ラース・スヴェンセン氏の『働くことの哲学』<弱くても勝てます!!>労働生活はどこまで実現可能でしょうか?

Pocket

『働くことの哲学』

世界中で読み継がれている話題作『退屈の小さな哲学』で

著名なノルウェーの哲学者ラース・スヴェンセン氏による

労働(仕事)論です。

現在、日本でも様々な<働き方改革>に関する話題が

盛り上がりを見せていますが、

どうもイマイチ哲学的議論にまで発展する深みがないようです。

なぜなのでしょうか?

対象者がいわゆる上層サラリーマンに偏りすぎているから?

今回は、この本をご紹介します。

『働くことの哲学』(ラース・スヴェンセン著、小須田健訳、紀伊國屋書店、2016年第2刷)

ラース・スヴェンセン氏(以下、著者)は、ノルウェーの哲学者です。

1970年世代だそうで、数々の職歴を積み重ねられながら、

現在はベルゲン大学教授を務められているといいます。

これまでの邦訳書には、

『退屈の小さな哲学』(鳥取絹子訳、集英社新書、2005年)があります。

この書物は世界15カ国語以上で刊行された話題作だともいいます。

とはいえ、管理人にとっては著者の上記話題作の存在などまったく知らずに

たまたま手に取ったことが著者によって手がけられた本書との出会いとなりました。

本書帯にある推薦文は、前にもご紹介させて頂きました

『暇と退屈の倫理学』などで知られる國分功一郎さんによるものです。

何と奇遇なご縁なのでしょう・・・

こうした帯文を眺めるのも、意外な「掘り出し物」の発掘につながるのですから、

帯文観察も捨てたものじゃないですね。

さて、最近はますます旅先などで訪れたあまり有名でもない

路地裏の小さなカフェ系書店や古書店などで

新たな本と人たちとの出会いを楽しんでいる管理人ですが、

この本は、4月末日からの連休中に大阪の四天王寺で

開催されていた春の古本祭りの帰りに立ち寄った

最近話題のブックカフェ型セレクトショップ系の

スタンダードブックストアあべの』店さんの書棚で

たまたま<発見>した1冊です。

セレクトショップ系の良さは、書店員さんの各々の個性や

書物愛が身近に感じられるところにあります。

そんな意味で、この書店を始めとする各地に点在する

セレクトショップ系書店は、

真の本好きにとってはたまらなく魅力的な穴場だとされているのでしょう。

なぜなら、ジュンク堂さんなどの専門書店から出発した書店とは

またひと味違う遊びの要素で満ち溢れているからです。

あべのハルカス近辺に立ち寄られた際には、

是非一度は足を運んで頂きたいと思われる隠れた名店へと

今後発展していくのではないでしょうか?

