武田双雲さんの「書く力~ポジティブに生きるためのヒント」湧く湧く(ワクワク)と書くことが、自信回復へと繋がる原動力に!?

Pocket

「書く力~ポジティブに生きるためのヒント~」

テレビドラマや著名アーティストの創作活動にも

協力されている人気書道家の武田双雲さんから、

「文字に宿る言霊」を活用した自己治癒法を学びます。

忙しくて、時間ばかりが過ぎ去っていくように見える

現代社会・・・

「意識的」に自己を見つめる時間を持ちたいものです。

人間は、言葉によって、傷つき救われる存在です。

今回は、この本をご紹介します。

「書く力~ポジティブに生きるためのヒント~」       (武田双雲著、幻冬舎エデュケーション新書、2014年)

武田双雲さん(以下、著者)は、数々のテレビドラマや

アーティストの創作活動に協力されてこられた人気書道家であります。

幼少期から、母君に書道を学びながらも、ご本人曰く

『いわゆる「いい大学を出て、いい会社に就職する」という、

まっすぐのレールを歩んでいた。』(本書27頁)と、書道家として

「独り立ち」されるまでの人生を振り返っておられます。

東京理科大学のご出身であり、理系畑の異色の書道家でもあります。

そのため、「書道」についても、独特な理系的「量子哲学」から

文字には、言霊(エネルギー)が宿るとの「波動的見方」も

お持ちのようです。

NTT退社後、25歳にして書道家として独立。

以来、様々な遍歴を積み重ねながら、大ブレイクされ、

今や書道アーティストとして大活躍されています。

著者も、ここに至るまで、様々な創作的実験を繰り返してきた人物です。

ある時には、路上パフォーマーとして「書芸」をされておられたとか・・・

昔から「一芸に秀でたる者は、多芸に通じる」と言われるように、

なかなか「一芸に秀でる」時間さえ失われつつある現代社会の中で、

書道精神から学び得た「人間にとって、何が一番大切なのか?」に

ついて、考察されています。

このような忙しくて、心のゆとりを亡くしていく時代には、

意識して、「心の精神的余白」を埋める時間が必要になってきます。

中でも、「書くこと」は、心の畑を耕してくれるのに最適です。

著者も、最近の出版事情なのか、「○○力」というタイトルで、

本書を世に問うておられますが、内容は高密度で勉強になります。

ここで、私事になり恐縮ですが、管理人も幼少の頃には

「書道」と「そろばん」を学んでいた時期があります。

そんなこともあるため、著者の「書道哲学」には

素直に心惹かれるものがあったのです。

いずれも、現代教育では軽視されてきた「右脳型教育」です。

文系・理系と「大人の事情」で、選別されていく前に、

こうした「学芸」を通じて、心を耕す機会を

与えて下さったことに感謝しております。

また、著者は冒頭で触れさせて頂きましたように、

NHK大河ドラマ『天地人』などのドラマの題字で

一躍有名になられたそうですが、

個人的には、管理人一押しの知る人ぞ知る

<妖怪へヴィメタルバンド>陰陽座さんの

10枚目のコンセプト・ストーリー・アルバム

『鬼子母神』(2011年)のCDジャケットの

題字も手がけられていたこともあって、

著者のご存在を知ることになりました。

さらに、前にも当ブログでご紹介させて頂いた

『龍馬の如く』の題字も手がけられています。

そうした個人的な縁もあったことから、

著者の描く「題字」から浮かび上がってくる

文字のエネルギーに引き寄せられていったようです。

それはさておき、「書くこと」によって、

精神面における効果的な「自然(代替)療法」になるようです

管理人もサラリーマン時代に「抑鬱状態」で悩んで一人悶々と

悩んでいた時に、ある人の薦めで「日記を書くこと」を

始めました。

幼少期から神経不安症や抑鬱気質に悩んできましたが、

そのアドバイスを得るまでは、「頭」の中だけで無理矢理にでも

整理整頓してきたのが、社会人になってから一気に吹き出してきた

ようでした。

そんなこともあり、現在は当ブログも含めて、日々「雑記」という形で

日々の「心の声」を綴る習慣が身に付いてきたようですが、

やはりそれまでの「書かない時代」から「書く時代」になってからの

精神状態では大きく異なるように感じます。

後に本文でも詳細に触れさせて頂きますが、著者も本書で強調されて

おられるのが、「書くこと=最大の精神安定剤(療法)」のようですね。

ですから、読者の皆さんの中に一人鬱々と悩み苦しんでおられる方が

おられるとしたら、「書くこと」を強くお薦めさせて頂きます。

ということで、皆さんにも「書くこと」を通じて「魂の奥深い世界」へと

ご招待させて頂こうとの祈りも込めて、この本を取り上げさせて頂きました。

「すべてを遊びに」から再出発しましょう!!

