ジム・ホルト氏の『世界はなぜ「ある」のか?』実存をめぐる科学・哲学的探索にともに出かけてみませんか!?

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『世界はなぜ「ある」のか?』

アメリカの哲学者兼作家であるジム・ホルト氏が、

「存在の謎」を巡って旅する「実存哲学物語」です。

私たちが、日々「喜怒哀楽」をともにしながら

生きるのも、その背後に「存在の暗闇」が

広がっているからです。

この「亡霊のような存在」と

どのようにしたら、うまく付き合うことが叶うのか?

それが、人生の課題でもあります。

今回は、この本をご紹介します。

『世界はなぜ「ある」のか?~実存をめぐる科学・哲学的探索~』(ジム・ホルト著、寺町朋子訳、早川書房、2013年)

ジム・ホルト氏(以下、著者)は、アメリカの哲学者兼作家です。

『ニューヨーカー』誌や『ニーヨークタイムズ』紙などに

科学や哲学に関する記事を提供されているアメリカでは

著名な方のようです。

今回ご紹介させて頂く本書も、そんな『ニューヨークタイムズ』紙上で

2013年の「ベストセラー」作品として賞賛されたとのことです。

本書によると、キリスト教正統派(ローマ=カトリック??)の

信仰心厚いご家庭で生まれ育たれたとのことで、幼少期から

「神とともに生きる」生活環境にあったそうです。

成長するにつれて、思春期特有の反抗期を経る過程で、

「神」に対する懐疑が育ち始めたといいます。

その頃から、サルトルやハイデガーなどの実存主義哲学へと

興味関心が移っていったそうです。

ここで管理人にとっての「実存主義哲学」との出会いですが、

「この世における根本的な不思議さ」については、すでに幼少期に

何らかの形で芽生えていたことは間違いないと思われますが、

具体的な「思想」としての「知的探究活動」は、思春期あたりからです。

そんなに「早咲きしていた」訳でもなく、ごく普通の少年でしょう。

難しい哲学の「初歩」に入りつつあったのは、

高校生の頃の「宿題」がきっかけでした。

著者と同じ「ハイスクール時代」です。

それが、管理人と「実存主義哲学」との出会いの始まりでした。

確か、「倫理社会」の授業だったか、とにかく

「自分にとって興味関心ある思想家を選択してレポートにまとめよ!!」

との課題でした。

そこで選択したのが、ハイデガーヤスパースでした。

二人の相違点を主軸に、「実存の危機」についてまとめました。

もっとも、高校生の知識では、教科書断片的知識が「限界」でした。

それでも「背伸びして精一杯」考察して書いた記憶があります。

この授業課題がきっかけで、「思索の歓び」の一端に触れることになり、

社会実用的な「潰しがきく」法学部に入学することになります。

後に、社会実務としても「法律実務」に携わる機会が得られたのですが、

その「世俗的なあれこれ」で煩悶することになり、

中途で降りることになるのですが・・・

その最初の原点の書物こそ、「闇屋になりそこねた哲学者」木田元先生が

出された著書『ハイデガーの思想』(岩波新書、1993年)でした。

ちょうど高校生の頃が、大人の世間では「新書ブーム」の始まりでもあったらしく、

むさぼるように「新書」を読み始めたことは「良き思い出」です。

「岩波新書」「中公新書」「講談社現代新書」中心に、「PHP新書」「文春新書」と

入っていったものですので、「保守的」でありつつも、「左翼・リベラル思想」にも

馴染むことになったようです。

それが、管理人を「原理主義」から遠ざける「良薬」ともなってくれたようです。

つまり、「学問とイデオロギーの違い」を自覚させてくれたのです。

