「やわらか発想・寄り道思考のススメ!!」森毅先生の「情報化社会を見越した人生論」今だからこそ斬新なエッセイ!!
「高度情報資本主義社会」
今だからこそ、読み返してみたい1冊があります。
人生は、「考えすぎないほうがうまくいく」
マスメディアでも人気のあった「数学者」森毅先生。
「やわらか発想・寄り道思考のススメ!!」
21世紀の「情報化社会」を見越した慧眼の持ち主でした。
現代社会は、ますます「個人の力量」が社会に大きな影響を
及ぼすような環境となってきています。
「人生で迷子」になって困っている方には、是非一読して
頂きたい本です。
「考えすぎないほうがうまくいく~やわらか発想・寄り道思考のススメ」(森毅著、三笠書房、知的生きかた文庫、1998年)
森毅先生(以下、著者)は、かつてマスメディアでも
人気のあった京都大学教授で「数学者」でした。
残念ながら2010年にお亡くなりになりましたが、
著者の「やわらか発想・寄り道思考のススメ」は、
21世紀の「高度情報資本主義社会」にぴったりあった「人生論」です。
著者は、何でも「枠に嵌めたものの見方」を嫌われたので、
このような「書き方」は著者の「本意」には本来ふさわしくないのかも
しれません。
著者と管理人とのご縁は、高校生の時でした。
「受験数学」に苦労していた時期に、著者の「数学受験術指南」(中公新書、1981年)
という本に出会ったことからです。
一読して管理人の「数学者に対するイメージ」が一変!!
文系にも理解できる軽い「エッセー調」が気に入りました。
単なる「受験論」だけでなく、「人生論」についても面白おかしく
書かれていて、その後の人生にも役立っています。
受験生の皆さんも、秋から冬にかけては「追い込みの時期」で大変かと思いますが、
勉強に疲れた時などに一読されると良いと思います。
2015年現在は、「中公文庫」の方で出版されているようです。
「受験数学」は、いわゆる「本格的な数学センス」とは違うみたいですね。
「受験は数学だ」(和田秀樹先生)やNHKでもご活躍されていた秋山仁先生には、
大変お世話になりました。
ちなみに、秋山仁先生も面白い「エッセー」を多く物しておられます。
最近では、藤原正彦先生など「数学者」の方が書く「エッセー」は、
文系学者よりも論理的なせいか面白いですよ。
「数学が苦手な」方は、是非こういった「エッセー」から入ってみて下さいね。
「数学観が一変します!!」
理学部数学科に進んで、将来「数学者」を目指すならともかく、
とりあえず「受験数学を突破」するには、「技術」として考えてみて下さい。
先輩からの「老婆心」です。
というわけで、前口上はこのくらいにします。
「人生で迷子」になってしまった感のある方も「社会の大激変」で
たくさんおられると思いましたので、取り上げさせて頂きました。
人生「複線化」計画
著者の持論は、「人は一生に4回生まれ変わる」です。
人生80年として「20年単位」で柔軟に人生を転換させていこうと・・・
当たり前かもしれませんが、人生を何も「直線的に」イメージして
「目標設定」して生きる必然性なんてないんですよね。
そんな「当たり前」のことに目覚めさせてくれました。
実は、管理人がこの本に直接出会ったのは「大学生」の時でした。
映画でも「リング」や「らせん」といった「時間観」を考えさせる
テーマの作品も多かったのを覚えています。
ちょうど「IT革命」と「分子生物学」の進展にともない、
旧来の人間の「思考法」が揺さぶられた時期だったので、この手の
「科学的オカルト作品」も大ヒットしたのでしょう。
それはともかくとして、人生も「らせん」階段のように進んでいいんだと
社会に出る前に気づけたのは大変感謝しています。
管理人も「優等生思考」の「枠」にはまっていて「不器用」なもんですから、
「社会に出てからも苦労するなぁ~」とは、うすうす感じていました。
今から振り返ると「いい時期」に出会えてホント良かったです。
著者は、人生を「あまり重く考えすぎるな!!」と語ります。
いずれにせよ、「固定化した石頭」では人生が死んでしまいます。
だからこそ、「やわらか発想・寄り道思考のススメ」をヒントに
人生を再度見つめ直してみませんか?
「社会」主義ではなく、「社交」主義で生きよう!!
さて、現代の「学校教育」を見ていると「私立校」も「受験進学校」になってしまって
個性がなくなっているとも語っています。
「私立校」なら「多様な教育方針」があってもいいのに、それを活かせていないとも・・・
本来は「公立校」も「私立校」のように多様性を追求して変化していくべきなのに、
そのモデルである「私立校」がこのようなあり様では先が思いやられると・・・
世の中は「大激変」が進行中なのに、教育現場では管理化が進む一方だと憂慮されています。
比較的「頭の柔軟な」若い時期にこんな「思考法」を植え付けられると、
これから社会に出て行く「若者」は苦しんでしまいます。
大人でも、「大激変」中の社会では迷ってしまいます。
どのような「社会」を想定しているのか?
それを各人が描き出していくことが「多様性ある社会」を創造していく
うえでも大切ではないでしょうか?
「社会不適応者」とは何者か?
