先崎彰容先生の「ナショナリズムの復権」人間の深層心理面から再考するナショナリズム論!?

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「ナショナリズムの復権」

『違和感の正体』などの著作で、

今話題の若手思想史研究者である先崎彰容先生による

ナショナリズム再考論です。

「愛国心は、ならず者の最後の砦」(サミュエル・ジョンソン

などと、とかく否定的に解釈されがちなナショナリズムですが、

その当否を問わず、一度は、自らの胸に手を当てて

真摯に再考してみたいものです。

なぜなら、深層心理が絡むから。

今回は、この本をご紹介します。

「ナショナリズムの復権」                 (先崎彰容著、ちくま新書、2013年)

先崎彰容先生(以下、著者)は、

近著『違和感の正体』(新潮新書、2016年)などの名著で

今話題の若手思想史研究者です。

(なお、『違和感の正体』をテーマに、

前にもご紹介させて頂いたNPO法人京都アカデメイアさんの

<真夏の批評そうめん>と題した企画動画もアップされていますので、

ご視聴頂ければ、影ながらの応援者としても、幸いであります。)

ご専門は、近代日本思想史・日本倫理思想史であります。

また、著者は、産経新聞のコラム『正論』執筆メンバーとしても、

ご活躍中であります。

(ご参考記事として、こちらの記事をご紹介しておきます。)

