冨田恭彦先生の「観念論の教室」を読み、人間の認識について考えてみよう!!

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冨田恭彦先生の「観念論の教室」を読むと、

近代哲学の「認識論」に関する理解が深まります。

おそらく日本で最も分かりやすく「観念論とは何か?」

について説明している先生だと思われます。

近代観念論の元祖ジョージ・バークリーの哲学を中心に

西洋哲学における「認識論・観念論の系譜」がさらっと

おさらい出来る好著となっています。

「我思う、故に我あり」(デカルト)とも異なるバークリー・・・

いわゆる「独我論」ではないバークリーの魅力に迫っていきます。

「観念論の教室」(冨田恭彦著、ちくま新書、2015年)

冨田恭彦先生(以下、著者)は、現象学分析哲学を始めとして

「認識論」の研究をされてきた哲学者です。

ロックバークリーカントなどの「観念論」を比較しながら

批判的な読解を試みられておられ、海外でも評価されている哲学者です。

「観念論」と言えば、古代ギリシャ哲学まで遡ります。

プラトンの「イデア論」については、前にも当ブログでご紹介させて

頂いたことがあるかもしれませんが、ここで再度丁寧に触れておきます。

例えば「愛とは何か?」について考察するならば、

「愛」という概念(考え・感覚的イメージ)が、

どこかに「誰にでも共通する絶対的真理」

として想定されるような「イデア=アイデア(考え=観念)」があるものとする

「観念論」です。

これに対して、一定不変の「誰にでも共通する絶対的真理」などないとして

プラトン以来の「イデア論」を覆したのがデカルトでした。

「我思う、故に我あり」です。

後にこの考えが「心身二元論」へと発展していき「近代科学の基礎」を

固めることになるのは、皆さんもご承知のことと思います。

とはいえ、プラトンの「イデア論」を「独我論」的にひっくり返したとは

言っても、「イメージ」には人間である限りどうしても「ズレ」が残ります。

プラトンもこの点は十分に承知していたようで、この人間相互における

「イデアに対する認識のズレ」を修正するための「方法論」を用意していました。

「無知のベール」や「偏見による誤解」からいかに「真実」を救い出していくか、

その課題がプラトンの「教育論」でした。

「観念論」は、この「独我論=主観的認識論」を意味しますので、どうしても

「独断と偏見に由来する誤解」を生じさせてしまいます。

この辺りについて、今回ご紹介する「元祖観念論者」バークリーは、

どのように考えていたのでしょうか?

哲学は、ほぼ「存在論」と「認識論」に尽きると申します。

この一見とっつきにくい「観念論」ですが、著者は手際よく捌きながら

私たちに難しいイメージのある「観念論」を分かりやすく提示していきます。

哲学を難しく思ってしまうのは、「簡単なことでもわざわざ難しく説明しようとする」

カントなどに代表されるドイツ観念論哲学に由来するからでしょう。

その辺りの事情も、著者は分かりやすい対比で説明して下さっています。

西洋哲学を正確に理解していこうと思えば、どうしても「認識論=観念論の世界」を

避けて通るわけにはいきません。

「人間の認識の構造(過程)を学ぶことは、同時に<認識の限界>も知り

誤解や偏見の源を探ることにもつながるので、謙虚な生き方に導いてくれる

倫理的効果」もあります。

そういう問題意識から、今回はこの本を取り上げさせて頂きました。

ジョージ・バークリーってどんな人??