もっとも、この時期に「新書」や「文庫本」をむさぼり読むことなく、

今から思えば、もっと「理数系科目」を勉強しておけばと悔やまれますが・・・

「人生の選択・判断とは、かくも難しく、後になってみないことには分かりません」

とはいえ、本書とも絡みますが、もう一つの選び得た「並行宇宙」の道のりが

良かったのかどうかは「未選択・未決定」なので正直「不明」であります。

やはり、人間は、「思春期の14歳から18歳」が、

一番「思想と人生における選択肢の土台」を作り上げる

「ゆとりある??」季節のようです。

こうした非常に悩ましい「進路選択」や「18歳選挙論」とも重なるだけに、

現代の高校生は大変ですね・・・

何か、大人の過大な思惑のようで、現代の青少年には、ホント同情します。

「なんで、日本の教育って、こんなに<欲張りで極端>なんだろう・・・」とも

感じています。

「主権者教育」も、「存在論」「認識論」と絡んでくるだけに

未来を担う皆さんも、大いに読書に遊びに勉学に課外活動に親しんで下さいね。

「人生は、1回限り」ですから・・・

また、こうした幅広い「体験」こそが、視野を広げてくれることでしょう。

実は、これこそが、本書「存在の謎」の最重要テーマでもあります。

さて、著者のプロフィールに戻ります。

そんな幼少期からの問題意識が、「存在の謎」を探究していく

きっかけとなり、現在の思索家人生へと連なっていったそうです。

このような観点から、「存在の謎」に迫っていくのですが、

「存在の根源」に、神を持ち出す「神仮説」に疑問を抱きつつも、

決して、「信仰心」を持つ人間を軽蔑することもなく、

多種多様な角度から「存在の根源へ」と接近していきます。

著者は、そうした性格から「実存主義哲学」や「科学哲学」に

大変造詣が深い哲学者であると思われます。

哲学探究、科学探究を始めとする「学問」とは、

永遠に答えが出そうにない難問を、絶えず根源から問い続ける

生理現象でもあります。

そういう性質がありますので、本書でも「一義的に定まった明確な正解」は

用意されていません。

著者の現時点における「思索の形跡」が、若干かいま見えるだけです。

とはいえ、「懐疑的信仰」とともに日々「ゆらぎつつ」生きるという

誠実な姿勢からは、管理人の魂にも共感を呼び起こさせます。

哲学探究は、このように「原理原則」を問い続けるとともに、

「安易な正解を出さない永遠の循環論法の中にある<問い>」を探る

旅であります。

著者の問題意識は、『なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?』との

ライプニッツ哲学に内在する『宇宙根源<神>』なる『必然的な存在』とする

強力な「神仮説」に疑問を呈するところから、探索が始まります。

その過程で、様々な哲学者や物理学者、神学者や文学者との対話形式で、

自らの長き「存在の謎となる根源」への思索の旅を続けていくことになります。

そんな誰しもが、人生で一度は経験するであろう「重大問題」について考察

していくのが、本書であります。

「存在の謎」を辿る旅程も、一人ひとり違います。

「存在の謎を探索することは、各人各様の人生そのものへの<問いかけ>」でも

あります。

ということで、皆さんとともに本書を読み進めながら、「問い」を重ねることで、

安易な「正解」の見つからない時代(いつの時代でも、真摯に生き抜く限り不変の

難問ですが・・・)での「より良き人生」を送る「ヒント」として頂きたく、

この本を取り上げさせて頂きました。

人生の「喜怒哀楽」の原点の背後にも、「存在の謎」が隠されていることを自覚して生きてみよう!!