2016年現在、世界情勢は、再び、

グローバリズム(地球規模の汎拡大主義??)とともに、

人類の間に、不安心理が拡大してきており、

政治分野においても、ポピュリズム(大衆迎合主義)志向が

世界規模で浸透しつつあります。

こうした不安定な心理傾向から、

狭い文化的言語空間へと回帰しようとする動きが出始めています。

いわゆる「ナショナリズム」への原点回帰思考であります。

そうした世界規模の政治的心理から、

今、日本でも映画『シン・ゴジラ』に注目が集まっているようです。

この映画に関しては、管理人は、未観賞のため、

詳細なコメントは出来ませんが、後ほど、本文内にて、

少しばかり触れさせて頂きながら、本書における問題意識とともに

考察してみたいと思います。

さらに、現在の政権与党は、その政策内容の賛否論はともかくとして、

『戦後体制からの脱却』を最大の政権公約としながら、

『日本を取り戻す!!』を主題に、

あらゆる政策課題に優先して取り組んできたことは、

日本国民周知の通りであります。

こうした、現政権の政治姿勢に対するアンチテーゼ(反対意見)として、

一昨年には、国会周辺内における、安全保障関連法案を巡っての

一部若者層によるデモが展開されていたことも、

話題になったところです。

このように、戦後という『閉ざされた言語空間』(江藤淳氏)の時空間では、

1945年(昭和20年)の敗戦以来、

絶えず、「上からによる」ナショナリズムに対する反発現象が生起してきました。

一方で、戦後、経済面における一等国として、

国家再建に向けて、ひたすら邁進してきた日本及び日本人ですが、

その自信回復のための「頼みの綱」でもある経済が大混乱となり、

若者を中心とした雇用・生活不安などから、国民経済を支える

より強力な政治文化的基盤を確保せよとの根強い「下からによる」

ナショナリズム世論も、

20世紀末以来、少しずつ、復活してきていました。

この動きは、戦後以来、

形成されてきた国民共有の「価値観」の問い直しでもありました。

まとめますと、ナショナリズムに関する評価としては、

戦後に特有の現象として、主に知識人層を中心として、

概ね、「否定的」な診断が下されてきました。

されども、知識人層は、ナショナリズムに代わる

あらたな「価値観」の提示には失敗してきたのが現状であります。

そんな中で、日々の生活の先行きに敏感な一般国民層から、

率先してナショナリズム回帰願望が、

強く前面に押し出されてきたというのが、

政治的評価はともかくとして、

ある意味では、必然的な流れだったとも言えましょう。

このように、ナショナリズム一般の定義は、

多義的である(このことも、ナショナリズムを複雑にしている要因ですが・・・)ため、

ただ、「否定的」に反応していれば済むというものでもありません。

かといって、極端に過剰なまでの政治心理的反応が、

世界に惨劇をもたらしてきたことは、

20世紀の歴史的教訓を持ち出すまでもなく、

政治的立場を問わず、概ね、社会的合意に達することも出来るでしょう。

本書では、そのように、ナショナリズムを、一般的には、

政治的に捉える社会傾向にある中で、

人びとの深層心理といった「心」に焦点を当てつつ、

「政治」に代わる「文学」的な視点から、

再考し直そうではありませんかと、

静かに呼びかけるところに特徴があります。

つまり、「ナショナリズムを生み出す源泉には、人間の<心>の脆弱さに

由来する社会(政治)的不安定さを軽減させ得る誘惑が常に潜んでいた!!」との見方が

著者によって、「再発見」されています。

ですから、人間の深層心理を解読することこそが、

これまでのナショナリズム論争にもっとも欠けていた視点だということになります。

ということで、皆さんとともに、今だからこそ、

