エドワード・フレンケル著『数学の大統一に挑む』異次元世界同士を結びつける謎の共通項を探究する<愛の数式>の魅力に迫ることで不協和音退散を祈願しよう!!
エドワード・フレンケル著『数学の大統一に挑む』
2015年NHK白熱教室でも放送されて話題となった
数学者による数学的世界観から眺めた人類同胞に熱く呼びかける
異色の自伝的数学物語エッセー集です。
コロナ禍とともに現在の世界には数多くの不安と恐怖感情が
呼び覚まされており不協和音の合唱嵐が凄まじい勢力をもって
吹き荒れています。
このような先が見えない時代にこそ腰を落ち着けて
未来を夢見よう。
今回はこの本をご紹介します。
『数学の大統一に挑む』(エドワード・フレンケル著、青木薫訳、文藝春秋社、2015年第2刷)
エドワード・フレンケル氏(以下、著者)はロシアで出生されたユダヤ系の数学者で
現在は米国カリフォルニア大学バークレー校にて数学を教授されている方です。
普段はただでさえ難易度が高すぎて理解しがたく
堅固にそびえ立つ高層建築物としてのイメージがあり、
一般にはまったくと言ってよいほどに馴染みがないと感受される
現代数学の世界ですが、ここに1人の愛と勇気をもって
一般の方々にも何とかご理解して頂こうとの熱意をもって
その魅力を伝えようと懸命に努力されている奇跡の数学伝道者が
日本に降臨されました。
本書の主人公であられるエドワード・フレンケル氏です。
その著者が日本で一般に知られるきっかけとなったのが
2015年にNHKで放映された『白熱教室』での一連の
公開講義だったといいます。
本書はその番組放映直前あたりに出版された著作品であります。
管理人は最近本書を入手して著者のご存在を知ったために
当時の番組放映内容をまったく知らないままに
今本書を片手にこの難しい数学的世界観を
著者以上に苦心惨憺しながら書き綴ろうとしております。
管理人自身は数理的世界観には幼少時より多大な知的興味関心を
保持し続けてきた人間ではありますが、高校(大学受験)数学の段階で
つまずいてしまった典型的な<文系人>ではありますが、
社会人になってからも暇を見つけては親しませて頂いております。
また以下で語らせて頂くようにこのコロナ禍下における
初等義務教育の不安定な授業態勢から近しい子供たちを守ってあげる必要性を
痛感したことから、学生時代の塾講師の経験も活かそうとの想いが
再び強く募りだしてくるなど目下の周辺事情より
小学校の算数から再学習を始める羽目へと陥ってしまったことが
結果としてその魅力にあらためて気づかされる機会ともなり得ました。
このたび姪っ子が小学校に入学したものの
このような情勢から安定した授業も受けることが難しい状態が
続いていたところ初夏あたりから
ようやく授業も再開の目途が立ってきたそうで
学生らしい生活へと徐々に慣れつつあるとは
<風の便り>には聞くわけですが・・・。
このコロナ禍のために遠距離にあればあるほど
親族とさえなかなか接触する機会さえ剥奪されてしまった
理不尽極まりなき厄介な世の中となってしまいました。
テレビ電話だけではなかなか子供たちの日常生活の実態を
身体感覚でもって十二分に把握出来ませんから
「最近どうしているのかしら・・・」と心配にも
なってくるというわけですね。
おそらく読者の皆様方におかれましても
同じような悲しい思いを抱えていらっしゃるものと感受いたします。
さて、このコロナ禍による親自身の所得減少や
もとより続いてきた失われた○○年間における
国民大多数に超格差貧困社会生活が強いられていくといった嫌な流れがあります。
ただでさえこのような状況にある中で、
年々歳々と『義務(公)』教育の質量も削ぎ落とされていく一方にあるにもかかわらず
その教育費だけは<うなぎのぼり>に上昇していくという悪循環構造が
あるわけです。
さらにこのような大多数の一般庶民層にとって経済的負担が
重くのしかかる中で不十分な教育内容であるにもかかわらず、
当然ながらこのような教育指導体制であれば
通常人にとってはただちに消化不良となり
いわゆる選別排除競争へと巻き込まれていくことが
容易に予想出来るにもかかわらず・・・。
大学入試制度までもが明快かつ客観的な採点判断基準も不透明となりがちな
『思考力重視などを問う問題傾向(その問題意識や趣旨自体までは否定しませんが)』へと
転換されていっているのです。
高校までの正規の学習過程で身につけるべきことが期待されている
『基礎』学力でもって高等専門教育を受けるに値するレベルに達しているか
どうかをはかる素直な問題制作と明確な採点基準を公表することも
ますます難しくなることが予想されるだけに
一段と大学を始めとする各種高等専門教育が受けられる機会を
獲得することが叶う『絶対的』な学生数も減少していくことでしょう。
なぜならば、社会に出る一歩手前の学生生活における
最終的な『出口』部分にこのような不透明さが濃厚に立ち込めていると
『気力』ある若者であってもどのように勉強していけばよいかわからなくなり、
ただでさえ不安な思春期を乗り越えるべき時期に当たる貴重な『青春』を
無駄な悩み(学習上の悩みならば深刻な人生や生活上の悩みよりも
優れた指導者に出会うことが叶えばまだしも解決しやすい)を
増やしてしまうことになるからです。
その重荷の前で『学半ばにして学業を断念』せざるを得ない状況へと
追い込まれてしまう若者が一定数(それもかなりの数で)出て来ることに
なるでしょう。
それもまた『自己責任』というのでしょうか?
現在は「戦時中」ではありませんが、
学業を「志」半ばで放棄させられて『戦場(より苛酷な競争社会)』へと
早期に駆り立てていく体質は今も変化していないということでしょうか?
現在において『学徒出陣』していった先人の悔しさや悲しみに
真摯な想いでもって報い応えるためにも
『たかが教育』だと軽侮している大人がいるとすれば
それは『歴史や先人に対する冒涜』そのものでしょう。
ですから、このような時勢の流れの中で
高等専門教育課程へと進学出来る若者の『絶対数』が減少し続けていくと
いかなる帰結をもたらすのでしょうかという『問い』を
真剣に考え続け解決方法を導き出すことは
我が国だけではなく世界の未来を担う青少年に対する
最大限の『誠実さ』だと信じております。
『歴史的感覚を完全に見失った民族や人類は滅亡する』
これが世界(人類)史的教訓であります。
我が祖国の総合的『国力』が喪失するとともに
世界を支配しようとする悪意ある勢力(今や国家だけではありませんから
ご注意を!!しかも第二次世界大戦までのイメージ像も捨てましょう。
『総力戦』体制は今後とも続くことが予想されるものの
我々の日々の生活に直結する<基本的社会整備資本(ライフライン=
生活存続のための命綱)>が『切断』されて各個撃破されていく
いわゆる『超限戦』体制へといずことも進化を遂げていっている最中だと
いうことを忘れると大惨事をやがて自ら招き入れることになります。)が
虎視眈々と狙っているのが
悲しいかな、まだ現在の人類の<霊的水準>なのです。
『人類よ、目を覚ませ!!』ですよ、ほんまに。
<仮面ライダーブラックRX>のテーマ曲みたいですが・・・。
ほんまに油断していれば<クライシス帝国>に侵襲されてしまいますぞ・・・
ということですね。
みなさん、子供じみた単なる『勧善懲悪論』だと思っておられる方も
もしかしたらおられるかもしれませんが、
この子供達に人気のあったアニメ(物語)は
『ただの<ファンタジー>とはちゃいまっせ!!』ということです。
ここには『愛と勇気という名の人間哲学』が丁寧に描かれているからですね。
まぁ、とりあえず興奮し過ぎましたが・・・、
とりあえず、仮面ライダー話は脇に置くといたしましても
『油断をしていれば、こちらから戦争をしかけることがなくても
引き寄せて(巻き込まれて)しまうことがよくあり得ることは
古今東西の歴史に鑑みても想定される』という<道理>だけは
しかと脳裏に刻み込んで頂きたいのです。
ですから、我が国が今後とも世界平和維持に貢献することを通じて
世界との<架け橋>役を任じる国際的責務をまっとうするのであれば
人類同士をただひたすらに不安にさせて暴徒化を促進させていく
マイナスエネルギーをもたらす『緊縮』型経済体制を
ただちに撤回することが肝要だということです。
新政権の皆様方には
是非ともこの『重要役職心得』をくれぐれもお忘れなきようお願いする次第です。
もっともこの布陣を見ると不安を強く覚えるのですが・・・。
与野党問わずに『(構造)改革』の内実とその成果(これまでの結果論も
踏まえて)が次世代に与える悪影響を過小評価されているのも懸念材料です。
さらに今回発足した新政権の閣僚の平均年齢が何と60.38歳というのですから。
党の重要役職に至っては70歳代ですよ。
高度経済成長から一時オイルショックなどの影響による不況を体験されたことが
あったことを加味してもその後のバブル経済に至る恩恵で
辛うじて生きながらえてきた世代層なのです。
このような状況下で
まもなく解散総選挙の『嵐』も吹き荒れると漏れ伝え聞くことも
多くなりました。
『えっ、このコロナ禍下で選挙するの?』
なんて思われたそこのあなた様。
世評の憶測情報では来年のオリンピック閉幕(されるかどうかも
未定ですが)直後あたりか衆議院議員任期満了の数ヶ月以内と予想
されているようですが、『意表(油断)』を衝いて
本年度末から年明け直後あたりのどこかの時点で実施されるかもしれません。
大阪都構想に関する住民投票の動向とその結果も見きわめて
解散総選挙の実施時期を探ろうとしているのかもしれません。
なぜならば、いずれの政党も志向性が似ている
『(国民にとっては痛みを伴う彼/彼女らが好む)改革』勢力だからです。
さらに、本来ならば最大対抗勢力であるはずの野党が
適切な国家観に基づく安全保障論も経済政策論も持ち合わせておらず
(一部少数派はあれども弱小勢力かつ将来不安を掻き立てるような
要素が多々あると評価するのが『日本国民』良識派の通常の見識でしょうから)、
新政権以上に国民に痛みを強いる恐怖型<弱肉強食>国家化を
促進させることに協力してくることも見越してとともに
新政権発足間近の現時点ならばまだ国民の支持率も高いらしい・・・から。
そうとすればもし来年春先にはこのコロナ禍も落ち着きを見せ始め
オリンピック開催実現へと至るほのかな光が見えてくるとすれば、
盤石な体制を整え、諸外国にも訴求するためにも
「今しかない!!」と一挙に解散総選挙へと雪崩を打って
突入していくかもしれません。
その時に『反』緊縮経済政策と安全保障体制強化維持発展の
2セットをもって『国防は最大の福祉(国民生活維持のためにも
必要十分条件)』だと理解し得る力強い勢力同士で
国家再生のための機軸づくりで結集しあえる与野党協力と
国民の理解が深まれば今からでも現政権に対する<起死回生>は
あり得るのです。
というわけで、とりわけ与野党に所属する若手議員と
補佐される各省庁の若手官僚の皆様方には
より一層の奮励されることを期待しております。
この若手勢力を側面から支えるべく
我が祖国の現状を正しくご理解されている国民の皆様方にも
強く後押しされることを願います。
『大東亜戦争は大正世代の戦争であり、
庶民(町人)主導下での戦だった』
もはや『戦のプロである武士による戦ではなかった』のです。
往々にして『プロ』ではない素人集団(あまり訓練されていない
国民皆兵)の方が残虐行為に走ることも少なくないようです。
仮に厳しい『軍律』があったとしてもです。
『国民皆兵(徴兵制)』の方が民主制国家においては
むしろ戦争抑止効果があり、
常日頃から政治に関心を持つことになるから良いのだ・・・と
する見解もあるようですがあまり根拠もなさそうですね。
なぜならば、人間とは迫り来る恐怖の前に冷静な政治的判断も
下せなくなることは『群衆心理学』を紐解くまでもなく
私たちが日々体験していることだからです。
『知性(理性)』よりも『身体感覚(情動意識)』の方が
先行してしまうのが最近の脳科学からも判明してきています。
あまり知られていない史実であるとともに
あまり知られたくない暗くて恥ずかしい深層心理だからでも
あります。
しかも『徴兵』によってかり集められてきた集団では
戦闘行為にも熱が入らずに民主制国家であればあるほど厭戦気分も
浸透されやすいからです。
だからこそ、有事においては民主制国家においてすら
国家(国民生活)存立確保のために『情報統制/管理』態勢へと
移行していかざるを得なくなるのですが、
それにも限界があるのです。
ですから、実際の戦争では『戦術/戦略』に基づいた個々の戦闘行為での
勝敗よりも戦後の講和条件なども十二分に想定した『軍政』こそが
最重要課題となるわけですね。
『軍政』がうまくいかないと大惨害がますます酷くなっていきます。
『軍政』の中には<軍票>管理や<戦略物資>調達のような
経済政策も含まれています。
やはり有事における極限状態である戦争でも
平時と同様に『志願兵』という自主性を堅持した集団の方が
強くなるのは人間心理上致し方がないのです。
『自由民主制』国家を維持発展させるためにも
こうした脆弱性の部分にも目配せした実りある議論を期待します。
特に日本国憲法第9条改正『賛成』派の方にこそ。
また『反対』派の方であっても
有事の際の後方支援(いわゆる<銃後の守り>)のあり方についても
積極的提案がなければむしろ『反対』派の生活も破壊されてしまうという
点は是非ともお忘れなきよう願います。
さらに『改正賛成派=好戦派、反対派=反戦平和論者』とかいう
事実にそぐわない無駄なレッテル貼りもやめましょうね。
なぜならば、そのような不毛な非難中傷型レッテル貼り行為こそが
価値観の異なる者同士を含むみんなの共有生命を守り抜くためにこそ存在する
安全保障政策論争における実りある解決策抽出作業を妨げてしまうからですね。
『日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し・・・』
(日本国憲法第9条第1項冒頭部分)の部分こそが最重要なのであって、
この理念を妨げ日本国民のみならず
世界の平和を愛する諸国民(勢力)を害するという極限状態に至った場合にまで
当然のことながら武力行使方法のあり方は厳しく問われますが、
まったく『力なき』平和があたかもすぐにでも天から降ってきて
実現するかのように読み取れてしまう文言を
いかに誤解なきものとするかについては『改正』すべき余地もあるからこそ
『賛成』派も何も好戦的な立場(そのような方もいるでしょうが
少なくとも良識派ではないでしょう。)で言及しているわけではないのです。
『権利のための闘争』(イェーリング)や
『法の理念は正義であり
法の目的は平和である だが
法の実践は社会悪とたたかう闘争である』(末川博)
管理人の母校でかつて教鞭を執っておられた
今は故人でいらっしゃる敬愛する日本を代表するとも
いってよいほどの優れた法学者のお言葉ですが、
管理人が本格的に法学を学び始めた18歳の頃から
いつも学舎玄関に掲げられたこの扁額を見ながら
考え続けてきました。
やはり博士におかれましても『志半ばで学業を諦めざる』を
得なくなった若者たちの『面影』を常に思い浮かばせながら
法学講義される重責を担っておられたこその想いが
このお言葉には宿されているようです。
『学徒出陣』の悲しさを管理人自身も
鹿児島の知覧特攻平和会館で共有してきましたが、
今もその基地跡で佇まれている『祖霊』を感受させて頂いた
想いを馳せ続けなければ真の『反戦(恒久)平和』には到達し得ません。
その想いを持ち続けることは『独立の気概』を養うことと
同義でもあります。
生身の人間は悲しいですが、
<霊的成長>なき限り、
この『闘う/闘わない』の<はざま>で常に悩み続けざるを得ないのが
現在の『実相』でもあるからです。
『戦争(革命/諸犯罪)』などの<社会悪>をこの地上から
滅却させようと願えば願うほど、
己自身に巣くう『煩悩』とも厳しく対峙制御させる
身体訓練も積み重ねていかなくてはならないのです。
管理人が宮本武蔵や柳生新陰流の『極意』や
『伝習録』(王陽明)などから学び続けているのも
その『気概』と『覚悟』を常に意識せんがためです。
『力を持っても力を行使せず』
賢者(を少なくとも目指そうとする限り)ならば
そのように祈り誓い続けることでしょう。
我が国の<非核三原則>の理念もこのような意志と
両立するものなのかどうかはわかりませんが、
少なくとも『正義(暴力)』の発露形態については
十二分に警戒していかなくてはならないのです。
自国だけではなく世界情勢を踏まえてのことです。
科学技術に依存し過ぎる『武器』ではなく
人間の心と魂を常に練り続けなければ体認/体得されない
『武道』をこそ世界平和実現維持のためにも普及させなくては
ならないのではありますまいか?
