今村仁司先生の『貨幣とは何だろうか』キャッシュレス社会が招き寄せるかもしれぬ戦慄の世界を回避する知恵を学ぼう!!

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今村仁司先生の『貨幣とは何だろうか』

今から遡ること25年ほど前のこと。

貨幣「廃棄」へと突き進む未来社会に悪夢を見た賢者あり。

昨今キャッシュレス社会化が進み、評価経済論が話題となっています。

芸能人なども含めたこの論に関するきわめて楽観的な未来予想図を描く

論者の意見が注目されています。

でもちょっと待った!!

そこには思わぬ落とし穴が待ち受けているかもです。

今回はこの本をご紹介します。

『貨幣とは何だろうか』                  (今村仁司著、ちくま新書、1994年第1刷)

<はじめに>

今回の書評要約レポートは読書会向けに使用させて頂いたレジュメを

一部改変のうえそのまま転用させて頂いております。

講義レジュメ調の硬い文体部分(~である、などの文体)が

それに該当いたします。

再開をお待ち頂いている読者様になるたけ速やかに

ご紹介出来るようにと努めさせて頂いた結論でございます。

そのためいつもと違い親しみにくい文体となってしまい

違和感を持たれる読者様ももしかしたらおられるやもしれません。

その旨あらかじめご了承とご寛恕願います。

なお、読書会とは京都で3ヶ月に一回ほどのペースで

個人的な勉強会と懇親会を兼ねて参加させて頂いている

前にもご紹介させて頂いたこともある

有志による『ベーシックインカム(BI)読書会』であります。

今回は<ベーシックインカム>の番外編となる

最近話題となっているキャッシュレス経済論や

現代貨幣理論(いわゆるMMT)などを含めたあらたな貨幣観や

「そもそも論」としての貨幣の本質論などについて深く掘り下げてみる

「きっかけ」本として個人的にご提案させて頂いた書籍を題材本として

参加者のご同意を得て読み進めてまいりました。

そこでなされた対話やそれに触発されてのあらたな問題発見の

模様などにつきましては別途<エッセー項目部>で

語らせて頂くことにいたしますね。

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今村仁司先生(以下、著者)は1942年岐阜県生。社会哲学/思想史家。

京都大学経済学部大学院博士課程修了。

最終就業歴:東京経済大学教授職。

2007年逝去。

1970年代フランス留学歴あり。

従来のマルクス主義・構造主義思想哲学を乗り越える

独自の新思考体系の構築に生涯を捧げてこられた。

多数の交友関係が示唆するように

生前から現在に至るも各方面への多大な影響力を波及させ続けている思想家。

特に難解だとされるフランス現代思想を

一般向けに普及浸透させようとされてこられた功績には注目すべきものがある。

ここで今村仁司思想哲学に対する<初心者向け>入門書

1冊ご紹介しておく。

桜井哲夫氏による『今村仁司の社会哲学・入門 ―目覚めるために』

(講談社、 2011年)

著者の代表作:『労働のオントロギー』『暴力のオントロギー』

『排除の構造』『近代性の構造』といった著作論考集なども充実している。

なお、絶筆作品は『親鸞と学的精神』

このように著書タイトル名にも表出されているように

<オントロギー=存在論>や<構造論>の観点から

近現代社会におけるその時空構造観やそれを支えてきたイデオロギー的側面を

批判的に解読することを通じてその問題点を摘出提示していく手法が見受けられる。

また、より良き近未来社会の創造実現へと向かうに当たり

要請される独特な着眼(想)点や洞察力には

他の論者にはあまり見受けられない鋭い批評意識が垣間見られる点に

著者の特徴があると評価されている。

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【本書をご紹介させて頂くまでの経緯や問題意識などについて】

「貨幣(おかね)」問題は「富裕者」であろうが「貧窮者」であろうが

軽はずみに扱うことが出来ない永遠のテーマであります。

それに「おかね(貨幣)」が湧き出てくる「真」の源泉にまつわる

謎解きが果たされたとはまだまだ到底言えない状況にあります。

この源泉を解明することの意義は

人類が長年縛られてきた<支配-被支配>関係から脱却する糸口を

発見することでもあるのです。

この「おかね(貨幣)」の正体や本質がよくわからないからこそ

人間は常に不安な生活感情に取り憑かれてきたとも言えましょう。

その人間独自が持つ生理的・本能的不安感情こそが

この世におけるあらゆる暴力への欲動を発生させる源泉とも

なり得てきたという点もご理解頂きたいのであります。

よく理解されていないからこそ

人間は時に安易にも『「おかね」さえあれば(もしくはなければ)

すべてが丸くおさまるのに・・・』などと思うことがありますが

そうした志向性で「おかね」のイメージを捉えることが

果たして「正しい」姿勢なのかどうか・・・。

そんなことを本書を題材に考えてみたいと思います。

今回取り上げさせて頂きます本書では

この「お金(貨幣)」と「資本」主義経済における「資本」とは

必ずしも同列に扱われているわけではありませんが、

「資本」主義に代替する例えば「社会」主義経済であろうが

「共産」主義経済にこの先移行するのかどうかは未知数としても

そのような体制社会に移行したからといって

「おかね」問題を「忘却」させたり、ましてや「廃棄」したりすると

どのような事態へと追い込まれてしまうことになるのだろうかと

想像の翼を広げて頂くことになります。

世間でも時あたかも<キャッシュレス経済>前夜の転換期。

この<キャッシュレス(現金通貨廃止=使用縮小論)>という言葉にも

論者によって多義的なイメージがあるようです。

とはいえ、そのイメージの背後に控える思想性(世界観や人間観)にこそ

今後の人類が歩みゆく方向性が指し示す未来社会の吉凶を占ううえで

実はもっとも重要な本質的問題が含まれていたのです。

本書は1990年代初頭に公刊された書籍であるために

現在の<キャッシュレス経済>最前線の動向につきましては

詳細な追跡探究にまで至っておりませんでしたが、

そのような経済社会を否応なしに迎えるに当たって

私たちが注意を払って見据えておかなくてはならない重要な論考視点が

すでに示唆されていました。

こうした着眼点を付けることが出来るか否かに

その思想哲学家の面目躍如たるものが現れ出てきます。

著者は単なる評論(批評)家や「象牙の塔」に引きこもる机上空論学者ではありません。

また著者の遺作である本書には

すでに『現代経済学(者)批判』の魂が込められていました。

そのあたりの「心意気」もともに感受して頂ければ

著者への最大の供養ともなり得ましょうか?

このような著者の思考の軌跡を教本として優れた洞察批評眼力を養って頂くことも

これから思想哲学者(ホンモノの「大」学者)の道を歩まれる方が

もし読書様の中におられるとすれば

ともに辿って頂けると紹介者として幸いであります。

本書をご一読頂ければきっと本来の「学問する歓び」も

再び湧き出でてくるものと信じております。

さて、『「おかね(貨幣)」の本質をどのように見立てていくべきか?』

著者は本書で<素材=単なる機能的道具>として見立てる貨幣観と

<媒介的側面=人間社会における円滑交通緩衝剤>として見立てる貨幣観の

双方を対比しながら立論を進めていきます。

これまでの世間一般の貨幣に対するイメージ像でも

経済学的な機能的道具視点に偏った見方が圧倒的でありましたが、

「おかね(貨幣)」とはそのような狭い役割のみを課せられたものではなかったのだと

さらに深く探究考察されているのが著者の炯眼でありました。

それが著者による「存在(オントロギー)論」から着目していく

貨幣の<社会哲学>としての役割論の提示であったのです。

この後者の「存在論=社会哲学」的意義を忘却させた貨幣論(観)でもって

この先<キャッシュレス経済>化を進めていけばどうなるのでしょうか?

そこまで突き詰めた貨幣論考がかつても今もあったでしょうか?

著者によればこと貨幣観に関しましては

特殊な狭い世界観に閉ざされた一部の(とはいえこの世界観が

現在に至るまでの西洋哲学思考の主流派を形成していますから

由々しき事態を招き寄せています)古代人の次元を一歩も飛び越えていないのが

意外にも現代人の思考状況だとも示唆されています。

『「お金(貨幣)」をただ単なる道具として「廃棄」すれば

それで済むのでしょうか?』

『なぜ、単純「廃棄」ではいけないのでしょうか?』

なぜならば、「お金(貨幣)」の裏側には<死の観念>が張り付いているから・・・。

このあたりの論考を突き進めていくと

昨今これまた巷では最新流行のように賑わせている

「評価」経済論の議論の危うさなども浮き彫りにされていくようです。

さらに最近話題となっています

いわゆる「現代貨幣理論(MMT)」にまつわる論争において

提出された処方箋が現実社会に適用された場合に

現れ出てくる問題点(積極面・消極面双方の視点を含めて)などを

予測していくうえでも重要な視点を与えてくれそうです。

このMMT問題は後ほど<エッセー項目>部でも

あらためて語らせて頂くことになります。

このような「おかね(貨幣)」にまつわる

あれこれの問いを解読していくきっかけを提供してくれるのが

本書の意義ということになります。

「おかね(貨幣)」を「廃棄」すれば、

おそらく惨憺たる悪夢のような状況へと

人々は追い込まれてしまうのではなかろうかとの見立ての下、

著者独自の歴史的教訓解析を踏まえた評釈を参考に

皆さんにも『「おかね(貨幣)」とは一体全体何なのだろうか?』を主題に

多様な観点から議論して頂くきっかけとなれれば

今回の書評目的はいちおう達したということになりましょう。

本書の今村仁司著『貨幣とは何だろうか』

<ちくま新書>シリーズの栄えある第一弾でもあります。

管理人が個人的にこれまで読んできた中でも「再読回数」の特に多かった1冊。

管理人の人生における世界観を形成していくうえで

様々な思想家(特に三島由紀夫文士、小室直樹博士、そして著者など)には

多大な影響を受けてきましたが、

著者は政治的文脈における左右両翼的視点の限界点をも超克し得る

発想を残されています。

最晩年にはついに人類の<覚醒>倫理の問題にまで到達されました。

この将来人類に対する<覚醒>倫理に関する問題意識は

すでにご紹介させて頂きました三島由紀夫著『美しい星』における

テーマでもありました。

最近の管理人は『美しい星』といわゆる『豊饒の海』シリーズで

提出された問題意識を対比しながら<死ぬ>ためではなく

<より善く生き抜く>自信を回復するための知恵を汲み取ろうと

独自探究を進めております。

管理人もまた三島氏がお亡くなりになった40代初頭直前であり

男の<厄年>にも差しかかっていますし、

このままの推移でいけば間違いなく

再び<失われた30年、40年・・・>へと続いていき、

そのあげくにはこの世に絶望して「死」を決意するかもしれない

非常に危うい時期とこのところ神経過敏となってきているからでもあります。

それは今をともに生きる特に若い読者の皆様方とて

同じような憂慮事を抱えておられるものと推察いたします。

実際に近未来社会の絶望状況をすでに見越してなのか

今回の参議院選挙でも<安楽死>を考える政党まで出現してきていることからも

一部の国民の潜在意識下には絶望気分が静かに蔓延しつつあることが

うかがえるのではないでしょうか?

管理人はこのような世の風潮に強い危機感と寂しさを感受するのです。

このような世の風潮を管理人も敏感に察知して

『未来を信じ、明るく生き、<生まれてきてよかった>と思える』ための

独自論考を進めつつある<人生途上>にいるわけですが、

その際の参考題材本として

『三島由紀夫幻の遺作を読む~もう一つの『豊饒の海』~』

(井上隆史著、光文社新書、2010年初版第1刷)

『三島由紀夫ふたつの謎』(大澤真幸著、集英社新書、2018年第2刷)

ご紹介しておきます。

この両書の結論内容はともかくも

世界観形成の背後にある分岐(亀裂)点問題を疎かにして

ただただ惰性で生きていると・・・、

その先には・・・、

ある日突然自他ともの人生に多大な損害を与えかねる深刻な事態へと

導かれていく「魔力」のような何ものかが待ち構えているかもしれません。

特に後者の大澤真幸本<終章 真の<豊饒の海>へ>最末尾あたりに出て来る

独特な<数論>的視点も炯眼ある問題提起だと感受されました。

そこでの問題提起と今回ご紹介させて頂く本書における

<媒介形式=第三者項=犠牲者>論にはどこか重なる共通認識があるようにも

管理人には強く感受されてきたのでした。

このあたりの問題意識から管理人もまた独自の<数理哲学>意識に

誘われてきたようです。

そこでこのところシモーヌ=ヴェイユバートランド=ラッセル

問題提起してきたような論点にも目配せしながら双方が残された思想哲学書を

読み始めているところであります。

「人類相互の和解のためにも・・・」

何か参考となる叡智はないかと。

このようにきわめて優れた<職人>的学者とも評価されてきた著者ですが、

長年の過労のためかあまりにも早く旅立たれることになってしまったようです。

そのあまりにも早い死が惜しまれるところですが、

故人のご冥福の祈りに代えて、私たちがすべき課題は

まさに著者が示唆された問題意識を引き受けながら今後とも粘り強く考察し続け、

実践倫理の問題として行動していくことにあります。

管理人にとりましてそのような強い思い入れがある本書は

10代の高校生時代から親しんできた

今に至るまでも多大な影響を与え続けてきている1冊ということになります。

現在、政治の世界を始め

あらゆる分野で安易な「改革」や「革命(維新)」、

「<岩盤規制>の撤廃(緩和)」などと叫ばれる世の中となっており

この傾向は左派リベラル層から右派保守層まで

幅広く浸透してきていますが

各種「中間」媒体(媒介項)を次々に撤去していった先に

何が起こり得てくるのでしょうか?

超簡潔化された純粋清潔社会とは

人間にとってはきわめて生き心地の悪い生態環境しかもたらさなかったことは

すでに20世紀までの歴史的教訓が示唆してきているところです。

今回取り上げさせて頂く本書では「おかね(貨幣)」が主題でありますが、

著者の最終目論見は「おかね」を超えて、

抽象的な話とはなりますが、

もっと普遍的な<第三者(媒体=媒介項=自他との安定した距離感を保持する

緩衝剤)排除>がもたらす帰結問題にこそ主たる関心があったのだと

評価することが出来ましょう。

それは言い換えれば『<人間>とは何か?』を問うことでもあります。

人類の精神(霊)性向上のためにも<覚醒>倫理の重要性が

ますます高まっていく一方で、安易な物理的<純粋機械化経済>に

過度なまでに依存偏重させた「新しい」人間観まで登場しつつあるようです。

ですが、私たちはひとまず

今現在あるもっとも現実的な人間的あり方から

現生人類が有する課題克服へと向けられた再出発をするほかありません。

著者最晩年の絶筆作ともなった親鸞と学的精神』にも

そうした問題意識と精神が宿っていました。

現在の「リベラル」も「保守」も忘れ去ってしまっている問題。

軽視もしくは意図的に無視されてきた重要問題が

本書には詰め込まれています。

人間(国民)同士が大きな価値観対立から

社会が分断・破壊されようとし始めている危険な時期だからこそ

決定的な破局に至る前に皆さんにも是非ともに考察して頂ければと

願います。

そのように強く感受される昨今だからこそ、

次世代や未来社会に痛切な責任感を抱かれているだろう

心ある読者の皆様方にも是非お薦めさせて頂きたい1冊として

今回はこの本を取り上げさせて頂くことになりました。

『貨幣(言語など)』が表象する<媒介形式>には暴力誘発を 回避する距離化原理が内在されていた!!