未来志向の建設的な視点獲得の一つの素材として、本書を紐解きながら、

ナショナリズム再考をしてみようと、取り上げさせて頂きました。

「ものさし不在」と「処方箋を焦る社会」に向けられた心理的ナショナリズム論

このタイトルは、著者の近著『違和感の正体』における問題意識でも

ありました。

上記著書が、ここ数年間における、

日本国内を中心とした時事批評に対する著者独自の「違和感」を

手がかりとした時事評論だとするなら、

本書は、そのような「違和感」が、著者ならずとも湧き出てこざるを得ない

思想的「源泉」に当たる戦後的「価値観」の紊乱の大本である

ナショナリズム論の分析解題がテーマであります。

ここで、本書の内容構成を要約させて頂きます。

①『はじめに-ナショナリズムの論じ方』

※まず、<はじめに>で、第1章以下で解読されていく

ナショナリズムに寄せられる一般的な誤解を解きほぐしていく視点の

大前提となる著者の問題意識が表明されています。

その問題意識には、

『ナショナリズムをひたすら解体・否定すべき対象としてとらえる時期は

とうに過ぎ去った。人間と社会のあり方を根本的に考えるには、

国家を考えるよりほかにないからだ。』(本書9頁)出発点に、

著者がナショナリズム論を解読するうえで、

より良きナショナリズムのあり方を真摯に検討考察する手がかりとなり得る

思想家の言葉が記された数冊の書物とともに、「心」を寄り添わせながら、

誠実に耳を傾けていく姿勢があります。

終局的には、「ナショナリズム論=人間が紡ぎ出す言葉に対する信頼感の獲得」に至る

現在では、見事なまでに置き忘れられてきた<文化防衛論>(三島由紀夫氏)にまで

論を進められています。

『ナショナリズムと無縁ではいられない現代人の精神構造、ほかならぬ私たち自身を

明らかにするために、国家をみずからの課題として引き受けてみようではないか。

せわしない世の流れに逆らいながら、数冊の書物にじっくりとつきあってみないか。

そして激変する国際環境に左右されない、ナショナリズムへの確実なイメージを

手にしようではないか。ナショナリズムの復権とはそういう意味なのである』

(本書11~12頁)と静かに読者に呼びかけられながら、

次章以下での本格的解題が始まります。

このように、一般的には、<政治的イメージ>でとらえられがちな

ナショナリズム論を、<文学や心理学的イメージ>によって、

捉え直す視点を提供するのが、本書の底流にある着想であります。

②『第1章 ナショナリズムへの誤解を解く』

ⅰ ナショナリズムをめぐる三つの誤解

ⅱ ナショナリズムは「危険」なのか

※本章では、ナショナリズム論の陥穽として、

これまで数多く指摘されてきた誤解を解きほぐします。

それには、以下の3点があります。

まず、「否定的」観点として、

Ⅰ ナショナリズム=全体主義である。

Ⅱ ナショナリズム=疑似宗教である。

対して、「肯定的」観点からは、

ナショナリズム=民主主義である。

との「近代民主主義」の母体(原動力)となって現れ出てきた見方を

再点検し直す論考が展開されています。

とりわけ、ナショナリズムが、人々の「死」を恐れる「心」を

解消させてくれる「拠り所」としての心理学的視点からの批評も

多々なされてきたところ、むしろ、「死」から目をそらさずに、

自己を厳しく見つめなおす機会を付与してきたのが、

ナショナリズムだとして、その『死とナショナリズムの関係は?』との

問いに答えていくための考え方の道筋を提供されています。

つまり、

『これら三つの誤解には、その根底に「死」への誤解という同じ原因を

抱えている。ナショナリズムが危険であると叫ぶ議論のすべてが、全体主義や

宗教、そしてポピュリズム(管理人注釈:大衆迎合路線に伴う

ある種の「赤信号みんなで渡れば怖くない」(ビートたけし氏)とする<空気の支配>)

