スティーヴン・ジェイ・グールド博士の『神と科学は共存できるか?』ますます科学観が混沌としていく中で、ニセ科学に惑わされずに冷静な学問的探究を深めていくために不可欠な視点を提供してくれる1冊です!!

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スティーヴン・ジェイ・グールド博士の『神と科学は共存できるか?』

生物学者として米国で著名な博士による一般向け科学エッセー論考集の1冊。

20世紀以来、科学界においても

何をもって「科学的」とするかの議論を巡り

知的混迷度が高まってきており一般人をも困惑させています。

そうしたある種の科学「認識」革命がもたらした間隙を狙った

悪質なニセ科学商売も横行中です。

今回は、この本をご紹介します。

『神と科学は共存できるか?』(スティーヴン・ジェイ・グールド著、狩野秀之/古谷圭一/新妻昭夫共訳・解説、日経BP社、2007年初版1刷)

スティーヴン・ジェイ・グールド博士(以下、著者)は、

米国の古生物学かつ進化生物学者として活躍された

世界的にも著名な学者です。

生物「進化論」の分野では、いわゆる断続平衡説を提唱されるなど

その世界では数多くの論争の種も蒔いてこられた方だといいます。

前にもご紹介させて頂いた「社会」生物学者である

エドワード・O・ウィルソン博士や『利己的な遺伝子』や

『ミーム(文化的遺伝子)』などで話題をさらった

リチャード・ドーキンス博士などとの大論争は特に有名であります。

そうした各博士間における見解が分かれていった背景事情などに関する論点は

本書巻末において共訳・解説者による簡潔な要約がございますので

そちらをご参照下さいませ。

(本書238~283頁<グールドはどこに着地しようとしたのか?>)

そんな博士ですが、すでに2002年にその早すぎる死を

惜しまれながら他界されておられます。

そのために博士が世に提起され遺された論争点につきましては

今なお決着がつかずに様々な課題として積み残されているといいます。

また著者には、『ダーウィン以来~進化論への招待~』

(ハヤカワ文庫NF、1995年)

