武田晴人先生の「仕事と日本人」私たち現代社会人は、特殊「近代」的労働観に拘束されている!?

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「仕事と日本人」

経済史研究がご専門の武田晴人先生が、

歴史的な観点から、現代社会人の特殊的労働観を

解析しながら、「<働く>ことの意義」を問いかける

問題提起の書です。

現代社会人とは、「合理的経済人」だと仮定するのが、

「近現代」経済学の主流学説ですが、

今や「学界」を飛び越えて、特殊な労働イデオロギーが

私たちの「経済」生活を拘束しているようです。

今回は、この本をご紹介します。

「仕事と日本人」(武田晴人著、ちくま新書、2008年)

武田晴人先生は、経済学史を辿りながら、

近世から現代に至るまでの経済諸現象を

分析考察されてこられた経済学者です。

一般向けの著書には、本書の類書でもある

『日本人の経済観念』(岩波現代文庫、2008年)

あります。

本書『仕事と日本人』も、

そうした<日本人の経済観念>を取り扱った書であります。

古今東西(とはいえ、主に、近代<産業革命>以後に限定されますが・・・)の

経済観を比較考察しながら、日本人の労働(仕事)観(に対するイメージ像)が

どのように変遷していったのかを追跡調査されるとともに、

その「近現代」労働観が、ある「特殊なイデオロギー」によって

枠付けされていった模様が、歴史的観点から詳細に解説されています。

『「仕事」と「労働」は、必ずしも同じではない??』

そんな普段私たちが、生活実感の中でも体験する疑問に対して、

考えるための素材を提供してくれています。

「なぜ、現代日本人(本書は、<日本人>を分析主体としていますので、

以後、<日本人>に限定して解読させて頂きます。)は、

働くことを極端にまで恐れ、厭い嫌うようになったのか??」

その大きな要素に、「組織」労働の問題点があります。

ということで、今回は、皆さんとともに、<働くこと>をテーマ

語り合っていこうと、この本を取り上げさせて頂きました。

前回の「人工知能と人類の協働社会論」が抽象論だとすれば、

今回は、管理人自身の日頃の体験記も含めた具体論として

展開していこうと思いますので、

皆さんもお気軽にくつろがれながら、

普段の「仕事」に対する疑問点やお悩みなどを振り返りつつ、

分析考察されることを是非ともお勧めさせて頂きます。

そのことを踏まえながら、現代「社会問題」の最前線とも目される

「ニート(社会的引きこもり)問題」も見据えて、

「仕事(労働)哲学」についても、同時進行的に考えてみようと思います。

決して、「ニート(社会的引きこもり者)」をバッシングするのが

趣旨ではありませんので、「働いている」方も「働いていない」方も

(何をもって、<働いている>と見なすのかについても、

別段興味のあるテーマではありますが、

ここには、「承認欲求」といった

人間の奥深い深層心理に隠された

「自意識の<相互承認を求め続ける連鎖反応>」が

伏在している故の難しさもあります。)

その点はご安心のうえ、

ともに有意義なひとときをお過ごし頂ければ幸いであります。

そうです。

「働く」ことの問題点を突き詰めていくと、

この<社会的>承認欲求問題に辿り着くのです。

現代「経済」社会(主に、<貨幣資本主義>経済)は、

この<社会的承認欲求>の相互評価が大前提に組み立てられていったところに、

「仕事」に対する苦しさが次から次へと押し寄せてくるのです。

本書でも、こうした問題意識から、「仕事」と「労働」の相違点を

取り上げながら、近代的「労働」観が形成され、

表社会に浸透していった過程を分析考察されています。

そのことは、後ほど、本書の要約とともに、

あらためて検討していきますので、

ここから本文に突入して参りましょう。

「仕事(はたらく=傍を楽にする協働生活)」と「労働(急かされる社会的事業)」の<あいだ>に対する距離感と疑問点から考え始めましょう!!