若者が多いのも特色で、本だけに特化せずに本に関連した商品などの

品揃えも豊富で、痒いところに手が届くような工夫が

随所に仕掛けられているのも魅力です。

いわば知の連想ゲームを楽しめる書店です。

知の連想ゲームと言えば、今大阪では松岡正剛先生による

近畿大学図書館の蔵書選定プロデュースなども話題となりましたが、

大学のような研究・教育機関に見られる堅苦しさがないところも

一般読書人にとっては優しいところですね。

管理人もつい最近知った書店であり、大阪人にもかかわらず盲点でした。

管理人も今後ともこうした魅力的な書店を<発見>した際には、

随時皆さんにご報告していきたいと考えています。

これからの時代は、本当の意味での口コミ時代ですしね・・・

ひょっとしたら、新たなマーケティング戦略とは

人工知能によるビッグデータ収集が今後ますます高まり重要視される中での

抜け穴こそ、こうした口コミを介したロングテール路線になるのかもしれません。

とはいえ、ロングテール路線とは、誰しもがよく見聞きする大規模広告宣伝情報に

対抗する手段の1つですから、マニアックすぎて<知る人ぞ知る>世界ともなるために

ここから導き出されてくる超稀少(貴重)な情報に接触すること自体が

奇遇の連続となりましょうから、

この狭くも魅力に満ち溢れた領域世界に遍在する情報群より

意外な<発見>が叶えば、そうした商品やサービスとの出会いへの

歓びも倍増するのではないかと想像します。

このような未来予測も考えつつ、管理人も新たな書物発掘作業を

楽しみながら、書評記事を創作しています。

ところで、管理人自身にとっての本選びの視点ですが、

もちろん単に面白いからだとか、

最近の流行作品だからというミーハー的関心からではなく、

ほとんどが哲学的問題意識に導かれてのことが多いです。

このような日々の人生における問題意識や課題などを

常に抱えておくと、読者さんにとっても1人1人のニーズに合った

より良き書物に出会えるのではないかと思います。

是非、読者さんも各々のこだわりである強烈な個性的感情を大切に

育ててやって下さいまし。

さてそんな管理人ですが、

やはり人生における大半の時間が割かれてしまう

仕事に関する各種論考書にはどうしても目が惹かれてしまいます。

私たちの労働生活の未来に直接関わってくる人工知能論やベーシックインカム論。

前にもご紹介させて頂いたような<手>仕事に直接体験付けられた

仕事哲学の諸論考などです。

こうした仕事や労働にまつわる様々な視点を提供してくれる書物には

読者の皆さんも多大な興味関心がおありだと思いますので、

今後とも引き続き追跡調査していく予定であります。

読者の皆さんにおかれましても、この本は読んで良かったよと思われた

仕事(労働)哲学論(だけに限りませんが)に関する書物がございましたら、

どうぞご遠慮なくコメント欄などでご教示下されば有り難き幸せにござりまする(笑)。

それはさておき、特に本書を購入しようと心惹かれた強い動機は

著者自身にも度重なる職歴がおありだということや

追って本文内の要約部で語らせて頂くことにしますが、

高等教育を受け過ぎた現代知的労働者にありがちな頭だけで導き出したような

浅薄な机上の空論や高等理論、

はたまた、特定の労働イデオロギーとは一定の距離を置きながら

この労働(仕事)哲学を読者とともに柔軟に考えていこうとされている姿勢に

好感が持てたところにあります。

本書でもこれまでの労働あるいは仕事にまつわる価値観の変遷史を辿りつつ、

著者自身の問題意識や意見を導き出すうえでの考えるための素材となった

様々な哲学者・思想家による労働観も引用されていきますが、

言うまでもなく人によって労働観は多種多様であることから、

この労働観こそ<唯一の正解・正論>だと結論付ける意図を

有するものではないと最初の「序」論(本書10~28頁)でも強調されています。

ということで、

本書は労働観に関する左派的見方(サボタージュ怠惰論?に偏重しがちな見方)、

右派的見方(いついかなる時でも勤勉なガンバリズム?に偏重しがちな見方)に

必ずしも視点を限定されていないところに、

多種多様な労働観をお持ちである読者の皆さんにおかれましても

近未来の労働観を練り上げていくための優れた思考実験素材本となるのではないかと考え、

今回はこの本を取り上げさせて頂くことにしました。

<仕事なんか生きがいにするな!!>とは、しばしば言われるものの・・・

それでは、本書の内容構成に関する要約紹介へと移らせて頂きますね。

まず最初に<訳者あとがき>によると、本邦訳書の原書は、

『Lars  Svendsen ,Work  second  edition,2016,Routledge』

全訳だとされています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

・第二版への序文

・序

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

①「第1章 呪いから天職へ-仕事の哲学の小史」

本章では、<序>で著者も強調されていますように、

「西洋社会」における労働観の変遷を辿ることで、

労働と仕事の哲学史が縷々解説されていきます。

ですから、私たち日本人を含めた「東洋世界」を始めとした

「西洋」から見た外延部に住まう人間にとっては、

異論も反論も多々出てくることが予想されます。

あくまで、西洋における労働観、ことにキリスト教文化圏(と言っても

多種多様で一律な労働観があるなどと断定することには慎重でいなければ

なりませんが)では、基本的には労働「罪悪」観(論)が

底流に据えられていることが多いようです。

本章においても解説されているプロテスタント的宗教改革運動を

経るまでという時期的制約条件はあるようですが・・・

なにせ、アダムとイブの物語からして

人類の堕落史と捉えられるのが一般的解釈だとされてきましたから・・・

そんなイメージから、西洋では、

一般的には<労働>回避論に視線が向く傾向にあるようです。

とはいえ、この否定的イメージが付きまとう<労働>に対比して、

<仕事>には比較相対的に肯定的イメージでもって語られることが

多いようです。

本章でも紹介されている古代ギリシアの二大哲学者を始めとする

西洋哲学者もまずは「仕事」と「労働」を厳密に区分しながら

その定義における広狭・深浅を領域設定しながら

議論を深めていくスタイルが一般的であります。

そんなわけで本章タイトルにも一応<仕事>のとは銘打たれていますが、

こうした<仕事>哲学を考えるうえでは、

<労働>と<仕事>とを区分しながら考えていくのが、

西洋哲学における労働ないしは仕事にまつわる哲学的考察を

していくうえでの流儀であるようです。

このように西洋哲学では、もともとの言葉が持っていた語源論から

接近する考察手法が労働(仕事)論に限らず数多く見受けられます。

ですから、西洋哲学をより詳細かつ具体的にその本質へと迫りながら

理解していこうとされるならば、どうしても西洋の言語学や言語論の

素養が必要不可欠となります。

とはいえ、私たち一般人読者層(著者も<序>で本書の読者対象を

一般人に据えられていますが)は専門家を目指すわけでもない限りは、

一応のこうした流儀作法があるということだけを頭の片隅に置きながら、

専門家である著者のガイドに沿って理解していけば十分であります。

ですから、本書では小難しい哲学的専門用語が多用されたり、

難解な観念的議論に惑わされることもないエッセー調での論考形態で

ありますので、そこは読者の皆さんにも安心して読み進めながら

それぞれの哲学的考察を深めていって頂けるのではないかと思います。

本章をものすごく簡潔に要約しますと、

タイトルにもあります通り、

西洋哲学における仕事(労働)観の変遷史とは、

<呪い(人類への神なる存在からの苦役罰)から天職(神なる存在から召命された

天職=コーリング、管理人注:「宗教改革」におけるプロテスタント的転回から

導き出されていった苦役的労働観からの脱却的視点のこと)>へという流れで

労働観ないし仕事観が革新されていったところに主軸があります。

ここで「世界史」や「宗教史」、「英単語源論」の一般的素養をお持ちでない方への

捕捉説明をしておきますと、「プロテスタント」とは、

「プロテスト(抗議)」をする者たちという意味であります。

何に対して「プロテスト(抗議)」するかと言えば、

もちろん既存のキリスト教神学観(とりわけ、ローマ=カトリック教会が推奨してきた

ような宗教的世界観のことです。)に対してであります。

さらなる詳細な哲学面から見た解説につきましては、

本書に委ねさせて頂くことにしますが、

西洋社会においても徐々に「労働」や「仕事」といったものへの

イメージが肯定的に捉え直されていくのが見て取れることと思います。

また、一口に「プロテスタント」思想と言っても、

代表的宗教思想家であるルターカルヴァンとでは大きく志向性が異なっていることを

教示してくれたところも勉強になります。(本書38~44頁ご参照のこと)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

