山口栄一先生の『死ぬまでに学びたい5つの物理学』逆境に挫けない明朗快活人間へと成長するための物理学入門!!

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2017年酉年。

謹賀新年、あけましておめでとうございます。

山口栄一先生の『死ぬまでに学びたい5つの物理学』

本年第一回は、<希望の星>へと成長するための

物理学入門書を叡智の書としてご紹介します。

昨年暮れは、<和解>に注目が集まりました。

とはいえ、世俗とは誠に険しい道。

世俗に蠢く無明の嵐にも負けない逆境に挫けない

本来の「人間」へと立ち帰る<回遊する>学問精神を

ともに学びましょう。

『死ぬまでに学びたい5つの物理学』           (山口栄一著、筑摩選書、2014年初版第二刷)

平成29(2017)年酉年。

謹賀新年、あけましておめでとうございます。

本年も当ブログをご愛顧のほど宜しくお願い申し上げます。

さて、皆さんは、年末年始をいかがお過ごしになられたでしょうか?

管理人は昨年暮れの連休は、大掃除(神棚掃除や蔵書点検など)で休む暇なく、

空いた時間にまとめてブログ創作に励む傍ら、

年内は29日夜遅くまで仕事。

大晦日から元旦にかけては例年になく忙しかったために「遠出」することもなく、

地元の神社詣りに、親族接待などであっという間に過ぎ去った日々でした。

年明けも4日から仕事。

本日は免許更新などで大忙しで<やっとこさ>落ち着いたところです。

今回やっとの思いで待望の再連休を頂くことが叶いましたので、

本日よりまたブログ更新を再開させて頂きます。

ということで、

ご愛顧の皆様には何かとご心配とご迷惑をお掛けしてしまいましたが、

無事に生きていますので、ここに身辺事情のご報告と

「空白期間中」もご支援を頂いたこと誠に篤く御礼申し上げます。

それでは、いつもながら長い前口上もこのあたりで切り上げて、

早速、本年第1回の「本題」へと入らせて頂くことにします。

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「学問探究」の魅力発信を通じたいかなる逆境にも挫けない

明朗快活な「人間」へとともに進化しよう・・・

それが、当書評ブログの「本願」であります。

その「本願」に相応しい書物として、

平成29(2017)年第1回目記事は、

「物理学入門」を題材に皆さんへお届けさせて頂きます。

このように「物理学入門」とは称しているものの

難しい数式は必要最小限に抑えられており、

各物理学者の生き様や哲学思想の側面から

現代物理学「史」により比重が置かれた「入門書」となっていますので、

「文系」の方にも十分に楽しんで頂ける1冊となっています。

さて、本書の著者である山口栄一先生(以下、著者)は、

昨年末にも<九鬼周造論>でご紹介させて頂きました

藤田正勝先生と同じく京都大学大学院総合生存学館(思修館)で

教鞭を執っておられる理学博士研究者でいらっしゃいます。

近著には、

『イノベーションはなぜ途絶えたか:科学立国日本の危機』

(ちくま新書、2016年)

