熊野純彦先生の「和辻哲郎~文人哲学者の軌跡」<あいだ>分析から発展した人倫哲学を読み解く!!

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「和辻哲郎~文人哲学者の軌跡~」

一般人の間にも広く読み継がれてきた

『古寺巡礼』などの名著で知られる

和辻哲学を熊野純彦先生が解説された入門書です。

人間は、世界内存在(ハイデガー)と定義されて

語られることの多い存在ですが、良くも悪くも

<あいだ>を通じた複雑な交通によって、

生成されていく生物であります。

その<あいだ>から立ち上がってくる人倫とは??

今回は、この本をご紹介します。

「和辻哲郎~文人哲学者の軌跡~」(熊野純彦著、岩波新書、2009年)

熊野純彦先生(以下、著者)は、前にもご紹介させて頂いた

『レヴィナス入門』(ちくま新書、1999年)などで、

一般向けにわかりやすく哲学思想を普及解説されるお仕事を

積極的にされてこられた哲学者・倫理学者であります。

そんな著者が、今回は、日本を代表する文人哲学者である

和辻哲郎思想を解読されています。

和辻哲郎氏と言っても、

現代日本では、日に日に忘れ去られつつある存在ですが、

日本人文化や日本人倫理を語るうえでは、

外せない有名な思想家であります。

また、和辻哲郎氏の名著『古寺巡礼』というエッセー集は、

今でも多くの古寺・仏像ファンにとって欠かせないバイブルとして、

一般にも広く知られている名作です。

読者の皆さんの中にも、

この『古寺巡礼』や『大和古寺風物詩』(亀井勝一郎著)といった

古典的ガイドブックを手にされながら、

京都や奈良の寺社観光で、

活用された方もおられるかもしれませんね。

大抵の観光寺院が発行するパンフレットには、

その和辻哲郎氏の『古寺巡礼』からの批評文が

引用された解説も多いことから、

その名前だけはご存じの方も多いのではないかと

思われます。

そんな古典的名著『古寺巡礼』ですが、

『巡礼』という言葉が付与されていますように、

単なる古寺観賞用ガイドブックではないようで、

管理人自身は、未読ですが、

著者によると、和辻哲郎氏自身の青年期特有の

心の遍歴記も兼ね備えた作品だとのことです。

つまり、『「自己発見」の書』だということです。

そして、この「個人的」な『彷徨と自己発見は、

日本近代文学の特権的な主題』(本書229頁)だともいいます。

和辻哲郎氏は、明治半ば生まれの知的青年でしたが、

明治時代から大正・昭和にかけての激動の時代は、

「個人的自我」の萌芽期でもあり、

個人にせよ、国家・社会にせよ、内面が引き裂かれるような

「煩悶時代」だったようです。

前にもご紹介させて頂いた夏目漱石も、

和辻哲郎氏よりは上の世代ですが、『私の個人主義』でも

見られるように、

<私的領域>における<私>と<公的領域>における<私>の

両面の<あいだ>において、

精神的バランスを失調させる深刻な心理状態で

煩悶するような青年期を過ごしたといいますが、

そんな明治期特有の青年心理から、創出されていったのが、

和辻哲郎氏の<あいだ>を問う『人間の学としての倫理学』でした。

そこで考察されていった哲学思想が、

どのような志向性を持った内容だったのかは、

後ほど、本文内で語らせて頂きますが、

この書物自体が、昭和9年(1934年)という

戦時体制下における「国民精神」が、

一般国民の身の上に、日々重くのしかかってくる時期に公刊された

ものであるだけに、賛否両論渦巻く「倫理学」だと評価されてきました。

そのような時勢下で執筆された哲学思想であるだけに、

今の価値基準から批評すると、当然、「限界」も内包していたと

いうことになりますが、

そこには、もちろん、現代にも通じる「可能性」も内包されていました。

