ヘルマン・ヘッセの「地獄は克服できる」今の苦悩が、人生に彩りを添えます。心は天気のようなものだもの。
「地獄は克服できる」
度重なる「心の揺れ動き」に悩まされ続けた
ドイツの文豪ヘルマン・ヘッセ。
人生とは、苦難の連続・・・
でも、自分の心の揺れ動きに忠実であるならば、
やがて、突破口も見つかることでしょう。
大切なことは、逃げないで静かに心と対話すること。
そうすれば、心の雄叫びも生き抜く希望を求める
いのちの鼓動だと理解されます。
地獄を目がけて突進しよう。
今回は、この本をご紹介します。
「地獄は克服できる」(ヘルマン・ヘッセ著、フォルカー・ミヒェルス編、岡田朝雄訳、草思社、2001年第3刷)
ヘルマン・ヘッセ(以下、著者)は、
20世紀を代表するドイツの文豪です。
代表作には、『車輪の下』『デーミアン』
『シッダールタ』『荒野の狼』など多数あります。
1946年には、『ガラス玉遊(演)戯』などが評価され、
ノーベル文学賞も受賞されています。
少年期から神経過敏症や抑鬱症に悩まされ続けたという
その繊細な感受性は、詩や絵画にも表れています。
そのため、職も転々としたり、結婚や離婚を繰り返すなど
私生活面においても、様々な苦難の連続を味わわされたと
いいます。
ノーベル文学賞受賞といった華やかな舞台裏には、
このような壮絶な心との葛藤があったのです。
同じく、当時のドイツを代表する作家トーマス・マンとも
親交があったようですが、著者はトーマス・マンとも対照的な
独特の深い内省を活かした作風で知られています。
(ちなみに、トーマス・マンについては、こちらの記事も
ご一読下されば幸いであります。)
20世紀初頭には、二度も世界大戦が立て続けに勃発し、
とりわけ、故国ドイツでは、深刻な精神的不況に見舞われていました。
そうした暗い時代に、著者は精神的危機を経験しながらも、
当時、「心の奥深い暗闇意識(深層無意識領域)」研究で有名だった
ユング派心理学者らの助力を得て、どうにか精神的危機を突破し得た
状況が続いていたといいます。
著者が、精神的にも物質的にもようやく安堵が実感され得たのも、
50代に入ってからとのこと。
そうした著者自身の個人心理史の観点からは、
表だった名声とは異なる「遅咲きの作家」だったとも言えるでしょう。
「晩年」は、満ち足りた生活環境だったのかどうかは、
知るよしもありませんが、とかく精神的危機に耐えず晒されやすいと
言われる現代人の心に生き抜く糧を与えてくれます。
勇気を持って、前に進み続けられるように力強く鼓舞してくれます。
80歳代まで生き抜いた「20世紀の老賢人」の作品は、
今なお、世界中の心に深く傷を負った繊細な人々に
絶大な人気があります。
また、著者は、自らの人生を仏教の開祖ブッダになぞらえながら、
上記『シッダールタ』を上梓していますが、その人生の旅程は、
まさしく、ブッダ同様、苦難に満ちた連続でした。
そうした人生経験から導かれた教訓が、本書のタイトルでもある、
『地獄を目がけて突進しなさい。地獄は克服できるのです。』(本書119頁)
であります。
本書『地獄は克服できる』は、ドイツ出版社ズーアカンプの編集顧問にして、
ヘッセ復権に貢献したとされるフォルカー・ミヒェルス氏の手によって、
ヘッセの多作原稿を整理したうえで、再構成された独自編纂による
作品集であります。
本書カーバー帯には、『少年期から社会や人生に折り合いをつけることが
苦手で、挫折を繰り返し、たびたび自殺願望やうつ状態にとらわれたヘッセが、
心の苦しみからの脱出法を体験的に述べたエッセー。ストレスに悩む現代人の
ための妙薬ともいえる書』と、管理人がご紹介させて頂いた意図を、
簡潔かつ的確に要約して下さっています。
ということで、今回は、この本を取り上げさせて頂きました。
日常生活の合間に存在する「ささやかな楽しみ」を深く味わう(最初の第一歩は、出来る範囲から)
さて、本書は、そんなヘッセの心理的内面のうち、
「心の暗闇との葛藤から晴れやかな檜舞台に立ち返るヒント」が
描かれたエッセー等を中心に編まれた作品集です。
作品内の各エッセー等は、各自ご自由にお読み頂くとして、
人生には、必ず「影」が付きまといます。
この「影」は、世界との整合性がうまく自分の心の中で
折り合いが付かなかった時に、雲のように湧き出てきます。
人間は、言うまでもなく、「明るい」表舞台だけで
人生を演じきれるものではありません。
それでも、人間は、表面的な「明るい」映像を求める傾向にあります。
「生きる」意志とは、「明るい光」を求めるように、
あらかじめ「遺伝子情報」に組み込まれているものなのでしょうか?
