福井一先生の『音楽の感動を科学する』音楽にはヒトを癒す力があるとはいうものの・・・
『音楽の感動を科学する~ヒトはなぜ”ホモ・カントゥス”になったのか~』
音楽生理学などをご専門とされている福井一先生による著作。
現在、音楽を始めとする文化産業による市場経済効果には
目を見張るものがあります。
また、医療業界でも音楽療法には一定の効果があるとされ
積極活用されています。
しかし、科学的観点からはなお不透明な側面があることも
指摘されています。
今回は、この本をご紹介します。
『音楽の感動を科学する~ヒトはなぜ”ホモ・カントゥス”になったのか~』(福井一著、化学同人選書、2010年第1版第1刷)
福井一先生(以下、著者)は、
音楽生理学や行動内分泌学をご専門とされている
音楽とヒトの生理現象に関する身心相関論などを
研究テーマの主題に据えられてきた研究者とのことです。
研究モットーは、<たかが音楽、されど音楽>だそうです。
著書には、『音楽の謀略~音楽行動学入門~』(悠飛社、1999年)
などがあるといいます。
さて、今回は、前回の記事内でも予告させて頂きました
音楽をテーマに本書のご紹介とともに考察していきたいと思います。
「そもそも、人間にとって音楽という存在はいかなるものであろうか?」
「言語とともに音楽が人間にとって必要とされるようになった起源の謎とは?」など
ヒトにとっての音楽の存在意義を巡っては様々な問いが立てられてきました。
その解答例(仮説)は本書でも提出されていきますが、
言語とともに音楽もその起源については依然として謎に包まれています。
反面、冒頭でも触れさせて頂きましたように
現代経済市場において、音楽が関連する産業による経済効果には
多大なものがあります。
特に、音楽はヒトの「心」へ直接的に働きかけるために、
経済心理に及ぼす効果も絶大であり、
景気の動向を予測するうえでも重要な指標となり得ますので
決して無視し得ないものがあります。
また、医療業界における音楽療法の導入にも
ますます注目度が高まってきています。
その効果のほどは、本書でも提示されますように、
科学的には疑問のある余地も多々あるようですが、
一定の効果が見られてきたことも否めない事実です。
そのため、昨今の社会福祉医療費の削減目的や
予防医学の一環としても音楽療法には過大な期待が寄せられています。
とはいえ、その科学的効果という観点から見ると、
その多くが仮説の域を出ずに、患者個々人のケース事例は
積み重なるも、安易に一般化して、
どんな音楽でも、特に<癒し効果>があるとされる音楽でさえも、
絶対的に万人に対する効果があるとまでは断言できないという点に
つきましては、やはり一定の注意を払っておく必要がありそうです。
世の中が不況になり、身心ともに疲れ切った人々の数が増加するにつれ、
こうした<癒し音楽>市場が成長してきたことは周知のとおりです。
さらに、受験産業市場では、「モーツァルトを聴くと頭がよくなる!?」などという
まことしやかな俗説まであります。
確かに、一定の効果も見込めるのでしょうが、
本人の勉強に取り組む姿勢や学習方法論に大きな欠陥があれば、
そもそもその<モーツァルト効果>に限らず、
BGMを利用したいわゆる「ながら学習」には何らの効果も認められないだろうことは
良識ある皆さんであれば容易に推測することも可能でしょう。
そしてとりわけ重大な注意を払っておきたい視点が、
音楽のこうした経済的利用面だけではなく、
人類の過去史において政治的にも利用されてきたことであります。
その悪用事例については、本書でも解説されていますが、
後ほど本文内でも若干程度触れる予定でいますが、
ウソか誠か、その旋律を極端に変調させることで
人々の間に不協和状態を創出することによって「分断」、
<分割して統治せよ!!>のごとく、無用な争乱や騒乱が引き起こされてきたとの
見方も一部にはあるようです。
こうした見方は、一部の極端な「陰謀論(仮説)」に多々見受けられるようですが、
学問的にも科学的にも精確な検証を経た情報提供も欲しいところです。
本書では、あくまで生理機能に関わる音楽効果が主題ですので、
そこまでの詳細な分析考察までには至っていませんが、
是非、今後は著者のみならず、音楽業界に携わる方と科学者との協働作業によって、
この領域における研究幅を拡張して頂きたく願っています。
なぜなら、音楽を始めとした芸術が、世の中を調和ある状態へと導くものと
管理人も信じているからです。
著者も、本書<長~いまえがき>(本書1~9頁)の結語として
『決して大げさではなく音楽によって、崩壊した社会を再構築できるだろう。
音楽にはその力がある。』と力強く宣言されています。
さてこのような目的意識を有する本書では、
音楽を通じてヒトが<社会化>されていったとの見方を提示する生物進化論からの知見や
最近の脳科学から判明してきた知見などの紹介解説とともに
著者独自の仮説が提示されていきます。
それによると、本来であれば、
音楽とはある種の「社会統合機能」を果たすところに起源や存在意義があったものと
考えられてきたのに比して、
現代では、音楽の多種多様化に比例するかのように
ヒトの個人主義化もますます進展していくなど
かえって、社会の崩壊に向かっていっているのではないかなどの懸念が示されています。
一方で、音楽がヒトの情動に働きかけ、
「心」を揺さぶってきたことは確かな事実ですので、
そのメカニズムが十二分に解明されれば、
上記のような問題も自ずと解決の目途が立つものとも期待されています。
このように、音楽は言語の謎とともにヒトにとっては古くて新しい重要テーマです。
今後、人工知能と人類の協働社会のあり方を考える際のヒントとしても
役立つ視点を提供してくれることでしょう。
ということで、今回は、管理人にとっては難しいテーマでもあり、
なかなか明解な論旨を提供出来ない点も多々あろうかと思いますが、
それだけに挑戦しがいのあるテーマでもあり、
皆さんにとっても、興味深いテーマだと思われましたので、
今回はこの本を取り上げさせて頂くことにしました。
<ノーミュージック、ノーライフ(もはや生活に音楽は欠かせない)>現代人だからこそ、その効用を科学的な観点からも一度は考えてみたい論点です!!
