篠原資明先生の「ベルクソン~<あいだ>の哲学の視点から」「盲目的」から「創造的」な生への意志を志向する人間哲学!!
「ベルクソン~<あいだ>の哲学の視点から~」
詩人としても活躍されている異色の哲学者である
篠原資明先生が、独自の<あいだ>哲学を構築される
原点となったベルクソン。
その独自目線で解説されたベルクソン哲学入門書です。
現代文明が豊かになる一方で、
人間生命が希薄にされていく傾向にあります。
「盲目的」から「創造的」な生への意志を
回復させるためには・・・
今回は、この本をご紹介します。
「ベルクソン~<あいだ>の哲学の視点から~」 (篠原資明著、岩波新書、2006年)
篠原資明先生(以下、著者)は、詩人でもある異色の哲学者です。
ご専門は、哲学・美学とのことで、
ご出身は、香川県。
香川県ご出身という生育環境から、
若い頃より、弘法大師空海さんの「宇宙マンダラ」の
世界観に憧憬してこられたようです。
現在は、郷里の高松市美術館の館長も務められています。
なお、2016年の本年は、
「瀬戸内国際芸術祭」の節目の年でもありますので、
四国方面へお出かけのご予定があり、
お時間と若干の金銭的余裕がおありの方には、
是非、上記美術館の方へもお足を運んで頂けると
館長ならずとも、紹介者として幸いであります。
そんな著者が、
独自の<あいだ>哲学を構築されていった原点には、
いいます。
フランスの哲学者であり数学者でもあるベルクソンは、
宇宙時空間内の「美的意識」を表象するための
数学的技法の発展にも寄与してきたことは、
あまり知られていないようです。
日本では、<生の哲学>といえば、
ショーペンハウアーの「盲目的意志」や
ニーチェの「超人的意志」などに話題が集中する傾向に
あるようですが、これらのドイツ観念哲学論的世界観は、
皮肉なことに、厭世観や虚無観をもたらしたようで、
壮大な誇大妄想体系へと悪用されるなど
20世紀の世界的価値観を大混乱に陥らせました。
「一切の価値の転倒」というのが、ニーチェなどに始まる
現代思想哲学の根底に流れる「反<真理=形而上哲学>」を
形成していますが、ニーチェの思惑とは異なり、
あらぬ方向へと進展しつつあるように思われます。
戦後のドイツ思想哲学は、「批判理論」に偏りすぎ、
また、ベルクソンの祖国フランスでも、本来の「生の充実感」を
回復させるための探究哲学だった「実存主義哲学」も目的から外れ、
複雑化してきており、
かえって、「生の希薄化」現象を招き寄せてきたようです。
このような20世紀初頭に始まる「一切の価値観の転倒」は、
21世紀現在にまで持ち越されてきた<哲学的精神病理現象>だと
思われます。
<哲学>の本来の意義は、「<より良く>生きること」を通じて、
「<より良き>社会の構築と共有」にあったはず・・・
そのような問題意識から検討してきた管理人でもありますが、
著者の問題意識の根底にも、共通する要素があることから、
かねてより、現代思想哲学の再検討という課題を個人的にも
探究してきた過程で、<生の哲学者>の系譜に属するベルクソンに
出会うことになりました。
その出会いの過程は、後ほど、本文内でも、
あらためて詳細に語らせて頂きますが、
何はともあれ、ベルクソンの独自性は、
『われわれはどこから来て、何であり、どこへ行くのか??』という
人類にとって、最大の重要テーマに徹底して取り組んできたところに
あるようです。
そのベルクソンの<生の哲学>も生成発展の途上にあります。
つまり、私たち現代人一人ひとりに託されたベルクソンからの
「宿題」だということです。
ということで、現代文明の表面的豊かさと引き換えに、
人間の「生命」が希薄化され、
個々の「生命」が軽視されていくような時代風潮に憂慮の念を抱くとともに、
皆さん一人ひとりの「かけがえなさ(生の固有性)」を何度でも
人生の節々に再検討して頂くヒントとなる<生の哲学>として、
この本を取り上げさせて頂きました。
宇宙時空の<あいだ>を徹底的に問いつめていったベルクソン
ベルクソンの多大な功績の一つに
「<生命>の時間」をそれまでの体系化志向にあった
「観念論哲学(つまり、<生命なき>死んだ、
もしくは、死につつあった哲学)」に
