高村友也さんの「僕はなぜ小屋で暮らすようになったか~生と死と哲学を巡って」世界認識の難しさに発する「自我」の苦しみ!?
「僕はなぜ小屋で暮らすようになったか」
高村友也さんが、「生と死と哲学を巡って」を
テーマに、自伝的哲学考察をされています。
人間は、なぜ苦しみ悩むのだろうか?
それは、彼我の世界認識のズレによる
「自我」による防御反応といった雄叫びがある!?
人間誰しも望んで「この世」に出現したとも確信が
持てないがゆえに、「不安」が芽生える!?
今回は、この本をご紹介します。
「僕はなぜ小屋で暮らすようになったか~生と死と哲学を巡って~」(高村友也著、同文舘出版、2015年)
高村友也さん(以下、著者)は、学生時代から「哲学的生き方」を
試行錯誤されてこられた方です。
東京大学哲学科から慶應義塾大学大学院哲学科博士課程単位取得退学後、
現在まで、定職には就かずに「最小限生活」を実践されてこられたミニマリスト
として、積極的なブログ発信などを通じて、生活されている30代の哲学者です。
高学歴の「哲学学者」は多けれど、現代日本で
独立系の「哲学者」として生活実践までされておられる方は、
なかなか少ないものです。
いわば、現代日本のヘンリー・D・ソローのような方です。
現代社会を息苦しいと感じる若者は、増え続けていますが、
直情径行的な社会批判でお茶を濁す方向ではなく、
自らの「内面」を厳しく見つめながら、
ストイックな人生を歩む人間はホントに少ないようです。
そのため、社会での身の振り方で歪んでしまう方も多々いるようです。
そのことが、社会の至るところで散見されます。
その結果、付和雷同型の「空気の支配」が徐々に社会に蔓延していき、
さらなる「生き苦しさ」を招き寄せるなど悪循環の罠に落ちていきます。
昨今の「大衆迎合路線」や「反知性的現象」には、一抹の不安も覚える
ところであります。
それは、やがて「全体主義」の土壌を生み出すことにもなりかねません。
後ほど本文で考察していきますが、近現代社会は「個」からの再出発として
共同体の再構築がなされてきたことは、あまり知られていません。
そのため、どこか人工的な「よそよそしさ」もあり、また個人の精神面に
おいても「自我」の苦しみが生み出されてしまったようです。
そのことに、人間が耐えることは果たして可能なのでしょうか?
おそらく、大多数の人間は(管理人もですが・・・)耐えられないのでは
ありますまいか。
そのために、「他人依存社会」が堅固に構築されていき、
かえって、息苦しい人間社会となっているようです。
「遊び」や「ゆらぎ」など「安全地帯」が欠如してきたということでもあります。
いわば、「社会の溜めが不足している!!」ということです。
そこから個々人における「恐るべき思想性の欠如」が生み出されていくようです。
なぜなら、精神的ゆとりを持つことすら許されなくなるからです。
つまり、「自分自身の人生に責任を持つことすら絶望的に困難」だという社会病理です。
それは、若者のみならず、現代社会における大多数の人間が
抱えている「心の闇」の現れであります。
なぜでしょうか?
それこそ、著者が問題提起される「自我」の葛藤から目をそらしてきたツケで
ありましょう。
「社会不適合者」であることが悪いのではなく、自分自身の「生き方」と
社会内における着地点の見つけ方が難しいというところに難問があるとも考えられます。
「他人任せにせず、自分自身を生き抜く!!」
「言うは易く、行うのは難し!!」が、世の常でありますが、
一度「生まれ落ちた原点」に立ち返りながら、考え直してみたいものです。
そこから始まる「あらたな第一歩」が、あなたを救ってくれる糧となってくれましょう。
ということで、皆さんとともに本書を読み進めながら、「人間とは何か?」
「社会とは何か?」など素朴な疑問点を考察していこうと、
この本を取り上げさせて頂きました。
「自我」のまなざしと生死の交錯地点を考えるところから、「人生」は始まる!?
