ダダ・マヘシュヴァラナンダ氏の『資本主義を超えて』進歩的活用理論(プラウト)の観点から考える社会再生論とは!?

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『資本主義を超えて~新時代を拓く進歩的活用理論(プラウト)~』

日本の主流メディアや教育現場からは滅多にお目に掛かれない

プラウト哲学の紹介者ダダ・マヘシュヴァラナンダ氏による著書。

現代資本主義経済の先行きが不透明となる中で

多種多様な代替的経済哲学思想を提示される論者が

少しずつですが増えてきているようです。

<資本主義自体に自己矛盾が内蔵されていた!?>

今回は、この本をご紹介します。

『資本主義を超えて~新時代を拓く進歩的活用理論(プラウト)~』(ダダ・マヘシュヴァラナンダ著、岩崎信彦監訳、松尾光喜訳、社会思想社)

ダダ・マヘシュヴァラナンダ氏(以下、著者)は、

日本ではあまり馴染みがない思想家だと思われます。

ここで簡単なプロフィール紹介をさせて頂くに当たり

ウィキペディア情報なども含めて検索事前調査してみたのですが、

あまり適切な紹介記事も見当たらず、唯一の手がかりが

本書内記事と訳者解説だったという珍しい部類の著者となりました。

さて、今回本書を取り上げさせて頂いたのは、

ここ数十年間における目まぐるしい現代資本主義経済の変革進展と

それに伴う人類の未来経済社会に対する不安に由来する

世界各地での大混乱が日々目立ってきている様子から

19世紀末期から20世紀初頭における世界的破局を

再び迎えないために「今もっとも必要な視点とは何か?」を

探究していくための1つの論として、

「このような考え方もあるよ・・・」とご紹介させて頂こうとの

想いからです。

著者は、本書において現代資本主義経済思想に内在する矛盾点や

それに対するこれまでの人類史を通じて経験させられてきた代替思想

(社会・共産主義思想やアナーキズム思想など)の問題(限界)点を

詳細に分析考察することを通じて、

それをも克服する視点を提供するもう1つの代替的哲学思想を

解説紹介されています。

ところで、本書の副題には<新時代を拓く進歩的活用理論(プラウト)>

題されていますが、この「プラウト」という名の哲学思想理論を

今回初めて見聞きされた方も数多くいらっしゃるものと思われます。

それもそのはずです。

日本の主流メディアや教育現場ではほとんど触れられることもなく

そのような代替哲学など存在しないにも等しい扱いを受けてきたように

見受けられるからですね。

かなりの読書人を自認される方でさえ、

日頃から社会経済思想哲学に親しまれている方や

いわゆる<精神世界系>著作に触れられる機会がある方でもなければ

この「プラウト(進歩的活用理論)」哲学思想に出会うきっかけも

掴めなかったのではないかと推察いたします。

管理人自身もこの著者のご存在を知ったのは本書が始めてですが、

「プラウト(進歩的活用理論)」自体に出会ったのは

ちょうど20歳の大学生時分でありました。

学生時代に講演会で直接お会いして懇親会でもお世話になったことのある

主流メディアでも時々お目にかかるペマ・ギャルポ先生が訳されていたことも

あったことからラビ・バトラ氏による一連の著作に出会う機会に巡り会い、

この「プラウト(進歩的活用理論)」哲学思想の存在を知ることになりました。

日本では、このラビ・バトラ氏による著作の方が、

一般向けの「プラウト(進歩的活用理論)」入門書としては

比較的知られているようです。

とはいえ、邦訳のラビ・バトラ氏の著作には

「プラウト(進歩的活用理論)」哲学思想の一端しか語られていなかったり、

編著者の独自解釈などが混入されているために

もっと深く突っ込んだ多角的な観点から知りたい・・・

あるいは

編著者の主観的独自解釈が混入される前の

ラビ・バトラ氏自身の原著における論旨解説により近い形態で

「プラウト(進歩的活用理論)」哲学の概要を掴みたいと

思われた読者様もかなりの程度いらっしゃるのではないかと

個人的にも感じられました。

そこで本書内にはそのラビ・バトラ氏によるコラム記事も収録されており

学術的論考集としても我が国でこれまで紹介されてきた書物の中では

必要十分な水準にあるのではないかと考え、

本書をお薦めさせて頂いた次第であります。

そのあたりの個人的出会いのきっかけや

前にも語らせて頂いた大学生当時に受講した

いわゆる「平和学」講義への違和感から

今日に至るまでずっと考え続けてきたテーマなども

本書に触発される中で再考・再認識させられたことも多々ありましたので、

後ほど項目をあらためて語らせて頂くことにします。

その際には、管理人自身も後ほど本文内でご紹介させて頂く予定である

本書コラムにも寄稿されていた「平和学の父」とも評価されている

ヨハン・ガルトゥング氏の近刊本も

本記事創作に当たり読ませて頂いたことをきっかけに

あらためて感じたことなども語らせて頂こうと思います。

大学生当時の違和感も多々誤解や無知、

人生経験の不足欠如分から生じていたことや

その当時の講義担当者の教え方に偏りがあったことにも

原因があったのかもしれません。

いずれにしましても、

今日に至るまでの多種多様な観点からの読書や

価値観が異なる数多くの方々との出会いや対話を通じた

思想遍歴を積み重ねていく過程で

管理人自身も日々多角的かつ柔軟な思考や行動姿勢が

厳しい社会の中を生き抜いていくうえで必要不可欠だと

ひしひしと実感してまいりました。

そのような社会人生活の中から獲得された新たな視点などを語ることは

大変恐縮ではありますが、

きっと皆さんにも知らず知らずのうちに特定の価値観に

凝り固まってしまっている頭を解きほぐすための

何らかのご参考になろうかと思われます。

多種多様な人間がひしめく社会の中で

お互いに居心地よく生活していくためには、

良質な共生感覚を是非とも身につけたいものです。

こうした共生感覚を身につけながら生きていきたいと念願しつつも

言葉で語るのは簡単ですが、なかなか寛容な姿勢で

異なる価値観を持つ人々との共生を望もうと欲しても

人間同士の複雑な利害関係が絡む厳しい局面では、

相互の共感的理解が拒まれてしまう難しい場面が

現実には多々あるということも

誠に悲しいことですが実感させられてもきました。

それでも人類は理想を現実化する努力を続けていかなくてはなりません。

その際の重要キーワードは、

「従来の左右両極思想の対立を乗り越えて・・・」と

「当事者(相手の立場になった場合を想定した)意識の実感力を

いかに高めていくかの日々の工夫と努力」であります。

こうした左右両極思想を乗り越える1つの対話技法として

<弁証法的視点>も提供されてきましたが、

本書によれば、そこにも限界があるようです。

また、今後ますます進展していくであろう

(プレ=前)シンギュラリティー、本格的なシンギュラリティー

(技術的特異点)時代の到来を前にして予想される諸問題や

人類が半ば自明視してきた従来の経済観からの脱却転換が

間違いなく促されていくだろうことから

その時期が現実に到来した際に心理的パニックに陥って

大混乱に見舞われないためにも