『時間の矢・時間の環~地質学的時間をめぐる神話と隠喩~』

(工作舎、1990年)など多数の著作があり、

優れた科学エッセイストとしても人気を博しています。

数多くの未完作も遺されていたそうで、

今後とも何かと豊富な話題を提供してくれそうな

生物「進化論」者として注目を集め続けることでありましょう。

さて、本書はそうした「進化論」にまつわる生物学者としての

研究業績から獲得されてきた知見の延長上にある仕事から

創造されてきた作品であり、

その専門職としての倫理的責任感から提出された

貴重な記録的論考集としては

今後とも米国内外に波紋を呼び起こし続けるだろうと評価される

1冊だということになります。

ちなみに、本書の原著は『Rocks  of  Ages』(1999年)であり、

本邦訳書はその「全訳」だといいます。

本書のタイトルが示す主題は

宗教観に関しては比較的「寛容」とされ、

宗教上もかなり厳しい対立感情を引き起こす原因となる

いわゆる「神学論争」など経てきていない日本社会では

あまり馴染みがなくイメージがしにくい論考だと思われますが、

本書は「科学と宗教との棲み分け・関わり方」に

関する話題を中心に論旨展開されていくことになります。

一般の日本人にとってイメージが湧きやすいように

簡潔に一言で要約させて頂くならば、

いわゆる「反」進化論(創造科学)に関する

現状レポートおよび科学的観点からする

<神>といった「偉大なる知性をもつ存在」が

生物を含む現在のあらゆる自然世界を「創造計画」したと主張する

インテリジェント・デザイン(以下、ID)論」に対する

批評論考集ということになります。

このような「目的志向論」を宿した科学観は、

日本社会でも至る所で見受けられ、

「唯心論」的あるいは「アニミズム(汎神論)」的心情に傾きやすい

一般的な日本人には比較的受け容れられやすい性格があります。

また、政治的立場としては特に<保守派>に親和性があったりもする

科学観ですので、

米国における<保守派>以上に感情移入しやすい

ニセ科学的風土も形成されやすいことから、

このような日本版ID論がより根強く浸透してしまう傾向基盤にありますので

十二分な知的警戒心が必要だとの再認識が要請されます。

そのことは、数年前にも「科学」教科書の中に

ある種の「宗教」観や「道徳」・「倫理」観が忍び込んでいた内容で

物議を醸し出した事例など枚挙に暇がありません。

また、科学風の軽いエッセー論考が創作できる

人気がある一部の日本人「科学」者の中には

昨今の科学にもある程度の倫理規範意識が必要との世間の声に

応えながら、科学的予備知識がなければ一般読者にとっては

容易に誤解もしてしまいかねないような危うい表現が

散見されたりすることも多々あることから

こうした科学風エッセーを解読される際には

著者が真に主張されたい論旨意図の細部に至るまで確認点検しながら

読み進めることのできる「読書体力」や

内容の真贋(偽)を見極めるための「科学的知恵」も要求されますので、

読者の皆さんもあらぬ方向へと誤誘導されませんようにご注意願います。

そのことは、「科学と哲学との接点」をテーマに書評を続けている

管理人自身の問題意識とも重なりますので他人事ではないからですね。

このあたりは、読書経験値や学習歴なども絡みますので

管理人にも非常に難しい課題ですが、

今後とも知力向上の努力軌跡とともに「わかり得た」範囲内で

読者の皆さんへ「知」のお裾分けと読書案内のお手伝いをさせて頂こうと

願っておりますので、時に皆さんの知恵を拝借して頂けましたならば

当方も励みとなりますのでどうぞご遠慮なくコメント欄などに

積極的なお声を頂ければ幸いに存じます。

ところで、一口に「進化論」と言っても様々な種類形態がありますが、

本書では現代までの主流「進化論」の系譜とされる

ダーウィン進化論に対する「科学」的反論が主な論点として

提示されていくわけではなくして

「科学」的進化論そのものに対してなされてきた「宗教」的反論への

科学者からの批評的意見論考として

1つの試論が提出されることになります。

とはいえ、著者は宗教の重要性や役割そのものを否定されているわけではなく、

あくまでも科学と宗教との接点でどのような役割分担を果たすべきかを

厳しく問うてこられたということです。

同時に科学であれ宗教であれ、

1つの(学問)分野の見解だけですべての世界における諸現象を

統一的に説明把握できるとする傲慢さにも警鐘を鳴らしておられること、

これまでの科学者および宗教者の世界への関与・接近方法に対する

深い内省を促す視点も提供されておられることが

本書のもう一つの隠された重要論点だということになります。

それは現代科学のあらゆる分野ですでに実験・観察しながら

直接検証・確認し得る段階をはるかに飛び越え出た領域へと

進展してきたことから観測された「事実」に先立つ

「理論(仮説)」が優位となってきていること。

また、20世紀以来の特に物理学の世界における

「量子論」や「相対論」といった業績知見が切り開いてしまった

いわゆる科学「認識」革命を経てきていることから

現代では新しい科学観への移行へと向けられた様々な試行錯誤が

なされてきていること。

さらに科学の定義やその方法論そのものを巡っても

絶えず問い直す作業が模索されている過程で

怪しげな「ニセ(擬似)」科学的知見が一段と浸透しやすくなってきている

科学界や一般社会の現状に対して、

私たち一般人はどのように対応していけばよいのだろうか?など

科学の本質を探る過程で「科学リテラシー」を身につける努力を

し続けていくことでもっともらしいニセ科学商売詐欺に騙されないための

実践知になることもあって、

決して無意味な知的書評作業にはならないだろうとの趣旨で

今回は本書を取り上げさせて頂くことにしました。

宗教界と科学界の偽りの縄張り争いから抜け出す叡智としての <NOMA原理>とは!?

それではここからは本書の要約ご紹介へと移らせて頂くことにしますね。

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・<本書について>(狩野秀之解説)

