谷口正次氏の『経済学が世界を殺す』を読みながら浮かび上がってきた文系的思考法の盲点に挑戦してみました!!
『経済学が世界を殺す~「成長の限界」を無視した倫理なき資本主義~』
元鉱山技師にして日本唯一を自称される資源・環境問題が
ご専門のフリージャーナリスト谷口正次氏による
主流経済学への告発書。
本書では地球資源の有限性・稀少性を大前提とした
<自然資本経営>論を下敷きに現代経済学の盲点を突かれているのですが・・・
読み進めていくにつれて疑問も深まっていきます。
今回は、この本をご紹介します。
『経済学が世界を殺す~「成長の限界」を無視した倫理なき資本主義~』(谷口正次著、扶桑社新書、2017年初版第1刷)
谷口正次氏(以下、著者)は、大学ご卒業後終始一貫して
「鉱工業畑」を歩んでこられた元鉱山技師であり、
現在はそのご経歴を活かされた「日本唯一」の資源・環境問題に
特化したフリージャーナリストとしてご活躍中の方であります。
NPO法人ものづくり生命文明機構副理事長など
数々の組織団体においても役職を務められています。
近年の2014~2016年にかけては、我が国の
ご指導を受けながら、そのご縁をもって
京都大学大学院経済学研究科特任教授として迎え入れられ
『自然資本経営論共同研究講座』をご担当されていたといいます。
そのような著者ですから、専門書も数多く上梓されています。
ご参考までに専門的著作を中心に少しご紹介しておきますね。
『入門・資源危機~国益と地球益のジレンマ~』
(新評論、2005年)
『自然資本経営のすすめ:持続可能な社会と企業経営』
(東洋経済新報社、2014年)などです。
一般向けには鉱工業畑ご出身の方ですので、
やはりメタル(鉱石)関連の話題書が多くあるようですね。
そうした一連の諸著作の中でも本書は
上記大学院における<自然資本経営>論に関する研究成果のエッセンスを
一般読者向けに公表された入門的「新書」であります。
ところで、本書は資源・環境問題の観点から
現代「主流」経済学の根本を撃つ批評・告発書の1冊とも
評価されるものと思われますが、
文系学者や環境保護運動に従事する活動家などに典型的に見られる
ある種の視点の偏りを感じさせられたのも正直な読後感でありました。
<地球にやさしい>だとか<LOHAS(ロハス)>など
環境問題には多種多様な「心地よくそのこと自体には容易に反論出来ない」ような
標語がありますが、とりわけ経済面における<脱成長>論には
かなりの問題点が含まれているにもかかわらず、
そうした一見すると「正論」であるかに見える論を
反駁する意見については意図的に軽視・無視される傾向が少なからずあり
読者の皆さんの中にも正直辟易とさせられる方も
数多くいらっしゃるのではないかと推察します。
・『果たして、本当に<経済成長>と<環境保全>は両立し得ないのだろうか?』
・『もはや<脱>成長論しか私たち人類には残されていないのだろうか?』
・『<成長>の具体的定義(内実)について深く検討することもなく、
誰もがすぐには反論出来ないような心地よい印象論で経済を語ってもらっては困るし、
あまりにも無責任な態度ではないか?』
・『そもそも<自然資本>と言われても、現代社会では人類が存続する限りは、
自然界に何らかの手が加えられているはずで
もはや純粋な自然など存在し得ないわけだし、
<資本>というイメージで<自然>を捉える時点で
すでに自然(生態系)を道具化しているわけで自己矛盾しているんじゃない・・・』
・『人類だって、その自然生態系の一部なんだぜ!!
そもそもその人類自体を自然生態系から切り離した二元的思考法で
批判的に主流経済学を分析考察したところで<同じ穴のムジナ>ではないか?
(たとえ、より自然生態系を重視する姿勢から人類自身をも含む
壮大な経済体系思想をイメージされても弁証法で言うところの
<正(作用)>と<反(反作用)>次元における批判に止まるのでは・・・
つまり、両者を<合>させる高度な次元からの捉え返しによる
解決提示法に物足りなさを感じさせられるということ。)』などなど
次々と当然に予想される問いが投げかけられることでしょう。
後ほど本文内でも語らせて頂く予定でいますが、
特に第5章でご提案されているような
『日本は海洋資源開発で自然資本負担の軽減を』(本書150~155頁)と
強調されてはいますが、そのご提案自体に
本来ならば環境負荷をより少なくさせる方向へと働きかける趣旨からすれば
有限かつ稀少な資源・エネルギー開発をより縮減させざるを得ないと思われるのですが、
陸上圏内や大気圏内における資源がもはや枯渇してきているから
残されている道は海洋圏内だとの見立てでは
<エントロピー増大則>にもそもそも反しているのではないかなど
理系的視点も加味しながらもう少し別の角度から分析考察していくと
かなりの難点や盲点も出てくるように思われました。
今回、この時期に本書を取り上げさせて頂いた趣旨も
前回ご紹介の書評記事内にて触れさせて頂きました
<エントロピー増大則>に触発された問題意識を
経済面にも踏み込んで文系的視点から
さらに再考してみようとの試みとともに
現代の「主流」であれ「<反>主流」の立場であれ
いずれにせよ現代経済学が<脱>成長論一点張りで
もはやこれ以上の経済成長は見込めないとする「ディストピア」論ばかりが
延々と流布していくことにも懸念を抱いてきたからです。
また、かりに経済的にどのような世界(価値)観に立つにせよ、
資源・エネルギー供給面における限界を弁えない極端な「ユートピア」論も
一方では浸透しつつあるように見受けられるからです。
つまり、あたかも今後の科学技術の進展によって
エネルギー「無尽蔵」論を実現させ得るだろうとする安直な未来予想図も
このところ数々のシンギュラリティー(人工知能などが引き起こす技術的特異点)論
などにも無意識のうちに取り込まれているのではないかと考えるわけです。
人類が地球上で今後とも存続していくためには、
もちろん有限かつ稀少な資源・エネルギー環境問題へ
より一層の思慮深さを傾けていかなくてはならないことは論を待ちません。
そのような地球上の閉じた自然生態系内で生き残っていくためには
これ以上のエントロピー(環境への負荷となるあらゆるモノやコトといった
人類が日々排出していくことになるマイナス情報源=外部不経済性)を
増大させない志向性でもって生活する必要もあるでしょう。
その限界を超えた生活をこの地球上で営もうとすれば、
今度は地球圏外の宇宙空間内に資源・エネルギー源を見出さざるを
得なくなるのが理の必然であります。
そのことはまたしてもエントロピー(負のエネルギー情報)を
宇宙規模に拡大させることに他なりません。
『そんな生活を文字通り「無限」に続けることが果たして可能なのか?』
宇宙がこれからも未来永劫に加速膨張し、
急激な変化(人類の存続がおよそ不可能となるような<爆縮>のようなもの)が
起きでもしない限り、『人類は何とかやっていくさ!!』というような
超楽観的な立場の論者もおられるかもしれませんが、
この世界は
「諸行無常(つまり、未来永劫にわたる不変・恒常状態はあり得ない!!)」という
自然法則がこれまでの人類史の歴史的教訓であってみれば、
極端な悲観論に陥る必要はないにせよ、
謙虚な生活姿勢を保持しないことにはやがて危機が訪れることだけは
間違いないところです。
言い換えるならば、現状のようなエントロピーを増大し続けるような
生活は、重大な危機を見逃させる要因となり、
ただ単に問題解決を先送りするだけだということです。
こうした問題意識からすると、著者による本書からの警告も
もちろん十二分に納得し得ることです。
「だがしかし・・・
そうした問題意識の<枠内>にも一切の盲点や弱点はないと言い切れるのでしょうか??」
このように本書では前者のようなより悲観的な見方で論旨が展開されていくわけですが、
管理人自身の観点からも後者の科学技術的楽観論にも目配せしながら
極端な立場(<超>悲観論・<超>楽観論を問わず)に偏りすぎない中庸の心で
本書をある種の<反面教師(教材)>として批評していこうと思います。
とはいえ、著者が後者のような見立てに対して警鐘を鳴らしておられる点は
管理人も昨今の一部のシンギュラリティー<超>楽観論者に対して
一抹の不安感を抱き始めつつあったことから同感できる理由もあり、
好意的評価を込めつつも、
著者の結論に至るまでの根幹に当たる背景思想はともかく、
その論理を展開されていく際における
