貫成人先生の「真理の哲学」「神=真理不在の時代」における「可動体としての<わたし>」を生き抜く哲学!?
「真理の哲学」
身体感覚から考える「生成流転哲学」を
貫成人先生とともに探究します。
19世紀末~20世紀初頭以後、
「真理」という世界観は、絶えず揺らいできました。
「真理」といった絶対的世界像は、
本当に「実在」するものなのでしょうか?
とはいえ、「不在」とみなしても、
私たちは、不安に追い込まれるだけです。
<私>と<世界>という関係もまた、厄介な難問です。
今回は、この本をご紹介します。
「真理の哲学」(貫成人著、ちくま新書、2008年)
されている哲学者です。
今回ご紹介させて頂く書籍では、「真理の哲学」について、
19世紀末~20世紀以後に活躍した「現代思想」の
大本を構築していった哲学者とその思想の解説を
通じて、「真理」の「自明性」について、
粘り強く問い直すことで、「私」と「世界」の関係性を
捉え直す視点や、「生き抜く力(力への意志)」そのものを
分析考察することで、あらたな「生成哲学」を
ともに生きる中で、各人各様の「生きた世界」を
「創出」していく視点を学びます。
詳細は、後ほど本文内でご紹介しますが、
現代哲学の最先端では、すでに「真理」などといった
多義的要素を含んだ抽象的言語の背景には、確固とした
「絶対的・普遍的」な世界観など「不在」だとされています。
ニーチェなどに代表される「神は死んだ」といった言説が、
世界に提出されるまでは、「真理=神」は、「実在」する世界観として
堅固に構築された安定的秩序の中に存在することが出来ました。
とはいえ、そのような安定的世界観も、一人ひとりの個人を
超越した、外から与えられた「押しつけがましい」ような
あやふやな「外部規範」でありました。
そのため、この「外部規範」を受容共有できない「人間」は、
「狂人」扱いされるなど、隔離差別される悲劇も続いてきました。
当時の「外部規範」は、本書で紹介されているフーコーによれば、
「死の権力」と表現されるような、
否応なく「強制的」に従わざるを得ない「権力」でありました。
それでは、21世紀現在には、もはや、このような「権力」は
「不在」になって「めでたし、めでたし!!」の状態へと変化したのでしょうか?
現実的には、さらに「目に見えにくい」網の目の「権力」構造の中で、
人々は、生かされ、無意識に、その「網の目」の中に絡め取られながら、
安心した暮らしを営んでいるようですが、この「生の権力」は、
「外部規範」が、「無意識」に「内面化」されていくことには
容易に気付かせない「権力」構造になっているために、
不気味な存在として、私たちの生活空間へと浸透してきます。
つまり、「意識的」に生きようとする意志を持たなければ、
「思考停止社会」を暗黙裏に支持し、誘導されていくということです。
ある種の「安楽死社会」に例えられますが、
こうした「生の権力」は、「生きる」どころか、「生きる力」を
剥奪しかねない危険性があります。
それは、エーリッヒ・フロムが問題提起していたように、
「人間」は、「自由の重さ」に耐えることが難しいために、
『自由からの逃走』へと至る傾向が、しばしば見られるとの
視点とも共通します。
それでは、私たち「人間」は、そのような「枠組み」から抜け出て、
「人間」らしく、活力をもった生き方を選択することは、叶わないのでしょうか?
必ずしも、そのような「悲観的見方」に陥る必要もないようです。
但し、それは、一人ひとりの「生への意志」を強く回復させることにより、
始めて確保出来ることではありますが・・・
このように、すでに「真理」などのような「絶対的・普遍的」価値観が
存在しないとされる時代においては、一人ひとりの「人生観」や「世界観」
そのものに、厳しく真正面から「問い」が投げかけられてきます。
『あなたは、本当に自分「固有」の世界を生きることが出来ていますか??』と。
つまり、どの「価値観」を選択し、そのことで、自分自身にのしかかってくる
「全責任」は「すべて引き受ける」構えを「自覚」することが重要となってきます。
「人間」は、その「重さ」に果たして、耐えきれることが出来るでしょうか?
それこそが、「真理=神なき時代」を「生きる」ということであります。
ということで、皆さんにも、その自分自身の「固有の人生」を
『「生き抜く覚悟」はありますか?』という厳しい「問いの魔力」を共有しながら、
粘り強く思索探究し、「最期の日」まで諦めずに生き抜く決意をあらたにしようと、
この本を取り上げさせて頂きました。
「絶対安定的世界観」を持たずには、安心し得ない「人間」が「真理」を要請した!?
