松尾匡先生の「自由のジレンマを解く~グローバル時代に守るべき価値とは何か」流動化社会に最適化した自由論の探究!!

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「自由のジレンマを解く~グローバル時代に守るべき価値とは何か」

今や少なきマルクス経済学者の松尾匡先生が、

マルクスやアマルティア・センなどの思想的切り口を

活用しながら、流動化する一方の現代社会に最適化した

新たな自由論を提案されています。

今日の混迷は、従来型の左派リベラリズムや

右派リバタリアンの狭い視野がもたらした!?

疎外なき人間社会を展望します。

今回は、この本をご紹介します。

「自由のジレンマを解く~グローバル時代に守るべき価値とは何か~」(松尾匡著、PHP新書、2016年)

松尾匡先生(以下、著者)は、

今や少数派になっているマルクス経済学者を

自認されるとともに、昨今の話題ともなっている

金融緩和政策を重視されてこられた経済学者といいます。

近年の著作には、

『新しい左翼入門~相克の運動史は超えられるか~』

(講談社現代新書、2012年)や

『ケインズの逆襲、ハイエクの慧眼~

巨人たちは経済政策の混迷を解く鍵をすでに知っていた~』

(PHP新書、2014年)など

話題となった作品が多数あります。

このようなご経歴だけで判断すると、

「こんなご時世に、なぜマルクスなの?」

「もっと、経済学知見の最新版を紹介してよ・・・」などと、

拒絶反応される方が大多数でしょう。

とはいえ、著者は、かつてのマルクス経済学者にありがちだった

硬直したイデオロギーをもって論考されてこられたわけでは

ありません。

実は、マルクス自身も誤読されてきたことが

左右問わず、多々あったようです。

もっとも、現在では、20世紀の歴史的教訓から

その「革命的方法論(特に、『共産党宣言』の最終解決案)」を

そのまま21世紀の現代社会に適用させることは大問題でありましょう。

しかし、現代でもマルクス経済学者こそ、少数派になりましたが、

別の意味で、硬直的イデオロギーをもって

社会実験しようとする「新自由主義経済学」を始めとする

経済学諸派もあります。

その社会実験こそ、現代只今「試験中」であるようですが、

現実社会では、様々な弊害も現出してきている過程にあります。

そこには、どんな問題があったのでしょうか?

簡単に要約することは難しいですが、

現代経済学に多く見られる特徴の一つに、

「生産者(供給者)側」に偏った見解があったことは

多くの識者も認めるところであります。

そうしたこともあって、不況期の「需要不足」に対応し得る政策が

なかなか打ち出されることも難しく、金融緩和重視の「貨幣回転率」を

高めることによって、新たな「需要掘り起こし」対策とされる論者も

左右問わずに、多いように感じられるところです。

ただ、著者によると、いずれにせよ、

現代経済学者の抱く人間像に問題が含まれているのではないかと、

新たな「自由論」とともに、検証されています。

つまり、従来型の「経済人像」は、

「固定的人間関係」社会に適応した、

「リスク・決定・責任の不一致」現象から、

激変しつつある現代の「流動的人間関係」社会へと、

そのまま移行させていくことは、

相当な無理があるのではないかと、

様々な角度から分析考察されています。

また、マルクス経済学と聞くと、

まず誰しも思い浮かべるのが、「搾取論」ですが、

このイメージも実情に合った読み直し作業が必要であると

されています。

現実と理想のズレは、社会科学自体が、

「生身の人間」を対象に検証されるわけですから、

その実際の人間社会への当てはめ(社会実験)は、

慎重に進める必要があるとも強調されています。

そこで、狭義のマルクス経済学に限定せずに、

近年、「開発経済学」などで話題とされてきた

アマルティア・セン氏の見解や

前著『ケインズの逆襲、ハイエクの慧眼~

巨人たちは経済政策の混迷を解く鍵をすでに知っていた~』

(PHP新書、2014年)などを通じて再発見された

ケインズハイエクなどの問題意識も踏まえた

今後のあるべき未来経済(経済のみに限定されるわけではありませんが・・・)

