エドワード・O・ウィルソン博士の『ヒトはどこまで進化するのか』社会生物学からヒトの<知の可能性>について考える!!
世界有数の社会生物学者エドワード・O・ウィルソン博士による
『ヒトはどこまで進化するのか』
自然科学と人文社会科学の両分野に跨る架け橋をかけようと
知の統合に可能性を見出された科学者としても著名な方です。
本書もまた大論争にまで発展した刺激的な1冊です。
本書の結論にも賛否両論あるかと思いますが、
この本を素材に未来のヒトの可能性を考えてみましょう。
今回は、この本をご紹介します。
『ヒトはどこまで進化するのか』(エドワード・O・ウィルソン著、小林由香利訳、長谷川眞理子解説、亜紀書房、2016年第1版第1刷)
エドワード・O・ウィルソン博士(以下、著者)は、
創始された世界有数の生物学者として著名な人物であります。
科学部門そのほか様々な分野で多大な功績を積み重ねられたことで
数多くの受賞もされています。
著者の社会生物学の底流にある思想には、
自然科学と人文社会科学を架橋するいわば<知の万能理論>に
可能性を見出そうとする知的欲求があります。
そもそも、ヒトと他の生物を大きく隔てる壁には
言語使用能力を創出していったところにあります。
この言語を生み出すに至ったヒトの進化史こそ、
ヒト独自の<社会性>と強いつながりがあります。
「それでは、そうした言語を創出・発見するに至った背景にある
ヒトの生物進化過程には一体どのような独自性・必然性が隠されていたのでしょうか?」
この重要な謎解きから言語を介した知(意識)の発展可能性を考えていくことで
ヒトの未来進化の方向性を決定付けることにもつながります。
21世紀現在、多種多様な<価値観論争>の積み重なりとともに、
人工知能(AI)やはたまた最近再び話題をさらった<地球外生命体>の
存在可能性などにも注目が集まっています。
本書には<地球外生命体>に関する貴重な論考もありますが、
その他のテーマにも世界中で大論争を巻き起こした
刺激的な論考が満載です。
本書の原著は、『The Meaning of Human Existence』であり
そのまま直訳すれば、『人間存在の意味(意義)』となりますが、
本邦訳書はその全訳だといいます。(<訳者あとがき>による)
著者は、アリを中心とした<社会性動物>に力点を置いた
昆虫生態研究を積み重ねられてきた社会生物学者だといいます。
そんな著者には、そのままズバリの
『社会生物学』(坂上昭一他共訳、新思索社、1999年)や
『生命の多様性(上)(下)』(大貫昌子訳、岩波現代文庫、2004年)など
多数の邦訳書もございます。
それぞれが生物学を始め様々な学際分野に豊富な話題(論争題材)を
提供していった論考ですが、
最新の本邦訳書には、
著者の現時点における最先端知見が盛り合わされています。
本書が著者との始めての出会いという方(管理人もですが)にとっては、
ウィルソン生物学の最適入門書だと言えるかもしれません。
生物学に関する難しい専門知見の解説には、
日本における「動物行動生態学」の第一人者である長谷川眞理子先生による
簡潔な全体像の紹介とともに本書の要約もなされていますので、
一般読者に対する十二分な知的配慮が行き届いており
安心して読み進められる書物に仕上がっています。
また、著者自身のユーモア感溢れた文体とともに
親しみやすい訳者のリズム感ある文体にも好評価が持てました。
ところで、著者の詳細な生物学的立場につきましては、
後に本文内でも触れさせて頂きますが、
マルチレベル「自然選択説」だとされています。
具体的には、『利己的な遺伝子』などの著書で知られる
リチャード・ドーキンス氏の一般向け解説によって
世に幅広く知られるようになった
ウィリアム・D・ハミルトンらの提唱した
「包括適応度理論」に対して批判的検証を加えられています。
一般にも流布されるようになった何かと誤解されやすい
<利他的行動>の実像などに関しても
著者独自のアリなどの社会性昆虫研究を通じた
批判的考察結果が提示されています。
さて、矛盾を抱えつつも
それなりの共進化を成し遂げてきたのが、
これまでの人類史でありました。
今ある人類の知的「限界」にいかに挑戦していくかが
本書における課題でもあります。
合い言葉は、「多種多様な<価値観>に触れることを通じて
より高い次元へと人類の知的進化を促し、ともに成長していきましょう!!
