西部邁先生の「焚書坑儒のすすめ~エコノミストの恣意を思惟して」政治が大混乱の時、経済もまた混迷を窮める!!

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「焚書坑儒のすすめ~エコノミストの恣意を思惟して~」

西部邁先生が、エコノミスト(経済評論家)の

無責任言説を鋭く斬っている政治経済論エッセーです。

今日の世界経済の大混乱の大本は、

政治指導力が心許ないから??

「失われた20年」は、もうこりごり・・・

真面目に人生を考えながら、より良く生きることを

望まれる若者の皆さんにこそ、ご一読して頂きたい1冊です。

今回は、この本をご紹介します。

「焚書坑儒のすすめ~エコノミストの恣意を思惟して~」   (西部邁著、ミネルヴァ書房、2009年)

西部邁先生(以下、著者)は、保守派の言論人として著名な

評論家であります。

学生時代の若き日々には、学生運動の闘士としても活動される中、

精神的な危機に陥った時期もあるといいます。

そんな「左派リベラル」から「保守」に至るまでの

様々な「知識人」の生態を知り尽くされている貴重な重鎮であり、

日本社会の表裏を分析考察されるのに優れた力作を公刊されてこられました。

「知識人」にして、「知識人」そのものを「自己批判」出来る言論人が

少ない中で、上記のような若き日々の精神的危機も体験されただけに、

言葉を通じた「精神的平衡論(中庸精神)」を重視されています。

20世紀末期の冷戦終結から、すでに20年以上も経つ過程で、

「歴史の終わり」(フランシス・フクヤマ氏)などで、

「アメリカ的自由主義の勝利」が一方的に宣言されるなど、

世界では「思考停止状態」の時代が長らく続いてきました。

この間、メディア(各種言論媒体)も多様化してきており、

巨大メディアの独占状態は少しずつ切り崩されてきたかに見えます。

しかし、現実の言論空間では、質の劣化も激しく、

未だに20世紀的遺物(もっと遡れば、フランス革命などの「近代革命」以来の

200数十年ということになりますが・・・)の「閉ざされた言語空間」(江藤淳氏)の

中で、呻吟しているのが現状であります。

ことに、日本の言論空間では、左右の政治的立場を問わずに、

あまりにも硬直(教条)化した酷すぎる状況にあるように見受けられます。

その諸悪の根源こそ、「知識人」の弱さにあるようです。

冒頭でも触れましたように、自ら「自己批判」し得なくなると、

無責任言説だけが、世の中の表面を漂い、

時間が経つにつれ、深層部分にまで腐食が進展していきます。

そんな「知識人の生態」を早くから厳しく問うてこられたのが、

著者でありました。

著者には、そのものズバリのタイトル『知識人の生態』(PHP新書、1996年)

ございますが、ここでも知識人の「無責任」と「専門主義」の精神病理について

分析考察されています。

著者は、人生体験を重視される言論人として、

上記のような若き日々の精神的苦悶もご経験されてきただけに、

「精神的平衡問題」から見た言葉の本来の意味における「保守」言論を

責任をもって語られてきました。

昨今、「左派リベラル」以上に「劣化」も懸念される保守言論界ですが、

著者は、政治的立場の異なる方々とも対話を大切にされる良心を

孤軍奮闘の中で、体現されてきた数少ない「保守」言論人であります。

今回は、現代知識人の中でも、この「失われた20年」を創出してきた

無責任な「エコノミスト」を様々な視点から一刀両断されています。

「政治が大混乱に陥る時には、経済もまた、大混迷を窮める!!」

「政治と経済は本来、社会安定のための車の両輪のはず・・・」

「ところが、このところ、経済面における<特殊イデオロギー>のみが暴走している!!」

「社会は、経済面だけで成立しているわけではない!!」などなど、

そんな「当たり前」の事実すら、見失われてきたのが、この20数年間でありました。

ということで、著者の真摯な語りに耳を傾けながら、

安定した社会を回復させる知恵を皆さんとともに学ぼうとの趣旨で、

この本を取り上げさせて頂きました。

本書を読み進められることで、慎重な投票行動に何らかのお役に立つかもしれません。

語源論と座標軸で読み解く「精神的平衡」を目指す政治経済論!!