本書では、著者の様々な著名知識人との対話を通じた

「実存をめぐる科学・哲学的探索」が詳細に展開されていきますが、

著者の視点には、必要な範囲で触れつつ、管理人自らの思索を中心に

展開していこうと思います。

当たり前ですが、「学問に王道なし」と称されるように、

哲学探究の旅にも、「生ある限り」終わりはありません。

また、「人生に1本筋立てすることは出来るにせよ、その道程は

<矛盾だらけの茨の道>」であります。

「一貫した人生でなくても、死に際に充実した人生なら<合格>」です。

大事な点は、「死に際での<一念>」であります。

人生街道の「プロセス」ではありません。

ここが、「現世における<執着を絶つ最期のゼロポイント>」です。

管理人は、何も「一貫した生き方を是が非でも守りきるべき!!」などと

叫ぶ「原理主義者」ではありません。

ですので、自他ともに「思想・信条・信仰などの押し売り」はしないつもりです。

日々、書物のご紹介とともに、皆さんにも「より良き人生の糧」として

ご活用して頂くことのみを念じながら、徒然と書き綴っています。

ともに真摯な生き方を探究されておられる方なら、どなたでも<大歓迎>であります。

さて、本書の主題は、『なぜ何もないのではなくて、何かがあるのか?』を巡る

「存在の謎」に迫る旅でありますが、人間は誰しも「空虚な心情感覚」には

耐えられないような生き物のようです。

「意識」に関しては、現時点でも「謎だらけ!!」でありますが、

人間の他の生き物に比べての「特異点」は、この「意識の知覚可能性」にあります。

「意識の知覚」ということであれば、他の生き物にも「あるだろう・・・」とは

日々実感していますが、その「意識の知覚」に対する「意味づけ作業」による

「明確化」こそ、最大の特徴だと考えています。

ところで、この「意識の流れ」が「どこからやってきてどこに消えゆくのか?」という

点こそ、「未確認飛来情報(UFI)」であります。

また、その「意識の流れ」に関する「知覚」やその「知覚に対する意味づけ」も

まったく各人各様であります。

これまでの当ブログ記事や、本書でも紹介されていたトマス・ネーゲル氏などの

提唱する「クオリア(質感)」については、これまでのところ、

誰しも正確な言語化に成功した人間もいないようです。

「知覚イメージ」を「一対一対応」で「言語化」することは絶望的に困難であります。

ために、「この世は誤解だらけ!!」で係争も止むことがありません。

自らの思索内容や知覚内容を、「内面」に慎重に保留しておくことで、

皆が皆「つつましやかに奥ゆかしく」交流することが叶えば、

人間交流における様々な「難題」からも逃れうるのでしょうが、

そういう訳にはいかないのが、「生物の世界」であります。

「生物」には、「盲目的な意志」が存在するからです。

とりわけ、「知性」を強く持った「人間」はその歯止めがないかのように

行動しやすい生き物であります。

この「盲目的な意志」を有意義な志向性でもって生きることが叶えば、

「憂いなし!!」であります。

ということから、本書でも紹介されているショーペンハウエルなどは、

こうした「盲目的な意志」を抑止するための処方箋を描いてきました。

彼の場合には、後に「仏教的な」というには、管理人にとっては

ほど遠く見える「生き様」のようだったそうですが、

こうした「盲目的な意志」がどこから湧き出てくるのかも、

よく分かっていません。

ただただ、日頃からの「自己鍛錬による<自我>抑止技術の確立あるのみ!!」

といったところでしょうか・・・(管理人も同じですが・・・)

