藤田正勝先生の「九鬼周造~理知と情熱のはざまに立つ<ことば>の哲学」人生意気に感ず、功名誰か復た論ぜん!?

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「九鬼周造~理知と情熱のはざまに立つ<ことば>の哲学~」

九鬼周造の名著『「いき」の構造』の全注釈を手がけられた

藤田正勝先生による九鬼哲学入門書です。

「いき」とは、「生命の息吹」を蘇生させる美意識です。

現代日本文化は、純粋経済論理に押し切られ、

もはや「粋」ではなく「酔」の領域に達しています。

文化から色香が無くなれば・・・

人情の機微も冷たくなるばかり。

今回は、この本をご紹介します。

「九鬼周造~理知と情熱のはざまに立つ<ことば>の哲学~」(藤田正勝著、講談社選書メチエ、2016年)

藤田正勝先生(以下、著者)は、現在、京都大学大学院総合生存学館教授を

務められている「京都学派」に属する哲学者です。

ご専門は、ドイツ哲学・日本哲学だといいます。

ドイツ哲学については、本書の主人公九鬼周造にも

多大な影響を与えたとされるシェリング哲学。

日本哲学については、「京都学派」を代表する西田幾多郎哲学を

ことに研究対象とされているといいます。

その成果としてはそれぞれ

『シェリング読本』(共編、法政大学出版局)

『現代思想としての西田幾多郎哲学』(講談社選書メチエ)

『西田幾多郎』(岩波新書)などに結実されています。

著者は、学生時代に九鬼周造博士の名著『「いき」の構造』

読まれたことをきっかけに、その独特な「いき」の世界へと

引き込まれていったと本書<あとがき>にて語られています。

そうした出会いから九鬼哲学の魅力により深く迫っていくことで

あらたな「生の哲学」を探究される道へと入って行かれたそうです。

そうした道のりの過程で、自らも新たな『「いき」の構造』に関する

全注釈(新訳)事業に取り組まれています。

それが、『「いき」の構造』(講談社学術文庫、2003年)であります。

そんな<九鬼哲学>ですが、

日本の哲学者としては、かなり「異色」かつ「孤高」の存在だったことから

その独特な哲学的世界観の全体像を把握するには

かなりのハードルの高さがあるように思われます。

また、詩人や歌人としても活躍されており、

いわゆる「文化人」的要素が多々見受けられるために、

「哲学」を単なる「理知的学問」としてイメージされている方にとっては

取っ付きにくい哲学者だとみなされてもいるようです。

あるいは、その正反対として、「文学」や「芸術」などの

多彩な文化に日々触れられている方にとっては、

ある意味わかりやすくて、これほど親しみやすい哲学者も

他にはいないのではないかというように

その評価は二分されているようです。

このように<九鬼哲学>への親近感には

人によってかなりの「ばらつき」があるように思われます。

(あくまで、管理人の勝手な推測にしかすぎませんが・・・)

そんな豊饒かつ独特な世界観を持つ<九鬼哲学>ですが、

一読して全体像を掴みづらい方にお薦めの「九鬼哲学入門書」が

この1冊ということでご推薦させて頂きました。

というのも管理人の個人的感想ですが、

<九鬼哲学>に多大な魅力を感じて、

一般的<九鬼周造>著作集(例えば、岩波文庫本など)を読み進めていても

その背景となる解説情報がこれまでの一般向け「新書」には

少なかったように思われたからです。

いわゆる<九鬼哲学プロパー(専門特化)>本が

あまりにも一般向け読書市場には少ないように見受けられたからです。

後ほど、本記事末尾の参考推薦図書でもご紹介させて頂きますが、

「新書」形式の手軽な解説書でも、

日本の「代表的」哲学者の一人としてしか解説されていないものが

ほとんどだったように感じられます。

管理人と<九鬼哲学>との出会いは、後ほど本文内のエッセー項目で

語らせて頂こうと思いますが、

まずは、本書からその<九鬼哲学>の概要を要約ご紹介させて頂くことから

始めさせて頂きましょう。

ということで、「<生きた>哲学の復権を目指して!!」をテーマ

皆さんとともに<九鬼哲学>のさらなる魅力に迫っていきましょうという

趣旨でこの本を取り上げさせて頂きました。

風流な「いき」のある遊び文化を呼び戻させる<九鬼哲学>の 魅力に迫る!!

それでは、本書の内容構成の要約に入らせて頂きます。

①『序章 九鬼周造-「ことば」の哲学者』

※本章では、九鬼周造の人となりと思想を

「ことば」の哲学者として語り始められています。

九鬼周造の詳細な経歴解説については、

次章で触れられていますので、そちらをご一読頂くとしまして、

著者の見立てでは、

『「いき」の構造』の扉裏に記されたメーヌ・ド・ビランというフランスの

哲学者が示したとされる<思考は存在全体を満たさなければならない>に

象徴されているといいます。(本書7頁ご参照のこと)

管理人にとって、この本で今回はじめて知った「素顔」ですが、

「心的内面」に深く立ち入った哲学的考察をされていった

<神秘主義>的側面を有した哲学者だったようです。

これからご紹介させて頂きますように

<九鬼哲学>には数々のフランス哲学者や文人の影響が見られます。

というのも、もちろん、九鬼周造自身にフランス留学経験があるからなのですが、

九鬼周造ならずとも、この時代を生きた日本の知識人には、

フランス体験をされた方が多かったようです。

前にもご紹介させて頂いた数学者の岡潔博士を始め、

中江兆民西園寺公望などもフランス留学組として

とりわけ有名です。

「現代思想」としてのフランス哲学からは想像も及びませんが、

この頃のフランス哲学には、まだまだ<モラリスト>の系譜や

<生の哲学>の系譜が生き生きと色づいていたようです。

管理人自身は、「実存主義」哲学者サルトル以来の系統には

まるで生きた要素が感じられることなく親しみも湧いてこないのが

正直な実感ですが、少なくともベルクソンポアンカレあたりまでの

哲学者には多大な敬愛の念を抱いています。

そのような個人的趣味嗜好性はともかくとしまして、

こうした当時のフランス文化哲学の底流にあった<生の息吹>を

感じながら、やがて独自の<九鬼哲学>を花開かせていくことになりました。

九鬼周造の哲学的特徴は、「ことば」を単なる観念的な知的遊戯の道具に

貶めることなく、「ことば」への確かな信頼の裏付けの下、

「ことば」への愛着を深めていったところにある

著者は解説されています。(本書11~13頁ご参照のこと)

