中垣俊之先生の「粘菌~偉大なる単細胞が人類を救う」粘菌の驚異的世界観から人間の未来を探究する!!
「粘菌~偉大なる単細胞が人類を救う~」
イグ・ノーベル賞受賞者の中垣俊之先生が、
「目に見えない世界」に住む「粘菌」の活動実態を
分析考察されています。
そこから見えてきた世界とは??
今後の人類社会を大きく揺さぶるかもしれない
驚異的かつ神秘的な世界観でした。
21世紀現在、人工知能や情報ネットワーク問題にも
活用されるなど、「粘菌」の応用研究も盛んです。
今回は、この本をご紹介します。
「粘菌~偉大なる単細胞が人類を救う~」 (中垣俊之著、文春新書、2014年)
中垣俊之先生(以下、著者)は、現在、北海道大学電子科学研究所教授を
務められています。
著者は、「粘菌」研究を通じて、「情報ネットワーク理論」を始めとする
社会一般問題にまで及ぶ幅広い視点から応用研究されてこられました。
(なお、「情報ネットワーク理論」については、こちらの記事も
ご一読して頂けると幸いです。)
現在の最先端「情報科学」分野では、「粘菌コンピュータ」の研究開発にも
活用されているそうです。
とりわけ、2008年と2010年には「面白おかしく」科学研究の
最先端知見を広く一般向けに啓蒙された研究者を表彰する
イグ・ノーベル賞受賞者としても有名な方であります。
ここ数年で、王道の??「ノーベル賞」よりも注目されるようになった
イグ・ノーベル賞ではありますが、この賞の創設理由こそ、一風変わっていますが、
研究内容の中身は、至って、真面目な研究成果の報告であります。
これまでのところ、科学だけではなく、あらゆる学問が「専門分業化」され、
実際のところ、現代社会の最先端では、どのような研究がなされているのかが
よく分からなくなってきた現状にあります。
そのような時代になると、一般人の「知的好奇心」も薄れていく一方で、
専門家自身も自信喪失しかねない学問教育環境が進展していきます。
このような「消極的」な世界観から、もう一度、学問の「原点」へと
立ち返りながら、子どもの頃に抱いていたような純粋な知的好奇心や
幅広い社会に対する興味関心を取り戻すためにも、画期的な賞であるようです。
今後とも注目していきたいイグ・ノーベル賞であります。
さて、そんな大変独創的な著者ですが、
本業は、情報科学や複雑系知能科学の未開拓領域を切り拓いていくために
役立つとされる「粘菌」を始めとした「単細胞生物」の知性など、
微生物が住む「超」ミクロな世界を分析観察しながら、
人類における、あらたな世界観を見出す端緒となる有益なお仕事をされています。
ここで、「粘菌」と一口に言っても、様々な分類があるようですが、
著者は、中でも「真性粘菌(変形菌)」というアメーバ状にも変形する
モジホコリという「種」を主たる研究対象にされているといいます。
(本書72~76頁ご参照のこと)
著書には、本書より「より専門的」な一般向け科学啓蒙「新書」として
『粘菌~その驚くべき知性~』(PHPサイエンス・ワールド新書、2010年)が
あります。
本書では、「粘菌」にまつわる「専門知識」の提供については、
上記「新書」の縮小解説版に当たるようですが、
著者が長年、精魂込めて、研究分析されてこられた「驚くべき」
「粘菌生活」の一端が、軽妙洒脱なテンポで解説されていきます。
まるで、「講談師」のようですが、さすが「イグ・ノーベル賞受賞者」。
腕が冴え渡っています。
さて、今回、管理人が「粘菌類」をテーマに取り上げさせて頂いたのも、
この「粘菌生活」こそが、「マクロ世界とミクロ世界の結び目(ミドルワールド)」
だからであり、精神的な観点から言い換えると、
「中庸(中道)を目指す分岐点」だからです。
(なお、「ミドルワールド」については、こちらの記事もご一読して頂けると幸いです。)
「伊勢志摩サミット」も閉幕し、次なる「明るい未来」への一手を踏み出すための
ヒントとしても、数多くの「心ある」人々にご活用して頂けるものと信じ、
「粘菌類」を主人公とする本書をご紹介させて頂こうと、ここに導かれました。
本書では、「粘菌生活」から見えてきた世界観を、幅広く「人類社会」にも
応用活用していこうとの「積極的」な姿勢で解説されていますが、
本書のもう一つの「特典」が、類書では、あまり触れる機会も少ない
「イグ・ノーベル賞」の「舞台裏秘話」にも章が割かれているところにあります。
ですから、これから、「科学者」として世に羽ばたこうとされる若手研究者の方にも
是非ご一読して頂きたい1冊になっています。
ということで、『「粘菌」・・・この偉大なる単細胞生物が人類を救う!!』という
視点を学ぶことで、皆さんの視野をも拡大して頂く助力になるものと思い、
この本を取り上げさせて頂きました。
「生活実態」も未解明な「物質」と「生物」の境界上に住む謎の「物体」!?それが「粘菌」の面白さです!!
