ロバート・H・フランク博士の『ダーウィン・エコノミー』生物進化論的観点も取り入れた異色の経済学入門啓蒙書!!
ロバート・H・フランク博士の『ダーウィン・エコノミー』
効率的な市場は<神の見えざる手>によって動くとの見立てで
説明されることが多い現代経済学市場観に物申す異色の洞察書です。
ダーウィンが見出した生物進化論の観点をも加味させて
市場に関する分析考察を深めていけば、
経済学で説明されるいわゆる<合成の誤謬>の論拠も
あらたに補強証明されるようですね。
今回はこの本のご紹介とともに続考します。
『ダーウィン・エコノミー~自由、競争、公益~』 (ロバート・H・フランク著、若林茂樹訳、日本経済新聞出版社、2018年初版1刷)
ロバート・H・フランク博士(以下、著者)は、
米国のコーネル大学ジョンソンスクール経済学教授、
H・J・ルイス記念経営学教授を務められている
著名な研究者だといいます。
またニューヨーク・タイムズ紙にコラムを寄稿されるなど
一般読者層にも人気が高い研究者だそうです。
邦訳書にも『幸せとお金の経済学』
(金森重樹訳、フォレスト出版、2017年)や
『成功する人は偶然を味方にする~運と成功の経済学~』
(月沢李歌子訳、日本経済新聞出版社、2017年)など数冊あり
知られているようですね。
そんな著者は前にもご紹介させて頂いたリチャード・セイラー氏や
キャス・サンスティーン氏とはかつての同大学における同僚だったそうで
邦訳話題書ともなった『実践 行動経済学~健康、富、幸福への聡明な選択~』
(リチャード・セイラー/キャス・サンスティーン共著、
日経BP社、遠藤真美訳、2009年)で展開されている論旨にも
おおむね賛同されているとのこと。
とはいえ、近年著しい勢いでその成果が世にも広まってきた
行動経済学における彼らが示してきた知見にも
思わぬ「盲点」があるのではないかと疑義を呈している点に
今回の著者による独自視点の萌芽が見られます。
それは、上記共同研究者などを始めとした行動経済学者が
その『研究の多くは当初より、認知エラーによって引き起こされる、
「合理的選択からの逸脱で後悔を伴うもの」に着目してきた』ことに
対して、著者自身は『私は最初から、「合理的選択からの逸脱で後悔を
伴わないもの」は、より大きな損失を生むと考えていた。なぜなら、
人は一般に、認知エラーに気づけば、それを是正しようとする欲求と
能力をもっているからだ。対照的に、「後悔しない行動」に対しては、
それを改める手段も動機ももたない。
たとえそれが、大きな社会的損失を生むものであってもだ。』
(本書<まえがき>9頁)という着想を手がかりとしながら
本書では従来の主流派行動経済学者が有してきた問題意識をも超越した
市場における<神の見えざる手>問題への洞察を深められている点に
他の類書には見られない特徴があります。
前回取り上げさせて頂いたアカロフ博士とシラー博士による
『不道徳な見えざる手~自由市場は人間の弱みにつけ込む~』でも
こうした従来の経済学が楽観的にイメージを描いてきた
<神の見えざる手>問題に重大な疑義と反証知見が提供されていましたが、
今回ご紹介させて頂く本書では
さらに掘り下げて人間の「認知エラー」が市場動向に与える影響の
背景をなす原因についてダーウィンが炯眼にも洞察した生物進化論の
知見を手がかりにその市場における「<競争プロセス>そのもの」にまで
踏み込んだ論考が提示されていくことになります。
そうした問題意識も抱えておられることから
著者は「進化経済学」者の1人とも評価出来そうです。
『結論的には、「個」としてのミクロ的合理行動も
「種」全体のマクロ的合理行動としては必ずしも適切な結果をもたらさない。』
経済学専門用語で置き換えれば、
「いわゆる<合成の誤謬>と呼ばれる現象はなぜ起きてきてしまうのでしょうか?」と
いった論点を生物進化論の観点からも補強証明していく論考となっています。
そのことは、一方で昨今の政治哲学思想の分野でも
すでに近現代リベラリズムが抱え込んでしまっている
思想的限界とその反省点から
<より利己的な>といっては語弊もありますが、
より個人の主体的自己意思決定を重視させようと志向する
リバタリアニズムという考えが一般にも普及浸透しつつある中、
そのような志向性が行き着く先にも問題はないのか否かが
最終章の第12章を中心に再「反論」されていくことになります。
本書<まえがき>(16頁)によれば、
当初のタイトル名の候補は『リバタリアン的福祉国家』としていたといいますが、
助言者の意見なども聞きながら結果として取り下げることになり
著者が本書においてもっとも主張したかった本質的テーマに
直結するものとして、本書タイトル名『ダーウィン・エコノミー』へと
最終決定されたとのことです。
「それではなぜ、著者は当初のタイトル名候補を断念せざるを得なかったのか?」
ここにも本書において著者がもっとも強調されたかったテーマが
潜んでいるものと考えています。
詳しくは本書第12章『リバタリアンの反論再考』で論旨展開されて
いくことになるのですが、この当初のタイトル名だと
やはり本書における主張が
まずは最強硬リバタリアン(最小限福祉国家論者)から
反撃されることが1つ。
もう1つの重要な視点として従来の左派リベラルが主張してきたような
福祉国家論もしくは政府介入論の基礎付け問題(=いわゆる市場の失敗事例が
なぜ発生してくるのかを巡る根拠・理由付け問題)にも
不十分な視点が見出せることからそこにも反論していく立場を採用するとなれば、
著者の最終的な結論には当然として従来の(右派)リバタリアン論者からも
(左派)リベラリスト論者からも集中砲火を浴びることが予想され、
そのことだけで本書で提起される本旨が世間にまで十二分に理解されることの
妨げとなることを憂慮したものと推察するからですね。
要するに当初のタイトル名に固執すれば
各論者を十二分に「説得」するには難題が残されてしまう、
また、世間一般にもさらなる誤解の種をばらまいてしまうおそれが・・・
そうした理由や背景事情から本書最終タイトル名である
『ダーウィン・エコノミー』へと修正変化させられていったものと
考えるわけなのです。
そのような見立てがもし仮に当たらずとも遠からずだとすれば、
生物進化論的な観点からする市場分析論を主題に据えた
論考文ということで本書名を『ダーウィン・エコノミー』とする方向ではなく、
純粋な市場論もしくは政府(福祉国家)論に対する
著者の<政治的>立場論としての方向で
本書の主論を展開していったならばと勝手に仮定させて頂いたうえで
本書名をあらためて修正するとして候補案を
恐れながら挙げさせて頂くことをお許し願えれば、
『リベラル・リバタリアン宣言』というのはどうでしょうか?
