ヘレン・ケラー女史の「奇跡の人の奇跡の言葉」闇の世界に光を与えてくれた『私の宗教』を読もう!!
「奇跡の人の奇跡の言葉」
視聴覚障害者であったヘレン・ケラー女史が
生き抜く勇気を得た背景には、『私の宗教』がありました。
その宗教者とは、イエス・キリストと
エマヌエル・スウェーデンボルグです。
現代社会では、意識して生きていかないと、
表層面をなぞる人生だけで一生を終えてしまうことにも
なりかねません。
そして、光だけではなく、「闇」も意識して生きる。
今回は、この本をご紹介します。
「奇跡の人の奇跡の言葉」 (ヘレン・ケラー著、高橋和夫・鳥田恵共訳、H&I、2006年)
ヘレン・ケラー女史(以下、著者)は、言わずと知れた
アメリカの視聴覚障害者で、世界中の多くの人々に
生き抜く勇気を与え続けてきた著名人であります。
子ども時代に、一度はその『伝記的読み物』を
読まれたのではないでしょうか?
著者は、「障害者」としての人生を、
単に「障害者」として生きるのではなく、
自らの「試練」として受け止められながら、
その苦難の連続であったであろう一度限りの人生を
懸命に生き抜かれました。
そこには、「障害者」としての視点だけに止まらない
「人間」としての「普遍性」があります。
本書は、そんな著者を陰に陽に支え続けた「もう一人の先生」に
ついて紹介された本であります。
その名は、エマヌエル・スウェーデンボルグです。
「神秘主義思想家」として、オカルトや「精神世界」系に
詳しい方ならご存じだと思われますが、
きわめて真面目で天才肌の「科学者」でもありました。
エマヌエル・スウェーデンボルグについては、本文でも
折に触れてご紹介させて頂きますが、何はともあれ
視聴覚機能を喪失し、「闇」の世界から人生を始めざるを
得なくなった著者の「精神的指導者」でありました。
そして、このエマヌエル・スウェーデンボルグとともに
著者の心を支え続けてくれた「宗教者」が、イエス・キリストでした。
本書は、このエマヌエル・スウェーデンボルグ流解釈に基づく
聖書解読を通じて得たキリスト=神(愛)解釈を、
著者が『My Religion(私の宗教)』と題して
47歳の頃(1927年)に執筆出版された「全訳」とのことです。
日本では、ほとんど知られていないエマヌエル・スウェーデンボルグ思想の
片鱗と著者の人生における背景思想を知る手引きとしても最適であります。
著者が、本書から得た「光の叡智」こそ、人間として「いま・ここに」
「闇」を背負って否が応でも生き抜かざるを得ない「すべての人間」に
対する「応援メッセージ」であります。
私たちが、日々「この世界」に投影している見方も、
「心の内面」を映し出しているものに他なりません。
ものの見方(見る=<心>で理解すること)や感じ方を
ほんの少し変えてみるだけでも、景色は一変します。
そのためには、「光=明るい側面」だけを追求するのではなく、
「闇=暗い側面(心の不安感覚など)」に対しても
真正面から向き合うことが必要です。
人間は、誰しも(管理人もですが)どうしても「光」だけを求めて
生きることさえ叶えば、「幸せ=自由になる!!」などと考えがちですが、
本書を読み進められるにつれ、そうした考えが
物事の「表層面」だけをなぞる近視眼的な視線にすぎないことに
気付かされることでしょう。
そして、本書の読了後には、「この世界」に
少しずつ変化が生じ始めている事態にも一驚されることでしょう。
ということで、皆さんにも著者からの人類へのプレゼントである「光の知恵書」を
お裾分け(ご紹介)させて頂くことで、それぞれの人生に輝きを取り戻して頂ける
ヒントになるのではないかと、この本を取り上げさせて頂きました。
「奇跡の人」とは、この世の「真実」に気付いた「すべての人」のことです!!