それでは、本書の内容構成に関する要約ご紹介に入っていきますね。
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①『第1章 音楽と科学』
※著者はまず、<言語も音楽も普遍的な存在>という項目において、
『文字のない文化はあっても、音楽のない文化はない』(本書21頁)とする
見解を提示されながら、言語と音楽の違いに関する分析考察を始められています。
それによると、文字(言語)は
人間にとってはどうやら先天的に備わった存在ではないらしいとの推論とともに
音楽の謎を語り出される前の序説として、
これまでの言語研究にまつわる知見が紹介されています。
その序説を経た後に、いよいよ音楽のヒトの社会における存在意義に関する
科学的考察が開幕します。
生物進化論の観点から、ダーウィンの<適者生存>を手がかりに
ヒトにとっての
『生存に適した「行動」や「特徴」を「生存価」と呼ぶ。』(本書25頁)との
定義づけの下、音楽の「生存価」に対する探究の軌跡を
様々な角度から綴ったのが本書の主題だと問題意識を提示されています。
音楽を科学的な角度から探究することで、
著者は、『人間の存在や本質の理解につながるのだ。』(本書26頁)とされています。
その副次的利益としては、すでに冒頭で語らせて頂いたような実利的意味があるとも
指摘されています。
そして、本書ではこうした音楽の科学的研究が最終的に到達すべき理想像の1つとして
音楽によるヒトの社会的存在意義を回復させる触媒としての役割が期待されています。
ここから、<音楽から社会が見えてくる!>と題する視点から
<音楽の形式と社会形態の関係>(本書26~29頁)について語り出されています。
とりわけ、ヒトの社会が複雑化されていくにつれ、
ますますヒトは音楽を必要とする環境が整えられていったとの見解は、
本書第11章における<生存のための戦略-音楽の機能を問い直す>(本書238~
246頁)でも再度繰り返し強調されているところであります。
このヒトの社会化に音楽が果たした役割も功罪含めて数多くあり、
この後すぐに若干の事例が紹介されています。
このような事例紹介とともに
著者は、『音楽は、社会から隔絶したものではなく、社会や政治と密接に
結びついている。』との見解から、音楽評論家などに比較的多いとされる
『いわゆる「芸術のための芸術」音楽至上主義など絵空事だ。』(本書36頁)と
強く異議申し立てをされています。
また、<普遍性>という言葉を安易に今日持ち出せば、
すぐにも異論・反論が来ることが予想されるところですが、
その批判的解釈の1つに「文化相対論」的見立てがあります。
著者は、本書を通じて科学的研究を経た分析考察の結果、
見えてきた知見の紹介解説とともに
一見するだけでは文化的には異なって見える音楽にも
やはり<普遍性>や<共通性>があるだろうとの仮説を提出されています。
この分析過程で特に注意すべきだと強調される点は、
音楽を「表層レベル」の理解で済ますことなく、
「基層レベル」の理解にまで深める視点が重要だということです。
社会的生物であるヒトが音楽する時、
<ホモ・サピエンス>は、
<ホモ・カントゥス(音楽するヒト)>になるのだを合い言葉に
本書は、そのヒトの<ホモ・カントゥス(音楽するヒト)>としての
側面を明らかにしていくことになります。
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②『第2章 音楽が不可欠な現代社会』
※本章では、人類がまだ狩猟採集時代にいた頃から
現在に至るまでの音楽との関係史について、
おおまかに解説されています。
現代のような「文明」時代が進めば進むほど、
ヒトにとって必要とされる音楽の役割も
原則的に「個人」が楽しむ個的文化志向となっていきます。
とはいえ、もともと、人類の原初期(狩猟採集時代)においては、
集団間のコミュニケーション技法の一手段として
主として、「音」が用いられていただろうことから、
人類にとっては、『最初から音楽はユビキタスだったのだ。』(本書45頁)と
推論されています。
ヒトが「文明化」する。
つまりは、「社会化」していくということは、
強いストレスに常時晒されることを意味するわけですが、
そこからの解放を願って、
音楽にもストレス解消機能があるとの側面が、
徐々にヒトによって「発見」されていったことなどが語られます。
そのことが、<音楽をストレスという側面からとらえると>
(本書50~58頁)にて解明されています。
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③『第3章 音楽を科学する』
・コラム1:<エディプス・コンプレックスとウェスターマーク効果>
・コラム2:<フロイトは科学的か>
※前2章が本書<序論>部だとすれば、
本章からは、いよいよ「音楽を科学する」試みが始動します。
まずは、世にある音楽にまつわる俗論を厳しく批評されています。
特に、今日では多大な誤解を招くことになっている
「右脳」信仰論にまで悪用されるようになってしまった
角田忠信博士の『日本人の脳』で展開された学説が
一刀両断に「否定」されています。
著者によれば、上記「角田説」には、科学的根拠もなく、
現代では支持者も少なくなっていると「断言」されています。
管理人は、脳科学に関する専門家でもなく、
また、具体的かつ詳細な知見も持ち合わせておらず、
関連文献を幅広く読み漁るまでの生活環境にはありませんので、
著者の見解も学界ではどの程度の「信用力」があるのかも評価し得る
立場にはいませんが、少なくとも社会的影響力の強い「角田説」も
1つの「仮説」にしか過ぎないとの見方には
注意しておく必要がありそうですね。
「学説」とは、学者の知名度にも左右されて、
「仮説」の真偽を離れて、社会的には一人歩きすることが多いだけに、
著者により本書で提示される「仮説」も含めて、
私たち一般の素人からは、安易に「一般化」、「真実化」して
有り難がり過ぎることも注意する必要があります。
このことは、これまでも強調させて頂いてきましたし、
今後とも折に触れて、注意を呼びかけさせて頂きたいと思っています。
いずれにせよ、著者の意図は、このような社会的知名度の高い学者の
「学説(仮説)」が、学者自身の「本心(意図)」から離れて、
勝手な文脈で好き放題に引用されながら、
社会に「拡散」されていくニセ科学の横行に警鐘されていることに
主眼があるということです。
第5章コラム4などでも繰り返し強調されている点であります。
そのことは、コラム1やコラム2でも紹介されているフロイト以来の
