デヴィッド・ボームの『ダイアローグ~対立から共生へ、議論から対話へ』価値観論争を超越する視点をともに学びましょう!!

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『ダイアローグ~対立から共生へ、議論から対話へ~』

米国の量子物理学者デヴィッド・ボーム博士による

哲学的世界観から創出されていった独特な<対話技法>論考集です。

SNS(ツイッターなど)の技術革命の影響で、

大量の情報「拡散」が促進される中、真偽不明情報が飛び交うなどして、

正確な情報に基づく本質論に焦点を絞った良質な対話も不可能になってきています。

今回は、この本をご紹介します。

『ダイアローグ~対立から共生へ、議論から対話へ~』    (デヴィッド・ボーム著、金井真弓訳、英治出版、2010年第1版第5刷)

デヴィッド・ボーム博士(以下、著者)は、激動の20世紀を

波瀾万丈の人生とともに歩まれた大変ユニークな量子物理学者として

著名な方でした。

量子論」の世界観を巡る解釈には、多種多様なものがありますが、

その中でも著者の提唱された<ボーム解釈>には今なお謎が数多く残されており、

その全体像が掴め切れていないともいいます。

そのような複雑な<ボーム解釈>ですから、

ここで簡潔に要約することなど出来ませんが、

宇宙論の観点からは<ホログラフィー宇宙モデル>という

独特な宇宙像が知られています。

本書の中核をなす思想構想やこの<ホログラフィー宇宙モデル>の原点をなすイメージ像の

一端に関しましては、著者の主著『断片と全体』(佐野正博訳、工作舎、1985年)

『全体性と内蔵秩序』(井上忠他共訳、青土社、2005年)に表出しています。

(両著とも管理人自身は未読状態ですが、後者の『全体性と内蔵秩序』については、

日頃書評研究するうえでも私淑させて頂いている松岡正剛先生の

千夜千冊<分理篇>1074夜』記事にて簡潔な要約紹介がなされていますので、

そちらをご参照下さると皆さんのご参考になるかと思います。

その独特な世界観もお楽しみ下さいませ。

また、量子力学における業績には<アハラノフ=ボーム効果>という研究成果も

あるといいます。

今回は、そんな著者の量子力学における「物理学的知見」には

管理人自身の力量の限界もあって触れられませんが、

いずれにしましても、著者が生涯をかけて構築されてきた

独特な量子物理学的世界観から獲得されてきた視点を取り入れた「対話技法」について

本書を素材にしながら語っていこうと思います。

前にも触れさせて頂きましたように管理人自身は、

著者の世界観や人生過程に親近感や多大な興味関心を抱いてきたことから

今後とも著者の書籍のご紹介とともに著者へのご恩返しの傍ら

より一層の分析考察を進めながら独自研究も深めていきたく願っていますが、

それはまたいずれかの機会にということで「乞うご期待!!」としておきましょう。

何はともあれ、管理人と著者との最初の出会いは、

『般若心経の科学~「276文字」の中に、「21世紀の科学」を見た~』

(天外伺朗著、祥伝社ノン・ブック、2004年初版第3刷)