今から来るべき近未来社会の「青写真」像にまで立ち入って議論する手がかりとして、

この「プラウト哲学」をキーワードに皆さんとともに探究していこうと思います。

21世紀のこの時期、もはや「左右弁別すべからざる情況」(竹中労氏)に

あります。

本書からは、そうした従来の政治的価値観や経済的階級(層)意識に

由来してきた不毛な党派(立場)的争いを乗り越える知恵も

随所で紹介されていきます。

そうした意味で本書は未来志向のあらたな「対話論」をも考える素材として

良質な教材になり得ているのではないかと確信しています。

このような問題意識から本書を読み進めていくにつれて、

あらためて気付かされたのは

精神面と物質面のバランスこそ大切だとの当然の教訓でありました。

それでは、

「世界的破局への道ではなく、未来志向を宿した人類の霊性の向上をも願いつつ・・・」

本書を解読していくことにいたしましょう。

「進歩的活用理論(プラウト)」入門書としてお薦めします!!

それでは、本書の要約ご紹介へと移らせて頂くことにします。

ちなみに訳者解説によると、邦訳の原書は、

『After Capitalism: Prout’s Vision for a New World』であり、

幾たびかの改訂作業を経た書物として

世界数カ国で翻訳出版されているといいます。

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・「序文 民主主義の腐食と新しい世界へのビジョン」(ノーム・チョムスキー)

・「序言 進歩的活用理論(プラウト)の特質」(マルコス・アルーダ)

・「日本語版への序文」(ダダ・マヘシュヴァラナンダ)

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①『序章 プラバート・ランジャン・サーカーとプラウト』

※まずは、著者や上記ラビ・バトラ氏の師匠筋に当たる

本書の主題である「進歩的活用理論(プラウト)」哲学思想を

創始されたサーカー氏の来歴紹介から語られ始めます。

その過程で、著者の自己紹介もなされています。

<私の体験したサーカー>本書4~5頁ご参照のこと。)

サーカー氏は、インド人思想家ですが、

インド社会においては多大な影響力を誇る

カースト意識や民族主義色の色濃いヒンズーグループからも

またマルクス主義者共産党からも激しい反発や妨害工作を受けたと

いいます。

いずれの政治勢力にも共通する思想基盤には、

<階級(層)意識>が存在しています。

その思想的大前提とする<階級(層)意識>を超越した視点から

社会再構築理論が提示されるプラウト哲学からは

その組織的存在意義が喪失させられる危機感を募らせたようです。

その両者に共通する階級「差別」意識を超克していく視点を

プラウト哲学が積極提示したことによって

インド社会における左右両翼の政治勢力から激しく挟撃されたのでした。

次章以下では、プラウト哲学の具体的解説が始まっていくわけですが、

この序章では下記のようなプラウト哲学の概要定義がまず簡潔に要約され、

本書の出版意図が宣言されています。

すなわち、プラウトとは、

『あらゆるものの福利のためにいかに社会と経済を再編成するかの

青写真』(本書3頁)

『プラウトは、地域を社会経済的に開発しそこに住む人々が

そこから恩恵を得ることができるようにする総合的なマクロ経済モデルであり、

深みのある洗練されたモデル』

『この本は、プラウトのコンセプトと構造の概観を提供するもの』(本書5頁)

まとめますと、

『プラウトは、社会に押しつけるような硬直したモデルではない。

むしろ、自然環境を保全し豊かにしながら、地域を繁栄させていくという、

一連のダイナミックなホリスティック(管理人注:全体論的)な原理からなる』

(本書6頁)発想を基礎に据えた社会哲学思想ということになります。

つまり、上(社会的エリート層の視点)からではなく、

柔軟な「対話」路線を重視した下(民衆視点)からの社会改革を

促す社会哲学思想だということです。

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②『第1章 グローバル資本主義の危機と経済恐慌』

・コラム:<経済恐慌に対する理解と対処>(マーク・A・フリードマン)

本章では、今日の世界的経済危機の根本原因が提示されます。

資本主義が進展・成長し続けるためには、

何らかの「負債(債務・借金)」を負担しなければならないという

構造的問題があります。

「借り手(債務者)」の反対側には、

当然「貸し手(債権者)」も存在するわけですが、

この債権者側が実需経済に必要とされる以上の「過剰」債務が、

特に「第三世界(発展途上国などの経済脆弱国)」に対して

押しつけられてきたことから不公正な経済構造が

意図的に形成されてきた事例が紹介されます。

そうした経済構造の過程で「債権」回収に当たる側は、

世界銀行や国際通貨基金(通称:IMF)といった世界的金融組織・機関とともに

「緊縮」プログラムを組んで、債務国側の経済的自立によって自然成長する中から

債権回収可能な正規ルートを予め封じ込めておきながら

支配・被支配の関係を生み出す「搾取」経済構造を固着化していくことを通じて

バブル経済や経済恐慌へと至る促進要因となる。

それが現代グローバル資本主義経済危機の根本的重大原因だと分析されています。

こうした経済危機に対処し得る案の1つがコラムでは紹介されています。

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③『第2章 スピリチュアルな価値に基づく新しい社会的パラダイム』

・コラム:<プラウトの重要性とプラマー概念>(レオナルド・ボフ)

※それでは、こうした「搾取」に基づいた反倫理的な経済構造からの脱却地点を

どこに求めていけば、現行の歪な社会(政治・経済)構造を変革し得るのでしょうか?

その1つの考えとして、「プラウト」哲学が提案されるわけですが、

そこでは精神的要素(スピリチュアリティー=宇宙的世界観に立脚した<至高意識>)が

きわめて大切なキーワードになるといいます。

つまり、従来の経済哲学(ここでは、主に「資本」主義が批判されていますが、

そのことは歴史的に経験されてきた「社会(共産)主義」経済にも当てはまります。)の

枠組みの中だけでの思考法に止まる限りでは、

「唯物(極端な物質主義)」に偏りすぎた解決法しか生み出さず、

根本的な経済構造の治癒には至らない一時的な対処法となってしまう問題点があります。

そうした限界点を踏まえた問題意識から「プラウト」哲学は、

物質面に精神面も組み込んだ包括(全体論)的アプローチでもって

代替案を提示していきます。

それは同時に近現代的ヒューマニズム(人間中心主義)といった

自然生態系=宇宙意識を軽視してきたこれまでの考えに

大幅な見直しを迫ります。

ここで、

「なぜ、<プラウト>哲学にはスピリチュアルな世界観が組み込まれているのか?」という

疑問が湧いてくるわけですが、その哲学創始者サーカー氏自身が

インド宗教文化の中で育たれた「タントラ・ヨーガの偉大な師」(本書35頁)

