高橋和夫先生の「スウェーデンボルグの思想」科学から神秘世界への探究を目指した極北の天才に学ぶ!!

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「スウェーデンボルグの思想」

高橋和夫先生による「極北の天才」

エマヌエル・スウェーデンボルグに関する入門書です。

ヘレン・ケラーやゲーテなど錚々たる偉人に

多大な影響を与えた巨人に、

現代学問の知的限界を突破していく姿勢を学びます。

現代社会は、明るい理性の時代といわれます。

それでは、なぜ日々の世界には、暗い闇が侵入してくる場面に

遭遇するのでしょうか?

今回は、この本をご紹介します。

「スウェーデンボルグの思想」(高橋和夫著、講談社現代新書、1995年)

高橋和夫先生(以下、著者)は、わが国における

スウェーデンボルグの思想研究の第一人者です。

ご専門は、哲学・宗教学です。

前にも当ブログでご紹介させて頂いたヘレン・ケラー女史の

『奇跡の人の奇跡の言葉』の共同翻訳者でもあります。

前回記事の本文中で、予告させて頂きましたように、

今回は、ヘレン・ケラー女史に多大な影響を与えた

エマヌエル・スウェーデンボルグに焦点を当てて、

分析考察していこうと思います。

日本では、あまり一般的には知られていないスウェーデンボルグですが、

これほど誤解され続けてきた巨人もいないようです。

現代の理性(知性)では、スウェーデンボルグの人生後半期における

神秘思想家としての顔だけがクローズアップされており、

本来の「科学者としての顔」は忘れ去られてしまっています。

世の中には、ごく一部分の変わった思想遍歴だけを見て、

人間の全体像を見ない「木を見て森を見ず」の知識人が多すぎるように

感じられます。

そんな現代知識人の視点の偏りに猛省を促す「知の巨人」が

スウェーデンボルグであります。

日本なら、さしずめ南方熊楠先生のような極北の天才でしょうが、

21世紀現在のアカデミズム環境を鑑みるに、

あまりにも細分化・分業化してきたことから、

視野が狭まっているようにしか思われません。

かえって、公的学界に束縛されずに、自由な視点で

研究し続けることの叶う民間の在野研究者には

魅力的に映る「知の巨人」がスウェーデンボルグであります。

現代日本のアカデミズム環境でも、上記のような反省から

学際研究が奨励されるようにはなってきたようですが、

様々なしがらみもあって、今ひとつ現状の打開には

結びついていないとも聞きます。

スウェーデンボルグの生涯については、

上記の前回記事末でもご紹介させて頂きましたように、

故水木しげる氏の『神秘家列伝 其ノ壱』の巻頭に

詳しい描写がなされています。

本記事末における参考文献ご紹介欄でも、

後ほど数冊列挙させて頂く予定ですが、

お忙しい一般人向けとしては、この漫画本が一押しであります。

さて、このような現代でも人物評価の定まらない「知の巨人」ですが、

この天才の生涯を観察することで、現代学問の知的限界や、

それが映し出された現代社会の矮小さ・脆弱さへの猛省を促す姿勢を

謙虚に学ぼうと、この本を取り上げさせて頂きました。

科学と神秘をかけ渡す思想から壮大な世界観を構築していった 天才スウェーデンボルグ

さて、そんな現代学問の知の最前線では、

何かと誤解もされている人物がスウェーデンボルグであります。

また、スウェーデンボルグ自身は、幼少期から敬虔な

キリスト教徒だったようですが、

キリスト教会の公式見解からは、

かけ離れたキリスト(教)理解だったこともあり、

現代に至るまで、あらぬ「異端尋問」にかけられてきた悲劇的天才でも

あります。

彼の性格は、非常に純粋かつ繊細だったようです。

そのような性格でしたから、

既存の社会的枠組みには満足し得ない世界観へと

自然に導かれていったようですね。

管理人も「科学と神秘の接点(結び目)」をライフワークとして

研究させて頂いていますが、こうした諸学問の統合は、

現代の社会(学問)事情では、「狭き門」であります。

このような「科学と神秘の接点(結び目)」という表現だけでも、