『ハードパワーからソフトパワー』へのパラダイム・シフトを
いかに果たしていくかは人類全体の永遠の大願なのですから・・・。
そのあたりの『極意』も三島由紀夫著『美しい星』に登場する
大杉一家からも教えられ続けています。
憲法改正問題に話題を戻します。
ですから、ただこの問題は単に日本国民が憲法改正したどころで
現実の国連『集団』安全保障制度改革とも連動させた議論を進めていかないと
『国際世論を硬化』させるおそれがありますので
その点も加味させた実りある議論をこそ良識ある議会人には期待します。
『大正世代(比較相対的に平和な時代に生まれた世代)の戦争』だったこと。
『アンパンマン』の作者である
やなせたかしさんの弟様がお亡くなりになられたエピソードを
取材にして書かれた著書『慟哭の海峡』(門田隆将著)によって
教えられた視点でした。
誠に戦慄する話ですので予想もしたくありませんが、
今後迫り来る近未来型戦争で犠牲にされるのが
その「大正」世代と時代の雰囲気も多少は似ている
現在の若者世代なのかもしれません。
しかもその犠牲期間は戦争形態が大きく革命的に変化を遂げてきたことから
中長期にわたって『蛇の生殺し』のような形で襲いかかるかもしれません。
そのようなことが引き起こされないためにも
『戦争(へと至る)経済史』の研究にも
興味関心を是非持って頂きたいのです。
管理人などは価値観問わずに仲良く暮らせるはずの
『大和』を共通理念として掲げてきた日本国内で
階級闘争も世代間闘争もあらゆる派閥間闘争も見たくないし、
進んで参加など断じてしたくありませんが、
戦後75年間の政治姿勢に対してそれこそ『総括』を
主導権を持つ高齢者層の方々に責任をもってして頂くとともに
若手への活躍の場を一刻も早く譲られることを切実に希求いたします。
『なぜ先の大戦で我が祖国は道を誤ったのだろうか?』
その参考文献として
『経済学者たちの日米開戦~秋丸機関「幻の報告書」の謎を解く~』
(牧野邦昭著、新潮選書、2018年)という
『好著』もありますので
ふたたび政府の判断ミスによって『戦禍への道』へと
立ち至らぬためにも憂国の志あるすべての心あるみなさまへ
ご一読されんことをお勧めいたします。
このように過去の歴史事例とも重ね合わせながら総合評価してみると
私たちロスジェネ(失われた○○年世代)を含む後進世代の生活改善など
冷静に評価してもまともに考えているとは
とても感受されないからこそ先の見通しも暗く見えてくるわけです。
最近の新聞記事によれば、お隣の大韓民国の保守最大野党ですら
ベーシックインカム(以下、BI)制度実現へ向けた各種政策を
党綱領に導入するとともに現政権の轍を踏まないように
目まぐるしく変転しようとする世界情勢に国家存続のために
切実に対応しようとしているというのに。
(なぜか上記新聞、具体的には産経新聞ですが『「左」へ急転換』という
見出しを付けるのがお好きなようです。すでに世界の趨勢では
従来からあった政治上の単純な『右/左』という区分法では
整序できなくなってきているというのに。
もっとも歴史上の教訓からそれぞれの思想哲学が現実政治に
与えたマイナス影響力の側面については
今後とも忘れ去っていけないことは論を待ちません。
とはいえ、そもそも『現実』政治とは諸国民のニーズに合った
それぞれの時代における最重要課題を解決するためにこそ
その意義があるわけですから<実践主義(プラグマティズム)>と
<国民国家主義(ナショナリズム)>の双方の視点を考慮しながら
慎重に進めなければならないのです。
よく勘違いされる教訓ですが、いわゆる<帝国主義>化とは
最初期は一見すると<国粋主義>的に見えるかもしれませんが、
直接国民を統合/統括し得る範囲を超えて、
やがては他国民や諸集団とのあいだで軋轢を必ず引き起こすことになり
統治不可能な場面がやってきてどこかの時点で
その<政策>を採用してしまった国家そのものが崩壊/解体の危機へと
誘導されていくことになるのです。
我が祖国の場合には<大東亜共栄圏建設事業>の経験がそれに当たります。
『<帝国の知>』は良い点に着目するばかりではなく
悪い点からも学ばなくてはならないのです。
日本人はどうも戦後75年の時空間のあいだに
この『<帝国の知>』を喪失させてしまったことも懸念されます。
だからこそ現在さまざまな場面で『身の程知らずの夜郎自大』な
言動が世間を覆い尽くさんとしているのでしょう。
政治的立場の左右を問わずに。
それが現実の世界史から評価した『実相』なのです。
現在の<ネオコーポラティズム>型国家が主導する
いわゆる『グローバリズム(<インターナショナル>ではないことに
ご注意)』路線もこの『帝国主義』と同じ帰結を辿るだろうことも
各国家指導層は常に意識しておかなくてはならないのです。
BI制度問題に話題を戻します。
ですから、上記BI制度設計の仕方次第で
悪い方向への変化も当然ながらあり得ますが、
制度趣旨自体は<価値中立的>でしょうよ。
この制度自体に反対でも賛成でも現行憲法第25条の趣旨に適合しますし、
よく練って制度設計を図れば『供給能力』下落のおそれも回避出来ます。
生産『諸』能力の充実確保と景気変動による生活不安回避とは
必ず両立させられるはずです。本来であれば与野党、左右問わずに
そのような責任ある制度立案を提案すべきでしょう。
そのうえで各種試案を叩き台として実りある議論喚起を促せばよいのです。
そしてその各党によってまとめられた暫定案をもとに公約に掲げて
有権者の判断を問えばよいのです。
さらにBIの『財源』を消費税によって賄えとする言論も
近日にネット上から確認されましたが、この税の特殊性について
考慮されていない問題点が多々含まれているものと感受されます。
経済学では常に『短期』と『中長期』といった時空間的変動を
考慮して柔軟に制度設計を創案すべきだとは数多くの先達に教わりましたが、
その知見を活かせば中長期的には<逆進度>のきわめて高い消費税財源が
低所得層にますます負荷がかかるだろうことはほぼ間違いありません。
これなどは小学「算数」レベルの問題です。
『一定』であればの仮定ですが。
しかしながら、現実社会に『一定』などあり得ません。
人為的に無理に『一定』にさせようとすれば
永遠に『成長』不可能な今のような長期デフレ停滞状態か
悪性インフレ状態を誘発させてしまいかねないことになりましょう。
『成長』を伴いながらも国民に負担とならない
適切な<構造変化>を促そうと欲するならば
ある程度の右肩上がりシフトになるような処方箋を描いて、
そこに連動させるような制度設計にせざるを得ません。
でもそれならば今までの社会保険料の『物価スライド』制と
どこがどう違っているというのでしょうか?
そのあたりも現行の社会保障制度に内在する背景思想に対する
再検証とともに議論して頂きたく願います。
そこで獲得された適切な知見は近未来のBI制度設計(の実現可否はともかく)
議論にも転用出来るからです。
少なくとも消費税(一般財源か特定財源にするかでも異なる)だけに
過度に傾斜させた『財源』方式でもってBI制度維持しようと思えば
必ず将来的には『上げ続けて』いかざるを得ないし、
常なるインフレ促進が要請されるわけですが、
そもそもそれも『供給能力』との関係で必ず限界点が見えてきます。
そのようなことになればそれこそみなさんが懸念されている
深刻な『供給能力不足』を招きハイパーインフレ現象やバブル現象を
誘発させていくことになるからです。
資源に限りあり、国家安全保障面でも<持たざる>国である
我が祖国の場合には適合しないと推察するからですね。
是非有識者の方には計算式を立てながら現実の維持『財源』を
いかに賄うべきか徹底討論して頂くことを願います。
ここでもただ『お金さえ調達すればいいんだ』というような不見識が
多々見受けられるようですが、
精確にBIであれMMT<現代貨幣理論>であれ、
その考えを習得されたみなさんであれば<釈迦に説法>ですが、
『供給能力』こそその上限(インフレ率を常に注視して判断)だ
ということは我が祖国の場合には常に意識しておくべき視点だということです。
米国のような世界基軸通貨国かつ安全保障面でも圧倒的優位にある
国ならばまた違うのでしょうが・・・。
それでも『永遠』に維持できる制度設計<ここでは消費税『財源』論に
絞っています。>ではないことは賢者ならご理解頂けるでしょう。)
我が国は『飽食の時代』と『平和ボケ』のために
もはや国家すら衰退を通り越して崩壊しようとしています。
『議院内閣制』の本質を問いかける事例も起きてきました。
何よりも選挙で選ばれたわけでもない俗に言う『民間』議員(その
実態は<政商>)を閣僚に据えようとしたところ
待ったがかかったことを見ても現在の我が祖国の政治内情は
すでに『砂上の楼閣』と化していることが実相なのですから。
この歯止め調整役の『長老』議員の<鶴の一声>がなければと
想像すると・・・。
あとは賢明なる『日本国民』の皆様であれば
その行き着く果てをご理解頂けることでしょう。
それは『下克上』の再来であります。
前内閣の『実相』を指して<空虚なる器>と称した批評家もおられましたが、
管理人などは現在NHKで放映中の大河ドラマ『麒麟がくる』の
足利義輝公の悲しきお姿と重なり合って見えてくるのです。
『欲を言えばもっとはやくおぬしと出逢いたかった・・・』という
名セリフもありましたがもはや『反対派』の意見すら聞かずに
政治主導の美名のもとに各省庁の実務官僚の首すらすげかえる意志が
あるといった断固たる口調で『宣言』されたのですから
<たたきあげ>こそむしろ『人に優しく』ではなく
自己が自信をもって歩んできた人生に対して過剰な自負心が
ありますから過度な『自己責任論』にこのまま突っ走り続けるおそれ大
だからです。
『自助・共助・公序』のお題目は聞こえが良いだけに
みなさん、本当にそのバランスが崩された時に
国家社会に何が起こりえるかあとはおわかりでしょう。
75年前未曾有の敗戦に追い込まれた際の
大陸(満州や朝鮮半島など)から引きあげてきた民間人に
いかなる凄惨な事態が待ち受けていたのかと・・・。
『中立』条約を無視して正面突破してきた勢力や
野心逞しい勝者によってアジアは見事に『分断』されて
日本人のみならず近隣諸国の方々も塗炭の苦しみを味わわされたのです。
当時アジアで唯一の独立国家だった日本は『アジアの盟主』を
大義名分としてアジア大陸同胞の身の上を侵害していた
欧米列強をともに助け合いながら駆逐『独立』の道を
歩まんとしていたのですが、我が国の『傲岸不遜さ』も裏目に出たことから
戦後地政学では『比較文明史観論』を持つことが重視されたのでした。
詳細は前にもご紹介させて頂いた梅棹忠夫氏の所見など
ご参考にしながら各自でお考え下さいませ。
もっともこの時の記事内で大平正芳氏個人とその内閣の
業績などごくごく一部分しか見ておらず
現在に至るまで響き渡る問題点について甘く見てしまっていたことは
管理人も浅学非才であったことをお詫び申し上げなくてはなりません。
ただ一言だけ『弁明(彼への弁護論)』をお許し願えるならば、
当時はオイルショックなどの影響で<悪性インフレ>型狂乱物価の
徴候も一部で観察されていたために『一般』消費税をもって
そのインフレ抑制対応策とする発想があったかもしれないということです。
さらに、『税(なかんずく消費税の本質)』に関する思想や
その意義/役割も古典型だったために時代の限界もあったことも
考慮に入れなくてはなりません。
要するに、消費税をインフレ抑制のための『恒久(半永久)』税化
させてしまったことが最大の問題だったということです。
税制は常に景気の動向を踏まえて柔軟に修正対応を図らなくてはなりません。
現代『議院(内閣)制』はもともとは身分差別撤廃へと至る歩みと
公平な税負担のあり方を巡って考案されてきた歴史でもあったのです。
もちろん現在では多種多様な見方も提出されるようになり
メディアの多様化も相まって一般国民のあいだにも
勉強熱心かつ祖国と次世代の将来を真剣に何とか改善したいと
願う知的教育層にとってはもはや古典型税制『観』も
時代遅れになりつつあることは頼もしい限りですが・・・。
(古典型税制『観』とは<租税収入のみを唯一の国家財源とする>発想や
プライマリーバランス=『支出は収入の範囲で帳尻を合わせよ』とする
摩訶不思議な『家計簿』的発想のようなイメージ像のことです。)
現在、国勢調査や新内閣への各種世論調査が出回っていますが、
中長期的にはインターネット上で散見される各種コメント欄で
示されている特に若者層と思しき視聴者の意見が
世論動向に徐々に影響を与えていくものと推察いたします。
拙者にとっては各種メディアへの反応(視聴者コメント)を見ることが
修業の一環でもあるのじゃ・・・。
『俺は<忍者(情報収集分析諜報活動家)>か(笑)』
それはともかくも、
だからこそ<デジタル>庁重視路線も甘く見てはいけないのです。
単に『縦割り行政の弊害を除去し、行政サービスの利便性を高める』
(この発想自体は国民本位ですから問題なくとも)という
表向きの大義名分面だけを見て拍手喝采を送り続けていますと
やがてみなさんの身の上を不幸な事態が襲いかかってくることも
あり得るのです。
『国民個人情報の秘匿保証』と
『国家(国民生活)安全保障(サイバー攻撃からの保護)』の両立も
視野に含めた強靱化を図ることは緊急課題なのです。
『自由民主』体制擁護国家群(ファイブ・アイズ)などとの
実効性ある連携を図っていくためにも早急な体制構築が
期待されていることも考慮しなくてはならないのです。
上記改革を進めるに当たってはすでに総務省も検討されているように
<政府共通情報システム>の構築が必要なわけですが、
このシステム構築にどの『業者(利潤を獲得することを最大目的とする
民間企業)』に発注するかでも懸念すべき点が多々あると
指摘されているのです。
『業者』選定作業とそのインフラ維持のための『資本』注入面において
安全保障(国民生活のセキュリティー面)上でも問題は生じないのかを
しかとご検討頂きたいのです。
政治的側面では『資本』に色が付いてくることも忘れてはなりません。
民間経済においても『資本』提携を求めてくるからには
その背景に何らかの意図があるものと推測するのが通常ですから
甘く見ていてはいけないのです。
現在放映中の大人気番組『半沢直樹』も
このような問題意識を持って分析考察して頂けるきっかけになれば
みなさんの思考力や想像力を高めるよき補助教材となってくれるでしょう。
このような視点ももってこの問題を眺めて頂くと
国民への<マイナンバーカード>の普及率が驚くほど低いのも
その現れだろうと推察できるようになりましょう。
『利便性』だとか『効率性』だとかいう
心地よい響きを持つ言葉群にのみ心奪われることなく
『安全配慮』面にも着眼した政策評価をお願いしたいのです。
ですから、政権のみなさんにも国民の『見識』を
決して軽侮されることなく慎重に政策立案と実施をお願いいたします。
さらに今や民間『大資本』企業だけではなく国家政府も
<ビッグデータ>集積により国民動向把握が
以前にも増して可能となってきておりますが、
その集積情報の取り扱い方次第で
国民に威圧感を与えるなど『恐怖政治』の源泉情報とも
成り得ないとは絶対に保証されないのです。
このような批判をすれば、
かつての『住基ネット(住民基本台帳網)』論争の際にも見受けられたような
すぐに『おまえは左翼(アカ)か!!』などといった
幼稚なコメントをする人間が出て来るわけですが
想像力も知力も客観的に見て欠けているとしか言えません。
このような無思慮(批判)な『反知性』志向型勢力こそが
我が祖国を亡国へと追い込むのです。
最重要なことはその時々の政権運営構成者と
国民の『民度(見識)』次第で
制度そのものも悪にも善にも変わり得るのだという
総合的なバランス感覚を欠如させた偏った見方に陥っていないかどうかを
常に問い続ける姿勢を持つよう努力することです。
制度への批評をする際には常に『必要性と許容性』の
双方の視点でまずは眺めてみようということです。
さて、『なぜ危ういものと見立てるのか?』
そのことがこれから提出される施政方針演説でも推定されましょうが、
選出後の記者会見でのご発言やこれまでの発想法などを見ていると
今後の政権運営に多大な影響を及ぼそうとする
後ほど触れますような<全面的政治主導主義>志向者のように
感受されて危惧を覚えたからです。
総務省(デジタル庁)に比重を置いた改革志向は
断言こそ出来ませんが、各種メディア(憲法で保障された規律ある
自由な言論表現が公表できる時空間)統制へと走りかねないからです。
『権力者』とは悲しいかな、そういう存在なのです。
こうした改革志向に若者/次世代から喚起されていく世論を
事前に抑止(制)しておこうとする政治的意志もちらほらと見え隠れすると
評価するからです。
現に前政権は各種メディアによる政権支持/不支持に関する
世論調査をなかなかに的確な判断をしながら政権運営していたものです。
この点が政権交代する可能性ある野党には欠けている
最大の弱点でもあるのですよ。
だから政権与党の本当の<スキ>を突きながら
今の大多数の一般庶民にとって
何が死活的かつ本質的に重要な喫緊に求められている政策課題なのかが
わからなくなってくるのです。
少なくとも物事の本質を見抜けるほどの有権者ならば
そこを分析観察して与野党批判をしているわけです。
そして選挙はその日頃の能力審査の場なのだということを
間もなく訪れるだろうXデーに知ることになるでしょう。
選挙とは入学試験と同じく議席数が限定されている『競争』試験だ
ということをどうかお忘れなきよう。
『比較相対数(得票比例配分率)』で決まっていくのが
悲しいかな現代民主制における『小選挙区比例代表並立制』の
本旨なのです。
若者の政治志向(政権信任/不信任)に関する動向も
なかなか微妙にして的確な判断をしていたものと感受しますが、
この『微妙』というところに<スキ>があるわけですね。
そこをうまく操作出来れば・・・と。
日和見ノンポリ集団層や定見なくコロコロと意見を変える
優柔不断な付和雷同者にうまくてこ入れ操作して
政権支持の<インフルエンサー>を自然増殖させることが叶えば・・・。
通常の日本人には理解し難い見方だと感受されましょうが、
古今東西の『古典』や定評ある人心動向操作術に関する研究書などを
常日頃から嗜んでいると『さもありなん・・・。』と
次第に理解されるようになることでしょう。
ですから、若者に限らずその『微妙』な有権者判断も
『常に正しい』か否かは中長期という視点での
事後評価が絡むことからその時々の評価だけでは
一概に断定できないことを考慮しておかなくてはならないのです。
さらにそのうえで国際場裡においても『情報(思想・心理)戦』が
複雑に激しく闘わされているのです。
ですから、<政府共通情報システム>構築に当たりましても
よほどの注意力を働かせて推進しませんと
その脆弱性を狙って国民生活(国家)安全保障を脅かす諸現象が
発生してくるでしょう。
『木を見て森を見ず』
我が祖国民の<短所>でもあります。
管理人は最期の最期まで日本国民『同胞』を信じ、
相助け合って生きていくべきだと誓いを堅持する者ですが
民族発展のためにはその<短所>も目をふさがずに見ておかなくてはなりません。
管理人の政治的見立ては常に自虐型も他虐型もともに相容れない
『不倶戴天の敵』と見る姿勢ですが、
ながらく戦後いわゆる自虐型見方に偏向してしまっていたからといって、
極端にバランス感覚を喪失させていく方向へと傾斜していくのは
きわめて危険度が高いものと考えております。
国家の『正常化』や『普通の国(何が普通の国かなんて基準はあって
ないようなもので、管理人もこの言葉を聞いてもよくわからんのですが)』を
目指すといってもその『基準』を確立するためには
世界(人類)史と母国史の双方に目配せしながら
とりわけ祖国が『長所』としてきた(いる)
『国体(国振り/国柄)』原理というものを
よく知るように努力しなくてはならないのです。
このようなバランス感覚がなければこれまでも示唆させて頂いてきましたように
<排外>あるいは<拝外>思想の両極端へと容易に陥ってしまうからですね。
このような歴史感覚を是非みなさんにも養って頂く努力を積み重ねながら
今後の政権批評なり世論批評なりを各自で予想してみて頂くのも
良き頭の体操となりましょう。
ですから、このような見立てもご参考にされながら、
『意表』を突くのが自派にとって有利な基盤を固めるための
