春日武彦先生の「天才だもの。~わたしたちは異常な存在をどう見てきたのか」「天才」の片鱗から生きづらさを考えよう!!

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「天才だもの。~わたしたちは異常な存在をどう見てきたのか~」

精神科医の春日武彦先生が、様々な角度から

「天才」を分析考察するエッセーです。

皆さんは、「天才」に何を連想しますか?

「天才と狂気は紙一重」

「異常な社会不適応者」

「常人を遙かに飛び超えた神懸かりな人」・・・

世間一般的なイメージでは、極端な人格が

浮かび上がって来るようですが、

本当でしょうか?

今回は、この本をご紹介します。

「天才だもの。~わたしたちは異常な存在をどう見てきたのか~」(春日武彦著、青土社、2010年)

春日武彦先生(以下、著者)は、著名な精神科医です。

本業のご経験を活かした数々の精神心理学的エッセーを

世に問うてこられました。

そんな著者も、「天才」を何か「異常」な存在と

偏った見方をされておられるようです。

精神医学的な観点から「天才」を分析考察していくと、

「天才」を「精神異常者」のような人間離れした

機械的被写体のようなイメージを持ってしまうのでしょうか?

もっとも、公平を期して、「天才」を「悪意」をもって

論評されている訳ではありませんが、どこか「冷たい感じ」を

感じさせられたのも事実です。

もっと、「愛情」をもって、「異常」ではなく、

普通の感覚で、「天才」に寄り添うことが出来ないものか?

多少、個人的に「悲しさ」を感じたのも正直なところです。

詳細は、本文で分析考察していきますが、

「天才」を考えることは、私たちの日常生活の「精神的無意識」といった

「盲点」に丁寧に目を向けながら、反省する作業ともなります。

また、現代社会の「あり方」を見つめ直していく視点も

提供してくれるなど有益な問題意識を持つ手助けともなります。

ということで、「冷たい」視線からではなく、

「愛情」をもって、「天才」に接しながら、

私たちの人生を豊かにしていくヒントを学んでいこうと、

この本を取り上げさせて頂きました。

本書の内容構成は、大きく3部となっています。

①文学~天才の条件

②美術~天才と天才ならざるもの

③記憶~無名の天才たち

結語では、著者独自の「天才とは何か」についての

分析考察でまとめられています。

「天才」とは、時空を超えた「非日常的世界」から「日常世界」を常に問い直すことの出来る豊かな想像力を持ち合わせた「超」能力者!?

「天才」を定義することは難しいようです。

著者も、そのあたりから分析考察を始められています。

まず、「天才」をごくごく平均人の「(社会的)能力」からイメージしがちな

捉え方をされることが多いので、どうしても個人的な「主観的認知バイアス」が

かかってしまうようです。

おそらく、「天才」が、自分自身の日常生活上の「あれこれ」を

無難にやり過ごしていくうえでの「後ろめたさ」を想起させるからではないかと、

個人的には考えています。

つまり、己自身の「魂」に忠実に生きることを回避する術が、

すっかり身に付いてしまった「社会人」にとっては、自分自身の「心の疚しさ」から

無意識にも目を背けたくなるからではないかとも思われるのです。

「天才」は、現実社会について「あるがままに」直視することで、

「本心」を素直に「全身全霊」で表現することが出来る。

要するに、「無意識」を「意識」の次元にまで浮かび上がらせることに

ためらうことがない「精神的志向性」を持っているからでしょうか?

それが、一般人にとって、「異常」に思われるのでしょう。

ですから、「天才」をイメージし、定義付けるということは、

「己の本心」を「映し出す鏡」だと、否応なしに認識させられる

知的作業だとも考えられます。

ある種の「精神的踏み絵」ですね。

読者の皆さんは、「天才」について、どのように思われますか?

何か、「異常」だと感じられますか?