何やら本書のタイトル名から推測される背景事情を考察することで
これから展開していく本書要約の骨子からは外れていきそうですが、
本書はあくまでも<経済学者>から分析考察した市場(政府=福祉国家)論というわけで
論旨展開の成り行き上たまたま、『ダーウィン・エコノミー』になったまでで
狭義の<経済学>論考文の範囲だけで終始することなく
広義の<政治経済学>論考文の領域にまで踏み込んだ問題提起だとするならば、
結論的には著者の立場も『異端派=リベラル・リバタリアン』的な視点をも
加味させたものと評価し得るのではないかと推察させて頂いたまでです。
そうした管理人自身による独自評価論は
第12章の要約時に再度考察させて頂くことにいたしますが、
差し当たっての著者の本書における論旨展開の方向性は
再度の繰り返しとなりますが、従来型の右派リバタリアンでも
左派リベラリストから見た市場(政府=福祉国家)分析論でもない
その両者の見立てを超越せんとする視座を提供してくれるのが
本書の最大功績だと評価しています。
「市場(経済)観を考えることは政治観を考えることでもある!!」
今やこうした政治観と経済観とは完全に切り離して論じることなど
不可能だと示唆する<政治経済学>の視点が
ますます必要不可欠となってきている現在だからこそ
皆さんにもどのような共同体設計が望ましいのかまで
考えて頂けるための1つの議論喚起題材として
今回は本書を取り上げさせて頂きました。
それはまた市場がもし「完全」かつ「合理的」に
運営・形成されていったならば
起こりようがないはずの独占化や寡占化といった
市場占有率における「ひとり勝ち」時代に個々人は果たしてどのように
対処していけばよいのかを考えることでもあります。
こうした市場における「独占化」や「寡占化」を防ぐための
直接的手だてとしては独占禁止法などの直接規制の手法も
開発されてきてはいたのですが、事実上の「富の偏在化」現象には
なお及ばない欠点もありますし、費用対効果という点での
訴訟リスクを伴うなど一般消費者にはなお険しい壁が
どうしても残されてしまいます。
そこで直接規制よりも効果的かつ安上がりに済む
税制を活用させることを通じてより柔軟な解決策に長所を見出し、
「ひとり勝ち」社会に対峙しようとされるのが
最終的な著者自身による経済政策提案でもあります。
そこでは、消費税の役割問題についても分析考察されていますが、
翻って目下の日本社会における安易な消費税増税論議には欠けている
視点も提供して下さっているところにも
今こそ日本の良心的読書人層の方ならば
是非ご一読して頂くメリットがあるだろうとの趣旨も込めて
本書をさらにご推奨させて頂いております。
具体的には現行の「逆進的」消費税ではなくして、
「累進的」消費税へのシフトであります。
管理人自身は現状の経済状況下での「逆進的」消費税増税案には反対意見で
ありますが、税としての消費税が果たす役割そのものを否定している
わけではありませんし、
いずれ消費税をどうしても増税しなければならない必然的理由があるのだとすれば
現在も政府部内や与野党内で検討が続けられているように
景気の下支えとなり国民経済生活上も可能なかぎり
負担とならない緩和措置とはいかにあるべきかを建設的に
議論して頂くための素材としても本書は活用出来ましょう。
その検討資料としては本書とともに前にも記事末尾にて
ご参考文献としてご紹介させて頂いた
『消費増税の大罪~会計学者が明かす財源の代案~』
(醍醐聰著、柏書房、2012年第1刷)もあわせて
再び提示しておきますね。
特にその本の<第9章 啓蒙思想家の租税思想と消費税論~
現代への教訓~>(227~256頁)および
<むすび 税の大義を考える~民富みてこそ国も富む~>
(257~264頁)は秀逸論考文であります。
この論点につきましては、主に第5章や第9章、
また著者の共同著作でもある
『ウィナー・テイク・オール~「ひとり勝ち」社会の到来~』
(フィリップ・J・クック氏との共著、香西泰訳、日本経済新聞社、1998年)でも
論じられていますので、
ご興味ご関心がおありの方には
本書とあわせてそちらの問題点につきましても
各自で考察を深めていって頂ければ幸いであります。
「集団行動問題」の被害拡大を予防するためのダーウィン流による 経済処方箋を探究する!!
