大庭健先生の「いま、働くということ」<時は金なり>の本質を労働観の変遷とともに読み解く!!

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「いま、働くということ」

倫理哲学者の大庭健先生が、

人間共有生命哲学の視点から、

<働くこと>が持つ本質的意義について、

ともに考察していくための素材を提供されています。

「働くことが、しんどい」は、

現代社会では、「生きることが、しんどい」とも

同義に扱われる世相にあって、

いかなる視点を持てば、

多少は生きやすくなるのでしょうか?

そんな皆さんを応援する1冊。

今回は、この本をご紹介します。

「いま、働くということ」                (大庭健著、ちくま新書、2008年)

大庭健先生(以下、著者)は、倫理学・分析哲学などが

ご専門の倫理哲学者であります。

著書に、『私はどうして私なのか』(講談社現代新書、2003年)

『「責任」ってなに?』(同上、2005年)などがあります。

このように、人間存在の本質について、<あいだ>というキーワードを

テーマに、様々な角度から、人間社会において生起する諸問題について

幅広く<分析>哲学されてこられた研究者であります。

さて、そんな<人倫=人間倫理>哲学に長年取り組んでこられた著者が、

今回は、皆さんにとっても、人生の大半を過ごされるであろう時間

<働くこと=生きること>について、現代労働観の根本的問題点にまで

深く立ち入って、考察されたのが本書であります。

現代社会ならずとも、人間は、その本質上、

有史以来、「生きるためには、働かなくてはならない」

はたまた、「働かなければ、生きていけないし、

世間にも承認してもらえない」との半ば強迫的な生存観念に

突き動かされてきた生物であったようです。

そのため、突如、働けない事態に遭遇した時などは、

生死にも直結しかねないほど、

大変肩身の狭い思いに囚われてしまうこともしばしばあります。

とはいえ、こうした<働くこと=生きること>というイメージにも、

それぞれの時代思潮によって、多種多様な見方があったことも確かです。

ですので、21世紀現在、私たちが、

日々、当然のように共有しているような「労働観=働く思想」も、

ある意味では、特殊な労働イデオロギーにしかすぎない点は、

意外にも、忘れられがちな論点であることを自覚する視点が

不可欠となります。

ただ、恐ろしいのは、現代労働観を形成してきた背後にある

人間哲学が、不在である、もしくは、貧困であることにあります。

ここに、現代人の視野の狭さや本当の意味での貧しさがあります。

そのことによって、人間的<つながり=まさしく、間柄>も希薄になり、

思考停止状態にまで追い込まれてしまう結果、

次々と、<いのち>すら奪われかねない社会現象が生起してくる要因にも

なっているように思われます。

そうした、一見して<底なし沼>であるかのような「社会観=人間観」から

いかに離脱し、さらには、各人各様のかけがえのない<いのち>の尊厳を

回復させ得る「生きるための哲学」を、

<働くことの哲学>を主題としながら、

皆さんとともに本書を素材に考察していこうと思います。

ということで、現代の労働観が、

今後とも決して、当たり前で変化・変容され得ない

「絶対的世界観」などではなく、

「色眼鏡のかかった特殊時代思潮イデオロギー」に

染まったものでしかないということに、

あらためて気付かせられるヒントを与えてくれた好著ということで、

本書を取り上げさせて頂きました。

近現代人の<人間哲学の不在・貧困>が、特殊な労働観(環境)をもたらした!?