『イノベーション~破壊と共鳴~』(NTT出版、2005年)など

主に「科学と社会政策」をテーマとした著書を多数ものされています。

そんな著者が憂慮懸念されておられるのも、

我が国における<基礎研究>環境の年々の劣化事情であります。

このことは、我が国だけに見られる現象ではなく、

全世界的な傾向に見受けられるともいいます。

最近になってようやくその問題点に

遅まきながらも社会が再認識し出したようで、

政府の方でも必要不可欠な社会公共投資の一環として

力を入れて取り組みだしたようです。

とはいえ、ただ単に予算を十二分に組めば済むような

生やさしい社会問題ではないのだとする幅広い層における

社会認識に至ってこそ始めて

本格的な「基礎研究」の成果が<孵化>されていくことになります。

要するに、「思想(価値観)」の問題です。

万博の思想でも少し触れましたが、その「思想性の驚くべき欠如観」は

依然として、現代人に残された重要課題であります。

その「思想性の驚くべき欠如観」とは、

未だに「人類中心史観(<人類>の長寿と繁栄なる世俗的価値観)」に

覆われていることを見ても明らかでありましょう。

奇しくも、本年は前にもご紹介させて頂きました

南方熊楠先生の生誕150年を記念する節目の年だそうですが、

その南方先生が憂慮されていた問題意識も

その「人類中心史観」の限界にあったといいます。

(ちなみに、平成29(2017)年1月6日付け産経新聞朝刊

第12面文化欄によると、今月17日から『知の巨人・生誕150年

クマグス森羅万象』がスタートする予定とのこと。

<毎月第3火曜日>に連載されるとのことです。

「南方熊楠ファン」の方であれば必読記事となりそうですね♪♪

「それではなぜ、このような人類の知的環境における劣化が

進行してきたのでしょうか?」

その根本的問題点の底流には、

現代人の「即効性」を追い求める知的怠慢(退廃)志向があるようです。

つまり、「すぐに役立つモノ・コト(議論など)は、すぐに廃れ忘れ去られてゆく」ことに

人類は薄々感づきながらも、末永く生き延びる強靱な「本質論」を回避した問題設定から

知的探究を試みようとする疑似プラグマティズム的姿勢が幅をきかせてきたということ

他なりません。

言い換えますれば、知的議論の最終的方向性を決定する「目的」と「手段」の

倒錯現象のことを意味します。

それは、「知」を単なる「道具」に貶めてしまう

「知」を愛する哲学的視点の欠如した疑似(反)知性主義とでもいえる姿勢であります。

21世紀に至るまで人類は、

その価値観を問わずにひたすら楽観的な進歩史観を信じながらも

どこかに根本的な不安感を抱えつつ、

日々の「生存」を辛うじて生き長らえてきたのが実状でありました。

それは管理人も同様です。

とはいえ、「人間」であれば、ただ目前の「生活」に追われるだけの人生や

その苦しさからの一時の安住地としての「娯楽文化」に逃れ出るだけの

<消費やり過ごし文化=人生とは詰まるところ暇つぶし!?>なる

退廃文化の渦中で過ぎ越すのみでは

あまりにも虚しく悲しい一生に成り果ててしまうことでしょう。

もちろん、他人の人生観にとやかく物申す資格など管理人にもございませんが、

ここまでご愛顧頂いておられる賢明な読者の皆様であれば

多大な共感共鳴をして頂けるものと確信しております。

そのように信じながら生き抜いてきた管理人ですが、

普通の人間であれば、日々の「生活」における雑事に追いまくられて

なかなか「知的探求心」を発揮させてゆくゆとりの時間もないのが

正直なところでしょう。

「あ~、もっと俗事に追いつめられずに知的探究に勤しむための

ゆとりある時空環境が欲しい(とは、無い物ねだりですが、トホホ・・・)」

(管理人)

と、このように通常人であれば、

そうした最高に贅沢な知的時空間を創出すること自体が狭められてしまい、

通常通りの「世俗」的時空間へと舞い戻ってしまうのがオチになるのが

大多数の方々なら持つであろう正直な心境でありましょう。

そのような超絶に厳しい「世俗」環境の下でも、

「それでもなお、千万人と言えども我唯一人往かん!!」孟子)と

強い信念を有する志向性でもって「知的」人生を悔いなく駆け抜けようとする者にのみ

「天才=高い知情意(真善美)を宿した<霊的>人間」への道が開けてきます。

本書で紹介されている「天才」たちも、

最初から恵まれた環境にあったわけではなく、

たとえ恵まれた環境にあったとしても、

「人間」であれば誰しもが通過せざるを得ない

悲痛な道のりを経験してこられた方々ばかりです。

「それでは、余人にはない<天才>たちに見られる

いかなる逆境にも挫けない<人間精神>の共通項とはいかなる性格だったのだろうか?」

その生き様を知ることで、

たった一度限りの人生を真剣に生き抜こうとされておられるすべての方々に

力強い勇気を与えてくれることでしょう。

ことに現代の劣悪な「世俗」環境下においても、

めげずに「言い訳」することもなく、

淡々と黙々と「在野研究」に勤しんでおられる方にとっても

勇気と知恵を与えてくれる「座右の1冊」となってくれるものと

確信しております。

ということで、年頭を開始するに相応しい1冊として、

この本を取り上げさせて頂きました。

数々の逆境を乗り越えた天才物理学者に学ぶ         <新しい物理学入門書>

それでは、本書の内容構成の要約へと話題を進めさせて頂きます。

①「序章 強く生きるために物理学を学ぶ」

本章では、著者が19歳の頃に将来の方向性を決定されたという

きっかけから本書で語られるねらいについて触れられています。

それは、著者の北海道への旅行中に読破されたという

前にもご紹介させて頂いたスイスの物理学者パウリの著作『相対性理論』だったと

いいます。

そこに、『限りなく美しいものを見た』(本書11頁)といいます。

(ちなみに管理人も知的ロマンや冒険心が高じて、大学1回生の長期夏休暇を利用して

北海道への一人旅に赴きましたが、その時に携えていた本が『世界最終戦論・戦争史大観』

石原 莞爾著、中公文庫)と『ひかりごけ』(武田泰淳著、新潮文庫)

『破獄』(吉村昭著、新潮文庫)だったことを覚えています。

ちょうど京都駅から寝台急行「あおもり」『ポッポの部屋』様のブログ記事ご参照)で

北陸沿線沿いに北へ向かう旅程だったのですが、

朝起きたら偶然にも秋田県鶴岡市(庄内地方)あたりだったことも奇遇でした。

旅の先々では、ユースホステルを利用し、

各地で様々な方々との交流を深めさせて頂きました。

とりわけ、小樽では、

同じ大学の理学部大学院を卒業され就職が決定された先輩からワインをご馳走になったことも

今は良き思い出であります。そういや、旅先からラブレターなるものを絵はがきにて

送り届けたこともあったっけ(笑))

閑話休題。

このように「青春」期に旅した体験が『揺るぎない軸』(本書13頁)を生み出し、

その後の人生に多大な影響を与えたことが著者にもあったといいます。

その意味では、「旅と読書」が人生を決定的に変えるきっかけとなるようですね。

とはいえ、著者も教科書的な意味での「物理学」に飽き足らないものや

何か「不純物」のようなものを観じられたとも強調されています。

「教科書」的なお勉強は、それはそれとして「実学」には役立つことは確かですが、

「人間」としての感性や霊性を高めてくれるような素材はあまりありません。

『もっとちがう教科書、そしてもっとちがう教育方法があってもいいはず』

(本書14頁)との想いから、

著者の研究者だけではなく「教育者」としての挑戦も始まったようです。

この点に関して一言だけ物申すことをお許し願いますと・・・

昨今は、「研究者」か「教育者」かを厳格に分けて考える方々が増えているようですが、

その方向性には、えてして「向き・不向き」はあるにせよ、

大学アカデミズムに属するにせよ、もっと「教育者」としての自覚を持って

後進の育成に真剣に携わって頂きたいと願わずにはいられないのは、管理人だけでしょうか?

