挫折・絶望!?それじゃぁ「道元」に学ぼう!!

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「もう、あかん。絶望するわ。」

「なんども挫折して気が滅入るわ。」

人生には、山ほどそんな機会が訪れますね。

そんな時には、道元の声を聴いてみませんか?

「でも、道元って気難しそう!!」

「禅ってなんか辛気くさいなぁ」

そんな風に思っておられる方も多いでしょう。

そこで今回はこの本をご紹介しましょう。

「絶望しそうになったら道元を読め!~『正法眼蔵』の「現成公案」だけを熟読する~」                  (山田史生著、光文社新書、2012年)

「道元」といえば、鎌倉時代に活躍した禅のお坊さん。

「確か『永平寺』にゆかりのあるお坊さんじゃなかったっけ?」

「なんか厳しい座禅とかありそうやなぁ?」

そんな「永平寺」の質実剛健な気風から、生真面目なイメージがしますよね?

でも、生真面目だからこそ「生きるヒント」をいろいろ考えてくれているのです。

時にユーモアも交えて。

「『正法眼蔵』といわれてもなぁ?いまいち難しいし。」

私も、全部は読みこなせていません。

かなりの分厚さですしね。

そんな時に頼れる助っ人。

先日もご紹介した「山田史生先生」のお知恵を拝借しましょう。

ものの見方ってどうなってるんだろう?

この本では、「道元思想」のエッセンス『正法眼蔵』の冒頭「現成公案」を解説しています。

~仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。

自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心

および他己の身心をして脱落せしむるなり。(以下、省略)~

一度お読みになった方なら、この文章をご存知かもしれません。

「どうして、人はたびたび錯覚してしまうのだろうか?」

「自分と他人の世界観にズレがあるのはどうして?」

人間関係で誤解が生じた時などに悩んだことってありませんか?

「そもそも自己って本当にあるの?」なんて、若者なら一度は「自分探し」に

はまったことのある方もいるでしょう。

「仏教ってその『自己』とやらを滅却して悟りを求めるものやろ?」

こんなイメージをなんとなく持ってしまいますよね?

でも、「道元」さんは『自己』なんてあるようでないよ

「言葉の錯覚」にひっかかっているだけでは?

自分と他人(世界)との間に境界線は、本来ない。

「自分は他人の鏡」「他人は自分の鏡」

そんなイメージを難しくして「諸法と仏法の関係」を論じています。

でも、この「現成公案」には「花鳥風月という自然」をたとえに、

私たちがなんとかその難しい所をイメージしやすいように一生懸命伝えようと

しています。

少なくともその気配は十分伝わってきます。

私たちは、どうしても自分中心に世界を解釈してしまいます。

「どうして、言葉が通じないのか?」

おそらく、「言葉」自体に限界がある。

つまり、自分自身の認識能力に限界があるのではないか?

そんな風にも考えてしまいます。

では、なぜひっかかるのか?

「言葉」によって「世界」を切り分けるという中で、矛盾衝突が

起きてしまうのではないか?

それなら、どうすればすっきり世界と仲良くなれるのか?

「道元」さんは、「生きるヒント」をこんなイメージをもって

教えてくれているのだと思います。

「絶望」したっていいよ!でも、正しく「絶望」した後は人生を楽しもうね。

「自分と世界(他人)の間を分別せずに素直にあるがままに生きる」

私は、そのように理解しました。

禅語によくある、

「徹する」

「三昧の境地」

「大死一番!!絶後に再びよみがえる!!」

これらの言葉は「自分と世界(他人)を一体化」することによって、

「人生の難局」を乗り越えるイメージを指し示しています。

「絶望」とは、まさに「希望を絶つ」です。

でも、皆さんはもう大丈夫です。

こう読んでみましょう。

「大死一番(絶望したぜ)!!絶後に再びよみがえる(でも、どん底からよみがえったぜ)!!」

ですから、「絶望(どん底・闇)の先には、希望(光)がある」

そう信じましょう。

おそらく「生きた思想」とは、最後は「信じること」によるのでしょう。

もちろん、納得できるものじゃないと消化不良になりますよ・・・

現代社会は、頭を使って身体をあまり使わせない仕組みになっています。

だからこそ、「自分と世界(他人)」との距離感をつかむのが難しいのかもしれませんね。

「道元」さんは、こうも言っています。

「悟りなんてなくてもいいのじゃ。」

「何も考えず一心不乱に人生を真剣に生きておれば、それすなわち悟りじゃよ。」と。

皆さんも、是非「山田史生先生」をナビゲーションに「道元」さんの声を聴いてみましょう。

きっと、「ものの見方」に変化が生じて、多少なりとも生きやすくなるかもしれません。

最後までお読み頂きありがとうございました。

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2 Responses to “挫折・絶望!?それじゃぁ「道元」に学ぼう!!”