まずは、本書の内容構成を要約しておきましょう。

①「第1章 世界の市場-陥没の危機」

※本書は、2009年刊行ですが、

ちょうど前年のサブプライムローン問題(低信用層への

無理な住宅ローン貸付詐欺!?)をきっかけとする

リーマンブラザーズ破綻問題から、現代資本主義経済社会の

精神病理現象を語り始めています。

資本主義にとって、もっとも大切な「生命線」とされてきた

いわゆる「信用問題」の大前提が崩壊することは

きわめて「危険な兆候」とみなされています。

20世紀初頭、始めての本格的な「近代的世界経済恐慌」を

経験してきた米国にて、「100年に1度の危機」が

再び訪れてしまったことは、誠に憂慮にたえないことです。

20世紀における二度の世界大戦も「経済ブロック化競争」と

「信用破綻問題」から端を発しています。

この時の教訓から、各国「通貨競争」の自粛規制や

「経済ブロック化現象」を回避する術として、

第二次世界大戦後は、主に英米が主導権を握りながら、

各国との経済協調政策を採用してきたわけですが、

21世紀現在、ことに、この10年内外で、

米国のニューヨーク=ウォール街と本年に入ってからは、

英国でもEU離脱からロンドン=シティー街といった

現代資本主義経済「市場」の中枢が狂乱している現状に

あります。

そうした流れの中、世界の政治経済の指導的立場であった

二大超大国の力がいよいよ「終焉」に向かう中で、

新たな「経済」主義も英米以外の各国にて芽生えつつあるようですが、

依然として不透明な状況にあります。

そんな世界市場の同時多発的「陥没の危機」に、

日本はどのように対処すべきか、現代資本主義経済思想の原点から

再考し直そうとの問題提起から、本書は開幕していきます。

本章で最重要ポイントは、「純粋」資本主義は、IT技術の進展を

もってしても、現段階では「未成立」であり、「情報格差」から

絶えず「不確実性」が導き出され、「詐欺現象」が頻繁に発生しかねないと

いう「市場」の未発達問題であります。

このような危機に対処するには、「定量的」なIT技術だけに依存するのではなく、

「定性的」なHO(ヒューマン・オーガニゼーション=人間組織体)による

制御作業も不可欠だということです。

いずれにせよ、放埒へと暴走する自由には、何らかの歯止め策が「命綱」で

あるということです。

②「第2章 経済政策の急展開-保護主義の台頭」

※このような前世紀からの歴史的教訓もあることから、

21世紀現在に至り、再び世界の政治経済がブロック化(閉鎖的現象)に

回帰しようとする中、安定した「自由」経済体制を

いかに各国が協調しながら維持していくのかが、

喫緊課題ともなってきています。

とはいえ、「自由」経済体制をうまく機能させ、

「半開国半鎖国」的に、各国(地域)の風土に即した

政治経済体制こそが、「自由」の暴走を食い止める「安全壁」とも

なります。

そのためには、「合理性の限界」も弁える必要がありますし、

各国国民層のバランス感覚こそが、鍵になります。

その視点として、著者は、「活力・公正・節度・良識」といった

生活実践知をいかに共通の「国民的教養」とすべきかが、

今後の世界の進路を決定していくうえでも重要課題だと

されています。

③「第3章 自由交換のデマゴギー-狂気の暴走」

※著者は、経済「市場」を分析考察される過程で、

「しじょう(いわゆる、教科書的虚構<捨象>モデル)と

生活体験に深く根ざした「いちば」の対比のイメージで、

わかりやすく「市場の成立条件」を解説されています。

ここから判明することは、「現実」の世界では、

「不完全」市場こそが、通常の姿だということであります。

ですので、当然、そこでは、「市場の<失敗>」も起こりえますし、

その<失敗>事例をこそ、予め、組み込んだ「市場」経済運営が

要請されます。

そこに、「国家」の役割があります。

この「国家」の役割の最適解(規模)にしろ、

「小さい<政府>」「大きい<政府>」などと絶えず、

20世紀末から現代にかけて論争されてきましたが、

それも、そのような「時・所・機会」次第によって柔軟に変化・変容する

「自然調整」としての「有機的国家社会論」を大前提としながら

議論展開しなければ「生産的議論」にも発展しないでしょう。

「議論」は、「生身の<人間>」が行うものですので、