そうした九鬼周造自身の「ことば」への取り組み方は、

特に『第6章 文学・詩・押韻』で詳細に描かれていますが、

多角度から「ことば」へと接近していったのが、

九鬼周造の流儀だったようです。

このあたりは、前にもご紹介させて頂きました

「文人」哲学者和辻哲郎にも見受けられる視点ですが、

<あいだ>を主題に独自哲学を開拓していった点には共通項があるものの

その「美的」世界観には大きな隔たりもあったようですね。

このような九鬼周造には、「ことば」の中に<生の息吹>を見出しながら

体感していく独自の言語観がありましたので、

「ことば」から「いのち」が生み出される過程(構造)に興味関心が移り、

やがて、名著『「いき」の構造』へと結実していくことになります。

そうした問題意識から、偶然論や時間論、音韻論などにも

さらなる探究の領域が拡張されていったのが

<九鬼哲学>のおおよその概要であります。

②『第1章 九鬼周造の生涯と思想』

本章では、<九鬼哲学>が生み出されていく

九鬼周造自身の生まれ持った性格や成育環境が

詳細に解説されています。

父「隆一」は、厳格な官公吏だったようで、

「男爵」であったといいます。

「歴史好き」の管理人の個人的関心からは、

あの「九鬼水軍」を率いた九鬼嘉隆の末裔だったというところにしか

興味が惹かれるにすぎませんが、

そのような厳格な父君と結婚されたのが

母「波津」だったといいます。

この母君のご生涯も波乱に満ちた人生だったようですが、

そのあたりの詳細は、本書をご一読下さいませ。

ともかくも、著者も『詳細は定かではない。』(本書17頁)と

母君のご経歴については慎重に表現されていますが、

花柳界という当時の「遊里」文化とも接点があったとされているようです。

いずれにせよ、こうした母君から得た文化的背景や

「恋多き」多情な九鬼周造自身の生き様から、

人間関係にまつわる「いき」を主題に独自哲学を創作していったことは

間違いないようです。

そこで、九鬼周造自身が影響を受けた哲学者・文人などを

ご紹介しておきましょう。

ケーベル

・ベルクソン

リッケルト

フッサール

ハイデガー

ポール・ヴァレリー

などなど・・・

九鬼周造と各人の交際関係の詳細事情については、

本書の解説に委ねさせて頂くこととしまして、

<哲学>的観点から数点だけ捕捉説明させて頂くと、

リッケルトは「新カント」学派の代表者とされています。

現代ではあまり一般には馴染みのない哲学者であるようですが、

九鬼周造が学生時代を過ごした頃(1900年代初期)の

日本の知識人の間では、その名が浸透していたようです。

管理人も、このリッケルト自身の「新カント」学派の

詳細についてはあまり深く知りませんが、

「法学徒」だった学生の頃に、

その「文語体」に苦心惨憺しながら

何とか最後まで読み通した『世界法の理論』の著者であり

最高裁長官も務められた田中耕太郎博士が影響を受けた

哲学者であったというところから、

その名を知ることになりました。

管理人の学生時代の専攻は、「商法」でもあったことや

「法哲学」の領域にも多大な興味関心があったこともあって、

田中耕太郎博士の著作に触れるきっかけになったのです。

今では懐かしい思い出の一コマになってしまいましたが・・・

精一杯「背伸び」しながら知的好奇心の赴くままに

将来この学習課程が、何の役に立つのかも考えずに

ただただ読み進めていったことは、

社会での「出世」という観点では

さほど役立ちはしませんでしたが、

少なくとも難しいテーマに挑戦していこうとする

「知的意欲」を育て上げることが出来た点では、

今でも多大な精神的「糧」となっています。

つまりは、大学で学ぶ目的とは、

「自学・自習力(厳しい社会情勢や人間関係にもめげずに

豊かな知性と感性をもって人生を有意義に生き抜くための知的冒険心)を

養うことにあり!!」と老婆心ながら強調させて頂きたかったわけです。

大学時代の敬愛する恩師も嘆いておられましたが、

現代教育事情では、「教育的配慮」と称した

「わかりやすい図説解説本」ばやりで、

「お粥のようなふやけた」教育<娯楽>本が

教育現場の主流を占めているようです。

もちろんこのような「即効性ある」解説本で

学科試験などを乗り切るのも一概に責めきれるものでは

ありません(管理人も試験対策はそのような姿勢でしたから

偉そうなことは言えませんので・・・)が、

「背伸び」する感覚が身に付かないことには、

将来社会に出て、様々な場所で「働く」際や

人生における難題にぶつかった際に、

すぐにも「思考停止」してしまう悪いクセが身に付くことにも

なってしまいます。

そのような姿勢が「当たり前」になると・・・

いとも容易く、社会に振り回されてしまって、

自身の「固有」の人生を真剣に歩みきることが

困難になってしまいます。

閑話休題。

一方で、九鬼周造は、フランスとドイツを往ったり来たりするのですが、

ドイツでは「現象学」の大家であるフッサールやハイデガーに

師事したといいます。

その過程で、九鬼自身は、次第にフッサール流現象学の世界から離れていき、

ハイデガー流の「解釈学的」現象学へと急接近していったとされています。

後年の『「いき」の構造』における「いき」の分析方法論として

採用される萌芽がこの季節に芽生え始めた瞬間でした。

つまり、著者の解説によると、

『「いき」の研究は「形相的」ではなく、「解釈的」で

なければならない、という言葉もそのことを示している。』

(本書76頁)と。

(※管理人注釈:ここでいう「形相的」とは「形式・表層的」を意味し、

「解釈的」とは「実質・全身全霊的」で「いき」を意味体験するという趣旨で

使用されている形容詞だと理解しています。)