ところで、著者も独立直後はまったく仕事もなく

悩んでおられていた時期もあったようですが、

そんな時に、ふと、「すべてを遊びに」という発想

あたかも天からの啓示のように降って湧いてきたようで、

書に認(したた)められたといいます。

ですから、この「すべてを遊びに」という発想は、

何もふざけたものではないのです。

日本文化も、儒教的な影響を受けてきたためか、

「勤労観」にも非常に厳しい「ものの見方」が

あるようで、こうした仕事に「遊び」を

取り入れる発想には、一定の距離を置いてきたようです。

とはいえ、こうした「求道的勤労観」も

すべてが悪いという訳ではありません。

こうした丹誠を込めて仕事を成し遂げようとの「勤労観」が

あったからこそ、今日の繁栄があるのです。

その意味では、感謝の気持ちも込めながら、もう一段階

精神的に上昇した次元での「勤労観」に脱皮すべき時期が

これからの「未来経済」には必要だとの提言もさせて頂きたいのです。

そのことは、昨日のブログでも語らせて頂いたところです。

もともと、日本文化における「勤労観」の中にも、

「遊び」の要素はあったと思うのです。

少なくとも、明治以前までは・・・

ところが、皮肉にも生産効率を極度まで追求してきた

近代的職業観が、こうした余裕を喪失させていったようです。

そうした特殊な近代的職業意識が、戦後には

「サラリーマン文化」として定着し、そのまま現代にまで

至ってしまったがために、様々な雇用のミスマッチなどが

生じてきたように思われるのです。

「サラリーマン文化」を「社畜」などと揶揄して、

貶める品位は管理人にはありません。

こうした歪んだ見方こそ、多くの懸命なサラリーマン諸氏の心を

狂わせてきた訳ですから、ある意味で「ブラック企業」以上に

罪深い見方だと、個人的には感じています。

ところで、「サラリーマン文化」も安定経済の時代には最適化していた

「勤労観」ではありましたが、現代のような不安定経済時代になると、

逆に不適応になってしまいがちです。

そのため、生活のためとはいえ、多くの方々が心身を病むような

経済文化にまでなっているとすれば、良心的な観点から考察しても、

やはり何か異常な事態が起きているのではないかとも思われます。

近現代経済は、ひたすら「規模の経済」を目指してきたがために、

分業化し過ぎており、職場環境も日増しに風通しが

悪くなってきているようです。

こうした生産効率性至上主義を、今後とも続けていくのであれば、

国内外ともに共倒れになってしまうような悪い予感もしています。

だからこそ、「出直し起業」という「あたらしい職業観」も

若者の間には、徐々に広まりつつあるそうです。

再度、「仕事(働く)の原点に戻ろうではないか?」との

「世直し運動」も心ある若い世代には出てきているようです。

昨日も語りました若者の「低欲望・内向き化」を批判する声も

あるようですが、こうした時代における「声なき声」に

無理に抗う批判的反応(行動)は、決して良い結果を

社会にもたらすものとは思われません。

それは、すでに歴史が証左しています。

こういう100年に一度あるかないかの「大激変の転換期」には、

あらゆる観点から、柔軟に「手放し相互に許し合う」ことが大切に

なってきます。

そのことは、宗教界での動きを見ていても理解されますが、

私たちのような「俗界」では、精神的に立ち後れているように

感じられます。

ですから、もう一度「人間は何のために生まれてきたのか?」という

根源的な問いに一人一人が立ち返る時間を持つ必要があります。

それが、「すべてを遊びに」の精神であります。

平安時代に大流行したという今様。

その中に、有名な『梁塵秘抄』という歌集がありますが、

そこには、「遊びをせんとや生まれけむ♪♪・・・」という詞章もあります。

