野田宣雄先生の「二十世紀をどう見るか」を読もう!!経済のグローバル化と飛躍的な技術革新が、中世に回帰させる!?
今回は、野田宣雄先生の「二十世紀をどう見るか」を
読み解きながら、皆さんとともに
考えていきたいと思います。
飛躍的な技術革新による経済のグローバル化が
皮肉にも「暗黒の中世」に回帰する!?
21世紀に入り、すでに15年経ちますが、
人類は未だに「20世紀の負の遺産」を克服仕切れて
いません。
そもそも「20世紀とは何だったのか?」
この大きなテーマを総括する余裕もなく、人類は
21世紀を迎えてしまったようです。
「二十世紀をどう見るか」 (野田宣雄著、文春新書、1998年)
野田宣雄先生(以下、著者)は、ドイツ近・現代史がご専門です。
第一次世界大戦から第二次世界大戦に至る
いわゆる「戦間期」におけるドイツの危機的状況を
歴史分析の手法で鋭く研究されてきました。
この研究により、民主主義の危機は
「一般大衆による単純な英雄待望論」から
もたらされてきたとの一般常識を覆す研究成果が
知られるようになりました。
「知的な教養市民層」がナチズムを広範囲に支えた事実とともに、
「一般大衆市民層」の不満に十分対処出来なかったことから、
一種のプロテスタント的(まさに<プロテスト=抗議!!>です。)
擬似宗教政治運動だったことが明らかになってきました。
つまり、知性の限界を十二分に満たしてくれる説明材料が与えられない
ことから、「安易なオカルト」に依存していくそんな状況も
うまく説明してくれています。
この歴史的教訓から言えるのは、「知性主義か反知性主義か」などという
昨今はやりの議論が「危機の時代」には
子供だましのような議論だということです。
もっと、現実を厳しく詳細に検討しながら思慮深く行動する必要が
ここから読み取れます。
二つの世界大戦は、支配層も被支配層も含めて
人間の大いなる自尊心を傷つけました。
「自信を失った人間は何を求めるのか?」
安易な解決法をもっともらしい知的な言葉で粉飾していきます。
つまり、支配層と被支配層との消極的な共犯関係から
「歴史の危機」は生み出されていくようです。
現在、世界情勢は混迷を極めつつありますが
この過程を正確に記憶しておくことは、世界に再び惨禍を
もたらさないためにも大切な視点となります。
一般大衆だけに責任があるとする従来の「全体主義論」の見方は
ここに大きく修正しなければならないようです。
著者は、「ルネサンス」の名称を一般に認知させた
ヤーコプ・ブルクハルトからも示唆を得た「現代分析手法」を
取り入れて論じられてもいます。
管理人が、この本を初めて読んだのが大学生の頃でした。
法学部でもあったことから、ヨーロッパ政治学の講義で
当時流行していたサミュエル・ハンチントンの「文明の衝突論」とともに
「新しい中世論」が話題になっていました。
また、IT革命と国家民営化の行き着く先が、「中世のような混沌状況」を
もたらすだろうとも議論されていたのを覚えています。
最近では、冒頭にも掲げました「暗黒の」中世という見方は修正されつつある
ようですが、「混沌状況」という中世の本質の大枠は変わらないようです。
中世国家とは、近代国民国家以前の分権型領域的国家群を
一般に呼び慣わしているようです。
現代社会が、ますます「アナーキー国家化」していく中で、
近現代時代を形成していた主権国民国家も、少しずつ「蟻の一穴」のように
崩壊していく途上にあるようです。
このような時代になると、今まで安定していた国民主権国家を大前提とする
諸制度の維持も困難になっていきます。
一番私たちに身近な制度は、「社会福祉国家制度」ですね。
絶えず生活が不安やおそれにさらされ続けることになります。
最悪の状況を招かず、無理のない生活社会環境を維持していくためにも
あらためてこれまでの人類史を振り返るのも意味のあることだと思われます。
そこで、今回は皆さんとともに「二十世紀」を振り返りながら
今後の私たちの進路を考えていきたいと思い、
この本を取り上げさせて頂きました。
「文明と帝国の復活」と「小民族集団(エスニー)の台頭」
2015年現在、「イスラム国」を始め従来の民族集団の枠組みだけでは
世界を理解できない状況が続いています。
不安やおそれを軽減していくためには、その背景事情を探っていく必要が
あります。
いたずらに不安やおそれを煽ったりすることは、「愚の骨頂!!」です。
「わからないからこそ不安になる」のです。
しかも、この肝心な状況において巨大なマスメディアは、
「十二分の良質な情報」を提供してくれません。
こんな時こそ、インターネットの長所を活用しなくてはなりません。
著者も、この本で強調されているように
「(社会のIT化など)人類が初めて経験する先端的な事象が、かえって、