そうした具体的な「いき」の構造分析研究の成果が

次章で簡潔に解説されています。

③『第2章 「いき」の構造』

※本章では、<九鬼哲学>の主題である「生の哲学」を

探究していく過程で、いわば「いのちのリズム」とも言える

「いき」の本質へといよいよ迫っていくわけですが、

ここで、九鬼自身による「いき」の具体的特徴をまとめておきましょう。

その『「いき」を形成する3つの徴表』として、

・媚態

・意気地

・諦め

の3つを挙げています。

それぞれの詳細な解説は本書に委ねますが、

この「いき」の構造を分析考察する過程で、

人間関係のとりわけ「二元的緊張関係」へと関心を移していきます。

ここで、なぜ九鬼が「二元的緊張関係」に力点を置いた考察を

進めていったかですが、安易な「二元的緊張関係」の解消が、

人間関係における「精神的危機」を呼び込むことにつながることを

予測させるからではないかと思われます。

つまり、そのことが端的に「いき」の美的感覚を殺すのだと・・・

そんなこともあって、著者も解説されておられますように、

近松門左衛門などのいわゆる「心中物」を取り上げなかった理由だったのでは

ないかと指摘されています。

そうした人間関係とりわけ異性間における「二元的緊張関係」の<喪失>を

嫌った九鬼でしたが、それは、彼自身の多彩な恋愛経験に基づくものでも

あったようです。

それが、人間的出会い(邂逅)の不思議(偶然性)という問題意識へと

次第に変遷していったようです。

④『第3章 偶然性の哲学』

その問題意識の一端が、詩人であり歌人でもあった

九鬼の下記の「調べ」にも現れているようです。

『お前と俺、俺とお前

めぐり逢いの秘密、恋の反律。

これは人生の幾何、

なんとか解いてはくれまいか。』(本書63頁)など

多種多様な詩歌の「調べ」の中に鳴り響いています。

こうした「偶然性」への謎解きへの興味関心から

九鬼はシェリング哲学にも共感していったようです。

それが、そもそもの出会いの<きっかけ>をなす

原点にある「原始偶然」という概念への探究考察です。

この「原始偶然」という概念への九鬼とシェリングの

哲学的相違点の解説は、本書に委ねさせて頂くことにします。

いずれにせよ、ここからさらなる「原点回帰」思考へと

連なっていくことになります。

それが、独自の「時間論」で考察されていきます。

⑤『第4章 時間について』

本章では、九鬼の「時間論」について解説されています。

いわゆる古神道などにおける「永遠の中今(なかいま)」信仰とも

重なり合っていくような「時間論」ですが、

そこから人間の「運命愛」の問題にも触れていくことになります。

このあたりになってくると仏教的な「輪廻観」や

ニーチェの「永劫回帰思想」にもつながっていく論点になりますが、

共通するテーマは、

「真剣に人生を生ききり、死にきるには、

どのような生き様を理想とすべきか??」という

「真・善・美」志向の美的倫理観ということになります。

⑥『第5章 芸術・文化・自然』

本章では、そんな「無窮」を志向した時空超越観へと進展させ得る

表現形態として、芸術や自然に視点を移動させていきます。

「人間とは、<一代限り>では完成し得ない存在である!!」

こうしたテーマにまで進展していくと、

もはや「霊的次元」の話、

つまり、「神秘主義」の領域にも入っていくことになり、

「理知的」な哲学が対象とする領域から離れていくことになります。

とはいえ、<九鬼哲学>の特徴は、

「いき」を宿した「生命(いのち)の哲学」を

これまでの狭い物心二元論に囚われた西洋哲学思考のクセを

乗り越えていこうとする『知の人、情の人』(本書9頁)が、

九鬼の人となりですから、可能な限り、「知」の極限にまで

突き進めざるを得ません。

そうです。

九鬼周造とは、「漢(おとこ)」なのです。

「思索のダンディズム」といったところでしょうか?

⑦『第6章 文学・詩・押韻』

本章では、今までの「哲学」とは打て代わって

「文学」や「芸術」がテーマとなっています。

<九鬼哲学>は、このような「文学」や「芸術」にまで

視野を拡張させなければ、その「全貌」が解読者の前に

決して現れ出てくることはないというところに

独自の存在感があります。

とはいえ、これまでの一般向けの<九鬼哲学>解説書では、

あまり「哲学」とは一見関わりがなさそうに見える

「文学」や「芸術」といった周辺分野にまで目配せした

<九鬼哲学>「入門書」はなかったように見受けられます。

(あくまで、管理人がこれまで読んできた範囲ではの話に

なりますが・・・)

その点で、本書はその領域にまで目一杯の羽を伸ばした

秀逸な一品であります。

難しい話は、本書のご一読に委ねさせて頂くことにしまして、

本書の要約ご紹介はここまでとしておきましょう。

巻末には、本書執筆に際しての<参考文献>一覧と

<九鬼周造・著作一覧(随想などを除く)>が

年譜形式でまとめられています。

<九鬼哲学入門書>である本書から

<九鬼哲学>のさらなる奥深い世界観へと「没入」されたい方には、

ここに掲げられた著作集のうちで各自のご興味関心あるテーマから

読み進められていくと親しみやすく感じられることと思います。

管理人も<九鬼哲学>の全著作にまでは挑戦仕切れていませんが、

まずはやはり、主著『「いき」の構造』からが定番でしょう。

その後で、『偶然性の問題』などの諸領域へと

どんどん読み進められていくと、

やがてその「片鱗」にまでは達することが叶うでしょう。

とはいえ、その「全貌」にまで達するとなると

一筋縄ではいかないのも<九鬼哲学>の特徴です。

要するに、「<九鬼哲学>とは、生きた哲学」ゆえに

「そんなに人生を生き急ぎなさんな!!」という声が

<九鬼哲学>の本音なのでしょうよ、きっと・・・

そのあたりの教育的配慮も<九鬼哲学>の魅力のひとつではないかしらと

管理人には思われるのです。

「人生意気に感ず、功名誰か復た論ぜん!!」(魏徴)