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【本書<目次>】

・第1章:貨幣と死の表象

・第2章:関係の結晶化-ジンメルの『貨幣の哲学』

・第3章:貨幣と犠牲-ゲーテの『親和力』

・第4章:ほんものとにせもの-ジッドの『贋金つくり』

・第5章:文字と貨幣

・エピローグ-人間にとって貨幣とは何か

・あとがき

・参考文献

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◎<第1章 貨幣と死の表象>

1 人間と動物

『本書は、貨幣を人間存在の条件から眺める』視点で論考を進めていく。

著者はそれを<貨幣の社会哲学>と位置づける。(8頁)

<貨幣>論を論じていくに当たって

その<貨幣>というモノ・コトがいかに人間に特有なものであるかを

動物との対比で明らかにしていく。

以下からはそうした人間に特有な<貨幣>論に絞って考察要約を

進めていくので<人間>と<動物>の比較論は最小限に抑制しながら

著者が<人間/動物>比較論で強調された着眼点のみ触れておく。

少なくとも<人間>と<動物>の区分を明確にわけている

切断線はかなり人間中心的な見方から操作された恣意的イデオロギーであることには

常に注意をしておくこと。

その分岐点も『単純か複雑かという量的差異でしかない』ということ。

そうした分類思考もあくまでも便宜上のものであることを忘却させてしまえば

「差別」や「偏見」を助長させる悪因となる。

例えば、<人間>として分類される内部にも<動物>として見立てるような

差別感が入り交じってしまうとある種の人間を<家畜化>させる奴隷制度が

容認されたり、選別・排除の推進力となりかねない。

著者によると『人間/動物の切断線は、人間/非人間の切断線へと容易に移動し、

しかもこの非人間なるもののなかに、少数派異民族、女性、子供などが含められるとき、

排除、抑圧、差別がいわば自動的に発生する。』(11頁)

人間に特有なものとして本書における主題との絡みでは

<死の表象>が張り付いた「墳墓」と「貨幣」を抽出する。

(12~14頁参照)

ここで本書との絡みで人間と動物における大きな相違点

再度強調要約しておこう。

動物にも人間にも<死>そのものという物理的現象はある。

ただ動物には<死>の「観念」といった精神的現象はない

「観念」があるということは人間にはこの世界を高度に抽象化処理する

知的操作能力が備わっているということでもあるわけだが・・・。

その「操作」能力をいかなる志向性のもとで活用させていくかで

吉凶が決まる。

2 貨幣の社会哲学

貨幣の社会哲学、貨幣の経済的機能を論じるのではなくて、

人間にとっての貨幣の意味を考える。』(15頁)こと。

その背後には<死の観念>がある。

本書ではこの<死の観念>が表象されかつ普段は裏側に隠されている

暗闇領域が何かのきっかけで表出してくる過程について明示することを通じて

従来の「貨幣」論(観)を覆す視点を提示していく。

現代経済学の「盲点」は人間<関係>を形式化・合理化することで

整理統合し直し「物的化」を図ることで<死の観念>を埋没させてきた。

そのため<死の観念>が突如として前景化してくる経済恐慌期においては

いとも容易く心理的パニック状態へと陥ってしまう。

『経済学の実証主義的態度をこえでて、人間の社会関係の根源に立ちかえる

立場から経済を眺め、貨幣を観察すると、物的制度によって隠されているが、

同時にその制度自体が知らぬままに漏らしている秘密も見えてくる。

なぜなら実は物的制度自体が貨幣の媒介によって形成されただけでなく、

それが貨幣に内在する死の観念の痕跡であるからだ。』(22頁)

3 媒介形式と死の観念

『貨幣の「現実」とは何か?』

物(素材)的側面と形式的観念的側面を含む両義的存在。

主流の「経済学」論者は前者の側面しかほとんど論ずることがなかった。

後者については「社会学」論者から貨幣の「起源」を問う過程で

<贈与>と<交換>との対比など人類学の観点から論じられることはあった。

とはいえ、その双方を総合的に考慮させたような

社会<関係哲学>論の視座から貨幣の本質を深く問う問題意識は

これまで希少な状況だったようだ。

著者における本書での仕事では

いわばその双方に架橋させる視点が提供されている。

著者の本書における貨幣「本質」論の最大強調点

それが社会を形成する人間同士の関係性をつなぐ架橋となる

<媒介形式>だということ。

この<媒介形式>が示唆する本質を突き詰めることで

人間社会における貨幣の意義をあらためて問い直すことになる。

<媒介形式>には<死の観念>が背景に存在する。(26~27頁)

そこで<死の観念>に関するイメージ喚起をより増すために

近現代以後の「交換」原理と近代以前の「贈与」原理を比較対照する

1つの参照事例としてマルセル・モース『贈与論』(<贈与と死の観念>

28~30頁)を挙げる。

モースなどの解析によると歴史的には返礼義務なしの純粋な贈与行為は

ほとんどなかったようだ。

つまり、贈与行為に関しても一見直接的な見返りを求めないように見えても

どこかで間接的にも循環構造的に自身に返礼されてくるだろうという

いわば暗黙の了解事項が含まれているものだと解釈し得る。

その理由としては『社会関係を「元のままに維持すること」という広義の

法的理念』(28頁)が背後にある。

さらに深く掘り下げて解読を試みるならば

返礼義務を促される背景には<死の観念=いわば共同体社会から仲間はずれに

されかねない=安定生活が脅かされるという恐怖感>といったものが付きまとう。

そこに相互に恐れ敬うといった<儀礼行為>としての宗教的意識の萌芽も

内在されているといった見解を提示する。

ここまでの議論のまとめとして、

「単純」贈与といった事例は歴史的にはほぼ皆無に近いようで

現実には贈与「交換」が主流だったようだということ。

<※本読書会で以前取り上げた『負債論~貨幣と暴力の5000年~』

(デヴィッド・グレーバー著、酒井隆史ほか訳、以文社、2016年)での

問題意識とも通底するだろう。>

『商品交換においては、死の観念は貨幣体に物化しているから間接的にしか

死の観念と関係しないが、近代以前の贈与経済においてはほとんど直接的に

死の観念と関係する。』(27頁)

『商品交換が可能になるには、もともと異質な物体を等価関係に置き、

それらを商品という独特な価値体に変形する必要があるが、

それを可能にする媒介者が貨幣である。』(27頁)

近現代「資本」主義経済社会が勃興発展していくにつれて

そもそも「商品化」に馴染まない人間の<労働力>を

無理矢理にでも換金可能とさせる設計原理が要請されてくる。

そして近現代「以後」では先の引用文にもあるように

表面からは見えにくい貨幣そのものに人間に特有な<死の観念>を内在させ

間接的なものとして繰り込んでいったがために

正常時の日常生活ではこの<死>の問題が見えにくくなったという

皮肉な結果へと招かれてしまった。

そのことが<人類の生活と死>における32頁末尾で

歴史的教訓として強調示唆されている。

『死を人間世界から追いはらう行為が死を招き入れる。』のだと。

4 本書の見取り図

20世紀初頭のいわゆる「戦間期(第一次世界大戦から第二次世界大戦の端境期)」に

敗戦国であったドイツでは本書における問題意識を共有する

二人の著名思想家が出現した。

マルティン・ハイデガーヴァルター・ベンヤミン

この両者が見据えた重要な視点こそが著者も強く問い続けてきた

人間の<存在論的条件>の基底にある<死>の問題であった。

著者はこの両者が摘出させてきた問題意識を共有しながらも

それとは直接的な関係なしに独自の『社会のなかの暴力や労働の問題を

追求してきた。』(本書33頁)

マルティン・ハイデガーが純粋に哲学的領域問題から

ヴァルター・ベンヤミンが純粋に美学的領域問題からの

人間の<存在論的根拠>を問い続けたわけだが、

本書の主題である<貨幣論>との接点問題にまでは考察が及んでいなかったという

限界があるものの本書において彼らの独自考察を参照したうえで

積極評価すべき点は次のとおり。

『彼らに貨幣論を求めるのは筋違いである。そうではなくて、

彼らが人間の根源にある事態をどう見たかが貨幣の社会哲学的考察にとっても

おおいに参考になる。』(本書34頁)ということ。

こうした問題意識を共有したうえで<貨幣論>が次章以下で展開されていく。

本書における論考展開の見通しや内容把握の理解に難が生じ、

各章において提起されている論考主題消化をすっきりさせたい時に

繰り返し参照するのに役立つ「総合案内所」の役目を果たすのが

<本書の見取り図>である。

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◎<第2章 関係の結晶化-ジンメルの『貨幣の哲学』>

1 貨幣の哲学的考察の意味

<本書の見取り図>(本書35頁)でも簡約されていたように

「貨幣」の社会哲学的本質について問題提起した思想家に

ゲオルク・ジンメルがいる。

それが『貨幣の哲学』である。

現代社会学の文脈ではいわゆる<関係論>をその学問的方法論に採用させた

先駆者として名高い人物である。

著者によるジンメル「貨幣論」の評釈によれば

『貨幣を人間関係の結晶化と見るという独創的な見解』とともに

『貨幣を人間のあらゆる現象に結びつけて記述』(本書35頁参照)した点に

有意義性が認められるという。

このジンメルによる『貨幣を人間関係の結晶化』と見立てる視点は

いわゆる<生の哲学>の要素が含まれると評価し得るものの

著者はジンメル特有の<生の哲学>問題には拘らずに

あくまでも本書における議論の手引きとして

<貨幣-生死>を結びつける形式に共通する要素を

抽出する論点整理作業に集中していくことになる。

本書の主題はあくまでも貨幣の<社会哲学論>的視点。

そのため経済学特有の機能論的視座に立脚した「素材」貨幣論には

深く立ち入らない。

本書で問うのは貨幣の<媒介形式>論である。

<媒介形式>論とは人間の生存(存在論)的条件から反転させて考察する

貨幣本質論に迫る方法論とも言い換えることができよう。

それは経済学がいわば「経験論的」視点に特化偏重させた視点から

貨幣論を展開させてきたことに対する

いわば「超」経験論(=経験不可能領域)的視点を問う<形而上学>の

視座を取り戻す試みでもある。

「貨幣=経済現象」として特化偏重させた経済学的見方だけでは

人間存在を根本から脅かす不安心理(本書ではまさに<死の観念>)を

軽減させ得ることすら難しくなる。

それは近現代社会が楽観的に受容してきた経済合理的技術進歩理論が

意図的に追放・軽視させてきた<死の観念>からの反逆を招き寄せるという

皮肉な事態へと引きずり込まれていくことでもある。

そうした現代人が共有する経済的不安心理やそれに由来する

潜在的暴力が湧出されてくる根源的理由と向き合う視座を提供することで

<幸福の約束=ユートピア実現>(本書37頁参照)の条件を

探究していこうとする意欲的試みが

本書全編を通じて著者が目指す最終的着地点である。

ジンメル「貨幣論」の底流には当時の社会思想に

新たな息吹をもたらしたマルクスによって解析されていった

経済「構造論」への応答があったという。

マルクスが問題提起した有名な「史的唯物論」と言えば

今日では『経済という下部構造が政治社会文化といった上部構造を

支配決定させていく』というような

<土台と上部構造の相互作用論>(エンゲルス)との関連が

すぐにもイメージ喚起されるために

マルクスといえば即座に経済「決定」論が思い浮かぶといった

安易な誤解も多々見受けられるところがある。

そうした後世にマルクスの問題提起に始まる一連のマルクス思想哲学流派では

こうした経済「決定」論が著しく誇張されていくようになるわけだが、

ジンメルはそうした経済にのみ

全面的に人間社会の存在条件の責任を帰結させるような

見方に異議を唱えていくことになる。

2 距離化と貨幣

ジンメルや著者が貨幣に見出した着眼点はその<媒介形式>にあった。

「<媒介形式>とは一体全体何ぞや?」

この問いを解明する議論がここでの「距離化」解析問題である。

もともと人間と世界は分離してしまうところがある。

それはジンメルや著者も問うてきた「関係論」的視座から言えば

自己と他者(世界)との距離をいかに測りながら

円滑に取り結ぶ「間合い」を生み出すかという重要問題とも

言い換えることができる。

その距離は常に自己と他者(世界)を取り持つ<媒介形式>によって

伸縮していくことになる。

その<媒介形式>によって

人間の社会関係を伸縮自在に取り結ぶ模様を指して

著者は<関係の結晶化>という論点で明示化させた。

(本書50~54頁)

3 文化の形成力としての貨幣

この<媒介形式>によってもたらされる「関係の結晶化」という問題意識を

基礎命題に据えて次に考察していくのが

文化を形成していく原動「力」となり得る貨幣論についての話題である。

ここまで見てきたジンメル「貨幣論」を

著者は『全体として彼は、貨幣形式の肯定的側面を強調することに

傾いている。』(本書59頁)と評価。

著者によるジンメルマルクスの「貨幣論」に対する視座の

最大の分岐点はその経済「決定」論とりわけ「素材」貨幣決定論には

立脚しないという点にあるというもの。

つまり、ジンメル「貨幣論」とは<媒介形式>決定論だということに

尽きるとのこと。

4 ジンメル貨幣論の特質

『ジンメルの哲学は貨幣経済と近代経済の積極的な弁護論』(本書65頁)と

評価し得る限界点は見出されるものの

彼独自の貨幣における本質に対する優れた洞察

『経済貨幣の無差別的拡大が近代の人間の内部に倦怠感を沈殿させる』

(本書66頁)という着眼点がある。

<媒介形式>があるからこそ人間と他者(世界)を取り結ぶ距離感が

安定するという利点が導き出されてきたわけだが

<媒介形式>の1つとしての「貨幣」の人間社会における意義役割度合が

強まれば強まるほど反対にその安定性を脅かすといった事態も

出現してきたのがジンメル以後の時代状況であった。

このジンメルが提出した問題意識を引き継ぎつつ、

その「盲点」を開いていくための仕事をさらに引き継いでいったのが

ベンヤミン『パサージュ論』の課題だったという。

(本書67頁)

ゆえにこの課題を引き継ぐのが著者とその問題意識を

引き継いでいこうとする現代思想家の使命だということ。

そこでこのジンメル学派とマルクス学派の「貨幣論(観)」に対する

大きな差異のさらなる解析評釈作業とそれぞれが

その後の歴史に影響を与えた帰結点を厳しく見つめながら

教訓を抽出していくことが重要な課題ということになる。

そのまとめが<貨幣論争とその思想的背景>(本書68~71頁)以後で

簡約されていくことになる。

マルクス思想哲学流派から派生していった社会(共産)主義思想理論家や

行動家が総じてこうした「貨幣」に内在する<死の観念>を

極度に嫌ったがために(それは上記<左傾>経済学派に限らず、

およそ近代「合理主義」的経済理論を全面的に擁護してきた

<右派>経済学諸派を含む)安易な貨幣「廃棄」が可能だと錯覚したところに

はたして20世紀の壮大な社会科学思想理論の実験現場では

大「厄災」を世界にもたらすことになった。

結論:ジンメル「貨幣論」を議論の触媒に活用しながら

抽出されてきた帰結点とは『貨幣廃棄不可能性論』。

言い換えれば、貨幣形式は死滅しないという命題』(本書73頁)であった。

とはいえここまで見てきたようにジンメル「貨幣論」には

その<積極的>側面を強調する姿勢が強いために

その<消極的>側面を見据える視力が弱くなる嫌いが

どうしても出て来る。

今後の著者及び「貨幣論」に関心を抱く者の課題は

この<消極的>側面を乗り越える革新的発想を生み出していくことだと言えよう。

『媒介形式の非「貨幣」的存在を構想する以外に新たな展望はないだろう。』

(本書75~76頁)

