竹田青嗣さんの『中学生からの哲学「超」入門~自分の意志を持つということ』「欲望」社会に流されず生き抜くために考える!!
『中学生からの哲学「超」入門~自分の意志を持つということ』
哲学者の竹田青嗣さんが、わかりやすい語りを通じて、
若者に向けた深く考えて生き抜くコツを「哲学入門書」の形で
上梓されています。
「欲望」社会における「自由」の「相互承認」・・・
このキーワードを中心に展開される挫折体験などを経た体感的哲学。
思春期で<いじめ>などで悩む多感な中学生の方は、必読です。
今回は、この本をご紹介します。
『中学生からの哲学「超」入門~自分の意志を持つということ~』(竹田青嗣著、ちくまプリマー新書、2009年)
竹田青嗣さん(以下、著者)は、大阪生まれの在日韓国人2世の
哲学者の方です。
現在は、早稲田大学国際教養学部教授を勤めておられ、
ご専門は、哲学・文芸批評・現代思想などです。
特に、哲学に関しては、フッサール現象学を中心に「認識論」を
手がかりとした現代哲学批評や、ヘーゲル哲学による「自由の相互承認論」
から「公共善の探究」など幅広いジャンルでのお仕事をされてこられました。
実は、管理人が真っ先に「考えることの作法」に興味を持つきっかけを
与えて下さった恩師でもあります。
「哲学そのもの」への入門は、前にもご紹介させて頂いた木田元先生の
『ハイデガーの思想』(岩波新書、1993年)から始まりました。
ハイデガーにせよ、著者のご専門であるフッサールにせよ、
その「実存哲学」の方法的認識論を「現象学」といいます。
著者は、この現象学系方法的認識論を自由自在に駆使されながら、
これまで様々な領域で哲学的批評をされてこられました。
管理人にとっての著者との出会いは、ちょうど高校生の大学受験期で
小論文対策で数々の文章術や論旨展開技法、レトリックなどで
どのような小論文対策法にも「イマイチしっくりと来ないなぁ~」と
悩み苦しんでいた時期に、たまたま書店で「これだ!!」と
直感的判断で購入させて頂いた本からでした。
それが、『「考える」ための小論文』
(西研・森下育彦共著、ちくま新書、1997年)だったのです。
この本が間接的なきっかけとなり、
著者の名前を知るようになったのでした。
西研氏は、著者の長い付き合いのある友人でもあるそうで、
この方の著書もなかなか考えさせる好著であります。
また、機会があればご紹介させて頂きましょう。
何よりもこのお二方には、
学生時代からお世話になりっぱなしなのですから・・・
個人的な日頃の私淑への感謝も込めて本書をご紹介させて頂きながら、
若い皆さんにも是非この1冊から「思索する歓び」の旅へと
出発なされることをお薦めいたします。
「考え抜く技法」を身につけるだけでも、
「わかりやすさ」が極限にまで追求されるとともに、
空気に流されやすい「欲望喚起型社会」から逃れ出る手だてを
講じることが叶うでしょう。
ということで、皆さんにも「思索する歓び」と「生きる歓び」を
つかみ取って頂こうとの思いで、この本を取り上げさせて頂きました。
以下、テーマが「哲学」ですので、本書のご紹介とともに、
管理人が個人的に触発された箇所を重点的に考察していきますので、
皆さんも本書をお手に取られたら、ご自分で「哲学の道」を
歩いてみて下さいませ。
きっと、あらたな地平線に出会うことでしょう。