まずは、本書の内容構成の要約から入らせて頂きましょう。

①「はじめに-働く意味への問と、労働シニシズム」

※まずは、本書における著者の問題意識が、

以下のように宣言されています。

それは、誰もが、日々、自明のように当然視してしまっているだろう

圧倒的な<正解>と目されている

『「生きるためには働かねばならない」という「正解」が威力を

発揮し、それ以上問おうとすることへの冷笑的な空気が

立ち昇ってくるときには、働くことそのものへのシニシズム

(いうなれば「労働シニシズム」)が蔓延しはじめる。

そして、こうしたシニシズムが立ち昇ってくることには、

それなりの理由がある。大きく言えば、そこには、

働くことそのものに関わる普遍的な問題と、

現代社会に固有の特殊事情が絡みあっている。

本書では、前者、すなわち働くことそのものについての

普遍的な問題について考える。』(本書9頁)と。

(管理人注釈:「シニシズム」とは、

皮肉を込めた冷笑的な態度などを取る考え方を意味します。)

そして、必ずしも、<働くこと=生きること>を

現代のような労働観でもって、同義的に扱わない見方を

本文以下で、「人間」という生物が有する特殊生態環境を

考慮に入れながら、圧倒的なまでに主流となっている(きた)

現代特有の<働くこと>についてのイメージ像を転換させ得る

「考えるためのヒント」を提示されています。

つまり、<働くこと>は、あくまで、<生きること>の周辺に属する

一領域にしかすぎず、

<働くこと>を<生きる>ための手段とする一般的見方を

反省させる素材を提供されています。

この場合の<働くこと>は、もちろん、現代労働観の中心部にある

「稼ぐこと」に当たります。

とはいえ、<働くこと>の普遍的意義を問う本書では、

後ほど触れさせて頂くように、

③「Ⅱ 何のために働くのか」での

<動物の協業と人間の仕事>に関する比較考察テーマなどを通じて、

現代労働観を超え出た範囲にまでわたる

<働くこと>の本質に迫っていくことになるのですが・・・

②「Ⅰ 働く環境の破壊」

・働く環境の劣化

・「なんのため」という問

※ここでは、現代の労働環境悪化に至る

背景事情やその背後にある

近現代特有の労働観・人間観について要約されています。

そのあたりは、前にもご紹介させて頂いた

『仕事と日本人』での解説とも重なりますので、

ここでは、省略させて頂くことにします。

ここで、注目されるべき問題点は、

近現代の労働観に、およそ仕事そのものをすべて「換金化」させようとの

<貨幣>愛好的資本主義が持つ強い経済的誘因や

<生きること>をより一層充実させたいとの「自己実現化」といった位置づけが、

仕事そのものに与えられすぎてきたのではないかとの疑問が

提起されていることです。

このことが、<生きること>と<働くこと>の位置づけを

「流動化」させる要因ともなり、昨今の過労死問題や精神疾患にまで

追い込まれる労働災害の多発現象にもつながってきたことは

しばしば指摘されているところでもあります。

こうした大人の事情を見て育ってきた子供の世界観にも、

大きな異変が生じてきたことも、著者は、次のように、

違和感を呈しておられます。

疲れ切った大人自身が安易に持ち出す「生きる力」なる言葉に

潜む異様さを指して、

『しかし「生きる力」とは、きわめて異様な言葉である。

そもそも、生きていること・生命そのものが、

もっとも根源的な力に他ならない。にもかかわらず、

生きるためには、なお何らかの力が必要だと言われはじめるとしたら、

そこでは、生きていることそのものが既に脅かされはじめている。

「生きる力」などという面妖な言葉を振り回す前に、

まず考えねばならぬことがあるはずである。』(本書25~26頁)と。

こうした大人自身も抱え込んでしまっている<生きること>や

<働くこと>への明確な哲学の不在が、

社会全体の思考停止をも生み出し、

憂鬱な生活環境が子供時代からも

与えられている(きた)のだとすれば、

事態は、かなり深刻だと言わざるを得ません。

学生の就職活動の厳しい選別事情は、

今や、早くも、幼少期の生(養)育環境にまで多大な影響を与えており、

子供たちから生きる意欲や自信を喪失させる心理的要因ともなっていると

言われるだけに、『いま、働くということ』について、