今日では、胡散臭い目で見られることになってしまいます。

もちろん、管理人も、純粋な学問とオカルト(精神世界)やニセ科学との

区別には、良心的な研究者同様に、目を光らせています。

その点は、また後日あらためて、別著のご紹介を兼ねて、

今後とも幾度となく、ご紹介と分析考察させて頂く予定であります。

とはいえ、堅実かつ漸進的に歩みを続けてこられた科学者なら

薄々実感もされてこられたでしょうが、

現代の知の最前線では、

「科学(物理学)と神秘(心理学)の接点(結び目=哲学)」が、

最重要テーマとなってきています。

ですから、先にも触れさせて頂いた公式アカデミズムの現状は、

あくまで平均的研究者のイメージ像であります。

こうした閉塞した公的アカデミズム環境の下でも、

良心に照らした真理探究をされておられる研究者こそ、

「サイレント・マジョリティー(物言わぬ大多数)」でありましょう。

そのようなアカデミズムで、肩身の狭い思いを抱いておられる

研究者への応援も兼ねて、当ブログでは、書評させて頂いています。

「神学論争」については、管理人は、ごくごく普通の「ごちゃまぜ信徒」である

日本人ですから、あまり深く立ち入った解説には興味関心がありません。

ただ、諸宗教の「長所」のみに重点を置きながら、

その知恵から謙虚に学びたいと考えている者であります。

よって、「なぜ、宗教が狂信的になるのか??」についても

敏感な問題意識をもって、眺めています。

管理人が、「価値観」の強要・被強要について敏感なのも、

この「狂信化が、世界と人間を滅亡させる」ものと確信しているからでも

あります。

学問は、もちろん「真理」探究の方法論でありますが、

「真理=絶対(普遍)」という「価値観」は、

すでに崩壊しています。

「唯一」ある「確実」な「真理」ではなく、

「汲めども汲めども尽きない泉のごとく

湧き出てくる源(真理)」から一粒一粒したたり落ちてくる

「泡」が、「仮説」であり、この世界に生起する諸現象の

一端(ある側面のみを映し出した鏡)だと考えるのが、

現代科学(だけではなく、哲学を始めとする諸学問)の

共通見解となってきています。

とはいえ、人間というのは悲しいものですが、

その「ある側面」だけに満足できないところがあります。

それが、「心(識=意識・無意識の<識>)」の世界でありましょう。

何らかの志向性をもった世界観の「統合」なくしては

心理的に不安になるからです。

言い換えますと、「人間」は、決して「個体」だけに束縛された

「バラバラな身体限定的存在ではない」からであります。

「人間」は、この世では、「肉体」を媒介としながら、

「知性(理性・悟性)」や「霊性(直感)」に触れる体験をします。

この「肉体」が、「拘束衣」となって、

識別感覚も「限定」されてしまうようです。

そうしたことは、長らく人類の超知的体験感覚からも明らかだとは

思うのですが、近現代の「知性」は、こうした壮大な世界観の

一部分だけを切断して、「分析」考察してきました。

ですから、私たち「現代人」の視野は、限りなく狭いものだと

謙虚に自覚することから、再出発しなくてはなりません。

学問も、このような謙虚な姿勢で学び続けないと、

単なるこの世だけで評価される「属性(立身出世などの道具手段)」に

成り下がってしまいます。

残念ながら、現代人には、そのような姿勢で、学問を捉えている方が

多いようですが、

本来の学問とは、「心」安らかな世界に悟入するための

実践手段であるはず・・・

管理人などは、そのような問題意識から、

学問を愛し、「この世」における狭義の世界観に拘束されずに、

「あの世」も含めた広義の世界観の再構築(統合)を志向した

生き方を学問を通じて展開していきたいと願っています。

このように、「この世」と「あの世」などと表現すると、

いかにも「オカルト(精神世界)」や「宗教」、「ニセ科学」と

イメージされて、管理人の知的姿勢もスウェーデンボルグ同様に

「誤解」もされてしまいますが、こうした壮大な世界観自体が、

「いま・ここに」肉体を通じて生きている「人間」にとっては、