「哲学」の素晴らしい点は、安易な正解を求めず、地道な着地点を探究することが
できるような精神形成に資するところにあるのでしょう。
「すぐに役立つ知識や知恵は、すぐに使えなくなる」とは、言い古された格言ですが、
現代人は、この先人の警告とは真逆の方向に進んできたようです。
それは、一種の「道具至上主義」でもあるようです。
「道具」は、確かに生きていくうえで快適・便利でありますが、
次第に「考える力=(どのような状況でも)生き抜く力」を喪失させていきます。
「道具」に頼るクセがつくと同時に「他人依存症」が強まることも意味します。
「生きるエネルギー」は、「原点」に常に立ち返るところから生み出されてきます。
現代社会では、そのことを忘れさせてくれます。
もし、この世にたった一人だけ取り残されたものと仮定してみたら、
大抵の方は、生き抜くことも叶わなくなることでしょう。
いつものことながら、他人事として考察しているのではありません。
その遠因には、人間があまりにも「不自然」な生活に慣れすぎてしまったことにも
あります。
近現代社会に限らず、有史以来、人類が「言葉=知性」を用いるようになって此の方、
世界と自身の間に強固な「自我の壁」を築いてきました。
とはいえ、近現代社会の開幕に至るまでは、そうした「自我の計らい」を
自然の中で解消する術も持っていたようです。
それが、「宗教的共同生活」とも言える日々の暮らしのリズム感です。
そうした精神的風土が、「自我の計らい」を紛らす知恵と工夫を提供してきた
ようです。
あるいは、人間同士の「生存競争」を和らげる社会装置もあったことも
「自我の計らい」を抑えるための助けになったようです。
「無縁社会」といっても、近現代以前の社会では、
「よい意味」で活用されていたようです。
つまり、あらたな「人生のやり直し」ができる場が設けられていたということです。
日常感覚でも非日常感覚との間に、適度な距離感があったことも
生活上の精神的糧となっていたようです。
それが、人々の心を和ませる安全弁ともなっていたといいます。
さて、視点を近現代社会以後に移しますと、
生活上の「あれこれ」が楽になる反面、精神的には「生き苦しさ」が
増す一方のようです。
それは、生活上の利便性との引き換えに、「精神的ゆとり」を手放させるような
社会風土が堅固に築かれてきたということでもあります。
つまり、「生物」としての「人間らしさ」が奪われていく過程でもあったということです。
こうして「原始感覚」を喪失させていった人間は、次第にものを考えることすら
億劫になるとともに、消費娯楽生活の中で身も心も溶解させられていきました。
しかも、その社会装置は、よく出来たものであるため、
余程の慎重さと思慮を働かせないと、容易に「魂抜き」されてしまうようです。
そうした生活環境に飼い慣らされていくと、「生物」としての「野生(本能)感覚」も
枯渇していきます。
とはいえ、「生物」の根本をなす「生死問題」から逃れ出ることも出来ません。
その「生死問題」は、油断していると、ふとしたきっかけで、日常にあふれ出てきます。
普段は、そうした「生死問題」も非日常の裏面で大人しくしてくれていますが、
何かの拍子に、生命の危機感として日常に現れ出てきた際に、
容易に「思考停止状態」に追い込まれてしまうのが、近現代人の特徴です。
それが、「自我の硬さ」であります。
著者は、少年期から「世界観」について、「全面的信頼感」から、
物心付いて以来、次第に「失望(欠乏)感」に苦しみ悩まされていったと
本書で詳細な「精神的遍歴」の過程を描写されていますが、このことは
著者ならずとも近現代人には特有の「精神病理」であるようです。
今あえて「精神病理」と語りましたが、真の意味で「病気」と言い切るのが
正しいのかどうかは分かりませんが、著者の表現では
「ホンモノ感(全面的信頼感=動機の純正度)」と「ニセモノ感(社会的結果重視傾向=
失望(生の欠如感)」のズレのことを指して、「病気」と捉えられているようです。
(本書46~55頁<第4章~高校時代>)
高校生時代ともなると、思春期以後の「自我」の硬さがより強くなっていく時期でも
あります。
「自我」の硬軟という観点から言えば、有史以来から現代に近づくにつれ、
「軟らかさ」から「硬さ」へと大きく変化していったとも考えられます。
現代社会における人間の成長進化のペースも、非常な急速さがあります。
しかも、現代社会では、極度な「文明化社会」であるため、人間の「生物」としての
「原始感覚」が薄められていくばかりです。
そのことが、「生物」としての「生きるエネルギー」を枯渇させていっているようです。
教育では、「知的学習」や「スポーツ」などが推奨されますが、
こうした「学習訓練」も、現代社会に馴染むための「小手先のテクニック」でしかなく、
「生死問題」そのものを解決してくれることはありません。