最初に、本書の内容構成について要約しておきます。
①「第1章 イグ・ノーベル賞顛末記」
②「第2章 粘菌の知 ヒトの知」
③「第3章 ヒトもアメーバも自然現象」
④「第4章 粘菌のためらい-科学と文学のあいだ」
⑤「第5章 不安定性から読み解く秩序づくりのしくみ」
⑥「第6章 ヒトは粘菌に学べ」
第1章の「イグ・ノーベル賞顛末記」を除き、
第2~6章では、「粘菌」研究の成果から浮かび上がってきた知見とともに、
人類社会における幅広い有効活用法について、わかりやすく解説されています。
特に、最終章の「第6章 ヒトは粘菌に学べ」では、
皆さんの「勉強術」や「仕事術」に活かせる著者からの熱いメッセージが
届けられます。
「粘菌」の柔軟性(伸縮自在性など)から、
「まずは、大雑把に物事を捉えるところから、着手すべし!!」との教訓が得られます。
最初の「目の付け所」など、小局面から大局面に至るまで、
俯瞰的な視点を持つとともに、「大胆かつ繊細に!!」といった
私たちが、日頃の仕事などで、よく熟練達者から指摘される
実践面におけるアドバイスとも似た側面が、「粘菌生活」にも存在しているといいます。
この「大胆かつ繊細に!!」は、「小着手」の局面では、「大胆に」であり、
「大着手」の局面では、「(慎重に)繊細に」進捗させていくことが、
安定かつ信頼のおける「仕事」を成し遂げることが出来るとの知恵でもあります。
俚諺で言うところの「始めは処女のごとく、終わりは脱兎のごとし!?」のように、
勢いというものは、最初は「ためらいがち」でも少しずつ行動していくうちに、
「あるべき場所」へと適切に運ばれていく性質があります。
この「勢い」のプロセスこそ、「粘菌」の自由自在な「持続的伸縮可能体」の動きとも
重なるようです。
これまで、私たち「人類」の立場からは、「人類」こそ「万物の霊長」と
傲岸不遜な態度で、地球の「生態系」を動かしてきたところがありましたので、
そもそもの「人類」の「生みの親」に非常に近しい「粘菌類」のことを
「単細胞生物」だとみなしてきました。
しかし、こうした偏見こそ、「とんでもない思い違いを犯している!!」と、
著者は、「粘菌生活」を観察し、分析考察される過程で発見されました。
『決して、「粘菌」さんは、「単細胞な<愚か者>」などではありません!!」と
強調されています。
これは、言い換えると、「結果」から判断する生き方を見直そうとの視点を
私たち「人類」に提供してくれています。
現状では、「人類」の方こそ、これまで「単細胞な<愚か者>」のようなイメージで
捉えてきた「粘菌類」よりも「問題児」だとも言えそうです。
むしろ、私たち「人類」の方こそ、「単細胞=近視眼」的な生物だったのでは
ないかと、「狭く<視点>が固まってしまった」生き方に反省を迫られます。
著者は、この「第6章」で、
数理系の知見から得られた「1次近似を粗くとること」の重要性、
さらには、文明生活の利便性とともに日々見失われていった
「ゼロ次近似?=ゼロベース思考(動物的な勘!?)」を取り戻すためのヒントを、
「粘菌生活」の実態から抽出されています。
「結果」のような「実利面」だけから見通していたのでは、
あらたな「発見」も生まれ出ることはないだろう・・・とも、
現代教育や現代社会における「俗っぽい」低次な問題意識に対して、
警鐘も鳴らされています。
最初の「踏みだし」は、「大胆な跳躍でもいい!!」から、
ある程度の「アバウト思考」から面白い発想も創出してくるのではないかと
「粘菌」とともに過ごされてきた日々の教訓から提案されています。
この「アバウト思考(おおよその見通し、共通感覚意識)」から、
私たち「近現代人」は、離れていっています。
そのために、「どうでもよい」場面で、些末な論争(足の引っ張り合いなど)を
しています。
それが、「平和」からも遠ざかっている原因だったのではないでしょうか?