だったからだといいます。

そのために、こうしたスピリチュアルな世界観を身につける1つの訓練法として

「瞑想」が推奨されます。(本書51~53頁)

これだけを強調されれば、私たち日本人のような宗教意識にきわめて乏しいと

評価されやすい先進国に住まう通常人にとっては、

敬遠してしまいがちな提案ではありますが、

経済もまた「心」の問題が深く関わるだけに、

その根本のところで先に触れさせて頂いたような

「搾取(唯物=きわめて物質面に偏った)」型経済構造からの脱却地点を

志向するためには、物質面での「制度(本書の表現では<外的な対象>)」を

いくらいじくり回したところで

その改善は一時的なレベルに止まってしまいます。

ですから、現状の経済問題を根本的に改善するためには、

心の内面における平和状態を高めていくことが何よりも大切だと

強調されているわけであります。

そのような心の内面の安定を目指す継続的努力の中から

<社会進歩の新しい定義>(本書43~46頁ご参照のこと。)も

創造されていくことになります。

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④『第3章 生きる権利!』

⑤『第4章 経済的民主主義』

・コラム:<ふさわしい生活資金と質の高い労働環境の必要>

(プラカシュ・ラーファー)

第3章と第4章における論考が、

現代資本主義経済の行き詰まりの打開点を模索していくうえで

最も重要な視点となるのではないかと思われます。

資本主義経済ですから、そのダイナミズムな「自然調整=神の見えざる手?」にのみ

身を任せていくだけの姿勢では、

自ずと不公平な所得格差や不公正な取引場面で人生が翻弄されてしまうことになります。

確かに、資本主義の仕組み自体はよく出来たもので、

経済効率や生産性を高める人々の動機付けを促進させる長所も

社会(共産)主義経済的解決法と比較すると、

歴史上存在してきたことは否めません。

とはいえ、人々の内面に潜む経済的比較優位競争や対社会承認欲求といった

「情動」部分に働きかける威力が強力すぎるために

現代経済社会の中で生きるにはあまりにも過酷な疲労感だけが

残されていく原因にもなってきました。

管理人自身も、こうした現代人が辿り着くに至った経済観を総括するうえで

「なぜ、現代人はこのような経済観に拘泥する思考癖・行動習性に慣れ親しむに

至ったのか?」という問いを立てながら、その思考起源や脱却地点を探究しようと

このプラウト哲学による経済革新論だけではなく、

資本主義に代替する社会主義や共産主義、アナーキズム哲学など代替経済哲学思想を

比較分析考察しながら、普段慣れ親しんできた自身の政治経済的価値観(感覚)とは

異なる視点からもその手がかりを探究中ですが、

この問題解決策を根源から導き出すためには

生物学的視点が何よりも必要不可欠だと考えるに至りました。

そのために、最新の脳科学や行動経済学の知見なども参考にしながら

「経済脳(対経済<情動>反応・作用)」に関する側面に焦点を当てながら

独自調査研究もしています。

そうした中で次第に判明してきたのは、

人類は、必ずしも「利己」的でも「利他」的でもない両義的存在ではないかという

「第3の道」による仮説も成り立つのではないかという再認識でした。

「利己」的側面に関しては、昨今の遺伝子生物学者などが多くの仮説を提出されていますし、

「利他」的側面に関しては、生物学の見地からはなお深く分析「観察」していく余地も

ありましょうが、社会思想家のクロポトキンが論じた『相互扶助論』なども

一検証事例として一考に値する見方だと思われます。

なぜならば、人類がもし「利己」的な遺伝子だけで私的欲求を満たす

生存志向(生き残り戦術・戦略)だけに比重を置いてきたとしたら、

現代人の大多数がこの世に存在し得なかっただろうと容易に推理出来るからです。

このあたりも「進化論」的見地とも組み合わせながらさらなる探究を深めつつ、

今後とも皆さんに有意義な議論をして頂ける書物をご紹介させて頂く予定でいますが、

差し当たって判明してきている知見をまとめてみますと、

人類は、環境に合わせて遺伝子に内蔵された「情報」を絶えず組み替えながら

生き残りを図ってきたのではないかという仮説が有力になりつつあるということです。

そうしたこれまでの人類史の壮大な枠組みを総括し直す中で、

本書で解説紹介されるプラウト哲学もまた人類が持つ様々な気質・性格などを

考慮したうえでの総合的バランスを踏まえた経済観の転換へと至り得る代替案を

提示していくことになります。

第3章では、<コミュニズムとの相違>(本書64~65頁)や

<プラウトの5つの基本原則>(本書66~71頁)が中核論考であり、

特に第4章の『経済民主主義』とも関連する論考としては、

人々の生活保障を図るうえでの従来型の所得分配政策の問題点などが

提示されています。

「最低」所得保障制度のあり方を巡っては、昨今様々な場面で取り上げられるに

至り始めていますが、

まだまだ旧来のイメージ(『「所得」とは何が何でも働いて稼ぎ出すもの!!』だとか

『「正」社員雇用こそが絶対的安定所得保障制度を担保するもの!!』などと

する強い世間的バイアス)が強くあって、政府が推進する<働き方改革>を

巡っても百家争鳴状況にあります。

いずれにせよ、こうした<働き方改革>を実現させていくためには、

政府や世間動向ばかりに身を委ねるだけでは足りません。

私たち自身の普段からの働き方の見直しを含めて、

出来る範囲から一歩一歩地道に取り組み始めていく他ありません。

そうした旧来イメージの中での「最低」所得保障制度としては、

生活保護制度などがありますが、本章では触れられていませんので、

本章論考点からは、「最低」賃金制度がイメージされることになります。

しかしながら、この「最低」賃金制度だけでは、地域差にもバラツキが出てきたり、

それを基準に低水準に「据え置かれたり」するなど、

特に「非」正規労働者(ここ数十年の若手「正」社員も含む)の経済的立場が

不安定なままに推移させられ、「雇用」の安定保障と引き換えに

「生存・生活」そのものが<人質>にされかねてしまいかねません。

実際にこの20数年間の我が国の雇用労働環境で起き続けてきた事態であります。

こうした現行の「最低」賃金制度の限界点も精査したうえで、

資本主義の長所でもある生産的に働く動機付けも一定程度までは評価しながらも、

従来の給与所得の「上限」には制限がなかったということが

格差助長の問題点だと摘出したのがプラウト哲学であります。

プラウト哲学による「賃金」の決まり方に関する分析考察と改善案が

本章では論じられています。

「上限」に関しては、税制面(ことに累進課税制度など)が

その事実上の歯止めとして期待されてもきましたが、

現状では(最近では多少変化しつつもありますが・・・)