社会を探索していきます。

ということで、現代、世界中では、価値観そのものが

激変するとともに、硬直したイデオロギー的解決策が、

あらゆる場面で、再復活してくるなど、

世界の政治経済問題に不安や心配も感じられる時節だからこそ、

幅広い見地から、特に、「自由のジレンマ」をともに考察していこうとの

趣旨で、この本を取り上げさせて頂きました。

現代経済学が見落としてきた「過剰在庫・投資問題」と人間心理

本書での問題意識は、前著『ケインズの逆襲、ハイエクの慧眼~

巨人たちは経済政策の混迷を解く鍵をすでに知っていた~』

(PHP新書、2014年)で提唱されたシステムを支える

「自由」と「責任」について、分析考察されています。

前著での問題意識では、「なぜ、現状の経済政策(新自由主義や

「小さな政府」を理想とする「第3の道」などが代表例)

が、ことごとく、当初の想定から外れていくのか?」という観点から、

本来、この時点で転換しなければならなかった

「転換X=リスク・決定・責任は一致しなければならない」という

方向性を誤解してきたことにあったのではないかとされています。

ここから、過剰在庫・投資論への現状批判を展開されています。

すなわち、現代経済学の主流は、マルクス経済学であれ、

近代経済学であれ、この視点を疎かにしてきたのではないかと・・・

特に、著者は、マルクス経済学者だからこそ、

ソ連時代の「ノルマ制による過剰在庫(投資)論」の分析過程から

現代の主流派経済学(新自由主義経済学など)においてさえ、

この歴史的教訓を十二分に反省のうえで、

革新的消化吸収されていない現状を摘出されたことは、

重要な慧眼であります。(本書<まえがき>3~14頁ご参照)

現状では、まだまだ「予測生産・受注・販売」が世の大多数を占め、

最終的な消費需要とミスマッチするのが、「関の山」であります。

子どものような純粋な知的好奇心や感性では、

客(需要者)からの注文を受けてから、生産販売すれば良いものをと、

考えてしまうのですが、

大人の事情では、「すべて、早め・早めの対応こそが、賢策!!」という

ことになってしまいます。

もっとも、医薬品など、緊急を要する商品であれば、

予備品をある程度まで、事前準備しておく必要がありますが、

世の中の大多数の「モノ商品」には、

そこまで、過大な事前見積もりを想定しておかなくてはならない

事例存在など、本当は稀なのではないでしょうか??