取り入れるなどして、徹底的に脱構築していく道を
選択していったことがあります。
このような大変魅力あるベルクソン哲学ですが、
管理人の力量では、簡潔に要約できることも難しく、
その概要を摘示するだけでも「精一杯・・・」では
ありますが、今回、最適な解説書を探し求めていた際に、
著者にも出会うことが叶いました。
毎度のことですが、
人生の幸運的不思議の一つに、
「<出会い>という縁起(まさに、縁の始まりのこと!!)」が
ありますが、その縁結びの原動力にも、
日々の問題<意識>が大きな影響を及ぼしているようです。
前回のテーマでもあった『心はすべて数学である』との共通項でも
ありますが、
この宇宙時空間(<あいだ>)には、
「やはり、隠れた<独立変数>がある!!」ようですね。
このような不思議な世界を知りたい一心から、
管理人の学問への飽くなき意欲的挑戦もあるわけですが、
著者自身も、自己と世界を取り巻く<あいだ>の不思議を
探索されていく過程で、独自の<あいだ>哲学と
<あいだ>と<あいだ>を縁結ぶ「交通論」の視点から、
著者独自の立場を、
『ベルクソンを出発点とするものだったが、この立場を展開するうち、
めぐりめぐって、ふたたびベルクソンにたどりついたのである。』
(本書<はじめに>ⅲ頁)とされています。
近現代哲学は、古代中世の「森羅万象的世界観」から
徐々に脱皮しながら、その諸相を細部にまで切断しながら、
分析考察する学問的方法論から「分裂化」していったところに
原点があります。
中世哲学も、これまでの「暗黒的見方」から、
近現代を切り開く準備を用意したことから、
最近では、多くの学問分野で見直されているようです。
この流れの変化から、
従来の「中世から近代にかけての<架け橋>」ともされてきた
「ルネサンスの世界観(人間中心論)」も再検討される過程にあります。
かつて、「<哲学>は、<神学>の下僕」(トマス・アクィナス)と
される時代もありましたが、
その後の哲学史的展開では、
この「正反対」に動いていったようです。
その原動力には、ルネサンス以後の「科学精神」の勢いもあります。
古代中世哲学では、上記のような「森羅万象的世界観」を重視する姿勢から
「目に見えない<形而上学>的世界」を探索することが許容されていましたが、
曖昧模糊とした<形而上学>的世界観に代わる
人間が、「目に見える」範囲での<経験論的形而下哲学>へと
「蒙を啓く」啓蒙主義の時代へと移行していくことになりました。
それは、人類の「知性」面における整理整頓期でもありました。
その「啓蒙主義哲学」的世界観が、近現代科学を生み出し、
現代人に多大な恩恵を与え続けてきただけに、
現代思想では、「反近代論」が主テーマではあるのですが、
「おいそれと」そんなに簡単には、追放することも出来ません。
このように、近現代哲学思想では、
「形而上哲学」に対する評判は著しく良くない傾向にあります。
それは、曖昧模糊とした古代中世的な「神秘的世界観」の放逐にも
つながりました(確かに、現代でもオカルト的世界観の有害な側面には
十二分に注意を払う必要がありますが・・・)が、
その「神秘的世界観」をただ「追放」する視点だけでは、
かえって、そのオカルト的世界観への依存度を高める結果に
なってしまうようです。
著者も、そんな危機意識から、近代哲学が『神は死んだ!!』(ニーチェ)と
叫びながら、放逐していったツケが回ってきており、
このような現状に対して、
現代の哲学者が、真摯な回答を提示することが出来なければ、
さらなる大混乱を、
世界にもたらすだけではないかとの憂慮の念を抱いておられます。
(本書<はじめに>ⅳ頁ご参照のこと。)
そんな現代哲学者の大多数が逃げている最重要問題こそ、
本来の哲学者が「取り組むべき課題」だとして、
著者も、ベルクソンを手がかりに、
これまでの哲学的限界(常識)を乗り越えていくヒントを提出されています。
さて、ここで、著者自身の問題意識をご紹介させて頂いたところで、
本書の要約と諸考察に入るまでに、
今度は、管理人とベルクソンとの出会いについて、
若干程度語っておきます。
ベルクソン哲学は、しばしば、<生の哲学>の系譜に属するとは言われるものの、
