内山節先生の『新・幸福論~「近現代」の次に来るもの』何もかもが遠くへ逃げていく時代の生き方を模索しよう!!

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『新・幸福論~「近現代」の次に来るもの~』

東京(都会)と群馬(地方)の2カ所に生活拠点を

置く実践的哲学者である内山節先生が、来るべき近未来に

おける「新・幸福論」について考察されています。

私たちが生きている現代社会の原点にある問題点とは、

どこから生じてきた現象なのでしょうか?

少なくとも、「近現代」という時代が大前提とする

「人間観」にあるようです。

今回は、この本をご紹介します。

『新・幸福論~「近現代」の次に来るもの~』        (内山節著、新潮選書、2013年)

内山節先生(以下、著者)は、1970年代から

都会と地方の2カ所を生活拠点としながら、

野性味あふれる独特なスタイルで、

実践的哲学をされてこられました。

現在も、この二重生活スタイルを前提に、

「経済環境論」を主にして、地方と都会を

比較しながら、現代社会における様々な問題点に

取り組まれています。

著者の優れた点は、かつての「マルクス経済学者」の

ような政治的経済論としてではなく、資本主義制度の

根本的問題点についても、地に足のついたフィールドワークを

中心にした実践的経済哲学論を展開されてこられたところに

あります。

昨今、「里山資本主義」やら「里海資本論」などが

大流行しており、政府もアベノミクス「第3の矢」として

都会と地方の格差を是正しようと、「成長戦略」に力点が

移動しつつあります。

ところで、これには「地方の視点」が欠け、「都会の視点」を

そのまま取り入れようとする点が、大きな矛盾を引き起こすとして

実際的な見地からも、根強い疑問の声も上がっているようです。

「地方には地方の特色にあった経済対策があってもいい!!」

そのためには、「都会中心」の近現代型経済システムよりも、

江戸時代のような地方独自の地場産業活性化対策法を活用した方が

よいのではないかとの意見も出されています。

著者もこれまで、「貨幣論」や「里村の思想」などを通じて、

独自の「共同体と経済の関係」について考察されてきました。

その多大な功績が、最近『内山節著作集』

(全15巻、農山漁村文化協会編)として完結し、出版されました。

21世紀になり、長引く不況の波の中で自力脱出を図ろうとする

積極的な若者たちの中には、都会に見切りをつけ、地方へ「里還り」

しようとする人々も多く出現してきているようです。

とはいえ、長年生まれ育った「都会的生活感覚」を「地方生活型」へと

切り換えることも困難なようです。

つい先だっても、新聞で「ニート青年」の「田舎暮らし」が話題の

ニュースになっていましたが、IT活用に長けていたからといっても、

「里村定住(定着)」には、ほど遠く、十分な生計費を稼ぎ出すには

一時、「里村から降りざるを得ない」様子も取材されていました。

そのため、まだまだ「課題」も多々あるのではとの疑問も

提示されていたところです。

期待を胸に膨らませて、都会から地方へ移住するのは自由ではありますが、

大きな「失敗」だったと後悔しないためにも、「地方経済の特色」などには

あらかじめ準備学習をしておいた方がよいかと思われます。

ということで、著者も「近現代経済システム」に疑義を提出されながらも、

現実的な「地方暮らしのあり方」も提起されてこられました。

今回は、現在私たちを取り巻く「政治経済システム」は、どのように変化して

きているのか、また、今後どのような方向性で「新しい展望」が

拓けていくのかについて、考察されています。

その意味で、学ぶべき点が多々あるかと思われましたので、