それでは、本書要約ご紹介へと進ませて頂くことにしますね。
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・<まえがき>
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・『第1章 麻痺状態』
※本章では、著者が在住されている米国を始めとして
なぜ現在の世界各国が採用している経済政策の多くが
「的を外してしまうのか?」という問いとともに
その<政治的>背景事情を探りながら本書で論旨展開されていく
主題論および提案への扉が開かれることになります。
著者によれば、そうした政治システムの麻痺状態が
何によってもたらされたのかと問えば
『原因は、人の行動を左右する基本的な事実や論理を一見わざと
無視しているからだ。』(本書18頁)といいます。
ただ単に『無知専制国家』(本書19、21頁などご参照のこと。)
志向だからだと・・・
「それではなぜこのような状況を招き寄せるに至ったのでしょうか?」
著者によると、
1つには『政府こそが諸悪の根源』(本書21頁)だとする
極端な<原理主義型思考法>があらゆる社会領域に
根強く浸透していったからだとされています。
特に最強硬派のほとんどアナキスト(無政府主義者)に
近いような「反」政府論者からすれば、
極端な場合には「市場こそがすべての問題を解決し得る唯一の
手段だ!!」、「政府は余計なお節介など一切するな!!」とする
いわば政府廃止論にも匹敵するような極論を述べ立ててきた一部の
政治勢力層によって現状の政治支配層が囲い込まれて、
ほとんどまともな政府「役割論」が語られてこなかったから
ではないかとの見立てとともに「そもそも論」としての
市場と政府の役割「分担」論について正確な機能(働き方)分析が
欠けてきたためではないかといいます。
つまり、『停滞の原因が、決して相容れない価値観の相違ではなく、
競争原理の働き方に関する、根深いが単純な誤解にあるから』(本書24頁)
だというのです。
「それではその競争原理の<働き方>とは何か?」と問いかけるところから
本書でも<神の見えざる手>仮説(アダム・スミス)について
分析考察していくことになります。
アダム・スミス自身の<神の見えざる手>仮説についての
著者自身による引用分析考察論は
<なぜ「見えざる手」はしばしば機能しないのか>(本書24~30頁)で
語られていますが、なぜスミスによる驚異的洞察論であった
「個々人にとっての利己的行動がしばしば社会全体にとっても
利益となることがあるのはなぜなのか?」という問いの本質と
その実際に機能し得る適用範囲について正確に理解されることなく、
世間一般にも誤解されて広まっていったのかと問われれば、
その仮説的問いがどのような対象時空間の中で
捉えられた洞察結果だったのかを厳密に検証することなく、
後世のスミス的洞察論の追随者が
恣意的に拡大解釈していったことにも原因がありそうです。
「しかしながら、実際にはこの逆の現象が市場の拡張版でもある
自然生態系の中では起きているのではないか?」という
反証事例を挙げたのがチャールズ・ダーウィンだったというわけです。
第2章以下の諸考察ではこのダーウィンの洞察点を原点に位置づけながら
現在にまで「常識」のように流布浸透させられてきた
市場「調整(競争)過程」そのものに緻密な分析考察を加え、
そこから獲得されてきた知見をもとに
著者自身によるあらたな市場観や見立てが提示されていくことになります。
ここで一旦まとめますと本書タイトル名が示しますように
著者自身は主流派市場分析論を根拠付けてきたスミス流ではなく、
スミス(流)とは正反対の見立てで市場分析の道具材料を提供してくれた
ダーウィン流の視点を取り入れながら現実の市場ではどのような事態が
生起している(きた)のかについて立論されていくことになります。
とはいえ、誤解して頂きたくない点ですが、
著者自身がまったくスミスの洞察力を
完全「否定」されているわけではないということです。
そのことは第2章でも丁寧に追跡検証されています。
つまり、スミスとダーウィンとでは市場分析において
「個人(ミクロ=微視的観点)」から
「種(市場)全体(マクロ=巨視的観点)」へと
及ぼしていった洞察結果において一見するだけでは
相反する見立てになっているということなのです。
もっとも著者もスミス自身がそのような単純な結論、
つまり、
「個人の利己的行動が社会にとっても<常に>有益な結果となる!!」と
言い切っているわけではないにもかかわらず、
あたかも「そうであるかのような」イメージが
一人歩きしてきたがために、
スミス自身の洞察や意図とはかけ離れた
市場観が根づいていったことに問題があったのだと言うに過ぎません。
ダーウィンによる生物進化論から見た自然生態内での
「個」と「種」の競争(自然<淘汰>ではなく自然<選択>!!
=この言葉の違いはものすごく大切な視点です。またそこに盛られた
ニュアンス(意図)によって世界観すらも大きく変えてしまい
しばしば生物学上の知見とはかけ離れた社会優生思想論などに
悪用・転用されていくことになり、今なお露骨な形ではなくとも、
見えない形で「選別・排除」の道具に秘かに活用されている事例も
後を絶たないことから警戒が必要な論なのです。
ダーウィン自身もかなり誤解されてきた賢者ですので
彼の進化論を考察する際には緻密に分析評価しなくてはなりません。
学問の恣意的な活用はイデオロギー(教条的原理思考)へと
つながりますので是非とも慎重に分析考察を進めて行かなくてはならない
所以の一例でもあります。)では、
「利己的な行動がたまたま集団利益に奉仕したかに見えた場合には
あたかも<神の見えざる手>が働いたかのように見えるが、
時として集団全体にとっては有害な結果をもたらすこともある!!」という
わけですね。
もう一点が「自由」に対する浅はかな見立てが
そのような経済混乱をもたらしてきた要因だということです。
「自由(自主的意思決定)」をしばしば極限まで追求することを良しとしてきた
リバタリアン的発想に代表される見立てによれば、
「選択する自由」はあるのだというわけですが、
それは一面だけを切り取っただけの見方で
「選択される自由」もあるという視点にまでは
なかなか想像が及ばない論者が後を絶ちません。
この相手側の立場から評価「選別」される自己自身という観点が
このような市場分析論ではしばしば「盲点」として見落とされてきたという
ことは前にもご紹介させて頂いた著書などでも強調させて頂きましたが、
本書でもその視座の重要性に注意が喚起されています。
本書において展開されていく論旨を読み解く際に
必要な視点となる隠されたキーワードに「相対的評価」がありますが、
リバタリアンはこの「相対的評価」の視点を無視するか軽視する
傾向にあるといい、そこに自己矛盾が孕まれているのだと
著者はいいます。
一方でこれまた従来の左派リベラルによる市場「失敗」論として
取り上げられてきた『市場の失敗は競争が十分でないことに
起因する』(本書32頁)という見立てに対しても
反論されている姿勢に今回あらたに管理人などは
大いに啓蒙されたところがありました。
著者によれば、
『実際には、問題の原因は競争そのものの基本的性質にある。
