の
「理論」的上限問題に話題を特化していますから
話が一見ややこしくなってきておりますが、
そうした「上限」問題こそが、
まさしく私たち一般国民の市場での「実需」動向における
「資金」需要との相関関係次第ということになるわけですね。
ですから、「市場(ミクロ=家計や企業)」の「需要」次第で
「国家(マクロ=中央銀行や政府<財務省>)」の
「貨幣供給創造」も限界づけされるということです。
その1つの指標こそが、インフレ率や失業率であったりするわけです。
つまり、これらの指標こそが危険度を表す徴候(歯止め)と
なってくれるというわけです。
何度でも繰り返しますが、
<MMT>はこのことはすでに織り込み済みであります。
この『結論』を精確に理解して頂くためにも必要不可欠となる
<恒等式>の意味論についてやや詳細に解説させて頂いてきたわけです。
要するに、<恒等式>では前後は必ず常に等式で結ばれるわけですから
両辺あわせて見た場合には
ここの「内部項目」内での不均衡という問題はあり得ても
(その問題については<内部資産>論をもう一度丁寧に
読み直して頂くと自ずとご理解頂けましょう。
<1.1 ストックとフローの会計の基礎>『内部資産 対 外部資産』
本書52~53頁ご参照のこと。)、
「マクロ(全体)」的には帳尻が合うはずです。
<MMT>による「財政/金融」政策に対する基本的発想法を
十二分にご理解頂くためにも
<内生的/外生的>貨幣供給論の相違点についても
再確認して頂くてはなりません。
つまり、中央銀行/政府(財務省)ともに
「市場」に対してどこまで「操作」が可能であるかを
常に認識したうえで政策実行していかなくてはならないということですね。
政府「支出(赤字)」の出し方はすでに何度も本書で繰り返されてきたことですが、
『財政赤字はまず、銀行の準備預金をそれと同じ金額だけ増加させる。
これは財務省の支出が、受取り手の銀行預金口座と、中央銀行にある
その銀行の準備預金口座への振込みを同時にもたらす』(本書222頁)ところから
開始するのでしたね。
そしてそれは当たり前ですが、
「市場」の景気循環状況を厳密に見計らう指標としての
「民間資金」<需要>次第ということになりますから、
「国家(中央銀行/政府<財務省>)」によって
勝手な「支出」判断はむしろ出来ない制約がかかるということでも
あるわけですね。
言い換えますと、先程触れさせて頂いたことの復習となりますが、
『理論上』は<無限>の政府支出が可能であるように見えても
『事実上』はこのような市場「実需」次第で<有限>量へと
自ずと制約されるということです。
それを軽視・無視をすれば・・・。
それこそが、「インフレ率」上昇の危険性でしたね。
これまでの要約をまとめますと、
ただ単に<貨幣数量(回転率)説>というお金の側面のみに偏重させた
「マクロ」経済政策(「主流派(一部リフレ派含む)」による
市場を外から常に制御し得るとする<外生的>アプローチ手法)を
採用することは叶わず(=これが<内生的>の意味です。)、
絶えず「市場」の動向を見計らったうえで、
それに適合させた形での貨幣供給操作を加えていくというのが
<MMT>的発想だということになります。
『MMTは「中央銀行はマネーサプライや準備預金を制御できない」という
考え方を、「内生的貨幣」アプローチ(中略)と共有している。』
(本書192頁)と。
この前章<3.5 外生的な金利と量的緩和>(本書192~195頁)で
示された引用文をさらに現在進行中の中央銀行/政府(財務省)による
協調型「量的緩和」政策の具体的内容に関する検討とともに
緻密に因数分解的な処理展開をしていけば
本章の各論で提示される個々の解説と接続していくことになります。
ここでさらに詳細な解説を加えていきますと
煩瑣となってしまいますから本書解説に委ねることで
節約をさせて頂きます。
そのような意味からも<MMT>とは<規範>論ではなく
<事実>論と整合させた事後的政策論としての意味しか有さないと
しばしば評価されるのもそうした理由からということになるわけです。
というわけで、
『<無制限>にお金を刷りまくるとインフレがただちに起きる!!』
などといった批判も中途半端な理解からくる
誤解と無知にしかすぎないことがご理解頂けるはずなのです。
しかも、私たちは目に見えるモノを基本的に重視して生きるといった
身体(皮膚感覚)的クセがありますから、
どうしても「現金」だけに視点が集中することになり、
目に見えないコトである「一般預金/準備預金/国債」といった
「(法律上/会計上の)債権」としての<貨幣>の意味には
視点が行き届かない思考回路上の「盲点」が
どうしても出て来るからですね。
だからこそ、この貨幣論(観)にまつわる議論も
一般的には「何を言ってるのかさっぱりわけわからん!!」ということに
なってしまうわけですね。
それは読者様の理解力が足りないなどということではなく、
そもそも身体感覚がなかなか受け入れがたい
抽象的産物に由来していたからなのです。
「そもそも言葉でイメージしにくいものを語る」という
迂遠思考法でもって人間は少しずつ理解できる範囲を拡張し、
時空間での「現実化」を図ってきたわけです。
まさに「思考は現実化する!!」(ナポレオン・ヒル)みたいですが、
この一連の議論もそれと同じことなのでした。
そろそろ本章での<要約まとめ>に移りましょう。
<MMT>の依拠する論法では、
貨幣<需要>も「市場」動向次第(=内生的)ということになるわけですが、
それでは『「市場」をまったく外側から<操作>出来ないのだったら、
「国家」による<マクロ経済>政策運営に果たして意味などあるのだろうか?』と
もしかしたら早とちりして誤解されてしまう読者様もおられるかもしれませんので
本書解説の該当箇所を引用しながら最後に補足しておきますね。
『中央銀行は準備預金の需要に応える』
・中央銀行は、準備預金の供給を行い、あるいは拒むことによって、
銀行貸出を促すことも妨げることもできない。
・もっと正確に言えば、中央銀行は、望まれる量の準備預金を供給して、
銀行システムをサポートする。誘導目標レートだけが裁量的であり、
準備預金の量は裁量的ではない。
・つまり、現代の中央銀行は価格(誘導目標レート)を基準に
運営されているのであって、(準備預金やマネーサプライの)量を
基準に運営されているのではない。
(以上、233~235頁ご参照のこと。)
さらに精密に簡約し直しますと、
・翌日物誘導目標金利は「外性的」で、中央銀行によって設定される。
一方、準備の量は「内生的」で、民間銀行の必要と要求によって
決定される。(本書218頁)
ということになります。
それでは、『「国債」と「金利」との相関関係や如何に?』の話題も
あわせて語っておきますね。
この「国債(価格)/金利(高低)」の相関関係は
よく下記のように指摘されることがありますね。
『国債価格が高くなれば、金利は低くなり、
その逆に、国債価格が低くなれば、金利は高くなる。』
ここで注意深い読者様はお気づきになられたかもしれませんね。
それは、現在の国債の使われ方です。
それが本章においては、
『国債と準備預金の入れ替え』問題とも共通する論点であるのですが、
『国債の<貨幣化>現象』という問題であります。
国債と一般預金との関係を見てみることにいたしましょう。
さすれば、「個人向け国債」の方が
「一般預金」よりも若干程度<金利>が高くて
秘かな人気金融商品になっているのかもご理解頂けましょう。
本章での「銀行向け」国債はもちろん「個人向け」国債とは
種類は異なりますから、厳密には同じ話題には属しませんが、
「一般預金」を「準備預金」に置き換えて、
本章との話題に接続させていくと、
現在の<量的緩和>政策に対する<MMT>による意義づけも
ご理解頂けることになりましょう。
先程引用させて頂きました
『財政赤字はまず、銀行の準備預金をそれと同じ金額だけ増加させる。
これは財務省の支出が、受取り手の銀行預金口座と、中央銀行にある
その銀行の準備預金口座への振込みを同時にもたらす』(本書222頁)に
ふたたび着目して頂きましょう。
このような「財政/金融」<操作>が実際にはなされているわけですが、
<準備預金>をどんどん「支出(積み増し)」していけば
当然ながら市場での「金利」は下がっていくことになるわけですね。
とはいえ、極限まで下がっていっても、
「資本」主義経済である限りは、
「金利」を完全数としての「0」には出来ないわけです。
そんなことすりゃ、当たり前ですが、
「資本」主義経済の<終焉>ですから。
もはや、「資本」主義経済が想定するような形では
経済「促進」が成り立たなくなるからです。
そのような次第で、現実には「0、・・・・・・」くらいにはなるわけです。
それで中央銀行による「金利」操作と「国債」操作の話題とを
絡めてみますと・・・。
「資本」主義経済である限りは、「民間(営利)」銀行も
儲けさせてやらなくてはならない。
投資家もそのような貨幣への
「流動性選好癖(少しでも儲かる資産が欲しい!!)」があるわけです。
そうとすれば、「準備預金」を積み増していけばいくほど
その「超過」分だけ「金利」はどんどん下がっていく。
でも「0」には出来ないよね。(上記の理由から)
そこで「国債」の出番が次に出て来るというわけです。
「国債」の金利を「準備預金」の金利よりも少しだけ上げておくと・・・。
(そもそも市場での資金<需要>がなければ
準備預金への<需要>も発生してきませんから、
中央銀行は準備預金にも「サポート金利」をつけて購入誘因<需要>を
創造することも同時に行っているということなのだろうか?)
まず「準備預金」を支出した段階で「超過」分の金利が下がります。
その金利を再び上昇させることで「誘導目標レート」へと
圧し上げていかなくてはならない制約条件もありますから、
その「金利」押し下げ要因だった「超過」準備預金分を
若干程度「金利」の高い国債と入れ替えます。
そうすると、金利は再び高く回復していきますよね。
つまり、銀行に「国債」を売って(とはいえ、これは俗に言う
<売りオペ(レーション)>操作手法の意味と異なります。
その意味についての詳細解説は本書に委ねます。)、
市場へと一旦供給した「超過」準備預金分を
中央銀行が再度回収していきます。
こういう手法であれば、銀行(民間)とすれば、
多少でも<元本>である国債価格さえ高く維持されていれば
「資産価値」としては充分なわけですから、
金利分を損してでも(手数料を払ってでも、事実上は<相殺勘定>で
微調整するのでしょうが・・・)国債そのものの「持ち損」ということはなく、
市場全体での国債「金利」は下がったまま・・・ということになるようです。
(本書231頁の<注意:以下の括弧内>で説明されています。)
「サポート金利」は自らの準備預金を貸出する際の
「公定歩合(バンクレートあるいは翌日物金利という)」よりも低くしておく。
こうしておくと、先の「民間」銀行における準備預金<需要>との絡みと
合わせると、銀行間貸出の「市場」金利は、
おおよそこの範囲内に収まる・・・(本書223~224頁ご参照のこと。)と
いうカラクリになるわけですね。
というカラクリを知れば、
現在の日本経済における「国債」市場金利の異常なまでの低さと
インフレ誘導目標設定をしても極端に金利がつり上がっていかない理由も
見えてくるようです。
ここでさらに注意深い読者様はお気づきになられたかもしれませんが、
しばしば「国債」を発行し続けていけば「金利」が高(暴)騰する
<リスク>があると「主流派(一部リフレ派含む)」論者から
批判される最大根拠として持ち出されることの多い
下記の有名な命題を拒否する論理が
上記のように実際の「操作」過程分析の大まかな流れを提示させて頂くことで
<MMT>にはその点も踏まえて
すでに織り込み済みだったのだということも同時にご理解頂けましょう。
その有名な命題とは<クラウディングアウト(政府支出による
民間資金の締め出しなるマイナス現象)>のことであります。
こうした発想に立てば確かに金利は上昇していくように思われるわけですが、
この発想の根本的問題点は暗黙裏に
民間資金は常に「一定」しており「固定」された
「静態系モデル」のものとして仮定されていることであります。
しかしながら、<MMT>は民間市場内における資金<需要>そのものは
外部(=外生的)からは動かせず(=内生的に決定されるから。
金融政策偏重型「量的緩和」論者の中にもこの問題点に気付いた者もいる。
本書234~235頁ご参照のこと。)に
あくまでも中央銀行による誘導目標金利設定のうえで
『制御の意味で外生的』(このあたりの定義区分は『理論的』な整理としても
説明がややこしくなり混乱されるかと感受しますが、
混乱してきた読者様には再度繰り返し<3.5 外生的な金利と量的緩和>
本書192~195頁での著者解説を「精読」して頂ければ
その意味も少しずつ掴めてくるでしょう。)であるということで
「事後的」な金利調整を通じて、
実際に市場で必要とされる供給貨幣「量」も制御されていくという
イメージになるようです。
そのことを本文引用で再確認しておきますと、
『銀行の貸出の決定が、保有する準備預金の量に制約されない
(あるいは、密接に関連さえしていない)ことは常に事実である。』
(本書234頁)と適合してきます。
ここが<リフレ派>論者と<MMT>論者の見立てに関する
大きな分岐点となってくるようです。
すなわち、中央銀行が「マネタリーベース(ベースマネー)」量である
<準備預金+現金>を増加させて
実体経済内における「マネーストック」量である
<預金+現金>のうち
特に<現金>を増やすことで<預金>を変化させるという
間接的「操作」回路はなかった(という表現が言い過ぎならば、
実際に効果が出るまでには『あまりにも時間がかかりすぎる』
つまりは、『私たちの日常生活には間に合わず役立たない』ことを
意味します。)ということです。
というのも、私たち末端に「おかね」が届くまでには
「民間」金融部門(各種金融機関のことです。)を<仲介役>として
一度<あいだ>に注入保存(「民間」金融部門が中央銀行に開設する
日銀当座預金が積み増しされるだけで、実際の私たち一般民間経済主体への
貸出は各人の「(資金)需要」と返済能力などの「信用能力」を担保に
<選別融資>されるため)されることになるとともに
括弧内の実際理由からすべての注入保存分が市中消化されることは
ない(←金融部門側事情)わけですし、私たち一般民間経済主体の方でも
注入保存された分をすべて使い切る(←「非」金融部門側事情)わけでは
ないでしょう。
特にまだまだ景気の先行き不安が長引きそうな時代においては
過去の身に染みついた消極的生活保守姿勢から
おかねをいくらか「貯蓄保存」の方に向かわせることになるからですね。
それに対して、<MMT>論者によれば、
実体経済内における民間「非」金融部門=私たち家計個人や
企業の「マネーストック」量を直接的に変化させる手法が提唱されることになります。
(ちなみに、ここでの<マネタリーベース>と<マネーストック>の内訳は
『AI時代の新・ベーシックインカム論』<井上智洋著、光文社新書、
2018年、132頁>の解説を便宜的に使用させて頂いております。
論者によってもこの定義=内訳が様々なようですので
もっともイメージしやすいものを選択させて頂きました。
なお、上記イメージ説明図については
より精確に描写するために青木泰樹氏による論考文である
『経済思想に翻弄される日銀の金融政策』所収内項目にある
<4 リフレ派論理の致命的欠陥>7~8頁にかけての
ご説明文を独自にアレンジしながら活用させて頂きました。
上記論考文はPDF形式のために直接リンクは出来ませんが、
上記論考文の標題をそのまま検索して頂ければ該当資料に
辿り着くかと思います。
井上氏は上掲著作でも『私の経済論的な立場はリフレ派に含まれる。』220頁と
言い切っておられますし、いわゆるリフレ派と言っても幅が広く
どの説が「主流派」なのかは存じませんが、いちおうご本人もリフレ派の
お立場ということで対照的な青木氏の論考文とともに皆さんにも
ご併読して頂いた方がよりその違いが鮮明にご理解頂けるものと信じて
ここにご紹介させて頂いたまでです。
井上氏と青木氏の財政/金融「操作」手法の見立てが対照的とは語りましたが、
こうした資金「循環需要」に関しては説明手法が異なるだけで
実際には同じ理解認識なのかもしれません。
ただ、井上氏による上掲書での解説よりは、
青木論考文による解説(特に「マネタリーベース/マネーストック」の定義と
民間部門を2部門に区分したうえでの「内部」詳細分析)の方がより精密描写であり、
管理人のような素人にとりましては比較相対的にわかりやすく感受されたに
すぎません。他意はございません。
要するに青木氏の解説によりますれば、
教科書的理解と違い実体経済の実像をより精密に分析理解しようとすれば
民間経済部門が2部門に区分されていることを常に忘れないことが必要だとのこと。
『民間経済主体=民間金融部門+民間「非」金融部門』ということ。
そのうち後者が私たち家計個人や企業法人に当たり、
いわゆる狭義の『実体』経済<中核部>をなすというわけですね。
青木氏による<マネタリーベース(ベースマネーともいう)>と
<マネーストック(マネーサプライともいう)>の定義は
上掲論考文内の詳細解説に委ねさせて頂くことにいたしますが、
要するに中間の民間金融部門を介さずに直接的な『実体』経済への
資金注入(←これとても「実需」によりますが・・・)なくしては
なかなか『実体』経済が回復する軌道には乗りにくいということに
なるようです。それが管理人が先にも語りましたように
『あまりにも時間がかかりすぎる=私たちの日常生活には間に合わず
役立たない』というイメージ喚起図だったわけですね。)
ところでそのこととは別に、
現在ではもはや「デジタル決済(キャッシュレス化!!)」へと
誘導されてきていますから、
現実にも上記のような<現金>増刷すら必要不可欠では
なくなってきていますので、
むしろ直接的な<預金>量の増加に比重が置かれるように
なってきています。
人間にとっては、これまで<現金>は目に見えやすいために
目に見えにくい<預金(債権)>にまではなかなか視野も届かずに
この話もにわかにはイメージしにくかっただけで、
現在の「キャッシュレス(デジタルマネー)化」志向の
世の中になってきたことから
このような抽象的な話まで
かえってわかりやすくなっているのかもしれません。
例えば、第8章での論点とも絡んできますが(後ほど
あらためて語り直しましょう。ここではイメージ作りのため
概要のみ触れておくことにとどめておきますね。)、
景気が悪化傾向にある中で「民間(営利)」企業の業績が
当然「悪化」していく最中にあるものとしましょう。
そのような局面では給与支払いの「源泉」たる
企業「利潤」も低下していますから、
人を雇うことのメリットにおいて
ある一定のライン(会計上の<損益分岐点>のようなものを
イメージして下さい。)を超えると「解雇(雇い止め)」せざるを
得なくなる状況が発生してきます。