その正反対の方向で税制改革が推進されてきたことは周知のとおりです。

いずれにしましても、「上限」といっても人間には物理的な限界があることから、

従来の経済学も受容してきた「収穫逓減の法則」を大前提に

プラウト哲学では修正「項」を設定します。

第3章の<最低賃金と最大賃金の設定の経済的指標>(本書74~77頁)では

ラビ・バトラ氏によって考案された<アティリクタムの原理>に基づく

収入分配システムがその一例として紹介されています。

なお、<アティリクタム>とは『最低限の必要がすべての人に供給された後、

なお社会に残る余剰分』という意味であります。

続いての第4章では、産業構造や金融システム、貿易面、税制面での分析考察と

それに代替する提案がなされています。

さらに福祉経済の観点からは、昨今注目されることも多い

アマルティア・セン氏の福祉経済学とプラウト哲学による福祉経済論の

相違点が簡潔に要約されている点も読みどころです。

(本書95~97頁)

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⑥『第5章 協同事業による人間のスピリットとダイナミズムの活用』

⑦『第6章 持続可能な農業と環境保護』

第5章では、プラウト哲学と従来の社会主義が

提示してきた協同事業・協同組合論に関する相違点などが語られています。

<労働者の協同組合>本書102~104頁ご参照のこと。)

第6章では、農業政策論と環境生態論について論じられています。

プラウト哲学による農業「革命(改善)」論の面白い点は、

工業化や科学技術の導入も現代農業「革命」には必要不可欠な点を

容認しているところです。

すでに現状でも「6次元」農業化(農業×工業×商業流通=1×2×3=6)や

革新軍人であった石原莞爾将軍なども戦後著作などで提示されていた

「農工一体の生活」などにそのアイディアの萌芽がありましたが、

我が国の狭い国土内で手っ取り早く生産高を上げるためには、

「集約」型に特化されていく傾向にありました。

また、都心(会)と地方の国土の有効活用という観点からも

著しくバランスが欠けてしまうといった問題点もありました。

そのような問題点を改善するための試案も本章では提示されています。

ことに、農業に工業や商業流通を組み合わせた場合の

一連の系列回路に関する改善案の下記の論考は参考になりましょう。

・<農村地域の開発-アグロ(収穫前)工業とアグリコ(収穫後)工業>

(本書124頁)

・<バランスのとれた経済>(本書125~127頁)

このあたりを踏まえながら、本書でプラウト哲学が想定する概略イメージからは

都市と地方の「均衡」的発展というところまでは見えてきます。

こうした観点から

今後の日本社会における中長期的少子高齢化と人工知能技術の進展などを見込んだ

都市政策に関する最近の論者の議論傾向を眺めていますと、

どうしても「スマート(コンパクト)シティー論」に偏りがちに

見受けられますが、

今後はこうしたプラウト哲学が問題提起するような角度からも

その実現後に生じ得る諸問題点をいかに克服していけばよいのかといった

さらなるより望ましい改善論の方向性(政策案)を見出していく際の

参考意見の1つとしても考慮して頂ければ、

紹介者として幸いであります。

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⑧『第7章 階級と階級闘争の新しい定義』

・コラム:<マルクスとサーカーの階級分析の比較>(ラビ・バトラ)

⑨『第8章 革命と革命家』

・コラム:<プラウトの社会サイクル論>(ヨハン・ガルトゥング)

第7章と第8章では、主に革命と階級意識(闘争)をキーワードに

本来であれば社会をより望ましい方向へと変革推進するはずであった

従来の社会主義や共産主義などの「社会変革論」が

なぜ、その当初の意図から外れていったのか、

また一般公衆の支持を次第に喪失させていくことになったのかなどを

再検討することを通じて、プラウト哲学における社会階層分析論や

社会変動(サイクル)論(つまりは、過去から現在に至る社会現状分析結果によって

見出されてきた動向から推論される未来変動予想論)が提示されます。

プラウト哲学が説く階級分析論や社会サイクル論の基礎付けは

サーカー氏によって提唱された4つのカテゴリーからなされています。

詳細は本章解説に委ねさせて頂くことにしますが、

インド社会で深く根付いてきたカースト制度における諸階層用語を

アナロジー(類推)モデルとした形態に近い分析になっていますが、

あくまで似て非なる概念のようです。

あくまで、『人間の心(マインド)』を中心に見た

『「ヴァルナ」あるいは「心的色合い」』(本書137頁ご参照のこと。)を

手がかりに人間的心理が社会動向にどのように投影されていくかを分析することで

社会には一定のサイクルがあるとの仮説が提示されます。

上記のようにカースト制度における諸階層名を想起させるようなモデルには

なっていますが、カースト制度での階層定義やイメージ像とも異なり、

その時々の社会傾向も必ずしも固定化されているわけでもなく、

一応モデルとして提示された4つのカテゴリーが複雑に組み合わさって

時の「主流」社会傾向が形成されていく様が説明されるわけですが、

そこには「色合い(強弱)」もあって、あくまでもその時代における

4つのカテゴリーで定義づけされたどのタイプがより強く投影されるかによって

社会動向が決定されてくる・・・

そのようなイメージでの社会サイクル論となっているようです。

ことにマルクス主義における階級分析論との相違点は

ラビ・バトラ氏によるコラム記事をご参照願いますが、

一点だけ強調させて頂くとするならば、

サーカー氏の分析論の1つにすでに<序章>や<第2章>の要約箇所で

語りましたような宗教色が強い部分があるとはいえ、

従来の宗教・宗派層が招来してきた宗教「観」の問題点をも

超克していこうとするのがサーカー氏のお立場ですし、

既存の経済(政治・社会文化も含めて)観をも転換超克し得る視点を

提供しようとされるお考えですので、

ラビ・バトラ氏によるコラム解説によれば、

より精神性の高い『真のスピリチュアリティ』(本書151頁)を

志向した観点からの代替哲学となっているといいます。

こうした既存の世界観からは、物質主義や(狭義)の精神主義にあまりにも

偏り過ぎたために時に時代風潮が「唯」物的方向へと、

また、「唯」心的方向へと極端な二項対立図式へと嵌り込むことが

多かったからです。

そうした反省点からより高い次元での精神性(=真のスピリチュアリティー)をも

加味させた視点からの代替哲学となるわけですが、

重要な視点は、ここでも<調和=バランス>であります。

宇宙(至高意識=人によっては<霊的意識>と表現される方も

おられるでしょうが・・・)次元に立脚した地点から見た

いわば階層(級)「闘争」廃絶論の視点がサーカー氏には見受けられるようです。

そうした志向性からこれまでに人類が経験してきた闘争意識を

どのように超克していくべきか、その具体的イメージ像を提示しながら

社会的リーダーシップを発揮していく役割を期待されているのが

「サドヴィプラ(スピリチュアル革命家)」であります。

本書159~166頁あたりで

その詳細なモデル像が語られています。

ある種の「<魂>の永久革命論者」でありましょうか?