たちこめる死の匂いを、無条件にナショナリズムにあてはめているのだ。

第二次大戦が世界中で大量の犠牲者を出した以上、戦後のこの誤解は確かに本質的で、

納得がいく。しかしだからこそ、死の匂いすべてを否定する必要はない、

否、してはならない。私たちにとって死は、避けることのできない出来事であり、

むしろ勇気をもって匂いの差に敏感でありたいと思う。

人間の根源的なあり方にまで遡り、ナショナリズムを考えるとは、

そういう意味なのだ。』(本書28~29頁)と強調されています。

この<死者の視線>への配慮こそが、

ナショナリズムをより良い方向で考え抜く際には、不可欠だと言います。

このような角度から、これまでのナショナリズム論にありがちだった

政治的傾向とは、一定の距離感を置きながら、

「淡々と、黙々と」静かに、私たちの「心」の内面と向き合う

身体感覚としてのナショナリズム論が、本書の趣旨であります。

まとめますと、著者は、

<ナショナリズム=危険=死の匂い>とのイメージから、

人間は、逃げてはならないし、逃げることすら叶わないという

当然の事理をあらためて勇気をもって、直視しながら、

落ち着いて、各自で考察してみようと呼びかけられています。

そうした落ち着いた姿勢が、

かえって、「危険」を回避する知恵と工夫にもなることでしょう。

そういう意味では、

「ナショナリズムを考えるとは、

誰にでもある喉元にひっかかった骨=心の傷跡のようなもの」

とも言えましょう。

③『第2章 私の存在は、「無」である-ハナ・アーレント『全体主義の起原』』

ⅰ 人々を全体主義がとらえ始めた

ⅱ 何が起きているのか、人間の心のなかに

ⅲ 「負い目」の意識は誰にでもある、そこに全体主義が宿る

ⅳ そして、全体主義に呑みこまれる・・・・・・

④『第3章 独裁者の登場-吉本隆明『共同幻想論』』

ⅰ 吉本隆明とは、何者か

ⅱ 個人幻想は人間を、自殺へと追いこむかもしれない

ⅲ 独裁者はどうやって登場してくるのか

第2~3章は、ナショナリズムの誤解とされる

「全体主義」と「疑似宗教」へそれぞれ対応する批判的考察が、

各思想家の著書を紐解くことで展開されています。

⑤『第4章 「家」を見守るということ-柳田国男『先祖の話』』

ⅰ ハイデガーの「死」に、吉本隆明は疑問をもった

ⅱ 網野善彦と柳田国男は対立する

本章が、著者のナショナリズム論に対する独自論考を展開する

思考過程での主眼点であります。

つまり、<死者目線の復活=ナショナリズムの復権>だということです。

それは、「死者(世代=時代を超えた普遍的人間精神の流れ)の民主主義(共有)」

エドマンド・バーク)を復権させるうえでも、重要な目線であります。

著者は、吉本隆明氏の諸考察を手がかりに、

ハイデガーの「死」に対する哲学を、

「一世代限定(徹底した個人主義)の当世的死生観」として、<他者>とのつながりを

忘却しかねない危うさを秘めているとも指摘されます。

こうした「個人的」視点に偏った見方は、

<歴史の忘却>をも招きかねず、

ナショナリズム論を前向きに考察するとともに、

「復権」していく姿勢においても、障壁となってしまいます。

現代社会は、総じて、「死」を忘れた社会であるため、

一人ひとりのかけがえのない人間生命(「人間」だけではありませんが・・・)を

ますます軽視していく傾向を招き寄せています。

「人間は、<群れる>から弱くなる!!」との見方も理解出来ますが、

一方で、「人間は、個人としては、<根無し草>同然の精神的脆さも

同時に抱え込んだ、か弱い生物!!」であります。

そうした「弱さ」にどれほどの人間が耐えられるというのでしょうか??

「<強がり>だけで、生き抜こうとしないのも人間芸(処世術)のうち!!」であると

管理人などは、強く思います。

本書で紹介されている各思想家の詳細な批評考察については、

本日は、登場人物も多くて、省略させて頂きますが、

現代人の孤独さ・孤立感情が、

一層、ナショナリズムへの心理的執着心を強めてきたことは、

昨今の世相を観察するだけで明白な社会的事実でありますので、

まずは、私たち現代人の一人ひとりの「心の声」に素直に

耳を澄ませるところから、再出発しようではありませんか?

特に、核家族化がより一層進展していく過程での

「家」制度の形骸化ですが、「家=各人の心の最後の拠り所」を

喪失してしまった人間は、どこに腰を据えれば落ち着くことが叶うのでしょうか?

「家」もなく、自分一人の「一世代」だけで終結してしまうとの死生観は、

「人間」から「人間らしさ」を剥奪してしまいます。

なぜなら、「人間」は、その生物学的定義のうえからも、

「人」と「人」の<あいだ>を取り持ちながら、成長発展していく

<精神的>生物だからです。

この「個人的生命」の形骸化(軽視傾向)は、

長期的には、人類社会に痛烈な打撃を与えることにもなりかねません。

ですから、「個人的」な思い込みだけで、「家」制度を批判すれば、

事足りるとの安易な戦後的価値観だけでは、

人類の存続にも著しい損害を与えることにもなりかねません。

(言わずもがなですが、「家」制度を十把一絡げに全面擁護するわけでは

ありません。念のため。また、「家」制度(文化)といっても、

現代人が大前提としてきた<近代的>家族制度から、<近代以前>の家族形態まで

多種多様ですし、近代知識人が解釈してきたような一律な「封建的諸制度の残滓」なる

近視眼的な見方も有害無益であります。)

その点で、「墓地問題」の世代に渡った継続的管理も相当困難な時代

なってきています。

そのことは、管理人個人の周辺事情における悩み話を聞く度にも

思い起こさせます。

特に、ここ近年は、「墓地」形態を廃止して、「永代供養」方式に

切り換えるご家庭も多々現れ出てきているとも聞きます。

この「墓地問題」は、日本人の葬式仏教観とともに生まれ出てきたようであり、

必ずしも、こうした特定の宗教的死生観にとらわれなければ、

克服し得る社会問題なのかもしれません。

そのあたりの心理的事情は、各人各様の宗教的価値観も絡むため、

軽々しく論評することなど慎まなくてはなりませんが、

皆さんも、本章にて紹介されていた柳田国男氏の『先祖の話』とともに、

秋のお彼岸など、ご家族同士で集まられる機会などあれば、

一度、真摯に話し合ってみてはいかがでしょうか?