通常の健全な精神状態であれば、現代社会化教育に相当な疑問も感じられるはずです。
現代人の大半が、こうした「健全な精神反応」をなぜか「やり過ごし」ていきます。
著者は、そうした現代人特有の「生き方」に幼少期から繊細に疑問を持ち始めたようです。
そのことは、管理人の「精神的遍歴」とも共有します。
管理人自体が、特段「優秀」だと言うわけではありませんが(単なる剽軽な小心者ですが)、
一応、著者ほどではないにしろ、進学校に通い、「平均人(イヤな表現で御免なさい)」
以上に、「知性偏重教育」を受けてきたことは事実であるので、
その特有の心情には共感できるつもりです。
どうしても、何事も「理屈」で考えてしまうクセが、先に出てくる訳です。
ここが、非常にもどかしく苦しいところでもあります。
さらに、昨日の「天才論」でも触れましたが、
現代社会自体が、「自我」を過剰に意識させる仕掛けに満ち溢れています。
その「からくり」に早くから気付き始め、「胡散臭さ」を全身全霊で感じ取って
しまった者には、確かに現代社会には耐え難い「生き苦しさ」を抱いてしまいます。
著者言うところの「ホンモノ病」ですね。
この「理屈」が先に立つ感覚が身に付くと、「自意識」も過剰になり、
「自我」がより肥大強化もされ、精神的にも腐敗感を抱くことになってしまいます。
こんな時こそ、「生死問題」が一挙に押し寄せてきやすくなり、
意外にも、「知的解決」が非常に脆いことにも否応なく気付かされます。
おそらく、「生死問題」を無理に知的解決でもって、やり過ごそうとしても、
本能(無意識)が邪魔をするのがオチです。
「生死」の連続性が、断片化していくにつれ、世界との分離感もいや増し、
むしろ、過剰に自身に襲いかかってきます。
それが、近現代の知識人にノイローゼなどの「死に至らせる心の病」の
発症例が多い原因なのかもしれません。
では、そうした近現代人に多いとされる「自我の計らい」の苦しみから
安らぎの道へと抜け出していくためには、どのような「心の持ち方」を
すればよいのでしょうか?
それが、知的解決法としての「哲学」から感性・霊性的解決法としての
「宗教的姿勢」だと思われます。
「宗教」と言えば、現代人は「怪しさ」をイメージさせますが、
要は、「精神的安らぎの知恵と工夫」であります。
こうした知恵と工夫を、自らの力で考案していけばよいのです。
いわば「考える宗教的実践」です。
「生死」の連続性を回復させていくとは、自らの「生まれ落ちた原点」に
回帰していくことでもあります。
その「生きた感覚」を取り戻していくことから、人生の「再出発」が
始まります。
著者の場合には、「死の想念」から考察に及ばれ、「永遠の無」の
恐怖感にパニックになられたそうです。
すなわち、「存在の消滅」です。
「自我」の苦しみを制御する「意志の力」を働かせる方法論
著者は、そうした自分自身における
「精神分裂状態=アイデンティティークライシス」にこそ、
恐怖感を抱いていたようです。
だからこそ、安定した「自己同一性」が欲しいと・・・
「死の想念」から「生への願望」を目指せば、一つの処方箋としては
そうした「道のり」もあるのかもしれません。
そうした角度から体感すれば、共感もできましょう。
他人の「心理状況」ですので、そのこと自体の「真偽判定」など
できようはずもありません。
管理人は、むしろ著者とは別の角度から「死の想念」へアプローチする
ようで、どうもイメージが湧かないのです。
こうした「自我論」を考察しながら、管理人も少年期(高校生の頃)から
親しんできたのが、三島文学でした。
学者先生を始め、多くの方々には、「生の希薄さ=非人間性」が感じられると
される方も多いようですが、管理人はむしろ「正直な告白」ではないかなぁ~と
学生時代から感じてきました。
いわゆる『仮面の告白』や『金閣寺』などのイメージから、
三島氏の「本心隠しの絶妙なうまさ」などが、文学界などでは話題になっている
ようですが、知的な人に多い傾向として「照れ隠し」なのだとも
素直に感じるところであります。
たまたま、『金閣寺』を読了したところでもありますが、
この小説も「近現代的自我論」であります。
「行為よりも、認識だ!!」という柏木という人物の表現がありましたが、
主人公の小僧さんは、最後はご存じのように「行為=金閣炎上」に及びます。
主人公に仮託して、三島氏の「心理告白」がなされているのかどうか、
そんな文学解釈は、管理人には理解しかねますが、後年の「行動論」のみが
注目される中で、この「認識の方が重要!!」との視点は、
晩年の『豊饒の海シリーズ』における「唯識論」とも相まって
考えさせられたところです。
世界と自分自身の邂逅という、誰しも社会生活を営む過程で
避けては通れない最重要テーマですが、すべては自分の心象風景物語を
外面に一切表さずに、「内面」のみに止めておくのがよいとする