いずれにせよ、この時期の日本哲学界は、『近代の超克』をテーマに

激しく論争されながら、戦後の世界秩序構想にも多大な衝撃を

与えるような思想が形成されていく状況にありました。

21世紀現在において、この時期の「限界」を

そのまま世に流布させていくことには、慎重でなければなりませんが、

私たち「人間」にとっては、<あいだ>を生きる存在であることから

常に問い続けなければならないテーマであります。

さらに、その「人間」を取り巻く「環境」によって、

<あいだ>の関係性も、絶えず、変化にさらされることもあって、

和辻哲郎氏のある意味では、固定的とも評される『風土』論を

そのまま持ち出すことにも慎重でなくてはなりませんが、

昨今のナショナリズム(地域限定特殊主義)と

グローバリズム(国際的域外普遍主義)の<あいだ>で

翻弄されていく世界情勢下では無視し得ないテーマであります。

ということで、21世紀において、

再び、20世紀に人類が経験したような悪夢を回避する視点を、

皆さんとともに考察していこうとの思いで、

この本を取り上げさせて頂きました。

世界が、「内向き(鎖国的環境)」に入りつつある現状を、

いかに、開放的かつ相互交通を維持発展させていくかを考えていく

素材としても、『風土』論を始めとする<あいだ>に力点を置いた

人倫哲学をあらためて再点検することは有意義な仕事であると

自負しています。

「人間」は、<あいだ>に生きつつも、原点に回帰していく他ない「かけがえのない」存在である!?

ところで、ご愛読下さっている読者の皆さんなら、

お気づきのことだと思われますが、

管理人が、最近、持続的に興味関心を有しているテーマが、

<あいだ>から分析考察を始めて、「人間」と「世界」の

原点に回帰していく「起(始)原論」であります。

『人間は、どこから来て、どこへ行くのか??』

人間は、「一人であって、一人ではない特殊な存在」であります。

人間は、「一人」の観点から分析すると、生死の場面では、

特に、「死」の場面では、「一人」孤独に、

「虚空」へ還り往く寂しい存在のように見えますが、

大きな次元で人「間」の一生を捉えてみると、

<あいだ>を漂いながら、様々な実体験を経ながら、

成長していく存在であります。

その「固有」の「特殊」体験を、「類」的に共有しながら

「普遍」体験を積み重ねていくのも、

<あいだ>を生きる「人間」の特徴であります。

その<あいだ>をつなぐ環こそが、「言葉」であります。

その「言葉」も、『どこから来て、どこへ行くのか??』、

興味関心がありますが、「人間」が、生と死の境目である

「この世」を生きている<あいだ>は、その「言葉」と「身体」を

通じて、感受しながら、相互了解を積み重ねていく存在であることは、

言うまでもありません。

「言葉」以前の、イメージ(表象)の段階では、

まだ具体的な世界という<あいだ>には表出してきてはいませんが、

ここが重要な点ですが、「言葉」と「身体」を有した「時点」から

「時間」を持つことになります。

その「時間」は、どのように形成されていくのか??

「意識」なのか、それとも、「無意識」なのか??

それも、突き詰めると、よくわからない世界に突入していってしまいますが、

この「時間」を中心に据えながら、人倫哲学を分析考察していったのが、

ドイツの啓蒙哲学者カントだとされていて、

著者による和辻哲郎氏のカント解釈の特徴に関する解説では、

『しかし超越論的(管理人注:「超越論」的とは、身体感覚を

越え出た「超」主体の俯瞰的視座のことか??=カント哲学の訳語は

ややこしいのですが、通常経験され得る認識次元を越え出た

高次(メタレベル)での視点のことか??)人格性は時間のみならず

また空間をも己れの内に持っている。時間におけると同様に「空間における

自覚」が何ゆえにここに説かれないのであろうか』(本書105頁)

