ジョーゼフ・F・ガーゾーンさんの「ヨシュア~自由と解放をもたらすひと」信仰とともに成長し続ける生き方を学ぼう!!

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「ヨシュア~自由と解放をもたらすひと~」

ジョーゼフ・F・ガーゾーンさんが、

物語風にわかりやすくキリスト信仰を通じて、

「神と人間の関係」について語ってくれている小説です。

非キリスト教徒にとっても、

「人間としての生き方」について、

あらためて考えさせられる好著です。

21世紀現在、宗教対立が問題になる最中だからこそ、

「愛による行動」から学びたいものです。

今回は、この本をご紹介します。

「ヨシュア~自由と解放をもたらすひと~」(ジョーゼフ・F・ガーゾーン著、山﨑髙司訳、春秋社、2003年)

ジョーゼフ・F・ガーゾーンさんは、アメリカの

ニューヨーク州アルバニー生まれのキリスト教神父さんです。

カトリック系のカルメル修道会ご出身で、教育においても

「科学と宗教」の教授をされていたといいます。

社会問題の調停者としてもご活躍されています。

本書は、刊行後直ちにベストセラーとなり、

2002年には映画化もされているそうです。

その他にも数多くの著作があり、

世界中で読み親しまれているとのことです。

日本は、非キリスト教文化圏にあるために、

一般的にはキリスト教信者でもない限り、

あまり知られていない本書ですが、

そのような非キリスト教信者にとっても、

「キリスト教入門書」として格好の教材に

仕上がっている好著です。

ちなみに、管理人はキリスト教信者では

ありませんが、「カトリック系」の学校に

通学していたこともあり、日頃から

イエス・キリストご自身の教えには親しんできた者です。

管理人の立場は、前にも触れさせて頂いたこともありますが、

「万教帰一信者」で、あらゆる宗教の良き知恵を

謙虚に学んでいきたいと願う者です。

難しい「キリスト教神学論争」のことは、

分かりませんが、高校時代に「世界史」や

「宗教教育における聖書講義」を受けた経験も

ありますので、管理人にとって理解できた範囲で

なるだけ分かりやすく、

皆さんにお伝えすることが出来ればと考えています。

また、本書のご紹介は、いかなる意味でも「信仰の強要」を

伴うものではありませんので、どうか最後までご安心して

お読み頂ければ幸いであります。

2016年現在、再び、世界に宗教対立を始めとする

「不協和音」が鳴り響いています。

「人類は、もともと兄弟姉妹のはずなのに・・・」

「なぜ、考え方の相違だけで、人びとの絆を切り裂いてしまう

のでしょうか?」

今こそ、謙虚に「寛容と忍耐の心」をもって、

「愛の精神」について学んでいきたいものです。

本書の長所は、非キリスト教信者にとっても、

読みやすく、様々な角度から「人間愛」を学び直すことが

出来る点にあります。

ということで、皆さんの期待を決して裏切らない好著だとの思いで、

自信をもって取り上げさせて頂きました。

イエス=キリストの真心「愛」を見失ったキリスト教会??

さて、本書の物語の<あらすじ>を最初に

ざっとご紹介しておきましょう。

物語の舞台は、アメリカのオーバーン(現実のオーバーンでなく、

あくまでフィクションという設定)という町はずれの村にある

「大草原の小さな家(小屋)」を中心に展開されていきます。

主人公は、その小屋に住むヨシュア青年。

貧しくも謙虚で慈愛に満ちた勤勉な男性青年です。

慎ましやかに暮らすも、人間嫌いではなく、

町の人びととも人間関係を楽しむ性格です。

そのヨシュア青年が中心となって、

キリスト教会を始めとした宗教の現状に対して、

時に優しく、時に激しく問題提起していきます。

ヨシュア青年は、その名のとおり、『旧約聖書』の

「民数記」や「ヨシュア記」に出てくる

十戒で有名なモーセとともに

出エジプトの苦難を乗り越えて、

最後までモーセに付き従いながら、民衆指導者として、

「約束の地」カナン(現:イスラエル)を目指した預言者の名を

連想させますが、本書の物語における人物像とは、

必ずしも一致しません。

本書も最初にフィクションであることが断られていますが、

著者自身のキリスト教信者の立場も加味された「信仰の書」でも

あるようです。

そのように、聖書におけるヨシュア像は、

最後までイスラエルにたどり着こうとする敢闘精神に満ちた

激しい軍人的人間像ですが、本書でのヨシュア青年は、

堅固な「信仰心」は抱いていますが、あくまで

イエス=キリストの真心に忠実であろうとする慈愛に満ち溢れた

人間像で描かれています。

そんなイエス=キリストの真心とは何でしょうか?