「大同小異」こそ、「粘菌生活」から見えてきた世界観とも絡むようです。
今回は、俚諺を使った比喩表現を多く活用させて頂いていますが、
「粘菌類」の動きが、「詩」や「牧歌」的とするならば、
「人類」の動きは、「散文」的だと例えることも出来ましょう。
とはいえ、「散文」的な生活になればなるほど、「ゆらぎ(遊び心)」を
喪失させていくようです。
「散文的生活」が、「注意力散漫」な現状をも「創発」させてきたのでは
ないかとも思われます。
ここで、注意深く勉強熱心な読者の方ならお気づきであろうかと思いますが、
こうした「ゆらぎ」や「創発」といった、これまでも当ブログ記事で
ご紹介させて頂いた「複雑系科学」の世界観が、
「粘菌生活」にも「発見」されたようです。
「粘菌生活」の「あれこれ」については、本書でわかりやすいイメージ像とともに
詳細な解説が提供されていますので、本書をご一読して頂くことに委ねさせて
頂きますが、「粘菌」が、不思議な「生物」であることは、
現在でもまだまだ、一般には知られていないようです。
「粘菌類」は、「人類」の起原よりも古いとされている割には、
その「面影」の一端すら捉え切れていないようです。
「目に見えない」世界(「超」ミクロ世界)に住まう「生物」であるため、
「人類」の中でも、特異かつ奇特な人物の前でしか、その姿を現してくれないようです。
そうなんです。
「粘菌」さんは、大変デリケートな「生物」のようです。
「粘菌」さんが、「発見」されたのも、顕微鏡が「発明」されてからのこと。
パスツールや当ブログでも陰に陽に応援して頂いている
「学問の神様」南方熊楠さん(記事①などご参照のこと)などが、
この「粘菌類」といった微生物の世界を徐々に紹介していって下さいました。
21世紀現在から、今後の人類の未来社会へ向けた「世界観」すら変貌させるだろうと
期待されているのも、「粘菌」さん一族であります。
その「粘菌」さんは、どのような「生物」なのでしょうか?
著者によると、「粘菌」さんは、「脳」や「神経」などもなく、
ただ生活環境に合わせて「変幻自在」に形態を変化・変容させていく「生物」だ
とのことですが、「生物」と言っても、人類が考案した「分類思想」の外へと、
いとも容易く、はみ出していく性質があるといいます。
面白いですね~、「粘菌」さんの世界にも、微細部分では、
「競争(合従連衡や分裂差別化)」の動きもあるようですが、
大きな「マクロ」な全体的「生態系」の局面になると、
きちんと「整列」しているようです。
どうやら、この「融通無碍」な行動形態が、「粘菌類」の
強い繁殖的生命力を養い守ってきた要因のようです。
「自己組織化」も、すでに、当記事末の「関連記事サイト」で
ご紹介済みでありますが、
「粘菌」さんは、きちんと「自己学習」が出来るのです。
「粘菌類」は、生活環境によって、「固体(カビのような固形物質)」にもなれば、
「液体(アメーバ状のもの)」、胞子状のような「ホコリ」となって、
「気体」のように舞い散る「変形体<生物>」であります。
「固体」状態では、まるで眠っているように見えますが、
生きていることには相違ないので、「生物」であります。
とはいえ、このように「静的<無機物>」から「動的<有機物>」へと
軽く世界を「輪舞」して生きていますので、
私たち「人類」が、想像したり、考えたりする範囲内における
「分類思想」の「箱」には収まりきれない「生物」であります。
『「粘菌」さん、恐るべし!!』であります。
ここから、「物質体(無機物)」と「心・意識体(有機物)」の変容過程や
ひいては「生物」の発生起原論争にも決着をつけるべき鍵を握っている
「物体」と目されているだけに、多くの「生物学者」の間でも
話題になってきました。
このように、「粘菌」さんは、私たち、通常の「人間」の言葉では
精密描写出来ない「気難しい」存在のようです。
まとめますと、「目に見えない」領域に住まう「粘菌」さんが、
まさしく、「草葉の陰」から、私たち「人類」の生存環境を
見守ってくれている貴重な存在だということです。
粘菌類に「不安定」環境下で生き延びる知恵を教えてもらおう!!
