デイヴィッド・ロイ博士の「西洋の欲望 仏教の希望」アメリカで静かに浸透中の社会参画仏教とは!?

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「西洋の欲望 仏教の希望」

デイヴィッド・ロイ博士が、

アメリカ社会で静かに浸透中とされる

「社会参画仏教」の観点から、

現代文明の問題点について考察されています。

今や、世界的な有名企業でも導入されていると

いう「社会参画仏教」・・・

現代文明を牽引してきたとされるアメリカで

一体今、何が起きているのでしょうか?

私たち東洋人とも異なる仏教の受容のされ方に

興味が惹かれます。

今回は、この本をご紹介します。

「西洋の欲望 仏教の希望」                (デイヴィッド・ロイ著、大來尚順訳、サンガ、2015年)

デイヴィッド・ロイ博士(以下、著者)は、

アメリカの作家兼仏教禅師の宗教・倫理・社会学博士です。

1971年より、日本からアメリカに伝わった禅仏教の伝統と

されている三宝教団での禅修行をきっかけに、1984年には

鎌倉の山田耕雲老師に参禅しながら学んだ方だそうです。

日本では、ここ数十年の情報通信革命の流れの中で、

世界的な有名企業の研修に導入されるなど、

注目されている仏教の一派に、

社会参画仏教(ソーシャル・エンゲージド・ブッディズム)」が

あります。

1960~1970年代のベトナム反戦運動などで

注目を浴びるようになったベトナム仏教僧に、

ティク・ナット・ハン氏がおられますが、

その方の教えに、「マインドフルネス」があります。

この「マインドフルネス」は、禅仏教の修行形態のうち、「瞑想」を

宗教的要素を抜き去った「心理療法」や「自己啓発」として

活用されている技法だといいます。

訳者である大來尚順さんは、長年こうした「社会参画仏教」について

研究されてこられたそうですが、その研究調査過程で出会ったのが

著者だといいます。

このように、アメリカ社会でも注目されるようになった

新興仏教である「社会参画仏教」ですが、一体今何が欧米社会に

生起しつつあるのでしょうか?

著者によると、現代文明における社会システムの大半が、

「欲望喚起構造」にあることが、人生におけるあり方について

「思考停止」を促してきたのだと警鐘されておられます。

いかにして、「より良き生き方」を回復させることが叶うのか?

西洋哲学や、現代の「成功哲学」のような俗流哲学が見落としている

重要論点とは何だろうか?

そのような関心を持ちながら、研究考察されていく中で

再発見されたのが、仏教の原点である「ブッダ思想」でした。

現代仏教も、現代キリスト教がそうであったように、

もともとの元祖の教えから離反していく歴史だったようです。

そもそも、仏教とブッダ思想との違いはどこにあるのだろうか?

それは、「自由自在な生き方」に対するイメージ像の違いにあったようです。

このように著者は、「欲望喚起構造」の中で永遠に循環し続けているかに

見える現代文明に、仏教哲学の原点から批評分析されていきます。

ただ、このような現代文明批評をするだけではなく、現代仏教の原点にある

「カルマ(罪業思想)」にも鋭くメスを入れるなど、斬新な視点もあるようです。

その分析考察の過程で見えてきたのが、「自我」の欠如感覚や

「時間感覚」におけるズレといった問題意識でした。

つまり、「欲望喚起構造」が現代文明社会の底流にあり、そのことに

人びとが無自覚なまま、表層的な批判を繰り返すだけでは、

改善の余地もないだろうとの問題提起です。

これは、人類の「精神意識の危機認識」の問題でもあります。

こうした次元を異にした問題であるだけに、従来型の現代文明批判のみに

過度に依存した視点だけでは、現代社会に特有のあらゆる難問を

乗り越えることは絶望的に困難です。

ということで、仏教が問題とした「精神分析」を切り口に

従来の西洋心理学などにおける「精神分析」の限界も見据えた貴重な論考と

なっているのが、本書の特徴です。

どこまでも、ごまかさずに「より良き生き方」を現代文明社会の中で

追求していくことは叶うのか?