そのような場面を想定しますと、
直接的な「売上収益」を見える化させやすい<現金>を獲得しにくい場合に
給与「源泉」につき<現金>に極度に依存した経営は
成り立ち得なくなってくるでしょう。
しかも「民間(営利)」企業の場合に
実際には給与「債権」の形で<預金債権>として支払う
(現在の多くの企業ではそうでしょう。給与明細書だけもろて
後は各自振込確認願いますの世界ですね。
何のありがたみも感受されることない無機質な給与支給ですね。
余談ですが、昔ある事業所で本業とは別に経理業務も任されていた時分の
思い出話です。給与明細書についてはそのままで各自の配当分に応じて
振込する<この時は間違いないかどうか極度に緊張することになるわけですが。
特に社会保険料や各種税金計算など。>とともに
その時々によって「報奨金」や「賞与(ボーナス)」額は異なるわけですが、
その分だけは正規給与分とは別に<現金>で手渡しされた体験がありました。
そんな時にはやはり<現金>を通じた「働く者への温かさや感謝の気持ち」が
強まるものです。)にも「収益(当月・当期利益)」を
自由に補正調整できないがために
そのままでは<預金債権>もミクロ経済学的には
臨機応変に増加させることなど出来ようはずもありません。
(「民間」企業でもそのような状況に備えた
<革新>的経営に取り組んでいるところもあるかもしれませんが、
通常はそのような先進的企業は少ないことでしょう。
なぜならば、「資本」主義であれ「社会(共産)」主義であれ
余剰分を気前よく分配することはなく、そのまま<搾取>されるか
<死蔵>されてしまうことがままあるからです。
それが「欲深き」人間社会の<悲しき現実>というものですからね。
「組織」労働とはそういうものですといったら「それまで」では
ありますが・・・。)
これは世の中が不景気状態にある時にはきわめて有害事態を
招き入れることになります。
しかも、失業者を増やせば、
世の中の治安なども一気に悪化していくわけですが、
その「セーフティーネット=社会安全網(ここでは
いわゆる<社内=潜在的失業者>として抱え続けることを
イメージして下さい。)」としての役割を
単なるいち「民間(営利)」企業に責任として課すことは
あまりにも酷ということになります。
これが「政府赤字」を増大させても
民間では「貯蓄」の方へと回されて
さらなる景気悪化(デフレスパイラル現象)を招くといった
根本原因であります。
(『日本は20年間の低成長に加えて、セーフティーネットが
十分でない。』から。<コラム よくある質問>本書237~238頁
ご参照のこと。)
そのような場合にこそ第8章でも提唱される政府の出番であります。
不況期に解雇せずに雇用を続けるのであれば、
その「報奨金」として各種<補助金>などの名目で
正規の給与「債権」(これは各企業の責任で支払う)に加えて
政府によってその<補助金>分を企業の「内部留保」などに
使い回しできないような形(すれば私的ないしは公金流用という理由で
厳罰に処する)で直接そこに「上乗せ」する形で支払うという発想も
考えられるでしょう。
なお、次章で具体的に論じられることになる
「より望ましい租税政策」問題とも絡みますが、
ただ単に<設備投資減税>や<内部留保金課税=法人(所得)増税>による
対策法だけではあまりうまく誘導させ得ない理由も
本書を読み進めていけば気付くこともありましょう。
特に<法人(所得)増税>反対論につきましては、
例えば、某有名経済ブロガー(三橋貴明さんなど)氏なども
意外に感受された論考文かもしれませんが、
上記氏のブログなどではあまり触れられていない論点だと感受されましたので
(管理人が追跡調査した限りですが・・・、見落としていたらごめんなさいね。)、
今後この「盲点」につきましても
氏にはあらたな有益な議論を喚起して頂きたい願いも込めまして
管理人自身の現時点で考えてみたことなど
後ほど次章要約内で触れさせて頂くことにいたします。
このように実際の制度設計のあり方や
実行に移すにはまだまだ研究や工夫の余地もあるわけですが・・・。
そうすればその分は<事実上のベーシックインカム>扱い
(日本国憲法第25条の趣旨にも叶うし、かえって社会保障費の増大も
ある程度まで景気動向次第ということで制御し得ることでしょう。
とはいえ、「いのち」に関わる社会保障費の制御(歳出削減)問題は
「お金」の側面だけで安易な結論を下すことは許されません。
当然ですが、「公助」と「自助」のバランスと個々人の特殊事情に
十二分に配慮した問題意識を忘れてはなりません。
このことは是非とも強調しておきましょう。
とともに現行の生活保護制度のようにかえって「働く(こうとする)意欲」を
阻害するような状況をも減少させることも叶うかもしれません。
それは「給与所得」から得られる生活資金の不足分を
側面から助成する「基礎年金部分(事実上のベーシックインカム分)」の
制度設計次第ではありますが・・・)ということになりましょう。
「ベーシックインカム」制度と本書において<MMT>が推奨するモデル
である「就業保証プログラム(JGP)」との整合性論などにつきましては、
第8章であらためて現時点で独自に考えていることとあわせて
語らせて頂くことにいたしますね。
ここで何を言いたかったかと再度まとめておきますと、
要するに<現金>よりも<預金債権>などの形態の方が
「国家」による政策実行のうえでも
「民間」による経済実情のうえでも
より「操作」に融通性があるだろうという利点に関する
問題提起をしておきたかったということです。
ここで少し個人的な余談を交えさせて頂くことご寛恕下さいませ。
管理人は基本的に「現金」志向派なので、
「キャッシュレス(デジタルマネー)化」なんて不便(人によって
便利/不便の質感は異なりましょうが・・・)やし、
個人情報流出の危険性も高まるし・・・ということで
あまり「キャッシュレス(デジタルマネー)化」には
好ましいイメージを持っていません。
このような嗜好なので
「なんで政府は<キャッシュレス化>を推進しているのだろうか?」と
母親と話題になった時に
母親のある一言で思わず「そういう見方もあったのか!!」と
衝撃を受けた体験があったのでした。
それは「なぜ政府が最近<現金>増刷量を抑制させているのか?」と問えば
1つには「通貨偽造防止技術にかかるコストが
ものすごく高くなってきているみたいやからで・・・」というのが
ありました。
なるほど、そうであれば「通貨発行益(シニョリッジ収入)」の
国民還元もますます厳しくなるし、
「キャッシュレス化」でその「通貨発行益」を当てにした
各種「公益通貨論」の大前提とする根拠も崩れていくのではないか・・・と
普段こうした議論を見聞きしてきた者としては
ふと疑問や危惧感が湧き出てきたのでした。
こうなってくれば、通貨発行「益」を当てにする議論よりも
より直裁的な通貨「供給量」そのものを増加させていくとともに
「所得上昇(賃上げ)」による購買力増強へと向けた「マクロ」経済政策手当てを
さらにいや増していく必要性があるということが
むしろ至急課題となってきているのではなかろうかという点に
思い至ったというわけですね。
いわゆる『公益』通貨論議につきましても
こうした時代の変化に応じた進化も促されているだろうということですね。
しかもこのような「キャッシュレス(デジタル=情報マネー)」時代ともなれば、
時間が経つほどにその貨幣「価値」も大幅に減価していくわけですから
『「お金、はよ使わへんかったら大損」になる
「超」景気過熱化社会になるかもしれんぞ』とも想像したわけです。
ということは、皆さんが嫌う「インフレになるかもしれん!!」の
大合唱が起きてきてもおかしくないわけですが、
そんな時こそ<MMT>が提示してきた貨幣「観」にまつわる
あれこれの議論もより注目度が高くなっていくのかもしれませんね。
「実物(実質)」主義から「名目(形式)」主義への
貨幣「価値」の転換というふうに・・・。
そうした場面における「インフレ」対策については
<MMT>はきちんと用意していますからご安心下さいませ。
具体的な詳細は第8章と第9章で紹介されることになります。
あとは<よくある間違い>というか<不安>に応えるという趣旨での
興味深い論考文も必読箇所となります。
<4.4 外国人が国債を保有したらどうなるのか?>
(本書238~261頁)ですが、
この論点は次の<4.5 外国通貨を採用する国はどうなるのか?>
(本章261~266頁)ともあわせて総括しますと、
結論としては、
『自国主権通貨建ての国債発行であれば問題なし』ということになります。
まとめますと、『主権通貨を採用する国は、自らの支出を「ファイナンス」
するために国債を発行する必要がない。
国債の発行は政府の自由意思に基づくオペレーション(以下、省略)』
(本書260頁)ということになります。
ですから、「国債」そのものも外国人に買い占められても
そもそも「国債発行=政府支出(赤字)=負債通貨=民間(内外人問わず)資産」
という今までの解説でご理解頂きますれば、
それがいかに「ナンセンス」な発想だったのかということも
おわかり頂けるかと思います。
つまり、「国債」も数ある<自国通貨建て>の貨幣の一種にすぎず、
いわゆる「株式」とも異なる性質を有したものであります。
民間から見れば債「権」なわけですが、
この債「権」を外国人もしくは好ましからざる者に所有されたからといって
自国(ないしは自社)でさらに「通貨」なり「株式」を調達することが叶えば
その支配「比率」を低下させることで支配「力」を落とすことも可能ですから
必要以上に心配することはありません。
むしろ心配すべきは「主権」を剥奪されて、
剥き出しの「暴力」によって本当に自国なり自社を
「乗っ取られた!!」時でありましょう。
ですが、それは「安全保障」という経済「主権」をも包括的に
担保する高次元にある別途必要問題であります。
その拡大強化は言うまでもなく図らなくてはなりません。
本書でも隠れた話題ではありましたが、
「米国」が特段<特別な国(世界覇権国)>なのかどうかはともかくも
<特別な国>でなくとも本書が提示するアプローチに従えば
救われる余地は十二分にあるそうです。
(本書254頁ご参照のこと。)
とはいえ、それには「条件」もあるわけですが・・・。
そのあたりの論点につきましては、
第6章であらためて語らせて頂くことにいたしましょう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・『第5章 主権国家の租税政策~「悪」に課税せよ、「善」ではなく~』
※本章では、<MMT>に依拠した租税「制度」の意義や役割および
より望ましい租税「政策 」について論考が重ねられていくことになります。
『租税が貨幣を動かす。つまり、主権を有する政府が租税を必要とするのは、
歳入のためではなく、貨幣に対する需要を創造するため』(本書267頁)だと
<MMT>論者は繰り返し強調してきました。
これを言い換えますれば、租税を「指定」された貨幣で支払うには
その「以前」の段階で貨幣が<創造>されていなくてはならないという
「当然の事理」をあらためて確認するものであります。
この論点は、第10章<10.3 「創造主義」対「償還主義」~
貨幣の発行者は、実際はどのように貸し出し、支出するのか~>
(本書494~502頁)でも語られることになります。
かてて加えて、「租税制度」でもって納税「義務」を強制させるからこそ
自国通貨への「(強制)信認!?」も生み出されることになり、
付随的に通貨使用「目的」を納税という本来の狭い役割を超えて
「目的外」使用されるように誘導されていくという論理であります。
『納税「義務」に違反すれば<刑罰>が待ち受けている!!』から
そのような<刑罰>を受けて俗に言う<刑務所送り>になりたくなければ
その「貨幣」を<通貨>として使用せよと「強要」されるわけですから
あまり心地よくない論理ではあります。
ここには人類が「社会」を創造形成して<共生>し始めた頃に刷り込まれた
<負い目感情>に由来する人間心理も動員されています。
「なかなか抜け目のない奴じゃ、支配権力とは??」という点に
もちろん管理人も含めて一般的には違和感や嫌悪感を覚えるわけですね。
こうした「物語」論理に代わる何かあたらしい共有論理が
「発明」されれば心理事情もまた変化していくのでしょうが・・・。
現時点ではなかなか難しそうですね。
ことに「支配権力」を有する巨大組織(これは何も「国家」で
なくてもいいわけですが・・・)というイメージ像に
「なんで従わなあかんねん!!(関西弁)」と反発を覚えるからですね。
そうした「物語」論理に伴う反発をしていても進みませんので
<MMT>をとりあえず理解(「納得」まではしなくてもかまいませんが)するためにも
ひとまずこの心理問題は棚上げしてこの論理を一旦受け入れるものとして
語りを続けていくことにしますね。
さて、次には租税をいかに公平に「配当」させていくかという
手順問題について語られています。
「資本」主義経済である限りは何らかの「格差」が付着してくるのは
致し方ないとしても、あまりにも圧倒的な目に見える形での
不公「正」格差は望ましくないものです。
そこで大多数の論者(本書では<進歩主義者>と表現)ならば
「まずは取れるところから課税する(富裕層から貧困層へ)」という
論理を好んで採用しようとするわけですが、
著者はあくまでもこのような<ロビン・フッド式税制>には
その採用前にもう少し厳密に<MMT>の「財政支出」論とも絡めた
別の分配方法も考えておくべきだろうと提案されています。
通常の「配当方法」論の手順としては
「事後方式」に立つ<再分配>型がよく取り上げられますが、
あくまでもこの方式は「風下」方式になり
ここでも「間接的」手法となってしまうことが難点です。
このような方式であれば、いくら富裕層であれ、
その収益源泉は景気動向次第ですから不安定ですし、
「あこぎ」な悪徳(略奪)富裕層ならば別ですが(というよりも
そのようなドラマなどで描写される典型的な悪人など
実際にはほとんど見受けられないでしょう。)、
一生懸命に勤勉(労)に努めて、社会奉仕も進んでしている(きた)
富裕層から多大な「資産」剥奪を迫る課税方式は
富裕層ならずとも弊害があります。
仮に課税するとしてもハード方式ではなく、
寄付税制などのソフト方式など
社会貢献すればするほど気持ちよく余剰資金を
「再還元」したくなるような人間心理を「善用」した
誘因税制を採用していく方が課税もしやすいでしょう。
そこでそれに代替する<MMT>に依拠した課税手順型が
紹介されています。
それが、「事前分配」(風上)方式であります。
(<コラム 再分配ではなく、事前分配を~リック・ウルフ~>
本書282~284頁ご参照のこと。)
『政府は富裕層あるいは他の誰にも課税することなく、
貧困層支援のために支出することができる。』(本書279頁)
『MMTは、不平等を減らすために、高所得や多大な資産に対する
課税を利用することに反対ではない。しかし、「事前分配」政策を
利用することもまた有意義な方法である。
低所得の人々に対しては、雇用を創出し賃金を引き上げる政策が
必要である。分配の最上位層では、法外な報酬を生み出す慣行を
なくすような政策が実行されなければならない。』(本書280~281頁)
「それでは<MMT>論者は租税制度の意義や役割について
<通貨>としての循環機能を持たせることしか考えていないのでしょうか?」
もちろん、そんな狭い「目的」に特化して考える必要などありません。
ここから広い意味での租税「目的」論が展開されていくことになります。
<5.4 租税と公共目的>(本書284~287頁)が
その主題となります。
「それでは具体的にはいかなる課税「配分」を理想的な税制だと
考えているのでしょうか?」
それは別に<MMT>論者に限定された租税論ではありませんが、
一般的には下記のような税制がより望ましいものと考えられています。
それが<5.5 「悪」に課税せよ、「善」ではなく>
(本書287~295頁)の主題となります。
例えば、地球生態系に過大な負担を押しつけることになる
環境汚染源を多少なりとも抑制させ得るガソリン税や
健康被害を与えるたばこ税や酒税。
高額品であるがために過度な取引が促進されていくと
「インフレ」をも促進させかねないぜいたく物品税などがありましょう。
もっとも何を「悪」とし、「善」とするかは
それぞれの時代の価値観や人々の受容度次第ですが、
おおむね社会的に許容される範囲で
課税対象物件も変化していくことだけは間違いありません。
この「悪」に課税するに対して、
むしろ課税すると社会にとって想像以上に
好ましくない現象を引き起こしかねない「悪」税の
具体的事例(あくまで著者の見解)が
<5.6 悪い税>(本書295~299頁)で論じられることになります。
本書では主に次の3種類の「悪」税に焦点を絞った
考察がなされています。
・社会保障税
・消費税
・法人税
それぞれの具体的理由につきましては本書解説に
委ねさせて頂きますが、
ここでは先に触れさせて頂いた「法人(所得)税」に特化して
少し補足しておくことにいたしましょう。
ここでは次の理由を引用しておくにとどめておきましょう。
『法人税のかなりの部分は、(より低い賃金と給与、そして手当という形で)
従業員に遡って転嫁され、より高い価格という形で消費者に転嫁される。』
(本書297頁)からだというわけですね。
また、あまりにも高い法人(所得)税率を課すと
現代の国際化時代の流れにおいては、
(グローバリズム動向を)好むと好まざるとに関わらず
企業はより事業活動のしやすい(利益を出しやすい)地域へと
<租税回避行為>を行う誘因を与えてしまうこともあります。
そんな「自国」に貢献しないような多国籍型??企業など
追放してしまってもよいなどといった事柄の一側面だけで
非現実的な「暴論」や「妄論」を<言挙げ>される方も見受けられますが、
もう少し俯瞰的な見方も必要だということを
著者は示唆してくれています。
もっとも、非現実的な「暴論」や「妄論」ではない
現実的な憂慮からする正当事由に基づく批判論もある
(先に触れさせて頂いた論者など)わけですが、
その方などがよくご指摘されるように
現在の一部日本財界人の発想法こそ
管理人もレトリックとしても大問題だと感受し
共感はするわけですが、
そのような特殊な「異端」かつ「利己」主義者は
ここでは「語るに落ちた!!」ということで
ひとまず留保しておきましょう。
『現状での消費増税や再増税は、法人税を引き下げるための
バーターではなかったのでしょうか。』
(富岡幸雄著『税金を払わない巨大企業』文春新書、2014年第1刷、
186頁)との長年我が国の税務実務行政に関与されるとともに
庶民的実感をも共有しながら「いかにして公正な税制を構築していけば
末永く安心して暮らしていける納税者としての<権利>をも
表象させ得るのだろうか?」という問題意識でもって
試行錯誤される中で<解>をご提案されてきた有識者の意見もあります。
大切な視点は著者もここで言及強調されているように