このようにナショナリズム論は、大きくは、「国家」社会から

小さくは、「個人」諸氏に至るまで豊富な話題を提供してくれます。

こうした観点から、政治的イメージを離れて、

再考察してみると、ナショナリズム論も、

またひと味違った様相を見せ始めることでしょう。

⑥『第5章 ナショナリズムは必要である-江藤淳『近代以前』』

ⅰ 戦後から江戸時代へ

ⅱ 江戸思想に入門してみる

ⅲ 溶け出す社会

※本章では、前章で紹介された網野史学などに見られる

現代的「流動」社会に対する肯定的評価を一変させる視点が、

江戸時代の思想家の紹介とともに、考察されています。

いわゆる「徳川幕藩体制」が、

「なぜ、<朱子学>を体制学問としたのか??」、

このテーマについても、これまでの通俗的解釈とは異なる

視点を、著者は、提供されています。

日本人(だけではなく、人類)は、「定住生活」を好むのか、

「流動的移動生活」を好むのか、このところ、

文化人類学の分野でも話題になっていますが、

この個人的(または、群団的)嗜好性については、諸説あるも、

一般的な傾向性としては、「流動化」に弱い生物でもあるようです。

とはいえ、今回は、「進化論」がテーマではありませんので、

省略させて頂きますが、

「人間」は、絶えず、社会環境によって、変化適応を余儀なくされてきたのも

好むと好まざるとに関わらず、否めない歴史社会的事実でありました。

そのように、一般的には、「流動化」に弱いとされる(ただ、そのイメージは、

社会の<主流秩序形成>を主導してきた層による見方かもしれませんが・・・)見方から

安定的秩序の再設定が必要不可欠との階層意識の芽生えから、

江戸時代の<再秩序化>を目指す<朱子学>が生み出されてきたといいます。

この<朱子学>も、次章や様々な朱子学者の思想も異なりますので、

一律に「これだ!!」と決めつけることなど、もとより不可能ですが、

一般的な「近代」知識人の視点(次章の丸山眞男氏などの見方が典型例です。)から

すれば、「上から目線」の体制御用学問として、「全体主義」を補強するものとの

マイナスイメージで語られることも多いようです。

それに対して、全面的なプラスイメージではないにせよ、

一定の「肯定的」評価を下されたのが、

本書で紹介された江藤淳氏でありました。

その思考の軌跡が、

『それは真理や確信がなくなった時代に、どのようにして今一度、

人々が確信できるような共通の価値観・倫理観を再構築するかということ

である。出来合いの権威や真理はもはや信頼できない、すべてのものが

嘘であるとも言える時代に、江藤は、秩序を再びつくりあげようとした。

過去の中に、自らの肉体的苦痛と同じことばを探そうとしていた。』

(本書185頁)と、著者は、評されています。

この視点は、江藤氏ならずとも、<近代的自我意識>に強く捉えられた

現代人であれば、一度は誰しも通過しなければならない「洗い直し作業」

あります。

知識人の場合は、職業柄もあって、徹底的に突き詰めていく精神的作業が、

自ずから導かれていくことになりますが、

自らの人生に誠実であればあろうとするほど、

避けては通れない道であります。

この精神的・肉体的苦痛から目を背けて、自己を偽りながら、

人生を最期の日までやり過ごすか否かで、

その人固有の「風貌」すら大きく変化していくことになるでしょう。

それが、人間の品格(人品)の違いとなって、現れ出てくるため、

日頃の精神的志向性とは、かくも険しく恐ろしいものがあります。