その点を振り返って考えてみると、

管理人の場合には「よき恩師」に出逢うことが叶い、

恵まれていたのかもしれませんね。

「知的探求心」が向上していくにつれて、

自らが研究している内容を「是非とも多くの方々に伝えたい!!」との熱き想いが

高じていくのが「よき」研究者だと思われるのですが・・・

それはともかくとして、

本書が目標として掲げる「物理学」も、

『純粋に「揺るぎない軸」を身につけるためだけの物理学』(本書14頁)

されています。

本書の基礎には、著者の大学院での講義『科学はいかにして創られたか』があります。

その講義内容を一般向けに「公開」されたのが本書であります。

以下、この<序章>では、全体的な流れがナビゲートされています。

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②「第1章 孤独から生まれた科学革命-万有引力の法則」

ニュートン-「神の御業たる真理」の発見者

・天才のインスピレーションを追体験する

本章では、今は「古典」の世界となったニュートンの業績から

始まった「科学革命」の黎明期事情が描かれています。

その「万有引力」の法則の全貌は、未だに開けたとはいえない段階にあります。

「宇宙を支える根源には、どのような力が働いているのだろうか?」

そんな素朴な知的探求心から、この「万有引力」の法則の端緒が開拓されていったと

いいます。

ニュートンの「科学革命」の本質は、

それまでの古代ギリシア時代から営み続けてこられた「自然哲学」を

支える論理により説得力ある補強材を与えることにあったようです。

この「自然哲学」には、頭だけであれこれと想像し考えるだけの

「思弁的要素」が強かったのですが、この思考的パラダイムトマス・クーン)を

超越しようとしたのがニュートンだったのです。

それは、きわめて「狭き門」であり、孤独な道のりだったといいます。

とはいえ、そんな孤独なニュートンの後世に多大な影響を

与えることになる業績もたった一人の「独力」で成し遂げられたわけではありません。

多くの先人たちの労苦とともにあった「研究者」人生だったのです。

そのことは、現代の「知」のあり方を省みるうえでも

いくら強調しても強調し過ぎることはない知的教訓であります。

今も昔もいわゆる「功名心」に駆られて大失態を引き起こす事例は

後を絶ちませんが(ニュートンもそのような側面があったようですが・・・、

本書43~46頁ご参照のこと)、

先達の業績に感謝せず、「ただ乗り」「横取り」する暴挙だけは

慎まなければなりません。

ニュートンにもそのような一面があったことは否めない事実ですが、

これからの「知」のあり方を展望していくうえで「再評価」し直したい点が、

「総合的学知」へと真摯に立ち向かった知的姿勢であります。

学際横断していくと、現代アカデミズムの学的事情では、

「安易に越境侵犯するな!!」なる大合唱が始まるそうですが、

世界的にも優れた「発見」を生み出してきたのは、

外野の声にもめげずに、一人淡々と黙々と「本質(根源)」へと

探究していった研究者であったのも実状でありました。

ところで、本章では、ニュートンに寄り添いながら

『天才のインスピレーションを追体験する』一節が設定されていますが、

詳細は本書でも引用されている前にもご紹介させて頂いた

インドの物理学者スブラマニアン・チャンドラセカールの

『チャンドラセカールの「プリンキピア」講義』での紹介記事と

著者の解説記事(本書48~54頁ご参照)をご一読下さいませ。

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③「第2章 哲学から解放された科学-統計力学」

ホイヘンスからワットへ-産業革命を起こした職人の技能

ボルツマン-パラダイムの破壊者に訪れた悲劇

・世界の乱雑ぶりを弾きだす

本章では、それまでの「総合的学知」の世界観から

現代に至るまでの学問の「分業専門化」傾向が

科学の世界でも次第に進展していくことになる「分岐点」が

<悲劇>の物理学者ボルツマンの「統計力学」誕生の背景描写を

主軸に解説されています。

特に、ニュートンを含めて現代科学の黎明期には

「光」の本質を把捉する力学探究に力が注がれてきたわけですが、

「光」の本質を巡っては

「物質(粒)」か「エネルギー(波)」かの深刻な対立があった時期に

当たっていました。

現代「光」学では、「光は波と粒子から構成される」との説が

次章以下でも次第に「定説」となりゆくのですが、

この時期は、その両説(粒子説と波動説)の狭間で一進一退の

攻防戦が、物理学者の間でも繰り広げられていたのです。

その両極端のいわば「マクロ」と「ミクロ」の結び目を

どうにか「統合」しようと挑戦されたのがボルツマンでありました。

ことにボルツマン批判の急先鋒がマッハ(音速原理<マッハ>で著名な物理学者)

