森博嗣さんの「科学的とはどういう意味か」揺れ動く社会風潮に流されないための科学的思考法とは!?
「科学的とはどういう意味か」
理系ミステリー作家で、「ものづくり」に
情熱を注ぎながら生きてこられた森博嗣さんに、
科学的思考法を学びます。
現代社会は、科学を無視しては生き抜いていけない世の中です。
私たちの身の回りには、科学的情報が満ち溢れているとはいえ、
科学リテラシー(科学的識別能力)には
弱さが見受けられます。
学ばないでおくと、確実に「損」です。
今回は、この本をご紹介します。
「科学的とはどういう意味か」 (森博嗣著、幻冬舎新書、2011年)
森博嗣さん(以下、著者)は、著名な理系ミステリー作家として、
根強い人気があり、親しまれているようです。
前にも当ブログ記事にてご紹介させて頂いた
『孤独の価値』(幻冬舎新書、2014年)の著者でもあります。
上記作品は、小説家と研究者の両面から、
著者が人生を生きてこられた過程で味わい深められた文化観が
主題でありました。
このような著者ですが、
小説家としてのデビューは、意外にも遅咲きのようで、
大学での研究・教育者としてのお勤めの傍ら、
1996年『すべてがFになる』で第1回メフィスト賞を受賞。
その後は、お忙しい中での執筆活動を地道にされる過程で、
人気作家の地位を獲得されていかれます。
今回は、著者自身の長年に渡る工学系研究者としての
ご経験から「科学的思考法」について、
わかりやすいタッチで解説されています。
世の中が、ある種の「諦めムード」というのか、
しんどい生活環境だと実感されるのも、
曖昧模糊とした文系社会だからなのか・・・
必ずしも、そのように断定は出来ませんが、
「言葉」そのものには、常に曖昧さがつきまとうために、
人と対話する場面でも、精密な表現に齟齬を来すなど、
相互不信感が芽生え始める要因ともなるようです。
そういうこともあって、
「科学的思考法」に学ぶ「言葉」の使い方に関する
厳格なルールが見直されています。
「そのことを知ると知らないでは、人生が大きく変化していく!?」
「科学に興味関心を持たない人は、大きな損です!!」と
強調されるのが、本書の主題であります。
ということで、皆さんとともに、「科学的思考法」に馴染んで頂く
ひとつのきっかけとして、本書を積極活用してみませんかという
呼びかけから、この本を取り上げさせて頂きました。
「言葉」に依存しすぎる社会が、かえって不信感を招く!?
本書では、『科学的とはどういう意味か??』というテーマを通じて、
「科学的思考法」と「言語問題」について、エッセー風に
わかりやすく語られていきます。
著者は、一応「小説家」を名乗られているようですが、
著者自身としては、「物語」性を重視しながら表現する
いわゆる「文芸」作品といった強い意識は、
あまりお持ちでないようです。
著者は、どちらかと言えば、エッセーや日記のスタイルで、
批評的な小説を表現形態として好まれているようです。
「物語」風の小説は、「わかりやすく」大衆受けしやすくなる反面、
緻密な論理展開がしにくくなるとも語られています。
(本書105~107頁「物語だけが読み物ではない」ご参照)
著者によると、『本を多く読むことは、必ず自分のためになる』からだと
されますが、『物語ではなく、情報や意見により耳を傾けるべきである。』
とも強調されています。
つまり、主観的な「感想」よりも、客観的な「情報(事実)」や「意見」が
重要だということです。
もっとも、何が「客観的な<情報>や<意見>」なのかは、
普段の習慣となっている「聞き流す」生活では、
「真偽」検証時間もかかり、すぐには識別することも困難ですが、
科学的思考法を養い育てるメリットには、
「再現性」や「反証性」が許容する・されるといった
「公平性の視点」が組み込まれていることが、
「客観性」を判別する分岐点になるかと
一応は推定することが出来るでしょう。
そこに、「言葉の曖昧さ」を回避する知恵があります。
こうした日々の「言語問題」に役立つ知恵こそ、
「科学的思考法のススメ」であります。
また、老子などの賢者が見抜いていたように、
言語以前のイメージ像に、「名付け」するところから、
世界は切断され、不毛な相互対立が始まる要因があります。
本当に、人間同士が、信頼し合える社会を実現させていくためには、
「なるたけ言語使用を差し控えること」といった逆説も浮かんできます。
それが難しいのであれば、「形容(言語描写)過多」になることを
覚悟しながらでも、可能な限りでの「近似的相互理解」を
目指す努力も必要となります。
そうすると、本来は、時間はかかりますが、結果として
「わかりやすく」もなり、相互誤解も軽減されていくことに
なるのですが、人間は、「面倒くささを嫌う生き物」。
どうしても、「思考の節約」から「わかりやすさ」を求め、
結果として、「わかったようでわからない」ことにもなるのが
悲しい性であります。
ここに、「よくわからない空気に流される」ことが習慣とも
なってしまう原因があります。
では、そのような安易に世の中に流されない「賢い人間」に
なるためには、どのような心構えを持つべきだろうか?