それではまず、本書の内容構成に関する要約

入らせて頂くことにしましょう。

<問題意識の整理から・・・>

著者は、「仕事(はたらく)」という意味の変遷を

歴史的な観点から振り返りながら、

現代「労働」が、決して、いつの時代にも普遍的に共通するものでは

なかった事実を検証していきます。

その過程で再発見されたのが、

近現代「労働」観には、

ある特殊な原理思考(イメージ)が組み込まれていた事実であります。

それは、近代「産業革命」などに由来する大規模な<組織労働化>という

<経済>現象でした。

いわば、「資本家(株主的雇用者)」と

「労働者(一般的被雇用者)」との分離が大規模に発生していったと

いうことです。

このことは、<規模の経済(自社の市場規模獲得が強まれば強まるほど、

利潤獲得率もより一層増していくというメリットのこと)>を

追求していく推進力ともなり、

「富める者は、ますます富み栄え、資本蓄積に失敗した一般的労働者は、

ますます貧しくなっていく」という近代的「労働」に

特有の<社会>現象にも結びついていきます。

つまり、今、意図的に<経済>現象と<社会>現象と言葉を使い分けさせて

頂きましたが、「<経済>が<社会>を大きく支配左右する」という

<経済>現象により、

「近代」以前には、大規模には見られなかった<社会的>諸問題が

次々に同時発生していった素因を、本書では解き明かしていきます。

このことは同時に、人間の「生活観」に対する変化をも促しながら、

その<経済社会>的適応に漏れた階層を大量に生み出すことにもなりました。

21世紀現在、「豊かな国」である<先進国>に特有な贅沢病とも

揶揄されることの多い「ニート(社会的引きこもり)」現象が

大きくクローズアップされていますが、その背景には、

単なるバッシングや従来の「近現代」型「労働経済」社会への

復帰を志向する処方箋の提示だけでは解決し得ない難問も

潜んでいるようです。

このような<労働=経済>社会分析を通じて、

私たちが普段当たり前に信じ込んでいる「近現代」型「労働」観を

あらためて見つめ直すとともに、

「労働(利潤獲得事業)」と「仕事(生業=なりわい)」の分離の

歴史的原点に焦点を当てながら、皆さんとともに、

「はたらく」意味・意義を問い直すための<考えるための素材>を

提供しましょうというのが、本書の主旨であります。

ちなみに、上記のような「<経済(という名の下部構造)>が

<社会(という名の上部構造)>を制約支配している」などと

表現すれば、古いマルクス主義的な「遺物」のように敬遠される方も

おられるかと思われます。

そのことは、比較的「保守」的な価値観を持ちつつ、

現代社会を歩んできた管理人も強く疑問に感じてきたところでもありました。

とはいえ、そのような個人的な違和感や疑問点につきましては、

読者各人の価値観の多様性を尊重するところから

強要することなど出来ませんし、目的ともしていませんので、

「左派リベラル」的価値観を有しておられる方もご安心下さいませ。

何度も強調させて頂きますが、当ブログの本旨は、

各人各様で「自前」の考える力を養成していくための素材を提供させて

頂くことに尽きます。

(とはいえ、ご紹介文献には、<偏り>が存在することも十二分に

承知しておりますが・・・)