この問題は再度<最終章>で繰り返し問い直すことにしよう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

◎<第3章 貨幣と犠牲-ゲーテの『親和力』>

1 貨幣小説について

貨幣の本質と人間の根源的あり方を探究していくと、

<犠牲>問題が出現してくることになる。

著者はこの人間の根源的あり方を<関係性哲学>の観点から

自己と世界(他者)との「間」における距離化伸縮自在性を成り立たせる

<媒介的存在>の意義を解析していくことで

<媒介形式>としての「貨幣」との類似点を明示してきたわけである。

言い換えると、<媒介形式>としての「貨幣」とは

一体全体いかなるイメージを伴うものなのかをよりわかりやすく明証するために

本章では自己と他者(世界)との「間」を介在させる関係性が

いかなるものなのかと『親和力』における登場人物の

各種振る舞いのありかたとその帰結を例示参照することを通じて

対比考察させていくことになる。

人間関係における距離化のあり方を探究することで

<媒介形式>としての「貨幣」のあり方やイメージ像も

より具体的に明確になっていくわけだが、

その格好の題材として本章と次章では「小説」を取り上げることになる。

ここでの「小説」のテーマ内容は<貨幣>小説。

とはいえ、ここでの<貨幣>小説の定義は

必ずしも狭義の「貨幣(おかね)」が絡む内容が描かれた作品ではない。

人間の根源的経験に触れている内容が話題となる「小説」作品形態。

その根源的経験こそが貨幣的経験と重なる<貨幣>小説(文学)だという。

本章ではその優れた名著小説としてゲーテの『親和力』を題材に据えて

論考展開していくことになる。

『貨幣小説とは、厳密にいえば、貨幣形式の小説である。

貨幣形式が媒介者であるのだとすれば、貨幣小説とは、

人間関係を媒介し、関係の安定と秩序あるいは道徳と掟の世界を

つくりだす媒介形式を主題とする。

ゲーテの『親和力』は、この意味での「媒介者」に関する小説である。』

(本書80頁)

2 媒介者

ゲーテ『親和力』の主題<人間関係における離合集散=結合と離散>を

描くことで人間関係を安定的に成り立たせるための根本条件や

離散という無秩序化へと向かう過程で必ず生起してくる現象事態について

深く考えさせる作品となっている。

そこでまずは「結合」=安定化を図るうえで重要な役回りが出て来るわけだが、

著者はその役回りを抽象的表現として<媒介者>と名づける。

この『親和力』ではミットラーという

ごくごく普通の社会常識を兼ね備えた平凡(凡庸)と評価される人物に

その役割があてがわれている。

こうした「平凡(凡庸)」とも目される人物は

特に「目立つ」ことで出世・成功への道が確保されていく環境条件にある

現代社会構造の下では低い評価を与えられる傾向にあるが、

実際にはこのような常識もしくは良識に支えられた日常生活を過ごしている

人物こそが社会秩序を崩壊させないいわば<安全弁>ともなってきたのだと

肯定的に評価し得る。

ここでは主に恋愛と結婚の相違点を対比させることを通じて

<媒介者>の意義が説明されていくことになる。

恋愛生活関係=不安定状態。

結婚生活関係=安定状態。

きょうびの社会的人間生活関係を個々具体的に考察すれば

このように極度にまで単純化させた理想像でもって

割り切ることなどできないわけだが、

ここではゲーテが『親和力』を描いた時代における

ドイツの一般生活者に共有されていた恋愛・結婚観を

大前提に描かれているものだとご了解願いたい。

ちなみに、ゲーテ自身は必ずしも結婚もしくは恋愛「至上(絶対)」主義者の

いずれにも加担しない立場のようだ。

論点はあくまでも安定した純粋な結婚生活状態を送っている(いた)

人間関係の「間」に不安定な恋愛生活状態にある

不純(もしくは超純粋)な第三者が無思慮にも「割り込んで」きた時に

いかなる現象事態を招き寄せるかという問題提起にある。

恋愛でも結婚でも<媒介者>である第三者の承認保証があれば

より安定した信頼関係生活を過ごすことが叶うわけだが、

ここでは不安定な恋愛生活関係状態にある人間同士と

安定した結婚生活関係状態にある人間同士における

当時の通常の理想状態(あるべき姿)を対比させることで

<媒介者>の意義を明らかにしていくために

あえてそのような対定義をさせて頂いたまでである。

小説『親和力』ではこの常識的<媒介者>役のミットラーの警告を

無視したところから人間関係における悲喜劇が始まるわけだが、

『<媒介者=貨幣形式>を無視したり、安直に取り扱えば

いかなる厄災が招き寄せられるか?』が活写されていく。

『媒介者は運命連関、罪連関、犠牲要求的な神話的な自然力を

埋め込むのであり、反対に、この重石としての媒介者が消失すると

人間関係はカオスに陥る。』(本書86頁)

3 墓をいじること

さて、<媒介者>によって本来なら絶えず不安定状態にある

人間関係を「結合」させていた重石が軽薄にも取り去られてしまう事態が

生起するといかなる帰結をもたらすのであろうか?

『犠牲を要求する神話的な魔力が活動しはじめる。』(本書88頁)

裏から言い換えれば、<媒介者>の存在が2当事者対立関係を

「均衡点」に押さえ込んできたということでもある。

そこでこの<神話的な魔力>の実態をさらに明確にさせていくために

人間の終局的極限状況である「生/死」の境界線を設定させる

『第1章 貨幣と死の表象<1 人間と動物>』末尾でも触れられていた

「墳墓」問題を事例に取り上げながらさらに考察を深めていくことになる。

また本来異なる「次元」にある者同士が浅はかにも境界線上を

越境してくるといかなる事態を招き寄せるのかも

同時に考察されていくことになる。

(<カオスの出現>本書92~94頁参照)

著者の問題意識は「貨幣」をあらゆる社会領域、人間関係領域にまで

強制通用させることが可能だとする思想が浸潤していけば

やがて貨幣への嫌悪感が芽生えていくことになり、

<媒介形式>としての貨幣というジンメルが導出させたような

積極的側面までもが見落とされていくことで、

「廃棄」論にまで突き進めば悲惨な事態を招き寄せることを論証してきた。

そこでこうした「破局」を回避させる方途として、

裏側からの接近方法を示唆してきたわけである。

それが『第2章 関係の結晶化』末尾の<まとめ>(本書75~76頁)で

新たな展望として提出された課題でもあった。

4 関係の解体

そこで次に前項<3 墓をいじること>内でも触れ終えた

本来異なる「次元」にある<異質>者同士が浅はかにも境界線上を

越境してくるといかなる事態を招き寄せるのかという問題を

さらに掘り下げていくことになる。

つまり、個人の内面(「内部」)が重視されることを暗黙の了解事項としてきた

近現代的<個人主義的世界観>も現実の社会的生活関係上における

人間同士の接触において

「外部(他者の存在)」にまで

表出(つまりは、安易な価値観の押しつけ!!)されてくると

途端に深刻な対立・摩擦状態へと突入していくことになるわけである。

<後戻りできない出来事>本書100~103頁参照

ここにまさに「仲裁者(調停役)」としての第三者<媒介者>が存在していれば、

人間関係の「間」にひとたび入った亀裂を多少とも防ぐことが叶い

最終破局にまで進展していく事態を防ぎ止める余地も出てくる。

しかし、そのような<媒介者>をそのまま突き飛ばしてしまえば・・・。

そこに「(罪なき)犠牲者」が出現してくるというわけである。

まとめると、この「内部」と「外部」間における<相互介入>は

きわめて危険な事態を招き入れるということである。

言い換えると、

それぞれが異なる<次元>に位置する存在でもあるということ。

また、<第三者(媒介者)>の存在意義とは対立2当事者における

それぞれの「内部」同士が衝突するのを防ぐ「外部」的機能が

内在されているということ。

『媒介はつねに「外部」である。』(本書204頁)

5 罪なき犠牲

「なぜ、<罪なき>なのか?」

<媒介者>とは通常は中立的立場が要請されるから。

もともと客観性や公平性、純粋性が含有されている存在と

みなされているため。

この<媒介者=第三者>を排除、犠牲にすることが

人間関係に衝突問題を引き起こした当事者の立場から

裏返して見れば「罪なき」ということになる。

これが著者が『排除の構造』などで長年繰り返し提唱されてきた

<第三項排除理論>が提起した問題意識である。

本書における当項目内では<死をともなう媒介>(本書108~110頁)で

あらためて<死の表象>を裏側に宿らせた<媒介形式>としての

「貨幣論」と重ね合わせてゲーテ『親和力』で描かれた

「オッティリエの犠牲物語」が摘出させた論点だったと要約されている。

6 デモーニッシュなもの

ここで再び<デモーニッシュ=悪魔的な何ものか>問題、

つまりは<犠牲を要求する神話的な魔力>について

論じ直されることになる。

この<神話的な魔力>と形容される諸問題はベンヤミンも

終生追求してきた問題だとされる。

著者自身はこの問題意識を共有しながらも

ベンヤミンが解明し尽くせなかったと評価される残された課題である

『神話的な力の出現をそそのかす道筋について』(本書93頁)と

その出現理由を『墓と貨幣の問題として受けとめて、

二つの媒介形式の崩壊から神話的な力とカオスの襲来を解釈』(本書94頁)

してきたということになる。

<媒介形式=物的制度>の背後には平時においては封印されている

「死の観念」が張り付いていたとの見解は

すでに何度も強調確認されてきたところである。

裏から言い換えると、<媒介形式=物的制度>とは

「死の観念」が外部世界へと表出してくるのを防ぐ安全弁のような

役割を果たしていたということになる。

だからこそ、著者はこの<媒介形式>を下手にいじくると

大変な事態へと追い込まれていくことになると警告を呼びかけてきたことになる。

「死の観念」とは別名<犠牲を要求する神話的な魔力>ということだが、

皮肉にも近現代社会ではこうした非合理的側面に真正面から向き合わずに

すべてを近代的「理性」なる合理主義的思考法で乗り切ろうとしてきたところに

ある時あることをきっかけに「しっぺ返し」を受けることになった際に

脆弱さに直面することになる。

歴史と神話は決して対立するものではない。

むしろ歴史の背後には神話が控えている。

ただ神話には「魔力」も含まれているからこそ、

その「魔力」とどのように対峙すべきかが問われるということ。

ベンヤミンによる神話的「魔力」への問い直しも

そうした歴史と表裏一体関係にあるものとしての

<歴史哲学>に当たる知的探究作業だったといえる。

『歴史哲学は、神話的認識のなかに含まれている人間の根源への

洞察を救いだすことである。』(本書112頁)

結局、ゲーテが『親和力』で示唆した問題とは、

こうした平時においては意識されないでいる<媒介形式=無意識下にある

境界的距離感覚(意識)>を無思慮にも越境しようとした途端に

平時においては<媒介形式>によって安定的に生み出されていた「差異」秩序が崩壊し、

「魔力(混沌状態)」が支配する「魔界」へと引きずり込まれていく事態を

招き寄せる物理(時空)的過程の描出提示であったということになる。

『要するに、貨幣という形式は血の流れる犠牲の代理でありながら、

まさに犠牲の代理であるという場所性によって両義的な魔力の保存者でもある。

貨幣形式は、近代の経済学者が想像したような交換の便宜から生まれた

道具なのではなくて(それは貨幣形式の表面でしかない)、人間の根源的な

両義性から生まれてきたのである。

これが貨幣と犠牲の内面的関係を考察することがいかに重要であるかの

理由である。』(本書124頁)

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◎<第4章 ほんものとにせもの-ジッドの『贋金つくり』>

1 父(ペール)あるいは父権(パテルニテ)

ジッドの『贋金つくり』に関する中心的主題について。

『ごく一般的にいえば、すべての人間的事物が偽物性を帯びること、

すなわち、価値という言葉で表現しなおすと、現存するあらゆる価値体は

すべて贋金である、という命題』(本書126頁)について

登場人物の各種振る舞いのありかたを観察分析することを通じて

人間が有する両義的存在性を明示していく設定構造となっている。

小文字の「父」に大文字の「父性(父なる神)」を反映させたうえで、

それを近現代「貨幣」経済における<一般的等価>交換性と同じ位置におくことで

もともと無理かつ矛盾に満ちた「価値」そのものと「価格」のギャップ問題と

同じような問題意識を設定させている。

ここではあらゆる領域において<一般的等価交換>が可能だとみなす

「貨幣(計量可能化)」論理が極限にまで押し広げられていく過程にあって、

あらゆる「権威」が失墜していく模様が語られていく。

そのことで「父(父性・父権)」や

「父なる神(すべての存在の根源にある真善美なるイメージ像)」が

同時に崩れていくあり方を示唆する。

<一般的等価交換性>問題については、

『第1章 貨幣と死の表象<媒介形式と死の観念>本書26~27頁』、

『第2章 関係の結晶化<貨幣、論理、法>本書56~60頁』など参照のこと。

要するに近現代<貨幣>経済を円滑に循環機能させるためには

その<貨幣>を「媒介形式」に据えて個別商品同士を円滑取引交換するうえでは

個別具体的な商品価値を「捨象(ひとまず括弧に入れる)」して

無差別的・一般的なものとしての変換が要請されるということ。

「そうするとどのような事態が生起してくるのか?」

商品に対する真偽価値も同時に剥奪されていくということになる。

そのことが本章における

<ニセモノがホンモノ、ホンモノがニセモノ>(本書131~133頁)で

考察された論点である。

特に近現代<貨幣>経済においては人間の労働力がますます高度に商品化されていく

過程で人間そのものもある種の物的存在と見立てられていき、

そのような傾向要素がより強く滲み出てくる典型例であることから

本書において何度も強調確認されてきた「貨幣」の<媒介形式>に潜む両義性と

人間の両義的存在性とを類似のものとして接合考察させてきたということである。

ただそうした両義的存在性のうち暗闇(恥部)といった負の側面について

人間はこれまで目を背けてきたことが結果として

さらなる恐怖感を強めることにつながっていったことも示唆される。

<両義的存在の恐怖>(本書139~141頁)参照のこと。

「それではなぜ、かくまでも人間は両義的存在性について激しい恐怖感もしくは

嫌悪感を抱いてきたのだろうか?」

その根本的理由を探究することこそが

本書において「貨幣」や「人間関係」を取り持つ各種媒体に潜む

<媒介形式>のあり方を考察してきた意義とも連動していくわけである。

なぜなら、それまで人類が有史以来暗黙の了解事項として

どこかに「ホンモノ(真善美)なる存在」があると信じながら

生きる安心感を抱かせてきたような

世界観(19世紀あたりまでの<リアリズム>観)が

19世紀末から20世紀初頭あたりから徐々に崩れ去ることにより

人々の生活に一大不安感をより強く与えるようになっていったからである。

その背景には本書の主題「貨幣論」における経済学史的側面からは

金本位(金銀複本位制など含む)制=「実物」経済重視観が

崩れ去ってきたことがあるという。

それは言い換えると、それまでの取引主体だった「実物」よりも

交換手段にすぎなかった従たる<媒介形式>たる「貨幣」の地位が

比較相対的に高まっていったということでもある。

そうして人間もまたそうした「貨幣」的世界観に圧倒されていった。

まとめると、このジッドが『贋金づくり』で描写した世界観は

19世紀までの世界観では

どこかに「確固」とした安定的世界(存在)があるものとされてきた

暗黙の前提条件が崩れていくことで小説の世界における<人間観>まで

それまでとは異質なものとなってきていることに気づいた端境期状況の

有り様をそのまま写す<鏡>としての役割も果たしているということで

本書の主題「貨幣論」の観点からも

取り上げるに相応しい題材だったということである。

『人間がついに完全に貨幣形式に包摂されたこと』(本書141頁)によって

ついに文学小説の世界でも著者が定義するところの

「貨幣」の<媒介形式>としての側面と類似構造にある

「貨幣」小説が出現するに至ったと評価されるゆえんである。

2 子供たち

そして大本の「父」あるいは「母」の複雑な異性交渉の結果として

生まれてくる「子供たち」についても同じような現象が生起してくることになる。

特にここでは「ボリス」なる少年の役回りが考察に当たって

大事な要素となる。

なぜならば、19世紀風リアリズム観のもとでは

まだ「本物」と「偽物」の境界線が確固としてあるものとされてきたところ、

この少年はまさに「本物=純粋」だとみなされた役回りをあてがわれていたからである。

しかしながら、こうした「純粋」な存在は

第3章の<貨幣と犠牲-ゲーテの『親和力』>において

考察されていた論考点『罪なき犠牲』(本書103~110頁)とも

ふたたび重なる問題点を浮き彫りにしていく。

こうした「犠牲者」は『媒介者の代理をつとめる』(本書109頁)のであった。

つまり、「犠牲者」が生み出されるということは

それまで「人間関係」を安定した関係のものとして

つなぎ止めていた「糸」が切断されるということ。

それによって「人間関係」はふたたび混沌たる不安定な世界へと

誘い込まれていくことになる。

3 文学における貨幣

ここでは小説内における「文学論争」を通じて

「貨幣観」やそれまでの「ホンモノ/ニセモノ」二分的世界観が

どこまで通用するものなのかが提示されていく。

本書全編を通じてあらゆる観点から

「純粋(ホンモノ=純一無雑的存在)VS不純物(ニセモノ=両義的存在)」といった

対立的世界観を人類は有史以来繰り返してきており、

現在でもとても解決し得た問題だとはいえない状況にある。

<本章のまとめ>

19世紀から20世紀にかけて

どこかに「完全」なホンモノ/ニセモノがあるという

単純明快かつ絶対的な<真善美>観が揺らいできた様子が

前章と本章では文学小説作品を題材に借りて論じられてきた。

その考察途上で「ホンモノ」と「ニセモノ」が同時成立(混在)するといった

現象事態も浮かび上がってきた。

ということはもはや「完全」なる善悪観などなく

すべては価値相対的世界観のもとにあるということになりそうだが・・・。

もちろんそんな単純な価値「相対」主義観で

人類は満足し得ることはないだろう。

そこにはまた別の難問も抱え込むことになるからだ。

こうして現在進行形の課題として

上記「純粋(絶対善・正義)VS不純(絶対悪・不義)」問題は

今後とも続いていくだろう。

「ではそうした困難な対立状況課題をいかにして克服していく

思考的手がかりや姿勢を掴んでいけばよいのだろうか?」

著者の問題意識もその一点に集約されていくようである。

「終わりなき永遠の問い」

この解題の糸口に向けた課題は

最後の<エピローグ>で再度まとめることにする。

著者によるとジッド『贋金づくり』で摘出される課題を引き受けることが

現代<経済学批判>にもなるのだという。

『ジッドは「贋金」というきわめてアクチュアルな現象を焦点に据えることで、

一方ではあらゆる現象が貨幣形式の現象であることを指摘し、他方では

経済現象の裏側には広大な人間的現実がひかえていることを教えた。

経済学が経済のことしか語らないとすれば、それは人間的現実を本当に

説明したことにはならない。経済学のこうした無能をあからさまに

示すという点では、ジッドの『贋金づくり』はひとつの経済学批判の書でも

ある。』(本書164頁)