認識不可能であります。

認識しようとあがいても、せいぜいが、言葉を媒介とした「想像の域」にしか

入っていくことが叶いません。

スウェーデンボルグも、あくまで生真面目に「霊界研究」を

科学的視点(つまり、言葉を介して)をもって取り組んでいましたので、

そうした誤解も絶えずつきまとっていたといいます。

また、当時(現在も)の宗教界のしがらみから、

受難を受けたともいいます。

特に、スウェーデンボルグ自身は、直接的な「心霊降誕」を体験し、

その詳細例を、数々の神学著作集にて表現されたために、

管理人を含めた「常人」には、なかなか理解が及びません。

このあたりが、管理人の限界でもあり、スウェーデンボルグによる

「神学研究」に対する理解困難さにもつながっています。

その「神学研究」の成果については、

本書での「簡にして要を得た」詳細な解説に委ねさせて頂きますが、

いずれにせよ、スウェーデンボルグの思想には、

「科学と神秘の接点(架け橋)」を目指したところに魅力があります。

ここで、本書の内容構成の要約をしておきますね。

「第1章 科学者としての出発」

スウェーデンボルグの思想の原点には、

「科学者としての目」があることが強調されています。

スウェーデンボルグの生きた時代は、18世紀ですが、

現代の最先端「宇宙論」や「脳科学論(大脳観)」の先見性も

反映されていたといいます。

18世紀には、現代と異なり、

まだまだ「ビッグ」な世界観を探究する学問姿勢が中心だったようです。

すでに、18世紀にもなれば、デカルトからカントに至るまで、

近代啓蒙主義の洗礼を受けた時代にありましたが、

スウェーデンボルグは、そうした知の巨星を横に見つつも、

独自の問題意識で、近代科学およびその限界を乗り越えようと

努めていたようです。

「第2章 霊へのめざめ」

※このようなスウェーデンボルグですから、

霊界探究の旅も、まずは科学的な視点から、

「解剖学」や「生理学」の思索結果を取り入れつつ、

「心理面(意識や無意識といった角度)」から

霊界探索へと目覚めていったといいます。

その意味では、段階を踏まえた学際研究の道だったようです。

とはいえ、現代心理学の主流「霊魂なしの心理学」の限界をも

超越しようと、独自の「心霊学」の世界へと没入していくことに

なります。

このきっかけには、スウェーデンボルグ自身による

特異な心霊体験があったといいます。

そのハイライトが、イギリス・ロンドンでの「召命体験」だったと

いいます。

「第3章 その霊的世界」

※スウェーデンボルグが描き出した霊界探索の詳細な知見については、

本書をご一読されることに委ねさせて頂きますが、

その霊的世界観では、幾層もの多層構造になっているそうです。

霊界のことですから、もちろん「肉体」に拘束された「この世」とは

異なり、「肉体」といった限界はありません。

あるのは、<識>のみ・・・

その<識>の志向(次元)性(精神世界系の方なら、ここで各人各様の

好みに応じた霊的階層へとチューニングを合わせる!?などと表現されるの

でしょうが・・・)次第で、「天国」とも「地獄」とも移り変わると

スウェーデンボルグは考えていたようです。

「第4章 「創世記」を読み直す」

※「創世記」は、言うまでもなく、

「旧約」聖書の「天地創造」場面を描いた箇所ですが、

この場面を、「肉体(欲望意識の高い)」をもった

「この世」に生きる人間から「肉体を脱ぎ捨てた(欲望意識を

抑制することの叶った)」、「あの世」に生きる霊的人間への

精神的成長を描いた心理的物語として読み直します。

このあたりから、主流のキリスト教会の見解とも齟齬を来し、

スウェーデンボルグが誤解を受ける原因ともなっていったようです。

「第5章 普遍宗教への道」

※スウェーデンボルグ自身は、敬虔なキリスト意識を持ち合わせた

純粋な信仰者でもありましたが、その方向性は、

キリスト本来の道(教え)を目指す人生だったようです。

では、主流のキリスト教会の見解とキリストご自身の教えを

彼独自の視点で解釈し直した見解との一番大きな相違点は何だったのでしょうか?