その前に、本日は<初のゴールデンウィーク>記念を祝して、
「コーヒーブレイクタイムコラム」を用意させて頂きました。
<大学受験生へ向けた「小論文対策」アドバイス>
以下は、管理人の体験から得た私見ですので、
あくまで気軽に読み流して下さいね。
若い学生の皆さんの中にも
小論文対策だけは難しいと感じていらっしゃる方は
多いことでしょう。
管理人には、その気持ちが良く分かります。
いきなり、問題意識を持つために社会問題を知ろうと
新聞やニュース等の類を読みあさり始めたとしても、
にわか仕込みでは、入試まで、とても間に合わないからです。
しかも、小論文は、「国語力」だけでなく、
まさしく、あなたが18歳までの人生を一度総決算させられる
ある種の総合的人格が問われる「踏み絵」でもあるからです。
採点者によっても、相当なバラツキがあり、
正解も唯一ではないのが、小論文の不透明さですよね。
とはいえ、焦らなくても良いでしょう。
難関校対策が必要な方にとっては、本格的な特訓も必要ですが、
そうした不透明さに不安を覚えられるなら、
「正解」の明確な他教科で勝負して下さい。
余程のことがない限り、「小論文」だけで落ちるということは
ないでしょう。(余程のこととは、「医学部」入試などで、
誰が見ても明らかな「倫理違反ミス」などや
「一芸入試」など特殊な選抜方式など。)
おそらく、相当「優秀な」学生ですら、
現状の入試突破術としては、これが最も合理的だと思われます。
(あくまで、管理人の私見ですよ・・・)
※ちなみに、最近話題の「新傾向入試」とやらは、
予備校関係者ではないので、皆目見当も付きません。
(ごめんなさい。)
それと、自分に合った小論文対策本を見つけてみて下さい。
何も著名な予備校教師が書いたテキストでなくても構いません。
個人的に気に入った著者の教本で良いでしょう。
その代わり、その「型」を覚え込むまでみっちりと練習してみて下さい。
ちなみに、管理人の場合は、結果として、小論文対策が必要だったのは
2校だけでしたが、いずれも見事に散りました。(今は、青春の良き思い出)
その時分に利用させて頂いたのが、著者の新書本とZ会の小論文対策講座、
若干の著名予備校系小論文対策模試、現代文のスーパースター出口汪先生でした。
ちなみに、2015年の最近には、上記の森下育彦さんの中高生向け新書本も
出版されているようですよ。
『「私」を伝える文章作法』(ちくまプリマー新書)です。
結果的に、大学受験対策には役立ちませんでしたが、
この時の猛特訓が、「法学部」入学後にかなり威力を発揮してくれました。
また、社会人になってからも、書類作成には苦手意識がありませんでした。
それが、今も管理人を鼓舞してくれているようです。
ところで、学生時代からイマイチピンと来なかった点に、
「論理の飛躍」というのがあります。
これだけは、管理人も日々難しさを覚えています。
いわば、「論理と論理の結び目の均衡(調和の美)」や
「説得力(確からしさ)」「補強力(論証力)の強弱」などと
いったことだと思われますが、
やはり今でも難しく感じるのが正直なところです。
そこで、そのような「論理の飛躍」を少しでも矯正してくれるのに
役立つ知恵が、「哲学的思考」であります。
「欲望論哲学」と「現象学的本質観取哲学」に原点があるという「竹田哲学」とは!?