さて、ここからは、管理人の<九鬼哲学>との出会いを語らせて頂くとともに

「いき」の精神を探訪する旅へと皆さんとご一緒に出かけましょう。

まずは、管理人と<九鬼哲学>との出会いですが、

「京都」での大学時代へと遡ります。

管理人自身、「なぜ<九鬼哲学>の魅力に惹かれていったのか?」

その背景事情となると、なかなかうまく表現仕切れないところが

あるのですが、管理人自身にも父方の祖母から受け継がれた

多大な文化的要素があったからだと思われます。

その祖母がよく聴かせてくれた講談・講釈的話題や好みだった小説群

(例えば、泉鏡花谷崎潤一郎など)を後年じっくりと思い返してみると、

「なぜ、あんなにも妖艶なテーマの語りが多かったのだろうか?」と

生真面目な「職人肌」の祖母にしては不思議に感じられたことも

あったからです。

そんな語りが、年頃の管理人にも「無意識」に浸透していったようです。

その頃は、まだ「春」も知らぬ「青春」の真っ盛りでもありましたから(笑)、

余計にこのことに深い興味を覚えたのでしょう。

祖母は「京都」出身でもあり、それも昔の丹波・丹後地方が

管理人自身の父方のご先祖様の郷里でもあることから、

その地方特有の文化事情もあったのでしょう。

具体的には、宮津・舞鶴・福知山などですが、

後年、自身の「魂」のルーツを探索していくと

そこには共通の文化的背景があったようです。

そう言えば、説教節で有名な悲哀物語である

山椒大夫』の舞台設定もこのあたりの地域でした。

どうやら「遊里」文化が浸透していた

地域だったことによるものではないかとも

推察しております。

現代では、「遊里」などと言えば、

怪訝な好奇の目で見られますが、

なにぶん、第二次世界大戦前のことでもありますので、

当時としては、そうした文化が一般にも浸透(??)していたようです。

もっとも、このこと自体は、当時も今も「人道(人権)」問題に

関わるシビアな話題ですので、

もちろん、一般的には「触らぬ神には祟りなし」のタブーに触れる問題では

ありました。

とはいえ、そうした「遊里」から生み出されてきた文化には

相当すぐれて洗練された人情の「機微」があったようで、

そのあたりの「妙」や「綾」などが各種の小説などの素材にも

扱われていたことから、当時(明治・大正、昭和戦前期)の

日本人の間では、その「遊里」文化事情から生み出されてきた

教養文化には馴染み深いものもあったようです。

管理人などの若い世代では、なかなか理解も想像も及ばない

文化背景ですが、この頃の小説に親しんでいると、

否応でも、このような特殊な文化背景事情を知悉しておかないと

十二分には消化吸収仕切れません。

また、能楽・狂言や歌舞伎、文楽などを

本格的に堪能しようと思えば、

こうした当時の「遊里」文化事情にもある程度は通じていなければ、

さっぱりそのあらすじも理解出来ませんしね。

高校生時分に管理人が読んできた

当時の「遊里」文化や「恋愛事情」を題材にした小説としては、

『忍ぶ川』三浦哲郎

『桜の実の熟する時』島崎藤村

『潮騒』三島由紀夫)など

多彩な文学作品がありますが、

今時の「ライトノベル」のような恋愛観とは大きく異なるところから

十分に「味読」するのに苦労した覚えがあります。

そのあたりの明治・大正・昭和戦前期における

「恋愛観」の変遷などについては、

母校の優れた先生による解説記事がありましたので、

その並々ならぬ研究心に敬意を表して、

皆さんの読書の際における座右の参考記事として掲げておきます。

(リンク先はこちら

そのような管理人自身による読書歴訪の旅の果てに、

『哲学的に考えたら、「いき」とは一体どないなもんやろか?』との

問いが次第に頭をもたげてきた折に

ついに大学時代に<九鬼哲学>と出会ったというわけです。

「京都」の学生時代に、「京都学派」と呼ばれる

一連の哲学者たちに出会うことになったわけですが、

西田幾多郎氏ほか(その中には和辻哲郎氏も含みます)の哲学者には、

あまりにも「理知的」すぎて親近感が湧かなかったところ、

ついに1冊の哲学書と「文人」哲学者に出会うことになります。

それが、『「いき」の構造』(当時は、岩波文庫版)の著者

九鬼周造氏その人でした。

やはり、こうした独自の旅をしていると、

妙に惹きつけ、惹きつけられるモノやコトがあるようですね・・・

そうして読み進めるうちに、

その<九鬼哲学>の独自世界観にぐいぐいと引き寄せられていったのです。

「この人とどっかで出会ったかもしれん・・・」

「どこか懐かしい気配がするなぁ~」

「(恋愛経験には乏しくも)どことなく自分に似ているかもしれへん・・・」

などなどと心の内で著者と「対話」していくうちに

その魅力にどっぷりと嵌り込んでしまったようです。

その学生時分以来、<九鬼哲学>からは遠ざかっていたのですが、

つい近年(それも今年に入ってから)、

急に九鬼周造氏の「魂」に出会いたくなったのです。

それもまた、九鬼周造氏とも交流のあった前回もご紹介させて頂いた

『文章読本』の作家である谷崎潤一郎氏ともにですから

何か「不思議な巡り合わせ」を感じさせられます。

こうしたご両人との伴走旅を続けていると、

「不思議や不思議」

次々と、管理人がそれまで知らなかった(単に見逃していただけなのかも

しれませんが・・・)「谷崎文学」遺産にも巡り会うことになりました。

つい先週も「真田丸」関連や

管理人が幼少期から高校生時代までを過ごした

「谷町」界隈の路地裏まで探索してきたのですが、

何とあの「大谷崎」先生が上本町筋界隈の一寓居に居候しておられたことが

あったことをようやく知ることになったのです。

その一時的な執筆活動の現場で、

『文章読本』が完成していったようなのです。

(ちなみに、このエピソードは、

『大阪の寺-近代こぼれ話』(荒木伝著、東方出版、1992年)にて

知ることが叶いました。ここに篤く御礼申し上げます。

この本のもうひとつの魅力は、大阪の寺を近代「社会運動史」の視点で

詳細な「寺史」を調べ上げられたところにあります。

おもろい本ですから、是非この分野にもご興味関心ある方なら

ご一読頂くと何か得られるものがあると思います。

余談ですが、昨日は、昔日の大阪「島之内芸能文化」を

復権させようとのご活動をされている方々のご紹介で

「島之内」界隈を訪れる機会があったのですが、

新聞やニュースでも一時期話題になったこともございますが、

もはや「いき」の文化が死に絶えたかのような寂しい

けばけばしい雑居ビル街になってしまっていたことが

悲哀感を催させました。

この界隈には、大阪を代表する素晴らしい文化遺産が

あるのですから、是非、大阪「町人(商人)」文化を

愛されている方には、その「復権」活動にご協力して

頂きたいものです。

この門前町は、もともと「いくたまさん」や「高津さん」の

お膝元でした。

特に、この近辺にある「大阪七福神」で有名な法案寺さんなどは、

明治期の廃仏毀釈前の江戸期には、

「いくたまさん」の神宮寺だったそうで、

大阪の寺の中では相当な規模を誇っていたとの情報も

ある方に教えて頂きました。

(ちなみに、「大阪七福神」については、

<真田丸>ゆかりの三光神社のホームページをご閲覧下さいませ。)