市場はかつてないほど競争的なのだが、そのことは市場の失敗の
範囲を狭めるどころか、さらに大きくしたのである。』(本書32頁)と。
この論点については、
先に冒頭でも多大な誤解を招きかねない
「完全」かつ「合理的」な市場競争さえ働いておれば
「独占化」や「寡占化」などの現象は起こりえないのだと
書き綴ってしまいましたが、こうして今書き進めながら
あらためて気付かされてしまうと、
必ずしもそうした主流派から見れば理想的な「効率的」市場と
見立てられる条件下においても、
ひょっとすると、こうした「独占化」や「寡占化」は
自然発生してくることからして
一向に無くなる気配はないのかもしれないなどとも考えてしまいました。
もちろん著者も本書最後尾に向かって論旨展開されていくにつれて
そうだからこそ、そのような憂慮すべき事態を多少なりとも
軽減し得るための処方箋が提示されていくわけですが・・・
この「盲点」につきましては、前々回にもご紹介させて頂きました
小室博士の著作における着眼点にもなかったことだと思いますので
(もっとも、アローの定理や合成の誤謬論の中に半ば組み込まれているとも
言えるのでしょうが、ダーウィンから発想した市場分析論までは
提示されておらず、今回の本書が「初見」だということで
個人的な経済学知力の向上のうえでもお役立ち文献になったという
次第です。
本を読みながら「蒙が拓かれる」とは多分こういうことなのでしょうよ、
きっと・・・
だからこそ、読書こそは面倒くさい行為の筆頭ですが
やめられんのですね・・・)、管理人におきましては
文字通りの「新発見」となった驚異的炯眼だったのでした。
自然科学と社会科学の「結び目」にあるダーウィンとスミス。
この二人が生存していた時期はずれますが、
ダーウィンとほぼ同時代を生きたマルクスがもしこのダーウィンの
炯眼力や洞察力をもっと素速く「的確に」見定め
「正確に」理解していたとすれば、マルクス自身によって考案された
経済思想もその後のマルクス経済学の行方も随分と様変わりしたものとなり、
社会への「改善」提案論も穏やかなものとなり、
「後知恵」ではありますが、
その後の歴史的展開をも変えていたかもしれないと
現在から振り返って想像を逞しくして考えてみれば、
たった数人の少数賢者における知的「鈍感(俊敏)力」とは
かくも人類全体にまで莫大な影響力を及ぼすものと知れば
「あまりにも残酷な!!」とも実感させられます。
ところで、著者の思想的立場は本書を読む限りでは
少なくともガチガチのリバタリアンではありませんが、
リバタリアン的発想の一部には賛同しつつも
大多数のリバタリアンと意見が分かれる点に
「他者危害の原則」(ジョン・スチュアート・ミル)における
範囲問題があるといいます。
主流派リバタリアンは他者危害の範囲を狭く捉える傾向にあるのに対し、
著者は「直接」損(危)害に限らず、
もっと範囲が広く一見してその影響がどこまで及ぶのかも
知り得ない「間接」損害にまで拡張させて捉える必要があるといいます。
その具体的適用事例問題については、
主に第6章と第7章での費用便益分析効果視点とともに語られていくことに
なるわけですが、現代資本主義経済社会における
市場規模があまりにも大きすぎて、また今なお、
さらに今後とも拡大し続けていくことを想定すれば、
市場の失敗事例は増えこそすれ減ることはないだろうとの
見立てのうえで有益かつ有限な資源配分を適正に行っていくための
政府の役割を考えていくことになります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・『第2章 ダーウィンの打ち込んだ楔』
※本章では、すでに第1章の要約解説でもかなり細かく触れてしまいましたが、
ダーウィンが示した知見に基づき、
<神の見えざる手>問題についての正当な評価がなされていくことになります。
結論的には、
『ダーウィン理論内にスミス理論を包摂していく』方向性が示されることに
なります。
それはあたかもニュートン理論がアインシュタイン理論によって
包摂されていく過程とよく似た経路を辿る見立てであります。
言い換えますと、ダーウィンが「一般論」とすれば
スミスを「特殊論」として扱おうとする見立てであります。
(本書39頁ご参照のこと。)
ということでこの第2章は本書における中核論点に当たる論考箇所と
いうことになりますが、
詳細な解説は<個人の利益と集団の利益はしばしば乖離する>
(本書43~48頁)に委ねさせて頂くこととします。
さて、この第2章で問題提起され本書における主題論点でもあり
最後の第12章における主流派リバタリアンへの反論根拠とも
なり得る視点こそが、
<相対的な関係の重要性>(本書48~51頁)と
<背景と評価>(本書51~53頁)で展開されることになります。
この2つの最大論点の重要性が次の第3章~第5章で
細かく分析考察されていくことになるわけです。
今回ご紹介させて頂いた本書が特に管理人にとりましても
「新発見」だとして最大限の賛辞を惜しまない理由となった
論考箇所に当たりますが、
上記の「相対的評価姿勢」や「背景事情」が
いかに現実の市場に多大な影響力を及ぼすかを知ることで
前々回ご紹介させて頂いたアカロフ&シラー博士や小室博士の見立てですら
市場分析論としては「甘すぎる!!」のではないかとの
1つの教訓が得られたからでした。
つまり、『消費者が十分に情報を与えられ、完全競争の下で
雇用主や売り手とやりとりをしても、なぜ「見えざる手」の説明が
崩れるのかを理解するカギ』(本書53頁)として
上記2つの視点、すなわち、「相対的評価姿勢」と「背景事情」を
加味して市場分析を進めていく重要性と必要性が示唆されているからに
他ならないということです。
と同時にこれまた繰り返しとなりますが、
従来の左派リベラル経済学者が指摘するところの
市場の「失敗」論の大前提となる論拠が不十分か
もしくは不満足な結果にしかなり得ないだろうとの視点で
市場の失敗事例が起きた際に要請される規制の根拠論について
著者はいわゆる左派リベラル学者が言うところの
「搾取論」的観点からではなく、
『規制の真の根拠は、過当競争の結果から身を守ることにある。』
(本書53頁)という観点から次章以下で論証されていくことに
なります。
「それでは、なぜこれまでの主流派経済学者はこうした
<相対的評価姿勢>や<背景事情>が市場に働きかける作用力に
十二分に着目してこなかったのでしょうか?」という回答については、
本章<なぜ伝統的な経済モデルは背景を考慮しないのか>
(本書53~55頁)で語られていますので、
そちらをご参照下さいませ。
要するに「数理的」モデルに反映させるには
上記<相対的評価姿勢>だとか<背景事情>だとかは
従来型手法のままでは
あくまでも「主観的過ぎるために厳密な<数理>経済学モデルに
落とし込むには面倒くさい・・・」というのでしょう。
とはいえ、その<数理>モデルも「何のためにするのでしょうか?」という
最大目的からすればむしろ幅広いデータ観点を取り入れることで
より緻密さを高め信頼のおける分析「指標」とするためだったのでは
ないでしょうか?
と問われれば、主流派「数理」経済学者の方は
どのようにお応えされるのでしょうか?