何世紀にもわたって眠り込んでいた歴史の深部のパターンやリズムを
呼び覚ましていること」により、「意識の次元では、<中世>を招き
寄せている」という逆説です。
要するに、今まで縛られていた巨大な心理的・物理的束縛から人々は
自由になりたいのです。
とはいえ、バラバラの個人集団では「余程の強さ」を持った人間でないと
巨大な荒波にさらわれてしまいます。
こうした「個人の分裂化による不安やおそれ」の状況に対応してきたのが、
「文明と帝国の復活」と「小民族集団(エスニー)の台頭」です。
こうした時代状況を前提としながらも、もう一段踏み込む必要があるのが
「イスラム国」のような一種の「宗教共同体」や
「ある種の価値観(世界観)を共有する諸集団」の存在です。
著者が、この本を世に出した頃よりも急激に時代は変化しています。
それでも、20世紀末から21世紀初頭に出されたこの本の分析内容は
まったく色褪せていません。
最近、EUの経済運営の大失敗や移民・難民流出問題で
ドイツは大変厳しい状況に立たされています。
また、フランスでも相次ぐ陰惨な事件で先行き不透明な政治経済状況です。
一方、「世界の警察官」をもって任じてきたアメリカも
再びモンロー主義(孤立政策)に戻ろうとしており、
来年以降の大統領選挙でも疑心暗鬼が飛び交っています。
翻ってアジアでは、インドも未知数ですし、そればかりかこの国は歴史的に
自由自在な状況主義をうまく繰り返してきたようなので、過大な期待も禁物のようです。
中国も不動産・金融バブルや災害対策などでの舵取りが未知数で、
将来状況がまるで読めません。
こうした世界情勢の中で、大きくクローズアップされてきたのが
「ロシア帝国」と「トルコ帝国」です。
この両国の動き次第で今後の世界情勢も大きく変わっていくと思われます。
そうした大国同士のせめぎ合いの間を縫って台頭してきたのが、
「イスラム国」でした。
こうした現状で一番困難な立場に立たされるのが、「周辺国家」です。
日本を含めこうした「中小周辺国家」こそが、一番動揺させられやすいのです。
2015年の状況は、ある意味19世紀末期から20世紀前半の状況に酷似しています。
そのうえで、情報革命がスピードを促進させています。
私たちは、このような現状にいることを確認しておかなければなりません。
衰弱化しつつある社会福祉国家の中で生き抜く覚悟
著者もこの本で分析されていますが、
ドイツを始めとするヨーロッパ諸国のいわゆる「ライン型社会資本主義」と
イギリスのロンドン・シティーやアメリカのニューヨーク・ウォール街を
中心とした「アングロサクソン型英米資本主義」のしのぎを削る激しい対立が
20世紀後半から21世紀にかけて繰り返されてきました。
社会科学は、自然科学のように「実験」が出来ないだけに悲惨な現実が
長引く傾向になってしまいます。
無理に「社会実験」をしようとすると、20世紀の大厄災を導くことにも
なりかねません。
だからこそ、今を生きる私たちは慎重に歩みを進めなければなりません。
もっとも、英米型グローバリズムも一枚岩ではありませんし、
アメリカ西海岸の「シリコンバレー資本主義」もあります。
それでも、英米圏では基本的に「独立した個人観」が強すぎることが
特徴です。
中国経済の行く末も近現代以降は「上海」が鍵を握っているようです。
意外に思われるかもしれませんが、隣国の中国や韓国も「強固な個人主義」
であるようです。
そのような「周辺事情」を正確に定点観測していくと、
今後の日本経済はどうなっていくのでしょうか?
「完全な個人でもなく完全な集団」でもない「最適な?規模」で行動してきた
とされる「雑種型日本人」は今後どのような方向性をもって
生き抜いていくのがよいのでしょうか?
私たちが、歴史から厳しく問われているのもこの課題です。
今後ますます「新自由主義化(弱肉強食社会化)」の強まることが
予測される日本社会では、「中間組織社会」が崩されていくことが
予想されます。
20世紀の歴史の教訓は、
「安全弁である中間組織体の解体は、全体主義への道かアナーキーな無秩序世界」です。
いずれにせよ、私たちは国民国家よりも下位の帰属対象を各人で探っていく必要が
あるようですね。
そのためにも、社会のIT化を良質な方向へと発展させる知恵と覚悟が要求されます。
今回は、「新しい中世」の考察にまでは至りませんでしたが、紙数も尽きましたので
次回このテーマから取り上げることにします。
「不安やおそれを軽減するには、歴史的視野を広げること」です。
皆さんもこの本は好著ですので、是非今後の世界情勢を考えるうえで
お読み頂ければ幸いです。
最後までお読み頂きありがとうございました。
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