この問いが、本書のもうひとつの主題であります。
ここで、本書の内容構成を要約しておきましょう。
①「第1章 何故、科学から逃げようとするのか」
※一般大衆が、科学を避けようとする姿勢には、
「考えること・感じることの面倒くささ」といった
無意識にも楽をしたいという感覚があります。
著者は、難しい科学的知見まで知り尽くしなさいと、
一般大衆に要求しているわけではありません。
また、無理してまで科学に親しみ、楽しんで頂こうなどと
呼びかけているわけでもありません。
ただ、知ると知らないとでは、人生において
大きな違いが生じることに注意を呼びかけられています。
人間は、言葉による曖昧なイメージ像によって、
時には「生命」まで危険にさらすことになりうる
可能性(本書刊行時は、東日本大震災の「直後」)を
「津波」の事例によって、わかりやすく説明されています。
「言葉」より、より厳密な「数字」によってイメージできる
知覚能力を高める大切さにも触れられています。
このような観点から、科学に興味関心を持たないでいることは、
あなたの人生にとっても「大損」ですよと問いかけられています。
さらに、文系・理系と早くから人生の選択肢を狭めさせるような
現行教育にも批判の目を向けられています。
「算数・数学」や「理科(化学等)」が苦手と言っても、
それは、ある分野のごく一部だけに限定されるかもしれませんし、
いわゆる「受験用知識」によって、錯覚してしまっていただけかも
しれません。
そのため、こうした学生時代の「理系」に対するイメージ意識を
捨てて、再度、子どものような純粋な知的好奇心から
科学的思考法を学び始めませんかと誘われています。
②「第2章 科学的というのはどういう方法か」
※ここでは、前にも当ブログでご紹介させて頂いた
科学といわゆるニセ(非・擬似)科学の差異を
精確に知っておくことが、人生における経済的な詐欺被害などに
遭遇しないための利点であることが語られています。
その過程で、科学には、誰が見ても「わかる」という
「再現性」の大切さと、「反証性」を許容することで、
皆とともに築き上げていく学問が「科学」だと強調されます。
「科学」を学ぶ効用や本質は、その「方法」にあるとも語られています。
また、意外にも『「実験」が科学ではない』ことは知られていません。
本章では、こういった現代科学的思考法の最前線について、
一般向けにわかりやすく触れられています。
③「第3章 科学的であるにはどうすれば良いのか」
※「科学」は、「公開性」・「公平性」・「慎重さ(より一層の確からしさ)」といった
きわめて「民主的手続き」を踏まえたうえで成立する学問であります。
「言葉」を真に受けず、慎重な姿勢で、客観的事実を確かめていくといった
行動規範が、特に重要であります。
「常に<疑問>を抱き、学び問い続けること!!」
当ブログも、どうしても「言葉」のみでお伝えしているだけに、
世の中の諸現象をすべて精密に描写出来るなどと傲慢な姿勢を
抱かないように注意は払っているつもりです。
それでも、「人間」はどんなに慎重な姿勢で歩もうと、
自ずと「個性的自我」がつきまとい、語りかける過程で、
元の世界像が歪んでしまいます。
もちろん、多種多様な書籍紹介を通じて、著者の人間的魅力や
それに触発されたうえでの、管理人特有の「個人的感想」も
含めた「批評」も取り入れさせて頂いていますが、
常に「可謬性(無知や誤解が含まれる可能性)」は考慮している
つもりですが、個人の「主観的意見」が当然含まれています。
ですから、読者の皆さんにも管理人の私的考察に囚われることなく、
ご推薦させて頂いている書物をご一読のうえ、
是非ともに考え、感じて頂きたいのです。
その過程で、身に感じた「知恵」が、あなたの精神的糧にもなり、
人生の何かにお役に立つことでしょう。
科学は、厳密さをとことんまで追究するところから、
暫定的な「仮説」を立てて、より詳細な精密性を求めて