だったといいます。

このマッハは、物理学者としての顔だけではなく、哲学者としての顔も

持っていたのですが、その「世界観」を巡って深刻な論争が展開されたと

いいます。

このマッハは、ニーチェなどとともに20世紀以後の思想に

多大な影響を与えたとされていますが、

厳格な「実証主義(つまりは、<科学は、観測できる事実に依拠すべき>

(本書69頁)」とするタイプの「科学者」だったそうです。

その「実証主義」的な姿勢には、

もちろん、人間が無意識に要請してしまう安定的秩序観が

背後に控えていますが、この点はアインシュタインの「相対的世界観」にも

引き継がれていったようですね。

≪なお、マッハとニーチェの世界観を簡潔に要約された好著として、

『マッハとニーチェ~世紀転換期思想史~』(木田元著、講談社学術文庫、

2014年)『反哲学入門』(同著、新潮文庫、2015年第7刷、

<マッハとニーチェ>と<世紀末ヨーロッパの諸相>と題する

206~210頁ご参照のこと)をお薦めしておきます。≫

その「安定的秩序観」への強い憧憬心が

後の「量子力学」的世界観をもたらすボルツマンの「統計力学」的物理観への

激しい嫌悪感情を引き起こしてしまったように思われます。

この「安定的秩序観」、とりわけ「強い」安定性を求める物理的世界観には、

人々の「絶対性」「普遍性」といった「真理」への強い願望が絡むために

現代でもマッハ的世界観に軍配が上がり、

「離散」的世界観とイメージされる物理的時空観に基づく哲学が

受容されるには根強い「壁」があるようです。

とはいえ、この宇宙の本性については、「絶対観」でも「相対観」でもない

「第3の時空観」へと次第に知的冒険者の「心眼」が向けられようとしています。

これまでの物理学における時空観では、マクロ的世界観では「連続体構造」であり

ミクロ的世界観では「離散体構造」とするイメージ像が一般的なイメージ像でしたが、

その両者の世界観は次第に急接近しながら結び合おうと

意図しているかのように見受けられます。

ただ、その「マクロ」と「ミクロ」の「結び目」を記述する方法論が

なかなか見つからずに、また「目に見えない」この宇宙の背後に潜む

諸現象を明確な「言葉」でもって記述するとともに、

万人の「視野」の前に「開けて」見せる手段がないことが難点であります。

そこに「(素朴)実証主義」の限界もあります。

しかも、「目に見えない」諸現象を「理論化」することによって、

「実証」研究に後事を託すといった手法も現在次第に「限界」へと

近づきつつあることが明白な事実となって現れ出てきています。

なぜなら、莫大な研究「費用」がかかるからです。

その成果が、「吉」と出るか「凶」と出るかも

前もって予測判断が付かないところが問題なのです。

そんなこんなで「相対論」に立つ「理論」物理学者の間でも

その「実証」研究の方向性、技術的方法論を巡って異論も提出されているようです。

(ちなみに、前にご紹介させて頂いた

カナダの「理論」物理学者であるジョン・W・モファット博士

『重力の再発見~アインシュタインの相対論を超えて~』には

この点に関する貴重な論考が収録されています。

なお、「量子論」から見た「実験」物理学者による「別論」は

また後日機会をあらためてご紹介する予定でいます。

乞うご期待でございます。

まとめますと、このマッハとボルツマンの論争を通じて

『科学は理論の正当性を問わず、有効性のみを問えばいい』

(本書73頁)へとあらたな「科学革命」へと飛翔していった

過程が丁寧に追跡解説されています。

とはいえ、その『有効性のみを問えばいい』姿勢が、

現代科学から倫理性が抜き去られていく要因になってきたのですが・・・

今後は、再「反転」する方向へと科学的探求心の姿勢が

変わるべき「潮時」となる時期に突入していくのでしょうか?

その意味では、伝統的「哲学」の課題であった「真善美」といった

「真理」探究の姿勢を決して捨て去ってはいけないように思われます。

この19世紀末期から20世紀以後にかけて、

「理論(基礎研究)」に先駆けた「技術先行」型科学研究が

現代科学の「王道」ともなってきただけに、

その「技術」がもたらす先行きにも想像の翼をより一層拡げていくことが

これからの「科学者精神」には求められること必定であります。

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④「第3章 宇宙の設計図を見つけた-エネルギー量子仮説」