「小論文対策」は、主題ではないので、また機会があれば別の記事で
丁寧に語りたいと思いますが、ここからは本題に入りますね。
その「哲学的思考」を丁寧に教えて下さったのも著者でした。
まず、「哲学」によくある誤解ですが、
「哲学」は、決して「勝ち負けを競い合う論争ゲーム」ではありません。
著者も、この「ゲーム」のたとえが、最もわかりやすく解説しやすかったのか、
「ゲーム」として語っておられますが、
あくまで「勝ち負けゲーム」ではないことを強調されています。
日本では、あまり「論争文化」が好まれないこともあり、
「ディベート」や「ディスカッション」といった「立(対)論ゲーム」の
ルールは知られていないようですが、
このようなゲームとも「哲学」は異なります。
また、著者によって、「哲学と宗教と科学」の違いについては、
それぞれの思考法のルールがわかりやすく解説されていますが、
今回は、それらが主題ではありませんので、
必要最小限以外の詳細は、本書に委ねさせて頂きます。
ここでは、「哲学」に絞って、以下考察させて頂きます。
「哲学」とは、「概念(キーワード)」を使って、「原理(物事の本質)」を
探究する「普遍追究型言語ゲーム」であります。
よく誤解されるのが、「哲学」とは、『「真理」を探究する学問!?』
だというのが定番のようですが、これが「宗教」との大きな違いでもあります。
また、「科学」は「事実そのもの」を検証しながら「仮説設定」していく学問です。
そこでは、「いかに」が問われ、一部(例えば、<生物学>の一分野)を除いて、
「なぜ??」という「問い」が解明されることはありません。
もっとも、現代「理論」物理学の世界では、「哲学」に限りなく近づきつつあるように
見えますが、それでも究極の「なぜ??」には答えられない学問的構造に
なっているようです。
そして、この「科学」は「価値」について判断を下せないのです。
現代は、遺伝子工学や人工知能研究などの最先端で、
「人間原理」などとの衝突回避のため、より思慮深い「倫理」が厳しく問われていますが、
これも「科学」という学問的方法論自体からは飛び出してこないようです。
そこで、大切なのが、「(倫理を含めた)哲学」であります。
「倫理」の定義も、それ自体「価値判断」が含まれているために、
一律の定義づけは困難ですが、ここでは、
「(社会との調和ある)自己内ルール」としておきましょう。
いずれにせよ、「哲学」とは、「価値」を含んだ、社会や人間一般にとって、
より望ましい(より良き)共通了解をとことんまで探究する「言語ゲーム」だと
いうことです。
そこで、この「言語ゲーム」ですが、この造語自体は、
著者とは異なる哲学一派「分析哲学」のウィトゲンシュタインに由来します。
ところで、「言語」の扱い方には、誰しも絶望的に困難な難問を含んでいます。
どうしても、「価値」が「言語」には含まれてしまうからです。
また、前後の文脈で、その「言語」の意味も微妙に食い違ってきて、
対話者間でも、誤解の大本となるからです。
そのことは、賢明な皆さんにもご理解して頂けると思います。
そこで、この「分析哲学」者たちは、「価値」を抜き去った「言語」は
可能かと極限まで追求していった結果、立ち至ったのが「現代記号論」。
すなわち、皆さんが日々お使いの「コンピュータ言語」です。
要するに、「価値」を抜き去った「言語」とは、
ある種の「数学的記号」のようなものですね。
この分野は、眠たくなる世界の「言語哲学」ですし、
本題から離れていってしまいますので、これ以上は語りません。
が、この点は、上記ウィトゲンシュタイン自身も気付いていたようで、
「言語ゲーム」に対する考え方(ルール設定論など)を
後年大きく変更していったようです。
個人的には、著者のフッサール現象学よりも、
ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム論」により強く興味が
惹きつけられるのですが、これも主題ではないので止めておきます。
何はともあれ、ウィトゲンシュタイン自身は、「心の哲学」にも
興味が移っていったようですが、このように「分析哲学」自体、
「価値」の問題から遠ざかってしまったので、
本来の「哲学」的視点からは離れ、
ますます「袋小路」に嵌ってしまっているかのようです。