こうした「自覚=自らの<顔>に責任と自信を持てるか」は、

管理人もまもなく40代を迎えようとしている節目の時期にあるだけに

他人事ではいられません。

⑦『第6章 戦後民主主義とは何か-丸山眞男『日本政治思想史研究』』

ⅰ 丸山眞男は朱子学に、まったく逆の評価を与えた

ⅱ 安保闘争を通じて、民主主義評価は二つに割れた

※本章では、戦後の『閉ざされた言語空間』(江藤淳氏)に対する

反対的視点から、戦後の<主流秩序>の大きな影響を与えてきたと

される丸山眞男氏のナショナリズム論が取り上げられています。

この丸山眞男氏に代表される「市民社会論」の積極的肯定論は、

今なお、各時事論壇や教育界から政財官界など、

「上」から「下」まで深く広く浸透しています。

とはいえ、現実の世論は、このような「理想像」とは異なる様相を

呈してきたことは、政治的な立場を問わずに、幅広く見受けられてきた

社会的現象でありました。

そのことが、知識人の丸山眞男氏の「想定外」として、

昨今、様々な分野で表現されてきました。

ことに、一部の若者の間では、雇用不安などの現状から

批判的に『丸山眞男をひっぱたきたい』(赤木智弘氏)などと

揶揄される言論もなされていたことは、

つい先日のことのような「既視感」にも襲われます。

⑧『終章 戦後思想と死の不在-ナショナリズムの「復権」』

本章では、このような戦後のナショナリズム論事情を

再考し直す<より良き視点>の獲得方法の一つの試論として、

政治論ではなく、文学・心理学論を加味した独自論が提案されています。

まとめますと、戦後思想には、「死」の影がなく、

「明るい」側面だけに目を向ければ向けるほど、

皮肉にも、「暗部」へと導かれていくという逆説が炙り出されました。

こうした「暗部」から、いかによろめき、躓きながらも、

少しずつ、立ち直っていくのかを考えていくヒントとして、

『ナショナリズムの<復権>』が示唆されています。

そのためにも、

『死者たちの沈黙のことばに、耳を傾けようではないか。

戦後置き忘れたままのことばを、取りに帰ろうではないか。』

(本書224頁)と私たち読者に問いかけられています。

⑨『終わりに-再び、政治の季節を前にして』

本書の<結び>の言葉として、

やはり、「人間」の思想というものは、

日々の身体感覚を通じた生活実感を伴った「語り」でないと、

「空洞化」してしまうひ弱な代物でしかないということに尽きます。

そうした生活実感を伴った「言葉」から自ずと立ち上がる思想でないと、

「言葉」そのものが、観念的な知的遊戯や政争の道具など、

醜い様相を醸しだし、腐臭を漂わすことにもなりかねません。

「いや、そうなりますとも・・・」

管理人も著者と同じく、「言葉」を扱う「仕事」をさせて頂いていますので、

「言葉」の持つ弱さ・強さには、日々、敏感にならざるを得ません。

「言葉が届かないもどかしさ」・・・

これは、何も、積極的な言論活動をされておられない方にとっても、

日々、悩まされる日常的課題でありましょう。

その意味では、「人間」とは、「言葉」を喪失すると、

生きる「活力」も低下する存在であります。

「人間は、言葉に生き、言葉で死ぬ存在」であるということを

何度でも、再確認していきましょう。

それが、本書『ナショナリズムの<復権>』とともに、

人生を再び歩み出すエネルギーを生み出してくれる推進力と

なってくれることでしょう。

『ナショナリズムの<復権>』とは、歴史の連続性を取り戻し、人類の<共有生命>の原点回帰へと向かう「基点」である!!