題する1冊の怪しくも面白い著書から始まりました。

天外氏の論考には、いわゆる通常の「主流」科学界とは異なる見立てである

ニューサイエンス>(左記定義内容の詳細につきましては

量子論と複雑系のパラダイムブログ様の解説が大変参考になりましたので

ここでともにご紹介しておきます。)の要素が多分に含まれていますが、

ここではその「科学論争(科学VS疑似科学などの視点に関する論争)」は

ひとまず脇に置いて、今回は上掲書によって管理人との出会いが始まった

著者の世界観から導き出されてきた

本書の主題である「対話技法論」に的を絞った論評を

進めさせて頂きますのでご了承願います。

ところで、今回は本書を通じて「対話」の重要性について

あらためて皆さんとともに考え直していきたいとの思いが強まったのですが、

そのきっかけは、最近のマスコミやSNS(ツイッターなど)の

情報のやりとりを日々傍目に観察していてあまりにも目に余る所業が

進展してきた(きている)のではないかとの強い不快感や

未来への憂慮の念を感じてきたことにあったからです。

おそらく読者の皆さんの中にも多かれ少なかれ思い当たるフシが

おありではないかと推察いたします。

(そんな思いが強いこともあって個人的にはツイッターやフェイスブック、LINEなどと

いった各種SNS媒体からは一定の距離を置きながら、ブログ一本勝負に絞ってきました。

この点に関しては管理人自身の個人的ポリシーもありますので、

不便に感じておられる熱心な読者様には大変ご迷惑をおかけしておりますがご寛恕願います。

他に何かより良き「伝達」媒体方法などございましたら、

どうかご遠慮なくご教示願います。

ということで、最近の情報のやりとりの批評的観察も含めて、

「人は、そもそもなぜ価値観論争にこれほどまでに拘泥してしまうクセがあるのか?」などを

著者の視点を参考に分析考察しながら、その視点の限界を乗り越えていく

より良き「対話」のあり方や「共生」社会の創造へ向けたヒントなどを

皆さんとともにあらためて学び直してみようとの趣旨で、

この本を取り上げさせて頂くことにしました。

コミュニケーションの原点に立ち返らせてくれるボーム流対話技法論

それでは、本書の内容構成に関する要約に入らせて頂きます。

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・本書の発行に寄せて-ピーター・センゲ

・イントロダクション-編者リー・ニコル

※まず最初に本書刊行に寄せられた推薦文として、

『学習する組織~システム思考で未来を創造する~』

(枝廣淳子他共訳、英治出版、2011年)

著名なピーター・M・センゲ氏による本書ナビゲートがなされています。

センゲ氏は、上記<システム思考>論者として世界的にも著名な方ですが、

本書の著者デヴィッド・ボーム博士にも独特な物理学的な時空観を反映させた

思考体系に見られる共通した俯瞰的思考をお持ちであります。

そのような点で、センゲ氏は本書の推薦者として相応しい役目を果たされています。

本書の具体的な内容ご紹介は追って順次させて頂くことにしますが、

まずは、このセンゲ氏と編者であるリー・ニコル氏によるガイドこそ

読者の皆さんにとっては、より的確なアドバイスとなりましょうから

この両者のご意見をご参考にしながら読み進められると

理解もより一層促進されることでしょう。

本書の全体像を素速く掴む要点としては、

著者の「全体」と「部分」といったそれぞれの<次元=事象>から

巧みな視点の切り替え技法を取り入れることで

人間的思考の本質やクセのようなものを俯瞰的に眺め直すところから

読み始めるのが議論の中心主題へと入っていきやすいのではないかと感じました。

本書は、一応は一般向けに読みやすい配慮はなされていますが、

やはり「量子」物理学者ですから、<コヒーレント=一貫性のある>だとか

著者独自の<ホログラフィー宇宙モデル>に出てくる「暗黙の領域」に関する

専門的知見(用語)や話題が本書の議論が展開される過程で多々出てきますので、

この分野にあまり馴染みがない方にとっては多少読みづらい点も

出てくるかと思われます。(管理人も学習途上者ですので、

出来るだけ初学者の方にも配慮させて頂きながら、

そうした読後感が伝わるように工夫させて頂きますので、

そのあたりは読み進められる前にあまり深刻にご心配なさらなくとも大丈夫ですよ。)