現代「心理学」や「精神分析学」が社会に及ぼした影響力についても
共通する問題だといいます。
本書では、音楽を主題に<科学的>にヒトの「心」の解明にまで至る
今後の「科学」による道すじが語られていきますが、
管理人自身は、ヒトの「心」を語るに際しては、
「心理学(精神を扱う哲学・宗教)」にも「科学(脳科学など)」にも
偏りすぎないように気を配りたいと願っています。
本書評の志向性は、「あいだ」という中道志向の立場から
科学から心理学に至るまでの知的探究をしていきたく願っていますので、
ここでの書評を通じた管理人自身の見解もあくまで一私見にしか過ぎないことは、
賢明な読者様におかれましてもご注意願いたく、
誤解されませんように各自でも独自に分析考察の旅を進められていくことを
お勧めいたします。
何か良きアドバイスなどあれば大歓迎であります。
ただ、管理人が思うところは、
「科学」的側面から「心」に接近していくと、
「どうしてもメカニズム思考に偏ってしまうのかなぁ~」という疑問であります。
また、「心理(哲学・宗教的解析を含む)」的側面から接近すると、
『ケース・バイ・ケースの個別的事例しか扱えずに、
「一般化」「普遍化」することなど出来やしないだろう・・・』との
絶望感に襲われてしまうのです。
と言いますのも、管理人自身が、何とか「独力」で試行錯誤のうえ
「発見」した方法で、自らの「心」を安定させる処方を導き出したこともあり、
日頃から医者などの専門家をあまり信用し過ぎることに
警戒してきた性格にもよるからです。
難しいのは、「知」と「信」のバランスをうまく取りながら、
自ずから形成されゆく「智(智慧)」を体認・体得していくことですね。
まぁ、このことは、管理人のみならず、すべての「心」ある皆さんにとっての
人生課題でもあろうかと思われますが・・・
「皆さんとともに、<おなじき者>として怠りなく励んでまいりましょう・・・」
とはいえ、本書で示唆されている<科学>的立場からする
知的洞察力には敬意を払う者であります。
本章で示されている重要点は、
音楽と科学の関係性が、「連続」から「断絶」への道へと
<切断>されていったとの見方であります。
また、今日では、
ある筋の評者(「陰謀論者」などに多い)からは
「不協和音楽」をもたらしたとも批評され
(もちろん、彼らの憂慮する見立ても著者が本書でも強調されたような
政治的「悪用」の事例史を見れば理解し得るのですが・・・。
また、昨今の「波動文化??」による影響なのか、
<愛の波長>と俗称される「528ヘルツ」による<癒し効果>が
精神世界系ブログなどでも一部話題となっているようですが、
本当に効果がある音調なのか否かは、
もう少し科学的にも突っ込んだ検証が必要だと思われます。
むしろ、このような点を、著者にもご教示して頂きたかった
個人的疑問点でもあります。
俗にいう<モーツァルト効果>の延長上の問題点として
今後の著作に期待するところであります。
いずれにしましても、管理人にとっては、
真偽不明な問題についてはあまり深入りしたくはありません。
なぜなら、そうした立場もある種の「価値観」が含まれており、
政治的意図がないとは断言出来ないからですね。
皆さんもこの種の言論には十二分にご注意下さいませ。
情報の「非対称性」による誤誘導は本当に社会の表裏面を問わず、
怖いものですからね。)、何かと誤解もされている
「現代」音楽の基礎を築いたとされるアーノルド・シェーンベルグに対しても
一定のバランスある評価を下されているところは好感が持てたところでした。
音楽史の流れでは、この「現代」音楽の祖とされるシェーンベルグも
ピタゴラス(古代ギリシア)時代への回帰現象だそうです。
誇大妄想癖の強かった=物語性・神話性の強すぎると
解釈されることも多いロマン主義音楽による世界観の否定を介した
『音階(音列)に対する絶対の信頼に回帰したと見ることができる。』
(本書77頁)との評であります。
このあたりの「現代」音楽に至るまでの時代の転換期にあった
ロマン派との対立史に関しては、視点を変えて、
管理人の知る限りでの知見と個人的好みも交えながら、
その対立軸を眺めながら考えた若干の雑感などを
項目をあらためて、後ほど語ってみたいと思います。
乞うご期待ということで、
まずは残された要約を続けさせて頂きます。
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④『第4章 音楽と「心」』
・コラム3:心は解明できるか
⑤『第5章 情動と音楽』
・コラム4:モーツァルト効果は幻想だ
⑥『第6章 音楽が操るホルモン』
⑦『第7章 音楽は脳にどんな影響を与えるか』
・コラム5:脳画像で脳の働きのすべてはわからない
※第4章~第7章では、<音楽の感動はどこからくるか>(本書87頁)と
題して、ヒトの「心」の揺さぶられ方の過程、
現代「脳科学」好みの専門用語では、「情動」や「意識」に焦点を当てた
論考と解説になっています。
とりわけ、第6章で取り上げられている
<音楽とテストステロン>(本書131~143頁)に関する論考が
著者のもっとも力の入れどころのようですね。
音楽と「情欲」、「愛情」との関係性もしばしば言及されますが、
進化論者『ダーウィンが唱えた仮説である「音楽は性行動を促進する」という
主張とは対立する』(本書142頁)との見解を
著者の独自調査によって導き出されたデータ分析・解釈とともに
示されています。
また、第7章における<和音と不協和音の脳内処理>(本書152~154頁)や
<ヒトの協和音への反応は生得的>(本書154~156頁)、
<音楽経験は脳を変える>(本書165~167頁)と題する論考も興味深く、
著者の独自「色」が強く表れているところです。
音楽家と非音楽家における脳構造には大きな違いがあるというのが
著者の主張でもあり、音楽家の場合には「右脳」の関与が
より大きくなるというのですが、必ずしも「右脳」優位論に傾いた説というわけではなく、
『脳全体を効率的に使っているのだ。』(本書162頁)とされています。
このあたりの見解と上記「角田」説との相違点もどのような整合性があるのか、
著者自身は先に触れましたように「否定」的立場として批判されておられますが、
管理人のような一般読者にとっては、もう少しわかりやすく
その比較内容を煮詰めて説明して頂きたいと思われるようなところも
多々あることが正直な読後感でもあったことを申し添えておきます。
今後の著作に期待することにいたしましょう。
いずれにしましても、著者が強調されている要点は、
『音楽家と非音楽家の脳構造の違いや可塑性には、ステロイド・ホルモンが