※本書は管理人によるイントロ前口上でも触れさせて頂きましたとおり、

一般の日本人読者の皆さんにおかれましては非常に馴染みにくく

イメージも掴みにくい部類の書物だと思われます。

そこで本書読解の支えとなる補助解説が

巻末末尾(新妻昭夫氏と古谷圭一氏による)に用意されています。

本書著者であるグールド氏と現代「進化」生物学を代表する論者との間で

「進化論」に対する解釈が異なってきた事情や理由などについて

その背景に潜む「宗教観」を巡る諸考察とともに

現代の「目的論」的科学観の代表例である主に米国の事例ですが、

キリスト教原理主義者が主導してきた<創造科学>論の一部である

「ID(インテリジェント・デザイン)論」や

若い地球(ヤング・アース)説(これは文字通りの聖書の

字句的解釈から地球創造「日数」を算定すると若すぎるという説で

現代自然科学の知見がもたらしてきた約46億年??とも算出されてきた

年代数とは大幅に食い違う<天地創造>日数と比較した際の<若さ>説の

ことです。)」に関する背景知識を持たない一般読者にとっては

理解困難な箇所も多々出てきますことから用意された解説論考となります。

ここで少しだけ管理人から補足説明させて頂きますと、

西洋「科学」とはもともとが「神学」とそこから派生してきた「哲学」による

知的サポートなくしては発展することが叶わなかった「学問」だったという視点が

世界史的知識としても必要となります。

「哲学は神学の下僕(はしため)」(トマス・アクィナス)という名言があり、

あくまであまりにもおおざっぱな見立てにはなりますが、

西洋哲学の伝統では長らくキリスト教的世界観を背景に

哲学がキリスト教「神学」の下位学問としての位置づけを与えられていたのでした。

さらに「科学」は、その「哲学」のうち「自然」哲学の一部という位置づけでしたから

さらにさらに下部構造をなしていたというわけでした。

そのような科学史における伝統的流れもありましたことから

宇宙論などに典型的事例が見受けられますように

「自然」哲学者(近代以後の科学思想・科学観の基礎土台を形作った源流学者)は

宗教界から度々「迫害」を受けることがあったわけなのです。

そんなことから絶えず「事実」は「事実」としながらも

公表することなくして公正な知的審判を後世に待つことが

長きにわたり続いてきたのでした。

ガリレオ・ガリレイのように。

「科学」の本質は、自然世界の背景にある「真実」を探り当てることであり、

「宗教」が目的とする信仰的安心感をもたらすための「物語」的世界観とは

たびたび衝突することがあります。

人間誰しも「未知」のことを知ってしまいたい衝動とともに

知ってしまったがためにその恐怖や不安に襲われることもありますから、

出来得れば知らずに済めばよかったのに・・・と思われる心情も

十二分に理解ができ、そうした心理的理由から安心感を

「宗教」的世界観へと求める理由があるからですね。

管理人の見るところも著者が第4章で示された論考理由とともに

自分自身の心理的内部葛藤(上記のような

「知りたい<科学的探求心>VS知りたくない<宗教的安心感>」の対立)が

その根底にはあったのだと再考した次第であります。

このような双方の視点を持つことが重要であり、

これからご紹介させて頂く著者が主張されるように

「宗教」と「科学」のどちらが正しくてどちらが間違っているといった

これまでは単なる「対立」の問題として扱われてきたこと自体が

大いなる「誤解」の源だったとする視点を提供することを通じて

従来の「宗教(界)VS科学(界)」といった対立図式が

見直される必要があるとの問題意識が本書の底流にはあります。

なぜならば、良心的な「学者」であればあるほど宗教者であれ科学者であれ

相互協力しながらその互いの世界観を侵犯せずに進展してきたこともまた

歴史的事実だったからです。

そうした歴史的事実とともに

本書第1章以後でもさらに詳しく解説論考されていく過程で紹介される

NOMA原理(非重複教導権の原理)>の果たしてきた役割が

再認識させられることになります。

狩野氏も要約して下さっているように本書の主論点や

著者の意図が読書途上でよくわからなくなってきた時にこそ、

この<本書について>や巻末の2解説をあわせ読んで頂ければ

理解がより一層促進されることと思います。

そのような背景知識がすでにある読者さんにおかれましては、

「釈迦に説法」でしょうが・・・

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①『第1章 お定まりの問題』

※第1章ではすでに<本書について>内において

著者の主要な狙いを示唆させて頂きましたように

従来から「科学界」と「宗教界」とのあいだで存在してきたとされる

見かけ上の「争い」に惑わされることなく冷静に双方の役割分担を

再分析評価することを通じて、現代にまで通俗的に流布してきた

こうした「誤解」を1つ1つの事例を挙げながら

丁寧に<NOMA原理(非重複教導権の原理)>の有効性を

検証していくことになります。

その意味で著者によれば<お定まり>の問題だということです。

本章内の表現では、

(管理人注:このような科学と宗教とのあいだにあるとされてきた

見かけ上の「対立」である)この論争は、人々の心と社会的な実践のうちにのみ

存在するのであって、科学と宗教というたがいにまったく異なり同等に

大切な主題の論理や適切な有効性のなかに存在するものではない。

本書で述べることは基本的な議論であって、私の独自の見解は

なにひとつ加えていない(中略)。なぜなら本書での議論は、科学界と

宗教界の指導的な思索家によって、何十年も前から認められてきた

確固たるコンセンサスに従っているからである。』(本章<1 前口上>

10頁)