その核心は、「隣人愛(地の塩・世の光<マタイによる福音書>)」

あります。

イエス=キリストご自身の教えや各キリスト教会の現状については、

後に世界史の勉強も兼ねて触れさせて頂きますが、

簡潔に要約すると「人間愛そのものか、組織宗教の立場を

大切にするのかという厳しい選択」に関する問題です。

ところで、本書でのヨシュア青年の立場は、

「ユダヤ教」を信仰する「ユダヤ人」を連想させますが、

家族は「ユダヤ人」との設定も出てきますが、

あくまでイエス=キリストを信仰する特定のキリスト教会に

所属しない「キリスト者」であります。

物語では、最初の方で、ユダヤ教の教会であるシナゴーグから

「モーセ像」の制作依頼を受けるのですが、(ヨシュア青年は、

彫刻家兼大工という設定=あたかも、<イエス=キリスト>を

連想させますが・・・)、一方ではキリスト教会からも

「ペテロ像」の制作依頼を受けることなどを通じて、

宗派にとらわれず、組織宗教の現状を厳しく問い質していく

役割を果たしています。

つまり、本書は「キリスト教会の有り様」と

「イエス=キリストの教えそのもの」との違いを様々な角度から

照らし出しながら、「神と人間の関係や信仰・人間としての生き方」にまで

迫っていく「人間成長の物語」であります。

ところで、イエス=キリストご自身の教えとユダヤ教、

キリスト教(ことにローマ=カトリック教会)との関係を、

世界史的な観点も含めて解説しておきます。

イエスの人物像にも様々あるようですが、

ここでは「人間イエス」を中心に見ていきましょう。

イエスは、今のパレスチナ地方にあるガリラヤ周辺で生まれた

「ガリラヤ人(パレスチナ人)」とも、『新約聖書』によると

ベツレヘムに生まれた元ユダヤ人(元ユダヤ教信者という意味)