これにはこうした経済学者「固有」の問題意識とは別に
世俗<政治的>意識問題も背後には控えているそうですが、
結論から申せば、
「<相対評価>で示されれば個々人にとってはあまりにも
残酷過ぎるからだ!!」との見解がその理由にはあるそうですね。
この問題も「何のために」<相対評価>の視点が
経済(市場)分析には必要だったのかと問い直せば
自ずと結論も出されるだろう・・・ということです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・『第3章 テーブルの上に現金はない』
・『第4章 「野獣を飢えさせろ」-でもどの野獣を?』
・『第5章 「地位的消費の野獣」のダイエット』
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
※第3章から第5章は第2章要約でもすでに語り終えましたが、
第2章<総論>に対する<各論>ということになります。
このあたりの論点は前々回のアカロフ&シラー博士の問題意識とも
通底する箇所でもありますので省略させて頂きます。
その趣旨をまとめますと、
伝統的な主流派経済学者における市場の失敗原因では左派・右派問わずに
基本的には「不完全」競争論から立論を始めようとする点に
すでに限界を抱え込んでしまっているということに尽きます。
第3章タイトル名の逆となりますが、
『現金をテーブルに残したままにする』(本書57頁)とは
こうした「不完全」競争状態の場合には
個々人にとって有利となる有効な資源活用がうまく出来ていない状態と
いうことになるわけですが、
「通常」想定される「長期安定市場」においては本来そうした事態は
成り立たないはずで成り立っているとすれば、
それこそ本来「分配」可能だったはずの利潤が一部の経済プレーヤーに
取り残されたままで、まさに左派経済学者が言うとおりに
「搾取あり」ということになり『悪い理論』(本書63頁)だからですね。
とはいえ、著者の柔軟な分析視点では、
まさしくそのような「搾取」理論(もちろん、その説明の仕方が適切な場面で
使用されているのであれば別段問題なく、そうした現象への適切な
解決策を提示していけばよいだけなのですが)に必要以上に
とらわれすぎてしまっているがゆえに、
その枠内から外れた事例検証にまでは至らないといった「盲点」が
現れ出てくるところに著者は批評を付け加えられておられるのでした。
その一例として、<労働者>経営企業が反証例として紹介されています。
さて、ここでダーウィンの教訓へと再び戻りますが、
結局のところ、ダーウィンが示唆した論点とは、
『すべての個人がすべての潜在的な利用機会を完全に活用しても
失敗が起こる、という点』(本書56頁)にありました。
すなわち、集団利益と個人利益が乖離するような領域場面では、
どうしても個人利益の方が集団利益に優先してしまうということですね。
「では、このようなダーウィン流の経済市場的教訓が出尽くしたところで、
次にどうすれば双方にとって出来るだけ適正な(つまりは不公平に
ならない程度のという意味です。)最適配分が可能となるのでしょうか?」
その「条件」を探ってみましょうというのが、
主に第6章と第7章での主題となります。
第4章では、主流派リバタリアンによる
「野獣(つまりは、より大きな政府のことです。)を飢えさせろ!!」の大合唱が
時として必要不可欠な公共財投資まで削減させていった結果、
どのような事態が生起していったかという歴史的教訓などを
踏まえながら、こうした頑なな姿勢が
かえって当のリバタリアンにも民間事業主にとっても
終局的には不利益損害分として跳ね返ってくるという多数の事例が
提出されています。
まさしく今の日本社会への教訓であります。
そのことは前々回ご紹介させて頂いた著書の中でも論じられていましたように
「病理(免疫)学」的視点
(『不道徳な見えざる手~自由市場は人間の弱みにつけ込む~』
<カモ釣りとがんの類似性>本書292~294頁ご参照のこと。)と
通底する論点として補強論証されているところです。
本書では<寄生虫/宿主との類似>(82~84頁)に該当します。
確かに政府事業にも無駄と評価される領域もありますが、
民間だから常に効率的な事業ばかりかと問われれば、
そうではないこともありましょう。
場合によっては、必要以上の「在庫分」の積み上げが生じたりして
政府以上の「ムダ・ムリ・ムラ」が世間(市場全体)へと
拡散させられていくこともあるからですね。
民間ゆえに処理費用のことが常に「コスト」として重くのしかかり
あらかじめ処理費用として計上することもなければ、
その外部的損害金は誰が支払うのかと言えば
結果としてその民間事業体以外の一般消費者へと
ツケが回されてしまう誘因が働くからですね。
そして、
「なぜそうしたムダが政府に限らず、
むしろ民間でこそより多く積み重ねられていくことになるのか?」と
問われれば、これも「必要以上のモノやサービス、つまりは
本当に消費者が必要としているものではなく、企業が必要だと
考えているものを提供してしまうから」でしょう。
この論点もすでにどこかで触れさせて頂いたかと思いますが、
機能を超えた贅沢余剰分(例えば、デザインやブランドなど)に
しばしば必要以上のお金が投じられるからということも
1つの要因として考えられるのではないかということでしたね。
管理人も何もいつ何時でも「贅沢は敵だ!!」とまでは断言しませんが、
反対の常に「贅沢は味方だ!!」とも言えない時期もあるのです。
そうした贅沢(奢侈)に対する「間違った」政策が
過去にどのような結末を招いたかを知るためには
江戸時代の諸改革例や戦時中の事例、はたまたバブル期の顛末を
少しでもご覧になって頂ければおわかり頂けるでしょう。
贅沢(奢侈)禁止令が適用されると悪い時期というのは
デフレ(経済冷却)期であり、良いと言えば語弊がありますが、
多少は抑制した方が適切な時期というのはインフレ(特に過剰な
景気過熱=バブル)期であるようです。
そのように歴史的教訓は静かに示唆しているようなのです。
もっとも現代の高度資本主義経済社会では
ほとんど効果がなさそうな法令でしょうが・・・
とはいえ、なかなか個々人における経済行動にとって
常にこのような賢い選択と決断が出来るかは難しいでしょう。
何よりも贅沢(奢侈)品の定義や範囲が個々人によって
まちまちなのですから。
また国家による贅沢(奢侈)品の選別強制的措置も採用できない
(出来たら国家社会主義的<統制>経済になり、
現在の<自由>経済が提供してきた恩恵を受け取ることが出来なくなり、
国民生活上も不便を強いられます。)でしょうし、
結局は私たち1人1人の知恵比べが試されるということです。
ただし1つだけ確かなことが言えそうなのは、
「相対的」に資力がある層によって
しばしば市場は操作支配されてきたという事実であります。
つまり、通常人(「相対的」資力に劣る生活層)が
いくら知恵を振り絞って努力してみても、
こうした巨大なまずに呑みこまれてしまうことが
現実には多々あるということです。
だからこそ、著者も「相対的評価姿勢」や「背景事情」の
重要性について注意喚起され、「決して甘くみてはなりませんぞ!!」と
示唆して下さっているというわけですね。
ということで、このようなバブル時代の教訓も
また復習しておかなくてはなりません。
「みんなが儲けだした(儲け話に興じ始めだした)、
あるいは、通常時の経済生活神経であれば
決してやらないような何らかの投資(厳密には投<機>)が
流行りだした頃にはすでに警戒水域に突入している!!」ということです。
これだけは覚えておきましょう。
少なくとも、ロスジェネ世代はバブル世代の過ちを
再び繰り返してはなりません。
次世代のためにも・・・
要はそれに相応しい適正な経済「事情」との相関関係で
「相対(地位)的消費量」が決定されるに過ぎないという趣旨で
何事も限度を超えた「相対(地位)的」消費というのは
消費者も生産者自身にとってもその体力を奪うでしょうという
ごくごく自然な通常人の生活感覚からすれば受け容れやすいだろう
生活実感教訓として、
著者も第5章で提起されていた論考とも通底する問題意識で
語らせて頂いているに過ぎないのです。
それが、本来的な経済市場学が想定するところの
<生産性>や<効率性>といった問題意識だったのではないでしょうか?