より説得力を増させるための理数系的根拠に
危うさを感じたところもあったことから
今後の議論の行く末とその理論的補強材料を収集される姿勢には
関心と注意を払って見守っていこうと思っています。
(もっとも管理人自身も<理数系>分野における基礎的教養の脆弱さを
日々強く認識実感させられていますので偉そうなことを言える立場には
ありませんが・・・。社会人になってからあらためて一般教養としての
理数系素養を学び直している途上にありますので、
本書を読み進めていてより強く実感されたというに過ぎません。
他意はございません。)
ですから、これから開幕させて頂く書評記事内では
所々でかなり手厳しい批評もさせて頂くことになりますが、
あくまでも著者の研究成果や業績、これまでの社会への多大なご貢献に
敬意を表したうえでする書評であり、
営業妨害や誹謗中傷する意図で論旨展開するものではありませんので、
その点はあらかじめご容赦願います。
管理人の書評姿勢は、
あくまでも『書評とは、一読者の視座によって賛否両論様々な観点から
著者の論旨主張を解読していく過程で見出されてきた<批評的見立て>』であり、
読者の皆さんにもご紹介本によって世間へ投げかけられた問いかけを手がかりに
より深く突っ込んで考えて頂くヒントにして頂きたいと願う点にこそ主眼があります。
そうした文脈からも本書は今後とも一定の「話題書」たり得るものと確信しています。
このような問題意識から今回は少し硬派な批評となる予定ですが、
本書で展開された論旨を題材に皆さんにも従来の環境問題解決法が
見落としてきた盲点などをご検討し直して頂くことを通じて
その盲点を克服する視座を獲得するきっかけとして頂ければ
評者としては幸いであります。
自然資本経営論に物足りなく感じられた<エントロピー増大則>問題意識
それでは、いよいよ本書の要約ご紹介へと移らせて頂くことにします。
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・<はじめに>
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①『第1章 人間界、自然界、至るところに断絶を生む「経済学中心主義」』
※本章では、近現代経済学派の「主流」から
かつては真摯に議論もされていたという倫理学的視点が
今日では見事なまでに追放されてしまっている現状についての
批判的論旨が展開されています。
著者によると、倫理観が背景へと押しやられた
いわば「数式論理至上主義」に基づく<数理学的>経済論考が浸透し始めたのは
ケインズ経済学の論旨体系をより数理的に精緻化させることに
成功したと評価されているポール・サミュエルソンが再修正を施した
経済学大系からだといいます。
そして、経済学に限らず現代の学問が暗黙裏に前提とする世界観には
自然と人間の切断的二元志向の類型化が横たわっているといいます。
こうした安易な二元的世界観の「一般化」は今日
西洋社会に限らず、私たちの住まうこの東洋社会にも至る所に
浸透していますが、
よくありがちな批判と同様に
著者も西洋「文明」観が世界各地の「文化」体系を破壊してきたと
強調されています。
著者によると、
それぞれの定義に関して、
『「文化」は価値概念であり、「文明」は機能概念』(本書20頁)だと
いいます。
言い換えますと、現代社会は「文化」という価値観が一見すると
多様化してきており尊重されてきているように思い込まされてきましたが、
現実は西洋だけに限りませんが、制度的機能性により親しみやすい
ある特定の「文化」的価値概念が「文明」の名の下に
この地球上に一方的に押しつけられていった結果が
現在の荒廃状況をもたらした最大要因だということに尽きます。
このような批判は皆さんも普段から「<グローバリズム>弊害論」として
至るところで耳にされておられると思いますので、
特段目新しい論でもありません。
本章における著者の論旨の特異性は
それまでの鉱工業界でのご経歴から直接体験されてこられた
生の調査結果から提示される資源・エネルギーの有限性と
稀少性への問題意識が一般的にはあまりにも薄くなってきているのでは
ないかとの警告にあります。
<資源は、環境を破壊することなくして利用はできない>(本書34~35頁)の
箇所でも触れられていますが、
末端の消費者に至るまでの段階でこうした有限かつ稀少な
資源・エネルギーの「価値」そのものが取引「価格」に反映されることが
少なくなってきているということで、
この「価値」と「価格」の断絶問題について、
現代の「主流」派経済学があまりにも軽視・無視し過ぎている問題状況を
摘出されているところに一般消費者には薄々感づいてはいても
ついつい「出来るだけ安物を手に入れたい!!」との誘惑に勝てない弱点から
忘却されがちな重要点をあらためて気付かせてくれる点にも
一般啓蒙書としての価値を十分に果たし得ているものと評価します。
このあたりの「価値あるいは効用」と「価格」の断絶問題を経済学では
どのように論じてきたのかをここで詳しくご紹介してもいいのですが、
話が専門的になってしまい、一般向けの啓蒙的入門書の領域からも
離れてしまいますので、追って本記事末にご参考文献も掲げておきますので
ご興味ご関心がある方には是非一度は触れて頂きたく思います。
そのことによって、後ほど本記事でも項目をわけた箇所で語らせて頂く予定の論点
(著者が言うところの「最上流」にある<原材料>取引価格コストを
予め「最終末端」価格に織り込み反映させようと試みる
経済「外部性」の内在化問題。
例えばこうした問題を詳しく分析考察することで
地球温暖化問題を招来させる一大要因だと喧伝されてきた
二酸化炭素などの「排出権取引」ビジネスの裏側の真相も見えてきます。)などを
考えて頂く際にも何らかの手がかりとなってくれることでしょう。
ところで、「外部化(性)」と「内部化」という専門用語は
少しでも経済学や環境学といった一般教養に触れられたことがある方ならば
おわかりかと思いますが、
要するに一般経済市場における取引価格から
経済(効用)的価値のないマイナス部分が
経済市場「外」へと追い出され、一般消費者に提示される
「最終末端」価格には反映されることのない
経済的には無価値と評価される公害などの負の要素を
生み出す諸要因やその経済的費用を「外部化(性)」といいます。
この「外部」へと追い出された負のコストも織り込んだうえで
「最終末端」消費者へも価格転嫁し提示することを「内部化」といいます。
こうした「外部化」・「内部化」という専門用語を
正しく理解出来れば、いわゆる<地球に優しい>ロハス志向商品が
バカ高い理由も見えてきます。
つまりは、現状において自然生態環境への負の要素を経済価格に反映させた
こうしたある種の高級商品を購入できるのは
一部の「富裕層」だけに限られてしまう理由もここにあります。
もちろん、それだけ資源・エネルギーは有限であり稀少であるのが
本来の自然の姿なのですから、
現状の資本主義経済システムを続ける限りは
誘発されやすい「ムダ・ムリ・ムラ」を省くための
話題・きっかけづくりとしては合理的なわけです。
問題は「富裕層」ではないごくごく普通の「庶民層」にとっても
環境負荷が少なくお求めやすい価格設定がなされた商品が
より入手しやすくなれば「なおさら結構!!」ということなのですが・・・
逆に言えば、本来ならばそれだけ原価が高いはずの商品価格を
押し下げていくための無理な拡大連鎖体系としての
「大量生産・大量消費・大量廃棄」による「ムダ・ムリ・ムラ」が
これまでずっと推奨されてきたわけです。
しかも、おまけに「リサイクル」費用まで高く設定されていることから
少ないモノを使い回す循環型経済もなかなか生み出せない状況に
あるわけです。
さらに「リサイクルの方が何かと高くつく!!」などとの
屁理屈も数多くつけられているのですから、
一般消費者が「ほんまかいなぁ~」と疑ってみたところで
大勢に流されてしまうのがオチでしょう。
こうした現実が社会の大半を占める私たち一般の「庶民層」の眼前に
あるからこそ、漠然とした好感度に訴えかけるような<脱>成長論を
強調される段階のみで保留されても困るというわけです。
いずれにしましても、こうした従来の資本主義経済システムに内在する諸問題を
生み出してきた近現代「主流」派経済学者の思考体系に
重大な反省を促していこうと欲されているのが
著者の最大論旨かつ立ち位置だとまとめておきましょう。