②「第2章 仕事と意味」

本章では、第1章における<呪い>から<天職>へという

一応の労働(仕事)観の変遷の流れを受けて、

「肯定的」意味へと転じた<仕事>の意味・意義について

近代思想家の代表者であるカント・スミス・マルクスの

具体的考察を通じて、再度、検討し直されています。

とりわけ、カントの議論は、あらゆる理想論に通底するように

人間や仕事を単なる手段としてしか狭く捉えない発想に

自省を促す視点を提供してくれます。

<仕事>であれ、<労働>であれ、

常に有意義なものをもたらしてくれることが保証されていない以上は、

有意義ではない負の側面にもきちんと目を据えておく視点が

是非とも必要となります。

そうでないと、<仕事>や<労働>そのものに

本来、社会から必要とされている以上の「過剰さ」が

付着してしまうことになり、

人間生活や社会生活における<傍を楽にする>という意味での

「働き」が逆に阻害されてしまうことが多々あるからですね。

つまり、「手段」が容易に「目的化」してしまいがちだということです

<仕事>や<労働>に対する意味を常日頃からきちんと見据えて考えておくことで

こうした安易な惰性的傾向への歯止めともなりましょう。

そうでなければ、人間の対社会生活時間の大半をなす<仕事>や<労働>時間が

ただただ苦痛となるばかりであります。

まとめますと、人間にとって大半の時間を占める<仕事>や<労働>に

割り当てる時間の意味を厳しく見据えることは、

自他ともにおける人間尊厳にも関わる一大事だということに尽きます。

本章を読み進めるだけでも、本書主題である労働論だけに特化されない

カントの事物そのものへの意味論への探究を始め、

とりわけ現在は何かと誤解されがちなスミスやマルクスが

本来、「過剰」な労働賛美がもたらしがちな結論に対して

何らかの歯止めとなるための真摯な論考を残しておいてくれたことについては

素直に敬意を払っておきたいところであります。

一見すれば今日、スミスマルクスの思想観・労働観は対立するように

見えますが、またそのように解釈される余地も多い2人ですが、

両者の視線はそんなに大きく隔たっているわけでもないことにも

気づかされます。

といいますのも、両者の生きた時代は、

近代産業革命が勃興・進展し、いよいよ頂点を極めつつあった時節柄、

その弊害も顕著に現れだしてきた近代絶頂期のイギリス社会の行方を

憂慮する眼差しから論考されてきたからであります。

そうした眼差しは、21世紀現在の<第4次産業革命>が叫ばれる今日においても

決して色褪せることない人類の行く末を占う重要な視点を提供してくれています。

本章の主題は、仕事の意味論ですが、

ますます技術革新化が進展し、人間<仕事(労働)>の分業化・分断化・

細分化の流れで、仕事そのものへの意味や欲求が薄れていく感覚が強まる中で

今後いかなる発想や姿勢を<仕事>や<労働>の中に持ち込めば、

人間らしさが剥奪されないかを想像していくうえで欠かせない視点を

提供してくれる章となっています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

③「第3章 仕事の割りふり」

本章では、古代から現代までに至る「社会階層」面から

分析考察した<仕事(労働)>の割り振り問題について、

倫理的に考えるという視点で論考が進められています。

とりわけ、「奴隷制度」のあった古代はなおのこと現代に至るまで

いわゆる3K(きつい・汚い・危険)な作業は、

可能な限り社会の<最下層>へと回したいとする誘惑が

どれほど不公平を強いてきたかにあらためて着目させる論考となっています。

とはいえ、人類史は、可能な限り「不公平さ」や「不平等」な格差を是正しようと

努力してきたわりには、その過度な行き過ぎにも警戒しておく必要があるとも

著者は、本章の結論部(本書102頁)で強調されています。

このあたりは、歴史的教訓からきちんと学び取っておく必要があります。

「なぜ、極度な配分の正義を進めること(極端な社会・共産主義体制への志向性)で、

かえって、人間性の剥奪へとつながっていったのか?」を

哲学的にも分析考察しておくことは、

現代「資本」主義体制(とりわけ、ビッグデータなどで

今後ますます人間が管理されていくことが予想される「管理」型資本主義体制)の

未来像を考えるうえでも外せない重要な問いとなります。

私見では、この問題の根深さは、現在の「移民(難民)」政策問題にも

関連してきますが、結局は個々の「3K」からの逃避癖の成れの果てが

呼び寄せたものだと推察しています。

人間は確かに管理人も含めて可能な限り面倒くさいことや「3K」からは

逃れ出たいとする願望が強い生き物であります。

こうした課題も、今後、機械への「振り分け」で解決することが叶い、

その過程で、人類史における奴隷制度や移民(難民)が抱える難題が

自然に解消されていくとの楽観的な見立てもあるようですが、

「機械」へのイヤなことの「押しつけ」という思想がある限りは、

必ず「人間」一般へのこうした「差別(偏見)」感情も転移・投影されていき、

決して解消されるに至らないのではないかと

少なくとも管理人自身は、悲観的な見通しをどうしても持ってしまいます。

なぜなら、人類史全般をあらためて再点検していくと、

「家畜」制度に行き着いている状況が自ずと浮き彫りにされていくからです。

まずは、こうした「家畜」制度に類似するような社会現象が出てくる過程を

きちんと分析したうえで、そのような制度が発生する余地を可能な限り

減少させていくこと。

ここに、今後の人類の未来予想図を占う鍵が潜んでいるものと

強く推測しています。

ですから、極度な配分の正義がなぜ失敗したのかを考える視点においても、

この「3K」問題も含めて真摯に考えておく必要があります。

つまり、管理人が強調させて頂きたかったことも

ただ単に配分の正義と称して、あくまで「強制的」に

「3K」を万人に「割り当て」れば自ずと解決するような

簡単な問題ではないということであります。

「では、この<3K>問題を自発的に受け容れながら生きていく姿勢を

自身の倫理観に取り入れるとすれば・・・」

この問いの一応の思考実験については、

後ほど管理人自身の日常業務内容などと絡めて、

項目をあらためて検討していきたいと思います。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

④「第4章 仕事とレジャー」

本章では、進化し続ける現代「資本」主義経済生活の中で

生きる限りは、もはや、<仕事(労働)>と<余暇(レジャー)>は

連続してきており明確に区切りをつけることなど出来ないという

皆さんもお馴染みの論点が示されています。

つまり、レジャーによっては仕事から逃れきれないということですね。

一時的なバカンスは楽しめても、すぐに「ブルーマンデー(憂鬱な月曜日、

日本では別名:サザエさん症候群)」が訪れるということです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

⑤「第5章 管理されること」

本章では、現代「組織」労働が、

当然ですが、労働者を極度に時間管理することで成立発展してきた

歴史的事例(フォードテイラーなどの「科学(合理)的!?管理経営」の手法など)

などを批判的分析対象としながら論考されています。

こうした手法がもたらす問題点は、

これまでの「工業化」社会だけに特有の問題として

捉えられるべき一時的現象にとどまるのでしょうか?

実は、「脱」工業化社会においても、ますます強度が増してきているようです。

そのあたりが、自己啓発ブームの背景にある心理分析や

現代リーダーシップ論が志向する思想分析でもって

鮮やかに描き出されていきます。

本章における論考は、「自己実現論」や「ブラック企業体質」が

なぜなかなかに強固としたものとして社会に定着しているのかを

考えるヒントをも提供してくれています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

⑥「第6章 給料をもらうこと」

本章では、<給料=生計費>が稼ぎ出されていく過程の

物理的・心理的な分析考察を通じて、

賃金から見た仕事論が展開されていきます。

「時は金なり」。

この諺に対しては、管理人もこれまでたびたび批判的考察を加えてきましたが、

著者もこの諺が指し示す行方について憂慮されておられるようです。

一方で、「金」さえ各人の<仕事(労働)>に見合った分だけ

潤沢に支払われれば、万事すべてバラ色に解決し得るかと思考実験してみれば、

必ずしもそのようにはならないだろうとも著者は考えておられるようですね。

まとめますと、<仕事(労働)>は単なる生計費獲得の手段にとどまる次元の

活動ではなく、人間存在の意味・意義を賭けた文字通りの「生業(なりわい)」の

側面もある多面・多層構造で成立している「あまりにも人間的な」生活だと

いうことに尽きます。

なお、本章の論考は、「賃金」と「労働」の相関関係に目を向けていくことで、

「価値」と「価格」の相違にも触れることが叶う手っ取り早い

労働「価値」論の入門部ともなっています。

ご興味関心がおありの方には、ここからさらに進んで

「近代経済学」、「マルクス経済学」のジャンルに囚われずに、

「剰余」価値論や「計量」経済学の探究へと歩を進められるのもよいでしょう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

⑦「第7章 飽食の時代の仕事」

※本章からは、本書「第一版」を大幅に改訂させた論考として

改稿を加えられたといいます。(本書冒頭部『第二版への序言』より)

さて、本章では、現代資本主義経済が、「消費」に比重を置いた形で

進展していった模様の解説から開幕されていきますが、

21世紀現在においては、もはや「消費」だけが、

現代経済の推進力や人々の<仕事>への欲求を満たすものとは

成り得ていない現状が分析提示されていきます。

それが、すでに豊かになりモノやサービスに満ち溢れた

特に先進国経済における成長の限界をも意味することになるのでしょうか?