考え抜くことは、すべての大人に課せられた社会的義務でもあります。

その意味では、管理人も含めて、皆さんが、

子供時代に遊ばれたであろう「人生ゲーム」とは、

<社会的刷り込み>という観点からは、

何とも罪深いゲームでもあったと言えましょう。

それはさておき、こうした社会的課題に

読者の注意を惹きつけることで、

本書における考察課題が限定されました。

まとめますと、

『本書の課題は、「働くのは生きていくためだ」という

圧倒的な正解の前で思考を停止させてしまわずに、

働くことの意味を考えることである。しかしその際には、

①意味への問が、手段としての有用性への問にすべっていくことを

つねに警戒しつつ、しかも、②イデオロギー的な言説に

からめとられないように、より積極的にはそうしたイデオロギーへの

免疫を習得し活性化させるような仕方で、「目的/手段」図式に

回収しきれない意味を探究していくのでなければならない。

これが、本書全体の課題である。』(本書46頁)と、

強調されています。

③「Ⅱ 何のために働くのか」

・動物の協業と人間の仕事

・人の間で働く

・存在の相互承認と肯定

・働くことの意味

※まずは、生物「活動」一般論として、

人間と他の生物における生活に対する関与の仕方(あり方)に

関する相違点の分析考察から、

<働き方>について、語り始められています。

そこでは、人間特有の「言葉」を介した<間柄>において

コミュニケーションを図りながら、「働く」という視点が

あらためて強調されています。

仕事と趣味の相違点に関しても、<一人前になるとは??>を

キーワードに探究されています。

著者の分析考察によると、人間「活動」の一部である

「働くこと=仕事」も、<生命と生活の再生産>に寄与するとの

観点から捉え直す視点が付与されることになります。

その寄与(<人間>社会に対する積極的働きかけ)に対する

安堵感の度数によって、「働くこと」を通じた安心感を

獲得する生物であることが、「人間」と他の生物との根本的相違点であります。

つまり、「働くこと」で得られる実存感覚という皮膚感覚こそ、

「言葉」でもって、体感していく人間の特徴だとも言えましょう。

以下、ここでは、人「間」の<間柄>分析に焦点を当てながら、

「役割」分担のあり方などに迫っていきます。

そこから、再発見されてきたのが、

人間存在の相互承認メカニズムという社会的依存関係の実態像でありました。

ただ、「働くこと」を通じた社会的相互承認というイメージ像も、

単なる社会的に有用な<労働>という狭い見方だけでは、

『承認の足場ではあっても、社会的な承認のすべてではない。』

(本書98頁)ことも注意すべき論点であります。

なぜなら、世の中には、病人や障害者、

これまで、一般的な「労働」市場では、

ほとんど顧みられることのなかった

家事労働などに従事する専業主婦(夫)のような人々も

数多く存在するからです。

「働きたくても、働けない<辛さ>」

こうした感覚は、現在の金銭的評価が万能とされる

「貨幣」評価型資本主義経済の枠内では、

社会的に有用とされる「仕事」も

消極的にしか評価されてこなかったことにも由来します。

それが、あまりにも深刻な事態にも進展してきたことから、

人生の初期から、「働くこと」に自信が持てなくなったりする

人々も出現してきています。

いわゆるニートを含めた「社会的引きこもり」であります。

一時期、こうしたニート層に対する本質を見誤った

社会的バッシングが流行しました(現在もですが・・・)が、

そうした批判的言説の中には、

『「働きたくない」のか、「働けない」のか、はっきりしろ!!』なる

意見も多々見受けられたようですが、

そうした印象的批判論から

あらためて浮き彫りにされた見方こそが、

かなり広範囲に浸透している思考停止社会の実態でもありました。

大抵、人間という存在は、自分の狭い経験則から、

他者評価をしてしまう思考癖があります。

そのため、自分自身の経験則を超え出た他人の世界観については、

予想もつきかねますし、単に、自分の「心」のあり方を真正面から

見据えることなく、日頃の「労働」から与えられた心理的ストレスを、

そのような他人に「投影」しているにすぎないことも

多々あります。