プランク-物理学を変え、物理学を守った

・波であり粒である光とは何か

本章では、このように絶えず揺れ動いてきた

19世紀末期から20世紀以後にかけて進展していった物理学の

現状を再度「整理整頓」し直す時期が始まったところから

話題が展開されていきます。

その科学者が、マックス・プランクです。

本章では、そのプランクの業績が紹介されていくのですが、

その知的探究の端緒となった原点には、

「黒体輻射(放射)問題」の解題がありました。

この「黒体輻射(放射)問題」につきましては、

前にもご紹介させて頂きましたマンジット・クマール氏の著書

『量子革命~アインシュタインとボーア、偉大なる頭脳の激突』

ご一読されることをお薦めさせて頂きます。

そのプランクの功績と管理人が思われる一点こそ、

「人間中心主義」といった<人間原理>を超越せんと欲する

真の科学者「魂」であります。

「精神(知性・理性)」に偏ることなき「魂(感性・霊性)」を宿した

科学的探求精神であります。

以後、ドイツの物理学界では、第5章でも紹介されるシュレーディンガーや

ハイゼンベルクなど「神秘的哲学」へと次第に接近していく物理学者が

続出していくことになるわけですが、その過程で、

その「神秘」的「合理」主義とでもいった科学的探究精神が

ナチスによって「悪用」「乱(濫)用」されることにもなっていった事情が、

息子様の悲劇とともに解説されています。

管理人も研究主題として、科学と神秘(哲学)の「はざま」を探究してきましたが、

何度も「疑似科学」の危険性についてご指摘させて頂いたのも

こうした「よくわからない世界」が、

「世俗」的に悪用されてきた歴史的事実があったからです。

その点を考えさせてくれた著書に

高橋昌一郎先生の『反オカルト論』(光文社新書、2016年)がありました。

そのような問題意識を共有していますので、

管理人も「科学哲学」の原点に立ち返って目下学習中であります。

こうした「曖昧模糊」となりつつあった世界観から「物理学」を救い出したのが

プランクでありました。

著者も本章にてご指摘されていますが、

『「重要な発見」とは、人間がいなくても存在する、人間の認識とは

完全に独立した宇宙が現実に存在し、その宇宙を成り立たせている

「設計図」の一つを見つけたことをさしている』(本書92頁)のだと

されていますが、管理人もまったくもって「同感の至り」です。

とはいえ、この<人間原理>を超越するのは容易なことではありませんが、

この「越境せんと欲する精神」こそ「知的探求心」の源泉なのでしょう。

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⑤「第4章 失われなかった子供の空想力-相対性理論」

アインシュタイン-枠組みを揺さぶるユダヤ的知性

・中学生の数式で相対性理論を導く

本章では、いよいよアインシュタインの登場です。

管理人もこのアインシュタインに「学的精神」を

学ばせて頂いている一人ですが、

「宇宙の背後に潜む万有力こそ、<愛>」ではないかとの

秘やかな祈りには惹きつけられるものがあります。

もちろん、アインシュタインは物理現象を解明するに当たって

比喩的な表現を好んで用いられたようですが、

この宇宙に存在し得るあらゆる「物理現象」を

どのように見立て、どのように「活用」させていくかを

考えていった時には、やはりその「価値観(真善美問題)」に

目を向けざるを得ません。

アインシュタインの「心」を観察していると、

管理人にはいつもそのように思われるのです。

難しいとされる「相対性理論」の骨子につきましては、

本書をご一読下さることとしまして、

本章には、少しだけ難しい「数式」も出てきますが、

中学数学で習う程度の知識で

「相対性理論」を導き出した過程を追体験することが

出来ますので、実際に紙と鉛筆をご用意のうえで、

是非一度は挑戦して頂くことをお薦めさせて頂きます。

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⑥「第5章 神はサイコロを振る-量子力学」

ドゥ・ブロイ-誇り高き孤独と自由な精神

シュレーディンガー-遍歴と越境の生涯

ハイゼンベルク-科学的名声と原爆製造の汚名

本章では、「量子力学(論)」を導き出していった

それぞれの著名な物理学者の思考の軌跡が読み取れるような

趣向が凝らされています。

ドゥ・ブロイの<「夜の科学」の住人>(本書149~151頁)

シュレーディンガーの<全天候型の知識人>(本書158~160頁)

ハイゼンベルクの<無限の孤独>(本書174~175頁)の各節は

それぞれの「心境」が追体験出来る優れた記事となっています。

特にハイゼンベルクの人生が問いかけた科学者の「社会的責任」を

考える際には、いまなお貴重な論考素材となっています。

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⑦「第6章 科学はいかにして創られたか」

・新たな知の創造へのプロセス

・科学革命家たちの「創発」を検証する

・創発と回遊-新しいイノベーションの世紀へ

前章までは、主に「5人」の物理学者を「主人公」にして

<逆境にも挫けない生き様や考え方を物理学に学ぶ>がテーマでしたが、

本書最終章では、それぞれの科学者に見られた

新しい「創造(ひらめき)」が生まれる瞬間やその過程における

分析考察の素描とともに著者が<21世紀の科学とイノベーションの

モデル>(本書210頁)と信じられる「回遊精神」へと読者を誘います。

著者が本章にて提示される素描で使用される専門用語には、

若干程度、「複雑系科学」の知見が要請されますが、

内容はそんなに難しいことが記載されているわけではありませんので、

その点はご安心下さいませ。

(なお、「創発」などの「複雑系世界観」に絡む視点については、

記事①記事②をご一読下さると幸いです。)