この「意識の流れの根源」にこそ、<人間にとっての>「存在の謎」が

潜んでいるのではないかとだけ提示しておきます。

このように、「存在の謎=根源へ=事象そのものへ!!」という一連の

人間の生存根拠の原点に立ち向かう哲学のことを、

「実存(主義)哲学」というようです。

その基礎部分には、「現象学」という哲学の専門分野があると言われています。

フッサールやハイデガーなどが、とりわけ有名な人物であります。

「生き抜くことは苦しい!!」

「出来れば、この世に生まれ出たくなかった!!」などと感じてしまう瞬間も

人間なら、一度くらいはあるかもしれません。

そうした「生まれ出でた悩み」が一切ないという方は、幸せな方です。

「自信を持って、これからも歩んでいって下さいね。」と同時に、

私たちのような「苦しみに満ちた」者に、「愛と勇気と知恵」を授けて下さいまし・・・

と祈るばかりです。

おそらく、そのような方であれば、「哲学」を始めとする「学問」も

「余計なお世話」かもしれませんね。

これは、何も「皮肉」として語っている訳ではありません。

それほど、生き抜くためにこそ、「学問」に対する「飢えと渇き」が現出する

動機について触れているまでであります。

さて、このような「生存することへの精神的危機」に対する「実感」を

必死で粘り強く考え抜く「哲学」こそが、「実存(主義)哲学」であります。

「生存感覚に対する危機」こそが、人間を強く哲学的探究へと振り向けてきた

原動力です。

「学を絶てば憂いなし」(老子)などと古来の賢者は語りかけてきますが、

なかなか難しいようです。

なぜなら、「近現代的<自我>の基盤」となっているからです。

もっとも、以下で対処法を考察するように、

この「近代的<自我>観」を変えることが出来れば良いのですが・・・

私たちは、こうした「近現代的<知性>の歪み」に偏りすぎた生活を

送ってきたようです。

そのため、「自己=自我=自分・・・」といった「主体」には、

大きく「楔」が打ち込まれてしまっています。

こうした「実存感覚」を十二分に満たしてやることが叶えば、

「存在の謎」も無事、「埋葬」されるようですが、

どうもそんなに簡単でもないのが、人間の厄介なところです。

「存在の謎」は、普通の人間感覚からすると、「実存感覚」と強く連動しています。

本書でも、その「謎解き」を多種多様な立場の知識人とともに、幅広く探究して

いくのですが、この世における「人間と世界の関係性」については、

どの学問でも、「迷宮入り」状態にあります。

「問えば問うほど、訳わかめ・意味とろろ<トホホ・・・>(古っ!!)」なのです。

つまり、良く分からないということです。

著者も、ご多分に漏れず、様々な角度から「世界と人間の根源」に迫っていく

道具として、科学に目を付けます。

しかし、いくら科学的分析考察を積み重ねても、「根源」を掘り当てることも

出来ないようです。

科学は、「構造把握・計算(いかに)」については、ある程度の見通しはつくものの

「存在根拠・地盤(なぜに)」についてまでは、問い続けることが出来ないからです。

その部分にまで、無理矢理にでも突破しようとすれば、「論理の飛躍」を犯すからです。

もっとも、何を根拠に「論理の飛躍」とするかは、各人各様の判断次第ですが、

管理人も含めて、人間にはこのような根本的なところでの「認識限界」が

付きまといますので、「誤謬と偏見」は、ありとあらゆるところで

起こりうるものと覚悟して生き抜かざるを得ません。

それゆえ、真摯に生きようと、もがけばもがくほど「心配性」は

降り積もっていくばかりです。

それが、「実存の危機」ですね。

では、その背後に隠されたものとは、何でしょうか?

それが、「存在の謎」です。

つまり、「ブラックボックス(ホール)」の「存在の空白地点」であります。

本書で詳細に展開されている「物理学論争」や「神学論争」などは、

本日は省かせて頂きますが、

本書を読み進められると、「哲学者」「物理学者」「神学者」「文学者」などに

よる、それぞれの「問題意識と洞察」が垣間見られることに気付かれることでしょう。

まとめますと、「生き抜く原動力にも、絶えざる<存在の空白地点>が背後に忍び寄って

いることに、自覚しながら日々過ごしていきましょう」ということです。

「<正解>は、生きている限りは、<絶対に見つかるはずもない!!>」ということを

自覚する時点から、「存在の謎(空白地点)」との確かな付き合い方が

始まるのだいうことです。

実は、これこそが、「ノイローゼや自殺予防」に少しでも役立つのではないかと

考えています。

日頃から、「存在の謎(空白地点=認識の限界)」に自覚的であるか、

そうではないかによって、いざという時に「パニック(思考停止)」に

ならずに済むかもしれないからです。

「心情問題」は、「存在の謎解き」よりも、厄介ですね・・・

そこで、「信仰問題」も「哲学問題」の先に見出されてきます。

「生きている限り、何かを信じている!!」

この発見も、前に触れさせて頂いたことがあるかと思いますが、

逆に「死んでいる限り、何も信じていない!!」のでしょうか?

これは、断言します!!