いずれにしましても、対立・闘争を超克していくための道標を提示する

リーダーには、高度な倫理観と使命感が厳しく要請されるということだけは

間違いないところです。

そんな視点とともに第8章コラムでは、「平和学の父」と称される

ヨハン・ガルトゥング氏もサーカー氏の理論を解説されています。

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⑩『第9章 倫理と司法の新しいコンセプト』

第9章では、サーカー氏による<個人と社会の変容のための倫理>

(本書175~177頁)として

<10の普遍的原理>(本書177~184頁)が提示されています。

キーワードは、<プラマー(動的な均衡)の回復>であります。

その立場からのサーカー氏の司法制度「改善」論の1つに

<更生的司法>(本書186~187頁)のモデルがあります。

イメージとしては、加害者の心理的「治癒」による更生と

加害者から被害者への「心」からの反省による「謝罪(自責の念の自発的形成)」、

および被害者からの「許し」といった双方から歩み寄る

「和解」へと至らせる条件(環境)を整えるように導く司法制度のあり方でしょうか?

いずれにしましても、従来の「応報」刑罰論はもとより

「教育改善」刑罰論だけでも克服し得なかった限界点を考慮した

新しい司法制度・刑罰論の一端が語られています。

日本における司法教育現場では、<修復的司法>と呼ばれる考え方に

比較的近いイメージかもしれませんね。

とはいえ、第9章末尾における<薬物乱用は健康問題である>

(本書193~194頁)論は、管理人自身は、一部その趣旨に賛同し得るも

かなり否定的に感じたところでもありました。

とりわけ、昨今の日本社会では「薬物犯罪に甘すぎるのでは!!」という

悪質な事例が多く見受けられます。

薬物(アルコールや性犯罪なども含めて)「依存症」を

どのように解決していくかという問題とは別に

現在、新自由主義の観点から、

その「合法化」を目指すグループの深層心理や予想される社会への悪影響効果も

含めて、幅広い観点からの議論が望まれるところでもあります。

特にこの新自由主義的観点からの「合法化」論は、

きわめて経済的利潤追求だけに偏った側面が強く感じられるだけに

今後の動向に注意が必要でありましょう。

この角度から、いわゆるカジノ合法化論なども

さらに慎重な再検討が要請されるところです。

<漂泊される=表と裏社会の線引きなき>社会(開沼博氏の著書で

世間に浸透しつつある社会学的見方)はきわめて防犯・治安上も危険でありましょう。

いやむしろ、その「暗黒部(アングラ社会領域)」の「見える化」こそ

現代国家が目指す究極の「心」とも巷間よく語られていますが、

一般公衆の立場からは不安に感じられるのも通常人の「心」だと思いますが、

皆さんならどのようにお考えになられますでしょうか?

歴史的には、こうした社会の暗黒(恥部)面を

ただ封じ込めればよしとする「隔離論(封じ込め戦術・戦略)」が

うまく成功を収めた事例も少ないようですが・・・

ただ、最近の議論されている志向性からは、このような「見える化」政策も

国家経済面から論じられる側面(例えば、税収増への期待感)に

あまりにも比重が置かれすぎていると感じられますが、

皆さんならどのようなご意見をお持ちでしょうか?

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

⑪『第10章 「私たちの文化は、私たちの強さである!」

~文化的アイデンティティと教育』

⑫『第11章 コミュニティの力を強めるプラウトの政治システム』

・コラム:<プラウト運動の将来>(ソハイル・イナヤトゥラー)

第10章と第11章では、プラウト哲学から見た文化政策論や

地域連帯を基礎付ける政治システムのあり方などが解説されています。

グローバル経済がますます進展する中で、地域に昔から根付いてきた

特殊文化を護持しようとすること自体は、

必ずしも偏狭なナショナリズム的姿勢だと否定し去ることは出来ないでしょう。

むしろ、その姿勢が他者(文化)に排他的でなく多様性を容認する

<寛容性>と<相互自治権>が尊重される限りにおいては、

今日、「右派」であれ、「左派」であれ、

概ね共通意識として受容・共有され得るものと思われます。

問題は、ナショナリズムであれ、グローバリズムであれ、

その勢いが一方的に偏ろうとする時代においてこそ、

比較的バランスが取れていた平穏時には潜在的に隠れていた

人々の脅威感覚とそれに対する心理的・物理的「情動」作用が

強く作動し始めるというところにあります。

そのような状況にある時、どのような教育や運動方式が

有効に働くのかを考える素材として、

サーカー氏は、「サマジ」運動を例示されています。

(本書205~209頁)