<政治戦略>というものですから
くれぐれも油断なされることなく、
今後繰り返し出されることになる個々の閣僚や政権関係者の言動内容と
その政策への反映発現について一挙手一投足までお見逃しなきよう
観察してみることをお勧めいたします。
『思考は現実化する』(ナポレオン・ヒル)と言いますが、
この言葉は良い方向だけではなく
もちろん悪い方向にも発現していくことがありますから
特に社会に多大なる影響を与える者の言動には
警戒しておかなくてはならないのです。
現行政権与党の新総裁/首相に選ばれた方が
政界へ転職を果たしていった直接のきっかけに関する
エピソードとして以下のような発想をお持ちだった模様が
最近あるテレビ番組内でも紹介放映されていたことを
ご記憶されている方もおられるかもしれません。
『現実の世の中を動かしているのは<政治>だ・・・と』
一般的な印象としては確かに一理ある回答のように
感受されるわけですが、
およそ社会のすべての事象において
<政治>が介入機能しているわけでもないことを
いかにご理解されているのかと恐怖感を覚えたからです。
これは何も上記の新総裁/首相氏だけに限った話ではありません。
『自己責任』という言葉がありますが、
正常な社会では自身の手に負えない次元において
発生した現象についてまで責任を負う必要はないからです。
ですから、個人が背負える責任範囲を超えた領域についてまで
『公的』責任を強要しようとする<全面的政治主導主義>とでも
言える発想にはきわめて強い警戒感をもって臨む必要があるのです。
むしろ『保守中道』志向の政治勢力こそ
『国家官吏が体現するような全面的政治論理や民間企業資本論理が
家庭内(個人の内面)にまで土足で踏み込んでくる』姿勢に
嫌悪感を持つはずなのですが・・・。
現在の自称保守派の身体感覚ではどうも失調を来しているようだ、
『残念!!』というわけです。
管理人自身にも気質的な右志向/左志向なのかという身体感覚は
ありますが、ここで掲げた政治イデオロギー上の
通常イメージされている定義把握(レッテル!!)となると
まったく違和感が出てきます。
なぜならば、定義にそぐわない行動を取るのが
生身の『人間』でもあるからです。
さらに政治イデオロギーに自身が『拘束』されることになれば
つまり、『殉ずる』ことになれば
その時点ですでに『政治的人間』というよりも
『宗教家』になってしまうからです。
少なくとも管理人もまたこのような硬直した人生態度には
陥りたくないものです。
もっとも極限の場面に至れば最期は『気質』が
その生死を決するでしょうが・・・。
その<瞬間>などその場面に遭遇してみなければわかりません。
これが歴史意識に根ざした個人的死生感覚でもあります。
ですから、人間を単なる政治イデオロギー意識でもって
レッテル区分してはいけないのです。
管理人などは本書でも紹介されていた
哲学者シモーヌ・ヴェイユ氏とも
人生観を共有する視点があるようです。
『重力と恩寵』
ここには人間の悩みがすべて詰まっています。
ここから汲み取れる知恵にこそ
政治(宗教)的価値観を異なる者同士にも通底する
『邂逅(和解)点』があると信じておりますので
是非みなさんにもご一読をお勧めいたします。
さてさて話題を『政治と社会』の関係性に戻しましょう。
どうも一般国民にも専門家(有識者/批評家)にも
『国家(民間大規模資本企業)』と『家庭(個人)』の
<はざま>に『社会』があり、その『社会』にも
<位相幾何学>時空間のような重層化構造があるという意味を
ご理解頂けない方々が圧倒的に大多数を占めているらしい・・・ことに
『全体主義』現象化への危惧を覚えるわけですね。
本書の著者も数学だけに限らずに
そのような『全体主義』型全面統制権力が持つ恐怖感覚についてまで
示唆して下さっています。
数学的視点にご興味ご関心なき読者様にも
その話題についてならばご理解頂けるかもしれません。
そこでここに責任の範囲を『限定』する役割を担ってくれるのが
法律の意義だということになるわけですね。
『立憲(法)』政治というのは
<全体>主義指導体制を牽制するためにこそ『発明』されてきたのが
歴史的経緯だったからです。
ここで言う『立憲(法)』とはどこかの政党名にあったような
狭義(もしくはその政党による独自定義<観>)のものではなく、
歴史的に分析考察した際に評価される一般的見方のことを
指しています。
『独裁(何よりも<総裁/総統>という表現も怖いですが)』にも
多種多様な概念がありますが、
国民によって正当に選挙されて構成された政権には
あくまで<委任>された領域でしか政治運営してはならないという
暗黙の<不文律(ある種の慣習(自然)法>も
内在しているものと通常は考えられているからです。
ですから、通常の『自由民主』制に依拠して出現してきた政権には
<委任>独裁の余地しか許容されていないわけです。
例えば、まさにコロナ禍のような<非常事態(有事)>の場合には
広汎な裁量余地があるとも解釈されるわけですが、
その場合であっても許容立法措置が準備されていなければ
難しい側面が多々出て来るわけです。
『緊急時は法を持たない(俗に言う超法規的措置)』という
法諺もありますが、
これとても現代社会の法解釈としては
かなり限定されたものとして考えられているのです。
この論理からいわゆる『全権』委任ということは
現在の通常国家においては許容されていないものと
解釈されているわけですね。
ですから、このような<政治>至上主義者の発想というものは
歴史上に数多く見受けられる教訓事例に鑑みれば
恐ろしい結末を迎えることがあるということは
常に意識しておかなくてはならないのです。
いずれにしましても、実際に社会を動かそうと意欲する
政治権力者が持つ『世界観』にこそ注視して警戒感をもって
投票に臨むことが『民主』政治においては重要な姿勢となります。
また国民にとって何も選挙時だけが政治に対する厳しい審判を
下すことの叶う唯一の機会だというわけでもありません。
現在の特に『自由民主主義』体制国家においては
政権は常に『世論』の動向に敏感だからです。
ただ問題は政権と各国民のあいだに『大手マスコミ』が
大きく立ちはだかっていることです。
このマスコミにたびたび出没する各種コメンテーターというのも
曲者です。
この曲者の<正体(その者に期待されている役割)>まで
見破れる力量が一般国民にも備わっていることが理想的だと
されているのです。
そこに教育の質量が絡んでくるというわけです。
なぜならば、この教育によって獲得された<批判的選考眼>こそが
いわゆる『民度』の源泉をなしているからです。
それでは現在はコロナ感染拡大抑止とともに
『経世済民復興と盤石な安全保障体制の確立』こそが
重要政策課題だと確信していますので
もう少しだけ触れておくことにいたします。
『憲法改正』も我が国が真の独立国家へと回帰するためには
<悲願>である最重要項目であることは承知しておりますが、
状況がきわめて厳しすぎることと世界でも稀に見る
超『硬性(容易に改正できないという意味)』憲法ですから
時間がかかりすぎます。
それよりもまずは『民百姓(我々一般国民)にまずは安定して
飯が食える(職の確保)状態に達して頂き、健康で最大限度の文化的な生活を
享受して頂ける環境を整えること』こそ優先的政治課題であらねばなりません。
『衣食足りて礼節を知る』という格言もございますれば・・・。
治安対策なども含めてほんまに喫緊課題なのです。
国民道徳(風俗)を悪化させるだけのカジノや麻薬などの合法化を
推進していわゆる『アングラ(アンダーグラウンド)マネー』を
表経済に循環させようとか<バカな考え休みに似たり>はここで打ち止めにして、
そもそも普通の『醇風美俗』観でもって
堂々とまともな職場で働けて、質量ともに充実した安価な教育を享受でき
(それは再就職のための再教育の機会を獲得することや
生涯学習の機会を通じて国民の福利増進にもつながるからです。)、
自らの力だけではなく、みなの相互協力で(←ここが要点。
これによって他人や社会への興味関心が高まり、感謝感覚も芽生えていくから。)
それぞれが思い描く未来像に寄り添った進路を切り拓けるような
社会環境を整えていく政策推進こそが
豊かな『文化繁栄』国家の条件なのですから。
今までのようにこんなあくどいことしとったら
『エンパイア・オブ・ライズ(ウソの帝国)』化
(米国ヘヴィメタルバンド『インペリテリ』の名曲)ですよ。
今は一歩ずつまともな政策を誠実に成し遂げていくことです。
その実績を着実に積み重ねていくことでしか
政権『不信』は拭い去れないのです。
まずはこのような『既成事実』を1つずつ実現させていくことが
何よりの政権への不信感払拭になるということです。
このような国民のための建設的提言(影の指南役か俺は)をする者すら
『反対派』として人事配置転換(左遷、免職追放、社会的抹殺という名での
粛清!!)させるというのでしたら
もはや『狂気』としか言いようがありません。
今こそ『麒麟がくる』から
乱世における『下克上』の恐ろしさを教訓として活かさなくてはなりません。
あと地方『分権』も戦国時代や幕末期の雄藩台頭による中央政府分解への
道を辿らないように祈るばかりです。
特定の藩(いまならさしずめ勇ましいだけの独立首長を頭に持つ地方自治体)に
極端な自主課税権や治安警察(国防)権まで与えれば
幕末の薩摩・長州のような『暴挙』へと立ち至ることも考えられ、
日本国全体にとっては『悪夢の再来』ということになります。
もし単独藩(地方自治体)が敗戦でもしたら
その後処理は中央政府へと押しつけられるのです。
それが『不平等条約の押しつけと賠償金の重荷』という
歴史的教訓です。
経済苦と脆弱な国防/治安体制(よく練られていない移民政策含む)が
より一段と深化して国民のあいだに
政府へのルサンチマン(怒りなどマイナスエネルギー)や
価値観の異なる国民同士が至るところで対立分断していけば
『植民地化』への一歩手前だからです。
いやしくも日本国の運命と国民の命を預かるエリート指導者層ならば
ここまでの最悪の事態まで想定(図上演習であれ)しておかなくては
『大失格』であります。
『国民は大御宝』という発想を持たない
勇気のない試験(肩書きだけ)優秀エリートなど
我が祖国には不要です。
少しばかり能力不足でも『気骨』と『志操堅固』な者を
要職につけ、職業上不可欠な知識面などの脆弱さも
適切な補佐役が支えておればよいのです。
いずれにしましても、
トップは持つべきブレーンが最重要だということです。
それとある種の『天才的直観(感/勘)』が備わっていればよいのです。
この『勘』は試験だけでは図れない能力だからです。
『事上磨錬』でしか秘められた潜在能力は現れないからです。
『本当は恐ろしい儒教~人格を磨く信仰か、ゆがんだ支配思想か~』
(内藤博文著、KAWADE夢文庫、2020年)も
このような『人財』問題を考えるうえで参考となる1冊ですので
ご紹介しておきますね。
『今こそ賢者は歴史に学ぼう』
そこで、『経世済民』についてです。
その国の経済状態がインフレ/デフレであれ
相対的に見てより供給能力の高い方が優勢に立ち、
弱体化している方が劣勢に立つという認識は
今から75年ほど前に痛いほど経験してきたはずです。
『思い起こせ、記憶せよ』(民族離散の悲惨さを実体験してきた
ユダヤ民族の格言としても有名)という言葉があります。
この格言も人間が<忘れやすい生物>だからこそ
古来より強調して伝達されてきたのでしょう。
戦後はその教訓に立って十二分な備蓄体制と物流拠点確保を
第一優先順位に掲げて国家再建を果たしてきたのでしたが・・・。
1970年代あたりから偏った見方が経済思想にも混入し始めたことから
公平中立であるべき経済政策立案に関する判断基準も
狂気化の一歩を踏み出し始めたのです。
加熱したインフレ抑制はもちろん必要な政策課題ではあるものの
それはあくまで『悪性』インフレ抑制対策であると同時に
デフレ経済の進展によって国民が<じり貧化>する中での
暴力が誘発されていく潜勢力を抑制することもまた
国民生活安定のための第一優先条件だということです。
それが『<経世済民>の本義(戦前戦中の<国体>の本義にひっかけています)』で
あるからです。
何はともあれ現在は物事を暴力でもって解決するような野蛮な時代ではないことぐらい
まともな知性をもった心ある人間であればどなた様でもご理解頂けるはずです。
このような強い想いをもって心ある世のみなさんにも
その「心」を共有して頂けるものと信じておればこそ
あえて『<経世済民>の本義』と表現させて頂きました。
<教育と経済>の話題に戻します。
さて、このような何とも物騒な世相の中で
より質量の伴った教育内容は高等教育へと先送りされていく流れにあるわけですが、
高等教育を受けるにも経済的負担が重くのしかかってくればくるほど
将来の進路変更を余儀なくされてしまうご家庭が多々出現してくることになります。
このような状況が長く続けば続くほど
未来を担うはずの青少年の心は諦め心理で蝕まれていくことになり
未来への『夢』や『希望』すら保持し続けていくことが難しくなっていく
ことになります。
親とともに子供も<貧困化>していくという
世代間にまたがる<階級社会化>が定着してしまうからです。
<貧困(階級)>社会化の恐ろしい点は
知的能力や耐久力などの多種多様な身体能力の劣化によって
感情抑制能力が喪失させられ、暴力や支配-服従感情が
社会のあらゆる領域に蔓延していくことにあります。
それが『民度』の低下にもつながり、
「みんなでともにより良い社会を築き上げていこう」とする
『社会』人志向も剥奪されていくことで
人間は<野蛮>化、<奴隷>化していくのです。
人間の尊厳が剥奪されていく一方の近未来社会とは
このような怠惰な諦めムードが腐臭強く漂う世の中だということに
なります。
ますます酷くなる一方の衆愚政治化、搾取利権構造化した
企業組織文化観などなど
すでにその徴候はあらゆるところで見受けられています。
それでも次世代の方々には『人間』を諦めて頂きたくないという
一心から管理人も数多くの心あり質の高い教育系ユーチューバー様や
ブロガー様から
「厳しい庶民生活の中でいかにお金をかけずして
効果的な知的身体能力を養っていくことが出来るのか」
という問題意識で学ばせて頂いております。
みなさんのお知恵を拝借する謙虚さや感謝の気持ち、
情愛感や社会悪と闘い続ける強い意識さえ保持し続けることが出来れば
どなた様にでも実践して頂ける社会が
まだ一方には残されているわけですから
ITネットワーク社会も使い方と心構えさえ間違わなければ
闘える手段もあります。
アナログ社会文化とデジタル社会文化のそれぞれの利点を
フル活用して是非皆さんにも諦めずに
幸せになる道造りにお役立て頂くことを願います。
このような想いを強く持つ管理人同様に
いかに個々人で対処し得るかという課題で
特に愛するお子様をお持ちの親御様や親族様方であれば
どなた様も苦悩されていることと推察いたします。
そこで管理人自身は学生時代に塾講師の経験もありますし、
出来る限りお金をかけずに良質な教育を提供・授受することに
若き日々より多大な興味関心を抱き続けてきました。
そのような極私的理由から算数/数学の世界へと
再び舞い戻っていった次第です。
『出来れば親や親族同士で愛する子供たちに
自前の教育を提供してあげることが理想的だ』との強い想いで
幸いにも管理人自身は時短労働の若干の恩恵(余白時間)も
ありますので、フルタイムで働き続けている兄弟たちに代わって
余暇にでも教えて差し上げることが叶えばと
算数/数学の世界に浸っております。
このような次第で学生時代にはついぞ気づくこともなかった
魅力溢れる数理的世界観にまたもや深く彷徨い込んでしまったという
わけです。
もはや社会人生活に入ってから長年月も経て
受験算数/数学への恐怖感とも<おさらば>した現在だからこそ
まさしく『自由』にその世界観を堪能することが出来るように
なりました。
現代数理学は<公理体系>の世界観で成立していることも
次第に判明してきたようです。
学生時代にはそこまでの魅力に触れる機会も時間も少ないですし、
全体像がなかなか把握し難くあるために
個々の分野でつまずいてしまわれる学生さんの方が多いでしょう。
特に高校数学以上になりますと極端に『抽象的』な世界観に
なってきますからイメージと数学言語(概念)操作を
巧みに駆使出来る力が身に付きませんと
『何をやっているかもさっぱりわけわからん』状態へと
すぐにも突入してしまうのです。
本来ならば、中学から高校へと移行する期間内のどこかで
微調整してくれる何らかの<オリエンテーション(概要案内)>授業の
時間が確保されればよいのですが、
その工夫も教師や学校によって「まちまち」で
学校(生徒)間格差がますます拡大するばかりの現状にあります。
そのような学生時代の苦い教訓を活かしつつ
この機会に小学校の算数から高等数学への世界へと
再び勇気をもって歩を進めていくのであれば
単なる知『識』としての算<術>ではなく、
人間力向上とともに高まる人類同胞愛へとつながり得る
架け橋としての可能性がある数理<学>から
知『恵』を汲み取ってみようとの志向性を宿し始めた矢先に
著者をその道先案内人として得ることが叶ったのでした。
そろそろ前置きもかなり長くなってきていますので、
<序文>のまとめに入らせて頂きます。
今回なぜ導入部で一見すれば本書の主題内容とは関係なさそうな
『政治(と教育)』の話題に是非とも触れておかなくてはならぬと
強い想いを持って挑ませて頂いたのか・・・。
それは本書内でも著者が旧ソ連でユダヤ人の系譜を引く者として
『政治』によって『差別』され理不尽な扱いを各所で受けてきたと
宣言されていたからです。
本書は一般型数学啓蒙書ではありますが、
厳しい社会の中で個々の人生をいかにして処していくのかを考えていくうえでも
優れた『知恵』を教えて下さるという隠された意義もあったのだろうと
評価しております。
この短い書評記事内の余白だけでは
もちろん簡潔にお伝えすることなど見果てぬ夢にしかすぎませんが、
本書を読み終えて管理人自身が理解し得た範囲内ということで
大変拙く申し訳ございませんが
著者とともに管理人からもこの広汎な数理的世界観の魅力を味わうとともに
このような見通しのきかない時代風潮の真っ只中だからこそ
もう一度『人間に課せられた役割とは何だろうか?』という問いを
数理学の世界から獲得されてきた知見を媒介材料と据えて
皆さんにも『初心(原点)』に立ちかえって頂いたうえで
各人各様にご考察して頂こうとの想いを込めまして
今回は本書を取り上げさせて頂くことにいたしました。
本書を読み解くうえでのキーワードは
<訳者あとがき>にもありますように
管理人もまた<諦めない>というメッセージを
送り届けさせて頂くことになります。
ということで、ここからは最後まで<諦めず>に
書評要約に挑戦させて頂くことにいたしましょう。
世界の奥底には人類による『発見』が待たれている異なる世界(『島』宇宙)を結びつける共通式が潜んでいる~<愛の数式>探究の旅へとご招待~
それでは本書要約ご紹介へと進んでまいりましょう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・<読者への手引き>
①『はじめに 隠されたつながりを探して』
※本書序幕での著者からの巻頭言として
難解な本書を多少は読み進めやすくなるためのアドバイスが掲げられています。
本書全体を読み進める際の数学上の専門用語として
いわゆる<ラングランズ・プログラム>という現代数学で導き出されてきた
概念像があります。
その詳細は主に本書第7章と第8章において取り扱われていますので
その際にあらためて触れさせて頂くことにいたします。
読者の皆さんに現時点で先行予想して頂くとするならば
『広大な世界である現代数学の分野ごとで探究導出されてきた
諸命題間をつなぐ架け橋となる共通言語のようなもの』と
ひとまずはイメージしておいて頂くことにいたしましょう。
<諸命題間をつなぐ架け橋となる共通言語のようなもの>
これが<はじめに>で簡潔描写されるところの
数式の背後に隠された宇宙(結合式=大統一論理=構造分析帰結論)を
『発見』確認する旅へと出かけるという最終目標ということになります。
本書全体像を把握すること自体は通常の日本語読解能力さえあれば
文系の方でも流れを追って読み進めていくことが叶いますが
やはり最大のネックとなるのが<数学的専門用語>の羅列ということに
なりましょうか?
