ミヒャエル・エンデ&ヨーゼフ・ボイス「芸術と政治をめぐる対話」から、来るべき時代のあり方を考えよう!!

Pocket

ミヒャエル・エンデ&ヨーゼフ・ボイスによる

「芸術と政治をめぐる対話」

現代政治の困難な課題に、芸術はいかに答えるべきか?

昨今、日本でも作家などの芸術家が政治家に転身するケースが

増えていますが、十二分に問題提起をなし得ているのでしょうか?

生きた息吹を吹き込むことが、果たして出来ているのでしょうか?

今回は、この本をご紹介しながら考えていきたいと思います。

「芸術と政治をめぐる対話」(ミヒャエル・エンデ&ヨーゼフ・ボイス共著、丘沢静也訳、岩波書店、1992年)

ミヒャエル・エンデさん(以下、エンデ)は、ドイツの作家で

「モモ」などの優れたファンタジー物語によって、

現代社会に対して非常に鋭い問題提起をされてきた方です。

日本でも多くの共感が得られている作家として有名です。

また、地域通貨の導入など現代経済事情を改善させる取り組みにも

積極的に参加されていたことで知られています。

ヨーゼフ・ボイスさん(以下、ボイス)は、エンデほどには

日本で知られていませんが、1960年代以降に現代アートの世界に

「社会芸術」という考えを持ち込んだ「前衛」の彫刻作家だそうです。

昨今の日本でも、芸術家などのタレント政治家が増えているようですが、

果たして「生きた社会芸術作品」として政治を創造し得ているのでしょうか?