硬直(教条)化した「机上の空論」では、社会的安定のためにも

有害無益でありましょう。

著者は、本章で、ケインズハイエクの慧眼に学びつつ、

貨幣論(例えば、主権論の観点から見た「地域通貨」の

限界範囲など。本書142~148頁ご参照のこと)も考察されています。

いずれにせよ、「国家(中央政府)」と「地方(地域・各自治体)」など

簡単に「二分化」することなど不可能だという当然の認識を持ちながら

機動的柔軟な問題意識を共有すべきことを強調されています。

それは、「内国(国家)」と「外国(国際)」との関係にも該当します。

すべては、「域際」の問題と社会的力学関係によって、

現実社会の動向は決定されていくことに、

自覚的であるように語りかけられています。

④「第4章 経済社会の崩落-大衆の躁鬱」

※本章では、「欲望論」の視点から、現代経済論の「死角」を

鋭く斬っておられます。

「効用関数理論」を始めとする経済心理学理論も、

「人間機械論」を思わせるような無茶ぶりな解説で、

従来の「教科書的経済学」では語られてきました。

さらに悪いことには、そうした「教科書的経済学」も、

先に触れましたように、あくまで「わかりやすさを極限まで追求した

捨象モデル」であることが、現実の「実務家」ですら、

忘れられてきたことであります。

それが、各種「エコノミストの恣意」につながります。

「専門家の弊害、ここに窮まれり!!」

こうした見方をマックス・ヴェーバーを参照しつつ、

「組織経営の必要」性が経済社会の崩壊を防ぐ一つの知恵として

相互了解しておく視点を提供されています。

このように著者の経済批評の原点には、

社会経済学があります。

⑤「第5章 公共性の喪失-組織の液状化」

※終局的には、「人工機械的な仮想現実」経済市場など、

経済「生活」におよそ「人間」が介在することを意識するだけでも、

あり得ないことに気付く必要があります。

「純粋」な「私的空間」も「公的空間」も、現実世界にはあり得ず、

常に、その「域(際)」で「生活」しているという現実認識を

人間であるならば取り戻す必要があります。

そうした視点(皮膚感覚)を見失ってきたことで、

「近現代人」の悲喜劇は至る所で生起してきました。

今もっとも必要不可欠な姿勢こそ、言葉の本来の意味における

「良識(コモンセンス)」であります。

そのためにも、あらゆるテーマを多種多様な角度から

長所・短所など見極めながら、日々の生活体験の過程で

身につけていく感覚が重要であります。

⑥「第6章 苦悶する世界経済」

※このように、本書を通じて、エコノミストの恣意的犯罪!?を

断罪しながら、語り継がれてこられましたが、

人間が人間として、今後も「より良く」生き続けていくためには、

精神的平衡感覚を甦らせるべく、各人各様出来るところから

努力していくしかありません。

著者の文体は、<知識人>特有の難しい専門用語も頻出し、

晦渋に満ちた表現と感じられる方もおられるのかもしれません。

著者も、<はじめに>で、自意識をそのように謙虚に分析されながら、

本書の「巻頭の辞」とされていますが、

ここまで謙虚に自らの論考を批評しながら、

わかりやすく語られている<知識人>も珍しいと思われます。

あえて難しい表現で、一般大衆を煙に巻く衒学趣味な

嫌らしい評論家もいる中で、言葉本来の深い味わいを

愛し、実感しながら「語源論」にまで立ち返って、

論旨展開されている方も少ないでしょう。

また、数学的なイメージ像で「座標軸」に沿った

バランス感覚を伴った視点も優れた批評を支えています。

著者は、<はじめに>の冒頭で、『話すように書き、

書くように話す、それが私の文章作法となってすでに久しい。』と

書き綴り始められていますが、

願わくば、管理人も、このような成熟した「大人」を目指したいものです。

その意味でも、管理人は、学生時代から著者に注目しながら、

いかに「精神的平衡感覚」を文章修業や読書道を通じて、

磨き続けるべきかの「師匠」でもあります。

「わかりやすさ」は、論壇時評やビジネス批評家としては、

避けられない道でありますが、文章表現次第で、

「わかりやすさ」の通弊から、一般人をミスリードしないための

矜持と責務こそ、本来の<知識人>の仕事倫理でもあります。

生産的議論の「作法」を磨き続けることが、人生をより豊かにする!!