著者もその点は十二分に意識されたうえで
文系人(数学の門外漢の私たち一般読者向け)には
その難解な現代数学が『発見』してきた多種多様な概念像(本書では
例えば『群』や『層』、『圏論化』といった数学的世界観)が
イメージされやすいように<ロゼッタストーン>というたとえ話を活用しながら
各種概念像の結びつきが一体全体いかなるものとなり得ているのかという
一点に絞って、時に詩や映画、絵画などのエピソード素材を取り入れながら
日常言語化する努力をされています。
著者自身が何度も強調言及されているように
本書で取り扱う現代数学の『全体』像は
まだ当の数学者自身ですら旅の途上にいるために把握仕切れておらず
完全解明には至っていない・・・とのことです。
そこで現代数学では「このような数学的着想(勘)を大前提に据えながらも
これまで獲得されてきた膨大な諸命題とのあいだで矛盾しないように
数学的言語処理操作を繰り返していけばおそらくこのような結論へと
最終的には帰着されていくのではなかろうか?」という問題意識でもって
『○○予想』という形で暫定提起されることが通例の公表様式となっています。
管理人は門外漢なために
もちろん著者以上に消化不十分な箇所が多々出てきているわけですが、
そこは著者も序言でオススメされているように
「とりあえずわからないところは読み飛ばしつつ、わかるところだけを
つまみ食いする要領で読み進んでいくと各人各様にうすらぼんやりであっても
現代数学が取り組んでいるおおよそのイメージ像までは掴めてくるだろう」という
ことです。
いずれにいたしましても本書のような難読書を最後まで読了する原動力は
何と言っても<知的好奇心>に尽きると言っても過言ではありません。
ですから、本書読了後に数学に興味関心を持つことが叶い、
さらなる深い専門的探究の旅も続けてみたくなった方は
本書を今後の数学学習のいわば<案内役>として傍らに置きながら
それぞれの旅路を歩んでいって下されば、
とりあえずは本書評の意義もあったということになりますので
望外の喜びとなります。
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②『第1章 人はいかにして数学者になるのか?』
※本章では良き導き手(師匠)に出会うことが
いかなる分野においても大成者となっていくためには
必要不可欠だという話が
著者自身の人生における進路を支えるうえで重要だったという
エピソードとともに語られています。
著者の場合には幼少時の「夢」は量子物理学者になりたかった・・・との
ことでした。
そこで『素粒子』物理学が探究「発見」した<クォーク>の魅力に
取り憑かれていた当時の著者は
「でも、そもそもなぜそのような<素粒子=クォーク>発見の
糸口が掴めたのだろうか?」と日々疑問に考えていたところに
幸い家族ぐるみの付き合いがあったとある数学者との出逢いに
つながり、将来の数学者への道へと自然に導かれていったということが
本章での話題となります。
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③『第2章 その数学がクォークを発見した』
※本章では、「その<クォーク>が自然界では未発見だった頃に
なぜその存在を予想できたのだろうか?」というところに焦点を当てて
前章の末尾で若干程度触れられていた数学的話題へと引き継がれていきます。
それが<クォーク>モデルを表現記述する数学的概念である
ゲージ理論の一部として位置づけられているSU(3)群と通称されている
いわゆる<対称群>に関する話題であります。
本書評要約では数学に関する門外漢である管理人が
下手に数学について解説をほどこしていきますと、
読者の方々に多大な誤解を与えるおそれがあることを回避するために
必要最低限に抑制しつつ(わかり得た範囲だけの記述にとどめます。)、
専門的な解説につきましては以後は著者の解説に忠実になることが
理に適っていますので必要に応じて適宜『引用』の形で精確に
語り続けていくことにいたしますね。
この<クォーク>に関する『物理学』的側面に関する詳細解説は
本書第16章と17章で展開されていきますので
ひとまずはそちらへ委ねさせて頂くことにいたします。
まとめますと、本章は物理学的<対称性>を数学的に記述表現する際に
転用された対称『群』に関する最初の導入部に当たるということです。
本章の最重要箇所は<数学には3つの特徴がある>(本書46~48頁)に
あります。
①『普遍性』
②『客観性』
③『耐久性』
とともに
④『物理的世界にとって「意味をもつ」』
ということですね。
ここで数学の物理学への転用のあり方について知ることが出来るからです。
抽象的理論予想を現実的物理時空間へ『転移』させていくに当たっての効用や
注意書きに関する解説部です。
ちなみに、<クォーク>という素粒子は自然界における実験観察では
肉眼では確認されたことがないようです。
原子の内実は皆さんもご存じのように
①原子核
②電子
の2つで大きくは構成されています。
そのうち①の原子核はさらに
③陽子
④中性子
に分離されていくことになるわけですが、
ここでの<クォーク>とは
この③と④に絡むある種の結合体分子のようなものであって、
③と④の内部に「閉じ込められて」存在しているものと
想定されるとともに「閉じ込められている」がために
そのひとつひとつは単体としては取り出せない。
つまりは、<クォーク>そのものを単独確認することは
きわめて難解だとのことです。
(『マンガでわかる超ひも理論~知っておきたい!現代物理学100年の軌跡~』
白石拓著、宝島社、64~69頁ご参照のこと)
『クォークは、データにもとづいてその存在を予測されたのではなく、
数学的な対称性のパターンにもとづいて予測されたのだ。それは純然たる
理論的予測であって、SU(3)という群についての、洗練された
数学的表現論の枠組みの中で生まれた予測だった。この理論を物理学者が
完全に咀嚼するまでには長い年月がかかった(そしてはじめのうちは、
こういう流儀に多少の抵抗もあった)。しかし今日では、素粒子物理学の
分野では、群の表現論は日常的に利用されている。群の表現論は、
単にハドロンの分類を与えただけでなく、われわれの物理的世界観を
永遠に変えた、クォークの発見につながったのである。』(本書52~53頁)
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④『第3章 五番目の問題』
⑤『第4章 寒さと逆境に立ち向かう研究所』
※第3章は旧ソ連共産主義体制下における大学入学試験資格について
不公平な取り扱いがあった模様が著者のご経歴紹介から窺える論考文です。
入学試験自体は優秀な成績であったものと推定されるものの
入学「資格」条件において公式には公開されていない思わぬ箇所で
『落第』の烙印を押されることになるわけです。
著者がユダヤ系だということの理由だけで・・・。
『反』ユダヤ主義は何もナチスドイツだけの専売特許だったわけでは
ないのです。このあたり学校教科書でもあまり取り扱われないというか
注意深く隠されてしまった負の歴史とでもいうのか・・・。
共産主義の『公式』史観(理論)では
いわゆる<民族差別>などないことになっているのですが・・・。
とにもかくにも著者は共産主義体制下の旧ソ連においては
理不尽な扱いを受けさせられたのでした。
とはいえ、そこにも『助っ人』が現れてくれたのでした。
当時のモスクワで唯一<純粋数学>が学べる高等教育機関と言えば
モスクワ大学しかなかったそうですが、著者は上記のように
理不尽にも『落第』させられてしまったために、
表門からは入学許可こそ受けることが叶わなかったものの
モスクワ大学のとある入学試験官の粋な取り計らいでもって
「石油ガス研究所」という実用技能者を育成する場所を推薦紹介されることを
通じて転籍していくことになります。
その研究所の趣旨は実用研究が主要課題であるために
数学教育の位置づけはいわゆる『応用』数学の部類になります。
イメージ喚起としては『理学部』系統ではなくして『工学部』系統という
位置づけになるでしょうか?
そこで『応用』数学研究する傍らでキリロフ教授という良き師匠に出逢い、
モスクワ大学の授業へ裏門から潜り込むことで講義を受ける機会を得ることは
いちおう叶ったのでしたが・・・。
勉学を積み重ねていくうちにあらたな『壁』も立ちはだかることになります。
あらたなアドバイザーを必要とするレベルにまで達してきたからです。
そこにまたしても現れ出た『救世主』となる師匠がおられたというわけですね。
本章から学べることは、人はいかなる『逆境』や『困難』事態に遭遇しても
<奇特>な人とのご縁や学び続ける意志とともに
自身が本来直接に学びたい(辿り着きたい)目標地点から遠ざかっているように
感受されても今学んでいることを他に転用させるような意識を持って
挑めば、いつかは本街道へと無事に辿り着くことが叶うということです。
『急がば回れ』
『迂回路もまた楽しむことでいずれ本街道に戻った際に
さらなる飛躍につながる基礎土台が知らず知らずのうちに出来てくる』
このような生き方もあるのだということを著者からは
是非とも学び取って頂きたいのです。
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⑥『第5章 ブレイド群』
※本章から数学の諸分野に関する解説<群>が続発していきます。
ここからの要約作業では管理人の手に負える範囲から
はるかに飛び越えていく世界が拡がっている『禁足地』ですが、
頑張ってみましょう。
本章での主題であるブレイド『群』の『群』という数学用語(概念)が
存在するということまでは前章までのあらすじで触れさせて頂きました。
いちど『群』という言葉について数理的世界での発想や定義から
離れてイメージするところから始めてみましょう。
そうすると日常用語で使用する『群』という言葉からイメージされる
語感を味わって下さると少しは話の導入部としては理解しやすいかもしれませんね。
要するに、『群』とはある種の<集合体>のようなものだということですね。
この『群』をさらに数理的世界での借用語として再定義したうえで
導入させていった模様が本書第2章<シンメトリーのエッセンス>
(本書34~43頁)において解説されています。
さて、本章からは前章までで見てきたように
ユダヤ人の隠れ家的『聖域』とされた石油ガス研究所において
実用的な<応用数学>を学習研究するかたわら、
この研究所では学び難かった著者<畢生の大業>でありたいと
強く念願されていた<純粋数学>への想いがますます募る最中に
素晴らしき導き手がここに出現してきたのでした。
そして勉学を励むうちにさらなるアドバイザー役を欲するように
なったことから次のステージへと進む段階へと至ったとのことです。
ここでフックス氏という有名な数学者を紹介されることになり、
著者の数学探究道がまたひとつ切り拓かれることになったのでした。
そのフックス氏が専門として研究されていたのが
本章の主人公である『ブレイド(組み紐)群』というテーマだったのです。
このあたりから話がますますややこしくなる領域へと
踏み込むことになりますので、
詳細は本章における各解説文へと委ねさせて頂くことにいたしますね。
簡単なイメージ像としては、本章解説図でも描写されているように
2つの板があるとしましょう。
このそれぞれの板に何本かの釘が打ち付けられていて、
その釘にそれぞれ組み紐を結びつけてみます。
その結合させた組み紐同士が幾通りものパターンとして出現してきます。
この幾通りもの『組み合わせ』パターンを
ブレイド『群』として数理的に表現させていくと・・・、
いかなる結論が見えてくるのかという問題研究だということです。
ここでは目に見える形での組み紐を使った具体的イメージ像として
解説が始まっているわけですが、数理学とはさらなる<抽象化>を図っていく
学問です。
この具体的な『組み紐』が2つの板に結合されたそれぞれの釘の
位置と<一対一対応>させていくとどうなるだろうか?
ここに<抽象化>して分析考察していくための道具があらたに付け加わる
ことになるわけですね。
そうです、その道具こそが『数』であります。
その『数』の詳細を研究していく数学分野のことを『数論』と呼ぶわけです。
このブレイド『群』から派生させていった<整数>『群』の
構造分析が本章の以下の解説部で語られています。
組み紐(ブレイド)をBとします。
そのブレイド<数>が1本や2本であれば誰でも組み合わせパターンを
イメージしていくことが叶いましょうが、
3本以上になってくると途端に難易度が増し完全にお手上げ状態へと
なってしまうことになります。
①ブレイド<数>が1、2の場合を
B1、B2としますと、
a+b=b+aとなる。
『この性質を満たす群のことを「可換群」または「アーベル群」と呼ぶ』
(本書96頁)
②数(n)が3以上になると、
それぞれB3、B4、・・・Bnとなっていくわけですが、
その場合にはa+b≠b+aとなる。
『このような群のことを、「非可換群」または「非アーベル群」という。』
(同上)
このような性質を持つブレイド『群』を研究することで
様々なパターンが見えてくるわけですが、
そこで獲得されてきた具体的知見が数多くの分野でも転用することが
出来るということから意義ある研究課題だということになります。
そこで著者もアドバイザー役兼共同研究者であるフックス氏と組んで
『「交換子部分群」と呼ばれるブレイド群の一部に関するもの』が
研究題材として与えられ、
著者自身に分担させられた課題は
その『ブレイド群の交換子部分群B’nについて、「ベッチ数」というものを
計算すること。』、
『ベッチ数には、この群がもつさまざまな深い特性が反映されており、
それが応用という観点から重要になる』(いずれも本書99頁)
というのです。
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⑦『第6章 独裁者の流儀』
※さて、前章から与えられた課題に対する著者の挑戦が始まったわけですが、
数学の問題の<解法>には幾通りもの方法があるものです。
受験算数/数学を人生で体験されてこられた読者様ならばご存じのように
いわゆる『きれいな解き方/汚い解き方』というものがあるわけです。
ここでいう「きれいな」とはもっともスムーズに解ける
簡潔な解法例を指し、「汚い」とはもちろん正解は出せても
最終的に解き終わるまでの過程が複雑すぎて長くなり
時間がかかるような解法例のことを指します。
そのようなイメージをして頂ければ
もっとも簡明な解法こそが
より美しい『エレガント』な解法ということになります。
このイメージ像を著者に与えられた問題事例に当てはめてみますと・・・。
フックス氏からアドバイスを受けたというベッチ数計算するうえで
標準的だとされる『「スペクトル系列」という方法を試して』
(本書108頁)みたものの・・・。
その解法過程に関する詳細な解説部分は本書に委ねさせて頂くことに
なりますが、
やがて『ベッチ数がオイラー関数で与えられるというこの発見は、
ブレイド群と数論とのあいだに、何か隠れたつながりがあることを
示唆していた。』(本書110頁)ことを『発見』するに至ります。
そこでこの『発見』をフックス氏に相談されたうえで
ある数学者が主宰されている専門誌を紹介され、
そこに投稿することを勧められたわけですが・・・。
この主宰者がまた独特な風貌を持つ人物だったそうで・・・。
そのあたりの著者が感受された主宰者人物像のことを指して
『独裁者の流儀』と表現されています。
ともあれ、この専門誌に与えられた問題に対する
著者による着眼点や解法『発見』に至るまでの独自証明分析の軌跡を
発表出来たことは深い自信にもつながったことでしょうし、
歓びに満ち溢れていた様子が浮かんでくる描写となっています。
このようにして著者も与えられた1つの問題を解く過程で
獲得されてきた数学的知見がほかの分野にも転用されるらしいぞ・・・との
感触を得て、さらなる他分野との接点を探究していく長旅へと
舞い戻ることになります。
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⑧『第7章 大統一理論』
⑨『第8章「フェルマーの最終定理」』
※本章では数学の諸分野をつなぐ<架け橋>を担うだろうと予想されている
<ラングランズ・プログラム>が『発見』されていくきっかけとなった
数学史的背景について触れられています。
この<ラングランズ・プログラム>の発想が数学史の中で登場してからも
現在に至るまでさらに広汎な諸分野をつなぐ研究がなされています。
本章の標題である<大統一理論(ここでは数学分野に限定)>と
表記されているのもそのような総合的プロジェクトのことを指しています。
さて、このような数学の諸分野をつなぐ<架け橋>となる
数学理論を『発見』したのは上記プログラムを導き出した
ロバート・ラングランズ氏だけだったわけではありません。
その<前史>もあるわけで、実はそちらこそがより重要だということです。
<ラングランズ・プログラム>創始者のロバート・ラングランズ氏に
よく似た名前で混乱しますが、
すでにそのような<架け橋>的洞察力を発揮させていた人物もいたのでした。
それが本章でも解説されている<ガロア理論>で有名な『ガロア群』を
発見したガロアとともに本書ではあまり触れられていないようですが、
ラグランジュという数学者もいたのです。
詳細を知りたい読者様には
本書評記事巻末に掲げておきます<ご参考文献>の1冊である
『ガロア~天才数学者の生涯~』(加藤文元著、中公新書)を
是非ご一読されることをお勧めいたします。
本書での解説では難しいと感受された読者様でも
比較的読みやすいように紹介されています。
そこでは『ガロア群』着想に至るまでの
本当の<入門>が描写されています。
ところで、現代数学がその諸分野をつなぐ<架け橋>となる
<ラングランズ・プログラム>も含めて基底に据えた研究が
なされてきているわけですが、
そもそもなぜこのような通常とは異なるアクロバティックな発想が
創造発見されてきたのでしょうか?
その着想に至るいわば『初動』を知るうえで
<方程式の歴史>が参考になるといいます。
この<方程式の歴史>は第8章で紹介されることになる
「フェルマーの最終定理」が解読されるまでの話題とも
つながります。
この短い書評内で門外漢の管理人が<ラングランズ・プログラム>と
<フェルマーの最終定理>を説明するのも煩瑣となり
誤解を招く原因となりますので詳細解説は本書に委ねさせて頂くことで
ご寛恕願いますが、
『そもそもラグランジュ、ガロア、フェルマー、ラングランズ氏に共通して
見られる発想の原点にはいかなる着眼点があったのでしょうか?』を
知ることは読者の皆さんの読解の助けとなりましょうから
この部分だけ少し補足説明しておきますね。
要するに、難題を前にして正面突破を図れない場面に遭遇した場合に
人はいかなる方法でもって突き進んでいけばよいのかということです。
それが<発想の逆転>ですね。
逆方向(裏側)から取り組んでみるということです。
本章では<方程式>が話題となっていますので、
それを題材に語りますが、
1次、2次方程式までは皆さんも初等中等教育で学習されたでしょうから
そんなに難易度が高くないこともすでに実感済みだと思いますが、
3次以上の『高次』方程式になればなるほど
<そもそも解けるか解けないかもわからない>状態へと陥ってしまうのです。
言い換えますと、<解があるのか解がないのかもわからない>ということですね。
ガロアが取り組んでいたのは上記方程式のうち
5次以後の数式でした。
『ガロアは、幾何学であれば直感的に理解できる対称変換という考え方を、
数論の最前線に当てはめた。しかもそれだけではなく、対称変換には
驚くべき力があることを示したのだ。』(本書137頁)
『(前略)ガロアは、それまでの数学者は、問いの立て方を間違っていた
ことに気がついた。彼は、この方程式の解を有理数に添加することにより
得られる数体の、対称群に焦点を合わせるべきだと主張したのだ。
その群を、今日われわれはガロア群と呼んでいる。
ガロア群を記述するのは、解の公式を書き下すよりはるかにやさしい。
この群について何か意味のあることを言うためには、解を知る必要はない。
そして、群を調べることで、解について重要な情報を引き出すことが
できるのだ。実際、ガロアは、根号で表された解の公式が存在するのは、
対応するガロア群が、ある特殊な性質をもつ場合だけであることを示した
-そのような群のことを、今日数学者は「可解群」と呼んでいる。
二次方程式、三次方程式、四次方程式に対しては、ガロア群はつねに
可解である。これらの解の公式が、根号を用いて表されるのはそのためだ。
しかしガロアは、典型的な五次方程式(またはそれよりも高い次数の
方程式)の対称群は、可解ではないことを示した。
したがって、それらの方程式については、根号による解の公式は
存在しない。』(本書138頁)
まとめますと、ガロアはそれまでの方程式の解法について
方程式(という名の数式)から解(根)を求めようとする
通常の解法順序ではなく、解(根)を特定させたうえで
裏側(逆)から方程式(数式)そのものを創造形成させていくという
回転型発想によってそれまでの『常識』概念を覆したという点に
功績があったということになります。
このような代数的操作方法を幾何学的表現における
<対称変換>に対応させた表現として<置換>と呼び慣わしているようです。
(幾何学の<対称変換>に関する詳細解説は本書第2章ご参照のこと。)
いずれにしましても、このようなある種の勇気をもった論理飛躍こそが
あらたなる『跳躍』の場を与えることになるということですね。
まぁ、管理人のような素人からすると、解決に至るまでの
思考過程としてこれまでの常識的操作方法の裏側から解法を試みようとする
<逆転の発想>までは仮に思い浮かんだとしても
そこから先にある解(根)に対する元の数式へといかに矛盾することなく
再構成表現記述させていけばよいのだろうかというところで
力尽きてしまいますが・・・。
やはり数学者には人生を賭けたうえでの『粘り強さ』こそが
強く要請されることだけは間違いないということですね。
そうだとすれば・・・。
学校教育の現状では本来の『ゆとり』も与えられていない
詰め込み方式(がすべて悪とは断言いたしませんが)講義では
ただただ流されるだけで『ゆとり』をもって『粘り強く』考えさせてくれる
時空間すら十二分に用意されていないというお寒い状況が続いているという
ことになりそうですが・・・。
我が国の『基礎』教育もさることながら
この確かな『基礎』学力の定着(それは過去の人類が編み出してきた
知的共有財産の現状を確認把握しておくという必要作業でもある)のうえで
成立する『基礎(純粋)』研究の地盤を固めることさえ危うくなってきている
ということでもあります。
著者も「石油ガス研究所」での体験談から
『基礎研究(純粋数学)と実用研究(応用数学)は分かちがたく
結びついている関係性にある存在』だと強調されています。
我が国の近代が始まった『文明開化』以来の教育観では
『欧米に追い付き、追い越せ』が先にあったために
十二分な『基礎(純粋)学問研究』に費やす時間も投資額も
少なかったという限界点があったといいますから、
今後この限界点をいかに突破していくかが教育行政上の課題でも
あるということを提示しておきましょう。
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⑩『第9章 ロゼッタストーン』
※さて、本章が本書における最大の中核部分に当たります。
著者は本書全編を通じて数学の<大統一理論>について
現時点でどこまで進展してきているかを多種多様なたとえ話を活用して
説明して下さってきたわけですが、
この本章でもって著者自らが成し遂げてきた仕事内容やその意義を
理解していくための基礎土台となります。
本章のタイトルである<ロゼッタストーン>とは
かの有名なロゼッタストーンをモデルにたとえた
本書の話題を理解するための補助素材にしかすぎませんが、
そこには何が描かれていたのでしょうか?