それに対して、「死ぬ」意志とは、「暗闇」を求めるように、
あらかじめ「遺伝子情報」に組み込まれているものなのでしょうか?
遺伝子生物学の知見は、管理人も専門外であり、基礎知識すら学習途上に
ありますので、ここで解説することは主題とも外れるため出来ませんが、
まずは、この問いから「生きること」と「死ぬこと」という観点から
心理的内面へと少しずつ近づいていきたいと思います。
上記のような「わかりやすい」対比構造から「問い」を立てるならば、
わからないことが出てきます。
仏教信仰者ではなくとも、
人は、なぜ、人生の最終末期(死ぬ間際)に「夕日」を
連想することが多いのでしょうか?
「夕日」は、もちろん「人生の黄昏時の象徴」であります。
「朝日」が、生まれ落ちた瞬間から、人生の「祝福」を象徴するものとすれば、
その「祝福」から遠ざかることが「黄昏時」である「夕日」に相当するものとします。
あるいは、人生を「四季(春夏秋冬)」に例える方もこれまた多くいます。
「春」は、「温かい(明るい)兆し」~「冬」は、「寒い(暗い)兆し」に
至るまで、変化していくとイメージされています。
これまた不思議なものです。
人生の一連のサイクルを、「太陽」で例えるにせよ、「四季」に例えるにせよ、
「自然」は、あるがままに「移ろいゆくもの」であります。
これが、「人間」の「心理的内面」の話となれば、
こうした象徴イメージとは異なり、あるがままに「移ろいゆくもの」といった
感傷的??イメージも、なぜか拒絶されるようです。
「人間」が、「いのち」を宿した「身体」を持つ「この世(表街道)」モードでは、
拒絶反応が頻繁に繰り返し起きる。
一方で、「いのち」を根源に返す「身体」を脱ぎ捨てようとする
「あの世(裏街道)」モードに入る時には、そのまま受け容れようとする
「自然」な受容反応が頻繁に繰り返し起きてきます。
このことを、再度、上記の「遺伝子情報」の例えに戻らせて頂くと、
昨今の「遺伝子情報学」では、
「遺伝子情報の切り換え(スイッチ・オン(オフ)仮説)」、
つまり、環境に合わせた「生体反応」が頻繁に起こっているようだとされています。
ただ、その解釈をどう「心」が受け止め、それをさらに、「頭(知性)」で
置き換えする手だてを各自で講じる「実用的心理操作手法」を
ここでは、考えてみたいのです。
こうした人生の大きな心理的プロセスを微分化(つまり、最小化)していくと、
日々の心理的な「心の葛藤」にも適用することが出来るのではないかという
「仮説」から、人生における「喜怒哀楽といった心理ゲーム」に挑戦してみると
しましょう。
すると、私たちが、日常経験する「心の葛藤」も、人生における一連のサイクルの
縮図であることが見えてきます。
こうした「心理ゲーム」も「見える(言語)化」した方が、
より精神衛生上も良いことでしょう。
「書くこと」で、「心」の「内面」を整理する。
もしくは、「思考」を「整理整頓」してみる。
ここから、日常生活における心理場面に、「芸術的思考(創作療法)」を
活用してみませんか?