ですから、この「働くこと」を考察していくうえでも、

「自省」する姿勢が強く要請されることは、

管理人も含めて、深く「自覚」していく視点が重要であります。

こうした角度からも、「働くこと」の意味を問い直すことは、

人生に精神面での有意義な時間を与えてくれることになります。

④「Ⅲ 人間の協業の仕組み」

・間柄の編成のされ方

・市場社会における労働

・市場社会の暗雲

※ここでは、前節の③「Ⅱ 何のために働くのか」というテーマで

残された課題として、現代労働観の中心に据えられた

<生産至上主義>批判をただ繰り返すだけでも不十分だとの結論から、

さらに、人間社会における協業の仕組みに関する

分析考察が深められていきます。

つまるところ、現代「労働」市場経済を大前提とする限り、

社会的に有用とされる「仕事」であっても、

「金銭評価」しづらい領域の「仕事」に関しては、

疎外される他ない現状が指摘されることになります。

そのあたりは、経済学でも取り上げられることの多い

「外部不経済問題」などの事例でもって、紹介されています。

特に、現代「労働」市場経済では、

人間の<労働力>そのものまで、

「商品化」されてしまうことが、生態系にまで多大な悪影響を

及ぼしています。

すべてを、経済的コストとして換算していく

「外部(不)経済(非換金化経済)」の「内部経済(換金化経済)」への

繰り込み方式(例えば、地球温暖化防止対策として注目されている

「排出権取引」など)にも、そもそも、自然界の本質上、

「限界」があることから、

人類は、謙虚にならなくてはならない時期でもあります。

「持続可能な経済発展」を標榜するからには、

人類も「生態系」の一部であるという当然の事理を

忘却することがあってはなりません。

そこから、「いのちの再生産」という原点へと

再び回帰しようとの呼びかけから、

「生きることと働くこと」をさらに考究していくことになります。

⑤「Ⅳ 生きることと働くこと」

・ものの生産と生命の再生産

・いのちの私有化

・働く意味

※これまで見てきましたように、

人間の「働き」には、現代「労働」観には当てはまらない領域が

多々残されているということが、再発見されました。

私たちが、日頃、自明視してきた(いる)「仕事」観は、

そんな「労働」という名の働き方の一部にしかすぎません。

あらためて、そのことを踏まえながら、

「経済」の本質が、本来、「経世済民」と言われてきたように、

人間相互の「いのち」を活かしながら、

協業発展していくところに本質があったことを思い出す必要が

あります。

そのためには、相互依存関係によって、

人間社会が成立してきたことを、

本書でも強調されていましたように、

「対面/非対面」を問わずに、他者の「心」を想像しながら

「働く」姿勢を取り戻さなくてはなりません。

⑥「現代における労働環境-結びに代えて」

※それが、「結びに代えて」の最終部分で触れられる

「おかげさま」「お互いさま」の復権であります。

『<言葉>と<歴史>を忘却する時、「生きる」実感も

失われていく!!』は、前回のテーマとも重なりますが、

今後ますます、機械化(人工知能など)が進展していく流れの中にあって、

人間の「働き方」に見直しが迫られる過程で、

人類が再び、互いの「心」を介した「働くこと=生きること」の

再発見へと否応なく導かれるであろうことは、

ほぼ間違いないところです。

現在、雇用の「流動化 」が悪化する一方だと懸念される

声も根強いですし、理にもかなった批判ではありますが、

この「流動化」現象を逆手にとって、

近現代社会によって強固に形成されてきた「労働」観も

転換せざるを得ない潮流(兆候)が、

私たち一人ひとりの<働き方>が再考される静かな動きとともに

少しずつですが、出始めてきています。

そのことは、今まさしく、

「過労死」や「サービス残業」など

各種の近現代「労働」特有の不条理な<半強制的働き方>に起因する

精神病理現象に関する多くの報道が、

強く示唆しているところでもあります。

そのあたりから、項目をあらためて、

<時は金なり>をテーマに、個人的な話題も踏まえて、

考察していこうと思います。

<時は金なり>(ベンジャミン・フランクリン)の本質的意義を問い直す!!

