福田恆存の「人間の生き方、ものの考え方~学生たちへの特別講義」絶望から立ち上がる言語的人間論!!
「人間の生き方、ものの考え方」
福田恆存が、学生たちに向けた
特別講義を残されています。
これまで一般向けには、出回っていなかった
「幻?の特別講義」です。
戯曲家・翻訳家・批評家として
多様な素顔を持った孤高の言論人でした。
「ものを考えるとはどういうことか?」
人間は、絶望的なまでにお互いに分かり合えない
かけがえのない生き物です。
今回は、この本をご紹介します。
「人間の生き方、ものの考え方~学生たちへの特別講義~」(福田恆存著、福田逸・国民文化研究会編、文藝春秋、2015年)
福田恆存(ふくだ つねあり)(以下、著者)は、
今ではほとんど、「知る人ぞ知る」批評家になっている
「言論界の大御所」であるようです。
一般的には、保守言論人と思われていますが、
この方の場合には、そんな「狭いレッテル」は
当てはまらないようです。
というよりも、管理人は「レッテル貼り」ほど
「人間理解」から、ほど遠いものもないと思いますが・・・
著者は、誰よりも「言葉の多義性」について、
注意深く考察されてきた言論人でした。
そのためか、保守から革新まで幅広い言論人から、
敬して遠ざけられていた孤高な存在だったようです。
今日では、ほとんど知られていないようですが、
1950年~1970年代にかけては、
作家の三島由紀夫氏とともに、芸能界にも
すそ野を拡げた大活躍をされていたそうです。
「戯曲家・脚本家」として。
戦後、ますます言葉に「魂」が宿らなくなり、
日本社会の至るところで、欺瞞が拡がっていく風潮に
誰よりも敏感だったのが、この「天才的批評家」でした。
イギリスの著名な作家D・H・ローレンスの「チャタレイ夫人の恋人」
を巡って最高裁判所まで争われた「チャタレイ事件」では、
特別弁護人として出廷されたことでも有名な方です。
今の若い読者の方でも、社会科の授業で聴いたことのある人は
多いかもしれません。
日本における「わいせつ基準」を巡る画期的な裁判だったのです。
2016年現在の価値基準からすれば、「それほどでもない!!」と
思われるかもしれませんが、このような推移を観察するだけでも、
日本社会に大いなる「病」が浸透してきたと言えるかもしれません。
それほど、「価値基準」というものは、「無意識」に働きかけるから
厄介な存在なのです。
「厄介な存在」と言えば、人間にとって「言葉」以上のものはないでしょう。
「言葉」は、その取り扱い方によって
「薬にも毒にも変幻自在に化けてしまう道具」です。
その意味で、「良い」誤解にも「悪い」誤解にもなる「道具」です。
私たち一般の日本人にとっては、「言葉」は誰しも共通の意味を与える
「道具」だとイメージしながら、日々生きていますが、実はそこに
「落とし穴」があるということに、あらためて警鐘されてこられたのも
著者でした。
「人間は、絶望的に理解し合えることが困難な生き物」です。
「誤解」は「誤解」として認識しながらも、その「誤解解き」を
面倒くさがらずに、単なる「会話」ではなく「対話」でもって
お互いに示しあっていくことが、「よりよき生き方の第一歩」だと
されています。
現代社会では、あらゆる場所で、象徴(印象)的な言葉による「操作」が
なされてきました。
日々せわしく生き抜かねば置いてけぼりになる(本当に豊かな生き方を心がけるなら、
そんな事態にはならないハズなのですが・・・)風潮では、なかなか落ち着いて
「物思いにふける」ことすら許されないでしょう。
このような現況がいつまでも続き、いや意識的にせよ、無意識にせよ、お互いに
「暗黙の了解事項」として続かせることを「選択」するならば、
人類は真実「絶滅の危機」を迎えることにもなりかねません。
ここで、著者は「絶望からの再出発」をするにせよ、「逆説的」な生き方に
目を向けるヒントを指し示してくれています。
「ユーモアの活用」です。
人間は、最終的には「笑い」なくしては耐えられない存在です。
これから人類は、どこに向かっていくのでしょうか?