果てしなく探究していきます。
このような冷静な積み重ねが、科学的思考法の強靱さを
担保することにもつながることが強調されています。
④「第4章 科学とともにあるという認識の大切さ」
※最終章では、「科学は畢竟、何のために存在するのか?」という
テーマで閉幕しますが、その答えこそが、
「人間の幸せのために」であります。
そして、このような生活に密着した科学観を養うためには、
子どものような純粋さを、大人も取り戻すこと・・・
その科学への知的好奇心が、むしろ柔軟で寛容な社会を
創出していく可能性があるのではないかということから、
私たちも日常感覚に科学的思考法を取り入れる利点があります。
著者によると、科学に対しては、「ごく普通に接すれば良い」との
ことです。
まとめますと、科学的思考法が、厳密で慎重な「言葉遣い」を
日常生活で伝授してくれるということです。
「言葉には、魂が宿る(言霊思想)」という視点も大切ですが、
「言葉を真に受け過ぎるのも、大いに<考えもの>」だということです。
本書では、本書刊行時期とも重なった東日本大震災を引き合いに
科学的思考を持つことの重要性が語られていましたが、
安易な「言葉遣い」が社会的にも「風評被害」を招いてきただけに、
今後とも慎重に世の中の動向に振り回されることなく、
安心して暮らすための「生活の知恵」として、
積極的に科学に親しみたいものです。
その意味で、「科学」は私たちにとって、身近な存在であります。
それが、『科学とともにあるという認識の大切さ』でもあります。
「科学」は「仮説」という名の「およそのモデル設計」から始まる!!
ところで、科学には厳密さが常に要求されることが
強調されてきましたが、言うまでもなく、
「人間」の思考法(認識)には限界があります。
最初から、すべての諸現象の仕組み(法則)を見通すことなど
出来ないことです。
そこで、「科学」は、ある一定の「仮説(およそのモデル)」を
立てるところから、「真実」へと迫っていく分析検証作業が始まります。
その過程でも、実験や観察(測)といった検証方法を用いることに
なるのですが、あくまで『実験結果は必ずしも<真実>ではない!!』
(本書131~135頁ご参照)は、意外に広く世に知れ渡っていないようです。
20世紀の物理学に「量子論」がありますが、
ここでも頻繁に「観測者問題」が話題になります。
現代科学は、実験観察の結果から、「事実」を確定させ、
そのうえで、諸法則「モデル」を浮かび上がらせていくという
手法から開始しないようです。
むしろ、「仮説モデル」を立てた後に、「精密」科学の道として、
実験・観察が始まります。
それは、マクロの「相対論」でもミクロの「量子論」でも共通しています。
技術的な課題が、諸実験・観察(測)に追いついていないという難問を
抱えてしまったからです。
20世紀以前からあった有史以来の科学的検証手法は、
まだ牧歌的だったということです。
つまりは、素朴な実在論と言っていいのか、
「荒削り段階」にあったとも言うべき時代でした。
しかし、現代科学では、すでに素朴な実在論といった考えすら
疑問に付されていますし、「客観的事実」探究の道が、
「主観的事実」探究の道へと「迷宮入り」してしまっている
雰囲気にあるようです。
とはいえ、「主観」と「客観」の「ズレ」を埋め合わせようという
方向で、科学も進展してきたことは間違いないようです。
そして、「人間」の認識の「限界(盲点)」を乗り越えようと、
科学は、ひたすら探究してきました。
それでも、「わからない領域は、まだまだ数多く残されている」のです。
ですから、「人間」は、何も「知らない」からと言って、
絶望することもないのかもしれません。
少なくとも、「知的好奇心」を失わない者にとっては・・・
この宇宙に存在する「未知」に驚きの目を持つことが、
すなわち「人類存続の鍵」を握るのではないでしょうか?