哲学に普段親しみのない方であれば、ほとんどの方がご存じないでしょうし、

親しみのある方でも、あまり有名でないかして詳しくはご存じない方も

おられると思います。

管理人も高校の「倫理」や大学の一般教養での「哲学」の講義でちらっと

目に触れただけで、この本を読むまでまったく知りませんでした。

まさに「秘密のベール」に覆われていました。

バークリーは、アイルランドに生まれ育った哲学者兼聖職者でありました。

大変敬虔深い人物だったようで、著書「イギリスの破滅をくいとめるための

試論」という本で、元祖バブルといわれる「南海泡沫事件」の原因を作ったと

される「自由思想家」を批判しました。

これなどは、現在の日本を見るようです。

功利主義的な無責任な発想を厳しく批判し、「人類に何かよいことをする

ために」バミューダ島に「バミューダ計画」という「教育事業」を起こそう

としましたが、資金調達の目途が立たずに失敗します。

しかし、終生「教育事業」には親身に関わりイェールやハーバードに本を

寄付したり、奨学金制度を設けることに貢献します。

有名な「カリフォルニア大学バークリー校」とは彼の名にちなんで付けられました。

さて、バークリーの「観念論」に入っていきますが、見たり触れたりして

直接知覚出来る限りにおいてのみ物が存在すると考えました。

つまり、「物そのもの」が直接知覚と関係なしに存在することはないと

いう立場です。

古代ギリシャ以来、「物そのもの」について「心の外に存在する」とともに

「心の外に現れる物のあり方に対応する心の中のイメージ像も存在する」という

「二重存在論」が認められてきました。

この考えに対して、バークリーは「二重存在論」を否定し「存在は知覚でき

心の中にイメージされるものだけが存在する」という「物質否定論」を採用

します。

これが、デカルトと大きく異なる点です。

デカルトは、あくまで厳密な認識を可能にする前提として「方法的懐疑」

により、「主客二分説」を導いているので「観念論者」ではないようです。

この辺りの詳細は、著者の解説に譲ります。

要するに、バークリーは「最初に概念ありき」という物の見方を否定して、

「直接知覚したもの」や「想像(イメージ)として心に描かれるもの」のみを

「観念」として認めます。

デカルトのように「意識の対象となるものはすべて」観念として

認めた訳ではないのです。

「観念の範囲」が、デカルトやロックに比較して狭すぎるのです。

「独我論」ではない「明るい観念論」!?

著者は、バークリーとデカルトの「観念論」の大きな違いを

次のように説明されています。

バークリー:「私もあなたも物も神も、それが心か心の観念であるなら

みんな認めよう」とする「明るい観念論」

デカルト:「存在するのはもしかしたら私と私の心の中の観念だけかも

しれない」とする「暗い観念論」

「私だけの徹底した独我的世界観」(デカルト)「他者の存在を前提とした

私とともにある多元的世界観」(バークリー)というように・・・

実際生活でも、このような一種の「汎神論的世界観」を

持っていたバークリーは「明るい人生」だったようです。

前にもご紹介させて頂いたライプニッツも似たような人生でした。

もっとも、絶えず「他者の存在に不安感を覚え」大事なことは「絶対そうだ」

と確かなことしか認められない「デカルト的不安」を持つ性格なら

理解出来ないこともありません。

どちらが、正しい生き方とかそうでないとかということではないのです。

「世界の実在感に対する皮膚感覚、密度の濃さ(温度差)」に由来するもの

だと思います。

この本で、著者は従来のロック批判から導かれるバークリーの優位性という

見方にも反論を試みています。

一般的に、バークリーは「物そのもの」の存在を否定したとされていますが、

何も日常的な「物の手触り感覚に由来する物の実在感」まで否定した訳ではなく、

「心の中にイメージされる観念像としての物」と読み替えたのだと理解すると

分かりやすいと著者は語ります。

プラトンのような「最初に概念ありき」のイメージ像は否定しましたが、

仮説的思考まで放棄した訳ではないようです。

著者は、古代原子論やそこから派生していった粒子仮説的思考にまで

話題を広げて論じられていますが、こうしたことから現代の「量子仮説」まで

否定した訳ではないようです。

先にも触れましたように「直接知覚したもの」以外に

「心の中で想像(仮定)できるもの」もバークリーは「観念」として

認めているのです。

この近代的観念論の「元祖」バークリーが、後世の哲学者に与えた影響や

ドイツ観念論哲学や現象学および分析哲学との比較などには触れることが

出来ませんでしたが、詳細はこの本をお読み下さいませ。

「観念は観念だけに理解しにくい!!」ですが、この本を読めば

西洋人がどのような「思考法」で「世界を切り分けてきたのか?」も

正確に理解出来るような充実した内容構成になっています。

いずれにせよ、西洋人を含め近現代人は「自我の存在」を肯定しながら

世界を認識してきたということです。

「独我論」でも「観念論」でもなく、「経験論一辺倒」でもない

「私のない(自我のない)世界像」は、果たしてあり得るのだろうか?

仏教哲学(唯識論)では、このテーマを扱っていますが

このレベルまで人類の知性が高度に進化したなら、

「不安やおそれ」も完全に薄れて

文字通り「あるがままに」世界を眺めることが出来るように

なるのでしょう。

しかし、それは「見果てぬ夢のまた夢」でもあるようです。

皆さん、「観念論の教室(世界)」はいかがでしたか?

すぐには理解できなくても仕方がありません。

管理人も「消化不良」なのですから・・・

この本は、哲学書を読んでいて「認識論」の難しさにぶち当たった際に

「座右の教科書」として何度も手引き書のように読み返して頂ければ

よいと思います。

最後までお読み頂きありがとうございました。

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