「分かりません」です。

まるで、お釈迦様のご回答のようですが、そうとしか言い切れないからです。

「死後」は、一般的には「未来」のことでありますが、過去に遡及して

考察するなら「未生(出生前)」とて同様です。

そこで、「宇宙物理学」の最大テーマ「特異点以前の世界」も、

今回の考察では、「無記」としておきましょう。

いわゆる、こうした日常の経験では認識しえない領域を探索する哲学を

「形而上哲学」といいます。

逆に、日常経験上の諸問題を探索する哲学を「形而下哲学」といいます。

若い高校生の皆さんなら、覚えておいて損はない「重要キーワード」です。

評論文や小論文対策に、少しは(微々たるものですが・・・)お役に立つこと

でしょう。

こうした「形而上哲学」は、日常生活では、即役立つものではない「知的遊戯」で

あるために、あまり深入りすることは良くないでしょう。

そこで、日常生活実践上の知恵として、先程の「お釈迦様の知恵」が役立ちます。

これを難しい表現で、「思考の節約(別名:オッカムの剃刀)」とも言います。

あの難解で知られるドイツの哲学者カントの仕事も、つまるところ

この「思考の整理整頓術」にありました。

『純粋理性批判』と『実践理性批判』の違いですね。

カントは、純粋哲学上の判断としては「純粋」に問い続けましたが、

その先の「認識の限界」にぶつかりました。

それが、「物自体」です。

本書の、「存在の謎」の原点です。

後のフッサールやハイデガーなどが探究していった「現象学」における

「事象そのものへ!!」

また、管理人の表現では、「根源へ!!」であります。

その「限界」の先には、無理に進もうとしなかったところが、

カントの偉人たるゆえんでもあるようです。

ここを無理に押し切ると、「ノイローゼや自殺の原因」ともなりかねないからです。

そこに、「実践」の効用があります。

難しい哲学も、ご自身にとって一番親しみやすい「入門書(解説書)」を

手引きに読み進めていくと、理解も促進されることでしょう。

されど、「訳の分からない領域」を探る<哲学旅行>も楽しいもの・・・

こうした「形而上哲学」も、日常生活では、即効性などありませんが、

人生で行き詰まった時などには、意外に役立つものです。

また、安易な「答え」がますます見つからなくなる一方の

今後の<未来経済>社会における思考法こそ、「形而上哲学」でもあるようです。

直接・間接に、実測体験しにくい分野では、

「思考実験の重要性」も、ますます高まるばかりです。

そこで、やはり、若干「存在論の<事象の地平線>」に

触れておきましょう。

本日は、「宇宙(物理学)論」が主テーマではありませんので、

ほんの「さわり」だけにしておきますが、

本書にも出てくる毎度おなじみ??のロジャー・ペンローズ博士に

よると、「宇宙の始まりと終わりは似たようなもの」らしいです。

この論点は、後日まで置いておきますので、ここで筆を止めておきます。

いずれにせよ、「今・ここに生きている<現世>こそが、真剣勝負だ!!」

いうことには、異存はございますまいなぁ(・・・)

「存在の謎」から生まれ落ちた「自我の苦しみ」にどう対処すべきか??

ところで、「実存をめぐる科学・哲学的探索」の諸々については、

本書をお楽しみ頂くとして、皆さんにとっても一番ご興味ご関心の

あるテーマが、「日常生活上における実践的<存在論>」だと

思われます。

それは、「存在の謎」と一般的には称される「存在の崖っぷち」から

落ちないための知恵と工夫でしょう。

つまるところ、「存在(実在)論」にせよ、

「認識論(実在論に接近していくための方法論)」にせよ、

「限界=盲点」があることを、最初に確認しておきましょう。

これが、日常生活上の知恵です。

これまでのところ、いかなる「学問(学び問い続ける営み)」であれ、

この「限界=盲点」を「一気に飛び越えた」という成果報告はありません。

「学問」も、「人生」と同じく一歩一歩着実に地道に歩み続けるしか

他に取りうる方法はありません。

当ブログで、ご紹介させて頂く大抵の書物も、「即効性」はないでしょう。

ですが、「心して」読み続けられますと、どこかの時点で

「視野」が拡張されたり、「解決案」が思い浮かぶヒントは

得られるものだと自負しています。

「即効性」を必要とされるのであれば、あれやこれやの

「(マニュアル的)実務書」や「新書類」に頼られると良いでしょう。

「仕事上の大概の問題」は、これで片が付くものと思われます。

とはいえ、「未知の分野」に挑戦していかないと、

この厳しい経済環境では、どうしても「補給路」が続きません。

その先には、「レッドオーシャン(消耗戦)」だけが待ち受けています。

実は、「ブルーオーシャン(ある意味での撤退戦)」の研究こそ

「生き残り」のためには重要となってきます。

競合しない分野で、あらたな「突破口(脇道)」を見つけるためには、

「根源へ!!」「事象そのものへ!!」といった哲学的探究も欠かせません。

「形而上哲学も、使い方によっては十二分に威力を発揮してくれるのです!!」

当ブログは、そんな「原理原則」から立ち上げていくための趣旨も兼ねて

創作しています。

だからといって、冒頭でも触れさせて頂きましたように、

「原理主義者になろう!!」と呼びかけるものではありません。

「物事の思考法における方向(志向)性」が大切だという視点を獲得して

頂きたいのです。

ところで、この「存在の謎」を追跡していくと、必ず「限界=盲点」が

現れてくると先程語り終えました。

それが、「自我の苦しみ」と「存在の謎」の接点であります。

本書でも紹介されてきた哲学者は、大抵「自我」に執着される方です。

デカルトしかり・・・

一方では、冒頭のショーペンハウエルのような「自我からの脱出」を

試みようとされる哲学者もいます。

が、実際には「絶望的に困難かつ安易な快楽主義者」でもあるようです。

(詳細は、本書をご一読下さいませ。)