その前に著者が本書において話そうとされる全体の見取り図を
描写するために得たある触発/着想促進ヒントを見ておきましょう。
それがアンドレ・ヴェイユから有名な哲学者でもある妹の
シモーヌ・ヴェイユへと宛てられた手紙の中にその着想する
『原型』となったアナロジー(類推)記述があったというのです。
『ヴェイユがその手紙に綴ったのは、数学におけるアナロジーの
役割についてだった。(中略)数論と幾何学とのあいだに成り立つ
アナロジーである。そのアナロジーが、ラングランズ・プログラムの
発展に重要な役割を果たすことになったのだ。』(本書171頁)
では、その<ラングランズ・プログラム>とはそもそも最終的に何を
目指そうと意図したものだったのでしょうか?
専門的には次のような内容だったと著者は簡約して下さっています。
『ラングランズ・プログラムの根っこは、数論にある。ラングランズは、
数論の難しい問題、たとえば素数を法とする方程式の解の個数のような
問題を、調和解析-もう少し具体的には、保型関数の研究-の手法を使って
解くことができるだろうと予想した。』(本書171頁)
<専門用語に関する補注>
・<関数>
『ひとつの数を、与えられた集合または多様体のそれぞれの点に
割り当てるルール。』(本書425頁<用語集>より引用)
・<調和解析>
『関数を、サインやコサインなどの調和関数によって分解するという
手法について研究する数学の一分野。』(本書428頁同上)
・<保型関数>
『調和解析に現れる関数。』(本書429頁同上)
・<多様体>
『円周、球、ドーナツの表面のような、なめらかな幾何学的図形。』
(本書428頁同上)
『ラングランズ・プログラムは、数論と調和解析という領域の
それぞれに重要な構造があり、それらの構造間につながりがあることを
示唆している。』(本書172頁)
ここから先の本章の内容は直接的には
そのアンドレ・ヴェイユ自身が描いて見せた<ロゼッタストーン>の
見取り図とその中に書き込まれているそれぞれの具体的な専門解説と
いうことになります。
詳細解説は本書に委ねさせて頂くことにいたしましょう。
その要点は本書184頁に記載された図表<ヴェイユのロゼッタストーン>で
もって表現されています。
つまり、数論からそこで示唆されている内容を幾何学的記述表現へと
転換させて(落とし込んで)いく一連の数学的操作過程についてが
ここでの話題だということになります。
さて、それでは著者自身が<ラングランズ・プログラム>に直接の
興味関心をもったきっかけとは何だったのでしょうか?
それが著者の研究課題だった第5章要約時に登場して頂いた
アドバイザー役兼共同研究者であったフックス氏によって勧められた
<カッツ-ムーディー代数>だったといいます。
・<カッツ・ムーディー代数>
『与えられたリー群のループ群のリー代数で、一本の線を
付け加えることによって拡張したもの。』
・<リー群>
『群の操作がなめらかな写像を生じさせるような、多様体でもある群。』
・<リー代数>
『リー群の単位元に対応する点でこの群の接する、接空間。』
・<ループ>
『円周のように閉じた曲線。』
・<写像>
『(ひとつの集合または多様体Mから、別の集合または多様体Nへの)
Mの各点に対して、Nの点を割り当てるルール』
(上記いずれも本書巻末<用語集>より引用)
この研究を進めていくうちにやがて最先端の数学的知見概念である
『層』という発想とも出会うことが示唆されて本章は閉幕します。
その『層』に関する詳細解説は第14章でなされていくことになります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
⑪『第10章 次元の影』
※いよいよここからが専門的過ぎる話題へとますます深みに嵌っていく
解説領域ですので本書の<あらすじ>に関係する主題との絡みで
是非とも触れておかなくてはならない箇所を除いては
最小限に抑えさせて頂きます。
ここでは<次元>が話題となっていますので
そもそもそれはいかなるものを意味しており、
いかなるものとしてイメージすればよいのでしょうか?
ここではもちろん数理学上の<次元>論が話題ですので
私たちが日常用語として使用している<次元>とは
大いに異なることは注意しておかなくてはなりません。
日常用語の<次元>と言えば、ある種の『観点』だとか
『着眼点』といった話題対象の位置づけのようなイメージが
持たせられているわけですが・・・。
ここでの<次元>は『数理的』時空(間)論と接合されていくことに
なります。
『数理的』といっても数学と物理学とに大きく2つに分かれている
わけで、それぞれによってさらに<次元>の定義や位置づけも
異なっていることも<次元>論を語る際には細心の注意を
払っておく必要があります。
最近はこの<次元>論を巡ってオカルト・精神世界的な変な話も
日常の社会生活の中でも飛び交っていますので
詐欺犯罪などの被害にも遭われないためにも
賢明な読者様にはまさに<釈迦に説法>ですが
十二分にご注意下さいませ。
だからこそ、言葉の厳密な定義やその根拠となる論証素材の提示要求が
必要となってくるわけですね。
これもまた数学から学べるいわば<生活数理学>の知恵であります。
話題が若干逸れてしまいましたが、
ここで話題とされている<次元>論は数学の世界に絞ったもの。
本章で私たち一般読者が学べることは、
現在の数理学において日常的に使用されている<次元>論が
いかなるものとして活用されているのだろうかという一点に
集約されるということです。
その簡約版が本章冒頭部でうまくまとめられていますので
ここに引用しておきましょう。
『写真は実は時間という次元を加えた四次元の世界を二次元に
おとしこんでいる影と考えることができる。数学は四次元以上の
高次元を、三次元、二次元の世界におとしこみ記述することで、
より複雑な世界を理解する唯一のツールなのだ。』
(本書190頁 本章タイトル左下の見出し要約解説)
要するに、私たちは日常の物理空間では目に見える領域範囲でしか
視力を届かせることが出来ないために
いわばその視界外領域=『盲点』領域についての気づきを得ることは
きわめて困難な事態だということです。
その視界領域こそ超マクロな世界と超ミクロな世界が
さらに拡がっているわけですが、人類はこの未知の領域を
探索し続けることで世界を拡張させてきたとも言えるわけです。
その世界『開拓』のためのツールこそが
ここで取り上げられている『数理的』<次元>論の
役割意義だったということですね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
⑫『第11章 日本の数学者の論文から着想を得る』
※本章はそんな<カッツ・ムーディー代数>を研究し続けていた著者が
研究の壁で行き詰まりかけていたところに突如現れた
とある日本人数学者による論文によって一筋の光(あらたな着想)を得て
ふたたび歩み始めることになった感動の秘話であります。
最近は悲しいことに研究者の世界でも論文盗用問題などが
喧しくなっており倫理も厳しく問われるようになってきましたが、
研究している過程で他の研究者が提示してくれている論文などに
『触発』されて自らの問題意識にとってあらたなアイディアとなる
着想の『素』を抽出してくることは著作権上も問題なく保護された領域であります。
でなければ似たようなアイディアは世の中のどこかしこに
散在しておりますし、知的独占の弊害でもって人類の進化に
影が差してくると考えられているからですね。
本章ではあくまでもそんな独自アイディアへと発展していく
きっかけとは何なのかを考える際のヒントとしてご一読下されば
あなた様の日常生活にもきっと役立つことが数多くあるでしょうという
視点が得られることでしょう。
そして何よりも日本国内においてはまったく評価される機会すらない
閉鎖的なアカデミズム研究時空間で苦しまれている日本人研究者の
皆様方にもふたたび自信がみなぎってくる明るい話題となっています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
⑬『第12章 泌尿器科の診断と数学の関係』
※本章ではいったん『純粋(基礎)』数学の領域から離れて
『実用(応用)』数学として実社会でいかに転用されているのかという
事例を通じてその相互関係について見ていくことになります。
ここでは泌尿器科の医者による数学者への要望事例として
安定した診断アルゴリズムの設計が紹介されています。
また冒頭での<社会主義の許の科学>も考えさせられる論考文と
なっています。
政治が社会科学へ介入することはよくあることですが、
自然科学へも介入することがあるということは意外にも知られていない
ようです。
具体的にはどのような形で介入するのでしょうか?
それはまずその時々の政治権力者がいかなる世界観を描いているかに
よるようです。
その世界観に基づいた政策実現のうえで妨げとなると決定されたら
『財源削減』という手段でもって必要研究費が回されなくなるという
ことが起きるわけですね。
本書では旧ソ連出身の著者が体験された感触でもって
<政治と学問の関係性>について私見が提示されています。
著者は数学者ですので以下の引用ではいち数学者からの見解だと
いうことになります。
『数学は抽象的な学問で、研究費もかからないうえに、ソ連の
指導者たちが深く関心を寄せること-とりわけ、体制を存続させるために
必要な防衛-に役立った。かくして数学者たちは、おおむねやりたい
研究をやることが許され、他の学問分野に課された制約を免れたのだった
(ただし政治に口を出せば話は別だった。前に触れた「九十九人の数学者の
手紙」がその一例である。)あれほど多くの才能ある若い学生たちが、
数学を職業として選んだのはこのためだ、というのがわたしの考えである。
数学は、自由に知識を探究することのできる分野だったのだ。』
<管理人注:「九十九人の数学者の手紙」については
第6章<ユダヤ人数学者たちの憩いの場>本書112~115頁で
触れられています。>
著者は『数学』についてはこのような楽観的な見立てをされているわけですが・・・。
研究されている数学の知見、とりわけ『純粋』数学になりますと、
あまりにも難解な話ということになってきますので
通常人には確かに最終的に何を意味しているのかわからないということに
なることがままあるために確かに著者が言及されているように
他の学問研究に従事されている方々よりは政治介入される余地が
比較相対的に少なくなるという現象はあるのかもしれません。
とはいえ、『純粋』数学がその動機に掲げるのも
その第一段階こそがある種の『世界観』の転換へと働きかける
何らかの発想ということになりますから、
この世界観(ある種の<公理体系>を巡る見解の相違)を巡っても
対立が生じないという絶対的安全地帯はどこにもないわけです。
著者のように数学の諸分野(それぞれの島「宇宙」)のあいだをつなぐ
<架け橋>がいつか出現するものと信じて、
実際に徐々にでもそのような<架け橋>が存在するらしいことを論証することが
可能となり、同じような問題意識でもってそのことを確かめる検証作業に
従事している隣接研究者同士であれば数学的な共有認識も叶うのでしょうが、
それはあくまでもそのような問題意識を共有している者同士であったり、
数学研究による獲得知見成果を認めようとしない学派(閥)的争いも
複雑に絡んでせっかくの優れた研究成果も世の中に浸透していくのが
大幅に遅れることも現実の数学史のうえでもあったからです。
本書でも紹介されているガロアなどはまさしくそのような事例に
当てはまるのでしょう。
ガロアにも数学者である前にひとりの人間として政治哲学(思想)を
宿していたからです。
そのあたりの事情と本章で著者によって示唆された見解と
比較考察してみる参考文献として先程ご紹介させて頂いた著書
『ガロア~天才数学者の生涯~』(加藤文元著、中公新書、2010年)を
推薦しておきましょう。
どうも『数学』の世界も著者が楽観視されているように感受されるほどには
生やさしい世界でもないようですね。
もっとも管理人は著者の問題意識には激しく共感する者ですが、
現在の学問が時の勢いある政治/経済思想性とそれを強力に後押しする
諸勢力によって激しく歪められていっているあり様を見ますと、
学問の未来や理想のためにはそうやすやすと楽観視は出来ないだろうと
注意喚起をさせて頂いたまでで著者に対する他意はございません。
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⑭『第13章 ハーバードからの招聘』
※本章では旧ソ連での研究生時代には様々な妨害を受けたりするなど
災難が降りかかる連続だった日々を過ごされていた
(もっとも心ある理解者もいたわけですが)という著者ですが、
そんな若年研究生時代に幸いにも投稿した論文が国外でも
認められるチャンスを得たことをきっかけに
やがて世界最先端の数学研究者が集う米国ハーバード大学から
客員教授として招聘されるという話へとつながっていったエピソードが
描写されています。
そのチャンスを獲得するきっかけとなる論文投稿などについては
第6章や第11章でのボーリャ・フェイギン氏との共同研究の機会を
得たことなどのエピソードがここに至るまでの経緯を
添え書きしてくれています。
また本章では著者とフェイギン氏とのあいだでの
母国ソ連に対する思い入れの違いから意思疎通に齟齬が生じてくるといった
人間的な苦悩話があったり、世界観の違いによって
いわゆる『頭脳流出』問題への捉え方にも差が出て来るといった点にも
考えさせられるところがありました。
あとは外国語学習法に関する若干のあれこれなども
海外留学される方には少し参考になるかもしれませんね。
(<レターマンの番組で英語を勉強>本書253~256頁)
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⑮『第14章 「層」という考え方』
※本章もまた難解な数学専門論部分に当たります。
主題は『層』論について。
ここではあらたに登場されるドリンフェルド氏との交流話を通じて
先に第9章要約時に触れさせて頂いた<ヴェイユのロゼッタストーン>の
一番右端の『リーマン面』と『大統一(本書ではすなわち主題の
『ラングランズ・プログラム』のこと)』との<架け橋>をかけるうえで
出てきた『層』という現代数学最先端の話題について学ぶことが出来ます。
著者は上記の<ヴェイユのロゼッタストーン>の比喩図を活用して
代数学(『数論』や『調和解析(関数など)』)発想を
幾何学的発想へと導き入れる志向性によって
<ラングランズ・プログラム>研究へと至る端緒が出来てきたのだと
その数学史的解説から語りが始まりました。
とはいえ、本章で紹介されたドリンフェルド氏の研究分野が
その『リーマン面』を<ラングランズ・プログラム>へと組み込むための
数学的方法論において従来の『関数』を活用するだけでは
打開することが困難な事態へと立ち至ってしまったというのです。
そこからあらたな発想が必要となるということで出現してきたのが
『層』論だったというわけですね。
『ロゼッタストーンの左側と真ん中のコラム(管理人注:本書269頁上の
図表で言えばそれぞれが<数論>と<有限体上の曲線>に対応しています)では、
ラングランズ・プログラムは、ガロア群と保型関数をつなぐものだった。
問題は、リーマン面に関する幾何学的な理論の中に、ガロア群と保型関数に
類するものを見出せるかどうかだった。第9章で見たように、幾何学の
理論においてガロア群の役割を演じるのは、リーマン面の基本群である。
しかし保型関数に類するような、幾何学的な対応物はまだ知られていなかった。
実は、幾何学的な理論において保型関数とのアナロジーが成り立つものは、
関数ではなく、数学者が「層」と呼ぶものだったのである。』
(本書269~270頁)
ここから具体的な『層』論の解説が始まっていくのですが、
精確な詳細解説は本書に委ねさせて頂くといたしまして、
簡約すると<内部構造(階層性)のない>数そのものを
ベクトル(位置と大きさを表現する数学的操作方法。高校数学の範囲です。)の
発想を活用して時空間(幾何学的空間)へと転写させて
あらたな『関数化』を図っていくというような考え方のようです。
『現代数学は、数がベクトル空間として生き生きと動き出すような、
新しい世界を作り出す。その世界の中では、それぞれのベクトル空間が
豊かで充実した個人生活を送り、他の世界との関係も意味深いものとなる』
(本書271頁)
『自然数は集合を作るが、ベクトル空間は、もっと洗練された構造を
作る。その構造のことを、数学者は圏(カテゴリー)と呼んでいる。
(中略)圏の言葉を使えば、その対象がどんなものから構成されているか
だけでなく、対象同士がどのように相互作用するのかも調べることができる。』
(本書271~272頁)
ひとつになっている。その動きのことを「圏論化」と言う。
(中略)
つまり、関数と層との違いは、多様体Sの各点に割り当てるものの違いなのだ。
関数の場合には、数を割り当てるのに対し、層の場合には、ベクトル空間を
割り当てる。(中略)ベクトル空間が、数の圏論化であるように、
層は、関数の圏論化である。』(本書272~273頁)
『関数は古い数学の概念であり、層は現代数学の概念であると、
グロタンディークは、いろいろな意味において、層のほうがより基本的だと
いうことを示した。古き良き関数たちは、層の影にすぎないのである。』
(本書279頁)
まとめますと、『関数から層』へと発展していくというイメージ像は
平面図からより高度な立体図へと<格上げ>されていくようなものでしょうか?
<格上げ>されれば時空間はおのずと『重層化』していくことになります。
すなわち、『構造(幅、厚み)』がより増していくという感じなのでしょう。
このように『重層化』すればするほど比較視点度数が増してきますから
より多角的な検証作業も可能になってくる・・・。
そんなイメージ像を提供してくれるのが『層』論ということのようです。
管理人はもとより門外漢ですので本書解説の読解力も足りず、
もしかしたら誤解を招くおそれが出て来るかもしれません。
そのような場面がもし感受されますれば、
数学にお詳しい奇特な読者様がもしおられましたらば
どうぞご遠慮なくお気軽にコメント欄かもしくはお問い合わせ欄などから
直接メール送信頂ければ有り難く頂戴いたします。
みなさんと人類の知的財産を共有する「場」をささやかな形ではありますが、
書評ブログ媒体という形式で設定させて頂いておりますので、
ご協力頂ければこのうえなく嬉しい限りであります。
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⑯『第15章 ひとつの架け橋をかける』
※本章もさらにややこしい話題の連続で数学に苦手意識を持つ
読者様(管理人も含む)には眠たくなるばかりかもしれません。
管理人もここまでの本書解説を自分なりに理解し得た範囲で
簡約させて頂くだけでも
もはや『刀折れ、矢も尽きよう』としている状況へと立ち至っております。
ですから、もはやこれ以上にやさしく翻訳出来ませんので
本章の『簡約』を本章タイトル脇の著者のお言葉でもって
代用させて頂くことにいたします。
『博士論文は、リー群Gとラングランズ双対群LGという異なる大陸に
橋をかけることに関する仕事だった。それはわたしがモスクワで
取り組んでいたカッツ-ムーディー代数を利用することに
よって可能になるのだった。ソ連の崩壊が目前に迫っていた。』
(本書289頁冒頭文)
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⑰『第16章 量子物理学の双対性』
※ここからはまた<心機一転>して著者の幼少時からの夢でもあった
量子物理学への興味と『純粋』数学との接点に関する旅が始まります。
本章では著者が長年の数学探究の旅を通じて獲得されてきた知的成果から
現代数学によっても導き出されてきた<対称性>が
現代(量子)理論物理学によって導き出されてきた<双対性>という性質と
相互に結びつく接点があったことが示唆されています。
具体的な数理論に関する諸解説は本書に委ねさせて頂くことにいたします。
ざっと要約すれば現時点での現代量子物理学が辿り着いた地点とは?