「全体的に評価した場合におけるバランス(比較考量)」問題からの
税制採用の是非だということであります。
むしろ著者が「法人(所得)増税」をあまり好ましくない方策だと
評価されるのも先に触れた論者も常々ご指摘されてきたように
各国間での<底辺への競争>をより一層と促進させてしまうからです。
それが現代グローバリズムの一番の「歪み」でもあるからですね。
そのことは著者も本書298頁でご紹介されているように
あのハイマン・ミンスキー氏も懸念されていたといいます。
まとめますと、本章での税制についての発想法とは、
<MMT>アプローチに従えば
もはや『歳入のための租税は時代遅れである』
(ラムル氏論文評、本書299頁)という
そもそもの<初期命題>から導き出された結論だということに
尽きます。
いずれにしましても、「より望ましい」租税政策については
もう少し緻密な社会的影響を加味した
大所高所からの検討と採用が要請されるということですね。
残りは本書では「累進所得税」事例にて解説されていますが、
景気加熱(インフレ)時などにおけるその抑制効果を促す
<自動調節機能(ビルト・イン・スタビライザー)>を持たせた
活用法も考えられるでしょう(本書294~295頁)。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・『第6章 現代貨幣理論と為替相場制度の選択
~失敗するように設計されたシステム「ユーロ」~』
※本章では<MMT>アプローチに基づき適切な『国内』マクロ経済政策運営を
図っていくうえで「制約条件」となりかねない
「対外的配慮」にまで視野を拡張させた論点考察がなされていくことになります。
主題は<為替相場制度>の選択についてであります。
まずは前章までの議論で『自国通貨を利用するすべての国に当てはまる』
(本書303頁)一般原理について<MMT>にまつわる各種論点解読が
なされてきたことを再確認しておきましょう。
ここまでの章で展開されてきた議論は
『通貨が外国通貨や貴金属に固定されているか否か、あるいは
自由に変動するか否かは問題ではない』(同頁)とのこと。
これまでの議論を踏まえたうえで本章の主題を要約していきますね。
本章において<MMT>アプローチが推奨する
最適解(『国内』マクロ経済政策運営において裁量余地が一番幅広い)として
導き出された結論について提示しておきましょう。
それは『変動』為替相場制度を採用することが
『自国』内政策の自由度をより高める点では一番望ましい選択肢になるという
ことです。
とはいえ、本章では『固定』為替相場制度を採用している国々においても
<MMT>アプローチに基づくマクロ経済政策運営の点で
より効果的な成果が出るために要請される諸条件に関する
提案もなされています。
このような問題意識ですので、
本章での最重要論点は為替相場制度そのものを
『変動』にするか『固定』にするかというところにあるわけでは
ないということです。
為替相場制度をいずれに設定させた方が望ましいのか否かは
各国の環境状況に左右されるものだからです。
その点に関する論点整理は
前章<4.6 主権通貨と開放経済における政府の政策>
(本書254~261頁)でもまとめられていますので
本章とあわせて適宜読み進めて頂ければ
その主張の骨子がより理解しやすくなりましょう。
現在またぞろ復活してきている貿易戦争によるグローバル競争圧力の背景には
後ほど触れますような実は誤った<思い込み>に
未だ各国首脳陣がとらわれていることに由来していることも
上記の<4.6 主権通貨と開放経済における政府の政策>
(本書254~261頁)項目所収の小論点である
<変動為替相場は「不均衡」を解消するのか?>(本書256~258頁)でも
示唆されています。
この小論点で提示される具体的意味をより精確に理解して頂くためにこそ
著者も第1章で提示されたマクロ「恒等式」について
詳細な解説を加えられてきたわけです。
国内民間収支+国内政府収支+海外収支=0(本書67頁ご参照のこと。)
つまり、従来の「主流派」経済学者によって
重大な「誤認」がなされてきた問題点とは、
その収支<不均衡>の意味を『経常収支』の側面だけに
極度に偏らせた解釈が幅をきかせていることにあったということです。
『経常収支』内には『対外貿易収支(海外収支)』も含まれていますが、
たとえそれらをあわせた『経常収支』全体が<赤字分>であったとしても
国内『資本収支』の<黒字分>で補填されることで
全体的には<均衡>したものとして評価するのが適切だから
だということですね。
つまり、従来の「主流派」経済学者による
いわゆる為替レート調整を図る方程式<マンデル=フレミングモデル(効果)>に
よって導き出された<解>に対する解釈までも再考を促す要素が
提出されたということでもあります。
ここで少しややこしい経済専門用語が出てきましたから
簡潔にまとめておきますね。
『経常収支』とは『貿易・サービス収支、第一次所得収支、
第二次所得収支』をまとめたもの。
『貿易・サービス収支』とは『商品の輸出入による貿易収支と
輸送や旅行などのサービス収支をあわせたもの』
『第一次所得収支』とは『従前の所得収支』のこと。
『第二次所得収支』とは『従前の経常移転収支』のこと。
この両者は平成26年1月から統計変更にあわせて
名称変更された模様です。
※管理人などの世代では『所得収支』と『経常移転収支』で
覚えたので戸惑いますが(ウィキペディア解説もわかりにくいですよね。)、
現在の学生さんはこのあらたな名称で習われているようです。
(以上『政治・経済用語集(第2版)』山川出版社、2019年第2版第1刷、
214~215頁の解説と図表による)
~<小休憩コラム:難関大受験生へ向けた「応援歌」です>~
難関大ことに私大文系受験される方は
少なくとも『山川用語集』に掲載されている用語は
隅々までストーリーとともにイメージ記憶されることをお薦めいたします。
また今後は私大文系経済学部でも難関大では
数学が必須科目になるところもあるといいますから、
大学入学後に学ばれるだろう専門的経済数学の理解に必要となる
数式知識までは知らなくても、
高校数学までの知識で解読しなければならない問題が
数式解析問題とともにその<解>の意味を『簡潔に論述せよ(笑)』なる
形式で出題されるかもしれませんね。
管理人の「本業」がもし予備校教師だとすれば、
ここらあたりの問題研究をひたすらしていくと思います。
とはいえ、本書で提示される『マクロ恒等式』は意味さえわかれば
誰にでも問題なく使いこなせる程度の数学ですから
あまり心配されなくてもいいでしょう。
受験生向けの<出題ヒント>として軽く「休憩用エッセー」を兼ねて
語らせて頂きました。
『頑張れ、受験生!!』
ちなみに本題からますます逸れていき恐縮いたしますが、
こないだ贔屓のへヴィメタルバンドのライブを見に行く前に
名古屋から来た友人とともに大阪日本橋の通称<オタロード>周辺内に
点在するすべての中古レコードショップをご案内して頂いた際に
立ち寄った店でたまたま流れてきた曲が
何と『受験生ブルース』(高石ともや氏)でありました。
おもろい<シンクロニシティ>(和楽器バンド)やね・・・。
すいません、音楽を聴きながらリズムに乗って文章創作していれば
次から次へと連想ゲーム(発想)がついつい湧き出てくるのです・・・。
『音楽の<力>侮るべからず!!』ですね。
ここで本章での結論とともに
<MMT>論者が何故に『変動』為替相場制に軍配を上げてきたのかと言うと・・・。
『MMTは、変動為替相場制が「不均衡」を解消するからではなく、
国内の政策余地を広げるから支持しているである。
(中略)
MMTは、変動為替相場制が経常収支赤字を消すと主張しているのではない。
それどころか、経常収支赤字を消すことが望ましいとさえ主張していないのだ。
経常収支赤字は、資産に対する海外部門の欲望(それが資本収支黒字を生む)と
「均衡」しているのだから、経常収支赤字を解消する自動的な市場の力など
存在しない。』(本書258頁)
つまり、先の<恒等式>は『国内』マクロ経済状況を表現する計算式でしたが、
『誰かの<負債(赤字)>は誰かの<資産(黒字)>だ!!』という
『国内』および『海外』ともに共通する一般原則に照らしてみれば
「無理な帳尻合わせ」は百害あって一利なしだからです。
(第1章『マクロ会計の基礎』<海外の債務は国内の金融資産である>
本書55~56頁を再確認して下さいませ。)
なぜならば、『自国』経済を極端に保護しようとすれば
必ず『近隣窮乏化』戦略へと逆戻りになり
近隣諸国との間で不要な摩擦対立を巻き起こしてしまうからですね。
戦争回避のためにもこの全体的なバランス会計の意義を
共通認識に据えた政治観も大切となってきます。
(第7章<7.9 輸出は費用であり、輸入は便益である~
機能的財政アプローチ~>本書402~406頁でも論じられます。)
そこで本章では次に具体的な『変動』為替相場採用国と
『固定』為替相場採用国に関する比較対照分析を通じて
その短所と長所を論じたあと、
それぞれ現状ではどこに問題点があるのだろうかと探究する
試みがなされていくことになります。
(本章要約は<6.9 為替相場制度と政策余地-結論>本書351~353頁で
まとめられています。
また具体的事例問題につきましては、<6.5 為替相場制度と国家のデフォルト>
本書323~330頁で示されています。
さらに現在のユーロ<EU>圏で生起してきている諸現象の源流問題につきましては、
<6.6 ユーロ-非主権通貨の仕組み>と<6.7 ユーロ危機>、
<6.8 ユーロの最終局面?>本書330~351頁をそれぞれご一読下さいませ。)
本書でも有名な<トリレンマ>命題が提示されています。
ちなみに、<トリレンマ>命題とは、
『政府は選択肢3つのうちから2つしか選ぶことができない』という
命題のことです。
その3つの選択肢とは・・・。
『国内政策の独立(通常は、金利の安定と表現される)、
固定為替相場制、資本移動の自由』であり、
『変動為替相場制を採用する国は、国内政策の独立と資本移動の
自由を享受できる。固定為替相場制を採用する国は、
資本移動を規制することを選ぶか、国内政策の独立を放棄しなければならない。』
(本書255頁)
この<トリレンマ>命題は前にもご紹介させて頂いたことのある
ダニ・ロドリック氏による
『グローバリゼーション・パラドクス』でも示唆された見解でした。
つまり、
・ハイパーグローバリゼーション
・民主政治
・国民国家
のうち2つまでは成り立つが
3つとも同時に成り立つ<黄金律>など存在しないということですね。
(上掲書234頁『世界経済の政治的トリレンマ』図表ご参照のこと。)
まとめますと、生き残りを図る3つのパターンが考えられるわけです。
①『ハイパーグローバリゼーション+民主政治=国民国家を諦めよ!!』
②『ハイパーグローバリゼーション+国民国家=民主政治を諦めよ!!』
③『民主政治+国民国家=ハイパーグローバリゼーションを諦めよ!!』
ちなみに『(ハイパー)グローバリゼーション』は
いわゆる『国際化(インターナショナル)路線』とは異なります。
なぜならば、『国際化(インターナショナル)路線』であれば
まだ国際間の「多種多様性」が保護され得る余地がありますし、
それ自体(『国境(それぞれの独立主権国家性)』)が
摩擦対立抑止のための<リスク分散>機能を果たすからです。
そのためにこそ『各国協調』体制を理想とする20世紀後半の
各種制度が構築・考案されてきたのでした。
が、現在の日本は圧倒的に『ハイパーグローバリゼーション』志向で
①~③のいずれの命題も成り立ちそうな状況にありません。
要するに、「超」開国路線を採用する流れにあるようで
『民主政治+(独立主権)国民国家(近代国民国家とは理念的には
民主制と同義のものとして内包するようですが、現代政治学の現実評価では
必ずしも<純粋>民主制を採用していなくても
おおよそ<国民>概念の下で政治的安定と<国民>による承認・協賛体制であれば
ひとまず問題なしとする見解が通説となってきているようです。)』の双方を
放棄しようとしているようにしか感受されません。
その指標として、
江戸幕末期以来のいわゆる「不平等」条約の撤廃を志向させた
「関税自主権の確立」と「治外法権の撤廃」が
今後いかなる方向性を辿るかを皆さんにも予想して頂くことを
お願い致します。
経済『特区』構想の辿り着く結末が(特に近現代)世界史上、
いかなる事態を招き寄せていったのかをであります。
ですから、為替相場制度のあり方という経済的側面だけを見ていても
為替相場制度は『政治的安定』という観点からすれば
<十分条件>ということにはならないということです。
現在の「為替相場制度」に至るまでの変遷史をしっかりと理解するためにこそ、
現代の『貨幣理論(観)』の歴史や大本にある世界観を巡る哲学も
同時に理解しておく必要があります。
言い換えますと、
「なぜ、<金(などに代表される「素材価値評価」担保型実物「商品」貨幣)本位制度>から
<管理通貨制度(「債権-債務の計算単位を名目的に表象させただけ」の貨幣素材そのものの
価値評価は問わない=「素材価値評価」担保不要=あくまでも金などは貨幣の「素材」として
使用されているだけでそこに名目的な計算単位としての<価値>を表象仮託させたにすぎない
「信用」貨幣)>へと貨幣制度のあり方までもが移り変わらざるを得なくなったのか?」と
いう問いを考えることが「為替相場制度」を糸口とした
<MMT>理解への最速アプローチ法になるというわけですね。
そこで本章では同時にこの貨幣「観」を巡る詳細な解説が
加えられることになるというわけです。
なお、蛇足とはなりますが、
現在は<金本位制>を採用する国はなく、
<管理通貨制>の下での金などとの交換を保証する
<兌換紙幣>という発想はありません。
この『金などと交換を保証する』の意味ですが、
現在の紙幣や硬貨といった「貨幣(通貨)」でもって
金・銀・プラチナ・・・といった実物資産を
購入出来ないという意味ではありませんのでご注意を。
あくまでも「貨幣(通貨)」の<価値>を裏付けるものとしての
金などとの交換が出来ないということです。
それが<素材>としての貴金属に<価値>を表象仮託させた
「信用」貨幣ということの意味であります。
これが現在の<不換紙幣>の意味です。
さらに読者様には<釈迦に説法>となりますが、
念押しの混乱予防のため少し補足説明させて頂きますね。
いわゆる「現金」通貨には中央(日本)銀行が発行する銀行券<紙幣>と
政府(財務省)が発行する貨幣(硬貨)の2種類があります。
この2種類をあわせて俗称で「(狭義の)お金」というわけですね。
「狭義の」と注記させて頂いたのは、
この他に「預金」通貨なども「お金」として通用しているからですね。
ここに至るまでの貨幣への<価値>の持たせ方を巡る歴史的対立が
それぞれ「金属主義(金本位制に代表される<商品>貨幣論)」と
「名目主義(現在の管理通貨制度に代表される<信用>貨幣論)」の
相違点として論証されていくことになります。
いずれにしましても、
貨幣そのものにつきましては、
「金属主義」よりも「名目主義」の方が実際の経済活動に合わせて
必要となる量的な面での制約が少なくなるだろうということです。
言い換えますれば、貨幣の素材となる「有限」な貴金属量へ
経済活動で必要とされる実「需」量を収斂(調整)させていく志向性ではなく
(その志向性ならば経済規模は著しく<収縮>していく質素倹約型になる。)、
実「需」量に必要となる貨幣量を収斂(調整)させていく志向性を持たせるの
(その志向性であれば経済規模を<拡張>させることが叶う生活成長型)であれば、
貨幣量を有限な素材金属量によって制約させられることなく
名目計算単位を表象する「情報データ」でもって創造された貨幣をもって
経済取引に支障さえ来すことがなければ問題なく流通機能を果たすことが
出来るだろうとする発想であります。
「名目主義」に基づいて創造された貨幣量についても
量的制約があるとすれば、それは経済の「実需」との関係で
自ずと社会にとって必要な「限界」量といった上限があるだけでしょう。
この上限制約に関する警告指標こそが<インフレ率(物価指数)>であります。
ですから、次章の『財政』と『金融』における話題とも絡みますが、
現実的な<支出量>に関しては当然のことながら<限界>もあるわけで
決して<無限>に拡張し続けることなどあろうはずもありませんし、出来ません。
それが『理論』上は『支出能力に限界なし』という意味であり、
『実践』面において『なにが何でも支出せよ(すべき)』といった
規範的評価価値を持つものではないという<MMT>の見解でも
あるわけですね。
これらの意味をすべて理解して「納得」されたあかつきには
まさしく人間は社会において必要以上の「お金」を欲さなくてもいいという
<当然の事理>にも思い至るはずでありましょう。
まとめますと、政府が適切な「マクロ」経済政策運営を図るためにも
精密な景気循環動向指標を集め、
急激な変化にも耐え得るように厳格な目を光らせていさえすれば
一般生活者にとって必要となる「お金」そのものが<不足>するなどということは
およそ『現代貨幣理論』に基づく限り、
「そんなのあり得ない!!」ということにも自ずと気付かれるはずです。
要するに、収入-支出管理をしっかりと始末する計画的生計を営むことができる
一般的生活者であれば、生活で真に必要なお金の面で「必要」以上に
心配性になることも本来あり得ないだろうし、
その時々の景況に適合した諸物価や生活コストを賄うに足る
給与所得が足りなくなり生活者が困窮する事態に直面することなきように
常日頃から手はずを整えておくべきなのが政府のそもそもの役割だとも言えるわけです。
国民の生命・自由、そして財産を保護するのが
本来の政府としての役目なのですから。
このことがまさに『政府と国民の<社会契約>』であり
政府「権力」への<信認>の根拠となるわけなのですから・・・。
その<信認>が国民によってなされていないとすれば、
それは「(統治支配)権力」層のただ単なる怠慢ということに尽きます。
このように考えていきますと、
『代表なければ課税なし』の意味も
『租税が通貨を動かす』という<MMT>論者の主張とともにあわせてみれば
「租税(制度や目的)」や「通貨」の意味を
そもそも根本的に理解していないからこそ
現代日本には本当の意味での<代表者>など存在していないということにもなり、
そのような<代表者>がいないからこそ、
「富裕層」は<租税回避(脱税)行為(これはあくまでも非合法。
あくまでも合法的な「節税行為」とは区別して下さい。)>に走る一方で
「貧困層」には一方的な<重税>を課して
さらなる経済悪化を招いても「恬(てん)として恥じることない」
悪徳似非<代表者>ばかりで
「インサイダー取引経済」として「庶民」そっちのけで
回され続けているのでしょう。
そのような「公益目的」が忘れられているからこそ
必要なところに「租税」も「通貨」も役立てることなく
世界に<大厄災>をもたらし続けているばかりなのではないでしょうか?