また、「経験主義者」で日常生活における懐疑的認識論の土台を固めて

いったヒュームのような哲学者もいます。

この方の場合には、「私」という名の「自我」から離れようとする

「経験論」も展開されているようですが、それはヒューム自身の「生き様」で

あって、万人に通用する「実践的生活法」でもないようです。

ましてや、欲望喚起に満ち溢れた現代社会では、「自我」が強化されていく

一方であります。

そんな時代の風潮の中で、流されずに「強靱な」人生観を養成していくためには、

どうすれば良いのか?

ここに、「学問の本来の効用と深い歓喜」があります。

「学び問い続けている限り」安易な「正解」に飛び移ることも少なくなりますし、

(もっとも、これには、精神的修養も必要ですが・・・)

「小人閑居して不善を為す」ことも少なくなることでしょう。

「没頭」は、「一時的な快楽消費」とは、まったく異なります。

また、「没頭」は、「執着」とも必ずしも重なりません。

「自我」を軽減する知恵と工夫は難しいですが、(管理人も日々悩まされますが・・・)

この「自我=自己=自分」という「観念(幻想)」といかに付き合うかが

ここでの勝敗の分かれ目となります。

西洋哲学では、こうした「自我問題」を「独我論」と言うそうで、

この論理で突き進めていくと、どうしても「自我(自己=自分)の実体化」に

発展してしまいかねません。

本書でも、様々な角度から「存在の謎」に迫っていっていますが、

大抵の場合、どの知識人であれ、この「自我問題」には、

まともに付き合った形跡すら見当たらないところが気になります。

本書で紹介された知識人で、親近感が湧いたのは、ロジャー・ペンローズ博士や

ジョン・レスリー博士、デレク・パーフィット博士でした。

なぜなら、「存在の謎」を古代ギリシア以来の古風に見える「真・善・美」の

調和を大切に扱っているように感じられたからです。

つまり、「存在の<価値>そのものの豊かさ」に注目されている人物だと

見受けられたということです。

また、リバタリアンとしても著名なロバート・ノージックなどの

「豊穣性の原理」なども興味深い論考でしたが、

具体的な領域で問題も残されているようです。

ところで、この「自我問題=独我論」ですが、

ここにも「存在論における鬼門」があるようです。

結局、ハイデガーの指摘するまでもなく、私たち人間は、「世界内存在」であり、

この「生存時空」を、「存在状態(有)」から飛び出すことは不可能だということです。

「非存在状態(無)」については、「想像」することまでは出来ても、「実体験」を

することは、生存中には、「およそ不可能!!」だということです。

西洋社会における諸学問では、なかなか「無から有への転換(0かつ∞)問題」を

「実践的」にも解決しにくいようです。

それは、「西洋化し過ぎた」現代日本でも同様ですが、「無=空虚な暗闇」と

イメージしやすいのが、現代日本人を含め大多数の「現代人」であるようです。

それでは、別の視点から再度こうした「独我的実在論」を乗り越えるとともに、

日常生活上の知恵と工夫はないものか考察してみましょう。

それが、管理人の個人的な問題意識でもありますが、

「躁鬱的視点」あるいは

「スペクトラム(虹のような光彩的連続層<レイヤー>)的視点」を加味しながら

「この世」を眺める視点です。

「いかにして、現世における<無限虚無回廊>を相克し得るか?」という

「問い」です。

管理人は、個人的に「能楽・狂言」に馴染みがあるのですが、