著者は直接的には「消費」意欲への減退自体をもって、

即座に成長の「限界」だとか「制約条件」だと断定されているわけでは

ありませんが、人々の消費傾向に見られたような現象が

仕事(労働)観そのものにも反映されてきている状況については

提示されています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

⑧「第8章 仕事とグローバリゼーション」

本章では、グローバリズムがもたらす仕事の変容について

論考されています。

本論考によると、著者自身によるグローバリゼーション観は

概して楽観的な見方をされているようです。

一般的に流布されているグローバリズムがもたらす仕事への弊害論には

反論をお持ちだといいます。

もっとも、著者は、純粋な「経済的な」グローバリゼーションに

話題を限定されていますが(本書197頁)。

著者によると、近未来における仕事へのより深刻な影響は

グローバリゼーションよりも技術革新の方がより大きいだろうと

されています。

「それでは、昨今世界中で叫ばれるようになったように、

人工知能などの技術革新が人間の仕事に<終焉>をもたらすのでしょうか?」

次章では、その問いへの暫定的な見解が示されています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

⑨「第9章 仕事の終焉?」

※それによると、結論的には、仕事そのものが<終焉>に

向かいつつあるというよりも、大幅な<変容>を遂げつつあるというのが

著者の見立てであります。

いずれにせよ、技術革新の度重なる進展が止めようのない勢いで

ある限り、確かに人間が従来行ってきた仕事の大半は失われていくことが

予想されます。

とはいえ、これまでの歴史を振り返るなら、消滅した分以上に

新たな仕事が創出されてきたことも事実であります。

管理人も基本的には技術革新に対しては楽観的ではありますが、

その勢いが20世紀までとは異なり、非常に激しいために

職業選択に関しては、これまで(つまり、親世代)以上に

柔軟に構えた準備を常にしておく必要があることだけは

日々実感するところであります。

ただ、実際に新たな就業に当たって必要となるスキルを

身につけるための時間と経済的コストをどこからやりくりしてくるかに

不安感と焦りを抱えているわけですが・・・

おいそれと、10~20代の頃のように将来をのんびり構えて

「再」教育投資する機会を持つこと自体、

現在の仕事を抱えながらでは難しいことですから・・・

特に、「超」就職氷河期世代にとっての「再」チャレンジは

かくも厳しいものですからね。

このあたりの事情も項目をあらためて軽く触れながら

同世代の方にご参考になるかどうかは心許ないですが、

考えてみることにします。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

⑩「第10章 人生と仕事」

※やっと、本書最終章へと辿り着きました。

いずれにせよ、人生の大半の時間を占めるのが

仕事に割く時間である以上、

ただ、「仕事なんか生きがいにするな!!」と言われても

すぐには同意・納得出来ない方の方が大半なのではないでしょうか?

管理人もその1人です。

著者も単に日々の<仕事>を単なる生計費を稼ぐための手段と

「割り切る」だけの強い意志力を有した

ある友人の事例(本書168~169頁)を引き合いに

著者自身の仕事(労働)観の一端も吐露されておられますが、

「金よりも貴重な時間」

言い換えるならば、「時は金なりではない!!」

「金銭的代償で、失われた貴重な時間など永遠に取り戻すことなど

決して出来やしない!!」と強く意識しているからこそ、

やはり、<仕事>そのものに金銭以上のやりがいを

見出してしまうのかもしれませんね。

その意味では、管理人もある種の<仕事>中毒なのかもしれません。

とはいえ、前にも語らせて頂きましたように、

管理人も含めて世の大多数の方々によって仕遂げられてきた<仕事>の

大部分がたとえ「自己満足」的要素に満ちたものであるにせよ、

人々のそうした「もう少しの踏ん張り」の積み重なりがあったればこそ、

今日の豊かな経済生活を満喫しえているのも

また真実でありましょう。

まとめますと、ほとんどが金銭的評価も得られないような

半ボランティア的仕事によって、

ここまでの文化・文明に進歩がもたらされてきたことは間違いないということです。

もっとも反面として、「過剰さ」をもたらし地球上の生態系を乱し、

不必要なまでの混乱を人間社会に「鬼っ子」のごとく産み出してきたことも

真実であります。

ということで、今後とも人類は<仕事>のあり方を考え続け、

「改善」し続けることを通じてでしか、

新たな経済生活の進歩向上へと導く道はないということであります。

いずれにしましても、

<仕事>とは多義的な要素を抱え込んだ生命活動ですので、

これが「唯一の正解」だと断言など出来ませんが、

「皆さんも管理人もほどほどに・・・」ということで、

一旦、ここで筆を擱かせて頂くことにします。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

・読書案内

・訳者あとがき

・原注

・索引

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

「大学は出たけれど」(小津安二郎)、超就職氷河期世代に再チャレンジする<弱くても勝てます!!>可能性はどこまであるのかを思考実験しながら考えてみると・・・

ところで、管理人が<仕事(労働)の哲学>についての関連書を

しばしば取り上げさせて頂いているのも、

もちろん読者の皆さんにとっても人生の大半を過ごされる時間として

ご興味関心ある最大のテーマだというニーズがあるのではないかという

書評マーケティング上の問題意識もありますが、

何よりも、管理人自身が<超>就職氷河期世代のど真ん中あたりに

社会に出たことにもよります。

管理人自身は、その頃に将来設計(進路希望)をある程度抱いていたことから

大学時代から少しずつ学習を積み重ねつつ、

誠に有り難いことに、法律職関連資格を取得することが叶い(相当な年限が

かかりましたが=大学を出て何と5年も)、

20代後半にはかねてからの念願であった法律職に就きながら

実際の実務経験もさせて頂くことが叶いました。

そこでの「正」社員就職に至るまでの期間中にも他に様々なことを体験してきましたが、

やはり<派遣社員>として働きながら生活資金などを一時期稼いでいた体験は

超就職氷河期世代でありながらも運良く「正社員」に就職出来た友人知人、

そして何よりも弟たちの状況と比較しながら、我が身を振り返ると

世間体に対して相当な心理的抵抗感を持ちながら過ごしていたことも事実でした。

その頃はまだ、いわゆる小泉構造改革路線で製造業などへの派遣業解禁も

一般には普及しておらず、派遣社員を始めとした「非」正規社員への

世間からの風当たりも相当根強いものがあったからです。

(ちなみに、我が国における<派遣業解禁の流れ>については

こちらのサイトが参考になりましたのでご紹介しておきます。)

ましてや、世間でもある程度著名な大学出でもあり、

男性でありましたし、かなり保守的な考え方の強い家庭環境でしたので、

「非」正規社員など将来を考えたらあり得ないだろうと

反対されるような雰囲気に包まれていましたから、

肩身が狭い思いもしていました。

先に「正」社員として就職していった友人知人や幼い頃よりお世話になってきた

近所の方々から近況など尋ねられた時にも、

ウソは言えない性格なので、

「あまり細かいことを根ほり葉ほり聞いてくれるなよ!!」

心の中では叫んでいたこともあります。

まるで職務質問をされるようなイヤな心境だったのを覚えています。

人生の若い時期(10代後半~20代前半)ならともかく

「絶対、フリーター生活のようなことは認められるはずがないじゃないか・・・」と。

今から振り返れば、あまりにも自意識過剰で心理的防衛意識が

強すぎたのだと笑えますが(もちろん、この頃から現在に至るまでの

世間一般の「非」正規雇用への理解も高まってきたこともありますが、

それでも、今でも「正」社員の方が世間体という点では

有利かつ優位な評価が得られるのでしょうけど・・・)、現在に至るまでも

何か人生に対する自信喪失感情や漠然とした不安を感じることも多いです。

それはともかく、念願の希望職に就くことが叶ったのもつかの間で、

今度はリーマンショックなどの金融・不動産業の不振なども積み重なり、

政府の司法制度改革も当初想定されていたような形では「成功」せず、

一部の事務所では、「試用期間」だけを経たうえでの突然の解雇ということも

幾たびか経験しました。

この解雇理由を尋ねても、もちろん上記理由も「真実」としてありましたが、

「本音を言うとね、君の場合は、

大学を出ても<非>正規雇用だけを体験してきており、

あまり社会では評価もされないような(つまり、社会人としてのスキルが

きちんと身に付かないような職歴ということです。)職業しか経てきていないために

うちでは安心して使えない!!」などと、およそ法律家にあるまじき発言を

何度か複数の先生方??からされたこともありました。

いわゆる「試用期間」だけの<使い捨て>人材として扱われ、

「本採用」への期待感だけ持たされたという結果になりました。

「おいおい、繁忙期だけの人材不足における<充当員>としてだけ俺は使役され、

試されただけかよ!!」と・・・

とはいえ、

社会人経験としてのスキルが致命的に不足していることなど当方とて、

当然の欠点だとは思っていましたので、

就業時間外では必死になってこの「失われた」職歴期間を何とか取り戻し、

普通の??社会人として通用するために、

各種社会人マナー講座や書物や友人知人などによるアドバイス、

相当なイメージトレーニングを積み重ねるなど努力もしていたのでした。

(自分で言うのもおこがましく恥ずかしいことですが・・・)