現実に、先進諸国では、「大量生産・大量消費」の挙げ句の果てには、

「大量廃棄」まで頻繁に発生しており、

途上国などに多大な迷惑をかけるなど、

現代資本主義には、「ムダ・ムリ・ムラ」が多すぎるのも

異常事態であります。

これが、「サービス」ならば、受給調整もしやすいのでしょうが、

「モノ」については、まだまだ「前近現代的」段階にあるようです。

こうしたことは、経済の安定性をも後々脅かしますし(在庫調整に

失敗して不況期に入ったからといって、「生身の人間」を即解雇などと

いうことも正気の沙汰とは思えません。)、それこそテクノロジーの革新で

過剰在庫(投資)問題も解決し得るものとも思われるのですが、

そこには、人間の事情もあって、困難を強いられます。

著者は、このような事前に予測出来ない経済社会でも、

安定して生活していける諸制度として、

前著では、「厳格なルールに則った<基準政府>」の下での

ベーシックインカム制度」や「インフレ目標政策」を紹介されている

とのことですが、この<基準政府>は、一律な「小さな政府」にも

「大きな政府」にも偏らない「理想的政府」を想定されているようです。

こうした「理想的政府」こそ、現代のテクノロジーの大躍進による

「電子政府構想」などで改善される余地もあるように思われますが、

やはり、政府自体が、人間の産物ですから、

その構成員による恣意的裁量が働いてしまうようです。

つまり、ここでも、「リスク・決定・責任は不一致」だという

由々しき事態が存在しているのです。

それは、何も政府に限られたテーマではなく、

民間企業を始めとした幅広い「人間社会組織」に当てはまります。

この世界は、現実的には、「流動的人間関係」を中心に

生々流転の過程にあるのですが、人間は、安心感を絶えず模索し、

必要とする生き物ですから、どうしても「固定的人間関係」観に

拘束されてしまいがちです。

純粋な学問的関心からは、著者の見解には、

優れた知見も含まれるのですが、

現実社会では、もう一つ、人間の複雑な心理模様といった

「ゆらぎ」もあることからして、その理想像への到達には

ほど遠い現状でもあります。

本書の主題は、「自由のジレンマを解く」でありますが、

自由には、人間的<欲望>も含まれているため、

その具体的自由論の内容を巡っても、古来から

多種多様な価値観のせめぎ合いがありました。

著者は、「生身の人間」の本能や欲求や肉体や情動等々を

通した自由への「自己実現」自体を否定されるわけではありません。

そのことを、マルクスよりもフォイエルバッハ由来の出番ということで、

再提起されながら、論考されているのも、

本書の面白さであります。

ということで、導入部分はここまでということにして、

本書の内容構成に関する要約をしておきますね。

『第1章 責任のとり方が変わった日本社会』

※いわゆる、2000年代初頭に議論されてきた

日本社会における「自己責任論」のズレや違和感について、

政治的立場を問わずに、批評されています。

ここから、「責任」概念にも2種類あることを提起されます。

①「自己決定の裏の責任」と、

②「集団のメンバーとしての責任」であります。

『第2章 「武士道」の限界』

※本章では、「固定的人間関係」社会と「流動的人間関係」社会の

対比から、人間行動の志向性の差異について、

詳細な検討が加えられています。

昨今、「社会関係資本」(ロバート・パットナム氏)という

キーワードが、社会再生資本としても注目されていますが、

著者の分析考察では、その安易な「一般適用」にも

上記のような各人間関係社会の相違点に立脚した視点でないと、

うまく機能しないようです。

「内」と「外」に対する人間的対応の違いも、

組織的人間関係には、よく見られますが、そのあたりの固有事情も

マックス・ヴェーバーの見解などを参照しつつ、

著者独自の『商人道ノスヽメ』(藤原書店、2009年)での

問題提起とも共通する「武士道」を安易に「商人道」へと

誘導適用させて解説されてきた江戸時代的なイメージ像にも

挑まれています。

この視点から、通俗道徳の恣意性をも炙り出され、