狭義の<生の哲学>の部類には入りきれない要素を多々含んでいます。
管理人自身の哲学的考察の原点にも、
思春期特有の<生の危機>感から始まっていますが、
(ちなみに、管理人の原点は、前にも触れさせて頂いたことが
ありますが、『ハイデガーの思想』(木田元著、岩波新書、1993年)を
本格的な哲学入門が始まっています。)
その高校生時分には、その頃の風潮であった
フランス現代思想でも、とりわけ、ソシュールなどの
言語的「記号」論が、大学入試の評論素材でもあったことから、
哲学界の王道に鎮座していたようです。
この時に、管理人が、自らの「身体感覚」を伴った哲学的問題意識から
「哲学入門」せずに、教科書的世界から「哲学入門」していたとするなら、
イヤになって、思索も「中途放棄」し、今生においては、
一切、哲学とは無縁の人生を送っていたかもしれません。
その意味では、哲学とは、「自らの人生体験と実感を通じた縁」が
必要だということになるようですね。
そのような入門期から10~20代半ばまでは、
「実存主義哲学」と
「功利主義的プラグマティズム(実践哲学)」で
何となく処世してきたような感もあるのですが、
どこかに行き詰まり感を抱いていたことも否めません。
つまり、<通俗性>が強すぎて、世俗的な「成功哲学(自己啓発)」論の
匂いも感じられ、胡散臭さを嗅ぎ分けることにもなったからでしょう。
ある程度の「社会人」生活も経て、
再び、30代前半あたりに、「生の危機」感を迎えたのでした。
この人生における転換地点から、
管理人独自の「文系的世界観」に偏った
人生観・世界観からの脱却の旅が始まったようです。
ちょうどその数年前あたりから、
数学者の岡潔先生の復権が始まったこともあって、
この時期に「再読」してもいた『日本の国という水槽の水の入れ替え方』
(岡潔著、成甲書房、2004年:ちなみに、この本は、
<本のソムリエ>で有名な清水克衛さんの
『魂の読書』(育鵬社、2016年)でも推薦されています。)によって、
<生の哲学者>とされるベルクソンに出会うことになりました。
これが、管理人との直接的接触の始まりでした。
(つまり、受験的知識ではなくという意味です。)
「哲学」的思索の過程は、個々の人生遍歴そのものと重なり合うこともあって、
今後とも、少しずつ、「小出し」しながら、
数々の書籍のご紹介とともに語らせて頂くことになりますが、
そんな「生の危機」感にあらためて見舞われだした頃から、
ベルクソンに急接近することになった次第であります。
このあたりから、管理人自身の「実存主義哲学」を超越する
あらたな段階へと突入していきました。
それが、「数理的科学思考」をもった哲学的視点の
重要性と再認識でありました。
著者も、本書を通じて、現代が、「形而上学」受難の時代である原因には、
現代哲学者が、「科学精神」を忘却してしまったことに大きな原因が
あったのではないかと問われています。
その珍しい例外こそが、ベルクソンとホワイトヘッドであります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ここに、本書における問題意識の主題もありますので、
遅ればせながら、
ここで、本書の内容構成の要約に入らせて頂くことにします。
「はじめに」
「Ⅰ <あいだ>と生成-われわれはどこから来たのか」
① 存在と無の<あいだ>
② 過去と現在の<あいだ>
③ 異交通的生成
※第Ⅰ部では、「起原論」をテーマに、
人「間」は、まさしく、この世界(宇宙時空)の<あいだ>に
生を受けた存在であることから思索展開が始まります。
本書のいわば「序曲」でもあります。
著者は、ベルクソン以前と以後の大きな世界観の違いの
一つに「科学的世界観」を取り上げられていますが、
先にも触れさせて頂いたトマス・アクィナスが
批判的に受容継承していった
アリストテレス的「静(不動)的世界観」を超克していく
視点を提供した点に、ベルクソン哲学の転回があるといいます。
その視点を端的に著者独自の表現をお借りすると、
「単交通的な生成モデル<ありなし間>(トマス・アクィナス≒
アリストテレス)から<いまかつて間>(ベルクソン)へと