一つには、「三位一体説(父と子と精霊の御名においてアーメン!!)」に

対する具体的解釈が、異なっていたといいます。

また、「神」を「人工神」として捉えるのではなく(もっとも、

このあたりの詳細は<神学論争>を含むので明解に解説しきれませんが・・・)、

「人間」の延長として親しみを込めた「神」に対するイメージが

当時のキリスト教会の見解の逆鱗に触れたようです。

『無限の愛と知恵である「神人」』(本書160~186頁ご参照)として、

「神」を「擬人化」した姿勢が許容されなかったようです。

とはいえ、彼の目指す「宗教」は、「普遍宗教」への道のりでありますし、

神想意識も、日本神道のような「神の<分け御霊>」あるいは、

某新興宗教のような「神の子」といったイメージに近い感覚だったようなので、

比較的「無宗教(ごちゃまぜ信徒??)」と指摘される日本人にとっては、

かえって、彼の神想意識も理解しやすいのかもしれません。

「第6章 晩年の日々」

※このように生前から誤解も受けてきたスウェーデンボルグでしたが、

彼の高潔な人格は、多くの良心的な人々から敬愛されてきたと

いいます。

その高潔な人格の一端を自らに課した「規律」に見ることができます。

         <規律>

①「神の聖言を勤勉に読み、聖言を黙想すること。」

②「神の摂理の配剤に満足すること。」

③「行動の礼節を守り、良心を清く保つこと。」

④「自分の職務と仕事を忠実に果たし、自分をあらゆることに

おいて社会に役立たせること。」

(本書191~192頁より引用)

以上、スウェーデンボルグの思想の片鱗を本書からご紹介してきましたが、

日本での解説書は数少ないようです。

日本での積極的紹介は、禅仏教の世界観などを世界に知らしめたことで

有名な『日本的霊性』(1944年)などの著作も多数ある

鈴木大拙博士でした。

鈴木大拙博士は、最初の「国際スウェーデンボルグ学会」(1910年、ロンドン)

の出席者でもありますが、ここで、「日本的霊性」との親和性を

スウェーデンボルグの思想に見出したといいます。

現在、世界では、様々な宗教・民族(人種)的対立など、

数多く煽り立てられていますが、

本来の「人の道」からは外道であります。

「人が人として生きるためには、人間に成長し、

さらには、万物の<霊長>として相互信頼を確立していくのが、

<人の道=霊的人類>であるはず・・・」

世界中の各宗教(宗教だけではありませんが・・・)の世界観が

大きく外道の方向へと逸れていっている理由の一つにも、

「統合」的世界観を喪失させていったからではないでしょうか?

ことは、何も近現代的世界観に限定されないからこそ、

大問題なのです。

管理人の観察するところ、人類の「言葉」との付き合い方にも

争いの原因があると思われます。

その意味で、当時としては、革新的だったスウェーデンボルグの思想から

学ぶべき点も多々あるように感じられます。

スウェーデンボルグの「千里眼」と明治日本の「千里眼」批判に見られる学会の俗人ぶり!!