ちなみに、「創発」現象とは、

著者の定義をお借りして簡潔に要約させて頂くと、

『既存の知からまったく新しい知を創造』(本書187頁)して

創出されゆく現象過程全般を指して、

そのように表記されることが多いようです。

また、管理人のイメージする「創発」現象の本質を

簡明に示した俚諺としては、

「瓢箪から駒!?」がそれに該当するようですね。

「創造」の瞬間は、通常の学校教育で学ぶような

「論理」的手法ではなかなか「発見」され難いようです。

なぜなら、その「創発」が生み出される「推論過程」では、

「深層意識」の領域でその「創造」と「発見」が「孵化」される<時>が

準備されており、「ブラックボックス状態」となっているようだからです。

このあたりの「創造」と「発見」の過程モデルを

本書の「5人」の研究スタイルの解析とともに

うまく要約されているところに本書の魅力があります。

あらたな「学問的創造」には、「観察(洞察)力」が検証に先立つといいます。

現代科学(学問)では、検証(実証)にこそ主眼が置かれますが

(もちろん、検(論)証過程抜きの勝手な当てずっぽう解釈では

説得力を持たせることが叶いませんので、

「実証」姿勢はきわめて大切な過程であります。)、

先に「仮説」という問いを立てて、「モデル(自分なりの理論スタイル)」を

構築する力を養成していく志向性こそ、現代科学(学問)が

復権させるべき課題であります。

本書を通じてあらためてこの「最初の一打」にこそ

その後の「開花」の方向性を決定づける要素となることを教えて頂きました。

そして、この各人各様における「特殊的」学問スタイルこそが、

やがては、人類だけではなくすべての森羅万象にご恩返しする「普遍的」解へと

育ち上がっていきますことを考えますと、

「学問」を志す「人間」にとっては、

より一層の「感性」や「霊性」、それによって導き出された「ひらめき(発見)」を

適切に記述するための「知性」を磨き上げていく姿勢が厳しく要求されることに

あらためて気付かされることになります。

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⑧「あとがき」

⑨「参考文献」

⑩「事項索引」

⑪「人名索引」

※「参考文献」から「事項索引」、「人名索引」は

本書を手がかりにさらなる「物理学入門」をされていこうとされる

皆さんにはお役に立つ情報が満載ですので、

適宜の使用法でもって、それぞれの世界へと「飛翔」していって

頂きたく、本書ご推薦の言葉と代えさせて頂きます。

人類が現在次元の「世俗」的価値観を越境するための知恵:  「創発」と「回遊」する学的イノベーション精神

さて、本書ご紹介の仕事は一応の目途が立ちましたので、

<新年のご挨拶>と<年頭の抱負>を若干程度語らせて頂いたところで、

次回作へとつなげさせて頂くことにします。

(新年早々、力みすぎて「ぶっ飛ばす」と思わぬ「事故」にもつながりかねませんので、

ゆっくりと船出させて頂くことにします。

ちなみに、昨日、管理人の私事で恐縮ですが、免許更新講習を

普段の仕事量を縮小して受講させて頂いたのですが、

最近は、「スマートフォン(俗称:スマホ)」を見ながらの

「ながら」運転による事故が多発中とのことでしたので、

皆さんも「依存症」にならぬ程度に、せめて「運転中」くらいは

我慢してお気を付けながら運転されることをくれぐれもお願い申し上げます。

国家公安委員会からのご要望でもございます。)