このような歴史的知識や世界史から見た日本経済史の変遷を

学んでいると、現代日本の経済活性策の志向性には

何か見当違いの方向を向いているようにしか思われないのです。

「仁徳さん」もさぞやお嘆き遊ばされていることでしょう。

民の「かまど」を再び賑わすためには、

「学問」・「芸能」などの<心>の文化復興こそ先決問題でしょう。

昔日の大阪「船場」などの大富豪は、

こうした「場」で生きたお金を散在して

庶民経済の懐を暖める循環型経済構造を

創出させようとしていたようですね。

当世風の「民活」とは、そのあたりの「志」がまったく異なるようです。

『まさに、「いき」な遊びによって経済を「いき」返らせたのです!!』

昨日は『世界経済地理学(ことに古代ローマ・ギリシア)と近世大阪経済との

比較考察から現代にどのような「いき」な<心>を甦らせるべきか?』を

テーマに皆さんと語り合ったのですが、

そこで学び得たことのうちに、

当時(元禄期)の大阪経済は、日本の富の7割をも生み出し、

しかも、「水都」ですから、その富の7割は、

「水運」上の「船上」にあったとの知識に遭遇いたしました。

<教科書が教えない歴史>ですね。

こういう歴史こそ、学校教育で教えてもらいたかったですね。

このような「教養」が得られなければ、

要路に立つ方々の政策(企画)立案能力も

浅薄皮相なものになってしまいます。

ギャンブル的な文化施設など、

「いき」の文化をさらに根絶させるハコモノは不要です。

すでにそのようなシロモノは、大都市の「盛り場」に

<ぎょうさん>あるのですから・・・

文化は、何よりもご先祖様から受け継がれてきた

「無形」遺産こそがその「核心」なのですから・・・

これだから、「歴史(文学)探索の旅」は面白くて止められないのです。

それではそろそろお開きの時間となりましたが、

最後に九鬼周造博士の墓地は、

洛東の大文字山ふもとにある法然院にあるそうです。

ここは、京都一周トレイル「東山コース」の

ルート沿い(通称『哲学の道』)にある静寂な古刹です。

九鬼ファンの方なら一度は訪れて参拝してみたい聖地です。

その墓碑には、下記の言葉が刻印されているといいます。

『見はるかす山の頂 梢には風も動かず鳥も鳴かず

まてしばしやがて汝も休はん』

そして、法然院にまつわる

『訪ひ来れば法然院は冬さびて僧のつくなり入相の鐘』

(双方とも本書40頁から引用)

やはり管理人とは違って、作歌技法がうまいですね。

こうした雅やかな教養も

現代教育環境の下では、

もはや身に付かないところが悲しいところです。

このような教養教育を疎かにしてきたつけが、

現代日本社会における精神的荒廃と

総合叡智の衰退を招いているのだとすれば・・・

現代教育や社会風潮に対して

物申したいことは山ほどありますが、

溜息が出てくるだけですので、

今回はこの程度に抑えておきます。

ということで、本書は<九鬼哲学>の格好の入門書として

皆さんにも是非ご一読されることをお薦めさせて頂きます。

なお、<九鬼哲学>入門の「新書」としては、

『日本の「哲学」を読み解く-「無」の時代を生きぬくために』

(田中久文著、ちくま新書、2000年)

そして、今月中に発刊される予定の

『現代思想 2016年1月臨時増刊号 総特集

◎九鬼周造-偶然・いき・時間-』

(田中久文・藤田正勝他共編著、青土社)

も併せてご紹介しておきます。

最後までお読み頂きありがとうございました。

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2 Responses to “藤田正勝先生の「九鬼周造~理知と情熱のはざまに立つ<ことば>の哲学」人生意気に感ず、功名誰か復た論ぜん!?”

  1. 1729 akayama より:

    『「いき」の構造』の徴表している 〔媚態〕〔意気地〕〔諦念〕に巡り・廻る【数そのモノ】の≪…「いき」とは、「生命の息吹」…≫と捉え≪…(邂逅)の不思議(偶然性)という問題意識…≫から≪…「原始偶然」という概念…≫で、【数そのモノ】を観てみる。
     「偶然性の問題」九鬼周造著の拾いから、
    【[桁表示]の[0 1 2 3 4 5 6 7 8 9]による十進法】の言葉(言語)と図形(数量)とを対比(双対)させ西洋数学の成果の数学概念の用語とを絡めてネガティブ・ケイパビリティ(negativ capability)に夢想する。
     [形態空間](ニッチ)に[人]は、放り出され(生まれ・産まされ)たときから【数そのモノ】の≪「原始偶然」性≫を曲芸師の[輪]を[棒]で回す技で観ると曲芸師が運動(エネルギー)を与える限り一体である事(仮想の軌跡)を≪…第三章 離接的偶然 六 様相性の第三の体系…≫で観る。
     円([輪])と線分([棒])との対比(双対)を動的に捉える 
     円   線分  言葉(言語)の様相  数学用語(シェーマ(符号)  
     円周      必然性(可能性)   2π(極座標)
     切線  不可能性    原点からの右への数直線(直交座標)
                       0→+∞
    円と線分の接点   偶然性

     運動の状態において考えられる弧と切線は、非現実性であるが≪…全円周を生産し終った…≫モノで観た[円周と切点]の現実性を[0]を介在した直交座標と極座標へのなめらかな[ネガティブ・ケイパビリティ]として[オイラーの等式]を観ることになる。
    そして[円周と切点]の現実性を[0]を介在しての数学用語が[方程式]である。