学問はその誘いを動機付ける触媒!!」であります。
ということで、本書は様々な世界に波紋を投げかけた刺激的な1冊であり
生物学界のみならず多種多様な学際分野を横断的に
人類の未来を考えさせてくれる知の宝庫でありますので、
管理人にとっても皆さんにとっても日頃さび付いてしまった脳ミソを
活性化させるに足る啓蒙書だと判定しましたので、
今回はこの本を取り上げさせて頂くことにしました。
ここに「啓蒙書」と表記しましたが、21世紀現在において
あまり芳しくない評価のある「啓蒙主義」に復権の光を
当てていこうではないかとの願いも著者にはあるようです。
現代版「自然選択説」の観点から<血縁選択理論>を批判するウィルソン仮説とは??
それでは、本書の内容構成に関する要約に入りましょう。
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①<第Ⅰ部>『人間が存在する意味』
・第1章「意味の意味するもの」
・第2章「人間という種の謎を解く」
・第3章「進化と内なる葛藤」
※<第Ⅰ部>では、この世界に人間が存在する「意味」を
問い始めることから開幕します。
第1章においては、2つの「意味」がまず考察のテーマとして
取り上げられます。
何らかの<意図>が込められた「意味」・・・
つまり、「設計者(神)」によって創造されたとする
目的論に主眼を置く哲学的・宗教的世界観。
そして、もう1つの「意味」とは、目的論から離れた
もっと広義における科学的世界観であります。
『意味は設計者の意図ではなく、歴史の偶然から生まれるという
世界観だ。あらかじめ設計されるのではなく、物理的な原因と結果が
絡み合い重なり合っている。歴史は宇宙の一般法則のみにしたがって
展開する。個々の出来事はランダムに生じるが、その後の出来事の
確率を変える。たとえば、生物進化の過程で自然選択によってある適応が
生じると、別のひとつの適応が生じる確率が高くなる。』(本書9頁)などと
いう視点から捉えていく「意味」論であります。
この宇宙において生命が誕生し、その生命の中から無数の生物が
誕生していった中で、他にも幾通りもあり得たであろう生命進化史の流れにおいて、
とりわけ「人類はなぜ今日のような姿へと進化してきたのであろうか?」という
問いにはまったくもって不思議な謎に包まれています。
特に、他の生物に対する大きな相違点として
言語を駆使し得る「知性」を宿すとともにその「知性」による学習行動の結果
「知性」を自力修正のうえで、より高度再生化を果たし得た点が挙げられます。
他の生物にも多かれ少なかれ「知性」の片鱗はもちろん存在しているようですが、
より自然界の厳しい生存競争に適応していこうとする「本能」面での発達に
比重を置きながら進化を遂げていったところにヒト特有の性質と異なる側面が
あると考えられています。
とはいえ、人類にもその「本能」により近い「(情動的)知性」の名残がないかと
問われれば、もちろんそんなことはありません。
その名残こそ、本書の主人公でもある「遺伝子」に組み込まれていることも
少しずつ解明されてきたからです。
ここから人類における幾つかの進化論と現代遺伝学などの知見の
紹介とともに著者独自の解題が始まります。
それが、『人間の高度な社会行動の生物学的起源』(本書14頁)の根本には
「真社会性」があるとする他の生物との比較研究考察から生まれていった
生物学者の見立てと共通する視点であります。
『真社会性とは大まかにいえば、「本当の」社会的な状態だ。』(本書15頁)
この「真社会性」と「人類」との相互関係性に関するテーマについては、
著者のご専門である主に<社会性昆虫>の代表格アリのコロニー(群集団生態形成場)の
詳細な研究成果とともに
<第Ⅱ部>第6章及び<第Ⅲ部>第7・8章で解説されていますので、
ここでは省略させて頂くことにします。
(ちなみに、著者の「社会生物学」入門としてはこれらの一連のエッセー調論考が
比較的わかりやすく思われましたので、本格的な研究へと進まれる方や
この分野にさらなるご興味関心を持たれた方には
ここを1つの足がかりとしながら深入りしていかれると
よき道標となってくれるのではないでしょうか・・・)
それではここで、著者の「進化論」における生物学的立場を
本書より引用しながら簡潔に要約しておきましょう。
『マルチレベルの自然選択』だとされています。
具体的には、『自然選択は二段階で作用する。同じ集団内のメンバー同士の
競争と協力に基づく個体選択、および他の集団との競争と協力から生じる
集団選択だ。』(本書20頁)
この「同」属(種)内での相互競争と「異」属(種)間へと向けられた
「同」属(種)内での相互協力における葛藤が、
人類におけるその後の道徳的あるいは政治的な「葛藤」の原型とも
なっていったようです。
つまり、著者の解説によると、『個体レベルでは同じ集団内の利己的な
個体が利他的な個体に勝つが、集団レベルでは利他的な集団が利己的な
集団に勝つ。つまりあえて極論すれば、個体選択は罪を奨励し、
集団選択は美徳を奨励したわけだ。』(本書29頁)
この「大まかな見取り図」のことを<マルチレベル>と表現されているようです。