このアイディアは、著者の問題意識「地獄を巡る心理的言語ゲーム」とも共有します。
著者も、幼少期から「社会不適応感」を何度も繰り返し経験されてきましたが、
そうした「精神的危機」に遭遇する都度、医者通いをすることになったのですが、
著者も管理人同様に、「大の医者嫌い」のせいか、独自療法を試みようとされます。
その独自療法の「世界観」が、下記のエッセーに綴られています。
同じような悩みを共有されている方には、何らかの有益なヒントが
得られるのではないかと、ここに掲げさせて頂きます。
①「ささやかな楽しみ」(本書9~15頁)
②「無為の技」(同18~29頁)
③「眠られぬ夜」(同31~38頁)
④「芸術家と精神分析」(同91~100頁)
⑤「雲におおわれた空」(同102~106頁)
⑥「不安を克服する」(同109~116頁)
⑦「神経過敏症の疑いあり」(同192~199頁)
⑧「不可能なことを新たに試みる!」(同217~220頁)
この8項目のエッセーが、主に、著者なりの「独自療法のエッセンス」が
詰め合わさったセットメニューであります。
特に、医者との直接対応を描写した
⑦「神経過敏症の疑いあり」(同192~199頁)は、
是非ご一読をお薦めさせて頂きます。
昨今、「投薬療法」に依存し過ぎの「不勉強」な医者は、
患者との「対話」を避け、まるで「機械」のように扱う傾向にあるとも
よく聞きます。
著者は、たまたま「良き医者(カウンセラー)」に巡り会えたようで、
医者も患者の「思考ゲーム」に乗ってくれたといいます。
もし、医者選びをするのであれば、このような「より良き<相談者>」を
持ちたいものです。
このように、日々の「心の葛藤」も無理な「人工的解決」を図るのではなく、
「自然」なリズムに合わせた「独自療法」で、乗り越えられれば、
人生にも深いコクが出てきます。
ここで「コク」が出てきたついでに、「コーヒーブレイク」・・・
『まさに逆境にあっては、受動的にではなく、創造的に楽しみながら、
自然に没頭することほど慰めになることはありません。』
(断章6、1961年、本書107頁より引用)
人生とは本来、各人各様自由自在のもの。勇気を持ってキャンバスに思い切った「人生地図」を想い描こう!!
さて、「コーヒーブレイク」で一服を済ませたら、
さらなる「連想ゲーム」の始まりです。
「創作の歓び」は、「生きる歓び」を死の淵から甦らせてくれます。
皆さんも、是非「創作の効用」を日常生活に取り入れながら、
「心の葛藤との対話」を試みて下さいね。
「不協和(心の内面の暗部)」も、あらためて、
「整理整頓」してみることで、案外、あらたな道が切り拓かれるものですよ。
その「方法」が、うまく見出せないからこそ、
直情径行的に、表世界へと「ストレス」を悪い方向に発散させることになるのです。
己の「暗い情念」も、しかと見据え、「整理整頓」し直した末に、
自分「固有」の体験を、多くの方々にも役立つものに「陽転」させることが
出来る方法が、「創作(芸術)療法」の素晴らしい点であります。
著者も、「精神の富」(本書41~45頁)で、この点を強調して論じられています。
「創作」は、物質的に貧しくとも工夫次第で、いくらでも展開発展させることが
叶う「魔法の手法」であります。
「創作」する過程で、人間の深い記憶につながり、「暗い情念」も
精神的に「浄化」されていきます。
一見すると、「暗い」マイナス表現も、心をしかと見据えながら、
「明るい」プラス表現でもって、再構成し直す知恵が身体に身に付けば、
精神のバランスを取り戻すことも叶います。
また、「同じ」言葉を使用していても、「文脈」や少しの「工夫」を
付け加えるだけで、意味(質感)も変わっていきます。
主題目的(つまり、行き着く果て)は、「同じ」でも、
心象風景を切り換えるだけで、かくも深い味わいが出てくるところが、
「創作の歓び=生きる歓び」であります。
そのことを、自分なりの「精神(分析)療法」も兼ねて、
皆さんにも、その楽しみをお伝えしたくて、日々綴らせて頂いています。
「仕事=働く=生産」の原点も、この「生きる歓び」を深く味わうためです。
その「ともに生きる歓びの輪」が、世界に拡大していくと、
「大宇宙大和楽 森羅万象一切弥栄」を実現させることも出来ます。
そうです。
「創作」は、ただ単なる虚構のフィクションではなく、「祈り」なのです。
管理人は、プロの「文筆家」を日々意識しながら、人生を歩いていますから、
「言霊」を確信しながら生きています。
プロの「文筆家」を強く意識することで、それまでの「言葉の使い方」が、
いかに粗雑であったかも、何度となく反省させられています。
それは、現在只今も、同じ気持ちです。
「日々是好日、心機一転、大死一番、絶後蘇生」