さて、本書を通じて、近現代特有の労働観やそこから帰結する

精神病理現象、また、人間の<間柄>の分析考察から、

人間の本質にまで触れてきました。

そこから、あらためて見出されてきた問題が、

『人生における「時間」の希少価値について』であります。

すなわち、『かけがえのない<いのち>の使い道』についてです。

そこで、<時は金なり>の本質的分析の出番ということになります。

この<時は金なり>は、

皆さんもご存じのとおり、

本項目タイトルにも掲げさせて頂きましたが、

アメリカの資本主義勃興期の「資本主義の精神」を支えた

ベンジャミン・フランクリンのあまりにも有名な格言であります。

この格言こそが、現代労働観に由来する「諸悪の根源」だとも

現時点での労働社会環境を観察する限りは、

批判されやすいところでもありますが、

フランクリン自身の本意は、

もちろん、現代労働観がもたらしたような精神病理現象を

黙認するようなものではなかったでしょう。

それは、我が国における福澤諭吉のような実学志向の発想でも

天賦人権論(『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』)を

大前提とする限りは、フランクリン同様の本意だったでしょう。

ただ、両者に共通する「実学主義志向」からは、

『学問のすすめ』のねらいも、

経済的に「自立(自律ではなく)」することや、

社会的に役立つことに力点が置かれ、

他人との比較競争を通じた「差別化志向」や

短期的な「結果本位志向」へと導いてしまう

ジレンマを潜在的に抱えていたようです。

なるほど、現代から、彼らの生きた

資本主義勃興期を捉え直すと、

必ずしも、「実学主義」だけではなく、

「教養主義」をも大切にする思想も含まれていたことは

確かなようですが、

現代では、すべてが、<経済(社会)的評価の対象>と

される「自己啓発病」社会へと至ってしまったようです。

そうした他人との比較優位型「差別」労働観が、

人びとの社会的ブランド志向といった社会的欲望を刺激し、

「仕事」そのものの内実や意義をも変質させていったのでは

ないでしょうか?

このように、「勤勉(労)の精神」も、

時代とともに、その労働環境の変質と相まって、

異様な進化を遂げてしまっています。

ですから、私たちが、

「働くこと」や「生きること」をテーマに

考察する際には、

「労働」思想(観)も、

このような時代風潮とともに

もたらされてきた特殊な産物だったということには、

十二分な警戒心を配っておかなくてはならないでしょう。

まとめますと、「自助論(現在では、<自己責任論>などと悪乱用されている見方)」も

フランクリンや福澤諭吉の頃とは、大きく変容しているのが現状であります。

(この間の事情詳細について知りたい方には、

『「自己啓発病」社会、宮崎学著、祥伝社新書、2012年』

ご一読されることをお薦めさせて頂きます。)

要するに、「自己本位」の「自助」であり、

他人との<間柄>と<役割>の可変性(本書における著者の注目すべき

論点でもありますが)に十二分な配慮が行き届かない

近視眼的な「仕事」観が、

各人各様の希少価値がきわめて高い人生時間を

<時は金なり>という矮小化されたイメージへと

変容させてきたということであります。

言い換えますと、他人の貴重な人生時間を金銭評価でもって

換算評価すればするほど、自分自身の人生における貴重な時間をも

「切り売り」してしまうことは必然的結論だということになります。

とはいえ、管理人も含めて、読者の皆さんにとっても、

現代資本主義経済社会で生計を立てることを大前提とする限り、

<お金>を稼ぐ時間を軽視するわけにもいきませんものね。

(少なくとも、<最低限生活保障>といった現状の社会福祉制度思想

「<申請主義>の壁に阻まれた生活保護制度など」に

代わる一律的なベーシックインカム制度が実現するまでは・・・。

その意味では、現在の「生きるため」に必要不可欠な基礎収支は、

『何が何でも自力で徹底して稼ぎ抜け!!さもないと、社会の厄介者になるぞ!!』

と恐怖感を煽るような経済観は、<稼ぐ力>に達する力量や生活環境を有さなかったり、

そもそも、そうした<稼ぐ力>に興味関心のない人間にとっては、

罪深い経済思想であります。こうした経済観が、戦争や差別などの暴力抑止に

何ら解決策を与えていないとすれば、人類の今後の進化にも想像を絶する困難が

待ち受けていることでしょう。)