皆さんとともに、本書を読み解きながら、考察していく中で、

これからの「より良き生き方への希望の一助」になるかとも思いましたので、

この本を取り上げさせて頂きました。

スピリチュアル・プラグマティズムとしてのブッダ哲学

さて、このような視点から、著者も「現代文明批評」を

仕掛けていく訳ですが、まず最初に強調されているのが、

現代文明社会は、「組織化された三毒」によって、

堅固に構築されたシステムだということです。

この「三毒」とは、仏教が克服すべき対象として

強調される「貪欲(欲望)・瞋恚(恨み)・愚痴(幻想)」です。

この「三毒」を、仏道修行を通して、著者の表現を借りれば、

それぞれ「寛大・愛・智慧」へと変容させていくことが、

最終的な「悟り(より良き生き方)」へと至るための

「仏教的生き方」だとされています。

ところで、この「三毒」に該当する「欲望・恨み・幻想」が

現実社会へと投影されたのが、

「お金・戦争・過度の性欲などの執着現象」だと

著者はイメージ喚起させています。

こうした現代に限らず、人類史における難病を克服していくための

処方箋として、

著者は「スピリチュアル・プラグマティズム(精神的実践思想)」としての

「ブッダ哲学」に見出しています。

現代仏教も、従来仏教も見落としている「ブッダ(覚者)の教え」を整理分析

するところから、著者は、人間の深層意識の流れや世界における構造把握に

挑戦されています。

そこで、「そもそも仏教の教えとは何だったのだろうか?」という

根本的な懐疑から考察されていくのですが、それは

後世に「空観」とか「仮観」、「中観」とか整理整頓されていった

「悟りの実感」を得るための「智慧」でした。

こうした現代仏教にも残されている難しい仏教哲学は、

著者が、「第二のブッダ」とも位置づけている

ナーガールジュナ(龍樹菩薩)によって、大成されていったとされています。

こうした過程で、仏教徒が「悟り」を開くまでの「守るべきルール」として

数々の「戒律」が考案されていったのですが、お釈迦様(ブッダ)以後には、

複雑化・形骸化の一途を辿るばかりだったようです。

つまり、当初は、俗世間を離れた「出家仏教徒」だけに適用されていったために、

後世において、俗世間に生きる「在家仏教徒」との間でますます意識にズレが

生じていったのが、実際の「仏教史」でした。

前にも当ブログでご紹介させて頂いた「サンガ(仏教生活共同体)」も

こうした「出家者(小乗的人間)」と「在家者(本来の<菩薩>を目指す

大乗的人間)」との「緊張と癒着」という関係性で成長していきました。

前の記事では、「戒律」を守りすぎて、俗世間から乖離していくのが、

「仏教的堕落」だと解説させて頂きましたが、

それは「在家者(大乗的人間)」の立場から判断した見方のようです。

とはいえ、著者が本書の「現代文明批評」との関連で問題視されているのは、

それとは反対の、むしろ「俗世間」へと「密着・迎合」し過ぎてしまった

現代の「サンガのあり方」に「仏教的堕落」を見出しているようです。

確かに、そういう問題点もあるようですが、

前の記事でも考察させて頂きましたように、そのような「仏教的堕落」を

抑止する手だてが、まさしく「律(仏教生活共同体のルール)」でした。

このように、本来の「戒(個人的ルール)・律(集団的ルール)」も

こうした聖俗の絶妙な緊張感の中で育まれていったものだったのです。

このあたりの事情も、前回、キリスト教修道院との対比で解説させて

頂いたところです。

では、著者は、「なぜ、このような従来とは異なった問題意識を持つように

なったのでしょうか?」

どうやら、管理人の見るところ、そこに重大なヒントが隠されているようです。

もともと、人間の性格から、当初「誓約した厳格なルール」も、時間が経つにつれ、

緩くなっていくのが、世の常ですが、お釈迦様(ブッダ)ご自身は、

後世の「仏教」とは異なり、「戒律問題」については、比較的緩やかだったようです。

あくまで、普通の人間が守りうる「戒律」を中心に、一歩一歩着実に

「仏道修行」しながら「悟り(覚醒)」へと至るメソッド(教育的手法)を

活用していく「中道主義」だったようです。