そんな厳しい体験をしてきただけに、

やはり「非」正規雇用者は、社会ではまともに評価されていないのかと

思うと涙が溢れてきます。

「そんなこと言うても、(当時の小泉首相の発言ではないですが)

<人生いろいろ>じゃないか!?」とね・・・

「小泉さんクラスやマスコミに出られるような超有名人ならともかく

管理人のような無名人の場合、

一体全体どうやって人生を挽回すれば世間から認められるのか・・・」などとも

正直思ったものです。

おそらく同じような無念の思いを強く抱かれている方々も

今日日たくさんおられるでしょう。

確かに、ある種の書物などによくあるように

「世間体など捨てよ(周りの目など気にするな)!!」だとか

「他人との比較評価の視点を手放せ!!」だとか

様々な耳障りがよく心地よい言葉は

この世間に満ち溢れていますが、

いわゆる「まとも」とされる大人の目からすれば、

やはり、「人は見た目が9割」どころか「すべて!!」なのでしょうか?

それが世間の「本音」だとすれば、そらおそろしい気分になってきます。

こうした経歴と管理人自身の生来のナイーブさなども相まって、

運良く理解ある先生によって「本採用(長期雇用者)」として

拾われたのでしたが、

こうした体験がたびたび積み重なっていたことから

人間不信にも陥り、

「正」社員期間中にも完全に自信喪失状態に陥るなど、

ひどい抑鬱状態へとどんどん嵌り込んでいったのです。

とはいえ、普通の人ならば体験し難い法律専門職への就職希望も叶い、

確かに勉強も楽しくて好きだった分野でしたので、

憂鬱な状態ながらも新しい分野への勉強にも身が入り、

容易には手放し難かったのですが、

それも日々の業務をこなしている過程で憂鬱気分が激しくなり、

ついに放棄するレベルにまで落ち込んでしまったのです。

当時の職場の社内コミュニケーションレベルもひどかったことも

一因だったようですね。

そんな深刻な時期に始めて、

「俺にとって、人生で何が本当に大切なことなのか?」

「本当に死ぬまでにやりたいコトって何だろう?」

「今日、明日にでも<突然死>がもし訪れるとするならば?」など

(実際に<生死の狭間>を今までに2回ほど体験しましたので、

余計に強くそう実感されたわけです。)という人生にとっての

最大の問いに突き当たることになったのです。

つまり、始めて「正解」のない「問い」を

自ら「解決」する方向へと導かれたのです。

そこで、6~7年程度勤めていた職を辞し、

2年間ほどの「サヴァティカル」ならぬ「サバイバル」休業期間に

またしても突入することになりました。

こんな時期を経ただけに、身をもって弘法大師(空海)さんや

お釈迦さんが一旦世間からドロップアウトした悩みの深層心理の一端を

自らも少しは理解出来たような気もします。

(管理人などは、こうした偉人とはほど遠く、偉そうなことなど言えませんが・・・)

その休業中に、

生来の漂泊願望や知的好奇心に導かれるようにして

それまで積み立てておいた預貯金を取り崩し、

日本各地を旅して回りました。

「漂泊者(ワキ)」の人生の始まりです。

そうすれば、意外にも世間は狭いように見えても、

かなり広いことも次第にわかり始めてきました。

本当にこの期間中に出会った多くの方々には心理的に救われました。

そして、少しずつ社会へ復帰する自信も回復し始め、

今までの人生経験で獲得してきた自らの財産を「棚卸し」した結果と

本当に末永く、たとえ金にならずとも、

持続してやっていけそうな「仕事」を再発見することにより

現在の経済生活形態に至りました。

と同時に仮にお金に困ってもいざという時の身構えも出来てきましたので、

今は外形的には「不安定」でも、内面もまだ不安定な心理状態も数多く残っていますが、

おおよそ「安心」出来るような心理的・物理的環境の下、

こうしてまた皆さんへのご奉仕も出来るようになりました。

読者の皆さん、本当に見守って下さりありがとうございます。

(特に、最低限生活に関する諸々の知識や知恵を提供して下さった

数多くの方々には感謝申し上げます。)

そうそう、そんな極度な不安心理、抑鬱状況にあった時に

人生を完全に諦め、死なずに(おおげさですが、いや決しておおげさでもないなぁ~)、

心の底から救ってくれたのが、

管理人がたびたび敬愛の念を表してご紹介させて頂いている

<妖怪へヴィメタルバンド>陰陽座さんの楽曲たちでした。

(実は、今も新アルバム『迦陵頻伽』を聴きながら、

この記事を創作しています。ちなみに次回作はちょっと視点を変えて

音楽をテーマに新たな書物のご紹介を予定しております。

乞うご期待でございます。管理人も上記バンドと同様に常に試行錯誤しながら

新たな境地を開拓・実験してまいります。

その進化の軌跡を皆さんにもともに楽しんでもらえたらと願っています。)

そんなにも敬愛するいわば管理人にとっては

<命の恩人>でもあるバンドですので前回記事末尾でも触れましたが、

大阪のなんばHatchというライブハウスに<共舞>してまいりました。

前回は、昨年末記事でもご紹介させて頂きましたが、

NHKホールでの公演だったのですが、

ライブ「ホール」とライブ「ハウス」の違いを

それほど遠くない時期に体験させてくれたのも

陰陽座さんの細やかな会場設定配慮(戦略)だと想像すると

実にファンサービスに徹したバンドだなとあらためて感心もいたしました。

(ちなみに、コアな音楽ファンかつ大阪の熱心なロックファンにとっては

朗報ですが、梅田の<バナナホール>も復活したようですね。

管理人も高校時代に友人のアマチュアバンドがここで演奏するというので、

出かけた思い出があります。また、いつか機会あらば出かけたいライブホールです。)

バンドと言えば、大阪が生んだロックミュージシャン兼作家でもいらっしゃる

町田康さんの『バイ貝』(双葉社、2012年)にも救われました。

(ちなみに、2017年現在は、<双葉文庫>として文庫化されています。)