要するに、科学と宗教の役割分担を相互尊重しながらも、

安易な「越境侵犯」をしない棲み分け線引きを設定したうえで

相互理解を深めていく実践的「知恵」を汲み取ろうとする姿勢が

上記<NOMA原理(非重複教導権の原理)>の趣旨だということですね。

著者によるこの原理の要約を引用すると、

『私の考えでは、敬意をもった非干渉-ふたつの、それぞれ人間の存在の

中心的な側面を担う別個の主体のあいだの、密度の濃い対話を伴う非干渉

-という中心原理』(本書同上12頁)だということです。

以下本章では、この原理をうまく説明するに適した教材として

新約聖書の一節である<ヨハネによる福音書>に出てくるトマスの物語と

現代美術作家マーク・タンゼイ氏による『疑うトマス』を

比喩的手がかりとしながらその意味するところを示唆していかれます。

また、近代黎明期においてはニュートンなどにも見られるように

キリスト教的世界観が科学探究のうえにもまだ色濃く残っていた時期に

活躍していたニュートンの親友でもあったとされる今日の一般的見解や

印象では「否定的」に評価されている(きた)トマス・バーネット氏が

もたらした知見を再評価しながら、時代的制約はあったにせよ、

その「棲み分け」模様を「体現」してきたことを明らかにされてもいます。

現代における科学知見レベルから見れば、

近代黎明期の「自然」科学者の探究志向や方法論を

一段と低く見る傾向にあるようですが、

そうした知的謙虚さがあった姿勢を再確認することで

現代の科学者を含むすべての「学者」や一般人の認識傾向に至るまで

見事なまでの反省材料を与えるようですね。

続けて本章<3 二人の父親の運命>では

チャールズ・ダーウィントマス・ハクスリーの事例を取り上げつつ、

現代「進化論」の基礎となる土台を築き上げた人間による

「宗教」との接し方を見る中で彼らの意外な素顔にも迫れる

心温まるエッセー論考も読みどころとなります。

ことにトマス・ハクスリーの<NOMA原理(非重複教導権の原理)>に

対する接し方を紹介した論考では、

トマス・カーライルの『衣装哲学』にまで言及引用しながら

信仰との関係性を明かした事例なども知ることが出来ます。

それにしても、著者は「トマス」さんが好きだなぁ~

言葉と解説論考における流れの作り出し方(表現レトリック)が

実に巧みなのも本題からは逸れますが、

個人的には文章構成技法としても勉強になったところでした。

(余談ですが・・・)

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②『第2章 原理的に解決済みの問題』

※第2章ではさらにこの<NOMA原理(非重複教導権の原理)>の

詳細な解説論考と具体的検証事例の紹介が積み重ねられていきます。

おさらいとなりますが、

上記NOMA原理(非重複教導権=マジステリウムの原理)とは、

・どのマジステリウム(つまり、日本語訳では<教導権=ここでは

「科学界」と「宗教界」のどちらが先に世界解釈の主導権を握るか>という

先導権・先陣争いのことです。)も同等な地位にある。

(本書66~70頁)

・どのマジステリウムも独立している。(本書71~75頁)

という二大構成原理で成り立っているいわば「中庸」論理だということ

ようですね。

本書75頁末文にも『(前略)中国古代思想の「陰と陽」にいたるまで、

私たちのあらゆる文化には、さまざま水準の、そしてさまざまな伝統下の、

絶対に不可分の、けれどもまったく正反対の象徴が存在する。

この由緒正しき象徴群のリストに、科学と宗教のマジステリウムを

加えてみようではないか。』と絶妙なたとえでもって

うまく一言でイメージ喚起して下さっています。

まさしく<相補性原理>の活用ですね。

そして、著者によればすでに<解決済み>の問題として

このNOMA原理を例証する事例として

・ダーウィンとローマ教皇(本書78~91頁)