それはともかくとしまして、著者の思考体系には独特な「神秘面」を

感じさせられるところがあるようです。

本書の「対話論」に当たっても、インドの著名な神秘的とされる

教育者であり哲学者でもあるJ・クリシュナムルティ氏との対談も

著者の知見には影響が与えられているようですね。

J・クリシュナムルティ氏との対談「論考」に関しましては、

著者にはさらなる面白い書物もございますので、

いずれ管理人自身の独自研究も進みましたところで

皆さんにご紹介させて頂こうと予定しています。

そういう経緯により本書の第1章と第4章は、

『1970年と1971年にそれぞれボームが執筆した小論』であり、

『どちらも元は、英国のクリシュナムルティ財団の会報に載せられたものだ。』と

されており、『残りの資料は主として、1977年から1992年の間に

カリフォルニア州のオーハイで開かれた講演会や、小規模のグループ・

ミーティングからとったもの』(本書25頁)と本論考「源」が

ご紹介されています。

それでは、導入部はここまでとして各「論考」部に旅立ちましょう。

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①「第1章 コミュニケーションとは何か」

②「第2章 対話とは何か」

第1章と第2章では、「そもそも論」として

コミュニケーションと対話の「本質(意義)」について

語源論などから解きほぐしていきます。

「コミュニケーション」は、英語で「communication」。

つまり、ともに『何かをさせる、やらせる』が原義であり、

『何かを共通のものにする』(本書37頁)という意味が含まれています。

言い換えますと、「対話」とはただ単に異なる意見を交わし合ったり、

ましてや「共通」議題からかけ離れた「論争合戦」といった

いわゆる勝ち負け闘争を目的とするものではないというところにこそ、

コミュニケーションの本義があるということです

(ちなみに、管理人自身の英語上達法は、単語(語彙)力の豊富さも

さることながら、この単語の成り立ち(「語源論」)に着目した学習が

最適なようです。ポイントは、「英英辞典」や「シソーラス辞典」を

フル活用することでしょう。その具体的活用法については、

10代の学生時代に通っていたECC予備校と学校の授業で

教えて頂きました。

管理人自身の英語学習歴は、英検準1級程度で、

大学時代一時期ESSサークルに所属していた程度で、

大学卒業後は「法律畑」を歩むことになったので、長らく(もうかれこれ

15年程度!?にもなりますが・・・)遠ざかっていますので、

かなり英語力は落ち込みましたが、面白いもので10~20代の脳が

比較的柔らかい時期に音読・多読「大量負荷」学習をしていましたので、

たまに所用で「読む」際には、何とか文脈力などを駆使しながらも

読めてしまうから不思議です。ただ、「書く」「聞く」「話す」となると・・・

う~ん、これはかなり怪しいレベルだ(笑)

やはり日本人の場合には、他言語を使用する機会にでも遭遇しない限り、

膨大な英語学習時間も無駄になるような・・・

こうした理由から小学校からの英語教育には大いに??が

個人的にはつくのですが・・・

何はともあれ、まずは「日本語力」を磨き続けなきゃと思う今日この頃です。

余談でした。)