この本を取り上げさせて頂きました。

イメージによって創造されていく世界観

著者によると、私たちは基本的にイメージによって世界観を

形成していく生き物だとのことです。

人類は、これまで「言葉」を操作しながら、その時代ごとに

異なる世界観を構築してきました。

人間という存在は、器用と思われる反面、不器用な存在でも

あります。

時代の「安定期」においては、主流秩序の「枠組み」に安住することも

出来る一方で、「不安定期」にひとたび突入すると圧倒的な不安感から

必死になって「枠内」に留まろうとする人間と「枠外」へ突出していこうと

する人間の間で、不和対立が生じてしまいます。

つまり、人間は素早く頭を切り換えるのが下手な生き物でもあるようです。

それは、有能だとか無能だとかという問題ではなく、生物的本能による

反応だそうです。

生きるために、「安定ゾーン」に留まろうとする心理的な防御反応のようです。

人類史を見ると、新しい社会変化に適応しやすいタイプから徐々に、

「旧時代の枠組み」から突出し始め、時間を追うごとに「新時代の枠組み」へと

転換していったことが理解されます。

ただ、相対的に急激な変化に見舞われた時には、危機の度合も過度に高まります。

戦争や革命などなど・・・

21世紀現在も、技術革新の急激な変化と経済変動における調整が大きく

ずれていっているようなために、混乱が生じています。

こうした大激動の時代には、どのような姿勢を取れば、混乱した頭を整理して、

生活切り換えがスムーズに進むのかは、誰しも重要な課題となってきます。

こういう時こそ、「イメージの活用」です。

新しい時代に「楽観的な姿勢」で積極的に挑んでいくのか、それとも、

「悲観的な姿勢」で現状に必死になってしがみつこうとするのかによって、

個人の将来も大きく変わってきます。

さて、私たちが生きている「近現代政治経済システム」は、「目標追求型」であり、

個人主義的な世界観を大前提に創造されてきたと言われている割には、

「全体優先」のような社会システムであったようです。

著者も、現代の「近現代国民主権国家」の「人間観」を分析されていく過程で、

人々は、「旧体制(近代以前の体制)」から一旦切り離され、バラバラに解体された後に、

新しい理念の下で、「再統合」されていったとする説を提示されています。

確かに、フランス革命を始めとする欧米社会では、様々な反動も多々あり、

紆余曲折も経ながら、変革されていったようですが、日本の場合には、

そもそも「国家」や「個人」というイメージ像が定着しにくかったようで、

なかなかスムーズには進展していかなかったようです。

『「私」は私自身でしかないはずなのに、社会的存在としての私は「人々」や

「群れ」のなかの一人にすぎない。』(本書75頁)と。

ここに、近現代社会における根本的な矛盾があるのではないかと強調されています。

「個人主体」から「関係性中心」の発想へ

こうして「近現代社会」を批判していくのですが、

西欧社会では、右の「ロマン主義」も左の「改良主義」も

つまるところ、「個人主体」に還元されていくことに、

これまでの「近代批判」の限界があったのだと、著者は主張されています。

著者によると、『関係のなかに社会をとらえ、関係のなかに自己や個を

とらえようとしている。』(本書163頁)のだということです。

要するに、「関係の喪失」は、「消去(喪失)」というよりも、

遠くへ逃げ去っていったととらえる「遠逃現象」だとのことです。

ですから、一度遠くへ逃げ去ったとしても、関係性は「回復」し得るのだと

いうことに力点を置いて、「近現代批判」を展開する方が、

より実体に即した生産的議論になるのではとのお考えのようです。

では、具体的にどのようにして、「関係性の回復」を図っていくのか?