そんな疑問をお持ちの方もおられることと思います。

日本でも、「文学と政治論争」という対談がたびたびあったようですが、

特定の政治イデオロギーに奉仕する「前衛文士」には、

嫌悪感も抱かれていたようです。

1960年代以降は、特定の政治イデオロギーに関係なく

比較的自由な立場で様々な作家が、政治に参加するようになりました。

つい先日お亡くなりになった野坂昭如さんや、今東光和尚さん、

石原慎太郎さんや三島由紀夫さんなどなど・・・

現代社会に鋭いメスを入れることで、政治に問題提起していくスタイルが

確立されていったようです。

ところが、一般人の立場から観察すると「良識の府」参議院などでも

あまり芸術家としての経験から得られた優れた叡智が活かせていない現状を

見るにつけ、失望感も増しています。

日本では、優れた問題提起よりも「肩書」としてしか見られていないようです。

せっかく優れた「想像力と創造力」があるにもかかわらず、活かせていない

現状を見るのは、一般人から見ても悲しいものがあります。

こうした日本の現状をいったん離れて世界を見回しながら、

うまくいっている国はないかと探していると、ドイツに見当たりました。

そこで、今回は第二次世界大戦で同じ敗戦国となったドイツの政治事情に

「芸術」がいかに関与しているのか、関与するべきかをめぐっての

優れた対談書が見つかりましたので、皆さんとともに

日本でも活かせないものか考えてみようと、

この本を取り上げさせて頂きました。

エンデVSボイス

最初にこの対話の背景とお二人の立場を確認しておきます。

この本は、1985年2月8日金曜日に

ドイツはアルゴイのヴァンゲンにあるアルゲンタール自由市民カレッジで

エンデとボイスが「芸術と政治」をテーマに語り合った対談が下敷きと

なって出来たものです。

さて、二人の立場ですが、

エンデは、芸術によって生み出された新たなイメージが

政治に与えていく影響は小さいと考える伝統保守的な立場のようで、

前衛革新的なボイスとは異なり、芸術にあまり過大な期待を抱いて

いないようです。

また、芸術を好意的に評価しています。

一方、ボイスは「理性重視」派のようで、政治に芸術を前衛的に

奉仕させていく積極的立場のようです。

しかも、旧い芸術概念を破壊しようとする芸術嫌悪派のようです。

前衛作品により、秩序だった古き良き芸術を憎むべきだとまで

語っています。

ただ、二人ともルドルフ・シュタイナーの「社会有機体の三層化」という

考えに影響を受けている点に共通項があるようです。

一般的には、フランス革命を原点とする自由・平等・博(友)愛は

現在の自由主義・民主主義・社会主義にそれぞれ対応するのですが、

現代国家の政治事情は、原則としてこの互いに矛盾する3要素を

一つの社会(国家)有機体にて包括させるというシステムになっています。

そのため、相互衝突を来しており議会制度が機能していないことは、

皆さんの周知のとおりです。

その反省から、ルドルフ・シュタイナーは、それぞれを独立させて

精神=アナーキー(各人の自由)に任せる・法秩序=民主的平等に設定・経済は

政治的イデオロギーから独立させて社会の共通善を目指して運営させる、という

いわゆる互いに独立した「三層化」を構想しています。

以上の予備知識を前提に、

「芸術は政治にどこまで介入するべきか、介入できるか??」

をめぐって対立しています。

詳細は、この本をお読み下さいませ。

芸術はどこまで政治を再創造させ得るか??

エンデの立場は、その時・その場で小さく積み重ねていく過程で

創造される芸術によって政治参加者に考える素材としてのイメージを

与えることしか期待出来ないと考えているようです。

最初に、何か「あるべき姿」を想定して創造することなど

想像もつかないことから、謙虚に前を向いていくべきだとします。

少しずつ少しずつ創作していった結果、現れてくる素描(塑像)こそが、

結果としての「政治像」だとされているようですね。

一方、ボイスの立場は、すでに決まった姿があるようで、

そのイメージ像に合わせて現状の政治を変革させていこうとする

芸術は政治の「前衛」だと考える革新派です。

二人の立場を観察していると、

何だかアリストテレスプラトンの対立のように見えてきます。

最初から「真・善・美のイデア(イメージ像)」といった

固定されたものがあるのかどうか?

その辺りにも問題点があるようです。

もっとも、経済については二人とも問題意識は共通しているようです。

現代の経済環境では、芸術を始めとするいかなる「代替運動」を取り入れた

としても、そのシステムにあらかじめ組み込まれてしまい

「資本の永久循環運動の輪」の中でグルグル回されるだけです。

前にも当ブログでご紹介させて頂いたように、「芸術も消費(商品)」

だということです。

その点では、二人が経済改革に芸術を活かそうとする考えは

ウィリアム・モリスが提起した問題と同様の論点が含まれているようです。

特に、エンデは日本でも「地域通貨」のアイディア者として

常に参考にされている方ですが、「経済価値とは何か?」や

「仕事そのものの価値と金銭での評価のあり方とのズレ」と

いった現代経済の問題点には有益なアドバイスを提供して

くれています。

管理人は、二人の対話を読ませて頂いた限りでは、エンデの方が

穏健で現実的だと感じました。

エンデも、社会主義に影響を与えたり受けたりしている点も

あるようですが、ボイスや日本の「革新派」に比較すれば

教条的でないところに共感が持てました。

21世紀現在、先進諸国を含めて世界中の国々で、「経済の民主化問題」が

問われ続けています。

先年は、難しく分厚い専門書にもかかわらず、

フランスのトマ・ピケティの「21世紀の資本」などが

爆発的なブームとなりました。

ドラッカーの「民主的経営理論」も再脚光を浴びています。

そうした厳しい政治経済事情の中で、今回ご紹介させて頂いた

ミヒャエル・エンデ&ヨーゼフ・ボイスとの対話は、なにがしか

日本人にとっても有益な視点を与えてくれると思いましたので、

取り上げさせて頂きました。

皆さんも特にエンデの考察には、日本人の感性にも無理なく合うと

思いますので、是非ご一読下さいませ。

最後までお読み頂きありがとうございました。

sponsored link




 

コメントを残す

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)

サブコンテンツ

このページの先頭へ