ただ、「悟りを開いたブッダ(覚者)」であるお釈迦様とは違って、

私たち「凡夫」の場合には、なかなかそんなに簡単な道のりではありません。

そのように、お釈迦様ご自身の「緩やかな方針??」が、

逆に、「仏道修行の妨げ」にもなっていったようです。

その「緩やかな方針??」こそが、「スピリチュアル・プラグマティズム」です。

これが、世俗との癒着をもたらし、本来の意味(覚醒から遠ざかるという意味)で

「仏教的堕落」につながっていったようです。

それが、皮肉にも<菩薩>を目指すはずの従来型「大乗仏教(密教など)」の

「限界」にもなっていったと指摘されています。

著者によると、現代仏教の一派である「社会参画仏教」の今後の発展方向性を

予想する点でも、こうした問題意識は重要だとされているようです。

なぜなら、著者も指摘されていますように、現代の「社会参画仏教」の

方向性も、「戒律」を抜きにした、一種の「心理療法(自己啓発)」の

段階にまで「低下??」しているとも見受けられるからです。

もちろん、ティク・ナット・ハン氏のような「現代の覚者」の活動には

大変素晴らしいものがあります。

その点で、同じ「社会参画仏教」を生きておられる著者は、

厳しすぎる方なのかもしれません。

とはいえ、著者のような厳しい姿勢も必要だと思われます。

それは、著者も本書で強調されていますように、

「社会参画仏教」がしばしば「組織化された三毒」へと

陥りかねない「弱点」も有しているように感じられるからです。

上記のような「心理療法(自己啓発)」の次元に低下してしまうと、

本来の仏教が目指した「高度な精神意識」へと人類が進化発展していく

妨げともなりかねないからです。

とりわけ、「現代文明社会」が、著者のいうところの

「商品化された意識(注意欠陥多動性社会)」を中心に

システム(自動)化されてしまっているがゆえに、通常人としての

「精神意識」では、完全に「居眠り運転状態」になってしまっている

点にも、注意が必要であります。

そうした現状から、容易に「思考停止状態」に陥りやすい私たちを

目覚めさせてくれる役割を果たすのが、仏教哲学でもあります。

そこで、特に、現代文明社会で陥りがちな盲点ですが、そのことを

明確に教えてくれるのも仏教哲学であります。

現代文明生活における「時間感覚の欠如」や、「自我」の歪み(幻想)について

容易には気付き難い問題点などが指摘されています。

考えてみれば、現代資本主義経済(社会主義などの進歩経済主義も含む)は、

時間は過去に遡及せず、常に前進し続ける直線的時間構造を大前提としています。

それは、同時に「欲望拡大構造」でもあります。

それに対して、仏教的経済生活は、「いま・ここ」(神道的時間感覚でも、

<中今構造>)に生きるという「永遠の相にて生きる循環時間」を大前提と

しています。

ですから、むしろ、両立させる方が、絶望的に困難だということです。

面白いことに、前回の記事でキリスト教文化圏との対比で、仏教文化圏で

「資本主義が飛躍的に発展しなかった理由」も考察してきましたが、

このあたりの違いにポイントがあるようです。

つまり、キリスト教は「世俗化に成功した(もしくは、しやすかった)!?」

との新発見です。

仏教とキリスト教における「現代資本主義」との親和性を考察してみると、

まずは、このように「時間感覚」が異なること(直線的と循環的では、

前者の方が、利子率決定の点で<時間幅が短期>のため、負債における

将来返済率が<安定的かつ高い>からと考えられる点)にあること。

もう一つが、「予定調和説(神による救済の余地がどの程度

決定されているのか)」という点について、仏教では、仏による救済は

未決定、すべては個人的努力次第なので、負債返済のための誘因性が

あまり働かないこと、キリスト教においては、あらかじめ神による救済

は決定済み、しかも人間にとっては不可知だという点で、負債返済のための

心理的誘因が働きやすいことという違いにあるのではないかと考えられます。

この他にもあるかと思われますが、面白いので、読者の皆さんも

「思考実験」として、各自考察してみてはいかがでしょうか?