この小説テーマもまさに、

「現代消費資本主義経済生活に対する風刺」であります。

さらに、登山や長距離ハイキングといった

「有酸素運動」にも救われました。

閑話休題。

結局、管理人がここで何を申し上げたかったかと言いますと、

「失業期間」や「憂鬱期間」を長くご経験されて、

自信喪失状態に陥ってしまい、社会復帰の目途がなかなか立たずに

何とかして「突破口」を開こうと、

その「脱出ポイント」を必死に探しておられる方向けへの

何かしらの手がかりを提供したいという想いに尽きます。

もっとも、ここで語らせて頂いているネタは

管理人独自のものですので、もとより万人向けではありませんが、

皆さんにもそれぞれご自身のお好きなものや得意なことが

多々あるかと思います。

そうした独自アイテムを一灯とされながら、

勇気ある第一歩を踏み出すチャンスを掴みだして頂きたいと

心から願っています。

特に最近のニュースで、「無職」経験のある人は

安定した継続的雇用状態にある人と比べて、脳卒中率が高まるなどという記事も

目につきましたから、なおさらのこと、

こうしたご経験のある方には、ご自身の身心面へのお気遣いをして頂きたく

少しここで関連づけという意味でも語らせて頂いたことをお許し下さいませ。

さて、そろそろまとめに移らせて頂きますが、

このエッセー部を綴りながら、

たまたま本書評記事テーマとも重なるということで常に念頭に置いてきたのが、

平成29年5月24日水曜日付け産経新聞朝刊『談話室』に

ご投稿されていたとある40代の男性の方の記事でした。

この方も、複数のアルバイトを掛け持ちされておられるそうで、

昨今の新卒採用市場動向に複雑なものを感じ取られてきたということですが、

管理人も強く同感するものを覚えました。

(なお、特に何らかの事情で社会の底辺部へと押しやられてしまい、

必死に何とか社会復帰への目途を立てようと再チャレンジされている方への

応援小説として、本書評ブログ記事第2回『地球先生』もご推薦しておきますね。)

この方のように、管理人もその世代ですが、

今の30代半ば~40代半ば世代が

社会に出る一歩がたまたま<超>就職氷河期とも重なり、

良質な就職機会を掴む機会を逸失された方も多いのではないかと想像します。

本来ならすでに会社でも社会でも中核となるべき存在となる世代層ですが、

十二分な社会人教育機会も付与されずに、

また、このような断続的就業経験がある人々が多い層でありますから、

ご結婚などに備える経済力獲得機会を逸された方も多いものと思われます。

このような経済的状況に継続的に嵌り込んでしまった社会的要因も

十二分に考慮・配慮せずに、

少子高齢化問題等の責任を若年層に押しつけるような議論を

国会やマスコミなどの公的場面でされても

納得のいかない方も多いものと思われます。

もちろん、昨今の景気動向の多少の持ち直しによって、

運良く「正」社員へと地位向上された方もおられるでしょうが、

現在や近未来の雇用状況を鑑みれば、

必ずしも、「正」社員復帰への道が、

こうした問題解決の決定的切り札となるか否かはわかりません。

確かに、人間誰しも「安定」した身分の方が心理的にも物理的にも

「安心」できることは事実でありましょう。

とはいえ、「安定・安心」が長く続き過ぎても、

いざ状況の変化により、「失業・無職」状態に襲われた時に、

余計に追いつめられてしまうこともあり得ます。

そうした状況変化にも柔軟に対処しえる準備があれば、

「正」社員も選択肢として適切だと思われますが、

もともとの大前提となる現代資本主義経済が、

「不安定」な社会構造ですから、

「正」社員に拘りすぎずに、「非」正規社員として

一時的にこの厳しい雇用環境を「待避」することも

選択肢の1つとしてあり得ると思われるのです。

そのため、俗に言われるほど、

「非」正規雇用形態そのものが<諸悪の根元>とまでは

一概に断定仕切れるものではないと思われます。

なぜならば、いたずらに「正」社員就職に拘りすぎると、

かえって、就業(生計費確保)の機会すら失ってしまうという

最悪の事態も十二分に予想されるからですね。

<正>社員就職よりも優先すべきは「生存」です。

何よりも生き抜ける場=居場所を確保することの方が、

社会的孤立を防ぐためにも重要です。

(もっとも、派遣切りに象徴されるような「非」正規労働者の

安易な斬り捨て路線などを容認するものでないことは

言うまでもありませんが・・・)

というのも、こうした政治経済社会状況の激変期にあたって

少しずつ、雇用問題政策をどう変化・修正すべきかを巡っての理解も

官民を挙げて少しずつ理解の共有も深まりつつあり、

<同一労働同一賃金>の原則など、

現在、あらゆる機会をとらえて<働き方改革>を通じた

従来の働き方への問い直しも始まっており、

静かに地殻変動も起きつつあるように思われるからです。

つまり、「非」正規的立場をより改善させるか、より悪化させるかは

今後の私たち国民の民意度いかんに強く関わっているということです

とはいえ、管理人も「正」社員であれば、

もし、その人の個人的「力量(得意技)」をフルに発揮することが叶い、

さらなるスキルアップにつなげられる機会が豊富にあたえられるような

「安定」した職場環境に身を置くことが叶えば、

それに越したことはないとは強く実感しています。

やはり人生には、何か「一貫して」己の得意技を活かせるような

<仕事>環境があった方がよいと思われるからです。

この答えにも「正解」などありませんが、

皆さんにとってもご自身に合った<働き方改革>を考えてみることを

お勧めします。

(とはいえ、このようなスキルアップ万能(能力主義偏重型)論に基づく仕事観が

倫理的にも<常に>妥当なものなのか否かは再考の余地もあるようです。

そうした問題提起も本書第6章で論じられています。

本書を読み進めてきて、個人的に本書における諸論考のうちで

一番深く考えさせられた章でもありました。)

とはいえ、いきなり会社を辞めて「起業家」になることもないですし、

「正」社員の地位を捨ててまで「果てしなき夢追い」を

続けることなど決してお勧めなど出来かねますが、

経済力獲得面における戦術・戦略の1つの選択肢として、

二足のわらじ生活の可能性も含めて、

まずは「思考実験(シミュレーション)」くらいは

今の時代には是非されてみてもよいのではないでしょうか?

そんな試行錯誤の連続が、読者の皆さんご自身におかれましても、

何らかの新たな道が開拓される契機となるものと思います。

それでは果たして、

「<弱くても勝てます>の一発逆転ホームランはあり得るのでしょうか?」

人生に「絶対」などという言葉はないように、

「一発逆転ホームラン」などということもほとんど確率的にあり得ませんが、

少しずつの「変化」なら十二分にあり得ます。

そうしたヒントは、これからも追々、<仕事>をテーマとした書評記事などで

語らせて頂きましょう。

久しぶりの更新で毎度のごとく長々と続きますが、

大切な論点ですので、もう少しだけ先に取り残しておいた論点について

語っておきましょう。

それは、「第3章 仕事の割り振り」における

いわゆる「3K問題」に対する倫理的実践課題のことであります。

現在、経済的に優位な環境にある国々では安易な「移民(難民)」政策や

技術革新によってこの問題解決を図ろうと議論されていますが、

個人的にこれまでのニュースや批評論考などを分析考察していて

一番見過ごされていると思われた点は、

自分抜き(つまり、自分は絶対に「3K労働」などするもんか!!