それでは、<年頭の抱負>を申し上げます。

2016年は、「申年」。

2017年は、「酉年」。

この両年にまたがっては、

文字通り、人にとっては人生を一変させる「節目の年」になることが

多いともいわれています。

翻って、個人的人生から世界的情勢に目を向けてみましても、

相変わらず「不安材料」が目に付くようです。

とはいえ、歴史を明るい方向に転じるも、

暗い方向に転じさせるも、

一人一人の普段からの考え方(志向性=想念)が

その行く末を方向付けていく切り札となります。

そんな中で、若者はこれまで「内向き志向」だとか何だとか

批判対象ともされてきたようですが、

明るい「兆し」も見えてきているといいます。

(平成29(2017)年1月6日付け産経新聞『正論』

<年頭にあたり>『大いなる楽観が国の将来を開く』

日本財団会長:笹川陽平氏による論考記事ご参照

そこでは、確実に増え続けている「未来志向」の若者が

閉塞した社会を切り開く前途有望な青少年として成長しつつある

語られています。

「人間」としての成長と進化には終わりがないのです。

「希望」と「意欲」さえ見失わなければですが・・・

とこのように綴ってきましたところで

年末年始にはあまりにも多忙で課題図書にも身が入りませんでしたが、

ただ岡潔先生の一連の著作集(現在一般向けに公刊されているエッセー集)だけは、

当初の予定通り「全巻」ノートに重要事項のみ書き写しつつ読み終えることが叶いました。

と言いますのも、本年の正月には

若き「教育者」である身内親族が「新たないのち」を宿しつつ、

挨拶に訪れてきてくれることに全神経を集中させてきたことが

きっかけだったからです。

また、姪っ子が再訪することにも深い歓びを感じてきたことから、

「情緒」の教育手法について真剣になって向き合うべき時が

管理人自身にも訪れるようになってきたからです。

何とあの「ピコ太郎」氏と管理人の素顔も描いて見せてくれました。

「言葉」や「数字」感覚も3~4歳児にしては、

上出来なものがありました。

来るたびに「進化」しているのを観察すると、

前にもご紹介させて頂いた『アインシュタインの逆オメガ』が提起していた

生物の進化に即した<無理のない自然な>幼児教育が重要であることに

ますます気付かされます。

皆さんもあまり幼児には無理をさせない方が、

「情緒」の発達のためにもより好ましいようですよ。

「情緒」が適切に育ち上がっていくと、

「知的好奇心」も自然に発達していくそうですから、

是非、大切な愛するお子様がおられる親御様には

十二分な「語りかけ」と「スキンシップ」をお願いいたします。

そこで、岡潔先生が一番強調されていたことがございます。

それは、「大脳前頭葉教育(つまり、「意欲」と「情緒(希望など含む)」)」を

育む教育機会が現代教育からは見事に剥奪されており、

「側頭葉教育(つまり、クイズ番組に出られるだけの知識暗記型<衝動判断力>の養成)」に

偏重されてきたことが指摘されていました。

しかも、岡潔先生は、奈良「女子」大学の教授でもあられたことから

男性と女性の持つ違いに敏感でなければ

教育に携わる資格などないのではないかと真剣に悩まれたうえで

本業の「数学」研究以上に「教育」研究を熱心に進められておられました。

この点に管理人も興味関心の中心があったのです。

なぜなら、管理人自身は、男兄弟ばかりの家庭に生まれ育ち、

高校も「男子校」で過ごす体験があったことから、

戦後の価値観では「普通」とみなされてきた

「男女共学教育」にも人とは異なる多大な問題意識を抱え込むことになったからです。

そこで、姪っ子という「女性」中心の生活に切り替わってきた人生を

歩むことになったことがきっかけとなり、

あらためて「女性」教育の方向性についての独自研究をも

開拓していく必要性が高まってきたのです。

また今後30年内外で、「人工知能」開発も進展し、

この幼子たちが社会に出る頃には、

2017年現在時点では「当たり前」とされている人生観や経済観など

あらゆる「価値観」の転換が次々と生起してくることも予想されるところです。

そんなこともあって、私たちの世代が受けてきた「側頭葉教育」とは異なった

<より良き>成熟した「人間」へと進化・成長していくのに

適切な教育を伝授してあげるためには、

どのような教育的配慮がより優れたものなのかとの想いが募っていったのです。

今後の教育における成功の鍵を握る秘訣こそ、

本書でも「物理学」の方向性を通じて示された「愛」という「心」にあるものと

確信しています。

なぜなら、今後の「人工知能(機械技術文明化のより一層の促進)」によって

「人間」がますます「昆虫化」していくおそれも十二分に予想されるからです。

この点につきましては、岡先生も憂慮懸念されていたところでした。

今後の経済生活における主題も「愛」にこそあります。

読者の皆さんへお届けしようとする想いも同じです。

公的な「ベーシックインカム」実現に頼り切るのも

なかなか難しいですし、

民間有志だけのボランティア福祉だけでも難しいのが現状です。

とはいえ、2017年以後、

「未来志向」と「和解」が

人類の進化するか退化するかの<分水嶺>となってくることだけは

まず確かなところですので、

管理人も出来うる限り「言い訳」せず、「まずは形から・・・」ということで

「愛」ある実践活動を自らにクセづけしていくべく精進して参りますので、

皆さんにも、その共有活動へのご理解を賜り

ともに人類の「霊性向上」のために

ご参加・ご協力のほど宜しくお願い申し上げます。

「明るく前向きで楽観的な社会実現は、いま・ここに・ここから」です。

管理人の「想い」も前回ご紹介させて頂きました

『妖怪へヴィメタルバンド陰陽座』さんとともにあります。

その「心」こそ、『風人を憐れむ歌』と共通します。

「人間」30代後半にも差し掛かると、

世俗的な「出世競争」にはあまり関心が向かなくなるようです。

(もちろん、人によってその温度差は異なるようですが・・・)

つまり、「自分」そのものの世俗的優越感情に比重を置いてきた

10~30代前半におけるような願望が薄れてきているようです。

ここからの「余生」は、後進に何を伝え語り残していくかが

人生における課題となります。

その答えこそ、「愛」への目覚めであります。

「学問」や「芸術」に勤しむほどの者であれば、この段階に至らなければ

何も学び得たことにはなりません。

まとめますと、今後ますます重要となってくるであろう「学問」の意義とは、

「すぐには役に立たないけど、世代間の継承に十二分に値する宇宙の根源に

潜む<叡智>を再発見していくことにある」ということになりそうです。

そのためには、人類全般の福利の向上をより安定させるための社会インフラ設計や

人類以外の森羅万象を包み込む生態系にこれ以上損傷を与え続けない仕組みづくりへと

「学問」から導き出されてきた叡智を活用させる方向へ「心」を向けなければなりません。

そのための『双龍天翔』であります。

ですので、この「場」を、「肩書き」や「(世俗的)価値観」に囚われず、

どなたでも真摯な想いで学びあえる意欲の高い志を持った方であれば

「出会いと相互発見の場」となるべく育て上げていきたいものと願っています。

本年もこのような高い志でさらなる飛躍を目指していくことで

人間的成長につなげたい・・・

それが、本年も変わらぬ<年頭の抱負>です。

「皆さん、大胆かつ繊細な<人間>精神でともに成長していきましょうね・・・」

ということで、本書のご紹介を通じて

「年頭にあたってのご挨拶・抱負」へと代えさせて頂きますとともに、

皆さんの今年1年のご多幸を祈る「言祝ぎ」ともさせて頂きます。

その突破口となってくれる生命エネルギーこそ、

「創発」と「回遊」の学的イノベーション精神であります。

最後に著者の勇気の出る言葉を引用させて頂くことで

本年第1回目の記事を締めくくらせて頂くことにします。

『一度しかないこの人生。何を達成したいか。

自分は死ぬまでにどこまで行けるのか。

人生の夢をいつもめざしていれば、何度挫折しようとも、

どんなに孤独でも、気にもなりません。

越境した先でその村人たちから意地悪されても、へっちゃらです。

人生の夢に至る道は、最初思い描いていた道の先にはないかもしれない。

だから「知の越境」を果たして異なる価値観に積極的に触れ、

自分の「回遊」力を鍛えるのです。

それは最後には、世界を強く生きていくための「揺るぎない軸」を、

きっとあなたにもたらすことでしょう。』(本書217頁)

なお、物理学者を通じた「物理学入門書」として、

①『物理学はこうして創られた~竹内均・知と感銘の世界~』

(竹内均著、ニュートンプレス、2002年)

②『現代物理学の扉を開いた人たち~竹内均・知と感銘の世界~』

(同上、2003年)

また、

③『闘う物理学者!天才たちの華麗なる喧嘩』

(竹内薫著、日本実業出版社、2007年)

併せてご紹介しておきます。

最後までお読み頂きありがとうございました。

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2 Responses to “山口栄一先生の『死ぬまでに学びたい5つの物理学』逆境に挫けない明朗快活人間へと成長するための物理学入門!!”