影響している可能性はきわめて高い。』(本書167頁)とする
<ステロイド・ホルモン仮説>にあります。
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⑧『第8章 音楽の才能は遺伝か環境か』
※本章は、
特に音楽を一生の「仕事」とされようと考えられている方にとっては
興味深い論考でありましょう。
「才能」は、<遺伝か環境か?>という問いは、
何も音楽の分野に限ったことではなく、
能力が関わるすべての分野に共通する永遠のテーマですが、
重要な論点としては、やはり幼少期からの成育環境といった
「属する文化」の違いによって多大な影響力が加わるだろうことは
ほぼ間違いないところだと思われる点であります。
著者における幼少期からの音楽教育に対する見解は、
本書191頁に強く表れていますが、従来型の学校音楽教育が
著者の批判してきた『クラシック音楽を中心とした芸術音楽至上主義』にあり、
『「情操」教育という非科学的な目的で行われてきた』とされるのですが、
クラシック音楽に偏重してきた(とはいえ、管理人が幼少期にあった
1980年代以後は、自らの経験則からそのようには必ずしも思われないのですが・・・)
のが学校教育の傾向だとしても、
「情操」教育の一環として音楽教育を捉えることが
直ちに「非」科学的だと断言出来るのか否かについては、
正直に言って疑問符も付くところです。
というのも、音楽が、良きにつけ悪しきにつけ
人間の「情動」反応に「色」をつけることで
たびたび利用・操作の道具として活用されてきたことも
史実だと著者も主張されており、科学的立場から音楽による脳内反応を
数々の調査分析結果とともに示されてきたわりには、
「情操=対社会自我(自意識)制御」脳を鍛えるという側面を
軽く見積もっておられるようにも感じられたからです。
(もっとも、何をもって「より良き」情操と捉えるのかは、
人間の主観が色濃く反映されるために慎重でなくてはなりませんが・・・)
「意識」さらには、「無意識」に働きかける音楽の力は
決して侮ることが出来ないだけに、
このあたりの論考ももう少し深く突っ込んで頂けたらと思います。
本章における著者の結論は、『生物学、遺伝学の大方の解釈を採用すれば、
割合は異なるものの、音楽訓練による脳の変化は、遺伝と環境、ふたつの
要因の掛け合わせという、いわば当たり前の結論になる。もちろんこれは
能力の話であって、才能の話ではない。』(本書192頁)ということに
なりますとのことです。
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⑨『第9章 音楽は病気に効くのか』
※本章は、特に医療関係者や音楽療法士の方にとっては必読の論考であります。
現在までのところ、その効果を
科学的に「確証」出来る段階にはないそうですが、
確実に「ある種の」音楽が人々のストレスを軽減してきたことは
ほぼ確かなことでありましょう。
それは、音楽愛好家の方なら日々実感されていることと思います。
また、音楽には<癒し効果>があり、
病気を治癒する力があるらしいことも経験則から実感するところでも
あります。
この分野の研究もまだ揺籃期にあり、
始まったばかりの段階にあるといいますが、
著者によると、『今後の研究いかんでは、単に代替医療以上の存在に
なる可能性もある。』(本書206頁)として、
概して楽観的な立場にあります。
とはいえ、音楽療法の最大の問題点とは、
『科学的根拠(EBM)がないことであり、その原因は
音楽の科学的研究が不足していることにある。』(本書193頁)として、
この分野における研究者に「発破」の声をかけられているのが、
著者の主張における本旨であるようですね。
「音楽療法には、まだまだ未知の可能性に満ち溢れている!!」ということで、
斯界に携わられるすべての方への応援メッセージとさせて頂くことにします。
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⑩『第10章 動物たちの音楽』
※本章では、音楽を主題に、ヒトとヒト以外の動物の相違点と共通点を
探究する論考となっています。
ヒトと他の動物における音楽の受容形態などをより深く探究していくと、
音楽ばかりではなく言語の起源の謎に迫ることにもつながります。
それは、ヒトと他の動物における「社会形態」の相違点と共通点を
探究することでもあります。
こうした観点から動物の行動形態を見直していくと、
「万物の霊長」と言って憚らなかった<人間中心主義>という
従来の枠組み(暗黙の思考形式)をも見直す糸口ともなり得ます。
最近の動物「行動」学にも目を見張るものがありますが、
ヒトとチンパンジーの遺伝子の違いもごくわずかであることも
次第に判明してきたようで、ヒトとヒト以外の「霊長類」の分岐点も
重要な研究テーマだと認識・評価されてきており、
一部の一般読書人(管理人もですが)の間でも
興味関心が集まってきているようですね。
最近の書籍出版状況を観察していても、人工知能への高い関心とともに
『サピエンス全史~文明の構造と人類の幸福~』
(ユヴァル・ノア・ハラリ著、柴田裕之訳、河出書房新社、2016年)などが
ベストセラー書となっていることなどもその強い「社会現象」の表れを
示唆しているようです。
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⑪『第11章 音楽はなぜ必要なのか』
※本章では、音楽の必要性への問いが再度強調確認されています。
よく俗諺に、『歌は世につれ、世は歌につれ』とありますように、
音楽が進化すれば、社会(世相)も変化し、
人間の「心」もそれに連動して移りゆくのが世の習いのようです。
多種多様な音楽があり、個々人が自由に音楽を楽しむことが
出来るようになったことは、「平和」と「繁栄」のおかげであり、
誠にもって有り難いことではあります。
とはいえ、一方では、冒頭での繰り返しともなり、
著者の音楽「理念」とも重なりますが、
個人主義的志向(思考・嗜好)観があまりにも強くなり、
人々の間における「紐帯=きずな(この言葉が
<保守的>ニュアンスを帯びており嫌悪感を抱かれる方なら<連帯>でしょうか?)」が
年々歳々弱まりゆくと感じられる中で、いかに人々の「社会的孤立化」を防ぎ、
相互協力し合いながら、「調和」ある社会へと再生発展させていくかは
「心ある」人間であれば誰しも程度の差はあっても
実感されておられることのように思います。
「音楽は単なる添え物か?」
著者は、本章において、スティーヴン・ピンカーの言葉として