生成発展していく異交通的な生成モデル」ということに
なりましょう。
要約すると、<神>と<人間>が別々に棲み分けていた世界観と
いった視点から、
<神>の中に<人間>をも内在させていくような
<神々>の複数性の視点とでも言い換えることが出来ましょう。
そのことは、第Ⅲ部ともつながりますが、
近代の単純な「神は死んだ!!」(ニーチェ)とする視点が、
かえって、「未完成体」の<人間>を「完成体」の<神>と
同次元に扱う「傲慢」な世界観をもたらした反省から、
そうした近代が大前提としてきた<神=人間>の世界観を
見直すためのヒントをベルクソン哲学に見出します。
「Ⅱ 進化と痕跡-われわれは何であるのか」
① 生物学と実証的形而上学
② 分岐と痕跡
③ 知性と横断
④ 開いた動対応へ
※このように、「科学精神」を非常に重要視したベルクソンですから、
「唯物論」者かといえば、「さにあらず!!」で、
また、インターネット辞典「ウィキペディア」のような
「わかりやすい」解説にもあるような「唯心論」者かというと、
そうでもない多角的なベルクソン像が、
著者によって、提示されています。
特に、生物学における「進化論」に造詣が深かったベルクソンは、
「直線的」進化ではない「分岐的」進化といった視点から、
ベルクソン独自の『創造的進化』などが提唱されていく思考の軌跡が
読み取れる解説がされています。
ダーウィン自身の「進化論」も個体重視型と「誤解」もされているようですし、
その後の「遺伝学」の進展を通じたダーウィン「進化論」の当初の問題意識や
目論見も再検討されてきて現代に至りますが、
生物全体の「類」を含めた「分岐」を境目としながらも、
それぞれの<あいだ>を形成していった共進化傾向といった進化像こそ、
現代進化論の良心的な生物学者の「仮説」でもあるようです。
まとめますと、「生物」は、「ただ<盲目的>に生きている」わけではなく、
何らかの「目的意識」を持ちながら、「創造的」に生きようとしてきたのが、
生物の実相だったのかもしれません。
「人間」も含めて、他の生命体の「心」を読み解くことは
困難ではありますが、
少なくとも、「盲目的」よりも「創造的」に生きようとしてきたと
「信じる」方が、「合理的」な生き方なのかもしれません。
それが、第Ⅲ部から拡大されてもいく
「人類」の厭世観・虚無観からの
「解放への道」でもあるのでしょう。
次の第Ⅲ部では、空海密教思想にも通じる「即身成仏論」も
加味して、ベルクソン哲学が再検討されていますが、
<神≒人間>だからこそ、
少しでも、「未完成体」から「完成体」へと近づこうとする
生への意志を持つことによって、
生きる意欲にもつながり、
死後の安心感にもつながるのかもしれません。
このあたりになると、各人各様の「信仰観」の世界にも
突入しますので、無理な論旨展開には慎重でなくてはなりませんが、
著者も管理人も大胆にも、こうした世界観にも通暁した<生の哲学>が、
「今こそ必要で開拓されるべき!!」だと確信していますので、
もう少し、著者の言葉に触れながら、考察していきましょう。
「Ⅲ 神秘系と機械系-われわれはどこへ行くのか」
① 神仏への道
② 開いた社会と密厳浄土
③ マンダラと二重狂乱
※この宇宙は、すでに「決定」されているのか、
それとも、「未決定」なのかという重要問題も、
科学でも哲学でも未だ解決仕切れていませんが、
一つの方法として、「色即是空 空即是色」的な
仏教的解決やそれを数学的に解決する処方箋として
「空」集合のようなイメージ像もあります。
こうしたイメージ像を拡張していった果てにこそ、
「開かれた社会」もあるのでしょう。
もっとも、「生きている」<あいだ>には、
体験不可能な社会領域ではありますが、
こうしたイメージ像を持つことで、
「確信」にまでは至らずとも、
「安心の境地」には、
一歩近づくことが出来るのではありますまいか・・・とも
個人的には思われます。
ベルクソンの<生の哲学>の特徴は、
科学との「相補性」にあるとも言われています。
著者も、科学的「機械系」が強まることと相まって、
人間(生物)的「神秘系」が「要請」されてくるのではないかと
ベルクソンを引き合いにして、考察されています。