このように、あえて、<政治的>価値観の論点を提示させて頂いたのにも、

きちんとした理由があります。

それは、<政治的>価値観を問わずに、

双方ともに「近現代」型「労働」観を大前提にしてきた節が

至るところに見られるからです。

この「労働」観に対するイメージ像や超克していく視点には、

「差異」も見受けられますが、総じて、「近現代」型「労働」観の

無意識的共有という点では、同じ土俵に立ってきたとも言えましょう。

まとめますと、本書冒頭扉書きに記載されていますように、

『資本主義であれ社会主義であれ、近代以降のあらゆる国家は

「労働」を賛美してきた。』という共通的枠組みを浮かび上がらせるところに

上記問題提起を語らせて頂いた意図がありました。

その暗黙的「賛美」(もちろん、これは、上記括弧書き内を

注意深く読み込んで頂くとご理解頂けるように、

<国家>や現代社会の<主導的階層>の視点ではありますが、

私たち一般「国民」にとっても、

その「賛美」的視点を無意識のうちにも<社会常識>と信じ込んできた

ところがあるようです。)こそが、私たちの「仕事(はたらく生業)」観が

薄められてきた原因でもあるようです。

今回は、そのような歪められてしまった「仕事」観を

本書とともに分析考察していくことで、

「生きる意味」や「人間らしさとは何か」にまで日頃の疑問点を

発展させながら問い直していこうとの呼びかけから、

本書をご紹介させて頂くことにします。

<目次>

①『第1章 豊かな国の今、問われる選択』

※本章の冒頭では、まず、フランスの若者に見られた

「<新自由主義>型労働改革案」に対する反対デモにおける

問題提起行動の描写とともに、ヨーロッパを始め、

世界の<先進国>へと波及していった主に「若年者の不安定就業」の

実態について分析考察するところから、

「近現代」型「労働」観に対する総点検を始められています。

ここから、

「<先進国型>経済成長とは、一体全体何を目標としてきたのか??」を

批判的に検討しながら、その路線をいかに超克しながら、

「各人にとっての<仕事>の質とは何か?」を問い直す素材を

次章以下で提供されていきます。

②『第2章 「労働」という言葉』

※本章では、まず、「そもそも論」として、

「労働」という言葉の語源論にまで遡って、

東西の「労働」観を比較考察しながら、

現代人の主流層に刷り込まれてしまっている「労働」に

対するイメージ像の「原型」を探り出します。

明治日本は、「ご維新」を経ながら、

それまでの「江戸期」と「明治期」を一度「切断」しながら、

「復古」型革新運動の末に、それまでの各政治思想(活動)家の

思惑を飛び越えていくことで、幾層にも複雑な「内乱」を経て、

「近代」国民国家が、徐々に形成されていったことは

言うまでもありません。

一見すると、「復古」型革命のようなイメージで語られることが

多い明治維新ですが、詳細に分析すると、

結果的には、日本の「西洋文明開化」だったと評価されています。

その「西洋文明開化」路線も複雑怪奇であり、当時の「西欧事情」を

反映しながら、世界の「覇権国」の主導権争いとともに、

明治期日本の思想や制度、文物に至るまで、

激しく変動していきました。

その過程で、日本人の「仕事」観も、特殊「西欧近代」型「労働」観へと

組み替え再編されていった様子が、「労働」に対する翻訳の苦労とともに

描写されています。

『どのようにして、「仕事(生業=なりわい)」が、

近代的「賃労働」へと変化していったのか?』をテーマに

近代以前の「仕事」観と近代以後の「労働」観が

「断絶」されていったのかを解説されています。

そこから見出された結論は、私たちが「社会常識」としてきた(いる)