また、室町時代には、『閑吟集』といった「婆娑羅(ばさら)」な歌謡曲も

大流行していたといいます。

この「婆娑羅(ばさら)」あるいは「かぶき者」という文化には、

後に「下克上文化」といった極端な実力主義が社会に蔓延り、

大混乱の時代へと移行していったと言われていますが、

一方では、既成秩序にとらわれない洗練された文化も

たくさん生み出していったことも知られています。

有名な千利休もそうです。

彼の場合には、「茶道」ですが、その他にも本書との関連では

「書道」「華道」「香道」「色道(これは違うようだ(笑))」・・・

のように、多様な文化が花開いていきました。

こうした歴史的観点から考察しても、政治経済的に厳しい大混乱期を

経た後には、「穏やかな精神文化」が花開くという一定のパターン(リズム)も

あるようです。

以上、本書の主題「書くこと」というテーマからは、大きくずれていっていますが、

壮大な思想的観点から見れば、著者もこのような見方に共感してくれることと

勝手に推察させて頂いております。

まとめますと、「すべてを遊びに」から再出発しませんか・・・

ということです。

「書くこと」による自己治癒と社会治癒

さて、ここからが著者の本書における主テーマです。

本書には、様々な角度から「書くことの哲学」が考察されていますが、

特に、「書くこと」による「精神治癒法」には力点を置かれているようです。

おおざっぱに、「コミュニケーション術」を分解すると、

「口頭言語」と「文章言語」がありますが、一般的には

「口頭」よりも「文章」での表現形態の方が、細かい描写に適した

表現技法だとされています。

とはいえ、著者も強調されていますように、「伝える」から「伝わる」への

架け橋は、絶望的に困難なようです。

それが、「文豪」を悲劇的死へと導いていったのではないかと、

著者も分析されています。

こうした悲劇的教訓から学べることは、「完璧主義にならないこと」が

とりわけ大切なようです。

著者は、『人間だからズレて当然。ズレたままハッピーにならないと。

その道は、必ずあります。』(本書187頁)と指摘されておられます。

このように、管理人も日々書きながら、どんどん主題からズレていっている

みたいですが、全体的にうまく整合性がつけば、ひとまず「よしっ!!」と

しましょう。(自分で言うのもおかしいですが・・・)

ただ、こうして徒然と日々書きつづっていると、「書くこと」によって

精神が「ラク」になっていっていることも事実です。

そういう確信もあって、皆さんにも本書などを通じて「書くこと」を

お薦めさせて頂いている訳であります。

「書くこと」は、時間もかかり、現代のような「忙しい時代」には

面倒くさいことも確かにありますが、

少なくとも病院などに通う費用に比べると、

「断然、こちらの方がお得!!」ですよ。

しかも、「書くこと」により、連想ゲームの要領で「記憶」も蘇り、

精神的にもエネルギーが充実してきて「生き生きと」してきますので、

特に管理人のような「抑鬱気質」の方にはお薦めです。

もっとも、本当に動けないほど苦しい時は、書く気力すら湧いてきませんが・・・

そんな時は、焦らずにお休みしましょう。

著者は、このデジタル社会の中でアナログ的「手書き」を推奨されておられますが、

管理人もデジタル的「打法??」をする前には、適宜相当な関連本との参照や

下調べを「手書き」にてメモ書きしてから作業に入るようにしています。

そのため、手間暇はかかるのですが、

少なくとも倫理的に粗製濫造はしたくない性格なので、「急がば回れ」の精神で

懸命にキーボードを叩かせて頂いています。

書きながら、メモを見つつ、どんどんイメージが創造されていき、

当初の「完成予定図」からは離れていくのですが、その仕事過程こそが、

醍醐味でもあります。

「創造の歓喜」とは、こういう質感(クオリア)のことでしょうか?