イヤなことは出来れば、他人に押しつけろ!!)といった

自分以外の人間や機械に

その問題解決を委ねさせようとする安直な姿勢に見られる心理であります。

この問題も語り出すと、さらに長くもなり、

政治的にもきわめてシビアな議論となりますので、

今後とも関連書に関する書評をさせて頂く際にも

慎重に論を進めてまいりたいと思いますが、

意外にも「左派リベラル層」の議論姿勢に

「3K労働」に対するより根強い嫌悪感のようなものを感じさせられました。

またマスコミなどの報道で、産経新聞を始めとするいわゆる「保守系」メディアも

過日のフランス大統領選挙を巡っては、

安易な「移民(難民)」受容政策に対して反対する立場の候補者へは

「極右」などというレッテルを貼って報道、

そこで議論されていた真の本質には結局のところ触れられずじまいで、

何かミスリードしかねないものを感じさせられたのも

管理人自身の個人的実感でありました。

そもそも(最近、こんな「そもそも」などという言葉を巡っても

低レベルな国会での応酬がありましたが・・・)、

対立候補者の真意や政策全貌も詳細に紹介されているようにも思われない中で、

何か「印象操作」のようなものだけが先行しているように感じさせられたのでした。

もっとも、「移民(難民)」政策を巡っては、

現在も多種多様な議論が錯綜しており、簡易な解決策など提示できませんが、

1つの議論の方向として、「もし、個人的に自分自身が<3K労働>に従事する

立場にあるとしたら・・・」という想像力くらいは働かせる必要はあるのではないか

思います。

最近の傾向として、「移民(難民)」受容政策の是非・可否を巡って、

「純」経済学的な観点からのみ語られる文脈が強まってきているように

感ぜられますが、それぞれの国家や地域における歴史的経緯などの

文化的諸事情に対する配慮の視点が軽視されているように思われます。

昨今の英米圏や西欧諸国における事例を観察していても、

先程のレッテル(例えば、慎重論を唱えただけでも、すぐにも「極右!!」などと

決めつけられるような社会風潮)が印象づけする20世紀初頭におけるような形での

いわゆる排外主義(排斥)的感情とは異なるようにも思われますし、

しばしばマスコミ等では「内向き姿勢」だとか「保護主義」だとか

批評されるような形が多いように見受けられますが、

管理人自身は、20世紀初頭の経緯とは少しずれた視点を感じます。

著者は、グローバリズムについて概して楽観的なようですが、

もちろん長所もあるとはいえ、まったく国内経済に与える打撃が小さいとは

言えないのではないかと思われます。

その意味で、私見では、グローバリズムにせよ、「移民(難民)」受容政策にせよ、

程度の差はあるにしても、きわめて慎重な姿勢を取るべきだと考えています。

(もちろん、ヘイトスピーチ=極端な差別的言動のような

外国人排斥運動を容認するような立場ではないことは言うまでもありません。

要するに、賛否いずれの立場を採用するにせよ、

仮に「賛成」だとするならば、

法の下の平等に基づく<内外人平等原則>を厳格に適用すべきだという

視点を当局者や識者には是非とも忘れないで頂きたいということであります。

管理人にとっても一番恐れている事態は、国民感情不在の論理の下で、

ただ、グローバリズムへのバラ色的理念(イメージ)だけが

慎重な議論に先行して、なしくずし的に採用されていくことであります。

なぜならば、文化摩擦(心理的懸念)といった無用な大混乱が

より深刻な形で社会にもたらされることが強く予想され、懸念されるからです。

受容の事前と事後とでは、政策への評価や効果も大きく異なり、

ひとたび受容した政策(ことに対外的に多大な影響を与える移民あるいは難民政策)を

事後的に撤廃することなど簡単には出来ないからです。

それこそ、国際信義にも反することになりかねないからです。

そのような政策採用後における社会変化の様相を具体的に想像しながら

慎重に議論を進めようとする姿勢(つまり、弱い抑制論~強い反対論にまで

至る慎重論)は、管理人自身は決して消極的な態度でも排外的な態度でもないと

思われるのですが、

こうした昨今の「純」経済学的立場からのみなされる受容論のあり方に対して、

読者の皆さんなら、いかがお考えになられますか?

皆さんにも是非、大切な宿題としてご一考されることをお勧めいたします。

それでは少し硬い議論が続きましたので、

話題を管理人の現在の主たる生計費獲得のための日常業務内容へと移し、

日頃感じ、考えていることを語ってみましょう。

世間一般的には誰にでも出来る業務などと蔑まれ、

低賃金でその肉体的・精神的苦労(<苦痛>とまでは、

その業務内容レベルにより、人によって感じ方が違うと思われますので、

断定しにくい表現ですが・・・)に対する報いとしては、

あまりにも少ないと評価される「ピッキング業務(=商品の入出庫等に絡む

商品選別作業のことです。)」に管理人は今従事しています。

そんな実務を実際に体験してからというもの、

管理人自身が

これまで受けてきた高等教育によって与えられてきた机上の印象とは

大きく異なる実感を得ることになったのです。

こうした経験を得られたことは、管理人自身にとっても貴重な体験ですが、

人工知能論などを人間の心理面、身体面から見た具体的考察へと導いてくれています。

このあたりは、貴重な体験だと自らも考えていますので、

多分に管理人自身の主観的印象論は含まれますが、

追々、別の機会に論じ進めていく予定であります。

そんな日々の現場労働をしていると、

このような面倒くさく、出来れば回避したいと多くの方々が思われるであろう

仕事に従事して下さる方がおればこそ、

わが国における流通が隅々にまで行き渡っており、

日々の生活面における恩恵を享受できているのだという

月並みな感想ですが、当然の思いが湧き出てきます。

まさに、自分でやって始めて実感し得る<感謝>の思いであります。

マスコミ(特に大阪のメディアで時たまものすごい<放言・暴言>をされる

評論家・コメンテーターがいましたが・・・)に出てくるような高等教育を

受けられた識者(特に「保守系」に多いですが、「左派リベラル系」にも

多々います)の中に時々、中国の「下放政策(文化大革命時における

インテリの農村追放運動などに象徴されるある種の左遷=嫌がらせ??政策)」や

「奉仕活動」の義務化を持ち出される方がおられますが、

こうした「強制(権)的措置」が政策採用されることなど

管理人も断じて許容し難い論理ですが、

そうした思慮と想像力に欠けた発言がたびたびマスコミ業界などで

飛び交うのも

このような識者には「自発的」な体験をされたことがほとんどなく、

その現場状況のあれこれにも想像力が至らないがためだと思われるのです。

また、確かに「自発的」に体験されたことがあったとしても、

そうした個人的体験を安易に「一般化」するのはきわめて問題だと思っています。

そのことに関しては、管理人も慎重でありたいと思っています。

ですので、この「3K問題」解決策を倫理的(倫理的とは<・・・すべき論>)に

どう解決すべきかなどと、結局は「正解」など出せない袋小路に嵌り込んでいますが、

とはいえ、少なくとも、安易な3K労働の他人まかせだとか、

3K労働に従事されている方々への深い敬愛の念は

片時も忘れてはならないものと思います。

と、管理人は主業務であるピッキング業務の合間に

派遣法上の契約「外」業務にも(管理人自身の単位時間あたりの生産性がきわめて

高いのか??、清掃業務や配送準備=仕分け作業や荷受け業務などの業務。

もっとも、<危険業務>や派遣会社から強く言われている<禁止業務>、

資格ある者しか従事できない業務にまでは手出しできませんが・・・)