現代の「労働」観がきわめて特殊な部類に属する「経済」的社会現象だった

ということであります。

「<労働>観も、時代とともに変遷する!!」

これが、本章での注意喚起であります。

ここでは、私たちの日頃の「労働」観が、

特殊な時代環境に制約された条件下にて、

完成されていったという歴史的事実が

明らかにされています。

③『第3章 「仕事」の世界、「はたらき」の世界』

※本章では、主にイギリスの近代産業革命前夜の社会経済事情と

日本の江戸期と明治文明開化期の過渡期における

「仕事=はたらき」観の変遷を分析考察することで、

近代以後の「仕事」が、本来の「自前」で成し遂げなければならない

<課題本位のはたらき方>から、<分業・協業型のはたらき方>へと

否応なしに変化していった模様が描写されています。

ここが本章の重要な視点ですが、

そうした近代的「労働」観の変遷が同時に、

人びとの「時間観念」をも激変させてしまったということです。

それは、著者の表現をお借りすると、「労働の主人」から

離れていくことをも意味していました。

人びとが、「仕事」を「はたらく=傍を楽にする」という

身近な協働経済生活を共有している時分には、

「多能」であり、「自己裁量権」が働く余地も残されていましたが、

近代的「労働」産業基盤が形成されていくうちに、

それまでの「生業=なりわい」的<仕事>を離れた

「分業」という名の特定目的の事業に特化奉仕する<労働>へと

「囲い込まれて」いった過程が浮き彫りになります。

④『第4章 「労働」観念の成立』

※本章では、前章までに見た「労働」変遷史から

注目すべき「場」としての「工場」が取り上げられています。

そのあたりの明治「工場」職人事情については、

本書でも紹介されている『女工哀史』や『あゝ野麦峠』などの

過酷な労働イメージから皆さんも教科書的な知識や

テレビドラマ・映画などでご存じの方も多いでしょう。

ですので、このテーマについては、これ以上、

ここでは詳細に語ることを省略させて頂きますが、

一つ重要な意外な視点に、

「渡り職人=出稼ぎ型労働者」が多かったことは

あまり知られていないようです。

特に、大都市周辺の近郊地方からの「出稼ぎ」職人が

多かったようで、このことは、

本書では深く取り上げられていませんでしたが、

意外にも、第二次世界大戦後の「高度経済成長期」直前期まで

続いてきたようです。

その一つに有名な「集団就職」などもあります。

都会への「単身赴任型<定住>住み込み型労働者」という形態は、

比較的あたらしい現象だということも知られていません。

というように「渡り職人」と言えば、

何でも出来る「多能型職人」だと思われがちですが、

もはや明治以前や近代黎明期の職人事情とは異なり、

現代的「渡り」職人の実像は、

各職人の多能な「仕事」能力も、

現代型「組織」企業が要求する枠内での特定の作業目的へと絞り込まれ、

「転落」させられていった「労働」環境事情が詳細に分析されています。

いわば、

『<仕事=生業=なりわい>→<職人的労働>→<分業・協業型労働>

→<単なる切断されたライン型作業>・・・』へと

「仕事」そのものの質が低下していったとも言い換えることが出来ましょう。

この「仕事」の質が低下していったことで、

人間精神に与えた多大な影響力については、

後ほど、項目を改めて、

管理人の日常体験から得た教訓とも絡めて考察させて頂くことにします。

⑤『第5章 時間の規律』

⑥『第6章 残業の意味』

第5章と第6章は、こうした近代的「労働」が同時にもたらした

時間観念に対する変化やそこから派生していった

「残業」という概念の発生に焦点を絞りながら、

分析考察されています。

この2章から、現代人の「時間に追われる労働者」像が

立ち上がってきますが、この時間意識の厳格化こそが、

「過労死」や「鬱病」を始めとする数々の「労働災害」を

生み出す最大の要因ともなり、多くの現代人に、

「<仕事>はイヤなもの。出来ればしたくないなぁ~・・・」と

絶望的な溜息をつかせる元凶ともなりました。

この延長上に、この論点も後ほど、項目を改めて、

考察させて頂きますが、「ニート(社会的引きこもり)」現象の

多発増加があるとも思われ、

単なるバッシングや「社会復帰」を強く促すだけでは

解決し得ない難題も潜んでいたことが窺えます。

⑦『第7章 賃金と仕事の評価』

※本章では、近現代「労働」における「仕事」の成果の

ほとんど唯一の指標が<賃金>評価であり、

その法の趣旨自体は、「搾取」防止という優れた機能や

歴史的教訓から生み出されてきましたが、皮肉にも、

現代労働法による「賃金支払いの原則(賃金以外での代物弁済的支払い禁止)」が、

かえって、法の趣旨にも反して、悪用ないしは濫用されるなど、

「金銭さえ支払えば、労働力など<使い捨て>可能!!」との

現代の「新自由主義(新古典派)」経済学におけるイメージ像とも

親和性ある諸条件を創り出してしまっているようです。

(ちなみに、上記は、労基法24条が規制していますが、

労働法の知識については、厚生労働省のホームページ

わかりやすく解説されていますので、そちらの方もご参照下さると、

いざという時の助っ人になってくれるでしょう。

やはり、管理人の経験からも<正しい>法的予備知識は持っておいて

損はないと思われます。

「自分の身は、まず、自分で守る」という意識が大切です。)