本書では、現代グローバル「資本」主義への批判と

それへの有効な代替論や抵抗論などが語られていますが、

それは、汎地球規模(グローバル)になればなるほど、

社会主義であれ、共産主義であれ、他の宗教的勢力拡大にせよ、

「一律」に伸張していくことで、他の文化的規範や

民俗的様式を縮小させる方向へと誘導していく特徴があります。

巷間、イスラム文化やユダヤ=キリスト教文化も多々誤解されていますが、

いずこの時代・国家(宗教)文明圏においても

繁栄かつ摩擦が最小限に抑制され、

安定的発展にあった時期には、

必ず何らかの「文化的寛容政策」が採用されていたことも

世界史的教訓から読み取れるところです。

ということで、やはり無用な摩擦や対立闘争を招来させる要因には、

「一元的統合観」があると申せましょう。

こうした問題点を克服し、多様性をも容認し得る政治システムとしては

いかなる形態が最適なのかという問題が第11章で論じられています。

そうした環境条件を整える基盤として、プラウト哲学にも

人類共通の「普遍的志向」に立つ憲法(本書216~219頁)や

世界政府的な視点(本書219~221頁)もあるようですが、

この「世界政府」というのも何かと誤解されがちなところでしょう。

歴史的な「世界政府論」に関しては、

哲学者カントによる『永遠平和のために』などが有名ですが、

その路線に沿って、現行の国連やその他国際的組織が成長してきたかと言えば、

否定的評価がむしろ大多数であるように見受けられます。

つまり、世界のすべての国家や人種・民族に関して

同等の権利が保障され、実質的に平等な「拒否権」などが与えられている

状況にあるとは言い難いことは誰しもご承知のことだと思います。

現実には、その時代ごとの有力「覇権」国によって、

本来の「拒否権」が有する思想的思惑とは異なる方向で、

誤用されてきたからです。

この時点で、現行の国際的安定秩序の行く末は

ただただ「運任せ」の要素が強く出てくることになります。

世界政府(連邦)論」にも多種多様なイメージ像がありますが、

問題は仮定の思考実験として、実現可能だったとして、

別の権力「一元化」論が出てきてしまうことです。

この「一元化」に対しては、強いものから緩いものまでイメージ幅も

あると思われますが、強すぎれば権力の暴走と腐敗を招き、

緩すぎても各自バラバラで人「類」相互の協力体制が

脆くなってしまうという問題点が出てきてしまいます。

管理人のイメージするカント的「世界連邦論」では、

バランスの取れた中庸的国際秩序ということになりそうですが、

彼が、その実現の大前提条件に、

人「類」各自における強い倫理的規範意識を育成させることが

何よりも重要不可欠だと考えていたように

プラウト哲学においてもまた、

より高次の「至高意識」が必要不可欠だと考えられています。

本書において、プラウト哲学が最終的に目指す「世界政府(連邦)論」が

具体的にどのようなものなのかは抽象的にしか論じられていない

(例:『サーカーの目標は人類の統一』、『サーカーは、意識を高めるための

重要な契機として、無私の社会的奉仕を強調』本書220頁などの総括)ように

管理人には見受けられましたので、

今後もっと煮詰められた論考を

プラウティスト(プラウト哲学実践者・紹介者)の皆さんには

是非お願いしたいのですが、

その際に是非とも提出して頂きたくお願い申し上げる点は、

従来論じられてきた「世界政府(連邦)論」との決定的相違点や

一部(上記のように「一元化志向」に立てば、

権力と権威が特定機関や特定人(階層)などに過度に集中することが容易に予想されるために

生起してくる人々の不安感から大多数の方々も当然に抱かれる疑問でしょう。)の

俗に言う<陰謀論>者が懸念するような違和感に適切な回答を

ご提出願いたいというところであります。

いずれにしましても、プラウト哲学の理念がきわめて優れたものであり、

今後の人類の霊的成長(高次元への意識の進化)を促進させていく

道標であることは間違いなく管理人も確信していますので、

このプラウト哲学の紹介普及とともに新たな時代に相応しい

政治経済システム構築のヒントとして、

皆さんにもご検討・ご活用下さることをお薦めさせて頂きます。

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⑬『第12章 行動へのよびかけ~プラウトの実践戦略』

⑭『あとがき もう1つの世界をつくる可能性は私たちの手のなかにある』

(フレイ・ベットー)

※第12章からあとがきは、

その「実践的ススメ」のような広報宣伝的内容でまとめられています。

ご興味ご関心ある方は、各自本書で紹介されている

プラウト哲学(運動)に関するウェブサイトなどをご活用下さいませ。

(とはいえ、いずれも海外サイトなので、

一般読者さま(管理人も含めて)におかれましては難関な課題となりましょう。

そこで、管理人も日本におけるプラウト哲学に関する情報を

提供して下さっている<良質>なサイトがあるかどうかと検索していたのですが、

どれもこれも??だらけで、どうしてもオカルト精神世界系的な傾向になりがちで

今ひとつ信用の置けないものばかり・・・。

そんなわけで、しっかりとした学術的論考や議論素材に耐え得るのは、

本書監訳者でもある神戸大学名誉教授でいらっしゃる岩崎信彦先生によって

ご紹介された本書が今のところ本邦唯一??の書物ではないかという次第です。

どうしてもこの種の精神(霊=スピリチュアリティー)的次元にまで考察を

及ぼした経済書となると、学界でも主流メディアでも受けが悪く

無視・敬遠されがちですから・・・

本書は、そんな「偏見」や「陰謀論的視点」とも無縁な好著だと評価しましましたので、

これからプラウト哲学に入門される方にとっては最適な「入門書」となることでしょう。

こうした点があることは何卒ご了承願います。)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

・注

・参考文献

・訳者解説 サーカーの進歩的活用理論(プラウト)の現代的意義(岩崎信彦)

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「平和」とは単なる「戦争」の反対概念ではなく、その状態構築には粘り強い継続的「対話」努力が不可欠~ヨハン・ガルトゥング氏とともに従来の平和状態構築運動の問題点を総括しよう~