多くの方が、不安やおそれを抱えておられることでしょう。
管理人も、単純な「楽観主義」でもなく、深刻な「悲観主義」でもない
「中道主義」をお薦めさせて頂いてきたからには、それなりの言論責任もあります。
その言論責任のあり方なども含めて、著者から「人間の生き方、ものの考え方」を
学び取ることは、皆さんにとっても「よりよく生き抜く糧」になると思いましたので、
この本を取り上げさせて頂きました。
生きた言葉の持つ重みを大切に・・・
著者のあらゆる言論活動の精神的支柱となる「批評活動」には、
すべて「よりよく生きる」という重いテーマが底流にあります。
「批評」・・・
この言葉ほど、「誤解(手垢まみれ)」になっている言葉も
ありません。
管理人も、責任ある文筆家として「書評」をさせて頂いて
おりますが、日々「言葉遣い」の難しさに悩まされています。
「良質な批評とは何だろうか?」
そんな悩みを抱えながらも、言論活動しながら細々と生きている日々です。
現代社会の、「日の当たる表舞台」にも「言論人(評論家)」は
数多くおられますが、皆さんも日々のマスメディアなどに接しながらも
「無意味な論争」に飽き飽きしておられるのではないでしょうか?
それは、「最高の生きた言論活動」が必要とされる政治経済の現場でも
おなじみの光景であります。
「批判にもなっていない、幼稚な詭弁が多すぎる!!」などなど・・・
「フムフム、そのお気持ちはよーくわかります。」
と語りたいところですが、その「思い上がった態度」が
「諸悪の根源」だったのだと、警告されているのが本書です。
本書で否応なく気付かされるのが、人間は誰しも「言葉の悩み」を
抱えながら、生きるしかないということです。
著者は、「言葉は道具でもいい!!」と語ります。
ただし、問題はその「意味内容(中身の質)」だと語ります。
私たちは、普段「言葉」を使って生きていますが、暗黙の大前提として
「国語辞書的な共通言語」が定まったものとしてあるものだと、
思い込んでいるようです。
注意深く、思慮深く、後から振り返って落ち着いて考えるなら、
「言葉は、まさしく生きている!!」ことに気付くのですが、
「気付いたときには、時すでに遅し!!」ということが、ままあります。
言葉はイメージとともに創造されてきました。
本書は、テーマは異なっても、「言語論」を共通軸にして語られています。
今回は、哲学的な話は控えめにさせて頂きますが、20世紀は
「言語哲学の世紀」だとされています。
そのあたりは、直近の記事でも触れさせて頂きました。
なぜ、「哲学(学問)」の世界で、かくまで「言語論」が
緻密に論じられてきたかと言えば、
端的に「まさしく、生きることは語ること(沈黙も含めて)」に
他ならないからですね。
イメージには、視点の違いにより様々な「手垢」が積み重なります。
そのイメージを、いかにしてお互いの共通理解へと翻訳していくのか?
そこに、「道具」としての「言語論」が意味を持ち始めます。
そこで、確率統計的に「最大公約数」得られた「定義」が、
普段私たちが親しんでいる「言葉の意味設定」です。
「そんなこと、言われなくても、分かっているわ!!」と
思われることでしょうが、ここにこそ「誤解の種」があるのです。
確かに、共通理解を促進するための「意味言語」なくしては、
一日たりとも生きてはいけません。
そのことは、「論」をまちません。
しかし、ここからが肝心なところですが、その「意味言語」も
常にゆらぎ動き続けるのです。
そこから、「誤解」が生じていく訳ですが、その「誤解」を出来るだけ
なくしていくために工夫されていったのが、「記号言語」です。
「1」か「0」
まさしく、現在私たちが使っている「コンピュータ言語」の基礎です。
とはいえ、日常会話では「YES or NO方式」はあまり使い勝手が良くありません。
その意味で、「あいまいさ(冗長さ)」を残した「ファジー言語」の方が、
日常生活には適しているのです。
さて、本書でもこの「言葉の持つ大きなゆれ幅」について語られています。
日常生活では、数学的な生き方は極めて「人間的」には難しいので、
絶えずその「大きなゆれ幅」を狭めていく努力を積み重ねなくてはなりません。
それが、お互いにとって「誤解を解く鍵」となります。
そのことに、気付くことが、言葉の重みを背負った「よりよき生き方」に
つながっていきます。
孤独・絶望から立ち上がる批評的生き方
とはいえ、冒頭でもすでに語りましたが、
「せわしい毎日」では、なかなか「ゆとり」を持って
良質な会話(対話)を楽しむことが難しい時代でもあります。
そのような「絶望的に生きるのが困難」な現代社会においては、
良質な読書などをする「暇と退屈な時間」すらないと嘆かれる方が、
大半ではないでしょうか?