そこで、「言語論」に戻りますが、
このように「価値と価値のせめぎ合い」が、「言語ゲーム」には
含まれているために、「ルール設定」が必要となります。
「ルール設定」。
つまり、「文脈における言語の定義設定」や「主題」を最初に決定しておかないと、
このように(すみません、管理人の饒舌クセのことです。)、
どこまでも議論(論点)が「拡散」していくからです。
そこで、「議題(論点)」を絞り込む必要性が出てきます。
そこに、著者の「現象学的思考法」の出番もあります。
昔は(今でも世間一般では、管理人も)、
「哲学とは、どこまでも限りなく問い続ける学問」だとされていましたが、
それは、18~19世紀のカントの時代に、
「科学と啓蒙主義(近代合理主義)」の洗礼を受けてから揺らぎ始めました。
これを、著者の言葉で難しく表現すれば、「形而上学の不可能性の原理」と
いいます。
要するに、世の中には、問うても絶対的な「正解」の出ない問題があると
いうことですね。
そこから先は、ある意味で、「趣味の領域」だと・・・(本書76~81頁)
そして、極めつけは、18~19世紀のニーチェやヘーゲルといった
社会一般の日常経験上の諸問題のみに限定して分析考察していく
「経験論哲学」に道を譲っていくことになるのです。
とりあえず、「問うても詮無いこと」は、「道路脇に寄せておこう!!」との
「実践論哲学」です。
そのことは同時に、宗教の領域をも狭めていったようですが・・・
著者も、一応「宗教」よりも「哲学」の領域が拡大され、
「宗教」の役割は縮小したかに解説されていますが、
「哲学」の世界で、「形而上哲学」の領域が縮小し、「形而下(経験論)哲学」の
領域が拡大すればするほど、やはり人間は何らかの「救済問題」も求め始めるだろうと、
宗教の未来問題についても考察されています。
つまり、そう簡単に「宗教」は無くならないだろうと・・・(本書103~104頁)
ここで、管理人が個人的に興味ある分野が、インド哲学です。
インドでは、「宗教」と「哲学」はあまり大きく分離していないそうですが、
ここにあらたな「光明」があるのではないかとも感じています。(本書61頁ご参照)
「神なき時代」の「総合哲学的宗教あるいは宗教的哲学!?」
そんな予感もします。
西欧でも東洋の影響を受けた「神秘主義哲学」に、再度、注目が集まっているようですが、
いかがわしい「精神世界」とは異なる
「思弁(哲学)的宗教」もまた、
そんな民衆の「救済願望(欲望)」を捉え始めているようです。
このように、21世紀現在にも適応した「形而上哲学」も負けてはいないようです。
このテーマは、また機会あればご紹介したいと思います。
このように「形而上哲学」にも、昔から「哲学」と言えば、
「存在論」と「認識論」が2大テーマだと言われるほど、
この2つの「地の果て」を探究する系譜には、未だ魅力があります。
(管理人も、その一人ですが・・・)
おそらく、人類が「知的好奇心」という「最終欲望(エロス)」を
完全喪失しない限り、しぶとく残り続けることでしょう。
そうはいっても、誰かがその「整理整頓」をしなければ
「無限虚無回廊=永遠循環論法=懐疑主義=相対主義=詭弁論」の
「罠」に陥り、生産的な「言語ゲーム」も展開出来ません。
そこで、その方法論として、著者は、フッサール現象学の「方法的認識論」と
現代「欲望型社会」に対処し得る「竹田哲学」を提案されています。
本書は、そんな「竹田哲学入門書」でもあります。
詳細は、本書をご一読下さいませ。
読み解く際のキーワードは、本記事冒頭でも触れさせて頂いた
現代「欲望喚起型」社会における「自由」の「相互承認」から
考える「欲望論哲学」と、フッサール現象学における「本質観取(直観)」
から考える「実存哲学」であります。
こちらの詳細も、本書と巻末参考文献をご参照下さいませ。
まとめますと、「竹田哲学」の原点は、
「欲望(エロス・情動)論」から見た「欲望論哲学」と
「事実」ではなく、「本質=物事の意味と価値における関係と構造」の認識
として、今までの「近現代」哲学を再考し直そうという問題意識にあるようです。
(「竹田哲学」をすべて拝読させて頂いた訳ではないので、粗雑な解説になり
理解が足りないことをお許し下さいませ。)
哲学を始めるのに早いも遅いもないが、やはり14歳(思春期頃)が良いのかもね!?