対する<自然選択>ですが、「進化論」においては、
この<自然選択>という表現こそもっとも誤解を招いてきた難所ともされ、
ダーウィン以外の数々の「進化論者」からも多種多様な定義づけが
あるようなので議論は錯綜しており、
一義的に「これが<選択(淘汰)>のイメージだ!!」とは
言いにくいところがあります。
いずれにせよ、
著者はダーウィン流の<自然選択(「淘汰」と訳される方もいますが)>説を
現代版に拡張発展させた<自然選択>論者(説明が同義反復=トートロジーで
申し訳ありませんが)であることに変わりはないようです。
この立場から、著者独自の研究考察結果により
「血縁選択(近親者優遇)説+同一集団(血縁者)内における利他的遺伝子優位説」と
される「包括適応度理論」を批判されています。
この「包括適応度理論」とは、再度繰り返しになりますが、
『血縁選択を想定したもので、個体は傍系親族(直系の子孫以外の近親者)を
優遇し、同じ集団のメンバー間で利他的行動が進化しやすくなるという説』であり、
『複雑な社会的行動が進化しうるのは、集団内の個体の利他的行動の結果、
利他的な個体が次世代に残す遺伝子の数という点で得るメリットが、
利他的行為によって生じる損失を上回る場合で、それにより利他的な
遺伝子が集団のメンバー全員に行き渡る。個体の生涯繁殖率が生存と
繁殖に及ぼす複合効果を包括適応度といい、進化を包括適応度によって
説明するのが包括適応度理論だ。』(本書19~20頁)とされる
進化論仮説であります。
著者のより詳細な専門的批判論については、
本書巻末の<補遺>部(本書193~207頁)で論旨展開されていますので、
専門的な知見にまでご興味関心がおありの方には、
この論考にまで目を通されることをお勧めいたします。
とはいえ、著者は実際の進化過程における自然選択の単位に関する問題には
注意を促しています。
『生物進化の過程における自然選択の単位は個体でもなければ集団でもない。
遺伝子(より厳密には対立遺伝子、つまり同じ遺伝子のふたつ以上のタイプ)だ。』
(本書25頁)と・・・
この第3章及び第6章~第8章が著者の「生物進化論」の特徴が
よく滲み出ている論考であります。
『それでは、人類のより良き「知性」の開花の源泉ともなる
「遺伝子」をどのような方向で発芽させていけば良いのでしょうか?』
科学的には、この「遺伝子」をどのような形でもって周辺環境に
適応させていく「べきか」などとは問えませんが、
(科学ではあくまでもどのような構造で成り立っているかが主題であり
また生物学においても「なぜ」という形でしか問いにくいからです。)
その「べきか」を科学的な観点からも問おうとするならば、
やはり「意識」現象のメカニズムを深く掘り下げていくしかありません。
著者は、生物学者という名の「科学者」ながらも、
知的好奇心に導かれながら、その難題へと積極的に取り組んでいこうと
されます。
そこで重要な役割を果たすのが、この「べき論(価値=規範論)」を
問える人文社会科学への期待感であります。
このような倫理的な視点からの価値規範論を問えるところにも
進化の途上で「本能」優位に進展してこざるを得なかったと評される
他の生物が持ち得なかったヒト固有の特異性があります。
そのことが、次の<第Ⅱ部>で展開されていきます。
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②<第Ⅱ部>『知の統合』
・第4章「啓蒙主義の復活」
・第5章「人文科学の不可欠さ」
・第6章「社会的進化の推進力」
※ここでは、冒頭で第4章における現代「啓蒙主義」の意義について
著者が期待を寄せられていることや
第6章の素描につきましても
すでに触れさせて頂きましたので省略させて頂きます。
そこで、第5章に焦点を絞らせて頂くことにしましょう。
第4章における現代啓蒙主義の積極的役割として著者は、
『その探究を今再開することに何か価値があるのか、そして探究が
実を結ぶ可能性はあるのか。答えはイエスだ。今ある知識をもってすれば
啓蒙主義が最初に花開いたとき以上に多くを達成できる。
それに現代生活の非常に多くの問題に対する解決策は、
本来の領域からの解決策に基づいて決まる。たとえば対立する宗教間の衝突、
道徳的倫理のあいまいさ、環境決定論の不適切な根拠、そして(最も重要な)
人間存在の意味そのものだ。』(本書36頁)と主張されています。
人間が考える「進化論」で見落としてはならない点として
単なる生物進化史の解析に止まらない「文化」進化史の側面も
考慮しなければならないことも強調されています。
『文化の進化が生物の進化と異なる理由は、それが完全に人間の脳の産物
だからだ。』(本書52頁)と。
つまり、「知性」も「意識」も完全に脳が生み出した産物だとするならば、
私たち人類は、学習しながら常に軌道修正し得る生物進化上の特権的地位が
与えられているということに対して、
もっと思慮深く謙虚にならなければならないということになります。
このような点や今後の自然科学上の新規発見におけるペースダウンが
急激な技術革新とともに予測されることも著者が人文科学に期待を
寄せられている理由であります。