本章では『電磁気理論』を主題に語られているわけですが・・・。
関連する部分のみ本書から引用する形で提示しておきますね。
『電磁気理論には、電気力と磁気力を入れ替える操作について、
隠れた双対性がそなわっている(それについては、以下で詳しく説明する)。
1970年代に物理学者たちは、電磁気理論の双対性を、いわゆる
非可換ゲージ理論に拡張しようとしていた。
ここでいう非可換ゲージ理論は、核力を記述する理論である。
(中略。管理人注:この中略部分はいわゆる<強い力>と<弱い力>に
関する簡潔な解説箇所です。)
どんなゲージ理論でも、その中核はリー群であり、そのリー群のことを
「ゲージ群」と呼ぶ。電磁気を記述する理論は、もっとも簡単な
ゲージ理論とみなすことができる。
その場合のゲージ群は、今やおなじみの円周群(円い物体の回転群)だ。
<管理人注:『円周群』に関する詳細解説は本章第2章ご参照のこと)>
円周群は可換群である。すなわち、任意の2つの元の掛け算は、
掛け合わせる順番によらず同じ結果になり、a・b=b・aが成り立つ。
<管理人注:『元』についても本書第2章ご参照のこと。
ある種の「基点」のこと。>
それに対して、強い相互作用の理論と弱い相互作用の理論では、
対応するゲージ群が非可換であるため、a・b≠b・aとなる。
このような理論のことを、非可換ゲージ理論と呼ぶのである。
さて、1970年代のこと、物理学者たちは、非可換ゲージ理論にも、
電磁気理論にそなわる双対性によく似た性質があることに気づいたのだが、
そこには意外なひとひねりがあった。
ゲージ群Gをもつゲージ理論から出発すると、そのゲージ理論の
双対理論は、別のゲージ群をもつゲージ理論になるのだが、
その別のゲージ理論というのが、ラングランズ・プログラムの
重要な要素であるラングランズ双対群L Gだったのだ!』
(本書318~319頁)
この数学的「洞察」をもとにさらなる現代量子物理学「理論」に
対する<拡張>を施していくと
いわゆる『超』対称性「理論」とも接合していくらしい・・・。
あくまでもこのような数学的「仮説」設定から
現実の物理的時空間の「実相」を見立てていくことは
現時点では自然界で『実測』されたものではなく
「理論的予測」にしかすぎないことは注意しなくてはなりません。
しかしながら、このような数学的操作方法をフル活用させながら
古典的な『電磁気理論』を拡張させていった帰結モデルに
着眼していくと、
『超対称性をもたせたものには、実際に電磁双対性がそなわっていると
いうことだ。』(本書343頁)
こうした問題意識や発想力の根底には
現在のいわゆる『標準』モデル(<重力>が説明しづらい)に限界点があるために、
それを乗り越えるための何らかの突破口となる
『理論的仮説』設定操作をあらたに開始することが
要請されていたからだということです。
また、本書でも『基礎科学研究の意味』(本書320~326頁)や
『純粋数学への史上最大の助成金獲得』(本書326~327頁)という
エピソードが触れられています。
『選別型助成金』志向が現在の政治的学界支配の趨勢となっていますが
本当に豊かで安定した平和を維持し得る社会を創造形成していくためには
短期的な見返り(つまり、『すぐに役立つはすぐに役立たなくなる』)を
求める志向性ではいけないということです。
中長期的な互恵的発展性が求められているということですね。
そもそもみなさん、「創造性」という言葉を誤解されているのですね。
『<創造性(的発見>とは常にリスクを伴うもの』だということです。
研究開始時点ではそれが『海のものとも山のものとも』なるか
誰にも判断し難いのが通常だからです。
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⑱『第17章 物理学者は数学者の地平を再発見する』
※本章では前章での量子論における<双対性>を受けて
数学者としての立場からの<電磁双対性とラングランズ・プログラムの接点>に
迫っていく過程が描写解説されています。
ここまでの<まとめ>を
第9章で紹介されていたヴェイユのロゼッタストーンのたとえを借りて
簡潔な図表化でもって提示されています。
(本書384頁ご参照のこと)
まとめますと、現代「理論」物理学者も将来の実測を待つまでの
「予想仮定」を設定するうえで数学者が導き出してきた洞察的知見を
その発想の着眼点に据えながらさらなる探究考察を進めているという
次第です。
その他に触れられている各種数理的解説は難解すぎるので
ここでは省略させて頂くことにいたします。
簡約させて頂きますと、
数理的<対称性>と<双対性>の相互関係を対応させていく原理を
いかにうまく記述表現させてきたのかという解説箇所に当たるということです。
まさに著者も懇願されていますように
<難しいが我慢して>(本書380~383頁)、
<専門家でも理解している人は少ないのでご安心を>(本書383頁)との
ことです(苦笑)。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
⑲『第18章 愛の数式を探して』
⑳『エピローグ われわれの旅に終わりはない』
※第18章では著者によるこれまで探究してきた数学的『発見』の数々を
一般人にもイメージしやすいような表現技法を模索していく軌跡が
描写されています。
それが映画『愛と数学の儀式』です。
何と著者はこの映画を創作するに当たり
三島由紀夫氏の『憂国』に触発されて着想されたとか・・・。
その<思想性>にではなく・・・ではありますが。
あくまでもその<表現形態(技巧)>を借りて
その(数理的)<思想性>を表現させるところに主たる狙いが
あったとの由。
つまり、<思想>の高度な抽象性や一般原理を
いかに表現すればうまく伝達し得ることが叶うのだろうか・・・という
問題意識が底流にあったとのことです。
三島氏の『至誠』というメッセージに当たるところに
著者の『(数理的)真理』が対応するように象徴的表現として活用されたそうです。
<思想性>はまったく異なるお二方ですが、
その<論理性>を過剰なまでに重視する表現姿勢は重なり合うようです。
さらにたとえることをお許し願えれば、
いわば『論理と情緒』のバランス感覚とでもいう
絶妙な配合でもって創作された映画だとのことです。
小川洋子氏の『博士の愛した数式』も映画化されて
管理人もすでに鑑賞させて頂いた機会がありましたが、
あちらは確か<友愛数>が主題に据えられた作品だったように
記憶しております。
つまり、厳しくて冷たく感受される『論理』にも
<愛>が背景をなしておりませんと他者を圧殺させる
恐ろしい<剃刀>のような代物になるということですね。
著者も『論理』のあり方について、
数式に仮託してでの話題となっていますが、
『数式は、愛を説明することはできないが、
愛の荷(チャージ)を担うことは出来るのだ。』
(本書418頁)
と信じて旅を続けておられるとのことです。
本章では<二体問題>(本書398~400頁)と
<数式は発明されるのではない、発見されるのである>
(本書403~406頁)、
<数式で特許がとれないことの意味>(本書407~409頁)も
触発されるところ皆さんにも『大』だと感受されますので
是非この機会に『<数理的世界観>とは何ぞや?』というテーマを
問うてみたいと思われた読者様にはご一読頂きたい箇所となっております。
ちなみにまったくの余談ですが、『数』については特許取得された事例も
あるそうです。(イアン・スチュアート著『数学の秘密の本棚』
<特許となっている素数>133~134頁ご参照のこと)
『三体問題』ではなく<二体>問題という点も
個人的には興味関心がそそられたところですが・・・。
『3』以上になると極端に難しい関係性になっていく・・・という視点は
いわゆる『フェルマーの最終定理』同様に魅惑的な性格があるところですが、
本章要約とは直接的には関係が無く話題も逸れてしまうことになります点に
俗に言う『3人寄れば文殊の知恵』ってほんまなん!?という
幼少時からの個人的<謎>問題がありました。
もちろん『1』人による<独断>こそ危険度が高くなるわけですが、
人数が複数になっていけばいくほど本当に<賢明な判断>が
下せるのだろうかしらん・・・という不安は
昔から強い方だった性格だからです。
この人数が多くなればなるほど『より賢明な判断が下せるだろう・・・』という
命題にも根拠が不確かな要素が多々含まれていると感受されてきたからです。
最近のいわゆる『行動心理学』が導いてきた知見でも
このあたりのことが強調されているわけですが・・・。
自己確信バイアスの積み重なりの『総体量』である
相互確信バイアスがより一層強まりゆけば
『空気の支配(同調圧力、自粛警察思考、全体主義志向・・・)』が
すぐにも自然増殖を始めてしまうからです。
その『あまりにも人間的な』認識偏見画像を
より透明度の高く、最大公約数的な公正なデータ抽出によって
その「歪み」を<補正>させていこうとの志向性を持つのが
いわゆる『ビッグデータ(集合知)』思想ですが・・・。
ここにもまだまだ乗り越えていかなくてはならぬ難題が立ちはだかっています。
そのようなことにも気づかせて下さるのが
本書の『好著』たるゆえんではないでしょうか?
そのような個人的問題意識が
著者による<エピローグ>での主張とも重なり合っているようで
『難関書』ではありましたが十二分に楽しませて頂くことが叶いました。
つまるところ、人類がこれからも数理的発想や思考法を
極限にまで突き詰めていこうという姿勢を持ち続けるだろう
背後にある動機とは
やはり『心理的不安』の解消という究極の安らぎ志向が
働いているからではないかということでした。
ですから、『不安』があることは悪いことなのだという誤れる認識像をこそ
もしかすれば転換していかなくてはならないのかもしれませんね。
『不安があればこそ人間はその軽減解消へと努めようと励む過程で
同じ人「類」同士の悩みや苦しみを共有する土壌が育まれていくがゆえに
相互誤解を打ち消し合おうとする原理が機能し始めて
互譲精神が自ずと形成されていくはずだ・・・』
最後の『はずだ・・・』という点は
管理人の個人的願望にしかすぎませんが
もしもいつの日にか
このような極私的願望も人類共有の共通願望へと発展しゆく
『悲願(彼岸)』を達成し得る道すじが出来てくるならば
『悲願(彼岸)』を『此岸』へと持ってくる論理的思考回路と相まって
『厭離穢土 欣求浄土』観から『現世浄土』観へと転換を果たし得る
<宗教革命(パラダイムシフト)>まで起きてくるのかもしれません。
それがたとえ<見果てぬ夢>だとしても
人類協和のためにもその夢を見続ける価値は大いにあるというものと
確信しております。
まとめますと、現在までの人類が持ち得てきた世俗イデオロギー『次元』を
抜け出るための別ルートを開拓する<余白>を創造形成させていこうと
意志するのが数理的志向性の『本願』なのかもしれないということですね。
やっと終章へと辿り着くことが叶いました、ふぅっ~。
読者の皆様もここまでお付き合い頂きありがとうございました。
ひとまず書評論はここまでとして閉幕いたしますね。
お疲れ様でした。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・<謝辞>
・<用語集>
・<巻末注>
・<訳者あとがき>
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『女心と秋の空』移ろいゆく季節に何想う♪♪人と交流したり、生ライブ参加や登山出来ることがこんなに爽快なことだったのか~曇天の秋空に爽涼とした『花嵐』が駆け抜ける編~
それでは<エッセーコーナー>へと話題を転じさせて頂きましょう。
令和2(2020)年も初秋を迎えている今日この頃。
日々のコロナ禍における感染リスクの変動に一喜一憂される中、
みなさんもそろそろ『コロナ疲れ』で外出したいとの
<本心>もむくむくと湧き出てきている時節なのかもしれません。
確かにこのような厳しい環境の下、外出することは
正直気に掛かってしまう場面もあると思います。
とはいえ、私たちは人間なのですから
そのような衝動に駆られる<本心>を無理に抑圧し過ぎることも
よくありません。
大多数の方々が『感染拡大抑制対策と経済循環再生との両立』の
<はざま>で悩みつつ生活をしていらっしゃるのが通常の精神状態だからです。
なぜならば、私たちはこのまま『座して死を待つ』よりも
何としてでも『生き延びよう』と欲するのが正常な本能だからです。
みなさんが誠実に感染拡大抑制対策に協力している限り、
決してあっては欲しくないことですが、
仮にもし感染してしまったとしても卑屈になったり、
萎縮してしまうこともないはずだからです。
『油断は禁物』の意識を持ち、
『盤石な備え』でもって日常生活を慎ましやかに暮らしておられるのであれば
それ以上に敏感になり過ぎるとかえってコロナ感染で病魔に冒されなくとも
身心ともにいずれ狂ってくるおそれがあるからです。
人間が正常から異常へと向かいつつある徴候は
やはりストレスからのイライラ感が募りすぎて怒りっぽくなったり、
急に外部との接触を断ちたくなる憂鬱感が少しずつ増してくる点などに
現れてきます。
そもそもこのコロナ禍発生がいかなる経路でもって発生してきたのかも
私たち一般人にはその『真相』も知らされておらず、
その検証作業も続けられている中ですから、
誰にとっても不透明でコロナ禍そのものに抗う術すら持ちようがないのです。
ですから、コロナ禍が自然発生なのか人為的なものだったのか
各種メディアで様々な憶測情報が飛び交っていますが、
今はそのような真偽不明な情報に振り回されることなく
ただただご自身の日々のお勤めを果たすことに専念されることが
身心の健康を保つうえで最善の姿勢だということです。
いつ収(終)束するやらもわからない感染症に取り憑かれるよりも
日常生活に集中して取り組むことでそこに意識を過剰に集中させてしまう
執着心を取り去ろうと作為的になるのではなく、
むしろ執着心がどうしても起きてきてしまうことこそ
現在の通常人がともに抱える自然なあり様なのですから
それはそのままに放置しておいて
コロナウィルスともに暮らすほかありません。
むしろコロナ感染そのものよりも
日常生活を正常な精神状態で過ごせなくなることで
心が追いつめられて最悪の場合には死に至る病に
取り憑かれてしまうことの方がよほど深刻な事態なのです。
このような不透明な状況が長期間続けば続くほど
その確率が高まっていくわけですから
ご自身の身心の安定に配慮した生活実践術を
見出すように努力される方が賢明だということです。
不安にさせる言説も各種メディア(管理人自身も書評ブログという
メディア運営責任者の1人であることを自覚しており
時に厳しい表現で萎縮させてしまっている責任も痛感しております。)を通じて
大量に出回ってしまっていますが、
厳しい表現も近未来にとって良き方向へと発展させようとする志向性で
建設的な提案がなされているのか、それとも何か悪意(邪心)があるのかを
見分ける秘訣をひとつご紹介しておきましょう。
『人相』を見ることです。
『人相こそ日々の志向性(生活姿勢)の現れ』であるからです。
厳しい状態であるにもかかわらず<へらへら>とした顔で
平然を装う人間。
厳しい時期にさらに厳しくさせようとする
明らかに間違った政策提案だと感受されるにもかかわらず
『確信犯』的に繰り返して人々の批評意見にも耳を傾けず
ひたすら突進していく姿勢を保持する人間。
他にも様々な人格タイプがありますが、
だいたいが『日頃の<心>や<魂>の姿が顔(人相)に
表出してくる』ことだけは間違いありません。
ですから、管理人も各種メディアが繰り出す言説や
政権批評をさせて頂いてきたのも
ただひとえに世界がより良い方向へと転じ、
みながともに弥栄(いやさか)えて欲しいと願うからであります。
ですから、管理人は今まで『悟り』を開いたことなどなく、
『煩悩の塊』であることを自覚し、
誰かの『教え』を聴いて努力してきたつもりでも
自ら『日々以前よりも良くなってきている・・・』などと
楽観視したことすらありません。
管理人自身が一番嫌う人間的姿勢だからです。
いずれにしましても、私たちがこの世で生きている限り、
様々なうす汚れた『情(感情の<情>です)』報に
否が応でも付き合わざるを得ない以上は
『世俗の垢』にまみれざるを得ないからです。
意識してよほどそのような『世俗の垢(社会悪)』にまみれまいと
努力していても、油断していれば、
無意識(深層心理)レベルで受容してしまっているからです。
その汚染を解毒することは本当に人間にとって至難の業なのです。
そのような『毒』を取り除くことは至難の業ですが、
人間とは何もせずに放っておけば
自然にそのような『毒』が積み重なっていく生物なのだと<自覚>して
改善意欲さえ失うことがなければ、
やがて暗闇(無明)の中にもほのかな光が差してくるようです。
『人生(人の心)は<晴れたり曇ったり>でまるで天気のようなものだ』
とは昔から言われていますが、
『人間』もそのような『森羅万象(大宇宙)』の<気>の影響を
受け続ける存在だと『悟る(開き直る)』のではなく
『認める(自覚)』することだけでも<気分転換>を図ることが叶います。
そこで管理人も『人間』であればこそ
自然の影響を受けていることを何度も繰り返し呼び覚ますために
よく自然界の中に分け入る習慣を生活の中に取り入れています。
拙者にとっても『自然界の中に身を浸すことこそが修行』と心得て
不定期に山谷を駆けめぐっています。
この連休中に久方ぶり(本当に『愛宕山』参詣以来の1年ぶりだ!!)の
登山修行をしてきましたので
後ほどあらためて語らせて頂きますね。
さて、本年度はみなさんにおかれましても
コロナ禍というとんだ大災難に見舞われた『厄年』で
あり続けたことでしょう。
さらに管理人自身の個人的な<年回り>としても
『厄年』期間真っ只中の身に当たります。
ですから、『厄よけ祈願』にはことさら例年以上に『気合い』が入ります。
40歳前後は古来より『節目の年』だと言われてきましたが、
身心ともに体調を崩しやすいといういにしえからの確率統計データの
集積解析から『易学』も生み出されてきたのです。
管理人は『占い』というものはあまり信用しませんが、
きちんとした確率統計データ集積解析に基づく科学的アプローチから
体系付けられていったとされる『易学』はそれなりに尊重しております。
『当たるも八卦当たらぬも八卦』と言いますが、
まさに<言い得て妙>なこの学問をたとえる表現です。
そんな『厄年』期間に入った最中、
敬愛する祖母が亡くなり『喪に服さざるを得ない』1年を迎えることになりました。
またコロナ禍の中で人の生き死にがよく話題になされることも重なり合って
本年ほど『命の重み』をあらためて深く考えさせられる機会を
授かることもここ近年稀だったようです。
完全な油断でした。
みなさんもおそらくそうだと推察いたします。
人間同士の接触が少なくなるとはどういうことなのか?
あるいは『引きこもる』ことを続けることで
どのような心境(身心状態)変化をもたらすのだろうか?
今までは例えばニートや失業者、さらには疾病者のことを
<自業自得>だと上から目線で『私には当てはまらぬこと』などと
慢心していた方ですら
『良心(情愛感覚)』がほんの少しでも残されている限り、
その<愚かさ(見識の浅さ)>に気付かされたことでしょう。
私たちが『運命』共同体だというのは
この『大宇宙(自然の摂理)』の下では・・・ということです。
誰しもその法則からは逃れ出ることなど出来ないのです。
『富裕層ならば経済力でもって<命>すら買える』
このような浅はかな思想はまもなく天が罰しましょう。
人間が『天に代わって不義を撃たなくても』(この暴力思想こそ
傲慢な発想の最たるもの。もはや時代はそのようなある種の<下克上>思想を
許さなくなっているのです。)、
『天(自然界そのもの)』が人間の飽くなき貪欲さに
警告を与えるのです。
思慮深い人間であれば、『天』を畏れ敬うはずです。
『覇道<王道』よりもまだ先に『天道』があるのです。
仏法では『正法』の時代と称します。
つまり、『王道すら天道(天の理法/正法)』に従わざるを得ないのです。
いわゆる『非理法権天』の<極意>はまさにここにありと
今まで凡百の学者がこの言葉を解釈してきましたが、
管理人自身はどれもこれも納得し得ず(俗流『皇国』史観などまさしく。
なぜならばそれは形を変えた『中華』思想だと見破ったからです。
階層を上から下へと周縁的に拡張させていく論理。
それはたとえピラミッド型△であれ、方円型□○であれ、<中心>を
もっとも優先させるという思想である限りは
どこまでも作為(人為)的でしかないはずなのですから。)、
『天道』を人為的に変えることなど出来ようはずがありません。
現代物理学でも悪戦苦闘しながら
この『天道(動)』を人為(作為)的に操作制御しようとしていますす、
宇宙観を巡っては『宇宙原理VS人間原理』が互いに相争っている
あり様なのです。
どちらに軍配が上がるか?