もっとも、賃金すらまともに払おうとせず、

労働者を単なる「消耗品」扱いから「労働コスト」と見なす

労働力のひいては人間の「商品」化現象が、

年々歳々ますます強まるばかりであります。

それが、「ブラック企業」の存在です。

しかし、この「ブラック(非合法路線)企業」だけではなく

「ホワイト(遵法路線)企業」でさえ、

なかなか改善されないのも「時間外労働(サービス残業)」

あります。

ここには、本来の「仕事」から得られる「社会的充実感」や

「生活費+αのゆとり分のみの稼ぎ」といった「仕事」の

主要目的から

どんどん遠ざけられていく現代資本主義経済における

<欲望喚起型需要創出システム>が伏在しています。

それが、「消費」主導型経済であります。

この「+αのゆとり分」に対する誘惑の大きさこそが、

「過剰労働」が簡単には無くならない原因のようです。

さらにこのような社会問題を深刻にしているのが、

「新自由主義(新古典派)」のみならず、管見の限りでは、

近代経済学マルクス経済学の「主流」も含めて、

<生産>主導型経済学だと理解していますが、

今や<消費>の動向が<生産>をも左右していますので、

この視点を欠いた現代経済学の大半は、まさに「語るに落ちた!!」とも

言えましょう。

とはいえ、現状の「豊かすぎる」先進国経済では、

すべての「生産物」が「消費」によって、

「消化吸収」されるわけではありません。

このことを指して、「生産物」が余りすぎて在庫が積み重なる

経済現象を指して、「余剰経済」と表現される論者もおられますが、

この「余剰分」の背景にこそ、数々の労働悲劇が存在しています。

だからこそ、前にもご紹介させて頂いたような

「成熟(爛熟)」した先進国において、

『暇と退屈の(経済)倫理学』も要請されてくるわけであります。

まとめますと、現代「労働」事情の主目的が、

「仕事」から得られる果実そのものよりも、

本来必要とする果実とは切断された「賃金そのもの」が

自己目的化してしまっているということであります。

ここに、現代「労働病理」が潜んでいます。

⑧『第8章 近代的な労働観の超克』

本章が、本書における最大の強調点ですが、

やはり、このような「賃金」評価を過剰に追求してきた

近代型「労働」観こそが、人びとを「不幸」にもしていると

見受けられるために、こうした特殊なイデオロギー的「労働」観から

脱却する道筋を探るとともに、

人間が本来必要としていた「仕事」観へと回帰していくことで、

人間と仕事の「尊厳」を取り戻そうと呼びかけられるのが、

本書の主題でありました。

まとめますと、この人間本来の必要的「仕事」の質量分と

近現代型「労働」の過剰な押しつけ分との<あいだ>の距離を

適切な方向へと修正させながら、

ご自身の経済生活の現状を見直すところから

「再出発」していきましょうということです。

それが、地球の「有限」な資源活用にもつながり、

大きな次元では、人類を含めた森羅万象の「持続可能な経済発展」を

実現させる道筋でもあるということになりましょう。

「ニート(社会的引きこもり者)」が投げかける現代「経済」社会への問いかけを真摯に受け止めながら、現代「労働経済」観を乗り越える<生活の知恵>を磨こう!!

さて、長々と、本書『仕事と日本人』をご紹介しながら、

管理人自身の日頃からの問題意識も織り交ぜて語ってきました。

ここからは、より具体的な管理人自身の

普段の日常的「仕事」観や「労働」実感から

皆さんとともにさらに踏み込んで考察していきたいと思います。

(とはいえ、紙数の関係上、延々と語り続けるわけにはいきませんので、

続編は、今後の紹介記事とともに、少しずつ語っていこうと思います。

本日は、ほんの一端だけ触れさせて頂くことで、ご了承願います。)

管理人も現状では、ご多分に漏れず、当ブログからの「稼ぎ」だけでは

「生計」を成り立たせることが困難な状況であり、

また、仮に、安定した「稼ぎ」が可能になったとしても、

「生きた」人間感覚を大切にしながら、

現実社会へと視野を拡張させて、

「より良き」人生と

より身体感覚に寄り添った「社会貢献」を

実現していきたいと願っていますので、

<ネット内仮想空間>外の<現実空間>労働の世界でも

一生懸命「精勤」させて頂いています。

(自分で言うのもおかしいですが・・・)

そこから日々得られる教訓は、

「やはり、何やかんや言うても、人間同士のつながりに勝る生の歓びはない!!」

また、「世の中には、つくづく、多種多様な人間が生息??しているのだなぁ~」

ということであります。

現在は、前にもご紹介させて頂いた記事内でも

触れさせて頂きましたが、

朝の8時過ぎから午後3時頃までの「約6時間30分」勤務での

「非正規」型雇用形態で、某企業様にお世話になっています。

そこで気付いた点は、「収入面」では、

当然、「正社員」の方に比べれば、厳しい条件に置かれますが、

「生活の質(つまり、人生における貴重な時間)」という側面では、

このような「時短労働」が自分には合っているようだということでした。

ちなみに、この「時短労働」は、独身者や夫婦共働きなど

それぞれの<経済・社会的>価値観を共有出来るような世帯でないと

困難な道ではありますが、

現下の過酷な就労環境で、なかなか、就職が困難だと焦っておられる方には、

一度、こうした「変則的」雇用形態もご検討されてみてはいかがでしょうか?