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②『第2章 何がこの断絶という“不都合な現実”を生み出すのか』
※本章ではさらなる現代経済社会への批判が展開されるわけですが、
これまでも「反(脱)」経済成長論を説く数多くの環境保護論者が
指摘してきたような
<人口爆発と大都市化を止めなければ人類は生き残れない>
(本書63~66頁)だとか
<「科学技術の進歩がすべて解決してくれる」という”信仰”>
(本書70~72頁)だとか強調されるわけですが、
このような論理(特に前者)を極限までに推し進めていけば
皮肉にもこうした思想(環境<左翼>)的立場の論者であれば嫌悪されるであろう
いわゆる優生学的思想態度が復活していく土壌を生み出す要因ともなりかねないところや
後者は確かに科学技術に過度の期待を持つのも行き過ぎでしょうが、
いきなり「自然に還れ!!」などといった
あまりにもナイーブな発想にも辿り着きかねないところに
従来から管理人も疑義と懸念を大いに感じてきました。
そんなわけで本書で展開される論旨も心情倫理的には理解もできるのですが、
責任倫理的にはやはり一抹の不安と無責任さも感じさせられたのが
正直なところでした。
本章で肯定評価できる論考としては、
<資源採掘・採取で破壊される環境の価値は無視されてきた>
(本書68~70頁)がありました。
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③『第3章 非主流派経済学者、”非経済学者”らによるエコノミズム批判語録』
※「語録」の紹介から各論者の思想内容を語り出せば
煩瑣になりますので、ここでは省略させて頂くことをお許し願います。
詳細を知りたい方は本書該当箇所をそれぞれご参照下さいませ。
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④『第4章 文明の危機、人類は生き残れるのか?』
※本章でも各論者の見解をご紹介されながら
地球生命と環境との関係性について論旨が深められていきます。
いずれの論考でもこのままの現状で人類の生活志向に
大きな変化がなければとの仮定を立てての推論ですが、
自然生態環境と人類との間に何らかの<適応障害>がより一層強まっていけば
自発的な滅亡(本書106頁では<人類の”適応限界”で
「自己解体のプログラム」が発現する!?>などと表現)へと行き着きかねないと
ここでも警告されています。
また本章で肯定評価される点に、
これまた自然(地球に優しいロハス)志向の「環境派」の皆さんにとっては
あまり心地よくない現実の摘示ではありますが、
実は人類史にとって著しい「環境破壊」が始動し出すきっかけが
農業革命であったという事実を提示されたことにあります。
そのあたりの貴重な論考が
<デジール(欲望)が生まれたのは農耕が始まってから>(本書110~113頁)と
<「狩猟採集民は原始的で農耕・牧畜民は進歩的」との位置づけに異議>
(本書113~115頁)にて触れられています。
実際にも近年の研究成果ではそのような見方が
徐々に広まりつつあるように思われます。
また戦争史の観点からも農業は莫大なエネルギー源(例えば水利権など)が
必要となりますし、農業における生産効率(例えばトラクターなどの機械技術導入や
農耕法の革新など)が高まらないことには大量の人員を要しますから
その規模の経済性を拡大させていく過程で深刻な土地分配争いも
生起してきたりするなど様々な難点を必然的に抱え込んでしまうことにも
なります。
もっとも、「農耕牧畜悪玉論=狩猟採集善玉」論といった
単純な話ではないことも言うまでもないことですが・・・
あくまで歴史的分析の観点から「相対的」に見た場合の評価であり、
その評価自体も論者によって幅があることも当然の話ではあります。
そして、本書でもいよいよ人工知能問題と環境経済学との関連論考に
話題が及ぶのですが、
特に本章において斬新な話題を提供してくれている論考として
<生物学的な地球規模の転換点も2045年?>(本書121~124頁)が
あります。
この論考の大本の根拠には前にもご紹介させて頂いたことのある
アメリカの社会生物学者であるエドワード・O・ウィルソン氏や
イギリスの科学雑誌『ネイチャー』(2012年6月7日号掲載の
研究レビュー論考が出典)の知見があるようですが、
ある一定の「臨界点」を超えた自然生態系の破壊がこのまま続くと
間違いなく人類の生存にとって致命的事態を招くことだけは確かだと
いうことです。
「では、そのような致命的事態を回避もしくは遅らせるには
どないすればいいのでしょうか?」
その問いへの著者からの暫定的回答が次章で披露されることになります。
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⑤『第5章 適応から本来へ向けた”逆ビジョン”』
※本章でようやく著者の提唱される<自然資本経営>の概略エッセンスが
紹介されていきます。
管理人自身の本書ご紹介に至る冒頭イントロ箇所でも
少し疑問点を先に提出しておきましたが、
自然「資本」という概念にそもそも自己矛盾が潜んでいるのではという論点が
ありました。
著者もその違和感は感受されておられる(本書127頁ご参照のこと)ようで
少しは安堵感を得ましたが、
この「資本」という概念を天然資源などの自然に拡張適用していけばいくほど
かえって「資本」の論理に巻き込まれていくことだけは間違いないところでしょう。
巻き込む側の「資本」とはもちろん主に「金融」資本の論理に当たるわけですが、
「金融」資本の場合はまさしく「自己増殖化」する無限の志向性を持つ一方で
「自然」資本の場合にはそれとは正反対にむしろ有限という制約条件がかかるわけで
「自己増殖」し得る性格にはないからですね。
そもそも著者は現行「資本」主義経済システムの「枠内」で
従来の「主流」派経済学の底流にある背景思想を撃つことで
諸悪の根元を摘出されようとしているわけで、
そもそも論として、その「資本」主義外に出る意図をもった
代替経済学を志向されているようには見受けられないのです。
もしも著者のお立場が「資本」主義経済システムが有する論理的枠組みを
文字通り「越境」される志向性を有しておられる(例えば、
「社会」主義や「共産」主義などの異なるパラダイムに基づく
代替的経済学志向)のでしたら、また別の批評も可能になるのですが・・・
とはいえ、このような優れた問題意識を共有されておられる
著者においてですら本書129頁にて
一般的な「資本」主義の「枠内」から飛び出すわけではなく
(なぜなら、著者自身による「資本」の定義が
もう1つ本書からは読み解きにくい一要因をなしているとともに
<自然>も「資本」という概念の「枠内」に組み込むことを
大前提として論じられているからです。<本書127頁ご参照>
著者自身による「資本」の定義をもう少し詳細に語って頂ければ
管理人自身による誤解も解ける導きの手ともなり得たのですが、
いきなり自然「資本」ときて、その自然「資本」そのものの定義から
論じ始められたので何かもどかしさを感じたわけです。)、
あくまでも「金融」資本主義の論理からの脱却点を探ることが本旨であり、
『現実の経済・社会システムをすべて肯定しながら自然資本経営を
しようということではないのです。それは不可能です。
パラダイム・シフト<管理人注:現行の(金融)資本主義経済的価値観の
「枠内(=パラダイム)」の外部へと越境する心を持ち、
皆でその新たな価値観を共有し合う転換(=シフト)イメージを
想起してみて下さい。>が必要なのです。』と強調はされています。
そのうえで、『「脱成長」こそ自然資本経営の目的です。』(本書130頁)と
力強く強調されるわけですが・・・
とはいえ、ここでハタと立ち止まることになったのです。
少なくとも「成長」の内実をもう少し丁寧に補強説明して頂かないと
現状でもこの「<脱>~」が至るところで濫用され蔓延っていることに由来する
数多くの弊害が見られるわけですから、管理人自身もそうですが
多くの読者さんにとりましても十二分には得心して頂けないように
思われるのです。
<脱>成長論者の方がお好きな言葉に「くたばれ、GDP!!」なる
標語がありますが、かりに数値化可能なGDP表記をやめたとして
それこそ目に見えない「自然」資本をどのように位置づければ
経済指標として明確になるのでしょうか?