「自足法=忍ぶ恋技法!?」を取るか、「生の意志」をどこまでも
貫徹していき、「外面」との衝突も恐れずに突き進むのが良いのか、
難しいものがあります。
いずれにせよ、その「全行程」は、人生が終わる頃まで見えてきません。
日々の真剣な歩みの過程で、あるべき方向へと、その人に相応しい道で
導かれていくのだろうとしか推測できないところです。
ここで、管理人の「生死問題」を触れる過程で、三島文学の事例も少し
触れておきましたが、「生死の果て」には、「絶対無」しかないのか
どうかを考察したかったからでもあります。
著者は、「存在消滅の果て」に、「絶対無=壮大な闇」をイメージされた
ようですが、管理人のイメージでは、「夜空の星々の仲間入り」です。
あるいは、「海の寄せては返す波濤」、「飄々とした旋風」のようなものを
連想します。
こうした自然な風景に、わが御霊が溶け込むことが叶えば、
「最高に幸せかなぁ~」とも感じてしまうようです。
まとめますと、著者の恐怖感には十分共感も出来ますが、
管理人とはどうも方向性がズレているようです。
「生死観」のことですので、もとより「真偽不明問題」でありますが、
本書を読み進めているうえで、感じさせられたところでもあります。
著者は、そうした「生死問題」に由来する「自我」の「安全基地」に
「小屋」を設定されていますが、その「小屋」が他人が用意した「代用品」では
絶対納得出来ないのだとする感覚には、共感します。
「生死問題」から来る現世での処世術としての「世界観」の構築は
是非とも自らの力で構築しなければなりません。
それが、自らの感覚を信じ、自らの人生に全責任を負うということですから・・・
自己に忠実に生きる。
それこそが、「自由(自ずから由らしめる)」という本来の「自由感」でも
あります。
「不自由の中にこそ自由がある」
つまり、逆説的ですが、有限な肉体に拘束されている以上は、
「制約された自由の中で、自らの<最高善>を探究していく!!」しか
この世には約束されていないということに、早くから気付くことが大切です。
それが、他人が構築した「幻想」からわが身を守る術でもあります。
「人間=社会」との関係では、常識のように「共同幻想」の中で微睡むのが、
賢い唯一の処世術としか考えられていないようですが、
所詮は、最終的に自分自身の「落ち着く場所=帰るべき場所」が、
もっとも安心出来るものです。
著者自身も、「今の暮らし」自体がすべてではないとされていますが、
それで良いのだと思いますよ。
「人生とは、旅人」と、よく好んで言われますが、「射手座」の管理人には
特に、そのように実感します。
「漂泊願望」というのか、「放浪癖」というのか、管理人も幼少期から
よく旅をしてきました。
特に、「抑鬱期」になると、転地療法として「移動」したくなります。
「遊行」まで出来れば良いのですが、管理人は著者のような「小屋作り」や
「移動生活」が出来るほど器用でもありません。
「野宿生活」も子どもの頃から「アウトドア暮らし」に親しんできましたので、
違和感はありませんが、昨今の社会風潮を見ると、
安心して外泊することすら叶いません。
著者も本書での「実体験談」として、赤裸々に告白されていますが、
こうした世界にすら「縄張り争い」があるのですから、
過度の「都市化=文明化」とは、かくも恐ろしく生きにくさを押しつけてくる
社会構造になっているようです。
自然界に「逃げ場所がない!!」というのが、イヤな感じもします。
人間界における排他的ではない「棲み分け」は永遠に出来ないのか、
絶望的な気分に襲われますが、こうした「社会的排除」からは自由にありたい
ものですね。
ということで、著者の気持ちは十二分に共感できるつもりですが、
「考えすぎる」ところが、悲しさをより一層引き立たせているのかもしれません。
「もうちょっと、肩の力を抜いてごらん・・・」と、
もし話す機会があれば、語り合いたいものだとも感じさせられました。
とはいえ、管理人も著者のブログからは様々なことを学ばせて頂いています。
特に、日本の土地法制の複雑さ、奇怪さには、かつて実務経験もありますので、
よくイメージも出来ます。
著者は、「公売制度」を活用したとも語られていますが、
都心部では、なかなか素人が手出し出来ないものです。
管理人も、昔この手の登記手続きの仕事をさせて頂いたこともありますが、
まあ、「怪しい物件」ですわ。
「事実は小説(ドラマ)よりも奇なり!!」の世界です。
「空き家問題」であれ何であれ、日本社会では「カネで解決」ばかり・・・
あまり、賢い人もいないのかしらん・・・
とも感じさせられます。
仁徳天皇や聖徳太子さんや聖武天皇の頃よりも悪化しているような気もします。
その時代に生きていた訳ではないので、知らんけど(笑)
まだ「国造り」も未明混沌の時代の方が、柔軟な知恵も湧き出ていたのでしょうか?