特に、「履歴書対策」などの「就職の壁」で悩まれている方には、

<履歴書不要>での積極採用をしている派遣会社もございますので、

一度チャレンジされてみると、意外な解決策が見つかるかもしれませんよ。

(とはいえ、許されるならば、一度、職場見学などを

ご体験されることもお薦めしますが・・・)

ちなみに、管理人は、いわゆる「障害者」ではありませんが、

現在働いている職場では、「障害者」雇用にも力を入れているようです。

今まで経験したことのなかった労働環境ですので、

日々、様々な点で、「社会勉強」にもなっています。

ところで、管理人にとりましては、

「正規」型雇用形態での就労経験に関しては、

世の「平均値」に比較すると、

その「正社員」所属期間は、短い部類に属する人間ですが、

20代後半から30代前半の約8年間ほど経験してきました。

思えば、まだまだ、世の中の諸先輩に比べると、

「組織」型就労体験期間は短く拙いですが、

学生時代の「アルバイト」時代から、随分と「変則」的な就労体験を

させて頂いて参りました。

多種多様な就労体験とともに、

様々な労働環境や人間模様を観察させて頂く機会を授けて頂いたのは

誠に得難い希少価値のある有り難い経験でありました。

そこで、一番大きな問題意識を実感させられたのは、

やはり、『人間の「利害対立」を伴った「衝突・摩擦」に

由来する<不機嫌な職場>が、なぜ生み出されていくのだろうか??』という

疑問でありました。

これは、「賃金=生活費」を介した

いわば、「生存権」を人質にとられた「利害対立」の発生に由来するものなのか、

「いや、待てよ・・・」

「別に、お金が絡まなくても、人間という生物は、

絶えず前進しようと意欲せざるを得ない生物であるがゆえに、

いずれ、何らかの条件が重なれば、

どこにでも、陰湿な<いじめ>や<いじめ類似現象>が発生するのでは

なかろうか・・・」などと自問自答しながら、

学生時代から、そうした疑問点を解消しようと、

様々な文献資料などを渉猟して参りました。

そうした問題意識も、昔読んだ『貨幣とは何だろうか』

今村仁司著、ちくま新書、1994年)から

芽生え出したのが、今は、懐かしい思い出であります。

1994年と言えば、管理人は、まだ中学生でしたが、

最初に読んだのが、高校生時代でありました。

それによると、記憶も不鮮明でうろ覚えですが、

確か、

『<貨幣廃棄論>の行き着く先は、壮絶で剥き出しの暴力闘争の発生!?』

だとの見解を読んだような記憶があります。

著者は、マルクス経済学研究から始められたこともあり、

仮に、「貨幣」資本主義経済社会が克服された後の

「社会(共産)型(何をもって、その型とするかは、多種多様な異論も

あるようですが・・・)経済社会」へと移行したとしても、

人間としては、どうも安心できないようだなぁ~と溜息をついた記憶も

あります。

このテーマは、今回の主題とも接点はありますが、

本書の「本街道」からは、外れる論点でもあり、

読者の皆さんを「圏外」へと

誘ってしまうことにもなりますので、

また機会を改めて考察させて頂くことにします。

要するに、管理人の強調させて頂きたかった点は、

『深刻な<人間疎外>現象が、

なぜ、かくも、近現代型<組織労働>の現場では、引き続いて

生起してくるのだろうか??』という疑問点からの考察でありました。

そのような疑問点を感じている時に、

現代の「ニート(社会的引きこもり)」現象が、

何かしらの近現代型「労働」観に対する激しい問題提起を

示唆しているのではないかという真摯な思いが湧き起こってきたのでした。

そこで、最後に、この問題を考えてみたいと思います。

その素材として、

関西在住の方なら、ご覧になられた方もおられるかもしれませんが、

先週の土曜日深夜(9月10日~11日にかけての深夜)に放映された

関西テレビ(通称:関テレ)による

ドキュメンタリー番組ザ・ドキュメント 山奥ニート

取り上げさせて頂くことにします。

(ご覧になれなかった方や関西以外の方であれば、

ネット上の動画などでも、その村生活の模様が閲覧出来るようですので

ご覧になられながら、賛否両論問わずに、現代「労働」問題から派生する

この「社会的」問題をともに考察しながら、

ご自身の生き方や「仕事」観などを再点検されることをお勧めさせて頂きます。

たまたま、今朝の産経新聞朝刊の「主張」(社論記事)欄でも、