疑義を呈しておられるようですが、

管理人も、常々、「近代」の西洋哲学の視座が、

カントに限らずに、「主体・客体二元論」で論じられることが

多いだけに、もどかしさを感じてきました。

「そもそも、<人間>の身体をバラバラに出来ないだろう・・・」

「ことに、首から上と下をなぜ切断して解釈しなければならないのか??」

ここに、「近代」特有の「頭でっかち主義!?」が多くの人びとを

無意味に苦しめる元凶があるのではないかと、不信感を抱いてきたのです。

その反動として、和辻哲郎氏も青年期に影響を受けたとされる

ニーチェキェルケゴールのような

「実存(人生における現実的方向感覚のこと)」的危機に発する反動が、

19~20世紀にかけての西洋でも始まったようですが、

今度は、かえって、「真理(真偽)不明」(ある意味、人「類」における

「共通理解」が阻害されてゆく怪奇現象!?)の

さらに深刻な心理的懐疑状態に陥ってしまったのです。

この「身心二元論」が、「唯物論」と「唯心論」の無意味な激しい衝突を

招き、20世紀の地球を真っ二つに「分断」してしまい、

現代に至っても、なお、その「後遺障害」に悩まされているところです。

その二律背反的なジレンマをいかに回避すべきか、

ここに、和辻哲郎氏の問題意識もあったといいます。

それを、東洋的な一元論、とりわけ、仏教哲学にヒントを得ながら、

「主客二元論」に基づく「時空」を越え出た「本来的自己」に

回帰していく方向で、この問題に決着をつけようとされます。

つまり、社会における<人間>相互間における「間柄」を

介して、「個」と「全体」の発展的解消を図りながら、

「自我」に囚われすぎない人倫哲学を探究していきます。

ところが、この「個」と「全体」の発展的解消といった誤解??的

視点が、時勢に悪用され、和辻哲郎氏自身の本意を離れていくなど、

和辻哲学受難の時代が始まります。

この頃に受けた誤解は、未だに解けていないようですが、

確かに、和辻哲学の<あいだ>哲学の流動性も、

柔軟な解釈がなされる余地もあったことから、

「限界」もあるようです。

その「限界」も十二分に踏まえたうえで、その「可能性」を

現代にいかに活かしきるかが、

今後の和辻倫理学から学び取るべき課題だと著者も指摘されています。

今回、管理人が、和辻哲学の一端をご紹介しながら、考察させて頂いている

直接的きっかけは、前にもご紹介させて頂いた河野哲也先生の著書である

『道徳を問いなおす』における冒頭のテーマ記事でも解説されていた

『和辻の日本人批判』(8~10頁)における

<仲間内限定公共道徳観>をもう少し突っ込んで考察してみようとの

問題意識からでした。

ここでは、和辻哲学に対する肯定的な評価から、

<あいだ>論を解読する試みであったように記憶していますが、

今回は、これ以上の深い探索はしないでおきますが、

この「内」と「外」の二重基準設定も、

日本人ならず、現在の人「類」における人倫の「限界」だとも

しばしば指摘されているところです。

とはいえ、「特殊」を考慮しない「普遍」もあり得ませんし、

「普遍」の中に、「特殊的個性」を無理に埋没させていく志向性も、

現代の地球上における「(文明ならぬ)価値観の衝突」といった

「文化戦争」の犠牲者をより一層積み増すだけで、

生産的議論の方向性としては、相応しくないと思われます。

この「価値観」自体が、人それぞれの固有の<あいだ>の

多層構造から創出されていくだけに、

「相互了解」の道も相変わらず険しい現状にありますが、

そんな<あいだ>の性質を日常生活の皮膚感覚で

捉え直していく視点は、有益なことでありましょう。

まとめますと、そうした<あいだ>を生きる「人間」の

個々の特殊事情を相互尊重していく姿勢が、

<かけがえのない>存在であることをあらためて思い出させてくれます。

その観点から、和辻哲学を読み直してみると、

その「可能性」も現代に適応する形で、拡張されていくことでしょう。

「人間」は、「風土(生活環境)」によって、その性質が形成されていくとはいうものの・・・

そんな和辻哲学ですが、ここで遅ればせながら、

本書の内容構成の要約を入れておきます。

①「序章 絶筆」

※人生最期の総決算の書『自叙伝の試み』は、

『中央公論』誌への連載中に病気療養のため、

中断し、「未完」の作品となってしまいましたが、

この作品に、和辻氏自身の幼少期の記憶に対する

深い哀惜の気持ちが込められているといいます。

人は、人生の最終期へと近づくと、

一番懐かしい思い出として、この世に生まれ出でたる

原点に近い心情を追想することが多くなるといいます。

それだけ、人生の中間期である<あいだ>の期間が、

過酷であったからでしょうか、

なぜか、「中間期(物心ついた青少年期から壮年期)」における