この「能楽役者の視点」こそ「躁鬱的視点」ないしは

「スペクトラム的視点」だと体感しながら観賞させて頂いています。

ことに、「シテ(主人公)の苦しみ」や「ワキ(聞き役)の悲しみ」に

共通する「躁鬱感情」に、同化しながら「感情移入」していきます。

そのうちに、日頃の「世俗的自我感情」が薄れていく・・・

こうした「身体感覚」の傾きを、日常生活でも活用させて頂いています。

「主人公ではなく、脇役(影の者)に徹する!!」

なかなか、日々の世俗的生活の中では難しいことではありますが、

「複雑に絡み合った難問」が押し寄せてきた時には、

こうしたある種の「変性意識感覚」で乗り切ろうとしています。

また、三島由紀夫氏や埴谷雄高氏、山田風太郎氏などの作風に共通する

「虚無的生存問題」に真摯に取り組んだ「文学作家」にも親しみを抱いています。

いずれも現代作家には、なかなか存在しない非凡な「哲学的作家」でもあります。

例えば、一般的には「山田風太郎作品」などは、「戯画的作品」として受け容れられ

「哲学的作品」としては想定されていないようですが、じっくりと真夜中にも

読み込めば、「虚無感の中に、一抹の清涼風が吹くのはなぜでしょうか?」

それは、彼の生い立ちや医学生体験もあるようですが、

人間の「虚無意識」を精確に見据えた実体験が伴って創作されていった

作品だからだと思われます。

「虚無意識」こそ、「自我のゆらぎ」を誘い出す「幻影(錯覚)感情」を

呼び覚ます「意識の流れ」であります。

そうした「心理状態」では、世俗感情も薄れ、「自我=自己=自分」といった

強固に感じられていた「身体感覚」すら薄れていきます。

一見すると、特に「忍法帖シリーズ」など「殺風景かつ奇想天外」でありますが、

ここにも、ある種の「滅びの感覚(美学とまでは言いませんが・・・)」が

差し挟まれているように感じられます。

この「自我=幻影」といった「情感・質感」こそ、

「現世における数少ない<救いの構造>」のようにも実感されます。

埴谷雄高氏も、そんな<無限虚無回廊>のような作風で知られている

硬派な哲学的作家ですが、未完に終わった『死霊』でさえ、

そこはかとなく、何とも言えない深い味わいという「余韻」が残されています。

三島由紀夫氏の作風も、底流に「唯識的虚無感」がありますが、

「滅びの美学」ではなく、「幸わいの美学」への<救いの構造>があるように

感じられます。

世間一般的な見方では、「世俗的な感覚」で評価されがちな作品集でも

あるようですが、管理人は少なくともそう実感したことがありません。

むしろ、『春の雪』の最後の有名な文章にせよ、虚無感というよりも、

「明るさ」「爽やかさ」を感じたからです。

まとめますと、「知性次元」で「存在の謎」に迫ったところで、

どこまで進んでいっても<無限虚無回廊>の中で「循環」してしまうようです。

そこが、多くの方々にとっても、「苦しさ、虚しさ」の根拠となっているのでは

ないのでしょうか?

この<無限虚無回廊>から抜け出る「変性意識体験」こそ、

管理人の現時点で実感し得る「唯識体験」であります。

「唯識体験とは、心の内観療法」のことを指します。

こうして「根源へ!!」「事象そのものへ!!」と探索してきたとはいうものの、

やはり言葉(理性=知的次元)では十二分にお伝えしきれずに、「出口が見えない」

<無限虚無回廊>をグルグル回っていっているような結末になりましたが、

「存在の謎」は、おそらく「超時空構造」に潜んでいるのでしょうか?