「奇跡の人」と言えば、今秘かに話題となっている
『奇跡の人』(NHKBSプレミアムドラマ、毎週日曜夜10時~)という
現在放映中のテレビ番組にかこつけて本書をご紹介させて頂いている
訳ではありませんが、たまたま本番組も「ヘレン・ケラー女史」や
家庭教師であった「サリヴァン先生」のエピソードが
ドラマの底流を支えているアイディアであるとのことでしたので、
ここで取り上げさせて頂いたまでです。
そのことはともかく、この番組でもそうですが、
視聴覚機能を喪失された方にとっては、
「この世界」を「闇」とともに生き抜かざるを得ません。
本当に想像を絶する世界を生きることになります。
管理人にとっては、まさに「想像を絶する」世界であるため、
その本質的体験談を綴ることなど、到底叶いませんで、
「想像」の域を出るものではありません。
ですので、「身体」感覚としての「喪失」体験を語ることは
難しくなってしまいます。
とはいえ、管理人も視力が弱く、今後どのような事態が
待ち受けているかもわかりません。
また、「身体」面ではありませんが、「精神」面での
「喪失」体験なら幼少期から経験してきましたので、
そのことなら多少は語ることも出来、皆さんのお役に立つことが
叶うかもしれません。
さらに、たとえ物理的に貧しい状況やその他どのような苦難の境遇に
陥ろうとも、「何としてでも生き抜く!!」との決意と自覚がありましたので、
幼少期からヘレン・ケラー女史やマリー・キュリー夫人などの
伝記には励まされてきたものです。
そんな心理的生活環境から、「奇跡の人」と称されている
著者ヘレン・ケラー女史には、興味関心を抱き続けてきたのです。
とはいえ、管理人の著者に関する知識は、大多数の方々と同じく
子ども向け伝記のレベルを超え出るものではありません。
その後、人生遍歴を繰り返してきた過程で、
再度、著者の「心」に触れることが叶いました。
「奇跡の人」ならぬ「奇跡の縁」ですね。
やはり、人間には、「しかるべき時に、しかるべき所で」、
「出会うべくして出会う!!」という不思議な世界があるようです。
そんなこともあって、管理人も「不思議」の世界は大好きです。
かといって、信憑性や生活体験感に欠けるような軽薄なオカルトや
いわゆる「精神世界(ニューエイジ)」系には、
あまり興味関心を持っていません。
多分に、世の大多数の方々が実感されるだろうことと同様に、
「ミーハー」的な関心ならありますが・・・
ただ、もっと「学問(理知)」的に研究考察しないと
どうも納得出来ない性格のようです。
つまり、管理人が興味関心あるのは、前にもご紹介させて頂いたような
「学問」や「科学」として考察していく「超知的世界観」であります。
加えて、「体感」で確認出来ないような「学問(理知的解決)」も
今ひとつ信頼することが出来ないことから、
「直感(霊性)的解釈」にも興味関心があるわけです。
このことが、管理人の「法学」人生と決別する直接的原因にも
つながっていったようですね。
「身体」が敏感に反応したようで、長期に渡った「抑鬱状態」が
ある種のセンサーを果たしてくれたようです。
「それ以上、そっちの方向に進むと危険だぜ!!」・・・と、
「天の声??」が聞こえてきたようです。
最近は、ようやく「長い曇り空」から少し「晴れ間」が出てきたようです。
皆さん、応援して下さいまして、本当に有難うございます。
本書の主人公エマヌエル・スウェーデンボルグもそんな一人だったようです。
彼は、17~18世紀の人でした。
ちょうど、時代は「近代啓蒙主義の幕開け」から繁栄期へと向かう
真っ只中にありました。
それは、一般的に「理性の時代」といいます。
しかし、この「理性の時代」も、本書によると、
スウェーデンボルグにとっては、「陰鬱な時代」だったようです。
「天才」の「天才」たる所以は、当時まで支配していた
世の一般的な「宗教」や「科学」的解釈に、「人間」として
物足りない点を直感的に把握し得たからでしょう。
著者によると、『彼はこの世の孤独以上に深刻な孤独を