記憶よりも、「幼少期(物心はつくものの思慮分別といった理屈的

差別心に心情(真心)が犯されていない頃)」の記憶の方が、

心の深層面に強く印象づけられているようです。

このあたりの謎解きにも興味がありますが、

今回は、本書の趣旨から外れますので、触れないでおきましょう。

和辻氏は、真の学者らしく、人生の最期まで、

子どものような純情な「知的好奇心」を失っていなかった

いいます。

「哲学」の原義は、「知を愛すること=この宇宙の不思議に驚く感受性を

持つこと」でありますが、同じ「学問」を愛する者として、

「かくありたいものだ・・・」と、管理人も共感する思いで一杯です。

面白いことが、和辻氏が、哲学者らしく、

自己「固有」の「特殊的」人生で学び取ったことを、

人類の始原にまで遡った考察をしながら、

人類共通の「普遍的」源泉(共通意識)にまで到達しようとの

飽くなき探求心をお持ちであったことです。

その「原型」への探求心こそが、

「人間の精神は、いかにして形成されていくのだろうか??」との

問いから始まる独特の<あいだ>倫理哲学に進展していったようですね。

②「第1章 ふたつの風景」

※本章では、和辻哲学が形成されていく背景となった

風景論をテーマに、諸著作の奥底に流れるアイディアの源泉を

探究していきます。

独自の「共同体」倫理哲学は、著者の幼少期における

家族やその周辺の生活環境から創出されていったといいますが、

哲学者ならずとも、人間と社会との心理的距離感は、

その多くが幼少期に強固に形成され、記憶に残り、

自分と「共同体(社会)」に対する愛着観を大きく左右されるようです。

和辻氏自身は、幸運なことに、比較的恵まれた生活環境のご家庭で

生育されたようですが、上京後での都会生活で感じた地方(周辺)出身者との

付き合いや自身の都会への距離感から、

「屈折」した思いが、後に徐々に形成されていく

和辻<倫理学>の背景には込められているようです。

そんな「距離感」に対する繊細な自意識が、「間柄(あいだ)」に

力点を置く独特な<倫理学>へと発展していったようです。

ですので、巷間では、誤解されることも多い和辻氏の

「共同体(風土)」論ですが、必ずしも、

ドイツの哲学者ヘーゲルハイデガーのような

体系化された共同体倫理哲学とも異なる

相当な隔たりがあるようです。

その具体的な詳細事情は、第3章で展開される戦時体制下での

活動模様からも窺えますが、国家権力意識とは、

一定の距離を置きながら、一貫して、「人間にとって、

もっとも相応しい共同体感覚とは何か??」を深く追究しながら、

その人倫哲学が、形成されていったといいます。

この「屈折」した思いが、共同体との絡みで考察する

人倫哲学が、共同体に<無理に>適応させなくても成り立つ志向性も

宿した独自のものに展開していったようです。

③「第2章 回帰する倫理」

本章が、特に、和辻哲学概説の<中心部>に当たりますが、

人間の個人的「身体」感覚から始める「実践」倫理が、

重視されていたことも理解されます。

ところで、<あとがき>によると、著者とも縁のある

ヤスパース』(清水書院センチュリーブックス、1969年)などの

著作を持つ宇都宮芳明先生による和辻哲学に対する根本思考分析解釈による

引用によると、

『人間存在の「個と全の二重構造は、全の否定によって個が成立し、

個の否定によって全が全に還帰するという、二重の否定運動」を

介して開示される。その否定運動は、しかも、和辻が「空」と

名づける「絶対的否定性」、「本来的な絶対的全体性」が自己を

実現する運動である。和辻はまず「人と人との間の問題を、

個と全の間の問題に置き移した。人間存在の根本構造は、まずもって

人間における個と全の二重構造として解明されるのである。」』との

和辻哲学に特有の思考の軌跡を要約されるとともに、

それに対しては、『「人と人との間は、まずもって個と個の間では

なかろうか。個と全という図式は、この個と個の間に生ずる諸問題」を

かえって覆ってしまうのではないだろうか。』(本書127~128頁)と

疑義を提出されています。

このような批評分析とともに考えていくと、

確かに、和辻倫理学が誤解される余地も多々あったようです。

こうした「個」と「全体」といういわば「垂直型図式」は、

「保守的」な管理人も無意識に前提としてしまう思考クセがありますが、

一般的には、「保守的」と目される和辻哲学にも、

このような隠された暗黙思考クセがあるようです。

この「全体」と「個」の間という図式は、何も「保守」だけに限らず、

マルクスなどの左派思想にもありますが、

こうした「垂直型図式」が、

「階級」間の無意味かつ無慈悲な対立をもたらした歴史的教訓も

鑑みると、宇都宮先生がご指摘されるように、「水平型図式」思考への