もう一度<MMT>論者が繰り返してきた命題
『租税が通貨を動かす』の本質的意味を
ともに考えてみましょう。
すると結局は、政府を動かす<代表者>への「信認」が失墜しているからこそ
「通貨」も動かず(かせず)に経済の悪化にも歯止めがかからない
この惨憺たる現状の根源的理由も<見える化>してくるはずです。
これが真の意味における管理人が考える『租税国家の危機』であります。
シュンペーター独自の『租税国家の危機』の見立てと
そこから触発された独自論考につきましては
最終章に至った際に「再論」いたしましょう。
ところで、管理人が本章を読み進めていて若干「誤解」を招く余地が
あるかもしれない・・・と感受した論考箇所をご指摘しておきますね。
この点は管理人の「読み間違い(勘違い・無知・理解不足)」かもしれませんので
お気づきになられた奇特な読者様がおられましたらば、
ご教示頂ければ幸いでございます。
それは、『変動相場制を採用する不換の主権通貨と固定相場制を採用する
兌換の通貨』(本書304頁5~6行目)との表現であります。
現在は<金本位制>を採用する国はなく、
<管理通貨制度>を採用する国では金と交換できる(すでに語り終えました意味で)
<兌換>通貨を採用しているという場面は
あくまでも『理論上』はあり得ないのではないかということです。
この<管理通貨制度>における『兌換』と
<(特に本章では『固定』)為替相場制度>における『兌換』の意味における整合性は
いかにという点で「疑義」が生じたからです。
本章における<兌換>とは金などとの交換(=<金本位制>的イメージに
よる意味付け)ではないでしょう。
そのことは下記の引用文からも判明するからです。
『政府が自国通貨を防衛できるだけの外貨(または金=管理人注:「金」は
あくまでも<金本位制>が採用されていた時代の話のことでしょう。)を
蓄積できるか否かが、(以下省略)』(本書308頁)とあるからです。
ですから、ここでの<兌換>が意味するのは
本章末尾でも再論されている『固定レートで交換する能力についての
懸念を引き起こすものは、自動的にデフォルトの不安を生むからである。
(括弧内は省略)
その不安は信用格付けの引下げと金利の上昇をもたらし、
債務返済コストを増加させる可能性がある。
(政府が固定レートで交換することを約束している)兌換通貨の場合、
海外部門が保有する政府債務はすべて、事実上外貨準備に対する債権である。
交換能力に懸念が生じた際に、デフォルトリスクがないことを保証するのは、
債務額に対して100パーセントの外貨準備だけである。』
(本書352~353頁)と・・・。
この論証箇所と第4章所収論考文である
<4.5 通貨の支払能力と、特別な立場にある米ドル>内の
小論点『外貨で借入れを行う政府はどうなのか?』(本書250~253頁)での
論考趣旨を考え合わせますと、
これはあくまでも『主権(自国)通貨』建てでの
政府債務については当てはまらないということでしょう。
債務返済についての<資金調達先>として
『政府が外貨建ての債券を発行することは、ほとんど常に誤りである。』
(本書253頁)という趣旨だからです。
これに対して、『自国通貨建て自国債』については
外国人に購入して頂いても問題が生じないことは、
すでにこれまた第4章<外国人が国債を保有したらどうなるのか?>
(本書238~246頁)にて論じられていたことです。
ひとまずここでの『兌換』の意味を文脈に即してまとめておきますと
『固定』為替相場制度における『兌換』の意味とは、
対外『通貨(<現代管理通貨制度>に基づく不換紙幣+硬貨)』と
自国『通貨』との<交換>を円滑になすために不可欠な信用能力が
当該『通貨』に備わっているのか否かという側面から見た意味だろうと
いうことです。
ですから同じ『兌換』(通貨)という表現が出てきても
文脈に即した丁寧な読みとりと現代貨幣の取り扱われ方を
精確に理解したうえで注意深く読み進めていかなければ、
おそらく管理人を含め多くの読者様の頭も混乱してしまうおそれが
出て来る箇所かもしれないと感受されたわけです。
そのように感受されたことから
あえて読者の皆様にも注意喚起をしておいた方がよいかもしれないと思い
ご指摘させて頂きました。
さて、ふたたび為替相場の話題に戻します。
上記のような場面では<為替レート>に影響を与える可能性もあるかもしれないと
本章では問題提起されていたところです。
特に<為替レート圧力>(本書243頁)に関する論考箇所を再度ご確認下さいませ。
とはいえ、その際の結論も
『変動』為替相場制度を採用している限りは
通貨下落圧力に対して『特に対策を講じる必要がない。』(本書244頁)との
ことでした。
なぜならば、まさしく「為替相場」とは
『自国』通貨と『外国』通貨の<相対的>交換比率を表象するにすぎず
それに一喜一憂するのも問題ですし、
必ず『変動』である限りはいずれ自然に「帳尻が合ってくる」ことが
想定されているからです。
その「帳尻の立て直し」がはかられる期間が
<短期>か<長期>かという違いはあるにせよ
『国際(国家間)』経済取引というものは
人為的に無理な調整を図ることなどできない
ほとんど<非裁量的>な代物であることは
本書が随所で強調してきたことだからです。
ですから、現在の『国際』経済学の知見からは
あまり<為替介入>を望ましいものと評価していないようです。
そうとすれば<為替操作禁止>への評価も
『変動』と『固定』為替相場では大きく意味合いが違ってもくるようですね。
最近(といっても先月頃ですが、一部のツイッター上で
日米間での経済交渉の場面で真偽不明な意見表明が話題となっていたようですが・・・、
管理人はあくまでも真偽不明な内容には自分自身で調べたり、
しかとした人間に確認したうえでないと『納得』できない性格ですので
いかなる見解<例えば、典型的には『陰謀論』のようなもの>も鵜呑みにはせずに
必ず判断保留することにしています。)この<為替操作禁止>などといった
話題を管理人も見てしまったわけですが、
内容は『同じ文面ばかり』でこんな代物は信頼できるわけがありません。
『真偽不明な情報は必ずクロスチェックする!!』
これは情報分析者(スパイではなくともまともな人間であれば)なら
『常識中の常識』だからです。
ですから、『変動』為替相場制を採用する日米間での経済交渉であれば
そもそもが<為替操作禁止>したところで
一方的な姿勢を取られても双方ともに何ら得することはないわけですから
双方にとって『WIN-WIN』の関係に向かっていくことを願うならば
<為替調整協議>ということはあり得ても
『変動』為替相場制を採用しているはずなのに
<為替操作禁止>ということ自体がその制度趣旨に照らして意味不明かつ
禁じ手(不自然な人為的操作)だということで間違った手法ということに
なるはずだからです。
このような性質を有しているのが『変動』為替相場制度ということならば
<為替操作禁止>という言葉に過敏な反応を示されていること自体に
疑義と違和感を覚えたわけです。
つまり、それこそが『変動』から『固定』への移行を意味するわけでしょう。
事実上の『固定』に移行するというなら、
それはそれで本書でも提案されていた処方箋に従えばよいわけですよね。
つまり、かつての『外為法』(資本移動規制の導入)が意図していたような
形態での「規制強化」復活。
これであります。(本章末尾文353頁の<金本位制>時代における
米国の規制政策もご参照のこと。)
とはいえ、こうなれば、
<国民の海外渡航の自由>も著しく制限されてしまうかもしれませんが・・・。
米国政府が自国有利に経済政策を推進するために為替相場制度をも
「誤使用」しようとしていると主張するのであれば、
それこそ日本政府側が「不公正取引になるから問題だ!!」と指摘したうえで
双方の経済事情に寄り添った現実的な「落としどころ」を探るのが
交渉の「本道」というものでしょう。
いずれにせよ、上記ツイッター氏のツイート情報も信頼の置けるものではなく
管理人がこれまでにマスメディア情報などを探索したうえでは
<為替操作>に関する報道も確認することができませんでしたから
この情報は典型的な情報工作誘導のためにする「ガセネタ」だということ
なのでしょうか?
このツイート情報がもし「ガセネタ」だとすれば
日米間のこれまで築き上げてきた『友好親善』関係にも<亀裂>が生じ、
国家『安全保障』上の重大な危機に当たりますから
当局にも調査をお願いしますとともに
そのような<不透明さ>を感受している国民が一定数いる以上は
今回の日米貿易協議における「為替条項」に関する
精確な<公開情報>を速やかに開示されることを
『建白』申し上げます。
いずれにしましても、政府には国民への説明責任があります。
それが国民(独立民主主義)国家におけるお約束事だからです。
なぜなら、この「(十二分な)説明責任」こそが
民主制国家における政府権力への<信認>を担保するバロメーター
(判断指標=計測器)となるからですね。
ですから、「調査」されるにせよ、
言論弾圧になるような事態は是が非でも回避しなくてはなりません。
そんな態度に出れば、
近隣諸国でつい最近起きた事態と同じ現象を招くだけで、
かえって「心ある」国民にまで政府への不信感を芽生えさせるだけだからです。
またその「隙」をこそ狙われているのですぞ。
賢い<為政者>ならそこまで見通せなくてはなりません。
それが「一般」国民を守り抜く<最後の砦>だからです。
だからこそ、本書主題とともに政府への<信認>確保が何よりも大切だと
縷々申し上げてきたわけです。
あくまでも『言論には言論を』原則は
民間人であろうが政府権力者であろうが同等だということです。
それが「理性」に基づく近現代法の原則というものです。
とはいえ、
『速やかなる<情報公開>こそが治安対策と安全保障には欠かせない』という視点は
お忘れなきようお願い申し上げます。
それが江戸幕末期の世相混乱から導き出されていった歴史的教訓でもあるからです。
ですから、あの頃とは対照的な『開明派』政権であることを望むわけです。
優れた人財の積極抜擢(むしろ<ロスジェネ>階層の中にこそ現在の問題点を
しかと掴んでいる者が数多く潜んでいます。今の苦しい生活を何とかしたい、
次世代にも禍根なき明るい社会を残してやりたいと
『知恵と慈悲』に満ち溢れかつまだ完全には未来を諦めきれずに
気力を残している者もいるからです。
しかも間違いなくこの世代が一番よく勉強と仕事に励んでいます。
そんな苛酷な時期でさえ、
長年月「安月給」かつ「悪条件」でも
みな我慢に我慢を重ねて過ごしてきたわけです。
止まることを知らない国民の<ルサンチマン>発動のきっかけが
これ以上強まることなく、社会を安定させるためにも
どうかこの『建白』を受理願います。)と公明正大な情報開示しか
残された「道」は他にないものと現下の情勢分析から推察いたします。
危険事態発生の「種」となる原因は
<抜本塞源>(王陽明)しておくべきだと考えるからです。
大手マスコミ関係者やジャーナリストを自称する皆さんには
真実の検証報道を、
そして何よりも与野党の国会議員の皆様方へは
このツイッター氏などが指摘されている問題発言の真偽不明に関する
質疑応答を国会討論の場において政府に問い質すべく是非お願いします。
この主張がもしも正しければ、
話題となっている中野剛志氏による問題提起書である
通称オレンジ本『奇跡の経済教室<戦略編>』(KKベストセラーズ、2019年
初版第1刷、<第13章 滅びゆく民主主義>所収論考文である
<国際条約と民主政治>321~327頁)でもご指摘されていたような
真に憂慮すべき事態も出て来ることになります。
「国際」条約を通じた「憲法体制」を頂点とする
独立主権国家の「国内」法規範の形骸化はまさに<主権侵害>以外の
何ものでもないからですね。
こんなことが許されれば日本は明治維新以前へと逆戻り。
『幕末』を混乱させ、国内で激しい闘争流血沙汰を引き起こす
最大要因となった「安政の不平等条約」と「安政の大獄」からの
何らの歴史的教訓をも省みない狂気の沙汰としか言えないからです。
「不平等」条約を改正するために明治以後の先人が苦労され、
挙げ句の果てには「戦争」までして多くの「無辜の民」が
国内外で無惨な目に遭遇させられたことを
絶対に忘れてはならないからです。
現在のような「上下左右」ともに知性も気力も退化した時代に
ふたたびこのような事態が引き寄せられるとも限りません。
いや、必ずこのまま行けば引き寄せられることでしょう。
「平和」を創造し維持するのは本当に至難の業だということを
片時も忘れ去ってはならない所以です。
こうした事態は前回書評記事で語らせて頂いた論点の続編となりますが、
いくら何でも日本国憲法が理念として掲げる<国際協調主義>の
本来的意義からもかけ離れ、「想定外」のことだと解釈し得るからです。
要するに、憲法と国際法のいずれが「優位するか否か」という問題とは
まったく異なる次元にある事態だからですね。
このあたりの問題点も本書における『変動』為替相場制度の
本来的趣旨とあわせて評価考察を進めていけば
また双方にとって良き解決法となる<正解>も導き出せるのかもしれません。
管理人自身も含めて読者の皆さんにおかれましても
この論点は是非考えて頂きたい「宿題」にさせて頂きましょう。
つまり、<為替操作禁止>などそれこそ『固定』為替相場制を
採用している国には当てはまる論点かもしれませんが、
「そもそも論」からして『変動』為替相場制採用国には
当てはまらない矛盾論ではないかということです。
この<為替操作禁止>とやらが、
我が国『国内』政策への<内政干渉>であるならば
強い抗議も要請されましょう。
「まさに現代の<不平等条約>ですから!!」
しかし、これまでの双方当時国における歴史的交流関係の経緯から
そのような判断が愚策だと感受し得るほどの首脳陣体制であれば
心配しすぎるのも逆に双方の『親善』を損なうことになりかねません。
いずれにしても、歴史とはいかなる因果で流れが大きく転換されるとも
限らない<不確実性>の世界ですから
警戒批判を行うことであらかじめ予防対策を提案されることは
大いに結構なことではあります。
ただ批判するにもよく内容を子細に検討した後でなければ
世間の不安感情を呼び覚まし、無用な混乱と摩擦対立を煽るだけの
結果となってしまいますので、
どなたが最初にこうしたツイート情報を発信・拡散されたのかは存じませぬが、
責任者としてさらなる具体的かつ詳細な論証責任をもって
あらためて丁寧にツイートされ直すことを願いたいところです。
もっとも管理人などはわずか100文字前後程度で
重要内容を間違いなく伝達できるなどとは思いませんし、
ことに政治的な内容であればなおさら安易に信じることなど
出来ません。
あまりにも危険だからです。
それが大人の「良識」というものでしょう。
もし確信をもって、
当該条約内容に不信な点や国際正義に反する点があると正当な主張ができるならば
我が国政府と国民は国際世論の満天下へ
我が国や世界がこれまで体験してきた世界史的教訓の叡智に従って
力強く訴求喚起していけばよいでしょう。
それが日本国政府が世界に向けて力強く「宣言」してきた
『20世紀までのような<力による現状変更>は認めず、
<法(理性)>による解決法を探る努力を双方が責任をもって成し遂げよう!!』と
する理念でもありましょうから・・・。
現政権がどこまでの<信念>をもって外交交渉に当たっておられるかは
評価しがたい点もありますが、少なくとも<積極的平和主義>とは
『法理念』に基づく解決法を絶えず探る姿勢だとは信じたいものです。
まさに第一次世界大戦後のパリ講和会議において
日本側の「全権大使」が<人種差別撤廃条項案>を提起したごとくに・・・。
もっともその後の歴史はその「正義」の声に真摯に耳を傾けなかったからこそ
あの忌まわしき「戦争」や「革命」といった
流血騒動を引き起こしたわけですが・・・。
そんなわけで「移民政策」や「為替相場とその通貨制御政策」、
「関税政策」の失敗などが
本来なら回避し得たはずであろうあの未曾有の大惨事を招き寄せていったのだとすれば
只今現在ほどこの方面の研究をしかと進展させる必要があるとともに
建設的な政策提案などをしていかなくてはならぬ時期でありましょう。
21世紀現在、再びこのような愚かしい判断を
『為政者』だけでなく各国民衆も同調しないように祈るばかりです。
民衆の<知性劣化(教育レベルの低下)=愚民化>は
本当に「人間を死に至らしめます」から
『ヒトは絶えず学習し続けなければならない』わけですね。
『<学問>とは<(受験)勉強>なんぞとは次元が異なる
高次元での命がけの<霊的>闘いでもある』のです。
『ペンは剣よりも強し』(福澤諭吉翁)であります。
以上の論旨は本書要約の主題からそれてしまいましたが、
為替相場制度の「悪用(誤使用)」が通貨や経済「主権」を脅かし、
ひいては人々の「いのち」をも危険に晒す事態を招き寄せることがあると
