生きた数学感覚を磨くには?森田真生さんの「数学する身体」を読む!!
「数学する身体」
若手の数学「独立研究者」森田真生さんは、
現代の「システム管理社会」への抵抗として
「数学の身体感覚」の重要性を主張されてこられました。
数学と無縁な「普段の社会」では、
あまり意識されることもないでしょう。
とはいえ、もはや私たちにとって全く無関係とは
いえないようです。
生活のあらゆる場面で、急激な「機械化」が進行しています。
そんな現代社会を考えるために、今回はこの本をご紹介します。
「数学する身体」(森田真生著、新潮社、2015年)
森田真生さん(以下、著者)は、元々「文系」だったそうで、
ある日、古本屋で何気なく手にした1冊から「数学」の魅力に取り憑かれ
「理学部数学科」へと進まれます。
大学卒業後は、どこの研究所や組織にも属さずに「独立研究者」として、
全国各地で不定期に社会人向けの「数学セミナー」などのイベントなどで
活動中とのことです。
今回ご紹介する珠玉の1冊は、著者の「デビュー作」でもあります。
このような若手「独立起業家」ならぬ「独立研究者」を積極的に
応援したく、一つの生き方として今後の「若者の希望の星」になるとも
思いましたので、ここに取り上げさせて頂きました。
このブログは、そんな「意欲的な若手発掘の場」にもしたいと
思っていますので、ご興味ある方はお気軽にご連絡頂ければ幸いです。
さて、著者の何気なく手にした1冊とは・・・
前にも当ブログでご紹介させて頂きました岡潔先生の「日本のこころ」という
本からだったと、著者は語ります。
「数学とは情緒」
一般的な数学に対するイメージといえば、「計算や論理」でしょうが、
本質はあくまで「数学のこころ」をいかに掴むかという所にあるようです。
およそ世の中にある現象を「数学的に分析」するにあたり、問題設定(仮説)を
立てていくのですが、その最初の問題意識(ひらめき、直感など発想力)に関しては、
「情(こころ)」を掴む「緒(いとぐち)」が必要となります。
さて、現代社会は一般人にとっても、数学的思考とは
もはや無縁ではいられないようです。
「人工知能」「量子(スーパー)コンピュータ」「アルゴリズム思考」など・・・
社会システムは、高度に複雑化しており人間の支配が及ばない
領域も間々(まま)見受けられます。
これから、人類は自ら創造した「機械たち」とどう接していけばよいのか?
そうした問題を解決していく手がかりとしても「数学する身体」が必要になってきます。
まずは、問題の整理から・・・
数学の歴史は、人類が「言葉や道具」を発明した時から始まったようで、
かなりの古さがあるようです。
古代人の「宇宙への驚異」を解明したいという憧れからか、
やがて「数字や図形」で表現する方法が
発見されていったようです。
そうした数学の黎明期は、まだまだ人間の直感能力と「数字や図形」との
距離も近く身体感覚でもって「数学という行為」を営んでいました。
なぜなら、すぐに使える「数学的技術」でないと建築作業などの「実用化」に
支障が生じるからです。
古代ギリシャや古代エジプトでは、そうしたことから主に「幾何学(図形学)」が
発達してきました。
初期の頃は、簡単な道具を使って「計算」する程度でしたが、やがて他人に説得する
必要から「証明問題」が重視されるようになっていきました。
つまり、「具体的な個別事例から抽象化された総合問題解決法」へと発展していきました。
そこから急激な数学の発展が始まるのですが、
やがてインドでのゼロの発見やイスラム世界でのアルゴリズム記号などの「代数学」と
合流していき、近代におけるデカルトやライプニッツ、ニュートンといった人物により
より精緻化されていったのです。
その時代の数学には、まだ身体感覚(人間の日常感覚で判断が可能)が生きており
人間の経験できる範囲でのものでした。
ところが、19世紀から20世紀になるにつれて物理学の分野でも問題になったのと
同じ現象が出てきたのです。
「技術革新」ともあいまって数学・物理学の理論面での裏付けが、
より精緻化・高度複雑化するに伴い「経験の範囲を超える」という
事態が出来(しゅったい)し始めたのです。
20世紀初頭には、「人間はどこまで認識できるのか?」が焦点となっていき、
ついに「世界は、不確定、非実在であり完全に解明するのは著しく困難」な
状況になりました。
つまり、数学でも物理学と同じく「実験や直接確認可能な形での証明」は
あきらめなければならなくなり、あとは「確率・統計的証明」といって
「原理的に説明出来ればよし!!」とする風潮が生まれてきました。
そうすると、果たして前提となる問題が正しいのか否かが容易には判断がつかないのです。
それでも、原理的に証明できれば当面の「技術革新」には間に合わすことができるため
一般人にとって、その原理の意味が理解できなくとも世界を動かすことはできるのです。
皆さんご存知の「コンピュータ」などは、そんな典型例です。
そこで、「意味から離れた数学とは何か?」が不気味な勢いで増殖していったことから
今日の「不安定な世界観」が生まれ、その反省からもう一度「生きた数学感覚」を
取り戻そうという問題意識が出てきたのです。
「生きた数学感覚」を取り戻すために・・・
ということで、再び「抽象化から具体化」の世界観へ戻ろうとするある種の反動も
生まれてきたのです。
この問題が、ややこしいのは「人類の進化と技術革新の進化の速度」をいかに
調整していくべきかという「哲学・思想的な問題」や「政治・経済的な問題」
などが複雑に絡みあうからでもあります。
つまり、人間の「あくなき欲望との闘い」でもあるということです。
現代社会の最先端では、すでに「生身の人間」と「人工知能(アンドロイド)」との
生存競争が始まっています。
今後、私たちの「生活経済」はどうなっていくのか?