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◎<第5章 文字と貨幣>

1 文字と貨幣

本書の主題は<媒介形式>というキーワードを中心に

これまでの経済学が描いてきた機能(道具)的側面にのみ

狭く限定された各種「貨幣論」の問題点やその限界点について

あらたな突破口を切り開く議論の道筋を提供するものである。

この「貨幣」の機能(道具)的側面に偏った解析議論のみでは

「交換価値」という以上の意味は導き出せない。

「貨幣」論を展開される際に類似対象媒体として

よく引き合いに出されるのが「言語」論であるが、

著者によるとこの視点だけでは「交換価値」という

互いが持つ機能面しか抽出し得ずそれ以上の

本質的理解には役立たないという。

そこで著者はむしろ抽象的な「言語」論を捨てて、

より「貨幣」の本質を導き出すうえで有益だと評価する

「文字」論に視点を切り替えて具体的な議論の糸口を

掴もうと提案する。

『文字は、言語世界における貨幣的存在である。』(本書167頁)

貨幣も文字も<書くこと=関係性を履歴記録として刻印されたもの>として

共通した類似点があり同種の構造的位置関係にあるという。

この<書くこと>とは「関係の文字化」がはかられることを意味するわけだが

ある種の人間にとってはこうした関係履歴が残存してしまうことに

恐怖感や嫌悪感を覚える者も出現してくることになる。

関係履歴が残存するとは個々人の具体的な足跡が記録として「刻印」され、

万人に共有されてしまう可能性が発生してくるということだが、

なぜそこに恐怖感や嫌悪感が生み出されるのだろうか?

そうした不安な感覚を呼び覚まされるある種の気質(性格)を宿した

人間にはある一定の傾向が見出されるという。

それは極度なまでの「純粋性」志向であったり、

人間社会において「透明性」を確保したいとの

「匿名性」志向を強く欲求する姿勢である。

こうした気質が極度なまでに高まり、

それが個人の内面にのみ閉じられた世界ならばまだしも

社会全体にまでそのような極度なまでに「純化」された

言わば「清潔志向」が拡大浸透制圧されていくと

いかなる事態を招き寄せることになるのか?

それが20世紀の各種社会思想実験によって導き出されていった

悲惨な結末であった。

「なぜこうした問題に著者はこれほどまでにこだわり

批判的分析考察論考を持続的に続けてきたのだろうか?」

そこには著者独自の『20世紀の管理・計画・統制体制への

批判の根拠』(本書174頁)を探るという問題意識があったからだ。

著者の評価するところ、そうした悲劇の根源的発生理由が

どこにあったのかと言えば

『まさに媒介形式への無理解と媒介の実践的廃棄にあるのだ。』(同頁)と見る。

それではこの歴史的教訓から評価抽出されてきた

<媒介形式>への十二分な理解と擁護がなぜかくまでも重要なものだとして

強調論考されてきたのかと言えば、

そこにこそむしろ人類生活を存続発展させ得てきた根本的要素が

潜まれているからだと見る。

それはまさしく「逆理」ではあるのだが、

この「逆理」の源泉こそが

人間の根源的「不純性」かつ「不透明」性なのだ。

もともと人間が「社会」の中で共同生活する=『複数の他者との共存』(本書179頁)

とはそのような意味を含んだものなのだという。

そこで著者はそうした人間に共有内包された<社会内存在者>としての

本質的あり方をさらに探究していくことを通じて

これまでの「貨幣論」批判にとどまらず

人類が強く希求してきた「形而上学的」志向性の問題点や

限界点にまで考察を及ぼし、今後の乗り越えるべき課題が

提出されていくことになる。

本書の意義もそこにある。

『私は、ここでは、この神話的とでもいうべき自己触発的な、透明で

直接的な関係の理念をしりぞけて、存在の媒介的関係性の理念を

強調していきたい。文字あるいは書くことのなかに、

そして媒介形式としての貨幣形式のなかに、

第一次的で根源的性質を見るためには、そうした存在論的展望が

不可欠なのである。』(本書179~180頁)

2 ルソーの文字論

ここで20世紀の悲劇的結末がもたらされるに至る思想的背景を

1人の著名な思想家の思考解析=精神分析を試みることを通じて

「文字」の観点にひとまず議題を絞った論考がなされていくことになる。

その著名な思想家とはジャン=ジャック・ルソー氏。

彼の「文字」論から見た理想像を簡約すれば、

それは「文字言語(書き言葉=散文形態言語)」よりも

「音声言語(歌謡や詩を通じて間接的に示唆<隠喩>された表象形態言語)」に

比重優位を置いたものということになる。

「なぜ<文字>についてこうしたイメージ像を理想形態と見立てることに

なったのだろうか?」

それは可能なかぎり「不純」なものを取り除いた「生きたもの」としての

「純正」言語でもって人間同士の間で<交通=意思疎通可能>だとする

夢想信仰が背後に控えていたからである。

ルソーのこの想定仮説に対して、

著者は人間の『交通の原理的不可能性』(本書190頁参照、

以下の<4 距離化>での主題)を対峙させて

<社会内存在者>としての人間同士における交通実態を

描き出すことを通じて試論を提出していくことになる。

3 言語起源論について

18世紀頃から盛んに議論されるようになった「言語起源論」には

大きく見ると二系統の流れがあるという。(本書184~186頁)

このような議論が出てきた背景には

それまでの社会秩序関係を底辺から支えてきた暗黙の了解事項(土台基礎)が

崩壊の危機に瀕する事態が生起してきたからだった。

いずれにせよ、「言語起源論」の問い直し作業とは

『関係の媒介形式への問い』(本書188頁)だったということが

理解できればよい。

4 距離化

ところで、ルソーが問題提起してきた論点そのものが

すべて否定的に評価されるものかと言えばもちろんそんなことはない。

有名なルソー的な文脈における「社会契約論」を基礎づけていくうえでの

<自然状態>という概念像にも『距離化の人間論』(本書191頁)が

関心領域にあったからだ。

しかしながら、<社会内存在者>としての人間同士が

「交通=意思疎通」をはかる原理自体に内在する<媒介形式>に対する

無理解なのかその意義を軽く扱ってしまった。

なぜならば、<媒介形式>とは「間接項」であるがために

『透明共同体論者であり、直接的関係論者』を理想として志向する

ルソーのような思考形態を有する者にとっては

どうしても「不純物」として見立てられてしまい

否認されることになるから。

それではルソー型「言語」論に対峙する思考回路はあったのだろうか?

アダム・スミスコンディヤックが提示した<功利主義>言語観にあった。

(本書193~195頁参照)

この<功利主義>言語観とはそれがイメージ想起させるように

「文字」をある種の「道具」と見立てた合理的な言語論(観)である。

この見立てもその人間関係や社会交通原理を論じるうえでは

ルソーが示唆させたような『距離化の人間論』を内包させるものであったが

この「道具」という響きに何か「必要<悪>」を感受させる要素が

潜在的に含まれていることからして、

著者はここに『道具主義は隠れた媒介嫌悪の穏やかな表現でもあることに、

むしろ注目する必要がある。』(本書194頁)と警鐘する。

なぜ「警鐘」という表現をあえて報告者が使用したかと言えば、

それこそが「死の観念」をある意味で「封印」させる道具箱のようなものとしてある

<媒介形式>の意義にふたたび注意を払って頂きたいからである。

著者はたびたび本書での問題提起を通じて<媒介形式>の軽視や

廃棄を志向すればいかなる悲惨な結末へと導き寄せられていくかについて

再認識するように促してきた。

<媒介形式>とは人間関係やあらゆる社会関係における「間合い」を保つ

「緩衝剤」の役割を果たし、

その関係性の「間」を生み出す力が備わっていたからこそ

直接的摩擦対立による暴力流血沙汰が生起してくるのを回避してくれる

「安全弁」の要素が背後に隠れているのであった。

『本章 1 文字と貨幣<20世紀の悲劇の根源>』本書172~174頁参照

5 文字の根源性

そこであらためて<媒介形式>としての「文字」について再考することになる。

ソシュール言語学(論)が分析道具として考案させてきた

「シニフィアン」だとか「シニフィエ」といった専門用語や

著者専門のフランス(現代)哲学思想でよく使用される専門言説の意味解説などは

報告者も門外漢なので時間の都合上も含め割愛することにする。

ここでは本書における著者の簡潔な定義解説を手がかりにまとめておく。

要するにここでの議論の骨子とは・・・。

<シニフィアン=文字でもって意味される指示対象物を意味「する」もの=代理記号>、

つまりは、<媒介形式>のこと。

この<媒介形式>への嫌悪や恐怖がその意義への無理解に起因するものだったことが

ここまでの議論で摘出されてきたことであった。

その無理解や誤解、無知こそが

<シニフィアン=媒介形式>を消し去ろうとする潜勢力として

働いてきたのであった。

言い換えると、どこかに「純粋」知や「絶対」知があるはずだとする

観念論にも問題が潜んでいたということでもある。

ここに伝統的な「形而上学(存在論)批判」としての

<媒介形式>の観点から捉え直す必要に迫られた

あらたな「貨幣論」を提出する意義があったということである。

だからこそこれまで機能(道具)的見立てからしか

「貨幣論」を軽く扱ってきた従来の経済学そのものも

批判的考察の対象に据えなくてはならなくなったという次第。

『経済学批判は同時に形而上学批判でもあるのだ。』(本書198頁)

ということで現在に至るまで数多くの哲学者や思想家が

このようにどこかに暗黙の想定事項として据えてきた

伝統的な「超越論」的観念論を乗り越える視点を提出する

準備が整った。

『思考はもはや文字という媒介形式を追放することはできない。

表象が人間の精神活動一般であるとすれば、

表象自体が代理的機能そのものであるかぎり、

精神の行為は代理と媒介を活動の舞台、デリダの言葉でいうと

「住まい」なのである。』

このような意味での『媒介形式の超越論性をここで強調しておきたい。』

(本書201~202頁参照)

6 文字と死

「文字」と「貨幣」にはともに<死の観念>を伏在させた

<媒介形式>という側面が含まれていた。

その両者に共通して観察されたことが「書くこと=刻印」であった。

「書くこと=刻印されること」には

生き生きした実感が剥奪されてしまうのではないかとの恐怖感も

ある種の思想家(代表的人物としてルソー)には感受されてきたのであった。

そこには<死の観念>に寄り添ってイメージ付けされた

「不純性」や「不透明性」を感受させる何かが含まれていたからだ。

とはいえルソーが見出した問題意識や感受性そのものが

すべてにおいて無効だったかというとそうでもない。

そこには現代社会における言語における「商品語化=貨幣的要素の強大化」という

厄介な問題も同時に提出し得たからである。

この論点は<エピローグ-人間にとって貨幣とは何か>における

『商品語と貨幣語』(本書222~225頁)と

ベーコンの怖れ』(本書226~232頁)で示唆された問題を

要約する際にあらためて語り直すことにする。

今はルソー型のよくありがちな誤解された負の側面を

著者の問題意識とともに触れることに集中する。

著者によるとそのような見立てこそが

<媒介形式>に対する誤解であり、そうした誤解に基づく

安易な<媒介形式>廃棄論の各種顛末こそが

世界を最終破局へと陥らせ、真の意味での「死」を招き寄せるという事態を

特に20世紀の社会思想実験例を範にとって

そこからの歴史的教訓を読み取ってきたのであった。

<媒介形式>には人間の社会存在の根源が実は隠されていたのであった。

その意味で<媒介形式>とは人間の生/死の両側面を司る働きを

有していたということになる。

<媒介形式>を通じてドロドロした「死」の局面(=人間が誰しも

多かれ少なかれ持つあらゆる暴力的欲動面)を制御し、

そうした制御機能を通じて「生」を逆に甦らせてきたのである。

そのことを著者は<媒介の蘇生力>と名づける。

著者はこの<媒介形式>を人間社会における

「生=平和(静穏な秩序ある状態)」と

「死=戦争(殺伐とした無秩序・混沌状態」の

<境界線>上にあるものと見立てて

その性質を様々な観点から探究考察してきたのであった。

人間社会がもともと対立する状態にある時に

対立当事者間の平衡状態、言い換えると、

深刻なまでの本質的摩擦回避を促す「知恵」として

その不協和要素を「外部」へと逸らす安全装置としての役割が

この<媒介形式=著者が定義付ける「第三者項」>には

組み込まれていたということだ。

だからこそ、この「第三者項」に<死の観念>が仮託表象されており

<犠牲>が生み出されてくる各種過程が存在していることを

著者は確認してきたということになる。

その具体的実像として第3章と第4章では

小説に登場してくる人物の動きを解読することで示唆してきたのであった。

この「外部」装置たる<媒介形式>の役割と意義、

そして対立状態という名の「内部」関係の厳密な構造分析を経て

はじめてこれまでの歴史の中で人類が背負い続けてきた

「暗闇(業罪)」からの解放への道筋もつけられていくのだろう。

本書ではまだそのアイディアの萌芽しか現れていない段階ではあったが

最晩年の遺作となった著者の『親鸞と学的精神』では

そのような堅固な<知の体系>に裏付けられた「信」を通じた

「覚醒倫理」という問題意識に通じていく着眼点が

すでに本書には内在されていたということになる。

著者が繰り返し提起してきたことをまとめると、

どこかに「本物(の真善美)」があるものとする

完全な「純粋性」や「透明性」を欲求する

<媒介形式>の廃棄の方向へと進めるのではなく、

むしろ人間存在(社会関係)の根源には

<存在の不純性>があったのだということこそを

語らなくてはならなかったのだと強調している。

(本書203~204頁参照)