味わっていたのだと、私は考えないわけにはゆきません。
彼にとって、この世界はよそよそしく思われたことでしょう。
なぜなら、彼はすでにこの世界からはみ出してしまっていたのですから。
(以下、省略)』(本書23頁)と。
著者自身が、「体感」で「光=視覚」と「音=聴覚」の世界から
完全なる隔絶感を味わわされていたために、
こうしたスウェーデンボルグの「心の声」を聞き取ったようです。
このように世間一般的な意味での「啓蒙主義=理性感覚重視時代」も
彼にとっては、何か「心=愛」が欠けた時代精神のように
思われたのでしょう。
とはいえ、彼自身「科学者」でもあり、こうした「霊界探索(研究)」に
ついても、冷静に見ることの出来る「合理的知性」を持ち合わせていました。
この「近代啓蒙主義」の黎明期には、まだ「宗教」と「科学」の双方に
またがる領域を総合的に考察することの出来る人物が数多くいたようです。
「謎解きなら、何でもやってやろう!!」と・・・
ニュートンなどもそうした一人で、「錬金術」研究の方が
半ば「本業化??」していたといったエピソードもあるようです。
ですが、中世以来のキリスト教会的価値観が、
徐々に薄められつつある時代にあったとはいえ、
まだまだ「異端派」扱いされるような風潮も残っていたようです。
「異端派」というのは、あくまでキリスト教の「主流教義解釈」から
見てのことですが、スウェーデンボルグもそのような観点から、
「特異な目」で見られていたようです。
ただ、知的に優秀なだけではなく、独特の「感性・霊性」を
お持ちだったようです。
「<この世>と<あの世>を行ったり来たり・・・」
「死者と戯れることが出来る!?」・・・
そんな「超知感覚」があったといいます。
こういったところには、管理人も興味関心があるのですが、
それは例えば、「変性意識とは、どのような心理状態なのか?」
といったことや、その「信憑性の確かめ方」などの問題です。
「スウェーデンボルグの思想」そのものについては、現時点では
管理人もよく飲み込めていないところがありますので、
この点は、訳者である高橋和夫氏の解説書のご紹介など兼ねて、
いずれまた考察分析してみたいと考えています。
ですので、今回に関しては、著者のスウェーデンボルグ理解と
著者自身の人生に影響を及ぼした点に絞らせて頂きます。
詳細は、本書をご一読下さいませ。
いずれにせよ、著者ならずとも、私たちは、「この世界」を
それほど明解に理解仕切れているわけではありません。
「この世界」の一端を垣間見ているだけなのでしょう。
だからこそ、あまり、管理人も偉そうなことは言えないのです。
また、人間心理から「この世界」を眺めると
「わからないことだらけ!!」でもありますので、
どうしても不安感など「心の闇」部分を表社会に投影してしまいます。
こうした人間原理の限界があるために、「光」だけを追求しがちですが、
著者の考えに親しみを込めながら、ともに分析考察していくと、
私たちも「この世界」の一部分すら十二分には理解し得ていない、
もしくは、理解することすら絶望的に困難だということを自覚せざるを
得ません。
ともあれ、こうした感覚と理解を共有するだけでも、
「奇跡の人」への道は、誰にでも開かれています。
そのためには、「闇」と同居しながらも、「光」とともに
歩み続けなければなりません。
この「闇=影」との具体的な対話法については、
前にもご紹介させて頂きましたので、是非そちらの本を
お読み頂くこともお薦めさせて頂きます。
まとめますと、こうした感覚に少しでも馴染むことが叶えば、
あなたも「奇跡の人」の仲間入りを果たすことが出来るということに
なります。
「絶望」と「希望」は、表裏一体の関係ともいいます。
こうした「陰」と「陽」の二面性や「言葉」や「世界」の多義性を
見る(理解する)だけでも、今までとは違った「この世界」が
現れ出てくることでしょう。
たとえ「一切の所有物」を喪失しても、「いのち」ある限り、いくらでもやり直せるのよ!!