このような生活環境によって、「変幻自在」な動きを見せる
粘菌類ですので、人類以上に変化に強い「生物」のようです。
それはそうでしょうとも・・・
「粘菌類」の歴史は、「人類」の発生起原よりも古いのですから。
それでなくては、今日まで生き長らえることすら叶わなかったでしょう。
「人類」の歴史も、「変化」とのたたかいで明け暮れてきましたが、
その「変化」を御すに当たって、「人類」は「道具」を「発明」しました。
その「道具」で、「変化」に強い「生体防御壁」を築き上げてきました。
ところが、ここにきて、「道具」が「人類」の生活環境を飲み込もうと
しているようです。
そこで、今後の未来社会における「人類」の「不安定」な生活環境の中での
「安定」した生活基盤をいかに確保していくのが「最適解」であるのか、
只今「論争中」でありますが、この方向性についてのヒントを
「粘菌類」から教わりましょうということです。
「粘菌類」の驚異的な姿は、「脳」や「神経」がないにも関わらず、
敏感なセンサーを持っているらしいことです。
現在、人間の脳の仕組みについても、営々と研究解読されている最中に
ありますが、「脳科学(神経科学)」などでも、脳内における
「電気信号(<意識情報>の流れ)」が伝達されていく構造過程までは
一応の「仮説」を立て、医療分野での応用研究にも活用されていますが、
「そもそも論」として、その「電気信号(冷たい科学的表現で恐縮ですが・・・)」
が、「どこから発生(飛来)してきたものなのか??」など、このような
「生命の<最初>の跳躍意志??」のほとんどが「未知の領域」にあるとされ、
容易なことでは、解明され得ない状況にあるといいます。
管理人が、温かい表現で言い換えさせて頂きますが、
要するに、「心(意識の知覚作用)」や「意識そのもの(最初の<ひらめき>??)」が、
どのようにして創出されていくのかは分からない状況にあるということです。
科学者的には、いや、それが、「遺伝子情報」の中に最初から設計デザインとして
組み立てられ、人生の方向性まで「計画」されているのだから、
「心」や「意識」などといった曖昧模糊とした「仮説」を出してきて、
「専門外」の素人は、「つべこべ言うな!!」との見識かもしれませんが、
そのような「唯物的」志向性では、何も見出されることはないでしょう。
なるほど、科学のルールとして、「再現性」や「反証性」といった視点は最重要で
ありますが、私たちは、「科学者」以前に、「心」を持った「人間」なのですから、
「学問的良心(純粋な知的好奇心や驚き=センス・オブ・ワンダーなど)」までは
失ってはいけないだろうと思われるのです。
とはいえ、「擬似科学」的なものが、世の中を混乱させてきたり、「実害」も
及ぼしてきた教訓もあるので、見識ある科学的精神は、
今後とも学び続けなければなりません。
そのことは、論を待たないところです。
ただ、個人的な問題意識として、このところ、「良心的」な科学者が
減少していっているように見受けられるだけに、
素人ながら「科学」の将来を憂慮しているのです。
「科学」が築き上げてきた世界観は、誠に尊重に値するものであり、
今後とも守り育てていきたい知恵ではありますが、
すべての「学問」の目的は、「心」を持った「人間」に奉仕することであります。
ましてや、「万物の霊長」を今後とも自覚するのであれば、
すべての「生物」、「無生物」を問わずに、森羅万象への敬愛心を
育てながら、「学問」しなくてはなりません。
「心」とは、世界「創造」の仕組みであり、原動力であります。
その「心」を喪失させることは、世界の「破滅」をもたらすことにも
なりかねません。
「粘菌類」は、「人類」のような「道具」こそ持ち合わせていないかも
しれませんが、生態系に合わせた「無意識」のセンサーが、
精確に働いているようです。
「人類」以外にも、「心」や「意識」など存在するのかといったテーマは、
いずれ機会を改めてご紹介させて頂くこともあろうかと考えていますが、
このように観察してみると、やはり、「人類」以外にも「自然の叡智」として、
「心」や「意識」といった「生命反応センサー」は組み込まれているのでしょう。
問題は、そのメカニズムをどのように「解釈」するか・・・
その「解釈」にこそ、「人間」らしい「心」が込められていなければなりません。
言うまでもなく、この地球上において、「人類」は、