ほぼほぼ『宇宙原理』が打ち克つことを確信しております。
自然の恐怖を軽侮している(きた)人間には
いつまで経ってもわからず、信じがたい<道理>でしょうが・・・。
よしんば、人間がこの宇宙理法が示す厳しい生態環境の中で
生き残りを図っていかざるを得ない限り制御理論を考案実施させるにせよ、
あくまでも『(純粋=完全))宇宙原理』と『(純粋=完全)人間原理』の
<はざま>に可能性論理を設定し、そこでひとまず落ち着くほかありますまい。
宇宙時代の人間『倫理』とは行き着く果ての帰結論理から
推論してもこのほかの解決法などあり得ようがありません。
そのような<理法>を身体感覚を通じて体認・体得させていく修行が
『修験道』であったりするわけですが、
この『道』はただ単なる宗教意識を芽生えさせて終わりという
技術(『知識』)ではなく、
過去の先人が長年の体験で獲得してきた科学的洞察も踏まえた
生活実践道(『知恵』)だということです。
最近はいわゆる「ソロ」キャンプを始め、
またある種の「アウトドア」生活がにわかに脚光を浴びつつあるようですが、
せっかく良い流行機会を得たのですから、
出来れば今後(『アフターコロナ』社会)とも
その生活体験智(<智>は知恵というニュアンスに近い)を
みなさんにも共有して是非ご活用して頂きたいのです。
今はコロナ禍のためになかなか『集団』接触も難しいかもしれません。
しかしながら、結局のところ人『間』は
まったくの単独(『ソロ』)生活だけでは生きていけないのです。
近未来に革新的な社会保障制度がいかに完全整備されていったとしても
これだけは忘れ去って頂いてはいずれ行き詰まるのです。
『人類(『間』)は<協働>生活をして互いに支え合っている生物』だと
いうことです。
管理人は所詮は
『バーチャルリアリティー(VR)はリアル(現実)に大敗する』と
確信しております。
そのVR志向性を持つことで個々の人間はやがてその『間』を喪失させ、
原子(孤独)化を促進させた挙げ句に『廃人』と化し、
もはや生物としての機能すら剥奪されてしまうと
確信しているからです。
それはまさしく人『類』共同体の消滅。
すなわち、人類滅亡を招き入れるということです。
ですから、VR社会が現実社会に一部導入されることは
管理人自身も否定はいたしませんが、
「ほどほど」にしておかないと中毒(全面依存)症状を引き起こし、
身心剥奪されてしまうおそれがあると常に自覚しておかなくては
なりません。
「おそれ」ではなく確実に喪失「する」のです。
『なぜか?』という人間の性格(質)面から見た
分析論は管理人も独自で試みている途上ですが、
人間の『微細胞組織体原理』というものが
どうもその個体存続機能とも相まって
破滅を回避させる『壁』を構築してきたらしい・・・からです。
今は「らしい・・・」としか表現できませんが、
みなさんにも「宿題」として考えて頂けることを願います。
それでは最近管理人が体験してきたことを話題に
『非』接触社会化への無思慮さについて
ともに考えて頂く機会を提供させて頂きましょう。
コロナ禍による感染リスクは日々変動しており
みなさんも一喜一憂しながら日々をお過ごしされているだろうと
推察いたします。
とはいえ、みなさんに一喜一憂することすら
もはや『何かがおかしい』のでは・・・という
反証事例をまず最初に提示しておきます。
それは学校教育再開や経済循環再生、はたまたオリンピックや
万博開催論から各種の『Go To』キャンペーン・・・などなどが
ここのところ深く練られた形跡なく矢継ぎ早に続出されていることを
見ても明らかでありましょう。
特に最後の各種の『Go To』キャンペーン。
みなさん、この標語を最初に見た時どのような印象を受けられましたか?
おそらく大多数の方々が『ふざけるな』ではないでしょうか。
確かに今やどの業界も経済循環再生を通じて国民経済生活の
正常な道を真剣に探っておられる努力自体は
当然ですから否定はしません。
そうではなく、
『なぜ政府ごときに個人生活の箸の上げ下げまで指導(誘導)されなあかんのや』
という点にあるのではないでしょうか?
しかもそこに一部『利権』も絡んでいるらしい。
持続化給付金事業の某大手広告代理店への委託問題でも
批判が殺到したことに見られるように、
この各種の『Go To』キャンペーンも
割引制度(例えば補助金)でもって政府が民間を後押しするというのです。
一見ここには国民から見て利便性と経済的節約が叶って有り難いと
思われるのですが、現実には国民と事業者のあいだに『仲介』業者が
介入する余地が十分に残されているわけです。
制度自体が利用する国民にとっても
サービス提供事業者にとっても手続きそのものが複雑で
使い勝手が悪いということになれば、
代行業者が繁茂してくることは誰でも想像に難くないことでしょう。
制度自体が本当に使い勝手がよいのであれば、
このただでさえお財布事情が厳しい中で
さらなる無駄な『手数料』とやらも支払わなくてよいのではありませんか?
今後このような『Go To』キャンペーンの背後に蠢く
各種『利権』構造の実態が明らかにされていくのも時間の問題でありましょう。
ですから、こんな『手数料(手間賃)』を取る/取られるくらいで
むしろ経済活性化が遅延させられるくらいならば
中間『搾取』業者を入れずに
利用者とサービス提供者の直接的二当事者関係で出来る方法を
創意工夫によって取り戻せばいいのです。
お客様の直接のご意見を率直に聴き続け、
自ら提供するサービス内容改善に向けた努力を続けていくほか
『信用』回復の道はありません。
面倒くさいことを厭うてはなりません。
その意志こそがコロナ禍と冷たい政治によって
剥奪された人間同士の『愛を取り戻す』一助となるのですよ・・・と
いうことをお伝えしたいのです。
そもそも『<愛>とはかなり面倒くさい』ものなんです。
だからこそ、<愛>(情愛感覚/行為)を必要とせざるを得ない
人間同士の関係性も必然的に面倒くささを伴うものなんです。
そんなことは当たり前すぎるほどわかり切った話なのですが、
このようなことすら皮膚感覚でわからなくなってきているところに
今後の人類の行く末を想像するに不安を覚えるのです。
『非』接触社会になっても『仕事は回るんだよ、君』という方の意見も
確かに一理ある側面もありますが、
社会の『全面』で通用するものではないからです。
目に見えない者同士の不安感情を甘く見てはいけないのです。
『信用』で社会は成り立ってきたからです。
『いや、その<信用>計数こそ過去の仕事実績の集積(ビッグ)データを
活用すれば可能になるだろうよ、君。何を時代遅れなこと言ってんだよ。』と
反論主張されても、
その『再』反論としての
『人間は失敗しながら教訓を学びあらたな事業開発に役立ててきた』という
視点はいかがお考えになっているのでしょうかということです。
すべてを<信用>計数で評価判断する(いわゆる評価経済化)社会とは
『人間に今後一切の失敗を許さない』ということですよ。
そのような志向性では人間を過度に萎縮させることになります。
このような事態にまで進展していけば極度に保守的となり
新規事業や商品開発しようとする意欲も剥奪されていく一方だからです。
<アニマルスピリット(挑戦精神)>誘発の側面から見ても
弊害があまりにも大きすぎるのです。
言っているご本人自身、その意味をわかって言及されているのでしょうか?
あなた自身の仕事も一度でも<失敗>をやらかしたら
今後一切なくなるかもしれない可能性と
その恐怖(生活出来なくなる!?)とについて
一度でもご想像されたことがあるのでしょうかということですね。
何でもかんでも『非』接触型(非対面/<場合によっては>匿名)で
世の中をうまく円滑に回せると考えられているとすれば
いかに想像力が足りずに脳足りん(ノータリン)なのか逆に危惧します。
このような愚にもつかない安直な意見を提出出来る方は
もう少し『人間学』を真剣に学ばれた方がよいですね。
おそらく若い頃から軽い自己啓発本や各種ハウツー/マニュアル本、
サル(○○)でもわかるシリーズ本の類しか読んでこなかったのでしょうね。
このような『幼稚』過ぎるニセ大人が増殖し続ければ
次世代がさらなる悲劇に見舞われてしまうのです。
しかもその方々(具体的には○○の世代やバブル世代)が
かつて若者だった時代に社会に向かってしでかした『総括』すらすることなく、
今の社会を我が物顔で偉そうに切り回そうとするその傲慢な姿勢をこそ
心ある若者は怒り心頭の目で見ているのです。
みな大人だから我慢して冷笑気味に見ているだけですが、
心の奥底では今の社会指導層に対して理不尽さを感じているのです。
間もなく選挙ですが、まだ完全には目覚めていない世代かもしれませんが、
これ以上に残酷な社会へと導いていかれるならば
もはや誰にも制御出来ない『臨界点』が訪れることもありましょう。
それが歴史の本当の恐ろしさなのです。
『人間を廃人(暴徒)化させないためにも
今こそ接触社会を早急に取り戻さなくてはならない』
若者の方が瑞々しい感性があるからこそ、
社会の全面的<思考停止>化に懸命に抗うわけです。
あまりイライラしてもいけませんし、
そのこと自体が管理人の趣味嗜好でもありませんが、
本当に次世代の方々を同じ『人間』として愛おしく思えばこそ
『言挙げ』せざるを得ないわけです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
少しずつ頭を冷却させていきましょう。
ですから、読者の皆さんにもお願いしたいのは
常に『優等生(賢明な社会人/大人)ぶる』必要などどこにもないということです。
やはりどこかおかしいと感受したら声を上げなくてはならないのです。
『道徳』や『倫理』はもちろん大切ですが、
形式ばった杓子定規な規律意識だけを持たせようと意図した教育をしても
指導者自身がそれに反する行動をしていれば『偽善(面従腹背)』者を
大量生産するばかりなのです。
誠実に『道徳/倫理』を習得したいのであれば、
時に自らの『本心/本能(=人間を生かそう、生かそう・・・とする力)』に
忠実である方がむしろ『道徳/倫理』観は身に付くというものだからです。
あくまでも『教育とは<示唆>することくらいしか出来ない』とは
今は亡き優れた批評家の方も『遺作』の中で語り残されていましたが
管理人も年を追うごとに読み返す毎にそのような強い思いを
抱くようになりました。
その意味では社会的な『劣等生』の方が
『人間』として甦る可能性が強いのです。
『王様は裸』だと言える度胸を養って頂きたいのです。
ですから、そのように自認される方(管理人もですが)には
大いに自信を持って頂きたいのです。
『教育者は本当にあまり無理(無茶)なことは言わない方がよい』ということを
ご自覚頂きたく願います。
さて、あまり頭を「カッカ、カッカ」ばかりさせていてもよろしくないので
明るい話題へと転じていきますね。
先週あたり、頃合いを見計らいながらも
ようやく某ライブハウスで日頃応援させて頂いている某バンド様の
生(有観客)ライブにやっとこさ参加させて頂くことが叶いました。
何度も繰り返し語ってきましたが、
現在のライブハウス模様は本当に観客が戻ってくるようにと
ありとあらゆる努力を尽くして誠実に環境整備に
取り組んでおられます。
確かに本年初春(1~3月)あたりにライブハウスの
脆弱な構造が密集しやすい中での<クラスター(集団感染)>を
発生させたという報道が出たあとにも
一部のライブハウスでも再発させた事例もありましたから
敬遠されるお気持ちも管理人自身すら正直心の片隅にありますので
わかりますが、
目下の社会状況ではもはやライブハウスに限った話ではなく、
社会のありとあらゆる場所でいつ起きてきてもおかしくないということだけは
公平な目で注視しておかなくてはなりません。
ですから、特定業界だけを激しくバッシングして
生計すら成り立たせることが難しくなり、
場合によっては死にも追いやるような報道や言動は
慎んで頂きたいのです。
『我が身がもしその人の立場だったら・・・』を
常にご想像頂きたいのです。
そのためには是非とも身心を通じた情愛感覚を
体験して頂くほかありません。
『人間』にとっての情愛(操)教育とはその方法しかないからです。
そんな想いを強く持つ管理人は
万全の態勢を整えて参加させて頂いたのですが、
やはり一番目に焼き付いた光景は
ファンもアーティストもライブハウス関係者もみな
「演奏したくて、観覧したくて、サポートしたくて」
うずうずしていたのだなぁ~という印象しか
ほかに思い浮かばなかったのでした。
その某バンド様が歌い、奏でる音楽の世界観(コンセプト)が
まさに『宇宙と生命が絡み合う協奏曲』をテーマにした楽曲群たちでしたので
『涙』が満ち溢れてきたのです。
管理人がずっと昔にリクエストさせて頂いた
個人的に一番気に入っている演奏も難しく稀にしかお見せできない??という
楽曲も見事に再現されていました。
各メンバーの厳しい生活環境とご多忙の中でのスケジュール調整が難しい中で
事前リハーサルをひそかに積み重ねていらっしゃったことに感謝いたします。
ほんまに宇宙開闢の根源へと吸い込まれそうになるほど
魅入らされました。
ベートーヴェンではないですが、ほんまに『人間』に捧げる
<歓喜の合唱>を熱演されていましたよ。
対バンド数も多かったために公演時間も長くなりそうで、
なおかつ、そのライブハウスの『箱(収容可能状況)』自体も
ぎりぎり密着するかしないかの等間隔距離だったことも
正直に評価すれば感染リスクの懸念もあると覚え、
あるファンの方との前々からのお約束もありましたので
スケジュール上も最後まで参加することが叶わなかったことだけが
申し訳なく思うとともに気がかりが今も残り続けていますが
こればかりは個々の観客が感染リスクと厳しく向き合う責任をもって
判断していくほかないという点もライブハウスの現状だということです。
今は本当に双方にとって痛ましくつらい時期が続きますが
少しずつ状況が改善されていくことを信じて乗り越えていくほかありません。
何事もなく無事にコロナ禍下を乗り越えられることを願うほかないのです。
今週あたりからライブハウス以外でも各種イベント時の
入場制限が徐々に緩和され始めましたが
ほかの施設に入場される読者様も
緩和されたから『もう大丈夫だろう』とくれぐれも油断されることなく
楽しく観覧して頂ければと願います。
このような『けったくそ悪い』(大阪弁)状況がもうしばらく続きそうですが、
世の中を少しでも明るい方向へと転じることが叶いますように
みなさんも人生いつ終わりが来るかどうかわかりませんので
『楽しめる時に大いに楽しんで』下さいませ。
そのような悩みつつも参加出来た機会に
あらたな人間同士の出逢いがあれば何と素敵で幸せなことでしょうか?