最初に、本書の内容構成をまとめておきます。
①「第1章 真理の脱価値化-ニーチェ」
※「神は死んだ」という標語で、「旧哲学的世界観」に
果敢な挑戦をしたニーチェ。
ここから、「真理」を始めとした多義的価値観を含んだ
「言語的世界」の絶対性を打破していく先鞭がつけられました。
『善悪の彼岸』や『道徳の系譜』などで、
一切の「価値観」の洗い直しをすることが迫られました。
それは、ある意味で、安定的世界観における「眠り」を
覚ます衝撃的出来事でありました。
「目が覚めた」後の「人間」は、その「不安」に耐えられるものなのか?
そこから、「ニヒリズム(虚無感)」の克服としての「永劫回帰論」や
「力への意志(本旨は、生き抜く意欲の回復)」を強く「人間」に訴求する
「生の哲学」が開拓されました。
それが、「超人??」の誕生だと。
管理人の拙い理解の範囲では、
「超人」とは、「惰眠の中で安住出来る<常人>から跳躍した勇者」のことを
意味するようです。
②「第2章 真理の生成-フッサール」
※著者の解説では、一見、ニーチェとは対照的とされる「現象学の祖」フッサール
ですが、「真理」そのものは、すでに疑われているところ、
そのような「真理」が、どのように「この世界」に立ち上がってきたのか、
その「生成メカニズム」と「認識論的転回」の仕事を成し遂げたのが、
フッサールだとされています。
革命的に転換させながら、単純な「独我論」に嵌り込まない視点を
確保する工夫を意味するようです。
とりあえず、「私」を括弧に入れたうえで、時間の中で、
その都度立ち上がってくる諸「現象」を分析考察していくことで、
事物という対象へ向けられた「志向的相関構造」の過程で、
再び、「わたし」もともに浮かび上がってくる・・・
そんな、「主客一体化」を目指しながら、「生きた世界観」を
取り戻す試みのようです。
③「第3章 生きられる真理-メルロ=ポンティ」
※メルロ=ポンティは、フッサールの問題意識を受けて、
より「身体感覚」を重視しながら、「動態力学」的に、
諸「現象」の生成構造を抉り出すことで、
「真理」もその都度「生成消滅」しながら、変化・変容していく・・・
そのように、「真理」そのものが、決して、「固定化」「絶対化」する
ものではないとの見方を提示していきます。
特に、「メタ認知」的視点に重点を置いたゲシュタルト感覚や
「主体-客体」の「相互互換性」や「包括的入れ子構造」など、
双方向的視点から事象を認識する方法論は、必読です。
④「第4章 真理の政治性-フーコー」
※「権力」の構造論を鋭く分析考察していく過程で、
「真理」が暗黙的に「権力」と共犯関係にあったことが
示されていきます。
もっとも、「権力」一般が、すべて「悪」という訳ではありませんが、
この「真理」の「権力性」が、「絶対化」や「固定化」などを
招き、しばしば「イデオロギー化」するなど、
これまでの人類の視点を大いに狂わせてきただけに、
「取り扱い注意!!」ということが、フーコーによって明確に「可視化」
されたことは、「真理の哲学」を一度でも探究したことがある方なら、
特に有名な論点であります。
このような「権力」の暗黙的な「生成過程」から「人間」の「主体性」を
いかに取り戻すことが出来るのか、そこに「生きる意欲」とも絡む
問題意識があります。
以上、②~④を頑張って要約してみましたが、管理人は、
もとより、専門家でもなく、「現代哲学」や「フランス現代思想」にも
多大な苦手意識がありますので、説明も不十分になってしまいますので、
この3者の思想概要は、本書220~225頁における
著者の簡潔な要約でご確認下さると幸いであります。
※ここからは、「分析哲学」といった「言語哲学」の世界が
簡潔に紹介されています。
「言語」は、多義的で曖昧なため、「文脈」の中で
その精確な意義(意味)内容を確定する作業が必要となります。
とはいえ、ことに今回の「真理」や、「善/悪」「美/醜」などの
「二項対立言語」などの抽象的言語の確定作業は困難を窮めます。
そうした困難度を少しでも低くするためには、
言語の「明晰化」を推し進める工夫が必要となります。
ここから、数学的言語の知恵を活用した「記号論理学」の
「言語哲学的転用作業」が開始していきました。
そのことは、本書の主題である「真理の哲学」を解析するうえでも
欠かせない視点であります。
しかし、そのことを極限まで推し進めていくと、
世界の「無味乾燥化(無機質化)」にもつながっていきます。
つまり、「人間」の「心」の内実を「豊か」に表現する手段も剥奪されていきます。
こうした問題意識もあって、著者は、哲学の「自然化」から
哲学そのものを救済する「場」を見出す必要性を提案されています。
そのための試みが、今後の「真理の哲学」には不可欠とのことです。
現実の世界は、数学(科学)的自然言語だけで記述し得るほど
狭い世界ではないからです。