私たちは普段の日常生活でしばしばその「本質」を忘れがちになってしまいます。

それには、人類発祥以来の「生物学的適応」の痕跡といった

生物本来に備わった「生存(確保)本能」といった生物的特質に由来するものも

あるのでしょう。

今回は、「進化論」がテーマではありませんので、

その観点からの分析考察は、控えさせて頂くことにしますが、

再度コミュニケーションの原義・目的に戻りますと、

ともに「共通」する話題を土台に据えて、相互意見の相違点と共通点を

話の流れの中で見出しながら、「新たな」視点を「発見」獲得することで

当初「想定」もしていなかった「未知の領域」を切り開き

「新たな」次元を「創造」していく言語的道のりに

コミュニケーションの主たる狙いがあるということです。

また、「対話」は、英語で「dialogue(ダイアローグ)」。

「logos」とは「言葉」という意味ですが、

特に著者は「dia」の語源に注意を惹きつけさせます。

つまり、『「dia」は「~を通して」という意味である-「二つ」という

意味ではない。対話は二人の間だけでなく、何人の間でも可能なものだ。

対話の精神が存在すれば、一人でも自分自身と対話できる。

この語源から、人々の間を通って流れている「意味の流れ」という映像や

イメージが生まれてくる。これは、グループ全体に一種の意味の流れが

生じ、そこから何か新たな理解が現れてくる可能性を伝えている。

この新たな理解は、そもそも出発点には存在しなかったものかもしれない。

それは創造的なものである。このように何かの意味を共有することは、

「接着剤」や「セメント」のように、人々や社会を互いにくっつける

役目を果たしている。』(本書44~45頁)と。

以上長々と「語源論」に着目した観点からの著者の言葉を引用しながら

「コミュニケーション」と「対話」の定義を丁寧に語ってきましたが、

本書の結論も、この「原点」をあらためて再認識させるところにあります。

それでは、

「なぜ、私たちはコミュニケーションなり対話において

しばしば困難な局面を迎えたり、失調状態に陥ってしまうのでしょうか?」

この「問い」から著者も論考を始めます。

その手始めとして、著者は、

コミュニケーションや対話の「プロセス」に着目することを勧められています。

私たちの日常会話をあらためて分析確認してみると、

互いの「意見」の表明や「意志(意図)」の実現にばかり

注意が払われてしまっていることに気付かされます。

言い換えますと、「プロセス(対話における意味の流れ)」から

個々の「意見」なり「意志(意図)」を省みると、

その背景にある暗黙の「想定」が根深く巣くっているということになります。

著者は、本書全編を通じて

この「想定」という言葉をキーワードに据えながら、

良質な「対話」を展開させ得るに足る技法について考察を深めていきます。

まずは、私たちが「常に」この暗黙裏に抱え込んでしまっている「想定」に

「意識的に」気付くことから始めましょうと強調されています。

そして、その『想定を保留状態にする』(本書68~70頁)と

『思考という自己受容感覚』(本書75~78頁)を可能にしていく

「意識付け」訓練から社会に積極的かつ建設的に参加していく

<参加型思考>にまで高めていく数々のヒントが提供されます。

というように、本書では、何よりもこの「コミュニケーション」や

「対話」のそもそもの目的や本質を思い出すところから

「すべての第一歩は始まる・・・」との発想を再確認することが

どうしても最低限の必須事項だと思われますので、

賢明な読者様にとっては<釈迦に説法>となってしまいましたが、

最初に丁寧にまとめさせて頂きました。

また、第2章では特に良質なグループ討論が可能となる諸条件や

進行方法や司会役(最近では<ファシリテーター>という役目にも

注目が集まっているようですが・・・)の重要性などについて触れられた

『対話と思考』(本書49~59頁)、『対話に参加する』(本書59~

68頁)、『対話における問題』(本書84~87頁)のテーマ論考なども

「対話技法」に関する有益なヒントを与えてくれるでしょう。

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③「第3章 集団思考の性質」

※それでは、『人間にとってそのような「想定」をどうしても抱え込んでしまう

思考クセが生起してくるについては、どのような原因が考えられるのでしょうか?』

それを「集団」面から分析考察していったのが本章であります。

著者は、まず本章冒頭にて文明が発達する過程の初期において、

思考に価値が置かれ過ぎてきたことや、その思考自体が「断片化」

もたらしたことによって、言語伝達上の阻害要因が生み出されたり、

そのことをきっかけにさらなる世の不協和要因が創出されていった

思考プロセスに注意を向けるべきことを強調されています。

つまり、この言語による「断片化」が厳密な思考プロセスを危うくさせる場面に

人類はもっと思慮深くあれと注意を促します。

著者は、『思考の内容と深層構造とは、実のところ別々のものではないと

気付くべき』ことや『概して、思考の大半が個人的なものではないと、

私は主張したい。』(本書121頁)といいます。

言語の本質そのものが、人と人との意思疎通を図るものである以上、

そこには、<集団的意識(記憶)>が内在しているのは

ある意味で当然だと言えますが、

この言語を用いて「個人」的な思考が立ち上がってくる過程に

すでに「無意識」領域(暗黙知部分)において、「集団」思考が

組み込まれていることに「意識」的であれと私たちに気付かせます。

ここで、著者が「暗黙知」理論の第一人者であるマイケル・ポランニーの知見や

脳の「進化」過程についての知見にも触れているあたりも興味深いところです。

本章で重要な論点は、「人は見たいものを見る」というように、

いわば<あるがままの裸の事実>とは異なった感情や概念・イメージによって

歪められた<虚偽事実(解釈)>(著者の表現では、『高次元の事実』)による

『侵入認識』(本書127頁、これは、個人レベルでも集団レベルでも創造されうる)

こそ、私たちが通常「事実」と呼び慣わしてきた正体なのだというところです。

「描写-認識-提示-認識-描写・・・」という双方向のつながり、

情報の流れに一般的には気付いていない点にこそ、思考の「限界」というよりも

「盲点」が含まれているらしいことを提示されます。

この『思考プロセスとは無意識のものであり、潜在的で暗黙的である』からして、

『このような状態に気づく能力を、思考は失っているらしい。』(本書129頁)と。

まとめますと、人はおよそ「事実」とは似て非なる「思考によって新たに製造された

非事実」によって認識判断能力を狂わされたり、不適切な行動へと駆り立てられていく

誘因が含まれているということあります。

このような「誤」誘導を回避する知恵と工夫には

残念ながら「個人的」努力だけでは難しいだろうことも示唆されています。

ここから『集団による描写が鍵』であり、世界における『真の意味での

変化とは、集団的描写が変わることだろう。』(本書136頁)と結ばれます。

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④「第4章 問題とパラドックス」

※本章では、私たちが通常何か不都合な出来事などに遭遇した際に、

しばしば「問題」として安易に表現することによって、

「問題」を捉えることに待ったをかけられています。

ここでも、また「問題(problem)」の語源論から説明されていますが、

その「問題」として設定させた「大前提そのものに」も一度は疑問の目を

投げかけるべきだと提起されます。

このような「問題」の大前提には自己欺瞞などの矛盾点や不純物が

多々潜在しているがために、著者はより的確に「問題」を

『「逆説」に直面している、と言ったほうがいい。』(本書141頁)

いいます。

まとめますと、私たちが通常「問題」と称している諸現象は、

個人レベルまたは集団レベルを問わずに歪められた(作為的・不作為的につくられた)