さらに、ロボットや人工知能の発達から見た人類の未来に対する
著者自身の見解も第5章末尾(本書54~56頁)や
第10章の一部(本書117頁)で語られています。
それによるとヒトへの遺伝的改良を加えた人工知能やロボットへの
生物進化上の優位性を持たせようとする対抗思想には慎重な姿勢のようです。
『私自身はこの件について保守的な立場で、生物学的な人間の
本性を天賦のものとして守り抜くことに賛成だ。』(本書56頁)とされています。
まとめますと、自然科学と人文社会科学が見出してきたこれまでの人類が
獲得してきた知見を総合斟酌して、双方の視点にバランスよく配慮しながら、
ヒトの本性を阻害しかねない社会動向に対する十二分な警戒を怠ることなく、
生物としてのヒトの使命をいかに全うしきるかというところに
著者自身の願いも込められているとのことです。
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③<第Ⅲ部>『アザーワールド』
・第7章「フェロモンに惑わされて」
・第8章「超個体」
・第9章「なぜ微生物が宇宙を支配するのか」
・第10章「ETの肖像」
・第11章「生物多様性の崩壊」
※<第Ⅲ部>につきましては、<地球外生命体>がテーマともなってきますので、
生物多様性の持続的可能性問題とともに
後に項目をあらためて触れさせて頂くことにしますね。
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④<第Ⅳ部>『心の偶像』
・第12章「本能」
・第13章「宗教」
・第14章「自由意志」
※第12章と第13章では、ヒトが持つに至った「宗教的本能」にも
生物学が関係してくることが示唆されています。
著者独自の知見は、本書をお読み頂くことにしまして、
管理人なりの「仮説」では、
なぜヒトが「神」なる概念を発明したのかというと、
生物進化途上での生き残りをかけた凄まじい生存闘争の過程で
「本能」に深く刻み込まれてきた「不安」感情と
幸か不幸か「言語」を発明・使用することが可能になったために
「時間」という概念に極度に囚われることになり
未来へと「時間」を先送りすることでしかその「不安」感情を
解消することの出来ない(出来なかった)ヒト特有の行動形態や
傾向性に由来するものではないかと推論しています。
言い換えると、現状の絶望状態に耐えきれなくなった(なかった)ヒトは、
未来に「希望」を託す(まさに、「時間」の先送りです。)知恵を
必要とせざるを得なくなったがために
「希望」の象徴として「神」概念を案出する方法でしか自身を
慰撫するほかなくなったのではなかろうかいうことです。
つまり、ヒトによる「神」概念の発明もまた
生物進化の副次的結果だったということになるようです。
あるいは、「集団」への帰属愛着感情であるナショナリズムにせよ
地球規模の狭い範囲におけるインターナショナリズム(グローバリズム)にも
同様のことが反映されてきたように思われます。
「神」なる概念のイメージをどう捉えるにせよ、
ヒトには、人生を生きていくうえでの何らかの指針となる「道標」のような
モノやコトがなければ落ち着かない性格が備わっているように感じられます。
そのことは、「意識」が生み出されてきた根本理由とも強い関連性があるようです。
そのあたりのさらなる私見も先程の問題と併せて、
項目をあらためて語らせて頂くことにしましょう。
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⑤<第Ⅴ部>『人間の未来』
・第15章「宇宙で孤独に、自由に」
※本書のまとめになりますが、
ヒトは、生物進化史の流れの中において、
きわめて特異な存在と成り果ててしまった現状を
生物多様性の持続可能性とともに反省し直すところから
再出発する他ない段階にまで至ってしまったことを
再認識させる結論となっています。
そのためにこそ、自然科学だけに依存し過ぎない
人文社会科学の知見にも十二分な敬意を払う『内省的創造性』(本書191頁)が
必要不可欠だとされています。
著者のような科学的立場から「神」概念を抜き去った
信仰・信念を持って生き抜こうとするならば、
「知性」「意識」なかんずく「自由意志」をどのような方向に
働かせていくかがあらためて重要な課題となります。
宗教的信仰・信念は、
外在的に準備された規範に従った「盲目的」な生き方を促しがちですが、
科学的信仰・信念となるとある種の「不可知論」を採用せざるを得ません。
そうなると、内在的な規範意識が生きる拠り所となります。
そして、この「不可知論」に加えて人間に常に付きまとう「可謬性」に
注意を払い続ける姿勢が科学的に歩む人生ということになりましょう。
つまり、自分にとってどこまで「わかって」おり、
どこからが「わからない」ことなのかに思慮深くある厳しい歩みを
人生課題として引き受けるという「重荷」を背負うことになります。
こうした人生論を採用するなら、
そこにはもはや「決定(宿命)論」も「目的論」も入り込む余地が少なくなりましょう。
そのような人生論の「重荷」に耐え得る人間にしか
科学的に歩む人生は許されていないということになるのでしょうか?