流動的人間関係社会における「普遍志向」へと最適化していくための

新たな「道徳観」も提案されています。

わかりやすい要約をすると、

「固定的人間関係(武士道)=自己所属集団への忠実さ」

対する「流動的人間関係(商人道)=目の前で出会った他者一般に、

分け隔てなく、平等に誠実な対応をする」(本書89頁ご参照)といった

社会的人間関係像であります。

『第3章 リベラル派VSコミュニタリアン』

※本章では、社会科の教科書などでよく取り上げられる

近代的リベラリズム観の中心概念である「社会契約説」なるフィクションの

脆弱さが、個人主義重視のリバタリアンからも共同体重視のコミュニタリアンからも

挟撃されながら、衰弱していく様子が解説されています。

現在、いずれの国家もグローバリズムとナショナリズムのせめぎ合いの過程に

ある中で、政治経済情勢は「分裂の危機」にあります。

こうした危機が高まる一方における価値観の対立として、

個人主義重視とされる新自由主義思想も現実的にはナショナリズムの支援を

受けてきました。

著者によると、現代主権国家は、「国家間バトルロワイヤル」といった

グローバリズム市場観によって支援されており、

その中身は、「固定的人間関係」に基礎づけられてきたと語ります。

新自由主義のイメージ像には、グローバリズムの流れに

親和的な「流動的人間関係」に合致した価値観と、

一般的には思い込まされてきたこともあって、

意外な盲点(注意点)を喚起させられる貴重な論考となっています。

一方で、グローバリズムに対抗する手段として、

コミュニティー重視型のコミュニタリアン(左右問わず)の価値観も

強まる中、こうしたコミュニタリアンの現状にも、

懸念すべき動向(例:「極端」な移民排斥論の高まりなど)が

あると強調されています。

このコミュニタリアンの立場こそが、政治的な左右を問わず、

無理な「社会的包摂型」施策を福祉などの経済分野で、

一般向けに強いられてきた元凶ではないかとも・・・

そこから導かれる結論とは、「社会的排除」であります。

特に、「固定的人間関係」が重視されてきた社会文化を持つ

コミュニティーでは、生きづらさの要因ともなります。

著者の結論は、現代社会に特徴的な「流動的人間関係」社会に

適応した『出入り自由な開放的ネットワークでなければならず、

(中略)国家とコミュニティー双方の(中略)流動的人間関係の

側面を発展させること』(本書124頁ご参照)にあります。

まさしく、現代リベラリズムとコミュニタリアン双方の「限界」を

突いた批評的考察でもって、解説されています。

『第4章 リバタリアンはハイエクを越えよ』

※とするならば、現代の流動的人間関係社会に最適な価値観とは、

個人重視型のリバタリアンの立場ということになりそうですが、

もちろん、著者は、

「国家かコミュニティー(共同体=あらゆる中間組織団体)か個人か」などと、

極端に分節化した見方を提供されているわけではありません。

ここでは、保守派が重視してきたハイエクの社会観や

従来、個人的利己心を追求してきた「右派リバタリアン」をも

乗り越えようとする、著者なりの「左派リバタリアン」という

座標軸から、

「確定不能な責任の事前補償」という位置づけ(本書132~135頁)で

現代の不安定な流動的人間関係社会に対処すべき方向性を

提起されています。

その大きな重要問題こそが、「ベーシックインカム論」など、

近年のヨーロッパでも試験的に導入されつつある諸制度であります。

この点は、現在進行形の参議院議員選挙の争点の一つでもあり、

左右問わずに主張されてきた「給付型奨学金制度の拡充」などの主張にも

見られるとおり、今後の日本社会をどのような理想型社会へと

導いていくかの案としても、

ともに考察しておきたいテーマであります。

また、現代日本では、数十年前の改革騒動から、

「事前規制(行政主導型ルール)から事後規制(司法主導型ルール)へ」の

一貫した流れがありますが、

本書では、そうした恣意的な裁量権の入りやすいルール設定をも超越する

視点を提供して下さっています。

それが、『事前的ルールをも選ぶ自由』の提唱(本書159頁ご参照)