転換から、まずもって、「関係性」を捉え直すことが、

これからの<(共同体)倫理学>を考えていくうえでも、

有益な視点を与えてくれることでしょう。

(ちなみに、管理人の哲学人生は、高校生の頃に読んだ

『ハイデガーの思想』(木田元著、岩波新書)と上記『ヤスパース』

(宇都宮芳明著、清水書院センチュリーブックス)が直接的な<ご縁>と

なっています。何とも言えない<不思議なご縁>ですが、読書の醍醐味は、

このような関連性の中で、各著者と読者との接点が次々と紡がれていく

ところにもあるのでしょう。これも一種の<間柄!?>かもしれません。)

ところで、本章では、「日本語論」も解説されているのですが、

このテーマもまた、後日機会をあらためて別著をご紹介しながら、

考察していきたいと考えています。

乞う、ご期待でございます。

④「第3章 時代のなかで」

※本章では、和辻氏も「京都学派」の系統に属する哲学者と

目されるだけに、政府や軍部(特に、海軍)との関係から

文教政策への関与へと引き出されていきます。

「京都学派」は、西田幾多郎田辺元といった個性の強い

哲学者を輩出していった学派として知られますが、

特に、『近代の超克』をテーマに、

大東亜(アジア・太平洋)戦争の「世界史的意義」が厳しく

問われる時局にありました。

そんな時局でしたから、共同体倫理もあらためて問われる時期に

当たっていたのです。

こうしたことから、「全体」に包摂されやすい「個」と「全体」といった

先程来ご紹介してきた「垂直型図式」思考は、

後に大きな批判にさらされることにもなりました。

とはいえ、和辻氏が、「保守」的思考一辺倒な「頑固おやじ」かというと、

そうではありません。

マルクス思想からも問題意識を引き継ぎながら、

独自の経済的組織論や労働論も丁寧に考察されています。

特に、管理人が共感したのが、戦後は、高度経済成長期とともに

とかく賞賛されがちだった「町人根性」批判論を提出されていたことでした。

何も、ここで、「町人」に対する「武士道復権!!」などと

単純にして極端な見解を提示するわけではありませんが、

(管理人は、もとより、あまりにもステレオタイプな

「わかりやすい」図式思考には警戒心を抱いています。

<わかりやすい>議論は、あくまで、読者や自分なりに

思考の整理整頓の「便宜を図るため」と割り切って使用させて頂いています。

ここが、言葉の難点でもあり、緻密に思考を進めていくうえでは、

絶望的に困難な道のりなのですが・・・。賢明な読者の皆さんであれば、

この悲しみをご理解頂けるものと信じております。)、

やはり、人生には、「やせ我慢」(福澤諭吉)的身体感覚が

必要とされる場面もありましょう。

そのことは、昨今の世相における軽薄な風潮を観察していると、

特に強く思われるのであります。

「<即効性>だけを求める人間は、自らの人生を底の浅いものとする!!」

ここで、人間の「品格論」を論じるつもりはありませんが、

この「やせ我慢」心理こそ、未曾有の精神的危機状況には、

長い目で見て、時代の厳しい風雪にも耐え得る哲学思想を

熟成させるのに大いに貢献するものだと確信しております。

⑤「終章 文人」

※最後は、和辻氏の『古寺巡礼』に立ち戻ることになるのですが、

和辻哲学の特徴は、芸術的感性とともにあったところにあるようです。

「文人」哲学者が、本書のサブタイトルでもありますが、

哲学的「散文」中にも、「詩的要素」が散りばめられていたといいます。

それゆえ、「文学」的表現に近く、誤解される余地も残すことに

なってしまったようですが、そもそも、「言語」表現には、

常に、「限界」が付きまとうため、

この点は、和辻氏だけの欠点ではありません。

と、本書で展開される論旨をあまりにも簡略化してしまい、

誤解も生み出すような要約になってしまいましたが、

皆さんにも、本書を和辻哲学の入口としながら、

これからの「日本と日本人」の行く末(あるべき方向性、そうです、

<あるべき=これを難しい言葉で、「当為」といいますが・・・>が、

<倫理学>の本質なのです。)をともに考えて頂ければと思います。

「日本と日本人」だけではなく、

「世界(宇宙大にまで)」にまで考察を拡げていって頂きたいと、

特に、これからの未来を形作っていかれることになる

若い読者の皆さんには、お願いさせて頂きます。

カントの『永久平和のために』と併読したい、

日本人哲学者が、日本語で「限界」まで挑戦した思考の軌跡・・・

それが、和辻<倫理学>であります。

最後に、『古寺巡礼』の一節を本書から引用しながら、

筆を擱かせて頂くことにします。

『われわれはみなかつては桃源に住んでいたのである。

すなわちわれわれはかつて子供であった!』(本書52頁)