著者は、幼くして視聴覚機能を喪失された方です。
その著者が、「言葉」を覚える過程では、
壮絶な「心の葛藤」があったともいいます。
サリヴァン先生もまた、何らかの障害を抱えておられ、
著者への理解力もあったといいますが、それでも「人間」です。
その教育や日々の生活指導では、子ども向けの無難な美しい物語で
包まれた「伝記」には、とても記載出来ないような事例も
多々あったことでしょう。
それでも、二人の関係が続いたのも、結果的な成功事例から
見るだけでは、表層的な理解にしか至りません。
著者の生き様を見ていて感じたのは、「人は見るレベルによって、
まったく感じ方が異なる!!」という当たり前の「真実」でありました。
「心を開く=愛する・愛される」関係は、言うほど簡単ではありません。
それでも、結局は、「この世界」は、「人と人」あるいは「人と事物」に対する
信頼感がないと成り立たないようになっているようです。
著者は、イエス・キリストやスウェーデンボルグなどを通じて「神」の存在感を
つかみ取られたようですが、「神」という言葉に違和感を覚えられる
大多数の「近現代人」にとっても、「何かを信じている」からこそ
「生きている」という「真実」だけは変わりません。
管理人は、基本的に「神=仏=サムシンググレイト」何でも構いませんが、
「この世界」だけではなく、「あの世界」を一貫する「自然の摂理=法則」は
信じているつもりです。
特に、「<光=愛>が<時空>をも貫く」とのイメージには、
親しみを感じています。
このテーマもまた、後日あらためてご紹介させて頂く予定でいますが、
おそらく「絶望とともに希望」をもって「生き抜く知恵」としては、
こうしたイメージ像もお役に立つのではないかと考えています。
物理学の世界観でも、最近は「宇宙論」の立場から「神秘」を
「合理的に解釈」する見解が、様々な学者によって提唱されているようですが、
「価値観=世界観」の問題は、最後は「自分」で選び取らなければなりません。
その「決定」とは、まさに「確信」の問題であります。
日頃、「信仰心」などないと考えておられる方でも、
「死」を目前に控えては、この「信仰問題」を一度は解決しておく姿勢を
持たないでは、安心して「死にきる」ことすら叶わないのではないかと
思われます。
それを逆の観点から、照射し直すと「生ききる」ためには、
どのような「志向性」を持って、「この世界」を生き抜けば良いのかという
最重要テーマであります。
「本当に、私たちは、<この世界>の一部分すら見ていないし、聴いていない」で
「いま・ここに」います。
ここで重要な視点は、「時間を所有すること=生きること」ということです。
しかし、私たちは、とりあえずの「間に合わせ」の人生で
何とかやり過ごすことで必死なのが現状であります。
下手をすると、一生涯この最重要テーマに気付かないままに、
あるいは、克服し得ないでいる間に、
その短い生涯を終えてしまうことにもなりかねません。
そんな「刹那」的な人生をきれいに洗い流し、
「生まれ落ちた原点」へと連れ戻してくれるヒントを与えてくれるのが、
本書であります。
「思考=記憶」だと、著者は自らの「体感」で経験されたといいます。
この問題と無理矢理こじつけるわけではありませんが、
本日のNHK大河ドラマ『真田丸』でも、「記憶喪失」に関するテーマが
たまたま一致していましたので、語らせて頂くことをお許し願えるなら、
「記憶喪失」状態から目を覚ますのも、
「思い出=記憶」に頼らざるを得ないという実情でした。
「昔の<懐かしい>思い出話」が、特に「記憶回復」に力があるようでした。
こうしたドラマでの設定場面における心理描写が、
今現在「記憶喪失状態」で苦しまれておられる当事者や
ご家族の方に、お役に立つかどうかは心許ないことですが、
もし本当に少しでもお役に立つことが叶いますれば、