真に憂慮する熱情から
つい我が「やむにやまれぬ大和魂」も迸ってしまったことご寛恕下さい。
「すべては皆さんの幸せと安心生活を守り抜くためなのですから・・・」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・『第7章 主権通貨の金融政策と財政政策~政府は何をすべきか?~』
※本章では前章までの<MMT>が依拠する『事実』分析評価と
そこから帰結される『理論』体系を基礎土台にして
より具体的かつ望ましい経済『政策論』提案について語られていくことになります。
とはいえ、まず著者が<MMT>評価をするうえで
何度も繰り返し強調されている最重要点を再確認しておかなくてはなりません。
それは、<MMT>によっても『自国通貨建て』での
金融・財政「支出能力」に制約がないと<理論上>は言い得ても
実際に「そうしなければならない」義務規範はどこにもないし、
むしろ望ましくない手法だということであります。
そこで『最初に、政府支出が制約されなければならない5つの理由』
(本書355頁)を政府役割のあり方(特に規模範囲について。
いわゆる<小さな/大きな>政府論のことです。)を巡る
保守派とリベラル派によって展開されてきた論争分岐点を
比較参照しながら確認していく作業がなされることになります。
結論的には著者自身の見解とは
<MMT>とは徹頭徹尾『公共目的』に資するように
景気動向を厳格に注視しながら微調整を適宜図っていくべきだと
いうことになります。
そのような保守派とリベラル派による政府観や公共目的(日本では
<公共の『福祉』論>がそれに該当しますが・・・)観の相違点に関する
詳細な解説はひとまず本書に委ねさせて頂くことにいたします。
簡約しておきますと、ひとくちに保守派/リベラル派といっても
論者によってその捉え方はもちろん異なるわけですが、
基本的な志向性では保守派が<小型>、リベラル派が<大型>と
ひとまず好む傾向性があるということです。
日本ではこの点がよく混同されており、複雑な状況にあるようですが、
著者が依拠するのは本章冒頭でも示されていたように
『米国特有』の意味として本書では捉えられています。
そして著者による<MMT>評価は
『それ自体左でもなく右でもなく、ある意味で1つの説明』
(本書365頁)にしかすぎないと繰り返しなされていることです。
あくまでもこの基本姿勢を共通土台にしたうえでの
より望ましい『政策』議論を積み重ねていくべきだとする
立場を採用されています。
そこで『政府』と『市場』の役割分担を
常に双補的に見据えながら経済『政策論』を展開していかなければ
ならないわけですが、
まず再確認しておかなくてはならない重要点を抽出しておきます。
現代資本主義体制とはよほどの極端なイデオロギーの持ち主
(例えば『自由(市場)』信奉者=『<市場の失敗>など絶対にあり得ぬ!!』と
強固に断言主張するような狂気的論者)でない限りは
現在までの歴史的教訓を踏まえたうえで『資本主義経済論』を唱える者であれば
誰しも<修正>資本主義論を暗黙の了解事項に据えているということです。
すなわち、厳密な意味での『純粋』資本主義も『純粋』自由市場経済も
『事実』としては<自然状態>のままではあり得ないという大前提の下に
『理論』や『政策論』を構築・提案されてきた(いる)ということです。
どの程度をもって『社会』主義化というのかといった評価問題は
留保するとしましても、<修正>とはそのような
『自由市場(資本主義)』にも『公共目的』を加味したものでなければ
現実にはうまく機能しないという観点から
『社会(主義)』的要素をも取り入れた『資本』主義経済のことを
<修正>資本主義と定義しておくことにします。
それが20世紀の『市場』と『国家』の役割論争の中心点でありました。
それが時代状況とともに政府規模の面で<大きな/小さな>のあいだで
それぞれの役割分担範囲が揺れ動いてきたということです。
この基本線を押さえたうえで、
どのような『財政』と『金融』政策を採用していくべきかを論考するうえで
参照するのが次の財政論ということになります。
それが、『機能的財政論』(アバ・ラーナー)であります。
なお、『財政』論とありますが、
現在の通常の「マクロ」経済学者は
これまた極端論者(厳密にはそのような者はほとんどいないでしょうが・・・)
でない限りは、原則的には『財政』政策と『金融』政策を
適度に<混合>させた『ポリシーミックス(まさに<混合政策>)』を
暗黙の了解事項として採用しながら主張していくことになります。
ですから、この『機能的財政論』も<財政/金融>混合政策論の
一派だということになります。
その要点はあとで少しほど本文を引用しながら論評しておきますが、
この『機能的』とは
従来のケインズ『学派』(著者も強調されているように
元祖ケインズ自身の見解では必ずしもないことにご注意下さい。)による
不況期における景気上昇を意図させた
いわゆる『呼び水』的財政政策を意味するものでもありませんし、
教科書的に説明されるような
いわゆるただ単なる『裁量(伸縮)的』財政政策でも
『拡張的』財政政策でもないというところに特徴があります。
従来の『財政』政策論のどこが一番問題だったのかというと
それは景気過熱気味であっても「抑制(少なくともそのような場面でも
<継続的な公共事業投資(今回の自然災害事例でもご理解頂けるように
社会インフラの補修維持や良質な治安・国防対策や公教育の充実など)>は
常に必要不可欠ですが)されずに無計画・無秩序」に
歯止めがきかなくなる傾向になりやすかったということです。
それには様々な社会的・人間心理的理由もあるのでしょうが・・・。
そこに全体的なバランスを保ちつつも
もう少し厳格な<規律(計画)性>を持たせる必要がある・・・という点に
『機能的』の意味にかかる比重もあるというわけですね。
景気動向の変化にもかかわらずに野放図な規律なき放漫財政を続けていけば
ただでさえ不安定期に入りつつある局面でさらなる不安定さを増す
異常事態(超インフレ)を引き寄せていくことになるからです。
つまり、従来のケインズ学派(ケインズ自身の思想や対策案はともかくも)の
弱点はまさに『インフレ』および『輸入超過(入超)』こそが
<鬼門>だとされてきたからです。
(『経済学のエッセンス~日本経済破局の論理~』小室直樹著、
講談社+α文庫、2004年第1刷、278~279頁)
ですから、ケインズ学派の問題意識も取り込んでいると評価される
<MMT>論者においても
現在では当然のように<反対論>にも十二分な配慮をした
『インフレ対応型』修正ケインズ理論による危機意識も共有しているわけです。
それではまず『機能的』財政論の要点に触れる前に
ここでまたまた「専門用語」が出てきましたので
<用語集>からの引用解説を付け加えておきますね。
『裁量(伸縮)的財政政策』とは・・・
・不景気のときには、減税をしたり国債の発行によって公共事業を増やして、
総需要を拡大させ、景気回復をはかろうとし、景気が過熱気味のときには、
増税や財政支出を減らして経済を安定させる政策のこと。
「フィスカル=ポリシー」ともいう。
『総需要』とは・・・
・国内のすべての需要のこと。
政府/民間いずれの消費/投資需要をも足し合わせたもの。
(※管理人による簡約修正あり)
『拡張的財政政策』とは・・・
・積極的に財政支出を増やそうとする財政政策のこと。
減税を行なって消費や設備投資を刺激したり、国債の発行によって
公共事業を増加させたりして、景気回復をねらう。
(以上『政治・経済用語集(第2版)』山川出版社、2019年第2版第1刷、
163頁による)
それではこれらを適宜比較参照して頂いたうえで、
アバ・ラーナー氏による『機能的財政論』について
本章解説から引用しておきましょう。
・第1原則:国内の所得が低すぎる場合、政府は支出を(租税との比較において)
増やす必要がある。失業はこの状態の十分な証拠であるから、
失業が存在するならば、それは政府支出が少なすぎる
(あるいは租税が高すぎる)ことを意味する。
・第2原則:国内金利が高すぎる場合、それは、金利を下げるために、
政府が銀行の準備預金という形で「貨幣」の供給を増やす必要があることを
意味する。(本書365頁)
この『機能的』財政論を<MMT>の観点から分析評価した詳細論考につきましては
<7.3 機能的財政>(本書365~367頁)をご参照願います。
この『アバ・ラーナー版』機能的財政論に対比した形で
『ミルトン・フリードマン版』機能的財政論も
次の<コラム>(本書368~371頁)にて紹介されています。
この<コラム>を読んで頂ければ、今でこそ『金融』政策と
『法律による自動的規律型』財政政策への傾斜を見せると
評価されているミルトン・フリードマン氏ですが、
主張が似通っていた時期もあったことは興味深いところです。
「それでは、なぜ氏は変節されていったのでしょうか?」
そのあたりは本書の論考外ですが、
現在の「ノーベル経済学賞」問題とも絡めた深刻な政治的要素も
背景にはあるようですね・・・。
ご興味ご関心ある方は後ほど記事末尾<参考文献欄>にも
ご紹介しておきますので調べてみて下さいね。
景気悪化時にもかかわらずに採用されてしまう「緊縮型」や
極度の「インフレ恐怖症」、はたまた「新自由主義」志向といった
一連の現在の風潮が現実の政治的場面における経済政策を巡る論争の中で
いかなる危機的事態をもたらしてきた(いる)のかが語られているのが、
<7.4 「機能的財政」対「政府予算制約」>(本書372~375頁)、
『<コラム>政府の財政-ポール・サミュエルソンとベン・バーナンキ』
(本書376~381頁)、
および<7.5 債務上限に関する議論(米国のケース)>(本書381~
389頁)にてそれぞれ論じられています。
そして、この『機能的』財政論と『国際』経済論を架橋させる論考文が
<7.7 機能的財政と為替相場制度>(本書394~395頁)と
『<コラム>米国の双子の赤字に関する議論-機能的財政アプローチ』
(本書395~399頁)から
<7.8 機能的財政と途上国>(本書400~401頁)と
<7.9 輸出は費用であり、輸入は便益である-機能的財政アプローチ>
(本書402~406頁)でそれぞれ論じられています。
まとめますと、<MMT>と『機能的』財政論(=財政/金融混合政策論)の
意図する最大目標は『完全雇用の達成と経済の安定的成長』を両立させながら
景気調節をバランスよく図ろうとするところにあるということに尽きます。
この『機能的』財政論はすでに上記の<用語解説欄>でも
触れさせて頂きましたような従来の『財政』政策論の<欠陥点>を
<適正>させた体系となっているところに最大の特徴があります。
その論点に関する詳細解説は<7.6 経済の「安定と成長」のための
財政スタンス>(本書390~393頁)へと委ねさせて頂くことにします。
とはいえ、従来の『財政』政策論だと
「なぜ、すぐにも<欠陥点>が出てしまいがちなのだろうか?」と
問い考えることこそが、本章の正しい理解を促進させますから
最後に簡約しておきますね。
・『政府支出と租税収入の関係について』
それぞれは強度に循環的でなくてはならないが、
「支出」は不況期に増加させ、好況期には減少させること。(=反景気循環的)
「租税」は不況期に減少させ、好況期には増加させること。(=順景気循環的)
・『セーフティネット(社会インフラなどの福利厚生制度)を
とにかく十二分に充実させておくこと』
・『現代資本主義経済体制において
<成長>と<持続可能性(債務対GDP比率など)>をともに
両立保持させるためには「相対的」に政府規模は大きくならざるを得ない』
ということになります。
こうした環境整備を図りつつ、
時々の景気動向を常に注視しながら
柔軟な(=機能的)経済政策対応を適宜図っていこうと
志向するのが望ましいと主張するのが本章での骨子であります。
その具体的対策論は第8章と第9章で引き続き論じられていくことになります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・『第8章 「完全雇用と物価安定」のための政策~「就業保証プログラム」という土台~』
※本章ではいよいよ<MMT>に基づく就労支援政策のあり方や
インフレ抑制政策論について論じられていくことになります。
その前に第2章要約内にて語らせて頂いた重要論点を再確認しておきましょう。
『租税が貨幣を動かす』ということの本質的要点とは
『通貨発行者の側から見た貨幣制度の目的は政府部門に資源を
動かすことであり、その達成のために利用される通貨に対する
需要を創造することが租税の目的である。政府が租税を必要とするのは、
歳入を生み出すためではない。通貨の利用者たる国民が、
通貨を手に入れようと、労働力、資源、生産物を政府に売却するように
仕向けるためなのだ。』(本書128頁)
この発想こそが<租税は国家財政における「財源」である>とする通説や
俗説と大きくかけ離れた異色点となるわけです。
<MMT>論者が提示するこの租税「観」をよく覚えておいて下さい。
これが後ほど第8章でも提唱されることになる
政府は『最後の雇い主』という発想にもつながっていきます。
つまり、
『変動相場制の下で自らの通貨を運営する主権国家は、常に就労保証プログラムを
提供する財政的な能力がある。プログラムの賃金で働く用意と意欲がある労働者が
いる限り、政府は彼らを雇う「支出能力」がある。』
(<8.1 機能的財政と完全雇用>所収論考文『支出能力について』
本書415~416頁ご参照のこと。)
ここでは『変動』の場合に限定して主張されていますが、
先にも確認させて頂きましたように『固定』の場合でも一定の制約条件を課す
賢明な政策手法をもって併用させれば、『完全雇用』を達成させ得る道はあります。
但し、『変動』に比較すれば、やはり国内政策の自由な政策「余地」が
狭められてしまうことがあるといいます。
そこで次によくある従来の「主流派」からのこの<MMT>アプローチに基づく
<就労保証プログラム(JGP=Job Guarantee Programのそれぞれの頭文字を
取ってこのように略称される)>に対する反論(批判)を掲げておきます。
それが「インフレ」を加速促進させる引き金となるのではないかという
あり得る懸念材料を宿しているということですね。
しかし、以下で語りますように<MMT>アプローチでも
当然ながらこのような事態が生起させられてくる場面も想定したインフレ抑制対策は
きちんと考えられています。
また、『<政府(公的機関)>にそんな効率的かつ高密度な生産性ある
質量ともに充実した雇用の「受け皿」を創造提供させることが
そもそも出来るのか?』という疑義がよく提出されることがあります。
この後者の批判こそ<MMT>論者ですら懸念すべき余地があるわけですが、
そうした問題点は現在でもいわゆる「半官半民」志向型『民営化』手法にて
解決しようとするのが「主流派」も好んで採用する手法でありますが、
そちらの手法もそもそもどれほどの「成功率」があるのかと
厳しく問い質せばまだまだ検証されるべき余地もあるということで
<完全性>が担保されているとは到底「断言」出来ないことでしょう。
そうした「政府(公的機関)」による<適正管理>問題についての
検討につきましては、<8.3 プログラム管理の容易性>
(本書423~425頁)でなされています。
とはいえ、このように「政府(公的機関)」によって創造提供される
質量ともに充実した雇用の「受け皿」としての機能的問題点に対しては
なお不確実要素が残されているにはせよ、
基本的な発想の方向性として、
『誰もが景気動向に左右されることなく安心して暮らせる雇用労働経済環境を
整えておくべきだ』という一点に関しては
よほどの「反」倫理的な主張をする論者でない限り、
誰しも「同意」するでしょう。
問題はやはり『<失業率とインフレ率>との相関関係』
(いわゆる「フィリップス曲線」命題)のことでありますが、
その点は<8.1 機能的財政と完全雇用>所収論考文『為替レートへの
影響はどうか?』(本書413~415頁)にて「再論」されています。
要するに、総じて<MMT>論者は従来の「主流派」経済学アプローチ採用の
結果として、『過度のインフレ抑制(物価安定)対策のために
失業者を放置しておくことは政治・社会的にも深刻な事態をもたらすことから
決して軽視してはならないし、こんな浅はかな理解で生身の人間に犠牲を
強いてはならない!!』という発想に立つわけですね。
そこで<MMT>による『物価安定配慮型雇用労働政策』の概要について
簡約しておきますね。
政府(国家)が『最後の雇い手』として労働者を雇い、
賃金支給する際において景気動向と連動させての注意すべき点を
加味して提案されているのが、
<統一基準賃金>を以下のように設定すべきだという政策案であります。