本書では、このような現代経済を大混乱に陥らせた

エコノミストの無責任言説について批評されていますが、

本書刊行時は、2009年。

「失われた20年」の直前期です。

ところで、本書の主題に流れるテーマや著者の主張に

ブレがないことも信用のおけるところです。

本書のテーマに共通する書籍を大学卒業直後の

社会人生活第一期に読ませて頂いたことがあります。

そのタイトルこそ、

『エコノミストの犯罪~「失われた10年」を招いたのは誰か~』

(PHP研究所、2002年第1版第1刷)でした。

あれから、すでに15年ほど経ちますが、

世の中の動向も表層的な浮つき現象だけが進行しており、

社会の上層部(指導層=模範となるべきリーダー層)も、

自信喪失なのか軽薄な精神だけが、世間を覆ってきたように

見受けられます。

ここにも、「公共性の喪失」があるのかと思うと、

市井に静かに佇む一般国民としても苦しいものがあります。

やはり、「実学主義」→「専門職待望論」→「粗製濫造型<即戦力>」とやらの

一連の流れが、多くの若者の「希望」と「勇気」を沮喪させていったように

思われるのです。

つまり、著者も本書で展開されていたような「長期安定型雇用(OJT教育)」の

死滅や「あそび」のない「ゆとりのなさ」こそが、

閉塞停滞型社会を招いたように思われます。

世界情勢が混迷を窮める中で、日本こそが、

「持たざる国」として、20世紀の「ブロック経済化現象」に

苦しめられたところから、戦後「自由経済立国」を世界に呼びかけつつ、

二度とあのような悲惨な時代を繰り返すまいと、

「環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)」の本格的交渉まで(国内の反対もあるなど、

確かに問題点は多々ありますが・・・)、

理念としての「国際協調経済」を模索してきたところ、

この1年の米国大統領選挙の行方次第では、

「元の木阿弥」にもなりかねない厳しい現実が目前に迫り来たっています。

熱心だった一方の当事者が、ここに来て、「自国経済保護」のため、

「TPP反対」を叫ぶのですから、

まったくもって国際的信義に悖(もと)るとも言わざるを得ません。

今までの長く険しかった交渉は何だったのでしょうか?

まともな感覚では、理解に苦しむところです。

また、再び、「ヨーロッパ情勢も複雑怪奇」となり、

東アジアからユーラシア大陸全体の動向も不透明と緊張が生まれつつあります。

このような中で、一人取り残されつつある日本ですが、

今こそ、単独でも「20世紀の歴史的教訓」を強調していく義務があります。

著者も語られているように、「国際関係」といっても、

「主権国家と主権国家の力学関係」次第で、世界の安定性は激変してしまうのです。

こうした時代の過渡期において、日本が目指すべきは、

極端な「開国(グローバリズム)」でも極端な「鎖国(ナショナリズム)」の道でも

ないことだけは確かなことであります。

著者の表現では、21世紀現在は、「セミブロック化=半開半閉のブロック」という

ことになりますが、必ず、どこかに「第3の道」はあるでしょう。

そのためには、生半可な知識でもって「大衆」世論に迎合するのは、

大変危険でありましょう。

著者も、「世論」と「輿論」の相違点や

「オピニオン(根拠の不確かな憶説)」と

「センテメンツもしくはセンス(<揺るがぬ感情>であり<不動の認識>)」の

相違点を著者得意の語源論から説き明かされていますが、

いずれも、著者は、「後者」の視点(<輿論>と<センス>)を

重視しながら表現したいものだとのポリシーをもって、

論じられてきました。

こうした「言葉」そのものを愛おしく体感しながら、

「対話」していく冷静な姿勢こそが、

生産的議論の作法を磨くことにもつながります。

そして、そのような知的謙虚さと価値観は異なっても

率直な意見交換の過程で、実りある公論が形成されていけば、

そうそう世の中が極端な感情論で揺れ動くことも少なくなるのでは

ないのでしょうか?

とはいえ、「群衆心理」の波及効果には恐ろしいものが

ありますし、その発動要因も「私的不安」に由来しますので、

困難な道のりであることは論を待たないところですが、

じっくりと腰を据えながら、世の中の諸現象を「睥睨」することは、

ご自身の人生に落ち着きを取り戻すとともに、

豊かな人生をもたらしてくれることでしょう。

<知識人>とは、何も「高みの見物者」であったり、

「上から目線での偉そうな説教をする人間」のことではありません。

日々の堅実な生活実践の過程で、自然と備わる「知的批評眼」こそが、

「教養」となり、より良きコミュニケーションの種となるのですから、

皆さんも諦めずに、公私ともに積極的な生き方を心がけられれば、

必ず、花が咲き、共感の輪も広がっていくものと信じています。

そうした「知的」生き方を目指される方であれば、

どなたでも<知識人>というよりも、

「教養人」の名にふさわしい人格者になられることでしょう。

本日は、このあたりで筆を擱かせて頂きますが、

皆さんもこの大変な世界情勢の中にある日本の「参議院」選挙で

より良き選択をされるヒントとして、

本書をご一読されることをお薦めさせて頂きます。

なお、著者の「政治哲学論」については、

「文明の敵・民主主義~危機の政治哲学~」

(時事通信社、2011年)

もご紹介しておきます。

最後までお読み頂きありがとうございました。

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