様々な現場作業に携わる内外の職場仲間とともに従事させて頂きながら、

倫理的な観点からも、日々の業務内容をつぶさに検証・検討していると、

そのような共感が日々高まってくることもより強く実感します。

世の中には、自らがやって始めて実感できる<仕事>が

たくさんあるということです。

それは同時に経済的にも社会的にも目に見える形では、

報われることが少ない<仕事>でもあります。

まとめますと、個々人による「3K労働」への自発的な取り組みこそが、

各種「奴隷的扱い」や「移民(難民)」問題解決への糸口になるのではないかと

いうことです。

そのことは同時にこれまでの資本主義経済が大前提としてきた

<仕事>の対価としての金銭的報酬という思想そのものも

抜本的に解決し得る1つの道すじになるのではないかと考えます。

なぜならば、現在、お金に対するイメージ像も「ビット(微小)コイン」に

象徴されるような形態へと貨幣そのものが進化しつつあるからでもあります。

このことは、あくまで管理人自身における暫定的な私見にしか過ぎませんが。

ということで、最後の話へとつなげさせて頂きますね。

このように世の中の仕事の大半は、

当ブログ創作のように、

ほとんど換金化しづらいものや金銭評価されにくいもので満ち溢れています。

ことに管理人のような志向性でもってブログ創作に携わっておられる方なら

共感して頂けるのではないでしょうか?

それでは、「なぜ、あなたは、あってもなくてもいいような<仕事>とやらを

続けるのですか?」と問われれば、確かにほとんどが「自己満足的要素」も

あるものの、やはり人間生きている限りは、他者のお役に立ちたいというのが

本音ではないでしょうか?

皆さんのお役に立てているか否かは、

もちろん、皆さんのご評価次第ですが、

管理人の信ずるところ、

たとえ1人でも読んで下さる方がいる限りは、

当創作活動も少しは容認して頂いているものと信じて、

これからも精一杯「より良きサービス」を手がけていきたいと願っています。

ここらあたりも

なぜか敬愛する陰陽座さんの今やライブでの定番となった??MCセリフとも似てきますが、

本当に愛ある熱き想いを強く持てば、創作者なら最後には辿り着く境地ではないでしょうか?

このバンド同様に、

そのような人間として是非とも失いたくない魂の共感・共鳴を

皆さんにも是非忘れて頂きたくないとの熱い想いをお伝えしたくて

ついついこの記事もまた迸ってしまいました。

そうなんです。

「おなじき者」として・・・

そんなボランティア精神溢れる数あるブログ記事に管理人も本当に助けられたことから

感謝の気持ちを込めて、あと少しだけ「これだけは是非お伝えしなければ・・・」という

極めて大切なご報告をさせて頂きます。

様々な日常業務や仏像彫刻修業なども積み重なり忙し過ぎる中、

やっとこさ当記事を5月末に投稿する予定で創作開始しようとして、

先週末(土曜日の晩)あたりから仕掛かりに取り組もうと

Word Pressを立ち上げようとログインすると、

「プラグイン更新」の案内が出ていたので、

いつも通りに「更新」をすると突如画面が真っ白に・・・

ここでIT初心者の管理人は、文字通り、頭も真っ白に・・・

そんなことで、もはや「深夜」でもあり、

また、問題解決に「長時間」かかることが予想されることから

ITに詳しい友人知人に電話などで聞くこともままなりません。

そんなこんなで四苦八苦しながら、

様々なサイトを参考に試行錯誤していると、

何とか自力でも解決出来そうなブログ記事に遭遇することが叶いました。

解決までには3時間ほどもかかり、

ようやく復旧できました。

そんなわけで先週末の土曜日深夜あたりに

当ブログへのご閲読に来られた皆さんには大変なご迷惑をおかけしました。

ここに心からお詫び申し上げます。

またこの場をお借りして、復旧のためのヒントを与えて下さった

上記ブログ管理人様に感謝申し上げます。

本来なら直接お会いしてでもお礼のご挨拶を申し上げなければならないところ、

このような間接的な形でしかお礼をさせて頂けない非礼を

お許し願います。

この方も初心者から創作を始められたそうで、

苦労のツボをよくご存じのようです。

ネット上には玉石混淆の情報が遍在しているとはよく言われますが、

このような善意あるブログ創作者の方も数多くいて下さるからこそ、

管理人も助かっています。

再び、有難うございます。

こんなこともありますから、皆さんにも苦労されたご体験など

是非とも社会に還元して頂く願います。

それは、「金にはならずとも」もう立派な<仕事>でしょう。

少なくとも、管理人はそう信じています。

ということで、本書は、著者自身が問題提起された諸論考を手がかりに

皆さんにとっても『働くことの哲学』をして頂くためにご参考となる教材として

お薦めさせて頂きます。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

なお、本書とともに<働くこと>の意義や

人生における<時間の稀少性>について考えてみたいと思われた方へ

下記のご参考文献も併せてご紹介しておきます。

『仕事なんか生きがいにするな~生きる意味を再び考える~』

(泉谷閑示著、幻冬舎新書、2017年)

※要は、仕事を疎かにせよということを説く趣旨ではなく、

あまりにも仕事を人生の最優先課題とし過ぎてしまって、

本来の意味を見失い、疲れ切ってしまった日本人に

少しは、<遊び的要素>も大切にしませんかと

あらためて問いかける論考であります。

人生における時間は、本当に「金」よりも貴重だよ・・・と。

(ちなみに、泉谷先生のご著書についても

以前当ブログにてご紹介させて頂きましたので、

お時間がおありの方には是非ご一読下さると幸いです。)

『アリさんとキリギリス~持たない・非計画・従わない時代~』

(細谷功著、さくら舎、2016年)

※『地頭力』で著名なビジネスコンサルタントの方の著作。

来るべき人工知能時代における労働(仕事)観を

イソップ物語<アリとキリギリス>の寓話をネタに

著者の独自目線で比較分析しながら論考されている書です。

『自分の時間を取り戻そう~ゆとりも成功も手に入れられる

たった1つの考え方~』

(ちきりん著、ダイヤモンド社、2016年)

※著者は、<社会派ブロガー>として人気のある

ちきりんさんです。

管理人の読後感では、概して、知的労働者などの社会上層者を

対象とした論考に見受けられ、勉強にはなるものの、

管理人も含めて一般の労働者の方にとっては、

あまりにもハードルが高すぎるとも感じられた書ではあります。

ですが、今後の人工知能時代やベーシックインカム論議の深まりなど

新しい時代に適した個々の<働き方改革>を考えるうえでは

参考になる論考も満載です。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

以上、久方ぶりの更新でかなり熱を入れすぎた記事となってしまいましたが、

満を持してここに3週間ぶりにご披露させて頂くことにいたします。

最後までお読み頂きありがとうございました。

sponsored link




 

コメントを残す

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)

サブコンテンツ

このページの先頭へ

Copy Protected by Chetan's WP-Copyprotect.