というところで、次の第6章と第7章では
いよいよ、この費用便益効果分析の長所やその限界事例問題へも
踏み込んだ論考が展開されていくことになります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・『第6章 加害者と被害者』
・『第7章 効率化のルール』
※第6章と第7章も個人的には興味関心が強かった論点だったのですが、
著者の優れた点は、一般的にロナルド・コースの定理として
講義され、現在の環境経済学にも採用されている
いわゆる俗に言う「費用対効果問題」、
専門的には「費用便益効果分析」と呼ばれる問題解決手法に
対して寄せられる否定的評価(その筆頭は、<反倫理的>だという批判
ですが)を一変させてくれる知見が説得力をもって論じられていたことでした。
とはいえ、この「費用便益効果分析」がなぜこれまで一般はともかく
特に左派リベラル経済学者のあいだでも否定的に見られてきたのかと言えば、
それは著者も本書にて喝破されたように他者危害事例については
「直接」損害事例だけに狭く絞って扱おうとする姿勢が
経済右派に位置する一部の極端なリバタリアンには
しばしば見受けらる傾向があるものとして評価されてきたからですね。
そうした文脈からこの「費用便益効果分析」には汚点があるものとして
イメージされることが多くなったために評判が悪かったというわけです。
そうした批判を受け容れながら、
従来の「費用便益効果分析」に欠けていた適用領域問題を
拡張させることで、
より望ましい問題解決へと至らせようと意図するのが
著者の立場なのでした。
とはいえ、集団「協働」生活していかざるを得ない人類共同社会の中では
100%完璧な損害回避解決手法など取り得ないために
「次善」の回避策であれ、何らかの「目に見える形」での
公平な損害分担方法を考案せざるを得ません。
そこで考案されてきたのが「費用便益効果分析」手法だったと
いうわけですね。
それと同時に主観的な倫理的価値観を交えてしまえば、
現実の適用場面においてはどこまでが「加害者」で
どこからが「被害者」かの線引きすらいつまで経っても出来ずに
問題解決そのものが先送りされ、
さらに事態が悪化する状況を食い止めることが
およそ不可能になってしまうことに一応の歯止め(目途)を
立たせようという趣旨がこの「コースの定理」には内在していた点に
長所があったということになるわけですね。
現代資本主義社会の現状を「枠内」とする限りは、
おそらく「目に見える形」での公平な損害分担手法としては
この「費用便益効果分析」しかないものと思われます。
どのような経済観に立脚するにせよ、
現在の環境にも配慮した環境経済学の視点では、
経済<外部性(つまりは、公害などの負のコスト)>を
あらかじめその損害回避対策費用として勘定していく
<内部計上化>手法を活用する他ありません。
損害発生「後」よりも損害発生「前」の
事前計上処理の方がより望ましい損害回避への誘因(インセンティブ)が
働くというわけですね。
もっとも、実際にどれだけの損害が発生し得るのかなど
事前にはまったく予想は出来ないわけですが、
損害が発生してしまったら当該企業の市場価値も低下するほどには
現代資本主義経済市場は「正直」な反応を示してくれるものでしょう。
何らかの「作為的情報操作」をしたところで
きょうびその「内部」情報が流出していくのは時間の問題。
つまりは、市場ですらそうした反社会的企業に対しては
「信用力低下」という反応でもって強く働きかけるわけですから、
企業の市場価値低下対策??としても
こうした「費用便益効果分析」に基づく損害評価算入計上を
事前に採用しておいた方が長所があるということになります。
そういった意味で従来のような先程も語らせて頂いたような
一部の論者やフリーライダーのような種族が想定しているような
狭い適用志向を除けば、世間でイメージされているほどには
この「費用便益効果分析」も一概に悪い分析指標とも
断言出来ないのではないかというわけですね。
とはいえ、
そこにはやはり、「どの権利が優先的に守られるべきか?」という
難点が常に付きまとうことは否めません。
『原則として、どの権利を守るべきかを判断するうえで
費用と便益が重要だという点では合意ができたとしても、
関連する費用と便益をどう測るかという点で合意するのは、
まったく別問題である。社会理論家の間で、利害が相反する
人々の主張をどのように比較評価するか、という問題ほど
意見の分かれる問題は少ない。』(本書143~144頁)との
問題意識が第7章での主題論考点となります。
第7章における「費用便益効果分析」の問題点や限界点を
考える際に手がかりとなるのが、
すでに主に第2章から第5章までの要約解説でまとめさせて
頂いたように、<相対的評価姿勢>や<背景事情>の観点から
評価して経済「資力」上、優位に立つ者が
この「費用便益効果分析」の上でも低所得者層に
一方的な損害負担を押しつけやすくなるのではないか問題が
第7章におけるルール設計においても考慮されている点であります。
結論的には、すべてを100%完全な形で透明かつ公平には
損害分担出来ないわけだから、
個別事案ごとの解決手法(ここではミクロ的損害「補償」解決手法と
しておきましょう。)は放棄した上で、
マクロ経済学手法を活用させた租税分配調整手法でもって
全体的な「補償」の公平分担へと誘導していきましょうと
呼びかけるのが著者の提案内容であります。
つまりは、『(管理人注:費用便益効果分析手法を放棄する方向ではなく)
支払い意思額に基づく方法を採用したうえで、
その結果生じる低所得層の損害を福祉や税を使って補償するのだ。』
言い換えますれば、
『低所得層は、支払い意思額に基づく費用便益分析の適用で
発生する損害を反映した税制を通じて、補償を受けることができる。
この補償は、他の要因による福祉や税の優遇に追加されるものだ。』
(本書169頁)ということです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・『第8章 それはあなたのお金であり・・・』
・『第9章 成功と幸運』
・『第10章 すばらしいトレードオフ?』
(ちなみに、<トレードオフ>とは俗に言う
「こちらを立てれば、あちらが立たず」の関係にある状況を
イメージして頂ければわかりやすくなるかと思います。)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
※第8章から第10章で重要な論考点は、
「所有(権)を成り立たせてきた所有という概念の神話」を
暴露・解体させながら「それはあなたのお金であり・・・」なる
傲慢な姿勢に傾きやすい発想に「いやいや少しお待ちなさい、
あなたが真面目に勤勉・勤労して稼いだ所得には
もちろん敬意を表しますし、努力して得た各種成果を
剥奪するわけでもありません。ただ、<そもそも論>として
あなたが稼ぐことが可能となった環境条件は
どこに由来するものなのでしょうか?