確かに、客観的に評価するならば、各人各様、「個性的」で

日常世界から「ぶっ飛んでいる!!」ところも見受けられるでしょう。

しかし、そのことは、どこか「自分自身」とは、

まったくもって無関係な世界だとして、無視していくような

どこか「投げやりな」生き方が反映しているような「寂しさ」も感じさせます。

管理人個人は、「天才」と自分自身の間に、

どこか幼少期から「連続的世界観」を楽しみながら共有してきたようです。

ただ、「天才」と一口に称しても、多種多様な「人間像」がありますし、

社会的な「成功」という視点でも、様々な「切り口」があります。

どうも捉え損ねる「鵺的存在」・・・

そこに、「天才」の「光と影」もあるようです。

著者は、精神科医の視点が強いようで、どうしても「精神異常」の角度から

分析考察してしまうようです。

例えば、以下のような表現。

『いかなる善人であろうと、天才について噂をするときには、必ず心が濁る。

邪な精神が活気づく。それこそが天才をテーマとする醍醐味なのである。

最後まで、たっぷりと心を濁らせていただきたい。』(本書20頁)

『個人的な見解としては、天才という特異な存在には「どぎつさ」や

派手さが伴うと考えており、それゆえ天才にはどこか騒々しさや下品さが

重なる。』(本書124頁)

『それにしても、やはりわたしは地味な天才とか、控え目な天才などは

認めたくないのである。創造力に富んだ珍獣、いやそれ以上の存在であって

欲しいと願う。そうでなければ世の中が退屈になってしまうから。』

(本書235頁)などなど。

著者の個人的見解を、誹謗中傷する意図は一切ありませんが、

どうも「天才」を一定の「鋳型」に、はめた見方をされる批評家も多いようです。

「批評」と言えば、当ブログも「書評」をさせて頂いていますが、

「批評」するにしても、とことん「敬愛の念」をもって、

ご紹介させて頂いています。

そもそも、そうでなければ、ここで取り上げさせて頂くこともありません。

その意味では、どの著者も「個性的」で、

「異常(通常感覚から離れた豊かな才能をお持ちだという意味です。)」な

視点が備わっているからこそ、「学び甲斐」もあるというものです。

著者も本書で指摘されているように、「天才」ではなく、「天才もどき」や

「秀才(優等生=何事も違和感なく、そつなくこなす能力者)」の方が、

現代社会には多いようです。

「自己顕示欲」というか、「自己アピール力」といった

ある種の「社会的アピール力」に長けた人は、確かに多いようです。

このように分析考察していくと、「天才」に対する想いも、

どこか「恋心」に似たところがあるのかもしれません。

つまり、「天才」と「天才もどき」を見分ける才覚も、

畢竟のところ、「好き嫌い!?」なのでしょう。

とはいえ、自分の現時点での判断能力から、「人物評価」するのも

危険であり、精神的貧しさでもありましょう。

自分自身の「精神的成長」のためにも、違和感なく接していきたいものです。

先程、「天才」にせよ、「天才もどき」にせよ、「自己顕示欲」や

著者のような「どぎつさ」や「派手さ」を求める見方をご紹介させて頂きましたが、

著者や一般人のイメージとは異なる「地味で控えめな天才」では

人は、納得出来ないものなのでしょうか?

そこが、管理人の「不満」や「疑問」の原点に当たります。

少なくとも、「天才」は、現実社会では、「不遇」な生活を余儀なくされている方が

多いですし、「真」の賢者は、市井に隠れている方も多いからです。

いわば、「社会的アピール力」に「違和感」をお持ちの方が多いように

見受けられるということです。

ましてや、現代社会のような生活環境では、なおさらであります。

「天才」の「仕事」は、ほとんどが「お金に換算出来ない」精神的作業であります。

つまり、「仕事=生き方そのもの」を謙虚なまでに、「低姿勢」で成し遂げることに

「生き甲斐」を見出すことの出来る人間です。

こうした「無欲」な「天才」は、いつの時代も、「社会不適応感」は強いようです。

しかし、そうした「不全感」が敏感だからこそ、「疑問を疑問のまま」で放置せずに、

じっくりと地道に腰を据えて「問い」続ける粘り強さがあるからこそ、

「超日常感覚」を人一倍味わうことの叶うのも、また事実であります。

その意味で、「違和感」や「疑問」を常に問い直す皮膚感覚のある人間であれば、

誰でも潜在的な「天才」の資格があるのでしょう。

必ずしも、著者や一般人のような「精神分析」的な「天才評」で

思い描く必要もないのではと思います。

そもそも、「天才=天分の才能」であり、最初から各人各様マネの出来ない

「個性」が据え付けられています。

多分に、生物的「先天性」か、教育的「後天性」かによって、

「天才能力」を引き出すきっかけや度合も変化していくようですが、

少なくとも、欲望喚起型現代教育では、「天才=個性」を

むしろ、圧し潰す弊害の方が大きいようです。

その意味で、「天才」とは、社会的教育とはかけ離れた

「自学自習能力」や「知的好奇心の人一倍の旺盛さ」、

「感性」や「霊性(直感的ひらめき)」、さらに

「努力を難なくこなせる才能」に秀でた人間なのでしょう。

「異常さ」に必要以上にこだわりすぎることが、「天才」を押し潰す!?