このように、著者ならずとも、
「哲学」の背景には、各哲学者の人生背景が
如実に濃く反映されています。
それぞれの厳しい人生における現実の前で
否応なく考え込まざるを得なくなった問題意識。
それが、「哲学的人生の始まり」です。
「哲学」に生涯を賭けて「本業」にされる「哲学者」もいますが、
こうした「個人的な難題(悩み・苦しみなど)」といった
深刻な「挫折・喪失体験」を原点にしながらも、
世界的な「普遍的次元」にまで高めていった思索の軌跡が、
「哲学者」と呼ばれる方のおよその人生のあらましであります。
とはいえ、現代社会では、「哲学」を「本業」として生計を立てることなど、
普通には、「夢のまた夢!!」であります。
そのため、大抵の「哲学者」志望者は、「学位取得」の後、
既存の大学などの教育業界に就職されるのが一般的であるようです。
とはいえ、近代という時代は同時に「専門分業化の時代」。
また、即効性ある研究テーマしか「学位論文」は評価されないようです。
この点で苦しめられた「哲学者」が、「文献学者」として
順調な研究者人生を歩き始めた若き日のニーチェでした。
皮肉にも、大学追放後(他にも理由はあったようですが・・・)、
まるで「神のごとく」
「不死鳥のごとく」
「神なき時代」に世を照らす「哲学者」として、
歴史にその名を残すのですから、「運命のいたずら」とはいえ、
まったくもって「過酷にして不可解」であります。
だからこそ、「それでもなお、<運命愛>に殉じよ!!」なのですが・・・
管理人などは、この先行き不透明で安直な「正解」など出ることもない時代
だからこそ、「哲学=現代アート」として、もっと活躍の場が広がれば
世の中も多種多様なアイディアで満ち溢れ、閉塞感打開のチャンスも
創造されるだろうに・・・と残念に思われるのですが・・・
著者もそうした典型的な「哲学者」人生の「王道」を歩まれているようですが、
ここに至るまでには、壮絶な個人的体験があったそうです。
詳細は、本書に委ねさせて頂きますが、
「在日韓国人2世」としての悩みや、学園紛争時代の挫折体験や、
本格的な人生を歩み始める原点にあったといいます。
その時の体験から、「自我」の問題に至り、フロイトなどの
心理学から哲学の領域にまたがる分野に興味関心が
自然と向いていかれたようです。
とはいえ、フロイト流の精神分析法として知られる「夢判断」だけでは、
どうしても「心」の「空虚」を埋めきれず、「文学」の心理描写の方が、
心理学よりも、より適切な「心理療法」として著者にとっては役立ったそうです。
著者の全お仕事の歩みを直接知るわけではありませんが、
本書を読む限りでは、「文学批評」から入られたからでしょうか?
「哲学」解説も、まるで「文学」のように、問題意識を共有する者にとっては、
心にすーっと馴染むようです。
「文体」のリズムが良いのです。
管理人も、何度もフッサール「現象学」に挑戦しましたが、
やはり、著者の「現象学」解説書が読みやすかったようです。
(もっとも、管理人の理解力は不十分だし、
万人向けのコメントではないでしょうが・・・)
そこから、現代の「欲望理論」を取り入れた著者独自の「欲望論哲学」が
生み出されてきたようです。
そこで、著者は次のように強調されています。
『確信には「度合い」がある』(本書34~36頁)
『心の問題は絶対的な答えは取り出せない』(本書38~40頁)
『大事なのは「正しさ」ではなく、「他者と調整可能かどうか」』
(本書41~44頁)だと・・・
この視点は、学園紛争こそ経験したことのない世代ですが、
「法学部」でしたので、個人的には、その大切さを共有出来ます。
どうしても、「法学」の視点は、現実的な利害関係調整術を学ぶ学問であり、
本質的に「敵か味方か」なる「政治」的視点から完全に距離を置くことは
出来ないからです。
もっとも、法律家(司法)、官僚(行政)、政治家(立法)と、
それぞれの視点は微妙に異なりますが、何となく違和感があるのは、
その「上下関係意識」にありました。
そのことが、個人的な「ネック」にもなったのでしょう。
現場実務にも憂鬱感が生じてしまったようです。
管理人が、学生時代から著者に親しみを感じてきたことも、
その「わかりやすい」哲学解説にもありましたが、
やはり著者の病歴に共感を覚えたからです。
「神経質」「不安症」「パニック障害」、「抑鬱」など、
いわゆる敏感な「心の感覚問題(病気とは言いたくありませんが・・・)」は
体験した者でないと分かりづらいものです。
なかなか、周囲の人間に「心の内情」を説明したところで、
理解されないのですね。
だから、「他者よ、もっと共感せよ!!」などと
押しつけがましいことなど言えませんが・・・
著者も、そのような「情念」があったのでしょうか?