     『離散的有理数の組み合わせによる多変数創発関数論 命題Ⅱ』の醸成する[意識としての[1]と[0] ]の≪…偶然性が虚無性にもかかわらず現実性を有つ…≫を三角形の頂点で立つ不可能性のフィールドの偶然性からの可能性として (三角形を動きのある独楽の上面とすれば) 必然性を n次方程式で観てみよう。

     y=xのn乗(次元)方程式の区間[0、1]で観てみる。

      次元(n) 原始関数の係数    数学用語(概念) 
       -1              [オイラーの等式]
        0      1      [意識としての[1]と[0] ] 

        1     1/2     [線分の傾斜を二次元(面積)への折込の
                      (フラクタル自然数)の∞] 
        2     1/3       [積分]
        3     1/4       [積分]
        4     1/5       [積分] 

       ∞→1    1         y=eのn乗(次元)・・・nに次元を保存
                        無限(∞)を取り込んで二次元の[1]から一次元の[1]と共有して ≪…二次元の集合が一次元の集合と対等…≫な[四則演算]できる[1]となる。
     
     ここで、一次元・二次元・三次元の表示が【数そのモノ】の[四則演算]に繋がることに[偶然性]の[必然性]を眺めよう。

    【[桁表示]の[0 1 2 3 4 5 6 7 8 9]による十進法】の自然数が実数の目盛りとして獲得した直交座標では、y=xのn乗(次元)方程式で一次元・二次元の繋がりを[ネガティブ・ケイパビリティ]できている。
     これは[自然数]と対応する・させる[平面]の[線分]と[正方形]による[離散数]の[無限](∞)の広がりを[数学的思考]する[次元]の[上空移行]は、[超越数(e)]と[虚数(i)]を帯同(内在秩序)して[ユークリッド幾何]の平行線の[線分(仮設の1)]の[ゲージ]の[無限](∞)のストリップ(strip)として[自然数]は、[直交座標]の[第一象限]に変換(写像)され[実数]・[次元]・[濃度]・[群]等の[数学的概念]を手に入れる。

     <曲芸師の[輪]を[棒]で回す技>で観る九鬼周造の[不連続性](線分)と[必然性・(可能性)](円周)について、
        ≪[切線] → [不可能性]≫  ≪[切点] → [偶然性]≫
     として、運動の状態において考えられる ≪[弧]と[切線] →[非現実性]≫とし≪…全円周を生産し終った…≫ ≪[円周]と[切点] →[現実性]≫としている。
     [ユークリッド幾何]の平行線の[無限](∞)のストリップ(strip)に変換(写像)すると観る[ネガティブ・ケイパビリティ]の[立体極座標]と[立体直交座標]の関係では、[円周運動]と[直線運動]の[連続](無限)に[双対](写像)する。
     [円周運動]の[運動成分]は、[左成分](-)・[右成分](+)・[上成分](i)・[下成分](―i)で西洋数学の[複素平面]を[ネガティブ・ケイパビリティ]できる。
    因みに[左成分](-)と[上成分](i)の[数学的思考]を[広がり](二次元)としての[視覚化]が[直交座標]の[第一象限]のストリップ(strip)領域(ドメイン)と生る。 
    したがって[平面座標]では、[原点](0)より左(負)にも対の[0]軸に[線対称]な[無限](∞)のストリップ(strip)に変換(写像)出来ていることに生る。 これが[上の次元](実数)で捉えた(繋がった)[立体極座標]と[立体直交座標]の関係である。

     [立体直交座標]では、[無限](∞)のストリップ(strip)領域(ドメイン)の≪…偶然性が虚無性にもかかわらず現実性を有つ…≫との[線分(仮設の1)]からのストリップ(strip)領域(ドメイン)の[界]が[数理哲学]としての[作用素](演算子)の概念を伴って[1][0][-1]と生る。そして先の[運動成分]の[組み合わせ]の[様相性]から4つのストリップ(strip)領域(ドメイン)を[直交座標]では獲得している。

     [立体極座標]では、[無限](∞)が[π]に変換(上空移行)して[二元論](二義)的な[動的](時間)(身体化された動き)が[円周]と[中心](点)を[数の核]とし領域(ドメイン)界が[数理哲学]としての[作用素](演算子)の概念を[ネガティブ・ケイパビリティ]として[球]に求めることができる。 

     先に概念化した[創発立方体数](ジャーゴン数の核)と[球]を【数そのモノ】としての【双対](変換)を観てみよう。
     特に注力することは[立体極座標]は、[立体直交座標]より一つ上の数学的概念(次元)を獲得(保持)している事だ。

      [立体極座標の数]         [立体直交座標の数]の                     [単位]
      『球の数』(カオス表示)    『自然数』(コスモス)
    0次元  [0](中心)      [0](原点)
    一次元   [2π](円周)      [仮設の1]([自然数]の                    [無限](∞)) 
          [連続]          正の(0~∞)の[数直                     線](有理数)
                        二次元からの落とし込みの                   [1](実数) 
    二次元   [π](円の面積)  ストリップ(strip)領域(ドメイ                  ン)の[1]
                           [1×1](正方形) 
                    [直交座標](平面)の領域(ドメ                 イン)として[4] 
    三次元   [4π](円の表面積)   [1×1×1](正立方体) 
                    [直交座標](平面)の領域(ドメ                イン)として[4]
    四次元   [(4/3)π](球の体積)     自然数[1]                   (サーカディアン数)  
                       [正立方体]としての運動体                   の複合軌跡は[球]
         注;(r=1) 
    ここでおもいきり[ネガティブ・ケイパビリティ]で[一・二・三・四次元]の[一・二・三・四]を十進法の基での[1・2・3・4]に変身(変換)させる眺望をしよう。

     先の直交座標の方程式の[原始関数]の積分公式の係数と[立体極座標の数]の[球の数](カオス表示)の[π]を[1]と置き換え[図形]と【数そのモノ】たちの謎を[図形]の領域(ドメイン)と[球の数]との領域(ドメイン)で九鬼周造の言う、
     ≪…実践の領域にあっては、「偶うて空しく過ぐる勿れ」という命令を自己に与えることによって理論の空隙を満たすことができるであろう。…≫  
        を旨に観る。