いつも疑問や違和感を抱かされることになるのは
こうした<脱>成長論を強く提唱されるからには
その核心部に当たるはずのあらたな経済指標の設定方法に関する
具体的説明にしばしば物足りなさを感じさせられるからですね。
よく例に出されるブータンで採用されているようなGNH(国民総幸福量)と言われても
文化的価値観(基準)は各文化的経済圏で大きな相違点が出てくるわけですから、
どこまでも「主観的」な印象だけが残り、
ある程度の価値観を共有し得る圏内交易でなら
共通了解は出来ても
圏外交易となるとかなりの摩擦も生じ得ることが強く予想されることも
そうした理由の1つです。
「内需」だけで完全に「自己完結可能な」羨ましすぎる
経済条件下にある国であれば、
そのような経済指標でもこのような問題を軽度に押さえ込むことも
出来るかもしれませんが、こうした代替的経済指標を示された
経済学者の論考を拝見させて頂いても
現代の「開放(グローバリズム)型」経済体制下では
あまりピンと来るような説得力ある話題とは感じられないこともあります。
もっとも日本という先進国に住まう管理人が
ある種の経済的価値観に「洗脳」されているだけだとするなら、
その「洗脳」が解けるように努力すれば済む話ですが・・・
どこの国にも共通する100%完璧な経済思想も指標もないですし、
経済観を完全に統一させることなどおよそ不可能なわけですから、
あまり無理な設定を求めすぎない視点も重要だと思われるのです。
地球上の全「自然」資本を国際的な協定でもって共同管理するという方法も
よく持ち出される見解ですが、この問題以外の事例でも
あまり有効に機能しているとは言い難い現状にあるわけですから、
過度な楽観視は禁物でありましょう。
あとは冒頭でも触れさせて頂きました<エントロピー増大則>が
なぜ海洋資源開発だけには当てはまらず過小評価されているように
見受けられるのかという問題や
資源・エネルギーの分散化・多角化を目指すことで、
各資源・エネルギー次元で見た単位あたりのエントロピー量は
減少させ得るかもしれませんが、地球生態環境「全体」で見た場合には
むしろ増加するといった難問を引き起こさないのかという
重要な問いも残されています。
(もっとも言わずもがなですが、現在の国際情勢を大前提とすると、
資源・エネルギー「小国」<著者は、『日本は世界有数の自然資本大国:
本書156~160頁』だとされていますが、管理人にはそこまでの
過大評価はかえって油断と危機を招き寄せる要因ともなるため
様々な理由から理論的根拠の脆弱さを感じています。
このことは、著者に限らずいわゆる「再生可能」エネルギーに
過大な期待を寄せるきわめて危うい論理をもって
主張される論者にも共通して言えることで、
そもそも「再生可能」という言葉自体が「エントロピー増大則」に
反しているからして詐欺的レトリックに思われるからです。
つまり、一般の方を誤誘導(ミスリード)する危険性が
きわめて高い可能性があるということです。>である我が国の場合には
少しでも資源・エネルギー安全保障の確実性を高めるために
海洋資源に対する探査・開発を進めていく姿勢そのものを否定するものでは
ありません。
とはいえ、昨今の分析結果などを総合的に評価判断してみると、
一時期ほどメタンハイドレードなどに過度な期待を寄せられるような
状況ではなくなってきているそうです。
それ以外にも代替資源をいかに安全に調達していくべきか
なお検討課題も残されているという点をご指摘させて頂くにとどめておきます。
こうした議論の一方で、
著者も『日本は世界一の輸入資源依存国:本書146~149頁』と題する論考で
経済安全保障の観点からみても不安材料が残されているという点は
きちんとご指摘されており、
そうした観点からの志向性も同時にお持ちであることは
管理人も肯定評価をもって読ませて頂きましたが・・・
それでもなお問題が残るという志向性から本書評を綴らせて頂いています。)
どうも管理人には「ミクロ」次元と「マクロ」次元における
問題設定を混同されているように感じられて、
著者が批判されてもいる「新自由主義」や「新古典派」の問題意識とも
あまり代わり映えしないように思われるのですが・・・
次の別立て項目でもさらに深くその責任を追及しますが、
環境問題の解決方法に
「(新自由主義=新古典派志向を含ませた)ミクロ」的経済手法を導入することで
環境問題そのものが本来の問題解決の意図から大きく外れていく
好ましからざる方向へと「ビジネス化」されてきており、
かえって問題解決から遠ざかっていくというような由々しき問題も
多々見受けられます。
(例えば、「排出権取引」に絡む京都議定書問題など)
(管理人注:「ミクロ」経済学そのものは
必ずしも上記新自由主義や新古典派型に引き寄せられた
経済学的分析手法ではありませんので、
その点は経済学を学ばれている方にも注意を喚起しておきましょう。
あくまでもどんな学問=学派でもそうですが、
学んでいかれるうえで最大限に注意を払っておかなくてはならない点は、
議論における「一般化」と「特殊化」の厳密な区別であり、
その混同がしばしば見受けられることがありますので、
管理人もそうですが、読者の皆さんにもこれまで以上に
マスコミなどに出演されている識者などの議論を思慮深く
ご検討して頂くようにお願い申し上げます。)
ここでも「合成の誤謬(ミクロ次元では正しくてもマクロ次元では
間違ってしまうという諸現象の総体のこと)」が起きているようですね。
さらに、<「労働生産性」の重視から「資源生産性」の重視へ>
(本書142~145頁)という問題意識もある程度までは共有理解も出来ますが、
ただ単純に前者を敵視する見方でよいのか、
むしろ「労働」生産性を改善することを通じて
「資源」生産性を重視することも叶うという<一挙両得>に導く
解決方法もあるのではないか(つまり、必ずしも二項対立化させて
論じる必要もないのではという問題意識です。)という観点から
管理人自身には違和感も残された論旨展開だったのでした。
とはいえ最近は、この「生産性」という言葉も
様々な論者によって論じられてはいますが、
管理人がいつも思いますのは、
<人間>の場合には必ずこの「生産性」に
一定の限界(肉体的・精神的歯止め)が伴うという問題意識が
多くの論者には本質的に欠けているのではないかという素朴な疑問であります。
<人間>による「生産性」を極限にまで追求していった結果こそが
大量の鬱病患者や過労死者を地獄へと導いていったのではないかと。
激しい憤りを感じるのです。
管理人自身も前者をすでに経験済みですから、
「生産性」論者が主張される際の背景にある真の意図に対しては
常に警戒心を持ちながらも、
その「生産性」が意味する具体的内容とそれを素直に鵜呑みにしていくことで
帰結されていく諸問題などを慎重に踏まえつつ、
その長所・短所に目を光らせながらその論旨を聴くことにしています。
ですから、バブル時代に流行ったCMのように
『24時間戦えますか~ ビジネスマン~ ビジネスマン~♪♪』なるものに
当時小学生だった管理人も
『こいつら、アホちゃうか!!』
『大人って案外、<もの>を考えてないんやね・・・』
『特に自分のような言葉を真に受けやすく、生真面目過ぎる
どちらかといえば勤勉派・勤労派に親しみやすい性格の者は
将来大人になって社会に出た時には最大限警戒せなあかんなぁ~』
『絶対にこの考えでいくと、
<パシリ(若者隠語表現)=使い走り=労働機械=誰かの出世の踏み台道具>に
されるやろから・・・』などと子供心に思ったことを昨日のように思い出します。
その想いは今も変わりありません。
そして決して間違ってもいませんでした。
とはいえ、本日もムダな「残業」へと追いやられていたわけですが・・・
「金融」資本主義経済社会では、交際(通)費やら学習費やら何から何まで
「お金」がどうしても入用ですから仕方なく従わざるを得ません。
こうした「生きた」お金は、人生の「道」を
何としてでも自分の力で切り開くためには絶対に欠かせませんからね。
『これじゃ、社会人の学び直し(リカレント)教育とやらも
夢のまた夢やわ~、まさに浪速のことは夢のまた夢(太閤秀吉)でんがな・・・
(つまり、大都市(首都)圏の大阪(関西)中心(周縁)部でも
この程度なんだということです。
もっとも、公平を期して業種やその労働者の働き方によって
実感が異なることは言うまでもありませんが・・・)』
『そもそも<生産性>の高い仕事を心がけ実際に一定の成果を出している
にもかかわらず、なぜ<時間単価>が上がらないのか??』
『<時間単価>の据え置きをする派遣会社許せん!!