『要約すると、いわゆる内部(透明性あるいは直接性)は

まさに外部の効果=結果にすぎない。世界は雑種的に存在している。

ふつう純粋な声を自己触発的な存在者と想像しがちだが、

その生きている声ですら「物質(空気)」という外部的媒体なしには

「聞くことができない」のである。それと同様に、社会存在は

媒介者という外部なしには存立できない。もしも外部的媒介形式のなかに

難点があるとすれば、それを除去できると夢想するのではなくて、

それを限定する存在様式を構想する以外に難点を克服する手はない。

媒介形式は人間にとって存在論的宿命であるからである。』

(本書207~208頁)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

◎<エピローグ-人間にとって貨幣とは何か>

『貨幣形式は暴力の痕跡である。』(本書221頁)

この視点を絶えず忘れずにおくこと。

ここを甘く見て『へたに貨幣をいじくると、大いなる災厄が人間を

襲うことになるだろう。』(本書233頁)

著者が本書において終局的に抽出してきたこととは

『素材貨幣はなくしたり代替できるが、形式としての貨幣は

廃棄不可能である。』(同頁)ということであった。

この問題意識はジンメルの『貨幣の哲学』によって

摘出された論点とも共通するものでもあった。

とはいえ本書で著者が繰り返し強調示唆してきたように

今後とも<媒介形式>への無理解による「無知」から、

もしくは、たとえ十二分に理解し得たとしても、

<媒介形式>の背景に潜んでいる「死の観念」という不安感を

人間存在が感受し続ける限り(誰もその「死」の影から逃れ去ることは

不可能であろう!!)、その「廃棄」への誘惑を断ち切ることは

難しかろう。

その根源をなす歴史的背景理由の1つに

あらゆる人間関係や社会関係を「媒介」する領域に

「貨幣的要素」が拡大浸透してきたからである。

ここでは「文字(言語)」論が主題なので先に触れておいた論点に絞って

本書要約における最終結語のまとめに代えることにする。

それが言語の『商品(貨幣)語』化の問題であった。

ここでは西欧における哲学知の対立図としてわかりやすく提示されていた

プラトンの系譜に連なる思想家たちと

ソフィストの系譜に連なる思想家たちとの言語「観」闘争の流れが

説明されている。

ちなみに「ソフィスト」とは具体的な人物名ではないことに

ご留意願いたい。

簡単なイメージ像を誤解を恐れずにまとめると

プラトンの言語観では文脈によってぶれない

いかなる場面においても通用する「絶対・普遍・純粋」性を

極度にまで突き詰めた言語認識像があったとうこと。

言わば「言葉に対する固い信念」とでもいうべき生き様を促す言語観。

対するソフィストの言語観では

ある種の文脈によって実践的に柔軟に対応する

「流動的」言語観。

あるいは「対機説法(人によって法を説く)」(釈迦型語法か?)

つまり、人によって語り口が変わるので

通俗的には「ああ言えば、こう言う」のような感じが

どうしてもしてしまうために言語に信用がおけないといった

言語認識像であること。

要するに、こうした人間関係におけるコミュニケーションのあり方を巡る

信/不信感の対立像こそがここでの論点だということになる。

それでは特にソフィスト型言語観=『商品(貨幣)語』化した言語観に

長らく違和感や嫌悪感がなぜ集中して寄せられてきたのだろうか?

それは、『言葉を混乱させるもの』(本書226頁)として捉えられたからだ。

これがベーコンの問いでもあった。

そうした「不信」感情を呼び覚ます言語使用法に

「不純」なものを感受させる何ものかが付きまとってきたからだ。

そのことで『人間精神を悪い方向に変質させる。』(本書227頁)

言い換えるならば、人間そのものを「腐敗堕落」させるのだと

感受させられる要素があったからだ。

(ちなみにバートランド=ラッセルはこの「ソフィスト」派を

高く評価していたようだ。

『ラッセル~人と思想~』金子光男著、清水書院、2014年新装版第1刷、

146頁参照

しかしながら著者がこれまでに本書内で論考してきた

「言語」論の結論としては

人間同士の語り口において言語を<媒介形式>に据えて

双方が想定する何らかの伝達したいイメージ像(『イデア(観念)』や

『質感』など)が当然食い違うことや

そもそも言語とイメージ像を精密に「1対1対応」(数学的操作法)させ得るのかと

いった難題を抱え込むことから

そのような言語に対する「純粋」志向欲求も不可能を強いるものであったことが

導き出されてきたのであった。

このように「言語(厳密には「貨幣形式」を帯びた<媒介形式>)には

不純(不精確・不透明=語れども語れども完全相互理解には到達し得ない)な要素が

充ち満ちているために人間同士が社会関係を安定して取り結ぶためには

何度でも繰り返して「コミュニケーション(相互的言語交通応答)」を

積み重ねなくてはならない仕組みになっているわけだ。

そうした現象を指して著者は

人間における『交通の原理的不可能性』(本書190頁参照、

以下の<4 距離化>での主題)問題として提出してきたのであった。

ちなみに、「交通」とはコミュニケーションを邦訳した表現。

もし、この<媒介形式>としての『商品/貨幣的性格』(本書227頁)を

色濃く帯びた言語観を絶対的に嫌悪して拒否する姿勢を

志向するのであれば、人間は「失語症」状態に陥らざるを得ないであろう。

このような「言語」に対する清潔志向を

よりイメージしやすくするならば・・・。

「言語謝絶」とは文字通り「話せばわかる」に対する「問答無用」のような

暴力的欲動を始動させることにもなりかねない

きわめて人間的には危機的な精神状態を招き寄せるということ。

そのことは人間が相互理解にとって面倒くさいと思しき「言語」使用を遠ざけ躊躇して、

安易な「暴力」的解決方法に傾こうとする誘惑に駆られる理由を

しかと考える機会ともなろう。

「政治(人間同士の交通現場のこと)」における各種騒動の実態を

よく観察されるとこのことの意味もよく理解されよう。

「言語操作能力」に劣る子供同士の喧嘩などを想起されたし。

ここに「言語操作能力」を涵養させる読書や

「書く(話す)」といった積極的な発信機会を持つことの効用もあるわけだし、

初等教育において最大限に重点を置かなければならない学習意義もあるわけだ。

このように「純粋」な言語観を有する者に対して

「不純性(貨幣形式)」を帯びた言語を駆使して

相互理解の道を切り開くためには

いかなる言語「作法」が有効だろうか?

それは誰しもが抱え込まざるを得ない言語的難問ではあるが

ここにも『出来あいの解答は存在しない。』(本書233頁)ということになろう。

いずれにせよ、こうした<貨幣形式>が「人間知性(精神)」の中へと

混じり込むことが避けられないものだとするならば

その性格をよく理解したうえで

言語を介した相互「不信」感を粘り強く解きほぐす

努力を積み重ねていくほかあり得ないことだけは確実である。

そうした継続的努力の積み重ねの過程にこそ

著者の提案する『媒介形式の非「貨幣」的存在を構想する』(本書75頁)道は

ないのではなかろうか・・・。

これがとりあえずの<媒介形式>に付随する「不純性」に対する

「純粋」志向が可能になるギリギリの<境界線>ではないかと考える。

その<境界線>を越境してしまえば

再び「死の観念(後戻りできない闘争本能)」を招き寄せる・・・。

ここに着目することが人間が社会生活を安心して過ごしていくために

欠かせない「知恵」だということでもあろう。

要するに人間とは「有限」なる存在である限り、

「不純物(不完全性)」を必然的に抱え込んでいるということ。

であるかぎり、「完全性(無限)」を目指して

日々向上心をもって生きる姿勢を持つことは立派なことであるが

常に人間存在とは<未完成体>だということを忘れてはいけない。

「不純物」を抱え込みながらも日々の向上を目指す過程にこそ

人間的営みはあるわけだし、「悟り(完全性=純粋性)」への道も

あるという。(道元禅師などの教え)

一気に「悟り(純粋性=完全性)」を開ききろうと

欲張るから世界を混乱に陥れることになるのだ・・・。

そんな心弱い人間への「励まし」の声がここにはある。

最後は少し著者自身の直接的論考提案からは外れてしまったようだが、

触発されて「報告者」自身が本書から感受し、

あらためて<社会内存在者>として不完全なる身の

「人間」として処世していくための「知恵」として

再認識させられた点に触れ終えたところで閉幕する。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

<「報告者」が本書でもっとも炯眼の至りだと感服仕った点を最後に>

現在、<キャッシュレス化>が経済社会では強く待望されてきている。

そのような志向性が表面に顕在化してきている今日この頃。

近未来<キャッシュレス>志向型経済社会において

その先に予見される「闇」の部分が

すでに1990年代初頭期に示唆されていたところに

著者の鑑識眼がもっとも光輝く点があったのだと

あらためて再認識させられたこと。

1990年代初頭期と言えば、

ソ連を始め各種「社会主義」(を自称してきた)国家における

20世紀を通じて展開されてきた<純化理性志向型>イデオロギーの有効性実験が

最悪な結末を迎えたことが少しずつ世間にも知れ渡るように

なってきた頃合いであった。

この少し後にフランシス・フクヤマ氏『歴史の終わり』で展開されたような議論、

つまり、今後の世界は「(自由)資本主義」によって

一極化していくだろうとの予想図が提出されていったのだが・・・。

その予想図はどうもあまりにも安直だったようで

ある種のイデオロギーに基づく「一極化」志向は

確かに強まる動向にあるものの別の志向性も顕在化しつつあるという

混沌状態にあるのが2019年現在の世界情勢の見取り図だということ。

ただこうした世界情勢の中で共通する政治的課題が

現代経済をいかなる志向性でもって再「統御」していくべきかという

論争の形態で随所に再燃してきていることだ。

ここにおいて20世紀において提出されてきた歴史的教訓を

政治的立場を問わずに精確に認識・理解し得えているかどうかによって

今後の勢力図転換における行く末も

「吉」にも「凶」にもなって現れ出てくるだろうということ。

経済面における<キャッシュレス化>や<純粋機械化経済>が

深く進行していく過程で今後ますます

人間の「匿名化」が進むかと思いきや、

むしろ「可視化」が進むのではないかといった

「逆理」事態に恐怖を感受する先進的知識階層も

一定数出現しつつあるようだ。

本書で提示された<媒介形式>論で言えば、

これまでは「見えにくい」領域にあった重要問題が

ひょっとすればこうした動向をきっかけに

世間一般にも再認識されていく期待も持てるかもしれない。

話題を<キャッシュレス化>論に戻すと、

「現金」という名の追跡<不能>領域が

「情報貨幣(デジタルマネー)」という名の追跡<可能>領域の

拡大深化が予測されるということでもある。

そのことによって再び人類が<媒介形式>の暗黒面に

畏怖する事態を迎えるのであろう。

ただその暗黒面(=「死の観念」といった不安を抱かせる側面)を

逃げずに真正面から見据えてかかる知的姿勢を持つことが叶えば

著者の問題意識も現在に活かすことが出来、

<媒介形式>の意義を正しく再認識することを通じて

「廃棄」の方向にではなく「存続」の方向において

活かす動きも出て来るかもしれない。

人類「存続」の未来予想図も

「<媒介形式>に対する恐怖感と安心感のいずれが打ち勝つか?」に

かかっている。

こうした近未来動向予測が

仮に「恐怖感」や「嫌悪感」の方向で再結集されていったとすれば、

いかなる事態を招き寄せることになるのだろうか?

本来ならば多種多様である『雑種性を帯びた』人間のあり方が

画一的に一元統合管理されていくということになりはしないか・・・。

著者の示唆する『<媒介形式>を甘く見るとこうなる・・・』を

深読みしてその「甘さ」がそのまま現実化していくとすれば

まさに20世紀以上の惨劇が表面化していく「分水嶺」に

只今現在あるのかもしれないということを

人類共通の認識論点に据えること。

こうした啓蒙活動こそが

今ほど重要な政治課題となってきているのかもしれない。

これが著者の問題意識を引き継いでいく

私たち1人1人に課せられた責務だということである。

そこに本書を読み解いてきた意義もあったのだということに尽きる。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

・<あとがき>

・<参考文献>

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

※以上が本書ご紹介の全容となります。

今回の読書会において管理人自身が司会者となる仕事は初めての試み。

大学時代のゼミやクラス会での研究発表や塾講師の経験以来の体験で

これまでの社会人生活の中でもあまりプレゼンテーション発表の機会もなく

ノホホン(?)と過ごしてきた中で久方ぶりの人前での「公開発表」は

やはり極度に緊張するものです。

管理人自身は極度の「人見知り」ではないものの

神経質で緊張する若干内向的な性格も気質として有しているためか

慣れないもので事前準備は万端にしてきたつもりでしたが

今回の課題書が抽象すぎたこともあってなのか

自分なりの言葉でわかりやすく表現し直して

皆さんにお伝えしようとすればするほど

途中で詰まってしまうシーンも何度かありました。

今思えばヒヤヒヤもの。

いつものメンバーなので知っている顔ばかりなのですが

赤面しそうな場面もありました。

でも大変でしたが貴重な体験ともなって勉強になりました。

管理人も(ビブリオバトル=書評・紹介合戦よりも)

より充実した「対話」からあらたな発見が出来そうな読書会そのものに

多大な関心がありますので、

また何かの機会があればプロとして活動されている

余所の読書会主催者様のところを巡回するなど

「武者修行」しながら向上していきたいものです。

そんな意欲的な管理人ですので「読書会」などのご案内を

コメント欄にでも頂ければ有り難き幸せでござりまする。

ジャンルは問いません。

最近は友人知人に触発されて『<漫画>から哲学する』試みにも

「心」が揺さぶられています。

最近話題の『サイコパス』や『ゴールデンカムイ』ほか

日本の「漫画」には知的水準が高いものが数多くあります。

管理人も(へヴィ)メタルが好きなのでそこからのご縁で

「アニメ」や「漫画」にも触れたい気分に駆られることが

よくあるのですが、人生における時間は有限なので

どうしても優先順位を決めて「取捨選択」せざるを得ません。

とはいえ、あまり詳しく知らなくても「耳学問」だけでも面白いので

丁寧に教えてくれるような「オタク?」気質の友人知人には

感謝しております。

そんなわけで「労働」ではなく

このような余暇を活かせる<仕事>や<活動>も

さらに取り組んでみたいと思われた有意義なひとときを

過ごすことが叶いました。

「それにつけても金の欲しさよ」

「金くるる人は有り難いものよ」(吉田兼好法師『徒然草』の一節)

それは半分「冗談」ではありますが、

これから消費「増税」がなされていき

「賃上げ」もなく保険料など各種手数料や

諸物価だけが値上がりしていけばどうなるのでしょうか?

老後資金○○円も「自力」で稼げそうにない管理人にとっては

人間交際の範囲もさらに狭められるようで

今から戦々恐々の不安な感情にとらわれています。

ですから半分は「本気」で切実な想いにもとらわれるのです。

(隠れて??)副業されている方も今や多いのではないかと推察されますが、

生活費獲得の機会が多いこと自体は決して悪いことではないでしょう。

おそらく大多数の皆さんも同じ想いを共有されておられるのではないでしょうか?

「不満」は言いません(笑)

素直に「サポートしてくれたみんな、本当にいつもありがとうね。」

事前準備段階でのレジュメ内容が今回の書評投稿用分で

枚数にしておよそ34~40枚ほど。

それを実際の読書会では「削って、削って・・・」を

繰り返しながら最終的には12頁分(A4用紙)を

A3用紙の裏表いっぱいいっぱいに転換させて

3枚分に集約させて頂きました。

かなりの難事業でしたが様々な体験ができて

他人様にお伝えすることの意義を再確認する機会がまた一つ増えて

管理人にとっても人間的成長につながったかなと思える

有意義なひとときを過ごすことができたようです。

皆さんもそれぞれSNSなどの各種「発信」媒体で

日々そうした「皮膚感覚」を確認されている方もおられるかもしれませんが、

誤解なく自身が伝えたい「心」を他者に伝達することは

本当に難しい知的作業なのだということは共有して頂けたのではないでしょうか?

「文字数」が短すぎても長すぎても「誤解」は拡大してしまうおそれがある。

ちょうどよい「塩梅」ってどのあたりにあるのでしょうか?