それはともかく、現在の経済環境条件の下で、

自助努力をしながら、できるだけ、生活コストを引き下げて、

「<お金>を稼ぐ=生計を<より豊かにする手段>と捉える<労働>時間」を

軽減短縮させ得る「ミニマリスト(最小限)生活」を遂行しようとしても、

社会で支払われる平均的経済コストが高ければ、

すぐにも行き詰まってしまいます。

なぜなら、自分の生活だけではなく、現代経済が、「対価」をもって、

「自由」を相互交換することに過度に依存するシステムである限り、

他者にも多大な損害を与え、自他ともに行き詰まることにも直結していることも

あって、倫理的な観点からも、「限界」に直面することになるからです。

そんな個別経済的教訓に、現代を生きる人間であれば、

誰しも、日々、「四苦八苦」されていることだと思われます。

つまり、現代では、人生1回限りという希少価値性を巡って、

「時間」を選択するか、「お金」を選択するかで、

二律背反の心理状況へと、いとも簡単に誘導されてしまうことになります。

それが、本来の<かけがえのない>時間の大切さを表現する

<時は金なり>の思想とは大きく隔たった、

現代の「時間」をすべて「換金化」する志向性を持った

<時は金なり>に秘められた「罠」であります。

それでは、どのような志向性に立ち返れば、

こうした本末転倒観を克服し得る原点回帰思想が

得られるのでしょうか?

「<お金>に対する欲望を控えめにする発想なり思想、

経済的方法論を創作する!?」

なるほど、知恵と工夫と意欲次第では、

まったく実現不可能というわけでもないでしょう。

ただ、そうなると、食糧供給から何から何まで

(まさに、「揺りかご」から「墓場」まで)