多くの方が、不安やおそれを抱いていることでしょう。
だからこそ、もう一度数学を「生きた感覚」へと甦らせていく知恵も
必要となってくるようです。
「生きるとは、どういうことか?」
「いのちの役割とは?」・・・
こうした問題を考えていく素材として、皆さんにも「数学的発想」に
興味関心をもって頂きたくて、今回はこの本を取り上げさせて頂きました。
なかなか「文系」にとっては、扱いにくいテーマですが、
著者も元々「文系」ですので
数学の歴史の大まかな流れなどは、比較的分かりやすく説明されています。
難しい所もありますが、
「そもそも数学とは何か?」
「数学する行為(生きた身体感覚)と思考の違い」など、
著者の問題意識を中心に話の展開をつかんでいって頂ければ
理解しやすくなるかと思います。
読むコツは、数学の問題を解くのと同じく「頭」だけを使うのではなく、
「身体、心・情(こころ)」といった全身で読んで頂くと、
すんなり入っていくことができるかと思います。
それにしても、「人類にとって容易には不安定な世界観を受け入れるのは難しい」
ということです。
ここにも、物理学におけるアインシュタインが抱えた「漠然とした不安」がある
ようですね。
<追伸>
本書『数学する身体』が、第15回小林秀雄賞受賞作品に
選ばれました。
(平成28年8月26日付「日本経済新聞」ニュースより)
受賞おめでとうございます。
今後とも、ますますのご活躍を心よりお祈り申し上げます。
最後までお読み頂きありがとうございました。
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[…] 著者も一押しで、前にも当ブログでご紹介させて頂いた […]
[…] これも前にご紹介させて頂いた『数学する身体』の著者である […]
数学が〔何なんか〕知らない頃、何かを求めて取っ掛かりに以下の数学本を読みブクログ本棚で書評した。
「生き抜くための数学入門」・「数学は言葉」新井紀子著
「とんでもなく役に立つ数学」西成活裕著
これらからメタ数学への概念(イデア)を『遊夢』し続けていた頃。
森田真生先生の存在を知り、「数学ブックトーク」などに浸り、「数学共同体」と「万人」の融合としての先生のあふれ出る光背を浴びて来たことには、(共進化)にほかならず多少なりの思考の広がりをもてるように…。
エミー・ネーターの物理学に、≪系に連続的な対称性がある場合はそれに対応する保存則が存在する。≫とある。これは、数学的思考の弁証法からの混沌(カオス)表示で見てとれる、三次元はジャーゴン(数の核)で四次元は『形態空間』の『容量』と『ホログラフィック係数』とで保存されているのはエミー・ネーターの数学版と観得てくる。
西谷啓治は、≪論理や学問、存在の問題、そういうことは、西洋の哲学が分析的に扱っている。しかし、それを解決する方向から言えば、東洋の方に分があるのではないか、そんな気がします。≫と洩らしている。
その様な背景で東洋哲学としての真言密教の源流のインド哲学六派での数論外道の二元論は、純粋精神(プルシャ)と根本物質(プラクリティ)とし、プルシャの観照によるプラクリティの展開とみる。この二元論を秩序(コスモス)と混沌(カオス)にプルシャとプラクリティを対応させてみる
秩序(コスモス) 混沌(カオス)
純粋精神(プルシャ) 根本物質(プラクリティ)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
五蘊 べき乗則
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【数】の【1】 ジャーゴン(数の核)
【二階述語論理】 【数学的弁証法】(自己組織化)
『数の命』 【離散】と【連続】の【双対】
【算術】 【有限】
【数学】 【無限】
【次元】 【濃度】
ここで【カオス】の【コスモス】としてのニッチ(生態的地位)が数学(心)と掴まえられよう。プルシャが永遠に普遍ならば、数学的命題は実体となる。
[易経]の』繋辞上伝の“形而上者謂之道、形而下者謂之器”
(形よりして上なる者これを道と謂い、) タオ・オエセル
(形よりして下なる者これを器と謂う) コスモス(【数そのモノ】)
村田全の≪…『永遠の今』…とそして…数学化される…混沌はないものか… いかがでしょうか。≫や津田一郎先生の[時間]を持ち合わせた【数そのモノ】を思考していると、
どうやら『離散的有理数の組み合わせの多変数創発関数論 命題Ⅱ』は、
[セルフコンシステント]な[自己無撞着の摂動方程式]と生る。
これに連続性を持たせると『自然比矩形』が[思考の要]となり一・二・三次元のそれぞれの数体の【1】が、カオス表示の因子の積等で双対性が観られる。
【数そのモノ】は、[三次元で閉じている]いる。
この事が、「数学共同体」と「万人」の融合としての[数学の現象学]として岡潔の「ソワ₌ムーメ」の普遍化に生るようなら、
森田真生先生には、高木貞治の≪清新明朗な数学≫をものにしノルウェーへも行って頂きたい。