(ほんの20円ほどは<アベノミクス>の法制度的人為効果で
上げてもろたけど、市場経済を人為的にどこまで制御仕切れるかは
未知数だし、そもそも本当は不可能なのかもしれんからなぁ~、トホホ・・・)』
『時短労働の理想よ、お前はいずこへ・・・』
もっとも、このような姿勢で真面目に真摯に日々の仕事に
取り組んできましたから、「正社員」の方もそれ以上強く出ることが出来ずに
たいていの提案は通りやすく仕事もやりやすい状態になってきており、
好ましい変化も生じてきているのですが、
管理人ならずとも「非」正規労働者の交渉力もやり方次第で強くなるということを
是非とも読者の皆さんにも知って頂き、実際に試して頂きたいのです。
「ミクロ」だけにも限界があるからこそ、「マクロ」の力が必要。
かといって、「マクロ」の力だけに頼りすぎることも
時代の変化次第でどうにでもなってしまうので要警戒。
まずは、「ミクロ(現場)」からの意識改革をしなくては、
<働き方改革>も夢のまた夢に成り果てるだけですから・・・
そのためには、労働法などの基礎的な法的知識や交渉トレーニングも必要でしょう。
(なお、管理人は書評ブログという性格上から、
皆さん各人各様の政治的立場を尊重する者ですので、
特定の政治的立場を強要するものではありませんが、
ご参考程度までに従来の偏りすぎた政治的労働運動に違和感を感じられてきた
特に「保守的感情」をお持ちの方向けにはなりますが、
各種労働法や交渉方法に関してご参考になるかと思われる
サイトもあわせてご紹介しておきますね。
『労使(資)協調』の<愛と調和>の観点からの労働交渉方法などが
紹介されています。)
いずれにせよ、目下の大激動にして大国難の時代には
「(小異を捨てて)大同団結!!」という立場を超えた歩み寄りが
きわめて大切な姿勢となりましょう。
「皆さん、このような厳しい時代ですが、
決して自暴自棄なされることなくお互いに情報交換しながら
相互協力していきましょう!!」
皆さんもしっかり自信を持って自分を守ってやって下さい。
今の時代、何事も人任せに出来るような甘い時代ではありませんから・・・
「自分の身は出来るだけ自分で何としてでも守りきろう!!」であります。
そのための知恵とヒントをこれからも管理人の学び得た範囲で
「生業(なりわい)」課外に
皆さんへも精一杯ご還元させて頂きますので末永く何卒ご愛顧願います。
ですから、もちろん「生産性」論者全員に当てはまる批判ではありませんが、
じっくりとその論者の真の意図を掴むようにしながら
この種の「生産性」論争を眺めることにしています。
そういった過酷な状況を改善させるためにこそ、
現在、<働き方改革>だとか人工知能などの科学技術を導入することによる
<協働型社会>の実現を目指した政策を普及させようとしてきたのでは
なかったのか・・・などと語り綴っているうちに
またもや最近の国会審議のあり方を観察していると
まったく議論の大前提となるところで整合性がなく、
共通理解が得られていないのかなぁ~と強く感じられるのです。
というのも議論の大前提となるデータ自体に根本的な不適切さがあったり、
そもそもどのような政治的文脈から現在の裁量労働制の拡大問題へと
発展していったのかとその政治的責任を歴史的にも深く追及していくと、
もちろん現政権による拙速な法案成立へ向けた姿勢も厳しく問われましょうが、
過去の与党や現在の野党の方々にも政権を担っていた時期があったのですから、
もはやこれは一政権だけを責任追及すれば済むような軽い問題ではないということです。
相当根深い問題だということです。
しかも、マスコミなどを通じてはあまり大々的には公表されてきた
話題ではありませんが、
「第三国」からの要望もこの背景にはあるとも
巷間様々な識者から語り継がれてきました。
我が国の<民族自決(独立)権>にも深く関わることです。
前回の<紀行文>末尾でも触れましたように
『過ちては改めるに憚ることなかれ』(論語)を大前提に
法案成立を拙速に進めるよりも、
もう一度原点に立ち返ってあらためて検証し直すところから
始めるべきだと思われます。
さもないと、現政権も支持率を大幅に下落させることになりましょう。
「傲慢と油断は<つまづきの石>となり得ますから。」
こんな状況を見せつけられたら、政治への不信感もますます募り
また現役世代や次世代の若者の未来にも深い禍根が残されるだけに
どうか慎重に審議されることをお願い申し上げます。
以上は余談でした。
しかしながら、<労働生産性>の話題は
本書でも主要テーマの1つでもありましたから、
この場で管理人自身の実際の体験談も踏まえながら
語らせて頂いたことはご寛恕願います。
閑話休題。
そうしたぼやきはともかくとしましても、
このように本書で提唱されるような代替経済学の構築を目指すにせよ、
限りない地球上の天然資源・エネルギー
(それを自然「資本」と表現するかどうかはともかく)を
何らかの形で平等ではなく(なぜなら完全な平等など困難で事実上不可能
ですから)「公平」に分配する論理を用意しておく必要度は変わりません。
そうした「公平」の観点から著者がご提案されているのが
次章の「西瓜縦割り理論」(Melon Slice Theory)であります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
⑥『第6章 世界への提案「西瓜縦割り理論」(Melon Slice Theory)』
※本章では、従来の資源配分を巡っての「東西」問題を
「南北」重視の経済圏構想(本書174頁ご参照のこと)へ
思い切って大転換してみようとする発想としての
上記「西瓜縦割り理論」(Melon Slice Theory)の骨子が紹介されています。
この発想へ転換するメリットとしては、
資源調達(環境)コストが削減されることなどがあるそうですが、
「東西」がすでに枯渇気味だとしても「南北」に切り換えても
一時的にはかなりの「改善」も見られるでしょうが、
時間が経つにつれて、
いずれはこちら側(=「南北」側)も「飽和」状態に陥る時期が
訪れることだけは
ほぼ確実な事実ではなかろうかという難点が
管理人自身の心に引っ掛かる問題として残されました。
「問題は残された時間だけ・・・」という地球上の制約条件だけは
いずれにせよ変わらないでしょうから・・・
つまり、「東西」から「南北」へと従来の視点を切り替える発想で
限られた資源・エネルギーの争奪合戦は
ある程度までは抑制され得たとしても
最終課題は相変わらずに残されているということです。
それが、今回も何度も強調させて頂いてきた
<エントロピー増大則>問題であります。
何はともあれ、人類がこの地球上で生存し続けるためには
エントロピー量を減少させていく努力だけは積み重ねていかなくてはなりません。
言い換えますれば、この<エントロピー増大則>問題を
無事に解決し得た時こそが、
まさしく人類にとっての「ユートピア」となるわけですが・・・
現在までの科学的知見のレベルからすると、
その解題そのものがかなりの難問であるという限界に
ぶち当たっているのが人類の現況であります。
とはいえ、地球生態系が完全破壊されるまで待つわけにはいきませんし、
現生人類さえ生き延びることが叶えば「それでよし!!」では
あまりにも無責任な態度でしょう。
そうした倫理的問題意識では著者同様に
管理人もまた黙認することが出来ません。
だからこそ、本書を取り上げさせて頂いたわけなのです。
それでは、一度「欲望」に目覚めてしまった人類には
そうした倫理的抑制を依頼することが果たして簡単なことなのでしょうか?
簡単でないことくらいは、管理人自身も日々実感していること
(管理人も生きているうえで日々この地球上で数々の倫理的罪責を
負っていますので・・・)ですから、
あまり楽観視は出来ませんが、
<エントロピー増大則>を逃れる手段としては
やはり経済規模(成長度合)を縮小させる他ないのでしょうか?