さて、本書の概要紹介につきましては

このあたりで打ち止めとさせて頂くことにいたしましょう。

ここからは、先に触れさせて頂いたヨハン・ガルトゥング氏の

<構造的暴力>と<積極的平和>をキーワード

本書の話題であるプラウト哲学とも絡めて、

本記事のまとめとさせて頂くことにします。

ところで、管理人も学生時代からこのガルトゥング氏のご存在を

大学時代の「平和学」講義で知るきっかけを掴みましたが、

当時も今も多大な誤解をしてきました。

今回も本書に関する書評記事創作に当たっての

参考文献の1冊としてガルトゥング氏の近刊本

『日本人のための平和論』(ヨハン・ガルトゥング著、

御立英史訳、ダイヤモンド社、2017年第1刷)などを読みながら、

現状の厳しい世界情勢に鑑みると

「かなりの理想論(主義者)であって、こうした角度によるアプローチからの

平和状態構築はきわめて困難じゃないの・・・」

いわゆる「保守派」の方々が抱きそうな一抹の不安感や嫌悪(違和)感、

世間一般的にも出そうな消極(否定・批判)的な意見・感想も

正直なところ要所要所で抱きましたが、

本書とともに読み進めていくと、

ガルトゥング氏自身は従来の「左派リベラル」の方々にありがちな

教条的解決を望まれるような論者ではないことも次第に判明してきました。

少なくとも誠実かつ真剣に後の世に禍根を残すことなきように

<未来志向型解決法>を試行錯誤しながら探究されてこられた識者だということは

行間から読み取れ、個人的には好感が持てました。

管理人もこれまで、「右派」と「左派」の両極を思想遍歴しつつ、

厳しい生活環境の下、現実社会を生き抜いてきましたが、

双方の言い分にも相当程度は理解し得る余地がある反面、

双方が歩み寄りながら「折り合い」を付けようとする視点が

昨今の社会風潮や言説の中ではきわめて乏しいことが

自他ともに生きづらく居心地の悪い感じに思われる

日本社会のここ数十年の世相と社会的思想混迷状況を

もたらしてきた最大要因なのではないかと考えています。

つまり、今の日本社会においては開かれた「対話」がなされる

ゆとりもかなりなくなってきているとの焦りから

「選別!!」だとか「ヘイトスピーチ」的言説が

世に満ち溢れてくる根拠となってきたのではないかということです。

「選別」も政策選択をしやすくするための便宜上の手法であればまだしも、

もはや、事態は単なる「差別」観が如実に現れ出たり、

政治目的における手段と理念目的が顚倒するような状況にまで

立ち至っているものと実感されます。

そうした昨今の世相に対する不安感や違和感を抱き続けてこられた

読者様もきっと数多くいらっしゃるだろうと思います。

とはいえ、そのような言説状況が出てくる思想背景にも

必ず何らかの<あまりにも人間的な>理由があるはずで、

ただその種の言説(動)を批判し、

政策的(条例などでの規制措置)に消去し去るようにし向ければ済むと

いうものでもないことは確かでありましょう。

その種の言説(動)が出てくる背景事情にある社会的「構造」にも

根本的な原因を探らない限り、「抜本的解決」にまでは至らないからです。

そのあたりの背景に根強く存在する(してきた)根本的要因のことを

ガルトゥング氏は、<構造的暴力>と表現されています。

本書であれ、ガルトゥング氏であれ、その他の論者であれ、

はたまた管理人自身の言説や感じ方自体がいついかなる時も

全面的に正しいわけではないということは留保しつつも、

迷いながらも、理想社会の実現へ向けた着実な歩みを進めていくうえでの

勇気と知恵を授けてくれる1冊として皆さんにもご一読されることを

お薦めさせて頂きます。

必ずや「賛否両論必至」の論考だと評価されることと思われます。

おそらく、今の日本人の知性(知恵)と度量を試す試金石となる書物だと

思われるからです。

ガルトゥング氏の思想を解読するうえで、この<構造的暴力>とは別に

<積極的平和>という概念もありますが、

あくまで現政権の主張するイメージとは異なるものだと

各所で説き廻られているようです。

某国との外交交渉を巡っては、

現政権は、「対話よりも圧力を」に比重を移している途上ですが、

ガルトゥング氏のご意見では、そのバランスに著しい偏りがあるといいます。

ガルトゥング氏自身も極限状況下では、場合によっては、

ある程度までの「圧力(武力介入の余地)」の可能性も

認めておられるようですが、その正当化の条件は

きわめてハードルの高いものだといいます。

<武力介入は正当化されるか>本書164~166頁ご参照のこと。)

とはいえ、博士はインドのマハトマ・ガンディー氏から

多大な影響を受けられたそうで、

理想的な「(圧力というよりも)抵抗」モデルを

「非暴力不服従」原理に置かれているようです。

スイスの国防システムなども高く評価されているようです。

<日本の防衛はどうあるべきか>、<非暴力不服従の力>、

<スイスの軍事ドクトリンに学ぶ>本書48~53頁ご参照のこと。)

そして、博士は紛争解決法を二項対立やゼロサムゲーム図式ではなく、

そうした決定的破局へと至りやすい枠組みを「超越」した

第3の視点で根本的に紛争の根を絶つ道を探究・提唱されてこられました。

もともと若き日々に数学を研究されておられたそうで、

そこで獲得された知見とともに社会学にも応用出来ないかと志したところから

今日の「平和研究」に立ち至ったとも上掲書中で語られています。

博士の具体的な紛争解決手法については、

上掲書巻末付録3

<トランセンド(管理人注:超越という意味)による和解のための12の方法>

(上掲書250~251頁)において提示されています。

ここでは、今話題のハワイのホ・オポノポノ(別名カフナの知恵)の

アイディアも採用されています。

この他にも<構造的暴力>を抜本的に取り除く方法論の1つとして、

人間の欠乏感に由来する心理的・物理的不安(恐怖)感から

湧き出てくる生存のための闘争本能を少しでも軽減し得る方策として

プラウト哲学とも共通する基礎的生活保障制度の考えなども

提案されています。

<ベーシック・ニーズの保障と社会の安定>上掲書196~198頁

とはいえ、ベーシック・インカム(基礎所得保障)とも微妙に異なるようで、

博士自身は、ベーシック・ニーズ(基本的必要)の方に

より比重を置かれていると語られています。

ベーシック・ニーズの方が、ベーシック・インカムよりも

概念的に幅が広いからだそうです。

いずれにしましても、人類の長年の悩みの種であった対立・闘争の

根本的要因には、

欠乏から死へと至る危惧感と比較優位観に由来する嫉妬感情の発露

大きな原因となってきたようです。(←こちらは管理人の私見仮説ですが・・・)

さらに厄介な点は、最新の脳科学の知見からも

人類の脳が外部環境とともに発達してきたにもかかわらず、

未だに「原始(情動)」脳部位が優位に立っているらしい・・・という

ところにありそうです。

この欲動感情をいかに制御するかの知恵と工夫を学ぶのが

本来の学問と芸術創作にはあるのだということを

博士の持論<平和のための文学と芸術>論(上掲書215~219頁)とともに

管理人も重ね重ね繰り返し強調させて頂きます。

『明日死ぬと思いながら今日を生き、永遠に生きると思って学びなさい。』

(マハトマ・ガンディー)

であります。

そして、『悪を倒そうと思うのではなく、悪は克服するものである。』

(管理人の敬愛する京都のとあるバーのマスターの言葉)