・ニュートンをニュートン以上にした聖職者(本書91~97頁)が

示されています。

そしてさらなるNOMA原理の補強例証事例として

本章<3  結尾と続奏>ではJ・S・ホールデン氏による

グラスゴー大学での『ギフォード講演~科学と哲学との関係を探究する

一連の講義~』(1927年)において示された見解も紹介ながら

検証を続けられています。

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③『第3章 対立の歴史的理由』

※第3章では、科学と宗教が相互誤解から

『情け容赦なく対立する二大勢力』(本書111頁)としてみなされた時に

どのような惨劇が待ち受けているかの事例などを紹介しつつ

そうした「対立」が煽られてきた<歴史的理由>について

分析考察されていきます。

特に惨劇をもたらした代表事例としては

もう皆さんもご承知のようなダーウィン進化論の

「社会政治文化」的領域にまで拡大解釈されていった

いわゆる「社会」進化論がありますが、

本書ではこうした<科学と宗教との闘争>といった

捏造された神話図式の起源がジョン・ウィリアム・ドレイパー氏と

アンドリュー・ディクソン・ホワイト氏によって示された

モデルの「定式化」にその直接的原因があったとも指摘されています。

こうした悲惨な「誤謬」の実例は、

本章<2  コロンブスと平らな地球~科学と宗教の闘争という

誤謬の実例~>(本書120~133頁)でも引き続き検証されていますし、

現在「進行形」の実例としては、

数多くの<創造(科学)主義>を巡る「進化論裁判」を取り上げながら、

その底流にある問題を探究しておられます。

この「進化論裁判」の背景には、

政治面での現代ポピュリズム(大衆煽動的政治姿勢を生み出してきた

熱狂的な<俗受け>しやすくする人気取り志向とそうした政治的土壌のこと)の

病理的側面もあるようです。

とはいえ、「反」進化論を唱えてきた<創造科学>運動派に

すべての「悪」のレッテルを貼るのも公平に反する姿勢だということで、

著者はあくまでも科学的に見て冷静な立場からの「進化論」を

提起してこられた進化生物学者としての視点から

ここではウィリアム・ジェニングス・ブライアンが提起していた

批判的問題意識にも耳を傾けながら、

そのような「対立」や「混乱」をもたらす原因となる

不安感を一般大衆に与えてしまった責任の一端が科学者にもあったことを

厳しく追及されています。(本書159~178頁だけでも

その<歴史的教訓>を正しく生かすためにも

是非ともご一読して頂きたい論考箇所です。)