さて、このような類い希な才能に満ち溢れた

西洋はスウェーデンのスウェーデンボルグでしたが、

彼は、ストックホルム大火災を「見通した」

「千里眼(念視のこと)」の持ち主でもあったようです。

その視点が、啓蒙思想家にとっても興味深かったようで、

ドイツのエマヌエル(奇しくも、同じエマヌエル!?)・カントからの

賞賛と批判の評価でした。

カントも、知性の極北を志向しつつ、その「限界」を見出し、

こちら側(つまり、<この世>)に戻ってきた哲学思想家でしたが、

知性に依存するだけでは、「二律背反的状態」に落ち込まざるを得ないことを

発見した人物でもありました。

とはいえ、カントもまた、敬虔な信仰者であったことから、

知性の極北にある<あの世=想念界??>にも深い敬意を

抱いていたといいます。

いわゆる「この世」に対する「純粋理性」と

「あの世」に対する「実践理性」ですね。

このことは、優れた哲学者なら処世術としても感づくところで

あります。

かの「分析」哲学にも多大な影響を与えながらも、

自らは独自哲学の道を歩み続けたウィトゲンシュタインにも

そのような「この世」と「あの世」に対処する独自ルールでもって、

謙虚に対処する規範意識があったようです。

このように見てくると、優れた哲学者の共通点には、

自己の言説を決して「教条化(イデオロギーの道具)」にすることを

嫌う姿勢があるとも言えましょう。

「真理」を探究しながらも、「真理」の限界に気付く・・・

この「真理」の背理状態を常に認識しながら、

「この世」を渡世する知恵を学ぶのが、

本来の哲学学習の効果(成果)であります。

つまるところ、各自の「<より良き>生き方」に目を向けること。

そこに、哲学のみならず、学問する究極の意義・目的もあります。

これからの世を背負って立つ若き皆さんに、是非知っておいて頂きたいこと。

それは、「科学には、科学の流儀(フレームワーク)」が、

「哲学(宗教)には、哲学(宗教)の流儀(同上)」が、

それぞれ存在していることです。

それぞれの流儀(フレームワーク=独自ルール)を踏まえながら、

相互排斥することなく、それぞれの学問研究の長所から

認識・発想法を学び、より良き人生に活用することをお願いしたいのです。

そして、その「フレームワーク」を豊かにして頂き、

「エフィカシー=自己能力に対する自己評価」を高めて

一人ひとりが自信を回復させて、

世の中の豊かさに貢献して頂きたいのです。

そうした柔軟な姿勢や発想が、「この世」だけではなく、

「あの世」からも永遠の苦悶(争いの種)を抑止する手だてとなることでしょう。

残念ながら、「この世」に政治・経済といった世俗的ルールがあるのも、

人類の現状における精神意識が低すぎるからでありましょう。

志高く、壮大な時空感覚で人生を生ききることが、

「あの世(来世)」でも楽しく過ごす秘訣にも直結するようです。

「ようです・・・」とは、これまた無責任な言説になってしまいますが、

「あの世」は、「肉体」を有した「いま・ここに」生きている人間にとっては、

体験困難(不可能とまでは断言できませんが・・・)だからです。

他ならぬ管理人も、「霊界探究」は、

小学生時代の『大霊界』(丹波哲郎氏)の視聴以来、

興味関心あるテーマでもありますが、

あくまで、学問として冷静に検証しながら、

自らの質感に頼りながら、独自の確信度を高めていく他、

術がありません。

この点が、スウェーデンボルグとは異なり、

管理人の想像力の乏しさでもありますが(いやはや・・・)

学問は、知性だけではなく、感性・霊性まで総動員しなくては

優れた成果を後世に残すことが出来ません。

この「乏しさ」をいかに克服し、豊かな世界観を構築していくかが、

死後に至る世界観までに直結するとも、

スウェーデンボルグは示唆されているだけに、

「学問に王道は無し!!」のようですね。

そこで、最後に、スウェーデンボルグの「千里眼」に触れさせて頂いた

ついでに、明治日本の醜聞(スキャンダル)に触れないわけにはいきません。

この歴史的事実こそ、わが国の閉鎖的学界の体質の原点だと

思われますので、是非とも強調しておく必要があります。

実際に、被験者に犠牲者まで生まれているだけに、

昨今の理研騒動と同じく、良心的な人間にとっては、

封印することが出来ないからです。

その詳細は、前にも当ブログでご紹介させて頂きましたので、

本日は紙数の関係上、省略させて頂きますが、

この醜聞の体質は、今なお、わが国の中枢を蝕んでいるようです。

「学問的研究方法の痛恨のミスなら、限界に突き当たれば、

即座に認めつつ、他の方法論からの検証に移行すればよいものの、

人間は、面子(世間的視線)に拘る弱い生物なのでしょうか?」

「最悪な事態に至るまで、固執してしまう悪いクセがあるようです・・・」

こうした姿勢から、いかに精神的にも、心理的にも脱却していくべきか?