<音楽はチーズケーキ>という比喩表現を引用されながら、
さらなる考察を進められていきますが、
この言葉には、
「音楽(芸術一般=学問・教養もか??)は別にあってもなくても
かまわない<余剰物>!!」というニュアンスが込められています。
「なぜ、ヒトにとって音楽が必要か?」
「ましてや、何がここまで音楽の世界を豊かにさせたのか?」
との問いにも諸説あることが示されています。
(本章<音楽の機能をめぐる諸説>本書228~230頁)
それによると、
「社会化説(社会統合説)」が今のところは有力な見解だそうです。
そうだとするならば、
音楽には本来、「集団」形成機能が主軸にあったということになります。
本書における論考では、音楽の「個人主義化」への批判が強く底流にありますが、
それは、むしろ、「現代」社会が「複雑化」し過ぎたことによるもので、
現代人がその心の「安全地帯」を築くための知恵として
音楽そのものを「個人主義化」せざるを得なくなったためだとも思われます。
「過度なストレス反応から身心の健康と生命そのものを守るために・・・」
そのことが、
<生存のための戦略-音楽の機能を問い直す>(本書238~246頁)で
示されます。
まとめますと、現代社会には、古代社会とはまた異なった形での
強い負荷(ストレス)が重く人々にのしかかっているということになります。
そうとするならば、音楽がこれほどまでに多種多様なのも
ストレスが強まりすぎているからだという「逆説」に突き当たります。
「豊かな音楽に満ち溢れていることは、ヒトにとっては本来ならば
不幸な出来事だったのか!?」とまでは管理人も断定出来ませんが、
ストレスがまったくない社会もヒトをかえって弱くすることも
確かなようですね。
「夢のないディストピアも困るけど、夢がありふれたユートピアも困りものだ!!」
最終的な結論としては、管理人のテーマである<あいだ>問題とも
つながりますが、「豊かになるためには」ストレスもある程度までは
必要不可欠だということは言えそうです。
著者も本書内でストレスが急になくなった退職直後から
認知症が始まる傾向事例(本書54頁)などが強く見られるとした
論考などから単純な「ストレス悪玉論」への再考を促しておられます。
「バンド」とは、「社会」のこと(本書244頁)だと
あらためて著者による単語訳からも気づかされましたが、
話は少しずれますが、音楽業界における「バンド」解散事例が多くなる時期は
おおむね経済的にも「不況」の始まりを強く示唆するのかもしれませんね。
あるいは、政治的にも「不安定期」に入りつつある時期だということを
前もって教えてくれているのかもしれません。
このような動向が、意図的に形成されている(きた)ものなのか、
それとも、
自然の循環サイクルのようなものなのかは、
「神のみぞ知る!!」で管理人などの想像も及ばない世界の出来事ですが、
どなたか、この分野(つまり、政経「景況」論と音楽流行論における相関関係)を
学問的に追跡調査のうえ、
批評論壇で発表して下さる方が出現してくれないかとも
個人的には期待もするところです。
そんなことを10代の頃から数多くのロックバンドの離合集散劇を見てきた
管理人などは思うのです。
そんなことを本書を読み進めながら、著者の論考とともに
つらつらと考察していると、
「やっぱし、ライブ=コンサートっていいよなぁ~」なんて思えてくるのです。
つまり、音楽の原点には
ヒトとヒトとの<あいだ>を取り結ぶ「場」の形成に本旨があるということです。
その意味では、ライブ=コンサート会場とは、擬似社会であり、
輪舞の「場」だとも言えましょうか?
著者の最終結論は、音楽による社会「再構築」への期待でありますが、
著者も本書で示されたように過去の史実からは、
音楽が政治利用されて、狂気的「全体」主義へと民衆を駆り立てていった
不幸な音楽史事例もありましたが、
正しく活用されれば、「防犯」にも役立つようですし、
若者(だけではなく老若男女)の「荒れ果てた」心に
健康を取り戻させる1つのきっかけにもなることは確かでありましょう。
そんなことを管理人も著者と同じく期待しますが、
『音楽は社会をつくるために生まれてきたのだ。私たちヒトが音楽を
つくったのだ。私たちは、音楽をするヒト、ホモ・カントゥス-
Homo Cuantos-なのだ。』(本書250頁)が
本書の結語として示されています。
ロマン派(ワーグナー的「現代」音楽派)VS新古典派(ブラームス的「古典」音楽派)を通して見る雑感など(現代批評のあり方を厳しく問い直す=自己批評のススメ)
さて、ここからは<要約コーナー>で予告させて頂いていた話題へと
移らせて頂くことにします。
先程の要約記事『第3章 音楽を科学する』の末尾で、
『「現代」音楽に至るまでの時代の転換期にあった
ロマン派との対立史』から連想された若干の雑感について
語らせて頂くことにします。
とはいえ、この19世紀末期~20世紀初頭に至るまでの
音楽史における2大巨頭における世界観の対立について語るとなると
さらに煩瑣ともなり、専門外である管理人が解説すれば
浅学非才のために、
読者の皆さんに多大な誤解を与えてしまうことにもなりかねませんので、
その音楽(的世界)観を巡る思想の片鱗については、
下記のご参考文献を掲げさせて頂くことで
皆さんへの補助教材のご提供ということで省略させて頂くことを
お許し願います。
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・ワーグナー派との対立論争については、
『ブラームス~カラー版 作曲家の生涯~』
(三宅幸夫著、新潮文庫、2013年第14刷、
90~95頁あたりご参照のこと。)
・アーノルド・シェーンベルグによるブラームス評については、
『ブラームスの音楽と生涯』
(吉田秀和著、歌崎和彦編、音楽之友社、2000年第1刷、
44頁ご参照のこと。)
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ところで、管理人が
『ブラームスはお好きですか?』(フランスの作家サガンに同名のタイトルを
付した名著がありますが・・・)と問われれば、
迷うことなく、「それは、もちろんですとも!!」と答えるでしょう。
実は今回の記事内容を考えるにあたっては、
ブラームスの室内楽曲集のうち『ピアノ4重奏曲』と『ピアノ3重奏曲』を
傾聴しながら綴っています。
管理人はジャンルを問わず、古今東西の音楽で
自らの「心」の琴線に響く曲があれば、
何でも傾聴するような音楽的嗜好がありますが、
とりわけ、ブラームスの曲がよくかかっていて、