あります。

管理人の個人的な興味関心も、この第4章にあります。

より良き思想とは、思想家自身が提唱した時代における制約をも

超越させ得る価値観が含まれている思想だと考えています。

思想家のある部分のみを切り取って、

教条的な解釈で、すべて解決(批判)し得るとの

「独断的イデオロギー」と化することも、非生産的であり、

結果として、社会を大混乱させる原因にもなりかねませんので、

厳に慎む姿勢も不可欠でありましょう。

特に、何度も強調させて頂いてきましたように、

「社会科学」分野は、「生身の人間」を対象とするだけに、

無理な「社会実験」を推し進めるわけにはいきません。

そうした視点も、優れた知的発想であります。

『第5章 自由と理性』

※本章では、アイザイア・バーリンの「積極的自由(~への自由)」批判や

「消極的自由(~からの自由)」について、分析考察されています。

従来も、この自由観を巡った解説が、公民教科書などでなされてきましたが、

現実社会では、簡単な二分化など出来るものではありません。

ここでの強調点は、「理性」の抑圧がもたらす「自由の危機」であります。

一般的な「(集団的)理性」など仮想してみたところで、

現実には、「群集心理」などによって歪められてきたのが、

近現代「民主主義」の弱さでもありました。

現代民主主義批判論の多くは、この「理性崇拝」ともいえる錯覚が、

引き起こしてきた「狂気」にあります。

それは、18~20世紀に頻出してきた「戦争と革命」という

歴史的教訓が指し示してきたところです。

ここから、いよいよマルクスの登場であります。

著者なりの、マルクスの問題意識の読み直し作業事始めであります。

『第6章 マルクスによる自由論の「美しい」解決』

※マルクスと聞いただけで、特に「保守的人間」にとっては、

拒絶反応をしてしまいがちです。

他でもなく、この管理人もそうした一人です。

とはいえ、世界に影響を与えてきた人物だけに

決して無視していれば事足りるというわけにもいかないのです。

一番重要なのは、そうした自らの価値観と相容れない人物が提起した

「本来の問題意識とは何だったのか??」という問いに対しても、

謙虚に耳を傾ける姿勢であります。

冒頭でも触れさせて頂きましたとおり、

マルクス主義思想の現実における歴史的展開の過程は、

もちろん「目に余るものがある!!」ということになります。

もっとも、それは、マルクス自身というよりも、

その後のマルクス思想を「曲解」していった「左派」運動家の

責任でもありますが・・・

問題は、マルクスの問題意識ですが、

それが、かの有名な「搾取論」であります。

その「搾取論」にも、様々な見解があり、

一律にここで論評し尽くせるなど叶いませんが、

「剰余価値論=搾取論」のイメージ像だけは、

ご存じの方も多いことでしょう。

著者の解説によると、

『マルクスこそ、理性の集団的な自己実現という意味での自由と、

個々人の本能や欲求や情動や肉体の側が抑圧を受けないという意味での

自由の、両者の自由を、徹底的に追及して総合を試みた人』

(本書184頁ご参照)であり、

結局は、『人間の「考え方」による個人への抑圧を問題にしているのだ』

(本書187頁ご参照)、言い換えれば、

『自由とは、本能、欲求、情動、肉体等々としての「生身の個々人」の

望む状態が、もっぱら人間の「考え方」のせいで実現できない

ということがない状態。』(本書188頁ご参照)ということになります。

こうしたマルクスの描いたイメージも彼の生きていた時代から

20世紀半ばあたりまでは、解決の目途も立たなく、

あらぬ方向へと「革命的悲喜劇」が生起していったことは、

残念なことでありました。

『現代に、マルクスが思い描いたような<あるべき理想像>を

平和的に穏やかな形態で、それも、価値観を異にする人間にとっても、

生かし、共有させ得ることは、もはや<夢物語>なのか??』

そこに、著者の願いもあるようですが、

それを、具体的な社会実践として甦らせる視点が、

次章のアマルティア・センです。

『第7章 「獲得による普遍化」という解決~

センのアプローチをどう読むか』

※本章では、アマルティア・センの知見の紹介とともに、

近現代人の精神的危機をももたらしたとされる

「アイデンティティー問題」が解説されています。

「<アイデンティティー=自己同一性>って、唯一のもの??」

そうした疑問から、あらためて、

流動的人間関係社会という「いま・ここ」に生きる「生身の人間」の

脱出点をともに探究していきます。

つまりは、「個」と「全体」の統合化ということになりますが、

わかりやすく言い換えるならば、

「主客二分論」(デカルト的近現代人観)の超克であります。

そのための第一歩が、「頭」だけに偏重してきた

単純「理性崇拝」の時代から抜け出た

肉体経験を通じた人生の蘇生であります。

最近の表現なら、さしずめ、「全身全霊当事者主義」といったところでしょうか?

その個人的な世界の中における「充実感」こそ、

「獲得による普遍化」。

つまり、自己体験の充実度を他者とも分かち合う視点の獲得ということに

なるようです。

『第8章 疎外のない社会への展望』

※その究極の先には、もちろん、「疎外なき社会」が展望されてきます。

本章では、著者独自の「培地/ウイルス」論のたとえで、

今後、ますます進展していくだろう流動的人間関係社会への

処世術の一端もご紹介されているのですが、

それは、皆さんのお楽しみにということにさせて頂きますね。

いずれにせよ、これまでの左右両極による、

極端な「わかりやすい言説」を乗り越えていく知恵が示唆されています。

「開放的かつ疎外なき社会」とは、

「永遠の試行錯誤型<仮説>検証者」として、

遊びながら、人生を歩み続ける「魂の<永久革命家>」のようですね。

ということで、本書は、「革命家のススメ」ではありませんが、

人生を有意義に過ごす秘訣を、「あらたな自由論」を通じて

学ぼうとの趣旨で試みられた企画書であるようです。

マルクスもハイエクもあらゆる思想家を乗り越えていこう!!