いずれにしましても、ヒトが「自由意志」を持つという本質を徹底して考え抜けば、
責任重大かつ厳粛な人生を送らざるを得なくなります。
その意味では、人類とはこの宇宙の中で「孤独」な存在なのかもしれません。
本書における生物学的論考に関する要約につきましては、
管理人自身「門外漢」でありますし、
まだまだ勉強を重ねている段階でもありますので、
読者の皆さんに適切にお伝えしきれませんでした。
そのあたりはご寛恕願います。
(代わりに、本書を読み進めるに当たって参照させて頂いた
ご参考文献を本記事末尾に掲げさせて頂くことにしますね。)
現代生物学は、マクロな「進化論」とミクロな「遺伝学」の
組み合わさった学問として構築されてきたことだけは、
感じ取って頂けたのではと思います。
また、著者の立場が唯一絶対的に正しい解釈というわけではなく、
様々な「進化論」の立場もあるということもご理解して頂けたものと
思います。
(注:管理人自身が著者の「進化論」仮説を全面的に支持する目的で
本書をご紹介させて頂いたわけでもございませんし、その「仮説」を
生物科学の専門的観点から批評する力量も備えておりません。
あくまで本書を題材に皆さんにも「進化論」から人間存在の意義などについて
語り合って頂くきっかけとしてご紹介させて頂いた次第であります。)
とはいえ、科学的な立場から「進化論」を探究していくならば、
進化そのものを否定する「創造論」(もっともこの立場にも多種多様な「仮説」が
あるようですが・・・)にはやはりどうしても与し得ません。
管理人自身も「科学」と「神秘」の<はざま>を探究していますが、
安易に<神の摂理!?>なる概念を持ち出すことには慎重でいたいと
考えています。
もちろん管理人も、か弱き人間の一人ですから
生き抜くために活力を与えてくれる触媒としての
「信仰心」そのものは持ち合わせていますが、
その「信仰心」の対象には、外在的な「神」なる存在は含まれていません。
どのように表現したら適切な説明となるかは分かりませんが、
森羅万象との天地人「合一」の境地(いわゆる「汎神」論とも微妙に違うようです。
なぜなら、外在「神」を予め措定しないからです。良心としての内在「神」も
自我を宿した生身の人間である自らを「神」になぞらえることにもつながりかねず、
<心のまにまに>偏向する恐れを抱いていますので、
可能な限り「汎神」論も回避したいと願っているからかもしれません。
管理人のライフワークとしても仏教の「唯識」論や陽明学の「致良知」論などをテーマに
哲学的探究をしていますが、「唯識」や「致良知」の奥の院の潜勢力を知れば知るほどに
そら恐ろしくなってきました。
世俗で生きるほかない人間である限り、「識」にも「良知(良心)」にも
常に濁り=迷いが混じり込むからです。)とでも申せましょうか、
強いて言うならば、
<三界遊弋=「三界」とは仏教的表現に親しい考えですが、
過去・現在・未来との「三世一体」に遊ぶ感覚>を自らの理想として掲げています。
(ちなみに、輪廻転生の有無はもちろん知りませんし、わかりません。
「わからないことは無理に理解しようとしないがよろし・・・」がモットーです。
自らにウソをつくことになりますし、
そのような姿勢は、学問する者にとっては邪道だと思われるからです。
要は「中道(中庸・調和)」を志向するところに理想の極致を設定しています。)
また、「神」なる存在を持ち出してしまえば、
それ以上の知的探究をする面白みもなくなってしまいますし、
ヒト自身の進歩・向上心も失われてしまうと懸念するからです。
いずれにしましても、管理人自身が持つ信仰心とは、
この三世を積極的に楽しみ遊ぶための推進力となる気概心のようなコトです。
いわば、「浩然の気」(孟子)のようなものでしょうか?