だとも、諸説あるようですが、本書では「ユダヤ人」として設定

されています。

このあたりは、管理人も「世界史」や「宗教」の時間に習った記憶が

あるのですが、昔から諸説入り乱れて「正解」がない状態のようです。

ただ、イエス=キリスト(キリストとは、救世主・預言者の意味)が、

ユダヤ教の「改革派的異端者」であったことは、ほぼ間違いないようです。

ここで、本書を読み進めるうえで、大切な視点となってくる

『旧約聖書』と『新約聖書』の違いについて触れておきます。

まず、両者に共通する「約」とは、「神との契約」を意味します。

「ユダヤの民が神と契約」したのが、「旧約」、

いわゆるエルサレム陥落後のユダヤ人のバビロン捕囚後に、

あらたに「新預言者イエス=キリスト」が現れた際に、

神との間で、「再契約」し直したのが、「新約」ということになります。

ここで、「ユダヤ人とは何か?」についても触れておきますと、

人種・民族ではなく、「ユダヤ教信者」のことを「ユダヤ人」というのが、

一般の言い習わしのようです。

つまり、前者の「旧約時代」がユダヤ教の時代(ここに、ユダヤ人モーセの

活躍が出てきます。)であり、後者の「新約時代」がキリスト教の時代になります。

とはいえ、イエス・キリストの時代からイエス死後の「神」としての復活後の

ペテロなどの「初期キリスト教」、そして現在まで続くローマ=カトリック教会

(ニケーア公会議による、いわゆる「三位一体説(父なる神と子であるイエスと

精霊の御名によりアーメン!!)」以後のキリスト教)など、

「キリスト教神学と歴史」が複雑に絡み合うだけに、キリスト教信者だけでなく、

馴染みのない私たち日本人「異教徒」にとっては、理解困難なところであります。

このように、イエスの時代から現在のローマ=カトリック

(それ以外のキリスト教会まで入れるとさらに複雑になりますので、

カトリックだけに絞ります。)の時代までには、

相当な時間的ズレもありますので、

その教義解釈もややこしくなってくる訳です。

ただ、今日の「正統派カトリック系」キリスト教徒にとっては、「三位一体説」、

つまり、イエスは、神であり人、この間を仲介する精霊との一体者として

受容されていることは間違いないようです。

一方で、イエス=キリストご自身や、ニケーア公会議での「三位一体説」受容以前の

「初期キリスト教会」、また、

少なくとも「ローマ=カトリック教徒」以外の素朴な「福音派信者」にとっては、

イエスはもっと「人間らしい方」とのイメージ像があるようです。

もっとも、一般の人間よりは、「より神に近い存在としての人間」ですが・・・

まとめますと、「人間はどこまでも人間、神に近づく努力はあっても、

そんなに簡単に<完全なる神>にはなれない!!」とのイメージです。

「人間は神の似姿ではあっても、神は人間の似姿ではない!!」とも

言い換えることも出来ます。

ですから、イエス=キリストご自身の教えを守る「キリスト者」であっても、

「ローマ=カトリック的キリスト教」の受容の仕方には、納得のいかない

信者も当然おられる訳ですね。

なぜなら、もし「生まれながらの現人神としてのイエス=キリスト」を

想定するならば、世俗的にも傲慢な姿勢になってしまうからです。

現に、「ローマ=カトリック教会」は、預言者「神と人間との仲介者役」の

立場を濫用して、戒律至上主義に転換し、「聖書そのもの」から

ますます遠ざかっていったところに、「キリスト者」からの批判(抗議=

プロテスト)も相次いだのです。

これが、後に「聖書=イエスそのものの教えに還ろう運動」としての

「プロテスタント(抗議者)」による宗教改革につながっていくのです。

そのあたりは長くなりますので、省略させて頂きますが、

要するに「ローマ=カトリック教会は腐敗している!!」との見方が、

中世以後、「真のキリスト者」をもって、強固な信仰を持つ人びとの間で

大きく拡がっていったのです。

物語の設定も、町には「6つものキリスト教会」と「ユダヤ教会(シナゴーグ)」

の存在を通じて、それぞれの違いが描写されていますが、

このようにイエスの人物像ひとつ取っても複雑な教義問答が

繰り返されてきたのです。

そうしたことから、本書の主人公ヨシュア青年は、

本来の「イエス=キリストの教え」に立ち返って、

「真の宗教(信仰)とは何か?」を問い続ける中で、

「信仰による人間的成長」について語りかけていくのです。

このような物語での「哲学的考察」も、著者の日々の

「信仰内容の告白確認」という問題意識も含まれているようです。

そこで、「ユダヤ教会」と「ローマ=カトリック教会」を

中心に考察していきたいと思います。

両者に共通するのが、律法(戒律・儀式)至上主義です。

これを、著者はヨシュア青年を通じて、

イエスが批判した「パリサイ派」だとして批判しています。

イエスが強調していたのは、あくまで「愛による協力共進行動に

よるすべての人びと(万類)との協和精神の発揮!!」では

なかったのかと問いかけていきます。

つまり、「本当の宗教(信仰愛)とは、人びとの心の中にあるのであって、

外面的な装いではない!!」のだということです。

皮肉なことに、現代キリスト教会は、「隣人愛」から遠ざかっていく一方の

「古代ユダヤ教」のような「厳格なパリサイ主義=律法至上主義」に回帰

しているのだと、現代キリスト教信仰の実態を浮かび上がらせています。

ところが、こうした「真のキリスト者」としてのヨシュア青年の行動姿勢が、

やがて「ローマ=カトリック教会」から「異端者」の嫌疑をかけられていく

ことになります。