ブラームスが好きなマスターがいる喫茶店には
時間と機会があれば通い詰めています。
今はなかなか時間も経済的余力もありませんので、
一時中断状態になっていますが、
京都に行く際には、時間の許す限り通わせて頂いている
とある喫茶店があります。
ここでご紹介すると、マスターにご迷惑をおかけすることにもなり、
お店の静謐な時空間を壊す原因ともなり、
同好のファンの方にもご迷惑をおかけすることになりますので、
「知る人ぞ知る良店」ということで、
京都観光用ガイドブックなどにも紹介されていない
「隠れ家」としておきます。
とはいえ、読書や学問、クラシック音楽(とりわけ、ブラームス!!)が
好みの読者さんには不親切になりますので、
ヒントだけ提示しておくことにしましょう。
ヒント:「六道の辻」(笑)
西国33ヶ所の某有名寺のすぐそばです。
(※ブラームス以外の名曲にもお詳しい若いマスターご夫婦が
素晴らしい時空間の演出と旅の思い出を創造して下さることでしょう。
早朝散歩後のお腹にも優しい<モーニングセット>は特にお勧めですね。)
閑話休題。
ブラームスには「音楽(作曲)家」の他に、
一般にはあまり知られていないようですが、「哲学者」の顔もあるといいます。
管理人は、この「哲学者」としてのブラームスの世界観を
より詳細かつ具体的に知りたいのですが、
おおよその片鱗は様々な解説書でイメージすることは出来るのですが、
なかなかブラームス「哲学」そのものを題材に据えた専門書などに
出会えずに困っています。
どなたかお詳しい方がおられれば、是非ともご教示頂けると幸いです。
ブラームスは、音楽史に関する一般解説書などによれば、
概して、「古典志向かつ保守的!!」とされることも多く、
上記ロマン派の頂点に位置するワーグナーとは
対照的に論ぜられることが多い
誤解多き音楽家であります。
その恋愛遍歴などを書簡文面から拝察していても、
「謎多き老賢者」のような風格からも
余計に強くそのように感じさせられるようです。
とはいえ、真摯にその文面や作品から
彼の内面の声を傾聴していると、
「本当にこの人は誠実で知的、繊細で心遣い豊かな人なのだなぁ~」と
思います。
管理人も個人的には、一見したところ外形的には「神経質かつ内向的」に
誤解されやすくとも、内面には「志高い情熱と意外性」を秘められた方に
より親しみを覚えます。
つまり、「軽っ!!」と思わせられるような人はあまり親しみづらいようです。
とはいえ、多分に誤解もありますので、
実際に真摯にお付き合いしてみないことには
外見からの人物評価など当てには出来ませんので、
そこは人生遍歴もそこそこに積み重ねてきた年齢ですから、
注意するようには気を付けています。
人間の魅力とは、「意外性」にこそ真髄がありますからね。
ところで、ブラームスも大きな区分では、「ロマン派」と称されますが、
その志向性は、「古典回帰派」だとされています。
しかし、管理人も先にご紹介させて頂きましたご参考文献に出会うまでは、
「頑な」に「保守派」とイメージしていましたが、
どうやら上記書籍による批評を読んだり、
実際の作品を傾聴しているとそうではないようなのです。
それは、ジプシー音楽の作風を取り入れた
名曲『ハンガリー舞曲集』などにも表れています。
そして、上記書籍に教えられるところによると、
相互にきちんと相手を尊重していたようなのです。
いつの時代もそうですが、この音楽家に限らずに
表面的な思想(価値観)対立から人物を軽侮したり、
内面での葛藤を深く感受することなく、いとも容易く
異質な存在として「排除」してしまう人間(とりわけ、取り巻き連中!!)も
多いようです。
特に、近年の傾向を観察していると、
そのように強く実感させられます。
例えば、企業面接や学界での論文審査・入試面接などにおける
人物判断でも『人は見た目が9割』
(最近話題のドラマでのタイトルは「100パーセント!!」)といったような
浅薄な評価が世を跳梁跋扈しているようです。
とりわけ顕著なのは、政治経済の論争場面での相互における誹謗中傷合戦ですね。
現実的な実現可能性を考慮した理念の追求からの異議申し立てではなく、
「今、そこにある危機」に対処し得る社会防衛的側面を
あまりにも軽視したような極端な理念の早急な実現を追求し過ぎる姿勢などは
「暴走」としか言いようがありません。
そんなことも、過日通過した法案審議の場面などを
冷静に観察していても思われました。
政府の役割とは、国民の生命・自由・財産を保護することにあります。
憲法第13条における「幸福追求の権利」といったところで、
解釈の「幅」問題はあるにせよ、「公共の福祉」によって制約されることは
子供でもわかる道理でありましょう。
近年(いや、近日内)における世界情勢の変化や実際に起きた事件などを見ても、
その抑止体制は不可欠なはず。
また、外国の方に安心して来日して頂ける環境を整備することも
政府の大切な役目でしょう。
そうした実際的な見地を十二分に考慮したうえでの
「反対論」であれば、理解もし得るところですが・・・
よりによって、<牛歩戦術>とは・・・
このことは、今回の「音楽」絡みのテーマともまったく無関係ではありません。
(というのも、最近のイギリスでの事例なども十二分にあり得ますから。)
楽しい「場」が無差別に破壊され、尊い命が奪われるようなことが
あっては絶対になりませんからね。
ましてや、ライブ=コンサートは、「平和の祭典」なのですから・・・
立法に携わる専門職であれば、
誰しも有していてしかるべき<必要性>と<許容性>のバランス。
とりわけ、弁護士出身議員なら身につけているだろう
「調和のとれたリーガルマインドセンス」、
「基本的人権の尊重と社会正義の実現の絶妙なバランス感覚」など
昨今の有識者を見ていると「??」と思わせられるような人物が
あまりにも多すぎるように思われます。
管理人も「戦後」世代で若い人間であるため、
まだまだ思慮も足りずに、間違ったことも多々しでかしてしまう人間ですが、
現在の日本における論壇事情などを分析観察していても
悲しくなる言動事例ばかりが数多く見受けられて、
誠に残念な思いに駆られます。
そんなこんなで、音楽とはテーマがずれるようですが、
音楽の究極的存在意義とは、「調和と安らぎ」だということで、
それに関連させながらつらつらと考えていると、
管理人も日々、「文筆修業」をさせて頂いている関係上、
「批評とは何だろうか?」を悩みながら考えさせられることが
以前に比べて随分と多くなりました。
管理人が敬愛する批評家としては、
前にもご紹介させて頂いた先崎彰容先生や新保祐司先生など
数多くいますが、
とりわけ、「熱い矜持をもった若者たち」へ捧げる