「おわりに」
「文献案内」
「アンリ・ベルクソン略年譜」
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以上で、本書の大まかな見取り図の
ご紹介は終わりましたので、
詳細は各自の独自目線でご一読下さることを
お願い申し上げます。
「それでもなお!!」生きよう、人類後史のために・・・
ところで、ベルクソンのような<生の哲学>とともに、
思索しながら生きていると、
ヘーゲルのような単なる「相互承認」の次元や、
ハイデガーのような世俗世界に踏みとどまる「世界内存在」としての
人間観・世界観を一歩踏み出す勇気を与えてくれます。
世界の「哲学史」を子細に観察していると、
「あの世」から「この世」を切り離しながら、
人間の世界像は進展してきたようです。
つまり、「宗教」と「科学」と「哲学」の
「三位一体」の分断の歴史であったということです。
このところ、キリスト教の「三位一体説(父と子と精霊)」を
独自考察しているのですが、
一見すると、理性に反する見方のようですが、
この見立てが、人類を辛うじて「救済」してきたのかもしれません。
あるいは、イスラム教にも見られる「偶像崇拝」の禁止の知恵も
同様だと思われます。
21世紀現在、未だに人類は苦しい対立を続けていますが、
共通する世界観は、必ずあると信じています。
身体は、「有限」で「この世」に束縛されてはいますが、
心(意識あるいは魂)は、「あの世」にも飛翔展開させることが叶います。
実は、これが、「生命の<原理>」であって、
「自由意志」が残されている理由も、
「自由」な想像力や創造力によって、
「責任」を持たされているからだと考えています。
前者の「自由」が、「未決定論」だとするならば、
後者の「責任」が、「決定論」に属する問題なのではないかとも
考えています。
言い換えますと、「人間」は、この宇宙時空の<あいだ>で、
「自由=未決定世界」と「責任=決定世界」の領域にまたがる
「有機的生命体」だということになります。
量子物理学の世界観では、観測「前」と観測「後」で、
「可能」世界の確率波は「収縮」して、
「現実」世界が生成されるとの解釈があるようですが、
ベルクソン哲学にも類似した見立てがあるようですね。
その「収縮」の過程で生起している現象が、
ベルクソンの表現では、
「二重生成=異交通の結果としてのさらなる異質性の生成=
持続性の継起」とも解釈し得るのではないかと思われます。
このように、ベルクソン哲学を著者のヒントをお借りしながら
管理人も独自目線で読み進めてきたわけですが、
「科学と神秘」の「接点<境目=あいだ>」も
ベルクソン哲学を通して、あらためて再検討してみると、
また、これまでとは一段と違った世界観に出会えるようですね。
まとめますと、ベルクソン哲学は、「出会いの<場>」を
用意してくれているのかもしれませんね。
それが、「異交通の効果」なのでしょう。
面白いことですが、著者は、空海密教思想の視点と
ベルクソン哲学の交錯地点を重ね合わせながら、
独自の<あいだ>哲学を探究してこられたといいますが、
これが、「森羅万象の<調和の旋律>」を奏でているのです。
著者による見事な感慨深い「交響曲」でありました。
これからも目が離せない著者の独自哲学ですが、
著者も日本の「ベルクソン主義の歴史」を共有してきた
「京都学派」に属する研究者のようですので、
今後ともご活躍されるとともに、
人類後史のための「より良き」知的ヒントを
提案して頂きたく、さらなるご健闘をお祈り申し上げます。
ということで、皆さんにも「生きる糧」となり得る
<生の哲学者>ベルクソンさんをご紹介させて頂きましたので、
これを奇縁として、「人類愛をもたらす道」を
ともに構築するための事業にご参加頂きたく、
この本をご一読されることをお薦めさせて頂きます。
なお、著者は、インターネットでも
『まぶさび庵の扉』を公開されていますので、
そちらの方もご参照下されば幸いであります。
最後までお読み頂きありがとうございました。
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