<成長の限界>と言われても、その成長の内実をどう定義づけ、
変化の方向性を指し示していくかで大きくイメージも変わってくるわけですから、
もう少し慎重にご提案頂かないと移行期に当たっても
ただ大混乱をこの世界に巻き起こす起爆剤になるかもしれませんよ・・・
ということを言いたかったわけです。
つまり、経済<成長>を論じるに当たって留意すべき点だと
管理人が考える要点とは、
その局面毎にその視点(問題解決の糸口)を柔軟に切り換える必要があると
いうことに尽きます。
・景気「上昇」局面
・景気「下降」局面
・景気「定(<恒常>ではなく)状(常ではなく<状態>のこと)」局面
(=「上昇」局面と「下降」局面の<はざま>にある景況領域)
少なくともこの3局面を見据えながら
それぞれの局面において最適切な経済政策を打つ必要があるということ。
そして、そもそもがこの世は常に移りゆく「諸行無常」の法則の下で
絶えず揺れ動いているわけですから、
永遠に<成長>をし続ける理もなければ、
これ以上まったく<成長>し得ることはないといった理も
存在しないということを絶えず忘れないことが大切な視点となります。
「なぜヒトはわかりやすい<白黒思考>を好むのか?」
この命題も管理人の研究課題ですが、
この世は「単純かつ複雑」な<はざま>にこそ
問題を解くヒントがたくさん潜んでいるということを
あらためて確認させて頂いたところで
本書評を終えることにいたします。
今回はこのようにかなり手厳しい批評となってしまいましたが、
ただ単に管理人の想像力が足りないだけの問題であれば
「杞憂」に終わる<小事=易問>で済むわけですが・・・
「杞憂」ではない<大事=難問>だとすれば・・・
そのあたりは、管理人自身も著者のご提起された問題意識を共有しながらも
さらなる最善策を目指してその糸口だけでも見出せるように
自己研鑽を積み重ねながら、
またより良き案に遭遇しましたらば、
書評内でも暫定的試案(論)などを公表させて頂く予定でいます。
また、「GDP(経済指標問題)の改善案」や「生産性問題」なども
追々じっくりと慎重に考察を皆さんとともに深めていきたいと思います。
「ゆっくりと進むものは確実に進む・・・」を信じて。
いずれにしましても、今後の経済学モデルの設計には
理系的視点が是が非でも欠かせないということだけは確かです。
このあたり文系の管理人には弱点かつ盲点となる領域でもありますので、
もし理系の読者様の中で奇特な方がおられましたらば、
どうかご遠慮なくコメント欄などを通じてご教示願えれば幸いです。
「いずれにせよ、現在の科学的知見の下では、人類誰しもが
<エントロピー増大則>問題からは逃れられない!!」ということに尽きます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・<おわりに>
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貨幣進化論の視点も加味させた新たな環境経済学モデルをつくってみよう!!~環境ビジネス化していく一方の現代ミクロ経済学に潜む環境問題解決手法批判序説~
それでは、今月も書評公開投稿までの時間も残り僅かとなってきていますので
最後は是非触れておきたい骨子(大まかな暫定私見)のみにとどめおきながら、
詳細については追々少しずつ別途関連書ご紹介の際にでも語らせて頂くということで
小走りさせて頂くことにします。
それでは、先に予告しておきました
『「ミクロ」経済学の環境ビジネス化問題』を斬ります。
その話題に触れる際の細かな事例問題に触れ出すと煩瑣になり
キリもありませんから、
先の「排出権取引」問題に絞って分析考察してみましょう。
この「排出権取引」問題は日本でも特に2000年代初頭に
話題となった事例であります。
いわゆる「京都議定書」ですが、
ここで提案された当初の思想や理念が大幅に後退させられていったことは
今や定評になりつつあるところは皆さんもご存じでしょう。
この考え自体は、昨今の環境経済学や<法と経済学>のアイディアに
範を借りながら、モデル化していったものだと言われます。
その発想自体の背景にある考え自体は、
本記事末尾でご紹介させて頂く各種文献をご参考にして頂きたいのですが、
基本的な考えは、
「環境にとって負荷の少ない<善い>取り組みには、
その取り組みを一層前進させるための誘因(インセンティブ)を
与えるために政策面で有利な配慮をしましょう。
(例えば、税制面では「減税」あるいは「補助金」を支給するなど。)」です。
逆は、その反対方向へと誘導することになります。
ところが、現実(世俗的政経動向)の場面では
まったくこのような理想型の方向には働いてこなかったのです。
「排出権取引」の場合であれば、本来ならば
二酸化炭素削減に努力し、実際にも成果を出した事業者に
優先的な「枠」を与えるものですから、
この<排出権>取引という言葉だけでイメージすれば、
努力すればするほど排出「量」をあたかも増やせるかのように
イメージされがちですが、
もちろんそのようなイメージが想定されたものとは違います。
もし、そのような「量」を増やすことを容認させるような取引内容であれば、
こうした制度自体が環境問題解決の手段としては不適切になるからですね。
とはいえ、実際上の様々な理由や制約条件から
後進国・発展途上国(今は政治的に正しいとされる??<PC=
ポリティカル・コレクトネス言語>では新興国でしょうか?)や
中小零細企業にはある程度の「抜け道」を用意する例外的措置はまだしも、
一番容易に取り組めるはずの資金面や資本力でも有利な状況にある
某大国が消極的な姿勢をとるなどしてほとんど形骸化しつつある状況に
あります。
もっとも、そもそも論として本当に二酸化炭素削減の取り組み自体が
地球温暖化防止に役立つのか、
また二酸化炭素そのものがその原因を作り出した「真犯人」なのかは
定かではないという説もあり、
地球温暖化自体への解釈自体も乱立している状況からして
真に効果的な制度なのかどうかには慎重になる必要もあるようです。
寒冷化説もありますし、
これも「ミクロ」(短期的)に見るか、「マクロ」(中長期的)に見るかで
大きくその判断・解釈も変わってくる要素がある難問だからです。
とはいえ、二酸化炭素の地球生態系への役割やその影響力、
環境への負荷度数はともかく、
いずれにせよ<エントロピー増大則>を
人類が遵守しなくてはならないことだけは確かです。
話は戻りますが、現実にはこの「排出権」がカネになる木だとして
ビジネス論理が忍び込み、本来の「排出権」取引が想定していた理想像とは
著しく異なり、努力した分だけむしろ損させられるような状況へと
追い込まれていったわけです。
それが、これまでの現実の政治経済的推移でした。
つまり、この「排出権」取引の実態が債務を世界に遍在する低所得者層へと
押しつけられることになったサブプライムローンと同じような
論理的構造となってしまっているということですね。
「債務の証券化」
その各種金融商品化手法の総称を指して、
一般にはデリバティヴ取引と言ったりもしますが、
このことがどうやら
この「排出権」取引の「裏側」では起きているようなのです。
このことは私たちが住まう「表側」へ向けられた宣伝文句とは
あまりにもかけ離れています。
こうした「表側」の論理・「裏側」の論理と例えると、
何だか<陰謀論的論理>のように見えてきますが、
そうではありません。
実際に公開報道された情報などと今日まで実際に推移してきた
政経動向を比較分析していくと誰にでも見えてくる明瞭な事実だからです。
こうして特に「排出権」取引に絞って批評してみても、
そもそも取引を正当化させる「信用」問題にも話題が進展していくことになります。
経済問題、
とりわけ現代「資本」主義経済における最大テーマこそが、
「信用」にまつわる諸問題であります。
この「信用」とは、私たち一般人が日常的に使用する
例えば、「人間関係は信用第一!!」などといった文脈で
言及される<信用>とは異なるものであり、イメージされるものです。
経済学的な「信用」の定義も様々にあるようですが、
特に「金融」資本主義経済下では
「いかに借り入れる能力を高めるか」
裏から言えば、
「いかに貸し出す能力(与信力あるいは信用創造能力)を高めるか」という話に
集約されていきます。
さて、現在の「金融」資本主義経済が大前提とする
経済観や資本(貨幣)観を続ける限り、
この「信用」は実態経済の「実力」とはかけ離れたものとなりやすく、
後ほどほんの少しだけ今後の素描として触れさせて頂きますが、
最近でも進化型マネーとして
もてはやされてきたビットコインにも象徴されるように
本来の「実力=実態経済」を担保とせずに、
ただマネーだけを増殖させる方向へと誘導する刺激(貨幣偏愛嗜好)力が働くと、
バブル現象が起きやすくなったり、不正取引の温床にもなったりします。
ビットコインについては管理人も専門外であり、
不勉強なため、
もちろん安心し得るような材料を持ち合わせていませんので、
その取引=投資=投機??などにはもちろん関与した経験がありませんから、
巷間伝えられてくる情報を基に推測するしかないのですが、
各種専門家で比較的信頼のおける先生方によると、
現時点ではまだまだ「ブロックチェーン」の信用力担保や
安全面などの点に改善性の余地が多々あるとのことです。
また、「先行利益」が大きすぎるなど
取引面での公平性の点でも問題を抱えているそうです。
これらの諸問題点もいずれ改善されていくでしょうから、
ごくごく自信のない一般の方であれば、
今はただただ静観しておくのが一番の賢者の姿勢なのでしょう。
きっと・・・。
(※当サイトはあくまで書評サイトである性格上、
投資をご推奨することなどあり得ません。
投資される方は、あくまで自己責任の下で
十二分に注意を払われたうえで行って下さい。
法律上の問題などについては、
それぞれの各種専門家にお問い合わせ下さいませ。
また、特に実際に「詐欺」被害などに遭われた方は
被害が小さいうちに
すみやかに最寄りの警察や司法関連機関にご相談されることを
お薦めいたします。
「相談が遅くなればなるほど、ご自身はもちろんのこと、
第三者にも被害が拡大していくのが、
この種のマルチ(拡大連鎖)型消費者取引の実態傾向ですので
是非その点を十二分にご自覚されますよう・・・」)
さて、本題へと戻ります。
「資本」主義経済を持続的かつ安定性ある方向へと
成長というよりも成「熟」させてゆくには、
その根幹を成り立たせている「信用」をいかに担保させ得るかが
厳しく問われます。
目下の「資本」主義経済とは、
ほぼ「金融」資本主義と同義である状況になってしまっていますが、
「金融」面から言い換えれば、
それはまさしく「貨幣(お金)」の価値において
どこまで「信用」が担保されているかということでもあります。
それは繰り返しになりますが、
「実体(需)」経済と「仮想(バーチャル・マネー)」経済との間における
それぞれの「信用」力が密接に連動しながら正確に機能しているか、
つまり、その間において大幅な「信用」力が乖離していないか否かが
「資本」主義経済が正常に機能しているか否かの
きわめて重要な指標となるということに尽きます。
そこで、今回の主題が<環境経済学>でありますから、
環境問題解決手段としてこれまで提示されてきた
「ミクロ」経済学的手法に対する評価ということになりますが、
すでに何度も強調させて頂いてきましたように
今やこの手法が目指してきた本来の理念を離れて、
環境「ビジネス」の一手法となり下がってしまっているのが
悲しくも現状であります。
それでは、現在の環境問題解決手段としての「ミクロ」的解決手法の
どこに決定的な問題点が潜んでいたのか?