まさしく、かつての「異端審問の再現」であります。

そして、その「異端審問の再現」が、ヨシュア青年とイエス=キリスト自身の

迫害過程とも重なって、読者にも「隣人愛」について考えさせる哲学小説とも

なっています。

神(愛)との対話(信仰)を通じた人間的成長を目指して・・・

こうして、神(愛)との対話を通じて、信仰を高めていく

ヨシュア青年でしたが、その信仰も人間としての成長に

つながっていかなければ、「全く意味がない!!」とも

語りかけています。

「未完成途上にある不完全な人間だからこそ、全知全能の神(愛)に

一歩でも近づけるように、懸命に生きる」という姿勢なくしては、

信仰も形式的な霊的次元に堕落してしまうのだと・・・

それは、内面的に霊的次元として高めていかなければ、およそ、

人間としても成長がないのだとの厳しい生き方を問いかけてきます。

そこで、その内面の平和をテーマにして、分かりやすくイメージさせる

描写がなされています。

「大草原の小さな家」に住むヨシュア青年と、

コミューン(孤立的共同体)で、世捨て人のように生きる集団との

対比で、うまく説明されています。

前者は、「心の中に平和(安らぎ)がある自立(自律)」を伴った

社会生活者。

ヨシュア青年は、決して<人間嫌い>ではないのです。

一見すると、外面的には「孤独さ」を感じさせますが、

内面が穏やかなために、常に知的に洗練されているとともに、

自分の信念を強固に持しており、町はずれの村から町なかに

出てきても、「みんなの相談役(知恵者)」として敬愛されている

からです。

後者は、現実逃避的生き方であり、「自己満足」孤立生活者です。

そのために、常に内面は穏やかでなく、内外ともに不安定生活者だと

いうことです。

そのあたりが、両者の心の内面比較という形で活写されています。

また、ユダヤ教の「選民主義」を例に、「リーダーシップ論」も

展開されています。

それによると、「選民主義」も、「自民族優越主義」ではなく、

神(愛)が、あえて「苦難のしもべ」を体験させることで、

「人間としての弱さ」を気付かせるきっかけにしているのだという見方も

提示されています。

つまり、ユダヤの民も「特別な選民者」ではあるが、他民族とて、

人間としては、一人ひとりが神によって試されている「選民者」なのだ

という新しい視点です。

そうした全人類が共有体験する高次元の見方を新たに受容していくことで、

「愛による行動」につながり、一致点を見出していくスタート地点に

到着することが出来るのだと語っています。

また、物語の終盤に近づくにつれて、「奇蹟問題」についても

考えさせられる視点が提供されていくのですが、

これもヨシュア青年を通じて著者は強調されています。

私たちは、普段、あまりにも日常生活の中に潜む不思議さを

感受するゆとりがないのだと・・・

こうした日常生活におけるちょっとした「気づき」を

大切に生きるだけで、人生における味わいも変化していくのだと・・・

最後に、「科学と宗教の接点」についてヨシュア青年に

語らせているところも、教育者としてのご経験もある

著者の面目躍如たるところです。

『木の切れ端を彫れるからって、どうしてもったいつけねばならないでしょう。

才能があるからといって気取っていいはずなんかないんです。

私達の持っている能力は、すべて神さまから与えられたもの。

それがわかれば人は謙虚になるはずで、傲慢になる方がおかしいのです。

そこが科学者達の中で間違う人が多い点です。

つまり、神様が特別に発見させて下さったことであるのに、それを

あたかも自分が造り出したのだと勘違いするのがそれです。

自分自身の心が矮小なために、自分達の発見は専ら自分達の優れた能力の

おかげだとうぬぼれて、そうした能力を与えて下さった神の存在そのものを

信じない、というようなあやまちを犯すのです。これは近代の許しがたい罪です。

彼らは盲目的なうぬぼれから、自分達を神の救いの恩寵の届かないところに

追いやっている。かつて幾世紀もの昔に、サドカイ人やパリサイ人が

やったことと同じことです。』(本書76頁)

このように、本書では、ヨシュア青年を通じた数々の苦難を経て、

多くの人びととの「愛の共同作業」を積み重ねながら、人間的に成長していく

一つの「人生モデル」を私たちの前に提供してくれています。

「人間は不完全」

「だからこそ、相互補完の原理で」

「愛の協働行動が必要とされる」

これが、あえて「不協和音」が聞こえるように錯覚させながらも、

「この世」を「未完成」にしておいた理由なのかもしれませんね。

本書は、キリスト教信者でなくとも、泣ける作品になっています。

皆さんも泣きながら「カタルシス(精神的浄化)」を深く味わってみては

いかがでしょうか?

日々の「仕事(働き)の意味」を、あらためてゆとりある??週末にでも

本書を読みながら考察して頂くと、未だ見ぬ視界が突如拓けてくるかもしれません。

そんな「奇蹟」に出会うことが出来れば良いですね・・・

皆さんの祝福をお祈り申し上げます。

「鳩のように素直で、蛇(狐)のように賢く」

「シーザーのものはシーザーへ 神のものは神へ」

私たちも、かくありたいものです。

なお、「ユダヤ教・キリスト教解釈」については、

「日本人のための宗教原論」

(小室直樹著、徳間書店、2000年第2刷)

を参考にさせて頂きました。

いつもながらありがとうございます。

最後までお読み頂きありがとうございました。

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