それはそれぞれの人間が持つ時空間の制約条件によりますが、

社会に「ゆとり」と「活力」を取り戻すためにも

現代経済のあり方を抜本的に「革新」させる発想が

今ほど要請されてきていることだけは確かなようですね。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

<失われた○○年(戦争状態)>を二度と繰り返さないためにも「反」緊縮経済政策を掲げる政党に「清き一票を!!」    ~ただいま若者よ選挙に行こうキャンペーン実施中編~

さて、ここからが次の本題であります。

ちょうど選挙期間中ですので本書に触発されて

浮かび上がってきた身近な各種「報酬」問題から

現在の各党が掲げる経済政策の是非問題に至るまでの

諸問題を題材にともに考えてみましょう。

今回の読書会では「仕事」といっても仲間内のほぼボランティアみたいなもので

いわゆる<収益>などは頂いておりませんが

この「仕事」という過程で発生する<収益(報酬)>という問題も

あらためて考えさせられる場面が個人的にはあったからです。

別に<収益なしのただ働き>をさせられたなどと皮肉や不満を

語っているわけではありませんよ。

言わずもがなくれぐれも参加メンバーの方には

誤解されませんようにあえて再強調しておきますね。

あくまでも一つの「思考実験」による<考えるヒント>としての

格好の題材として取り上げさせて頂いたまでですから。

要するに本書でも示唆されていましたように

私たちが普段の仕事で頂く勤労報酬<=貨幣の発生起源>とは

どのようにして形成され、どのような暗黙の了解事項の下で

相互に支払われていくのかという報酬「授受承認」問題の

話題がここでの問題であります。

現代「資本」主義経済の中で<貨幣>を介する勤労報酬を頂いて

「生活」していくには「第三者」が必ず介入してくるらしいという

分析考察が本書のもう一つの隠された主題でもあったということでした。

ご一読された限りでは読者の皆様にとりましても

おそらくかなり抽象的かつ難解な内容だと感受されるでしょうから

あらためて最後に「おさらい」を兼ねて語ってみました。

あまりにも親しすぎる人間同士では<貨幣>を介在させることは

どうもしっくりとこない(望ましくない)だろうということは

皆さんも日常生活で感受されているところだと思いますが、

これが親しくない者同士になる普段の皆様がお仕事で体験されているような

経済現場では途端に<貨幣>を何らかの形で介在させなくてはならない。

ここにも「社会」における人間<関係>における『距離化原理機能』問題が

含まれていたのでした。

最近始まった某ドラマにおける某女優さんによるセリフでは

『より望ましい<距離感>とは適度な<緊張感>と<親近感>』(大意)

だそうです。

『うまいこと言わはるなぁ~』と

ちょうど本書評記事を創作している最中に飛び込んできましたので

ついつい触発されて語ってみました。

それはともかく・・・。

一方で信頼出来る者同士にまで至れば<貨幣>を仲介役に介在させなくとも

よさそうに思われるわけですが、

現代「資本」主義経済社会の中で「生活」を難なく送っていくためには

<貨幣>換算評価された資源を活用していくうえでの

「コスト(計算費用=必要経費)」を支払わざるを得ない

環境構造でありますから、

誰しも<貨幣>獲得のための「労働」から逃れ出る手だてを

現在の人類の身体感覚から導き出すことは

多大な困難が伴いそうだということです。

このように誰しもが『時は金なり』の<ビジネス(=忙しさ)>な

経済時空環境の下であってみれば親しい者同士であれ

現代生活にとって必要となる経済コスト調達の場が許容されればされるほど

なるほど本音では助かるというものでしょう。

『人間関係に「ヒビ(亀裂)」が生じない限りでは・・・』

とはいえ、著者が提起されていたような

『媒介形式の非「貨幣」的存在を構想する以外に新たな展望はないだろう。』

(本書75~76頁)という問題意識も一方では重要な視点であります。

やはり何でもかんでも人間関係を<媒介>させる手段として

<貨幣(ここでは狭義のお金のこと。)>を介在させることが

相応しい仕儀なのかという疑義は相変わらず残されています。

こんなことはもちろん現下の厳しい経済状況の下においては

親しい者同士であればなおさら口が裂けても言い出しにくい雰囲気ではありますが、

本音では皆さんも心のどこかで感受されているものと推察いたします。

親しい者同士でも<貨幣>での気持ちよき「やりとり」が

もし成り立つとするならばどのような条件設定になっている必要があるのでしょうか?

それは言うまでもなくすべての人間に有り余るほどの潤沢な<貨幣>資産が

すみずみまで行き渡っている場合であります。

その場面に至って初めて真の意味でのインフレ抑制問題が発生してくるのです。

<逆に言えば、現在は「デフレ(膨大な需給ギャップ=格差発生要因かつ

深刻な一般国民における貨幣不足状態)」であるからこそ

誰もが「お金」を気前よく支払えずに「よそよそしさ」が

いや増してしまう経済心理的状況に置かれているということでもあるわけですね。>

ですから、「リフレ(-ション=インフレ目標)派」が唱える

潤沢な貨幣量が足りないとする<貨幣数量説>に立脚した

経済政策だけでは「デフレ」克服には有効な手だてとはならず

まずは「需給ギャップ克服(総需要喚起)」政策といった

ケインズが20世紀初頭に見出した処方箋も必要不可欠な視点と

なってくるというわけです。

そうした「デフレ」不況の原因を見立てる視点において

どこに比重を置いて考えていくかで

各有識者の間で「争点」となっているというわけですね。

このことが経済学素養に疎い一般国民の皆さんにおかれましては

「わかりにくい」という感じになるのでしょう。

それは「当たり前」であります。

経済学者や有識者は「理論」中心主義で

一般「生活者」の「実践心理」は<ブラックボックス(計量化不可能)>の

ものとしてこれまで扱われてきたからですね。

そのあたりの模様はすでに当書評記事内でも

何度か触れさせて頂いてきたところでした。

そしてそのような「インフレ」場面では供給も不足してきますから

不足分を満たすために否応なしに働く機会も増えてくるとともに

所得もさらに向上していくことになりましょう。

あくまでも教科書通りの「理論」でいけばの話ではありますが・・・。

例えばいわゆる「バブル」景気を体験された年輩の皆様の中で

余剰資金を獲得された方ならば

身内同士や親しい友人知人同士の間でさえ

気前よく「お金」を配るような感覚が共有されていた瞬間が

もしかすればあったのかもしれません。

それによって「お金」がなければ出来なかったことも

選択肢に入るために<選択の自由>の幅も拡張されたことでしょう。

現在の慢性的「デフレ」不況下ではそのような意味での

<選択の自由>とやらが多くの人間から剥奪されているがために

いわゆる「格差」も助長され、

「持てる」者と「持たざる」者同士における

嫉妬感情に基づく激しい闘争「情念」が至るところで噴出してきているのです。

その嫌な心理的対立の「隙」をぬって支配権力層は<増税>政策を

仕掛けてくるという構造にどうもなっているようなのです。

「なぜ近現代議会制民主政治において予算(課税政策)獲得措置における

<承認>が憲法上も求められているのでしょうか?」

その「心」を皆さんにもしかと考えて頂きたいわけですね。

この仕組みをお知り頂いたうえで

この<承認>を巡る主導権争いの背景にあるあらゆる情報合戦の

<はざま>にこそ現在の究極的な政治的対立の「罠」があると

見破ることこそが今回の参議院選挙でも最大争点となってきているのです。

ですからそのほかの枝葉末節の政策論争(もちろん大切な論点ですが)や

スキャンダル合戦に皆さん惑わされてはいけないのです。

国民同士を「分断対立」させることで

一体全体誰が最大の<漁夫の利>を得ているのかを見抜くことこそが

民主政治の力でもあるわけです。

ですからそうした民衆(によって選ばれた選良)による政権批判の「眼力」をして

単なる<ポピュリズム(エリートによる大衆迎合)>姿勢だと

揶揄していれば済むという話ではないわけですね。

本当に私たち一般国民にとって必要不可欠な経済政策を裏付ける

「財源」選択措置として<増税(税収依存)>しかあり得ないのでしょうか?

ここのあたりを鋭く皆さんにも注目して頂きたいわけです。

こうしたことから体制(与党)側だけを責任追及するばかりでは

コトの本質は一向に見えてこないのです。

反体制(野党)側にもその体制を支えてきた責任はあるからです。

つまり、私たち一般国民からすれば「共犯者」なのです。

特に経済政策において与野党問わずに「緊縮」姿勢で頭の中ががんじがらめとなり

いわゆる<失われた○○年>を繰り返し演出してきた責任において

同罪だということです。

それに気づいた政党から続々と「反」緊縮経済政策立案提起運動の

反撃の烽火が上がってきているにすぎないのです。

なお、良識ある読者様には<釈迦に説法>ですが、

最近の報道でも批判が加熱し過ぎてすでに「暴力的事態」にまで

発展してきており逮捕者も出てきているとのこと。

このような愚かなことを煽動することが当書評の目的でもありませんし、

まったくの現下の情勢を見据えていない「狂気の沙汰」としか言えません。

あくまでも政策批判とは「言論」によるものです。

某国の『黄色いベスト運動』やら『民主化運動』とやらを模倣して

「正義者気取り」なのかもしれませんが、

そのような姿勢では真に大衆の支持・動員は決して得られないことでしょう。

しかもかえって将来ある若者を誤誘導して「破滅」へと向かわせることにも

なりかねません。

そうした「政治的効果」をどれほどの政治「活動屋」は

理解しているのでしょうか?

『日本とは元来<大和>の国柄であり暴力で解決するような者を

決して赦しはしないでしょう。』

そのような「有事」が多発恒常化している時代は

もはや根が腐りかけているのです。

ここのところの『大和』における<まつりごと>の要諦を

弁えて頂くことを願うものです。

とはいえ今日のように世界に危機が切迫してくれば

『群集心理』が強く働くものですから

皆さんもこの手の「宣伝」・「煽動」に巻き込まれないように

くれぐれもご注意下さいませ。

もしそのような「罠」に安易に加担すれば、

過激なテロ誘発の危険性や

政権による施政態度をより一層硬化させることにつながり

一般国民への弾圧が強まるなど

私たち一般国民にとっては「とんだとばっちり」を受けるというものです。

香港で起きている事態(かたや対<強権>国家)と

我が国で起きている事態(対<ほどほどにまだ寛容度が残されている>国家)を

同一視することは厳に慎まなくてはなりませんが、

隣国で見られる事態は決して「他人事」などではないのです。

「より善き」政治を求めるために

世を動かす効果的かつ説得的『軍略』とはいかなるものか

しかと考え抜いて頂きたいものです。

「体制」派も「反体制」派も。

その『軍略』のヒントとして

『兵法の天才 楠木正成を読む~河陽兵庫之記 現代語訳~』

(家村和幸編著、並木書房、2013年)をご紹介しておきます。

ここには『人を見抜くための知恵』が豊富に紹介されています。

そして政権与党の「心ある」要路者には

『太平記』の一節をご紹介しておきますね。

「湊川」に今まさにおもむかんとする正成公が

後醍醐帝に諫言申し上げる場面。

『このたびの戦はもはや千早籠城戦(民主党政権崩壊の兆し)の頃とは

あまりにも世間の風評動向が違ってきておりまする・・・(大意)』と。

いかに野党勢力が弱く見えようとも軽侮の慢心を抱いた時に

いかなる者も「天運」から見離されるということでござりまする。

今度は現政権こそが将来の歴史家の「眼」から見て

「悪夢(ナイトメア)」になるのですぞ!!。

そうとご理解頂ければ自ずと

経済政策において何を今なすべきかがわかろうというものです。

今回の参議院選挙ではすでに消費「増税」を掲げてしまったからには

その旗を降ろすのが難しいかもしれませんが、

国民のことを真に守り抜くのであれば

「凍結(再延期)」の<大英断>を下すのも躊躇すべきではありません。

あるいは選挙結果後に野党の協力も得て、

真摯な政策論議を交わしたうえで

大幅な政策「転換」への「信認」を取り付けていく道もありましょう。

そのためには与野党ともに謙虚な姿勢をもって

歩み寄らなくてはなりません。

大手マスコミや政権与党反対派は大いに「剣幕」をはってくるでしょうが

最後の「秘策中の<秘>」とはこれにてござる。

「でなければ国家独立担保のための憲法改正の<気運>は盛り下がり、

その<機会>を永久に失し、もはや二度と政権支持を取り付けることも

叶いませぬぞ。」ということです。

その意味ではリスクある衆参「同日」選挙を回避したことは

今となればまだチャンスが残されているということで、

国民にとってもこのままでいけば確実に来たる「生活」困窮不況や

国家独立危機からくる「戦雲」招来を回避し得る場面は

まだまだあり得るということです。

今回の参議院選では時期的にもはや掲げた「旗」を振り下ろすのは

かなりのハードルの高さがありましょうが、

次に来たる衆議院総選挙では必ず消費増税「凍結(再延期もしくは廃止)」しなければ

もはや挽回の余地も残されておらず、仮にそのまま政権が保持し得たとしても

国民はそれこそホンモノの怒りを表すことでありましょう。

もっとも急激なインフレが押し寄せてくれば

景気過熱化を抑制させる方策としては

消費増税にも利点はありましょうが、

その前に国民生活は完全崩壊してしまうことでしょう。

もしどうしても消費増税という「税収」を財源にすることにこだわるのであれば

せめてもの奢侈品などへの「物品税」に切り換える道もあるようですが・・・。

少なくとも現在の消費「増税」に伴う「反動減」対策としての

<ポイント還元制度>などの効果は微々たるものだと予測するのが

「良識」だというものでしょう。

そんなわけで大手マスコミなども含めて

こうした「反」緊縮派による言動をして

目先の選挙向け宣伝にすぎないのだといつものように

相互批判を繰り返しておれば事足りる問題ではないということです。

もはや事態はここまで深刻化してきているのです。

なぜならばこの<失われた○○年>期間中に

見事なまでに「国力(国権も民権も)」が

諸外国に比較しても格段に衰退させられていったからです。

この点は今後とも将来ある若者世代にとっては

本当に深刻かつ切実な問題でありましょう。

とりわけ政権与党が掲げたいわゆる「ロスジェネ」対策も

「中高年引きこもり」(ひいては少子高齢化を招き寄せた根本原因)対策も

今となっては遅きに失した感が強くあります。

それでもようやく重い腰を上げたこと自体は

十二分に評価し得るところですが

とりわけまだ政権与党内(野党も含めて)にいると思われる

良識(心)ある若手議員さんにはより一層の奮起を促したいものです。

特に『日本の未来を考える勉強会』に所属されている議員さんを中心に

与野党問わずに実り(成算)ある議論と「覚悟ある決断実行」を

期待します。

もし10年ほど早ければ

「人手不足」だとか

それに伴う「外国人」労働者受け入れや

内外人問わずの治安悪化問題も軽減し得たはずだからです。

さらにいわゆる「ヘイトスピーチ」誘発問題も

これほどまでに深刻化しなかったはずです。

いわゆる「供給」側経済学者による「供給過剰削減」志向ではなく

「総需要喚起」志向の有識者と政策担当責任者を

重点的に布陣させておればこんな惨憺たる有り様には

なり得ていなかったはずだからです。

「自(他)殺」率も減少させ得たことでしょう。

管理人などは『先に死んでいった者(同世代・同時代をともに

懸命に生き抜いてきた戦友)たちのための弔い合戦』の

強い想いでいつも書評活動を通じて語らせて頂いています。

そうと決まれば今しなくてはならぬこと。

参議院選挙後の「和睦」

「和睦」とは「反」緊縮経済政策採用を与野党問わずの

共通了解事項とすべきこと。

これが現在の「挙国一致」政策であります。

このような選挙(政局)状況分析の下、

すでに管理人も「期日前」投票を済ませてきました。

管理人も最後まで悩ませられました。

「俺を悩ませるなよ、気持ちよく投票させてくれと!!」ね。

なお、一言だけアドバイスしておきますと

ご自身が支持する政党はなくても

『比例代表』の投票用紙では

政党もしくは立候補者「個人名」も記入できますから

この欄をフル活用されることが賢明だということです。

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(公職選挙法抵触のおそれがあるため一部削除修正。

なお、立候補者演説が聞き取れないほどの現場での言論活動も

加熱しています。

場合によっては<選挙の自由妨害>にあたるそうなのでご注意願います。

それにしても、政治活動実践の場における<言論や表現等の自由>って

どこまで許容範囲なのでしょうか?