常に、一歩ずつ新鮮な気持ちで、綴らせて頂いています。
「いのち(生命)の更新=瑞々しい時間の循環」を感じます。
著者も、日々毎秒毎秒、「いのちの更新(生成消滅)」を意識することで、
世俗的な時間意識から抜け出す知恵を提供して下さっています。
この「世俗的な時間意識」こそ、「輪廻転生の真の姿」だと思われます。
この「輪廻転生の輪(つまり、自我意識)」を断ち切っていくことが、
「涅槃寂静・寂滅為楽の道」であります。
著者は、「理知的」な西洋人のくびきから脱出する術を、
東洋の叡智に見出したようです。
その壮大な構想が、『シッダールタ』にも表現されています。
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<ヘルマン・ヘッセとブッダに魅せられて・・・>
この『シッダールタ』(ヘルマン・ヘッセ著)については、
下記のような、写真家竹田武史氏の「美しい写真小説集」があります。
ブッダの足跡を北インドに求めながら、追跡・追憶しながら
ヘルマン・ヘッセとブッダに思いを馳せ、写真撮影の旅をされた
とのことです。
『シッダールタの旅』
(竹田武史構成・写真、ヘルマン・ヘッセ著、高橋健二訳)
※『シッダールタ』
(ヘルマン・ヘッセ著、高橋健二訳、新潮文庫、1971年)を
「底本」として、再編集・構成された「写真小説集」とのこと。
是非、皆さんも一度お手に取って、心を癒されてみて下さい。
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このように、「自我(自意識)」をすべて出し切ってしまえば良いのです。
著者のエッセーを読み進めていくと、すべての「創作者(芸術家)」は、
この「自我(自意識)」を一般公開する「恥ずかしさ」から逃げてはいけないと
勇気付けられます。
その「表現手法」こそ、多種多様で、「照れ隠し手法」も様々ですが、
歴史に名を残し、「人類の共有思想財産」にまで高めていくためには、
この厳しい原則からは逃げられません。
管理人も、実際に「創作表現活動」に参与させて頂くことで、
プロの作家の並大抵ない「精神的・肉体的体力」に気付かされました。
日本文化(神話)は、「心の葛藤」を絶妙に表現する術を教えてくれるようです。
「ぼかし・ずらし・すかし」から始まる婉曲的表現。
また、一人ひとりを「心」に思い浮かべながら、
敬愛の念を思い出させてくれる敬語表現。
また、様々な著者の文体に触れることで、
人間心理の微妙な「心の綾(襞)」を思い知らされます。
上記タイトルにも掲げさせて頂きましたが、「思い切る」という言葉も
あらためて力強い表現だと気付かされました。
文章を綴るに際して、常に「国語辞典」を横に置きつつ、
何度となく見返すのですが、
「日本語」は、本当に地球上でもっとも難しい言語なのかもしれません。
そう思うと、本日も毎度勉強させて頂いているテレビ東京系番組
『Youは何しに日本へ?』に出演されている外国人の方は、
なぜ、あんなに短期間??で流暢な「日本語」を使いこなせるようになるのか
本当に不思議な気分にさせられます。
日本人が外国語を学ぶに際しては、かなりの「ぶ厚い壁」を感じますが、
外国人の方は、どのような心理・心境で学ばれているのでしょうか?
管理人も、日々、「一字一字」文字選定作業をする過程で、
あらためて「日本語」の学び直しに直面させられています。
このように「日本語」を日々、味わっていますと、
「日本語のクオリア(質感)」は、そのまま、「日本人の<情念>」を
呼び覚ますことにも気付かされます。
「日本語の<いのち>たるや恐るべし!!」であります。
それはさておき、先程の「思い切る」ですが、
この行為は、「心のねじれを断ち切ること」でもあります。
「思い(知的感情)」を「断ち切る」。
ここに、普段あまり、私たちが気付かない「盲点」があります。
この「思い(知的感情=言葉)」にとらわれて、深刻な「心理状態」に
陥る原因も、この「思い」を十分に断ち切らないままで、
いつまでも「執念(妄念)」に取り憑かれるからです。
著者も、「日記-ある病ののちに」(本書145~180頁)と
題したエッセーで、
「懺悔行為」と「告白行為」の相違について考察されていますが、
ここに「思い切る」ためのヒントも隠されているようです。
「自我(自意識)を出し切る毎に、忘れてしまう」という知恵であります。
よく作家は、刊行された「作品」がすべてであり、
一度公表されてしまったものは、取り返しがつかない「まな板の鯉」だとは
言われますものの、
その一連の作家の「作品」も、「・・・」とみなしてしまえば、
存外、作家の苦しみも理解出来るのではないでしょうか?