「引きこもり」がテーマとして語られていましたが、

「引きこもり」の長期化が深刻になっている様子が

明るみに出されていました。

この社説にもありましたが、

管理人も日頃から当記事内にて、

「引きこもり」関連の著書をご紹介させて頂く際に

注意を呼びかけてきましたが、

一口に「ニート(社会的引きこもり)」といっても、

多種多様な生活実態があります。

ですから、一部の極端な生態場面を取り上げて、

針小棒大に誇張して、この「社会的」問題を捉えるのは、

その本質を見失ってしまう危険性があります。

このドキュメンタリー番組や

管理人の知る範囲内での実際の「引きこもり」体験者の声を

真摯に見聞きしてきた結果、

得られた実態像は、

「引きこもり」の方も、叶うならば、

やはり、何らかの形で、

「社会の中に、自分の<居場所>を見出して、

協働(同)生活を営めたら、どんなに気軽だろうか・・・」という

複雑な心理的模様でありました。

ただ、そのきっかけを掴む段階で、

精神的に極限状況まで追いつめられてきたというのが

偽らざる心境だったと語られるのが、

大半の体験者の<心の叫び声>でありました。

本日の上記社説にもありましたが、

「早期介入」の必要性が、

<社会の木鐸>たる新聞社の公益的務めからか、

強調されていたのは、役割上仕方がない立場だとしても、

こうした「社会的圧迫感」こそが、

彼ら彼女らの「心」をますます傷つけ、

「内向き志向」へと頑なにさせるとともに、

心理的にさらなる長期化へと追い込んでいったというのも

事実であるようです。

そこから得られる教訓は、

「<社会復帰>にも多種多様な形態が

存在していていいんだ!!」という当然の気づきであります。

新聞社さんなどの大手マスメディアの論旨展開では、

どうしても、現下の過酷な社会環境の中でも、

「功なり名を成し遂げた」<社会的成功者>による

「上から目線」的論調になりがちであります。

政府の「引きこもり」支援対策なども、

評価出来る点は、もちろん、多々ありますが、

その支援「事業」という性格上、

営利的側面が強く打ち出されるために、

どうしても、早期の結果(実績)が厳しく問われてしまいます。

それは、<税金>という名の公共投資によって支えられているため、

やむを得ない批判だとしても、

このような<税金>は、社会におけるセーフティーネット(安全網)として

必要不可欠な全国民に共通する「万が一の命綱」でもあります。

その<公的資金>について、

「新自由主義(新古典派)」(だけではないですが・・・)を始めとする

現代経済学、なかんずく、名ばかり「厚生」経済学

あまりにも軽視してきたことには猛省が要求されるでしょう。

なぜならば、「人の命は、金よりも貴重だから・・・」ですね。

そこで、こうした現代「労働経済」事情から派生していったと

思われる心理的現象である「ニート(社会的引きこもり)」問題の

解消(この<解消>という言葉には、どこか人間の多様性を消去するような

差別的響きがあるので、個人的には好みではありませんが・・・)を

生産的な方向で図っていくには、

「長期的支援計画」が不可欠だと思われます。

管理人が、なぜ、こんなに真剣なご提案も兼ねた論考を

させて頂いているかというと、他でもなく、

「失われた20年」の後遺症で、

現在も苦しみ続けていることに加え、

同世代の煩悶をどうか社会的共有の声として

真摯に皆さんに考えて頂きたい思いが強いからであります。

当ブログでは、主な読者層の対象を「次世代」向けと

させて頂いていますが、

もちろん、「次世代」だけではなく、「現役世代」や

「年輩世代」の方にもご一緒に考えて頂きたいテーマとして、

一記事一記事「丹精込めて」制作させて頂いています。

そこで、具体的な「ニート(社会的引きこもり)」支援案ですが、

まずは、当然ですが、

各当事者の生活事情や心理状況に即しながら、

「個別対応」での支援対策を中心に据えなければなりません。

国家などがお膳立てしてくれている諸制度は、

どうしても、「一律・画一」適用型のメニューになってしまいます。

その支援プラットフォームも、

時には、有効かつ力強い支援ツールとはなってくれますが、

「心理的」支援に関しては、手薄になりがちです。

この手薄になりがちな部分を、

民間のNPO支援者などが埋め合わせをしているのが、