そこには、「生身」の「人間」が存在しています。
このように、本書では、19世紀末~20世紀以後に「真理の哲学」を
革命的に転回していった有名な哲学者の思索の跡が展開されています。
21世紀現在においては、これまで見てきましたように、
すでに「真理」など抽象的観念論の世界、つまり、私たちの「経験」の世界を
飛び越えた「形而上哲学」は、ほとんど葬り去られ、その存在意義を
喪失させてしまったとされていますが、ある意味では、
「人間」にとって、社会的に「わかりやすい」「大きな物語」
(そのような「わかりやすい」「大きな物語」自体に内在する質に関する
問題点については別途、常に注意を払う必要もありますが・・・)が通用するなど、
共約可能性(共通の約束事をもって社会的了解が可能なこと)が
絶望的に困難になってきたということでもあります。
ところで、このような「真理不在」の時代になると、社会を「真偽不明」な状態へと
いとも簡単に変動させていくために、「社会的安定性」という実際上の要請から判断しても、
安心できることばかりとは限りません。
このあたりが、「共同体意識」から「個人意識」へと「分離・分散」を促していくとともに、
「再統合」へと「再構成」し直した「近現代社会原理」の意外な脆弱性なのでしょう。
「近現代社会(啓蒙主義)革命」は、歴史的連続性を「切断」することを良しとしながら、
進展してきたために、「人間」と「世界」との「糸」が切れやすいからです。
(ちなみに、「観念論=形而上哲学」については、こちらの記事も
ご一読下さると幸いです。)
多種多様な価値観がせめぎ合うことで、「より良き」方向へと
世の中が進展していけば、これに勝るものはありませんが、
「真理」不在のため、世の中に生起してくる諸「現象」の「整理整頓」も
困難になり、混乱していくことも必定であります。
こうした世界では、絶えず不安感に晒されることになります。
そんなこともあって、「真理の哲学」をお偉い哲学者などの知識人が
いくら深く追究し、問題提起していっても、その説明技巧や表現も
難解になるため、「常人」は「超人」へと上昇しようとする
強い動機付けが生まれません。
やはり、「不安定」な世界観は、20世紀以後の物理学などの世界観と
同様に、受容し難いようです。
それが「良い」とか「悪い」とかいう前に、「人間」の生理的現象なのでしょうか?
「安定」した「絶対的世界観」が、根強く支持されることになります。
そのため、「わかりやすい」言葉や「イメージしやすい」言葉に重きが置かれます。
それが、なかなか「真理」をそう易々とは手放せない状況を創出してきたようです。
「それでもなお・・・」(ニーチェ)「真理」から「生」の哲学探究の旅へ出かける勇者へ・・・
より詳細かつ丁寧な解説は、本書をご一読して頂くことにしまして、
このように「真理」そのものが、「この世界」から遠ざかっていくことを
大前提に考察しておきたいテーマに触れておきましょう。
「理性」でもって、究極まで思索し続けた結果として、
かくまで強かった「真理」は徐々に崩れていった訳ではありますが、
それは同時に「不安定」な世界観へ立ち入っていくことになります。
そのことは、本書のニーチェやフーコーの事例考察を検討してきたことでも
判明するように、「正気」と「狂気」の「あわい(端境)」を
絶えず行ったり来たりすることになります。
そうした精神状況を日々過ごすことになるのですから、
相当な知恵と工夫といった「精神的体力」がなければ、
それこそ「発狂」してしまうことになります。
「不安定」な世界の中で、どこに基点を置きながら、
「自己同一性(確かな足場のこと)」を保持していくのかは、
並大抵の「精神的体力」では難しいものです。
ここに、管理人自身が、もう一つ「現代哲学」や「フランス現代思想」に
信頼を置くことが出来ない理由があります。
確かに、その問題意識は、「理屈」では共感することが出来ますが、
「実践面」における難点ということでは、
ただ「苦悶」を深めるだけではないかとも思われるからです。
現に、「真理」の相対性を暴露するだけでは足りず、
「ニヒリズム(虚無感)」を克服し、「永劫回帰」といった
永遠の輪廻??を生き抜く過程で、力強く「超人」的生き方を
目指したニーチェも「発狂」してしまいました。
「理性(正気)」も「狂気」と表裏一体の関係であることを明らかにした
フーコーも「精神的苦境」に幾度と無く、立たされたともいいます。
この点を鑑みると、「真理」そのものの絶対性を懐疑することは、
それまでの「旧」哲学者の間(特に、デカルトやカントなど)でも
取り組まれてきましたが、「生活の知恵(精神的危機回避の術)」として、
「純粋(理性批判)」と「実践(理性批判)」といった別立ての「枠組み」で
人生を安全に確実に歩もうとした姿勢には、今なお学ぶべき知恵があります。