  1. 1729 akayama より:

     ≪「この『圏論』というのも<数そのもの>と何か関係がありそうかも・・・」と ≫

     南方熊楠≪南方曼陀羅≫の鶴見和子先生の≪悴点≫の思想(思考)に時の流れ(時間)を加味した[森の思想]では、「南方熊楠コレクションⅤ 森の思想」の解題における中沢新一先生の定義に、
     ≪神々が森に住んでいるのではなく、森そのものが神だったのである。森は原神道にとっては、神聖なるカオスとして、神が生まれるトポスだった。≫ 
     中沢新一先生の哲学が微分的に構えているのとこの事を踏まえて、≪カオス≫を『自然比矩形』そこから湧き立つのを≪トポス≫と観取れば、【数そのモノ】の『圏論』的な俯瞰が観えそうだ。

     以下は、【数そのモノ】の[ポエジー]と[トポス]の揺籃としての≪森の思想≫(思考)による戯言を臆面もなく曝す。
     『自然比矩形』は、[カタストロフィ]と[スービタイズ]を持つ[トポス]と観る。
     ここにはすでに[四則演算][微分・積分]を内包(包摂)している。

     [離散的]と[連続的]との関係は、[エナクティブ]な数学(【数そのモノ】)が[オートポイエーシス]としての[自己組織化]と観得る。
     
     都甲潔氏他の「自己組織化とは何か~第2版」からの
      ≪生物細胞や粘菌の「自己増殖」をイメージする…≫
     この≪イメージ≫を『自然比矩形』に観照できる『離散的有理数の組み合わせによる多変数創発関数論 命題Ⅱ』の『自己無撞着の非摂動方程式の解(パラメータ)』は、【数そのモノ】の意識(光)を発酵させている。

     【数そのモノ】は、≪「光=粒子+波」として受容≫ していることから ≪粒子+波≫ を受容しているのだ。
     この≪受容≫は、[数]の順序性と量(大きさ)の両義性である。 
     この両義性は、
        [離散的]と[連続的]
        [コスモス]と[カオス]
    の双対性である。

     ≪「非局在性(つまり、宇宙に偏在しているイメージ像)」≫は、[カオス]で
    ≪「量子的世界観」とは、「確率統計的(離散的)非連続世界構造」≫は、[コスモス]と観得る。
     ≪「量子力学」における「数学的記述法=数式」そのものは、世界観をなにも語らないという≫ とするも西洋数学の成果の(超越数[e π])と虚数(i『動的作用を持つ』)は、『数理哲学としての観(vision[作用素(1 0 ∞)])』を醸成している。
     『離散的多様体』のここの[対象](事象)の[対象](事象)間の[射]からなる離散的創発代数的構造の『自己無撞着の非摂動方程式の解(パラメータ)』は『孵化係数』、であり、これは≪『圏論』≫では[量子トポロジー]と観なしてよい。
     そうすると、 ≪人間を含め生物は、「生き生きと」活動する≫との[形態空間]における≪「自己組織化機能」が自由自在に働く≫との発酵からなる[量子トポロジー]と観る事に生る。
     さすれば、思考という時間を加味して、【数そのモノ】は、『孵化係数』を[関手]として[三次元で閉じている]と観てよい。
     [量子トポロジー]は、[量子力学]と[古典力学]の橋渡しとしての[プランク定数h]で説明しているもので、[プランク定数h]で[連続性]を断ち切り[量子(粒子)化]していると観る。
     逆に、『離散的多様体』の次元解析を『自然比矩形』の[連続性]で置き換えると次元は[層]として[位相空間](相空間)と掴め[カオス表示]の【1】の双対性で観る事に生る。
    これは、[量子トポロジー]の対とする『相トポロジー』を表現していると観てよいのではないだろうか。
     ここにも、『数理哲学としての観(vision[作用素(1 0∞)])』を観る事が出来る。
     そして、西洋数学の成果の虚数(i『動的作用を持つ』)が、『自然比矩形』の[連続性]を組み込むのに『自己無撞着の非摂動方程式の解(パラメータ)』が、虚数[i(ベクトル)]と超越数[e]を顕在化させないで【数そのモノ】を滑らか(連続性)に保持していく。
     次元を[層]と扱うなら、【1】の双対性の[カオス表示]は、[関手]と観立ててよい。
     そして、ファインマンが人類の至宝の式(オイラーの等式)と謳ったのを『自然比矩形』の次元(層)間の比の等式にぶち込めば、≪ミクロ世界をとことん追究してきた「量子論」でしたがどう頑張ってみても「マクロ世界との結び目」に近づけないようです。≫ は、 極微化値(1/exp[n-1])と極大化値(exp[n]-exp[n-1])の積(カオスのカオス化)として代々累々に立ち現れる【1】が、【数そのモノ】に『圏論』を内在させていると観るのは[梵我一如]なのかもしれない。
     華厳思想(思考)の系統をひく、司馬遼太郎著の「空海の風景」での認めの、
       【一はすなわち一切であり、一切はすなわち一である】
       【一切は零であり零は一切である】 
     とあるのは。『数理哲学としての観(vision[作用素(1 0 ∞)])』を倦む[基]のような[悴点]なのかな?

     〔リーマン教授との対話〕に小山信也先生が記している、
     ≪・・・整数環には係数体がありません。≫
     この事と離散的創発代数的構造の『孵化係数』が、[元]としての[関手]の【1】を呈示することと【数そのモノ】の十進法の自然数【0 1 2 3 4 5 6 7 8 9】が縮約(縮退)自然数である事とは、(超越数[e π])と虚数(i『動的作用を持つ』)をサラート[内在秩序]としてしまう―[鳶に油揚げ]―思考(禅思考)はナントモオモシロイ・・・

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