その点の正解例をここで安易に示すことは出来ませんが、
1つだけ根本的に言えるだろうことは、
計算的裏付け作業の背後に潜む思想性の視点が
実はもっとも重要な方向性を決定していたにもかかわらず、
そこが数字上の「操作性」のみに偏りすぎてしまってきたがゆえに
恣意性が入り込む余地があったということになります。
数理的手法を人間社会という実際の現場で扱う際の注意点であります。
特に<社会科学>分野において数理的処理をもって
問題解決アプローチを図る際には忘れてはいけない視点となります。
著者自身は、
『筆者は計量経済学など経済学から追放すべきだ・・・』(本書103頁)と
おっしゃっていましたが、
管理人は必ずしも計量(数理)経済学の価値を過小評価する者ではありません。
もっとも過大評価もいたしませんが・・・
あくまで1つの道具立て(分析的手法)として
その背景にある思想性(価値観)を「正しく」見据えうたうえで
思慮深い姿勢で扱えば役立つものと信じています。
(ちなみに、このような意識をもってこの難題に取り組んでいる途上に
崔真淑<さいますみ>さんという優秀な女性コンサルタントの方が
これから計量(数理)経済学を学ぶ際に留意すべき点などを
語られているブログにも出会いましたので、
管理人の問題意識とも共感共鳴したということで
感謝の念も込めて、この場でご紹介しておきますね。)
この問題は今後も数理的問題の中でも
道具立てとして使用されてきた「方程式」の背後には
実は客観的な数値化可能性以前に何らかの主観的な暗黙の思想的前提が
置かれていることに深く気付くこと(このことは前回記事では
軽く流してしまった重要問題ですが・・・)が
今後の数理的解決手法の「人間化」への意識とともに
より関心が高まっていくものと考えています。
こうした難問も今後書評記事内で扱っていきたいと思いますが、
何はともあれこの論点を常に意識付けしながら
数理的モデルを構築していくことが
人類の未来の方向性を決定付けてしまうという程
最重要な視点だということを指摘しておきます。
そうした問題意識を念頭に
現在の環境経済学が採用している数理的問題解決手法を
再検討し直すとともに、
是非これからこの分野を目指す優秀な若者の皆さんには
この現状に代替させ得るに足るあらたな環境経済学モデルを
創造していって頂きたく願います。
『学問とはまずはモデルを創ってみること』
これは管理人の敬愛する小室直樹博士の遺言でありますが
このモデルが実際の現場で正常に機能するかどうかを
検証することが実は一番重要な作業だとのことです。
また、『社会科学を安易に実験対象にすることは危険だ!!
特に経済学のような場合には、本当に生身の人間が死んでしまうことも
ある!!』ということも生前に口を酸っぱくして言及されていた
ことです。
そうした問題意識を持つことで
『学問のイデオロギー(硬直)化を防ぎ、学問と
<政治的>価値意識(つまりは、人為的恣意性が入り込む余地のこと)の
あいだにおける混同を可能なかぎり抑制・軽減することにも直結する!!
(もっとも社会科学という性格上から完全には価値意識を排除することなど
不可能ですが・・・<マックス・ヴェーバー著『職業としての学問』などを
ご参照のこと。>)』ということが
小室博士が生前に残された膨大な研究成果あるいはその学問的教訓の
骨子だと少なくとも管理人は理解させて頂いています。
それでは、最後に今後ますます進展していくことが予想される
貨幣進化論とともに環境問題解決手法としての
数理的アプローチの方向性・予想像を近刊書を入門的手引きとしながら、
管理人が感じていたことをあくまで暫定的見解だということにご留意頂きながら、
少しだけフォローしてみることにしましょう。
そのご著書とは、
『新しい時代のお金の教科書』
(山口揚平著、ちくまプリマー新書、2017年初版第1刷)で
あります。
とはいっても、貨幣進化は現在進行形の経済現象でありますし、
この本で描かれているイメージ図もかなり先の未来を見越した
著者なりの暫定的試論にしかすぎませんので
最終的に的を得たものかどうかは現段階では評価しにくいことですが、
最近の若手事業家兼思想家かつ実際にこの最新分野をご研究されており、
大学院修士論文としても発表、教育者としてのご活動もされているなど
真摯な姿勢で学問と実業の世界で取り組んでおられる方だと
お見受けしましたので、その姿勢を信頼させて頂いたうえで
上記ご著書を素材に少し私見を語ってみますね。
具体的な解説は上掲書を是非ご一読願いたいのですが、
山口氏によれば、
今後の経済社会像は、貨幣(お金)の進化とともに
以下のように進展していくだろうと予想されています。
・現在の「資本」経済(お金<間接>+生存<モノ>)が
それぞれ①「時間」経済(お金<間接>+承認<コト>)と
②「記帳」経済(信用<直接>+生存<モノ>)へと分岐的進化を
遂げていくとともに、
最終的にはこの①と②が結合して
「信用」経済(信用<直接>+承認<コト>)へと
「統合」発展していくとの見立て(上掲書137頁図表を
ご参照のこと。)をされています。
今回の管理人が主題とさせて頂いてきた環境経済学における
問題解決アプローチの中心論点にも「信用」を位置づけています。
この「信用」が現在の「資本」経済においては、
あまりにも人為的恣意操作が入り込んだ数値化(見える化)として
公表されてきたために「実体」経済面における「信用」力との間で
大幅な齟齬を来たし、「バブル」現象や「投機」現象を繰り返し
生起させながら、世界に「ムダ・ムリ・ムラ」のエントロピー
(環境への負荷(<付加>ではなく)価値情報)をまき散らしてきた
最大要因だということでした。
その背景には、現行会計・法律制度の不備・欠陥や
取引の透明性を担保するために必要不可欠となる諸制度が
未整備だという最大の難点も潜んでいたことも見えてきました。
そのような状況を貨幣進化面でも改善させていく方向で
大いに期待されていたのが「ビットコイン問題」でもありました。
その「ビットコイン問題」にも未解決課題があることは
ここまで読み進めてこられた皆さんには
もはや繰り返すまでもなくご理解頂けたことだと思われますし、
今後の動向を注意深く見守るしかありませんが、
仮に「ビットコイン」にせよ
その限界を突破した進化した代替的「仮想」通貨が
あらたに出現してきたとして、
山口氏が言及されているように
現行の「資本」主義経済段階における
いわば「エセ(とまでは断言出来ませんが、
不透明かつ恣意的操作が入り込む余地が大きく信頼性の低い)」信用が
より透明性が高く信頼される段階にまで到達した
「超」高度「信用」経済社会にまで進化を遂げた暁には
環境問題解決手法としての「排出権取引」を始めとした
環境「ビジネス」における取引の信用度も高まり
安心して「投資」出来る経済環境が整えられるようになるのでしょうか?