また、近日中に「人工知能」関連の書物をご紹介する予定ですが、
この「知的好奇心」や「素直な驚き」こそ、「人間」の「特権」でも
ありましょう。
その「未知」の前に頭を垂れる「知的謙虚さ」こそが、
「人間」の<いのち>を守りきる「最後の砦」だと思われます。
しかし、こうした「知的興味関心」を喪失させていく動向に
無頓着でもあるのが、現代社会の悪いところでもあります。
あまりにも<安直さ>が充ち満ちているからです。
「便利」な社会は、「人間」の知的感覚を麻痺させます。
また、「便利」は、「遊び感覚」をも喪失させる原因でもあります。
このような安直な「わかりやすさ」を求めすぎる現代社会が、
「人間疎外」(マルクス思想の<人間疎外観>ではなく、
一般的なイメージでのたとえですが・・・)を
より促進させているように感じられます。
まとめに入りますが、著者も、このような安易な正解を
早急に求めすぎる人間行動が、「思考停止社会」を招いてきた
のではないかと問題提起されています。
そうした「思考停止社会」の流れに押し潰されないための知恵こそ、
「科学的思考法」であります。
とりわけ、「わかりやすさ」は、あくまで「仮のもの」であって、
「割り切る」という思考の節約(単純化)も日常生活上の工夫としては
役立ちますが、いつも『割り切っているという自覚が必要』
(本書116~117頁ご参照)という知的問題意識を持つことを
忘れてはならないと、著者は強調されています。
これが、絶えず揺れ動く現代的社会風潮に流されない知恵であります。
ということで、著者も言及されておられたように、
自分自身を「文系」「理系」といった「狭い枠組み」へと押しやり、
本来誰しも持っている「人間的才能」を枯渇させないための栄養剤として、
本書をご服用されることをお薦めさせて頂きます。
最後までお読み頂きありがとうございました。
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≪「科学的思考法」に学ぶ「言葉」の使い方…≫
【数そのモノ】が、≪「科学的思考法」に学ぶ「言葉」≫として何を表現(意味)しているのか、されているのか、はたまた[思考者]にどうとどまっているのか、…
事例研究を探る。
SNSで日常生活(形態空間(ニッチ))に使われる四次元までの表象できる【数そのモノ】を探究した[言葉]との橋渡しの[量化問題]に、≪…森博嗣氏の【他者によって、再現できる。】…≫との≪…科学的な方法とは、の問い…≫に≪…どのように数式を使うのか分かりません…≫とある。
形態空間(ニッチ)に使われる【数そのモノ】は人類の獲得した6つのシェーマ(符号)で出来ているとし≪…「再現性」や「反証性」が許容する・される…≫と観るならば、≪…科学的リテラシー(科学的識別能力)には弱さ…≫というものが克服できるのではないか。
【数そのモノ】と[言葉]との橋渡しの[量化問題]は、[言葉]の表現(意味)の繰み取るものが[全称量化子]と[存在量化子]であると[思考者]にどうとどまってくるのが【数そのモノ】で在ったのだ。
『離散的有理数の組み合わせによる多変数創発関数論』は、≪…「仮説モデル」を立てた後に、「精密」科学の道…≫として観ると[創発関数論]・『創生方程式』・『[1 0]の意識』等が湧き立って繰るのだ。
【数そのモノ】の≪「わかりやすさと」≫その[本性]の≪「わかたようでわからない」≫が、ここにある。