その「質感」は、「口頭」でも「文章」でも、うまく表現され得ないために

非常にもどかしくも感じられますが、

「まっ、いいか。ほどほどにしとこう!!」という感覚も大切なようです。

そのような時には、「沈黙」も「表現の内」ですし、

表情言語や、腹芸も大切でしょう。

こういった「身体言語」を管理人も含め、

現代人はどこかに置き忘れてきたことが、

現代社会を殺伐とさせているのかもしれませんね。

「わかりやすい」表現だけが、重視されていく社会風潮に違和感や恐怖を

感じてしまうのは、管理人だけでしょうか?

つまり、このデジタル化社会におけるコミュニケーション技法の改善法を

管理人なりに著者の問題意識とも絡ませて考察すれば、

「すべては書くことに尽きる!!」ということになります。

「書くこと」は、「口頭」での「単発的表現」とは異なり、文字情報としても

残りますので、慎重になります。

そのために、必然的に「推敲」が要請されます。

その手間暇かかる過程があるからこそ、逆説的ですが、

「精神的浄化(カタルシス)」というプレゼントが

神様から贈られるのではないでしょうか?

「神様」とまでは言わなくとも、何らかの「見えない形」での

贈り物は届くものだと信じています。

本書で、特に気に入った論考が、

①「ないものねだりの嫉妬心」ではなく「あるある感謝」の実践

②「御陰様(おかげさま)」と「有難う(ありがとう)」という言葉

であります。

特に、後者の「御陰様」の由来には、深く感じ入った次第です。

いつも記事を書く際には、国語辞典類を確認しながら書き進めているのですが、

「陰」と「影」でも、微妙なニュアンスが違うようですね。

「陰」は、「光のあたらないところ」の意味だとか・・・

こうした文字の意味確定作業も楽しいものです。

著者によると、そうした陰日向に敬意を表し、感謝する心が

「御陰様」なそうです。

「淡々と・黙々と」という「静」から

「湧く湧く(ワクワク)と」という「動」へ・・・

こうした「陰徳」を積み重ねることが、

「自己治癒」と「社会治癒」につながるのだと確信しています。

それを「風林火山の精神」だと、管理人は名付けたいと思います。

そういうことで、そろそろ本日のまとめに入らせて頂きますが、

「書くこと」が、時間がかかっても「自信回復」へとつながっていく

第一歩であり、明日を信じて生き抜くための原動力になるということです。

ということで、皆さんにも「書くこと」を通じて「より良き社会」へと

つなげていく種蒔き作業に、ともに参加して頂きたいのです。

それが、「自分らしく」生きると同時に、「他人のために」生きることだと

思います。

著者も独自の「らしさ論」について、多少触れられていますが、

管理人の「らしさ論」は、「すべてはあるべきようわ」(明恵上人)を

深く探究していく「しぐさ(姿勢=至誠)」の中にあるのだということです。

ちなみに、明恵上人については、記事①記事②もご一読下されば幸いです。

最後に、著者は毎年6月9日を「世界感謝の日」として活動されているそうですが、

「6(陰)」と「9(陽)」、つなげると無限大(本書197頁)とのことです。

これには、「完全数9」を持つ管理人も深く共感共鳴します。

それでは、皆さんもお時間があれば「命の時間(静寂の間)」に

本書をお読み頂くことをお薦めさせて頂きます。

なお、著者の別著として、

『「生きるのが楽になる」禅語50話』

(武田鏡村氏との共著、三笠書房、2008年)

「書の道を行こう~夢をかなえる双雲哲学~」

(PHP研究所、2009年)

「書の奥深い世界」を感じたい方には、

「莫山つれづれ」(榊莫山著、新潮文庫、2010年)

をご紹介しておきます。

最後までお読み頂きありがとうございました。

sponsored link




 

コメントを残す

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)

サブコンテンツ

このページの先頭へ