ここにも、スウェーデンボルグなどの姿勢に学ぶべき視点があります。

学問は、「未知の領域」を漸進的に切り開いていく「道」ですが、

結果を出すのに急ぎすぎてはいけません。

このところ、研究開発にも支障を来し、世界の中で孤立しつつある

憂慮すべき事態が、静かにわが国の水面下で進行しています。

基礎研究そのものが、「マネーゲーム」の対象にされている・・・

こうした最悪の事態から脱出する処方箋を描き、

資金面での乏しさを後方支援するのが、

本来の「政・官・財」の「三位一体」による連携プレーでしょう。

決して、「二番手でもいい!!」ではありません。

なぜなら、優れた成果を志向するからこそ、

世界に多大な恩恵をもたらすからですね。

いずれにせよ、この「失われた20年」における

「後ろ向き志向」は、簡単には治癒しそうにもありませんが、

今回の参議院選挙での18歳以上の若者の潜在的意志も

尊重されたく、より良き善政をお願い申し上げます。

参議院の話題が出たついでですが、

スウェーデンボルグも貴族院議員として政治的活動を

されていたようです。

ここに今日にも通ずる誠に興味深い事例が

本書で紹介されていますが、

彼の貴族院議員としての最後のご奉仕が、

スウェーデンの「通貨と財政」改革案の提案だったようです。

(本書38~40頁)

このように「経済政策改善案」の提示も、

壮大な世界観(ことに、次世代へ向けられた長期的視野)が

不可欠であります。

「参議院」が、単なる「数合わせ」の「衆議院のカーボンコピー」と

揶揄されないためにも、「良識の府」としての誇りと自信を持って、

活動されることを切に願います。

まとめますと、今の世界情勢を子細に観察していると、

「世俗化」と「聖化」の「世界観(価値観)」が

激しくせめぎ合っている極端な時期に入りつつあることにも

気付かされます。

このような何が起きても不思議ではない時期だからこそ、

慎重に「世界観」の形成が図られねばなりません。

それには、何度も強調させて頂いていますように、

「力による現状変更」を絶対に容認しない意志が不可欠であります。

「法による<理性>的解決」は、「対話重視路線」でもあります。

スウェーデンボルグの思想は、このような従来型の西欧的近現代啓蒙思想の

限界も突破し得る魅力的視点を提供してくれるでしょう。

これ以上、このテーマを展開すると、さらに拡散していきますので、

今回は、ここまでとさせて頂きます。

それだけ、現代人が喪失させてしまった壮大な視野を有していた<天才>だった

ということです。

ということで、誤解もされてきたスウェーデンボルグの思想ですが、

やや「理性」を越え出た危うさも感じられるところ、

現代にも活かせる知見が多々あるようです。

是非この夏の暑い時期だからこそ、暑気払いとして、

スウェーデンボルグの「ゾッと寒気がする霊界話」だけに興味本位で

向き合われることなく、優れた学問的知見の成果も汲み取って頂きたく、

本書をご一読されることをお薦めさせて頂きます。

なお、スウェーデンボルグの「伝記」として、

本文中でも触れさせて頂きました、

故水木しげる氏のご紹介文献の巻末参考文献にも

列挙されていました

「スウェーデンボルグの神秘的生涯」

(ブライアン・キングズレイク著、高橋和夫訳、

たま出版、1992年)

「霊感者スウェデンボルグ」

(ウィルソン・ヴァン・デュセン著、今村光一訳、

日本教文社、1984年)

また、「シンクロニシティ論」での

スウェーデンボルグに関する論考的解説書として、

『世にも奇妙な「偶然の一致」の秘密』

斉藤啓一著、学研、2013年)

さらに、哲学に関する魅力的提案書として、

前にもご紹介させて頂きました哲学者竹田青嗣先生の

門下生である若き俊才による話題書、

「読まずに死ねない哲学名著50冊~人類の叡智を

一気に読める唯一の本。~」

(平原卓著、フォレスト出版、2016年第9刷)

をご紹介しておきます。

最後までお読み頂きありがとうございました。

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