この事例問題はたまたま「進化論」問題といった

生物学分野における事例でしたが、

このような科学の「誤用例」は他の学問領域でも

頻繁に繰り返されてきています。

「自然」科学分野でもこの有り様なのですから、

いわんや「社会」科学分野においてをや・・・

特に現代「経済学」と「社会学」、

「心理学」や「精神医学」の分野では

かなりの悪質な事例も目につくようです。

統計データを故意に歪曲したりするなど・・・

学問とは、およそ「人間」の営みであり、

単なる趣味道楽のたぐいではないのですから、

ここから獲得されてきた知見をいい加減に

「誤用」すれば人間の生死にも直結しかねません。

今回は生物「進化論裁判」を題材とした事例検証でしたが、

本書はそうした教訓的文脈からもあらゆる学問に共通する

警告を発信し続けてくれる好著です。

その意味で<本書について>末尾で狩野解説者が

強調されておられるとおり、

本書は『普遍性と一般性を備えている』(5頁)1冊ということに

なります。

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④『第4章 対立の心理学的な理由』

※最終章では<科学と宗教との偽りの対決姿勢>に

どのような関わり方をすれば、無用かつ不毛な摩擦を回避することが

叶うのか?という最終解決法に至る「知恵」を見出すべく

まずは人類史における「人間と世界との関係性」を巡る論点をテーマに

心理学的な理由を探りながら分析考察していくことになります。

キーワードは、<不安によって強められていく恐怖感情との向き合い方>です。

とこのように本章では、著者独自の見立てから「対立」感情が生み出されてきた

<心理学的理由>について論旨展開がなされていくことになるわけですが、

「科学者」の立場からの「結論」を先に提出しておきますと、

「世界側(著者の表現では、『自然の仕組みのなか』本書187頁)に

何らかの<意味>を求めるある種の<目的論的志向性>は

放棄した方がよい!!」という科学的教訓からの見解です。

このような世界の方へ「意味」を求め続ける解決志向では、

なおさら不安感が募るばかりで、

ますます私たち「人間」を取り巻く自然世界に不信感だけを

募らせ続けることになることが予想されるからですね。

「自然は何も私たちに語りかけてはくれませんし、

そこに何らかの意図を読み込んだとしても、

そこから導き出されてくる回答はあくまでも人間自身による

<自問自答>にしかなりません。」

ということは、

「独りよがりの<思い込み>をますます心理的に強化させる

推進力にしかならないということでもあります!!」

科学的なアプローチから、

冷静に自己自身を取り巻く周辺環境を分析考察していけば

自ずと行き着く結論でしょう。

ここから、「正解」を自然界(世界)に求める外在的方法論ではなく、

「汝自身を知る」(ソクラテス)ための内在的自己コントロールへと

還るアプローチが必然的に導き出されることになります。

(本書215~219頁あたりをご参照のこと。)

この結論的教訓を本書の趣旨から少し外れることを

お許し頂きながら誤解を恐れずに管理人なりに

もう少し「人間と自然(世界)との関係性」を敷衍して

語らせて頂くならば、「西洋」科学が意識的もしくは無意識的に

暗黙の大前提としてきた人間(観測者)と自然世界(対象物)との

「分離切断」から検証考察が深められていった従来型科学観からも

脱却する道が次第に切り開かれつつあるということなのかもしれません。

とはいえ、人間が自然世界に「没入」するばかりでも

自らがその世界観に嵌り込むだけですから、

科学的方法論としては確実性に欠け、

「実証」面での脆弱さをもたらすことに変わりはありません。

「対象物」との客観的な距離を取れると思われてきたのも

ここにきてある種の「幻想」にすぎず、

主観性からは完全に逃れきることが不可能なことが判明した現在、

「没入」するアプローチといっても

ますます「主観性の<罠>」へと深く嵌り込む余地しか

論理的には残されていませんよね。

ましてや「事実」を<実測>するという科学的真理(普遍)性を

担保させるための検証過程もますます困難を窮める事態へと

進展してきてもいるからです。

ここに「人間原理」と「宇宙原理」の科学観を巡る思想対立も

絡んでくるというわけです。

(「人間原理」VS「宇宙原理」についてはこちらの書評記事

ご参照頂けると幸いです。)