自弁で自力で立ち向かうことになりますが、

そうすると、今度は、人「間」交際を諦めることにも

なりかねません。

諦めることはなくとも、その交際範囲が狭くなり、

多種多様な世界観に触れ合う<より人間らしい>生活も

困難になります。

少なくとも、先進国における文明生活に

幼少時から慣れ親しんできた一般人にとっては、

耐え難い苦痛を伴うことでしょう。

しかしながら、その「一般人」というのがクセモノであるようです。

「一般人」とは、他人との比較評価の下で、

ランク付けすることを好む志向性をもった

言葉は厳しくなりますが、思考停止した「凡庸人」ということに

なってしまいます。

数学的な確率統計理論からも、

当初は、「比較優位」に自己の立脚点を定める生活志向も、

みんなが、それを「当たり前」だと認めだした時点から、

「平均」へと収斂していくとの知見も得られています。

そうなると、世の中からは、逆説的ですが、

多種多様性という一人ひとりの

「かけがえなさ=相互扶助(依存)関係を通じた多様な<個性>」も

失われることにもなります。

そうです。

そのような意味で、「人間」とは、

決して、「一人」孤立して生まれ、「一人」孤立して

死に往くことで、「自己完結」した人生を送ることが

許される存在ではないということです。

この人「間」存在の本質を再考し、自覚し直すことから、

「働くこと=稼ぐこと」に矮小化しない

「働くこと=生きること」が始まります。

まとめますと、日々の<働き方>にも人生哲学が含まれるということです。

紙数もあと残りわずかになってしまいましたが、

最後に管理人の「仕事」哲学について、

若干程度、触れさせて頂くことにします。

それは、生計の<稼ぎ>も、

「生きる」ための「手段/目的」化を過剰に意識せずに、

働きながら生きる方法論を

日々「発明・発見」する楽しみを味わう生き方を模索する姿勢から

生み出されてくるということです。

「仕事=人<間>生活を豊かにする働き」にも、

「労働=生計手段や事業継続のための資本獲得手段をメインに据えた働き」にも

様々な形態がありますが、

いずれにせよ、「仕事」と「労働」を

厳密に分けて考えることは、

現代資本主義経済を生きる私たちにとっては、

あまり賢くない発想でありましょう。

つまり、「働くこと」と「生きること」を分離して

発想することなど、およそ不可能ということですね。

公私の時間を厳密に使い分けるといった「割り切り」発想は

現代文明社会の過程では、およそ不可能ということでもあります。

言うまでもなく、

「資本」主義経済は、

「資本」のより多い階層が、

比較優位に立ってしまわざるを得ない経済社会構造であります。

そんな経済社会構造の中で、<時は金なり>における

先程来から分析考察させて頂いてきました

「時間」と「お金」のバランスを取った働き方に関する配分工夫は、

人生を<より深く味わう>意味においても重要となってきます。

それを、管理人は、時短「労働」の知恵と工夫で、

日々、模索してきました。

また、生計費を<稼ぐ>という視点での労働観だけに

依存し過ぎた見方も、「働くこと=生きること」を

より一層苦しくさせ、

自他ともに、物質的にも精神的にも、

貧しくさせるだけの発想になりがちであります。

特に、皆さんも働いておられる方なら、

誰しもご経験されておられるとおり、

普段の仕事には、比較的、単調で代わり映えしない

「労働」作業も多く含まれているものと思われます。

このような単純作業の繰り返しの過程に、

どのような「味付け」を加えるかで、

そうした悲観的になりがちな見方も少しずつ変化していくことに

なるのではないでしょうか?

それが、「労働コミュニケーション」の工夫改善であります。

現代日本における「組織」的労働現場で、

日々生起している(きた)過酷な労災現象の一端も

「労働コミュニケーション」の驚くべき貧弱さと

相互信頼感覚や相互依存関係で成立している(きた)経済社会に対する

視点の欠如にあります。

著者も本書で強調されてきた視点ですが、

人は、「対面」だけではなく、「非対面」でも

働き生きてきた社会的生物であることが、

あまり深く自覚されているとも思われないところに、

現代労働観から派生する社会的精神病理現象も隠されていたということです。

管理人も公私にわたって、生計費を稼ぐための「労働」と

換金化しづらい「仕事」の双方の「働き方」を経験させて頂いていますが、

このような多角的な「働き方」を試行錯誤する有意義な時間を相互体験することで、

かえって、これまでの「稼ぎ」のための「労働」などと「割り切った」

現代的労働観とは異なる世界観へと少しずつ「脱皮」する人生を

歩み始めることになりました。

そんな「労働/仕事」と截然と振り分けることも不可能だと

再認識し出した頃に、

管理人の「働くこと」に対する憂鬱な心理感情も

少しずつ軽減されていったように思われます。

それには、目に見える・見えない多くの方々の

ご支援とご指導があったればこそのことですが・・・

皆さん、本当にありがとうございます。

そこに、自分を勘定に入れず、他者への想像的視点を

取り入れた「創作的仕事観」の芽生えがありました。

こうした「創作的仕事観」から再び芽生えだした

「働くことの歓び」を味わい知ったこともあって、

「働くこと=生きること」で、

現在、「行き詰まった感」に囚われてしまっている方にも、

こうした発想の転換に対する独自的仕事観の確立へと向けた

試行錯誤の過程を楽しむことの叶う人生観の再考を

強くお薦めさせて頂いています。

そんな「働くこと=生きること」に対する多種多様な発想の源が、

本書には、豊かに盛り込まれています。

ということで、皆さんにも、

来月の「勤労感謝の日」に向けた

「働くこと」の意義を問い直す絶好の季節に

独自の「仕事/労働」哲学を

再構築し直す姿勢を形作るヒントとして、

本書をご一読されることをお薦めさせて頂きます。

最後までお読み頂きありがとうございました。

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