認識を反映させたイメージ像のことを指して言及していたということです。

この段階に止まる限り、「問題」は解決不能の堂々巡り(まさに、

「逆説=パラドックス」の罠!!)に嵌り込んだまま終始してしまうことに

なります。

「では、このような思考の無限循環論法(堂々巡り)から抜け出す方法は

あるのでしょうか?」

著者は、ここでもやはり思考のプロセス分析を通じて、

思考を形成する(させてきた)「メタ認知(暗黙知)次元」の

<条件づけられ、コントロールされている>(本書147頁)疑似思考に

着目することから始めよと説かれています。

そこで本章の結語として、

『何世紀にもわたって条件づけられてきた心の大部分が、

パラドックスにとらえられる傾向があり、結果的に現れた難題を「問題」として

考える間違いを犯しがちだということである。』(本書148頁)

摘出されています。

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⑤「第5章 見るものと見られるもの」

本章では再び、観察者と観察される対象の不一致を生み出す

「想定」パラドックスに言及されています。

ここで「想定」を別の表現で言い換えますと、

自分にとっての趣味志向性などによって色づけされた

情動判断などを絡ませた情報を「選択」したということになりましょうか?

著者は、「量子」物理学者ですから、

この観察者パラドックスを情報の「選択」判断効果の一種だと

見立てられています。

また、ここでクリシュナムルティの観察眼に言及しながら

『観察者とは、観察される存在なのである。』

「観察者」を<想定>の次元で捉えれば、

『想定とは見られるものではない-想定が対象を見ているのである。』

(本書151頁)

ということは、観察する次元をどこに設定し直すかによって、

観察対象を理解し記述する表現内容も

時々刻々と異なり移りゆくということになります。

つまり、「思考は決して不変ではない!?」ということなのでしょうか?

そうした思考の絶えざる揺らぎに気づく人間もまた観察者自身ですから、

なかなか厄介なパラドックスを抱え込んでいるようですね。

よく「もう一人の自分」を自分の内面に生み出して、

別の観点から「(現状心理に浮かんでいる)自分??」を

見つめ直しなさいとは言われますが、

「自分」という肉体的存在は一つであっても、

その思考現象から現れ出た<私>には幾通りものパターンがあり得るだけに

「唯一の<私>とはこれだ!!」などと言い切れないところに

人間という存在の厄介さが抱え込まれています。

この難点に気づかせてくれるのが、本章の要点であります。

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⑥「第6章 保留、肉体、自己受容感覚」

本章では、「思考」と「肉体」を一体化させた観点から

思考の<自己受容感覚>について論考されています。

特筆すべき論点は、『思考もやはり運動である』(本書170頁)から

ある種の反射作用とも捉えられているところです。

著者のいう「思考」には、

『情動、肉体の状態、身体的な反応など、あらゆるものが含まれている。』

(本書172頁)といいます。

このあたりの「思考の動き(精神面)=情動等身体作用総体(肉体面)」と

身心一元論のイメージを全体システムとして捉える発想は、

最先端の脳(神経生理)科学の知見とも通じて、

現代から遡って著者の論考を再検討すると「さすが!!」だと思わせられます。

「科学者とは、未来を見通すことの出来る能力を兼ね備えた人種」であり、

「科学精神とは、宇宙に外在(顕在)・内在(潜在)する驚きの要素を

探究する心」を意味するのだとあらためて実感させられた論考でもありました。

本章にも「コヒーレンス(一貫性のある)」や「インコヒーレンス(一貫性のない)」と

いった「量子論」用語が出てきて、論考も抽象的な部分ですので、

一読しただけでは理解しづらいかもしれません。

ただ、「物理学者」としての著者の慧眼としては、

『物理的に言えば、思考が働かなくても、また何も考えなくても、

人は動いたとたん、行動の結果を知っているべきである。』(本書167頁)などの

言葉にははっとさせられるところがあります。

著者には、単なる物理学者だけではなく倫理学者としての視点もあるところに

管理人自身の「心」が惹きつけられたところもあったようです。

これもどこかの記事で語ったことがありましたが、

「結果が外部に現れ出さえしなければ、何をやっても何を考えてもよい」とは

ならないところに

しばしば現代人の忘れがちな処世訓が含まれているのです。

(管理人も心からあらためて反省すべき点ですが・・・)