このことはすでに何度も触れてきましたように

20世紀以来のあらゆる学問領域で「不完全性原理」命題として

提示されてきた難問でありました。

科学技術そのものは日進月歩の「進歩」が目まぐるしい現在ですが、

人間が「科学する」点で欠かせない対象世界への科学的「認識」問題を

どう解決していくべきかがまさに今問われている最中だということです。

そうした新たな科学観や科学的研究方法論が模索されている中だからこそ、

より「不確か」な解釈像やかえってそれを補強してしまうような

都合のいい実験・観察結果が跳梁跋扈してしまいかねない現状にある

警告もさせて頂いてきたところであります。

そうした深刻な自身の「認識」問題意識から

管理人も「科学哲学」やその「(研究)方法論」に学びながら

独自の「科学と哲学の交点難題」に取り組んでいるわけですが、

学べば学ぶほどどのようなアプローチを採れば、

「普遍性」や「一般性」といった信頼性を獲得することが叶うのかと

日々悩み続けています。

おそらく「ニセ」科学追放を目指しながらも

行き詰まりつつある従来型科学観や科学的方法論を打開しようと

日夜苦闘し続けておられるプロ研究者もアマ研究者も

「良心的」な志向性を追究すればするほど

安易な解決法では妥協されることはないものと信じています。

もう要約記事項目も終わりに近づきつつあるので

これ以上の詳細な内容解説は本書に委ねさせて頂くことにしますが、

安易な妥協こそがまさしく著者も強調注意されてきたように

<NOMA原理>違反を犯してしまうことになります。

そうした安易な「和協主義」を拒絶する姿勢が

本章<3  和協主義が創り出すふたつの偽りの道>(本書220~

234頁)でも再提示されています。

この一論考箇所も先にご一読をお薦めさせて頂いた論考分とあわせて

本書の最大の読みどころとなりましょう。

こうして著者とともに<NOMA原理>の本質を学んできたわけですが、

一読する限りでは、この原理自体に冷たさも感じられますが、

昨今の1つの学問分野体系だけで

すべての森羅万象現象を「解明」出来るだろうとする

壮大な冒険的企てに対しては見事なまでに「冷や水」を

浴びせてくれる猛省を促してもくれる1冊であります。

まとめますと、人間の「認識」には必ずや限界や偏りがあることからして、

自ずと厳粛な知的謙虚さを弁えなくてはならないという

当然の知的教訓へと至ったわけですが、

このことは陳腐な結論のように見えて本当に奥深い見識に

達する奥義へと人類を誘ってくれます。

そんなにも大切な教訓へと誘ってくれる本書には

エドワード・O・ウィルソン博士によって導き出された見解とは

また一風違った魅力で満ち溢れています。

最後にもう一度だけ最重要な論点ですので<NOMA原理>の本質的効用

本書から引用させて頂きながら筆を擱かせて頂くことにします。

『NOMAは科学と宗教のそれぞれの立場を大切にする-それぞれが

別個の役割をもち、それぞれ人間的な理解に欠くことのできない

貢献をもたらす、時代を超えた「ちとせの岩」だと見なす。

しかしNOMAは、実り多い対話への粘り強い一貫した探究という

和協主義への本道の両脇にある二本の側道は拒否する-

すなわち、混合主義の偽りの不合理な統一を拒否し、

また目と耳と口を被い隠す「見ザル、聞かザル、言わザル」的な

解決で平和を確保しようとする「政治的な正しさ」の、道理に反する

提案も拒否する。』(本書233~234頁)ものだと・・・

このように本書を読み進めてきましたが、

人類はなぜ始めに「武器」ではなく「言葉」をもったのかを

深く問い直す時期が再び到来してきています。

ということで本書も科学的なアプローチからの

「対話」の効用を説いた良書としてご一読されることをお薦めさせて頂きます。

『はじめに言葉(もしくは明るく温かい意味での<光>)があった』とする

聖書の記述も手がかりにしつつ科学的視点と宗教的視点を重ね合わせると

どのような「知恵」が湧き出してくるというのでしょうか?

是非読者の皆さんにもその「謎解き」に果敢に挑戦して頂く願います。

そんなわけで聖書文化圏には属さない日本人読者の皆さんにとっても

有り難い1冊となり得ているのではないかと自負して

今回はこの本を皆さんにお届けさせて頂くことにしました。

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・<グールドはどこに着地しようとしたのか?

~現代進化生物学の三巨頭(グールド、ドーキンス、ウィルソン)の

宗教観を比較する~>(新妻昭夫解説)

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・<キリスト教原理主義者たちはなにを主張しているのか?>

(古谷圭一解説)

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<ご参考文献>として、

①『最新 進化論キーワード図鑑』

(池田清彦監修、宝島社新書、2018年第1刷)

②『新しい科学論~「事実」は理論をたおせるか~』

(村上陽一郎著、講談社ブルーバックス、昭和61年第13刷)

③『科学VSキリスト教~世界史の転換~』

(岡崎勝世著、講談社現代新書、2013年第1刷)

もあわせてご紹介しておきますね。

※ <最後に一言お詫び申し上げます。>

今月も皆さんお待ちかね??の<エッセー項目記事>という

ご奉仕タイムにまで取りかかれそうな時間もなくなってきましたので、

ひとまずは書評記事を先投稿させて頂くことでご寛恕願います。

また時間と機会があればという条件付きで保証こそ出来かねますが、

鋭意来月の書評記事までに別途<加筆修正>投稿させて頂くか

来月以降のいずれかの機会にでも必ずお届けさせて頂く予定でいますので

「乞うご期待!!」ということで楽しみにお待ち頂ければ幸いです。

いつも本当にありがとうございます。

最後までお読み頂きありがとうございました。

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One Response to “スティーヴン・ジェイ・グールド博士の『神と科学は共存できるか?』ますます科学観が混沌としていく中で、ニセ科学に惑わされずに冷静な学問的探究を深めていくために不可欠な視点を提供してくれる1冊です!!”

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