多種多様な「森羅万象」とともに生かさせて頂いています。
その当たり前の「真実」から目を背けることなく、謙虚な姿勢で、
「真理(自然の叡智や宇宙の法則など)」を探究していきたいものです。
そこに、今回の「粘菌類」が教えてくれる重要な教訓があります。
著者は、この「粘菌類」の驚異的世界観から、一見すると、
「無機質」になりがちな、「情報ネットワーク」などに
転用させながら、「有機的」な「愛」に満ち溢れた「社会システム」にまで
進化させていこうとの、優れた「心」を持った科学者であります。
前にもご紹介させて頂きましたが、「ヒトの本性」は、
本来は、闘争しながら「自滅」するような選択肢を採用しないように
仕組まれているはずです。
その原点を思い出すためにも、まだまだ「心」や「意識」といった
「創造そのもの」に関わる造化作用研究は続けていく必要があります。
それが、「学問=学び問い続ける営み」であり、
「学問」を奥深く探究すればするほど、「謙虚さ」や「慈愛の念」など、
高次意識へと自然に誘導されていくはずであります。
その過程でこそ、有意義な「発見」もあり、
「持続可能」な「雇用」も創出されていくことでしょう。
そのためにも、「近視眼的発想」を慎み離れ、思慮深くならなければなりません。
ここで、管理人も在野の探究者としてひらめいてきたのですが、
本書で、「粘菌」さんの動き方を著者に教えて頂いた訳ですが、
この動き(特に、<管>の生成過程)をともに考察させて頂いた過程で、
前にもご紹介させて頂いたロジャー・ペンローズ博士のアイディアを
連想させられました。
これを、「人間」の「脳内」の「心あるいは意識」の生成過程に
目を転じてみますと、ここで「微小管」仮説の存在が思い出されてきました。
人間の「脳内」では、単純な「電気信号」の伝達反応だけではなく、
「微小管」と脳内の隙間に幅広く浸透している「水分子」が
相互協力しながら、大きな役割を果たしているといいます。
ただ、「人間」の「脳」は、「脳」や「神経」がない「粘菌類」に比べて、
コンピュータの「局所」型統合処理装置のように、情報処理を「一極集中化」で
機能させるなど、非常時には「弱い」生体システムになっています。
それに対して、「粘菌類」は、「自律分散化」による「離合集散」が、
可能な「生体システム」になっていますので、非常時に「強い」仕組みに
なっている点が特徴です。
「ゆらぎ」といった「遊び部分」が働くために、機動的な動きが可能で、
「リスク分散」にも柔軟に対処でき、「自動安全装置」が、その生体機能に
組み込まれているといいます。
この対比を見てわかることは、
「人間」は、常に「水分補給」をしなくてはならない訳ですが、
現代社会で生活していくに当たっても、意外にも「省エネモード」に
入りにくい生活環境にあります。
なぜなら、「粘菌類」のような「遍在(非局所)」的融通性といった
外部環境に柔軟に適応し得るような「変形性」が「人間」には備わっていないからです。
このように本書を読み進めながら、独自に分析考察してみると、
社会適応度もサイズに依存するという視点が得られます。
(ちなみに、生物のサイズとエネルギーの関係性については、
こちらの記事もご一読下さると幸いです。)
そのあたりを鑑みると、『「粘菌」さんよ、あなたは強かった!!』
『よくぞ、ここまでご無事に生き残ってこれましたなぁ・・・』と
胸が熱くもなり、感慨無量な思いが、心の奥底から湧き上がってきます。
他にも「粘菌」さんの「すごさ」は多々あるのですが、
そこは、皆さんのお楽しみに取っておきましょう。
なお、「物から心へ」は、今後とも大切なテーマでありますので、
適宜、機会を設けてご紹介させて頂く予定でいます。
乞う、ご期待であります。
何はともあれ、『「粘菌」さんは、単細胞な<愚か者>などでは、
断じてない!!』ということだけは、確かなようですね。
本書も、そんな科学者以前の人間としての「良心」や「愛情」、
「学問する歓び」や「生きる歓び」が、まっすぐに伝わってくる好著です。
ということで、本書は非常にユーモア感覚にも富んだ、面白い本ですので、
皆さんにもご一読されることをお薦めさせて頂きます。
最後までお読み頂きありがとうございました。
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