是非ご活用下さいませ。
「認知症」にも役立つかもしれません。
ところで、著者自身の「言語観」では、
「言葉=思考のシンボル」とのことでしたが、
私たち「五体満足」な人間からは、「言葉=意味」と直接的な知的理解を
するようです。
ために、管理人も含め、
「言葉」の背後に隠されている「イメージ=思考のシンボル」を
どうしても見落としてしまう「盲点」が生じてしまうようです。
とはいえ、少し落ち着いて反芻してみると、「言葉」を発する前に
「イメージ」があることをすぐに気付くことも「真実」であります。
そんな普段の忙しい生活環境の中で、ついつい見落としがちな「盲点」から
再び「真実」の世界へと連れ戻してくれるのが、著者の「心眼」であります。
著者は、この「真実」の世界に触れた時に、「虚無感=絶望感」から
抜け出ることの叶った深い歓びを味わったといいます。
「障害」のあるなしに関わらず、管理人を含めて誰しも
「見落とし(欠点とは言いませんが・・・)」はあるものです。
その「見落とし」に気付くところから、人生における貴重な時空感覚も
取り戻すことが出来るのでしょう。
私たち現代人は、とかく生計の「手段」に目が行き届いてしまいますが
(もちろん、当たり前ですが、大切なことです。)、
日々の「働き=仕事」を人生の「目的」に照らして反省する機会は
少ないように見受けられます。
とはいえ、人間は「自分一代限り」の人生だけを生きているのでしょうか?
そのことを、しかと皆さんにも感じ考えて頂きたいのです。
これは、管理人とて同じことです。
何も「上から目線」で「出来ないことをやれ!!」などと、
説教しているわけではありません。
ちょっとした視点をずらすだけで構わないのです。
いつも語っていますが、人間誰しも「いま・ここで」それぞれが、
「出来る範囲」で集中することしか出来ないのですから・・・
あれもこれもと「欲」を限りなく持ってしまうところから、
人生の時々を「集中」することが出来なくなってしまうのでしょう。
著者によると、この「生きる歓び」こそ「いのち(生命)」だと語っておられます。
このことに気付くことさえ出来れば、たとえ人生の時々で「一切の所有物」を
喪失することになるような「逆境」にあろうと、「いのち」さえあれば、
またいつかやり直せるのです。
だから、絶対に諦めず、何が何でも生き抜いていて下さいね。
生き抜くことさえ叶えば、必ず「また日は昇る」時節も到来することで
ありましょう。
著者も、「すべての人は甦ることができる」というエッセー
(本書130~138頁)で、そのことを強調されています。
汲めども汲めども尽きない「いのちの泉」が、「奇跡の人」ヘレン・ケラーの
言葉ですが、最後に著者の言葉を引用して筆を擱かせて頂きます。
『(スウェーデンボルグは、)どんな出来事やどんな障害の中にも選択の機会が
あり、選択は創造であるということを私たちに説いているのです。私たちは、
試練を自己破滅へと方向づけることもできれば、逆に試練を善のための
新しい力へと転換することもできます。』(本書201~202頁より)
「障害」とは何か特別なものだと考えられているのが、一般的ですが、
人生には、自ずと「障害」が立ちはだかるものであります。
それは、きっと、それぞれの人間に深い「気づきの機会」を
与えるためでしょうし、「愛の具体的感覚」をつかませることによって、
「生きることの意味」を体感させるためでありましょう。
しかも、「障害」の具体的中身は、各人各様で異なります。
それぞれの人生の課題を与えられることで、「自分にはない他者」及び
「他者にはない自分」との協力関係を築き上げることで、
「具体的な愛」を「この世界」に少しずつ広め、
各人の死後も「記憶」として残されていくことになります。
だとすれば、相互協力する他に「生きる道」はないではありませんか?