  1. 1729 akayama より:

     ≪…「現成公案」…≫的に【数そのモノ】について[メタ数学]にお付き合いいただき一年です、ありがとうございます。
    先の、「モナドロジー 他二編」ライプニッツ著谷川多佳子・岡部英男訳 の訳者あとがきに、
    ≪…(もしライプニッツが現代に生きていたら、インターネットやSNSを駆使していたかもしれない)。…≫ とあり、それに似たような事をさせていただいています。 

     ライプニッツの理性に基づく自然と恩寵の原理の[止揚]として、『《モナド写像》』・『《トポス写像》』について、【数そのモノ】の[イコン化]で観、「数学と仏教の意外なつながり」の原久夫先生の≪…真も偽も証明出来ない命題は,それをこの体系の公理に付け加え…≫を
    「形象と時間 美的時間論序説」谷川渥著 チャールズ・サンダース・パース
     記号の様態の表 
                    第一次性   第ニ次性   第三次性
    記号それ自体のあり方      性質記号   個別記号   法則記号
    (qualisign) (sinsign) (legisign)
    その対象との関係における記号  類像 指標 象徴
    (icon) (index) (symbol)
    その解釈項との関係における記号 名辞     命題     論証 
                    (rheme) (dicisign) (argument)

     この表に、数字記号、西洋数学の成果の6つのシェーマ(符号)、類像(icon)を割り当てて≪…体系の公理に付け加える…≫と観る。

           1 0     2 3 4 5 6 7 8 9   0 .(小数点・桁) +-×÷
     
     ちいさなふくらんださんかく   [1]の指標       ながしかく(『自然比矩形』)
     へこんださんかく                     ましかく(正方形)
     つるぎがた                        えん(円) 

    i(直交) ∞(連続)e π   =(等価) 次元 時間     存在量化(∃)   

    ≪…パースは、第三次性から第二次性へ、さらに第一次性へ、という方向を「退行」(degeneration)…≫との事を、【数そのモノ】の生りたちとして≪…この表…≫で見て取れる。

     この表の[特性]を具現化したのが、『⦅モナド⦆写像』であり、[次元]を取り込めば『《トポス》写像』として『創発直方体』の[変容]による[ヒモ]化への[兆し]が[眺望]できよう。

    なお、『創発直方体』は、『創発立方体』と呼んでいたが具体的なイメージから『創発直方体』とする。

    あと余談で、≪…「現成公案」…≫的に、
    ⦅自然数⦆の[和]の無限(ゼター関数)が、数学の思考と言う時間(-)から[時間軸]に[-1/12] 
    ⦅自然数⦆の[積]の無限(ガンマ関数)が、[心月孤円光呑万象]として[円]に[同定]
    ライプニッツの公式の[π]と⦅自然数⦆の[無限]表示(極座標と直行座標の関係)
    ≪…ラマヌジャンの何かの機会に使う式…≫の『自然比矩形』と⦅自然数⦆の[無限]表示 
    有明山神社の『⦅自然数⦆製造機』 

    SNSの長谷川裕子著「キュレーション 知と感性を揺さぶる力」をお借りして『用語』をまとめさせていただきました。  

    双龍天翔さんとの[邂逅]で、『書評の鉱脈をジャイロスコープする。』ことができ、 
    ≪…「絶望(どん底・闇)の先には、希望(光)がある」…≫ 的に
    戯れ言葉(至言?)を[呈示]してき、その[傍証]に≪…ジャイロスコープ…≫などにより沿って来られ感謝している。

    さらに[引用]を、「量の測度」アンリ・ルベーグ著 柴垣和三雄訳の、
    ≪…純粋数字と応用数学との間に離婚…≫との事を、
    アケイロポイエートス(Acheiropoietos)な『自然比矩形』(『⦅モナド⦆写像』)や『創発直方体の変容』(『《トポス》写像』)に 『純粋数字と応用数学との間に再婚』 との『方向性』を[コスモス表示]の【2 3 4 5 6 7 8 9】と西洋数学の成果の6つのシェーマ(符号)【0 1 e π ⅰ ∞】(カオス表示)そして、四則演算子【+ - ×÷ =】(記号)と桁表示 【 . (小数点) ・・・ (表示)】
    などの総合的な受け入れ(無矛盾性)である。

     [高階述語論理](存在量化)への【数そのモノ】(言葉)の道(タオ)に生っていくのでは? 

    [生命科学]の[哺乳類]の[長]として、またまた山極寿一先生の引用を、

      ≪科学季評 人間だけが「考える」のか 自然が持つ主体性とは≫に、
     ≪…フォン・ユクスキュルは『生物から見た世界』で、それぞれの生物種によって環境は異なるとして、「環世界」という概念を提唱。
    和辻哲郎は『風土―人間学的考察』の中で、人間にとって文化と自然は切り離せず「風土」として一体化すると唱えた。
    西田幾多郎は『論理と生命』を著し、主体と客体、全体と部分を分離せず、直観的に全体を把握するのが生命の本質であるという。
     今西銀司は『生物の世界』で、環境と生物種は相互に影響を与えあって「生活の場」を作っていると考えた。
     どんな生物であっても、その環境に主体的にかかわることによって環境を取り込み、同時に環境に取り込まれている。人間にとっての風土は生物にとっての環世界である。つまり、これらの思想はみな「自然は考える」とみなしていることになる。…≫  

      【数そのモノ】(言葉)は、≪…「自然は考える」…≫ に通じている。 

    20190821 19;19 

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