     0次元は、そのままである。
     一次元は、[直交座標の数]の[正](+)で扱っている[数]であ      るから[球の数]の[1/2]の領域(ドメイン)となり      [1]である。
     二次元は、[直交座標の数]も[時間]の概念(連続)を掴んでいる       から[1]となる。
     三次元は、[直交座標]の三次元(方程式)の積分係数の[1/4]      を掛け合わせると≪…因果的偶然 → 非決定的自然性(お      のずから)…≫と観る[1]と生る。
          或は、[人]は[直交座標]の[第一象限]の[場]での      思考であるが
          [第二象限]・[第三象限]・[第四象限]とあり[時・      空間](形態空間)の次元の[4]を呈示している。
     四次元は、[直交座標]のn次元(方程式)の積分係数の分子[1]      の分母の数を次元と観、その下空移行した次元と捉える。
          そこで[ネガティブ・ケイパビリティ]すれば、[直交座標]の3次元(方程式)の[原始関数]の積分係数(1/4)で掛け[極座標]の三次元の[球の数](4/3)を[直交座標]に変換(1/3)し、分子[1]の分母の数を次元と観とき[球の数]が[直交座標]に対して四つの象限(様相・ドメイン)を持つことから(1/3)×(1/4)で(1/12)と【数そのモノ】たちの一次元(数直線上)として≪…「偶うて空しく過ぐる勿れ」…≫とする夢想が≪…(邂逅)の不思議(偶然性)という問題意識…≫を伴って立ち顕れる。

    [数理哲学]の概念(作用素)である[1 0 ∞]から[十進法]で獲得したカオス(無限・連続)表示のシェーマ(符号)[e π]を通して眺望すると、『離散的有理数の組み合わせによる多変数創発関数論 命題Ⅱ』の[数学的思考]が[時間]を[-]と捉えさせていることをあらためて[数直線]へ落とし込むと原点[0]と[負](-)と[正](+)を獲得した[数直線]と生るのを、この『夢想の数(1/12)』の【数そのモノ】たちの中で立ち位置は、四次元の時間の[-]を掴んだ・掴まされたものを深淵するなら【数そのモノ】たちを代弁する[数直線](実数)の『-1/12』に生ることに生る。    
    離散的な[自然数](有理数)が連続的な[四則演算]できる[自然数](実数)となる[十進法]の基でのシェーマ(符号)の『夢想の数(1/12)』は、[無限(∞)]を[思考]する[人]が[有限]でしか[思考]できない『証』のシェーマ(符号)として[数学する思考]の[時間]を[-]として[無限(∞)](連続・カオス)から[有限](自然数・有理数・離散性)への『数学からの贈り物』の『証(-1/12)』と生り[数直線](実数の一次元)に刻んだと観よう。
    この事を含めて、次元数の[数]の言葉(言語)にも【数そのモノ】が[四則演算]を伴っているのは、九鬼周造の以下の言葉に集約されよう。

    ≪…非現実と虚無との中に永遠に死んでいる不可能性をして現実に向かって飛躍せしめるのは、偶然性の有つ神通力である。≫   ⇒ ≪偶然性の内面化≫ 
                            『P.M.』                          Q.E.D.

    その他、「偶然性の問題」の言説は、思考の『創発性』や『創生性』の『素朴な示唆に富む』ものなので次に列挙する。
    ≪偶然性の核心的意味≫
      ≪定言的偶然 → 「個物および個々の事象」 ≫
      ≪仮設的偶然 → 「一つの系列と他の系列との邂逅」 ≫
      ≪離接的偶然 → 「無いことの可能性」 ≫
    ≪偶然性の内面化≫
       本文に引用

    ≪目的的偶然から因果的偶然へ≫ 
      ≪因果的偶然=非決定的自発性(おのずから)≫
    ≪[異種結合の結果」 → 目的的必然=自由(みずから)≫
    ≪[同種結合の結果」 → 目的的偶然=自然(じねん)≫

    ≪仮説的積極的偶然の一般性格≫
      ≪…偶然… 独立なる二元の邂逅という意味構造≫

    ≪偶然の客観性≫
      ≪…偶然性とは無関心と無関心との交叉点の関心的尖端性にほかならない。≫
      ≪この尖端的交叉点はいかなる構造と存在性とを有っているのであろうか。≫

    ≪離接的偶然≫
      ≪…ヘーゲルによれば、…必然性とは「展開した現実性」…≫

    ≪原始偶然が偶然なるゆえんは与えられた「いま」の瞬間に偶然する現実性に存するのでなくてはならぬ≫
      ≪…水平的な時間軸を垂直に超えた次元に位置する…≫
      ≪偶然性の成立する現在は「一点において過ぎゆく」…無に等しい現在である。≫
    ≪…円…その無限の繰返しの総和が「永遠の今」である。≫

    ≪ またしても またしても ≫

    「数学の大統一に挑む」エドワード・フレンケル著 青木薫訳の「用語集」と『この夢想』を《数と図形(数量)のなぞ》としての≪…偶然… 二元の邂逅という意味構造≫に触れる。

    【アーベル群(可換群)】  
    ≪任意の二つの元に乗法をほどこした結果が、演算の順序によらない群、たとえば円周群はアーベル群である。≫
    『意味構造』
       [立体極座標]と[立体直交座標]との≪離接的偶然≫は、[立体    極座標]が一つ上の数学的概念(次元)を獲得(保持)してい    る事だ。 
         これから、【多様体】・【次元】・【双対性】・【写像】・    【保型層】・【ラングランズ対応】・【リー群】・【リー代      数】・【圏】・【層】・【数体】などなどがうかぶ。 

    【多様体】
        ≪円周、球、ドーナツの表面のような幾何学的図形。≫ 
     『意味構造』
        [立体極座標]と[立体直交座標]の【次元】・【双対性】・    【写像】の『眺望』 
        《円周》 →  線 
        《球》  → 『四次元空間』
                 4つの『ストリップ(strip)領域(ドメイ            ン)』は、《円周》(【多様体】の【写像】           (【双対性】)と『眺望』 

    《円周》(円)
        ≪ある与えられた一点からの距離が等しいすべての点の集合。ひ     とつの【多様体】である。≫

    【次元】
        ≪与えられた対象上の点を記述するために最低限必要な座標の     数、たとえば、線と《円周》は一次元であり、平面と《球面》    は二次元である。≫ 
        『意味構造』 
         [立体極座標]の《球》の【次元】としての【多様体】が、     [立体直交座標]の【次元】に【写像】(【双対性】)と     『眺望』されるとき、『計量構造(e)』・『空間構造       (i)』を獲得しで[ユークリッド幾何]の平行線を『眺望』    でき4つの『ストリップ(strip)領域(ドメイン)』に1・2・    3・4次元の≪因果的偶然=非決定的自発性(おのずから)≫の    【アーベル群(可換群)】の【多様体】を『眺望』する。  