ところで、「天才」を分析考察していくと、行き当たるテーマがあります。

それが、「自我論」です。

「自我」と言っても、「はかない」もので漠然としたイメージでしか

語れませんが、要するに「訳の分からない<心??のはからい>」であります。

こうした「自我」が、近現代社会に特有の産物なのか、それとも、

人類史上「言葉」を用い始めた頃からの産物なのかは、よく分かりません。

昨日の「人間とロボット論」でも考えていましたが、「心・魂・意識」に

ついては、現代までのところ、どの学問でも行き詰まっているようです。

「情念」「思い込み」「信じる力」・・・

そんな「力」が、「自我」を構築する原動力なのかもしれません。

管理人は、どの組織にも属さず、様々な学問分野における独自研究を

日々楽しんでいますが、現代アカデミズムでは「自由研究」なんぞ

出来ない仕組みのようです。

小学校ですら、「自由研究」の本来の意義が、年々歳々、

見失われていっているそうな・・・

昨日の石黒浩先生や鷲田清一先生も言及されていましたが、

プロの学者さんは、研究内容よりも、「研究費獲得」のための

「プレゼンテーション能力」こそ問われるようです。

こんな環境になると、優れた研究者がまともに育つとも思われません。

ましてや、「民間研究機関」なら、なおさらです。

「人類のために」

いや、「すべての森羅万象のために」

何とかならないものか・・・

そればかりが、気がかりでなりません。

その意味では、「天才」とは、「憂鬱な人間」なのかもしれません。

そうした神経過敏さがあるからこそ、世の中の「無神経さ」にも

耐えられないのかもしれません。

真の「天才」が、太古の昔から「俗世間」から逃れ出ようと必死の思いを

抱き続けながら、長期的視点から、また「超人」的視点から、

現実社会を眺める「まなざし」を持ち続けてきたのも、そんな「心象」が

あったからでしょう。

ただ、こうした神経過敏な「憂鬱感覚」を備えた「天才」も

「異常」なのかと問われれば、俗世間に軸足を置けば「ズバリ、そのとおり!!」

なのでしょう。

逆に、軸足を超俗的な視点に置けば、「断じて、否!!」というところです。

管理人の立ち位置としては、あくまで理想論ですが、この両者の「あわい(境界線)」に

常に身を据えながら、観察していきたいということになります。

現実的には、こうした「無答責な神聖不可侵領域」など、

管理人のような「俗人」には到底叶いませんが、少なくとも、

「より良き社会」の実現に向けて真摯に考えながら、

愚直に生き抜いていきたいと願うほどの方なら

共感して頂けるものと信じています。

当ブログも、誠に地味で「淡々と黙々と」語り続けていますが、

このスタイルこそ、

「天才(管理人が<天才>などと、うぬぼれるつもりは毛頭ありませんが・・・)」の

「孤独な姿」とも重なるものだとイメージしています。

最終的に「わかる人にしかわからない」と諦めつつも、何かの<不思議な縁>で

同じような「問題意識」を共有して頂ける「奇特な人」が現れ出るかもしれません。

古今東西の歴史上の賢者(隠者)も、その意味では、「賭け」を最後まで諦めずに

生涯「純粋な想い」を貫き通した人間だったのでしょう。

最初は、「小さな輪(同志)」から、やがて「大輪の花(共感者の支援の輪)」が

世の中を、じわじわと動かしていったのも、「世の常」だったからです。

ですから、どなたでも「孤独な<仕事>」を諦めてはいけません。

たとえ、理解されなくとも、ともに励んで参りましょう。

著者も、イメージされているように、「天才」と言えば、何か「革命家」のような

英雄を思い描いている方も多いようですが、何度も繰り返しますが、

そうした「表層的イメージ像」の側面でしか分析考察されないのであれば、

精神的に貧しい世界観しか得られないでしょう。

確かに、「天才」は、通常人が思いもつかない、思いついたとしても徹底的に

考え抜いたり表現したりしないテーマを地味に追究していきますので、