すでに近年の国連サミットでも「持続可能な開発目標(SDGs)」指標が
現行の「GDP」的経済指標に代替するものとして注目されていますし、
環境(E)+社会(S)+企業統治=コーポレートガバナンス(G)を
三位一体化させた「ESG投資」にも関心が集まっているといいます。
企業の社会的責任(CSR)もすでに叫ばれて久しいですが、
それを具体的にどのように果たし、
一般消費者や投資家、利害関係者(ステークホールダー)の
信頼を勝ち得ていくのかはもちろん個々の継続的努力が不可欠ですが、
より主観性を軽減させた客観的「信用度」をいかにして担保し得るかは
今後の人工知能やビッグデータ統計的数値処理なども考慮したうえで、
最終的にはいかに
「より人間的かつ地球生態環境に最適化させ得るビジネス環境
あるいは経済生活環境」を整えうるかどうかにかかっているのでしょう。
<働き方改革>もそうですが、
<環境問題解決>に当たっても最後は各人の問題意識次第であることも
確かであります。
ところで、ここで最後にどうしても強調させて頂きたい論点を
皆さんにも是非ご一緒に考えて頂きたい「宿題」としてご提示しておきましょう。
本当にきわめて、きわめて重要な問題ですから・・・
山口氏などが予想されるような
今後の未来経済における「資本」主義の方向性において、
「信用」経済へと進化を遂げていく過程で必然的に生起するであろう
信用「評価」の基準に関しては
・「いかにしてより公正かつ客観的な指標を担保させ得るのか」という
論点と
・その進展過程に連動してますます「デジタル(情報)マネー」化
もしくは「キャッシュレス(=事実上の貨幣廃棄)」化していった場合に
予想される各種人間関係間における「格差」や
より剥き出しの暴力性が現れ出ることも
過去の歴史などの知見からは当然に予想され得るものと思われるのですが、
特に後者の「キャッシュレス(=事実上の貨幣廃棄)」へと至った場合に
生起し得る諸論点などを想像して頂きたいのです。
というのも皆さん、本当に「評価」もしくは「信用」経済を
限りなくバラ色の未来社会のように描かれているように見受けられるからです。
このことは、個人のプライバシー問題とも深く連関する問題ですし、
いかなる「評価(信用)」機関が関与することになるにせよ
その制度基盤やそれへの「異議申し立て」制度などに脆弱性が見られれば、
容易に「全体主義」体制へと転化し得る危険性も
秘めているものと思われるからですね。
そして、この「評価(信用)」基準によって「資本」主義経済社会が
超高度に発達した中において上記のような制度に欠陥が見られ、
その欠陥を克服し得なかった場合における生活侵害あるいは人権侵害などに
いかに対処し得ることが叶うのか、
それに対する救済措置をいかに設定すべきか
(こうした近未来経済社会において
仮にベーシックインカム<最低限所得保障>制度が導入済みであったにせよ
未導入の状況にあったにせよ)はきわめて重要な問題になると
思われるのです。
特に後者のような未導入の状況のままであれば、
最低限の生活保障すらなされ得ないわけですし、
前者の場合でもただ最低限の経済的生活保障さえ与えれば
政治(社会)的自由は喪失してもいいのかなども
是非お考え頂きたいわけです。
・「経済的自由が保障されなければ、
事実上、政治(社会)的自由すら保障され得ないのか?」
あるいは、
・「経済的自由が保障されさえすれば、
政治(社会)的意思決定がなされる<場>が
保障されなくともよいのか?」
現在の世の中は前者の状況にあると思われるのですが、
近未来社会においては後者の問いも
十二分に起こりえる事態が想定されますので、
ただ楽観的なバラ色の未来地図を描き安心していれば済むという
易問ではないと思われるのですが、
皆さんならどうお考えになられるでしょうか?
とともにいかなるより好ましい理想的な解決手法がおありだと
考えられますか?
『悲劇の根源は、まさに媒介形式への無理解と
媒介の実践的廃棄にあるのだ。』
(今村仁司著『貨幣とは何だろうか』174頁)
『へたに貨幣をいじくると、大いなる災厄が
人間を襲うことになるだろう。』
『出来あいの解答は存在しない。』
(ともに上掲書233頁の結語部分における
今村氏からの問いかけ)というお言葉も
こうした難問を考えるヒントとしてご紹介しておきましょう。
いずれにせよ、<媒介者(例えば、貨幣や言語など)>を完全に無視、
軽視することを決め込んでしまえば、
全体主義(思考停止)社会状況を抑制する防御壁である
<中間存在者>が否定されてしまうことになります。
そうなれば・・・
実はこの重大な問いかけ(思考実験)こそが、
20世紀の歴史的教訓には豊富な事例として散在しているのでした。
単なる頭の中だけの<思考実験>だけに止まる世界であればまだしも、
現実の<社会実験>として適用されば・・・
身の毛もよだつ恐ろしさに襲われます。
だからこそ、経済学など社会科学における実験を軽く見ることが
出来ないわけです。
このことも先にご紹介させて頂きました小室博士の遺訓でもありました。
是非とも賢明な読者様にもご一緒に
この論点(難問)を多角的な視点から議論して頂きたく思います。
さて、今回も今後予想される素描しか語れませんでしたが、
皆さんもどうか本書やご紹介させて頂きました各種関連書などを
考える手がかりとされながら、
ご一緒により良き近未来社会を創造していくきっかけづくりになれば、
本書で提唱されていた趣旨もさらに活かされていくのではないかと
確信しています。
このように今回はかなり著者への大変手厳しい批評を伴った
書評と成り果ててしまいましたが、
管理人とて人間ですから「未熟者」ですし、
思考上の「盲点」を数多く抱えていることは同様でありますから
あまり偉そうなことを言える身分でもありません。
とはいえ、
当書評記事内において申し上げたかった本旨はあくまでも
いつも強調させて頂いてきたことの繰り返しにもなりますが、
『批判合戦だけに終始することなく、それ以上に考えを掘り下げつつ
どんな人間でもどうしても抱え込んでしまう<盲点>を
相互に気付きあわせることを通じて、
相互補完の原理を活用しながら皆にとってより望ましく
居心地よき環境を整えることが最終目的だ』ということです。
今もっとも必要とされている思考法とは、
このような文脈に応じて適宜柔軟な問題解決法を
探究する「プラグマティック(実践知)」的思考法と
「暗黙知+(より良き)集合知」を兼ね合わせた
「メタ(より高次な観点に立つ)」的思考法であります。
まとめますと、人間には常に「理論(仮説=予想)」と「実践」の
両輪が必要だという月並みな結論に至りますが、
この「当たり前」が管理人も含めて
学習していく過程で意外にも置き去りにされてしまうことが
多々ありますので、ひとつの知恵として
皆さんにも留め置かれますようにお願い申し上げます。
最近ご一緒させている畏友の言葉に
「勉強すれば勉強するほどバカになってしまう典型的人間
(あるいは事例)というのも世間には多くあるようだなぁ~」という言葉が
ありまして、ハッとさせられることが多く
かなりの意識が傾くようになった管理人でもありますが、
「学習(の本質的目的)とは何だろうか?」という命題は
今後の人工知能と人間との「協働」型経済社会を
考える際にもきわめて大切な視点かつ姿勢になるだろうと強く感じています。
こういった重要な気づきを与えてくれる畏友や仲間、先達たちには
いつも感謝しています。
「みんな、ありがとうね!!」
最後に今回は<環境経済学>が主題でしたので、
国内外の特に「資源再生プラント(工場)」を稼働されている
各種環境ビジネス民間企業の皆様への応援メッセージの念も込めて
本記事の結びの言葉に代えさせて頂きます。
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最後に「自然資本」に関するご参考文献として、
①『自然資本の経済~「成長の限界」を突破する新産業革命~』
(ポール・ホーケン/L・ハンター・ロビンス/エイモリ・B・ロビンス共著、
佐和隆光監訳、小幡すぎ子訳、日本経済新聞社、2001年)
また、<環境経済学>入門新書として、
②『エコロジカルな経済学』
(倉阪秀史著、ちくま新書、2003年)
③『入門 環境経済学~環境問題解決へのアプローチ~』
(日引聡/有村俊秀共著、中公新書、2002年)
<経済数学>については、
④『経済数学の直観的方法~マクロ経済学編~』
(長沼伸一郎著、講談社ブルーバックス、2016年)
⑤『経済数学の直観的方法~確率・統計編~』(同上)
※特に前者は、今日のサブプライムローン問題の背景にあった
数理的モデルに対する批判的検討もなされていて、
思想面からも数理的思考法の軌跡を眺めるイメージ手法が
採用されています。
読み物としても純粋に楽しめる好著でしょうか?
ただし、数理的部分の解説などは文系人にとっては
多少取っ付きにくいかもしれませんが・・・
イメージ像が出来てくれば、<経済数学>や数学一般も面白くなるよと
自然に誘導される入門書(←ブルーバックスシリーズをも
入門書として含めるかどうかは読者の評価次第ですが・・・)です。
さらに、本文内でご紹介させて頂いた「ESG投資」については、
⑥『ESG投資~新しい資本主義のかたち~』
(水口剛著、日本経済新聞出版社、2017年)
「貨幣論」を考えるヒントとして、
⑦『貨幣とは何だろうか』
(今村仁司著、ちくま新書、1994年)
そして、「新自由主義(新古典派的志向=思考法)」の行き着く果てに
どのような事態が予想されるのかを分析考察した好著に
⑧『新自由主義の自滅~日本・アメリカ・韓国~』
(菊池英博著、文春新書、2015年)
※本書155頁~161頁に今回の書評記事内でも触れさせて頂きました
<裁量労働制拡大(いわゆるホワイトカラーエグゼンプション制度)>の
問題点なども詳細に描かれています。
そして上記「畏友」にご教示・ご紹介頂いた
⑨『CHAVS(チャヴ)~弱者を敵視する社会~』
(オーウェン・ジョーンズ著、依田卓巳訳、海と月社、2017年)
を差し当たってご紹介しておきます。
最後までお読み頂きありがとうございました。
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