嗚呼・・・
『何事の おはしますをば 知らねども かたじけなさの 涙こぼるる』(西行法師)
ふと口ずさんでしまいました。
もうまもなく桜も開花する春爛漫のうららかな日ですものね・・・
本書には「進化論」から「宗教(信仰心)論」についてまで考えさせられる
重いテーマがありましたので、一連の論考に触発されて
ついつい語りすぎてしまったことをご寛恕願います。
閑話休題・・・
何はともあれ、本書もまた物議を醸した1冊ですが、
「進化論」を通じて今後の人類の未来像を考えるに適した書籍として
皆さんにも自由な立場で科学的想像心を働かせながら、
思考の幅を拡張させていってみて下さることをお勧めします。
その思考の翼を羽ばたかせていった先には、
未だ見ぬ面白き世界があなたを待ち受けているでしょう。
本書が発する「触発力」にはものすごいパワーがありますよ。
甘く見て読み進められると思わぬ落とし穴があるかもです。
決して脅しなどではありませんが、
不思議な魅力に満ち溢れた好著であることには変わりありません。
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・<補遺>
※『マルチレベルにおける<自然選択>』論を採用する
著者からの『包括適応度理論』への反論文であります。
ここでは、その『包括適応度理論』の概要解説とその限界などに関する
批判的考察が主に数学的論証(いわゆる<回帰分析>批判が骨子)の
観点から加えられています。
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・<謝辞>
・<解説> 長谷川眞理子
・<訳者あとがき>
・<エドワード・O・ウィルソン著書一覧>
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知の統合を夢見るウィルソン氏と<地球外生命体>を考慮した ヒトの未来を考えよう!!
さて、本書で披露されている論考には
このように大変刺激的なテーマが満載ですが、
ここからは先に触れずに取り残しておいた課題に
軽く取り組みながら締めくくろうと思います。
それが、「<地球外生命体>であり、とりわけ宇宙に散在する
<微生物>の次元から捉え直した地球上のヒトの未来像」についてであります。
先月も地球をはるかに離れた先に、生物の存在可能性を示唆する「地球型」惑星が
発見されたとする報道が話題になったところです。
その報道によれば、地球からはるか離れた彼方での出来事ですので、
今すぐにどうこう騒ぐような発見でもなさそうですが、
<未知との遭遇>に恐怖感を抱かなくても済む人類の知的進化の方向性を
考えるうえでは、本書における論考も有益な視点を提供してくれます。
<地球外生命体>の存在を考慮に入れた人類の未来を想像することは、
よき思考実験材料を与えてくれるようです。
地球はどんな楽観的な科学者の見方を採用するにせよ、
資源には限りのある有限時空間であります。
決して、無尽蔵に豊富な資源や生命エネルギーに満ち溢れているわけでは
ありません。
もっとも楽観的な宇宙開発推進派の中には、
地球上の有限な資源を人類にとってもっとも有利に使い果たした後には、
地球外への「脱出」を試みようとする宇宙「植民地」派も存在するようです。
有名な天体物理学者によれば、
「なるべく人類は<地球外生命体>に接触しない方がよい!!」などと
提唱する意見もあります。
その意図はよくわかりかねますが、
地球人の視点のみからでしか<地球外生命体>のことを
考えていないことだけは確かなようです。
逆に<地球外生命体>の立場から地球上で我が物顔に闊歩する人類を
観察した彼ら彼女らの意見を「想像」してみると・・・
おそらく、「何と傲岸不遜な生物ではないか!!」と反論されるのではないかと
想像を逞しくします。
宇宙物理学や宇宙生物学に関してはまだまだ勉強不足ですが、
この地球上での生命の進化史の始原にまで辿り着けば、
論理的にも宇宙から見た生命史や人類史を考えざるを得ません。
現代「進化論」の最先端では、マクロ・ミクロともに様々な角度から
細部にわたるまで研究が積み重ねられてきましたが、
地球上における生命の「最」始原の在りようについては
今のところ何一つ判明していないようです。
これまでの知見を総合判断すると、
地球の最初期は、「原始のスープ」状態であったとされており、
生命の起源を巡っても多種多様な科学者による見解があるようです。