俗世間の「一般的基準」から見れば、「異常」なのでしょう。

ところが、世の中には、そうした観点で見ない論者もいるようです。

それが、「スペクトル評価」です。

「スペクトル」については、何度も当ブログで分析考察して参りましたが、

「虹の光彩のような色相連続体のようなもの」です。

大きく見れば「異常」に見えても、微細な観点から眺めれば、

誰しも「多かれ少なかれ」共通項があるだろうとの視点獲得法のことであります。

こうした視点を獲得することが出来れば、特に「異常さ」に過剰反応を

示さなくても良くなる知恵が備わるかもしれません。

管理人は、とにかく「社会的」差別が、昔から「皮膚感覚」として

イヤなのです。

ですから、「わかりやすさ」よりも、「わかりにくさ」に

心惹かれるものがあるのかもしれません。

ある種の「天の邪鬼」ですね。

また、人間は常に「間違いを犯す」という「可謬性」の視点も

謙虚に持ち続けたいと願っています。

「天才」の場合でも分析考察してきましたが、「思い込みの力」や

「信じる力」は、もちろん大切であります。

しかし、それも「程度問題」でしょう。

何事も、度が過ぎれば、「危険水域」に突入していきます。

それが、タイトルにも込めた「異常さ」に必要以上にこだわりすぎることが、

かえって、「天才」を押し潰すということです。

こうした「多重視点・複眼思考」を絶えずTPOに応じて使い分けることの出来る

実際上の知恵も、日常生活には必要となります。

「こだわり」がなければ、「天才さ加減」も花開くことが少ないでしょうが、

極端な「異常さ」で、社会生活上困難を来してしまうのも、周りだけでなく、

何よりも「当人」にとって苦しいことですから・・・

ですから、管理人にとっての「天才問題」は、決して他人事ではないのです。

精神分析調に、冷酷に突き放した皮膚感覚で、分析考察したくはないのです。

「愛情」をもって接したい・・・

それが、管理人にとっての「天才問題」であります。

社会と言うのは、いつの時代も「わかりやすさ」を求められ、

「分類思想」によって堅固な要塞のごとく構築されていくものですが、

こうした社会的風潮に、風穴を開けて、風通しを良くしたいというのが、

個人的願望でもあります。

これも、「自我」と言えばそれまでですが、

「自我」にも「良い自我」と「悪い自我」のように幅広さもあります。

本日の「自我論」はここまでとしておきますが、

皆さんにも「天才論」とともに「自我論」から、自らの日々の生き方まで

考え直して頂く「静寂の時間」を養って頂きたいのです。

「一人ひとりの力は、<微力>」ですが、こうした一人ひとりの

「良い想念」が積み重なると、山をも動かすかもしれません。

最後に、個人的な「天才論」で筆を擱かせて頂きます。

「天才」とは、

「思い出(幻想・夢想・記憶の根源・存在の彼方など)と心中仕切れる人」

もしくは、「<暗い情念>から逃げずに真正面から見据えることの出来る人」

と、まとめておきましょう。

つまりは、「生ききり、死にきることの出来る人」だということです。

この一点に人生を集中させていくこと。

「天才」と呼ばれる人から学べることがあるとすれば、

こうした「人生観」や「世界観」でありましょう。

いずれにせよ、「男はつらいよ」(寅さん)ならぬ、

「天才はつらいよ」は、やはり社会との調和からはみ出す要素が

どうしても強くなり、他人の理解を超え出てしまうところにあるようですね。

ということで、皆さんにも本書をご一読されるとともに、

各自考察されることをお薦めさせて頂きます。

なお、「天才」と「うつ」との関係については、

「天才はいかにうつをてなずけたか」

(アンソニー・ストー著、今井幹晴訳、求龍堂、2007年)

「天才はなぜ生まれるか」

(正高信男著、ちくま新書、2004年)

をご紹介しておきます。

最後までお読み頂きありがとうございました。

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