あるいは、前にもご紹介させて頂いたような「ユーモア精神」や「芸術的創作精神」
などを積極活用させた「生活の知恵」も役立つことでしょう。
ですから、「理屈もほどほどに」しておかないと危険であります。
確かに、フーコーが抉り出してみせたように、「真理」の背景には、
「権力」の「押しつけがましさ」や「生き苦しさ」も見出されます。
だからといって、半ば、「強迫観念」のような「社会批判論」に拘泥していくと
「社会的生物」である「人間」は、ただでさえ、「生きづらい」状況にあるにも
関わらず、さらなる「苦境」へと立たされてしまうことになります。
まとめますと、本書『真理の哲学』から学ぶべきことは、
世の中に流されずに「意識して生きる」という姿勢や、
「絶対的・固定的」世界観を暗黙の前提として生きるのではなく、
「わたし」も「この世界」とともに「生成流転」しながら、
絶えず、柔軟な姿勢で「遊び心」をもって、生きていくのが「真理=神なき時代」に
おける「処世術」ではないかという教訓であります。
「絶対的・固定的」世界観といっても、本書で分析考察してきましたように、
常に「土台」は揺れ動いています。
だからこそ、「外部」である「社会」を主体に「わたし」が振り回されることなく、
「わたし」から「外部」である「社会」を「再解釈」し直すことで、
「外部(社会=世界)と内部(わたし=自己※本書冒頭のニーチェの章では自我/自己と
分けられて解説されていましたが・・・)の一致点」の「最適化」を目指しながら、
微調整して、「わたし」の「物語」を形成していくことが、現代社会で安心して
生き抜いていく知恵としては、賢い道なのかもしれません。
但し、「わたし=自己」は、「他者」との出会いの中で、
精神形成がなされていくこともあり、
純粋な「自己意識」を貫き通せるものでもありません。
このように「わたし」も「この世界」の動きの過程で、
時々刻々と変形していく訳ですが、ここに「対話」の意義や効用があります。
「対話=言葉のキャッチボール」ですが、この「遊び」も、
「言語ゲーム」(ヴィトゲンシュタイン)といった「世界文脈」によって、
「ルール変更」される可能性が、常について回ります。
まとめますと、常に「ルール変更」の中で、「人間」は生きているのだという
意外に忘れやすい「盲点」や真理の「歪み」に気付くことで、
生きやすくなる視点を提供してくれるのが、
今回、本書から学び取ることの出来た「真理の哲学」にはあります。
この「自己物語」をご自身の「内部」で矛盾対立混乱させることなく、
生き抜くことが出来る知恵が備われば、
「精神病理」にまで、深刻に発展する状況も回避出来るのかもしれません。
いずれにせよ、私たちが、本来は、「社会=世界」の「主役」であるにも
関わらず、いかにも「社会=世界」が先立つ「主役」のような歪んだ認知で
捉えてきた「袋小路」から脱却する術を、今後とも模索する必要があります。
そのような「歪み」から、もう一度「わたし」を取り戻す試みを
教えてくれたのが、「真理の哲学」であります。
「人間」は、「世界内存在」(ハイデガー)とはいいますものの、
どこかで、「人間」は、「世界外」へと跳躍して、「世界」を
あたかも「神の視点」で眺めてみたいとの「欲求」もあるようです。
このことから、「真理の哲学」も「生の哲学」へと飛躍していくようです。
最後に、くれぐれも「理屈」で必要以上に苦しまずに、
もっと「身体感覚」を最大限活用させた「遊び」で「ノマド(遊牧)的視点」を
持つことが、「この世界」における「過酷な状況」から、
あなた自身を自らの手で救出することになるだろうことを提示しておくことにします。
ということで、難しい「真理の哲学」の詳細は、「門外漢」でもあり、
懇切丁寧なご紹介は出来ませんでしたが、皆さんにも、
「視点(特に、固定観念)をずらす」知恵と工夫として、
本書から何かしらヒントを学び取って頂きたく、
ご一読されることをお薦めさせて頂きます。
なお、著者の別著として、
「哲学マップ」
(ちくま新書、2004年)
※こちらは、古今東西の哲学思想の比較や相互関連を
解説した、いわば「哲学の<総合案内書>」であります。
また、「現代哲学」の「入門書」として、
『この1冊で「哲学」がわかる!~プラトン、カント、ヘーゲルから
現代哲学まで~』
(白取春彦著、三笠書房知的生きかた文庫、1996年)
「20世紀の思想~マルクスからデリダへ~」
(加藤尚武著、PHP新書、1997年)
『ガイドブック哲学の基礎の基礎「ほんとうの自分」とは何なのだろう』
(小阪修平著、講談社+α文庫、2003年第1刷)
「そうだったのか現代思想~ニーチェからフーコーまで~」
(同上、同上、2003年第5刷)
をご紹介しておきます。
最後までお読み頂きありがとうございました。
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