この<統一基準賃金>とはあくまでも賃金支給額の『下限』を設定するものだと
いうことですね。
そこでまずは景気動向にかかわらず、
政府には一定の雇用の「受け皿(プール)」があるとしましょう。
その「プール」に実際の労働者が常に幾人かは浸かっているとしますね。
景気過熱期(好景気=インフレ上昇期)においては、
この『下限』を据え置いた状態で
市場調整によって自ずから民間では人手不足に陥るだろうから
賃金支給額を引き上げてでもその「余剰」労働者を引き揚げるだろうと。
そして、この『下限』を据え置くというのが重要点ですが、
それがそのままそれ以上の(すなわち「適正」水準を超えたという意味)
過度の賃上げを「抑制」させる誘導装置となり、
「インフレ抑制」対策にもなるということです。
逆に、景気過冷期(不景気=デフレ下降期)においては、
インフレ期において『下限』だった「基準値」が
『上限』となり、
民間の賃下げ傾向を抑制させるとともに
低賃金で雇うことで労働者に苛酷な負担を課すことが許容されてしまう
いわゆる「ブラック企業(労働)」が世にはびこらないためにも
政府が最後の雇い手として民間で「適正」水準でもって
雇いきれない労働者(いわゆる潜在もしくは顕在的失業者)を
この『上限』支給額でもって引き受けるという
『雇用労働-賃金支給調整』構造となるというわけですね。
そこでこの<プログラムの利点>(本書410~411頁)を
より厳密に説明するためにそのことを示唆した該当箇所を
引用してまとめておくことにしますね。
就業保障プログラムの雇用は、景気後退時に増加し、景気拡大期に縮小する。
つまり、民間部門の雇用と反対方向に動くので、
プログラムは自動安定装置としての役割を果たす。
このプログラムへの支出は、同じく景気後退時に増加して拡大時に縮小するから、
連邦政府の財政はより反景気循環的になる。
その上、統一基準賃金は景気過熱時にインフレ圧力を、
不況時にはデフレ圧力を弱める。』のだと・・・。
こうした政策採用を通じて「マクロ」経済を安定させていこうと志向する点に
<MMT>アプローチを活用させた「就業保障プログラム(以下、JGP)」の
究極的意義があるというわけですね。
本章の残り部分では、各国のJGP実例研究が紹介されることになります。
(<8.2 途上国の就業保障プログラム>本書418~422頁、
<8.4 就業保障プログラムと世界の実例>本書425~430頁を
それぞれご参照願います。)
そこで少しだけご参考資料(①、②、③)を追加ご紹介しておきますね。
本書ではフランスでの「就業保障プログラム」事例が紹介されていませんでしたので・・・。
フランスだけではなく現在のヨーロッパにおける雇用労働情勢を巡る
深刻な摩擦対立事例を研究しておくことも
また大切な知的作業だと確信するからですね。
<8.6 完全雇用政策に関する結論>(本書435~437頁)が
本章のまとめとなります。
また、<MMT>アプローチに基づく「JGP」による
「ベーシックインカム」制度への評価は本書434頁で下されています。
双方の制度にはもちろん一長一短あるわけですが、
究極的にどちらの制度的アプローチの方がより望ましいのかは
各雇用者、労働者の価値観やその時々の社会的価値意識によって
多種多様ですから早急な結論をここで下すことなど出来ません。
ですが、1つだけ最も大切な視点があります。
それは冒頭でも少し触れさせて頂きました
管理人が独自参加させて頂いた読書会での対談で
あらためて気付かされた点は、
現代労働現場の実態はあまりにも「無意義」かつ
場合によっては「有害」な<過剰>労働に覆われていたり、
デフレ(景気過冷)期においては
ただでさえ少ない「パイ」をさらにハイエナのごとく食いちぎるような
悲惨な状況が至るところで見受けられている(きた)ということですね。
とともに<MMT>アプローチに基づく「JGP」の発想の大本にあったのも
さらなる賃下げ=利下げ圧力に耐えられない労働者=雇用者が続出する中で
人間圧殺と地球資源(生態系)破壊がより一段と強まる傾向を
従来の経済学「観」ではまったく制御仕切れていないという教訓からでありました。
「ベーシックインカム」制度、<MMT>アプローチに基づく「JGP」の
いずれに対してもまだまだ十二分な理解もなされていませんし、
議論もし尽くされていない領域もありますから、
現時点での双方の制度に対する批判意見も
ほとんどが「無知」や「誤解」に基づくものが多く見受けられます。
それぞれが現状で抱える諸問題点や限界点などについては
今後とも有意義な意見交換や自由闊達な議論喚起に期待したいと思いますが、
何事も最初から「完璧」な制度などないわけですから、
まずは試行錯誤の手探り状態の中から
より「最善」へ向けた制度「改善」案をともに再考・再構築していけば
済むだけの話でありましょう。
そのような「良識(心)」的問題意識で
双方の制度への「建設的」代替案や批判提起をされているのであれば
管理人も「大歓迎!!」ではありますが、
現状ではどこもかしこも最初から「そんなのできっこない!!」だとか
「そんな志向性を持つ輩は○○(例えば、アカ=社会・共産主義者)だ!!」と
差別的レッテル貼りに終始するだけで何ら建設的な意見も提出せずに、
自らの論証責任すら果たさずに、揚げ足取りばかりしているような人間が
ネット・リアル問わずの世界にはあまりにも多く見受けられるということです。
「皆さん、そんなに人生暇な方々ばかりなんでしょうか?」
「貴重な人生の時間を無駄にせずにもっと有意義かつ賢明な過ごし方をしませんか?」と
このような無責任論者には注意喚起しておくことにいたします。
いずれにしましても、現時点での各人各層の意見表明の積み重なりが
その時点での「民度(民主主義の成熟度数を測る物差し)」なわけですから
もっと危機感をもって現実社会に対峙しましょうということです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・『第9章 インフレと主権通貨~「紙幣印刷」がハイパーインフレを引き起こす
わけではない~』
※本章では、『政府支出(負債)=民間収入(資産)』を最大命題に掲げてきた
<MMT>の最大「弱点」だと一般には評価されがちな
「(ハイパー)インフレ」誘発論へのよくある批判に対する
<MMT>側からの「反論」が提示されることになります。
そうした<MMT>「批判」の最大勢力は「金本位制度」への回帰を夢見る
「超」保守派であるオーストリア学派であったり、「右派」リバタリアンであったり、
はたまたある種の「陰謀論」者にもよく見受けられますが、
こうした勢力による「インフレ懸念」批判は何度も繰り返しになりますが、
当然ながら<MMT>論者でさえも共有認識を持っている(きた)わけです。
だからこそ、本書ではそこに「比重力点」を置いて
「インフレ対策案」を何度も手を変え品を代えて論じてきたわけです。
(<8.7 オーストリア学派にとってのMMT-リバタリアンは就業保証を
支持できるか?>本書437~442頁との比較もご参照のこと。)
しかも、「右(保守)派」がこの「インフレ誘発」原因となりかねない
<MMT>アプローチに基づく「JGP」に対する評価として
しばしば「社会(共産)主義的だ!!」といった極論に対しても
<MMT>論者はこのプログラム自体が
何も<強制徴発>労働を強要するものだとはただの一言も言ってはいないわけです。
そんなわけですから、あくまで労働も「任意」な自己責任だということになり
<MMT>論者に対する<ベーシックインカム>制度を支持する中でも
一部の過度な期待論者から批判されるような『労働教』に取り憑かれた魔物とまでは
評価され得ないように感受されるわけですね。
但し、それは「働かない」者への厳しさも含むわけですから
そこから抜け落ちた(出した)者に対する「お慈悲」は
残念ながら期待されないことは論を待ちません。
<過剰>労働や<危険>労働に関する手当ては
別途の処方箋(例えば、『純粋』機械化経済のような志向性)でもって
漸次解決の道を探究していくほかありませんが、
まったく人間の一生において「遊び惚けて暮らす」といったような
完全な『理想郷??(管理人にはそうは感受されませんが、
むしろ、暇と退屈を持て余した<小人>だらけの愚者の楽園に
今のままの人類の霊的水準ではそうなりかねない、いや「なる!!」で
ありましょうから・・・)』はついぞいつになっても到来し得ないでしょう。
もし、『純粋』機械化経済が極度まで進展したあげくに
人間がする「労働」そのものは縮小されることは歓迎される
(但し、それは同時に「供給不足」がいかなる事態においても生じ得ず、
「安定」した供給源も常に確保されていることが大前提となります。
まさにマルクスの命題が完全成立した場合。
『能力に応じて働き、必要に応じて受け取る』ことが可能な
高次元段階にある経済社会が実現した場面ですね。
この場面では、「余剰物」を貪ってはいけないわけですし、
いかなる「支配=所有欲」からも現生人類が脱していることが
要請されます。すなわち逆から言えば、「違反者」には苛酷な
仕置きが待ち受けているという超監視社会かもしれませんぞということです。
それがすでに進行しつつある<キャッシュレス化>とともに
やがて到達するかもしれない<心地よき『新世界』>が意味する
世界的事態だということでしょう。)としても
人間ならばやはり何らかの「仕事」や「活動」をするのが
生物としての「生きがい」でありましょうから、
現実問題としても「何もせずに(そんなことはもちろんあり得ませんし、
やろうとしても出来ないでしょう。やればそれはもはや<廃人>化するほか
ないでしょうからねぇ~)ただぼんやりと過ごす」のは
まさしく完全な悟りを開いたということで
「人間」としてはもはや「死」を意味するからであります。
それは<あの世>の論理でありましょう。
まぁ、このように「思考実験」してみるのは面白いことですし、
想像力と知性を磨くにはもってこいの題材ではあるわけですが・・・。
話題を「インフレ」制御論に戻しましょう。
そこで本章では主題に「インフレ」懸念問題について
「情理」を尽くして「これでもか、これでもか・・・」と
詳細に論じ尽くしていくことになるわけですね。
まず<MMT>論者ではなくとも歴史的に「インフレ」とはいかなる現象事態を
意味するのか、なかんずく、いわゆる「ハイパー(超)」インフレ事例分析を
実際にあった歴史的観点から進めていくことになります。
その過程で実際に引き起こされてきた制御しきれないほどの「ハイパー」インフレ現象とは、
「戦争」や「革命(内乱=内戦状況)」といった
極度に「供給能力」や「経済資源」が破壊され、枯渇し尽くされたような
極限状況にある<政情不安定>政府を持つ国家や地域でしか
生起してこなかったことを論証することになります。
その場合における「終息」措置は、
いずれも通貨制度改革によって乗り切ってきたということです。
日本ならば「悲観」論者がよく引き合いに出すような
「預金封鎖(資本取引規制の一環)」とともになされていった
「新円切り換え」や「貨幣単位変更(「名目」ではなく「実質」に
調整させる志向性の場合=いわゆるデノミネーションのこと)」などです。
あるいは、まさに猛烈な「ハイパー」インフレ退治の特効薬である
厳しい「超」緊縮政策と「増税」政策の組み合わせ技である
「ドッジ・プラン=デフレ政策」と「シャウプ勧告税制」などですね。
「物価統制令」違反で厳しく摘発していった事例もありました。
これによって、確かに「ハイパー」インフレ状況そのものは
急速に収束してはいったわけですが、
その後にその「反動」として今度は急激な「デフレ現象」も生起してくるといった
事態もありました。
こうした歴史的教訓から「急激」な景気への引き締め政策には
かなり慎重でなくてはならないことも理解されることでしょう。
社会に大混乱をもたらすとともに
日本国憲法が保障する<財産権の侵害>に当たる事例が頻発するからです。
とはいえ、そうした事態を「緩和」させる経過措置法などを採用することで
実質的な「損害」が国民に与えられなければ、
「悲観論者」が指摘するような懸念も
相当程度に抑制することが叶うかもしれません。
それでも、「悲観論者」からはあまりにも楽観的過ぎると
批判されるでしょうが・・・。
いずれにしましても、「有事(例外状況)」とは
まさにそのような局面をいうわけですから、
ここでも「備えあれば憂いなし」であらゆる事態を想定した
対策を講じておくべきことは論を待ちません。
さて、本章の最終論点である<9.6 結論-MMTと政策>(本書477~481頁)でも
ラーナー氏による『機能的』財政論も
「インフレ/デフレ」時期によって適宜使い分けていく必要があるとの
重要見解が提唱されていたのでした。
いずれにしましても、<MMT>が帰結する最大目標は
『インフレ制御の下における「完全」雇用の達成を追求すべきだ』という点に
あります。
そのことを「中央銀行」と「政府」が果たさなければならない役割問題として
言い換えますと、
『<物価と雇用安定>を通じての安定的経済成長の守護神であるべきだ!!』と
いうに尽きます。
なお、本書による<MMT>アプローチとは異なる立場で
「インフレ抑制策」を講じるうえで、
『金融引き締め政策も必要だが、この引き締めは国債を売ってお金を吸収する
「売りオペ」という形ではなく、「法定準備率」の引き上げという形で
なされるべきだ。』(前掲書『AI時代の新・ベーシックインカム論』
井上智洋著、96頁ご参照のこと。)と提案される論者もいます。
ちなみに再確認ですが、<MMT>アプローチにおける「国債」発行の
位置づけはいわゆる「売りオペ」扱いにあるのではなく、
事後的な金利調整手段としての「金融」政策体系の一部を構成するのでしたね。
まとめますと、この論点は次の最終章で語り直させて頂きますが、
要するに、どこまで「中央銀行/政府(いわゆる『統合政府論』でなくても
本書の解説を子細に読み込んでいれば結論的には同じだと理解されますが)」を
民主主義的な観点から「信認制御」し得るか・・・という問題意識の
違いにすぎないということのようですね。
つまり、「法律」で<規律的>に歯止めを掛ける試みにしても
「ガチガチに固めてしまうハード志向路線」か
「法律はあくまでも大綱的な取り決めに留め置いて、
具体的な制御措置は柔軟な政策裁量余地を残しておくべきだとする
ソフト志向路線」の違いだということだと思われます。
なぜならば、「法律」で隅々まで「ガチガチ」に拘束してしまえば、
いざという時にすぐに「改廃」措置が取れるかと言えば、
それはその時の議会の「政局」状況次第ということになってしまいがちですから、
管理人の評価としましてはあまり前者の方法は好ましくなかろうと
感受するわけですね。
本書でも
いわゆる『債務なし貨幣=一切の<民間貨幣(信用)創造>をやめよ!!』だとかの
極論は支持し得ないとしたうえで、「民間」債務膨張現象の極致を象徴する
「バブル現象」こそ常なる注視の的に据えつつも、
それを『(100%は極端だとしても)準備預金ルール』に関しても
『(法定の)準備預金<率>設定ではあくまでも銀行の貸出を
制御できない』だろうとの民間市場における資金「需要」に拘束されるために
中央銀行が民間銀行(市場)へ供給する準備預金<量>すらも
そこに依存させられてしまうがために
「外性」的には制御できないことを大前提に据えた
適切な「財政/金融政策」の実施を志向すべきだとする見解が
採用されることになります。(「内生」的貨幣供給論)
さらに、ただ単に「金利」調整によって
民間市場における資金量を微調整する手法だけに頼らず、
『租税が通貨を動かす』命題から
適切な租税政策をもって景気過熱気味の際には
「実需」を満たすに必要以上の過剰資金を市場から引き揚げることによる
「インフレ抑制」政策という回路も用意されているわけですね。
というわけで、<MMT>アプローチからは、
<貨幣数量説>に必要以上にとらわれずに(またこちらが本道ではなく)
「実需」に適応調整させた<需給ギャップ>にこそ着眼点を据えるべきだと
いう見解が採用されています。
つまり、それが『完全』雇用を通じてのインフレ制御論ということですね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・『第10章 結論-主権通貨のための現代貨幣理論~MMTの文化的遺伝子~』
※「皆さん、お疲れ様です。管理人もお疲れです(笑)」
ドラマ『まだ結婚できない男』の宣伝広告文みたいですが・・・。
「やっとこさ、<最終章>へとたどり着けました(ふぅ~)」
本章は言うまでもなく本書の「総括」部に当たるわけですが、
結局、<MMT>は現代「資本主義」経済の「真相」を暴露したにすぎないという
ことですね。
しかしながら、その『事実』を知られてしまえば「非常にまずい」という
ある種の政治勢力によってこうした『事実』についても