また一面では、『思考とは物質的なプロセスであり、認識に関与している』、

『「思考に自己受容感覚的な性質はないが、それを必要としている」と

洞察できれば、反射作用をつかさどる脳のシナプスに影響が現れ始めるはずだ。』

(本書173頁)とする主張にも、

何を「心=脳??(管理人も完全には納得出来ていない難問ですが・・・)」に

インプット(刷り込む)するかで、

何をアウトプット(つまりは、自意識(意志)を世界に表象させるということです。)

させることになるのかと不安にもなり考えさせられたところでした。

いずれにせよ、思考の血肉化(体認・体得学習効果)に気を配って

生きていかなければならないと我が身を正させてくれた論考でした。

本章のテーマは、個人的にも非常に興味関心ある話題でしたので、

触発されるところ大でした。

今後の管理人自身のライフワークにも役立つ視点をもたらしてくれる論考でも

ありました。

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⑦「第7章 参加型思考と無限」

本章では、安易に「思考には<限界>がある!!」と主張することに

警告を与えてくれる論考でもあります。

確かにここまで本書を読み進めてくると、

自己自身による自己点検がきわめて難しい作業だということは

十二分過ぎるほど伝わってきました。

なぜなら、先にも触れましたように「観察者=観察される対象」ですから・・・

常に<自己言及のパラドックス>がつきまとうからですね。

「有限」な肉体に囚われた人間が、「無限」に連なるには??

管理人ならずとも古今東西の賢者や知的好奇心旺盛な読者の皆さんであれば、

何度となく思索されたテーマだと思いますが、

やはり「無限」に連なる回路は、

思考(意識)のレベルを拡張する他ないようです。

それを一人だけで覚醒させ得ることの出来る「独覚型」の賢者も

稀にはいらっしゃるかもしれませんが、

管理人も含めて大半の人類の場合には、

常に誤謬や偏見がどうしても思考経路に侵入しがちです。

大切なことは、こうした可謬性を大なり小なり帯びた

「想定」に注意を逸らされないような知恵と工夫を

磨き続けることにあります。

著者も本書を通じてそのためのヒントを与えて下さっていますが、

なかなか抽象的な方法論となってしまい具体的に体認・体得するには

難しすぎる要素もあるようです。

このように本書の概要を大まかに語ってきましたが、

いずれにしましても、

人間同士の「対話」を諦めてはいけないということに尽きます。

著者も管理人も「対話」を諦めていません。

「だって、それが人間である条件でしょうから・・・」

(自己)認識だけには限界がつきものですが、

他者との「対話」を通じた別次元からのアドバイスを得ることで、

今まで気づきもしなかった「盲点」に気づかされるきっかけにはなるでしょう。

但し、そこには条件もあるようです。

相互に暗黙裏に抱え込んだ「想定」という誤謬なり偏見があることを

意識しながら、謙虚になってお互いに敬愛の念でもって「対話」しあう姿勢が

是非とも必要だということであります。

この問題点については、

『第2章 対話とは何か<必要性という衝動>本書70~75頁』でも

警告されているところです。

人類という世界にはまだまだ進化の余地が十二分に残されています。

ですので、皆さんも情動的反応や扇情的情報に「心」がさらわれなきように

この情報化社会とうまく付き合って頂きたくお願い申し上げます。

「人類は、もともと協力し合わなければ、今日まで生きながらえて来ることすら

叶わなかったのですから・・・」

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・訳者あとがき

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<価値観論争>を超越する<参加型思考>で共生型相乗効果社会を再構築しよう!!

ひゃー、ボーム博士の論考を要約するのは難しすぎました。

(いつもながらのことですが・・・)

とはいえ、著者の指摘によって、

普段の生活場面での「思考結果」がいかなる「思考プロセス」を経て

創出されてくるものなのかというその<物理的構造>について

あまり意識に上らせることもないまま

コミュニケーションを図っていたのだという点につきましては、

皆さんもあらためて気づかされたことが多々あったかと思います。

その「思考プロセス」には、個人・集団を問わずに

多種多様な認知的バイアス(偏見などの可謬性)が侵入してくること。

(今、「認知的バイアス」と書きましたが、この言葉も最近話題の

行動(心理・神経)経済学>用語として皆さんも耳にされることも

多くなったのではないでしょうか?