作家は、「書かなければ」精神の安定を保てずに、
無事「天寿」を全うし切れなかったかもしれないのです。
「書いても」悲劇的な結末に導かれる作家はいますが・・・
そんなこともあり、生涯にわたる「精神的危機」を何とか無事に乗り切った
著者に注目した訳があります。
途中で、「生」を「断念」することなく、人生には苦難の連続があるとはいえ、
最期まで勇気を振り絞って、「何としてでも生き抜く」が、
管理人自身にとっても、
大多数の読者の皆さんにとっての願いでもあるでしょうから・・・
このように、本来の「創作者」とは、
「やむにやまれず書かずにはいられなかった人間」なのです。
とはいえ、昔に比べると、このようなタイプの作家も
少なくなってきたように見えるのは気のせいでしょうか?
「感受性の敏感度」で推し量ると、
きょうびの「職業作家」の歴史継続的持久力(時空を飛び超えた生命力)に
かげりがあるように見受けられるのも、
こうした「生き抜くための<やむにやまれぬ>必然性」が
もう一つ弱く感じられるからかもしれません。
言葉に語弊があることをお許し願えるならば、
「パンのための仕事」であり、「魂の糧のための仕事」もしくは、
「人類後史への時空を飛び越えても語り続けたいメッセージ」と
いった美意識が、あまり力強く感じられないのです。
その分、「生命の燃焼度」も小さいのかもしれません。
つまり、「名声・名誉欲」といった「この世界」における世俗的評判に
強く捉えられている作家が多いような気もします。
特に、「若手」作家さんに・・・
読んでいても、「心の琴線」に今ひとつ響いてこないのです。
「水平的語り」の作品は多々あっても、
「垂直的語り」の作品が少なく、「魂」の最深奥部に伝わってこないのです。
もっとも、念のため、すべての「職業作家」に
当てはまるわけではありませんが・・・
ただ、少なくとも、「文豪」と呼ばれるほどの、
深い思索の跡を感じさせる「哲学的小説家」が少なかったり、
教養レベルから判断しても、ジャンルがあまりにも狭く、
「オタク(蛸壺)化」しているように感じられて、
個人的には物足りないのです。
もちろん、「オタク」的生き方を揶揄しているのではないですよ、念のため。
なら、自分でも、大先輩方の後に続いて、「哲学的小説」に挑戦しようと、
研究練習中であります。
とりわけ、保坂和志さんやドリアン助川さんや
前にもご紹介させて頂いた宮下隆二さんなどの
「意欲的挑戦作品」には、創作意欲を掻き立てられます。
「徹底して苦しみ悩み抜く力と明るいユーモア力が、
これからの哲学的小説には必要」とも学ばせて頂いています。
このように、いわゆる「大家」が多種多様のジャンルで存在していた時分には、
一般庶民の生活にも力強さがあったのだとも考えられます。
それは、多種多様な創作者がどこまで叢生しているかによって、
社会の「活力」を測る試金石ともなっていたということであります。
また、各「創作者」の人生(生活)に取り組む姿勢(ハングリー精神・志の高さなど)に
よっても、一般社会文化現象(政治経済分野など世俗内倫理も含めた諸現象すべて)に
与える精神的・物質的貢献度も大きく変化していくようです。
世俗社会に、良い意味での緊張感が喪失していくと、人間の成長力そのものも
弱まっていくような危機感も覚えるところです。
そうした高い問題意識を兼ね備えた「創作者」の「作品」から、
「(謎の)摩多羅神(諸芸・五穀豊穣など、およそ宇宙一切の繁栄を司るとされる
霊魂??)」も強く宿り、物質的経済面という観点から見れば、即効性はありませんが、
精神面における人々の「生き抜こうとする心」へと、
じわじわと生命エネルギーが波及していったようにも考えられます。
それが、結果として、真の意味での「物質的」繁栄にも波及していったのだと思われます。
そのことを真摯に考察していくと、いわゆる「文化(芸能)人」に要求される
倫理的責任観にも、かなり多大な問題意識が必要だと言えましょう。
そのことが、社会に広く「活力(豊かさ)」が与えられていた
原動力でもあったのではないでしょうか?