    【双対性】
       ≪二つのモデル(理論)に、所定のパラメーターと対象の変換を     行ったときの同値性。≫
        『意味構造』 
        [立体極座標]と[立体直交座標]の【次元】と《集合》を     『循環構造(π)』と『計量構造(e)』それと『ストリップ     (strip)領域(ドメイン)』の『領域(ドメイン)の数、』が    【次元】の『数』と『球の数』とに【双対性】を呈示し『カオ    ス表示』と『コスモス表示』の[二元論](数学的弁証法の止    揚)を容認し・容認させられることに生る。

    【写像】
        ≪(ひとつの集合または【多様体】Mから、別の集合または【多    様体】Nへの)Mの各点に対して、Nの点を割り当てるルー     ル。≫
        『意味構造』 
            [立体極座標]と[立体直交座標]の【次元】と《集        合》を『球の様相』としての【多様体】を[直交座         標]の『ストリップ(strip)領域(ドメイン)』への       ≪…割り当てるルール≫が集合としてなされていると『眺       望』すると、【次元】・[連続]・[濃度]・[実数]       などの『眺望』を再認知することに生る。

    【保型層】 
        ≪…幾何学的ラングランズ対応において保型関数の代わりになる     もの。≫ 
        『意味構造』
         《球面》が『ストリップ(strip)領域(ドメイン)』への≪…     割り当てるルール≫の集合として『眺望』できること。 

    《球面》
        ≪与えられた一点からの距離が等しくなるような、平坦な三次元    空間の中のすべての点からなる集合として記述できる【多様     体】≫ 

    【ラングランズ対応】
        ≪保型関数(調和解析に現れる関数)(保型表現)をガロア群に     割り当てるルール。≫
        『意味構造』
         離散的には、『離散的有理数の組み合わせによる多変数創発     関数論 命題Ⅰ 命題Ⅱ』の『命題Ⅰ』が離散数の《数体》     の【次元】で『眺望』できる。
         
         『【アーベル群(可換群)】の【ラングランズ対応】』の       [連続体](【次元】)としての『眺望』? 
         『命題Ⅱ』が【アーベル群(可換群)】として離散数の《数      体》の【次元】で『眺望』できる。
    《数体》
       ≪与えられた有限個の有理数係数の一変数方程式の解の全体を有理    数体に添加した体≫

    《対応》
       ≪互いに異なる二つの種類の対象のあいだの関係。ある種類の対象    を、別の種類の対象に関係づけるルール。たとえば一対一対応    のように。≫

        『意味構造』
        『離散的有理数』の《数体》(【次元】)と[連続体](【次     元】・【アーベル群(可換群)】)を[コスモス]表示の     『眺望』から[カオス]表示で≪関係づけるルール≫と生るのを    『眺望』しようとすること。
     
    【リー群】
        ≪群の操作がなめらかな【写像】を生じさせるような、【多様     体】でもある群≫ 
        『意味構造』
         『球の様相性』の【多様体】((【次元】)が、[直交座       標]の『ストリップ(strip)領域(ドメイン)』へ【多様      体】((【次元】)が『球』での【多様体】の【次元】よ      りひとつ低い【次元】に【写像】されると『眺望』する。 

    【リー代数】
          ≪リー群の単位元に《対応》する点でこの群に接する、接空      間(タンジェントスペ -ス)。≫  
          『意味構造』
           先の<曲芸師の[輪]を[棒]で回す技>の≪[円周]と      [切点]≫の関係を【リー代数】と『眺望』する。  

    【圏】
         ≪数学的対象を表す「対象」(オブジェクト)と、任意の二つ     の対象間の関係を表す
          「射」(モルフイズム)からなる代数的構造。たとえば、      ベクトル空間はひとつの【圏】であり、【多様体】上の      【層】もひとつの【圏】である。≫ 
          『意味構造』
          『離散的有理数』の《数体》(【次元】)の≪代数的構造≫       の≪「射」(モルフイズム)≫が【数そのモノ】の『構造      定数』の【1】の[コスモス]表示が【アーベル群(可換      群)】となる[カオス]表示に『眺望』させようとするこ      と。
     
    【層】 
         ≪与えられた【多様体】の各点に対して、ひとつのベクトル空      間を割り当てるルールであって、ある自然な特性を満たす      もの。≫ 
         『意味構造』
          [直交座標]における[ピタゴラスの定理]の斜辺のルー      トの数は、ベクトル空間を割り当てるルールとして[平面      の数](二次元)の[濃度]を保持したと『眺望』する。

    【表現】(群の)
          ≪ベクトル空間の対象を、与えられた群の各元に割り当てる       ルールであって、ある自然の条件が満たされるようなも       の。≫ 
           『意味構造』
            四次元まで[四則演算]できる・できていることを≪…        空間の対象を、与えられた群の各元に割り当てるルー        ル…≫を[球の数]で【次元】を≪ある自然の条件が満        たされるようなもの。≫ として[カオス]表示の          [π]を『眺望』する。 

     『意味構造』は、【数そのモノ】の『眺望』を「用語集」に《対応》する[数学概念]で[数理哲学]との『眺望』を展開したものである。  
     したがって「用語集」の[基本群]・[群]・[自然数]・[集合]などを複合的な≪…偶然… 二元の邂逅という意味構造≫で『数学的弁証法の止揚』の[数理哲学]として[球]の[様相性](【多様体】・【次元】)の[視覚化]を[点]【円周】【円の面積】【円の表面積】【球の体積】に【次元】の影(内在秩序)として[基本群]・[群]・[自然数]・[集合]を分離できない渾然一体の言葉(言語)としては、[演算子](作用素)(= + - × ÷)をそなえた【数そのモノ】としての【十進法の基での桁表示の[自然数]】のシェーマ(符号)として【0 1 2 3 4 5 6 7 8 9]と『眺望』する。
      だからカオス表示を[内在秩序]するコスモス表示の[自然数](縮約(縮退)自然数)と生る。  

       ≪…円…その無限の繰返しの総和が「永遠の今」である。≫

            の言葉(言語)が、【数そのモノ】である。

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