教科書的な断片的ぼかし戦術によって曖昧模糊とされていたというわけです。
とはいえ、「公開」情報や教科書でも描かれている『事実』の奥底に潜む
「真相」を確実に読み解くことが出来さえすれば、
誰にでも「目から鱗」であることがご理解頂けましょう。
要するに、「金本位(兌換紙幣)制度」時代であれ
現在の「管理通貨(不換紙幣)制度」時代であれ、
その「政府/民間(銀行)」が創造し得る「支出(信用創造)量」を
まさしく「支配」することで
私たち一般国民の生活への「生殺与奪」権力を握ってきたという
『事実』であります。
これはもはや<公然たる事実>であり、決して<陰謀論>などではありません。
そのことを本書が見事に論証した(<虎の尾>を踏まない限りで??なのか
どうかは知るよしもありませんが・・・。<MMT>ですら背後にまだ何か
隠された「秘密力」があるのだろうか?これ以上突っ込みすぎると
まさに「陰謀論」めいてきて信用されなくなってしまいますんで
ここで打ち止めにしておきます。各自の研究課題としておきましょう。)に
すぎないということですね。
だからこそ、その「真相」を知られたくない勢力、
もしくはただ単に「誤解」と「無知」のままに
「そんな虫のいい理論??、事実などあり得ないだろう!!」と
拒絶反応が引き起こされてくるというわけですね。
『通貨発行<特権>とはかくも絶大な権力』であったということです。
ですから、この<特権>が濫用されることなきように
私たち一般国民による監視統制の手綱をしかと握りしめておかなくてはならない
というわけですね。
そのためにこそ、すでに触れましたように
日本国憲法でも「財政」民主主義は定められていたわけですが、
最大の障壁は「金融」民主主義については
ついにどこにも謳われていないという『現実』であります。
ということで、これからいよいよ「改憲論議」も喧しくなる季節ですが、
憲法に「緊縮」条項を設定させる志向性ではなくして
「金融」民主主義(『通貨発行<特権>は国民のために存す』なる一文)を
明示させる志向性を提案することであります。
それと「政府」人事はもちろん現行でも行政権(内閣)の重要責務なわけですから
その行政府を組閣させる政権与「党」(立法府)に属する議員は言うまでもなく
野党議員もしかとこの「構造」を精確に理解されたうえで
職責を果たされることを切に望みます。
問題は「政府」から独立した「中央銀行」ということですが、
この「中央銀行」の<独立性>とやらも
まったく国民の意思とはかけ離れた勝手な判断をしてもよいという意味では
ないことは<当然の事理>であります。
もちろん、「専門家」ではない一般民衆の経済への「無理解」から
経済政策が「誤用」、「濫用」されてはいけないことは論を待ちませんが、
それは現在の「専門家」とやらも同じであります。
ですから、「国民」も正しく経済を理解する継続的努力をしていかなくてはなりません。
もちろん「専門家」もです。
ケインズ経済学によって示唆された
もう1つの重要な<鬼門>もいわゆる『ハーヴェイ・ロードの定理』が
きちんと機能するかどうかであるからです。
すなわち、俗っぽい表現で大変恐縮いたしますが、
『エリート層が○○過ぎれば国民が悲惨な目に遭う』ということですね。
つまり、「中央銀行」の<独立性>も政策を執行統御すべき構成員の
人間的「支配欲」が満たされるような使われ方で悪用されることが
あってはならないのは当然のこと、
中央銀行総裁会議や構成員による政策審議会合で決定された内容や
なぜそのような結論に至ったかの過程報告は
当然ながら国民と政府に<情報公開>する義務があるということです。
しかも、<独立>した「中央銀行」が
私たち国民や国民によって正当に選挙された者によって構成される政府に対して
一方的な支配従属-依存関係を強いることまでは想定されていないはずです。
それはあくまでも政府の財政/金融政策の代理執行機関にすぎないと
通常は評価されるはずだからです。
冒頭でご紹介させて頂いたステファニー・ケルトン女史も
そのような位置づけで来日時公開講演(ユーチューブなどで今も視聴できるはずです。
未視聴の方は是非一度ご閲覧されることをお勧めいたします。)にて
質疑応答されていたのも印象的でした。
ですから、<MMT>論者からは「中央銀行」の<独立性>が
政府による<民主的統制>によっても決して剥奪・毀損されるものではないと
考えられていることになります。
話題を本章に戻しましょう。
要するに、「政府(公的機関、EUなどの国際機関を含む)」にせよ、
「民間」にせよ、
「実需」を軽視・無視した野放図な<信用創造>を図れば、
「バブル現象」が引き起こされたり、
それこそ「主権」が剥奪されるほどの政治的・経済的「侵略」を
呼び込んでしまうような事態が起きぬように
常なる監視の目を向けておく必要があるということですね。
その具体的事例が、
<10.1 MMTは正しかった-世界金融危機>(本書484~487頁)と
<10.2 MMTは正しかった-ユーロ危機>(本書488~494頁)で
活写されています。
いずれの現象も<MMT>による『事実』動向分析から帰結される
「警告」をきちんと受け止めていれば防ぎ止めることが出来ていたかもしれない
事例だったといいます。
まとめますと、<MMT>の功績とは、
『バブル現象』発生源や
『民間債務膨張と国家債務膨張の<不均衡=非対称性=あの「恒等式」の無視>』が
経済に「大厄災」をもたらすとの
ある程度までの「予測」判断が出来るという点にあったようです。
もっとも<MMT>であれ、<主流派>であれ、
生身の経済はすべて「複雑系」であるために
先行き不透明の<不確実性>に満ちた世界なわけですから
そうした「予測」も常に完全になし遂げることが叶うわけではありません。
ですが、本書を通じてあらためて再確認しておきたいことは、
そんな「複雑系」の世界が「生きた」経済現象というものですから、
謙虚に丁寧な経済政策運営をなしていくことこそが
常に要請されているというこの1点に尽きるということです。
最後にますます「激流」のごとく世界各地で狂奔する一方にある
世界貿易戦争の行き過ぎが未曾有の大惨劇をもたらしかねない
只今現在において是非とも有識者の方々にこそ
ご「精読」願いたい論考があります。
それが<10.5 MMTと外的制約-固定相場か変動相場か、それが問題だ>
(本書511~519頁)であります。
また語り残しておいた最終課題であるシュンペーター氏による
『租税国家の危機』問題ですが、
現在の「資本主義」経済体制がまだまだ不完全である限りにおいては、
通常の意味での『「租税国家の危機」はけっして存在しないのである。』
(岩波文庫、2016年第5刷、79~80頁)とのこと。
シュンペーター氏による有名な命題遺言である
『資本主義はその成功ゆえに衰退(滅亡)する』がありますが、
これは一見相反するケインズ的命題とマルクス的命題をも重ね合わせて
想像を逞しくしていけば、
一度は「資本主義」を完成させなくては
新たな「道開き」も始まらないということのようです。
『その完成(完全)成就なる条件とは何か?』という問いは残されているわけですが、
それは<情報=時空間(特に時間)の非対称性>(スティグリッツ博士の
研究テーマでもありました)をいかに解消し、
<中間搾取場>を極限まで縮小削減し得るかどうかに
「未来の理想的経済」実現もかかっているということです。
それとともに「独占(寡占)」状態をいかに制御して
多種多様な<中間媒介項的多様性>を確保していくべきかも
重要課題となるようです。
仮に「独占(寡占)」的プラットフォーム企業の存在意義も
効率性の観点からして認められるにしても「放置」しておくだけでは、
当該企業様におかれましても
やがて<規模の経済>メリットも得られなくなる地点にたどり着きますし、
「資本主義」経済の原動力となる<革新的創造(あえて誤解にまみれた
「創造的破壊」という表現は使わないでおきましょう)>や
<アニマルスピリット>が喪失させられていくような環境条件は
回避しなくてはなりません。
なぜならば、そのような現象こそが「健全」な市場競争原理が
働いていないとの明白な証拠にもなるからであります。
このような好ましからざる事態を回避するための「知恵」や「工夫」は
まだまだこれからの課題として残されていますが、
皆さんにも「宿題」として提出しておくことにいたしますね。
『<MMT>の最大命題:租税制度が通貨を動かす』ですが、
もし上記のシュンペーター氏が問題提起したような事態が
将来実現した「暁」にはそれに代替する「流通経路」をいかに
調達確保し得るというのでしょうか?
『社会は私企業と租税国家を超えて進展する・・・』
(上掲書81頁)とは一体全体いかなることを意味するのでしょうか?
そのこともまだ最大の「謎」として残されています。
また、一部の<MMT>論者の方にも「誤解」されているようですが、
現時点で提供された主流派<MMT>論の立場(見地)からは
『これこそ<事実上の無税国家>へと導くものだ』なる論もどうも成立しないように
管理人自身には感受されるわけです。
なぜならば、そもそもの主流派<MMT>論者が提唱してきた
基本命題である『租税が通貨を動かす』との整合性について
いかがお考えになっていらっしゃるのかよく理解し難い点があるからです。
また、論者の主張される『無税』の定義およびその具体的イメージ像が
今ひとつ掴めないところがあります。
そして、租税制度『固有』の意義も
<通貨強制循環機能>以外にもあるはずだからですね。
ですから、『事実上の<無税>国家??』なる論を展開される方々には
このあたりをもう少し精密に論点整理されるとともに
再検証されたうえで再提起なされることを願います。
有名な松下幸之助翁が遺された<無税国家論>にしても
「国債」発行の役割や意義を十二分に認めています。
(ちなみに、さすがの慧眼の士かつ実業家である翁は
「マクロ」と「ミクロ」の初歩的な混同はされていませんでしたよ。
いわゆる「松下政経塾」出身の政治家の皆さん、
与野党問わずに「緊縮」路線にひた走りされる中、
もう一度翁の声に耳を傾けてみてはいかがでしょうか?
特にかつて『納税者として』という著書を出された大臣様におかれましては
この意味を深くご理解頂けるものと信じたいものですが・・・。
『納税者として』とは当然ながら<権利者>としての立場から
『代表なくして課税なし』ということでありましょうよ、
されば国民の<代表者>として選挙された「立法府」を構成する
国会議員としての立場とそこからさらに「与党」政権として<信認>された
行政府を構成する大臣の立場であるからして、
暴走しかねない国家官僚を制御する義務もあるはずです。
<議院内閣制>の問題点も研究して頂きたいものです。
長所は国民の意思を議会(立法府)を通じて内閣(行政府)を制御できること。
そしてその過程で与野党問わずに行政権力に対する<チェック&バランス>を
働かすことができる回路があることでしょう。
そして<チェック&バランス>といっても
それは立法府においては「党派間」での本質から外れた政争を意味するものでは
ないはずですし、立法府によって立案された「正しい」政策に関する与野党での
共通認識と合意の下で行政府に「正しく」執行させるように促し、
そこから軌道を外れつつある(た)時に厳しく問い質し、
元の「本街道」へと連れ戻すことでありましょう。
立法府と行政府への相互協力(場合によってはまさに「挙国一致」体制)といっても
それは是々非々にかかわらずにあらゆる場面においても大政「翼賛」することを
意味するものでないことくらいは
明治以来の近現代「憲政」史を鑑みて頂ければ、
「道理」だということもご理解頂けるはずです。
短所は本来ならば利益相反する立法府と行政府の役割分担が癒着することで
曖昧模糊な<お友達>関係になりやすい点にあるということでしょう。
そうした我が国近現代「憲政」史の<常道>を踏まえた
「正しき」議会制民主主義の理想は何かを
国会議事堂のそばにある『憲政記念館』にて
暇な時にでもよくよく研鑽され日々の職務(責)を果たされる際の
精神的糧とされんことを慎んで申し上げます。
「党派闘争」に明け暮れる国会議員さんに慎んで申し上げます。
現代「政党」国家現象の下では、
年々歳々<党議拘束>も強まっているそうでその違反をおそれて
<自由闊達>な党内での有意義な議論すらもできない状況に
立ち至っているものと漏れ伝え聞きます。
さはさりながら、まず『国会』議員は各政党を背負う前に
日本国憲法の制度趣旨(憲政の常道)から「常識」で考えれば
それは同時にご自身の出身母体である政党支持者以外にも
当然ながら配慮したうえでの『全』国民を代表する
いち国会議員としての立場もあるわけです。
というよりも、こちらの方が日本国憲法第43条の「文言」解釈からいって
「常道」でありましょう。
こんなのは文字が正しく読める子どもでもわかる「道理」というものです。
そんなに<党議拘束>とやらをおそれて国民不在の「党派」論理で
行動する必要もないはずです。
『恥を知れ』ということです。
なぜならば、国会議員(政治家)の資質とは平時・有事とを問わず
<常住坐臥><常在戦場><常在国難>の心意気で
国民のために命がけで行動し得る武士気質を有している人間でしか
とてもつとまる役職ではないからです。
(『歴史に観る日本の行く末~予言されていた現実!~』
小室直樹著、青春出版社、1999年第1刷、210頁ご参照のこと。)
何のために議員や「公務」員に私たち民間人以上に
「公人」としての<特権>や<身分保障>が与えられているのか
もう一度要職にある方々にはご再考願いたいところです。
最近注目されている「司直」と「国民」に厳しく問い質される
渦中の身にある威勢だけいい「衆愚」政治「屋」が蔓延る
この現実を見るに忍びなく思う今日この頃だからこそ
本題とはかけ離れてきて恐縮ですが
「声なき声」の<代弁者>として問いかけたいのです。
文脈に照らして言えば、
それこそを松下翁も望んでおられるものと信ずるからです。
それは「プロ」の政治家でなくとも
いち「在野の士」として国家・国民・社会といった
<公益>のために尽くさんと欲す民間に潜伏する
いわゆる「草の根の民」にも宿っていなくてはならぬことです。
それが<社会的肩書き>や何やらの標識やランキング、
見かけだけで人間評価判断を下す「俗人」とは異なる
気質・気骨を宿した「志士」というものだと信ずるからです。
『人間は<野(まったく地位・肩書き・資産などなき時空間場所)>に
ある時にこそ、その<真価>も厳しく問われる』という命題を
「志」と「心(魂)」ある誇りある人間ならば
誰しも片時も忘れたくないものです。
この言は何も大臣氏だけではなく
管理人己自身に厳しく問い質す命題でもあります。
『人間は誰しも<道>を間違う(<魔が差しかかる逢魔が時の>)時がある』
そんな時に座右の銘や書、厳しく指摘してくれる師匠や親族、
友人知人がいてくれることはほんまに有り難いことなのです。
ですから、必要以上に管理人も人身攻撃するような<ゲス(人間の屑)>のような
輩の<邪心>からではなく<真心=誠>から
大臣氏を始めとする「お上」に奏上諫言申し上げている次第にて
ございまする・・・ということです。
国民はみなその一挙手一投足を見ているということを片時もお忘れすることなく、
現下の日本と世界の理想に向けて『政治は今何をすべきか』を
胸に手を当てて問い質されんことを乞い願い奉りまする。
とにかく『人の上に立つ』ほどの者には
常に<危機意識>と死をもおそれぬ<決意と覚悟>が要請されるとの言、
よくよく噛み締めて頂きたく願います。
これがいち国民の偽らざる想いだからです。
『初心忘るるべからず』(世阿弥)
過去の著書を読み知っている者はみな注視していますぞということで
「有権者」を甘く見てはなりませんぞということです。
『厳しい諫言や忠言をしてくれる者こそ
真に信頼できる側近として置くべし!!』(徳川家康公)であります。
<お友達内閣ごっこ>では我々国民にとってはいたたまれません。
今からでも遅くありません。
『過ちては改むるに憚ることなかれ』(『論語』)という言葉も
ございますれば・・・。
というより、もはや一刻の猶予すらありません。
このような世界情勢の急展開と自然災害多発状態の下では・・・。
翁も敬愛された『令和』の坂本龍馬出でよの時来る!!だからです。
もはや在野の有志=勇士にしか期待出来ない時節であります。)
少し迂回してしまいましたが、
翁もまた国債「無用」論の立場にはいなかったということですね。
(あくまでも生前当時の見解であり、今も生存しておられれば
また別の見立てを提出されたのかもしれません。)
それはどこまでも年々の予算「未消化分」を積み立てていくことを
想定した理論設計(翁は予算「単年度」主義こそ諸悪の根源だと
喝破されていた)にあるわけですが、
これはいわゆるおかねの「プール」理論と同じなのでしょうか?
