混沌の時代には日曜日でなくとも「荘子」を読もう!!
いつの時代も未明混沌。
人類がこの宇宙に発祥してから世界が激変!?
人類は、よくも悪しくも「言葉」を持ってしまいました。
その時から、世界との分離が始まり「差別」が発生しました。
そのため、今日に至るまで世界中が大混乱。
人類は現在も「不安やおそれ」と無惨にも闘い続け疲れ果てています。
どうしたら「不安やおそれ」とうまくつきあうことができるのか?
そこんとこを「荘子」さんに聴いてみましょう。
ご紹介するのは、この本です。
「日曜日に読む『荘子』」 (山田史生著、ちくま新書、2007年)
「荘子」については、昨日ご紹介した「老子」同様に世には様々な訳書があります。
今回は、「荘子」解説書でも学者っぽくない?面白い解説書だと思いこの本を
取り上げてみました。
なお、本書は「荘子」のうちで一番荘子らしさが出ている内篇(7つの篇(章)からなっています)。
その中の「斉物論篇」のみを主に論じております。
ちなみに、「荘子」は全体で33篇ありますが、この内篇だけが荘子本人の手によるものだと
されています。
本のタイトルは、「日曜日に読む~」とありますが、あまりこだわらずに日々疲れた時に気軽に読んでいきましょう。
常識を揺さぶってくれる「荘子」
~昔者(むかし)、荘周(荘子のことです。名を周といいます。)、夢に胡蝶と為る。
(中略)知らず、周の夢に胡蝶と為(な)るか、胡蝶の夢に周と為るか。
周と胡蝶とは、即ち(すなわち)必ず分あらん。此(こ)れを物化と謂(い)う。~
(読み下し文は、岩波文庫版『荘子』(第1冊~第4冊)金谷治訳注によっています。)
有名な故事成語「夢に胡蝶となる」です。
荘子といえばこの言葉が思い浮かぶほど有名なエピソードでもあります。
さて、「荘子」は昨日の「老子」同様。
「世間一般の常識を揺さぶってくれる」
そんな所が多くの人々の魂をくすぐってきたのでしょう。
とりわけ混沌とした世の中。
人々は、人生の方向性や人間関係などのつまずきから「不安やおそれ」にさいなまれます。
そんな困難に遭遇した時に「荘子」を紐解くと様々な「生きるヒント」が得られます。
「視点をずらすことの重要性」
「ユーモアをもつことの大切さ」など、
生きる原点に連れ戻してくれます。
「人はなんのために生まれてきたのか?」
うまく生きていくには、「目的や意味をもった方がいいのか?」
時に人は、その「目的や意味を見つけよう」とするところに「無理が生じる」のではないか?
「荘子」は、私たちにいろいろと語りかけてきます。
普段なにげなく感じたり考えていることも実は根拠など何もないのかもしれないよ。
そんな風に聞こえてきます。
確かに、私たちはこの世界で肉体をもっています。
そのため、混乱しないようにするため「言葉」を発明したのかもしれませんね。
しかし、その「言葉」をもってしまったこと。
そのことが、かえって様々な障害を引き起こしています。
「無為自然=あるがままに生きる」
「難しいなぁ。」
思わず心の声をつぶやいてしまうでしょう。
でも、「それでいいのだ。」と、「荘子」は語り続けます。
固定観念をずらして柔軟に見つめてみましょう!!
私たちは、「言葉の便利さ」と引き替えに「差別や区別」という「不自由」
を同時に抱え込んでしまったようです。
「荘子」は語ります。
「不自由こそ自由になる第一歩だよ。」
いわく「自由だ。」「不自由だ。」
そんな二元論でこの世界を解釈するのはよそうぜ。
元々は、宇宙開闢の時には「未明混沌」としていたじゃないか。
だから、そもそもこの世界における現象に差別や区別などないのじゃ。
それこそ世迷い言じゃて。
そんな風に聞こえてきます。
「未明混沌とは、陰陽のまじわり・未分化の状態」
「一つの現象を様々な角度からいじって混乱しているだけじゃろ。」
世界の見方は、もちろん人それぞれです。
しかし、一つの視点に縛られてお互い一歩も譲らない。
そんなことだけは、避けたいものですね。
「差異を強調するよりもお互いの共通点を見出す」
そのような努力を積み重ねていきたいものです。
「日曜日だけでなく日々の生きる姿勢を見つめ直してみたい。」
そんな思いに駆られた時には、是非「荘子」を友達にしてみませんか?