この起源論争については、科学的な姿勢に反する「創造説」は除外して考えても、
いわゆる<地球外>起源説は十二分に考えられるところであります。
どういう形で地球外の宇宙空間から微生物の入り交じった生命エネルギーが
地球上に飛来してきたのかはわかりませんが・・・
ダーウィンの進化論では、宇宙「ビッグバン」理論と同じく
地球到来以後の進化史しか対象に含まれていませんので、
この「起源」はせいぜいヒトもその他の生物も地球生命史上における
「共通の祖先」しか取り扱うことが出来ていないようです。
本記事を書く前に様々な解説書も読みましたが、
ダーウィンの『種の起源』自体には
その肝心要の「始原(起源)」論にまで語り至っていないようなのです。
ここまでの話はあくまで「科学的」な観点として語らせて頂いています。
念のため。
(変なオカルト・精神世界系の話ではありません。
また宗教上の比喩話もここでは除外させて頂きます。)
このような「原始のスープ」仮説から現代「合成」生物学の分野では、
「無機物」から「有機物」が生み出される過程が実験されてきましたが、
あくまで現代人の手が加えられた「人工」実験だけでは、
地球上「始原期」における生命誕生瞬間の実相に触れることは出来ません。
また「仮定」に「仮定」を加えた「人工」実験であるがゆえに、
厳密さに欠けすぎるのではないかとの科学者から見た批判もあるようです。
この観点からすれば、「物質」から「心(意識)」が生み出されるとも
断定出来ないようですね。
厳密に言えば、ヒトの「知性」が持つ「心」の誕生の瞬間に関する話題は、
さらに細部にわたるテーマですので、
この「人工」実験だけでは証拠立てることすら叶いませんが・・・
(こうした『宇宙史から俯瞰しながら考える生命史』に関するテーマも
今後の課題とさせて頂くことにします。書評は本当に奥が深い!!
あやふやな知識だけでは、読者の皆さんにとっても管理人自身にとりましても
「毒」となりますので・・・
まぁ、「ゆっくりと進む者はジグザグ運転ながらも確実に進む」のたとえを
闇夜の一灯と信じてどこまでも知的謙虚に歩み続けましょう。)
紙数の関係上、これ以上の探究は打ち止めにさせて頂きますが、
どうやら「微生物」に生命起源の謎が託されていることだけは確かであります。
こうして本書を読み進めてきて感じた読後感は、
やはり生物学における「知の統合」を目指す著者にも
物理学者同様の生物学<帝国主義>のような拘りが見受けられるようです。
著者は、これまでご紹介させて頂いた物理学者志向とは異なり
人文社会科学にも目を配らせた知的謙虚さを兼ね備えておられますが、
どうしてもご自身の専門である生物学に「還元」されようとする姿勢もあるようです。
(これはこれで本書や著者の立場上、仕方がないことですが・・・)
また、生物学でも物理学に見られたような「人間原理」の縛りからも
逃れられない宿命もあるように感じられました。
(管理人とて人間である以上は、この「人間原理」の縛りからは
容易に逃れきることなど出来ませんが・・・)
著者は、本書の中で、自然科学と人文社会科学の大きく異なる性質として
「連続体」概念を取り上げられています。
(本書40頁、46~48頁、190~191頁などご参照のこと。)
この「無限」に広がる連続的時空構造体の中で
「有限」なヒトは、ほんのわずかな一端ですら垣間見ることが叶わないのが
現実の姿であります。
先に本文中で、
『つまり、自分にとってどこまで「わかって」おり、
どこからが「わからない」ことなのかに思慮深くある厳しい歩みを
人生課題として引き受けるという「重荷」を背負うことになります。』と
語らせて頂きましたが、
本当に「わかって」いる分野などほとんどないのではないかとすら
絶望的な感覚にも襲われます。
「今まで何を学び取ってきたのだろうか・・・」とも。
それは、書評をしながら様々な学際分野を旅行しては
いつも実感させられることですが・・・
「学問は積み重ねれば積み重ねるほど、謎が深まる・深められるもんだ!!」と
常々、心の底からそう思います。
「知の統合」を目指すにせよ、いくら学問を積み重ねても
真相に近づくことすら叶わないということを確認することが
もしかしたら「学問」の本義なのかもしれませんね。
なぜなら、「学問」とは読んで字の如く
「学びて問い続けざるを得ない知的営み」なのですから。
逆から申せば、『論語』でも指摘されるように、
「学んでも物思わなければ、すなわち暗し!!」だということに尽きるようです。
また、管理人自身の感じたところでは、