行基さんも苦労されたそうですが、現代の「安全基地=無縁所」を
「道の駅」のように全国に構築出来ないものか・・・
それを「国土強靱化施策」とも兼ねて実現させていくと・・・
そんな壮大な「国家構想」を打ち出すのも、今は「夢のまた夢」なのかなぁ~
とも、本書を読みながら様々な連想ゲームを楽しませて頂きました。
最後に、「自我」を消し去るための「意志の力」というテーマで終えますが、
むしろ、「自我」とは意識すればするほど、
つまり、考えすぎればすぎるほど、次から次へと湧き出てくる「妄念(雑念)」です。
ですから、最初から「知的解決」を捨てる方向性が、
理にかなっていると思われます。
著者は、「哲学好き」なのでご存じでしょうが、
現象学的解決「判断停止法」の活用がよろしいのでは・・・
仏教では、「止観法」がよく活用されるようですよ。
管理人なら、個人的に学んでいる途上ですが、「唯識止観法」を
自分なりに試行錯誤しながら模索中です。
ある種の「明るい想念」を活用した瞑想術なのですが、
自力開発中です。
変な宗教には興味関心もありませんし、精神世界のいかがわしさには辟易しますが、
理知的に分析考察していくのは楽しいことです。
また、これもある種の「変性意識」活用法ですが、
管理人は、これを「能楽」から学びました。
「抑鬱期からの脱却法」ないしは、「躁状態の抑制法」として
「シテ的変性意識」と「ワキ的変性意識」の活用です。
「躁=シテ心理」の時は、「ワキ的目線」で、
「抑鬱=ワキ心理」の時は、「シテ的目線」を
心の中に持つ。
つまり、「陰陽タスキがけの術」ですが、
これが驚くほど個人的には、精神安定に効くようです。
ただ、使用上の注意は、無理な心理操作をしないことです。
「慌てず・騒がず・穏やかに」がポイントです。
まとめますと、「自己同一性」にこだわりすぎて「自我」を
より肥大化させて悩み苦しむ方向ではなく、「自我」を完全に滅却するなど
禅僧でも困難ですが、「自我」をゆる~くすることまでは、
知恵と工夫次第で必ず出来ます。
「自己完結型」も合っている方には「自然」なのでしょうが、
管理人にとっては、「世界=自然に溶け込む型(他者=社会依存型ではない)」
の処方箋が合っているようです。
言い換えますと、自己の「内面」に強固な安定基盤としての
「自分物語」を生成させていくことになります。
その意味では、著者と同じく、心理哲学的アプローチ法は異なりますが、
「自己完結型」でもあります。
ただ、その方法を常に貫き通すことは、日常的社会生活では難しいですけどね・・・
水木しげる先生ではないですが、ある種の「ボケーとした感覚」ですから。
本当に「マイペース生活」が許されている人間しか使えないのです。
とはいえ、「急場しのぎの術」で、他人に見られている意識を
捨てることが叶えば、可能です。
すべては、「羞恥心から脱却するための闘い」であります。
当たり前ですが、著者も強調されているように、
現代社会では、油断していると、
容易に、自己の内面へと「社会=他人の欲望」が侵入してくるものですから・・・
やはり、管理人も「社会不適合者」です。
ですが、何も卑下することなどないのです。
そういう気質の人間は、著者のような知的著述や創造的な芸術活動に
全人生を賭ければよいのですから・・・
もっとも、それで食っていけるかどうかが、一番のネックですけどね。
お役に立つかどうかは、「個人差」もありますので分かりませんが、
「自我の計らい」で悩み苦しまれている方は、是非一度試してみて下さいね。
「考えすぎも程度の問題」
「哲学」は、確かに楽しいですが、深刻になりすぎると、
「自滅」してしまうので、くれぐれも「哲学病」にはご注意です。
ですから、管理人も「抑鬱期」には「哲学」を捨てています。
つまりは、「意志の働かせ方の問題」です。
ということで、本書は、著者が全身全霊で、
「生きづらさ」を抱えている方向けに、
全人格をかけて創作された渾身の一作ですので、
是非ご一読されることを強くお薦めさせて頂きます。
最後までお読み頂きありがとうございました。
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