本書を読み進めていく過程で、ワクワク興奮させられたのも、

それぞれの価値観に応じた「自由な人生の歩き方(遊び方)」で

あります。

管理人は、生真面目な性格もあってか、

「保守的」価値観に子どもの頃から馴染んできましたが、

左派リベラルの方から教えられてきた点は、

「もっと、人生を楽しもうよ!!」との視点かもしれないと

最近考えているところであります。

人生とは、つまるところ、

「理想と現実の接点の周辺で穏やかに過ごせること」だと

年を取るにつれて「達観度」も高まりつつあるようですが、

「極端」な原理主義思考は、自らの人生を前途多難に追い込ませる

ところがあります。

ですから、管理人自身の価値観を他人に無理強いすることも

したくありませんし、

他人の価値観を強制的に押しつけられることにも嫌悪感を抱きます。

「神経質な小心者」のようです。

そんな人間でありますから、「革命家」の道にも、ほど遠い性格です。

かといって、そんな簡単に「保守的」感覚でもって、

社会にうまく適応出来ない苦しさを抱えてきたからこそ、

「自由の尊さ」にも開眼されていきました。

管理人は、いわば、自らのでこぼこな人生街道を歩む過程で、

実地での「自由論」を学んできたようです。

この感覚姿勢は、今後とも、この世を離れるまで変化しないとは

思いますが、残された余生で、皆さんとともに、

楽しい「生感覚」を、多種多様な著作や人物のご紹介とともに、

管理人なりの論考も踏まえたエッセー風書評を提供させて頂こうと

願っています。

あくまで、当ブログでの書評を兼ねた論考は、

参考程度ということで、

管理人自身が訴えかけたい点は、

皆さんにも賢くなって頂き、

「思考停止社会」に馴致されることなく、

ご自身の身心を安らかにして頂きたいとの願いばかりです。

そんな楽しさを皆さんにこれからもお届けできるように、

研鑽を重ねていきますので、

どうぞ今後ともご支援のほど宜しくお願い申し上げます。

今回は、ここで「お開き」ということにさせて頂きますが、

是非、皆さんにも視野が狭くなりませんように、本書を紐解きながら、

このような「<マルクス思想の活用法>もあるんだ!!」と知って頂くとともに、

あらたな「獲得の普遍化」をともに目指していきましょうね。

なお、管理人は、マルクスの資本主義社会「成熟」後の世界のあり方に

関する問題意識とも通底するウィリアム・モリスやラスキンなどの

思想も研究しているところです。

(ウィリアム・モリスについては、こちらの記事を、

ラスキンについては、こちらの記事もご一読下さると幸いです。)

真の意味での、「豊かな」社会とは、

「<搾取なき>誰もが納得でき得る」社会のことであります。

もっとも、万人を100%満足せしめる社会は、

「夢のまた夢」の<桃源郷>ではありましょうが、

「理想」を追求していくことで、

これまでの恩恵を先人から受け継いできたことには

相違ありませんので、私たち今を生きる人間にとっても、

後世を生きる子々孫々に<あるべき理想社会>を

語り継いでいく積極的義務があります。

「搾取論」は、

マルクスでなくとも整理整頓の難しい論考でありますが、

「誠意(感謝)なき<ただ乗り論>」や

「強制的」力学による「圧迫感」が、

人間社会における「搾取の有無」に関する一つのメルクマール(目印)

なるかと思われます。

ということで、皆さんにも本書をご参考に、

自分なりの公私ともに納得できる生き方(価値観)を探究して頂くとともに、

より良き社会を考えるヒントとして、

ご一読されることをお薦めさせて頂きます。

最後までお読み頂きありがとうございました。

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