管理人も、毎日「生計」を立てるのに必死ですが、何とか「時間」に
融通をつけながら、精一杯「背伸び」しています。
著者は、人間は「孤独・絶望とともに」生きる存在だと強調されます。
「分かり合えるなどと思い上がってはならない!!」
「分かり合えないからこそ、その深い溝を埋めるべく互いに歩み寄る姿勢が
大切なのだ」と・・・
世の中が、便利になればなるほど、この「面倒くささ」を回避するクセが
ついてしまうようです。
コミュニケーションも、本来の役割を離れて「つぶやき言語」にすらなっています。
管理人も、そうした「新しいコミュニケーション術」を
全面的に否定する訳ではありません。
ひょっとしたら、「人間は、宇宙人へと進化中!!」などと「笑い」ながら
考察することもあります。
なぜなら、これまで考察してきましたように、人類の「言語史」は
ひたすら「誤解を解くための簡略化」を図ってきたからです。
しかし、「簡略(省略)化も度が過ぎれば・・・」であります。
それはさておき、「孤独・絶望からの再出発」が、ここでのテーマでした。
著者は、『「近代化」とは何か』の講義で、「適応異常の閉鎖性」についても
語られていますが、「集団や個人」だけでなく、「言語」においても
往々にしてそうなりがちです。
「簡略化」しようとすればするほど、その反動も大きいようです。
このように、現代社会の便利さに対応して「言語」も簡略(省略)化されていく
一方ですが、このことが、さらに人間に負荷を強いています。
それが、ますます人々を苛立たせ、焦らせていく要因の一つにもなっています。
皮肉にも、「弱いつながり」などという当世流の処世術(ライフハック!?)が
多くの若者を苦しめているようです。
こうした傾向が、「主流文化」として完全に固定化されてしまうと、
人々は「自閉自足化」して、「自らの立ち位置」を他者の視点などを通じて、
「次元」を高めていくことが、ますます難しくなっていくことでしょう。
著者も強調されていますが、そうなればなるほど、
「自分の小さな自己満足的理解」しか出来なくなってしまいます。
ですから、誤解は誤解として、一気に無理矢理解こうとする必要は
ありませんが、他者との距離感をお互いに縮める努力は怠らないようにしたいものです。
「誤解というのも一つの理解の方法だ」と・・・
著者は、このように「覚悟」を定めるところから、「孤独・絶望」などの世界から
再出発出来るのだと語ります。
最後に、「自分ほどよく分からない存在は他にない!!」との自覚。
ソクラテスの「無知の知」への自覚こそが、
「良知なき無知(集合痴)の時代」にあってみれば、
ある種の「死に至る病」に対する解毒剤になってくれるのではありますまいか・・・
それほど、言葉は奥深くて「複雑系言語」であります。
だからこそ、人は絶望感(孤独感)とともに、人々に語りかけるのでしょう。
「良質な批評とは何か?」
そのことを、著者は静かに示唆してくれます。
皆さんも、それぞれの「孤独・絶望から立ち上がる批評的(建設的)生き方」を
ともに模索して頂ければ幸いです。
著者のような「時代の風説に十二分に耐えうるような批評」を心がけながら、
管理人も、よりよい「書評」を目指して飛翔していきますので、
今後とも宜しくお願い致します。
なお、著者について、
「福田恆存~人間は弱い~」
(川久保剛著、ミネルヴァ書房、2012年)
「福田恆存~総特集 人間・この劇的なるもの~」
(河出書房新社、2015年)
をご紹介しておきます。
最後までお読み頂きありがとうございました。
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