現に、21世紀以後の「世界宗教界」の現状は、

高度資本主義経済の進展とともに、

衰退していく一方だといいます。

「資本主義経済自体が、宗教世界を駆逐している!?」との見方もあるようです。

ところで、仏教徒にとっても(とりわけ、<現代>仏教徒)理解しがたい

仏教思想に、「輪廻」や「涅槃」といった「罪業思想(カルマ)」があります。

著者も、その「謎解き」の前に、立ちすくんでいるようですね。

それを、次に考察していきましょう。

カルトビジネスとして悪用される「カルマ(罪業思想)」

ところで、この「カルマ(罪業思想)」こそ、

現代仏教でもネックになっている教えのようです。

お釈迦様ご自身は、どのようにお考えだったのか、直接ご指導を

受けた訳でも、また、仏教哲学の専門教育を受けた訳でもない

管理人には分かりませんが、「カルマ(罪業思想)」だけは、

数多くの人びとを悩ませていることだけは間違いないようです

歴史的にも、「差別問題」の筆頭にされてきたのも、

この「カルマ問題」にあったようです。

ある意味、仏教にとっては、皮肉な問題でもあります。

なぜなら、古代アーリア人思想から創出されていったとされる

「カースト制度」を根底から否定していったのが、仏教だったからです。

ですから、もともとのお釈迦様は「カルマ問題」自体を

否定されていたかもしれないのです。

お釈迦様ご自身によると、「カルマ(罪業思想)」よりも、

「ダルマ(宇宙の理法??)」の方を重要視されたようです。

「自灯明・法灯明」(法句経)という教えで、一般的にも知られている言葉が

ありますように、

「カルマ=ダルマ??(管理人には、まったく違うように思われますが・・・)」

における「普遍的法則」という考えも、仏教の主要思想「無常や空」にも矛盾します。

この「カルマ」と「ダルマ」の相互関係もあまり明確にはなっていないように

思われます。

「自灯明+法灯明」というように「一体化」された教えを重視しますと、

仮に、「ダルマ(法)=空観・仮観・中観??」を「普遍的な宇宙構造」だと

イメージしたとしても、「自灯明=自由意志」も大切にしなさいと語ったと

されるのが、お釈迦様の本来の教えである「原始??仏教」だったのではないか・・・

そのようにも考えられるからです。

つまり、「カルマ(罪業思想)」を容認したとしても、

その後の「仏道修行」といった、まさしく「自由意志活動」によって、

いくらでも変容させ得る可能性があるからです。

「第二のブッダ」とされるナーガールジュナ以後の「仏教哲学」の

もう一つのテーマ「唯識論」でさえ、深層意識にどのような「種子」を

植え付けたかによって、人生観(世界観)をいくらでも変容させ得ると

考えていた節も見受けられるようです。

この「深層意識」こそ、現代心理学とも通底する最重要テーマですが、

現代文明社会では、あらゆる箇所に張り巡らされた欲望喚起システムが、

私たちの<不注意>を誘うことに、最大の欠陥があります。

特に、この「カルマ(罪業思想)」は、その内容を知らない方に対しては、

容易な「脅しや騙しの道具」にもなっています。

それが、「カルトビジネス」として悪用されるという「社会病理」です。

このことが問題になるのは、著者によると、何も「世俗内問題」だけに

限定されないようです。

「出家社会」である「サンガ(仏教生活共同体)」においても、冒頭でも

触れさせて頂きましたが、「在家社会」との接点で、「お布施の強要??」の

ような形で、たびたび衝突が生じてきたようです。

本来は、「出家者」も「在家者」にとっても、「サンガ(仏教生活共同体)」

という「この世」におけるもう一つの「居場所」では、「世俗外倫理」が

強く働く必要があるはずの世界です。

そのためにこそ、「戒律」があるのです。

著者によると、現代サンガの問題点も、こうした両者に共通する

「仏道修行の場」にはなっていないとの指摘でした。

まとめますと、「世俗外(出家者)倫理は、世俗内(在家者)倫理よりも、

断然厳しくなければ、俗世間に対する<お手本>にもならない!!」との

厳しい指摘です。

一方で、仏教の今後の「世俗内活動」における倫理的視点も提供されています。

著者は、この視点を「社会参画仏教」という観点で分析考察されています。

仏教は、単なる俗流の「友愛」ではなく、大変精神的に高度な次元の「慈悲」が

要請される厳しい教えです。

著者は、「社会参画仏教」は、単なる「社会改善運動」ではないとの見方を

強調されています。

なぜ、これまでの「平和運動」や「経済民主化運動」などが、

頻繁に挫折を味わってきたのか?

それは、「仏教」におけるような「精神的覚醒」の側面を欠落させてきた

「敵か味方か」のような「同一次元」で相互に対立する意志を無理に

押し通そうとしてきた点に「限界」があったのではないかとの問題提起も

されています。

「仏教」における「慈悲」とは、

「ともに高次元の精神意識に目覚めて相互に歩み寄る菩薩道」だという視点を

忘れては成り立たないものだといいます。

私たちは、「自我」も「私たちの現に生きる世界におけるあらゆる現象」も

「すべて実在」とみなしてしまう「錯覚病」にかかっているようです。

それが、「執着」をもたらし、あらゆる「不協和音」を「この世」に

鳴り響かせるのだと、著者も警鐘されています。

「自分も紛れもない世界の一部」との認識があれば、相互尊重も現状よりは

もっとうまく出来るはずです。

もちろん、人間の「悲しい性」は、「頭だけ」の理解で、

「身体感覚(精神知覚も含む)」が同時に働かないというところにあります。

まとめますと、小手先の社会改善テクニックだけでは、

現状よりも「より良き」方向へと社会進化しないということです。

社会進化しないということは、人間の「精神的」進化変容もあり得ないという

ことですし、その逆も同じです。

むしろ、今後ますますの情報通信社会の進化発展とともに、

一般社会でも「ネットワーク思考」が重要になっていくことが予想されるだけに、

「思想の伝播性」には、より注意深い姿勢が要求されることと思われます。

西洋社会だけではなく、この「世俗社会」における「欲望」に、

私たちは打ち勝てるのでしょうか?

「仏教の希望」もその先にあると言えるでしょう。

本書には、その他にも「社会参画仏教」について考えさせられる視点が

満載です。

また、私たち「東洋人」とも異なる「西洋人」の見た「仏教哲学」も

知ることが出来て、面白い本であります。

「仏教徒」ではない「一般人」にとっても、現代文明社会の問題点を

改善させていくヒントになるかと思いますので、是非ご一読されることを

お薦めさせて頂きます。

最後までお読み頂きありがとうございました。

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