それは、政府などが積極的に投資して整備されてきた
社会インフラであったり、また仕事の対価として
お金を稼ぐわけだから、当然そのお金を支払ってくれた人自身の
仕事へも感謝しなくちゃならんでしょ。つまり、お金を稼ぐことも
それぞれの<互恵的対価行為>の付随的結果に過ぎなかったのだと
いうことはお忘れなきよう・・・」というのが
この3章における究極的論点だということになります。
要するに、従来の『抽象的な倫理観』だけにとどまった視点だけでは
分配「闘争」という感情的しこりが残るだけだというのが
ここでの趣旨で、もっとある意味ではドライな「互恵的観点」を
採用することで、このような永遠に続く不毛な経済階層間での
感情対立も和らぐだろうし、実際上の解決も速まるといった
長所もあるだろうということです。
第9章では、そうした経済上の成功と幸運も
「偶然」に左右されて生まれてきた結果にすぎないのではないかと
冷静に謙虚に考え直す話題が提供されています。
この「偶有性」問題はあらためてエッセー項目でも語り直させて頂く
予定でいますが、
この「偶然か必然か」は大きな次元から眺め直せば、
さほど明確に区分できる代物でもないことに
気付かされることと思います。
第10章はさほど重要な論点は取り上げられていないわけですが、
1つだけ大きな論点を取り出してみるとするならば、
<コモンズ(共有地)の悲劇>問題(本書229~233頁)で
あります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・『第11章 有害な活動への課税』
※本章は、税制を通じた公正な損害負担分配手法について
あらためて詳しく論じ直された論考文であります。
よく環境経済学で取り上げられるキーワードである
『グッズ(良い活動総体)減税ないしは無税、
バッズ(悪い活動総体)増税』といったアイディアが
社会政策上もより望ましい方向へと誘導させるであろうとの
楽観的見立てに基づいた政策手法のことです。
本書でも十分に詳しい解説が施されており楽しめる論考文なのですが、
一般向け啓蒙書のため少し「純」学問的には物足りなさを
感じられた読者様向けには
前にも記事末尾でのご参考文献でもお薦めさせて頂いたことがある
『入門 環境経済学~環境問題解決へのアプローチ~』
(日引聡/有村俊秀共著、中公新書、2002年)における
特には<第1章 Ⅴ 市場の失敗をどう解決するか?>(23~
30頁)、<第2章 政策手段の選択~環境税か、規制か、
補助金か~>(31~47頁)を中心にご参考頂き、
さらに本書だけでは「コースの定理」が理解しづらかった読者様には
<第3章 環境問題は交渉によって解決できるか>(49~72頁)を
ご参考にしてみてはいかがでしょうか?
もちろん、「この新書よりももっとわかりやすい参考書があるわい!!」と
おっしゃられる読者様であれば、
適宜お手元にある書籍をご参考にして頂くとよいかと思います。
数学的「関数」の手法が多用されていますので、
大学での基礎経済数学鍛錬にはきっと役立つ素材が
豊富に提供されているのではないかと専門外ですが
勝手ながら推察させて頂きます。
そして、この租税政策を通じた適切な経済政策へと立て直すための
ヒントとしては、『第1章 麻痺状態』<ソフトに統治する>
(本書33~37頁)にも簡潔にまとめられています。
ここで示されている重要論点として、新税(あるいは既存税の増税)も
ただ闇雲に時期を見計らわずに導入すればよいというわけではないという
視点がありました。
『新税は、経済が完全雇用に戻ってから段階的に導入するべきだ。』
(本書36頁)と。
一方で、現実的には<無税国家(論)>(松下幸之助翁)が実現不可能ないしは
非現実論に思われるようであれば
(出来たらそれに越したことはないでしょうが・・・)、
次善の策として国家の財源収入基盤における租税依存比率を
可能なかぎり低下させよという経済保守派の志向性には
管理人もある程度共感・納得できる(なぜならば、有権者の意向とは関わりなく
租税体系は年々歳々複雑化していきますし、いくらでも理屈を付けられては
恣意的に拡大されていく事例が後を絶たないことが歴史的教訓だからです。
要するに<為政者>の立場からすれば<有権者>から集めた金は
あくまでも他人の金ということで使途につき自制心が働かない傾向が
多々あるということですね。)ことから、
国民租税負担率を軽減する志向性にも理解することが出来るものの、
人間誰しも何らかの形で社会に参加している以上は、
公共財の活用などで利益を得ている以上、
その維持費や有限な資源を適切に分配また適正に使用する
誘因(インセンティブ)を働かせたり、
また景気の過熱(バブル)化をある程度までは
抑制させる方便としての租税の自動調整化機能(ビルト・イン・スタビライザー)
としての役割も租税にはあることからして、
いかなる租税に対しても闇雲に反対だとする志向性も
これまた現実的ではないという視点も押さえておく必要があります。
その意味で、本書は「適切でより望ましい租税政策思想とは
どのようなものなのか?」という良質な資料も提供してくれています。
政権指導者も政権選択をする有権者にとっても
こうした租税政策を基礎付ける背景思想の「正しい」理解力が
かつてないほどに必要とされている今この時期だからこそ、
是非皆さんにもご一読頂きたい1冊であります。
『代表なければ課税なし』の本質を深く考えなくても
お上が何とか勝手に微調整運用をしてくれるだろうとの
これまでの甘い期待感が次々と裏切られてきた日本政治風土だからこそ
今一度、皆さんにも日本版『租税国家の危機』(ジョゼフ・シュンペンター)への
問題意識を高く持って頂くことをお願いしたいのです。
「衆愚政治(大衆タレント志向型煽動政治)ではない
より望ましい民主主義政治へと再建・飛躍更新させ得るためにも
<租税国家論>について大いに盛り上げていって頂きたいものです!!」
「なぜならば、<租税国家論>を語り合うことこそが、