そこで、最初に触れさせて頂いた素材として、

取り残しておきました現代話題の映画『シン・ゴジラ』を

事例問題として、考えてみましょう。

この映画に関しましては、

管理人は、未観賞のため、何ほどの深い批評も出来かねますが、

漏れ伝わる範囲では、様々な反応があると聞きます。

一番多そうな批評が、

「やはり、戦後日本は、危機意識が薄すぎたのだ!!」とする

保守層からの意見や、

「再び<共同防衛幻想>を創出するための国策的映画!?」なる

ステレオタイプな左派リベラル的批評の2つの視点に

大きく分かれるようですね。

この点でのコメントは、映画未観賞のため、

差し控えさせて頂きますが、

これとは、別に面白い視点を提供してくれた

若手論客の著書がありましたので、

ここで、ついでに、ご紹介させて頂きましょう。

その著書名こそ、

『震災ゴジラ!~戦後は破局へと回帰する~』

佐藤健志著、VNC、2013年)であります。

この本の内容は、戦後数多く公開された『ゴジラシリーズ』を

始めとしたサブカルチャー文化を題材に、

戦後の「閉ざされた言語空間」を<脱構築>していくヒントとともに、

今あるような戦後の左右を含めた政治的言説を乗り越えるための

処方箋が提示されています。

特に、これからの次世代にとっては、

「考えるためのヒント」として、興味深い教材ともなり得ましょう。

こちらは、「サブカルチャーもの」なので、

一般的には、内容は軽く見られがちですが、

密度は濃いですので、ご一読の価値はあります。

管理人は、サブカルチャー文化には、

あまり深く通じていませんので、

消化不良の場面がありましたが、

こうしたサブカルチャー文化に興味関心がおありの方にとっては、

大変面白く読み進めることが叶うのではないかと思います。

そろそろ、字数も1万字に達しようとしていますので、

締め切り間近ですが、

一点だけ、本書『ナショナリズムの復権』とも共通するテーマですが、

戦後的「価値観」を超克していくうえで、

どの時代(場面)に、物語設定するかは、

現実的な政治舞台では、きわめて、重要な視点となってくるということです。

管理人自身の政治的評価は、ともかくとして、

現政権が掲げる『日本を取り戻す!!』も一歩、場面設定を誤れば、

大変「危険」な場面へと国民不在の議論のまま、

進展していくことにもなりかねません。

おそらく、この視点に関しては、著者ならずとも、

良識ある「保守層」の方なら、ご心配もされておられることでしょう。

『力による現状変更を認めない!!』のであれば、

かつての戦争から導き出されたヤルタ・ポツダム体制という名の

「戦後体制からの脱却」は、きわめて厳しい道のりとなります。

日本及び日本人の立場からすれば、戦後世界体制に対する意見は、

もちろん、たくさん思うところ、含むところ、ございましょう。

かといって、「暴力的解決など、論外!!」であることは、

「心ある」人間であれば、論を待たないところであります。

ならば、戦後体制の長所を部分的に擁護しながら、

短所を、暴力以外の解決法で、時間をかけてでも、

積極的に少しずつ改善の道を探りながら、

世界に呼びかけていく他ありません。

それこそが、戦後という世界で、

比較的<大好運>に恵まれすぎた日本及び日本人に

課された政治倫理的実践課題であります。

その意味では、「日本国憲法」の理念は、

あまりにも崇高すぎる高次目標でありましょう。

人類の精神的度数に、命運を預けるのですから、

相当な覚悟と決意が要求されます。

この「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び・・・」

(昭和天皇による終戦のご聖断)とともに

歩み始めた戦後日本人の「生者」と

戦没者を含めた「死者」の<声なき声>の想いは、

きわめて強い重みがあります。

まとめますと、「言葉」の重みとともに歩き続ける苦難の

道のりから目を背けずに、あらたな道を「開拓」していく姿勢こそが、

本書『ナショナリズムの復権』から学び得た知見であります。

「<死者>のことを決して、忘れないこと・・・」

それが、明日の人類の行く末をも決める精神的分水嶺だということです。

そのためには、<微笑み>を絶やさずに、

「淡々と、黙々と・・・」

人類共同体の精神的・物理的復興へ向けた祈りが、

日々の生活における実践的営みとともに欠かせません。

最後に、著者が近著『違和感の正体』の結論部で引用されていた

亀井勝一郎の「心」に寄り添いながら、

強く宣言されたこの言葉をご紹介して、

筆を擱かせて頂くことにします。

『違和感の正体、それは他でもない社会全体から「微笑」が

奪われつつあることにあった。正義か不正義かの判断基準、

私たちが手から滑り落とし、何より求めている「ものさし」が

微笑であるとは、怒号・暴力・スローガン・見得をきる発言が飛び交う

昨今、何とも示唆的ではありませんか。

水をふくんだ真綿のように膨らんだ感受性こそ、時代状況を判断する際に、

不可欠のセンスだと筆者は確信しています。

(中略)