むしろ、「社会」の方が激変しているのにこんな「言葉」で人間を定義する方が
無理があると思うのです。
なぜなら、「社会」も「人間」も固定した「生き物」ではないからです。
意外に、人類は「人間と世界」の関係をまだまだ固定したものととらえ、
認識に限界があるようです。
著者は、大の「全体主義嫌い」でした。
その経験から「あるべき論」については嫌悪感を抱いてたようですね。
人間交際のコツについても、「社会」主義ではなくて「社交」主義でいこう!!と
語っています。
「社会」主義は、どこかに「あるべき社会」を想定した中で、そのルールに乗っかった
「社交術」を要求されるので堅苦しいと・・・
その場その場でのピンポイント「社交」主義の方が「生きやすく」なるのではないか、
とも提案されています。
「人生がいつまでも長く続くと思うから、人間交際も苦しくなる」のです。
皆さんも、著者の「やわらか発想・寄り道思考のススメ」をヒントに、
「深刻に考えすぎないで」生きてみませんか?
また、この本の「読むこと、書くこと」と題した章も「文筆家」にとっては
役立つ知識や知恵が満載です。
皆さんも、人生をしなやかに考えてみましょう。
「考えすぎないほうがうまくいく」
なお、本文でご紹介しました「秋山仁」先生の著書
「数学流生き方の再発見(数学嫌いに贈る応援歌)」
(秋山仁著、中公新書、1990年)
も、お薦めしておきます。
最後までお読み頂きありがとうございました。
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≪人生をしなやかに考えてみましょう。≫
[論理]・[数学] 〘数そのモノ〙を≪しなやかに考えて≫を「指数・対数のはなし」森毅著で≪しなやかに・しなやかに≫観てみたい。
R感覚とP感覚 の項で、
R感覚は、実数(real number)の数直線Rのイメージになる。
≪Rの世界では、タイムスリップすることで、べつの時間を考えることができる。この場合の時間経過が加法になる。Rを支配する法則は加法なのである。≫
≪Pというのは普遍的に用いられる記号ではないが、正数(positive number)のブランドと思ってほしい。 … 倍の乗法は、Pで演じられる。x倍してからy倍するのがxy倍とか、x倍したのを逆に戻すと1/x倍とか、不動はモトノママの1倍とかである。つまり、倍の乗法の世界は、半直線のPなのだ。≫
R感覚とP感覚の双対性は、
R感覚 P感覚
+∞ +∞ ≪RもPも右の涯は、ずっと先の+∞へ開いている。
t+s xy
0 1
-t 1/x
-∞ 0 ≪左の端はRでは-∞なのに、Pでは0である。≫
≪ … どんどん小さくしていった涯としての0、これはP感覚の0である。R感覚の0は基準として、まんなかにドッシリかまえている。R感覚では中心、 P感覚では周縁、ここに0の感覚的二重性がある。≫
これらを踏まえて、直交(平面)座標(第一象限)に正比例直線と反比例曲線の交点からの≪R感覚≫への数直線1~eまでの反比例曲線の積分は1であることは、西洋数学の教えるところである。この積分の1を含む長方形を『自然比矩形』とする。
この『自然比矩形』には、算数の四則演算ができていることを西洋数学の成果のカオス表示(超越数[e π])と虚数(i『動的作用を持つ』)で観て取れる。
森毅の次の言説は、示唆に富む、
≪人間にとって0が異様にうるさいのは、R感覚とP感覚をかねているゆえだろう。 … 分析的知性とはいくらかそうしたものだから、仕方がない。≫
『数理哲学としての観(vision[作用素(1 0 ∞)])』を万人が受け入れるなら、算数(離散)と数学(連続)との橋渡しができる。
【数そのモノ】のエナクティブ・アプローチからの『離散的有理数の組み合わせの多変数創発関数論 命題Ⅱ』の[自己無撞着の摂動方程式]である種の[離散対数問題]と生るのを
[自己無撞着の非摂動方程式]として得られた助変数(パラメータ)が【数そのモノ】の言葉・論理を超えた【数そのモノ】を人間に繰れたのだ。
≪R感覚の0は基準として、まんなかにドッシリかまえている。≫からの直交(平面)座標(第一象限)の『自然比矩形』は、有理数で捉えていた数直線を改めて実数として人間に繰れたのだ。そして、直交するとの操作(i)を従えて『自然比矩形』の経に積分から(二次元)の1と双対する一次元の1とが手(連続性)を繋ぐことになる。
『自然比矩形』の二次元の数(e-1)から撥部(二次元の数1)の差(ピック部)を【数そのモノ】の区切り(割る)とする『創発係数』(e-2)を人間に繰れたのだ。
R感覚の正数の数直線は、極座標の円と中心に双対する。
直交(平面)座標でのP感覚を只管すると、
≪どんどん小さくしていった涯としての0、これはP感覚の0である。≫
これは、『自然比矩形』のeから1へ向かうことであり、
≪P感覚≫の1から0を人間に繰れたのだ。
このことが、エナクティブ・アプローチからの『縮約(縮退)自然数』である。
極座標でのP感覚を只管すると、
≪R感覚の0は基準として、まんなかにドッシリかまえている。R感覚では中心、≫は、
極座標の中心であるが、数え始めようとすると≪周縁≫に分離する。
≪ここに0の感覚的二重性がある。≫
森毅の≪ ≫の言い回しは、『数理哲学としての[作用素(1 0 ∞)])』と西洋数学の成果のシェーマ(記号)とを十進法の関係で構築している。
シェーマ(記号)としての(1 0 ∞)は、≪分析的知性≫を持ち【数そのモノ】の自然数【0 1 2 3 4 5 6 7 8 9】とは、違う≪二重性≫がある。
特に、(1 0)の≪分析的知性≫は、エナクティブ・アプローチへの門を開いてくれている。
R感覚は、子供、P感覚は、大人 或いは、この感覚を行き来できることが ≪人生をしなやかに考えてみましょう。≫ てことか?