ここに、難関が立ちはだかります。

言うまでもなく、私たちの「生計手段の難問」のことです

18世紀以来の産業革命は、大規模産業化を軸に、それまでの

素朴な「個人的労働観」を一変させました。

「仕事人(職人)=独立事業者」から「資本家と労働者」へとです。

ここでは、詳細な「株式会社理論」は展開しませんが、

一般的には、「株式会社」の原則論は、「所有(資本家)と経営の分離」に

特徴があるとされています。

もちろん、今でも大多数の中小零細企業の場合には、「所有と経営が一致」している

株式会社が圧倒的ですし、近年では大規模な株式会社でさえ、「乗っ取り防止」のため、

あえて、「株式上場廃止化」を目指している会社も増加しています。

とはいえ、「資本」主義の意味内容が、産業革命以来大きく変更されてきたことは

無視し得ないところです。

「労働と生産のシステム」と「投資というシステム」の大きな乖離です。

前者は、私たち「一般労働者」であり、後者は「株主資本家」です。

「経営者」は、その両者にまたがるグレーゾーンにいる存在です。

経営者の「経営判断」により、上記のような「所有と経営」の形態が

変化するだけが違いです。

ところで、18世紀から21世紀へと時代が進むにつれて、

「金融経済化現象」が、ますます強大化する一方であることは、

最近の「金融重視政策」でもご存じかと思います。

このような時代になると、もはや自分で仕事を管理していくのも

かなり困難になっていきます。

資金調達の方法も、昔に比べて「多様化」したとはいえ、

どうしても、一定の「投資選好」という「投資の偏り」が

生じてしまいやすくなるために、一般市場の「潜在需要」の観点から見ても、

実体経済から大きく遊離していく傾向になるからです。

それもあって、未曾有の金融緩和に踏み切っても、民間では「需要」が

少なく見えて、なかなか民間主導だけでは「需要喚起」を経済回復に至るまでの

大きな変化までは起こせないのだろうと分析されておられる方もいます。

だからこそ、国家による大規模な「総需要喚起政策」である「財政政策」も

必要になるのだと・・・

ただ、もう一つ大きな反論もあって、日本経済はすでに大規模成熟経済化

し過ぎているために、そもそも「供給側重視路線」であれ、「需要側重視路線」に

せよ、もはや「充分すぎる!!」とする論者もいます。

つまり、「成長重視路線」ではなく、「脱成長重視路線」という「第3の道」も

あるのではないかとの指摘です。

著者も「緩やかな脱成長重視路線」、少なくとも「市場重視」よりも「共同体重視」の

「経済論」をより軽い方向で模索されておられるようです。

確かに、著者の論考は、今までのマルクス経済学も含め「近代経済学」の「盲点」を

深くついた優れたものです。

ただ、この先、「技術革新の高度化」や「少子高齢化」、

「生産年齢人口(労働参加人数)の減少」などに

どのように対処していくのか、当面数十年間は維持出来る議論かもしれませんが、

将来は予想もつきません。

ひょっとしたら、そのような社会の人口構成の激変に対応出来る先駆的議論なのかも

しれません。

いずれにせよ、従来の「量(規模)の経済」から「質の経済」の転換期であることは、

ほぼ間違いないものと思われます。

著者の考察をまとめますと、「われわれ」を取り戻し、社会における「つながり」を

緩やかに回復させながら、各人が満足出来る社会の実現へ向けて積極的な提案を

皆さんとともに考え、実行に移していこうとのことです。

何はともあれ、人間にとって、仕事は単に稼ぐ手段だけではなく、「より充実した

生き甲斐を与えてくれる手段」でもあるということです。

この近代以前には、暗黙の了解としてあった「経済知」を回復させていくのが、

今後の人類の共有課題だということです。

それが、「経済環境論」です。

本書の<あとがき>には、前回ご紹介させて頂いたトーマス・マンの

『ベニスに死す』も紹介され、ルキノ・ヴィスコンティによっても

「映画化」されているようなので、この「映画作品」も本書とともに

読み解きながら、観賞されるのも面白いことでしょう。

著者によると、ここに『近代人のひとつの死がある。』

(本書168~169頁)とのことです。

読者の皆さんも、現代経済の主流意識を維持する限り、「異論・反論」なども

あるかと思われますが、経済は、私たち現役世代だけの問題ではないことを

強調しながら、次世代に今以上に優れた「経済環境とは何か?」を考察して頂くことを

願いつつ、筆を擱かせて頂きます。

最後までお読み頂きありがとうございました。

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