あらゆることに気の利いた発言などする前に、一つのことに

「躓き」ながらも、含羞の微笑みを投げかけることから、

何かがはじまる。』(『違和感の正体』197~198頁)

私たちもまた、少しずつ、手の届く範囲で、

建設の歩みを始めていきましょう。

ということで、今週は、忙しい「生業」の合間を縫って、

先週末(10月8日)の奈良散策の遍歴の途上で、

「まほろば慕情」に触れながら、様々な方々と触れ合いながら、

本書ご紹介記事の構想案を練ってきたこともあり、

皆さんの前にご披露させて頂くことが遅くなってしまい、

誠に、申し訳ありませんでした。

(本書の内容は、今もっとも険しい「山場」に差し掛かったかに見える

国内外の政治経済情勢下、きわめて重要な時事問題でもあるため、

じっくりと論旨展開の方向性を再検討しながら考えてきました。

とはいえ、まだまだ、「手落ち」があることは承知しておりますが・・・)

そんな個人的言い訳に最後はなってしまいましたが、

本書が、「好著」であることは、確かですので、

是非ご一読されることをお薦めさせて頂きます。

最後に一献、幸わいの和歌を。

<奈良坂にある奈良豆比古神社の古式ゆかしき翁舞に触れつつ>

『いにしえの 奈良坂で生く 民びとを

舞いて励ます 微笑む翁』(管理人)

(※注釈:奈良坂と言えば、貧者や病者が、苦しい「憂き世」の中世に、

世間から隔離されながらも、逞しく生き抜かんとされていた土地であり、

様々な芸術作品の素材にも取り上げられている紺碧を帯びた慟哭する魂が

今なお宿る場所です。

鎌倉時代には、<社会事業僧>であった大和西大寺叡尊上人の流れを

受け継ぐ忍性上人が、しばしば立ち寄られた「北山十八間戸」も

残されています。

周辺には、秋桜(コスモス)で有名な般若寺

この和歌の舞台である奈良豆比古神社などの見所が

たくさんございます。

「翁舞」は、五穀豊穣・世界平和などを祈る

「奉祝」の舞であります。

今、世界規模で、「災害」が続き、人心荒廃も高まり、

なかなか「復興(あるいは、再チャレンジ)」への意欲が

湧き出てこない試練の時を、人類は迎えていますが、

このような時局だからこそ、

「鎮魂の幸舞」である「翁舞」とともに、

微笑みを絶やさずに、少しでも前向きに生き抜く智慧と

希望の光が、強く要請されています。

それは、まさしく、本書で強調されていた<死者とともに生きる>視点とも

共通します。)

それでは、皆さんの「ほんとうのさいわい」(宮沢賢治)を祈りながら、

ご多幸を念じつつ、今後とも精進を重ねて参りますので、

今後ともご愛顧のほど、宜しくお願い申し上げます。

なお、ナショナリズム論については、

『ナショナリズム~名著でたどる日本思想入門~』

(浅羽通明著、ちくま新書、2014年)

『民族という名の宗教~人をまとめる原理・排除する原理~』

(なだいなだ著、岩波新書、1992年)を

差し当たりご紹介しておきます。

この他にも、様々なナショナリズム論がありますが、

本書のような政治面に過剰に囚われすぎない類書は、

他にあまり見当たらないようです。

皆さんにも、各自で、多様な角度から、ナショナリズム論を

問い直して頂きたく、お薦めさせて頂きます。

最後までお読み頂きありがとうございました。

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2 Responses to “先崎彰容先生の「ナショナリズムの復権」人間の深層心理面から再考するナショナリズム論!?”

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