最近大流行の「見えない権力?仮説」(本書129~138頁)や、
前にもご紹介させて頂いたレヴィナスの「他者の思想」(本書159~
169頁)で、その問題意識の「盲点」を突いておられます。
個人的にも、この本に出会う前から、こうした問題を考察しながらも
「違和感」を何かしら感じていたこともあり、奇しくも問題意識を共有しながら
読み進めることが叶ったのは、「偶然の一致」でした。
ところで、こうした「人間関係の基本原理」こそ最大のネックであることは、
誰しも共感出来るところでありましょう。
難しいのが、現代社会が「利害関係」に極限まで晒されることであります。
「利害関係」の維持が、「生計」にも関わり、敏感な人間にとっては、
耐え難い苦痛でもあるのです。
一番つらいのが、「普通の人??に出来ることが、普通に??出来ない」ことです。
単に「不器用」なだけで済む問題でもないからです。
昨日は、「多重人格」を「楽観的」な視点から論じられた著者を
ご紹介させて頂きましたが、
この「人格の切り換え」も「精神的基礎体力」を充実することさえ叶えば、
「何とでもなる!!」のかどうかも保証の限りではないので正直分かりません。
そこで、最近の社会風潮ともされる「承認欲求仮説」とも絡む
ヘーゲルの「自由の相互承認」ですが、その理念自体は共感出来ますが、
「少数者」の視点がいかにも欠けた「一般意志」(ルソー)的な意識も
見え隠れすると実感されるので、何となく「威圧感」を覚えるのですね。
とはいえ、現代「福祉」国家の理念を準備した哲学者とも目されるだけに
「賢人」ではあるのでしょうが・・・
著者も、「一般意志」的な「一般欲望」に警鐘を鳴らしつつも、
現代社会で生きる限り、こうした「承認欲求」を大前提とした「一般欲望」から
逃れ得ることは、相当困難な道であるため、
以下のようなアドバイスをされています。
『「一般欲望」とはべつに、自分はこのように生きよう、このような生き方を
したいという、自分<固有>の生の目標(欲望)を見出すべきだ』と。
(本書206頁)
つまるところ、本書のサブタイトルでもある「自分の意志を持つということ」で
ありますが、ただ「盲目的な意志」で本能に任せた生物的生き方をするだけでは、
「果てしのない生存競争」が待ち受けていることになります。
その殺伐とした「人間社会の原理」を少しでもマイルドにするためには、
「意志の働かせ方(志向性)」にも注意を向けた生き方を心がける必要が
ありましょう。
現代社会では、言うまでもなく、このような生き方は「損する人」に
なりがちですが、「得する人」が「幸せ」かどうかも分かりません。
「生き方」自体には、個人的な価値観がありますので、もとより押しつけなど出来ませんが、
「自由の相互承認」の「制約条件」についても各自考えて頂きたいテーマであります。
著者も、そうした問題意識で『人間が自由になるための条件』を哲学されています。
本書では、「精神障害者」の病気克服例も紹介されていますので、
悩んでおられる方には、ご一読の価値があります。(本書202~204頁)
「心の病」に罹患されておられる方だけでなく、
「人間関係の悩み」あるすべての方へ向けられた「愛あるメッセージ」でもあります。
イヤな感情などが湧いてきた際には、
自分の感情は「すべてファンタジー(錯覚・幻想)」として捉えてみる・・・
そして、論理的に「納得」してから症状が改善される(本書37~38頁)とされる
著者の事例も参考になるようです。
普段から物事を「理詰め」で考える傾向にある方ならお薦め出来る療法でも
あるでしょうが、「悪感情」も一種の「欲望」であるだけに、
「理詰め」だけですべて解決し得るかどうかは分かりません。
ともあれ、それなりの効果があることは間違いないことでしょう。