人間とはつくづく『感情』の生物だと思います。
ですから、理不尽や不条理なことがあれば怒ったらええですし、
楽しいことや嬉しいことがあれば笑うたらええし、
悲しいことがあればさめざめと涙を流したらええんとちゃうやろか・・・。
大人や子供とか言う前にまずもって私たちは
『感情』の起伏激しい『人間』なんやから。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
それでは次にこのシルバーウィーク連休期間中に
久方ぶりに登山して清涼な空気を吸えることの歓びも
味わわせてもろた体験記について語らせて頂きましょう。
管理人は登山に行く時はどんなに馴染みある山でも
慎重に事前計画を立てて、最新のデジタル機器に極度に依存せずに、
アナログ機器も重視しながら時間に十二分な余分を持たせて出発することに
しております。
前日は某アーティスト様の配信ライブ放送を聴きながら
計画を練っていたわけですが、
『地図』を見るだけで気分がワクワクしてきます。
ちなみに管理人はドライブも趣味ですが、
カーナビよりも未だにアナログの『地図』を活用しています。
というよりも、自慢で恐縮ですが、幼少時より『地理』の成績が
抜群に良く、授業中でも退屈な時は『地図』か『読書』を
していたくらいの『地図』オタクですので、
日本全国隅々の状況が頭に記憶されています。
時代劇が幼少時から好物でしたから、
『地図』を見てはここに敵が来たら、
どこから<神出鬼没>すべきかとか
<陽動作戦>すべきかとか
サバイバルゲーム気分でかなり危ない妄想癖を想起させていました。
とはいえ、たとえ他人様の前で披露するには恥ずかしい妄想癖でも
想像力を養う知的訓練にはなりますから
笑えないのですよ、みなさん。
みなさんも誰しもこの種のオタク妄想癖はおありでしょう。
そんなわけで視聴時間も割と早めの開始だったことに感謝しつつ
早めに就寝することになりました。
約5時間ほど寝て早朝4時過ぎ起床。
シャワーを浴びて『禊ぎ(管理人にとって登山は単なる物見遊山行為ではなく
信仰そのものですから)』を終えて身心を整えたあと気象情報をまずは確認します。
『曇りのち晴れ』
敬愛する某バンド様の名曲の脳内BGMとともに
『決行』といたしました。
しかも、今回登らせて頂くことになる山は
前回始めて行った時に現地に着いた途端、雨が降り出し
(もっともその時は別のイベント参加の件もあり、
何にも増していちおう現地の下見は出来ましたので意義はありました。
その日はイベント参加と温泉に浸かるだけでしたが・・・。)、
急遽『中止延期』を決断したことがあったいわく付きの場所ですから
念には念を入れなければなりません。
後ほど語らせて頂きますように
その山脈地帯は日本でも有数の降雨量でも有名だからです。
コンビニで食糧2日分ほど調達して5時半過ぎ出発。
目指すは<関西のマッターホルン>こと神の山である
『高見山』です。
奈良県と三重県の県境にある遠目にもピラミッドのように
△にそびえ立つ雄々しい姿態に奮い立つのでした。
自宅からは車を走らせること約1時間半。
奈良県桜井市経由で大宇陀地域を抜けて東吉野村へ向かいます。
『天忠組』と『天武天皇』様ゆかりの
今はもの悲しい佇まいを残す小さな村ですが、
至るところに遺跡も点在する『小宇宙』村です。
河瀬直美監督の映画『東の狼』でも一躍有名となりました。
『ニホンオオカミ最後の地』
日本建国史にとっても、日本再興史にとっても
古来より支えてきた誇り高い方々が今も在住されている村です。
日本各地の<隠れ家>的山村地帯には
今なおこのような素朴純情な方々も散在しておられることに
感謝申し上げなくてはなりません。
現在は過疎地と過密地との格差がますます激しく加速していく流れにあり、
それぞれの地方自治体も消滅の危機にいかに対処していくかで
独自の知恵を出そうと踏ん張っている最中にあります。
このあたりの村々にも至るところに『山村留学』誘致の看板が
立ち並んでいました。
地方『創成』事業の総仕上げとして
現政権は<デジタル田園都市国家構想>まで打ち出してきています。
前にもご紹介させて頂いた大平正芳内閣が掲げた看板政策の1つが
この<田園都市国家構想>ですが、その趣旨はよくても
実際にどのような運営をしていくのかに当たって
『財源』問題も絡めた議論もすでに水面下で始まっていると聞きます。
その構想実現結果が『吉と出るか凶と出るか』は
中長期後の判断に待たなくてはなりませんが、
過疎地の方々にも
しかと公平にその恩恵が行き渡るように
都会人の視点だけで拙速に推し進めることなきよう
是非とも有識者には現在の過疎地事情を無視せずに
実りある政策論争を展開されることを願いたいものです。
管理人はいつも山岳地帯を縫うようにして走る
狭いいわゆる『酷道』で対向車や路肩(崖)崩壊による通行止めに
遭遇しないかとヒヤリハット体験をしながら祈るように
車を走らせることになるのですが、
小さい『軽』自動車ですら通行に厳しい箇所にたびたび遭遇します。
こんな時にバイクは便利だなと思うのですが・・・、
免許がなくて。
某ヘヴィメタル専門雑誌への投稿エッセー記事や
最近はユーチューバーとしても大活躍中でいらっしゃる
自らのアウトドア生活に関する情報提供をして下さっている
『人間椅子』のギタリスト兼ボーカリスト和嶋慎治さんにも
いつもこの点について考えさせられますね。
現行のバイク(自動二輪車)や電動自転車の進化版に向けて
エネルギー効率(省エネ対策)や安定した駆動エネルギー源の
安定確保を<自己完結型>で出来るような
近未来型交通手段の開発を企業のみなさんには
是非ともお願いいたします。
人家もまばらでエネルギー充填施設もなければ
某番組でのバイカータレント軍団ではないですが、
難儀することになるからです。
こんなところでJAFをひとり孤独に待ち続ける不安もあるからです。
通信連絡機器の電波送受信状態や電源量減少とともに
ますます不安も募りゆくからです。
そのまま乗り捨てて果てしなく歩き続けるほかない
決断を迫られるのがオチですが、執着心ある人間ほど
その決断には勇気も必要となってくるのです。
食糧残量や昼夜の寒暖差などにも常に怯え続けなくてはなりません。
私たち『文明人』と日頃は信じ込んでいる現代人も
このような極限状況に陥ると訓練していないと
途端にパニックに陥るものなのです。
また実際にこのような過疎地での通行体験があれば
いかに『交通インフラ』の整備が地方活性化のためにも
必要不可欠かと痛感されてきます。
このような山村過疎地帯では
いつ何時災害が起きて孤立地帯と化すかもわからないのです。
奈良県の山奥には今でもそんな箇所がいくつもあります。
夏から秋にかけては台風の季節でもありますから
都会に住む管理人も同じ日本国民『同胞』として
心配なのです。
そんなことをいつもドライブするたびに考えるのです。
今回登らせて頂くのは『高見山』ですが、
いくつかの登山口があります。
そのうち前回も下見して入浴させて頂いた
『たかすみ温泉』
こちらにカーナビ設定いたしました。
管理人の友人知人にも幾人かの登山愛好者がいるわけですが、
こちらの駐車場は広いので重宝されることが多いようです。
午前7時過ぎ着。
登山届けをポストに入れてから(皆さん、必ず登山の際には
油断されることなく届け出て下さいね。)、
登山靴に履きかえて、少し肌寒かったので上着も着用すれば
駐車場から登山口へと歩き始めます。
歩いてすぐの橋を渡れば家がありますが、
その家がある往路から見て左側に小さな登山口の案内標識が
ありますのでそこから登り始めることになります。
(以下はいずれも管理人撮影。)
少し歩けばこれから山頂までの案内表示をご紹介していきますが
上記のようなわかりやすい標識がありますのでそれを道案内役としながら
上へ上へと歩を進めていくことになります。
さすが『神武天皇』様ともゆかりある山らしく
管理人も『やたガラス』君たちによって迎えられ、
その鳴き声も楽しませて頂きながら歩を先に進めていくことになります。
渓流のせせらぎ音にも日頃疲れ果てた身心が癒されていくようです。
やがて小屋と鳥居が見えてきたら樹齢700年ともいう
『高見杉』に出逢うことになります。
そのまま歩を挙げていきますと
雑木林のすき間から美しい木漏れ日がお出ましになられました。
『高見山山頂まで0.8㎞』の案内標識が出てきたら
『杉谷/平野』の分岐地点に出てきます。
小峠の方に下っていくと旧伊勢南街道ともつながり、
反対側の『高見登山口』へと下山していくルートともつながります。
今回は時間の都合上と車で参上したこともあり、
往復路ともに『平野/高見山頂』間を駆け抜けることになりました。
途中の分岐地点では『クマに注意』看板も出ていましたので
鈴を鳴らして通行登山されますことをお願いいたします。
さらに歩を進めていきますと、『な、なんだ、これは!?』
『鬼滅の刃』でもお馴染みとなった<柳生一刀石>のような
奇妙奇天烈な岩石に出逢います。
これから山頂に続く道々でこうしたゴツゴツした岩石類が
連続して現れ出てくるにつれて急斜面かつ笹藪も両脇にあるような
一部わかりにくい道なりも出てきますので、
道に迷わないためにも踏み跡(石ころや木の階段などを目印に)を
眼下に見やりながらくれぐれも注意して進めて下さい。
特に滑りやすい箇所もありますので下山時には
安心せずにゆっくりと歩を進められんことをお祈りいたします。
こんなところで滑落したら大変な死活問題にも直結しますので・・・。
コロナ禍下の登山ならばなおさら出逢える人数も少なくなりますので
本当に慎重に歩を進めて下さいね。
さて、そろそろ『国見岩』の登場です。
管理人も畏れ多くも岩上からの眺めを堪能しようとしたのですが、
前に木が生い茂っていてあまり大和の国中(くんなか)を
見はるかすことも叶いませんでした。
岩肌もすべりやすそうで危険ですから
絶対に無理をしてはいけません。
そろそろと道に戻ります。
『ご神罰に当たらぬためにも触らぬ神に祟りなし』と。
次に『息子岩』です。
この標識にも人を誘惑に駆り立てる説明文が掲げられていますが、
このように下の斜面角度がきついので
わずかなケモノ道のようなものも見え隠れしますが、
くれぐれも好奇心に負けて下られませんようにお願いいたします。
さらに『揺岩』に遭遇します。
藤原鎌足や坂上田村麿にはこの種の伝説がつきもののようですね。
上写真のような木陰と雲海の景色を楽しみつつ歩を挙げていくと
『笛吹岩』に突き当たります。
下写真のような景色が出てきましたらもうまもなく目指す山頂です。
『あと一息だ、さぁ最後の気を引き締めて頑張ろう!!』
すると視界が急に広がり、山頂の祠(『高角神社』<霊峰:高見山>標識)と
360度の大パノラマが見渡せる展望台兼避難小屋が現れてきます。
午前9時30分頃着。
先に神様にご挨拶申し上げたあと、
祠右脇から続く歩道を少し手前に進み出たら
山頂の案内文で確認しながら
宇陀・曽爾の山並みを見はるかします。
写真では薄れて見えにくいですが
『国見山』方面脇にラクダの肩こぶのような
2つの突き出た山が見えていますが、
これがかの有名な<屏風岩>と<兜岩/鎧岩>です。
はるか先には『香落渓』や『奥香落渓』の渓谷とともに
右方面の高原台地のようなあたりに
これからのシーズンになりますと
ススキと地ビールで有名な『曽爾高原』が見えています。
ちょっと赤い屋根のような建物が密集しているあたりですね。
『倶留尊山』(要入山料)も見えています。
<日本三百名山>に数えられる1つ。
管理人も一度だけ家族とともに訪れたことがありますが、
風光明媚な場所でしたよ。
『大峰/台高/金剛葛城』山系の大パノラマは
関西人にとっていつも憧れの眺めですね。
とはいえ、憧れだけで眺めているわけにもいきません。
これらの山脈群は『日本中央構造線』地帯とも重なり合いますので
同時に恐るべき<魔の地帯>とも化すおそれがあるからです。
あらためて日本列島は自然災害がいつ起きてもおかしくない危険地帯だと
いうことにも気付かされました。
いつも静穏な『大和』であればいいのですが、
『龍神様』がお怒りになられることもあるのです。
特に今のような傲慢な政治姿勢を続けておれば・・・との
神様からのご啓示も預からせて頂きました。
自然界を前にしての<気付き>は大切です。
30分ほどこの雄大な景色を堪能しながら軽食を済ませますと、
正午までに下山したいので午前10時きっかりに
神様と来客のみなさんに御礼と軽く会釈しながら下り始めることにします。
台風上陸も間近で明日からは雨模様の連続日とも予報が出ていますので
台高山系の降雨量の激しさを畏れながら素直に下山していくことにします。
午前11時45分頃にふもとの『たかすみ温泉』に
無事戻ることが叶いました。
するとふもとの駐車場は朝来た時には管理人ともう一組の方だけの
駐車状態でしたが、そこそこに駐車量が増えていました。
登山前はコロナ禍のために少ないのかなぁと推測していましたが、
それなりの人数の方々が登られていたようです。
マスクはみなさん歩行中は苦しいので外されていた方々が
ほぼ大半でしたが、みなさんマナーをよく守られていたようです。
さぁ、『たかすみ温泉』で体の汗を流すとしましょうか・・・
前回来た時と違って、コロナ禍のため『入場制限実施中』とともに
露天風呂も『工事中』だったところに
午後のスケジュールも早めに切り上げて帰宅すれば
さっそくこの『報告書』を書き上げる作業や雑事も
積み重なっている状態ですのであまり長湯はせずに小休憩後、
車を走らせて次なる近辺の名所へ。
『白馬寺』と『名勝:投石の滝』と始めて目にする場所に向かいます。
地図を見ていてたまたまこの『白馬』に魅入ったのも
何かのご縁。
そうです、管理人は『射手座(ペガサス)』の住人。
しかも『水神(龍神)』様も祀られている。
さらに祖母がお世話になっていた曹洞宗ご縁のお寺とのこと。
弘法大師空海様ともご縁があるというそのお寺の境内には
颯爽とした風が吹き渡っていました。
この標識の真横に2台ほどの駐車スペースがあるばかり。
それでも先客や後続客が何名か
こんな知られざる奥地の山寺にまで訪れておられたようです。
それもご遠方から。
仏様に『般若心経』一巻をお唱えさせて頂いたあと、
ベンチでこの光景に見とれながら10分ほど堪能させて頂きますと
車中の人に。
県道28号線沿いに宇陀方面へ出て、桜井へと向かいます。
午後14時直前『大神神社』着。
久方ぶりに『大神神社』を参拝させて頂くことになりました。
ちょうど連休中でもあったために満車状態で
かなりの人出で賑わっていました。
イベント事などの入場制限も緩和されて、
そろそろ人々もこのコロナ禍に疲れた身心を癒そうと
積極的外出を始めている模様が垣間見られました。
それとも人々は新政権交代による先行き不安を
うすらうすら感づいているために
最後は『神頼み』ということなのでしょうか?
それぞれの胸中に秘めたる想いや祈りはわかりませんが、
このような参拝客動向を観察しながら
なにやらほっとするような一幕も感受されました。
我が国人の畏敬心 残されている限り、
『まだまだこの国の人情も捨てたものではない』と・・・。
午後16時過ぎ帰宅。
という慌ただしいスケジュールでしたが、
みなさんへの感謝と弥栄(いやさか)の祈りも込めて
代参させて頂きました。
多忙な中、更新までみなさんをお待たせしてしまいましたが
ここに今月書評とエッセー記事による近況ご報告を申し上げて
筆を擱かせて頂くことにいたします。
それではみなさん、またお逢いしましょうね。
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<参考文献>
記事内でご紹介させて頂いた文献のほかに
①『ガロアの群論~方程式はなぜ解けなかったのか~』
(中村亨著、講談社ブルーバックス、2010年)
②『群論入門~対称性をはかる数学~』
(芳沢光雄著、同上、2015年)
③『ガロアと群論』
(リリアン・リーバー著、浜稲雄訳、みすず書房、
2008年新装版第2刷)
※群論についてはこの本が一番簡潔(と言っても専門的論考箇所は
難しいですが)にまとまっていると評価いたします。
④『完全版 天才ガロアの発想力~対称性と群が明かす方程式の秘密~』
(小島寛之著、技術評論社、2019年)
⑤『なぜこの方程式は解けないか?~天才数学者が見出した
「シンメトリー」の秘密~』
(マリオ・リヴィオ著、斉藤隆央訳、早川書房、2007年)
⑥『シンメトリーの地図帳』
(マーカス・デュ・ソートイ著、冨永星訳、新潮文庫、2014年)
⑦『フェルマーの最終定理』
(サイモン・シン著、青木薫訳、同上、2018年28刷)
※⑤~⑦は一般向け啓蒙書でエッセー風に読みやすい内容と
なっていますので文系人にもお勧めさせて頂ける図書群です。
⑧『次元とはなにか』
(矢沢潔ほか、サイエンス・アイ新書、2011年)
⑨『<改訂版>哲学的な何か,あと数学とか』
(飲茶著、二見文庫、2018年)
※飲茶さんも最近わかりやすく難しい専門知識を
かみくだいて教えて下さる作家さんとして
一部には好評価されている方です。
⑩『知識ゼロでも楽しく読める!数学のしくみ』
(加藤文元監修、西東社、2020年)
※加藤文元先生は今この業界では精力的な啓蒙活動を
されている学者さんです。
特にこの本ではコロナ感染率に『正しく怯える』ための
役立つ知見が紹介されています。
<ウィルス感染は確実? 「陽性検査のパラドックス」>が
参考になりましょう。
⑪『<常聖翁遺訓>ツキの呼び込み方~運が悪いと嘆くだけの
あなたへ~』
(杉尾常聖著、主婦の友社、2009年)
※著者は元海軍特攻隊員にして戦後は学者として
様々な研究に従事されていた方です。
管理人にとっては小野田寛郎さんや
知る人ぞ知る『飛騨の仙人』研究者兼教師でもあられた
さる方とともに私淑させて頂いている賢者の方でもあります。
確かに自然体験を積み重ねていったり、
数多くの試練を体験していくと
別次元領域を垣間見る秘めた潜在能力が活性化するようです。
管理人もそのような潜在能力を安定させられるように
修行の日々ですが、まだまだ『邪念』が多すぎて
妨げとなっています。
悲しいかな、『浪花仙人』のことは<夢のまた夢>なのか?
嗚呼・・・。
⑫『野性的生活のすすめ~欠乏と飢餓の時代をのりきるために~』
(西丸震哉監修、徳間ブックス、昭和48年)
⑬『野外ハンドブック~大自然に生きる基礎知識~』
(西丸震哉著、光文社カッパホームズ、昭和47年)
⑭『東吉野ガイド』
(東吉野村役場刊行、2010年)
最後までお読み頂きありがとうございました。
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≪…①『普遍性』 ②『客観性』 ③『耐久性』 …≫で、
[数の言葉(自然数)]の[量化]を[人]が[数学思考](平面)する
[点・線・面]の[言葉の量化]の限界を[アウフヘーベン]している
[数世界]を≪…ラングランズ・プログラム…≫的に『HHNI眺望』したい。
本書に、≪…[円の定義は?」
「円は、平面上で与えられた点から等しい距離にある
点の集合です」
「間違い!」
「円は、平面上で与えられた点から等しい距離にある。
すべての点の集合だ」
…≫の問答がある。
これは、[平面]での[円]の[点・線・面]の[言葉の量化]の[限界]を『HHNI眺望』で[数の言葉(自然数)]の[創生]を≪…ラングランズ・プログラム…≫的に観てみたい。
ガウスの≪…数論は、数学の女王。…≫の「数論の最高峰 ζ の世界]と絡めて、ガウスの「驚異の定理」も含めて、
数学のシェーマ(符号)とその性質の[相互性]・[双対性]を観る。
[離散] [連続]
自然数 ⇔ ζ(1) (『幻のマスキングテープ』)
[大小関係]
[増加] ⇔ [減少]
自然数の順序性(増加) ⇔ 自然数の逆数(減少)
[数学思考]
[正比例](Y/X=1) ⇔ [反比例](YX=1)
[自然数]と[ ζ(1)の世界]の『HHNI眺望』
折り紙(正方形)の[対角線](Y/X=1)での[折り込み」で、
[自然数]と[ ζ(1)の世界]の[融合」から、
[直交座標]を手に入れる。
[数学構造]の『眺望』
現実界 冥界(数学構造)
自然数(分母[1]の分子の世界)⇔ 逆数(分子[1]の分母の世界)
[数学構造]の[作用素]としての[1] [0] の『眺望』
[論理] [関数]
[1]⇔[0] f( )=0として[∞][1」[0」を手に入れる。
無限級数の『眺望』の[メトリック]構造(解析接続)
[直交座標] [極座標]
自然数の二乗の和 自然数の逆数の二乗の和
[-1] ζ(2) π²/6
これの『HHNI眺望』では、[正方形]の[数学構造]は[普遍]
[-1] ⇔ [数学思考](平面)(時間)
正方形のベクトル的『眺望』(メトリック)
[直交座標]の基本面積 [極座標]の[円の面積]
√2 ⇔ 1×1 √π ⇔ π²
[点・線・面]の[円]の[1]での[保型形状は正三角形]の[6 個]分 [直交座標]と[極座標]の『HHNI眺望』
[人]の[形態空間(ニッチ)]からの[四次元までの意味構造]
を[ ζ の世界]と自然数とを結ぶ[夢想]は、
[球]の[数]や『自然比矩形』に触れてきた。
[点・線・面]の[数の言葉(自然数)]の成り立ちは、
[十進法の基における桁表示の西洋数学の成果の6つのシェーマ(符号)]からの『HHNI眺望』で観る自然数が、[円]と『自然比矩形』との[融合]の[数学からの送りモノ]として[再認識]するのもオモシロイ
≪…情動の哲学…≫の
≪…『楽しみって、幸せって何だっけ?』…≫を
「なぜ数学は人を幸せな気持ちにさせるのか」クラスティアン・ヘッセ著の
抜き書きに、
57 相対的な美の理論
美は、≪…「美=平均+対称+わずかだが目につく逸脱」…≫
とある。
59 数字と美に関する報道
≪…このオイラーの方程式は、数字の基礎をなす8つの記号の間の不可思議な関係を示している。
その記号とは5つの強力な定数0、1,i、2、πと、日常で使い慣れている、乗法、加法、同等を表す結合記号である。
exp[πi]+1=0
これは不可思議で謎に満ちた、しかも奇妙な命題である。
なぜなら、1つの虚数(i)が2つの無理数(e、π)と1つの自然数(1)とともに作用し、そこに何も生じない場合、何かほかのものになるはずだからである。…≫ と
≪…しかし、簡単なもののなかにも人を酔わせる魔法がある。
1+1=2 、これは筆者の個人的な意見による、もっとも魅惑的な方程式の候補である。 ・・・
1+1=2 ・・・ これが最初の一歩だった。
今日なお、幼い者たちには小さな一歩でなく、人類にとって目覚ましい一歩であった。…≫ とある。
思うに[数学思考]では、
前者は、[極座標]と[直交座標]の[メトリック]の『変換方程式』になり、
後者は、十進法の基での桁表示の西洋数学の成果の6つのシェーマ(符号)からの 2 への導きであると・・・。
なぜなら、2進法では、 2 ➡ 10 の表記になる。
キワメツケハ、
科学であり技術である
72 広告の効果テキメン に
≪…追伸:数学者は決して本当には馬鹿になれない。その知的生活の根本的特徴として常に自分の限界に向き合い、それを超えていかねばならない者、人生で最良の若々しい歳月に、日々自分自身についての勝利と挫折を味わって、感情が激しく揺れたり、多くは急変したりする者は、自身と思考と世界について何がしかを学ぶのである。
この学んだということが、人を内省的で控え目にする。
知ることのできない多くのことがあり、知ろうと思わない多くのこともあるとわかっているのだ、そしてそれでよいのだということも。
この知ろうと思わない能力が人を自由にする。…≫
とある。
何か、納得いくような、そうでないような 意味深な文脈である。
≪…数学言語(概念)操作…≫で、[0 1 2 3 4]の言葉が次元の言葉にもなれるのかを[1]においては、一・二」・三・四次元を言葉の文脈のなかでそれぞれの次元のコトとして認識できる。
[π]も[0 1 2 3 4]の言葉が次元の言葉にできるのを、みかんの⦅有田むき⦆の動作過程にその変身が、現れるコトに気付いた。
球(みかん)に球の数が、[π]の係数として、[1 2 3 4]があるが、
[π]の変身で、[形]を明示しているコトを[1]とインタラクトして出現している。
[1]は、静的ことばで動的にはカオスな[e]が帯同している。
[π]は、動的ことばで静的にはコスモスな[1]が帯同している。
帯同とインタラクトで、数の言葉(自然数)を観る。