現状であります。

先にご紹介させて頂いた番組内で出演されておられた方々も

自らの自治活動の一環として、手作りの「相互支援コミュニティー」を

形成されてこられたようです。

この集落は、同時に、「限界集落」でもありましたが、

「ニート(社会的引きこもり)」と言えば、

若年層ばかりに注目が集まりがちですが、

お年寄りなどの「無縁」社会化現象を解決するうえでも、

大きなヒントを示唆してくれているようです。

このテーマは、奥深い超重要テーマであることから、

もっと論じてみたいことも多々ありますが、

今回は、紙数の関係上、ここまでとさせて頂きます。

いずれにせよ、まずは、「体験者」同士の集い(縁つなぎ)から

(上記番組内でも、動画主催者の方が、

「全国の顕在(潜在)的ニートのみんな、もっと集まってくればよいのに!!」

言及されておられましたが)、

それぞれの<社会復帰>(何度も強調させて頂き大変恐縮ですが、

社会の「主流派」が暗黙の大前提としてきた(いる)<社会>復帰を

目指すとするならば、今後とも、次々と失敗例が積み重なり、

金銭面での<社会的コスト>も量産されるという悲劇的な予想図も

展開されてしまうでしょう。)を尊重しながら、

現代「労働経済」社会とは、次元の異なる世界観を許容していく志向性が、

短期的にも長期的にも、

こうした「特殊近現代型<社会>問題」を解決していく推進力となってくれるでしょう。

「ニート」さんの一部には、<稼げるニート>を実践され、

実現されておられる方もおられますが、

それは、社会的には、「ごくごく一部」の成功事例です。

まずは、高望みし過ぎることなく、

各人各様の生活実態や心理状況に即した<社会復帰>構想を

練ってみてはいかがでしょうか?

結局、現実的な試行錯誤でしか、

各人各様の人生における難関突破を図ることは出来ません。

当ブログでも、今後とも、<社会復帰>や<再チャレンジ>などで

悩んでおられる方向けの情報も書籍のご紹介とともにご提供させて頂く

予定でいますので、ともに、「無理をせず(ここが重要点ですが・・・)」

「頑張りすぎず」に「出来る範囲」で少しずつ着実に人生街道を

歩んで参りましょう。

最後の最後ですが、管理人がもっとも多大な影響を受けた

飯田経夫博士の『ヒラ(社員)の頑張りがあったから、

今の日本社会の<豊かさ>がある』という名言をご紹介しておきます。

(なにせ、学生時代に読んだ本なので、記憶はあやふやですが、

大意は、間違っていないと思われます。)

飯田経済学における<豊かさ>の定義は、

もちろん、「金銭的評価」が可能な「数量」的豊かさではなく、

「金銭評価不能」な「質」的豊かさが強調されていましたが・・・

管理人は、この「余剰の時代」であるにも関わらず、

「雇用不安」な過酷な労働環境を思う時、

この飯田博士の洞察と最近ずっと反芻しながら考察し続けている

ラスキンの『この最後の者にも』における問題提起を自分なりにも

温めながら、<未来経済>の行く末を案じています。

(ちなみに、ラスキンは、私有財産を否定していませんので、

一般的なイメージの社会(共産)主義者ではありません。

あくまで、労働「モラル(道徳・倫理)」について、

徹底追求された人物であります。)

「すべての<ヒラ>が報われ、正直かつ愚直で地道な<働き者>が

報われる労働天国の実現を!!」

「万国の<労働者>も<資本家>も小異を捨てて、大同団結せよ!!」

20世紀~21世紀現在に至るまでの悲劇的教訓を踏まえながら、

あえて、「言挙げ(雄叫び)」をさせて頂くことをお許し下さいませ。

ということで、「仕事(労働)論」は、大多数の皆さんにとっても、

貴重な人生時間を占めるテーマだと思われますので、

誰しも軽視し得ない社会問題だということで、

本書を一つの<考えるための触媒>とされながら、

ご一読されるとともに、

明日も働くことが出来る「精神的糧」の一冊として、

お薦めさせて頂きます。

最後までお読み頂きありがとうございました。

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2 Responses to “武田晴人先生の「仕事と日本人」私たち現代社会人は、特殊「近代」的労働観に拘束されている!?”

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