そして、『ゼエレン・キェルケゴオル』の序文で「宣言」された

『最も特殊なものが真に普遍的になる』(本書83頁)

この言葉こそ、心細い市井の物書きにとっては、

心の支えとなる言葉ですが、

ともすれば、「集団」の中で孤立しやすい現代人にとっても、

大いなる励ましとなる言葉でありましょう。

このことを深く体認・体得する歓びを味わうためにこそ、

「人間」は生きているのだといっても、言い過ぎではないでしょう。

ということで、皆さんにも、一人ひとりが、

独自の人生哲学を創作して頂けるようお祈りしつつ、

本書をご一読されることをお薦めさせて頂きます。

なお、本書以外の和辻哲学「入門書」としては、

「再発見 日本の哲学 和辻哲郎~人格から間柄へ~」

(宮川敬之著、講談社学術文庫、2015年)

『古寺巡礼』については、

「初版 古寺巡礼」

(ちくま学芸文庫、2012年)を

お薦めさせて頂きます。

※秋は、「古寺巡礼」に最適な季節・・・

若い皆さんも、「書を捨てて」、旅に出よう・・・

本来の「自分探し」とは、「心の内面を見つめ直すこと」です。

「迷って、迷って、迷いまくれ・・・」

それが、

「あなたご自身の深い人生の味わいを生み出してくれるのです!!」

ちなみに、和辻哲郎氏の墓所は、

鎌倉の名刹で、各界の著名人も眠る東慶寺にあります。

秋の鎌倉も散策には最適なようですので、

そちら方面へ行かれるご予定がおありの方には、

是非お訪ね下さいませ。

最後までお読み頂きありがとうございました。

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2 Responses to “熊野純彦先生の「和辻哲郎~文人哲学者の軌跡」<あいだ>分析から発展した人倫哲学を読み解く!!”

  1. 1729 akayama より:

     ≪…「この世」を生きている<あいだ>は、その「言葉」と「身体」を通じて…≫との事を、
    『道元』和辻哲郎著の頼住光子先生の解説の 
    ≪永遠なる〔ある者〕≫が≪永遠にして普遍なる一切の根源≫と記す、
     ≪永遠にして普遍なる一切の根源≫を、
    ≪…<あいだ>をつなぐ環こそが、「言葉」…≫として、[言葉]と【数そのモノ】の[言葉]とする⦅自然数⦆に≪…「言葉」と「身体」を有した「時点」から「時間」…≫の、
    ≪…「時間」は、どのように形成…≫を掴むべきかを『人生の断章』から紡がれる 
    ≪…体系化された共同体倫理哲学…≫の『根源』として[呈示]する。 

     『断章』は、
    『離散的有理数の組み合わせによる多変数創発関数論 命題Ⅰ』(存在量化 Ⅰ)
     『離散的有理数の組み合わせによる多変数創発関数論 命題Ⅱ』(存在量化 Ⅱ)
      で、
     ⦅自然数⦆(離散的)が、[三次元で閉じた]言葉となっていることが、≪…「時間」の形成…≫を伴って体験できる。

     前者は、[確率]的な⦅数の言葉⦆で、『根源』として、『数学(算術)の状態方程式』の[等価性]として[二つの方程式の係数]が、[1]の[分解]された[和]で⦅予定調和⦆する。
     後者は、[自己組織]的な⦅数の言葉⦆で、『根源』として、『数学(算術)の状態方程式』の[等価性]として[二つの方程式の係数]が、[1]の[分解]された[積]で⦅予定調和⦆する。

     ライプニッツの[理性に基づく自然と恩寵の原理]の『《モナド》写像』が、この⦅予定調和⦆からの[止揚]へと生りそうだ。

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