そのあたりの翁と<MMT>論者とのイメージ像の違いなど
まだまだ<無税国家論>に辿り着くまでには
様々な考えるべき課題もあるようですね。
いずれにせよ、現時点での著者や<MMT>論者の大多数は
租税制度「必要」論が大前提だということです。
それと翁の海外取引における実務的体験談から導き出された教訓ですが、
翁も海外交易に極度に依存し続けることは下記のような
危険性を伴うと認識警告されていたということです。
戦前にも多分に誇張された側面もあったそうですが、
いわゆる<ソーシャル・ダンピング(極度に安い値段で海外に売りさばくことで
輸出相手国の「内需」を剥奪してしまう事態のこと)>からの不安感の高まりが
ついに極端なまでの関税「引き上げ」合戦にも
また移民「排斥」合戦にもつながり
最悪の結末を迎える事態へと立ち至ったわけですから
本当に歴史とは「因果なもの」だということです。
『歴史を甘く見てはならないのです!!』
なぜ、一見「本題」から脱線してまでも
このような私的「公人論」を提出させて頂いたかというと
本章での主題とも絡む財政/金融「民主主義」を実現させていくうえでも
政治家ご自身の行政(財務省だけではなく日本銀行、国税庁など含む)権力への
認識能力に現代ほど甘さが際立ってきていると感受される時期はないからですね。
これで一応「論旨」としては「筋が通った」でしょう(笑)。
松下幸之助「翁」から「政経塾」へと連想が働いてしまったので
皆さんには面倒な奴だと思われてでも、「今しかチャンスがない!!」という
憂国の焦りからここであわせて「諫言」させて頂きました。
管理人も文章の流れを日々研究しているのです。
ほんまに文章創作は難しいですけどね。
今鋭意「執筆中」の友人への心からの声援も兼ねて
少し管理人からの<気の力>を祈り加えさせて頂きました。
『ご武運をお祈りします。』
『よい本をお書き下さいね。』
最後は少し<極私的>な話題を挟むことになってしまいましたが、
管理人がこのたび本書から学び取った概要骨子は
これにて皆さんに提出し終えましたので、
『これにて一件落着(かどうかは読者様の評価次第ですが・・・)』と
いうことにさせて頂くことにします。
この翁の「遺言」もご紹介させて頂いたところで
本書要約論評作業の幕を閉じさせて頂くことにいたします。
また今後とも追って、管理人独自でも<MMT>研究解析を進めていきますので、
関連書のご紹介などとともに
皆さんにその成果をご披露させて頂きますので
何卒ご愛顧のほど宜しくお願い申し上げます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・『<巻末解説> MMTの命題は「異端」ではなく、常識である』(松尾匡)
※最後は本書に絡む<大切なお知らせ>ですのでご紹介しておきますね。
いつもお世話になっている藤井聡先生とも対談講演されることのある
母校の現役経済学者でいらっしゃる松尾匡先生も
この<巻末解説>でご紹介頂いている『ひとびとの経済政策研究会』サイトに
掲載されている朴勝俊先生による論考文(管理人も今回の本書評要約作業中に
参加させて頂いた<読書会>にてご参考資料に配付頂いた資料ですが・・・)に
<MMT>に関する本書要約論点集が簡潔にまとめられていますので
長文かつ準専門書である本書精読をする『暇など私にはないぜ!!』と
おっしゃる方向けにあわせてご推挙しておきますね。
本書解説だけではわかりにくかろう決算書類の読み解き作業も
この要約レポートをご一読なさるとすっきりと氷解されることでしょう。
本書はもはや「右」か「左」の政治的立場に関係なく
今の日本の現状を真剣に憂慮されておられる心ある方々が
寄り集まって完成された今後ますます「緊縮」財政と
経済「悪化」、国土「破壊」事例が多発すればするほど
『現代版<理財論>』として波紋が拡がっていく書物でありましょう。
但し、この『理財論』を実際政策として実行・実現させていくためには
<旧来の陋習>である財務の「内に屈する」姿勢では使いこなせないばかりか、
それこそ「反対(批判)」論者からの猛攻撃に晒されるだけで終わりましょう。
ですから、『事(財務)の外に立ちて事の内に屈せず』と
『義を明らかにして利を図らず』(山田方谷翁)を念頭に
より高い見識でもって活用されることをくれぐれもお願い申し上げる次第です。
(『<活学新書>運命をひらく山田方谷の言葉50』方谷さんに学ぶ会、
致知出版社、平成29年による。
<序文>推薦文はあの『ノーベル生理学・医学賞』を受賞された
大村智博士であります。)
『まずは皆様、翻訳・編集作業お疲れ様です。』
管理人も微力ながら「助っ人」になるべく
精一杯努力して書き綴ってまいりました。
先にも触れましたように、もし読者様の中で奇特な方がいらっしゃれば
管理人の理解不足による「勘違い箇所」などございますれば、
是非下記のコメント欄などにご指摘頂ければ幸いであります。
合い言葉はいつも『右であれ左であれわが祖国』(ジョージ・オーウェル)であります。
まだまだ語りたいことがありますが、先月お休みを頂いたこともあって
皆さんへの日頃の感謝とご奉仕の気持ちを込めて
今月もまた長文創作となりました。
とはいえ、皆さんも長文読解はお疲れでしょうから、
ここでいったん記事創作を「中断」させて頂くことにいたします。
今月も<エッセー紀行文>を用意していた
(先月連休中に某へヴィメタルバンド様のライブ公演と友人知人との飲み会、
そして地域経済調査=路地裏探索と郷土史研究、「聖地」巡礼も兼ねて
岐阜・名古屋方面へあらためて「取材」旅行をしていたのです。
それと先月に「お休み」頂いたのは
本書を題材本とする<読書会>や本業(日常生業)の決算月のため
週末出勤もあったなど多忙だったからです。
とはいえ、「遊び」もしていたわけですが(笑)。
『よく学び、よく遊べ』
『忙中<暇>あり』を座右の銘として・・・。)のですが原稿整理などもあり、
当書評記事も当初予定を大幅に上回る分量となってしまっており
読者様におかれましても読み進めづらかろうと感受いたしましたので、
次回書評において追加投稿させて頂くことに変更させて頂きます。
この点何卒お含み置き頂きましてお詫び申し上げます。
本書に絡む京都での研究会参加の件もありますから、
そこであらたに学び得たことなども含めて
読者様にご報告できればと考えております。
台風、水害・・・などでのたうち回る『龍神国』日本と
そこに住まう我ら日本国民ですが、ともに手を携えながら
この厳しい難局を乗り切っていきましょう。
「同胞意識」があれば私たちには必ず乗り切れます。
このたびの風水害により被災された方々への1日も早き復旧生活の実現と
お亡くなりになられた方々へのご冥福をお祈り申し上げます。
管理人もまた独自に『水と風の神』様に祈ってまいります。
その「想い」を今月の<和歌>に託させて頂きました。
~敬愛する故河島英五氏の名歌『元気だしてゆこう』や
『晩秋』など(アルバム『旧友再会~ベスト・オブ・河島英五~』所収曲)を
『ほろ酔い』加減で聴きながら・・・。
管理人も今後とも古人の「志」を胸に抱き、重責を背負いながら、
『愛(仁)』と『義』を届けてまいります。
<名軍師>直江兼継公所有の兜に立つ「御前立ち」を拝して・・・。~
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・参考文献/注
・索引
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<皆さまの目の保養に神々しい風景写真をお届けします>
(以上すべて管理人撮影)
先月初頭の台風第15号が来るか来ぬかで心配していた最中に
<火伏せの神様>が鎮座まします念願の京都の愛宕山詣をついに果たすことが
叶いました。昨今の「火事騒動」を少しでも鎮火させるためにも
「戦争」や「革命」といったきな臭い潜勢力(まさに『病魔』)を退散させるためにも
<水の神>様を背負った管理人は『愛宕権現』様に祈りを捧げに
1人黙々と山中を歩き続けるのでした。
我がご先祖様とも深いご縁がある丹波国をお守り遊ばされた
かの敬愛する『麒麟児』明智日向守光秀公もことのほか篤く信仰されたと聞く
あの『愛宕権現』様であります。
ここには日本随一の『愛宕太郎坊天狗』様も住まうといいます。
あの鞍馬の『大天狗』様よりも屈強な怪力を持つという
おそらくは素晴らしき<験力>を修行によって養った修験行者様が
お籠もりになって『日の本の<天下泰平>』祈願を続けてこられた霊山だという
言い伝えが『大天狗』には込められているのでしょう。
拙者も『忍道』を修行中。
昨年ご紹介させて頂いた現在放映中のNHK朝ドラ『スカーレット』の撮影舞台地である
信楽の近辺にある甲賀忍者も修行したとされる『飯道山』も
すでに参拝してきましたが、この『愛宕山』は畏れ多すぎて
長年待望の「登拝」も果たせぬままに過ぎ来たったのです。
そんな長年の『想念』も積もり積もるとともに
いよいよ我が祖国の危機の「音色」に
『お主、そろそろ儂らのところに出仕せぬか・・・』のお告げを
「霊言」として慎んで承り、参上出仕させて頂いた次第・・・。
道中は険しく、折しも台風とともに「黒雲」も湧き出てくるかもしれぬと
事前にお聞きしていたので心配はしていましたが、
大阪中之島の『香雪美術館』にて栂尾のお上人『明恵』様にも
お呼ばれになったようでついに高雄の里へ向けて
『鹿島立ち』することに相成った次第。
お上人が修行された御寺こそ台風の被害にも遭難された模様とお聞きし
まだ参詣は叶っていませんが、かねてから崇敬させて頂いている
ここもまた由緒ある名古刹であります。
皆様もこれから秋の紅葉シーズンです。
まだまだ台風などが気にかかる時節ですが、
十二分に安全装備されたうえでご縁あるものと心当たりある方には
訪れて頂きたい御寺であります。
そんなわけで道中安全祈願をふもとのお地蔵様だかに祈願させて頂いた後、
少しそのお堂を歩き越したところに鳥居がありますが、
そこからが『表参道』の始まりとなります。
初めての方もバス停からはものの10分ほど歩かれますと、
この鳥居が見えてきますのでわかりやすく道に迷うおそれも少ないようです。
とはいえ、この『表参道』も天候次第で危険な泥濘道にも
崩壊道や倒木散乱道にもしばしばなるそうなので
地図(参道入口直前に遭難防止用連絡先が掲載された地図もありましたよ。)も
いくらかご用意されたうえで十二分な事前準備の下、
参詣登山に備えられることをお勧めいたします。
そんなわけで管理人も険しい山中を少しずつ歩を進めつつ、
道中の景色を楽しみながらご挨拶へと向かうことになりました。
地図をお持ちの方なら、この『表参道』途中に<大杉神社>なる
目印地点があるかと思いますが、
御神木に注連縄が張られている程度で崩壊しかかった様子ですので、
ついつい見過ごしてしまうかもしれません。
とはいえ、『神聖』だったか『丹山』だったかしら・・・、
奉納の酒樽が積んであるのが代わりの目印になるかと思いますので
ご参考までに案内させて頂きました。
その側には少しばかりの休憩用の丸太椅子のようなものがあったはずなので
休憩するにはよいかと・・・。
心地よき風に当たりながら人生のあり方を黙想しながら
しばし見つめ直すのもいいかもしれませんね。
この<大杉神社>を過ぎますと、上記写真にもありますような
<水尾分かれ>が『七合目』地点としてありますから、そのまま上方へ
歩を進めていって下さいませ。さすれば、ちょうど奈良県の吉野山に
行かれた方なら見覚えのあるような『黒門』に突き当たっていきますので
そのまま少し登り上がりましたらば、
トイレ休憩も出来る広場に出てきます。
そこから頂上の『愛宕神社』まではものの10分もかからない
目と鼻の先であります。
「強運」の持ち主で「好運」に恵まれた方ならば、
宮司様による写真撮影をして頂けるかもしれませんよ。
管理人も撮影して頂きましたが、一瞬ポーズとして
<メタル愛>の象徴であるあの『狐マークポーズ』を・・・と
思いついたのでしたが、よ~く考えてみれば、
これは西欧では文脈によっては『悪魔崇拝』を意味する??とか
評価されているようですのでやめておきました。
人によっては軽薄かつ不快だと感受される方もおられるでしょうから・・・。
というわけで・・・。
よくよく今の世界の「民人」に何が不足しているかと少し思案した後に
あるアーティスト様もいつも<愛と勇気>を授けて下さる
『元気玉印(ガッツポーズ)』で皆さんへお届けさせて頂くことに
「決断」いたしました。
昔、「抑鬱状態(今も時にそのような気分になることがありますが・・・)」が
しきりに続いていた時代によく意識的にやっていた思い入れのある
ポーズでもありましたから。
今もこの時に様々な「悪因悪果」が複雑に絡み合って
「憂鬱」に沈んでおられる方も数多くいらっしゃることでしょうから。
あくまでもここは神社仏閣という「聖地」だということで、
やはりTPOに合わせたその場に相応しい作法が大切ですもんね。
<メタル愛>の方、これもある種の「迷信」めいたことなのかもしれませんが、
くれぐれもご注意下され・・・。
「聖霊地」でありますから、
そこにお祀りされている神様を第1順位にして
<自我>を出し過ぎることを慎まなくてはなりませんから。
『下界』とは異なる世界なわけですから・・・。
じっくりと『奥宮』までお詣りさせて頂いた後、
宮司様のご厚意で写真撮影して頂くとともに
いくらか『寄進』もさせて頂きました。
あまり目立ちませんが、かの戦艦(←<改良型>が多い)『愛宕』のプラモデルも
神社「参拝所」脇の社務所の隣に飾られていますよ。
『何よりもふたたび<戦火(禍)>に世界が見舞われませんように・・・』と
魂を鎮めて強く『念』を入れてお祈りさせて頂きました。
ふもとの『清滝』バス停から山頂まで往きは約2時間ほど。
帰りは同じ『表参道』を降りて行かれるのでしたら(初心者の方は
断然こちらをお勧めいたします。
『月輪寺』~『空也の滝』方面道<管理人も十二分に時間があり、
土地勘があればそちらから下山させて頂きたかったわけですが、
その日は祇園ライブバーにて別件の用事もありましたから、
早めの下山を「決断・選択」いたしました。>へは、
所によっては何度もの台風などの被害で倒木や崩落した箇所もあるようなので
もしどうしても行かれるのでしたらば、自己責任とともに
あらかじめ社務所の方に道中模様<無事安全かどうか>を確認されることや
登山に慣れたご同行者にお願いして連れ合うなど
十二分に気を付けて歩を進められますようお願い申し上げます。
よく知らない山歩きを単独行で行くのは
よほどの覚悟と鍛錬がなければ危険だからですね。)、
くれぐれも慎重な足運びには十二分に注意しながらも
少し駆け足で下っていくことを条件に据えるならば
約1時間30~40分ほどで戻れるかと思います。
ちなみに、往路/復路と参詣/休憩時間も込めまして
ゆとりを持って登下山する計画でもって行動されることを考慮いたしますと、
人に<因(よ)りけり>ですが、
最低でもおよそ4時間~6時間あたりは
時間的余裕を持たせて頂ければ安心して参詣登山も叶いましょう。
山の天候は移ろいやすいと言いますから、
そのあたりの雲行きなども勘案されながら
是非にも無理なき登山計画を立案されることをお勧めさせて頂きます。
ですから、上記『愛宕神社』公式ホームページやツイッター情報でも
道路や天候状況が随時更新されていますので、
そちらから発信される<参詣へのご案内>も
事前・途上によく参照されますことをお願い申し上げます。
「原起点」に戻りますと、
すべてがタイミングよく進んだようでバスにもすぐに乗車することが叶い
『嵐山』へと舞い戻ることになりました。
帰りに少し時間的余裕がありましたので、
『嵐山』散策とともに少し早めの夜食も済ませることにいたしました。
<精進落とし>の一杯もやっぱし疲れた身心を癒してくれますねぇ~。
『天龍寺』にこそ拝観は出来ませんでしたが、
当ブログタイトル『双龍天翔』とも呼応する奇縁に清々しさも感じながら
しばし<余韻>に耽りながら舌鼓しておりました。
このとき実は『嵐山』の渡月橋を歩いたのは初めての経験でした。
前回はいつもお世話になっている知る人ぞ知る画家の知人の方が
主宰されている個人展覧会と『清涼寺釈迦堂』だけを経巡っただけで
そのまま帰宅の途に就いただけであまり十分には堪能出来なかったからです。
管理人は京都で学生時代を過ごしましたが、
実はこの『嵐山』には訪れたことがなかったのです。
あの倉木麻衣さんが『渡月橋~君 想う~』という楽曲を創作されていたというのに
普段はあまりこちらのジャンルを聴かないものですから
知らなかったのです。
とはいえ、管理人は<メタル>以外にも演歌などもよく聴きますが、
ある読者様によってご教示頂いた市川由紀乃さんの
京都<北嵯峨って(笑)>にある『滝口寺』が歌詞に出て来る
『横笛物語』を気に入ってしもうて、しもうて・・・。
まぁ~、『悲恋(忍ぶ恋)』の歌ですがね。
これまた『キングレコード』様とのご縁。
拙者が好むバンド、アーティスト様は
なぜか『キングレコード』様からのデビュー者が多いような・・・。
不思議なご縁です。
その日も生身の「歌う」弁天様の美声を「肴」に
ファンの皆様とも再会を果たし、時間の許す限り語らいあった後、
ほろ酔い気分で幸せな「余韻(情)」に浸りながら、
京の都を後にする管理人でした。
浪速の吟遊放浪酒場(ライブバー)詩人志願者の管理人のこと。
もっと吉田類さんと吉田羊さんにその極意を学ばねば・・・。
『人生意気(粋)に感ず』です。
今からしっかりと文章レポートを書きためていかねば・・・。
何かの「間違い!?」で
もし作家デビューが叶ったりした時に「納期」に困らぬように・・・。
質の高い文章を速く仕上げる練習もこなしていかねば・・・。
仏像彫刻修業で「立体(バランス=中庸)感覚」を養うとともに
激越な表現を和らげるべく
江戸時代の風刺(社会批評)家に婉曲話法としての
狂歌や川柳、道歌などの作法もともに学んでいく励みとなる
そんな「風雅を愛でる」旅道中でありました。
続きは次回書評記事内における<紀行文エッセー>にて
またお会いしましょう。
最後までお読み頂きありがとうございました。
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<参考文献一覧>
①『表現者クライテリオン 2019年9月刊行分~MMT特集号~』
(啓文社書房、藤井聡編集長ほか)
②『目からウロコが落ちる 奇跡の経済教室<基礎知識編>(通称グリーン本)』
③『同上 <戦略編>(通称オレンジ本)』
(両書ともに中野剛志著、KKベストセラーズ、2019年)
④『<経済思想ゼミナール>経済学をめぐる巨匠たち』
(小室直樹著、ダイヤモンド社、2004年第2刷)
⑤『世界一わかりやすい為替の本』
(上野泰也著、かんき出版、2018年第2刷)
⑥『世界一わかりやすい金利の本』
(同上)
⑦『AI時代の新・ベーシックインカム論』
(井上智洋著、光文社新書、2018年初版第1刷)
⑧『金融権力~グローバル経済とリスク・ビジネス~』
(本山美彦著、岩波新書、2008年第1刷)
⑨『税金を払わない巨大企業』
(富岡幸雄著、文春新書、2014年第1刷)
⑩『帳簿の世界史』
(ジェイコブ・ソール著、村井章子訳、文藝春秋、2018年第2刷)
⑪『松下幸之助の智恵』
(谷沢永一著、PHP文庫、1995年第1版第1刷)
⑫『租税国家の危機』
(シュンペーター著、木村元一・小谷義次訳・解説、2016年第5刷)
⑬『一目でわかる新政経ハンドブック<2017→2019>』
(清水雅博著、東進ブックス、2017年3訂新版第1版)
⑭『負債論~貨幣と暴力の5000年~』
(デヴィッド・グレーバー著、酒井隆史・高祖岩三郎共訳、以文社、2016年)
⑮『失われた景観~戦後日本が築いたもの~』
(松原隆一郎著、PHP新書、2002年第1版第1刷)
⑯『ガットからWTOへ~貿易摩擦の現代史~』
(池田美智子著、ちくま新書、1996年)
以上をご参考させて頂いた資料類として掲げておきます。
最後まで超長文をお読み頂きましてありがとうございました。
いつも感謝申し上げます。
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