このあたりも選挙後における「憲法問題」とともに議論して頂きたい

論点ですね。)

現在はインターネット等による選挙(応援)活動も盛んですが、

皆さんも知らず知らずのうちに「違反」行為を犯しているおそれもありますから

ご注意下さいませ。

ご参考までに「選挙活動に関する規制措置」に関する

総務省サイトをご紹介しておきますね。

<令和(2019)元年7月18日木曜日一部削除修正>

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管理人が20代に有権者になってから選挙投票をしてきて

感受してきたことは特に「保守派」気質を有する有権者にとっては

投票困難な時代が続いてきただろうなぁ~ということです。

おそらくそんな忸怩たる悔しい思いや

経済政策において裏切られ続けた感ある方も多いことでしょう。

どの「保守派」も「緊縮」派(最初は「反」に理解あっても

最後の間際で親「緊縮」派に「転向」するような者が多すぎる)ばかりですから

つらく悲しい場面も多く見せつけられてきたのではないでしょうか?

管理人も「極端」は嫌う者の1人ですが

せめて保守「中道(リベラル志向にも是々非々で容認)」かつ

「親日本(いわゆる<国粋>主義ではなくて

自国の将来を真剣に案じる)」派の「国民」政党が育ってきて欲しいものです。

これはあくまでも「保守」的気質を有する

個人的な期待にしかすぎませんが・・・。

この有権者層にとっての選択肢がないのです。

すでに政権与党を見離している「保守派」有権者もいることでしょうし、

さりとて野党にも気持ちよく投票出来ないという方は

意外にも若者を中心に多いものと推察いたします。

その意味で若者にこそ政治を身近に感じて頂き

ご自身の今後の人生のためにも積極的に学び続けて頂きたいのです。

これまでの<保守派>政治家はあまりにも経済政策に「無知」すぎるか

「軽視」してきた嫌いがありますので、

しかと「反」緊縮経済政策を今後とも継続的に勉強されていくことを

期待しております。

学生時代からこの点に多大な不信の念が植え付けられてきたからです。

管理人の「期待倒れ」に終わりませんように願っております。

某有名経済評論家の方もブログ発信されておられましたように

まったく自分自身の日頃の価値観に「完全」合致したような

<カーボンコピー>はありませんから

近似の候補者を「選択信頼」するほかないのが

議会制民主政治というものです。

さらに「参議院」は「衆議院」よりもいわゆる<政局>に晒されにくい

<良識の府>としての機能を憲法上も持たせられていますから

政党選択のうえで「特定」政策に関する議題を提出しているような

政党をあえて選択するのもありかと思われますが、

中には支持母胎(基盤)に不安が感じられるところもあるようですから

多種多様な情報を多角的に分析しつつ「安全」と思われる

立候補者もしくは政党に「投票」なされますことを切に願います。

つまり、「興味本位」ではダメですよということです。

皆さんも管理人同様に各立候補者に「満足」できないところが

あるかと推察いたしますが、

現下における国内外の政治・経済情勢がいかなるものかを

しかと見極めて頂いたうえで、

比較的に「優良」だと思い信ずる候補者にご投票願います。

特に「絶対」数が圧倒的に足りない若者有権者の動向が

今後のご自身の人生における「運命」を決めることにもなるのですから

無関心な態度であることは許されるはずがありません。

それが良識かつ責任ある「大人」の態度というものです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

なお、本書評記事は特定の候補者への投票を誘導する趣旨ではなく

あくまでも投票判断材料を提供する目的として語らせて頂いたものです。

実際の投票行為に関しましては読者様各自の賢明なご判断にて

宜しくお願い申し上げます。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

さて、話題を先程の

親近者同士での<貨幣>介在可能か否か問題に戻しましょう。

もし仮に「バブリー」な時代であれば、

親しい者同士であっても<貨幣>を介在させることに

誰しも嫌悪を感ずる瞬間がもしかすれば軽減されていたのかもしれません。

そんな場面も皆さんにはご想像頂きたいのです。

「お金」は信頼関係を崩すこともありますが、

むしろいや増すこともあるだろうことは案外忘却される傾向にあるようです。

ことに「清貧」を極度なまでに重んじてきた日本人であってみれば

このような身内同士での金銭的やりとりは<守銭奴>として

軽蔑される傾向が拡大強化されることになってしまうようです。

それほどまでに人間同士における貨幣交換には

厄介な「壁」も付着しているということです。

「その根源的理由はそもそもどのあたりに由来するものなのでしょうか?」

ここに人類長年の「宿あ(痾)」もしくは「宿題」もあるようです。

『おかね(貨幣)とは何だろうか?』

そこには多種多様な貨幣「観」を巡る対立もありそうですが、

最近熱さを増してきている現代貨幣理論(いわゆるMMT問題)には

そんな人類のこれまでの経済に対する不安感をも払拭させるかもしれない

秘かな「希望」も含まれているのかもしれない・・・との期待願望も

込められてのことなのか『経済世界における<天動説>から<地動説>への

転換だ!!』と一部では評価されてもいるようです。

本当にそうなのかどうかは管理人も研究考察中なのですが

この問題を解いていくことで人類の経済生活における

あらたな希望の道が開拓されていくのかもしれません。

とはいえ問題も孕んでいそうですが・・・。

さて「投票」前の時期ですので

「是非ともこれだけは言うておきたい」話題に触れているうちに

長文になってしまい「投票」と「開票」日にまで

間に合わなくなってしまう事態となってきましたから

『現代貨幣理論(いわゆるMMT問題)』その他の議題は

また別途の機会に加筆修正として対応させて頂くことにいたしますね。

「期待されていた方には誠にもって申し訳ございません。」

また小難しい話題が続く中での「気散じ」として

「芸能話(ライブ観覧記)」もご披露させて頂くこともあるかも・・・。

「乞うご期待」願います。

前回の書評課題本でもあった『メタル脳』(中野信子女史)でも

提起されていた問題とも通底する論点が

今回の抽象的な<媒介項(対立・摩擦緩衝効果機能)>解題には

あったようです。

『<へヴィ>メタルにはいわゆる対立・闘争本能を緩和させ得る

「浄化」機能があるらしい・・・』という問題でした。

抽象的かつ比較的難解な本書を読み解くヒントとして

『メタル脳』に関する書評記事とも読み合わせ、ともに考えて頂ければ

管理人が本書を題材にして言わんとしてきた「心」も

よりご理解して頂けるものと信じて

いったん「閉幕」させて頂くことにいたします。

ここまで長らくお読み頂き毎度ありがとうございます。

皆様お疲れ様でした。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

次回の加筆公開投稿日までの「休憩時間」を設けさせて頂くこと

ご寛恕願います。

皆様への「御礼」に代えまして

目の保養用に幾枚かの写真を挿入しておきますね。

IMGP1509 IMGP1515

IMGP1514 IMGP1513

(東福寺塔頭『天得院』様で撮影許可頂いた桔梗の花ほかでございます。

門前の慈母観音様。拙者、只今余暇に仏像彫刻修業の身でもある。

いつの日にか鬼子母神様とともに彫らせて頂きたいものです。

管理人は狩野芳崖画伯の『慈母観音』様が好きなのです。

この日は6月29日土曜日で午後から京都での読書会。

朝方少し雨が降ったようでこの日の空模様が心配ではありました。

しかし出発頃には雨も止んでいたために

京都早朝散策を楽しませて頂くことが叶いました。

『龍神様ありがとうございまする・・・。』

その「ど」緊張感を解きほぐすために<韋駄天>様のごとく

始発にて駿足隠密行動開始。

京都中書島で途中下車。

かねてより崇敬する伏見の長建寺様と御香宮様を経て

東福寺でも再度下車。

桔梗の開花時期に合わせて<特別拝観期間>との情報を

新聞で事前に得ていたので、

東福寺塔頭『天得院』様を訪れさせて頂きました。

しかも東福寺自体が<初体験>だったのでいわゆる<ビギナーズラック!?>。

拙者は藤原一族があまり好きではないので

どうしても藤原氏ゆかりの御寺や神社を敬遠してしまいがちなのです。

聖徳太子様や菅原道真公などいわゆる「怨霊」になられた方には

格別の崇敬心を有しているのですが・・・。

『おごれる者は久しからず・・・。盛者必衰の理をあらわす・・・。』

(平家物語)の世界です。

それはともかく何やらこの日は騒がしい気配が漂っていたようです。

それもそのはず。

お寺の方のお話では前日にG20参加国の各国首脳の貴婦人様方ご一行が

おしのび?で東福寺へお越しなさったとのこと。

仏法の「心」をどうか汲み取って頂き、

世界平和と経世済民の治世創造へとつなげて頂きたいものです。

『(諸)国家安康 君臣(万民)豊楽』の「心」にて・・・。

『恩讐の彼方へ(過去のあれこれの行き違いに由来する相互憎悪心を

水に流す)』の「心」こそ今もっとも必要な時期であります。

「いつの世」も同じですが・・・。

この塔頭『天得院』様はかの尾崎放哉や種田山頭火の師匠でもある

荻原井泉水ともご縁があるそうです。

そこで管理人も一句詠んでみようかと。

『時は今 天の下なる 桔梗花』

お抹茶と和菓子を頂きながらつらつらと想句。

<桔梗>にちなんで明智光秀公が愛宕山参詣なされた折りに

詠まれた連歌の一節に連想されて湧き出てきた一句にてございまする。

『天下泰平』合掌祈願の祈りを込めて・・・。以下すべて管理人撮影)

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(早朝5時半すぎの「始発」待ちに散策した大阪『四天王寺』の模様です。

『和敬静寂』の<心>で遙かに高くそびえる『あべのハルカス』を眺めていると

なぜか現代の<バベルの塔>に思えてくるのは管理人だけでしょうか?

この『四天王寺』(聖界)と『あべのハルカス』(俗界)の取り合わせが

何とも霊妙不可思議でしょう。

ほんの少しばかり「おかしみ(軽みの境地)」(松尾芭蕉翁)が喚起されてきます。)

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(連休中の『平成』から『令和』の時空を超えて

九州へと向かう船旅道中の朝ぼらけ『御来光』です。

『これぞまさしく『日の本の<夜明け>』でござるか。

さよう、かくありたきものじゃ・・・。』

ちょうど土佐沖から日向灘へと進み入る時刻でした。)

IMGP1452 IMGP1451

(『薩摩國』へようこそ。名勝『仙巌園』から眺めた桜島でごわす。

霧島ツツジを愛でながら長渕剛さんの映画『男たちのYAMATO』の主題歌でもあった

『CLOSE YOUR EYES』と『YAMATO』が脳内で鳴り響いてきました。

やはり本場の霧島ツツジは最高ですね。

いつもは京都の『青蓮院』門跡寺院のお庭で眺めていたものでした。

『薩摩隼人』の魂が拙者の心にも鳴り響きます。

拙者にとっては『薩摩示現流』よりも宮本武蔵の『二天一流』にて

世界平和と万民安楽の「魂」を迎え入れたいものです。

『千日の稽古を<鍛>とし、万日の稽古を<錬>とす』

~宮本武蔵『五輪書<水の巻>』~

世界で活躍するメタルバンド『LIGHTNING(ライトニング)』

名曲『FIVE RINGS』を口ずさみつつ・・・。) 

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『令和』初の七夕様はそれはそれは誠に愛(め)でたいものじゃった!!~女性ロックシンガーとともに皆さんの弥栄を短冊に書いてお願いしましょう♪♪~