きっと、笑顔で応えてくれるでしょう。
最期までお読み頂きありがとうございました。
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≪…「差異を強調するよりもお互いの共通点を見出す」…≫とは直接関わらないのですが、
≪…「道元」に学ぼう…≫のコメントは、コピペ操作によるものです。原本では、
《「数学と仏教の意外なつながり」の原久夫先生》ですが、《「数学と仏教の意外なつながり」の原久夫先生》となり 《》が脱落しました。なんでかしらないが、コンピューターか、それとも他の何かかわ、わかりません。
いずれにしろ、《》に触れる機会と観、《有明山神社の『⦅自然数⦆製造機』》の御託を、
「吾唯足知(ワレタダタルヲシル)」
「吉呼員和(キチヨンデカズワス)」
これの⦅自然数⦆の『縮約(縮退)自然数』的な[見解]です。「吾唯足知」の満足度の[1]は、
[一次元]的には、 0.632120・・・ 0.367879・・・ → 0.999999・・・
[1-1/e] [1/e] → 1.000000
[二次元]的には、 0.718281 0.281718 → 0.999999・・・
[e-2] [3-e] → 1.000000
いずれも、[カオス表示]を[内在秩序]化した[1]と観る事に生る。
『⦅トポス⦆写像の[変容]』の[カオス表示]は、
n=0
1.000000 1.718281・・・ 2.392211・・・ 4.110493・・・
(e – 1) (e – 1))/ (e – 2) ((e – 1) * (e – 1)) / (e – 2)
n=1
0.367879・・・ 4.670774・・・ 2.392211・・・ 4.110493・・・
(1 / e) (e * e) – e (e – 1))/ (e – 2) ((e – 1) * (e – 1)) / (e – 2)
n=2
0.135335・・・ 12.696480・・・
(1 / ( e* e) ) (e * e* e) –( e* e)
・・・・
n=13
0.000002・・・ 760 190.892・・・
n=14
0.000000・・・ 2 066 413.09・・・
『⦅トポス⦆写像の[変容]』が、『ヒモ化』して行くのを観る。
これは『⦅モナド⦆写像』の『創発エネルギー』(e – 1)に[オイラーの等式]で『⦅トポス⦆写像』に置き換え[直交座標]の時間軸(横軸)をeの累乗で『還元』(回帰)させる[循環数n](サーカディアン数)が『⦅モナド⦆写像』にもどし[数学共同体]の⦅自然数⦆が[構築]し・されていると観る。
梅原猛のレクイエムの年にあたり、
パスカルの《無限に大きな宇宙と無限に小さなもの》 と
ライプニッツの《一つの個体、モナドは無限に大きな全世界をやどす》 の[思想]を華厳経の
《一なものはすべての中にあり、すべては一なるものを宿す。》に、
梅原猛の≪無限についての神秘的な思弁 ― 華厳経と西洋思想≫の言及は、
ライプニッツの「理性に基づく自然と恩寵の原理」の《モナド》を、
≪…巨大な大仏の一つ一つの連弁には、また一つの巨大な世界があると華厳経ではいうのである。…小さな蓮台の含む大きな世界のその小さな蓮台の一つにまた、先と同じような大仏の世界があることを思え。…≫(華厳経の無限論)に、
見立てた梅原猛にはすでに[入れ子構造]を捉え《モナド》の[やどす]ものを見据えていて、この[やどす]のを『自然比矩形』に[同定]できようことに到達していたのだと思う。
≪…周と胡蝶とは、即ち(すなわち)必ず分あらん。此(こ)れを物化と謂(い)う。…≫を、
[高階述語論理]を[具備]した[言葉](言語)として⦅自然数⦆を≪…胡蝶…≫に観る。
n=3 ~ n=12 コピペ操作不可 でした。
《吉》が、またまた消えます。