横山紘一先生の「阿頼耶識の発見」を読み、唯識心理学を学んで元気になろう!!

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この世界は、一体全体どんな姿なのだろうか?

現代社会の思考法の大前提に「人間と世界の切断」が

あります。

この思考法は、便利なだけに厄介な存在でもあるようです。

前回のブログで、「我思う。故に我あり。」(デカルト)

をご紹介しました。

この近代に特有の「思考法」では、自我の存在が前提になります。

「果たして、自我は本当に存在するのか?」

「自我こそ、すべての迷い・錯覚の大本」

今回は、この本をご紹介しながら学んでいきます。

「阿頼耶識の発見~よくわかる唯識入門~」         (横山紘一著、幻冬舎新書、2011年)

横山紘一先生(以下、著者)は、学生時代は理系文系双方を

ご経験されているようです。

ご趣味は「武道(鹿島神流師範)」

理論面だけでなく、実践面からの探求も試みてみない限り

「理解困難(不能)」とされる「唯識思想」・・・

そんな著者だからこそ、難しいとされる「唯識思想」

私たちにも「わかりやすく」教えて下さっています。

現代社会は、西洋近代以来の「思考法」が厳しく問われているようです。

「一神教的世界観」

それは、私たちに「科学的思考法」という便利な思考法を与えてくれました。

しかし、その一方では「二元的対立思考」も生みだし大混乱を巻き起こしてきた

のも事実であります。

「世界平和実現は、己の心の弱さを認め、その働きを正確に知ることから・・・」

そんな時節柄なので、今回はこの本をご紹介しながら

皆さんとともに「心の平和の源」となる「唯識心理学」を共有していこうと

取り上げさせて頂きました。

唯識論と唯心論の違い

私たちを取り巻く現代の「世界観」の大本になっている

「思考法」が、冒頭でもお伝えしたデカルト的「身心二元論」です。

「我思う。故に我あり」

この後半の「我あり」から「自我が発見」されていったようです。

近代から現代に至る特有の病こそ、「自我」だったのではないか?

一応、そのように推定してみましょう。

後ほど説明していく仏教哲学でも「業の働き=自我」が問題になっています。

まずは、デカルト的「身心二元論」から導かれる結果としての「唯心論」を

考察させて頂きます。

前回のブログでも語ってきましたように、「自分と世界を切断」することに

より成り立つ「世界観」にはどうしても「不自然な世界観」が芽生えるようです。

自分以外の世界を「対象化」することは、同時に「他人との距離感」を生じさせます。

もっと、嫌なイメージを生む言葉でたとえますと、

ぶっちゃけ「他人を道具化」してしまうことになりかねません。

「自分以外の世界を対象化させて観る」とは、極論すればそういうことに

なってしまいがちです。

その思考法を徹底させた西洋哲学が「独我論」と呼ばれる「思考法」です。

「すべては、自分中心の世界観」だと・・・

この「唯心的思考法」は、あらかじめ「世界と切断」されていますので、

どうしても「独断と偏見」を招いてしまうようです。

なぜなら、「自我特有の働き」を謙虚に受け止めて「自分と世界の距離感」を

「再創造し直そう」とする契機が薄れてしまうからです。

それでは、この「自分と世界の距離感」について仏教哲学では

どのような解決法を提供しているのでしょうか?

つまり、「唯心論と唯識論の根本的違いとは何か?」

それが、次に問題となります。

仏教では、一般に「世界と自分の一体化(最終的には<無我>)」を

目指しますので、「自我を滅却する方向」へと視点を向けます。

ですから、自我そのものの存在は一種の「幻影」と見立てます。

つまり、「自我は明確な形で実在する」とは観ない訳であります。

「自我は、幻影だからその動きに惑わされるな!!」ということでしょうか?

では、どのようにして私たちは「自我から無我」に向かうのか?