であります。

人間はこのことを学ぶためにこそ、生まれてきたのです。

管理人もまだまだ精進の身。

死ぬまで、いや、死後も精進し続けることを願い誓いたいものです・・・

最近理数系とくに物理学的世界観と仏教的世界観を学び続けていて

つくづく良かったと思われることは、

上掲書でも触れられていましたが、

この世は陰と陽の両極によって成り立っていると見立てる

「相補性原理」を知り得たことです。

もう1つ感受したことは、

ここのところずっと二項対立的発想から抜け出るための

あらたな「対話技法」にも同時着目してきたのですが、

その1冊にフランスの文学者兼哲学思想家でもある

モーリス・ブランショの『終わりなき対話』論がありました。

個人的には、邦訳にわかりにくさを感じながらも、

何とかブランショ氏の意図するところを汲み取ろうと

努力はしてみたのですが、一読では何を言わんとしているのか

判読が難しく断念。

時間をおいて、ブランショ氏の関連書や解説書なども参照しながら、

じっくりと今後「暇」な時空間が出来たら挑戦してみようと願っています。

管理人の掴んだところでは、

要するに、「言語外にある領域にこそ、人間の<本心>があるんだよ!!」

いったところで、サン・テグジュペリの『星の王子さま』とも共通する

『大切なことは目に見えないことだよ!!』ということを伝えようと、

この言語外のニュアンスを無理にでも言語化して記述説明せんと

悪戦苦闘していたのが、ブランショ氏の姿だったようだとのところまででした。

(ごめんなさい。誤読かもしれませんが、ブランショ氏の一連の著作に

挑戦された読者様がいらっしゃれば、その「心」をご教示願えると幸いです。

ブランショ氏もまたフランス・モラリストの系譜に属する文学者のようで、

<逆説>や<暗喩>から直接言語で記述し得ない領域を言語化しようと

される方のようですね。

それは、もはや詩や音楽譜でもってしか表現しようがない

特殊な文学的世界観のようですね・・・

ブランショ氏の本を読み進めながら、また本書やガルトゥング氏の著書を

読み進めながら思い至ったことがあります。

それは、思想遍歴を繰り返す過程で、己の無知に気付き

それまで抱いてきた世界観が少しずつ崩れていき、

あらたな発見をし、意見や価値観自体を変革させること自体は、

「転向」でも「卑怯」なことでもないということです。

この点で、皆さんも他人から貼られた「レッテル」など無視して下さいね。

「それは、あなたの<わたし>への勝手な解釈(イメージ像)でしょ・・・」

程度に適当に「捨て置く」のが身のためです。

ちなみに、管理人は最近、この「捨て置け!!」という

心の内面からの声に従うことにしています。

実際に、抑鬱状態もこの「念仏(ご真言)??」を

心の中で反芻することで、時間はかかりましたが、

何とか自然治癒させるに至りました。

あくまで「<わたし>は<わたし>!!」ですからね・・・

どんな<わたし>かは差し当たって脇に置いておくとして・・・

それにこの前も触れましたように、

<わたし>などという存在は、諸行無常・諸法無我で絶えず生成・消滅しながら

形成されていくものですから、「これが<わたし>だ!!」と断言し得るものなど

真実のところあるのかないのかもわからないからです。

ただ、『「私」自身が<わたし>とはこういった性格・気質だ!!』と

思い込んでいるに過ぎないだけかもしれないからです。

そう思い込みでもしなければ、精神安定面で気味が悪いから

そう思っているに過ぎないかも仮説です。

言い換えますと、より円やかな熟成度が深まったというのか、

思考や想像力が深化(進化したのか退化したのかはわかりませんが・・・)した

結果だと解釈し得るからです。

ですから、己の無知に気付き、心の弱さと向き合うことは

むしろこれもまた、<あまりにも人間的>なことなのです。

「汝、自身を知れ!!」

これほど人生にとって難しい課題は他にありませんが、

真剣に取り組むに値する壮大な「事業(仕事)」であります。

『「書くこと」で、自ら思ってもみなかった発見がある!!』とは

管理人も読書会でたびたびお世話になっている先生のお言葉ですが、

最近この言葉が脳裏から離れません。

特に、文筆家にとっては、「書くこと」は己自身の「恥部」を

世間様に公表することでもあり、大いに勇気のいることであります。

しかし、その恥ずかしさも同じような悩みを抱かれる方にとって、

少しでも何らかのお役に立っているのだと(大変恐縮ですが・・・)

信じ切れば、前に進めるというものです。

その意味で、前にもどこかの記事で語りましたが、

管理人にとっては、「書くこと」は精神分析の一手法なのかもしれませんね。

彫刻もまたしかり。

彫刻の場合は、360度からの立体感覚が必要不可欠な能力となりますから、

偏りある局面がすぐに現れ出てきます。

その意味で、一瞬一瞬が気の抜けない根気のいる手仕事となります。

そして、荒削りから小作り、仕上げへと至る一連の作業工程の中で、

自ずから「阿吽の呼吸」のリズムを掴み取る精神鍛錬ともなります。

「学術も芸術創作も、絶えず己の<心>を見つめなおす作業」です。

このことがやがて、自己自身の本来の真面目(良知=良心)を発揮させ、

未来の兆しをキャッチすることにもなると

私淑させて頂いている陽明学の師匠も語られています。

今回は、「戦争を含めてあらゆる暴力の根絶に向けて・・・」が

1つの大きな主題となりましたが、

陽明学の創始者である王陽明自身も「軍人」でありました。

そうした自己鍛錬の中から紛争の火種を予めキャッチし、

根本から「抜本塞源」されたと語り伝えられております。

「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し!!」

有名な王陽明語録ですね。

王陽明が、後に「陽明学」につながる発想を得た契機を<龍場の大悟>と

いいます。

奇しくも、管理人が敬愛する宮本武蔵も京都洛北は一乗寺にある

八大神社にて、本来の「武人」としての大悟を得たとも言われています。

ちなみに、<今月の言之葉>にて

『洛北の 下り松木が 人寄せる 紅葉色づく 行楽日和』

歌われている『下がり松木』とは

あの吉岡一門との決闘の地である「一乗寺の下がり松」のこと。

さらにその場は、奇しくも「楠公さん」の布陣地でもあります。

戦やあらゆる暴力を抑止するためには「今、何がもっとも大切な視点となるか?」

心ある方には、是非この地を訪れて、

心の中でいにしえの賢人との「対話」をして頂きたいと思います。

すでに紅葉も散り始めの時期ですが、まだ間に合いますかどうか・・・

さらに「一乗寺」ついでの書物絡みの話題となりますが、

管理人も今回初めて、若者読書人の間で人気ある

恵文社一乗寺店』さんを訪れました。

その日は何かのイベントがあったらしく、雨の日にもかかわらず

若者たちで店内は賑わっていましたよ。

こちらの書店も是非一度訪れてみてはいかがでしょうか?

余談でした。

閑話休題。

博士の<構造的暴力>の除去もそうした志向の中にあるものと信じて、

皆さんも日頃慣れ親しんできたご自身の価値観と

あらためて対面・対決することで、

自他ともに<心>からの「和解」に挑戦し始めようではありませんか?

それでは、管理人はもとより、皆さんにおかれましても

社会的「偏見」をなくすことはかなり難しくとも、

1人1人の「居場所」がこの厳しい社会の中に見出されることを祈りつつ、

幅広い読書のきっかけと人とのご縁を取り結ばれていかれる過程で、

少しでも心理的・物理的不安感が軽減され、

心の平安を築かれていくその一歩一歩の道のりが

世界平和を創造させ得る何よりの前提条件だということを

重ねて強調させて頂きまして、筆を擱かせて頂くことにします。

今回もまた更新に時間がかかりましたが、

毎回毎回渾身の魂を込めて創作していますので、

皆さんのお力添えに少しでもなれれば幸いであります。

それでは、皆さん。

またの日にお会いしましょう。

新嘗祭(勤労感謝の日)に生きる歓びを噛み締めて・・・

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

なお、ご参考文献として本書第1章の「債務論」につきましては、

『債務、さもなくば悪魔~ヘリコプターマネーは世界を救うか?~』

(アデア・ターナー著、高遠裕子訳、日経BP社、2016年)

『負債論』

(デヴィッド・グレーバー著、酒井隆史訳、以文社、2016年)

また、あらゆる「プロパガンダ」へのリテラシー能力を磨くヒントを

提供してくれる書物として、

『民間防衛』

(スイス政府編著、原書房編集部訳、原書房、1995年新装版第10刷)

『戦争プロパガンダ10の法則』

(アンヌ・モレリ著、永田千奈訳、草思社文庫、2015年第2刷)

を併せてご紹介しておきます。

最後までお読み頂きありがとうございました。

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