バラードならぬハード・ロックな魂を持った
そのタイトルズバリの下記の論考をご一読のうえ、
志を新たに人生を前向きに進めて頂きたく願います。
(平成29年6月2日金曜日付産経新聞朝刊
管理人は法律学を学んできた者の1人ですが、
大学時代のゼミの恩師も教条的ではなく、
バランス感覚あり、研究姿勢も厳しく、人間的魅力あふれた
学生思いの先生であったことも我が生涯の財産になっています。
つくづく、良き師匠に巡り会えたものです。
今はゼミ生の仲間や友人知人らとは、
皆それぞれに忙しく、
離ればなれになってしまいましたが、
こうした皆と過ごせた時間を持てたことは、
本当に最高に幸せな人生の一コマでありました。
卒業旅行の思い出なんかも懐かしいですねぇ~。
このような思い出が脳裏に焼き付いていたことも
抑鬱期を何とか乗り越えて、
あらたな再出発をすることが叶う精神的糧に
知らず知らずのうちになっていたのだと
今から振り返ると思われるのです。
この場でこの論考をご紹介させて頂いた趣旨は、
「超就職氷河期」に社会へ出た管理人からの
若き読者の皆さんへの願いとも通じるものがあり、
若くて思慮はまだ足りずとも、
将来ある身を真剣に悩める若者向けへの応援メッセージの論考だからです。
良き書物や師匠に積極的に出会いに行き、
語り合い、教えを請うこと。
教え教え合いながら、互いに<切磋琢磨>すること。
同世代や同じ価値観を有した者同士だけで固まることなく
幅広く付き合う中で、確かな人物眼などの「審美眼」を養う意識付け。
歴史的な感覚(つまり、水平軸だけでの時代認識に偏ることなき
垂直軸志向を持つ<ひたぶる向上心>)、宇宙大での視点や
国際感覚と国粋感覚の<あいだ>の間合いをはかろうとする
バランス感覚などなど、「身・口・意(心・技・体)」の
三位一体センサーを鋭く磨いていく姿勢を大事にして頂きたく
願います。
(もちろん、こんな偉そうなご託を並べてしまう管理人も
今もそれに向けた修養・修行の身ではありますが・・・
人間は、完全に悟りきった「神」や「仏」ではないのですから、
その点では「未完成」な「おなじき者」たちであります。)
「人間なら迷って当たり前です。」
「迷いや挫折、憂いがあればこそ、成熟する機会が与えられるのですから・・・」
その「成熟する機会」こそが、「智慧」を授かる瞬間とも重なり合います。
さて、管理人の「批評」修業の一環として、
上記先生方からその批評のあり方などを私淑しながら
学び、磨かせて頂いている途上にありますが、
ブラームスの作風や哲学観などとも通底する意識が、
「批評とは、いかに<制約ある自由>という時空間を活かしながら、
粘り強く、人間の奥深い深層心理にまで立ち至った建設的立論を提示できるか」に
あるものと暫定的な私見として考えているところです。
それは、厳しい時代の風雪(様々な制約)にも耐えながら、
生き延びる智慧を汲み出す知的営みであり、
知的鍛錬から獲得された成果(=人間的成長の軌跡の記録)でもあります。
管理人が理想に据える批評観とは、
「直情径行」な硬直したイデオロギー的批評観ではありません。
そうした時事批評なら、今やサブカルチャー論壇やマスコミ論壇、
SNS時評文にも数多く見受けられることでしょう。
そんな「ありきたり」な論壇時評なんて煙たいし、
世を害する迷惑千万な野蛮評論だと
心底憂いに満ちた真面目で気骨ある読者さんとともに
志高く育て上げてゆく「息の長い」批評を目指しています。
過去に残された優れた批評作品を分析していても、
そのような作品には、なるほど、
一定の「品格」や「風格」が備わっているようです。
また、管理人の批評観は、
基本的に「オマージュ(敬愛の念を捧げる感謝の気持ち)」で
ありたいと願っています。
今回は、著者の作品に対して少し手厳しすぎた論評もしてしまいましたが、
この趣旨も「より深く探究することで、疑問点を解消したい」との
管理人自身による知的欲求からです。
ですから、いつもながら悪意から出た意図では一切ありませんので、
著者がもし感情を害されたのであれば、心よりお詫び申し上げる次第です。
新保祐司先生のご著作『批評の時』(構想社、2001年)を
たまたま連休中の大阪・四天王寺「春の古本祭り」で発見し、
その場で即決購入して、今後の<座右の書>とさせて頂きながら、
この書評記事も綴っているのですが、
「批評には、<時>がとりわけ不可欠な要素となる!!」と言及されています。
『「批評家」の「素質」は、「即興家」であることである。
「批評の時」の到来が、恵まれている人である。』
(上記『批評の時』178頁)と語られています。
新保先生は、「文芸」評論だけではなく、
「音楽」評論にも優れた才能をお持ちですが、
同書冒頭部には、
まさに今回のテーマ『ブラームス・左手・ヴァリエーション』と
題する論考(9~29頁)も収録されていますので、
批評のあり方やブラームス、様々な思想家に寄り添いながら
思索を練り上げる「練習帳」としての教材をお探しの読者さんには
あわせてお薦めさせて頂きます。
ちなみに、新保先生は、内村鑑三思想に触発されて批評活動を
始められたようですね。
内村鑑三と言えば、『2つのJ(日本とイエス=キリスト)』という言葉が
とりわけ有名ですが、
彼もまた<あいだ>に「心」が引き裂かれた悩みを
青春期に抱えていた人間だったようです。
奇しくも、新保先生の批評論考文から想起、
内村鑑三思想と再び相見えて懐かしく感じたのは、
管理人自身は、<キリスト者>ではありませんが、
高校時代はカトリックの学校でしたし、
10代の頃より
国際性(左派リベラル??)と国粋性(右派保守??)との<あいだ>で
思想形成を図りつつ、
当時の下宿部屋の壁に
内村鑑三の上記標語と本居宣長の和歌を並べて貼りながら、
勉学に研鑽していたことがあったからです。
ところで、新保先生からは、産経新聞『正論』記事によって
交声曲(カンタータ)『海道東征』(北原白秋作詞・信時潔作曲)という
作品の存在をご教授頂いたことも感謝申し上げなければなりませんね。
最近は、ブラームスの室内曲とともに
この『海道東征』にもすっかりはまり込んでしまっています。
特に、仏像彫刻修業の時間には、ブラームスの室内楽曲とともに
傾聴させて頂いています。
さらには、『題名のない音楽会』でも有名だった
故黛敏郎さんの『涅槃交響曲』、『曼陀羅交響曲』なども
その時空間に調和するようです。
『涅槃交響曲』のアルバム(DENON CREST1000シリーズ)には、
薬師寺の声明<薬師悔過>も含まれていますからね・・・
管理人にとっては、「書評」も「彫刻」と似た共通点があるなぁ~と
気づかされる毎日です。