『ホンマでっか!?TV』などでも話題として取り上げられることも

ありますから、難しいことはよく理解出来なくても、

そのおおよその内容はご存じだと思います。

この行動経済学については、また近日別著のご紹介を予定していますので、

乞うご期待でございます。

その原因となるそれぞれの「想定」思考に注意を向けること。

ここから、柔軟かつ建設的な「対話」が新たに花開いていく

可能性があることなどなど・・・

本書全編にわたるメッセージは、「対話」のレベルを試行錯誤しながらも

それぞれの人類が改善させていく努力を積み重ねることで、

より良き未来を切り開くことにつながっていくことにありました。

さて、ここからは最後に

ますます激しさを増す<価値観論争>の悲喜劇について触れておきましょう。

「人類は、この<価値観論争>の袋小路からいつになったら抜け出ることが

叶うのでしょうか?」

人間ですから、一人ひとりにそれぞれの趣味嗜好に合った

「価値観」が存在すること自体は否めません。

無理に否定することも出来ませんし、否定し去る必要もないでしょう。

また、何らかの「価値意識」を有することがなければ、

人類はここまで知的判断能力を磨き上げ、

進化発展に寄与することにも至らなかったでしょう。

というのも、「価値意識」とは人間が生き抜こうとするために

必要不可欠な「意志力」を働かせるためのいわばセンサー(起動装置)のような

ものとして生み出されてきた生命エネルギーの部類に属するものだと思われるからです

生存本能が組み込まれた個々人による生命駆動力の一翼をなす

「価値意識」が人類の進化史の過程で激越な闘争を経て、

ある程度までの「棲み分け」を可能にするに至りました。

それが、政治的生き物としての人類の大きな特徴でもあるようです。

大きくわけて右から左までに至る

いわば志向(思想)性のスペクトル(連続体)を

形成するにまで至ったのです。

このような大きな思想的立場の区分が残存してきたことには、

それなりの意義がある(あった)ものと考えています。

このエッセー項目部は、あくまで管理人の私見であり、

思索の形成途上にある暫定的な持論にしか過ぎませんが、

私見では、この宇宙には、人類史以前から左右対称性の原型となる

何らかの<情報>エネルギーのようなものが組み込まれていたことが

生命を宿した人類史が始まってからも影響を及ぼしてきたのではないかと

考えています。

その「痕跡」が脳のある部位や遺伝子情報などに

残存しているのではないかと思います。

つまり、人間には誰しも多かれ少なかれ「左」から「右」までの

それぞれの思想傾向が予め組み込まれているということです。

このあたりになると、脳科学やその他の進化生物学など

多種多様な学際的知見が絡み合ってきますし、

人権上の誤解をも招きかねませんので、

慎重を期して「断言」など出来ませんが、

一応の仮定推論としては

一考に値するテーマではないかとも考えているところです。

また「学問」として考える場合には、「断言」は控えるのが

知的謙虚な姿勢だとも言えましょう。

ですから、「学問」考察上は、この思索も「仮説」ということです。

今回は、「進化論」については控えめにする予定でいましたが、

久しぶりの更新ということもあり、

やはり皆さんにもともに考えて頂くための

手がかりを提供させて頂くことになってしまいました。

著者の表現では、「問題」ではなく「パラドックス(逆説)」ということが

適切だと思われますが、

この思想上の「右」「左」も相互に必要不可欠な視点を提供してくれるようです。

それぞれの生物学的特徴(ここでは、「価値意識」上の好みという意味ですが・・・)には

一定の「偏り」があることは否めません。

言い換えますれば、この「価値意識」のパラドックスは

ある種の「個性」のしるしのようにしか過ぎないように感じられます。

ただ、その個人的「個性(傾向性)」をあたかも絶対的・普遍的「真実」だと

思い込んでしまう人間の思考クセに厄介な点が潜んでいるわけです。

通常は、その「個性」という次元で、

この「価値意識」を理解するにまでは至らないため、

その「個性」(的偏り??)を「真実(絶対的正しさ)」にまで高めて

錯覚しているのが人間の悲しい性のようですね。

著者は、この「真実」ということに最大限注意を払いなさいと

生涯を通じて問い続けられたようです。

本書87~101頁『対話のビジョン』より。管理人は本書の核心部分は

この論考にあるものと感じました。この論考では、現代の科学者への警鐘とも

読み取れる貴重な箇所でもあります。

というのも、著者自身も「政治的闘争劇」の舞台にて

自身も予期せぬところで「誤解」を受け、

その「誤解」を解くのに苦労された体験をお持ちだったからです。

そのあたりの事情も、本書の思索の跡に見られますので、

読者の皆さんへのお楽しみということで、

ここでは「保留」しておくことにします。

紙数の関係上、残りの思索は次回以降予定していますが、

もう少しだけお付き合い下さいませ。

まとめますと、『いかにして人類はこの「真実」を巡っての