その「心理的行程」を指し示したのが、今回ご紹介する「唯識論」です。

「我思う。故に我あり」から「我思う、ただただ思うのみ・・・」

「ありのままに存在する我=世界と一体化した我」です。

著者は、「唯だ識がある」というのではなく、正確には、

「唯だ識るというはたらきがあるのみ」というべきだと

語っています。

まとめますと、世界を対象化してしまう「識(名詞)」ではなく、

「識る(動詞)」という働きに注目して生きていこうということです。

「言葉(名詞)から動作(動詞)」へとイメージ変換していこうと・・・

森羅万象の幸せを願って・・・

そこで、著者はこの本を通じて「自我の働き」について

仏教哲学である「唯識論」では、どのような「心理的考察」を

加えているのかを説明していきます。

この本が好著なのは、「専門用語」を出来るだけ省いて

私たちが「心の内の働き」についてイメージしやすいように

描写して下さっている点にあります。

「唯識論」では、心の働きを8つの段階に分けて説明しています。

般若心経にも出てくる、6識(眼・耳・鼻・舌・身・意)という

「感覚と思考を合体させた表層心」と深層心にある「末那識(まなしき)

=自我執着心」と「阿頼耶識(あらやしき)=根本心」という構成です。

普段の日常生活では、あまりにも忙しい?ためか前6識でしか世界を観察

していないようです。

そのためか、「その場その場の本能的(刹那的)判断」を優先させて

心の奥底の働きに注意が十分に行き届いていないようです。

そこに「末那識」という迷いが現れ、無意識層の一番奥深いところに

ある「阿頼耶識に溜まった悪い記憶」が呼び覚まされるようですね。

阿頼耶識自体には、すべての善悪に関する記憶が貯蔵されていると

されています。

ですので、この部分だけを観察すると「中立的」のようです。

そのため、「良いことをしてもすぐに良い結果が現れるとは限らないし、

悪いことをしても悪い結果がすぐに現れる訳ではない!!」としばしば

言われるのも、この性質にあるようです。

でも、「油断は禁物!!」です。

無意識については、西洋心理学でもまだまだ発展途上ですし、

「何が飛び出して来るかわからない!!」という「おそろしさ」も

つきまといます。

だからこそ、「意識」して生きる知恵を学ぶ必要があるのです。

それが、「薫習(くんじゅう)」という考えです

「良い種まきを意識して行う」ことにより、

「悪い層に良い層を塗り重ねていく」ようなイメージを描いて頂ければよいでしょう。

それでも、「油断なりません!!」

どうやら、ここに日々の生き方に「厳しさが要求される」ようですね。

著者は、最後に宮沢賢治の詩を引いて「具体的なイメージ像」を

提唱されています。

「自分を勘定に入れず、先に他人を通す生き方」です。

これまでの、世界の見方は自分を単なる「観察者」とする視点に

問題があったようですね。

世界に積極的に参加する「関与者」という「世界との交渉の仕方」

ここに、もう一度「生きた世界観」を取り戻す秘訣があるようです。

「いま・ここに・唯だ・生きる」

これまで、仏教思想は隠遁孤独な世界像から「虚無感(ニヒリズム)」を

生み出すものと誤解され敬遠されてきたようです。

しかし、この「唯識論」を学ぶと、そんな「暗い仏教観」も退散するようです。

実は、空海も真言密教を大成させる前にこの「唯識論」を学んだそうです。

その見方は、後に「十住心論」に活かされました。

この辺りのことは、前にも当ブログでご紹介させて頂きました。

この唯識思想を深く学んでいくと「光り輝く豊饒の海」が現れると言います。

ですから、本来は「明るい世界観」なのです。

その正しい行程をいかに学ぶかにより、まさしく「心の働き方」が激変するようです。

どうですか、皆さんも「唯識論」ってどっかで聞いたことはあるけど、

「難しいし、怖いことにならないかなぁ~」なんて考えておられませんでしたか?

この本は、「唯識の正しい学び方」がわかりやすく書かれています。

皆さんにも日々充実した幸せな毎日を過ごして頂きたいと思い、

この本をご紹介させて頂きました。

最後までお読み頂きありがとうございました。

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3 Responses to “横山紘一先生の「阿頼耶識の発見」を読み、唯識心理学を学んで元気になろう!!”

  1. […] (「唯識論」については、こちらの記事もご一読下さると幸いです。) […]

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