なぜなら、「彫刻」は「塑像(粘土細工)」と異なり、
一度、削ってしまうと、後戻りできないからです。
ただ、大きな相違点もあります。
文章は、何度も推敲したりしながら、
確実に修正がきくことです。
ですが、この修正がきくということを甘く見ているようでは、
プロの文筆家とはなり得ないこともまた確かなようですね。
よく文学作家は、一度でも「完成品」を世に送り出してしまえば、
もはや、読者の「まな板上の鯉」ともたとえられますが、
このことは、作家自身の心情の吐露の恥ずかしさと
まともに向き合う相当な勇気と覚悟が必要だとも言われています。
それだけに、「文筆」作家は他の創作作家と異なり、
ある程度の神経の図太さも必要不可欠だとも言われます。
管理人も、始めて「書評」を始めた際には、
世に公表するのを気恥ずかしくも思いましたが、
作品紹介をするに当たっては、
なぜその作品への問題意識(こだわり)を持ったかに触れるためにも、
自身の身辺事情や来歴などもある程度までは提示しておく必要も
出てきます。
(とはいえ、インターネット世界とは、一般出版業界以上に
<魑魅魍魎>の住まう特殊な言語空間なので、
安全配慮上の限界もありまして、
相当程度ぼかした表現もさせて頂いていますことは
ご了承願わなければなりませんが・・・
同じようにブログ創作活動をされている同志である「心ある」皆さんならば、
お察し頂けるものと信じています。
こうした問題も、今後ますます<意図せずに選別される管理型社会>が
促進されることが予想される中、
「ビッグデータ」と「プライバシー問題」に関するテーマということで
近々、別著のご紹介とともに考えてみたいと思っています。
また、今後折に触れて、何回かに分けながら関連書籍のご紹介毎に
それぞれのテーマを決めて、
分析考察も深めてまいりたいと思っています。
乞うご期待願います。)
このことは、確かにつらい作業ではありますが、
将来的に真の意味での「プロ作家」を目指すのであれば、
避けることは出来ないところであります。
そんな精神的なつらさもあり、書き終えた後は、
かなりの「生命エネルギー」の枯渇も覚えますが、
やはり、未来の若者へ捧げるメッセージも含めた書評ですので、
「激しく移りゆく時勢に対して己の身を賭して、棹さす覚悟と決断」が
要求されます。
「人生には、何が待ち受けているかは誰にもわかりません。」
「されど、愛する者たちには、何かを残し、託しておかなくては
死んでも死にきれません・・・」
そんな「死に際」になって悔悟の念に苛まれるくらいなら、
恥ずかしくとも、今この「瞬間」にでも
その「恥部」を出し切っておかなくてはなりません。
作家とは、そうした身辺整理の達人のことを言うのでありましょう。
これは、すべての創作者に共通する感覚でありましょう。
ということで、同じように悩める人々への「人間讃歌」として、
今回は、難しくて、時には大きく主題からも脱線してしまいましたが、
音楽をテーマに語らせて頂きました。
ここでは細かく語り尽くせなかったテーマも本書では
取り上げられていますので、皆さんにも
<音楽と言語の起源の謎>や<人間の本質とは何か?>などの
考察を深めて頂く素材として、
ご一読されることをお薦めさせて頂くことにいたします。
最後に一言・・・
「人生とは、荒削りから円熟に向けられた絶えざる脱皮事業」だと
いうことです。
また語り合いましょう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
なお、その他のご参考文献として、
①『知りたいことがなんでもわかる音楽の本
~クラシック、ジャズ、ロックから日本の伝統音楽まで~』
(三枝成彰監修、三笠書房<知的生きかた文庫>、2001年第3刷)
※三枝成彰さんも優れた作曲家ですが、
特に大阪近辺の方に朗報です。
代表作『オラトリオ ヤマトタケル』の特別演奏会が
羽曳野市にある「LICはびきの」にて、
今月25日(日)に13時開演として開催されるとのことです。
(平成29年6月22日木曜日追記:お知らせが遅くなりまして
誠に申し訳ございませんが、産経新聞記事によりますと、
すでに現時点では、「完売」状態とのことです。)
管理人もなかなか聴ける機会がなく、
アルバムも今や入手しにくいということなので、
見に行きたいのは山々なのですが、
彫刻教室がありますので、「断念」・・・
是非、一般向け普及版を「復刻」して頂きたく
関係者の皆さんにはお願いしておきます。
「ヤマトタケル」と言えば、映画『ヤマトタケル』。
確か、人気ロックバンド「GLAY」さんのデビューシングルだったような・・・
管理人もこの頃(10代)には、数多くの「ビジュアル系」にはまった世代。
「ビジュアル系を決して舐めてはいけません・・・」
②『心を動かす音の心理学~行動を支配する音楽の力~』
(齋藤寛著、ヤマハミュージックメディア、2011年初版)
※著者が提示されるような諸論考も
本書で語られるような意味における
<科学的>に検証可能な見解なのか否かは、
多少の疑問点なしともしませんが、
音楽がヒトの「心」を揺さぶることは確かです。
行動経済学の分野でも、「BGM効果」が期待されるなどと
話題になっている論考も含まれています。
「<科学的>かどうかは検証不能ですが、まずはお試しあれ・・・」
「但し、極端な悪用は慎みましょう・・・」
③『<脳と文明>の暗号~言語・音楽・サルからヒトへ~』
(マーク・チャンギージー著、中山宥訳、講談社、2013年第1刷)
※この本は、管理人もざっと目を通した段階ですが、
認知科学の観点から、言語や音楽の「起源」に迫っていく書です。
④『世直し教養論』
(原宏之著、ちくま新書、2010年第1刷)
※管理人とは、多少「価値観」の異なる論評もありますが、
概ね、共感・共鳴出来た一般向け「教養学」入門書であります。
「現代社会において、いかに<教養>を復権させるか?」
「大学の未来は?」
「時代の変化とともに変わりゆく民主政治や道徳教育のあり方とは?」
などなど刺激に満ちた1冊であることは間違いありません。
特に、最終部の<補章 日本流ポストモダン・リベラルの危うさ>
(237~284頁)は、最近のサブカルチャー社会学論壇を
中心とした批評のあり方に警鐘を鳴らす論考として、
この分野にご興味関心がおありの方であれば、
「一読の価値ありかも!?」です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
最後までお読み頂きありがとうございました。
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