そこで、最後のまとめに入りますが、
「哲学的思考の芽生え」の時期は、やはり大多数の方にとっては、
「思春期」でありましょう。
この時期ほど、「人間的成長」にとって「精神の危機」を迎える時期も
他にないでしょう。
この時期を無難に乗り越えられたかのように見えても、
「思春期」の頃に「無意識」に残してきた「心の闇」は
そう簡単に消え去るものではありません。
ことに、親や先輩との厳しい上下関係や「いじめ」を体験された方、
何らかの「精神(肉体)的コンプレックス」を抱えられた方にとっては、
後々にまで響いてくる厄介な問題であるだけに苦しい体験であります。
こういった難題を「哲学的思考法」が力を貸してくれるかどうかは心許ないですが、
「悩み苦しむ=考え感受する力」を得る機会を人一倍与えられた人間は、
かなりの「人間的成長」を人生の後半期に体験されるとも言います。
そんなこともあり、この「思春期(14歳頃)」が、
「哲学」し始める機会としては、適しているのかもしれませんね。
「涙の数だけ強くなれるとも、必ず!!」
最後に、著者と友人の西研氏との会話から、
「人間は何のために勉強するのか」
「生き方を選ぶ自由を得るため」だと。
確かに「理屈」ではそうなのですが、
管理人は、もっと「場面」を拡げて、
そうした「生き方を選ぶ自由(機会)」すら「得られない」時のことまで想定した
「いつ・いかなる時でも、自分なりに納得出来るポリシーを貫き通すため」と
答えておきたいと思います。
「何があっても<逆境>にくじけない!!」とも言い換えることが出来ます。
「さあ、今度はあなたの考える番です・・・」
ちょっとまだ、「中学生」としては、難しい言葉も出てきて
取っ付きにくいテーマが、「哲学」かもしれせんが、
賢明なあなたなら「きっと、大丈夫!!」だと思いますよ。
ということで、本日はゴールデンウィーク最終末の金曜日でもあり、
精力を入れ、サービスしておきましたので、
また明日から元気だしていきましょう。
「中学生」だけではなく、「哲学」に興味関心あるすべての方に、
「哲学入門書」としてお薦めさせて頂きます。
なお、著者の別著として、
「はじめての哲学史~強く深く考えるために~」
(西研氏との共著、有斐閣アルマ、1998年)
※高校の倫理(現代)社会や政治経済、小論文対策の副教材として
フル活用出来る「わかりやすく、詳しい」教科書ですので、一押しです。
大学受験の「難関校対策」でも、一般教養科目の副教材としても最適です。
管理人も大学1回生の時に読んで以来、「座右の書」でもあります。
「よみがえれ、哲学」
(西研氏との共著、NHKブックス、2004年)
※「哲学」の初歩の「精神」を忘れた非生産的な議論を回避するために
有益な本です。
また、本文で触れさせて頂いた「自由の相互承認」について、
「人間的自由の条件~ヘーゲルとポストモダン思想~」
(講談社学術文庫、2010年)
さらに、「現象学」について、新書感覚でサクッと学べる話題の本。
「現象学は<思考の原理>である」
(ちくま新書、2004年)
※「現象学そのもの」の詳細な解説書ではありませんが、
「現象学的技法」を活用した「哲学的思考法」を
わかりやすく教えてくれる本です。
本当の最後ですが、「世界史」選択の学生さんにボーナスリンク!!
本書でもご紹介されていた高校教師である金岡新先生が開設された
「世界史特化型教育ブログ」が『世界史講義録』です。
前にもご紹介させて頂いた『もぎせか資料(ブログ)館』とご併読下さると、
断片的で無味乾燥な教科書的知識を乗り越えることも叶い、
「成績アップ間違いなしっ!!」
最後までお読み頂きありがとうございました。
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