<全体主義>や<衆愚政治>を防ぐ最後の砦となるからですね。」
そうした「経済民主的課税(租税国家)論」を考える視点を提供してくれる
ご参考文献はこちらの記事末尾にもご紹介させて頂いておりますので
皆さんにも各自ご興味ご関心の度合に応じてご一読して頂ければ幸いです。
「皆さん、黎明期直前(夜明け前)が一番厳しくしんどい時期だと言いますが、
あらゆる障害を乗り越えてともに立ち上がりましょうね!!」
「1人1人は微力であっても高い志と問題意識をもった勇者が
1人また1人と立ち上がってゆけば、いつの日にか
<臨界点(ティッピング・ポイント)>を超えてパラダイム・シフトが
起こり得ることはすでに人類史が証明していますので、
自信を持って<前を向いて>進みましょうね!!」
「日本にも必ず<自由の女神>がいて、
いつの日にか嘉(よみ)して下さる時期が到来しましょうから・・・」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・『第12章 リバタリアンの反論再考』
※最終章に辿り着きました。
本章ではあくまでも著者自身にも十二分に納得し得る
「合理的」リバタリアンの立場を受け容れつつ、
一部の極端な「最強硬」リバタリアンに対しても、
「頑なな姿勢が時にあなた自身の首を絞めることにも
つながるのよ・・・」と静かに教え諭すかのように
締めくくられていきます。
と同時に「コースの定理」を再検証(本書270~272頁)する
論考もありますが、
いずれにしましてもコースの定理が示唆するところは、
あくまでも現実的な障害が「ないもの」としてと仮定したところから
話が始まるというところが重要点であり、
著者の定理要約では、
『個人の自律性は、他を害する行動から発生するすべての問題が効率的に
解決されない限り、常に譲歩させられる。』(本書272頁)ということに
尽きます。
そうとするならば、この「効率的に解決されない」原因こそ
除去されなくてはならないということになりますが、
この原因こそが、あらためて言うまでもなく「現実的な障害」ということで
その最大要因は何かと管理人自身からの解釈を交えて
まとめてしまいますと、それは「心理的感情のもつれ」に
軍配が上げられるものと確信しております。
著者自身も、互いに譲歩した方が利益を最大限にすることが可能だと
いいます。
その理由は、<譲歩する現実的な理由>(280~283頁)で
あらためてスミスの洞察を引用させながら考察されています。
とともに著者は『第7章 効率化のルール』における
<効率的な政策を採用するうえで障害となるその他のこと>
(166~169頁)でも特に強硬なリバタリアンによる
政府による再分配への反対意見が紹介され、さらっと反論意見を
ひととおり語っただけで、
一応は無事「説得」しおおせたかのような「どや顔??」を
されているかのようにお見受けしますが、
そのご説はごもっともだとしても、
肝腎な頑なな姿勢で挑み続ける主流派リバタリアンを
十二分に「納得」させ得たかは見通しが甘すぎるように
感じられるわけです。
「論理(理屈)」としては理解し得ても、
「心理(感情)」としては受け容れがたい・・・
こんな事例は人間であれば主流派リバタリアンならずとも
管理人も含めて誰しもが抱え込む「あまりにも人間的すぎる」問題ですが、
最大の障害がやはり「心理的感情」問題にあるものと
管理人ならば確信しておりますので、
「主義者」の価値観を取り下げさせることは無理難題ですし、
ムダに労力を費やすことは人生経験上も分かり切ったことですので、
無難なところでは第9章の主題にもあったような
人間の「偶有性」に訴え続ける他ないものと思われるのです。
リバタリアンでさえ、自主性・独力性を重視してきたとはいえ、
生まれ落ちた瞬間にまで自分1人だけでこの世に降り立ったわけでも
最初からまったくゼロの状態から這い上がり、
この厳しい人生をくぐり抜けてこられたわけではないでしょう。
もし、親やリバタリアン自身の縁者による「支え」もあって
生き抜いてこられたにもかかわらず、
これまで独力で「自立」してきたのだと言い張れば、
その時点でリバタリアンの「信条」は崩れてしまうことになりますし、
リバタリアンとしての思想的根拠や姿勢もウソだったということに
なりましょう。
そこのところを意図的に無視して考慮しない
リバタリアンであればそれはもはや「人間」ではなく
悪い意味での「超人」、つまりは単なる「厄介な隣人」と
いうことになってしまい当のリバタリアン本人としても
社会の中で生きづらくなってしまいましょう。
今回、本書を読み進めてきてあらためて気付かされたことは
人間誰しも「相対的評価姿勢」や「背景事情」を抱え込みながら
生きてきたことと、そうした個別的勘定項目は
ほとんどたまさかの僥倖に近いほど「偶然」の要素に
左右されてきたことばかりだということに尽きます。
私たち現世人類はそのような社会の中を生き抜いてきたということです。
ここの問題を軽く通り過ぎるか重く受け止めて相互の個別事情を
尊重しながら価値観の違いはさておき、
人間誰しもが共有し得る領域で相互協力していけるかで
人類の歴史は大きく変わることでしょう。
管理人自身が今のところ考え得る『前を向いて』(98~99頁)は
ここらあたりの問題領域に関心を向け直すところから
「再出発」するしかないのではありますまいかと問いかけることに
あります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・<ペーパーバック版へのあとがき>
・<訳者あとがき>
・<原註>
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
最後までお読み頂きありがとうございました。
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[…] 前にもご紹介させて頂いたロバート・H・フランク博士なども […]