ですが、嘆いてばかりもいられません。
私たちも、「人間」としての「原点」を思い起こせば、
再び「飛翔」することが必ず出来るのです。
そうです、「思い切り」の力です。
あなたも、思い切ってキャンバスに、これからの人生図面を描いてみませんか?
勇気を持って飛び出していく「勇者」は、常にドンキホーテのような
嘲笑を受けることも多々ありましょう。
ですが、それも、宇宙時間に照らして見たら、
「この世界」のごくごく微小な時間だけの辛抱です。
最後に、著者の「詩」と始めての試みですが、
管理人の拙い「創作詩」をご披露させて頂いて、筆を擱かせて頂きます。
まずは、ヘルマン・ヘッセの詩から、
<幸福>
『おまえが幸福を追いかけているかぎり
たとえ最も好ましいものを手に入れても
おまえは幸福になれる段階に来ていない
おまえが失ったものを嘆き
いろいろな目標をもち あくせくしているかぎり
おまえは平和の何たるかを知らないのだ
おまえがすべての望みをあきらめて
もはや目標も欲求も忘れ
幸福という題目を唱えなくなったときはじめて
あふれるほどの出来事ももうおまえの心に届かず
おまえの魂は安らぐのだ』
(1907年、本書77頁)
次に、管理人の「創作詩」を「本邦初公開」させて頂きます。
<夜明け前>
『あなたはいつも言っていましたね。
人生は憂いに満ちた苦難の連続だと。
でも、ちょっと胸に手を当てて考えてごらん。
ほら、あの日、あの時、
明るく希望の光に満ち溢れた日々もあったでしょ。
その「心の揺れ動き」は、
きっと、あなたに「人生の深い味わい」を気付いてほしいとの
愛情に満ちた「天からのメッセージ」。
『天を怨まず 人の過ちを責め咎めず 己の心の弱さこそ問いなさい
さすれば、人を 世を 天を 愛し敬うことが出来ようというもの・・・』
古人も、このように語っています。
<天才>とは、<天からのメッセージ>を素直に受け止め、
「人生を天の心とともに楽しむことができる人」
努力はもちろん大切。
でも、ほどほどにね。
「やればできる」なんて言った偉い人もいたけど、
やれなかった時の痛みも想像することは大事だよ。
何でも、がむしゃらに猪突猛進する<イノシシ武者>だけが
偉いわけじゃない。
精神的危機を感じた時には、一旦「勝負はお預け」
時には、逃げ、落ち延びることも、生き抜くための「温存力」だから。
「他日を期す!!」
この昔の賢者の言葉を思い出すがよい。
心が弱くなった時でも、周りの声を気にせず、
あなたの「魂」に忠実に生きなさい。
「二度とはやって来ない、かけがえのない人生なんだから・・・」
それでも、「人間」として社会で生き抜いていくかぎりは、
周りの声が、耳障りかもしれないけど、
それも、人生のひとときのこと。
夜明け前は、誰しもつらくて苦しく暗いと感じるもの。
でも、明けぬ日はありません。
さあ、あなたも地獄から逃げず、勇気を持って
栄えある第一歩を踏み出そう。
必ずしも、「地獄」を生き抜く通行手間賃として、
「六文銭(お金)」はいりません。
「いま・ここ」を先途と見立てて、「傍観者」たちと
斬り結ぼう!!
その真剣な姿勢にこそ、「傍観者」たちの弱い心をも、いつの間にか
強い心へと「回転」させるといった不思議な力が宿ることでしょう。
繊細で心優しいあなたなら、出来ますとも。
あなたの生き抜いた跡を信じて続く次世代のためにも・・・
そのような「天の心」で、道を歩けば、
きっと、「新世界」の片鱗を
時を忘れた人生の波の間に間にかいま見ることでしょう。
飛び立つ鳥は跡を濁さず、
鯉の滝登りは、転じて龍となる。
一龍だけでなく、双龍であることを思い出してね。
あなた一人だけで生きているのじゃないんだから・・・』
ということで、始めての試みでしたが、
皆さんにこの「応援メッセージ」を送り届けさせて頂きますとともに、
本書『地獄は克服できる』をご一読されることをお薦めさせて頂きます。
最後までお読み頂きありがとうございました。
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