闘争悲喜劇から超越し得ることが叶うのだろうか?』

その道のりを素描してみようというところに

本書『ダイアローグ』の主題もあります。

ということで、本書は前にもご紹介させて頂きました

本田有明さんの『ソクラテス・メソッド』をより効果的に

活かすための物理学者によって提供された

良質な「対話」に関する理論面を補強してくれる好著でもあるいうことで、

皆さんにも是非ご一読されることをお薦めさせて頂きます。

おそらく、皆さんの日常会話の質向上にもお役に立つこと間違いなしでしょう。

管理人も世の中を明るくし、人類の意識面での進化を支えるサポート役として

言語能力を磨き続けていきますので、ともに成長していきましょうね。

最後に著者のお言葉を引用して筆を擱かせて頂くことにします。

『個人的にも集団的にも、意識の変革が起きる可能性があると、

私は思っている。個人と集団の双方に起きるという点が重要だ-

どちらが欠けてもならない。したがって、こうしたすべての問題-

コミュニケーション、対話する能力、コミュニケーションに参加する能力-が

きわめて重大なのである。』(本書193頁)

どうやら、人類の「意識」における進化の鍵を握るキーワードは、

「集中力(著者の表現では、『熱意とエネルギー次第』だ!!)」と

「注意力」だということになりそうですね。

このように「対話」を

人類が共有する深層レベルにまで深めていくことが出来れば、

「無限」の可能性も秘められているようです。

「<有限>から<無限>への跳躍・・・」

ことはそんなに簡単な道のりではありませんが、

この潜在的「可能性」に<意識>を傾けることで

あなたにも「すばらしき新世界」が訪れるかもしれませんね。

管理人もこの「すばらしき新世界」を垣間見るために

人生の旅を続けているわけですが・・・

こうした深層レベルにまで<意識>を羽ばたかせてやれば、

再び生きる気力も歓びも湧いてくるようですよ。

まぁ、難しい「屁理屈」はともかくとしまして、

気軽に肩の力を抜いて人生街道をともに歩みましょう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

なお、著者とクリシュナムルティによる対談論考として

①『思考の限界~知性のまやかし~』

(中野多一郎訳、創英社/三省堂書店、2016年)

クリシュナムルティの思考法からさらに学びたい方への

「入門書」としては、

②『クリシュナムルティの瞑想録~自由への飛翔~』

(大野純一訳、サンマーク文庫、1998年)

③『思考は生(いのち)を知らない~クリシュナムルティと共に考える~』

森本武著、JDC出版、2012年初版第1版)

クリシュナムルティ論本体とはちょっと離れますが、

良質な思考法を伝授してくれる好著

④『考える方法~解決の思考・創造の思考・思考なき思考~』

(同上、2013年初版)

をともにご紹介しておきます。

特にこの③と④の著書には大いに助けられています。

かつて、うつ状態に陥り、将来を悲観的に考え煩悶していた時期に

奈良県の大神神社門前にかつてあったカフェで店頭販売されていたのが

きっかけで出会った本の仲間たちです。

やはり本も人も出会いが大切ですね。

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ところで、「哲学カフェ」の試みも

こうした思考のまやかしを打開し、心理(精神)治癒にも役立ちますが、

冒頭導入部で、SNS問題を提示したついでに、

いつも陰ながら応援させて頂いている『京都アカデメイア』様の

<哲学カフェ>企画をここでご紹介させて頂きます。

お題は、

ずばり『SNSから哲学する~常にオンラインな「わたし」~』だそうです。

ご興味関心がおありの方には、

その詳細情報につきましては上記サイトをご覧のうえお問い合わせ願いますが、

2017年3月24日(金)20:00~21:30に

開催が予定されているそうです。

管理人自身は、翌日に3月期決算における棚卸し作業といった

生業が入っておりますのでご同席は叶いませんが、

前回の<哲学カフェ>に参加させて頂いた時に、

面白い試みだと実感させて頂きましたので、

ここに熱意をもってご推薦させて頂きます。

会場はアットホームな感じの場所で、

少人数しか入れないような若干程度、席には余裕がないかもしれませんが、

ざっくばらんな雰囲気で「対話」をお楽しみ頂けることと思います。

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最後までお読み頂きありがとうございました。

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One Response to “デヴィッド・ボームの『ダイアローグ~対立から共生へ、議論から対話へ』価値観論争を超越する視点をともに学びましょう!!”

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