つまり、本書のテーマであった「無」と「有」を分離した思考法自体に「限界」が

先天的に孕まれていたように思われます。

東洋人から見ると、「無(陰)も有(陽)も、見る景色が異なるだけ」であり、

「同一現象を、陰と陽のそれぞれの<層=レイヤー感覚>で見ているにすぎない」

ようにしか実感されないのですが・・・

何か「無(陰)」と「有(陽)」を、まったく別々のものと見てしまう心理的傾向が

あるがために、<無限虚無回廊=永遠循環論法>の罠に

引っ掛かってしまうのではないかと思われるのです。

ところで、管理人の見るところ、「科学的思考法が<この世向け>」とするなら、

「宗教的思考法が<あの世向け>」であり、両者の「あわい(境界線上)」に

架け橋をかけるのが、「哲学的思考法」だということです。

ですから、もともと「科学と擬似科学との違い」を考える視点には、

それぞれの「学問領域の限界」を相互理解しながら「相互協定」を

結んでおかなくてはならないのです。

「学際研究」をするにせよ、その「限界」をにらみつつ、

自分は今どの「領域」を考察しているのかも正確につかんでおく必要もあります。

そのあたりも、「人間原理」といった「好みの問題」も含まれるだけに、

また厄介なようです。

ところで、管理人の個人的問題で考えると、「躁鬱対策」ですが、

これも「不定愁訴」のため、先が見通せないところに難題があります。

前にもご紹介させて頂いた工藤美代子さんの

「うつ病を生き抜くための6ヵ条」のうち、

①「しょせん自分はたいした人間ではないということに

気づいたほうがいい。」

③「お金持ちになれば、すべての問題が解決すると考えるのは

大誤解だ。」

という点に、今回の「自我問題」の着地点もありそうです。

もっとも、「心の病」の治療法は、各人各様異なりますので、

「これが絶対の正解だ!!」とは断言しきれませんが、

①が、今回の考察で見てきたところの、

「<自我=自己=自分>を薄めていく訓練」に当てはまるようです。

とはいえ、このような「自尊感情」を軽くしていこうとする処方箋にも

「限界」があります。

それが、「論理療法の限界」でもあるのでしょう。

「情動感」や「クオリア(質感)」にも力点が置かれないと、

「気休めにもならない!!」からですね。

なぜなら、「躁鬱病」とは、まさしく「心の病」に分類されており、

「心情感覚の安らぎこそ、最大の難問」だからです。

確かに、理詰めで考え、大きな「宇宙的視点」から俯瞰するなら

①のテーゼにも、それなりの説得力があるのですが、

「人間は誰しも現世で何らかの表現、つまり、自己創作してみたい

という欲望充足律も持って、生まれ落ちてきた!!」ところにも

「真実味」があるようだからです。

この「実感」を無視しては、かえって症状を重くしてしまうかも

しれないからでもあります。

少なくとも、「知性依存型の人間」にとっては、「苦しい悩み」です。

③も、現代の多様な角度からの研究によると、

ある一定の「分岐領域」を超えると、あまり「経済的心理影響力」も

大きくないようで、かえって「諸事情」により精神的に不安定になる傾向も

あるそうです。(これも、一概には断定出来ませんが・・・)

ですが、マズローも指摘するように、あまりにも「貧困度」が

強くなるにつれて、こちらも精神的に不安定になるだろうことは、

むしろ「富裕層」よりも強く推定されるところです。

今後の<未来経済>を見据えた「早期是正措置」という観点から言うならば、

現行の「税と社会保障の一体化改革路線」よりも、

あらゆる「社会保障制度」を段階的な経過措置を設定しつつ、

基礎部分の「ベーシックインカム制度」へと収斂させつつ、障害者などの

個別具体的な「オプション措置」を加味するなど、所得基準は別途設定する

必要もありますが、現行の「差別的な申請主義」から「一律公平的な自動主義??」

へと改善していく余地もあるかと考えます。

人工知能関連の技術革新とも相まって、早晩「大変な事態」をも

招きかねないからです。

(以上、産経新聞朝刊「正論」記事『日本は「変われる国」になれるか』

東京大学教授 坂村健氏 平成28年3月31日木曜日付けより)

つまるところ、「肉体を有した現世人間」は、「肉体を無くした霊体人間??」

を「この宇宙(現世という意味です。)」では、実体験出来ないということです。

そうだとすれば、逆に「過去」も「未来」も考えず、「現在のみを楽しもう!!」

と、単純に「楽観的」に生き抜くことが叶えば良いのですが、

それこそが、「自我へのとらわれ」でありましょうか?

要するに、宇宙を支配する根本の「心」は、

人間を「創造への寄与度を測る試金石」に使役しているだけなのでしょうか?

「よく分かりません・・・」

こんなことを想像していると、大昔の「神」が人間を「操り人形」のように

扱っているような「世界観」ですが・・・

いずれにせよ、「生きている限り、学び問い考え続けていくのが<人間の宿命>」の

ようですね。

ということで、本日も長々と綴ってきましたが、皆さんにも本書を読み進めながら

「存在の謎解き」を楽しんでみてはいかがでしょうか?

「人間は<考える葦>」(パスカル)とは、よく言ったものですね・・・

そういう「存在の謎」への情熱を込めて、皆さんにもお薦めさせて頂きます。

それでは、またお会いしましょう。

最後までお読み頂きありがとうございました。

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One Response to “ジム・ホルト氏の『世界はなぜ「ある」のか?』実存をめぐる科学・哲学的探索にともに出かけてみませんか!?”

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