ということで、本書は、「奇跡の人」ヘレン・ケラーが
「障害」を通じて得た貴重な「奇跡の言葉」ですので、
皆さんにも是非深く味わって頂きたくお薦めさせて頂きます。
なお、スウェーデンボルグについては、
「神秘家列伝 其ノ壱」
(水木しげる著、角川文庫、2010年)
※漫画で読める「スウェーデンボルグ伝」です。
また、ヘレン・ケラー自伝については、
「奇跡の人ヘレン・ケラー自伝」
(ヘレン・ケラー著、新潮文庫、2004年)
をご紹介しておきます。
※他にも、子ども向けにアレンジされた
「わかりやすい」伝記作品が数多くありますので、
お子様のいらっしゃる親御様は、
是非お子様と語り合いながら「人生の意義」について
ともに考えてみてはいかがでしょうか?
お子様とともに考えることで、子ども時代の視点とは
また違った「深読み」も出来るのではないでしょうか?
最後までお読み頂きありがとうございました。
sponsored link
[…] 前にも当ブログでご紹介させて頂いたヘレン・ケラー女史の […]
私も不思議に「奇跡の人の奇跡の言葉」に出会い、ヘレン・ケラーの生き方とその言葉を深く心に止めています。
大山国男様
人生の貴重なお時間をお割き頂いて、
当ブログへのご丁寧なコメントを頂き、誠にありがとうございます。
早速ですが、大山様のブログ『良い本を電子化して残そう』
(http://blog.goo.ne.jp/goodbook_1949)を拝見させて頂きました。
それによって始めて、ヘレンケラー女史の人生と哲学思想が描かれた
映画『ヘレンケラー 輝ける魂』を知ることが叶いました。
貴重な情報を賜り、ありがとうございました。
ところで、私は、社会一般的なイメージ・定義における
いわゆる「障害者」ではありませんが、
子供の頃から、ちょっと変わった性格というか
極端な集中力と拡散思考癖!?とでもいうのか
そうした心の双極的揺れ動きで悩み続けることがよくありました。
そんなことで、周りから「博士」などと揶揄されたり、
「使いっ走り(若者隠語として<パシリ>」にされるなどの激しいいじめを
思春期の中学生時代に受けたりして、
家族にも相談しにくい悩みが過去にはあったのです。
そんな時節に心の糧となったのが、ヘレンケラー女史や山下清画伯などの
ユニークな「個性(私は、<障害者>などとは思いませんが・・・)」でした。
おかげさまで、この時期に「命」を絶つことなく、今日まで生き延びることも叶い、
そして、今後とも「天寿」を全うするまで何としてでも生き抜こうとの意志を
再び取り戻すことが叶いました。
その時に受けた「心(魂)の傷」は今なお完全には癒えておらず、
人生を積極的に過ごしていくうえで、
行動面における「心の壁」にもなっているようです。
今後の人生課題は、この「心の壁」をいかに乗り越え、
この個人的な歩みから得られた知見を、
同じような悩みで苦しみ続けておられる多くの方々にも
いかにしてお裾分けすることが叶うかだと決意を新たにしている途上であります。
このような優れた方々の知見こそ、教育に活かし、一人でも多くの
かけがえなき「いのち」を救済すべきだと思われるのですが、
悲しいかな、現代でも、まだまだ心の「闇」を深くするばかりの偏向教育にあります。
そうした個人的教育批評はともかく、
幸いにも、良き書物や師匠、友人知人をその後の人生過程で得ることが叶い、
また家族の温かさによって、少しずつですが、本来の自分(魂)の赴く歩み方を
取り戻すことが出来るようになりました。
とはいえ、上記ブログでも言及されておられました問題意識とも
重ね合わせて、私見を語らせて頂くことをお許し願えるならば、
現代経済の表向き宣伝は、「心の時代」などと謳われつつも
その「心」自体を、人々の「不安」につけ込んで売りさばくような
悪質商法が後を絶ちません。