無理な知の<統合>を志向する試みに傾倒するよりも
各学際間の相互補完性を重視させた<相補性>の段階で
<学際曼陀羅>を構築していく方法論の方がしっくりするのではないかとも
思われました。
1つの学問(学派)の体系内に無理に収めようと欲張れば欲張るほど
イデオロギー(硬直した教条志向)に容易に転じるからです。
管理人が先に懸念した諸学派による<帝国主義化>と批評させて頂いた趣旨も
そこにあります。
こうして本書の主題「進化論」から「知の統合」へと誘われ、
「学問」の本義にまで語り至りましたが、
私たち知を愛する者は、常にこのような謙虚さや厳しさ、優しさや柔軟さを
持ち合わせたいものです。
このような姿勢から「崩壊しつつある生物多様性」にも目配りする必要があります。
「この地球上では、ヒトだけに特権的地位が与えられているわけではない」という
ことです。
ある意味でダーウィン進化論は、
神や人間の「特権的地位」を剥奪する先鞭をつける役割を果たしたとも言えましょう。
ダーウィン自身の<自然選択(淘汰)>論、<突然変異>論や
<適応放散>論などにまでは話題を及ぼすことが叶いませんでしたが、
これらの言葉だけが一人歩きして、
現代遺伝学の遺伝子優位論とも親和して誤解だけが拡散されてしまっているのが
現代進化学の現状のようです。
こうした現状を打開して、もう一度「ヒトとは何か??」を
謙虚に問い直すきっかけに本書がなってくれれば紹介者としても
望外の喜びであります。
若き後進の学徒様に期待するところです。
(なお、『ヒトの本性』を扱った川合伸幸先生を
ご紹介させて頂いた記事もご一読して頂ければ幸いです。)
それでは、最後に著者の言葉で筆を擱かせて頂くことにします。
『私たちの目の前には、昔はほとんど想像もつかなかった新たな
選択肢がある。それらの選択肢が私たちにもたらすのは、
人間全体の結束という史上最大の目標に今まで以上に自信を持って
取り組む力だ。その目標を達成するには、正確な自己理解が欠かせない。』
(本書178頁)
ということで、本書もまた様々な知的刺激を与えてくれる好著ですので、
ご一読されることをお薦めさせて頂きます。
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なお、「ダーウィン」進化論については、
本書解説者の長谷川眞理子先生が訳された
・『ダーウィンの「種の起源」』
(ジャネット・ブラウン著、茂木健一郎あとがき、ポプラ社、2007年)
・『ダーウィン入門~現代進化学への展望~』
(斎藤成也著、ちくま新書、2011年)
第一人者である木村資生先生の系譜を引き継がれた
遺伝学者であります。
本書では、現代最先端の「分子生物遺伝学」の知見から
ダーウィン進化論を厳しく査定されています。
特に何かと誤解されやすいダーウィン特有の進化論用語について
批評されている点などに好感が持てました。
また、「中立進化論者」ではありませんが、
科学的知見としてはちょっと古いかもしれませんが、
今なお考えさせるに足る
・『ダーウィン進化論を解体する~ヒトは、どうしてヒトになれたか~』
(浅間一男著、光文社カッパサイエンス、1986年初版3刷)
※本書は、ラマルク進化論を再評価した立場で論じられた
国立科学博物館地質学研究部長も務められた科学者による
ダーウィン進化論批評書であります。
これら3冊はいずれも一般向け「ダーウィン進化論」解説・批評書です。
以下は、さらに専門的に進化論や分子生物遺伝学へ入門されたい方に
お薦めさせて頂く啓蒙書です。
・『新 進化論が変わる~ゲノム時代にダーウィン進化論は生き残るか~』
(中原英臣/佐川峻共著、講談社ブルーバックス、2008年)
・『エピゲノムと生命~DNAだけでない「遺伝」のしくみ~』
(太田邦史著、講談社ブルーバックス、2013年)
そして、現代「中立進化論」の概要紹介書として、
・『分子進化のほぼ中立説~偶然と淘汰の進化モデル~』
(太田朋子著、講談社ブルーバックス、2009年)
さらに、<地球外生命体>の可能性については、
・『生命はどこから来たのか?~アストロバイオロジー入門~』
(松井孝典著、文春新書、2013年)
も併せてご紹介しておきます。
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最後までお読み頂きありがとうございました。
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