近代哲学の原点から「科学の世界と心の哲学」を学ぶ!!本当に心は科学で解明できるか??

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昨今、「心はすべて科学で解明できる!!」という

極論も出されてきています。

しかし、本当に科学で心の問題を解決出来るのか?

17世紀のデカルトにより、

現代科学や哲学の土台が完成したと

言われるほど、大きな発見がなされました。

「我思う。故に我あり」

この言葉から「身心二元論」という

現代科学の基礎が始まったとされています。

21世紀に入り、ますます科学が発展する一方で

心の問題が軽視されてきています。

今回は、この本をご紹介しながら考えていきます。

「科学の世界と心の哲学~心は科学で解明できるか~」    (小林道夫著、中公新書、2009年)

小林道夫先生(以下、著者)は、デカルトと自然科学をテーマに

「科学と哲学の境界領域」を研究されています。

ご専門は、科学哲学です。

「果たして、科学は心の問題についてどこまで解明出来るのか?」

このビッグテーマを終生追究されてこられました。

21世紀に入って、ますます科学技術が革新されていく一方で、

人間の心の問題は軽視されていく一方のようです。

「なぜ、このような極端な乖離が生じてしまったのか?」

一度、整理整頓してみる必要があるようです。

科学によって心を解明出来る領域は、本当は限られているようです。

それは、17世紀の科学革命以来、

科学の研究対象や方法論に元々「限界」があったから・・・

だそうです。

その中でも、デカルト「我思う。故に我あり」という言葉は

近代をそれまでの社会と大きく切断したため、

その後の世界観を大きく変えたと言われています。

このいわゆる「身心二元論」というテーマは、今日でも全く

色あせていないようです。

「人間は世界内存在」ハイデガー

とされているように、人間と世界を切断して分析していく

科学的手法では、心の領域を解明するのは絶望的に困難なようです。

「心とは何か?」については、何も語ってくれなさそうです。

せいぜい「心(意識)の流れ(反応の仕組み)、働き」などを

物理的に説明しようとすることまでしか出来ていません。

それでも、相当な「無理」を重ねているように見えます。

ということで、「科学の世界と心の哲学」について

考えていこうと、この本を取り上げさせて頂きました。

17世紀の科学革命の意味について

古代ギリシアから近代に至るまでの「世界観」は

「素朴実在論」といって自然観察に基づいて

人間が一般的に経験出来る範囲でのものでした。

感覚・覚知のうえで納得出来る「世界観」

それが、アリストテレス以来の見方でした。

「始めに感覚の内になかったものは知性の内にない」

という「素朴な経験論」です。

もっとも、一方でプラトン的な見方もあります。

「抽象化した認識像」から世界の内に一般化したパターンを

発見しようとする「数学的思考法」です。

それでも、「数学的思考法」によって得られた像は「世界の内に

創造される」に止まり、経験を飛び越えた発想までには至りませんでした。

そうした「思考法の流れ」が続いたまま、やがて近代に至ります。

近代に至るまでにも、中世キリスト教社会における神学論争や

ルネッサンスにおける「人文思想」など、近代哲学の思考法の母胎に

なるような土壌はありましたが、今回はあえて触れないことにします。

17世紀を迎え、一人の哲人が現れます。

それが、デカルトでした。

「我思う。故に我あり」

この言葉ほど、その後の「世界観」を変えた思考法もありませんでした。

この短い言葉の中には、大きな問題が込められていますが

その点についての詳しい描写は、本書をお読み下さいませ。

つまり、ここから「人間の認識そのものと認識対象が分離」されていき

今日の「科学的思考法」の大本が完成したということです。

人間の感覚・知覚から離れた高度に抽象化された「世界像」

それを「数学的対象」としておきましょう。

数学的とは、「数量化もしくは計算(予測)可能」ということです。

ですから、観察対象はあくまで「数量化された事実」に限定されていく

ということです。

まとめますと、「数量化された事実」を対象に、「数学的思考法」でもって

仮説(理論)を最初に打ち立てて、実験観察の中で検証を加えながら

事後的に「感覚・覚知できる経験像」と結びつけるという構造が

「近代科学のモデル」です。

それは、何度も「再現可能性」に耐えるものしか認められないという

ことでもあります。

したがって、「一回限り」の事象やその実験観察の結果得られた事実についての

「意味づけや解釈、価値そのもの」については何も教えてくれないのです。

ここに「科学の限界」があるようです。

心は科学によって解明できるか??

前にも当ブログでご紹介しましたが、現在「脳と心の関係」

について科学者は解明に忙しいようです。

「人類最後にして最大の難問」が、「心(意識)問題」です。

しかし、現在までのところ「脳内の物理的な仕組み・働き」までは

何とか苦しい説明をしているようですが、肝心な「心(意識)そのもの」

については、まったく迫り切れていないようです。

なぜなら、「近代科学の本質は、いかに?」を探求するに止まり、「何、なぜ?」

という視点は研究結果からは直接得られそうにないからです。

著者も語っていますように、

ここでも、私たちの個人的経験の価値や視点(問題意識の持ち方・生き方)

など、日常生活における実践面については「科学的思考法」からは

こぼれ落ちてしまうようです。

「我思う。故に我あり。」

デカルトが、この短い格言の中に込めた「新たな世界像の提示」

には、このような深い意味もあるのだと、著者は教えて下さっています。

この「科学の限界から先」こそが、「哲学の領域」です。

つまり、想像力や物語設定能力の関わる領域です。

今回も、「科学の世界と心の哲学」の境目を探ってきましたが、

いずれにせよ、私たちにとって大切なことは、今現在

「科学には何が出来て、何が出来ないのか?」を知ることです。

そのことにより、過度な「科学信仰」から離れるとともに、

科学の成果を正しく享受する知恵も身に付いていくだろう・・・

ということであります。

皆さんも、「思考の限界」にチャレンジしてみませんか?

そこには、思いの外奥深い世界が待っていることでしょう。

なお、著者の別著として、

「デカルト入門」(ちくま新書、2006年)

をご紹介しておきます。

最後までお読み頂きありがとうございました。

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One Response to “近代哲学の原点から「科学の世界と心の哲学」を学ぶ!!本当に心は科学で解明できるか??”

  1. […] 前回のブログでも語ってきましたように、「自分と世界を切断」することに […]

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