ですので、現代の過酷な経済社会の中で、安定した生活基盤の下、
後顧の憂い無く、自らの「魂」を信じながら、
その「魂」に忠実に自ら「考え・感じ」歩み続けることは
大多数の方々にとっても、困難きわまりない「誠に変な」時代だと思われるのです。
一方で、「心」や「魂」、「意識」など
「目に見えない一見しただけではわかりづらい」世界を扱った好著を扱っただけでも
十把一絡げに「オカルト・精神世界(ニューエイジ系)」などとも批評されるなど
真摯に語り合う機会すら剥奪されかねない世の中であります。
現代科学の最先端では、すでに「心ある」科学者の間では、
「意識」に向けられた意欲的な知的探究が進められていますが、
まさにそのような「天才」ですら奇人変人扱いされるなどして、
まだまだ世間一般的な評価では、「敬して遠ざけられる」ような状況に
あるとも聞きます。
そうした両極端な世情でありますから、
私の知的探究の立場からも、「科学とニセ科学」の違いなどにも配慮しながら、
私の心の琴線に触れた多種多様な好著を取り上げさせて頂いているのですが、
書評と並行して行っている私自身の在野研究でも、
勉強すればするほど厳密な区分けなど出来るのか否かが
よく分からなくなってきたのです。
私自身の仏教哲理などにヒントを得た「科学と心理学」の<あいだ>を探究考察する
生涯のライフワークである仮称<唯識物理学(心理学ではなく=この方面の著作は
すでに数多く研究出版されているようですので・・・)>の創建に向けた
在野研究を続けながら、
この問題の取り扱い方を巡った科学「哲学」にも目配せして取り組んでいるのですが、
論者によって、それこそ、量子力学の多世界解釈のように錯綜しており、
よけいに知的混乱に拍車がかかるようで困惑しているのが正直なところです。
ついでながら、唯識「物理学」のイメージは、
「超」時空軸を取り入れたこれまで得られた
人類の壮大な科学的知見も加味して分析考察しながら、
新たな「心」を「再」創造していく
「過程(物理的+心理的構造)」に着目する学問であります。
とはいえ、その「方法論」で悩み続けているのですが・・・
そうした志向性をもった知的探究から、勇気をもって明るく人生に臨まんと
意欲し得ることの叶う実際上の効用を伴わせるところに
私の考える学問の究極目的があります。
このような常日頃の問題意識からヘレンケラーや南方熊楠、福来友吉博士など
世間からは「異端」扱いされた賢者の書物も
個人的に蒐集しながら読ませて頂いているのですが、
こうした優れた書物ほど、今日なかなか手に入りにくいようですね。
現代の商業経済出版文化こそ、わが国だけでなく、
世界的な知的文化環境を「後退」させてしまうような元凶にもなってしまっています。
それは、表向きの経済では、
まさしく「目に見えるわかりやすい」即物的・俗物的テーマでしか
金銭評価し難いとの難題や矛盾を抱え込んでしまっているからだと思慮します。
ただ、21世紀に入り、急激な勢いで情報通信「革命」も進展してきたことから、
今までの「表」経済社会では入手困難だった希少価値の高い書物も
比較的「安価」な値段で入手しやすくなったことは有り難い傾向です。
大山様の「電子書籍」志向もそんな問題意識に支えられているのではないかと、
恐れながら、忖度します。
誠に有り難い心の友(同志、同好の士)を得られたようで、
このたびの出会い(ネット上のみの縁だというところが心苦しきところですが・・・)に
感謝申し上げる次第です。
そんな志にも報いることが叶うように、
私も研鑽して参りますので、どうか今後とも温かくお守り頂ければ幸いです。
今後とも大山様のご活躍とご健勝をお祈り申し上げています。
また、様々な角度からご教示を頂ければと願っています。
ありがとうございました。
<双龍天翔>管理人こと浪速仙人がっきーより愛を込めて・・・