<令和元(2019)年7月19日(金曜日)加筆投稿分>

今週は今後の我が国政治経済に大きな影響を及ぼすことになるかもしれない

後世から見て大変注目すべき<分岐点>の週になりそうです。

今月16日(火曜日)、前回記事末でも予告させて頂きました

現在話題(といっても現状小さな種火でしかありませんが・・・)の

いわゆる『MMT(現代貨幣理論)』の第一人者である

ステファニー・ケルトンニューヨーク州立大学教授が来日されました。

前内閣官房参与であられた藤井聡教授などが所属されている

京都大学レジリエンス実践ユニットの主催により

『衆議院第一議員会館』において実施されたMMT国際シンポジウムの講演後に

記者会見も同時になされた模様です。

おそらく大手マスコミでもあまり大きな見出しでは報道されていないものと

思います。

ですので、誠にささやかな当書評ブログではありますが、

この場をお借りしてご報告させて頂くことにいたしますね。

すでにユーチューブ動画()でも配信されていますので

ご興味ご関心ある方は是非ご視聴下さいませ。

ちなみに、『MMT(現代貨幣理論)』につきましては、

現在管理人も独自勉強・確認作業中ですので論点整理がつくまでは

お待ち頂きますよう願います。

予告を兼ねてのご報告とも重なりますが、

この話題に関する別途あらたな『課題本』書評記事公開時に

まとめて掲載させて頂こうと予定しておりますので

楽しみにお待ち頂いている読者様には

少しばかりの期間お時間を頂くことになり誠に恐れ入りますが

この旨何卒宜しくお願い申し上げます。

また追って当書評記事内にて途中経過報告など

お知らせさせて頂きますね。

選挙(期日前投票)期間中及び最終投開票期日前ですので

この報道内容も投票のご参考にして頂ければと

差し当たり前投稿させて頂きますね。

合い言葉:『時代はもはや左右対立の時代ではありません。』です。

今回の参議院議員選挙の最大争点

『<次世代>を生かすための積極的経済政策』と

『<日本>国民の独立気概奮起要請』の是非を問うものです。

20世紀までの『遺物』である

左右の<イデオロギー(原理主義的思想観)>対立軸だけで

見続けてこられた有権者の方々にとりましては、

今回の選挙そして今後の『令和』の選挙における政局判断の行く末は

まったく予想も付かず『わけわからん』話題となっていくことでしょう。

そのように『断言予告』しておきます。

確かに現状の日本政界の様子を分析観察しておりますと

正直に言って管理人も与野党問わずに

日本と日本国民の将来を「信託」していいのかどうか不安になります。

ですが、もともと「民主政治」とはその時代時代ごとの

その国における<民度>具合によるわけですから

選挙された政治家(委託権利者)だけを責め立てておけば

済むものではありません。

「すべては選択した私たち有権者の責任である」という視点は

今後とも「民主政治」を維持していくことを大前提とする限りは

片時も忘れ去ってはいけない<命題>だということです。

『<独裁政治>は「民主政治」からも創出され得る!!』

この視点を甘く見られている有権者は予想外に多いようで

初等教育以来の<公民>教育の「実」も上がっていないのが

悲しいかな現代政治の課題だということです。

だからこそ「白票(棄権)票」を投じるなどということは

断じて「あり得ない!!」はずなのです。

「良識」を持っている「大人」であれば・・・。

新聞報道などによりますと

『<必ず投票に行く>と回答した若年(10~20代)有権者層は

3割ほど』だそうです。

凄まじいほどの低い投票率であります。

各有権者において現代生活が多忙かつ苦難の連続であるために

なかなか投票に行けないという実情はもちろんありますが

若年層の投票率(機会)を上げるために「18歳以上」へと

有権者資格が引き下げられたわけです。

また若年層に限らずあらゆる世代に対する投票機会を増やすために

投票所の数量上昇や多種多様な場所の確保に取り組んできたことも

あまり知られていないようです。

個々人が「社会」に興味関心がなくなってきている

時代風潮なのかもしれませんが、

「人間」とは「社会」の中で否が応でも生きていかざるを得ない

生物であります。

「孤独」で<自己完結>したまま生涯をまっとうすることなど

誰にも出来ません。

出来ると信じ、思うのは<幻想>でしかないのです。

そんなのは「孤島」に住まうロビンソンクルーソーでさえ

絶対無理でしょうよ、きっと。

いつの日にか「餓死」の憂き目に遭うでしょうから。

生き残るための資源確保が出来なくなった時点で・・・。

そのように「人間」とは価値観が異なっても

「社会」形成を通じてほどよく相互協力して

生きていかざるを得ない存在なわけです。

だからこそ、外に出てリアルな情報に接する機会が必要なのです。

その機会がシャットアウトされ、もしくは自らシャットダウンした者の

行く末が待ち受ける結末とは・・・。

想像するまでもなく恐ろしい悲劇がそこには待ち受けています。

「人間」にはどうしても直接「対話」する機会が必要なのです。

そしてご自身の切実な「想い」といった<生の声>を

世間(社会)に知らしめなくてはなりません。

そうした1声1声の集積が

やがて時代を大きく揺り動かす「波」へと変わっていくのです。

特に一番生活に打撃を受けかねない有権者層ほど

選挙に行かないという実情にあるといいますから

事態ははるかに深刻な状況となってきているようです。

『アンダークラス~新たな下層階級の出現~』

橋本健二著、ちくま新書、2018年第2刷、第8章223~231頁

ご参照のこと。この本を読めば現下の日本政治においては

「<右>か<左>か」ではなく「<上>か<下>か」といった

経済的所得再分配政策のあり方が真の争点となっていることに

自ずと気付かされることでしょう。

「国民」の<分断>をこれ以上推し進めていき、

政策的に『よく練られていない安易な』<国際化>ないしは

<文化的多様性>とやらを受容していけば

ついには「第三国」の介入をも招いてしまうことは

世界史的事実であります。

それはまさしく<独立精神>が侵害されていく危機だということでもあります。

真の<国際化>とは世界の真実態様をよく知ることから

始まります。

<中空構造>国家(河合隼雄氏)である日本の最大の弱点かつ深刻な問題点が

ここにあります。

というわけですので、まだまだ遅くはありませんので

是非ご自身の未来のためにも投票所へ足をお運び頂けることを願っています。

繰り返しになりますが、若者の<絶対数>が圧倒的に足りていないのです。

ある意味では先の大戦(第二次世界大戦)末期の状況にも酷似してきているのです。

若者の声が「国策」立案のうえでの参考資料にならなければ

ますます「衰退」していき、

「凄惨」な状況を招き寄せる一方となるだけなのですから・・・。

『<いのち>を大切に思うならば歴史の教訓を決して忘却してはなりません!!』

何卒重ね重ね宜しくお願い申し上げます。

これは<ロスジェネ(失われた○○年世代)>からの

現実的教訓としてのお願いでもあります。

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さて、小難しく重苦しい話題が続いておりますので

ここで明るい話題へと転じましょう。

G20と個人的行事が無事終了した翌日の

6月30日(日曜日)『夏越の大祓』当日。

昨年の書評でも少し触れさせて頂いた待望の

相川七瀬姉さんの毎年「七夕」期間恒例の<ななの日>ライブツアー

参戦してまいりました。

大阪は<阿倍野キューズモール>にある

『阿倍野ROCKTOWN』が会場です。

題して<“NANASE’ S DAY”  TOUR 2019>です。

「プレゼント」付きのお得感あるライブツアー。

管理人の世代(30~40代世代)にとりましては

相川七瀬さんと言えば

デビュー以来の長いお付き合いとなるわけですが、

自身にとっては今回のライブが実は初めての参戦でありました。

デビュー当時は「人気絶好調(今ももちろんですが・・・)」で

なかなかチケットも取れなかったようでしたし、

会場も大きな場所が多かったでしょうから

なかなか身近にアーティストご自身を観じることも

難しい時代もあったそうです。

そんなご経歴を積み重ねてこられた相川七瀬さんでしたが

ここ近年はデビュー前あたりの「原点」へと立ちかえって

小さなライブハウスなどを中心に据えた

徹底した「お客様」目線でのライブを展開されてきているといいます。

この『阿倍野ROCKTOWN』

まだ出来てそんなに年月は経っていませんが、

地元民であるにもかかわらず、

このライブ会場もまた初体験の場所となりました。

大阪<ミナミ>には老舗の「メチャイケ」なライブハウスが

数多く路地裏に隠れた「穴場」として点在してはいるのですが、

ここは『あべのハルカス』の真横で

わかりやすい場所にあります。

収容人数はおよそ250人~300人?ほどだそうです。

管理人は現在の『阿倍野大規模開発』以前の

古き時代を知っていますので、

『あべのキューズモール』と言えば、

昔年の『旭屋書店』や『立ち食い蕎麦屋(10~20代に

大変お世話になりました)』などが並んでいた一画に当たる場所に

再建された建造物となります。

それはともかく肝腎のライブ観覧記に移りましょう。

そんな収容人数が比較的少ない小さなライブ「ホール??」に当たりますので

有名アーティストもかなり身近に感じることが出来るのが

ここの「売り」とも言えるのでしょう。

ですから後ろの方で観覧していても

十二分に「満足」し得ることが出来ます。

そうした「グッドタイミング」も重なり有名ロックシンガーを

間近に観覧することが叶い、

これまた「ビギナーズラック」に恵まれました。

有難うございます。

今回のツアーでは『中村あゆみ×相川七瀬』両氏の

コラボレーションカバーアルバム『W』レコード発売も兼ねた

ライブツアーでありました。

山口百恵さんの『プレイバックPART2』や

『ロックンロール・ウィドウ』など名曲が数多く

<七瀬風>にアレンジされた楽曲ぞろい。

とともに往年の<七瀬>独自の名曲も勢揃いした

セットリストでありました。

ちなみにご参考までに

この日のセットリスト一覧が

『日刊セットリスト』様という情報サイトに掲載されていましたので

ご紹介しておきますね。

このようにバラード曲がない

ほぼ全曲<ハード>ビートな楽曲ばかりが

今回の大阪ライブツアーの特色でありました。

若い頃からの七瀬姉さんを知る世代からすると

年々歳々「声調」に変化が出てきており

より洗練さが増してきているように感受されました。

この日は6月30日でしたので例年なら

<浪速の夏祭り>が始まる『愛染まつり』が開催される時期にも当たり

この界隈も賑やかになるわけですが、

この日が雨模様だったのとともに

昨年の書評記事でもお伝えしましたように

諸般の事情から本来の「宗教行事」に戻そうとの趣旨で

大幅に規模が縮小されましたので

少し寂しい空気も漂っていたように個人的には感受されました。

大阪人でもある「祭り好き」、「神様好き」の相川七瀬さんにおかれましても

もしかすれば少し寂しく感受されていたのかもしれません。

その分だけ

『ライブそのものを<ハード>に熱く盛り上げていこうぜ、大阪!!』ってな

感じで準備企画なさっていたのかもしれませんね。

<七夕>と<浪速の夏祭り>に相応しい熱い「ロックンロール」を

ありがとうございました。

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さて、翌週末のいよいよ<七夕>の日には

もう2つの熱きライブを観覧してまいりました。

同じビルの上下で別々に同時開催されていたのですが、

日頃から贔屓にさせて頂いているバンド様やアーティスト様のライブ公演が

重なってしまいました。

そんな事情の中、

異なるライブ会場への途中入出退場が自由なのかどうかも

当日まで確認することが出来なかったので

各ライブ会場の受付責任者の方にお伺いすると

1度途中退出してしまうと2度目からの再入場は

やはり「不可」とのこと。

(ちなみにライブハウスによって扱いも異なるようですが、

おそらくこれが原則でありましょうから、このようなダブルブッキング状況に

遭遇されましたならば事前によくご確認下さるようお願い申し上げます。)

でしたのでどうしても「再会」したかったアーティスト様はおられたのですが

それを「断念」してまでもどうしても観覧しておきたいバンド様の

ライブ公演を最優先にしてその場を静かに立ち去って、

階下の地下にある別会場へと移動することになりました。

「恐れ入ります(涙・涙)」

また必ず「再会」いたしましょう。

非常に悩ましい「決断」ではありましたが、

この会場へたまたま見に来ておられた

これまた贔屓の別バンドのギタリスト様による情報では

『「トリ」をこれから務められるんで今からならまだ間に合いそうだよ・・・』とのこと。

もちろん別途料金がかかってしまい

今月の予算にも厳しいものがありましたが、

『人生とは<一期一会>』の哲学で「えぃ、ままよ!!」と

飛び込んでいきました。

そのどうしても見ておきたい魅力的なバンド様から

個人宛の告知メールを頂いた際には「一旦お断り」メールを入れさせて頂いたのですが、

このバンド様は今を盛りと飛躍的発展を目指して

今年はいわゆる「東名阪(東京・名古屋・大阪)」ライブツアーを

立て続けになされてきています。

その名こそ前にもご紹介させて頂きました

Northwind Saga(ノースウィンド・サーガこと通称<北嵯峨>)』様で

あります。

そちらのライブ模様はもう少し後でご報告させて頂きましょう。

ですのでもっと数多くの方々にその名を知って頂きたいとの願いもあって

「潜入調査取材」を兼ねて参戦してまいりました。

その2ライブで特に注目して観覧させて頂いたバンド様と

アーティスト様をこれから皆さんにご紹介させて頂くことにいたします。

以下はいずれも7月7日<七夕>様の日に公演されたライブでございます。

『西心斎橋PANHEAD GROOVE』において。

『愛沢絢夏×てのひらえるpresents「えるざわ-大阪-<夜の部>」』

この日も午前中から17時頃まで別の私用で多忙な日程でしたから

会場に着陣するのも少し軽食を済ませた後の

すでに開演中の時間帯に静かに滑り込んだ次第。

この日のお目当ては前にもご紹介させて頂きました

EITA様でした。

今へヴィメタル業界では

数多くの女性楽器奏者が大活躍中ですが、

その中でも一部の間では絶大な支持を集めている

人気の女性ギタリスト奏者であります。

しかもギター以外の他楽器演奏にも挑戦されるという

意欲的なプロフェッショナルパワーをお持ちのアーティストさんであります。

彼女は実際に<教則本、映像集(DVD)>も公刊されているように

ギター教師もされているといいます。

東京の方ですので、

なかなか来阪される機会は少ないそうですが、

短い滞在時(期)間ながら

超感動的な魅力あふれる演奏を見せてくれます。

基本的には数少ないいわゆる歌詞なしの

<インストゥルメント(インスト)>系ギタリスト

評価されている方なのですが

歌唱力も抜群。

ギタリストとしてはいわゆるタッピング奏法」を

積極活用されている方として斯界では有名な方だといいます。

そんな彼女のこの日のセットリストは

1人の持ち時間がそれぞれ30分ほどの短い時間

(何と8アーティストほど)でしたのでわずか5曲。

それでも十二分に堪能させて頂けました。

『脳内裁判』『Time is Now』

今年の2月(前にもご紹介済)に同ライブハウス(後ほどご紹介させて頂く

地下の『心斎橋ショベル』様の方にて)で公演された際にも

聴かせて頂いた楽曲群であります。

この時がご縁なった第1回目だったのですが

今回は2回目。

この初演(縁)時にその「音」と「人柄」に惚れたのでした。

音楽業界もきわめて厳しい世界ですが、

新規顧客創造にはどうしても「第一印象」が

きわめて重要な決め手となるようですね。

もちろん、初縁時にはあまり惹きつけられるものがなかったとしても

何度かお会いし、見聞き体験していくうちに

「なかなかよいじゃあーりませんか・・・」ということも

「ままある」ことは「ある」わけですが、

「第一印象」を形成する最大要因は

やはり<衝撃度>にあります。

管理人も日々、様々な創作活動者や仕事人を観察しながら

勉強している身ではありますが参考になること「大」でありました。

最後の『JUMP!!』もこれまた

観客とともに飛び跳ねながら一緒に歌い舞い踊る

楽しい楽曲でありました。

今回は知る人ぞ知るメタルバンド『時空海賊SEVEN SEAS』様の

出来立てほやほや感満載のライブ映像も引っ提げて

物販販売に訪れるとの情報も得ていましたので

貴重な機会となった1公演でありました。

ライブ映像も週末のゆったりタイムに拝聴させて頂きましたが

多少画像に荒さは見られるものの(注意書きあり)、

その「不満足感??(はないんだけど・・・)」を

優に上回る「力作」となっております。

知っている方が途中「関西弁丸出し(笑)」の

MCトークで出て参りますが

内容は見てのお楽しみということで

ご興味ご関心ある方には上記『EITA』様の

オンライン物販サイトなどを通じてお問い合わせ下さると

紹介者としても幸せでございます。

ちなみにこのMCトークされている男性の方。

関西の1980年代(今も現役中ですが・・・)に

活躍された老舗のメタルバンドのドラマー担当の方でもあり、

数多くの若手メタル(だけに限らないようですが・・・)バンドや

アーティスト様を育成されている重鎮でもあられます。

そのバンド名とはRAJAS様であります。

素晴らしく魅力的なバンドですので是非ご確認を。

ユーチューブなどでも視聴できますので

実際の生ライブ機会は現在は数少ないようですが

是非気に入られた方には直接ライブ公演にもお越しをでございます。

1980年代に小学生だった管理人も「虜」にさせたバンド。

実際の貴重な生ライブ公演機会がまたありましたならば、

是非にも足をお運び頂きたく、

その魅力を管理人自身すでに実際に確認もさせて頂いておりますので

「皆さんにもお試しあれ!!」でございます。

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次にご紹介させて頂きますのは、

『西心斎橋Big Twin Diner SHOVEL』様にて公演された

先にご紹介済みの『Northwind Saga』様であります。

ちなみにこちらのライブも途中参加のため

仲介頂いた贔屓のバンド様には大変申し訳なく思いますが、

時間の都合上、この日はこの「トリ」での観覧だけしか

時間は残されていませんでした。

ですので同時に出演されていた対バンド様の

具体的なご紹介も叶いません。

またどこかでお会いさせて頂いた際には

必ずご紹介させて頂きますので

今回はご寛恕下さいませ。

管理人は丁寧かつ誠実にご紹介させて頂きたい性分ですので

適当な評釈を加えることは厳に慎むべく

自らに誓いを立てておりますので悪しからず。

この『Northwind Saga』様は

関西メタル業界では<ネオクラシック>系をコンセプトに

活躍中の期待の「星」であります。

今回もまた今年のライブツアーの主題である

新アルバムレコード発売記念公演を各地で

繰り広げられてきました。

ボーカルの<カリナ>嬢様もまた独特の「美声」の持ち主。

「脇」役のベーシスト氏も管理人にとりましては

毎度お世話になる馴染みあるおもろいキャラクター的ご存在。

いつも楽しそうにベースを弾かれているのが

何とも魅力的です。

ツインギターと力強いドラマー、

そして新しく加入したまるで魅惑的な<妖精>界から

訪れたかのような謎の美女キーボーディスト氏も

それぞれ個性豊かで演奏に「魂」が入っています。

今回のライブでのセットリストは

今年4月に発売された『Mythological World』収録中の楽曲群がメイン。

「まさに<神話的世界>」を幽玄に「音」で表象・表現された

世界観を主題に据えた作品に仕上がっています。

この新作アルバムとともにアンコール曲は

もはやこのバンド様にとりましては

代表曲とでも評価してもいいだろう

セカンドミニアルバムである

『ザ・ファーストムーブメント・オブ・ザ・ナイトメア』収録曲

『NIGHTMARE』での締めくくりとなりました。

7月7日はおりしも<七夕>様の日。

「紅一点」のボーカリスト様が笹の葉を持って<織姫>様へと変身して

観客を誘惑するお姿もまた「まさしく蠱惑的」と感受させられる

何かが憑いていたご様子でした。

今回で管理人と『Northwind Saga』様の直接ライブ公演での

ご縁は2度目となりますが、一回一回見る度に

ご精進されている姿勢がこちらにも伝わってきます。

今後とも管理人は音楽バンド様だけではなく

創作活動に関与されている意欲的かつ魅力的な「頑張り屋さん」を

応援してまいります。

「皆さん、楽しい演奏を聴かせて頂き誠にありがとうございました!!」

最後までお読み頂きありがとうございました。

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